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Instructions for use Title 公共理性と正義感覚による主体的正義論 : ロールズ正義論の拡張可能性についての一試論 Author(s) 江, 楠楠 Citation 北海道大学. 博士(法学) 甲第11153号 Issue Date 2013-12-25 DOI 10.14943/doctoral.k11153 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/54702 Type theses (doctoral) File Information Jiang_Nannan.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

公共理性と正義感覚による主体的正義論 : ロールズ正義論の拡張 … · II ジョン・ロールズの論文 1951. Outline of a Decision Procedure for Ethics

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Page 1: 公共理性と正義感覚による主体的正義論 : ロールズ正義論の拡張 … · II ジョン・ロールズの論文 1951. Outline of a Decision Procedure for Ethics

Instructions for use

Title 公共理性と正義感覚による主体的正義論 : ロールズ正義論の拡張可能性についての一試論

Author(s) 江, 楠楠

Citation 北海道大学. 博士(法学) 甲第11153号

Issue Date 2013-12-25

DOI 10.14943/doctoral.k11153

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/54702

Type theses (doctoral)

File Information Jiang_Nannan.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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平成25(2013)年度 博士学位申請論文

論 文 題 目

公共理性と正義感覚による主体的正義論 ——ロールズ正義論の拡張可能性についての一試論——

所 属 北海道大学大学院法学研究科

専 攻 法哲学

提 出 者 江 楠楠

指導教員 長谷川 晃 教授

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I

略記の説明 本論文ではジョン・ロールズの著書と論文に言及する場合は正文において以下の略記を用い、

その後に頁を記す。①単行本の場合は、例えば、「John Rawls, A Theory of Justice, Cambridge,

MA: Harvard U.P., 1971;revised edition, 1999. 」以下、TJ と略記して、適宜、参照個所を、頁

の場合は前に p.を附して、節の場合は前に§を附して、算用数字で本文中の括弧内に示す。原則

としては最新版から引用する。ただし初版から引用する場合、特別な注釈を記す。②論文を引用

する場合は、(Rawls、出版年、原著頁)の順で示し、原論文の掲載誌等については省略する(例:

Rawls, 1963a, p.**)。なお、③当該文献の邦訳がある場合に、邦訳頁数も算用数字の後に/を附

して、算用数字で示し、その後に頁を附す。ロールズ以外の著者からの引用は脚注として[著者

名、出版年:原著/邦訳頁]の順で表示する。

本論文の引用様式については、引用文献が日本語の場合、その様式は『法律文献等の出典の表

示方法』に基づく。英語および欧文の場合、引用様式は『CMS(The Chicago Manual of Style)』

に基づく。当該文献の邦訳がある場合は基本的に、その訳文を利用する。ただし、用語・表記の

統一等の必要性から、一部訳文を変更することもあり、その変更にともなって生じた誤りについ

ての責任は、すべて筆者にある。また、引用箇所では、本論文で必要とする範囲内で適宜省略と

補足を行う。省略した部分については、「……」と表記し、逆に補足した部分については「——

筆者」と記す。

原著と邦訳の略記記号(単行本) TJ A Theory of Justice, Harvard U.P.,1971; Revised ed., 1999.

・(矢島鈞次監訳)『正義論』(紀伊國屋書店, 1979)

・(川本隆史ほか訳)『正義論』(紀伊國屋書店, 2010)

PL Political Liberalism, Columbia U.P.,1993; Revised ed., 1996; Expanded ed, 2005.

・序文を除いて、1996 年版は初版の頁数と同じである。

LP The Law of Peoples, Harvard U.P., 1999.

・(中山竜一訳)『万民の法』(岩波書店, 2006)

CP Collected Papers, S. Freeman (ed.), Harvard U.P., 1999.

・(田中成明編訳)『公正としての正義』(木鐸社, 1979)

JF Justice as Fairness: A Restatement, Erin Kelley (ed.), Harvard U.P., 2001.

・(田中成明ほか)『公正としての正義――再説』(岩波書店, 2004)

LHMP Lectures on the History of Moral Philosophy, B. Herman (ed.), Harvard U.P., 2000.

・(坂部恵監訳)『ロールズ哲学史講義(上・下)』(みすず書房, 2005)

LHPP Lectures on the History of Political Philosophy, S. Freeman (ed.), Harvard U.P., 2007

・(齋藤純一ほか訳)『ロールズ政治哲学史講義(1・2 巻)』(岩波書店, 2011)

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II

◆ ジョン・ロールズの論文

1951. Outline of a Decision Procedure for Ethics. The Philosophical Review, 60(2), 177-97.

1955. Two Concepts of Rules. The philosophical review, 64(1), 3-32.

1957. Justice as Fairness. The Journal of Philosophy, 54(22), 653-62.

1958. Justice as Fairness. The Philosophical Review, 67(2), 164-94.

1963. The sense of justice. The Philosophical Review, 72(3), 281-305.

1968. Distributive Justice: Some Addenda. Natural Law Forum, 13, 51-71.

1972. Reply to Lyons and Teitelman. Journal of Philosophy, 69(18), 556-7.

1974a. Reply to Alexander and Musgrave. The Quarterly Journal of Economics, 88(4), 633-55.

1974b. Some Reasons for the Maximin Criterion. American Economic Review, 64(2). 141-6

1975a. A Kantian Conception of Equality. Cambridge Review, 96(2225), 94-9.

1975b. Fairness to Goodness. The Philosophical Review, 84(4), 536-54.

1975c. The Independence of Moral Theory. Proceedings and Addresses of the American

Philosophical Association, 48, 5-22.

1977. The Basic Structure as Subject. American Philosophical Quarterly, 14(2), 159-65.

1980. Kantian Constructivism in Moral Theory. The Journal of Philosophy, 77(9), 515-72.

1985. Justice as Fairness: Political not Metaphysical. Philosophy & Public Affairs, 14(3),

223-51.

1987. The Idea of an Overlapping Consensus. Oxford Journal for Legal Studies, 7(1), 1-25.

1988. The Priority of Right and Ideas of the Good. Philosophy & Public Affairs, 17(4), 251-76.

1989. The Domain of the Political and Overlapping Consensus. New York University Law

Review, 64(2), 233-55.

1991. Roderick Firth: His Life and Work. Philosophy and Phenomenological Research,

51(1),109-18.

1993. The Law of Peoples. Critical Inquiry, 20(1), 36-68

1995. Political Liberalism: Reply to Habermas. The Journal of Philosophy, 92(3), 132-80.

1997. The Idea of Public Reason Revisited. University of Chicago Law Review, 64(3), 765-807

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III

まえがき

本論文は、現代正義論の端緒を切り開いたジョン・ロールズが提示した正義を構成する諸概念

について再解釈を試みるものである。このまえがきでは、なぜそのような再解釈が必要であるの

か、また、この再解釈がどのような意味を有するのかについて明らかにしておきたい。

転換期にある現在の中国では、貧富の差に代表される社会的格差が深刻な問題として認識され

ており、格差是正に向けた再分配の問題も多様化している。中国から留学している筆者にとって、

現在の中国において深刻化している社会的格差を実質的に是正することは、重要な課題である。

格差問題には、所得・収入・資産・資源等の経済的あるいは物質的財の再分配における不平等の

みならず、自由・名誉・機会・権利等の社会的協働の利益と負担の再分配における不平等も含ま

れる。すなわち、格差問題は、自然的基本財および社会的基本財の利用可能性に関する不平等の

問題である。ここで、現代正義論は、社会的・経済的不平等、すなわち社会的格差を是正する指

針として、一定の合理的かつ普遍的な規範的基準を提示するものである。そして、基本財の公正

な配分について論じたジョン・ロールズの学説は、現在でも高く評価されており、ロールズを抜

きには現代正義論を語ることはできない。それゆえ、転換期中国の社会的格差の是正に関する法

哲学的検討においては、ロールズの正義論の意義と限界を探ることが根本的かつ現代的な課題で

ある。

『正義論』の公刊以来、原初状態や無知のヴェールの設定からはじまる思考実験の是非をめぐ

り活発な論争が繰り広げられ、現在でも賛否両論がある*。原初状態において無知のヴェールを被

った当事者の理性的判断の結果として示された正義の二原理は、その概念装置を信頼し、享有す

る人々にとっては説得力がある。しかし、その概念装置を信頼できない人々、例えばマイケル・

サンデルからは、無知のヴェールを被ることによって無知とされる内容が恣意的であり、また無

知のヴェールを被せることは「負荷なき自己」を前提とすることになり現実の「負荷ある自己」

* 方法論的文脈からみた「原初状態」と「無知のヴェール」という概念装置がロールズの正義原理の

導出・成立・受容にとって重要な役割を果たしていることは周知の事実である。これらの概念は『正

義論』公刊以来盛んに論じられ、「正義」が直面する課題である「社会の基本構造は如何にあるべ

きか」によって多くの関心と批判を集めている。渡辺幹雄の考察によれば、これらの概念装置への

注目は『正義論』及びロールズにとって不幸だと考えられる。なぜなら、「その優れた方法論の一

部、具体的には「原初状態」と「無知のヴェール」が、より大きな方法論的文脈、すなわち「反照

的均衡」から切り離されてクローズアップされた。」渡辺幹雄『リチャード・ローティ ポストモ

ダンの魔術師』(春秋社, 1999)8 頁。異なる文脈においてロールズの方法論を探究すべきという視

点が必要であるとの指摘に私も同感であるが、「反照的均衡」を通じてより理論的なインテグリテ

ィを説明する一方、社会的格差と構造的差別といった現実的要請に応じて正義理論の発展性・拡張

性の高め方を工夫することが本論文の趣旨である。

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IV

と乖離している、と批判されている。このような批判を受けて、ロールズは、経済的・社会的な

立場の偶然性や互換性を視野に「互恵性」の概念を提示し、正義の二原理、とりわけ格差原理を

成立させるための条件として、自由で平等な市民の互恵的関係を強調した。しかしながら、社会

の現実に目を向けてみれば、格差問題は依然として存続しており、正義の二原理を機能させる基

本的条件として互恵性が提示されても、人々の共感や理解を得て市民相互の協働的信頼関係が深

まるようなことにはなっていない。つまり、格差問題の是正について、正義の二原理が実効的に

機能しているとはいえず、それを機能させるために「互恵性」の概念を導入してもなお、人々の

理解を充分に得られていない。

この原因として、社会的・経済的格差の根源には、人々の差別という意識や感情が通底してい

るにもかかわらず、正義の二原理を論じる際に、この差別に留意してこなかったことがロールズ

の議論の限界に関わる重要な問題点としてあげられる。社会的・経済的地位の互換性を承認する

だけでは、正義の二原理によって格差を是正することはできない。差別という意識や感情に留意

し、人々の対等性に配慮することにより、歪んだ人間関係を修復しなければ、格差を是正するこ

とは難しい。差別は、個人の主体性や人格の対等性に対する配慮の欠如を意味する。人種、民族、

性別、あるいは宗教、学歴、障害の有無等によって人間の尊厳や自尊心、相手の価値や承認のニ

ーズを無視・軽視したり、あるいは否定・排除したりするような心的態度は、それに根ざした社

会的意味の付与を経て、構造的差別へとつながる。したがって、このような差別を解消するため

には、対等な配慮が必要であり、人々のアイデンティティやパーソナリティ、あるいは各自の価

値観、信仰等に基づく生活様式や態度が社会的に認容されなければならない。かくして、本論文

では、個人のアイデンティティやパーソナリティを尊重しつつ差別を解消するのに効果的な概念

装置を模索するため、従来あまり着目されてこなかったロールズの正義論における幾つかの基底

的要素、すなわち「リベラルな政治文化」、「正義感覚」、「再認」という概念に着目し、その再解

釈を試みる。

本論文の枠組みは、現代正義論とその批判の概要や、格差を是正するために検討すべき差別概

念、差別を解消するために必要な「対等な配慮」等をまとめた「導入部」、理性、政治文化、正

義感覚、再認等の諸概念を改めて詳細に検討した「再解釈部」、格差を是正するための正義の二

原理に対する主体的関与について論じた「構成部」からなる。

まず、「導入部」では、転換期にある中国社会における格差の具体的事例を紹介し、社会的・

経済的格差の背景には構造的差別があると論ずる。社会における不正義の典型として顕現する格

差は、主として国や社会における支配的集団が差別的な制度や政策を採用したことに由来する。

だが、一方、その根底においては、アイデンティティの確立および維持において、他者と比較し

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V

自己を優位において肯定するといった人間に潜在している差別的意識や感情を無視することは

できない。社会的・経済的格差を是正するためにはまず差別を解消しなければならないのは、そ

れ故である。そのためには、人々の間の対等な配慮を成立させることが必要となる(序章・1 章)。

次に、「再解釈部」においては、人々の間の対等な配慮を実現するため、ロールズが提示した

「リベラルな政治文化」、「正義感覚」、「再認」という概念に着目し、その意義を再検討する。そ

して、正義の二原理の実効性を高めるための理論的基盤として、差別問題の解消に向けた可能性

を検討する。

ここでは、ロールズの政治文化論を踏まえて、文化を「自己のアイデンティティを形成・確保・

修正する主観的・客観的基盤」と定義する。既に述べたとおり、自己に相応しい公正な配分を確

立するため、すべての人々を尊厳のある者として対等にあつかい、人々の人格やアイデンティテ

ィの平等性を認めなければならない。アイデンティティを形成・確立・修正するためには、一定

の社会的・政治的・経済的環境や条件が必要であり、これらの環境や条件は、いわゆる広い意味

での「政治文化」に含まれる。そこで、ロールズの「政治文化」の見方とそれを支える公共的理

性の概念の変容をたどりつつ、理由基底的公正性としての正義とその政治的構想を支えるために

必要な基本的条件について検討し、正義の諸原理を適切に構成し維持するためには、リベラルな

市民的政治文化とそこに胚胎する公共理性の働きをとおして、市民的人格を確立した人々が主体

的能力を発揮することが重要であることを指摘する(2・3 章)。

市民的人格、あるいは主体的能力とは、ロールズによれば、リベラルな政治文化に暗黙の内に

含まれているとみなされる根本的な概念、すなわち自由で平等な人格としての市民が有する正義

感覚という能力のことでもある。そして、正義感覚は、「悟性のみによってつくられた単なる道

徳的観念でなく、理性によって照らされた魂の真の感情」であり、「選択された原理が尊重され

ることを確保し」、「諸原理を忠実に守る」という形式的意味にとどまらず、人間の自然本性から

生まれて、実質となる自由の平等を保障する根拠となるものである。正義感覚は、人々が自由で

平等な市民として公正な協働の体系として社会を営むための規範的期待であり、原理に規制され

た秩序ある社会は、その期待の副次的効果ないし表面的現象である。勿論、市民的不服従や良心

的拒否が妥当する根拠を解明するために、正義感覚だけでなく、不正義感覚も存在し、機能して

いると明らかにすることも重要であろう。市民的不服従や良心的拒否は、秩序だった社会におけ

る抵抗すべき不正について、自身の不正義感覚から他者の正義感覚に訴えかけることである。ロ

ールズも認めているように、正義感覚による不公正への抵抗は、「抵抗様式の妥当根拠を与え」、

「通常の不公平な傾向に抵抗するのに十分な強さをもっている」。このような正義感覚は、正義

の二原理の受容と社会における不公正への抵抗について大きく開かれており、「正義に反する」

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VI

という感覚を生ぜしめるものを是正または予防しうる。かくして、正義感覚には、正義の二原理

の受容や遵法と社会における不公正への抵抗というふたつの側面があり、正義感覚の目的を社会

の安定性だけに狭めないよう留意しなければならない(4 章)。

さらに、ロールズに即して考えれば、このような正義感覚は「再認」(recognition)を通じても

たらされる。ここで言う再認とは、正義感覚の契機であり、「正義の構想に対応する正義感覚を

生みだす」ものである。ロールズによれば、正義に適った「制度の創設と存続が可能となるのは、

互恵的な承認と共有された知識がある」場合であるのだが、これは後に述べるような理由で、こ

こでは再認と捉えられる。また、再認は、人々の主体的、能動的な実践的態度であり、この再認

を通じて生み出される正義感覚は、理想状態または静的状態における思弁的なものにとどまらず、

人々の現実における経験を問題化する実践的性格をも有している。他方で、再認は、規範の基礎

づけ、法的判断の正当化手続でもある。それは、社会的制度や政策が公正かどうか疑わしい場合

には、責任倫理を伴いつつ、法実践に関わる主体の解釈的な規範創造の能動的条件となる。ロー

ルズの説く「承認」は、ヘーゲルの「承認をめぐる闘争」における承認とは異なり、生死をかけ

る政治闘争ではなく、正義の二原理によって設定された人間関係との関係において、その原理に

よって充たされないまま残されている領域での正義感覚に合致していない状態の回復を図り、正

義の二原理をより広範な形で公共的に受容してゆくための基礎をなす(5 章前半)。

以上の予備的考察を踏まえ、最後の「構成部」では、再認の手続として、「主体的関与」を基

軸とした正義感覚の新たな解釈を提示する。これは、ロールズ理解における新たな方法論的視座

を提供するものである。ロールズの言う正義の二原理は、政治哲学、法哲学だけにとどまらず、

人々がどのように正義概念を形成・受容・維持・発展させていくか、それによってどのような社

会的人間関係を確立・発展させていくかという問題関心に即して理論的に導き出されたものであ

るが、ここで言う主体的関与は、その問題関心の展開の基軸をなす正義感覚の具体的表現として、

人々の個性や差異等を相互に尊重しつつ社会を構築する方法に関わる。これは、「拡張された共

感」に依拠するロールズの道徳心理学的議論と本質的に合致するものであり、正義感覚をとおし

て正義の二原理を思考的に体験する機会とその条件を確立することにより、人々を社会的協働に

主体的に参加させ、よりよい人間関係に基づく秩序ある社会の構築につなげようとするものであ

る。そこでは、社会的不正が存続している原因が人々の主体的関与の不足にあるという診断に基

づいて、人々の実践的思考や行動の原理を人間関係へと結びつけ、社会的不正を是正するための

処方箋として、既存の制度により排斥されたり等しく配慮されているとはいいがたい人々の存在

を浮かび上がらせ、それに留意しようとしない人々に対して主体的関与を促し、すべての人々が

等しく尊重されるべき人格的存在であることに関する理性的、モラル的そして戦略的コミットメ

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VII

ントを形成させることが方法的に重要となる。そしてその際には、自己のアイデンティティの真

のあり方を再認するとともに、正義を社会的に形成・受容・維持・発展させて、とりわけ差別問

題の解消を進めてゆくことも求められるのである(5 章後半)。

なお、個人的な正義感覚は、正義原理を構成する決定的要素ではなく、社会的制度を構築する

ための情念的素材(人間としての自然な情)にすぎない。他方、普遍的な正義感覚は、主体的・

能動的関与をとおして、当人に正/不正の判断、正義感/不正義感をもたらす。そして、当人以

外の人々も、その当人による正義感/不正義感の表明を受けて自己の正義感/不正義感との比較

の契機を獲得し、個人的な正義感覚を超えて間主体的に正義の共通意識や原理を把握して、普遍

的な正義感覚で捉えた道徳原理に合致した判断を保持するようになる。

以上のようにして再解釈されたロールズの正義感覚論は、配分的正義に合致した社会制度をも

たらすだけのもの、あるいは社会的・経済的格差等の諸問題を配分的正義の問題に還元してしま

うものではなく、関与をとおして社会的正義を実現するために、さらに広範な形で文化的諸権利

にも着目すべきであるという問題意識をも含みうるものとなる。つまり、ロールズの正義感覚と

それに連動する正義の二原理の再解釈は、社会制度を形づくる政治や法の役割を超越的な価値基

準に照らした価値合理性の問題に還元してしまうのではなく、社会や諸集団が制度を構築し、諸

政策を策定・実施・改正する諸理由を個々人の感情も含めた人間相互の間主体的関係から生じる

リアルな思考に基礎づけようという試みであり、またそれは、他者との関係において自己のアイ

デンティティやパーソナリティを様々に形成・維持・修正しようとする現実の人々を正義原理の

下で規範的に位置づけ、社会における正義の働きを実効的に確保しようという試みともなるので

ある(6 章)。

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VIII

目 次

序章 中国社会の現実と現代正義論:社会的格差と構造的差別 ........................................................ 1 第1節 転換期中国における「格差と差別」問題 ......................................................................... 1 第2節 差別意識による格差の固定化:「農民工」問題に象徴される社会的不正義 . エラー! ブック

マークが定義されていません。 第3節 公正な配分と対等な配慮の要請:ロールズ正義理論を手がかりとして エラー! ブックマー

クが定義されていません。

第1章 ロールズ正義論の拡張可能性のための哲学的再考 ............................................................. 20 はしがき ..................................................................................................................... 21 第1節 再考の背景(Ⅰ)配分的正義の文脈 .............................................................................. 20

第1款 ロールズの配分的正義の概観 ......................................................................................... 20 第2款 ロールズの配分的正義の位置づけ .................................................................................. 23

第2節 再考の背景(Ⅱ)平等的要請の文脈 .............................................................................. 27 第1款 経済的社会的領域における平等の意義:公正な配分 ..................................................... 27 第2款 文化的領域における平等の意義:対等な配慮 ................................................................ 35

第3節 ロールズ正義論の拡張可能性という問題提起:自由の平等による対等な配慮 ............... 39 第1款 拡張可能性とは何か ........................................................................................................ 39 第2款 対等な配慮の志向:同質志向的平等と異質志向的平等 ................................................. 43 第3款 異質志向的平等による対等な配慮:自由の概念と政治文化の文脈を求めて ................. 54

小 括 ...................................................................................................................................... 69

第2章 ロールズ正義理論の発展性:公共性から公共理性への変容の再検討 ................................. 72 はしがき ...................................................................................................................................... 72 第1節 公正としての正義における公共性 .................................................................................. 73

第1款 理性・理由の復権と言われるロールズ正義理論とその文脈 .......................................... 74 第2款 原初状態の背後にある 2 つの実践理性:合理性と適理性.............................................. 76 第3款 内在的な適理性の展開 .................................................................................................... 81

第2節 正義の政治的構想における公共理性・理由 .................................................................... 86 第1款 正義の政治的構想における理性の位置づけ ................................................................... 87 第2款 重合的合意の本質とその二段階構想 .............................................................................. 92 第3款 公共理性 .......................................................................................................................... 97

第3節 公共性から公共理性・理由へ ....................................................................................... 101 第1款 理性概念の変容に関わる諸条件の整理 ......................................................................... 102 第2款 理由基底的公共性のために ........................................................................................... 104

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IX

第3款 理由基底的公共性による政治的構想の妥当化 .............................................................. 107 小 括 .................................................................................................................................... 109

第3章 公共理性に支えられた「リベラルな政治文化」の基礎的考察 ......................................... 112 はしがき .................................................................................................................................... 112 第1節 政治哲学としてのロールズ正義論と文化との関係 ....................................................... 116

第1款 政治哲学の源泉としての政治文化 ................................................................................ 116 第2款 政治文化の充実に伴う正義理論の拡張・実践可能 ....................................................... 118

第2節 ロールズにおける政治文化への配慮とその接近方法 .................................................... 120 第1款 政治文化への配慮の諸表現:「無から有へ」と「弱から強へ」 ................................... 120 第2款 正義理論構成における政治文化の方法論的考察 .......................................................... 123

第3節 ロールズにおける「リベラルな政治文化」の基本内容 ................................................ 125 第1款 リベラルな政治文化の基本構成と特徴 ......................................................................... 125 第2款 リベラルな政治文化をめぐる諸問題とロールズの見解 ............................................... 132 第3款 リベラルな政治文化による正義理論拡張の方向提示 ................................................... 139

小 括 .................................................................................................................................... 142

第4章 正義感覚とその開かれた理解:ロールズ正義理論に含まれる拡張契機の解明の試み ....... 144 はしがき .................................................................................................................................... 144 第1節 ロールズの正義感覚論の通説的解釈 ............................................................................ 150

第1款 通説的解釈の概要:「形式的意味の道徳能力」と「安定性の保証」 ........................... 150 第2款 通説的解釈の疑問点 ...................................................................................................... 154

第2節 ロールズの正義感覚論の基本的特徴 ............................................................................ 158 第1款 正義感覚における内的視点と外的視点 ......................................................................... 158 第2款 正義感覚とは何か:正義の理論を記述するもの .......................................................... 162 第3款 正義感覚の実質:自由で平等な人格的存在者の規範的期待 ........................................ 168

第3節 ロールズの正義感覚論の再検討:相互的主体性の視角から ......................................... 173 第1款 「市民的不服従」からみた正義感覚の主体的構成 ....................................................... 175 第2款 正義感覚の 2 つの側面:「正義の受容」と「不正義への抵抗」 .................................. 180 第3款 正義感覚の基礎となる相互主体性:「対等な市民性」と「能動的志向性」 ................. 191 第4款 相互的主体性の背後にある注意点 ................................................................................ 198 第 5 款 正義感覚の間主体性論に係る二重目的......................................................................... 203

第4節 ロールズの正義感覚論に対する開かれた理解 .............................................................. 212 第1款 開かれた理解による平等志向の本質化 ......................................................................... 214 第2款 開かれた理解による人間社会の紐帯強化 ..................................................................... 218 第3款 開かれた理解による法的思考の主体性発揮 ................................................................. 224

第5節 道徳認知に関する心理学的・神経科学的研究からの補論 ............................................. 226

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X

小 括 .................................................................................................................................... 234

第5章 再認による主体的関与:ロールズ正義理論の拡張解釈の確立 ......................................... 237 はしがき .................................................................................................................................... 237 第1節 ロールズ正義理論における再認概念の検討 .................................................................. 238

第1款 2 つの再認のモデル:「権力闘争的承認」と「法的承認」 ........................................... 238 第2款 法的承認とは何か:H.L.A.ハートの「承認のルール」を手掛かりに ......................... 246 第3款 ロールズ正義理論の意味拡張に係る再認概念の諸特徴 ............................................... 257

第2節 再認による主体的関与の視座の確立 ............................................................................ 262 第1款 法の妥当根拠:3 つの視点から .................................................................................... 262 第2款 自由の平等からみた再認の位置 .................................................................................... 269 第3款 主体的関与の基盤としての平等 .................................................................................... 272 第4款 関与主体の比較的理解 .................................................................................................. 274

第3節 主体的関与の原理とそのアプローチ ............................................................................ 279 第1款 主体的関与の原理:消極的側面と積極的側面 .............................................................. 279 第2款 理性的コミットメントのアプローチ:正義感覚抽出 ................................................... 283 第3款 モラルコミットメントのアプローチ:正義感覚移入 ................................................... 286 第4款 戦略的コミットメントのアプローチ:共感的配慮 ....................................................... 291 第5款 主体的関与の実践的意義 .............................................................................................. 296

小 括 .................................................................................................................................... 299

第6章 社会的正義への主体的関与:自由の平等への漸次的接近 ................................................ 302 はしがき .................................................................................................................................... 302 第1節 「社会規範」の研究における「規範感覚」の位置づけ ................................................ 305

第1款 法はどこに存在しているのか? .................................................................................... 305 第2款 法はなぜ変動・発展できるのか? ................................................................................ 307 第3款 合理性と道徳性との関係の再考 .................................................................................... 311

第2節 主体的関与の実践的諸条件 .......................................................................................... 317 第1款 Who=主体的関与の主体 .............................................................................................. 318 第2款 What=主体的関与の内容............................................................................................. 320 第3款 When=主体的関与の時間的条件 ................................................................................. 321 第4款 Where=主体的関与の空間的条件 ................................................................................ 324 第5款 時空的条件による主体的関与の強度 ............................................................................ 325 第6款 Why=主体的関与の法変容 .......................................................................................... 327 第7款 How=知的理解と追体験的理解との統合 ..................................................................... 329

第3節 主体的関与に期待される人間像 ................................................................................... 332 第1款 主体的関与の出発点にあるもの:感覚秩序 ................................................................. 332

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XI

第2款 強い人間像の背面 ......................................................................................................... 338 第3款 期待可能な人間像の提案 .............................................................................................. 343

第4節 主体的関与の法解釈学 ................................................................................................. 350 第1款 R・ドゥオーキンの「第 3 の道」 ................................................................................ 351 第2款 法と道徳との相互転化 .................................................................................................. 355 第3款 主体的関与の平等に関する法的思考 ............................................................................ 363

第 5 節 ロールズ正義論の拡張解釈から中国問題への示唆 ....................................................... 379 第1款 中国におけるロールズ研究の現状と問題 ..................................................................... 379 第2款 ロールズ正義論の拡張解釈からの示唆 ......................................................................... 382 第3款 残された課題 ................................................................................................................. 388

小 括 .................................................................................................................................... 391

結 語 ........................................................................................................................................ 394

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1

序章 中国社会の現実と現代正義論:社会的格差と構造的差別

第1節 転換期中国における「格差と差別」問題

現在の中国は、内外の急激な社会環境の変化に対応すべく、あらゆる領域において構造

改革の必要に迫られており、重大な転型期にある。1980 年代から、政治・経済・行政・税

制・金融等の様々な領域において重要な改革が推し進められてきた。しかしながら、いず

れの改革も様々な要因によって阻害され、必ずしも円滑かつ十分に実施されてきたとはい

えず、現在でも厳しい状況にあって、改革の行方は定かではない。現在の諸改革は、中国

独自の政治経済システム、社会および文化の急激な変容という内的要因によって要請され

ているものの、他方で、グローバル化や欧米諸国からの圧力といった外的要因も強力な推

進力となっている。中国における「法」、あるいは「法」制度をめぐる改革も、このような

動向の例外ではない。現在すすめられている様々な改革と連動して、中国の「法」制度全

体が変容しつつあり、さらに社会制度の要ともいうべき「法」制度を拡充すべく、根本的

な改革のための議論が展開されている。

中華人民共和国の建国以降、中国において近代化に即応するべく展開されてきた法観念

と法制度は、中央集権的かつ共産主義的色彩を帯びた「富国強民」という観念に立脚しつ

つ「人民の平等」1を前提とするものであった。このような理念は、マルクス主義に由来し

ている。1917 年のロシア 10 月革命によってプロレタリア独裁政権が樹立されたのを契機

1 中国の語境において「人民」という用語を理解するにあたり、これは法学概念よりむしろ政治

学の概念として使われ、広い意味では国家の構成員を指し、国民と同義であるが、狭い意味で

は「幹部」との対比でみれば、被支配層としての国民を指し、また一定領域において特定な政

治的権利を奪われた「敵」「犯罪者」との対立概念である。後者の意味は特に毛沢東時代によ

く使われた。例えば、毛沢東が最高国務会議第十一回(拡大)会議でおこなった「人民内部の

矛盾を正しく処理する問題について(1957 年 2 月 27 日)」という講話によれば、「まず、

人民とはなにか、敵とはなにかをはっきりさせなければならない。人民という概念は、異なっ

た国家と、それぞれの国家の異なった歴史的時期において、異なった内容をもっている……現

段階、すなわち社会主義建設の時期には、社会主義建設の事業に賛成し、これを支持し、これ

に参加するすべての階級、階層、社会集団はみな人民の範囲に属し、社会主義革命に反抗し、

社会主義建設を敵視し、これを破壊するすべての社会勢力、社会集団はみな人民の敵である。」

その後、毛沢東は、当時の記録にもとづいて整理し、いくらかの補足をおこなって、1957 年

6 月 19 日の『人民日報』に発表した。引用は『毛沢東選集 第五巻』(外文出版社, 1977)565頁。

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2

に、中国においても政治的・社会的不平等を撤廃するべく社会主義国家を実現するべきだ

と説かれるようになった。そのため、国家建設の初期段階では、平等主義が政策の基軸と

なっていた。なぜならば、すべての人々を平等に尊重することによって「進歩的」、「人道

的」社会を実現するという社会主義の正当性を人々に示さなければならなかったからであ

り、また、それによって民衆の支持を獲得し、国家の建設を加速させるとともに、その後

の国内を安定化させなければならなかったからである。

しかしながら、1970 年代の改革開放以降、中国の社会的格差は多様化し、また深刻化し

ている2。国家の役割が肥大化するとともに、権力が極端に集中し、官僚主義化がすすんで

いる。このような一元的・集権的な権力構造が、不平等な配分の主因となり、階級制度が

なくなったにもかかわらず、特権階級などと揶揄される社会的格差が中国国内のいたると

ころに顕在している3。具体的には、⑴共産党員と非共産党員、あるいは官僚と人民との「政

治的格差」、⑵農民工に代表される貧困層と新貴族等とよばれる富裕層、あるいは都市に住

む者と地方に住む者との「経済的格差」、⑶漢民族とそれ以外の少数民族との「文化的格差」、

⑷都市部と農村部、あるいは沿海部と内陸部との「地域間格差」、⑸男性と女性との「性別

格差」、「ジェンダー格差」、⑹富裕層の子どもと貧困層の子ども、官僚の子どもと人民の子

どもとの「世代間格差」等である。これらの格差は、相互に関連しており、経済的格差の

劣位にある者のほとんどが、地域的・文化的・政治的格差においても劣位にある。以下で

は、中国におけるそれぞれの社会的格差の内容について概観する。

まず政治的格差について、1949 年から 2001 年までの統計に基づく中国社会科学院

(CASS)の調査報告『当代中国社会流動』によれば4、子どもが共産党幹部の地位を獲得

するためには、父親が共産党幹部であることがもっとも重要な要件となっている。さらに、

父親が子どもの学歴を操作できるだけの権力を有しているならば、その子どもが幹部にな

る可能性は、非幹部の父親をもつ子どもの 2 倍だという。このような潜在的な権力の世襲

が、正常な民主的政治秩序を乱し、公職に就く機会の平等を破壊している。被選挙権にも

2 石川晃弘・川崎嘉元『社会主義と社会的不平等』(青木書店, 1983)10-3 頁参照。 3 同上書 13 頁参照。 4 陸学芸編『当代中国社会流動』(社会科学文献出版社, 2004)235 頁。この報告書に関するも

のとして、次の著作も慣行されている。陸学芸編『当代中国社会階層研究報告』(社会科学文

献出版社, 2002)。中国社会階層状況をめぐるこの一連の調査研究の評価について、張貴民「中

国における地域格差の是正と調和社会の構築」地域創成研究年報第 2 号 68 頁(2007)。

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3

格差がある。例えば、全国人民代表大会、政府、中国人民政治協商会議およびその直属機

関、国家正部級企業、大軍区、軍種などにおいて指導者に就けるのは党員のみである。一

般の人民、すなわち共産党や共産党青年団に属していない人々、あるいは政治的に「幹部」

と対立している人々が選挙によって公職に就く可能性はほとんどない。平等選挙が代表民

主制にとってきわめて重要であることは、説明を要しない。小林直樹は、現代の選挙制度

をつらぬく諸基本原理の中核に「平等原則」を位置づけており5、山下健次もそれを「選挙

制度に関して国民主権から導き出される原則の第一」だとしている6。しかし、中国ではこ

の重要性が看過されている。都市部と農村部から選出される代表ひとりあたりの基礎人口

の格差、すなわち「投票価値の格差」は、中国の選挙制度をめぐるもっとも重要な問題の

一つとして注目される7。中国における「投票価値の格差」は、選挙法の規定に由来してい

る。現行の選挙法が 1979 年に制定されて以降、この格差は幾度の改正によってわずかなが

ら是正されてきており、とりわけ 1995 年の選挙法の一部改正8によってかなりの改善がみ

られたが、都市部と農村部の「投票価値の格差」は、それでもなお 1 対 4 である9。

経済的格差については、人民の所得は全体的に増えているものの、所得の格差も拡大す

る傾向にある。統計によれば、都市部と農村部における人民の所得の格差は、1978 年の 2.36

対 1 から、2009 年には 3.33 対 1 に拡大している。地域的にも、中国東部に暮らす人民の

平均年収が 38,587 円であるのに対し、西部に暮らす人民の平均年収は 18,090 円となって

いる。行政区画別にみると、人民の平均年収は、上海が最高で 76,976 円であるのに対して、

貴州省が最低で 67,789 円となっており、ここにも格差が見いだされる10。就職や就労の機

会も平等ではない。縁故や親の地位を利用して就職する者は、あらゆる就職活動において

公正に、あるいは誠実に就職しようとしている者から機会を剥奪している。就職競争に真

正面から挑む人々のほとんどは、出身大学・性別・障害や持病・情誼等を理由に不採用と

なっているが、これらの理由のほとんどは不合理なものである。また、出身地域によって

5 小林直樹『〔新版〕憲法講義(下)』(東京大学出版会, 1981)103 頁。 6 山下健次『現代憲法入門』(法律文化社, 1986)196 頁。 7 浅井敦『中国憲法の論点』(法律文化社, 1985)90-2 頁。王叔文ほか『現代中国憲法論』(法

律文化社, 1994)53-6 頁。 8 中国選挙法の 12, 14, 16 条が改正された。 9「全国人大常務委員会関於修改全国人大和地方各級人大選挙法的決定」1995 年 3 月 1 日付『人

民日報』3 頁。 10 中共中央宣伝部理論局『理論熱点面対面(2010)』(学習出版社, 人民出版社, 2010)3-4 頁。

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も就職の機会が奪われている。例えば、中国の首都、北京にあるスーパーの求人広告には、

河南地方や東北地方出身者を採用しないと明記されている。スーバーの人事担当者は、「河

南の人は頻繁に万引きをする」とか、「東北の人はすぐにけんかをする」といった理由をあ

げているが、このような担当者の偏見、あるいは個人的な印象によって、人々の就職の機

会が剥奪されている。学歴による就職格差の現象も大きな社会問題となっている。改革開

放により高等教育が復活したが、このことが学歴社会をもたらした。いわゆる教育産業が

市場において拡大し、功利主義的な教育観が蔓延した。学歴格差が収入格差へとつながり、

人々が自己の努力によってその格差を是正することは、ますます困難になっている。具体

的には、それほど高度な技術が必要な職場でもないのに博士号取得者や大学院卒業者だけ

を募集する、という会社も少なくない。また、一部の地域では、「211 工程(プロジェクト)

