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社会学部論集第32 (1999 3 月) 生活史研究試論 生活「転換点」の意義一一 高橋伸 〔抄録〕 今日の生活研究は多様に分化している。それは、「生活」という概念の多義性、暖 昧性が原因であることはいうまでもないが、現代生活の変化の激しさがもたらす生活 理解の困難性をも象徴している。 本稿は、「生活」研究のー領域としての生活史研究に注目し、研究の到達点とその 方法論上の課題を明らかにすることにある。生活の変容を考察するには、社会学では 主に、戦後の経済高度成長を「転換期」としてとらえ、その過程を総合的に分析する ことに終始してきた観がある。しかし、高度成長の終駕から、すでに四半世紀が経過 し、その後の生活変容を新たにとらえる視点が求められている。ここでは、高度成長 の終荒した 1973 年を「現代」のはじまりと設定し、さらに80 年代半ばの「産業調整」 を新たな「生活再編」期として設定することを提起するものである。 キーワード:生活史生活の「分岐点」 標準化個別化生活様式 はじめに 筆者はこれまで多くの生活史をヒアリングしてきた。とくに、「去るも地獄、残るも地獄」 といわれ、人生の選択を求められ困惑を体験した炭鉱離職者の生活を長年にわたって追跡調査 した経験を有している。そこでの課題の主たるものは、個々の人びとの生活を根底で支えてき た仕事を失う、すなわち失業、再就職という生活の転換を社会的に余儀なくされた人びとの生 活過程をトータルに把握することであった。敗戦後の日本経済の復興をエネルギー供給という 基底で支えた人びとが、長年住み慣れた町を離れ、働く仲間と別れ、新たな地域で生きるため にどのような暮らしを過ごしてきたのか、彼らとその家族の変遷をありのままに記述すること が、私の課題と考えている。 すでに、彼らが炭鉱を去ってから 30 年以上という時聞が流れている。多くの人びとは、子ど 101

生活史研究試論 - 佛教大学図書館デジタル ...生活史研究試論 生活「転換点」の意義一一 高橋伸 〔抄録〕 今日の生活研究は多様に分化している。それは、「生活」という概念の多義性、暖

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社会学部論集第32号 (1999年3月)

生活史研究試論

生活「転換点」の意義一一

高橋伸

〔抄録〕

今日の生活研究は多様に分化している。それは、「生活」という概念の多義性、暖

昧性が原因であることはいうまでもないが、現代生活の変化の激しさがもたらす生活

理解の困難性をも象徴している。

本稿は、「生活」研究のー領域としての生活史研究に注目し、研究の到達点とその

方法論上の課題を明らかにすることにある。生活の変容を考察するには、社会学では

主に、戦後の経済高度成長を「転換期」としてとらえ、その過程を総合的に分析する

ことに終始してきた観がある。しかし、高度成長の終駕から、すでに四半世紀が経過

し、その後の生活変容を新たにとらえる視点が求められている。ここでは、高度成長

の終荒した1973年を「現代」のはじまりと設定し、さらに80年代半ばの「産業調整」

を新たな「生活再編」期として設定することを提起するものである。

キーワード:生活史生活の「分岐点」 標準化個別化生活様式

はじめに

筆者はこれまで多くの生活史をヒアリングしてきた。とくに、「去るも地獄、残るも地獄」

といわれ、人生の選択を求められ困惑を体験した炭鉱離職者の生活を長年にわたって追跡調査

した経験を有している。そこでの課題の主たるものは、個々の人びとの生活を根底で支えてき

た仕事を失う、すなわち失業、再就職という生活の転換を社会的に余儀なくされた人びとの生

活過程をトータルに把握することであった。敗戦後の日本経済の復興をエネルギー供給という

基底で支えた人びとが、長年住み慣れた町を離れ、働く仲間と別れ、新たな地域で生きるため

にどのような暮らしを過ごしてきたのか、彼らとその家族の変遷をありのままに記述すること

が、私の課題と考えている。

すでに、彼らが炭鉱を去ってから30年以上という時聞が流れている。多くの人びとは、子ど

101ー

生活史研究試論(高橋伸一)