11」を元凶とする「211 差別」が横行している。「211 差別」とは、企業が「211 工程」の重

点大学に認定されていない大学を卒業した者の採用を敬遠する事態のことである。このよ

うな学歴偏重社会に対する批判も少なくはないが、それほど厳しいものではない12。

文化的格差としては、教育格差が拡大している。具体的には、都市部と農村部に対する

教育予算、重点学校と一般学校に対する教育予算の配分における格差、男子と女子、ある

いは成績上位者と下位者に対する教育の質の格差、さらに富裕層と貧困層の家庭教育にお

ける格差も問題として認識されるようになっている。教育格差の他には、マイノリティと

マジョリティの文化継承における格差があげられる。少数民族は、自分たちの言語や文字、

伝統文化の維持、継承が難しくなっており、これらを維持、継承するためには、マジョリ

ティ以上に努力しなければならない。また、「非主流」文化とみなされる同性愛者等のマイ

ノリティも、偏見や差別等によって、社会において自分らしく生きることが困難になって

いる。 11 「211 工程」とは、およそ 10 年を目途に、国家経済建設や社会発展において今後生じうる重

大な経済および科学技術の問題を解決しうるだけの基盤を確立することを目標に、それに相応

しい教育研究レベルにある 100 余りの大学を重点大学として認定、あるいは一部の学部を重

点学科に指定するとともに、国家が重点的に資金を投入する制度で、1993 年から教育部によ

って実施されてきたものである。中国には、現在 1700 校以上の大学があるが、この「211 工

程」において認定された大学は、第 1 期から第 3 期をとおして 112 校であり、全大学のわず

か 6%に過ぎない。 12 園田茂人『不平等国家 中国』(中公新書, 2008)第 2 章「復活する学歴社会」参照;薛進

軍・荒山裕行・園田正『中国の不平等』(名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済政策研

究センター叢書 12, 2008)第9章「学歴の差と所得不平等」参照。

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地域間格差は、中国政府が地域別に経済発展を追求したことによりもたらされたといえ

る。中国政府は、「西部大開発13」、「東北振興(振興東北老工業基地)14」、「中部勃興(中部

崛起計画)15」および「東部新飛躍」という地域別の経済発展戦略を構想し、結果として経

済成長には成功したが、同時に地域間の格差を拡大させた。地域間格差が拡大した主な原

因は、東部、沿海地域における非農業部門が優遇政策によって急速に発展したのに対して、

中西部地域の発展が相対的に停滞したことによる16。また、各地域内でも都市部と農村部、

沿海部と内陸部、漢族聚居区と少数民族聚居区等の地域間格差が観測されている。中国に

は「不患寡而患不均、不患者貧而患不安」(寡なきを患ずして、均しからざるを患う。貧し

きを患ずして、安らかざるを患う)という孔子の格言がある。また、過去の歴史を教訓と

してみても、格差が拡大すれば政治不信が高まり、社会の不安定化につながる。とりわけ

少数民族が集住している内陸部では、地域間格差の問題が容易に民族問題に転化する。官

僚の腐敗、汚職問題に加え、格差の拡大が今後の中国の発展にとって大きな障害となる可

能性は否定できない17。

性別格差には、男性と女性の生物学的差異に基づく異なる扱いだけでなく、性差による

社会的地位の差異等、いわゆるジェンダー差別も含まれる。中国では伝統的に、男性と女

性の社会的役割について「女主内、男主外」、つまり女性は家庭にあって家事や育児を担い、

男性は家の外で仕事に励むものだ、と考えられてきた。このような伝統的な概念は、就職

13 西部大開発はその範囲が重慶と四川、貴州、雲南、チベット、陜西、甘粛、青海、寧夏、新

疆、内蒙古、広西の 12 の省・自治区・直轄市を含む内陸西部地域を指し、改革開放政策の恩

恵に浴した東部沿海地方に比べて、西部の諸地域的発展は総体的に遅れており、東部地方との

所得格差は拡大するばかりであった。中国中央政府は地域格差を是正させ、調和型の経済発展

を実現させるために、1999 年末から一連の西部開発政策を打ち出し、それらの地域の優遇措

置を強化した。 14 市場経済化と国際化の流れの中で立ち遅れた東北地方(遼寧・吉林・黒龍江)を再生するた

め、胡錦涛指導部が 2003 年、「西部大開発」に並ぶ新たな国家プロジェクトとして提唱した。 15 安徽、湖南、湖北、河南、山西、江西の 6 つの省といった中国西部地方も長い間改革開放政

策の運恵を受けずに、地域発展が停滞した。2004 年頃から中部 6 省は「中部勃興計画」に基

づいて自ら連盟を作り、中央政府に「中部勃興」という考えを提示し、翌年にはさらに 30 ヵ

条からなる政策援助措置を要請した。長谷川啓之監修『現代アジア事典』(文真堂, 2009)755頁参照。

16 薛進軍・荒山裕行・園田正『中国の不平等』(名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済

政策研究センター叢書 12, 2008)54 頁参照。 17 同上書 16 頁参照。

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機会の格差、賃金の格差、昇進の格差(能力があるにもかかわらず女性ということで昇進

できない不可視の壁という意味でガラスの天井ともいわれる)につながっている。女性を

積極的に採用しない企業は、女性は出産を控えると充分に働けなくなるため採用すると会

社の損失になると説明し、生物学的差異に基づく合理的な区別だと主張するが、やはりこ

れは、中国の伝統的な男性と女性に関する社会通念に由来するジェンダー差別であるよう

に思われる。伝統的な社会通念等を背景とする制度上の差別、政策における差別は、広義

の文化的格差といいうる18。

世代間格差は、既存の政治制度や政策等のみならず、歴史にも由来しており、個人の自

己決定に深刻な悪影響をおよぼしている。例えば、現在の 50 代には、文化大革命における

「上山下郷運動」19によって高等教育を受ける機会を失い、90 年代に国営企業等の人員整

理によって失業した人々も少なくない。このような高等教育を受けていない人々の再就職

が難しいことはいうまでもなく、再就職しうる職種は肉体労働に限られていくが、そこで

は農民工に代表される若い世代と就労を争わねばならない。失業後になかなか就労できな

い人々は困窮し、子どもに高等教育を受けさせることができず、貧困が子どもに継承され

18 例えば、性という観念は実は文化的な制度の産物であり、「同性愛者」のような存在現象は

それ自体も「文化」的な産物なのだという指摘がある。「男」とか「女」というカテゴリー自

体が、われわれの生きる現実を「理解」するための文化的な、そして暴力的な方便でしかない

ことがわかってくるのではないだろうか。人が生まれ持った「身体的・生物的性」から完全に

自由になることが、現実的にはまだほとんど不可能である以上、われわれはその「自然」をど

う扱うかについては慎重にならなくてはならない。例えば、ゲイ男性のことを(いや、どんな

男性のことでも)「男らしい」かどうか考える必要など本来はないはずだが、それでもわれわ

れはそういったことをつい、ほとんど無意識のうちに考えてしまう社会に生きているのである。

ジェンダーについて、あるいは文化一般について考えるということは、この「無意識」につい

て考えることである。杉野健太郎編、杉野健太郎ほか著『アメリカ文化入門』(三修社, 2010)306-7 頁参照。

19 「上山下郷」とは、文化大革命期において毛沢東の指導によって行われた、都市部の若者が

農村部に移住させられ、貧農・下層中農の再教育を受け、地方での農村体験、生産労働に携わ

った運動。「上山下郷」を「下放」とも呼ぶ。「文化大革命(1966〜76 年)中の 68 年、「知

識青年は農村に行って貧農たちの再教育を受ける必要がある」という毛沢東の号令で始まった、

都市の青年を地方へ移住させる政策。約 1,600 万人とされる都市部の青年層が辺境地域などに

半強制的に移り住んだ。都市の失業問題や食糧不足の緩和も狙いとされた。文革で原理主義的

な毛沢東思想を信奉する紅衛兵と呼ばれる若者らが暴走したため、無職の青少年が政治的脅威

となる前に都市から追放するという政治目的もあった。文革は大躍進運動(1958〜60 年)な

どの失敗で権威を失った毛氏の復権運動の側面があり、共産党幹部の子弟らも下放の対象とな

った。」毎日新聞(2012 年 11 月 15 日) 東京朝刊参照。

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てしまう。経済的格差は、マタイ効果といわれるように、世代間で固定され、さらには拡

大してしまう20。中国では、1980 年代に生まれ、1 億元以上の財産を相続した民間企業経

営者の子どもを「富二代」という。もちろん、富二代にも恵まれた環境を活用して努力し、

さらに成功を収める者もいるが、ほとんどは「ドラ息子」で、自ら努力することなく親の

財産を使い果たしてしまうという。こうした状況について、裕福な者は、子どもにすべて

の財産を相続させずに一部を社会に献げるべきであり、そうしなければ貧富の差が拡大し、

社会の安定や経済の発展が損なわれると主張する専門家もいる。他方、「富二代」の対語と

して、貧困な家庭の子どもを指す「貧二代」も定着しつつある。財力が社会的地位を左右

する社会になり、貧困層の子どもは、自らの努力で裕福になることが困難になっている。

また、貧二代は、親を頼ることができず、自力で這いあがるしかないため、「拼二代」とも

よばれる。「拼」とは「一生懸命、命がけで、必死にやる」という意味で、「貧」と発音が

似ていることから、同じ意味で用いられるようになった。さらに、中国では上級公務員の

子どもを指す「官二代」という言葉もある。このことは、中国において、中央であると地

方であると、上級公務員を親にもつ子どもが様々な面で優遇されている実情が定着してい

ることを表している。

以上のように、現代の中国において顕現した社会的格差は、拡大するとともに固定され

つつあり、政治的、経済的、社会的、文化的地位等、あらゆる局面で劣位にある人々の尊

厳、個人の自己決定を尊重する基本的自由の保障を損なっている。このような種々の格差

は具体的にどのような事情の下でどのような形をとるのか。この点をさらに明確にするた

めに、次節では、政治的格差、経済的格差、地域間格差、世代間格差等が集約され、現在

の中国における社会的格差の象徴ともいいうる「農民工」の問題を概観し、社会的格差の

背景事情を分析する。

第2節 差別意識による格差の固定化:「農民工」問題に象徴される社会的不正義

社会的格差の主因は、国家や社会における支配的集団が差別的な制度を設け、様々な差

別的施策を実施してきたことにあると思われるが、他方で、社会に生きる人々の本性も無

視できない。人々はそれぞれ、あの人よりも学歴が高い、あの家よりも立派な家に住んで

20 馬欣欣・李実「中国都市部における Matthew Effect の検証——親子2世代間の所得の移動に

関する実証分析」PRI Discussion Paper Series, No.08A-02:27 頁(2008)。

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いるなど、他人と比較しながら自己の存在価値を自ら高めようとする。人々は、本性とし

て、他人に比べて自分が優位にあるものを肯定してアイデンティティを形成、維持する傾

向があるように思われる。そうであるならば、人々は、潜在的に差別意識や感情を有して

いることになる21。人々は、理性によって、すなわち他人よりもすべてにおいて自分が優位

にあるとは考えられないことを理解しているため、差別意識や感情を顕わにしないよう努

めているが、つねに理性的に行動すること、あの人は私よりも学歴は低いが私よりも優れ

ていることがあるかもしれないといった想像力をつねに働かせることは、なかなか容易で

はない。したがって、社会的格差を根本的に是正するためには、差別的な制度や施策と同

時に、人々の潜在的な差別意識や差別感情にも留意しなければならない22。人々がすべての

21 例えば、中島義道の指摘によれば、不快、嫌悪、軽蔑、恐怖といった他人に対する否定感情

と、誇り、自尊心、帰属意識、向上心といった自分に対する肯定感情との間に、差別の動因が

形成され、構造的差別への契機となる。中島は、制度上の差別撤廃を主張するとともに、われ

われ人間の中の悪意に基づいて差別感情を抱くという事実にも留意する必要があると強調す

る。注意すべきなのは、中島が差別の形成動因について「単純にある他人を不快に感じたり、

嫌ったり、軽蔑したり、恐れるわけではない。じつに、その背景には自分自身を誇りに思いた

い、優越感をもちたい、よい集団に属したい、つまり『よりよい者になりたい』という願望が

ぴったり貼りついているのだ」と説く一方で、「各人が自分に対する肯定的感情を根絶させる

ことを提案しているわけではない」と強調していることである。中島によれば、自己肯定とい

う感情を根絶するのは「不可能であり、たとえ努力の果てに実現したとしても、自己欺瞞の渦

巻く状態を実現するだけである」。中島義道『差別感情の哲学』(講談社, 2009)114-5 頁参

照。 22 文化人類学、社会学の領域では、「個人の感情に言及することによって社会制度を説明する

ことの可能性について」論じた研究がある一方(R・ニーダム(三上暁子訳)『構造と感情』

(弘文堂, 昭和 52)1 頁)、政治理論の領域では、アメリカの哲学者マーサ・ヌスバウムは、

従来のリベラリズムが少数派や社会的弱者への差別問題に適切に対処できていなかったこと

を認め、共同体主義やフェミニズムとははっきりと異なる視点から、差別問題を「感情」の問

題として定式化している。感情は、「人間の間に階層作り出し、社会生活において他者に対す

る著しい攻撃を惹起するという問題を抱えている」。つまり、「普通ならざる」人々が「人間」

の枠組そのものから感情的な仕方で排除されているのだという。「差別意識は、カントの言葉

を使えば、『人を目的として扱う』ことを困難にさせる。これらの感情が法と結びつけば、こ

のような差別待遇を助長させることになりかねない」。マーサ・ヌスバウム(河野哲也訳)『感

情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)444, 447 頁参照。確かに、アメリカ社会では、市民権

を有する者には政治的自由、社会的・経済的権利を平等に保障すべきだと考えられており、憲

法や法律の制定等、制度構築をとおして「自由で平等な市民」が確立されているように思われ

る。しかし、現実には差別問題が依然として存在しており、これは、差別意識という感情的な

排除の結果のように思われる。「そうだとすれば、これはもはやリベラリズムだけの問題にと

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人々の自由と平等を尊重しなければならないことを学び、このような差別意識や感情を克

服するにあたり、どのような問題に留意しなければならないか、そのための具体的アプロ

ーチにおいてどのような条件が必要か、ということを明らかにしなければならない。

いずれにしても、これらのことを念頭に置きながら、本節では、中国の「農民工」の問

題をとおして、社会的格差として顕現している現象と人々の差別意識や感情との関係につ

いて、制度化、固定化された社会的差別、いわゆる構造的差別の背景には、人々差別意識

や感情、あるいはそれらが集約された差別的な社会通念があることを明らかにする。そし

て、そのことによって、中国における社会的格差は、広義の文化的格差であり、政治文化

の問題であることを確認する。

さて、中国における様々な社会的格差のうち、もっとも深刻なものは地域間格差である

ように思われる。上記のとおり、中国では、都市部と農村部、発展地域と未発展地域の格

差がますます拡大している。本節で概観する「農民工」とは、農村部から都市部への出稼

ぎ労働者のことである23。近年、日本のメディアでも報じられた「農民工」の現状は24、中

国が現代化し、都市部のみが急速に発展するプロセス25において顕現した特殊かつ重要な問

どまるものではない。道徳や法、正義を論じることは、人間や人間社会のあるべき姿を追求す

ることである」。ヌスバウムは、感情という観点から「人間性」または「理想的人間像」等の

概念が抱える問題点を指摘し、リベラリズムの新たな視座を提供している。同上書 445 頁。 23「出稼ぎ労働者」とは居住地を一定期間だけ離れ就労すること。日本の場合は多く農漁村から

大都市や企業中心地域へ出てゆき就労することをさし、長く日本の労働問題、社会問題の特質

とされた。農漁村における季節による労働の繁閑、都市における単純労働者の必要性が背景に

あり、都市での労働の多くは季節労働、不安定雇用である。農村では米作主体の農業から多様

化が進み、漁村でも栽培漁業へと変わりつつあり、農閑期出稼ぎの労働形態は減少している。

したがって、日本の「出稼ぎ農民」と中国の事態は違う。 24 農民工の現象は中国の唯一の問題ではなくて、欧米諸国は工業化の初期段階に同じ登場して

いる。前世紀の 70 年代半ば急速な産業発展のために、東欧諸国の産業労働者は農村部から、

ほとんど半分の農民を追加した。Hann, C. 1987. “Worker-peasants in the Three Worlds.” In Peasants and Peasant Societies: Selected Readings, ed. T. Shanin, 114–20. 2nd ed. Blackwell.また、同様の問題がアフリカにも存在する。Potts, Deborah. 2000. “Worker-Peasants and Farmer-Housewives in Africa: The Debate About ‘Committed’ Farmers, Access to Land and Agricultural Production.” Journal of Southern African Studies 26 (4[Special Issue: African Environments: Past and Present]): 807-32.

25 アーバニゼーション(urbanization)とも。都市固有の文化形態が都市以外の地域に広がり定

着すること。人口密度の増加,市街地化のみでなく,農村的生活様式から都市生活様式化する

質的変化をも含む。中国の都市化の概念は、2 つのモードがある。1 つは、「都市——衛星都

市——農村」主に都市中心から衛星都市へ都市の拡大のプロセスであり、他は「農村——都会

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題である26。中国において「農民」は、職業であるだけでなく、制度上の身分でもある。し

たがって、農民工は、都市部で就労できたとしても農民としての身分を失うわけではない27。

都市部で雇用された農民工は、農作業を離れ、都市部の工場でどんなに一生懸命働いても、

都市部において都市部の人々と同様にあつかわれることはない。このことは、政府の採っ

た政策に由来する28。政府は、都市部と農村部を区別した二元管理モデルを採用し、これに

基づいた戸籍制度として「農業戸籍」と「非農業戸籍」を設けた。住居提供、初等中等教

育、医療、食糧配給等の社会保障制度や選挙制度29は、戸籍ごとに設けられている。したが

って、農村部から都市部の大学に進学する際、あるいは大学を卒業して国家機関、団体あ

るいは企業に就職する際には、戸籍を切り替えなければならない。その背景には、中国が

社会主義路線を採っている以上、貧困、とりわけ貧困にあえぐ人々の存在が明らかになら

ないようにするため、農民を土地に縛りつけようという共産党の思惑があったといわれて

いる30。経済が自由化される以前は、二元的戸籍制度によって農村部と都市部の人々の移動

を制限することにより、農村部の農民と都市部の労働者それぞれについて、労働力の供給

と雇用の需要のバランスを維持することに成功していた。しかし、経済が自由化され都市

部の工業化がすすむにつれて、都市部の雇用需要が高まり、「農業戸籍」は急速に発展する

の機能を持つ町と鎮——都市」である。中国では都市化を政府主導のプロセスとして、いま「反

都市化」、即ち「都市は農村になる」の危険性がある。以下の関連研究を参照せよ:辜勝阻ほ

か『現代中国の人口移動と都市化』(武漢大学出版社, 1994)。 26 園田茂人『不平等国家 中国』(中公新書, 2008)第 3 章「激増する農民工」参照。 27 「農民」この言葉は中国で特別な意味がある。農民は農業を生業にしている人である、即ち

農民はある種類の職業である。でも、中国では農民は職業だけではなく、身分でもある。ある

視野で、身分の意味はもう強いである。このような理解は英語圏の国と違う。英語圏の国で、

農民(farmer)は農作業者や農場を経営する人。農夫(peasant)は小規模農家やテナントや

シェアクロッパーによって構成し、その土地の労働者が、農業の主要な労働力を形成します。

つまり、農業と土地を依存対象としてのグループであり、職業性を強調される。 28 ダヴィド・ハーヴェイ(竹内啓一・松本正美訳)『都市と社会的不平等』(日本ブリタニカ

株式会社, 1980)178-9 頁参照。 29 出稼ぎ労働者の選挙権に関する他の制約要因について参照、雷偉紅「都市における出稼ぎ労

働者の選挙権と被選挙権を保障する問題についての研究」甘粛社会科学 3月号 49-52頁(2006)徐增陽「誰が出稼ぎ労働者の選挙権を保障するのか?——出稼ぎ労働者の村民委員選挙への参

加の実態調査と考察」中共寧波市委党校学報 6 月号 22-8 頁(2003)。 30 園田茂人『不平等国家 中国』(中公新書, 2008)81 頁。郭曉黎「出稼ぎ労働者の選挙権に

ついての思考 http://www.cnki.com.cn/Journal/G-G1-RMZS-2007-04.htm, 最終訪問日期

2007-04-30。

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都市部への農民の流入を制限するにすぎないものとなった。「非農業戸籍」を有していない

農民工は、都市部で就職できたとしても、「非農業戸籍」を有する労働者と同等の労働条件

を保障されることもなければ、「非農業戸籍」のための行政サービスを提供されることもな

い。80 年代以降は、農民工の都市部への流入が雇用需要を上回ってしまい、工場等への就

職はもちろん、日雇労働への就労さえも困難になっている。こうして、現在では、都市部

における農民工の貧困が大きな社会的問題となるに至っている。

以上のとおり、中国における「農民工」と都市部労働者との社会的格差は、二元管理モ

デルに基づく戸籍制度に由来している。農村部と都市部の地域間格差が、都市部における

農民工と労働者の経済的格差として維持されてしまうのは、都市部で就労しても「農業戸

籍」から「非農業戸籍」に切り替えることができない現行制度のためである31。これまで、

少なくない研究者によって、このような戸籍制度の抱える課題が指摘されてきたが、近年

では、戸籍ごとに異なる行政サービス制度を改めるべきだとの意見が、農民工からだけで

なく、一部の「非農業戸籍」を有する都市部の人々からも主張されるようになっている32。

それにもかかわらず、中国政府が二元的管理モデルの戸籍制度を改めようとしない背景

には、鄧小平の「先富論」がある。鄧小平は、文化大革命の後、中国が陥った貧困状況を

一刻も早く改善させるため、「富める者から富め」、「可能な者から裕福になれ」、「先に富ん

だ者や地域が取り残された者や地域をひきあげよ」と説いた33。中国の現状をみれば、経済

の自由化によって、富める者から富み、都市部の貧困状況の改善、経済的発展には成功し

たといえる。しかし、そこでは「先に富んだ者や地域」が「取り残された者や地域」をひ

きあげようとはしていない。先に富んだ者がますます富むばかりである。そして、「先に富

んだ者」にはあらかじめ「先に富む」ことが約束されていたということも問題であろう。

すなわち「非農業戸籍」を有する人々、公務員、あるいは共産党幹部とその家族は、すで

にそれ以外の人々よりも制度的に優位な立場にあった。社会的格差、二元的管理モデルの

31 農民工をめぐる研究動向と関連政策に関する先行研究、特に社会保障の側面からの考察につ

いて、参照:厳春鶴「中国における農民工の社会保障問題に関する一考察」海外社会保障研究

179 号 72-84 頁(2012)。 32 園田茂人「中国社会における流動性の高まりとその国内/国際的インパクト」アジア研究 55巻 2 号 13 頁(2009)。

33 この中国語は、以下のとおり。「我們的政策是譲一部分人、一部分地区先富起来、以帯動和幇

助落伍的地区、先進地区幇助落伍地区是一個義務。」

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戸籍制度に由来する構造的格差が生じ、それがますます拡大している現状をみるかぎり、

鄧小平の「先富論」は失敗だったと評価せざるをえない。

このように、中国における社会的格差は、制度における差別を主因とする。しかし、社

会的格差の原因を「戸籍制度」や「先富論」に求めるだけでは不十分である。というのも、

これらの制度や理論は、中国の伝統的な政治文化に由来すると考えられるからである。

中国の政治文化には、差別意識や感情、偏見が色濃く現れている。中華人民共和国が設

立されるまで、中国では階級秩序が重んじられてきたことからしても、中国に平等概念が

定着したとはいいがたい。階級秩序が重んじられる政治文化は、「三綱五常」という概念に

現れている34。現在では、皇族や貴族等のあからさまな身分制度は消滅したものの、「官僚

と人民」、「共産党員と非共産党員」、「富裕層と貧困層」等の潜在的な社会的地位の区別が

新たに生じている。階級秩序や身分制度は、先天的要素により人々の身分や地位を決定し

ようというものである。そこでは、個人の努力やそれによって身につけた能力によって上

位の階級や身分を獲得する可能性は、あらかじめ閉ざされている。したがって、このよう

な制度の最大の弊害は、人々の積極性や活力を減退させてしまうところにある。

中国において形は変われども維持されてきた階級秩序や身分制度は、今もなお中国の

人々の権力や権威に対する態度、政治的思考様式や行動様式、政治的慣習等に根づいてお

り、指導部による制度や政策の背景ともなっているように思われる。中国の政治文化にお

いて、指導部が階級秩序や身分制度を維持させてしまっているとともに、人々もそれを批

判すべきものとして明確に認識できずにいる。そのため、「この種の先天的な制限を突破す

ることが困難となり、階級を超えることも難しくなる」35。二元的管理モデルによる「戸籍

制度」等の制度における差別は、中国の政治文化の慣性に由来しているともいいうる。こ

こには「身分の壁」がある。この「身分の壁」は、封建制の名残であり、少なくない諸国

において、現在でも農村社会の基本的特徴である。中国では農業従事者が圧倒的多数を占

めており、「身分の壁」はとりわけ重要な問題となる36。中国における社会的格差を是正す

34 「三綱」は儒教において君臣・父子・夫婦の間の道徳的基準として、意識的に不対等な関係

を強調し、君の臣に対する優位、父の子に対する優位、夫の婦に対する優位を通じて前者の優

越感と後者の劣等感を作り出し、構造的格差に理論的根拠を与えることで、不平等が正当化さ

れる。 35 李強「中国社会における階層構造の新しい変化」立命館産業社会論集 38 巻1号 26 頁(2002)。 36 ジェレミー・シーブルック(渡辺雅男訳)『階級社会——グローバリズムと不平等』(青土

社, 2004)31 頁参照。

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るためには、このような潜在的な社会的地位の区別、「身分の壁」を打破しなければならな

い。「身分の壁」を打破するには、すべての人々が等しく尊重されなければならないという

平等の価値の理解を人々に促し、中国の政治文化を改めていく必要がある。転換期を迎え

た中国が社会的格差といかに向き合うか、それを問うことは、中国における社会科学の大

きな学問的課題であるとともに、実践的挑戦でもある。その相手は、政治的課題、経済的

課題というにとどまらず、そこに通底する政治文化を改めなければならないきわめて困難

な課題である。

以上、「農民工」の例を通じて確認したように、社会的格差は、社会の実情を示す概念で

あるにとどまらない。社会的格差の是正に関する議論には、その是正のあり方、好ましい

配分をめぐる価値判断が含まれている。既述のとおり、中国における社会的格差は、現行

諸制度の正当性と妥当性に係る問題にとどまらず、中国の人々の思考様式、行動様式、そ

の背後にある人々の差別意識や感情、そして政治文化の正当性と妥当性に係る問題である37。

このような問題を法哲学的に深く検討するためには、中国における現行諸制度の政治文化

に照らした妥当性を検証するのではなく、正義に基づく批判的視座が必要である。中国に

おいて、欧米諸国で既に常識となった「法の支配」や「人権の保障」といった規範概念は、

存在してこなかった。しかし、現在の中国における社会的格差が是正すべき段階に達して

いるとの認識は共有されつつあり、正当な秩序に則した平等実現の要求も高まっている。

37 政治意識と感情的・情動的要素との関係について、先行研究において、以下のような指摘が

ある。「政治意識の研究における近年の動向は、一方で有権者全体を、内部的には等質的で相

互には異質的な複数の集団に分割することを志向している。他方で、こうして分割された個別

の集団ごとについて、その集団のもつ広い意識のなかで、すなわち生活、文化、あるいは秩序

と意味体系にわたる意識の一つの要素として、ひろく政治一般に関する意識を捉えることが目

標となっている。その限りで、有権者の意識に関するイメージには、人文諸学の示唆と一致す

ることが少なくない」。政治意識における評価要素の問題について、「政治意識を安定的に支

えているものは、その認識的側面であるよりは、感情的側面である」。感情的・情動的要素に

関わるものは、この研究において広く捉えられている。たとえば「宗教心、伝統志向、合理性

志向、年齢相応意識、パーソナリティなど」があり、また「好悪、政党イメージ、気質、生育

歴、政治的関係、家族関係、仕事上の社会関係、その他の人間関係、生活現況及び資産形成等

の見通しと期待、マスメディなど」も重要だとされている。この広い捉え方からみた意識は、

本論文の前書きで考えた「文化」、すなわち自己理解と他者理解を形成・維持・修正する主観

的・客観的基盤という概念と一致するものといえるであろう。『昭和 52・53 年度科学研究費

補助金総合研究(A)「政治意識の感情構想の研究」(研究代表者・林知己夫)研究成果報告

書』1-2 頁(1979)。

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そこでは、公共財の公正な配分、すべての人々の尊厳を保ちうる正当な制度のあり方につ

いて検討することが必要であり、その点で現代正義論からどのような示唆が得られるかと

いうことに注目する必要がある。ただし、現代正義論が展開された欧米諸国と異なる政治

文化が色濃い中国においてもなお、それが公正、あるいは正当である、といいうる理由ま

で明らかにしなければ、現代正義論は中国において実効性ある規範理論とはなりえないで

あろう。そこでは、特に「格差と差別」の問題をめぐって、欧米諸国を中心にして発展し

てきた現代正義論を中国において適用可能とするための拡張可能性等について検討してい

くことが求められるのである。

ここで検討すべき現代正義論として注目したいのは、ジョン・ロールズが展開した正義

理論である。それゆえ、次節では、「格差と差別」の問題を検討するにあたり、ロールズの

正義理論に依拠する理由について説明する。

第3節 公正な配分と対等な配慮の要請:ロールズ正義理論を手がかりとして

中国における社会的・経済的格差の是正に向けた規範理論を提示するため、本論文では、

現代正義理論の再考を試みる。ここでは、とりわけロールズの正義理論に着目するわけだ

が、その具体的理由は、主に以下の 2 つである。まず、現代正義論は、社会的・経済的不

平等、いわゆる社会的格差を是正する指針として、一定の合理的かつ普遍的な規範的基準

を提示している。格差問題は、所得・収入・資産・資源等の経済的あるいは物質的財の再

分配における不平等のみならず、自由・名誉・機械・権利・義務等の社会的協働としての

利益と負担の再分配における不平等の問題でもある。基本財の公正な配分を説くロールズ

の正義理論は、現在でも「公正としての正義」の理論として高く評価され、現代正義論を

ロールズぬきには語れないことも周知の事実である38。そして、このことは前節で述べた

人々の平等の実現にもつながっていることは言うまでもない。

38 「ロールズの『正義論』は、威嚇と支配から対話と合意へのパラダイム転換であって、戦争

の世紀から人権と平和の世紀へと移行する哲学的一試論であったことといえよう。」藤井吉美

「戦争の世紀から人権の世紀へ」(小泉仰監修)『西洋思想の日本的展開——福沢吉からジョ

ン・ロールズまで——』(慶應義塾大学出版会, 2002)221 頁。また、「二五年にわたって我々

を魅了し続けてきたロールズの政治理論は、いまなお新鮮さを保っている」。渡辺幹雄『ロー

ルズ正義論の行方』(春秋社, 1998)5 頁。

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もう一点は、現在、中国の社会科学分野においてロールズの正義理論への関心が高まっ

ており、ロールズ研究がブームになっているといいうる状況にあることである。欧米や日

本においては、既にロールズの正義理論を検討することは学界の常識である。本節では、

中国におけるロールズの正義理論への関心の高まりについて、統計的に説明し、その研究

内容に関する問題も指摘する。

現在、中国におけるロールズの正義理論の研究は、主に「正義論」を理解するという段

階であり、1980 年代中頃から論文の公表が増えている39。また、ロールズが逝世した 2002

年以降も注目されている(図1)40。中国におけるロールズ研究は、おもに政治学、倫理学

39 「転換期の中国とロールズの政治哲学」という視角から、中国においてロールズの理論に関

する関心と研究の変化について、中国出身、東京大学グローバル COE「共生のための国際哲

学教育研究センター(2007〜12)」共同研究員王前は次のように指摘した。「ロールズの主

著『正義論』が発表されたのは 1971 年、当時の中国は文化大革命の真最中である。世界の学

問の動向に関心を持つ余裕は到底なく、ロールズの力作が紹介されることも当然不可能だっ

た。」また「1988 年に『正義論』の中国語訳が出たのだが、このときにはとくに目立った宣

伝はされていない……このころは、近代化が中国の言論界のメイン・テーマだったために、ロ

ーズルの『正義論』のような理論的な書物は翻訳が出ても大した反応がなかったのだ。近代社

会の建設がまだ途中の社会にとっては、だいぶ先の課題のように思われても仕方がなかったの

かもしれない。」1990 年代以降、「社会発展の状況や政治制度が違う中国でも彼の政治哲学

への関心がかなり高い。そういった関心の背後には、やはり激しく変化する中国社会における

正義などの問題があるのだ。」ロールズの理論に関心が高まる最大の原因は、「中国社会が経

済の高度成長期に入り、拝金主義が蔓延する中、公共的な倫理やモラルの欠如が目立っている」

と考えられる。王前は中国においてもロールズの理論研究が重要な意味を持つと指摘するが、

筆者も同感である。「ロールズの『正義論』にしても『政治的自由主義』にしても、その研究

のバックグラウンドは基本的にアメリカの社会であり、その原理は欧米の民主主義社会の原理

であることはたしかである。だが、人類社会を構成するのに欠かせない正義の原理を研究した

ものだから、一種の普遍性があることは否定できないだろう……彼は現代の民主主義的な社会

のあるべき姿を探究したのであって、決してアメリカ一国だけのために探究したわけではない。

言うまでもなく、現在の中国はアメリカと体制が違うし、発展段階も異なるが、だからといっ

て、正義の問題を考えなくてもすむような社会では決してない。むしろ経済改革だけが先行し

た結果、腐敗の問題などが多発しており、格差もますます広がっている中で、自由の問題だけ

でなく、もともとは社会主義が誇りにするところの平等についても、社会の大きな課題となっ

ている。そのような流れの中で、ハイエクの古典的な自由主義よりも、自由と平等を同時に重

視するロールズ流自由主義のほうがより中国にとって必要だ」と思われる。王前『中国が読ん

だ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』(講談社, 2011)183-5 頁。 40 図 1 と図 2 における各発表数と発表雑誌の分野に応じて、中国の『CNKI』、日本の『CiNii』、米国とドイツの『JSTOR』『SpringerLink』 の検索データに基づいて作成する。具体的に

言えば、『CNKI』において論文名「罗尔斯(J・ロールズの中国音訳)」で、『CiNii』にお

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および哲学分野において展開されており、法学分野ではあまり盛んではない。おそらく、

2000 年以降の中国の実情から、法哲学や法思想史の研究者にはロールズの正義理論に注目

する者もいたかもしれないが、現在でも他の法学分野に広まっているわけではない(図2)。

図1からは、中国におけるロールズ研究について3つの特徴が指摘できる。第 1 に、中

国におけるロールズ研究は 1980 年代中頃から盛んになっており、それは日本よりも 10 年

ほど、欧米よりも 20 年ほど遅れている。第 2 に、ロールズが亡くなった 2002 年から中国

におけるロールズ研究は急激に進展しており、ロールズおよびその正義理論への関心が高

まっている。それは、ロールズが構想した正義理論が、民主的な政治文化を高揚し、市民

的諸自由や政治的諸自由を喧伝し、社会的・経済的格差等の現実の社会問題を解決しつつ、

社会秩序の安定化を図っている中国にとって、理論的にも実践的にも興味深いものであっ

たからであろう。第 3 に、論文等の公表数では、中国のロールズ研究が日本や欧米よりも

盛んだということになるが、研究の段階について、ロールズの正義理論の紹介、批判的検

討、実践的研究と区分するならば、日本および欧米の研究段階が批判的検討や実践的研究

にあるのに対して、中国の研究段階はいまだロールズの正義理論の紹介や基本的理解にと

いて論文名「ロールズ」で、『JSTOR』『SpringerLink』において論文名「Rawls」で検索

した上で、関連性のない文献を除いた結果である。最終訪問期間 2013 年 2 月 28 日。

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どまっている。

図 2-1 は、中国語、日本語および英語で公刊されている学術雑誌のうち、ロールズ研究の

論文が掲載されたものの分野をまとめたものである。中国では政治学分野の雑誌が 61%で

あるのに対して、日本(図 2-2)および欧米(図 2-3)では哲学や倫理学分野の雑誌に掲載

されており、ロールズの正義理論が規範理論として検討されている。このことは、日本や

欧米の社会科学研究において規範理論が重視されている傾向を示す一方で、中国における

法に対する政治の優位性、つまり、中国では規範理論による正当化よりも政策的主張、現

実的妥当性による実践的正当化が優位にあるという現状を示している。もっとも、中国で

も近年、政治的事情や経済的事情に従属せず独立した「法治主義」および「法治国家」へ

の転換が課題として認識されるようになっている。中国における政治学、社会哲学分野の

研究は、「摸着石頭過河(石に触りながら川を渡る。つまり、規範理論における正当性に関

係なく、実際にやってみながら、政策等の内容や方法の妥当性を検討する)」であり、「事

後説明」のためのものと考えられている。つまり、法学や他の社会科学は、事後の説明に

よって実施された政策等の正当性を調達するためにある、と理解されているわけである。

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「事後説明」の特徴は大きく三つにまとめてみると、第 1 に結果を重視すること、つま

り、政策の妥当性をその結果のみから判定するという帰結主義に陥りやすいことがある。

たとえば、目的が合理的であれば手段も合理的であり、結果が合理的であれば原因も合理

的であり、あるいは部分的に合理的だといえれば全体的に合理的だということになる。第 2

に、結果の総量の最大化が重視される。政策の妥当性は、その政策によってもたらされる

利益や社会的効用が単純に加算された総量で判定するという功利主義に陥りやすい。第 3

に、経験論的現実主義に陥りやすいことがある。このことは、鄧小平が「不管黑猫白猫,

捉到老鼠就是好猫(白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕る猫がよい猫である)」と述べたこと

にも象徴されよう。中国における政治学分野では、功利主義や現実主義が批判的検討を経

ることなく受け容れられており、近年になってようやく、中国における現実の政治的課題

を解決するための理論的探究として、自説の合理性を論証する際にロールズの正義理論が

用いられるようになってきたわけである。他方、法哲学分野においてロールズの正義理論

が参照される場合は、現実の政治的課題とは別に、理論的に自立した規範的妥当性の論証

が試みられているように思われる。

功利主義や経験論的現実主義により経済発展に成功した中国では、政治や法制度を正義

理論等の原理主義的規範理論によって批判的に検証することへのコミットメントがまだな

い。直截にいえば、中国の政治や法制度の領域では、ロールズの正義理論を帰納的に捉え、

現実の政治的課題を解決するための政策の妥当性を事後説明しようとするのに対して、日

本や西欧諸国の法学および法哲学分野では、規範の妥当性を分析するために、正義の諸原

理へのコミットメントを演繹的に導き出す。政策や法制度の正当性を経験に求めるか、普

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遍的原理に求めるか、という相違でもあり、正当性を経験に求める中国においてむしろ普