もたちを無事に成長・自立させ、自らはささやかな年金生活にはいっている。そうした彼らが

ときに集い、炭鉱での生活を振りかえり、これまでの暮らしを昔の仲間と語りあう場に触れて

きた。変動極まりない社会経済のうねりのなかで、自らの生活を守り築き上げてきた彼らから

教えられることは多い。炭鉱時代から再就職、定年退職までのすべての給与明細を大切に保管

している人、家族の冠婚葬祭にかかわる収支を丹念に記録している人など、その生活記録の方

法はさまざまである。なかでも、炭鉱閉山時の離職者対策に奔走した経験を有するT氏の「自

分史」に出合えたことは、とくに記しておくべきであろう。

筆者は、こうした離職者の生活史を分析・解釈する過程で、彼らの個人生活の具体的な出来

事を個人のライフ・ステージ、キャリアなど、個人属性を軸に展開を試みてきたが、生活史の

もうひとつの側面である、社会の側の動き、要件を視野に入れる必要性を痛感している。この

ことは、生活史研究の二面性(ミクロ的、マクロ的生活史)として111、明確に指摘されてきた

ことであり、理念的には熟知していたつもりであるが、実際の作業としては歴史的な展望のな

かでの生活変遷史を双方向から捉える作業はそれほど容易ではない。生活という複合的・重層

的な実態をさらに時間的、空間的に場面設定を行なう生活史の把握において、社会経済が個人

の動向にいかに対処するかを個人の側から読み取るのは本質的な課題といわざるを得ない。こ

れには、筆者の浅学に原因があることであるが、社会学における生活史研究は、個人の生活史

を記述することで個人に象徴される社会の変動、社会の影響をダイナッミックに写像するには

充分な手法を確立し得ていないようにある(目。むしろ、現状では、近年の社会史、地方史、民

衆史、民俗史等における生活史の記述に魅力を感じる九

本稿の課題は、ミクロ的な生活史とマクロ的な生活史を統合するひとつの試みとして、生活

様式の変遷過程に着目し、生活史研究の新たな展開を模索することである。戦後の日本人の生

活を大きく変えた高度経済成長が終意してから四半世紀がすぎたが、経済成長が低成長・安定

成長時代をへても、「生活革命」はいまだに進みつつある。経済のグローパル化による「大競

争時代」を背景に、少子高齢社会の進展は日常生活の変化において、その速さと質の転換をみ

せている。生活史研究に大胆な息吹を吹き込もうとするケン・プラマーは「人間主体の社会

学J ,-個人の復権をめざす社会学」を提唱しているがヘ生き生きとした人生をおくるための

生活学の展開を考えたとき、思い切ったパラダイムの転換が必要であろう。

2 生活様式論とライフ・スタイル論

「生活水準」という用語が政治言語の主要な語棄となりへ日本経済運営の主潮は「生活水

準の向上」のみに目を奪われ、即物的な価値にひた走ったなかで、生活水準は、あるべき生活

内容を指す規範的意味は削ぎ落とされ161、単に生活内容の実態を量的観点からのみ記述するこ

とが一般化したように、人びとの生活状況を総合的に捉えようとする「生活様式J ,-ライフ・

102

社会学部論集第32号(1999年 3月)

スタイル」の意味も消費社会の奔流に巻き込まれ、マーケティングのコピーの一部に転落した

観がある。

ここでは、生活様式の概念とライフ・スタイルの概念について整理しておきたい。橋本によ

れば、両者は本来区別しえないものであったが、ライフ・スタイル論の形成過程で、ライフ・

スタイル概念は、<生き方や生活態度>といった<生活意識>の問題に収数し、生活様式論の

方は、<生活の仕方>の問題に関心がむくことで、両者の区別がなされてきているという (7)。

平成10年版の「労働白書」は「中長期的にみた働き方と生活の変化」と題して、 75年から現

在までの四半世紀を、「就業形態、職業生涯および労働条件といった働き方」について分析を

おこなっている。「企業中心のライフスタイルの転換のため、社会や企業の仕組みの変革と併

せて労働者自らの発想の転換が必要不可欠である。J r労働者の働き方を、従来の画一的・集団

的なものから、個人個人のおかれた状況、意識、将来設計、能力などに応じて自ら選択し、か

つ自律的に働くものへと変えていく必要がある。J(8) とし、日本的雇用慣行の新たな段階、方

向を指し示し、男性が地域社会や家庭生活に参加するよう、価値観、ライフ・スタイルの転換

を求めている。

また、平成 9年版の「生活白書」でも、「働く女性一新しい社会システムを求めて」を特集、

就労タイプ別に女性の生涯賃金の格差を具体的に示し、生涯賃金の「損失率」を数字化し露骨

な経済誘導による女性のライフ・スタイルの変化を強調する(到。

「労働白書」におけるライフ・スタイルは、従来の企業中心の考え、「会社人間」からの離

脱をはたし男女共生の生き方を志向する意味で用いられている。「生活白書」では、社会的に

「要請」される女性の就労のパターンを意味する。こうした白書の事例をあげるまでもなく、

ライフ・スタイルということばは、まさに多義的にそれぞれの論者によって勝手に用いられて

いる o 社会学が人々の生活様式、行動様式、思考様式といった生活諸側面の社会的・文化的・

心理的な差異を全体的な形で表現し、主には「生活財に対する個人の選好ノfターン」という定

義はいまや無力である。現代のライフ・スタイル論は、マーケティングの分野で頻繁に使われ

て、消費行動を決定する主体が、合理的な経済計算に基づいて、消費者として行動するだけで

なく、「主体性」をもって自らの生活システムを設計する「生活者」としての意識をもつよう

になってきていることを前提にして成立している。このことは、財の選択的消費をともなう生

活行動が、諸個人の社会経済的属性によっては、充分に説明されなくなった事態を浮かび、あが

らせる。

一方、生活様式概念は、 1978、79年の「生活様式の転換に関する国際会議」目的開催に象徴さ

れるように、「豊かさ」を問い直す概念として経済学、社会学を中心に論じられた。とくに、

日本では建築学の西山卯三、住居学の吉野正治といった幅広い研究領域の参加を得て活発な論

議が展開されてきた。成瀬龍夫は、現代の生活様式の特質を「アメリカ的生活様式」 ω と規定

し、大量生産・大量消費体制の確立のもとで形成された消費様式であり、生活手段の全面的な

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生活史研究試論(高橋伸一)

商品化とその個人的所有、個人的消費に特色を見出した。

3 生活の「標準化」と分舷点

80年代の生活様式論をさらにおしすすめ、各世帯における耐久消費財の保有状況を軸に新た

な指標を提唱したのは、馬場康彦である。彼は、「標準イ七」、「個人別化」の概念を用い戦後社

会を大きく変えた経済成長期の終駕をもって現代の分岐点とする。具体的には、のちに触れる

いくつかの特徴から1974年を「歴史的転換点」、 rr現代JJ の出発点」とする。馬場の考える

「生活の標準化」とは、「社会的に必要な生活手段の質量的範囲を有して営まれる生活の水準

が、すなわち『標準』が生活過程において徐々に固定的なものとなり、世帯に対して外的な一

つの社会的強制力として、職業=所得階層の違いには関係なく作用する傾向を言う。」また、

「個別化」とは、「世帯を単位として、世帯の必要において耐久財を保有するのではなく、世

帯の構成員個々人を単位として、個人の必要においてそれを保有するようになる傾向をい

〉 開つ」山。

耐久消費財の個別化は、基本的には家族の個人化、生活の個人化、生活行動の個人別化、生

活価値観における個人主義と相互関連した生活の変化と位置付けている。 rr標準化』と『個別

イh という一見すると対立的で無関係にみえる傾向が実は、家族共同体=生活構造という同一

物の二側面として存在しており、生活構造の画一化、標準化が進めば進むほど、同時に生活構

造の個人別化が進展するという関係にある」 ω とする。氏のいう生活構造の編成替えは、「共

同性の基礎の上での個別性を体内に携えた二重構造としての生活構造であったが、それが逆転

して個別性を基礎とした上での必要最低限度の共同性の維持がなされるような二重構造として

の生活構造」となる。

現代の生活経済が1974年を歴史的転換点として設定される根拠として、氏があげる理由は次

の6点であるω。

1 )高度経済成長期が1970年に終了し、 73年のオイルショックによって74年から本格的に低

成長期に突入した。

2 )勤労者世帯の収入階級間格差は73年で最小値を記録し、 74年で反転する。

3 )主要な耐久消費財の世帯内での編成・配備が完了した。

4 )耐久消費財の保有数量に関する収入階級間格差が74年まで縮小し、それ以降は格差が拡

大傾向。

5 )銀行の第二次オンライン化による他行とのネットワークが本格化したのが74年、給料の

自動振り込み、公共料金の自動引き落としシステムの一般化が進む。(家計のオンライン

化)