遍的原理に求める必要性が理解されるためには、検討されるべき課題が少なくない。

その一方で、功利主義に基づく政策により最大多数の最大幸福を達成しようとするなら

ば、少数者を犠牲にする危険性がある。ロールズは、功利主義に対する批判から正義理論

を展開する。ロールズの正義理論が中国においても注目されるようになったとはいえ、あ

くまでも理論の紹介にとどまっており、今のところ、中国の政治や法制度に影響をまった

くおよぼしていないといえる。

中国は、清朝末期にヨーロッパの功利主義と遭遇して以来、その模倣を続けている。

功利主義に依拠し続ける限り、適理性(reasonableness)を軽視して、目先の利益の合

理性(rationality)のみを追求することになる。国家の将来、人々の将来は、見えざる

手により簡単に操られてしまうようになる。西欧諸国であれ、合衆国であれ、資本主義

国家としての成功の背景には確かに功利主義的要素もあった。しかし、そこでは同時に、

功利主義に対する批判、非功利主義的政策があったことも事実であり、このことは中国

においては理解されていない。中国の政治学分野は、いまでも功利主義を重視し、それ

を正当化する経験論的現実主義に支配されており、功利主義を批判するために著わされ

たロールズの「公正としての正義」の意義は十分に理解されてはいないのである。

欧米諸国においても、資本主義が発達するにともなって、様々な社会的格差が顕現して

きた。その現実の政治的課題に対応する際に、現代正義論が一定の示唆を与えてきた。欧

米諸国では、資本主義による自由競争の追求と、福祉国家としての公共財の再分配という、

相反する要請に応じうる合理的な政策が求められてきた。その一方、中国では、資本主義

による自由競争の結果としてではなく、都市部と農村部の二元管理モデルの採用等、政策

や法制度の結果として社会的格差が拡大し、固定化していることは、既述のとおりである。

そこで、このように欧米諸国とは政治的事情、政治文化の異なる中国において、現代正義

理論が果たしうる役割、あるいは役割を果たすための条件等について検討するときには、

これまで紹介してきた中国の実情から明らかなように、是正されるべき格差は経済的なも

のに限られないし、格差の背景には中国の政治文化の問題があることを見逃すことはでき

ないのである。そこでは、経済的格差、地域間格差、世代間格差等とも密接に関連してい

る社会的格差を是正するためには単に経済的不公平のみならず、差別意識や差別感情の問

題も直視しなければならないことを改めて強調することになろう。

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第1章 ロールズ正義論の拡張可能性のための哲学的再考

はしがき

本章では、現代正義論が欧米諸国の社会的公正の実現において果たした役割を検討する。

そのため、ジョン・ロールズの『正義論』を端緒とし、1970 年代以降、とりわけ英米にお

いて展開された議論を再整理し、その法哲学的な重要性や意義について確認する。ただし、

その際には特に、一方ではロールズの議論を高く評価しつつも、他方では配分的正義とそ

の規範的要請をめぐる議論としてそこではもっぱら経済的格差を是正するための公正な配

分の問題に基本的な焦点があることの意味や限界についても考えてゆきたい。

第1節 再考の背景(Ⅰ)配分的正義の文脈

第1款 ロールズの配分的正義の概観

正義理論には、(歴史的な)結果としての不公正な現状を匡正すべきとする「匡正的正義

corrective justice」42、司法プロセスをとおして「応報的正義 retributive justice」から「修

復的正義」への転換を図るべきという議論等々、様々な主張内容が含まれているが、現代

においては、自由と平等の保障、財産権の保護を基調としつつ公共財の公正な配分によっ

て社会的格差を是正するべきという立場が基軸となっている。正義理論の代表的論者であ

42 「匡正的正義」について、思想史の視点からすれば、アリストテレスの正義概念上のつなが

りがある。アリストテレスはJustice in the Soulに対して、正義(Justice in the City)をGeneral Sense という意味での「全般的正義」と Particular Sense という意味での「部分的正義」に分

けた。部分的正義とは「完全な徳(テレイア・アレテ)」の一つとしての正義である。これは配

分的正義と匡正的正義に分けられる。配分的正義は配分における「正しさ」に関わるものに対

して、匡正的正義は、もろもろの人間関係の中での価値的要素に関わらず生じた不正を正すた

めの矯正的なものなので、矯正的正義とも呼ばれることもある。裁判官は、一方から利得を奪

うことによって罰という損失でもってその均等化を試みるという意味で、原状回復を目指すの

である。アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(上)』(岩波文庫, 1971)第 5 巻第

1 章 173, 182 頁参照。「配分的正義」と「匡正的正義」との区別について井上達夫は次のよう

に考えた。「配分的正義が複数主体間での利益、負担の配分の問題を扱っているのに対し、匡正

的正義は犯罪や契約不履行などの不当な加害や不当利得をめぐる補償(刑罰も含めて)の問題

に関わる。匡正的正義においては、各人の「価値」ではなく、彼が他者に与えたり他者から受

けたりした損害や利益に応じた補償が要求される。」井上達夫『共生の作法』(創文社, 1986)37 頁。また、アリストテレスの正義論について Hardie, W. F. R. 1980. Aristotle’s Ethical Theory. 2nd ed. Oxford U.P., Cf. Ch10; 岩田靖夫『アリストテレスの倫理思想』(岩波書店, 1985)第7章参照。

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るジョン・ロールズは、市民間の様々な格差の是正を重要な課題としており、欧米諸国の

法思想史、政治思想史における現代正義論も、市民社会と国家の相互的あるいは補完的関

係を強調することにより、経済的格差の是正を試みている。つまり、現代正義論は、各人

それぞれがもつべきものを国家が各人に公正に配分することにより、社会的格差の是正、

あるいは社会的公正の実現を図る方向に収斂しつつあるといえよう。

ロールズは、人間の存在そのものを尊重すべきとし、各人の自由を確立するための配分

的正義を主張する。正義の原理は、「社会の基礎的諸制度における権利と義務との割り当て

方を規定するとともに、社会的な協働がもたらす便益と負担の適切な配分」を規定する(TJ,

p. 4/7 頁)。また、「基本的な権利と義務を明確に定め、適切な配分を決定するところに、正

義の構想の際だった役割がある(TJ, p. 6/10 頁)」。もっとも重要な正義理論の主題は、「主

要な社会制度が基本的な権利と義務を配分し、社会的協働が生みだした相対的利益の配分

を決定する」ことであり、もっとも重要な正義の諸原理の主題は、「制度における権利と義

務の割当を規律し、社会生活の便益と負担の適正な配分を決定する」ことにある(TJ, pp. 47,

53/75, 84 頁)。

自由の配分という課題は、自由を確立するための条件の配分という課題へと転換される。

ロールズによれば、人々は、どのような生き方をするにしても必要となる権利、(conception

としての)自由43、(就労や教育の)機会、所得や財産、人格的基盤となる自尊心等々の「社

会的基本財(social primary goods)」を有することを同様に期待している。それぞれの経済

活動の結果として有している財産は人によって異なるが、まさにそのために、社会的基本

財の配分によってその格差を是正しなければならない。社会的基本財の配分が公正といい

うる為の条件として、ロールズは、以下のような「正義の二原理」を提示した。

第 1 原理

各人は基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は、他の人々

の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない

(基本的自由の平等)。

第 2 原理 43 「概念構想 conception としての自由」という言葉は、「概念 concpet としての自由」との比

較という文脈、つまり、ロールズによれば、「概念 concpet としての自由」は「一体として、

つまり一つのシステムとして評価される」よう使われている。(Cf. TJ, p.178/275 頁)

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社会的・経済的不平等は次の二条件を満たすものでなければならない。

⒜ それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること(格差原理)。

⒝ 公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付

随するものでしかないこと(機会均等原理)。

第 1 原理は、基本的自由の平等を説く。基本的自由は、他者の自由を侵害しない限り、

最大限度許容されるべきであり、基本的自由としての諸権利——良心の自由、信教の自由、

表現の自由、集会の自由等44——は、あらゆる人々に平等に保障されなければならない。第

1 原理における自由は、いわゆる消極的自由、国家からの自由を意味している45。第 2 原理

は、社会的・経済的不平等が許容される条件を説く。その条件は、格差原理と機会均等原

理からなる。格差原理とは、もっとも不遇な立場にある者の利益を最大にするよう是正し

た結果として生じた不平等であれば許容できる、というものである。他方、機会均等原理

は、何らかの職位や地位に就く機会がすべての人々に平等に保障されている結果として生

じた不平等であれば許容できる、と説く。

これらの原理の適用対象については、以下のように要約できよう。すなわち、第 1 原理

において平等に保障における基本的自由とは、消極的自由である。第 2 原理のうち、格差

原理が適用される対象は所得等の財産であり、機会均等原理が適用される対象は就労の機

会である。このような正義の二原理は、人々の尊厳を尊重するために適用される。ロール

ズは、第 1 原理が第 2 原理よりも優先されると説く。第 2 原理の機会均等原理のみならず、

第 1 原理と格差原理を合わせて配分的正義と捉えることが可能である。すなわち、第 1 原

44 基本的自由としての諸権利として、政治的自由(投票権や公務就任権)、言論および集会の自

由、思想良心の自由、心理的抑圧および身体への暴行・傷害からの自由を含む人身の自由、財

産の自由な処分等の財産権、逮捕や押収等の不利益処分における適正手続等があげられている。

(Cf. TJ, p. 53/85 頁;PL, p. 291); Pakaluk, Michael. 2003. “The Liberalism of John Rawls: A Brief Exposition.” In Liberalism at the Crossroads: An Introduction to Liberal Political Theory and Its Critics, ed. C. Wolfe and J. Hittinger, 10-1. 2nd ed. Rowman and Littlefield.(菊地理夫ほか訳)「ジョン・ロールズの自由主義」『岐路に立つ自由主義』(ナカニシヤ出版, 1999)29-30 頁参照。

45 消極的自由は、罪刑法定主義や適正手続の保障を含む人身の自由、良心の自由や信教の自由

等に代表される精神的自由、所有権の保障、職業選択の自由、営業の自由等に代表される経済

的自由に大別される。

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理は自由の平等な配分を、第 2 原理の機会均等原理は機会の平等な配分を意味している(Cf.

TJ, pp.53, 65-73/102-14 頁;PL, p. 5.)。

第2款 ロールズの配分的正義の位置づけ

正義の二原理は、基本的に配分をめぐるものである。第 2 原理は「所得と富の配分およ

び職権と責任の格差を活用した諸組織の設計」という意味で適用されるが(TJ, p.53/85 頁)、

この具体的かつ方法論的な原理に対して、第 1 原理は、抽象的かつ原理的な意味で第 2 原

理に先行するものとされている。正義の原理の役割は、「相互の相対的利益を配分する規則

を定めるための規則」とされる(§1)。つまり、利益を配分するために考えうる社会的諸制

度(arrangements)を選択する際に、より適正な配分に関する合意を確定するため、これ

らの諸原理が必要となる。第 1 原理における基本的自由の平等な配分を踏まえ、さらに「便

益と負担の適切な配分」において格差原理および機会均等原理が必要となる(TJ, pp.4, 53,

245/7, 86, 372 頁)。第 2 原理の主要な関心が「公共財の公正な配分」にあるのに対して、

第 1 原理の主眼は「基本的自由の平等な配分」にある。これらを通じて、ロールズは、効

率性(パレート最適かどうか)のみによる配分は公正ではないと批判し、公共財の配分が

歴史的、あるいは社会的な運/不運、つまり偶然性に左右されることのないようにすべき

であり、生まれつき高い能力を有する人々に公共財をより多く配分する正当な理由はない、

と説いている(§12)。また、ロールズは、政治的平等について、「歴史的に見て、立憲政体

の主な欠陥の一つは、政治的自由の公正な価値を確実なものにできなかったことにある。

この欠陥を修正するために必要な措置はとられてこなかったし、実のところそれらが真剣

に検討されることもなかったように思われる」と述べている。つまり、社会的格差の問題

は、「政治的平等と両立可能な程度をはるかに超えて拡大した、所有および富の配分の格差

は法システムによって概して容認されてきた」ことにあるわけである(TJ, p.199/306 頁)。

ロールズによる配分的正義の意義は、効率性を基準に正義を論じる功利主義を批判し、

正義を実現する社会制度を確立するための諸原理を公正性から導き出すところにある。ロ

ールズは、功利主義を批判する際に、功利主義やそれによって導き出される功利原理が現

実の人々の「人格の区別」を軽視しているとし、功利主義の根底に潜む「非民主的」性格

を強調している。これは、ロールズが「人格の区別」を軽視していると批判されたことに

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応じたもので46、ロールズは、人々それぞれの政治的意見や立場を尊重し、その配分が正当

化される理由について説明を求める請求権を認めることにより、「人格の区別」を重視して

いる、と主張している47。 46 例えば、コミュニタリアニズムは、リベラリズムそれ自体に対して「個人主義的自由主義が

共同体の崩壊、またそれに伴う人間関係の希薄化と人間的主体性の貧困化をもとらすのではな

いか」という根本的な疑問を投げかける。個人の自由や個々人の福祉が重視されるあまり、人

間社会のさまざまな共同体において人々の関係はひずみ、結びつきは弱くなり、ひいては倫理

観念の希薄化と政治的無力感が社会全体をおおうようになるという。コミュニタリアニズムは

自由や権利の規範基準などが公共空間の中で形成されると特に強調し共同体の復権を求める。

チャールズ·テイラーは次のアリストテレスの見解を擁護する。「人間は社会的動物であり、確

かに政治的動物である。なぜなら、人間はただ自給自足だけではなく、重要な意味では人間は

ポリス以外に自給自足しないのである。」Taylor, Charles. 1985. Philosophy and the Human Sciences: Philosophical Papers II. Cambridge U.P., Cf. p.190. M・サンデルは別の目的(ends)よりむしろコミュニティーに貢献する方式としての権利という視点から、共同体から遊離した、

社会の範囲外において自分自身のニーズに備えることができるという原子論的な個人主義的自

由観、権利観の考えを「負荷なき自己 unencumbered self」として批判した。Sandel., Michael J. 1998. Liberalism and the Limits of Justice. 2nd ed. Cambridge U.P., Cf. p.143. Mulhall, Stephen, and Adam Swift. 1992. Liberals and Communitarians. Blackwell, pp. 40-2.(谷澤

正嗣・飯島昇蔵訳)『リベラル・コミュニタリアン論争』(勁草書房, 2007)49-50 頁参照。コ

ミュニタリアニズム自体は、具体的問題の解決策として基本的に 2 つの様相を示す。一つが、

特定の共同体社会の歴史や伝統の中に埋め込まれた自己(embedded self)の善き生の構想の

共通性による共同善(common good)を、構成員たる諸個人のアイデンティティの条件および

自己実現の指針として維持・発展させることを政治の目的とする保守的な歴史主義的傾向であ

る。例えば マッキンタイアーは、「歴史の主体」または「誕生から死までを貫くある物語の主

体」として、道徳的もしくは倫理的価値判断の基準を特定の社会の外部に要請する試みを批判

し、「普遍性への熱望は幻想である」と断じる。A. MacIntyre, 1981, After Virtue, G. Duckworth & Co. Ltd., Cf. pp.119, 203, 206.もう一つは、公的事柄への市民参加と市民社会の民主的自己

統治に共同性を再構築し、相互関係性の中で市民としての徳性とその陶冶をめざす参加民主主

義的傾向である。参加民主主義について、例えを参照。松下冽、「グローバル・サウスにおける

ローカル・ガヴァナンスと民主主義——参加型制度構築の視点と現状」立命館国際研究第 20巻 3 号 153-96 頁(2008)。

46 ケイパビリティアプローチの理論構築によれば、貧困に陥らないために必要な所得は、個々

人の潜在能力、つまり個人的状況(例えば年齢や性別、天賦の才能や障害の有無等)と社会環

境(例えば社会変動、家族内の地位等)によって異なるのである。異質で多様な人間存在は、

たとえ人々が等しく財をもつとしても、潜在能力に変換される際に生活の質(Quality of Life)の多様性に即して、全く異なる「幸福の価値」を見つけるのである。Amartya Sen, 1999, Development As Freedom. Oxford U.P., Cf. p.109.発展の基本的な目標が人々の健康な生活、

創造的な生活、あるいは長寿社会におかれるならば、物資や財を蓄積し、増大させることに対

する関心は低くなる。一般的に資源や所得は、人間の能力に重要な影響をおよぼすけれども、

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以上のような、配分をめぐる現代の正義理論、とりわけロールズの正義の二原理を理解

する際に留意すべきなのは、以下のことである。第 1 に、ロールズにとって、社会的格差

は、第 2 原理の適用により「各人の便益となるように社会的、経済的不平等の調整」問題

とされていることに留意しなければならない。これは、第 1 原理から導かれる基本的自由

の平等な保障に対する侵害が社会的・経済的利益の増大によっては正当化されえないこと

を意味している(TJ, p. 54/85 頁)。その一方で、公共財の配分における公正な配分の要求

は、正義に適った諸制度の確立と、それによる公正な配分の維持管理の要求でもある。し

たがって、正義の実現には、正義に適った諸制度を確立しそれを維持するために必要な条

件もありうるところである。しかしながら、ロールズは、この条件については明らかにし

ていないように思われる。ロールズが議論を展開している欧米において既に確立されてい

る政治的諸制度を前提に、正義に適った諸制度を確立するならば、ある制度が正義に適っ

ているかどうかについてのみ検討すればよいかもしれない。だが、既にある政治的諸制度

が欧米におけるものと異なる場合、つまり中国の政治的諸制度、あるいは中国の政治文化

において、正義に適った諸制度を確立し維持するためには、さらに別の理論装置が必要と

なるかもしれない。

第 2 に、ロールズの説く正義の二原理は、個々人の行動ではなく、制度に関する原理だ

ということである。正義の二原理は、制度および政策の妥当性の判断基準であり、既存の

政治的諸制度に照らして現実的実効性を有するものとして構想されている。そして、正義

の二原理が適用されるのは、特定の個人ではなく、既存の政治的諸制度における職務およ

び地位のあり方についてである(TJ, p. 56/88-9 頁)。したがって、ここでは正義の二原理

の適用範囲を確定するため、個人と制度それぞれの範囲を明らかにする必要があろう。例

えば、死の意味づけが個人に委ねられるべきか、あるいは社会的に付与されるものなのか

潜在能力アプローチは、幸福を判断するにあたって、それらが考慮すべき唯一の要素ではない

ことを認識させ、正義や平等について検討する際に、良い生活をおくるための手段を確保する

ことから尊重すべき実際の生活を維持、向上させることへと視点を転換させる。たとえ選択の

自由が手段としてのみ評価されたとしても、個々人が享受する自由の広がりは、善い社会にと

ってきわめて重要な考慮要素になる。(池本幸生ほか訳)『不平等の再検討』(岩波書店, 1999)236-7 頁参照。

47 ロールズの功利主義理解と彼の功利主義批判の意義について、最新の考察は以下参照。池田

誠「ロールズの功利主義批判と「人格の区別の重視」」北海道大学文学研究科研究論集 10 号 21-33(2010)

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は、一概に決められない問題である。とすれば、安楽死、尊厳死あるいは自殺も含め、人々

の死をめぐる自己決定が個人の問題にとどまるのか、社会的問題ともいえるのかも明らか

ではない。基本的自由の平等な保障を説く第 1 原理が第 2 原理に優先するとしても、死を

めぐる自己決定に第 1 原理のみが適用されるのか、第 2 原理も関わらざるをえないのか、

さらには、先天的障害者には格差原理が適用されるとしても、何らかの自己決定の結果、

後天的に障害を抱えた人々にも格差原理が適用されるかどうか等々、正義の二原理の適用

範囲、あるいは理論的射程に関する様々な検討課題が残されている。したがって、正義の

二原理の理論的射程とその拡張可能性も含めて、ロールズの正義理論について再考する必

要がある48。

さらに、ロールズの正義理論を理解するには、それが含んでいる平等の要請についても

検討する必要がある。平等の概念は、正義の構成要素であり、配分的正義と密接に関係し

ている49。ロールズの正義の二原理は、明らかに、自由や機会そして富の平等を求めている。

したがって、ロールズの正義理論を再考するための準備として、現代正義論における平等

概念を概観し、公正な配分における平等概念の役割を分析することが重要であるが、この

問題は節を改めて論ずることにする。

48 ロールズ正義理論の適用範囲について、例えば社会契約論の限界を十分に考察していないと

いう批判があるが、「動物、胎児、生まれつき身体障害者や知的障害者は、相互性と結びつけ

られた道徳の射程内には属していない」ということになり、通常の道徳が取り上げる主要な問

題が、その射程外に放逐されることになる。David Gauthier, 1986, Morals by Agreement, Oxford U.P., p.268.(小林公訳)『合意による道徳』(木鐸社, 1999)317 頁。また「動物や

自然の保護」の問題に対して、「信頼者関係 trusteeship」のような他種の契約論で捉えよう

とする試みがある。Thomas M. Scanlon, 1998, What We Owe to Each Other, Harvard U.P., p.221.これらに対して、ロールズ自分は正義論の「一つの拡張」として、「『公正としての正

義』の要諦は、善の定義を道徳的善さというさらに大きな問題にまで拡張する道を用意してい

くれる」と考えた(Cf. CP, p.531; TJ, p.384/575 頁)。 49 平等の概念は、道徳および一般的な正義、とりわけ配分的正義と緊密な関係にある。古代よ

り、平等は正義の構成要素として検討されてきた。配分的正義の文脈での平等その概念史につ

いては、欧文の参考文献、David Thomson, 1949. Equality, Cambridge U.P.; Georg L. Albernethy (ed.), 1959. The Idea of Equality, John Knox; Stanley Benn, 1967, “Equality, Moral and Social,” in: Encyclopedia of Philosophy, ed. by Paul Edwards, Macmillan, Vol 3. pp. 38-42; Otto Dann, 1975, “Gleichheit”, in: Geschichtliche Grundbegriffe, ed. by V. O. Brunner, W. Conze, R. Koselleck, Klett-Cotta, pp. 995-1046; Henry Phelps Brown, 1988. Egalitarianism and the Generation of Inequality, Clarendon.

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第2節 再考の背景(Ⅱ)平等的要請の文脈

第1款 経済的社会的領域における平等の意義:公正な配分

平等の概念は、正義と密接な関係にある。それがどのようなものであれ、人間の平等を

前提としない正義はありえない50。ロールズがくり返し指摘しているように、公正としての

正義は、「平等への傾向性」を著わしたものである51。ロールズによれば、人格的存在とし

ての個人には、「正義に基づく不可侵性 inviolability founded on justice」が認められ、「社

会福祉 welfare of society」によっても、あるいはそれを実現するための合目的的手段によ

っても、侵害されてはならない。ロールズは、このような社会では「平等な市民権 equal

citizenship」が確立されている、と述べる52。現代正義理論は、社会的・経済的格差を是正

するための公正な配分をめぐるものであり、その主眼は、平等の概念を自由権保障の文脈

で拡大し、社会権の比重を高めることにあった。配分的正義における平等は、経済的平等

を達示するための必要条件、あるいは基準として語られる。すべての人々に公共財やサー

ビスを同等な物質的水準で配分するという経済的平等は、もっとも厳格な配分的正義の立

場といえるが、現在ではあまり支持されていない。現在ではむしろ、経済的自由とのバラ

ンスに配慮した平等のあり方が追求されている。しかし、こうした議論では、何をもって

平等とするかを明らかにするため、平等を測る範囲を確定する必要性が説かれている。こ

のような平等の概念をめぐる議論は、配分的正義にどのように影響するのだろうか。以下

では、平等に関する 6 つの主要な概念をまとめ、それぞれが提供する配分的正義の帰結に

ついて検討する。

⑴ 功利的平等 功利主義は、道徳的平等を具体化しようとする理論と捉えることもで

きる。このように理解する限りにおいて、あらゆる人々が個人とみなされ、人々それぞれ

の具体的境遇を考慮することなく、あらゆる人々を平等に配慮することにつながる53。具体

50 碓井敏正『現代正義論』(青木書店, 1998)37 頁。 51 デヴィッド・メイペル(塚田広人訳)『社会的正義の再検討』(成文堂, 1996)8 頁。 52 藤井吉美『正義論入門』(論創社, 1979)227-8 頁参照。 53 W. Kymlicka, 2002. Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Oxford U.P., p.

32. (千葉眞ほか訳)『現代政治理論』(日本経済評論社, 新版, 2005)29 頁。Richard M.Hare, 1981, Moral Thinking: Its levels, Method and Point, Oxford U.P., p. 26.(内井惣七・山内友

三郎監)『道徳的に考えること レベル・方法・要点』(勁草書房, 1994)41 頁。Amartya Sen, 1992, Inequality Reexamined, Clarendon Press, p. 13.(池本幸生ほか訳)『不平等の再検討

——潜在能力と自由』(岩波書店, 1999)18 頁。

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的境遇を考慮しない徹底した平等によって、すべての人々の個人的利益の集合としての全

体的利益を形成しうる。その結果、道徳的に正しい配分は功利性を最大化する、というこ

とになる。

しかし、功利主義の説く平等の概念は、様々な論者から批判されてきた。例えばロナル

ド・ドゥオーキンは、個人の選好が「権利」や他人の意思の価値を縮減させる場合がある

にもかかわらず、「利己」と「外部的選好」を含むすべての欲求が功利的計算に取り込まれ、

それらの選好が等しく評価されているが、このことは、平等な待遇に関する日常の理解と

一致しない、と指摘している54。またウィル・キムリッカは、自己の欲求を充たすために他

人がみずから犠牲になってくれると期待することができない以上、「他者に正当に帰属する

ものを奪うような選好は、日常的な道徳的見解では重要性を持たない」と説く55。むしろ、

一般的理解によれば、平等な待遇は、平等な権利と資源を基底とするものであり、他人か

らいかなる要求があろうとも、その平等な権利と資源を該当者から取り上げることを認め

ていない。しばしば、ロールズに倣って、正義と衝突する利益には価値が認められない、

と説かれるが(Cf. TJ, pp. 31, 450/50-1, 673 頁)、この立場では、不当な選好が人々の様々

な主張を歪めることはない。功利主義は、公正な配分という概念を欠いている以上、人々

を等しい存在として扱うという目標を達成できない。ロールズが説くように、功利主義は、

人々の個人としての独立性を無視しているのであって、道徳的平等の適切な解釈とはいえ

ず、すべての人々に対する等しい配慮を欠くものである(TJ, p. 27/44 頁)。

⑵ 厚生の平等 厚生もしくは福祉の平等という概念によれば、正義の実現は、個人の

幸福が等しくなることによって可能となる。正義に適うとされる基準は、厚生水準の均等

化、つまり、すべての個人が配分された資源の利用をとおして獲得する効用が、結果的に

均等になっていなければならない、というものである。しかしながら、ドゥオーキンが批

判するように、厚生水準の均等化が達成されているかどうかの判断はきわめて困難であっ

て、功利主義と同様の問題が生ずる。厚生水準の達成が主観的に判断されるならば、すべ

ての人々の選好を一つのものとみなすことにはあまりにも無理がある。ジョエル・ファイ

54 R. Dworkin, 1977, Taking Rights Seriously, Harvard U.P., Cf. p. 234.(木下毅ほか訳)『権

利論』(木鐸社, 2003)313 頁参照。 55 W. Kymlicka, 2002. Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Oxford U.P., p.

42. (千葉眞ほか訳)『現代政治理論』(日本経済評論社, 新版, 2005)41 頁。

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ンバーグによれば、厚生の平等という概念のさらなる重大な欠点は、自分自身の幸福を功

績や個人の責任に基づいて考慮することである56。

⑶ 権原の平等 リバタリアニズムや経済的自由を重視する立場は、財の配分を最小限

にとどめるべきだと主張する。リバタリアニズムの代表的論者であるロバート・ノージッ

クや、経済的自由を重視するフリードリヒ・ハイエクは、いずれもロックによって説かれ

た自由および財産に対する権原の意義を高く評価し、自由主義経済を擁護する立場から、

過度な再配分や社会権の拡大に反対している57。自由および財産に対する権利は、国内外の

平和維持という目的のみによって制限されるにすぎない。このような立場からは、平等と

自由は必ずしも調和的ではなく、むしろ対抗関係にあることになる。こうしてリバタリア

ニズムは、国内秩序の維持が国家の唯一の役割、あるいは義務である、と説く。リバタリ

アニズムは、所有者のいない土地、モノに労働が加えられることにより、労働を加えた者

の所有が認められるという、自然権としての自己所有権を主張する。このようなリバタリ

アニズムの立場において、課税は、労働の結果をとりあげるものである。労働の結果がと

りあげられるということは、課税する国家のために無償で労働していること、すなわち国

家の奴隷となっているに等しい。自己の所有者は自己のみである、という考え方が自己所

有権リバタリアニズムの基盤となっている。ロバート・ノージックは「歴史的権原理論 the

historical entitlement theory」に基づいて、公正な財の配分として、適正な原始取得、自

由市場での交換による移転、そして過去の不正義を矯正するための再配分をあげている。

つまり、所有権が適正に取得された場合、経済的取引のような自由意思によって所有権が

移転される以外、所有権は侵害されてはならないが、歴史的に不正な所有権の移転を匡正

することは、公正な財の配分といえる58。ロックは、他人に「充分かつ良い」モノが残され

ている限り、すべての個人がこの自己所有権を要求できる、と説く。このように、自己所

有権を中心に観念される財産権は、個人にとってきわめて重要な自然権に位置づけられて

いるが、リバタリアニズムは、自由市場を擁護し、平等を確立するために公共財を再配分

56 Joel Feinberg, 1970, “Justice and Personal Desert,” in: J. Feinberg, Doing and Deserving,

Princeton, reprinted in: Louis P. Pojman & Owen McLeod (eds.), What Do We Deserve? A Reader on Justice and Desert, Oxford U.P., 1998, Cf. pp.70-83.

57 碓井敏正『現代正義論』(青木書店, 1998)「ノージックにおける正義」一節 174 頁以下参

照。 58 Robert Nozick, 1974, Anarchy, State and Utopia, Basic Books, p.150.

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するという税制等に反対している。ここでは、リバタリアニズムは交換的正義を重視して

いるわけである59。

これに対して、ドゥオーキンは、個人の権利の平等な保障を「個別化された政治的目的

an individuated political aim」や「政治的切り札 rights as trumps」とし、経済的な一般

目標に優先させる。個人の権利は、公共の福祉の増進、あるいは社会全体の利益の拡大と

トレード・オフの関係にはない、と説く。「政治的権利というものは個別化された政治的目

的である。ある政治的決定により、他のいかなる政治的目的も促進されず、またある種の

政治的目的がそれによって妨げられる場合でさえ、個人が権利を享受している状態を当の

政治的決定が促進ないし保護しうることを理由に支持され、逆に、他の政治的目的がそれ

により促進される場合でも、その決定が上記の状態を遅延ないし阻害することを理由に拒

否されるようなとき、個人は一定の機会・手段または自由に対する権利を有すると言える

のである。これに対し目標とは個別化されていない政治的目的であり、すなわち、ある状

態を目的として特定しても、上記のような仕方で特定の個人に特定の機会・手段ないし自

由を要求することのないような事態を意味する」60。「権利は、全体としての共同体にとっ

ての目標を述べる政治的決定の背景的正当化を覆す切り札と理解するのが最善である。も

し、ある人が道徳的独立性への権利を有しているとすると、かりに、その権利を侵害する

ことによって社会全体の福祉が向上すると信じられる場合でも、政府がそうすることは不

正である」61。

59 権原的正義に立脚したノージックは主に 2 つの反論からロールズを批判した。すなわち第 1に、財が誰にも所有されておらず、一定の正義の概念構成に基づく配分を待ち構えている状態

で、世に出現する、と前提している点で、ロールズが誤っている。第 2 に、ロールズが想定

するような種類の国家は、個人的な事柄に不断に干渉することになる、というのである。しか

し、かれからの反論はロールズの議論を曲解していると言われて、かれの主な業績は、リバタ

リアニズムによる 1 つの対抗的選択肢の大枠を明らかにしたことにあるのであって、ロール

ズ理論の土台を揺るがしたことにあるのではないのである。Chandran Kukathas, Philip Pettit, 1990, Rawls: A Theory of Justice and Its Critics, Stanford U.P., pp.90-1;(山田八千

子・嶋津格訳)『ロールズ「正義論」とその批判者たち』(勁草書房, 1996)137 頁。 60 R. Dworkin, 1977. Taking Rights Seriously, Harvard U.P., pp.90-1(木下毅ほか訳)『権利

論』(木鐸社, 1986)111 頁。 61 R.Dworkin, 1985, A Matter of Principle, Harvard U.P., p.359.(森村進・鳥澤円訳)『原理

の問題』(岩波書店, 2012)423 頁。

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このように、リバタリアニズムに対する反論の主な論旨は、「所有権を取得しうる条件は

他の誰の状況も悪化させないことである」というロックの但書(Lockean proviso)の解釈

が緩すぎる、というものである62。他の誰の状況も悪化させないという条件は、きわめて曖

昧であり、所有権の取得や処分が実質的に無制限であることは認められない。また、リバ

タリアニズムでは、結果に対する影響として、自己の自由な決定よりも、運、天賦の能力、

遺伝的能力、社会的身分等を重視していることになる、との批判もある。容認できる平等

が機会の平等のみだということは、自己決定の機会を重視しているようだが、実際には、

自己決定の人生に対する影響を軽視しているからこそ、運や天賦の能力等の格差だけを是

正すればよい、ということになる。配分的正義において、機会の平等は最小限の要求であ

り、一般的にはそれ以上の内容——すなわち生活条件の平等(最低限度の生活)が要求さ

れている。リバタリアニズムは、いわゆる「国家からの自由」をもっとも重視し、国家の

役割を最小限に抑えようという立場だが、現在では、さらなる社会的・経済的平等を確立

すべきである、というリベラリズムが主流となり、平等をめぐる議論の方向が転換してい

る。この転換により、自由や財産に関する自己の権利が保障されるだけでなく、自由権を

実質的に享受する機会がすべての人々に提供されることになる。一定の基本財は、公平性

あるいは「基本的な自由の公正な価値」を保障するために提供されるべきである(Cf. PL, pp.