6 )女子の雇用者総数のうち、有配偶者の比率が75年に50.4%に達する。

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社会学部論集第32号 (1999年3月)

以上の理由のなかで、 2)の収入格差、 3)の保有数量に関してはそれぞれ実収入ジニ係数、

保有数量ジニ係数が氏の計算式によって丹念に求められ、分析の重要な指標となっている。計

算を苦手とする筆者としては、計算式そのものへの検証は避けざるをえないが、労働白書によ

ると、「年間収入五分位階級の第 I階級と第V階級との格差は、 1980年代後半から1990年代前

半にかけては格差は縮小傾向をみせている」仰と、馬場の見解とtまことなる。また、保有数量

の収入階級間格差については、氏の保有数量のジニ係数は、『全国消費実態調査報告~ (総務庁

統計局)を基にしており、そこでの消費生活構造を捉える場合の基本単位は「世帯」にあり、

「家計から個計」へと生活単位、生活行動が激しく展開する実態を捉えるには、データ的に一

定の限界を勘案する必要があろう。たとえば、この数年、商品開発が頻繁になされる携帯電話

は、家族のそれぞれが各自の口座から自動引き落としで支払い、「家計」には計上きれないこ

とも考えられる。

1974年を生活の転換点とする理由には、さらなる検討がなされる必要はあるが、戦後半世紀

をすぎた今、「現代」の展開を70年代の前半に求める視座は重要である。その際、転換点を主

要耐久消費財の普及、保有を軸にするのは氏の生活経済論の立場からは合理的なものであって

も、社会史的な認識からいえばむしろ1973年(石油危機)をもって転換点とする方が共通理解

を得やすし〉。

図 1 現代生活経済の概念図

1974有

愈縫機態費苦減殺調書+

〈基本的耐久消費財の編成 配備完()

(劇久消費財の保有数量の「格);'J縮小) にアτ:-;;:Lム

川等化巳〉

(収人階級!日Jr栴J:'J縮小)

Ft4E371lJNL

(画J久消費財の保有数ほの円~ム「格XJ 斬l大)川ド等化ピ〉

(収人階級問「栴去」縮k)

資料:馬場康彦『現代生活経済論一真の「豊かさ」とは何かー』ミネノレヴァ書房、 1997年、 P.10

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生活史研究試論(高橋伸一)

4 オイル「ショック」の意味

馬場の「転換点」は、生活経済論というフレーム、具体的には主要耐久消費財の標準化、個

別化を軸にするものであった。しかし、社会史経済史というより幅広い視座、さらに生活史研

究というドキュメントな人間生活をあつかう場合、社会史、世相史との関係、社会意識、イデ

オロギー、さらには人々の生活に深くかかわる諸要因とのかかわりを検討する必要があろう。

その意味では、歴史的事象をもって時期区分の指標ω とするのが一般的な理解を得やすいと

考える。ここでは、 1973年のオイル・ショックを生活の転換点、現代の始点とすることを提唱

したい。

戦後改革に次いで、日本社会を大きく変えた高度経済成長は、一般には1955年から1973年ま

での18年間をさす。この聞に日本経済の規模は国内総生産 (GDP)では、名目で約13.6倍、

実質で約 5倍に増加、都市から農村への人口移動の激増、産業構造の転換がもたらされた。

人口移動、産業構造の転換がもたらした社会、生活への影響はここでは触れない。ただ、 70

年代での「転換」との関係で指摘しておかねばならないことは、 60年代末には、東京・大阪・

京都・沖縄で革新知事が誕生、全国634市の 5分の lにあたる126市が革新市長となったように、

労働運動・市民運動・住民運動が高揚した時代であった。その背後には公害問題、交通戦争な

ど深刻な社会問題がある。すなわち、生活環境としての自然の破壊と、都市化と伝統的生活様

式の解体・大量消費的生活様式の浸透による共同的生活手段の需要増大が主要な社会対抗の争

点、となったのである。

他方、この時期はアメリカ経済の衰退が進み、 71年 8月、ニクソン・ショック(金ドル交換

停止)、円切り上げ、さらに73年 3月には変動相場制へ全面移行した。プレトン・ウッズ体制

を支えていた二つの柱が取り外されたことにより、同体制は崩壊、これ以後、世界経済は「海

図なき航海」仰といわれる時代に入り、米中の和解、ベトナム戦争の終結、中国は文化大革命

に終止符を打ち、 78年から郵小平の中国は改革・開放の路棋を歩みはじめ、韓国・台湾・香港

・シンガポールのアジアNIESが台頭してくる。日本は、円切り上げを契機に、直接投資が

東アジアを中心に急増しはじめ、「投資元年J (1972年)をむかえた価。

このような状況のもと、 1973年の石油危機を日本はむかえた。企業は低成長時代に対応して

減量経営を進め、超効率社会を目指した。 GNP第一主義に軌道修正をくわえ、もっとゆとり

ある生活を求めた日本人は、この石油危機を境にふたたび馬車馬のように働き続け、単身赴任

・過労死というそれまでに見られなかった現象にあらわれるように、すべてが企業中心に動き

出すという、企業社会、会社人聞を生み出すことになった。

世界のシステムを変容させる契機となったオイル・ショックとは、いかなるものであったの

か。第 l次石油危機は、 1973年10月 6日勃発の第 4次中東戦争を契機に、 OAP E C (アラブ

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社会学部論集第32号(1999年 3月)

石油輸出国機構)が採用した石油戦略による石油の禁輸・量的制限と、 OPEC (石油輸出国

機構)が一方的に実施した原油価格の大幅引上げとにより発生した。第 1次石油危機における

石油供給の量的削減は、事後的にみればそれほど大きくはなかったが、石油は安価で量的にも

必要なだけ供給されると安易に信じ込んできた日本を中心とする石油輸入国側に、オイル・パ

ニックというべき事態を発生させた。日本では、政府によって11月以降、 11業種に対する電力

・石油の10%供給削減措置、民間へのエネルギー節減要請(マイカー自粛、ネオン中止、テレ

ビ放映時間の繰上げ等)、三木武夫副総理を政府特使としてアラプ各国に派遣(非友好国扱い

から友好国扱いにしてもらうため)等の措置がとられた。この間、物不足になるという懸念が

国民一般に広がり、売惜しみ、便乗値上げ、買いだめが横行し、トイレツトペーパーや洗剤等

の買占めに殺到した。

たしかに、先進工業国のなかでも、第一次エネルギー消費に占める石油のシェアが77%強と

群を抜いて高かった日本は、いわゆる石油づけの状況下で、石油の供給が途絶ないし量的に制

限されるか、石油価格の高騰が生ずれば、経済やわれわれの生活は決定的な影響を受けざるを

えない。石油供給の量的制限は、石油備蓄の放出および節約・有効利用の推進によって相殺さ

れないかぎり、経済の実態面における生産の減少、生活水準の低下を生じさせることになる。

さらに価格の高騰は、①インフレの加速化、②石油輸入支払代金増加による海外への所得移転

の増大、③国内需要の減少、④不況・失業、⑤国際収支の悪化、といういわゆる三重苦(トリ

レンマ)をもたらすことになる。事実、ドル・ショックと石油危機のダプノレ・パンチによって、

日本経済は「戦後最大の不況」に突入した。この最大の不況を、日本経済は、輸出の集中豪雨

的拡大、財政支出の拡張、「減量経営J (雇用調整、省力化)の徹底的遂行、技術革新 (ME化、

OA化の促進)によって乗り切り、「経済大国」岨への道をひたすら突き進む。こうした不況

対策のなかでも、「減量経営」は、不況脱出の中心であり、その中心は雇用調整であった。一

般には、欠員不補充、新規・中途採用削減、非正規従業者(パート、アルバイト)の雇用削減

が最初に進められ、次いで、正規従業員の出向・転籍、希望退職、指名解雇が行なわれた。つ

まり、まず正規従業員と非正規従業員の格差化が進行し、次いで正規従業員のスリム化が進行

したのである。雇用形態の多様化、雇用の不安定化がすでにこの過程で進展していた。

80年代に入り、日本経済は、円高のさらなる進展と国際経済摩擦の激化、国債の累積による

財政「危機」、産業構造のソフト化・高度化による産業再編成、といった新たなる課題に直面

することになるが、 1970年代の「危機」を日本経済が乗り切ったのは、「石油危機」をパネと

して、あるいは「オイル・パニック」を利用して、国民に対する意識変革を「オイル・ショッ

ク」というかたちで展開したともいえる。事実、 74年後半にはすでに、「物不足」によるオイ

ル・パニックは、虚偽の情報に踊らされてっくり出されたものであることが明らかとなってお

り園、 79年の第二次石油危機に際しては、パニックの再燃することはなかった。「現代」日本

が、 1973年からはじまる、という歴史事象の設定は、そうした論理を背景にもっている。この

107ー

生活史研究試論(高橋伸一)

ことは、山崎のいう「自分の人生上の問題を国民共通の事件として受げとめ、国家的に普遍的

な現象として理解する習慣を身につけた」 ω とされる日本人の意識の問題や、ベネディクトを

丹念に論考するラミスの「家族国家イデオロギー」、さらにウオルフレンの「政治化された社

会 (politicizedsociety) J聞の論理と共通する課題といえよう。

5 r転換」と生活の再編

「現代」の開始を、 1974年にもとめた馬場によれば、この時期から生活財の個人別化を背景

に生活行動の個人別化がもたらされるのであるが、彼はこうした「現代」の特徴を「生活標

準」レベルの上昇をともないながら、収入階級間「格差」が拡大する傾向のなかで引き起こさ

れ、そして、標準ラインが上昇すれば供給される商品が増大し、そのことが生活者にとっての

「必要からの希離」を現象するので、結果として、生活経済上の「転倒的関係」を生み出すと

する。「転倒」を要約すれば、

1)家計収支の「転倒J 支出に合わせて収入を調整する(消費者信用・共働き)

2 )消費構造上の「転倒J 生活基礎費用(食料、住居、光熱・水道、家具・家事用品、被

服、医療)よりも、生活周辺費用(教育、教養・娯楽、交通・通信)の消費ウエイトが高

まる。

3 )家族関係の「転倒J 個人保有が世帯保有に優先する財がふえる。家族より先に個人が

ある。生活時間、家計管理もみられる。

4 )家計支出の優先順位の「転倒J 銀行のオンライン化により、支出の内容(必要・重

要)に関係なく、銀行引き落とし部分が機械的に最優先で支出される。意識のなかでは、

残りの部分が<生活費>として認識される。

5 )ライフスタイルの「転倒J 生活価値が「必要」二生活基礎部分から生活周辺部分に転

倒している。高級外車を保有しているが住居は六畳一聞のアパート。

馬場は、かくして現代の特徴を「格差J r希離J r転倒」として捉える。衣食住にかかわる支

出(生活基礎費用)から教育、教養・娯楽、交通・通信(生活周辺費用)等の支出にウエイト

が移動していくのは事実であり、総括としてライフ・スタイルが構造的に変化するメカニズム

をリアルに記述している。ただ、こうした変化、それをもって「必要からの希離」、「生活の転

倒」という認識にいたるのは一考を要する。生活を個別、個人化する条件はさまざまに重なり

あって展開するのであって、単に消費支出の内容変化を軸に「必要」を判断することには限界

がある。人生の過程において、新しい条件にうまく対処するためには、すでに確立された行動

のパターンを変える「必要」がある。これは主要な必然的な移行であり、役割、関係、セルフ

概念を新たに獲得したときに形容される「転換」である。

ここで、ニクソン・ショック、オイル・ショック前後の政策の動向に注目しておきたい。す

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社会学部論集第32号 (1999年 3月)