356-63)。

⑷ 社会的基本財の平等 ロールズによれば、どのような生き方をするにせよ、各人に

は権利、自由、収入、富、権力、機会、自尊等の諸要素が必要であり、社会制度を編成す

る際に、これらの基本的要素の平等に配慮せねばならない。社会全体として配分されるべ

きこのような基本的要素を、ロールズは社会的基本財という。正義の二原理の適用順位に

則して、これらの社会的基本財では自尊がもっとも重要であり、「公正としての正義」の基

礎をなす道徳的真理において中心的地位を占めるため、正義の二原理がすべて適用される

という意味での平等が確立されなければならない。自由や権利といった基本財は、憲法を

制定する際に、第 1 原理に基づいて均等に配分される。しかし、収入や富、あるいは機会

62 W. Kymlicka, 2002. Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Oxford U.P., pp.

114-120. (千葉真ほか訳)『現代政治理論』(日本経済評論社, 新版, 2005)168-71 頁。

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といった基本財には第 2 原理が適用され、実際の社会状況に応じて、もっとも恵まれない

人々の状況をより改善する場合に限り、不平等な配分が許容される63。

ロールズの説く社会的基本財の平等については、「健康、活力、知性および想像力等」と

いった「自然的基本財 natural primary goods」、 すなわち、天賦の能力等の配分、あるい

はハンディキャップを負っている人々等、生まれながらに不利な立場について考慮が足り

ないとの批判もあるが64、自然的基本財を社会的基本財と同様に配分することはできない。

このような自然的基本財の配分については、後述のように、センが、「基本的潜在能力 basic

capabilities」という概念を提示している65。センによれば、平等でなければならないのは、

人々の主観的な効用や基本財の配分ではなく、人々の基本的な潜在能力、換言すれば、人々

の潜在的な達成可能性である。主観的な満足や効用を基準とした配分では、「もっとも恵ま

れない人々」にハンディキャップを負っている人々が含まれてこない。ロールズのいう「も

っとも恵まれない人々」は、制度における身分の低い人々に限定されている。なぜならば、

「われわれとは隔たりのある人々について考えることによって、その人たちの運命が憐憫

や不安を呼び起こし、われわれの道徳的な知覚を混乱させてしまう」からである(TJ,

p.84/132 頁)。しかし、センは、これではハンディキャップを負っている人々が、フラスト

レーションを溜めないように自己の選考を社会環境に適応させる傾向にあり、それにもか

かわらず、そのように望ましいとはいえない社会環境に適応させた選考の充足を、ハンデ

ィキャップを負っていない人々の選考の充足と等価にみなして平等することは認められな

い、と説く。個人の自由な決定、自律だけでなく、環境適応的選考の問題も含めて平等を

検討するためには、「機能 functions」という概念を導入すべきであり、さらに、実際の「機

能」ではなく「機能」を果たしうる潜在能力に着目することで、ハンディキャップを負っ

63 TJ, p. 54; John Rawls, 1980, p.526. in CP, p.258. W. Kymlicka, 2002. Contemporary

Political Philosophy: An Introduction, Oxford U.P., pp. 64, 70-76. (千葉真ほか訳)『現代

政治理論』(日本経済評論社, 新版, 2005)94-5, 103-11 頁。 64 アマルティア・セン(大庭健・川本隆史訳)『合理的な愚か者』(勁草書房, 1989)250 頁参

照。アマルティア・セン(池本幸生訳)『正義のアイデア』(明石書店, 2011)367-71 頁参

照。 65 Amartya Sen, 1980, “Equality of What?”, in The Tanner Lecture on Human Values, vol. I,

Cambridge U.P., pp.197-220, reprinted in A. Sen, Choice, Welfare, and Measurement, Blackwell, 1982, Harvard U.P., 1997, pp. 353-72. (川本隆史訳)「何の平等か?」(大庭

健・川本隆史訳)『合理的な愚か者』(勁草書房, 1989)225-62 頁。

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ている人々を含む「もっとも恵まれない人々」に利益をもたらす配分について、客観的評

価が可能になるのである。

⑸ 資源の平等 ドゥオーキンは、『平等とは何か』において、「厚生の平等性」よりも

むしろ「資源の平等性」を要請するものと解釈しなければ、平等の社会的、政治的理念と

しての魅力を説明できない、と論じる66。ドゥオーキンの説く「資源の平等」は、自己の自

由な決定を重視することにより生じる問題を回避している。ドゥオーキンは、個人が自己

決定とそれに基づく行為に責任を負い、しかし自身がコントロールできない範囲——例え

ば人種、性別、皮膚の色、生まれつきの能力、社会的地位等——については責任を負わな

い、と主張する。ここでは、機会の平等だけでは不十分である。なぜなら、機会の平等だ

けでは、天賦の能力や他の環境的要因における不平等を是正できないからである。これら

の要因は、道徳的にも恣意的なものであり、調整される必要がある。ドゥオーキンは社会

の各構成員の間の完全な平等とはどのようなものであるかを、各人が所有するかもしれな

い資源と、各人の諸決定と諸行動が相互の人生の全期間にわたって他の人々の所有物にも

たらす影響を考慮して描写すること、そして、社会的背景と自然的環境という偶然性に関

して、個々人に補償することをめざしている。個人間の完全な平等性を描写するために、「資

源の競売装置」を導入し、以下のように提案する67。

ドゥオーキンの資源の平等は、ロールズの社会的基本財の平等よりも「企図に敏感

ambition sensitive」であり、「資質に鈍感 endowment insensitive」なものである68。資源

の不平等な配分は、関係者の決定と意図的行動に基づく限り公正だとみなされる。ドゥオ

ーキンは、すべての人々が等しく支払うことにより、資源の総量を計算できるとして、資

源の平等を以下のように論じている。すなわち、資源の平等が達成されている原初的な状

態とは、人々が所有している資源を比較した際に、誰もが他人のもつ資源を羨ましがらな

いような状態のことである。このような「羨望のテスト」に合格した原初的な状態は、人々

が自由市場における経済的活動に従事していくうちに、そのバランスを崩していく。人々

66 デヴィッド・メイペル(塚田広人訳)『社会的正義の再検討』(成文堂, 1996)55 頁。 67 同上書 1-2 頁参照。 68 R. Dworkin, 1981, What is Equality? Part 2: Equality of Resources, Philosophy & Public

Affairs, Vol. 10, No. 4:311. W. Kymlicka, 2002. Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Oxford U.P., p.74.(千葉真ほか訳)『現代政治理論』(日本経済評論社, 新版, 2005)108-9 頁。

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が所有する資源に格差が生じ、不平等な状態になる。では、どのような不平等が許容され、

あるいは許容されるべきではないか69。ドゥオーキンによれば、人々は、例えば宝くじを買

って当たらなかった場合のように、自分の選択の結果、すなわち選択的不運(option luck)

について責任を負う。したがって、選択的不運の帰結としての不平等を是正する必要はな

い。それに対して、例えば能力の欠如、生まれながらの身体的障害等、自分の選択とは関

係のない不運を自然的不運の帰結として生じた不平等については、何らかの補償が必要と

なる。ドゥオーキンにとって、このような区別は、過度な再配分により「有能な人々の奴

隷化 slavery of the talented」を回避し、自然的不運による個人の負担を公正に配分する重

要な概念である。なお、このような自然的不運に対してどの程度の補償がなされるべきか

を明らかにする基準として、「仮説的保険市場」が提示されている。これは、原初状態にお

かれた平均的な理性を有する人々が、自身の将来の自然的不運に備えて加入する保険の市

場であるが、ドゥオーキンは、このような保険市場で支払われるであろうと想定される保

険料負担が、現実の自然的不運に応じて保険給付されるべき金額となると主張している。

⑹ 潜在能力の平等 アマルティア・センによれば、配分的正義を基本財に関する平等

的配分に制限する、すなわち人間の異なる目標は別としてその基盤だけに正義を与えるこ

とを目的とする理論は、呪物崇拝(fetishism)として批判される。なぜなら、それらの理

論は、個人がそれらの基本財によって何を得るかということよりもむしろ基本財そのもの

だけに焦点を当てるからである70。財は客観的可能性、自然環境、そして個人能力に基づい

て、人間を支える。それゆえ、資源主義と対照的に、センは「機能を達成する能力 capabilities

to achieve functions」を配分の中心と捉える。その能力が果たす機能は、人生を成功させ

る或いは生活を指導するということである71。換言すれば、個人の幸福を評価するのは、十

分な栄養、健康、自由に行動すること、恥辱なしに公共の場に出席することなどのような

69 R. Dworkin, 1981, What is Equality? Part 2: Equality of Resources, Philosophy & Public

Affairs, Vol. 10, No. 4, pp. 283-345, reprinted in: R. Dworkin, Sovereign Virtue. The Theory and Practice of Equality, Harvard U.P., 2000, pp.65-119.(小林公ほか訳)『平等と

は何か』(木鐸社, 2002)94-167 頁。 70 Amartya Sen, 1980, “Equality of What?”, in: The Tanner Lecture on Human Values, vol. I,

Cambridge U.P., Cf. pp. 197-220, reprinted in A. Sen, Choice, Welfare, and Measurement, Blackwell, 1982, Harvard U.P., 1997, pp. 353-72. (大庭健・川本隆史訳)『合理的な愚か

者』(勁草書房, 1989)225-95 頁参照。 71 Amartya Sen, 1992, Inequality Reexamined, Clarendon Press, p.40.(池本幸生ほか訳)『不

平等の再検討——潜在能力と自由』(岩波書店, 1999)60 頁。

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人間的生存を構成するための様々な重要な条件と機能を達成し維持する能力につなげられ

る必要がある。 また、ここで重要なことは、幸福を実現するための真の自由、すなわち、

幸福実現の方式やそれに必要な機能の組み合せを自分で選択する能力に表された自由であ

る。センにとって、能力は、自分の生活を指導するための平等の判断基準である。

このような潜在能力アプローチは、潜在能力のあり方を計ることで平等を達成しようと

するが、一つの問題は、能力概念には様々な道徳的視点が含まれているという事実である72。

マーサ・ヌスバウムは、潜在能力アプローチをアリストテレス的、本質主義的、善の厚い

理論(thick theory)と結合させている。すなわち、その善の理論は、よい生活に関する必

要かつ普遍な要素の「厚い thick」概念に基づいて、一定の能力と機能がすべての活動の基

礎付けとなるとする。この見方は、個性または文化の多様性に対して、一定の自由度を残

している73。そしてそれは、潜在能力アプローチに精度を与えることができる。もっとも、

その精度は、個人間の比較ための指数を提供するが、善に関する個人的概念の多様性の点

では、通常多くの自由主義者が要求する中立性を十分に保証できるのかという問題を含ん

でいる。それは例えば、すべての人々は自らの「善の構想」を追求できると言う意味での

「リベラルな自由」を可能にするために、一定の基本財を保障したり、これらの基本財を

平等的に接近し利用する機会を保障したりしなければならない。しかも、われわれは市民

社会の構成員として政治生活において集会、言論、参政、選挙、公務就任等といった「政

治的な自由」をも平等に享受・行使しなければならない。しかし、社会的格差の拡大・固

定による社会的不安定化とそれに伴う社会問題はただ階層や所得、教育・雇用機会、性別

役割分業等を含む集団間、地域間、性別間、世代間に現れる不平等問題だけでなく、人々

が幸福を追求・実現する能力と自由にも影響を与えている。そして、自由を可能にする前

提条件として、諸基本財の再配分をめぐる社会制度を築き直す際に、そこでは平等の基本

条件と自由な活動の展開との間に緊張関係が生ずることになる。

第2款 文化的領域における平等の意義:対等な配慮

72 Gerald A. Cohen, 1993, “Equality of What? On Welfare, Goods, and Capabilities,” in: M.

Nussbaum & A. Sen (eds.), The Quality of Life, Oxford U.P., Cf. pp.17-26. 73 Martha Nussbaum, 1992, “Human Functioning and Social Justice. In Defense of

Aristotelian Essentialism,” Political Theory, Cf. 20: 202-46.Martha Nussbaum, Women and Human Development: The Capabilities Approach, Cambridge U.P., 2000, p. 76.(池本

幸生ほか訳)『女性と人間開発——潜在能力アプローチ』(岩波書店, 2005)90 頁。

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これまでに述べてきた平等については、その観点のもとで配分する財や負担には色々な

種類があり、それを区別することは重要である。なぜなら、ある社会活動の領域における

不平等な取扱いを正当化する理由は、必ずしも他の領域における不平等な待遇を正当化す

るわけではないからである。現代のリベラルあるいは民主的福祉国家に関する理解を再構

築するためには、平等を以下の 3 つの領域に区別する必要があるように思われる74。そして、

自由や機会や資源等の様々な財は、この領域の観点から配分の対象として捉えられる。

⑴ 政治的領域:市民的基本自由と政治参加の機会

⑵ 社会的領域:平等な社会的地位および均等機会

⑶ 経済的領域:公正な報償

これら三つの平等の問題領域においては、平等基準は、文化的な次元とは異なる政治的・

社会的・経済的諸問題に関する社会的公正を志向し、権利と義務を割り当て、社会的協働

の利益と負担を適切に配分する制度設計を通じて、宗教的、哲学的、道徳的要素等広い意

味での文化を政治から切り離して、政治と文化の相対的独立を制度的に確保するとともに、

「政治と文化」あるいは「再配分と承認75」という難問にたいする有効かつ最終的な処方箋

であるとみなされてきた。ところが社会的現実に目を向けると、近年では、法の一方的な

線の引き方に異議申し立てを展開する権利的運動の側面を持つ「フェミニズム運動」や「多

文化主義」や「多文化主義」等では不平等問題が文明社会に差異の承認をめぐる自由の対

等な配慮を主張してきた。これらの諸運動の平等主張との関連で、文化の問題は政治的な

関心の的になっている76。このような広い意味での平等の要請には、配分的正義による社会

74 この三領域の区別を含む、リベラルな平等の観念をめぐる幾つかの哲学的議論の整理につい

て、長谷川晃「リベラルな平等についての覚え書き」北大法学論集第 43 巻第 5 号 430-409 頁

(1993)参照。 75 「再配分 redistribution」というのは、福祉や教育、公共事業などの形で、国家あるいは共同

体の富を再配分し、経済的平等を達成することである。それに対して、「承認 recognition」というのは、各人の人格としての尊厳およびナショナリティ、エスニシティ、ジェンダー宗教

などのアイデンティティが社会的に「認め」られ、「対等」な者として扱われることを指す。

仲正昌樹『ポストモダンの正義論』(筑摩書房, 2010)215 頁。 76 政治制度設計の提案に関して、W・キムリッカは文化への帰属の重要性を指摘している。彼

は次のような考え方——「なぜ民族的マイノリティの成員たちは、自分自身の文化へのアクセ

スを必要とするのだろうか。多数派の文化へのアクセスが(例えば、マイノリティの諸文化の

成員たちに多数派の言語や歴史を教えることで)保証されている限り、民族的マイノリティの

文化は崩壊するに任せてよいのではないか。この後者の選択肢は、マイノリティに負担をかけ

ることになるだろうが、政府はそれに対して補助金を支給することもできるだろう。例えば、

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的・経済的格差の是正だけでなく、経済、政治、地域、階級、人種、民族、性別、宗教、

信条等の相違を含む文化的差異による差別の排除も含まれる。差別、軽視、蔑視、抑圧さ

れてきた人々の存在、人々の多様な価値観、生き方を理解ないし承認することによってコ

ミュニケーションを改善し、よりよい人間関係を構築することによってはじめて、よりよ

い社会制度を構成しようとする。しかしながら、政治的決定、政治的諸制度を伴う有力な

文化は、その社会における影響力を増し、「主流文化」となり、それ以外のマイノリティ文

化との格差が拡大し、主流文化に帰属する人々とマイノリティ文化に帰属する人々との社

会的・経済的格差も拡大することになる。したがって、平等について考察するには、主流

文化の政治的決定、政治的諸制度における平等のみを対象とするのではなく、マイノリテ

ィ文化に帰属する人々が主流文化やその政治的諸制度とどのように関係しているのか、あ

るいはどのように関係しようとしているのか、についても検討しなければならない77。とり

わけ、国民国家、立憲民主主義国家という単位で、平等な自由という要請に基づいて構想

された政治的諸制度は、マイノリティ文化に帰属している人々を、国民ではあるが主流文

化に帰属する人々とは異なる人々であることを認めようとしてこなかった。異なる文化に

帰属する人々を等しく尊重すること、異なる文化それぞれを等しく尊重すること、そのよ

うな文化的諸権利を政治的諸制度において基本的な価値として承認することは、マイノリ

ティ文化を主流文化に統合しようとする態度から、多文化共生社会を実現しようとする態

度に転換することを意味する。マイノリティ文化の主流文化への同化、あるいはマイノリ

ティ文化の主流文化からの排除は回避されるべきであり、マイノリティ文化に帰属してい

民族的マイノリティの成員が多数派の言語や歴史について学ぶための学費を政府が支払うこ

とも可能だろう」というこの種の提案に対しては、「ある人が自らの文化を失ってしまうとい

うことを、職を失うことと類似のものとして扱っている」と批判している。W.Kymlicka, 1995, Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights, Oxford U.P., Cf. p.84. (角

田猛之ほか訳)『多文化時代の市民権——マイノリティの権利と自由主義』(晃洋書房, 1998)127 頁。彼が言いたいことは、文化への権利(自由・平等など)を保護するということは資源・

財産(特にお金・富)の配分問題に取り組む必要があるが、すべての文化的諸権利は金銭面の

配分を行なうことだけで解消できないだろうと思う。こうした視点からすれば、「政治と文化」

問題は、単なる配分的正義としての社会制度編成を正当化する、或は社会正義を配分的正義に

還元するのみならず、正義を通す社会的対話のために文化的諸権利が正面から取り上げられる

べきではないかという問題意識も含んでいる。 77 W.Kymlicka, 1995, Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights,

Oxford U.P., p.78.(角田猛之ほか訳)『多文化時代の市民権——マイノリティの権利と自由

主義』(晃洋書房, 1998)115 頁参照。

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38

る人々にも、自分たちに固有のライフスタイルを維持、追求する権利がある、ということ

が認められつつある。このことをより確実にするため、また、一つの社会や国家において

多様な文化に帰属する多様な人々を等しく承認ないし包摂するため、主流文化あるいは社

会構成的文化としての政治的諸制度のあり方を改めて検証しなければならない。それは、

政治と文化という2つの概念を対等なものとして議論する重要な契機でもある78。

このような次第で、「配分的正義」に焦点が当てられた背景には、現代正義論の文脈にお

いて、基本的に正義の性向を経済的・配分的問題として扱われていることがあり、また、

基本財の再配分に根本的に内在する問題として、すべての社会的・経済的不平等は一括り

で語られていることがある。従来の平等概念では、その実現に際して全構成員に対し全く

同じ扱い方をして、差異を無視して同質な構成員間のすべての不平等問題は、彼/彼女た

ち「全員に対して有効な共通の客観的な尺度」で計られ、それに基づいて解決されるべき

もの——とりわけ経済的な問題——だと考えられた。しかし、このような平等の捉え方は

利益偏重という問題がある。そのような正義概念は、個人のアイデンティティや権利が、

所与の存在である特定の社会的文化的背景において構成されている、という社会的事実を

軽視するものである。前節で概観した平等概念はいずれも、社会における事実上の差異、

すなわち、文化やそれを背景とする個人の人格が多元的に存在している実情を適切に把握

しきれていない。配分的正義が公正だとする配分が、多様な価値観を有する多様な人々に

よっても公正だとみなされるといいうるかどうか。ここに正義理論が克服すべき課題があ

るように思われる。

この課題をさらに検討するため、ロールズの正義理論の再考の必要性と、それによって

抽出された概念によるロールズの正義理論の拡張可能性について論ずる。そして、その再

考をとおして、ロールズの正義理論における基本的諸概念を明確にし、社会的・経済的格

78 ミクロ対マクロレベル(micro vs. macro level)および一次元対多次元(unidimensional vs.

multidimensional)の原則に基づいて、現代正義理論を規範的志向と実証的な志向に整理分

類する提案があるが、それによればロールズ正義理論はマクロレベルかつ多次元的特徴をもっ

ていると言われる。その意味で、ロールズ正義理論は論理的性質を検討し、また論理的な推論

を行なうために、政治、経済、文化などを場合に応じて柔軟に用いることができ、非常に適度

な柔軟性および拡張性をもち、複雑多様化する社会情勢の変化に対応できる可能性がありうる

と考えられる。詳しくはD・ムーアの整理を参照のこと。Moore, D., 2001. The Sense of Justice: Introduction. Social Justice Research, 14(3):233-5.

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差の前提にある深刻な課題だと本論文が診断している差別意識の克服に有益な概念を抽出

してゆきたい。

第3節 ロールズ正義論の拡張可能性という問題提起:自由の平等による対等な配慮

第1款 拡張可能性とは何か

ジョン・ロールズは、ロックが提唱した社会契約という説明手法に依拠し、あらたな社

会契約として正義理論を体系化した。その業績の数々は、政治哲学および倫理学の発展に

貢献するものとして高く評価されている。ロールズの正義理論は、20 世紀のアメリカにお

ける最大の知的結晶の一つであり、時代の転換期にあって新旧両思想の狭間で混迷する

人々に、確かな洞察により、あるべき合理的政策の指針を与えるものであった79。その優れ

た業績は、現代正義理論という学問領域をもたらし、多数の研究者が多数の論文を公表す

る様は、ロールズ・ファクトリーとよばれるほどである。そのようなロールズの正義理論

の全体像を把握するためには、おそらく以下の 2 点に留意すべきであろう。一つは、ロー

ルズの正義理論においてもっとも重要な正義の二原理を詳細に分析するとともに、その批

判に応じてロールズが導入した諸概念の内容と正義の二原理の正当化における役割や機能

を明確にすることである。もう一つは、正義の二原理を提唱した時期、その批判に応じて

修正を試みた時期について、当時の社会情勢や政治思想の潮流等、実際の時代的制約をも

考慮することにより、ロールズが是正すべきだと考えた実際の政治的課題を捉え、実践的

な戦略としての正義理論の意義を明確にすることである。

先の節において、様々な平等概念を概観したが、平等概念の多様性そのものが普遍的正

義の存在に対する疑念を惹起している。実際に、普遍的正義を示し続けてきたリベラリズ

ムは、様々な批判にさらされている。これらの批判は、正義の諸原理の経験的妥当性に疑

問を呈しているだけでなく、「ポスト市民社会における政治と文化」80という新たな課題を

提起し、リベラリズム中心の政治哲学、法哲学等の学問分野において、パラダイム転換を

迫っている。「ポスト市民社会における政治と文化」をめぐる具体的課題として、国民主権

国家、あるいは民主主義国家における移民、少数民族、先住民族等のマイノリティの包摂

79 藤井吉美『正義論の歴史』(論創社, 1984)270 頁。 80 例えば、NPO・NGO 化する市民社会、グローバルな市民社会などと言われるポスト市民社

会の特徴がある。水嶋一憲「市民のミスエデュケーション ポスト市民社会におけるエスペラ

ンスのために」現代思想第 27 巻第 5 号第 189-99 頁(1999)。

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にとどまらず、主流文化と異なる文化の対等な承認要求、そのようなマイノリティ文化に

帰属意識を有する人々のみに適用される異なる諸制度の設立要求等があげられる。このよ

うなマイノリティ集団およびそこに帰属する人々に対する公正な制度、政策について、具

体的かつ実効的な検討が求められている。そこで、本節では、文化の多様性、多様な文化

に帰属意識を有する人々を議論の俎上にのせるため、政治的意思形成のプロセス、あるい

は社会制度設計のプロセスにおいて「背景的文化」をどのようにあつかうか、ということ

を検討してみたい。例えば、リチャード・ローティは、背景的文化について、公的議論に

おける「会話を打ち切るもの」とみなしている81。そうであれば、文化に基づく政治的主張

や要求は宗教的主張や要求と同視されるべきかどうか、多様な文化を尊重するために普遍

的な正義の構想を放棄あるいは緩和すべきかどうか、放棄、緩和するべきだとして、それ

はどのような理由により正当化されるのか82。このような検討課題を念頭に、ロールズの正

義理論における「文化」の位置づけについて、正義理論に内在的な視点から、そして当時

の社会情勢等の外在的な視点から検討する。

この場合、ロールズの正義理論からは、後章で詳論するように、「文化」をめぐる新たな

課題にも対応しうる概念として、「公共理性」、「正義感覚」、「再認」等を抽出できる。これ

らの諸概念は、正義の諸原理の帰結として導かれるものではなく、正義の諸原理の確立プ

ロセスにおけるアセスメントの役割を果たすものである。正義の諸原理の確立プロセスと

は、人々が正義の諸原理を受容するプロセスともいいうるのであって、現実の多様な価値

観を有する多様な人々が「正義の二原理」を公正だと認めるには、そのような人々の「公

共理性」、「正義感覚」、「再認」に期待するしかない。ロールズの述べるところでは、「正義

の理論を〈私たちの正義感覚を記述するもの〉とみなしてよいだろう。正義の理論は、制

度や行為について我々が差し出す判断(およびそのような判断を差し出す理由)のリスト

ではない。ここでは、以下のような原理を定式化することが求められている。すなわち、

正義の原理に我々の様々な信念や状況に関する知識を接合することにより、制度や行為に

ついて我々が判断できるようになるとともに、その原理を良心的かつ理性的に適用するな

らば、その判断を支持する理由も導かれる、というような原理である(TJ, p.41/66 頁)」。

81 Richard Rorty,1999, “Religion as Conversation Stopper”, in Philosophy and Social Hope,

Penguin Books, pp.168-74. 82 この問題関心に関する一つの問題提起は、参照、木部尚志「信仰の理論と公共理性の相克——ロールズの公共理性論の批判的考察」早稲田政治経済学雑誌 381-382 号第 42-3 頁(2011)。

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ここで重要なのは、ロールズは正義の原理の定式化のみを追求しているのではなく、その

原理を定式化するプロセスにおいて、人々の正義感覚に留意している、ということである。

このようなロールズの正義理論の諸概念に着目することにより、ロールズの正義理論に関

する通説的理解の拡張が可能になろう。

この「拡張」については、2つのレベルで論じたい。一つは、『正義論』に著わされた内

容から『政治的リベラリズム』に著わされた内容への拡張であり83、もう 1 つは、ロールズ

の正義理論の全体的な拡張である。さらに、後者の拡張は、以下の3つの転換可能性につ

ながる。

83 ロールズ自身が『正義論』と『政治的リベラリズム』との相違を如何に強調しているのかに

ついて、詳しく参照、『万民の法』256-8 頁。以下は簡単に要約すれば、第 1 に、ロールズは

『正義論』において前政治的な社会である原初状態から人々が無知のヴェールによって形作ら

れた自然的本性であるとの同様の社会的本性を通じて、社会契約の枠組みで秩序だった社会の

規範理論を構築する際に、理性による合理的社会的選択に基づく立憲的な合意によって正義諸

原理を公共的に是認できるということを強調した。第 2 に、従って、『政治的リベラリズム』

は前政治的な社会から政治的な社会へと移動する際の政治的枠組——秩序だった社会という

要請を適切に考慮しながら、憲法を頂点とする民主主義社会における制度編成に対して、諸種

の公共問題に関する市民たちの政治的な主張を公共的に正当化する公共的諸理由という多元

性の事実およびその理由づけによる安定性問題——を主題として論じるものである。つまり、

「宗教的・哲学的・道徳的諸教説によって深刻にも分裂したままの自由かつ平等な市民からな

る正義に適ったまた安定した社会がそこに永続して存在することは、如何にして可能であるの

か(PL, p.4)」というリベラルな立憲民主政についての理論なのである。これは多数決とい

う社会的選択原理によって押し付けられた社会的決定に反対する権利を等しく各人に提供す

る正義原理である。しかし、「正義に適った社会は正義という見方からどのように見えなけれ

ばならない」について一定の見解をもたらすことをもとめてはいないと言う意味において、本

質的に「政治的」である。つまり、『政治的リベラリズム』は改定された正義論ではもはやな

く、また別の正義論でさえない。参照、平手賢治「自然法と公共理性」名古屋学院大学論集社

会科学篇第 47 巻第 4 号 138 頁(2011)。注目すべき点は、両著作の中での「公共理性」の

概念をロールズが使うけれども、それについて、彼は次のように述べている。「『正義論』と

『政治的リベラリズム』の二著は、どちらも公共理性の観念を有するものであるが、非対称的

である。『正義論』においては、公共理性がリベラルな包括的教説によりあてられる。それに

対して、『政治的リベラリズム』にあっては、公共理性が自由で平等な市民たちが共有される

諸々の政治的価値に関する推論=理由づけの方法となり、そしてこの理性は、市民たちの包括

的教説が民主的な政治形態と両立する限りにおいて、それらの教説に干渉しない。(『万民の

法』258 頁)」「公共理性」とそれに関するロールズ正義理論における位置づけは第 1 章にお

いて展開しておきたい。

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正義の諸原理は、もともと政策や制度の妥当性の基準として考えられたもので、ロール

ズは、制度に適用される正義の諸原理が個人にも適用可能かどうか、明確にしていない。

ロールズは、正義の諸原理に照らして妥当とされる制度化のプロセスをとおして、人々の

主観的ニーズがいずれ新しい権利に翻訳されることを想定している。しかし、その主観的

ニーズには、人々の生活において切実なものでありながら、権利には翻訳しがたいものも

ある。人々の切実な主観的ニーズは、政治による公的対応が難しくとも、なお人々にとっ

て、対応されるべきニーズとして不断に主張される。そのような人々は、権利への翻訳が

難しいという理由のみによって、そのようなニーズをあくまでも私的な利益追求によるも

のとして無視されることを怖れている84。したがって、個人レベルの正義問題は、常に政治

的制度をめぐる正義問題につながっていると認識する必要がある。財の配分のみならず、

自己に相応しい責務を果たしつつ生きる意義を追求する人生観とも結びつけて語られると

ころに、正義理論の特徴がある。プラトンは、『国家』において、正義を「国家における正

義」と「個人における正義」に区分し、両者が相互に依存していることを認めている85。「個

人の正義と国家の正義という一見異なるように思われる正義が一致するのは、国家が究極

的には個人の集合体であり、個人の性格に由来しない国家の性格というものは存在しない」

からである86。国家の正義は、個人の正義の集積であり、国家の正義が確立されるには、ま

ず個人の正義が確立されなければならない87。また、これから将来にわたって、自由、平等、

生存、幸福等の概念が消滅することはなかろう。正義に関わるこれらの諸概念の追求は、

人々が集団や国家を形成、維持、変更してゆく動機であり、普遍的な目標でもある88。

もう一つの転換可能性は、ロールズの説く基本的諸自由に関わるものである。すなわち、

ロールズの説く基本的諸自由は、主にいわゆる消極的自由だが、その保障はもちろんのこ

と、さらに積極的自由の保障まで射程に含めることができないか、ということである。積

極的自由の保障まで射程に含める必要性は、いわゆる異なる文化の対等な承認、あるいは

文化的諸権利がそこに含まれると考えられるからである。

84 斉藤純一『公共性』(岩波書店, 2000)65-6 頁。 85 プラトン(藤沢令夫訳)『国家』(岩波書店, 改版, 1979)368e2-3。 86 同上書 435e1-3。 87 同上書 441d12-e2。 88 川合隆男『社会的成層の研究——現代社会と不平等構造』(世界書院, 昭和 50)87 頁参照。

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最後は、ロールズが主に依拠する合理的認識論、つまり理性的な規範的人格だけを前提

として正義の諸原理の公正さを示すアプローチから、多様かつ率直な感情を有する実質的

人格をも前提に含めてもなお、人々が正義の諸原理を公正として認識する可能性を模索す

るアプローチへの転換可能性である。ロールズは、「正義感覚」という概念を導入している

が、そこには、ロールズ自身が人々の感情についても考慮する必要性を認識していたよう

に思われるからである。

さて、これらの2つのレベルの「拡張」のうち、『正義論』から『政治的リベラリズム』

への拡張については、本論文の第 1 章において、「公共性」と「公共理性」という概念に着

目して考察する。他方、ロールズの正義理論の全体的な拡張については、第 2,3,4 章に

おいて、「公共理性」、「正義感覚」および「再認」という3つの概念に着目しつつ検討する。

そこでは、合理的認識と情動的認識をともに把握しうる手法である「関与的アプローチ」

を導入することになる。

このような本論文の議論は、従来のロールズ解釈の批判的な再検討をとおして、新たな

視点を確立し、ロールズの正義理論を拡張させようと試みるものであり、ロールズの著わ

しているいくつかの基本的諸概念の再検討をとおして、その議論をより深めようとするも

のである。「公正な配分から対等な配慮へ」という本章の標題が目指すものは、平等の達成

ではなく、平等に向けた不断の努力の必要性なのであって、これは、現実の格差、不平等

に反応する人々の多様な主張により政治的諸制度、政策等の変革が不断に要求される以上、

そのような要求に配慮できない正義理論は公正とはいえない89。そもそも、平等という概念

は、配分における一つの基準にとどまらず、国民国家、立憲民主主義国家において、潜在

的にも顕在的にも、人々の多様な志向性が反映された政治的要求を喚起する重要な契機と

なっている。以下では、節を改めて、平等をめぐる志向性について検討する。

第2款 対等な配慮の志向:同質志向的平等と異質志向的平等

第1項 平等化と差異化をめぐる 2 つの志向

人間は、内部的には等質的で相互には異質的な存在者として捉えられるという点で、2 つ

の平等を志向する観念を同時に有すると言える。

89 フェレンツ・フェヘール、アグネス・ヘラー(岩倉正博訳)「平等の諸形態」(田中成明・

深田三徳監訳)『正義論』(未来社, 1989)322 頁。

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1 つは、同質志向的平等である。これは前近代的な社会から近代的な社会への移行に伴う

身分制度の崩壊によって成立した。前近代的な社会においては身分が各自のアイデンティ

ティを支える中心核を為すものであったので、所有や名誉や職業や社会的承認等といった

基本財の配分は身分(制)に緊密に結びついており、社会的・構造的不平等と不可分なも

のとされた。それに代わって普遍主義で平等主義的な人間の尊厳(dignity)の観念が登場

し、個人は自由で平等な法的主体として見なされ、万人を社会-法秩序の担い手として社

会認められるようになった。つまり、国家や社会は、人々の民族や性別、出身や地位、宗

教や信仰等、いわゆる身分の差異にとらわれず、全ての人を、法的人格を有するものとし

て等しく扱うのであって、法律や公共政策は個人の人格と人間尊厳を平等に尊重すること

となる。この同質志向的平等の典型例は憲法上の「法の下の平等」である。

もう 1 つは、異質志向的平等である。これは、現代社会における様々な少数者の権利運

動や多文化主義の主張を尊重するものである。近代社会構成員が等しく有する政治的アイ

デンティティは全ての市民に同一なものとされてきた。しかし、従来重要視されていなか

った文化的アイデンティティ、すなわち、自分なりの生活様式や行動様式、自分の在り方

の主張が、「万人と平等で共通な私のあり方ではなく、その特殊で他人との差異を持つ私の

あり方」が問題視される中で、政治的アイデンティティも社会生活の多元化に対応すべき

との声があがるようになってきた90。

その理解を踏まえて、民主主義に立脚した社会制度編成における「法の下の平等」とい

う法原理は、「等しいものが等しく扱われるだけではなく、その論理構造による不可避的な

帰結として、等しからざるものは等しく扱われない」と理解されている。この理解におい

ては、相異なるものに対応する相異なる法的取扱いが必要かつ妥当なものと認められる問

題意識があることはいうまでもない。これはまた、法現象を平等の視座から取り扱うため

の大前提として、物事の性質が区別され解明されるようになるために不可欠な作業である。

それ故、平等の意味の内的構造を解明し、それにつながる同質性と異質性という 2 つの志

向性を明らかにすることが必要である。これは存在としての平等なるものの規範的性格を

説明するために要請されるだけでなく、認識としての平等、即ち、人間にとってどのよう

90 日暮雅夫『討議と承認の社会理論 ハーバーマスとホネット』(勁草書房, 2008)173 頁。

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にして平等を理解すれば正しい認識が得られるのかについても議論の出発点とその論理的

帰結として解明すべき課題である91。

平等における同質性、いわゆる所与的同質性は、社会制度編成において法という人為的

規範によって擬制・画一化されたものであり、政治的、経済的、社会的、文化的構造なら

びに共生社会を構築するための基礎的条件づくりとして所与されたものである。「国民国家

という、同質性が高く安定した共同体に属する同胞であれば、お互いの気持ちや置かれて

いる立場を想像して共感しやすい。92」法学の中で定義された「人」あるいは「国民」の概

念をみるならば、この所与としての同質志向的平等の特徴は一目瞭然であろう93。例えば、

91 テイラーによれば近代におけるアイデンティティをめぐる 2 つの変化、すなわち「名誉の基

礎であった社会的な階層秩序の崩壊」と「個人化されたアイデンティティの登場」が 2 つの

政治(思想と運動)を生み出した。前者は、「平等な尊厳をめぐる政治であり、人々が普遍的

に平等な権利を持っていることに立脚している。」後者は「差異をめぐる政治であり、個人や

集団の独自のアイデンティティ、他の全ての人々からの差異に立脚している。」「このように

して、これら 2 つの政治の形態は、ともに平等な尊敬の観念に基づきながら、対立するに至

る。一方にとっては、平等な尊敬の原則は、我々が差異を顧慮しない仕方で人々を扱うことを

要求する。人間がこの尊敬を命ずるという基本的洞察は、すべての人々において同一なものに

焦点を当てている。他方において、我々は特殊性を認め、さらに涵養さえしなければならない。

前者が後者に対して行う非難は、まさに後者が不差別の原則を侵害するというものである。」

しかしながら、「この 2 つの政治は、それぞれ平等化と差異化という反対方向を向いている

ようでありながら、実はともに近代社会における「普遍的な平等の原則」を前提として生まれ

てきたとされる。」Charles Taylor. 1994. “The Politics of Recognition.” In: Multiculturalism, ed. A. Gutmann. Princeton U.P. pp.26-8, 38-9, 43. エイミー・ガットマン編(佐々木毅ほか

訳)『マルチカルチュラリズム』(岩波書店, 1997)40-1, 54-5, 60 頁。また、上記のような

テイラーの多文化主義におけるアイデンティティの捉え方について詳しく、『討議と承認の社

会理論 ハーバーマスとホネット』(勁草書房, 2008)173-4 頁参照。 92 仲正昌樹『ポストモダンの正義論』(筑摩書房, 2010)226 頁。 93 社会的格差といっても色々な種類があり、格差の緩和・是正措置にも色々な平等概念がある。

例えば、形式的平等/実質的平等、過程の平等/結果の平等、機会・手続・条件の平等、相対

的平等/絶対的平等、政治的、経済的、社会的、文化的平等などである。全ての平等概念の端

緒として、私は志向的平等の概念を提起したい。この概念の提起は、平等に関する法的思考に

おける感情的・情動的要素を含む、いわゆる人間主体性の重要視として突出した役割を果たし

ている。志向的平等とは、正義の感覚からみた平等の役割や実現程度は、この正義の感覚の持

ち主がそれをどう見ているか、そしてどう解釈しているかに左右される、ということである。

志向的平等は、社会構成員が平等を充実すべきという同じ目的・目標に向かって、それぞれの

志向にあわせた平等の概念構想を形成できるようそれぞれの役割を正しく果たす基盤の軸足

を複線化しようとしている。

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日本国憲法の第 13 条「すべて国民は、個人として尊重される。」法によって平等に取り扱

われる「個人」は既に抽象化された「人」であり、その人が属している団体・組織・家族、

また即自的特徴として性別・年齢・人種・民族、あるいは社会的・経済的・政治的背景と

しての信仰・社会的身分・職業など観察可能な要素や現実的環境から切り離されてしまっ

た。

所与という視点を導入した場合、「自然的なもの」と「人為的なもの」との区別が可能に

なる。より直接的に言えば、そのことによって平等論そのものが規範的議論としての合理

的限界を有するという問題も提示されるであろう。というのは、自然的な区別がたとえ事

実的差異であったとしても、規範的平等論にとっては人為的な区別に合理的根拠がある限

り、差別的取扱いを問題視するに当たらない事柄であるからである。例えば、日本の民法

における相続に関する規定によって、「嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の

二分の一」とされる。これは「法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったもの」と解

される。これを言い換えれば、「民法が法律婚主義を採用している以上、法定相続分は婚姻

関係にある配偶者とその子を優遇してこれを定めるが、他方、非嫡出子にも一定の法定相

続分を認めてその保護を図ったものである」と解される94。

言うまでもなく、「婚姻関係」による出生と「婚姻外の関係」による出生との差異は、社

会的事実関係上の差異として、外形的客観的に存在する。周知のように、人間の社会生活

において完全に同等な事実はほとんど存在しないのであるから、社会的その他種々の事実

関係上の差異を理由としてその法的取り扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を

有する限り、差別または蔑視するものではない95。しかし、嫡出子として生まれた、または

非嫡出子として生まれたという出生の事実に対して、当事者は、自分の意思や努力で意志

的にコントロールできない。というのも、つまり出生事実という結果は運命のように自分

の自由意志によって左右されないからである。したがって、自由意志を行使した人々(親)

の結果を、自由意志を行使しなかった、或は自由意志を行使できなかった人々(子)が負

担することで、これは社会制度編成の恣意性を示すかのような不正義であるといえるだろ

う。

94 民集第 49 巻 7 号 1789 頁、『判例タイムズ』885 号 83 頁、『判例時報』1540 号 3 頁。 95 最高裁昭和 37 年(あ)第 927 号同 39 年 11 月 18 日大法廷判決・刑集 18 巻 9 号 579 頁、同

昭和 37 年(オ)第 1472 号同 39 年 5 月 27 日大法廷判決・民集 18 巻 4 号 676 頁参照。

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かくして、自然的な差異は事実として一定の合理性をもつ一方、人為的に擬制される社