こし触れたように、高度成長期の末期には多様な矛盾、社会問題が発生し、それへの対抗とし

て住民運動、市民運動が高まり、革新自治体の出現をみた。 70年安保・沖縄返還運動、大学紛

争、反公害・乱開発反対運動が三つどもえになって噴出した。 70年代には、地方自治体への制

度要求をすすめる運動が顕著化し、区長や教育委員長の公選、環境アセスメント、情報公開条

例の制定、市職員の退職金引下げなど、政治参加への要求がなされた。

しかし、オイル・ショック以降、企業社会化と情報管理化が進むなかで、市民運動、住民運

動が取り組む問題は複雑になり、解決策の不透明さが顕著となった。人びとの関心も身近な生

活の質にかかわる問題に向けられた。結果として、社会保障、教育、住宅など生活に密着した

ところでの停滞、悪化があらわれてくる倒。日本の社会保障は、基本的には産業ないし経済政

策的側面を優先させてきた。その意味では限界を有しながらも、 1970年代のはじめごろまでは、

不充分ながらも一定の制度は整い、内容の充実をみる。老人福祉法、母子福祉法などの福祉六

法の成立は60年代の半ばであるし、 72年には老人医療費の無料化がスタートした。しかし、オ

イル・ショックの翌年には政府は「日本型福祉構想J (1974年)を打ち出し、「高福祉・高負

担」の福祉、個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会の連帯を基礎としつつ、「民間活力」を

基本とする、わが国独自の道を歩むことになる。 80年代の「臨調・行革」路線によって実際に

社会保障・社会福祉は「見直し」され、後退していく(年金制度の改悪、医療保障の後退、生

活保護の「適正イ七」等々)090年代に入札 '21世紀の高齢化社会に対応するための社会保障制

度の総合的な見直し」の必要性が強調され、自助努力と高齢化にともなう国民の負担増が示さ

れる。

こうした動きは、政府の地域政策(,コミュニティー生活の場における人間性の回復J 1969

年)や大企業のコミュニティ対策と密接なつながりをもって展開され、前者はコミュニティ福

祉として「自立自助・相互扶助」を強調し、後者は企業の社会的責任、地域と協調をうたいな

がら「企業社会」の形成につながっていく。住宅や教育、年金、公的扶助などについて論じる

紙幅はないが、オイル・ショック以降の政策転換を鳥献する必要を指摘しておきたい。

6 新たな「生活の分蔽点」の模索

1973年を転換点として生活を考えるとすれば、それからすでに四半世紀が経過している。

「歴史的現象」として現在までの生活の新たな分岐点を求めることが検討されよう。山崎によ

れば、「社会はほぼ十年ごとをひとつの時代として意識し、現在がどういう時代であるかに強

い関心を払って生きている。 rlO年間』という言葉がこれほど頻繁にひとの口にのぼり、人生

のリズムの単位として、ほとんど『一年』や『一ヶ月』と同じような重要性を持ったのは、今

世紀が初めてのことであろう。」 ωと述べ、同時代史を書くために、時代の変化の意味を知るに

は、 10年の時聞を生きれば十分ではないか、という。時代の区切り方や、時代の分析には筆者

109ー

生活史研究試論(高橋伸一)

とは論を異にするところが少なくないが、人聞が現在を生きるために、時代を意味付けること

の必要性は生活史研究にも共通する観点、である。

そこで、非常に荒っぽい仮説であるが、現代の新たな転換点を、 85、6年ごろに設定するこ

とを提起したい。 83年ごろから始まっていた地価上昇は、円高以降、狂乱高騰となって国民生

活をその後のバブル景気に走らせ、財テクブームをもたらした。社会的には、「飽食の時代」

の中で食べることへの関心がファッション化し、グルメ志向が個人のライフ・スタイルとして

定着し、一方でファーストフードやファミリーレストランなどの外食産業の急成長をみる。

1970年代初頭のドル・ショックとその後の二度の石油危機を、乗り切った日本経済は、 80年

代に入札円高の進展、国際経済摩擦の深化、国債の累積による財政「危機」、産業構造のソ

フト化・高度化による産業再編成、といった課題に直面する。「現代」が「生活革命」によっ

て登場したとすれば、 1985年にはじまった急激な円高による経済社会の変化は産業の空洞化、

「雇用革命」を特徴とする。ドル高是正を内容とした85年G5 (プラザ合意)は、日本経済の

急速な国際化をうながした。特に成長の著しかったアジアとの関係が拡大した。輸出大企業は、

円高による採算条件の急激な悪化を克服するために、海外進出ニ多国籍企業化伺への方向を強

めた。とくに自動車産業の海外進出は、下請部品メーカーなどの中小企業の海外進出をも強く

促し、産業の「空洞イ七」、雇用不安をもたらした。

量産型の生産過程に基礎をおいた「日本的雇用」は、年功序列、終身雇用、企業別組合など

を特徴とするが、企業の国際化は、情報化、サービス経済化と重層し、労働力の流動化、従前

の熟練の解体を現象させながら雇用の再編を進めた。電電や国鉄の民営化、男女雇用機会均等

法の施行は、こうした日本経済の質的な転換を反映した動きとして認識される。

1985年前後の主だった社会経済の動きを箇条書きすると、次のようになる。

1) 1985年3月 ソ連・ゴルバチョブ書記長選出、ペレストロイカ開始

2) 1985年 5月 男女雇用機会均等法成立、労働者派遣事業法成立(6月)

3) 1985年9月 プラザ、合意・円高時代

4) 1986年 4月 「前川レポート」・内需主導への構造転換

5) 1986年4月 チェルノブイリ原子力発電所事故・地球規模の放射能汚染

6) 1986年9月 東京都心部の地価急騰・地上げの社会問題化

7) 1987年 4月 JR発足

8) 1987年6月 リゾート法(総合保養地整備法)施行

9) 1987年11月 全日本民間労働組合連合会(,連合J)発足

転換を象徴する社会経済事象は、 85年のプラザ合意、雇用機会均等法などがあげられる。生

活、環境への影響を重視すれば86年のチェルノブイリ原発事故があげられる。チェルノプイリ

は90年代初頭に具体化した「環境と開発」の論議につながる重要なポイントであり、「科学の

社会学部論集第32号(1999年3月)