会制度的区別に対して、もしこうした擬制的な隔離の合理性は十分に説明できないなら、

このような制度的区別は正当性を持たずに、改正される必要がある。社会制度を編成する

に当たっては、できる限り主観性や恣意性を排除しつつも、科学性や客観性をもたせるこ

とが重要であり、国家の役割、権限および責任について予め明確にしておき、それに基づ

いて制度編成を行うことが効果的・効率的であり、よりよい善き生を構想する上で重要で

ある。つまり、具体的生活事実は不圴一であるこそ、法上取扱いに差異が設けられるわけ

ではない。法における平等の理念は自由とともに、常に最高の目的とされてきたが、合理

的理由のない恣意的な差別は許されなく、「具体的生活事実の不圴一による法的取扱の不圴

一」ということが特定の場合において必要性があるものの、法的取扱の不圴一は常に不明

確さを伴う問題について再考する必要がある96。なぜなら、すべての法現象は同質志向的平

等に還元不可能という形で提示されるからである。

第2項 社会的結合体の基盤としての同質志向

同質志向性の代表的な現象として、ナショナリズムをあげることができる。「一つの国家

に一つの民族からなる一つの国民を」などと標榜するナショナリズムは、「国民と民族の範

囲を合致させようという志向性」を有しているといえるが、このような同質志向性は、文

化的集団、政治的集団等々、一つの国家においても複数存在する。たとえば、政党は、政

治的目標を共有する人々の集団であり、政治的・経済的諸政策を提示し、市民の支持を訴

え、いわばその集団を拡大させることを設立目的とするものである。また、言語や習慣、

宗教や民族など文化的同質性もつ集団は政治的統合を形成して維持する可能性を高めるこ

とにもつながる。なぜなら、社会的結合体が成立するための第 1 前提としての「意志の疎

通」は同質性の原理の基盤の上にのみ成り立つのである。社会的結合体の基盤としての所

与的同質性への根拠は、一定の共通性・共同性が不可欠である。しかし、この共通性・共

同性は、自然的同質性としての血縁・地縁関係に立脚したものでなく、それらの自然的同

質性を否定し克服する過程において捉えられた公共性にある。つまり社会的結合体におい

て所与としての同質的平等は、人為的で社会的・経済的・政治的に構築されるべきものと

しての同質性の観念に立脚し、またその同質性を高め、意味構築と政治性に焦点をおくも

のである。成員の共通の生活形態をもとにした社会的結合体がより包括的な価値体系を生

96 樋口陽一編著『権利の保障(講座憲法学第 3 巻)』(日本評論社, 1994)77-9 頁参照。

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み出し、心的態度の共通性、つまり志向性をより強めつつ、政治的な共生関係を確固たる

ものとしていくのである。

所与的平等とは、社会制度により編成された平等である。つまり、法が公共的境界線を

画定するために、各構成員の個別性と構成員間の差異という客観的な事実を意識的に無視

し、構成員の全体を抽象的な表現である集団あるいは共同体として共同体の意図とその構

成員の主張を同一視し、構成員相互間に歴史的・文化的・伝統的に同一だと構成されたが

故に社会制度編成において等しく位置づけられるのである。法が同質化された共同体全員

に対して共通の基準に基づいて共通的に見られる基本財を合理的に配分し、比較的安定し

た社会秩序を編成・維持・改善しようとする強い同質的志向を目指すものである。

その志向に立脚した法、特に憲法は同質的なものであり、近代国民国家の理念の表現と

してあらわれる。英、仏の近代国民国家は「ホッブズ以来の社会的同質性をもつ多数派デ

モクラシー」、つまり「同質的な国民意思——身分でなく——の成立を前提とした多数派デ

モクラシー」という統治構造の図式に従って解読されることになった97。この特徴は近代国

民国家の発祥地であるフランスの憲法、特にフランス第五共和国憲法において着実に見ら

れ、同質性と共和主義の理念を徹底的に志向されているのである98。それに基づいて、法の

下の平等も所与的同質志向に立脚することによって形成され、そして更にその概念が市民

社会を基盤として成立した国民国家において一層維持・展開された可能となる。

第3項 平等と差異との限界:自然的な区別と人為的な差別

生活世界における同質と異質との分節化傾向によって、平等概念に対しても同質的理解

と異質的理解との 2 つの志向性が捉えられる。同質的な平等については先の節でも触れた

ので、ここでは特に異質的な平等理解に焦点をおく。

平等に対する「異質志向」には、事実的理解と規範的理解との相違、つまり自然的な区

別(=事実的差異)と人為的な差別(=規範的差異)がある。事実と規範という二分法の

思考様式はプラトンにおいてすでに見出される。彼は、自然本性から与えられる絶対的に

正しいものと、具体的な時と場所において相対的に正しい人為的規則とを区別する99。そし

97 樋口陽一『近代国民国家の憲法構造』(東京大学出版会, 1994)61, 111 頁参照。『権力・個人・

憲法学——フランス憲法研究』(学陽書房, 1989)第3章参照。 98 村岡真夕子「多文化主義と法」立命館法政論集』第1号 181 頁(2003)。 99 H. ミッタイス(林毅訳)『自然法論』(創文社, 昭和 46)16-7 頁参照。

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て、諸規範の範疇においては、自然法は神、自然または理性に由来するので、それを実現

するための人為的な強制手段を必要としないが、これに対して、実定法は何らかの人為的

な強制手段に頼らざるをえないということである100。出生や死亡などその一時的なもの偶

然的なものは、自然的事実として、一連の偶然的な諸要素が展開される時空のなかに書き

込まれるべきものである。

前述した嫡出子と非嫡出子の相続分規定の区別について言えば、ある子は「嫡出子」と

して生まれた、または「非嫡出子」として生まれたという自然的事実の差異に対して、民

法の相続制度は「嫡出子」と「非嫡出子」という身分概念を通じて異なる基準座標を作り、

法という規範の名分を借りて権利・義務の帰属主体を人為的に区別することが明らかにな

っている。また、規範としての憲法における平等の規定に違反するかどうかが問題となる

のは、法的な差別的取扱いに立法目的自体による合理的な根拠があるかどうかによって決

せられる。合理的根拠がある場合、差別的取扱いは単純な「差別」とは言えない。すなわ

ち、平等の要請は、客観的事実に基づく「事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくも

のでないかぎり、差別的な取扱いをすることを禁止する趣旨と解すべき」である101。一般

的に言えば、人は人間本性をもつ理性的であると同時に感覚的な主体として、自然法則に

従って生きるべきであるとともに、社会の主体として、社会規範に従って生きるべきであ

る。このような考え方の下では、自然的な法則と人為的な法則とが、同一の概念に属して

いないので、「平等≠等しい」という問題が最初に生じる。人々は「自然法則に従う出生」

という事実的差異と、「社会法則に従う位置づけ」という規範的差異との区別に注意を払っ

ている。

100 ハンス・ケルゼン(黒田覚・長尾龍一訳)『自然法論と法実証主義』(木鐸社, 1973)7 頁参

照。 101 最大判昭和 39 年 5 月 27 日・民集 18 巻 4 号 676 頁、最大判昭和 48 年 4 月 4 日・刑集 27巻 3 号 265 頁参照。

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「自然」対「所与」及び「同質」対「異質」というという二項対立構造の図式が、事実

の関係と規範的要件、自然存在と人為制定の論理的パターンに基づいて区分けて意味づけ

るものであり、右のような図に考えられ

る。このような図で

横の直線を x 軸=事実の関係

縦の直線を y 軸=規範的要件

x 軸と y 軸の交点 O を原点という。

この図は一般的に

x 軸の原点の右向きという方向を自然

関係、左向きという方向を所与関係

y 軸の原点の上向きという方向を同質

的要件、下向きという方向を異質的要件とする。

さて、差異について見てみるならば、差異の最初は事実的差異と規範的差異との 2 つの

ことで分類される。自然意味での差異は純客観的な事実として物質的に存在しそのまま記

述している。が、規範的評価をする時に、「平等なのか」「不平等なのか」という価値判断

は付与されるにあたって、異なる目的それぞれに応じた規範的差異は生じた。直ちに「等

しくない」という「区別」があったとしても、「不平等」という「差別」は言えない。規範

的平等は、各人の現実の事実的差異に着目して、それに応じた異なった措置を適用するこ

との重要性を認めるものである。なぜなら、個々の事例にふさわしい価値判断は「合理性」

を持っており、これはいわば「実践的合理性」と呼ばれるが、この実践的合理性という考

量は、さらに「価値」と「目的・手段」によって展開することができる。例えば、非嫡出

子の法定相続分事件において法律婚の保護という価値から嫡出子に優遇処置を与えるのに

対して、非嫡出子の保護というヒューマニズムの目的から、 非嫡出子の法定相続分は嫡出

子の 2 分の 1 だという保護手段が規定された。また旧刑法二〇〇条の尊属殺重罰規定にお

いて自然的情愛ないし普遍的倫理の維持という価値から、尊属殺の加重罰という刑法上の

手段に値するものといわなければならない。

それでは、もし個別具体的な要素を取り込んだ現実的環境などによる背景的特性を議論

の出発点として考えれば、「人」という概念に基づいて、女性は法の下で真に男性と同様に

Y(規範)

第二象限 第一象限 (所与的同質性) (自然的同質性)

例:国民、公民 例:抽象的な「人」 X(事実)

O 第三象限 第四象限

(所与的異質性) (自然的異質性) 例:出身、栄典、階層 例:種族、民族、言語、DNA

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尊重されると言えるか102。また、「国民」という基準規制の下で、性的、民族的、宗教的、

文化的少数者や、知的、精神的、身体的障害者や高齢者など差別や構造により社会的に不

利な立場におかれ、排除されるリスクが高い「人」には、自由及び幸福追求に対する国民

の権利は最大限に尊重されることになっているか。次に、同質的なものでない理由に基づ

いて個人または共通する価値観をもつ者同士の集団が社会から疎外されている問題につい

て少し詳しく考えてみたい。

第4項 同質と異質との区別による問題:社会的排除と社会的包摂

社会的生活における自然と人間の本性的な限界や偶然性、あるいは歴史的・社会的・運

的偶発性において、自由が等しくないということは周知の事実である103。例えば、政治参

加において一部の人がより多くの投票権をもっている場合、政治的自由は等しくないので

ある。また、非嫡出子の法定相続分の場合、嫡出子のそれの2分の1としていることがあ

る。違憲判決が出るまえに、非嫡出子の法定相続権は嫡出子の権利に対して縮尺されるこ

とが正当性をもっていると思われた。しかし秩序だった社会のもとであれば、こうした不

平等な自由=権利が存在する中でどのような手引きが必要かを問わねばならないだろう。

制度の恣意性が抑制されない社会において、少ない自由を持つ人々の自由が優先して確保

されないなら、社会生活から差別された人々が排除されている。合理的理由がない差別は、

疎外された当事者に対する社会の事実上の「差別・偏見・蔑視・敵視」などの感情を助長

102 フェミニストたちは、依存を平等論の妥当性基準及び正義の主観的・客観的環境として、ジ

ェンダー論的視点から、人間が深く相互依存する生物であるだけでなく、ときには、必然的・

不可避の依存状態を経験するのだということを私たち自身が理解しない限り、あるいは依存状

態を受け入れ、深い愛着が湧き出す源泉、人間の社会組織をつなぐ核としてむしろ大事にしな

い限り、男女平等が実現され、公正でケアのゆきとどく社会への道を見出せなく、男女平等の

真の実現はユートピア的理想のままであろう、と主張する。エヴァ・フェダー・キテイ(岡野

八代・牟田和恵監訳)『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』(白澤社, 2010)3-4 頁参照;

有賀美和子『フェミニズム正義論』(勁草書房, 2011)179 頁以下参照。 103 この意味での自由は本質的に「生の事実」として存在し、人間社会の構成を「自然的活動の

世界」と「規範的要請の世界」との区別からみれば、「自然的活動の世界は、いわば裸の自由

の世界である。」こうした自由によって行われる人間の自然的活動においては「各自の能力、

当初の社会的地位あるいは事後の獲得財産等の差異によって、必然的に様々の社会的および経

済的な自然的不均衡が産み出される……自然的不均衡の多くは人々の間に様々のコンフリク

トを生ぜずにはおかない」と長谷川は指摘した。長谷川晃『権利・価値・共同体』(弘文堂、

1991)107 頁以下を参照。

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し、人間を社会から排除する一方、正義感覚を有する人間本性の本来を歪曲する恐れもあ

る。こうした制度編成は直ちに改められるべきことは当然である。異なる文化的要素の差

異への配慮が欠けているところから、現代国家の危機傾向として社会的排除を含む様々な

問題が噴出し、市民権を文化の領域にまで体系的に拡張・実践せよとの要請が立ち現れて

くる。

平等の理念にとって最も重要な使命の 1 つは、社会制度の恣意性の抑制によって「排除

的社会」を克服することである。しかし、伝統的な平等の理念は、もはや失効した。 それ

は、ある立場から見ると平等を正しく理解されなかったためと言われるし、ある立場から

見るとわれわれの住んでいる世界が変わって平等要請の内実を変化しまったためとも言え

る。伝統的な平等の目標は、同一性としての平等であり、各個人それぞれの属性や様態を

絶対的に剥ぎ取られた同等で平等(同一)な人間として現れる104。近代社会制度の合理性

に付与する契約論の中で想定された諸個人の社会的身分は同一化されたが、諸個人の平等

の基礎に社会的合意形成の主体の発達の同一性をおくのではなく、諸個人の平等を基礎に

し、その上で各人にとっての各人の発達の平等が主張される。このような平等主義の立場

からすれば、構造的弱者、障害者は必然的に差別・排除せざるを得ない。そこでは、等し

い自由な生き方の保障があるわけではない105。 104 竹内章郎『現代平等論ガイド』(青木書店, 1999)14 頁参照。 105 ここで、「平等の多義性」という問題に注意を喚起しておきたいのは、正義の探求は、正義

が行なわれるべき人的範囲が画定されて初めて、要するに「正義の人的範囲 justice constituency」が同定されて初めて、開始することができるからである。平等観念は、第 1 に、

正義の人的範囲の構成員を画定するという出発点の問題を指示していると理解してよかろう。

このほかにも平等概念に潜んでいる多くの意味があるのであり、それこそが厄介な問題を惹起

するのである。というのは、平等観念は、第 2 に、正義の人的範囲の構成員全体が同じ画一

的ルールの適用を受けるべきだという要請を指示しているからである。だが、この第 2 の意

味における平等観念は、正義の人的範囲から依然として排除され続けているかもしれない人間

に対する明白な不正義を無視している。また、平等観念は構成員全員を対象とする画一的ルー

ルが構成員全員に対してただ等しく不正義であるかもしれないという事実をも無視している。

さらに、構成員の現実的境遇の間にすでに存在する正義に重要な関連性を有する差異の上に付

け加えられた画一的ルールもまた、はなはだしく不正義であるかもしれないという事実も無視

している。第 3 に、平等観念は、先に述べたダルールの画一性という第 2 の意味とはまった

く正反対に、ルールを適用した後に産み出される個人間の平等を増大するように、ルールが個

人の境遇の多様性に応じて個人間に差異をつけるべきという要請を提示しているかもしれな

い。この意味の下での平等は、画一的ルールの適用ではなく、適用可能な法のルールが、もと

もと現実に不利益を被っていた人々の有利になるように差別的取扱いを行なう場合にのみ達

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後期近代たる現代の平等の目標はそれと異なり、資本主義体制ないし市場関係において

相対的経済的剥奪をなくすことであり、能力や業績主義で多様性を受容する社会への移行

を通じて自己実現と平等主義的アイデンティティを充足させることでなければならない106。

社会は個人を社会的主体として取扱い、承認感覚の不全或は存在論的不安を解消するにあ

たって、政治的・経済的包摂だけでなく、社会的・文化的側面から分析し、かつ法的ニー

ズの把握した上で、包摂のプロセスを見出す必要がある。ある者が差別されたと感じるな

ら、開かれた社会は人々の間にある正義感覚に訴えてこれを問題化し、違憲審査などの法

解釈107を通じて平等権を回復しようと努力し、これに依拠して社会的包摂を目指そうとす

る積極的実践を行わなければならない。

以上のようにして、配分的正義の理論は、このような配分の問題領域の複合性を考慮に

入れて再構築され、平等の実現を漸進的に達成することを求める必要があるだろう。その

複雑さに関しては、また幾つかの問題があり、それに対しては、実質的な正義に適うよう

に回答されなければならない108。平等に関する概念と理論の様相は極めて複雑かつ多様に

なってきており、そうした中で様々な条件が密接に絡まり合う関係性を持つに至っている。

成されうるのである。ジュリアス・ストーン(平野敏彦訳)「正義は平等に非ず」(田中成明・

深田三徳監訳)『正義論』(未来社, 1989)202-3 頁。 106 竹内章郎『平等論哲学への道程』(青木書店, 2001)285-9 頁参照。 107 この点は、基本的に法解釈の問題につながっている。日本の法解釈学において利益考慮論に

典型的に見られるように、法規範から自由な思考に立っている。例えば、日本の法解釈論争に

ついて考察したドイツのラーンは、法解釈をめぐって日本とドイツでは態度が大きく異なると

する。すなわち、日本の川島武宜、加藤一郎、星野英一らの解釈論では、まず結論が、法律と

は独立に、すなわち常識ないし民衆の法感情に依拠した利益考慮なし価値判断として獲得され

る。そして法解釈は、そうした結論を人々に納得させるためのものであると位置づけられ、そ

れゆえ結論を理由づけるのに都合のよい規定や解釈が事後的に探される。こうした観念を反映

して判決文でも、厳密な法律厚生は重視されていない。Guntram Rahn, Rechtsdenken und Rechtsauffassung in Japan: Dargestellt an der Entwicklung der modernen japanischen Zivilrechtsmethodik, Muenchen, 1990, S.397 ff.『司法改革の理念的基礎——報告集——』(日

本法哲学会, 2001)11-2 頁参照。 108 例えば、⑴いかなる財や負担を配分することが公正か、または配分する可能性があるか。(e.g. 平等を確保するための経済的・社会的権利以外にも文化的権利もある、文化的差異と文化的格

差に対する是正の基準)⑵配分されるべき資源に対する正義の範囲は何か。(e.g. 環境への権

利、発展への権利)⑶配分されるべき受益者は誰か。公正な負担を求める権利を主張できるの

は誰か。(e.g.マイノリティ問題)⑷平等な配分の例外として一般的に引き合いに出される事

情は何か。(e.g. 妥当性のある差別)⑸不平等な配分に正当性が認められる事情は何か。⑹ど

のような財や負担が公正に配分されうるか。

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このような問題文脈をめぐって、本節の最後に、平等な配分に関する多様な条件について、

ロールズのいう基本的諸自由の概念を含めた観点から整理しておくことが必要であるだろ

う。

第3款 異質志向的平等による対等な配慮:自由の概念と政治文化の文脈を求めて

1970・80年代、英語圏で経済的あるいは物質的な財が争点となった配分的正義の議論は、

その支柱となる自己、合理性、共同体といった概念についての研究へと至るにつれて、そ

の論争が経済的側面や福祉にまったくとどまるものではなく、不平等と支配の形態が経済

的あるいは物質的配分以外にもあるという多方面にわたるものになった。社会的正義の発

展の方向は、経済的な結びつきや機会構造はまさに「所与の」ものではなく、文化的規範

によって構成されることを強調することによって109、経済的相互行為よりむしろ文化的相

互行為の正しさを多様性や多元主義といった政治文化的主張において理解し、格差問題を、

社会集団における差別行為と関係づけて考えると同時に、自由概念についての理解もただ

経済的領域や政治的領域に限定されたものだけではなく、宗教・信仰・言語・民族・職業・

性的指向等の多様な様相と複雑な文化的把握において再措定される必要を有するに至った

のである。

この点に関連して、ロールズによる正義論全体の論理的枠組みからすれば、ロールズは

自由(liberty)と他の社会的基本財を厳密に区別していることが重要である。ロールズは

正義の二原理のなかで、優先に位置づけられた第1原理は基本的諸自由の平等(equal basic

liberties)として自由の等しい保障を人々に与えると考えた110。それらの自由の例としては、

<政治的な自由(political liberty)>、<言論および集会の自由(freedom of speech and

assembly)>、<良心と思想の自由(liberty of conscience and freedom of thought)>、

心理的抑圧および身体への暴行・損傷からの自由を含む人身の自由、個人的財産と法の支

配の概念が規定する恣意的な逮捕・押収からの<人身の自由(freedom of the person)>

109 タリク・モドゥード(宇羽野明子訳)「人種間の平等——有色人種、文化、正義——」、デ

イヴィッド・バウチャー、ポール・ケリー編(飯島昇藏・佐藤正志訳者代表)『社会正義の系

譜——ヒュームからウォルツァーまで——』273-4 頁参照。 110 H.L.A. Hart, 1975, Rawls on Liberty and its Priority, Norman Daniels (ed.),Reading

Rawls: Critical Studies on Rawls' A Theory of Justice, Basic Books, p.233.

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などが上げられている(Cf. TJ, p. 53/85 頁)111。ロールズは、正義の第1原理においても

っとも基本的諸自由の平等な配分を原理の目的として考えている際に、第1原理は抽象

的・原理的な意味で先行するという逐次的順序に従って配列されねばならないという意味

で、自由を強調しているのである。ただし、彼は、「他の人々の諸自由の同様な制度枠組み」

と両立し、他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならないと考えた112。ロールズ

が強調したのは「liberty」は他者危害とならない限り、他者に対してはできるだけ干渉せ

ずに、幸福追求のために許容されうるという意味で、他者から拘束を受けない消極的自由

であった。

ここで、消極的自由と積極的自由という概念上の峻別については、とりわけアイザイア・

バーリンによる 2 つの自由概念の示唆が重要である。バーリンによれば、消極的自由は、

個人が他者からの干渉なしに自由に選択することができることで 「~からの自由(to be

free from)」とも言われる。他方、積極的自由、すなわち「~への自由(free to)」は、自

分の行為を「自らの選択」によって決定する自由で、 いわば「自分が自己の支配者

(self-mastery)」となることである。ロールズの議論との関係では勿論、他人からの干渉

や束縛のない消極的自由が重要である。しかし、束縛には多くの種類がある。それゆえ、

自由にも多くの種類がある。「自由」がなにを意味するかを理解するには、それがなにから

の自由であるか、あるいはなんのための自由であるかを、われわれは知らなければならな

い113。自由に関して議論するときに、自由、という名詞の前に形容詞を付加してもそれに

より明確な意味を示し得るということにはならない。ロールズのいう自由とは「政治的な

自由」、「財産=経済的自由」であるが、実はそれらの概念は消極的意味、それとも積極的

意味で使われているかははっきりしていない。積極的意味での「~すべく自由である」と

いう表現に対して、社会的・経済的制度は自由の配分にどのような重要な役割を果たすこ

111 『正義論』全書の文脈からみれば、彼は自らの正義原理は例として挙げられた基本的諸自由

のリストに制限し、このリストにおける原理の比較・検討として大雑把に論ずる。H.L.A. Hart, 1975, Rawls on Liberty and its Priority, Norman Daniels (ed.), Reading Rawls: Critical Studies on Rawls' A Theory of Justice, Basic Books, p.236.

112 この考え方は、基本的に J.S.ミル『自由論』の中で表明された「他者危害原則(harm principle)」を中心として理解されている自由観である。つまり他者に危害を与えない限り

において各個人の自由を最大限に尊重すべきである。John Stuart Mill, 1859. On Liberty. John W. Parker and Son, West Strand, pp. 21-22.(山岡洋一訳)『自由論』(光文社, 2006)27-8 頁参照。

113 M.クランストン(小松茂夫訳)『自由:哲学的分析』(岩波新書, 1976)188 頁。

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とができるのか、さらに、社会的・経済的側面だけではなく、文化的諸権利につながる自

由の配分について、ロールズの正義の2原理からの答えはどうなるのかがはっきり示され

ていない。それ故、ここでは、もう一度彼のいう「§32 自由の概念」に立ち戻って確認する

必要があるであろう114。

そのまえに、まず、ロールズが自由の概念を考慮する際の原典であるアメリカ憲法に戻

って、それを概念理解の背景として幾つかの示唆を探求したほうが有益であろう115。1787

年に最初制定されたアメリカ憲法は、前文、本文7条と 10条修正条項によって構成された。

前文では当該憲法の目的が列挙される。本文の 7 条は直接的に国民の権利を規定するので

はなく、むしろ立法、行政、司法等の国家権限を示すものである。アメリカ憲法修正条項

は現在 27 か条があるが、最初の 10 か条は「権利章典 Bill of Rights」と呼ばれ、この名前

は 1689 年に制定された英国の「権利章典」に由来するものである。章典の内容は主に市民

の自由と権利保障に関する規定であり、信教、言論、出版、集会、武器保有の自由から、

審理陪審、正当な手続き(デュー・プロセス)、生命、自由、財産権の保障まで幅広く市民

の基本的人権に応えできる体制を整えている。諸自由の具体的内容からみれば、積極的自

由と消極的自由は両方あり、しかしその形式上の区別ははっきりしないことの影響で、ロ

ールズは両方の意味で自由という言葉を使え、法律専門家ほど違和感はあまりしなかった

かもしれない。あるいは、ある論者の指摘のように、ロールズの「基本的自由」の理解は、

彼が「基本的自由」と「基本的権利」という概念の相互関係を明確にしないまま、しばし

ば並列的あるいは同義的に用いている116。そうした自由概念のなかに含まれた拡張・実践

可能性とも相まって、立憲主義的民主制の下において市民の平等な諸権利を重視するロー

ルズにとって、単なる消極的自由を議論するだけでなく、積極的自由を認めた上で、それ

114 自由の概念は主に『正義論』第 32 節において議論されているが、ロールズのいう自由の概

念の再考察は、第 32 節を含めて全書の文脈からそれを解きほぐそうという試みである。 115 川本隆史の考察によれば、「1960 年代のロールズが初めて公表した作品が、まさしく「憲

法」を扱ったものだった(「憲法上の自由と正義の概念」)」「ロールズの言い分では、身体

の自由、良心の自由、思想の自由、政治的自由、移動の自由、機会の平等といった「憲法が保

障する自由」が、<平等な自由>という特徴を共有しており、この種の自由に関しては差別・

不利益があってはならない。…….自由な社会においては、正義の概念こそが、<憲法上の自

由の基礎に関する共通了解を支える最も合理的な根拠>となる。」川本隆史『ロールズ——正

義の原理』(講談社, 2005)94-5 頁。 116 田中成明「ジョン・ルールズ「公正としての正義」論」法哲学 1972 年報 186 頁。

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についての議論などをも視野に収めることで、自由と平等との複雑な諸関係を双方的に分

析することが可能となる、という見方も有益であろう。

これに関連して、H.L.A.ハートが 1973 年に発表した「ロールズ——自由とその優位性に

関して」において、ハートはロールズ正義論の基本的な論理構造を次のように正確に捉え

ていた。つまり、正義の具体的構想は自由の平等のみならず、可能な限り拡張的に配分さ

れることを要求するのである。もっとも、この自由の量的拡大という観念がハートによれ

ば、実現不可能である117。この点、われわれは可能な限り拡張的な自由を、万人に対して

平等に賦与するべきであるという意味で理解された自由の量的拡大という観念は、トマ

ス・マーシャルの考察によれば、シティズンシップという概念の発展につながる。「身分か

ら契約」への移行に伴う政治文化の変化は、まず、特権観念の正当性を失うとともに個人

を不平等な身分社会から解放し、漸進的に様々な社会的不平等を緩和してゆくうちに、個

人を自由で平等な主体として定立してシティズンシップを付与する。シティズンシップは

最初市民的・政治的権利として、言論、思想、信仰、結社等の自由、私的財産を所有し契

約を結ぶ権利等を指し、ついで社会福祉の諸権利として、労働権、社会保障権、教育を受

ける権利などを指す平等な社会的地位および均等機会を主張する権利にまで至る118。文化

117 ハートは同論文の第 3 節以下で、自由の量的拡大というロールズの構造が、理解不可能な内

容をもつことを強調した。Hart, H.L.A. 1973. “Rawls on Liberty and Its Priority.” The University of Chicago Law Review 40 (3): 535-6; 542ff;渡辺幹雄『ロールズ正義論の行方』

(春秋社, 1998)361-2 頁参照。 118 マーシャルは、18 世紀から 20 世紀にかけてイギリスの歴史に即して、市民的権利・政治的

権利・社会的権利が順次発達したと経験的に説明する。(Thomas Humphrey Marshall. 1950. Citizenship and social class: and other essays, Cambridge U.P.)「かれの強調したシティズ

ンシップの原理は地位の平等性であり、それはいったんある領域、例えば市民的な領域で確立

されると、他の領域に「こぼれ落ちる」。平等性は他の領域に普遍化されるが、理論的には、

平等の原理であるシティズンシップは、他の領域にも、表現の形態は違うけれども平等を要請

する。異なった形態をとり、場合によっては対立する諸権利を各領域で生み出す。このように、

シティズンシップは一元的な概念ではなく、諸要素が統合されたものなのである。こうした視

点に立てば、20 世紀において市民的自由の制限のもと社会的権利が確立されたというよりも、

市民的権利における平等の原理の確立が、社会的領域にまで影響を与えたと考えるほうが妥当

である。シティズンシップの各要素は、対立しあう部分も持っているのだが、平等性という規

範が分野を超えて伝播し成立したという点が重要なのである。これが、マーシャルの議論の重

要な理論的含意である。」亀山俊朗「シティズンシップをめぐる政治」大阪大学大学院人間科

学研究科紀要 35 号 184 頁(2009)シティズンシップの平等性は、経済的平等または社会的尊

重(social esteem)と概念的に異なるだけでなく、それ自体がただの権力の平等性よりもむしろ

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的諸権利の意義がもっともはっきりと示されるのは、マーシャルにおけるシティズンシッ

プの諸権利の三つのカテゴリーを、それぞれに対応する自由の概念と結びつけたときであ

る。このやり方に従えば、市民的諸権利に対応するのは自由主義の核にある消極的自由の

概念であるのに対して、政治的諸権利には、市民としての、自己決定としての自由という

民主主義的な理解が対応する。今日では、消極的自由と政治的自由との自由民主主義的な

混交は、広く当たり前のものとされている。自由民主主義の正義論にとっては、「政治—法」

的領域での自由が主要な関心であり続けてきた。その自由を、消極的自由と政治的自由と

が両々あいまって、定義するというわけである119。

以上の考察から、ロールズの自由概念について、以下の 3 点を指摘できる。第1に、ロ

ールズが「近代人(the moderns)」の自由について語っている、ということである。「〈近

代人の自由〉の方が〈古代人の自由〉よいも大きな価値を有する。……思想・良心の自由

や市民的自由等の〈近代人の自由〉は、政治的自由および政治に等しく参加できる自由の

ために犠牲にされてはならない(TJ, pp.176-7/273-4;JF, pp.2, 143/4,254 頁)」。第2に、

ロールズが制度や法、とりわけ憲法による自由の制約について論じている、ということで

ある。ロールズによれば、「憲法上・法律上の制限と関連させながら自由について論じてい

るつもりだが、この場合、自由は、制度の一定の構造、すなわち権利と義務を定める公共

的ルールの一つとなる。したがって、人々は、何かをするかしないかを何らの制約なく決

定できるとき、何かをするかしないかを他の人々から干渉されることなく決定できるとき、

その何かをすることについて自由な状態にある、ということになる(TJ, p.177/274 頁)」。

第3に、ロールズはシステムとしての自由について語っている、ということである。「基本

的諸自由は、一体として、つまり 1 つのシステムとして評価されるように(TJ, p.178/275

頁)」注意しなければならない(Cf. TJ, pp. 177-8/273-4 頁)。また、「自由は、制度の一定

の構造、すなわち権利と義務を定める公共的ルールの一つとなる(TJ, p.177/274 頁)」と

述べていることからも明らかであろう。 非常に複雑的であることを示し、個人の自由、法の下の平等、財産や契約をする権利、権力側

に授権された組織のメンバーシップへの資格、公職就任の資格など広範にわたる権利を含むと、

マーシャルは主張する。John Archer Jackson (ed.), 1968. Social Stratification, Cambridge U.P., p.35.

119 デイヴィッド・ウエスト(田中智彦訳)「社会正義と社会民主主義の彼方に——積極的自由

と文化的権利——」(飯島昇藏・佐藤正志訳者代表)『社会正義論の系譜』(ナカニシヤ出版, 2002)324-5 頁参照。

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このようなロールズの自由概念から、その正義理論の拡張可能性として、以下のような

指摘ができよう。第 1 に、「ホモ・エコノミクス」は、近代人の典型であり、それを社会的・

経済的活動において自己利益の追求のために合理的に行動する存在とするならば、「近代人

の自由」は経済的合理性に大きく影響されることになる。ロールズは、この危険性を回避

するため、理性概念において合理性(rationality)だけでなく、適理性(reasonableness)

をも重視している。また、理性には正義感情も含まれていること、正義感覚の陶冶が重要

であることも主張している。「近代人」として経済的利益のみを追求する合理的な人々を想

定することは不適切であり、人類学や経済学からは、人は社会的地位、権利、名誉、資産

等のために行動するのであり、利益はその結果にすぎない、との批判もある120。また、「近

代人」が合理的な人々であると想定することも不適切である。人の行為が理性だけでなく

感情にも左右されることを我々は承知している。人は理性的に行動できるが、他方で非理

性的、反理性的に、あるいは感情的に行動することもあり、それでも個人は一つの人格と

して存在している。人の行為の契機は感情ではなく理性であるべきであり、人は理性によ

って感情をコントロールすべきである、というのは「あるべき人」の姿、すなわち規範的

人間像であって、現実の人間とは異なっている121。したがって、人々の有する理性のみな

らず感情にも留意して正義理論の公正さを示すためには、ロールズの正義理論において「理

性」や「合理性」がどのように定位されているのかを確認する必要がある。

第 2 に、ロールズは、社会的・経済的格差の是正について公正さを示めそうとしており、

また、基本的諸自由を主に政治的・経済的自由に限定している。そのため、ロールズが文

化的諸権利についてどのように考えていたのかがわからない。そのため、正義の二原理が

異なる文化の対等な承認、異なる文化に帰属している多様な人々の主観的ニーズに考慮し

つつ、そのような多様な人々に受容可能なものとなりうるかどうか、という課題が重要な

意義を有することになろう。特に、正義の第1原理は、すべての人々の平等な自由を説い

ている。ここで、「文化的諸権利(cultural rights)」は、もっとも広義の基本的自由に含

まれる。このような基本的自由は、教育を平等に受ける権利、学問の自由、信教の自由等々、

人々の自由、生存および幸福の追求に必要不可欠なものだが、一般的に文化的諸権利とい

う場合、多様な文化それぞれの発展、独自性の維持がそこに帰属している人々の尊厳にと

120 カール・ポランニー(野口建彦・栖原学訳)『大転換——市場社会の形成と崩壊』 (東洋

経済新報社, 2009)第 4 章参照。 121 今井直重「法の理念的性格について」奈良学芸大学紀要第1巻第1号第 39 頁(1951)参照。

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って重要な意味を有することも認められている122。ロールズは、文化的諸権利、すなわち

文化の自由と文化的平等の内容や意義ついてどのように考えていたのだろうか。

まず、彼の正義の理論の中心理念から考えれば、『正義論』の目標は、「社会契約理論を

一般化しかつ抽象度を一段と高めた正義の構想を提出する」ことに向けられている。そう

した目標を達成するためには、社会契約を「特定の社会に入ったり、特定の統治形態を設

立したりするためのもの」と考えるべきではない。なぜかというと、社会契約の重要な合

意内容は、「所定の社会に参入することや所与の統治形態を採用することではなく、一定の

道徳原理を受容するところにある」ので、そうした原理とは、「自分自身の利益を増進しよ

うと努めている自由で合理的な諸個人が平等な初期状態において受諾する」ようなもので

ある。ここで社会契約という概念によって引き出されているのは、「伝統的な社会契約説123

における自然状態(state of nature)に対応するものが平等な原初状態 (original position)」

いう仮説的状況である。「この原初状態は、実際の歴史上の事態とか、ましてや文化の原始

的な状態とかとして考案されたものではなく、一つの正義の構想にたどり着くべく特徴づ

122 「文化的権利」について、条約レベルと位置づけられた『経済的、社会的及び文化的権利に

関する国際規約(ICESCR)』と『市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)』が

あって、例えば、ICESCR の第 15 条は、文化的な生活に参加する権利を規定する。また ICCPRの第 27 条は文化的、宗教的、言語的少数民族の権利、その言語を使用する権利を規定する。

法実践において文化的権利の保護に関しては、欧州人権裁判所も一連の案例を通じて「文化的

権利」の概念とその内容を釈明した。これに関する研究報告によれば、文化的権利は主として

次のように8つ分かれる。(i)芸術的表現(right to artistic expression)(ii)文化への接

近(access to culture)(iii)文化的アイデンティティの権利(right to cultural identity)(iv)言語文字の権利(linguistic rights)(v)教育の権利(right to education)(vi)文化的・自

然的遺産を保護する権利(right to the protection of cultural and natural heritage)(vii)歴史的真実を探求する権利(right to seek historical truth)(viii)学術的自由の権利(right to academic freedom)。その中に、特に文化的アイデンティティの権利については、そこで

欧州人権裁判所は再度、一連の内容豊富で多様な判例法を通じて、文化的権利の保護が政治的

自由という文脈に依存することを例示してくれた。文化的権利は人々のアイデンティティに結

びついており、⑴文化的あるいは民族的アイデンティティを自由に選択し、その選択が尊重さ

せる権利、⑵宗教的なアイデンティティへの権利、⑶思想、良心及び宗教の自由、⑷結社の自

由、⑸合法的文脈において自らの民族的アイデンティティについて、その信念を表現する自由、

⑹集会の自由等を内包している。[Cultural rights in the case- law of the European Court of Human Rights, published by European Court of Human Rights, Jan. 2011](http://www.refworld.org/docid/4e3265de2.html)

123 伝統的な社会契約とは、ロールズによれば、ロック、ロソー、カントに見られるような社会

契約というものである。(Cf. TJ, p. 10/16 頁)

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けられた、純粋に仮説的な状況」である(Cf. TJ, pp. 10, 11, 14/16,18, 23 頁)。正義の諸原

理は「無知のヴェール veil of ignorance」に覆われた、具体的な社会文化風土という現実背

景から切り離された人々の合理的判断の結果として導かれるものである。正義の諸原理の

合意のために、原初状態にいる当事者たちは無知のヴェールの背後に位置づけられて、特

定の偶然的諸事実の影響を排除する必要がある。そのために、文化的要素、つまりその社

会がこれまでに達成できている文明や文化のレベルなどの事実は捨象されている124。

ところで、原初状態で正義の原理を選択した当事者たちが、憲法制定会議に移る際に、

つまり政治的見解の多様化に対処するための手続きのうち、より正義にかなっている<政

府が持つ憲法上の権力>と<市民が持つ基本的権利>のシステムを設計する場合、以前排

除された文化などに関連のある一般的事実を、再び憲法制定会議に参加している人々は入

手する。なぜなら、「適切な正義の構想に関する合意はすでになされているので、無知のヴ

ェールが部分的に引き上げられる」のである125。ロールズ正義理論における文化的諸権利

の位置づけにおける一つの特徴は、文化的要素に対する関係の有無にあり、つまり原初状

態で正義の諸原理を選択する段階における文化的要素との無関係性と、憲法制定会議の段

階における文化的要素との繋がりという二段階に分かれている点である。前者において純

粋な手続き上の正義を担保しうるものとして、正義の諸原理を達成するために、特定の偶

然的諸事実の影響を無効化する必要があるので、文化的要素を含む一定の事実は排除され

ている。なぜなら、ある正義構想は「文化のある段階で、そして異なる構想は別の段階で

適用されるかもしれない」のである(Cf. TJ, p. 108/168-9 頁)。後者において当事者たちは

124 無知のヴェールを被った当事者は、以下の自己に関する事実を知らないものと想定されてい

る。すなわち⑴自分の社会的地位、階級もしくは社会的身分、⑵生来の資産や才能の配分・分

布における自らの運、すなわち、自らの知力および体力など、⑶当人の善の構想(すなわち自

分の合理的な人生計画)や自らの心理的特徴(楽観的/悲観的等)、⑷当事者たちの社会に特

有の情況、すなわち、その社会の経済的もしくは政治的情況や、その社会がこれまでに達成で

きている文明や文化のレベル等)、⑸自身の属する世代。 124 無知のヴェールで覆い隠されないもの:⑴人間社会に関する一般的な事実(政治上の事柄や

経済理論の原理等)、⑵正義の諸原理の選択に影響を与えるあらゆる一般的な事実。(Cf. TJ, pp. 118-9/185-6 頁)

125 「もちろん、会議に参加している人々は今なお特定の個人に関する情報を入手していない。

人々は自分たちの社会的地位や、生来の資質の配分・分布上の境遇、あるいは善の構想につい

て知らない。だが、人々は今や、社会理論の原理に関する理解に加えて、自分たちが暮らして

いる社会に関連のある一般的事実——自然環境および天然資源、経済発展の水準、そして政治

文化など——を知っている。」(TJ, pp. 172-3/267 頁)

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「社会における各自の居場所に戻り、社会システムに対する自分たちの権利要求を諸原理

に照らして判断する」際に、「理論上の知識と自分たちの社会に関する適切な程度の一般的

事実とを踏まえて、もっとも実効的で正義にかなう憲法を選択することになる。そのよう

な憲法は正義の原理を充たし、正義にかなう実効的な立法をもっともうまく導き出すと予

測できる(TJ, pp. 173-4/267-8 頁)」。人々を協働の社会につなぎとめる規範的原理を探求

するためには、具体的現実的な社会・経済・政治・文化等諸制約を超えなければならない。

それゆえ、ロールズは原初状態と無知のヴェールといった思想実験の概念道具を持ちなが

ら、そうした探求が志向している先にある価値、即ち「正義」とその理論を構築している。

その理論構成の特徴として、正義の原理の導出部において「無知のヴェール」によって文

化的要素が排除される一方、正義の原理の実践部において、政治生活に向けた実現可能な

正義原理は、明確な歴史的、社会的、文化的状態のなかで認識されうるという側面を彼は

「多元主義の事実」として強調した。

その半面で、ロールズは、機会均等の原理をもってメリトクラシー社会の文化現象を批

判した。かれによれば、「相対的に貧しい階層の文化は疲弊している反面、統治にあたるテ

クノクラートたちエリートの文化は力と富という国家目的への奉仕の見返りゆえに安定し

ている。機会均等は、影響力や社会的地位を個人個人が追求するに際して、不運な人々を

置き去りにするための平等な機会を意味するに過ぎない(TJ, p. 91/143-4 頁)」。また、功

利主義者の文化的条件の使い方に対して、「少なくとも適度に好ましい文化の条件下では、

利益計算をきっちりやればそのような制限が正当化されることは決してない」と彼は批判

した(Cf. TJ, p. 182/281 頁)。つまるところ、ロールズは、「民主的文化における正義の環

境を所与とすれば、そのような社会はどのような理想と原理を実現しようと努めるのであ

ろうか」と問い、「民主的社会の永続的文化とみられる穏当な多元性(PL, pp. xviii, xxi; JF,

p.84/150 頁)」を前提とした「政治的正義の構想」にその解答を求めている(JF, p.4/8-9 頁)。

このようなロールズの思想の背景にあるものは、「自由主義社会が公正な社会的協働の条

件に関する最小限の前提を含んだ善を前提していることを認めること(善の希薄理論)」で

ある。政治的正義構想の基礎には公共的政治文化の観念が前提となっている126。これらの

126 「晩年の彼の論文のいくつか、および『政治的リベラリズム』の中でロールズは、公正とし

ての正義は公共文化の基底に存在する一定の理念に依拠している、と主張していることを見落

としてはならない」。谷口隆一郎「共通善と自由——市民社会の公共善と市民の自由の間」聖

学院大学論叢第 18 巻第 2 号 179 頁(2006)。

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諸観念を明らかにするために、政治的な思考や法解釈が必要とされる。なぜなら、民主的

社会の公共的政治文化からの諸観念は、「よく知られているものであるとみられている」が、

「しばしばはっきりと定式化されていなかったり、それらの意味が明確に示されていなか

ったり」するのである。政治的な思考や法解釈の客観的基盤となる文脈は、「裁判所」にの

み限定するのではなく、文化や社会状況における「恒久的意義があると見られている歴史

的文書」や「その他の文書」、また「リベラルな立憲政体の公共的政治文化(の一部)にお

いて使用可能な政治的諸観念(JF, p.56/97 頁; LP, p.15/21 頁)」、などにも求められる(JF,

pp.6, 27, 29, 33/10, 45, 49, 57 頁)。これに対して、政治的な思考や法解釈の主観的基盤と

なる文脈は、人々の共感や理解を得て市民相互の協働的信頼関係が深まるような互恵的観

念である。つまり、「最も不利な状況にある人々が自分は政治社会の一部だと感じ、その理

想や原理を備えた公共的文化が自分自身にとって意義あるものだとみなすことを必要とす

る。(JF, p.129/227-8 頁)」。こうして客観的基盤と主観的基盤の両面から確保される政治的

な思考や法解釈は正義の政治的構想によって実現される「公共的政治文化の持つ性質」と、

そのような文化が「公共生活の道徳的本質と市民の政治的な性格に与える望ましい効果」

を示すことができる(JF, p.118/208 頁)。それゆえ、われわれは平等を求める傾向において

教育の役割、すなわち、「自分が帰属する社会の文化の享受および社会の運営への参画を可

能にし、それを通じて各個人におのれの価値に関する確固とした感覚を与える」という役

割を重要視しなければならない(Cf. TJ, p. 87/136 頁)。この正義に関する感覚あるいは意

志は、「市民間の友情の基盤となるとともに、政治的文化のエートスを形成する(Cf. TJ, p.

205/316 頁)」。正義感覚はロールズ正義理論の中核をなす根本的概念である。リベラルな政

治文化とそれを支える公共的理性および再認との概念関係を改めて詳細に検討した再解釈

を通して、正義感覚は、個人のアイデンティティやパーソナリティを尊重しつつ差別を解

消するのに効果的な概念装置であるとされる。これらの理論的役割と意義については次章

以降で詳しく考察する。

ロールズによれば、自己と文化の紐帯は一般的にきわめて強固であり、自己の文化を破

棄することはなかなかできるものではない。このことは、政治的共同体を自ら退出するこ

との困難性を説くために提示されたものだが、この議論には、ロールズ自身が認識してい

たもの以上の含意がある。ロールズは、「文化的アイデンティティを有する市民」という概

念を用いているが、このような市民は、一般的に、社会や政治によって連帯している以上

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に、文化によって連帯している。文化により連帯している人々の把握は、国家という政治

的単位を超えて生きる人々の把握であり、「文化的アイデンティティを有する市民」という

概念は、かつての文化との連帯が稀薄になると思いこまれてきた移民等であっても、母語

の使用や歴史の理解をとおして連帯を維持、確立しうると認めることにつながる。この点

に関連して、ウィル・キムリッカは、ロールズの正義理論は、とくに政治的な紐帯の価値

を重視したものではなく、むしろ文化的な紐帯の価値に基づくものであると指摘する。そ

の文化の境界線は、政治的単位である国家の境界性と一致しているとは限らない127。人の

帰属意識を規定するものとしての文化は、それに依拠して自己のアイデンティティを形

成・維持・修正するための資源と条件を提供する。こうした開かれた構造の中に置かれて

いる文化システムに基づく個人のアイデンティティは、共同体論者の主張するように「構

127 W.Kymlicka, 1995, Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights,

Oxford U.P., Cf. p.86.(角田猛之ほか訳)『多文化時代の市民権——マイノリティの権利と自

由主義』(晃洋書房, 1998)129-30 頁参照。集団間の文化の差異とそのリベラルな価値をめ

ぐるキムッリカとロールズの見解の相違について、盛山和夫『リベラリズムとは何か——ロー

ルズと正義の論理』(勁草書房, 2006)269-74 頁参照。両者の見解の違いがあるけど、あま

り明確でないという点に、むしろ注意すべきであろう。この内容は次のようにまとめる。 キムリッカ ロールズ

文化的 独自性

リベラリズムの文化に従属すべ

きだ。

包括的リベラリズムには反するような非リベ

ラルな諸文化も「道理的」でありさえすれば

容認される。

理由

包括的リベラリズム:集団の文化

はそれ自体がリベラルなもので

なければ、その集団はより広い

政治的共同体において共通に妥

当すべきリベラルな価値を尊重

しないだろう。

「道理的」かどうか:少数者集団の文化はたと

えそれが十分にはリベラルなものではなくて

も、基本的なレベルで正義の原理とそれに基

づく正義的構想を受け入れているならば、そ

の集団が含まれることになるより広い政治的

共同体においてその少数者文化が否認される

ことはないという可能性がある。

対立点

「リベラリズム」を包括的教説と

して、「結局のところ、リベラル

な文化をもった集団でなければ

リベラルな政治共同体の正当な

一員となるのは無理だ」

「リベラリズム」を政治的構想(=限定的)と

して、他の包括的教説や文化のそれぞれの独

自性をできるだけ尊重しようとする。

共通点 ⑴少数者集団の文化が何らかの形で尊重されるべきだ。 ⑵共通にすべての下位文化に適用されるべきリベラルな原理が存在する。 ⑶少数者集団といえども、基本的自由や平等の理念を尊重しなければならない。

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成的な目的 constitutive ends」と見なされる閉鎖的なものでなく、自由主義化の文脈にお

いて誰でも自由に接近したり修正したりすることで、達成(accomplishments)の尺度の代

わりに帰属(belonging)という尺度として、より自由主義的にもなるものである。そこで

は、「希薄化」された形であれ、自己の文化的アイデンティティに照らして、社会制度編成

に意味付けを与え、それによって諸制度に一定程度の透明性を付与し、公共のことがらへ

と参加しやすくなる。ある自由主義国家において何らかの民族の構成員であったとしても、

民族独自の慣習といった背景的文化との紐帯は弱まり、自由主義にコミットしている人々

の価値観等を共有する可能性、あるいは自由主義という政治的文化との紐帯が強まる可能

性が高くなる。こうして、何らかの民族のある構成員は、その民族集団において特異な存

在となり、国民集団において普通の存在となっていく。これが繰り返されるうちに、多様

な人々は国民として均質化していく。そして、このことは、自由主義があるべきものとし

て想定してきたプロセスでもあった。しかし、現実には、均質化の傾向は、かえって種々

の文化的諸権利の重要な根拠となり、多様な文化の相互承認、それぞれの維持等に重要な

価値が認められるようになってきたのである128。

以上の考察によれば、ロールズは、文化的諸権利を無視しているわけではないが、文化

の自由および文化的平等を達成するための具体的なアプローチとして、正義の二原理がそ

のまま適用されるかどうかについて、明言していない。この点からすれば、ロールズの正

義原理は文化的諸権利には適用されないようにも見える。しかし、『正義論』には、この問

題への対応に関するヒントが含まれており、『正義論』の拡張・実践可能性、あるいは方向

性を見いだすことができる。というのは、ロールズが注記するところでは、「原初状態で選

ばれるであろう原理が政治道徳の中核をなす。それらの原理は、人々が帰属する文化の諸

形態を規定する」からである(Cf. TJ, p. 194/300 頁)。文化や社会の共通の活動に参加する

能力を私たちが発達させるための条件の一つとして社会生活がある(Cf. TJ, p. 458/684 頁)。

あるいは、人間が共に生活することを通じて人類の社会的本性/自然本性による集団的な

社会的活動、すなわち「多くの連合体およびそれらを統制する最大規模の共同体の公共的

生活とが、私たちの努力を支持し、私たちの貢献を引き出す」。その上、「共通の文化から

128 Yale Tamir, 1993, Liberal Nationalism, Princeton U.P., Princeton, pp.72, 85-6.

W.Kymlicka, 1995, Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights, Oxford U.P., Cf. p.90.(角田猛之ほか訳)『多文化時代の市民権——マイノリティの権利と自由主義』

(晃洋書房, 1998)134 頁参照。

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得られる善は私たちがもはや単なる断片ではなくなるという意味において、各人の作業結

果をはるかに凌駕している(TJ, p. 464/694 頁)」。ここにはロールズの思考における文化の

意義付けが看取される。それゆえ、「事実上、ロールズの正義論において、文化、あるいは

言語による不平等問題の発生はとりあげられていない。このような問題を解決するために

は、ロールズの正義観のほかに多文化主義の理論に基づいて、その解決の糸口を探さなけ

ればならない」という観点に対して129、私は、ロールズ正義理論の哲学的再考によって克

服する契機が含まれていると思う。

また、平等の問題としては、社会的・経済的格差だけでなく、文化的諸権利の保障の程

度の差異等、文化的格差をも視野にいれなければならないが、ロールズの思考にはこの問

題についての示唆も見て取れる。たとえば、公立学校制度を確立するだけでなく、私立学

校に対する補助金制度も確立するなどして、同程度の資質と意欲をもつ人々に教育を受け

る機会を平等に保障する努力を続けることが重要である(Cf. TJ, p. 243/370 頁)。また、「文

明および文化の水準を向上させることに伴う負担を世代間でどのように分かち合うべきか

(TJ, p. 253/383 頁)」といった問題を、ロールズは提起している。金の給付や公共財や負

担、資本130の配分の側面からみれば、これは確かに社会的・経済的問題として公正な機会

均等につながり、「公共財の調達=配分的正義」に関わる大問題となるように思われる。す

なわち、「同様な意欲を有する人々に教育や教養を積む同等のチャンスを保証し、関連する

義務および任務に無理なく結びついた資質と努力に基づいて、地位と職務を全員に開かれ

たものとする、…富の不平等が一定の限度を超えてしまうと、こうした制度が危険にさら

される(TJ, pp. 245-6/373 頁)」。しかし、政治、経済分野を超え、文化、言語、歴史、芸

術といった幅広い専門領域にわたる市民社会の全般から見ると、文化的諸権利もまた公共

財の平等な配分を要請するとともに、社会生活における集団、組織、制度に共有されてい

る社会通念や価値観や文化秩序および、それらに関する表現・解釈・コミュニケーション

に根差した文化的・象徴的な不平等、特に<近代人の理性的自由>に基づく文化的支配に

よる非主流文化の非承認や異文化に対する差別・抑圧・蔑視といった文化的不平等を是正

129 張東震「ロールズの正義論と韓国社会」文化共生学研究第 7 号 26 頁(2009)。 130 ロールズのいう資本とは、工場や機械といったものにとどまらず、正義にかなった制度と自

由の公正な価値とを可能とする技術と技能はもとより知識や文化も含むということである。

(Cf. TJ, p. 256/389 頁)

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するという要請も含まれている131。また、文化的諸権利の特徴からすれば、「人々が育まれ

た言語や文化は,自主的に選んだ嗜好というよりも、選択の余地のない状況の一部と見做

されるべきである。それどころか、言語や文化へのアクセスは時に、有意味な選択をする

能力そのものの前提条件となりうる。別の言語や文化のために自分の言語と文化を放棄す

るのは、確かに不可能ではない。だが多くの場合、非常に困難で費用のかかる過程である。

また、多数派の構成員が同様の犠牲に直面しないのに、この費用の負担を少数派に期待す

るのは理屈に合わない」132。政治的制度の編成プロセスに対する平等なアクセスの促進は、

財の配分の問題だけでなく、社会通念や常識で運営される社会制度をとおして、マジョリ

ティと共通の帰属意識が醸成され、対等とはいえない文化的対話に参加させられる問題に

とっても有意義である。

以上のように、ロールズは、政治的構想において、人々の文化的状況も考慮すべき要素

として認識しており、かつ実際に考慮もしていた。政治的構想は、「立憲政体の公共的政治

文化に暗黙のうちに含まれているとみなされる根本的な諸観念——すなわち、自由で平等

な人格としての市民とか、協働の公正なシステムとしての社会といった諸々の構想——か

ら創り上げられる(LP, p.143/208 頁)」が、ロールズは、ある程度正義に適ったリベラルな

社会では、異なる文化的背景を有する様々な諸集団、民族的集団それぞれの文化的利益や

ニーズを満たすことが可能だと考えている(LP, p.23-5/31-3 頁)。人々の根本的な利害関心

は、「ある国の人々が一つの国の人々として抱く自尊の念であり、それは自分たちの歴史の

なかの様々な苦難や、諸々の偉業を伴う自分の文化への共通の自覚」によるものである(LP,

p.34/46 頁)。つまり、自尊心は、公共的・市民的文化における数々の偉業にも基づいてい

るといえる。だからこそロールズは、「文化の自由」の重要性を確信し、「リベラルな文化

131 社会システムから、経済秩序と文化秩序との 2 つの社会領域の関係の理解については、アク

セル・ホネットとナンシー・フレイザーとの論争によって、主に次の 2 つに分かれる。一つ

目は、ホネットの「承認の規範的な一元論」により、経済秩序は文化秩序に従属する。つまり

資本主義的な経済秩序は、承認の非対称形態に基づく文化的価値の定着の制度的成果として捉

えられるべきである。2 つ目は、フレイザーの「perspective の二元論」により、経済秩序と

文化秩序は並列的関係である。つまり経済秩序は、制度化された文化パターンによってもはや

直接にコントロールされなく、他の諸社会領域から解き放す、そうした一つの社会システムと

して理解されるべきである。詳しく参照、ナンシー・フレイザー/アクセル・ホネット(加藤

泰史監訳)『再配分か承認か?』(法政大学出版社, 2012)。 132 W. Kymlicka, 2002. Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Oxford U.P.,

p.340(千葉眞ほか訳)『現代政治理論』(日本経済評論社, 新版, 2005)491-2 頁。

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の自由と独立」の保障を重視したわけである(LP, p. 48n60/66, 279 頁)。政治的判断の誤

りをできる限り回避し、是正するため(LP, 14・5 節)、支援義務を正しく果たすため(LP,

15・3 節)、公共的政治文化は、日常的な政治内容のすべてを埋め尽くしてしまうべきでは

ないが、その背景として重要なものであり、政治プロセスにおいて作用し続けなければな

らないのである(LP, p.102/149 頁)。

このように、公共的政治文化をも重要なものとする政治的構想において、政策や政治的

諸制度の妥当性の基準となる正義の諸原理は、個人レベルの正義にまで適用される必要が

あることが明らかになった。そこでは正義感覚が重要となる。正義感覚は、人々の心的態

度とその傾向性を表わすものである。既存の平等をめぐる固定観念を打破し、新たな意識

を覚醒させるのは平等を志向する正義感覚であり、正義の二原理を理解する人々の背景に

ある態度に関する理解とも密接に関係している。急速かつ高度に複雑化、多様化している

現代社会において、公共的政治文化をめぐるロールズの正義理論の射程および拡張可能性、

実践可能性を明らかにするため、以下の作業が必要となる。

第1に、正義理論の背景にある、あるいは前提となる「人間像」の把握である。人々は、

集団において、社会的共通感覚の枠内で他者と不断に交渉しつつ、具体的な生活を営んで

おり、このような社会的存在である人々にとって、正義概念は不可欠である。その正義が

適用される人々は、ひとまず各人それぞれの感性的経験、内的反省的直感といった個別性

や具体性から離れて、観念的、抽象的な共同体としてイメージされた全体的存在である。

このことは、事実上の様々な属性を捉えて設けられていた身分制度を解体し、多様な属性

を有する人々を「国民」という一つの法的地位に一元化したことに意義があると説かれる

近代立憲主義とも合致する。そこでは、すべての人々が公的に平等にあつかわれるべきで

あり、事実上の様々な属性に基づいて差別される人々があってはならない、と説かれたの

だが、やがて「平等にあつかわれること」が「同一であること」へと変質し、異なる者を

等しくあつかうことよりも、等しい者を等しくあつかうことへと力点がスライドした。そ

の結果、平等の要求は、多様な人々を包摂するためだけでなく、異質な人々を排除するた

めにも主張されるようになる。だからこそ、ここで改めて、平等を実現するための格差の

是正だけでなく、差別の是正、あるいは一つの国家、一つの社会における同質性の要求に

対抗しうるだけの異質性の相互承認の必要性を強調しなければならないのである。その場

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合、一つの法的地位に一元化された人々をどのような人々と理解するべきなのか。ロール

ズは、このことについて何か語っていないだろうか。そこを確認してみる必要があろう。

第2に、正義の二原理を受容し、実践しうる人間像を把握するために、正義を認識する

メカニズムも明らかにされるべきであろう。その場合には、おそらく理性的認識だけでな

く情動的認識にも留意すべきではなかろうか。「公共理性」によって喚起される「不正の感

覚」、「不正の感覚」によって喚起される正義秩序の回復要求等、情動的認識が理性的認識

の前提としても重要なものであることを示す必要がある。そして、それを明らかにできれ

ば、ロールズの正義理論の拡張、実効性の確立が現実のこととなろう。正義や平等に関す

る理解は、正義感覚を起点とするものである。このように説くメリットは、国家における

国民間の文化的差異の存在を所与とし、それぞれの文化を相互に承認することにより、各

文化の維持、発展を可能としうるところにある。換言すれば、多文化共生社会における平

等とは何か、という問題を新たに設定しうるところにある。ここまでの議論において、ロ

ールズの正義理論はこの問題をも射程に含めうるものであることが示されている。とりわ

け、多様な文化が一つの国家、一つの社会に存在していながら一つであるための基本原理、

「社会的統合」をなす基本原理は重要であり、それは、ロールズによれば、「社会的統合」

とは、礼節ある主体(agency)間の相互承認にほかならない。こうした相互承認の不足が

差異の再認をめぐる論争を惹起したと述べるロールズは、これまでに述べてきた平等概念

の問題の所在とその打開に向けた方向性を示してくれている。

小 括

本章では、主に以下のことを指摘してきた。

まず、本章に先立つ序章においては、転換期にある中国の「社会的不正義」、すなわち、

社会的・経済的格差が拡大するとともに固定化しつつある実情を概観した。ここでは、中

華人民共和国成立後の国家の基本的な方針と、それに基づいて定められた諸制度の影響に

由来する格差であり、自己の合理的決定や努力によって是正できない格差として、農民工

問題に象徴される農村部と都市部の地域間格差、あるいは都市部における非農村戸籍者と

農村戸籍者の格差を紹介した。しかし、このような格差は、必ずしも政策や政治的諸制度

によってのみもたらされたわけではない。より深刻な要因として、本論文は、人々の差別

意識や感情に注目した。およそ人には、他人と比較して自己の優れているところを肯定し、

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それによってアイデンティティを形成、維持しようとする性質があるように思われる。こ

れは、あらゆる人々に潜在的に備わっているいわば本性であり、この差別意識や感情をケ

アしなければ、格差を抜本的に是正することはできないと診断した。

続いて、ロールズの正義の二原理を敷衍した。正義の二原理は、社会的・経済的格差の

是正について規範的基準を提示しようとしたものだが、一般的には、基本財の配分におけ

る公正について語られる。しかし、上記の診断によれば、少なくとも中国において、正義

の二原理はただちに実効的に作用しないように思われる。なぜなら、そこで公正に配分し

なければならないとされる基本財が経済的財、物質的財に限られているからである。公正

に配分されるべき財は、もっと広範なものとして理解されるべきであり、たとえば文化的

価値を有する財もそこに含めるべきであろう。また、ロールズの正義の二原理が基本的に

は受容され、その内容について修正を求める批判的議論が展開されている欧米諸国の政治

文化と、中国の政治文化が異なることも無視できない、と指摘した。政治文化の異なる人々

によっても正義の二原理が受容可能となるための条件、あるいは正義の二原理がそうした

人々にとっても公正だと説明する際に、考慮しなければならない要素を明らかにしようと

試みた。本論文は、これについて着目すべき重要な諸概念が、ロールズの正義理論に既に

用意されていると考えている。それが「正義感覚」、「再認」である。これらの諸概念は、

正義の二原理が「理性的かつ合理的に判断できる人間」という規範的人間による理性的か

つ合理的判断の集積である、という従来の通説的理解を超えて、様々な私的感情を抱えて

いる情動的個人を起点としても、正義の二原理による配分が公正だといいうる可能性を示

唆しているように思われる。なお、私的感情を抱えている情動的個人という事実を起点と

しても、正義の二原理は、やはり公正に関わる規範的基準である。とりわけ「正義感覚」

は、事実と規範を架橋する重要な概念である。「正義感覚」の普遍性は、中国の政治文化を

共有している人々にとっても受容可能なように思われる。本章ではその指摘にとどめ、そ

の具体的な拡張可能性については2章以降で詳しく検討する。ロールズの正義の二原理の

中国における受容可能性、あるいは、私的感情を抱えている情動的個人を起点としても正

義の二原理が公正だといいうる可能性。本論文は、このような可能性を、ロールズの正義

理論の「拡張可能性」として追求するものである。

さて、ロールズの正義理論の「拡張可能性」、あるいは正義の二原理が「政治文化」の異

なる中国においても受容可能となるための条件を模索するにあたり、その準備段階として、

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本章では、リベラリズムに対する他の理論的立場からの批判、あるいはロールズの正義理

論に対する他のリベラリストからの批判を概観した。ここでは、「何の平等か」、「何の格差

が是正されるべきか」という課題が中心となっているように思われるが、本論文の立場か

らは、「なぜ格差がもたらされるのか」、「何を是正すれば格差が是正されるのか」を問わな

ければ、実質的な格差の是正にはつながらない、と指摘した。

本章では最後に、正義の二原理のうち、自由の平等な保障に関する第1原理に重点をお

いて、ロールズの説く「自由」概念を分析した。人々に平等に保障されるべき自由は、必

ずしも消極的自由に限られない、というのが本論文の診断である。身分制度を有する中世

国家から社会契約による近代立憲国家への移行は、特権の正当性を打破し、人々を様々な

身分による拘束から解放し、あらゆる個人を自由で平等な主体として、「国民」という唯一

の法的地位に一元化した。正義理論においては、一般的にシティズンシップがそれに該当

する。シティズンシップは、当初、政治的権利、あるいは言論の自由、思想の自由、信仰

の自由、私有財産の獲得と処分の自由を保障する諸権利を享有しうる法的地位であり、や

がて「市民」からの権利要求は拡大し、多様化した。しかし、シティズンシップは、それ

が認められている人々と認められていない人々の境界そのものにならざるをえない。結局、

自由が平等に保障される人々と保障されない人々という概念が形成され、平等な人々は同

質な人々であると捉えられるようになった。つまり、シティズンシップを有する人々相互

の多様性が等閑視されるようになったのである。ここで重要になるのが、多様な背景的文

化を有する多様な人々の存在を承認し、そうした多様な人々からなる社会の統合について

丁寧に検討することである。このような見地から、本章では、同質な人々を前提とした公

正な配分から、多様な人々のそれぞれに切実なニーズを尊重し、充分に考慮しつつ、ある

べき「自由の平等」を確立することが、もっとも重要な課題である、と指摘している。

ロールズの正義理論には、このような課題にも応じうるポテンシャルがある。それは、

ロールズ自身が「公共性から公共理性へ」と理性概念を変容させていることからも見てと

れる。第2章では、リベラルな「政治文化」とそれを支える「理由基底的な公共性」、そし

て「公共性から公共理性へ」と変容した理性概念について詳しく検証する。

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第2章 ロールズ正義理論の発展性:公共性から公共理性への変容の再検討

はしがき

社会的・経済的格差の背景的要因には人々の差別意識や感情があり、このことを考慮し

ない配分を公正とみることは難しい。前章では、人々の主体性や人格の対等性に対する配

慮の重要性を指摘した。人々の主体性や人格の対等性に配慮しない限り、ロールズの提示

した正義の二原理が社会的・経済的格差の是正に向けて実効的に機能することは難しい。

格差を是正するためには、差別意識や感情のケアが重要になるという本論文の見地からは、

差別意識とも密接に関連している人々のアイデンティティの確立、維持、修正のプロセス、

その背景にある政治文化等も念頭において正義のあり方を検討することが望ましい。この

場合、ロールズの正義の二原理が異なる政治文化を背景とする人々にとっても公正であり

うることを示すため人々の私的感情を起点とすることも重要であるというわけだが、私的

感情、情動的人間像というありのままの事実から配分の規範的基準を示すにあたり、事実

と規範を架橋するものとして、理性はやはり重要である。また、異なる政治文化を超えて、

正義の二原理が受容可能であることを示すにあたり、欧米諸国と中国の政治文化を架橋す

るものとしても、理性が重要となる。

政治文化も、その重要な一部分においては、論理的思考(reasoning)によって形成、維

持、修正される。異なる文化の理解は、理性のみの作用によるものとは限らないが、理性

が諸々の社会現象の理解や人間関係の形成において重要な役割を果たしていることに疑い

はない。また、人々は、自身を道徳的能力の備わった理性的存在であるとみなし、差別意

識や感情を露骨に示さないようにしているのもまた事実であり、自身が経験したわけでは

ない他者の実情について、何らかの想像力(imagination)によって共感したり、差別意識

や感覚を克服しようとしたりしていることもまた事実である。このように、人間は、本質

的に非理性的存在ではなく、理性的存在である。ロールズが正義の二原理を導き出すこと

ができたのも、無知のヴェールを被せられた当事者たちが理性的存在だったからである。

さらに、正義の二原理を導き出すプロセスにおいて、理性の役割を再検討することにより、

「正義の端緒」とでもいうべきものの役割も明らかにされる。正義の端緒とは、正義の二

原理に先立つ原理、いわば正義の二原理の導出とその受容を保証する前提条件である。正

義の二原理は、リベラルな政治文化における人々の深層心理にある正義感覚と一致してい

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る。正義の端緒が確立されているわけである。リベラルな政治文化には、自己の決定に基

づいて行為し、その法的な帰結を認識し、かつ受容するという市民の能動的主体性が認め

られ、このような政治文化において、正義の二原理は、道徳的確信に基づいて充分に機能

するといえる。

ロールズによれば、人々は、自由で平等でありながら、適理性と合理性を有する人格的

存在である。リベラルな政治文化における公共理性をとおして、相異なる包括的教説を信

奉する人々の重合的合意として公共的な政治的構想、すなわち政治的公共性が形成される。

このプロセスが、多様な宗教的、哲学的、道徳的教説を信奉する多様な人々を一つの政治

的共同体として統合し、立憲民主主義の国家を維持するために必須の基盤になるとロール

ズは想定している。ロールズの説く理性については、様々な観点から議論が行われている

が、こうした議論を踏まえつつ、ロールズの正義理論の拡張可能性視点から、ロールズの

理性概念の変容をたどっていきたい。

第1節 公正としての正義における公共性

ロールズによって 1971 年に提唱され、1999 年に修正が試みられた正義理論は、「理性の

復権」に貢献したと評価されている133。ある意味では、ロールズの理性は、実用的な役割

だけが付与されたもので、ロールズは、もっぱら合理的推論(rational reasoning)による

政治的・道徳的議論(argumentation)における交渉と妥協により利害調整を図り、有益な

結論を導き出すという、民主主義における熟議への期待を示したにすぎない。それでも、「ロ

ールズによる一連の考察に特徴的であったのは、政治的・道徳的議論において理由・理性

が有するそれ自体の意義や重要性を回復させたことにある」とし、「人々が有する欲求や利

害を妥当なものとして合理化する機能しか与えられていない理由とは異なる理由、すなわ

ちそれ自体が人々の要求を正当化する根拠として適切な役割を有している理由とは何であ

るのかをロールズは考察している」と評価されている134。なぜならば、互恵性と妥当性の

133 福間聡「理由の復権–公共理性に基づく正当化」社会と倫理 19 号 44 頁(2006)また、社会

保障制度の見地から、ロールズの「理性・理由」概念に基づいて道徳・政治哲学を考察するこ

とについて、福間聡『ロールズのカント的構成主義』(勁草書房, 2007)第1章参照。 134 この意見について、「福間の後期ロールズ解釈は、極めて妥当であり、首肯できる。」詳し

く参照:平手賢治「マルティン・ローンハイマーの政治的リベラリズム批判⑴」名古屋学院大

学論集社会科学篇第 44 巻第 1 号 72 頁注 9(2007)。

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価値が公正な社会的協働を支えているからである135。政治的・道徳的議論における一般共

通原理から結論にいたるまでの合理的推論は、主体相互の対等な関係と社会的信頼を確立

させるとともに、正義の二原理の正当性とそれに基づく社会的秩序の安定性を保証するこ

とになる136。そこで、ロールズがどのように理性の復権に成功したのかを確認しておこう。

第1款 理性・理由の復権と言われるロールズ正義理論とその文脈

正義の二原理は、原初状態において「無知のヴェール」を被せられた人々の論理的 ・非

感情的・合理的な判断が一致するとの想定のもと、その同意の内容として提示されたもの

である。しかし、実際の人々は、様々な感情も有し、情動的に判断することも少なくない。

また、合理的推論よりも自己の経験に基づき判断することもあるだろうし、集団的な議論

を経ながら判断し、合意することもあるだろう。ジョシュア・コーエンによれば、民主的

な熟議プロセスは政治的な討議の場のみに制限するのではなく、企業や労働組合、同業組

合や住民団体、そして家族や交友関係といった市民社会全体にまで拡張されるべきである

137。その討議の場の拡張・実践を伴って、討議民主主義を支える公共理性・理由、そして

正義構想を支える正義理論も拡張・実践を行う必要が出てきたと言えるだろう138。本論文

は、ロールズの正義理論を拡張・実践して、公共理性と正義感覚による主体的関与を軸に、

原初状態や無知のヴェールによる社会契約とそれに基づく統治形態や身の回りの正義感覚

の現象にはそのままでは適用できないという、ロールズ理論の「例外」をすべて統一的に

扱える理論を提案しようとするものである。自由で民主的な社会にあっては、市民である

135 Hadfield, Gillian K., and Stephen Macedo. 2012. “Rational Reasonableness: Toward a

Positive Theory of Public Reason.” The Law & Ethics of Human Rights 6 (1): 13. 136 Sean Ingham, 2011. “When Is Public Reason Possible?” Cf.p.3. Available at SSRN:

http://ssrn.com/abstract=1898867or http://dx.doi.org/10.2139/ssrn.1898867 137 Joshua Cohen, 1997. “Deliberation and Democratic Legitimacy”, in Deliberative

Democracy: Essays on Reason and Politics, J.Bohman and W.Rehg (ed.), The MIT Press, pp.84-7.

138 「ロールズもまた公共理性の概念が適用される人々の範囲を徐々に拡張している。ロールズ

は当初、公共理性のモデルとして、違憲立法審査権を行使できる最高裁が体現している理由付

けの手続きを念頭に置いており(PL, p.231)、公共理性の「理念 idea」とはとりわけ裁判官

の判断に適用されるものと考えていた。...しかし後にロールズはこの公共理性の「理念 idea」は最高裁の裁判官のみならず、政府の官および公職に就いている者、そして理想的には一般市

民までもが充たすべきものであると考えるに至っている(PL, p. 382n13; LP, p.135)。」福

間聡「理由の復権–公共理性に基づく正当化」社会と倫理 19 号 55 頁(2006)。

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われわれは政治的・道徳的権威者であり、それゆえ、法律や政策の帰結の正しさおよび正

当化については、最終的な判断者と評価者は「われわれ」に他ならず、われわれによる承

認が最終的な正当化の根拠となっている139。しかしながら、法律や政策の妥当性に関する

「われわれ」の判断ということは、「われわれ」の「それぞれ」の判断ではなく、公共的な

観点、つまり市民としてのわれわれに向けられている「公共理性」により共有する理由——

ロールズの言葉を使えば「公共理由」——によって政治的決定を公共的に正当化すること

を意味しなければならない。それ故、ここでの課題は、ロールズの正義論における公共的

な形での理性や理由の復権が有する含意を明らかにすることであろう。

ロールズの正義理論とその見解を理性のあり方を軸として理解するためには、彼が現実

的な理想(現実的なユートピア)140としての正義原理を作り出すように努めていることが

重要である。彼の正義構想は、すべての自由で平等な合理的理性人が同様の正義構想を受

け入れた秩序だった社会の理想的な条件のために設計されている限り、理想的である。そ

して、ロールズにとって理性のある人間は合理性(rationality)と適理性(reasonableness)

との 2 つの能力をもち、正義感覚と善の構想に対する道徳的能力をも備えるべきである。

ロールズは『正義論』において頻繁に特定の考慮事項および仮定が「合理的 rational」であ

るが、彼はこの概念をどのように使用するのかを明らかにしていない。昔からロールズは

一般的な意味で「合理的」という用語を使用し、早期論文において競合する利益間で裁定

するための「合理的な意思決定手続き」を発見することを目指していた141。その一方では、

「理に適った人間 reasonable man」「理に適った原則 reasonable principles」「理に適った

受容 reasonable acceptance」および「適理性の試練 tests of reasonableness」などの概念

が提出された。その後『正義論』および 1980 年代のデューイ講義において彼は「理に適っ

た主張 reasonable claims」「合意の適理的条件 reasonable conditions on agreement」「理

に適った合意 reasonable agreement」「理に適った人 reasonable persons」および「社会

的協働の適理的条件 reasonable terms of social cooperation」などを考え、最終的に『政治

的リベラリズム』において「理に適った多元主義 reasonable pluralism」「理に適った政治

的 構 想 reasonable political conceptions 」「 理 に 適 っ た 包 括 的 教 説 reasonable

139 A. Gutman and D. Thompson, 2004. Why Deliberative Democracy? Princetion U.P.,

pp.25, 45. 140 “realistic utopia”という用語はロールズの『万民の法』の中で使われた。LP, pp. 4, 5-6, 11-2. 141 Rawls, J. 1951, “Outline for a Decision Procedure in Ethics,” in CP, Ch. 1.