政治化」伺がもららす破局の事実を教える歴史の鏡でもある。また、東西ドイツの統合、冷戦

構造が終結、ソ連消滅というグローパルな時代の推移を予兆させる事件であれば、 86年をもっ

て現代の新たなる転換点と認識する意味は深い。

70年代半ば以降の日本の経済社会における構造的特質として指摘されてきた日本型企業社会

が、 80年代の後半から本格化する市場のグローノfリゼーションの進展とともに、国際競争力の

強化という基本方向にそって企業社会それ自体の見直し、再編が進行していく。こうした企業

中心社会からの転換は、単に企業レベルの転換にとどまらず社会関係、ライフ・スタイルの転

換をもたらす。

7 おわりにー今後の課題一

「現代」のはじまりを、 1973年のオイルショックからとし、さらに86年のチュルノプイリ原

発事故を新たな生活の「転換点」として生活の歴史に位置づけることを論じてみた。これには、

次のような仮説をよりどころにしている。ライフ・スタイルということばが、生活様式という

ことばに代わってもちいられた背景のひとつとして、階級や世代や文化の共有を基盤として成

立する階層社会の変容を重視し、個人が保有する資産、職業、所得などの指標が、従来のよう

な規定力を有しないという仮説である。また、生活を規定する経済条件とし、二つの変動期に、

日本企業の海外進出、さらに多国籍化を軸にした論を展開したものである。しかし、試論では

外部経済の変化と国民生活の関連を十分には展開できなかった。 70年代、 80年代の生活の特質

は別稿にて論じたい。また、生活「転換点」をフレームにした生活史分析の具体的な試みにつ

いてはこれからの課題とせざるを得ない。筆者らが積み重ねてきた炭鉱離職者の生活史分析に

生かしていきたい。

なお、本稿では注目を促すにとどまったが、 70年代の生活の総体的な「再編」が進むなかで、

それまでになかった新しい住民運動が展開されている。一つは、自分史を軸にした「ふだん

記」運動である問。この運動は、 1970年の半ば頃にから急速な高まりをみせ、今日にいたって

いる。同じ時期に、北海道の「民衆史掘起こし」運動が起こっている図。この運動は、庶民の

歴史を記述する歴史運動から大きく展開をみせ、民主主義、民族文化、多民族連帯の運動へと

広がった。さらに、早乙女勝元氏の「東京大空襲J (1971年)の発行を契機に、大阪、神戸、

名古屋など「全国の空襲を記録する運動」闘がある。これらは、研究者・教師などを中心の運

動が当初はみられたものの、庶民が自らの体験を軸に事実を語り、歴史と向かいあう姿を見せ

る。それは現在の自分をよりよく生きるために、自分の人生の位置づけを知るための姿でもあ

る。これらの運動は、かつての住民運動がおもに政治的、思想的な紐帯で結ぼれていたのに対

し、活動の根底に地域をおき、身近ないわば等身大の課題を運動の柱としたところに特質があ

る。「ふだん記J r民衆史J r空襲記録」などの諸運動の歴史的な意義を問うとともに、ここに

生活史研究試論(高橋伸一)

記述された「生活」記録を生活史研究にどう切り結んでいくか、その課題を明示してひとまず

は本試論を閉じることとする。

(1) 半津康志「生活史研究の推移と動向」 国民生活センター『国民生活研究』第37巻第4号、 1998

年、 p35

(2) 一番ヶ瀬康子は、生活問題とのかかわりで、個人の生活歴と生活問題の歴史的展開との関係把姪

が不充分であることを、早期に指摘している。一番ヶ瀬康子・持田照夫編著『生活の歴史J (講座

現代生活研究第一巻)ドメス出版、 1972年、 pp24~27参照

また、ライフ・ヒストリー研究は、個人の社会への対応、対処を中心アプローチをしてきたこ

とを、ラングネスは次のように述べている。「人間の発達を観察するとき、人類学者はライブ・パ

ツセージ研究とライフ・ヒストリー研究という主要なアプローチを用いてきた。ライフ・パツセ

ージ研究は、社会の側の要件を強調し、ある集団の人々が若者をその社会の独立可能な成員とす

るためい、いかにかれらを社会化し文化化するかを示している。ライフ・ヒストリー研究は、そ

れとは対照的に、社会が個人の動向にいかに対処するというよりむしろ、個人が社会にいかに対

処するかという個人の経験と要件を強調する。J L.L.ラングネス、 G フランク、米山俊直、小林

多寿子訳 rライフヒストリー研究入門(伝記への人類学的アプローチ)J ミネルヴァ書房、 1993年、

p107

(3) 色川大吉『自分史 その理念と試みー』講談社、 1992年。色川大吉『昭和史世相篇』小学館

1994年。鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史-1945~1980年』岩波書底、 1991年。鶴見俊輔『ひ

とが生まれる一五人の日本人の肖像一』筑摩書房、 1994年

(4) ケン・プラマー 原田勝弘、川合隆男、下回平祐身監訳 r生活記録の社会学一方法としての生活

史研究案内 』光生館、 1991年

(5) 池田隼人総理大臣は、経済成長、国民総生産、生活水準などを政治言語の主要な語賓として用い

た。鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史 1945~1980年一』岩波書居、 1991年、 p15

(6) 生活水準は、あるべき生活内容を指して規範的意味で使われる場合と、単に生活内容の実態を示

す記述的意味で使われる場合とがある。それぞれstandardof living, level of livingに相当する。

規範的生活水準は、その社会集団の人々が希求する生活水準であり、文化的・歴史的諸条件に規

定され、多分に心理的要素をも含む概念である。したがって、その水準を客観的手続に基づいて

測定することは、実態的生活水準に比べてはるかに困難な作業であり、しかもそれを通時的・共

時的に比較することにどこまで意味を求めうるかも疑問である。実態的生活水準の測定には、こ

のような原理的ともいえる計測上の困難は認められない。しかし、人々の生活内容は複雑多岐に

わたり、きわめて多次元的なものだから、それを単一の指標で表現しようとする試みにはどうし

ても限界がある。

(7)生活様式という概念は多義的概念である…<中略> 論者がいかなる意味で使用しているのか、

把握せずに使用すると了解に失敗する。ライフスタイル概念は英語の乱用語、概念の不明朗生が

顕著。広義の生活様式は、生活文化と同義である。狭義の生活様式は、生活手段の利用と配置を

問題にする。J (橋本和考『生活様式の社会理論 1987年増補版 1994年)

(8) 平成10年版 「労働白書 中長期的にみた働き方と生活の変イ匂 要約

(9) 平成9年版 『生活白書働く女性新しい社会システムを求めて』では、就労タイプ別に女性

社会学部論集第32号 (1999年3月)

の生涯賃金の格差を計算している。女性が正規雇用で就業を継続した場合の生涯賃金は、 2億

3600万円であるが、中断再就職では、 1億733万円、中断・パートでは5100万円。その損失率は、

就業継続に比べて、前者で、 26.7%、後者では、 78.4%にもなる。こうした経済、コスト重視の

近年の傾向は、「結婚は『家庭株式会社』の共同経営J I専業主婦はメルセデス・ベンツ」などに

顕著である。(八代尚宏『結婚の経済学』二見書房、 1993年)

帥生活様式の転換に関する国際会議(スイス 1978 イタリア 1979)では、「支配的生活様式」

Dominant Ways of Life: DWL と新たに「選択すべき生活様式J A1temative Ways of

Life: AWL とに区別して議論する。成瀬龍夫『生活様式の経済理論一現代資本主義の生産・

労働・生活過程分析一』御茶の水書房、 1988年

帥 アメリカ的生活様式の特徴を要約すると、

1)大量生産・大量消費体制の確立のもとで形成された消費生活様式

2 )生活手段の全面的な商品化とその個人的所有、個人的消費を特色とし、私的個人的消費が絶え

ず優先的に発展し、社会的共同消費手段は私的個人的消費に対して補完的役割を持つような生

活様式

3 )アメリカ的生活様式の成立の結果、消費主義的な社会階層意識を生み出し、「中間」層意識の形

成基盤となり、「新中間層」の生活様式を理想、モデルとするイデオロギーをつくりだした

4)一般労働者大衆の恒常的な債務生活構造を出現

5 )消費者運動を生み出す。

成瀬龍夫、前掲書、 pp68~71

ω) 馬場康彦『現代生活経済論真の「豊かさ」とは何かー」ミネノレヴァ書房、 1997年、 P64

U3) 向上書、 p63

(14) 同上書、 p6

。5) 平成10年版『労働白書」では、「勤労者世帯の実収入、可処分所得及び消費支出の格差の推移を年

間収入五分位階級の第 I階級と第V階級との格差でみると、第 1次石油危機による大幅な物価上

昇の動きが落ち着いてきた1977年以降、格差は拡大傾向を示していたが、 1980年代後半から1990

年代前半にかけて、反転して縮小傾向となっている。しかし、 1996年以降、再び格差が拡大をし

ている。この様な格差の拡大・縮小の動きは、主に世帯主の収入の動きを反映しており、前述し

た企業規模の賃金格差の動きとおおむね似た傾向となっている。J p281 また、レスター c.サ

ローは、 1973年から92年までの実質賃金と所得の変化について、アメリカでは男性の賃金は、イ

ンフレを調整した実質ベースで73年から下がりはじめ、この間の20年間、平均で11%の低下、と

くに低所得層ほど減り方は大きくなり格差の拡大を論じる。しかし、日本の場合は、「今のところ、

アメリカのように実質賃金は下がらず、ヨーロッパのように失業者は急増していない。」とする。

『資本主義の未来J TBSプリタニカ、 1996年、 p58

U6) 色川大吉は、柳田の『明治大正史世相篇」の社会変動分析の指標を再検討して、現代のフォー

クロア研究に有効な観点として、眼に映ずる世相では、「禁色J I流行J I仕事着J I時代の音」。食

物の個人自由、家と住み心地では、「個人自由」の推移。風向推移では、「田園の新色彩J I自然観

の推移」。故郷異郷では、「街道の人気J I村の昂奮」など、興味深い視点をあげている。

現代の世相史研究でも、「社会変動を制度やイデオロギーの変化においてみるのではなく、民衆

の情動(感覚の変化)においてつかまえる。」ことが民俗の「外形形象と心意現象とを結ぶ環」と

して重視する。色J[I ~昭和史世相篇J p16 。7) ブレトン・ウッズ体制とは、第2次大戦後、アメリカとイギリス両国が中心となって構想し設立

113ー

生活史研究試論(高橋伸一)

した国際通貨体制の名称。 1944年アメリカのニューハンプシャー州プレトン・ウッズにおいて連

合国通貨金融会議が開催され、通常プレトン・ウッズ協定BrettonW oods Agreementsと呼ばれ

る二つの協定が締結された。この協定にもとづいて、 46年6月に国際復興開発銀行(いわゆる世

界銀行、 1BRD)がその業務を開始し、翌47年 3月に国際通貨基金(IMF)が同じく業務を

開始した。ここに戦後の国際通貨体制を支える中心的機構が確立されたのである。歴史学研究会

編『戦後50年をどう見るか』青木書庄、 1995年、 p29

U8) 日本は、 60年代には、海外経済協力基金、海外技術協力事業団、海外技術者研修協会、アジア開

発銀行などを設立し、東アジアを中心に円借款供与を実施し、この地域でも重工業製品輸出市場

を確保していく。 70年代に入ると、直接投資が急増した。 1971年には、 8.6億ドルだった民間直接

投資は、 72年には23.3億ドル、 73年には35億ドルにまで跳ね上がる。 1972年は「投資元年」と呼

ばれた。歴史学研究会、向上書、 p168

側 1989年代に「経済大国」となった日本は、それとは裏腹に「生活小国日本」という、まったく対

照的なイメージが形成されつつあるが、この二つはどのように両立しているのかを考察している。

中村政則『現代史を学ぶ一戦後改革と現代日本』吉川弘文館、 1997年、 P208

ω 原油輸入量 (73年10月 ~12月)は、前年同期比 7%減であって、石油不足・モノ不足は『つく

られたもの』という側面が強かった。」歴史学研究会、前掲書、 p190

仰 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生」中央公論社、 1984年、 p16。山崎は、明治以来、百年にわた