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comprehensive doctrines」「理に適った道徳心理学 reasonable moral psychology」および

「政治的適理 politically reasonable」などを論じた142。このようにロールズの正義理論に

おいては、理性の概念が重要な意義を有し、またその理解についても検討の価値がある。

以下はこの概念に関して、ロールズの正義論において「公共理性・理由」がどのように扱

われているかを明らかにする。

ここで、私は「公共理性・理由」に関するロールズの一連の理論文脈を想定される誤解

を取り除き、通時的に考察することを通じてこの問題を吟味したい。主に『正義論』と『政

治的リベラリズム』をめぐって、その概念の内容、意義および各段階におけるその変遷と

発展を検討しておきたい。まず、『正義論』による公正としての正義における公共性の意義

を解明した上で、公共性から公共理性へというロールズの態度の変化による諸特徴を整理

して示し、公共理性の意義と機能を確認する。公共理性という理念の中核となる正義感覚

の問題を考察する前に、再び公共理性の領域を確認しなければならないことを明らかにす

る。

第2款 原初状態の背後にある 2 つの実践理性:合理性と適理性

ロールズの 『正義論』 は社会契約説を現代的に再構成しつつ契約主義的アプローチを

蘇らせるというものである143。ロールズの思想的基礎としての社会契約は想像上のものな

ので、その契約がなぜわれわれの選択を拘束し有効にすることになるのか。それは、社会

契約はその締結が契約主義的に任意の契約なのではなくて、理性によるものだということ

にある。正義の諸原理は自由で理性的な人びとの行為を伴っている必然的目的として、「合

理的な人びとが選択するような原理と見なされてよく、そうした仕方で正義の構想の説明

142 「理性 reason」に関連するロールズの用語の整理については、参照、Samuel Freedman, 2007,

Rawls, Routledge, p. 296. 143 ロールズは、社会契約論の古典的形式に対して、少なくともいくつかのヘーゲルによる異議

に答えていると感じている(PL, pp.285-8.)。ロールズは特に人間の完全な社会的構想を支持し、

根本的な政治的合意を任意の仲介に還元しないと考える。ヘーゲルから彼を区別するものは、

相互承認というよりむしろ理に適った合意への永続的なコミットメントである。理に適ったこ

とへのコミットメントは、われわれが適切な敬意をもつ自由かつ平等な人となるというより優

先する重要なコミットメントに依存する。実際に原初状態での理に適った合理は、異なる視点

や立場の間の妥協というよりむしろ本質的に自由と平等な地位の意味の精緻化とみなされる、

というほうが適切である。厳密な意味では、これは決して合意としてではなく、論理的必然性

の承認と見なすべきである。Bruce Haddock, 1996, Hegel’s critique of the theory of social contract, in The Social Contract from Hobbes to Rawls, Boucher, D. & Kelly, P. eds., p.161.

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と正当化を果たしうる、との考えがそれである。(TJ, p.15/24 頁)」もっとも、契約に基づ

いて正義を考える必要性について、ロールズは十分な説明をしなかった。「原初状態 original

position」の概念は社会契約論における「自然状態 the state of nature」のようなもので、

自由で理性的な人間は彼らの行為を支配する原則を決定する場合、その情況を説明するも

のである。以前の社会契約論者に比べて、ロールズはこの初期状態(initial situation)144が

今まで、かつ今から存在したことがないと率直に認めた。原初状態は社会における正義原

理を選択するための想像上の状態である。正義原理を考える理由は合意の結果として考え

られたものの、実際にこれは私たちがその合意を一度も作ったことがない、と言わなけれ

ばならない。しかし、自然状態のようなものは彼にとっては重要な役割を果たしているこ

とも明らかである。なぜなら、私たちは社会生活を送るために、非協力という態度が実は

実行不可能なオプションであるとロールズは深く信じている。社会的協働を営むための合

意を達成することは、「ただその合意を認めるか、それとも流亡 take it or leave it」という

態度をとるやり方が社会関係の構築モデルとしては不適切である145。それゆえ、自然状態

の実践的意義を展示するための正当的手段として、次のようなものが満たされる必要があ

る。すわなち、公共正当化と合意の基礎といった実践的目的(ロールズはこれを社会的役

割(social role, CP, p.305)また公共的役割(public role, CP, pp. 426-7)と呼ぶ)、文化的

背景や推論の前提とその方法に依存している実践的基盤(TJ, sec 87; CP, p.429)、実践的正

当化(practical justification)はある文化の中にいるメンバーたちが自分の制度を正当化さ

せる理由を互いに説得するための意欲を持っていることを前提とする動機的要件(より一

144 社会契約という概念によって引き出されているのは、原初状態という仮説的状況である。こ

の原初状態は初期状態の一種である。TJ, p.11/18 頁。原初状態の意義について、「ロールズ

の議論の前提は、契約にではなく平等にある。それゆえ、ロールズの議論を批判するためには、

それが平等を適切に説明できていないことを示さなければならない。その際、人びとが契約を

結んだことなど歴史的に見てなかったとか、無知のヴェールを作り出すことなど心理学的に見

て不可能だとかあるいは原初状態など現実には存在しないといった批判は、不十分であるどこ

ろかむしろ的外でさえなる。問題は原初状態が実際に存在しえたか否かということではなく、

原初状態で選択されるであろう原理が選択の過程を所与とした場合に、公正なものとなるであ

ろうか否かということである。」W. Kymlicka, 2002. Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Clarendon Press, p. 64.(岡崎晴輝ほか訳)『現代政治理論』(日本経済評論

社, 2005)94 頁。 145 Freeman, Samuel Richard. 2007. Justice and the Social Contract: Eassys on Rawlsian

Political Philosophy. Oxford U.P. p.28

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般的に言えば、他の人と協力する意欲は、彼らが自由に正義感覚を受け入れることができ

るかどうという条件によるもの)および、道徳一貫性(ロールズはこれを「反照的均衡」

と呼ぶ)という四つの条件を満たした上ではじめて、原初状態の実践的意義を理解するこ

とができる146。

他方、この定式化の表現は、公正(fairness)が個人利益の合理的追求に由来することを

意味しない。実際これは還元不可能な道徳観念なのである。つまり、これは無知のヴェー

ルなどの概念装置をもって、正義原理を選択する場合に恣意的影響を与える要素を排除し、

道徳的制限を見出する必要があるという考え方の表現なのである。正義の二原理が社会契

約による合意のものだと言われた契約主義的術語に対して、ロナルド・ドウォーキンおよ

びチャールズ・ラーモアは次のように指摘した。ロールズによって提案された正義の二原

理はその真正な基盤が社会契約ではなく、むしろそれらの原理の中で表明された「基本的

権利への平等な配慮と尊重」にある147。当該各個人が正義原理を受け入れる理性を持って

いるというより、それらを合理的な合意の対象として考えた方が多いのが現実である、と。

しかし、契約主義的用語はそれ自体が長所であると言える。ロールズのいう「公共性」と

いう考え方からみれば、この考え方の中心には、契約の有効性は、合意の事実にも依拠し、

そして正義は権利や資産の適切な配分以上で構成されているということである。正義の諸

原理は公共性のあるものであるべきなのである。私達は、他の人も正義原理を肯定すると

いう事実に照らしてそれらを肯定する。ここで重要なのは、正義原理の公共性、つまりわ

れわれの正義原理を受け入れるための理性が他の人もそれらを受け入れる理由になるとい

うことである。正義原理は公共性を有しており、正義の構想はそのように一般的な支えを

持っているときにわれわれの思考の中で重要な位置を占め、そこでロールズのいう公共的

構想が作動する(TJ, pp.48, 115/77, 179 頁)。契約主義的手法は、正義原理が理性の正当性

とその公共性を満たすべき 2 つの必須条件を単一のイメージに組み合わせるところにメリ

146 この 4 つの要件の説明については参照、Freeman, Samuel Richard. 2007. ibid.,pp.37-8;4

要件に対して、ロールズの契約論的方法をめぐって、一般性、普遍性、公共性、整序性と窮極

性といった正義原理の形式的5条件を整理する研究は、詳しく参照:藤川吉美『公正としての

正義の研究』(成文堂, 1989)45 頁以下。 147 Charles Larmore, 2003, “Public Reason” in The Cambridge Companion to Rawls, Samuel

Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., p.370. Ronald Dworkin, 1977, Taking Rights Seriously, Harvard U.P., Chapter 6 “Justice and Rights” .これについてロールズの回答は CP, pp. 400-1n.

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ットがある。これら 2 つの条件は、共同に秩序だった社会の理想を定義し148、構成員の善

を促進するようもくろまれているだけではなく、正義に関する公共的構想にも配慮を与え

るべきである。

ロールズは最初に「カント的構成主義」において「the Rational(合理的なもの)」と「the

Reasonable(道理に適ったもの)」を区別して、社会的協働に関する実践理性の 2 つの側面

から論じた(CP, p. 316; JF, p.81/145 頁)。ロールズによれば、「2 つの種類の実践的推論を

区別できるというのが、私見です。私たちは、実践理性を合理的と考えることができます

し、あるいは理に適ったものと考えることができます。さしあたっては、「合理的 rational」

も「理に適った reasonable」もたんに言葉であり、ラベルであって、私たちはそれらの間

にいったいいかなる違いがあるかを知りません…… 私たちは、「理に適った」というのを、

公正であり、思慮分別があり、他の見地を理解できるなどといったことを意味するのに用

いる傾向があります。それに対して「合理的」は、論理的であるとか、自分自身の善のた

めに、ないし自分自身の利益のために行動するなどの意味を有します」と述べている(LHPP,

p.54/96-7 頁)」。「合理的なもの」は社会的協働の公正な条件に関連し、政策決定者としての

市民と被治者としての市民を含む人々の間での互恵性(reciprocity)と相互性(mutuality)

といった概念を必ず含む。これは人間を「理性的動物」と規定するのではなく、「他者と交

わる存在」もしくは「他者を求める存在」と理解することである149。そのような人は彼に

利益をもたらすものを得るためにあらゆる機会を活用しているが、そうすることで、他人

の利益や、彼の要求による悪影響を他人に与えることに無関心となる。この点で、彼は不

当に行動していると、理に適わない(unreasonable)者になる。われわれは、自己への配

慮の優先には直接的・反射的な行動を自己抑制し、他者との関係において自由を適切に実

践するための準備という政治性的要求を理解している150。さらに、「理に適った」人は、機

会があるたびに他人を利用するのではなく、他人の利益を配慮し、行動するための理由に

148 秩序だった社会においては、⑴他の人々も同一の正義の諸原理を受諾していることを全員が

承知しており、かつ⑵基礎的な社会の制度がそれらの原理をおおむね充たしており、人々もそ

のことを知っている(TJ, p.4/7-8 頁)。 149 岩田靖夫「第1章 デモクラシーと幸福」(宮本久雄・山脇直司編)『公共哲学の古典と将

来』(東京大学出版会, 2005)21 頁。 150 佐藤純一『政治と複数性——民主的な公共性にむけて——』(岩波書店, 2008)21 頁。

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合わせる。人々は他の人に対して正しいとすることができる方式でのみ動作するように望

み、そして、自身の利益のために社会的協力の公正な条件を遵守してゆく。

これとは対照的に、「合理的なもの」は、人々が社会的協力に参加することによって促進

された個人の合理的な利益や善を指す。より一般的な意味で、合理的なものはロールズの

説く「合理性としての善さ」また合理的な人生計画に即した善の定義といった観点に似て

いる151。その場合は、「合理的なもの」は、善の構想に構造を提供する実践理性の原則を含

んでいる。これらは、個人の合理的な善さを決定するための「討議的合理性 deliberative

rationality」と呼ばれた実践討議の枠組みおよび「計数原理」を含む。『正義論』において

理性(reason)の 2 つの能力をも合理性(rationality) と適理性(reasonableness) と

区別は明示されていないが、結局のところ、合理性の概念は「善 good」と「人に何かの有

利なこと」を特徴付けるために使用されたのに対して152、適理性は「正 right」の概念、と

くに「公正 fairness」の信念と、他人と他人たちの正当な主張への配慮を支払わない要求を

和らげるための意欲を目指している153。

『政治的リベラリズム』における「カント的構成主義」に関する一節の始まりにおいて、

ロールズは「合理的自律:政治的ではなく人工的なもの(Rational Autonomy: Artificial not

Political)」という観点を紹介したうえで、明示的に「合理性」と「適理性」との区別を示

した(CP, pp. 316-7; 詳しく展開 PL, pp.72-7)。そして、彼は、原初状態にある当事者が道

徳的能力の行使と発展において最上位の関心利益を持っているという点で適理的に自律し、

最上位の利益関心と善の合理的な構想によって動機づけられている、と言う。当事者の合

151 TJ, Ch.7; Sec.63。その合理性について、具体的にロールズは以下のように考えた。「実効

的な手段(effective means)の原理」「包括性(inclusiveness)の原理」「有望性の原理 greater likelihood」「計数原理 counting principles」「延期(postponement)の原理」。こうした

原理群により、合理的な人生計画の中から選択できることになる。「計数原理」とは、「実効

的な手段の原理」「包括性の原理」「有望性の原理」という 3 つの原理を適用するために、

各計画によって実現される原理の数をおおよそ計算したり成功の可能性を見積もったりする

基準である。(TJ, p.364/545 頁)長期的な人生計画の場合、将来の計画の細部はさらなる情

報が入手可能となり、いくつかあることがらのうちの一つを行なうことを欲するかもしれない

が、そのうちのどれであるのかがまだ不欠確かであるならば、他の条件が等しい限り、私たち

は現時点では、これらの選択肢を未決の状態にしておくよう計画すべきだ、とする「延期の原

理」という(TJ, p.360/537-8 頁)。 152 詳しく参照 TJ, Chap.7, “ as Rationality”, 『正義論』第 7 章「合理性としての善さ」 153 妥当性の訳語として参照 TJ, p. 429/641 頁。妥当性の考え方の中で最も顕著な使用例は原初

状態に合理的な選択を制限する解説である(TJ, pp. 14-8/24-30 頁)。

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理的自律性はまた、当事者が権利と正義に関する先議によって拘束されていないことを意

味するようになった(CP, pp. 308, 315)。社会的な協力の利益を得るといった理由のために

理に適って必要とされている能力の見地からみれば、道徳的能力における最上位の利益関

心は理に適ったものの側面であって、合理的なものの側面ではない。ロールズは、道徳的

能力の行使および発展における当事者の利益関心から、社会的基本財のリストを正当化し

ている。なぜこれらの基本財が非常に重要になるのかと言うと、これらは善の許容できる

構想を追求するために自由で平等な人々にとって必要とされるだけではなく、彼らの道徳

的能力を行使し発展するための必要な手段でもある。ここで重要な点は、道徳能力におい

て最上位の利益関心を持つことは、適理的な人間になることの一部である。それは自分を

自由だと考え、他の人と同じように対等な存在として位置づける。これはロールズにとっ

て本質的な価値を主張する哲学的な立場である。

なお、ロールズは、『政治哲学史講義』において、社会契約説の特徴の一つは、契約主義

的考え方が根本的利益を人々および社会的同意に入り込む当事者に帰するということだ、

と述べている。例えば、ホッブズの場合は、自己保存と夫婦愛と快適な生活の手段を得る

ために社会契約は私たちの本性のもつ本質的な側面を変えない(LHPP, p.42/75 頁)。また

ルソーの社会契約者は、ロールズがいうには、彼らの自由における根本的利益、自己愛

(amour-propre)および自由意志能力の完全可能性(perfectibility)によって動機づけら

れている(LHPP, pp. 197-8/353-4 頁)。ロールズにとって、根本的な利益関心は、原初状

態にある当事者に彼の社会契約的論法に対する興味を引き出し、最大限の、少なくとも十

分な基本財を得る願望を説明することにある。これは正義論で提示された合理的構想に関

する主な修正である154。

第3款 内在的な適理性の展開

ロールズは原初状態において合理性と適理性という 2 つの要素を区別するために、彼は

合理性に基づいて適理性を導出しよう、もしくは協力の公正な条件を求めようという試み

を最終的には放棄した155。ロールズは、次のような手続きが必要であると主張した。すな

154 Freeman, Samuel Richard. 2007. Justice and the Social Contract: Essays on Rawlsian

Political Philosophy. Oxford U.P., p.298. 155 合理性は目的に対する手段選択の効率性に係わる。規則にしたがった行為の中には、合理的

ではないのに正当な行為があるから、正当性と合理性は同じではない。詳しく参照 PL, pp.48-53.

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わち、適理性の意味は、この言葉の意義が他の概念と原則を明確に解明しようとするとこ

ろにある。そして、適理性の解明は他の道徳的概念を解明し、正義の政治的構想を発展す

るために適用することができる。ロールズは、このような手続きが必要であると主張した。

なぜなら、「合理性」の内容は正義に関する合理的な政治構想の内容だけによって確定され

るのである(PL, p. 94)。しかし、かれは「適理性」の概念を定義はしない。これはロール

ズの議論にとって非常に重要な概念で、彼も幾つかの異なる方法で使用している156。その

点で、この概念は『政治的リベラリズム』においてもっとも広範な使用とそのもっとも徹

底的な解明がなされている。社会契約の位置づけからみれば、ロールズは適理性のある道

徳原則が単純に「合理性」また個人善といった概念から派生させないという主張において

ホッブズの考えと異なる。むしろ、適理性は自らの独立な道徳原理を通じて実践的推論の

独特で、かつ独立の領域を形成している。ロールズは、適理性と合理性は相補な観念であ

り、適理性でも合理性でも他方なしに立つことができない、と考えた(PL, p.52)。彼は適

理性と合理性のある行為主体が社会的・政治的生活における責任の基本単位であることを

意味するように思われる、と言う(PL, p.50)。完全に「理に適わない」しかし「合理的」

な人は社会生活に適しておらず、完全に「不合理的」しかし「理に適った」人は協調した

行為をする能力を欠いている。

また、ロールズは普通に使用された意味とは異なる認識論的意味でも「適理性」という

用語を使っている。「判断の重荷 the burdens of judgment」は哲学的問題について、適理

性と合理性のある人々の間に正当的不合意が存在することを示唆している。ロールズは、

「もっとも基本的なレベルでの哲学的問題は通常、確定的な論拠によって解決されていな

い。一部の人には自明であり、基本観念として受け入れられるものは他人には知性が足り

ないかもしれない。(PL, p.53)」もし同じ理由、論点と証拠を提示された「理に適ったかつ

合理的」な人々さえ彼らの意見が一致することができないなら、これは意見が理性に開か

れていない、不確定であるということを意味するにちがいない。『政治的リベラリズム』に

関するこの解釈の問題は、ロールズにとっては、哲学的論争の立場——形而上学、認識論、

および他の哲学の分野に関するある種の懐疑論——が公共理性の考え方と両立しない立場

であることになる。このことは、理に適った人が全ての利用可能な理由と証拠を評価する

156 ロールズは、最初にこの概念を「倫理上の決定手続きの概要」において使った。Rawls, J. 1951,

in CP, ch.1.

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ことを通じて正しく推論し、それらに適切な重要さを割り当てるという認識論的意味で人

間を理解するとロールズが考えていることを示唆している。理に適った人はロールズの説

明において認識論的要素にある程度依存している。また、ロールズは特定の理論的特徴を

もって証拠に答える教説として、「穏当な包括的教説」を認識論的に定義する157。しかし、

それにも関わらず、「適理性」の概念は、究極的には、ロールズの多くの用法において主に

道徳的意味として考えられる。「理に適ったものは認識論的な考え方(たとえそれは認識論

的な要素を持っているにしても)ではない。それは公共理性の観念を含む民主的市民の政

治的理想の一部である. . 理に適ったものは合理的なものより他者の公共的世界に立ち向か

っている。(PL, p.62)」

適理性の概念は人間にも適用される。「適理性のある市民 reasonable citizens」と「適理

性のある人 reasonable persons」は『政治的リベラリズム』における重要で影響力の強い

概念である。ロールズは、適理性のある人という考え方の主な特徴を工夫することによっ

て政治的適理性の概念を解明するが、そこには要点が 2 つある。まず、⑴適理性のある人

は、彼らが受け入れる条件で、他の適理性のある人と協力することを望む、異議が生じた

ときにそのような条件を提案する意欲を持っている。これは、彼らが持っている正義感覚

の一部である。したがって、適理性のある人は、拒否されたかもしれない協力の条件を妥

当として容認することをその他の適理性のある人に強制したり操作したりすることを望ん

でいない。これは、彼らが他の人の自由と平等を尊重することを意味している。また、⑵

適理性のある人はまた、判断の重荷の影響を承認して理解している。彼らは、道徳的、哲

学的および宗教的な問題に関する合意は単に無知、利己心、感情の違い以外の理由のため

に困難であることを理解している。彼らが公正であることを求めるときに、同様の理由と

証拠が提示された場合であっても、人びとが異なる判断を引き出すこともありうる。これ

らは概念の曖昧さ、特別な道徳概念、事実に基づく証拠の複雑さおよび教育や経験の違い、

人々が同じ考慮事項と証拠に割り当てた重要性の違い、そして論争の両側の規範的考慮事

157 「理に適った包括的諸教説 reasonable comprehensive doctrines」を認識論的に理解する考

え方について参照 PL, pp.58-66. 「理に適った包括的諸教説」に関するロールズの思想におけ

る独特の曖昧さがある。しかし、認識論的な考え方に対して、その一方で、彼は最初に「理に

適った市民が主張する教説」としてそれらを特徴づけ、時にはこの用法に戻る。(PL, p. 36) ロールズの説く重合的合意の意味を理解するためには、認識論的視点は採用されるべきである。

なぜなら、もし後者の定義が適用される場合だったら、重合的合意は取るにたりない意味にな

る。

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項の複雑さを含んでいる(PL, p.56-7)。さらに、⑶適理性のある人とは、正義感覚を持って

いるということである。適理性とは自己イメージおよび自尊心の基礎の一部であり、彼ら

は他の人が自分を適理性のある人として認識してほしいと思っている。⑷適理性のある人

は理に適っていると見られたいだけではなく、彼らは自身が理に適った道徳心理も持って

いる。これは、彼らが正義感覚を含む道徳的本質を持っていることを意味する。それはま

た、彼らは適理的かつ合理的な原理のために行動する意欲や「原理に依存する願望

principle- dependent desires」を持っていることを意味する158。

以上のことを別の角度から見ると、適理的な人々のことを承認して受け止めるというこ

とは、彼たちと異なる「包括的教説」を肯定するということである159。また、適理性のあ

る人は、他の異なる合理的な教説をもつ適理的な人々と協力することをそれらのすべての

異論を合理的に受け入れるという条件に従って望んでいる160。そして、適理性のある人は

単に他の適理的な人々の教説を認めて辛抱するわけではなく、互恵性(reciprocity)の基準

も受け入れる。つまり、彼らは適理的な人々の是認できる原則と政策に従って他の人々と

一緒に暮らすことができるようにしたいと考えている。また、適理的な人間は承認して受

け入れることができるという理由で、彼らは異なる合理的な教説をもつ人々に対して、法

律や政治政策の十分な妥当的根拠を示したいとも考えている。この意味で、「適理的」であ

るということは、「公共理由 public reasons」の見地から他人と対話をするという意向を要

請している。この目的のために、ロールズは『正義論』の範囲を超えて、さらに正義の政

治的構想、合理的な包括的教説に含まれた政治的構想に関する「重合的合意 overlapping 158 ⑴から⑷までの特徴は、詳しく参照、Freeman, Samuel Richard. 2007. Justice and the

Social Contract: Essays on Rawlsian Political Philosophy. Oxford U.P., pp.346-7. 159 包括的教説とは、「すべての主題に適用され、すべての価値を包含する教説」のことであ

る。ロールズは、公正としての正義は社会の基本構造のみに適用されるものであり、その射程

は政治的なものに限られるとする。政治的なものは、道徳的なものの領域のほんの一部にすぎ

ない(JF, p.14/23-4 頁)。また、公正としての正義は「超越的な諸価値」の優劣について判

断を控える。「そのように言うことは、政治的なものの領域を超えること」になるからである

(JF, p.37/64 頁)。魚躬正明「ロールズの財産所有制民主主義についての一考察」成蹊大学

大学院法学政治学研究科第 38 号 53 頁(2012)。また、合理的な異論の説明による判断の重

荷に関する部分を参照、PL, pp. 54-8. 160 ロールズのいう合理的な人々は 2 つの追加的特徴がある。1 つ目は、合理的な人々は完全に

協力欲(cooperating)をもつ社会的構成員と見なされる、2 つ目は合理的な人々は合理的な

道徳的心理を持っている。二番目の特徴は合理的な人々が正義構想のために作動することがで

きると暗示する(PL, pp. 81-2)。

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consensus」、公共理性、という三つの主要なアイデアを紹介して展開した(PL, p.44)。こ

れら三つのアイデアは秩序だった自由社会のための十分な条件となっている161。

『政治的リベラリズム』において主に提出された問題は、適理性と合理性のある人間が

異なった穏当な包括的教説のため、正義構想の最終正当化の意見を決定することができな

いということである。これは、すべての適理的な人がリベラルな正義構想に合意したもの

で、秩序だった民主主義社会はどのようにしてできるのかという問題を提起する。「穏当な

包括的教説」また「理に適った宗教的・哲学的・道徳的教説」の考え方はここで非常に重

要である。政治的リベラリズムにおいては、こうした教説を適理的な人が主張することに

なる(PL, p.36)。ここでの問題は、これが穏当な包括的教説の必要な特徴として計画され

たか、またはそれが穏当な包括的教説の重合的合意に由来する偶然的な特徴として意図さ

れたか、ということである。ロールズに最も影響を与えたカントの見地からみれば、ロー

ルズの現実的な理想を位置づけるのは、彼が正義に関する推理と判断を規制する基本的道

徳原理を発見するように努めているということである。しかしながら、ロールズはカント

の二元論を拒否し、正義の原則はただの先験的なもの、または純粋実践理性に基づくもの

として認めているわけではない(Rawls, J. 1980, p. 9, CP, p.304.)。確かに、彼は『正義論』

において道徳的能力をカント的意味で理解し、正義に関する実践的推論(practical

reasoning)を適理性かつ合理性のある人間に本質的な能力として強調している162。

しかし、ロールズの原初状態という考え方は、正義の諸原理の選択の状況を考案するた

めの媒介手段ともいえる、つまり原初状態での選択条件によって課された合理的、または

道徳的な制約を受けた、選択情況を工夫するということである。人々は、自分の社会的・

政治的関係と彼たちの性格、計画および見通しに対して、社会の基本的構造からの形成影

響力を受けている理性の知識を持っている(Rawls, J. 1974, pp.5-22, CP, p. 293.)。ロール

ズは「<公正としての正義>に関するカント的解釈」一節において、カントの自律という

概念に具体的な内容、つまり理性がそれ自体に法を与えることを目指した。「原初状態は経

験論の枠組みにおけるカントの自律の構想と定言命法の手続き的解釈として見ることがで

きるだろう。(TJ, Cf. p. 226/345 頁参照)」カント的構成主義によれば、人という概念構想

の出発点は実践的理性をもち、適理性かつ合理性の両方のある自由で平等な道徳的人間で

161 福間聡『ロールズのカント的構成主義——理由の倫理学』(勁草書房, 2007)67-70 頁参照。 162 Samuel Freeman, 2003, “John Rawls: An Overview,” in The Cambridge Companion to

Rawls, Samuel Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., p.5.

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あるのである。これはカントの場合において定言命法として、またはロールズの場合にお

いて原初状態として、構成的手続きにおいて類型化される人間像である163。道徳的原則は

こうした人間像および実践的理性によって構築されるものである。というのも、道徳的言

明が合理的または適理的であるということは、道徳的事実の優先性を強調する意味ではな

く、完全に合理的な人々が実践的推論の客観的な手順に従って受け入れる原則に合致する

ときのみ成立するのである164。『正義論』における人間に関するカント的概念構成は道徳的

主体という哲学的視点を体現し、実践的推理のための道徳的能力によってわれわれが自由

意志と責任を持った主体になることができるということは既に述べた。ロールズはこの根

拠に基づいて自己実現としての自律を展開し(TJ, §40)、道徳的自律との関係で本質的な善

の正義を提出し(TJ, §86)、正義の判断に関する認識論的客観性を確立した(TJ, §78)。し

かし、その後のロールズは包括的な構成主義者の立場を放棄し、理性を実践的理性から公

共理性に転換することを図ろうとしている点に特徴がある。つまり、公共理性の追求は、「実

践的な理由付け又判断のほかに道徳的秩序はないのと同様に、道徳的客観性と判断の有効

性は適切な社会構築による正しい判断の観点だけによって理解される」という点を否定し

たのである(CP, pp. 354, 356; PL, p.121)。ロールズの言う公共理性は、自由や市民的政治

的権利のみならず基本的な経済的社会的権利を含む基本的権利の観念を喚起し、行使する

包容力をもっていると強調している165。

第2節 正義の政治的構想における公共理性・理由

ロールズの思想と著作を連続的にみれば、『正義論』以来、公共性という概念はより体系

的に注目されてきた。それは偶然ではないだろう。『政治的リベラリズム』はその方向に関

するロールズの考え方がよく現れているものとして有名であり、特に「公共理性」や「公

163 カントの道徳的構成主義に関するロールズの解説につき、CP, Chap. 23, pp. 510-6; LHMP,

pp.235-52/343-67 頁参照。 164 TJ, Sec. 78, “Autonomy and Objectivity”/673-80 頁。また、CP, Chap.16, Lecture III:

“Construction and Objectivity,” pp.340-358; LHMP, “Two Conceptions of Objectivity,” pp. 243-46/353-7;PL, pp. 89-129; Onora O’neill, 2003, “Constructivism in Rawls and Kant”, in The Cambridge Companion to Rawls, Samuel Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., pp.347-67.

165 アマルディア・セン(後藤玲子訳)「民主主義の概念深化と実践:公共理性がもたらす社会

的正義」経済セミナー(584)47 頁参照(2003)。

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共理由」、「穏当な多元主義の事実」等という概念は『政治的リベラリズム』に非常に重要

である(CP, pp.573-615)。公共性の考えは、『正義論』における公正としての正義における

公共性から『政治的リベラリズム』における討議的民主主義への転換過程において彼の「公

共理性」という教説へと転換していく。彼は、『正義論』における反照(内省)的均衡(reflective

equilibrium)と原初状態による原則を踏まえて、制憲会議の段階で基本的諸自由の明細事

項を確定するために、公共理由の正当化に関する考え方として見られるものを提供した。

ロールズは公共理由・理性という考え方に 2 つの拡張された論じ方を与えている。第 1 は

『政治的リベラリズム』において主に第 6 章「公共理性の観念」において、そして第 2 は

1997 年の論文「公共理性の観念:再考(The Idea of Public Reason Revisited)」において

考察された。私は本節においては主に第 1 の点をめぐって説明しながら、後者の論文の中

で重要な改訂点を指摘する。

第1款 正義の政治的構想における理性の位置づけ

ロールズによれば、公共理由は、宗教的、哲学的および道徳的教説からの包括的な理由

ではなく、憲法上の自由の性質と限界を決めるために検討するべき諸種の考慮事項である

166。その一方で、公共的理性はロールズのライフワークの後半に発展する主な考え方の 1 166 ロールズは公共理由を「非公共的 non-public」および「包括的な理由 comprehensive reasons」と対比する。包括的な理由は、1 つまたは複数の包括的な教説に特有の理由である。非公共的

な理由には、包括的な理由と他の考慮事項も含まれている。それらの理由は市民の間で共有さ

れている場合でも、公共的政治審議に訴えるときに正当ではないかもしれない。また、公共理

由は民主的な公共的政治生活の中で正当的に訴えられたある種の考慮事項と価値である。そし

て、公共理性は、公共的な理由の総和以上のものであり、それはまた、官僚と市民たちが民主

審議及び判断に参加する時に、適切な推論規範や証拠基準を含む。注意すべき点は、公共と非

公共の区別は公私の区別ではない。ロールズにあって公共理性・理由の対概念は非公共理性・

理由であって、私的理性・理由ではない。そしてロールズにとっては、「社会的な理由 social reason」と「家庭的な理由 domestic reason」といった非公共理由が存在する。PL, p.220n7.この点について、ハーバーマスは、ロールズが道徳的人を「市民の公共的アイデンティティ」

と「かれの自らの善の構想による非公共的アイデンティティ」に二分割することで批判してい

る。詳しく参照、Habermas, 1995. “Reconciliation through the Public Use of Reason: Remarks on John Rawls's Political Realism”,The Journal of Philosophy 92. Cf. p.129. 見て

分かるように、ハーバーマスにとって、「公共的 public」と「私人的 private」の区別の根底

にあるのは、相互依存的プロセスとしての共通的アイデンティティおよび個人の発展の概念化

といった 2 つの関心事なのである。Onbasi, F Gençoglu. 2011. “Democracy, Pluralism and the Idea of Public Reason: Rawls and Habermas in Comparative Perspective.” CEU Political Science Journal 6 (3): 454.

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つであり、そしてそれは政治的リベラリズムとその主な特徴、例えば、政治の領域、政治

的正当性、リベラルな合法性原則、基本的諸自由の明細事項およびロールズの討議民主主

義の観念などを理解するために不可欠な概念である。公共理性の観念は公共理由に基づい

て、憲法本質と正義問題が社会における人々の政治的価値への訴えによって解決され、そ

の政治的価値は、包括的な教説ではなく、理性によるものを支持する。公共理性の構想は

市民同士の間で正義の議論について利用できる一般的な通貨を提供しているが、それは世

界的に普遍的な通貨を提供しているわけではない。つまり、方法論的意味での公共理性は

普遍的に適用可能かもしれないが、その内容は普遍的ではありえないのである。「立憲民主

主義制度を拒否する人々は、公共理性という考え方を拒否するのは当然のことであろう。

167」ロールズが提案した実践理性と適理性という概念構想は、具体的に公共理性の構想に

準じるものである168。普通に理性に基づく原則によって彼らの行為を支配する公約を共有

する人々は、民主主義社会の市民同士となる169。

市民や官僚は立憲民主主義において通常にある種の理由の感覚を持っており、対立する

宗教的・哲学的・道徳的見解を保つ人々が法律や憲法問題を議論するための理由、また立

法府や裁判所に発動された理由そのものは適切であるか否かについて、通常の意識的な観

念を心に備えつける。しかし、許容できる政治的理由が何であるべきかの一般的特徴を定

義するのは非常に困難である。例えば、市民たちは異なる信仰を持っており、それらの相

違は解決不能であるということで、宗教的教説は政治生活の外に置かれるべき、と言うに

は十分ではないだろう。また、市民たちが対立するだけで解決できない哲学的および倫理

167 “The Idea of Public Reason Revisited” in CP, pp.573-615. 実際には民主主義を拒否する者

だけではなく、立憲民主主義社会の市民ではない人々にとっても、彼らはロールズ的「公共理

性」へアクセスするのは不可能である。正義原則の正当化に関するロールズの説明を積極的に

政治化するということは彼の『政治的リベラリズム』において最もよく表現されている。

Norman Daniels, 1996, “Reflective Equilibrium and Justice as Political” in Justice and Justification, Cambridge U.P., pp. 144-75.

168 「人間は理性的存在者である……彼らは他の人が同様にそうなるという保証を考える際に、

公正な条件を原則と基準として提案し、かつ喜んでそれらの原則と基準を遵守する。」(PL, p. 49)

169「公共理性を有するのは民主的な人の特徴である。これは平等な市民権という身分を共有す

る理由を示す。次の意味でこの理由は公共的である。⑴その主体が一般公衆であり、⑵その対

象が公共善と基本的正義に関わる重要事項であり、⑶その性質と内容も公共的である。」(PL, p. 213)

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的な信念ももっているため、宗教や信仰問題のようにこれらの信念まで政治的議論から排

除したらよいであろうか。

功利主義の見地からみれば、もし宗教の目的が最大多数の最大幸福を満たすことにある

ならば、宗教的教説は完全に政治的な領域から排除されるのは合理的ではないだろう。宗

教的・哲学的・道徳的な信念が公共的政治生活において正義の根本的問題にかかわる措置

を支持または反対するのは時には適切であるかもしれない。公民権を支持するマーティン·

ルーサー·キングの宗教宣言は、多くの人々の正義感覚に効果的に取り組むために、宗教的

配慮への公共的訴えの例として考えられる。しかし、功利主義を批判するロールズにとっ

て、公共理性は、民主的な人々の特性であり、それは平等な市民権という社会的地位を共

有する市民たちの理性である170。これは、ある社会の人々が共通宗教の面から一般的に受

け入れて説得するというだけで公共理性の教説の一部を構成してはいけないという意味で

ある。たとえ特定の宗教を受け容れている国家におけるすべてのメンバーは、その宗教の

信仰を受け入れ、法令を審議し議論する際に宗教的な理由に訴えるとしても、これは公共

理性の一部をその宗教の教説にするわけではない。つまり、ロールズの意味での公共理性

の可能性は、特定の宗教を受け容れている国家において共有された包括的理由によって排

除される。包括的見解の間の相違はロールズの公共理性にとってはその思想の背景を提供

するにとどまる。

以上のように、ロールズの公共理性は複雑な概念である171。その特徴を簡単にまとめる

と以下のようになる。

– 公共理性は、民主的な国民の特性であり、それは平等な市民の理性である。(PL, 213)

– 公共理性の主題は公衆の善であり、その趣旨は正義の政治的構想である。(PL, liii)

– 公共理性の制限は(非政治的領域である——筆者)「背景的文化 background culture」

においてではなく、「公共的政治フォーラム public political forum」に適用される。(CP, 575)

– 公共理性は「完全」である。それは憲法上の必須事項と基礎的正義に関わるすべての

問題への合理的な答えを提供することが可能である。(CP, 585)

170 「公共理由のアイデアは立憲民主制における市民権の概念から生じる」とロールズは述べて

いる。(Cf. PL, p.213; また CP, p.577.) 171 公共理性の諸文脈の整理について参照、Justice and the Social Contract: Essays on

Rawlsian Political Philosophy, Oxford U.P., pp.383-4.