る近代化と工業化の歩みのなかで、国家のイメージが国民の意識を決定したカは、実に計り知れ

ないものがあった、と述べている。また、ラミスは、「近代日本をめぐる重大な神話のひとつは、

明治の家族制度を『封建的』ないし、『伝統的』とするものだ。」として、明治の計画立案者たち

の「家族国家イデオロギー」について論考している。 (c.ダグラス.ラミス 『内なる外国

「菊と万」再考』 ちくま文庫、 1997年 p210)

間 「物やサービスを供給してお金をかせぐという機能は、日本の会社も外国の会社も同じである。

しかし、日本の企業には、もしかするとそれより重要かもしれない社会を統制するというもう一

つの機能がある。日本の大企業は、欧米の企業がしようと思っても決してできない方法で、人々

のあいだの秩序を保っている。」カレル・ヴァン・ウォルブレン、篠原勝訳 『人聞を幸福にしな

い日本というシステム』毎日新聞社、 1994年、 p58、

(お) 江口英一編著『生活分析から福祉へ一社会福祉の生活理論』 光生館、 1987年、参照

凶山崎正和、前掲書、 p8

(25) 日本企業の多国籍化は、 1960年代末から日本企業による海外直接投資が活発化し、対外投資自由

化に刺激されたこともあるが、基本的には輸出市場の確保と囲内賃金高騰をさけて、東南アジア

に製造業分野で進出したものが多い。

野村総研の分析によれば、日本にとって、 1986年は「多国籍企業元年」ともいえる。労働者教育

協会編『産業「空洞化」と雇用・失業問題』 学習の友社、 1985年、 P15

邸)七沢潔は、チェルノプイリ原発事故の原因究明を行うなかで、ソ連一国を越える「真相を隠す

側」の巨大な構図を明らかにする。原発保有国の出資で運営される国際原子力機関 (IAEA)の

情報操作、政治力学の問題牲を明らかにしている。七沢潔「原発事故を問うーチェルノプイリか

ら、もんじゅへ 』岩波新書、 1996年。チェルノブイリ事故については、月刊誌「技術と人間』

が数多くの特集を組み、貴重な資料を掲載している。

間色川は、橋本義夫(ふだん記運動の創始者)の庶民の独創的な活動をつぎのように評価している。

「急激な景気の後退、石油不足や高騰による生活上の大混乱は、日本国民に経済成長時代の終駕

114

社会学部論集第32号(1999年3月)

が近いことを教えた。これを機会に人びとの目が外から内へ、物から心へと移行し、内省の時代

に向かっていった。日本の庶民が、戦争、敗戦による荒廃、経済復興、成長への前進と、走りに

走り続けてきた自分の過去をふりかえって、改めて自分の生きてきた意味を問い直したい欲求を

表しはじめた。」 色川大吉『自分史ーその理念と試み』講談社学術文庫、 1992年、 p85

「自分史」運動は、 1975年ごろから大きな高まりをみせ、各地ク・ループ30余、メンバーによる個

人文集、自分史本は270冊を越える。これらの著者は実に多様で、旋盤工、鳶、大工、八百屋の主

人、パスガール、看護婦、家庭主婦、電気商、僧侶、農夫、運転手等々、あらゆる職種、階層に

およんでいる。ふだん記関西グループの発行では、 94歳の中村文三の自分史などもユニークなも

のの一つである。『平和好きやねんーわれ九十四歳一』ふだん記新書202、1988年民衆

(28) 民衆史掘起こし運動では、北海道歴史教育者協議会「はたらくものの北海道百年史J (労働旬報社、

1968年)["北海道の民衆史掘起こし運動『掘るJJ (あゆみ出版、 1977年)などを参照。

(湖 「空襲・戦災を記録する会、全国連絡会」は、 1970年から毎年開催。全国19都道府県、 30都市か

ら50余の市民団体が集まる。京都では1971年から京都宗教者平和協議会が市内の空襲記録を開始、

74年には「かくされていた空襲一京都空襲の体験と記録J (汐文社、 1974年)を京都空襲を記録す

る会・京都府立総合資料館から刊行している。

く上記以外の参考文献〉

-労働運動総合研究所編 r,日本的経営」の変遷と労資関係」 新日本出版社、 1998年

・中村政則『現代史を学ぶ一戦後改革と現代日本一』 吉川弘文館、 1997年

・三浦雅士『私という現象』講談社、 1996年

・宮部修『インタビュ 取材の実践』晩撃社、 1997年

-北津毅、古賀正義編著 r<社会>と読み解く技法一質的調査法への招待一』 福村出版、

1997年

・歴史学研究会編『オーラル・ヒストリーと体験史(本多勝ーの仕事をめぐって)J 青木書

庖、 1988年

・歴史学研究会編『事実の検証とオーラル・ヒストリー(津地久枝の仕事をめぐって)J 青

木書居、 1988年

・シャロン・カウフマン 幾島幸子『エイジレス・セルフー老いの自己発見』 筑摩書房、

1988年

・米山俊直、橋本敏子『生活学のプラクシス 生活史による「新大阪」の研究 』 ドメス出

版、 1990年

・庄司輿吉編著『転換期の社会理論』 恒内出版、 1985年

-石川淳志、他編著『社会調査一歴史と視点』 ミネルヴァ書房、 1994年

・中野卓、桜井厚編『ライフ・ヒストリーの社会学』 弘文堂、 1995年

-庶民生活史研究会編『同時代の生活史』 未来社、 1989年

-ダニエル・ベル『知識社会の衝撃 TBSプリタニカ、 1995年

・早稲田大学人間総合研究センター『炭砿労働者の閉山離職とキャリアの再形成一旧常盤炭砿

KK員の縦断的調査研究、 1985~2000年 』

-塩原勉、飯島伸子、松本通晴、新睦人編『現代日本の生活変動」 世界思想社、 1991年

生活史研究試論(高橋伸一)

付記 本試論は、 1995年度の併教大学特別研究助成による研究成果の一部である。記して感謝

の意を表したい。

(たかはし しんいち 応用社会学科)

1998年10月14日受理