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– 公共理性は公共的正当化を目指し、合理的な民主的市民としての能力を通じて議論の

筋道を他人に提出する。(CP, 593)

– 公共理性と公共的正当化は「互恵性の基準」を満たし、それらは、われわれは他の人々

が合理的に受け入れると合理的に想像する理由と前提および、かれらが合理的に受け入れ

る結論に由来するものである。(CP, 578-9)

– 政府当局者は公共理性に基づいて行動すると、多数者による立法はたとえ完全に公正

ではないとしても、政治的に正当なものである。(PL, 427-8)

– 「司法審査に伴う立憲民主主義国における公共理性は、その最高裁の理性であり、最

高裁は公共理性の模範となって政府の一部門である。」(PL, 231)

こうして、特に公共理性は最高裁判所の理性だというと、我々は、公共理性は民主的で

あるけれども、それは単に大多数の意志だと主張することはできない、と推測できる。例

えば、最高裁判所といった機関は、大多数の意志を制限するようなものとして機能してい

る。ここでロールズは、司法審査の権限を持つ最高裁判所の地位に勘案して、裁判所が目

の前にあるすべての問題について、公共理性を唯一の理由として考えて判断することを考

えている。ロールズの指摘によれば、憲法上の必要事項と正義の基本問題が問題となって

いない時のみに、立法府と行政府は時には非公共的な理由を適用する場合がある(PL,

p.214)。

この場合、ロールズにとって公共理性は一般的に2種類の考慮事項に立ち向かう。1 つ目

は「公共理性の指針 the guidelines of public reason」である(PL, p. 225)。これは「公開

調査を自由かつ公共的にするための公聴会の指針に含まれている(PL, p.224) 」。人々は

同様の正義構想に同意したものの、証拠、判断、推論、十分な理由および判断などに関す

る基準は包括的な観念によって異なるであろう。その結果、異なった包括的観念をもつ人々

は正義の公共構想を適用することで、同じ結論に達することができるために、調査と推論

の基準は民主的社会において必要とされている。これらは証拠および、演繹や帰納や確率

的推論における推論のルールや基準などを含む議論と正当化の形式的かつ手続き上のルー

ルである。審判における証拠規則、証拠の信頼性のために、伝聞証拠に反対するルール、

また公平性のために、憲法上の権利を知らされずに作られた自白を除くミランダ·ルールな

どが公共的推論の基準の例として挙げられる。

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公共理由の第 2 種は、「公共理性の政治的価値観 political values of public reason」と呼

ばれる実質的な道徳的価値観の部分集合である。これらの価値観はすべての市民に公共的

な理由を提供する(CP, p.601)。これらは「適理的かつ合理的」な民主的市民の間で、法律

とその解釈に関する議論と公共的討議において正当な理由とみなされている。公共理性の

根底にある仮定は、民主主義社会における市民は、彼らの違いにもかかわらず、通常には

民主主義的価値観、理念および原則を支持するということである。人々がそこで共有しう

るのは、互いの価値観の相違にもかかわらずともに支持しうる規範とそれを正当化する手

続きである172。また、共通の価値観、考慮事項および基準はいずれの特定の包括的観念で

はなく、民主主義の理想が容認されている限りにおいて、すべての合理的な見解によって

受け入れられることができる、ということである。市民は公共理性とかかわり合うとき、

つまり自分が正義のもっとも合理的な政治構想と見なすものの枠組みの中で熟慮するとき

に、公共理性の構想は他の、自由で平等な市民たちも合理的に是認できる政治的価値を表

現・正当化するものである(CP, p. 581)。

公共理由による正当化は、第 1 に、特定の立場が特権的な発言権を持つことを退け、第 2

に、理由を挙げるすべての主張に発言の機会を与え、第 3 に、規範的に見て正当な理由が

再検討されていく手続きを保証することができる173。正義の政治的構想は、公共理性に意

味内容を与え、公共理性を完全なものにするために必要とされている。公共理性を完全な

ものにするために、競合する政治的価値観の相対的な重要性と意味は、単に市民や官僚た

ち自分の哲学的、道徳的および宗教的観点によるものではなく、政治的構想によって決定

されたということを必要とする。裁判官、立法者および市民が政治的決断を行うための包

括的教説に訴えるときには、他の市民が自身の特定価値や民主的市民の共有視点から是認

できないといった理由のため、強制的政治権力の支配することになる。そこでは市民が自

由で平等な主体ではなく、臣民として扱われている。そのために、公共理性を理由とする

リベラルな政治的価値観の中で、ロールズは、平等な政治的・市民的自由、機会平等、社

会的平等と経済的互恵性、共通善、自尊の社会基盤、およびそれらの価値実現のための必

172 佐藤純一「公共的空間における政治的意思形成」(佐藤純一編)『公共性の政治理論』(ナ

カニシヤ出版社, 2010)101 頁。 173 同上書 101 頁。

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要な条件などを正義の価値として具体的に言及している174。また、彼によれば、妥当性、

公正性および市民の礼節を守る覚悟などといった政治的美徳も、熟慮した上での公共的議

論を可能にする(PL, p.224)。

正義の政治的構想の自立構造は、善の構想に関係なく、市民は立憲民主主義社会におい

て深く定着した理想や原則などを共有しているというロールズの仮説に支えられている。

『正義論』においてさえも、ロールズはすべての適理的かつ合理的な人が一定の正義の信

念を共有すると考えていると想定した。しかし、彼は宗教的・哲学的・道徳的基盤の関し

て、合理的な人々の価値観多様性の程度を過小評価していると思われる。自由民主主義社

会の条件のもとで、たとえ秩序だった社会の構成員だとしても、彼らは正義の基盤、人間

の主体性の哲学的概念構想、または何か特別な本質的善といった諸要素を一致に同意する

ようにする現実的な可能性はほとんどないのではなかろうか。リベラリズムにおいては自

由で平等な市民たちは理想と理性によって自由社会を構築するための手順として自由主義

そのものと正義に関する公共的構想を支持するための論拠を必要とする。この論拠は立憲

主義的民主主義社会の文化に含まれた思想を求め、何か特有の包括的な観念を避けなけれ

ばならない。つまり、文化的側面について統合の視点からいえば、社会的協働は、文化的

な差異が政治社会による不当な処遇の理由となることを退けながら、社会的排除のない関

係性を形成する方向で展望されねばならないだろう175。この点で、正義の政治的構想は『正

義論』に議論された正義の構想と異なり、包括的なものから政治的なものへと転換せざる

を得ないのである。

第2款 重合的合意の本質とその二段階構想

174 ロールズは政治的諸価値を二種類に分けて説明している。第 1 種類の政治的諸価値——政治

的正義の諸価値——は基礎構造に適用される正義の諸原理に属している。この種の価値は平等

な政治的および市民的諸自由、機会の公正な平等、社会的平等と互恵性、等を含む。第 2 種

類の政治的諸価値——公共理性の諸価値——は公共的な探求のための指針、および、この探求

が十分な情報のもとで理に適った仕方で施行するのみならず、自由で公共的でもあることを保

証するために必要とされる措置のための指針に組み込まれている。この種の価値は判断や推論、

そして証拠といった基本的諸概念の適切な使用のみならず、常識的知識の基準と手続き、そし

て異論の余地が無い科学の諸方法や諸帰結を遵守することにおいて示されるような公正性と

公平性といった徳性を含む(PL, pp.139, 224; JF, p.52ff/91 頁以下)。 175 斉藤純一『政治と複数性——民主的な公共性にむけて——』(岩波書店, 2008)39 頁。

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『政治的リベラリズム』は、多元社会における安定性にとって重合的合意(Overlapping

consensus)が必要であり、そうした合意が公正としての正義という環境において現れる可

能性がある、と説く176。換言すれば、重合的合意という概念は、ロールズの「公正として

の正義」の政治的構想に不可欠なものである。重合的合意は、公共理性のあり方と以下の

ような関係にある。すなわち、重合的合意は、公共理性を基礎づけ、人々の価値観が多元

であるという事実のもとで、政治的共同体としての穏当な合意を達成しうる条件である。

ロールズは、道徳的正当性を重視する立場から、暫定協定(Modus vivendi)と重合的合

意を区別する。暫定協定は、社会におけるその時々のパワーバランスに基づく妥協にすぎ

ず、異なる道徳的見解を有する人々に、その内容を受け容れさせることができない。政治

的共同体における決定が暫定協定のようなものであれば、暫定協定がすぐに変更されうる

ものである以上、政治的共同体もすぐに崩壊してしまう危険性がある。ロールズが暫定協

定によって示そうとしたことは、多様な価値観を有する人々からなる多元的社会において、

すべての人々に尊重され、人々が共生しうる枠組みの必要性である。価値観を異にするす

べての人々が尊重しうることを公共的理解というならば、公共的理解の可能性は、個々人

や集団それぞれに固有の具体的理由を超えた公共的理由によって政治的決定を正当化する

ことに求めなければならない177。

ロールズは、重合的合意の説明をとおして、「公正としての正義」の核心的価値が穏当な

包括的教説であり、寛容によって合意しうること、人々の価値観が多元であるという事実

のもとでは、特定の包括的価値観について合意を得られそうもないことから、「公正として

の正義」の核心的価値には優先順位があることを示している。多様な価値観を有する人々

からなる政治的共同体において、何らかの包括的価値観を正当化するためには、社会契約

176 Jon Mandle, 2009, Rawls’s A Theroy of Justice: An Introduction, Cambridge U.P., p.23. 177 井上達夫「公共性とは何か」(井上達夫編)『公共性の法哲学』(ナカニシヤ出版, 2006)

10-1 頁。井上達夫の表現による「理由基底的公共性論」は、統治権力が秩序形成において「公

私の区別(領域の区別)」に与えた影響によって構築された「領域的公共性論」と異なり、自

らの行動や決定の理由の区別を基底にして、政治的決定の正当化根拠をかかる理由に依拠し、

間主観的な規範的地位を意味する。こうした「理由基底的公共性論」の特徴は、(公私)領域

性、(能動的・実践的)政治的主体性および、(民主的プロセルによる)政治的決定性といっ

た 3 つの次元から、理由性へと拡張するところにある。詳しく同書 5-18 頁参照。

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による説明は機能しない。重合的合意は、道徳的な正当化理由を提供するとともに、そう

した道徳的正当性により政治的共同体の安定性を確保させるためのものでもある178。

政治的共同体の安定性を確保するために合意による約束(consensual promise)が重要

であることに疑いの余地はないが、このことは、人々が正当性を重視しているという、い

わば人々の正当性に対する信仰がある場合に限定される179。重合的合意の主な役割は、秩

序の安定性を確保することにある180。したがって、政治的共同体の安定的な維持に関心を

有するすべての人々には、各自の価値観、生活慣習等を超えて重合的合意を選好する理由

があることになる。広く知られている宗教的、哲学的、道徳的価値観に何らかの共通要素

があるということは、自由民主主義社会という基本的な社会構造を正当化しうる、という

178 社会契約の考え方について、市民が穏当な多元主義を政治生活の事実として承認し、強制や

威圧に継続的に訴えることを避けるために、協力の公正な条件を確立する必要とされる限りに、

ロールズによれば、彼らは協働の条件を公共的に正当化するために、契約主義的方式を採用す

るための正当な理由がある。Paul Kelly, 1994, “Justifying ‘justice’: rianism, communitarianism and the foundations of contemporary liberalism” in The Social Contract from Hobbes to Rawls, David Boucher, Paul Kelly (ed.), Routledge, 1994, p.235.(飯島昇藏他訳)『社会契約論の系譜: ホッブズからロールズまで』(ナカニシヤ出版, 1997)313 頁。

179 ロナルド・ドウォーキンは不連続理論が合意による約束のために「無条件の支配 categorical force」を犠牲にすることになると批判した。彼は、合意による約束が理論目標になることを

ためらうべきである理由は合意の性質(ただの暫定協定にすぎない)と自由原理の優先性とい

った 2 つあると考えていた。その批判は彼の不連続理論の批判の一部であり、無条件の支配

の犠牲を加えて、公共的道徳の観念の問題および公正としての正義である公共的文化への拒否

といった 3 つの部分で構成されます。詳しく参照、R.Dworkin, 1990, ‘Foundations of Liberal Equality’, in The Tanner Lectures on Human Values, vol. XI, Grethe B.Peterson (ed.), Salt Lake City, University of Utah Press, pp.3-119.無条件の支配の犠牲に対して、特に p.25.また、

Paul Kelly, 1994, “Justifying ‘justice’: rianism, communitarianism and the foundations of contemporary liberalism” in The Social Contract from Hobbes to Rawls, David Boucher, Paul Kelly (ed.), Routledge, 1994, p. 237.(飯島昇藏他訳)『社会契約論の系譜: ホッブズか

らロールズまで』(ナカニシヤ出版, 1997)316 頁 180 Rawls, J., 1987, pp.1-25.in CP. pp.328, 330, 426-7.また Rawls, J., 1995, reprinted in PL,

pp. 391-2; JF, pp. 9, 32, 84, 185-9, 199, 230;また TJ, pp.39, 511;PL, pp. xviii, xlix-l, 140-72. 政治リベラリズムと正義論の相違は原初的安定性(original stability)の議論において不一致

を除去することによる結果であるとロールズは考えている。それに関する議論および重合的合

意と公共理性については、同書の第 6 章を参照せよ。Samuel Freeman, 2007. Justice and the Social Contract: Essays on Rawlsian Political Philosophy, Oxford U.P., Cf. p. 170, n.56.

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ことである181。秩序ある社会に暮らす人々は、理に適った法律に従って行動し、包括的道

徳観を含む個人の善の構想に由来する様々な異なった理由に基づいて、正義のリベラルな

構想を支持する。重合的合意は、このことを示している。重合的合意は、秩序ある社会に

おいて各人が善の諸構想を追求しうるための仮説であり、穏当な宗教、哲学、道徳に関す

る包括的教説がリベラルな政治的価値観と正義原理が、各人の道徳的価値観や善に関する

包括的な理由としても支持されるようになることを想定している182。その政治的構想は、

それぞれ理に適っているが対立している宗教的、哲学的、道徳的価値観、世代を越えて長

年にわたって存続している多様な価値観によって支持されうるものだと想定されている。

ロールズに依れば、理に適った重合的合意は、社会的統合のもっとも深いレベルの基礎に

なる(PL, 391f)。

政治的構想は包括的観点の外部にある、という視点は、重合的合意を理解するために不

可欠である。政治的構想には、合理的とされる包括的価値観がまったく付随しない。政治

的構想のこのような理解は、秩序ある社会における理性的な人々は、それぞれの包括的観

点から、それぞれの理由で異なる政治的構想を支持するであろう、という推測に基づいて

いる。相異なる包括的教説であっても、それぞれの包括的教説によって支持される政治的

構想であれば容認できるはずである183。例えば、自律を重視する立場からカント主義者に

よって支持されているリベラルな政治的構想は、それが間接的にでも全体的な功利を増大

させうるならば、功利主義者によっても支持されよう。抽象的かつ一般的な包括的理由を

求めない多元主義者であっても、このような政治的構想を支持することは可能であろう。

多様な包括的教説を信奉する人々の重合的合意としての政治的諸価値、すなわち政治的公

共性こそが、このような多様な人々を一つの政治的共同体に統合しうる共通基盤となりう

る。

181 Thomas Pogge, John Rawls: His Life and Theory of Justice, Michelle Kosch (trans.),

Oxford U.P., 2007, pp.35, 37. 182 Samuel Freedman, 2007, Rawls, Routledge, pp. 366-7. 183 つまり、重合的合意による「政治構想の支持は反照的均衡による正当化の色褪せた姿ではな

く、我々の核となる諸信念に根差した正義構想として更に一段深い仕方で公共的に提示するた

めの方法論として見なされなければならない。理に適った重なり合う合意によって正義の政治

的構造が支持されているとき、この構想は市民が衷心から抱いている信念に基づく理由によっ

て支持されているのである」。福間聡『ロールズのカント的構成主義——理由の倫理学』(勁

草書房, 2007)71 頁。

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もっとも、重合的合意は、相異なる包括的教説を信奉し、相異なる背景的文化を有する

人々に対して、リベラルな政治的構想を正当化しうるものであり、以下の2つの能力を有

する「合理的市民」によって形成されうることに留意しなければならない。

第 1 に、人々は、公共理性によって、民主主義が重視されている価値観を受け容れてお

り、正義の政治的構想の妥当性を理解できる合理的市民でなければならない。まず、重合

的合意は、人々の公共理性をとおしてはじめて形成しうるものである184。ここにおける「合

理的市民」は、アトム化した(原子的)個人ではない。ロールズによれば、公共理性を有

する諸個人は、適理的かつ合理的な人格的存在であり、「すべての人々にとって共通な公共

的価値は何かを考える道徳的な能力」を有している185。

第 2 に、そのような合理的市民は、自己のものと異なる包括的教説に由来する正義の政

治的構想であっても受け容れることができなければならない。

この2つの条件を満たすには、非公共的な理由に由来する政治的構想を受け容れ、公共

的理由による政治的構想へと転換しうる契機が必要とされる。政治的構想が道徳的主体で

ある各人の自己構想(self-conception)や、各人の包括的価値観を構成する宗教的、哲学的、

道徳的価値観と共存しうるためには、第 2 の条件を充たし、重合的合意が成立しなければ

ならない。その照射として、重合的合意の成立可能性は、秩序ある社会において、人々が

各々の理由によっても公正に行動しうる可能性を示している。異なる宗教的、哲学的、道

徳的価値観を重視する「穏当な多元主義」を考慮すると、正義の公共的原則を遵守する人々

の動機は、自律しようという意欲や正義の本質的善ではなく、むしろ秩序ある社会におい

て各人が標榜している包括的教説に同意してもらえることにある。正義は、各人それぞれ

の善の構想にとって道具として合理的であり、政治的共同体もその「正当な理由」に基づ

いて安定化することを明確に示すことになろう(PL, p.388n)。

なお、重合的合意は、原初状態において無知のヴェールを被っている人々の合理的決定

が一致するという正義の二原理の起点に影響するものではない。重合的合意によって、正

義のリベラルな構想が価値論争において不利になることもない。また、重合的合意は、政

治的共同体の安定性にとって潜在的脅威となっている道徳的懐疑主義や価値相対主義をも

184 盛山和夫『リベラリズムとは何か——ロールズと正義の論理』(勁草書房, 2006)106-7 頁。 185 同上書 252 頁。

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中和しうるものである186。正義は、少なくない人々にとって道具的な善にすぎないとして

も、そのような人々の価値観としばしば矛盾し、政治的共同体の安定性を弱体化させるよ

うなものではない。むしろ、各人の正当化においても、正義は重要な位置を占めている。

このような重合的合意は、憲法においても必須となる(PL, Lecture IV; JF, §§11, 58; CP, Ch.

20)。多様な背景的文化を有する人々が政治的決定に参加するレベルにおいて公共性を維持

するためには、何らかの共通要素が必要である。つまり、人々の文化的多様性を尊重しつ

つ、政治的共同体を維持するためには、重合的合意の2つの条件が必要となる187。これに

よって、多様な背景的文化の承認と公共性の維持を両立することができ、公共性によって

文化的要素を排斥するのではなく、それを包摂しつつ政治的決定がなされるようになり、

その政治的決定を人々が受容しうるようになる。

以上のようなロールズの政治的構想を支える重要な仮定は、互恵性である。時間の経過

とともに秩序ある社会を形成することの利点は、それぞれに宗教や道徳に関する包括的教

説を有する理性的な人々が、公共的な視点からそれぞれの包括的教説を公共的なものに転

換しうる状態にさせるところにある。この政治的構想は、穏当な包括的教説や個人の善の

構想に適用され、『正義論』における正義感覚、正義感覚を発達させるための互恵性をめぐ

る議論を拡大させる188。要するに、ロールズの正義構想は、「私の善の構想」の追求可能性

によって支持されるものなので、この政治的構想によって政治的共同体の安定性、あるい

は公共性を確保するためには、『正義論』における正義感覚を発達させることが重要である。

第3款 公共理性

186 価値論争において他者との合意を目指す合意形成は、基本的には他者に対して 2 つの志向性

がある。1 つは他者性を解消することによって「等しさを喜ぼうとする」志向性であり、もう

1 つは、他者性を深めることによって「違いを楽しもうとする」志向性である。いずれにして

も、この 2 つの含意に共通しているのは、合理主義的な合意という立場、そしてそれを反す

る懐疑主義、不可知論という不確定的な合意が、人間の知識と人間社会の発展・変化といった

長い探索の中で徐々にその試行錯誤を重ね、判断力と理解力を高め、包摂的なシステムを構築

してきたものとみなす視点である。桂木隆夫「市場平和と市場の公共性」(井上達夫編)『公

共性の法哲学』(ナカニシヤ出版, 2006)94-101 頁参照。 187 石川涼子「文化の承認と公共性」(佐藤純一編)『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版, 2010)

63 頁。 188 互恵性原則とその基準について、TJ, pp.429-30; Rawls, J., 1997, in CP, pp. 578-9.

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公共理性は、「穏当な多元主義の事実が存在する社会の中で、或る政策や法を全ての市民

が支持しうるためにはどのような理由を提示しなければならないのかという問題概念

(concept)から導かれた構想(conception)」である189。それは、自由で平等な人々の市民

としての素養、あるいは市民であることによる利益として、いかなる立場にある人々から

も承認されうる内容に関係している。「公正としての正義」における公共理性は、公共性を

確立する条件として、そして政治的構想の実践の結果として示されている190。正義が公共

性の基礎として役立つというならば、一般的な人々の理性によって理解可能な推論、立証

によってそのことを示さなければならない。公共理性は、自由民主主義社会における道徳

要件によって解釈されることもある。このことは、「自由主義的正当性原則(liberal principle

of legitimacy)」に由来している。「自由主義的正当性原則」とは、ロールズが「政治権力の

実践は、憲法に従って行使された場合にのみ完全に適切である。すべての自由で平等な市

民の本質が一般的な人間理性による理想と原則に照らして是認することが期待されるかも

しれない(PL, pp. 137, 217, 393-4)」と説明しているものである。この自由主義的正当性

原則には、道徳的義務が付随する。自由主義的正当性原則は、「市民としての義務(the duty

of civility)」や、政治的決定が公共理性によって支持されるプロセスを説明するものである

(PL, p. 217)。

その一方、公共理性は、「政治的正統性 political legitimacy」を充たす条件として示され

ているため、ここで、正統性について確認しておこう。

正義原理の正当化だけでなく、公共理性による正義原理の正統化も必要とされるのは、

『正義論』における「原初状態」から『政治的リベラリズム』における「穏当な多元主義」

へと、正義の二原理の前提条件が変更されたためである。『正義論』においてロールズは、

原初状態ある人々による合理的判断という思考プロセスによって、すべての人々が正義の

二原理を承認するものと考えていた。そのため、「正義の二原理に関して、人々の間に不一

189 福間聡『ロールズのカント的構成主義——理由の倫理学』(勁草書房, 2007)94 頁。 190 Charles Larmore, “Public Reason” in The Cambridge Companion to Rawls, Samuel

Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., pp.368-93; T.M. Scanlon, “Rawls on Justification”, in The Cambridge Companion to Rawls, Samuel Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., pp. 137-67; Burton Dreben, “On Rawls and Political Liberalism”, in The Cambridge Companion to Rawls, Samuel Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., pp.316-46. Samuel Freeman, 2000 “Deliberative Democracy: A Sympathetic Comment,” Philosophy and Public Affairs 29 (4): 396ff.

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致は存在せず、それゆえ原理の『正統性』を取り立てて気にする必要もなかった」。しかし、

「穏当な多元主義」、すなわち多様な政治的共同体には価値観を有する多様な人々がいると

いう事実を起点とした『政治的リベラリズム』では、政治的共同体の構成員が正義の二原

理を支持することについて一致するとは限らない。また、正義の二原理を支持する人々で

あっても、同じ理由によって支持していると想定することは難しい。したがって、「たとえ

すべての人々が同一の原理を同じ理由で支持していないとしても、それに基づいてある政

治政策を人々に対して施行することが可能であるために、その原理が正しい原理であるこ

とはもちろん、正統な原理でもなければならない」ことになる191。

ここで、公共理性は、個人としての多様なライフスタイルと、集団としての多様な政治

的構想を統一的に語りうる共通基盤を提供する。個人としてのリベラルなライフスタイル

を最大限に保障することが集団としての政治的構想の目的である192。政治的共同体におけ

る人々が相異なる宗教、哲学、道徳的な包括的教説を信奉し、あるいは様々な背景的文化

を有しているとしても、そのような人々すべてが有している理性が公共理性である。ロー

ルズは、公共理性をとおして各人の包括的教説や背景的文化が相互に承認され、寛容と尊

重がより促進されるようになる、と説く。公共理性は、相異なる包括的教説を信奉する人々

の衝突は、本質的に調整不可能なものではない、という前提から導かれるもので、すべて

の人々による「普遍的容認(popular acceptance)」を期待しうる公共的価値を志向し、文

化、性別、信仰等の差異を超えて安定した公正な社会的協働を確立しようとする実践的意

欲に支えられている。ロールズによれば、「普遍的容認」は、権力の行使や法律の執行等の

事実において確認されるものではなく、公共理性をとおして明らかになる政治的価値

(political values of public reason)による支持として確認されなければならない。公共理

性をとおして政治的構想の正統性を示そうとするロールズは、「憲法の必須事項や基礎的正

義に関わる諸問題について議論する際に、正統性のリベラル原理(liberal principle of

legitimacy)を充たす仕方で、政治的諸価値に基づいて理由付けを行うことを市民に要求し、

191 福間聡『ロールズのカント的構成主義——理由の倫理学』(勁草書房, 2007)50-1 頁。 192 政治的リベラリズムの観点に立脚する「公共理性」は、以下のような政治的秩序に関わる規

範的原理に対する関心から導かれている。「社会にとっての規範的原理は、究極的には諸個人

にとっての諸権利が尊重されることになるのであって、マイノリティ文化の尊重はあくまでそ

れが諸個人にとって持つ価値に照らしてのみ正当化と考えるのである」。盛山和夫『リベラリ

ズムとは何か——ロールズと正義の論理』(勁草書房, 2006)265 頁。

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それらの問題についての市民の間での合意を可能な限り実現することを目的としている」

のである193。

なお付言すると、公共理性とは、政府の決定の理由、あるいは一般の人々にそれを正当

化するための理由の種類に関係する概念である。これは、ルソーやカントに代表される社

会契約論に登場したものである。憲法がすべての人々に承認されるためには、それが正当

化されるための理由が必要である194。このことについて、社会契約論の狭義の解釈では、

人々が承認しうる理由であれば正当である、と説かれる。その要諦は、カトリック教徒に

適用される法律について、カトリック教徒が承認できれば正当である、というにとどまら

ず、プロテスタントやユダヤ教徒も異なる理由によって支持することができ、その法律を

正当化できるというところにある。しかし、公共理性は、すべての人々が同じ理由によっ

て法律を承認できるはずだ、と説く。公共理性は、共有された価値観等によって結合して

いる何らかの政治的共同体の存在を前提とするものである。公共理性は、理性を、各人が

有している経済的合理性としての計算能力、包括的教説や善の構想ではなく、民主的な人々

の礼儀として想定されている。公共理性は、民主的政治制度を背景に定義されており、相

異なる宗教、哲学、道徳的な包括的教説等について寛容を前提としている。公共理性は、

正義の政治的構想や重合的合意と同様に、政治的共同体が多様な価値観を有する多様な

人々によって構成されているという事実、合理性が多元にあるという事実、すなわち「穏

当な多元主義 reasonable pluralism」に応答するものである。

穏当な多元主義は、それ自体が多元主義なのではない。穏当な多元主義は、第 1 に、法

律や政策の正当化において、非合理的人間、非合理的教説を排除する。第 2 に、自由で民

主的な社会において、多元にある合理性、すなわち多様な価値観、包括的教説に共通する

要素があることを前提としている。穏当な多元主義は、公共理性によるその把握に依存し

ているわけである。公共理性は、民主主義にコミットしている自由で平等な人々が有して

193 同上書 67 頁。 194 公共理性という概念は、ルソーの「独自の理由 own reasons」、カントの「個人的理性 private

reason」、ロールズの「非公共理由 nonpublic reasons」と対比される。ルソーは治安判事の

判断根拠について、次のように述べた。「彼自身の理由は疑うべきであり、彼は従うべき唯一

のルールは公共理性である」。Jean-Jacques Rousseau, 1761, “Discourse on Political Economy”, in On the Social Contract and Discourses, Hackett, 1983, pp.165, 169.またカン

トは “What is Enlightenment? ” In Immanuel Kant, Perpetual Peace and Other Essays, Ted Humphrey, trans. (Indianapolis: Hackett, 1983), p. 42/Ak. VIII: 37.

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いる理性である。このような理性をとおして共有されている価値観が政治的価値となる。

政治的価値は、公共理性による合理的な判断、たとえば、市民としての役割、政治的権利

および義務、他の市民との関係等に関する判断の結果である195。

こうして、政治的リベラリズムとは、秩序ある民主的な社会において、それぞれに包括

的教説を有する合理的な人々が、一定の政治的目的のために、自己を自由で平等な市民と

して想定する、ということである。人々は、道徳的能力を維持しうるところにもっとも基

本的な政治的利益があると理解できる。理性と意思(reason and volition)の能力は、民主

的な社会制度を有効に活用させ、市民相互の協力を可能にする。自由で平等な合理的人々

が道徳的能力、理性的能力を維持できるところに政治的利益があるという正義の政治的構

想は、公共理性の政治的価値を評価するための基準を提供している196。立憲主義に基づく

自由で民主的な社会における公共性は、政治的価値を明らかにしているが、他方、政治的

価値は、自由で民主的な社会における人々の理想とする政治的構想を実現するための必要

条件となる197。

第3節 公共性から公共理性・理由へ

ロールズは自らの正義理論体系において理性の概念を公共性から公共理性・理由へと変

容させ、2 つの実践的側面、即ち「合理性」と「適理性」から理性を復権させる一方、異な

る宗教的・哲学的・道徳的主張を諸種の正当な理由という概念を通じて経験に関わる人間

本性や情念や正義感覚等の観点から認め、近代主流の極めて狭隘な合理主義的枠組を超え

195 岩田靖夫の指摘によれば、「ロールズは正義論について語るとき、つねに人間を市民(citizen)として捉えている。すなわち、人間は本質的に共同体の中で協同(cooperation)の生を営む

者として政治的(political ポリス的)な存在なのである」。岩田靖夫『倫理の復権——ロール

ズ・ソクラテス・レヴィナス——』(岩波書店, 1994)23-4 頁。 196 正義の政治的構想、すなわち公正な社会的協働の条件については、「それは一時的妥協の産

物ではない。それは自由な道徳的人格たちの協働に相応しい公正と互恵性を反映し、現代民主

主義の文化に根づいた公共的理性によって裏書きされている。従ってそれは、公正と安定の恒

久的な保証人なのである」。渡辺幹雄『ロールズ正義論の行方——その全体系の批判的考察』

(春秋社, 1998)116 頁。 197 公共理性の政治的価値、適理性および民主主義的市民構想といった三者の関係を明らかにす

るのは複雑な問題である。現時点においてこれらの考え方は相互関連しているという点を示唆

できて、公共理性の観念が本当に役立つにはあまりにも曖昧すぎるという懸念の一部を緩和す

ることができる。

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て、「疑いなく両者(合理論と経験論——筆者)とも十分な妥当性があり、無理のないやり

方でこの 2 つの考えを統合しよう(TJ, 403-4/604-5 頁)」と試みた。それでは如何なる基準

とアプローチでロールズは理性・理由の権威を復権させたのであろうか。しかも、理性概

念の変容とその復権の意義はロールズ理解及びロールズ正義論の拡張にとってどのような

意義をもたらすのか。本節ではこの問題について検討を行う。

第1款 理性概念の変容に関わる諸条件の整理

公共理性は、基本的な政治諸問題に関する討議や決定のあり方を規定する規範的理念を

指し、種々の価値や指針の組合から構成される198。こうした規範的理念がなぜ必要なのか?

それはここまで述べたように、これは公共的政治文化につながり、民主的な市民がそうし

た理念を要請するからである。それぞれの包括的教説における善の構想や文化的主張の間

の対立は、ロールズによれば、文化的水準や影響力などによって左右されるが(例えば、

宗教の政治に対する影響力について、アジアではあまり顕著ではないが、欧米諸国ではた

びたび宗教問題が政治における大きな争点となり、選挙と政党政治を通じて宗教的世界

観・価値観を社会制度と政治動向に影響力を与える)、公共理性の観念を通じて政治的水準

において調停されるべきである。これはロールズの構想した公正な社会的協働の基本的な

正義に関する規範原理によって示され、この規範原理が公共的政治文化において見出され

るものである。

このような理性の変容の諸条件をまとめるためには、「4W1H」という形で行うのがよ

いと思われる。ここで言う「4W1H」とは、公共的討議空間における政治文化の基礎であ

る公共理性に関する5つの次元——参加主体(who)、適用主題(what)、適用場所(where)、

公共理性の内容および性質(how)——を考えている。時間性(when)という問題は特殊

性があるので、別途に後述したい。

第1に、公共理性が適用される対象は、まず裁判官と公職者であり、加えて政治的問題

を討議に参加する市民である(CP, pp.575-80;LP, pp.133-8/196-202 頁)。公共理性は民主

的な市民身分の理想的な目標、つまり市民としての礼節が、他の市民を自らと同様に自由

で平等であると見なし、公正性に基づいて彼らと協同して社会を運営し、政治生活の根本

的な問題について一緒に討議すべき方法を統御する(TJ, p.312/469 頁;PL, p.217)。協力

198 木部尚志「信仰の理論と公共理性の相克——ロールズの公共理性論の批判的考察」早稲田政

治経済学雑誌 381-2 号 43 頁参照(2011)。

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の公正な条件を策定するために、市民はすべて了解できる前提から推論すべきである。公

共理性の実践は原則として市民が目の前の問題に全面的な思考を働かせるようにしない。

なぜなら、善と正に関する包括的な構想は論理的必然として、正義と関係があるもの以外

の側面についての異なる観点も含意するに違いないのである。これらの事項について、彼

らは深く解決できない不合意であるところを見つけることができる。しかし、そのような

相違は市民が公正性に専念して社会的基本構造に関する問題を決める時には、無視される。

第2に、公共理性の適用主題となるのは、社会的基本構造の問題である、つまり「憲法

上の必須事項 constitutional essentials」(政府の一般的な形式、市民の平等な基本的自由

や権利に関わる第1原理)および「社会的・経済的正義に関わる基本的事項 basic matters of

social and economic justice」(配分的正義に関わる第2原理)に関するものである(PL,

p.214;pp.227-30)。

第3に、公共理性の適用の場は、「公共的政治フォーラム」である(CP, pp.575-6)。ロー

ルズは『政治的リベラリズム』で公共理性によって規制された活動の中で、「公共的フォー

ラムでの政治的唱道 political advocacy in the public forum」を主張した(PL, pp.215, 252)。

それゆえ、政治的な議論がすべての社会領域において行うべきであるようにロールズの公

共理性を理解することができるが、それが社会的基本構造に影響を及ぼす場合に、市民の

共有基盤からはずれないように注意すべきである。「公開討論の場での政治的唱道」である

ことを示唆するような文脈で、憲法上の必須事項と経済的正義に関わる基本的事項が問題

となる時に、支援を求める官僚(立候補者も含める)の選挙運動および彼らの懇願した投

票行為は公共理性の規範を遵守すべきであると、ロールズは主張する。

第4に、公共理性の内容は、政治的規範原理とその公共理性の指針から構成される。政

治的規範原理は以下のようなものである。——⑴理に適った政治的構想が含む諸価値、す

なわち政治的正義の諸価値は、社会の基礎構造に適用される正義の諸原理に属している。

この種の価値は平等な政治的および市民的諸自由、機会の公正な平等、社会的平等と互恵

性、等を含む。⑵この指針は、市民性の礼節も含め、推論や証拠の基準といった探求ない

し調査の規則である。この種の規則は判断や推論、そして証拠といった基本的諸概念の適

切な使用のみならず、常識的知識の基準と手続き、そして異論の余地が無い科学の諸方法

や諸帰結を遵守することにおいて示されるような公正性と公平性といった徳性を含む(PL,

pp.139, 224; JF, p.52f/91 頁以下)。同様に、人々は彼らの様々な包括的教説に照らしてこれ

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らの決定をよく理解し続けること、すなわち市民相互間の立場の互恵性199と相互承認を通

じて、正義原理と合致する形で正当化されるということである。

以上のような整理に基づいて、理性の概念変容を理解する場合に、唯一の条件としての

視点の一般性(一般的な視点とは、既に前述した公共性の問題につながる)の必要性がま

ず重要である(PL, pp.241-3)。そして、その条件の中ではわれわれの決定は、家族、身分、

階級といった人間の出生にかかわる自然の共同性から離れ、無縁の者たちの主体性によっ

て作られた人工の共同性(構成的社会条件)の文脈に置かれる。その人工の共同性こそが、

様々な条件のもとに生まれた者たちを、共同の場所へと導き、政治行動のための全面的公

共性の条件を提供してくれるのである200。

第2款 理由基底的公共性のために

理由基底的公共性は、緊張関係にある2つの要請、すなわち、異なる価値観を有する人々

の共生を可能とするような公平な公的討議の枠組みを設定せよという要請と、人々の価値

観の真正性を尊重せよという要請をいかにして調和させるか、という問題をめぐって提示

された概念である201。

ロールズによれば、秩序ある社会において公共性が重要であることは、市民が共有して

いる理に適った正義感覚に基づいて支持される。この意味で、人々が想定しうる政治的制

度やそれに関する知識は、正義感覚と、そこから導かれた諸観念の内省によって規定され

る。換言すれば、正義感覚と内省的考察から導かれる諸観念によって、我々の思惟の限界

が規定されるともいえる202。それゆえに、理由基底的公共性については、「反照的均衡にお

いて熟慮された」認識に基づいて、具体的に3つの観点から再考される。それは、正義の

公共原則による有効な社会管理、さらに正義の二原理の第1原理に基づく一般的信念、そ

して正義に適った合理的な政治的構想の全面的正当化である(CP, pp. 293,324-6; PL,

pp.66-7)。正義に適った合理的な政治的構想の是認が唯一の公的討議の目的なのではなく、

199 Reciprocity という言葉の訳語は「互恵性」と訳されることが多いであるが、文脈により「互

換性」とも訳される。塩野谷祐一「福祉国家の危機と公共理性」季刊・社会保障研究 36 巻 1号 17 頁(2000)参照。

200 土屋恵一郎『正義論/自由論』(岩波書店, 2002)21-2 頁参照。 201 井上達夫『他者への自由——公共性の哲学としてのリベラリズム——』(創文社, 1999)103頁。

202 藤原保信(佐藤純一・谷澤正嗣編)『公共性の再構築に向けて』(新評論, 2005)27-9 頁参

照。

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誰もがそれを是認しうるという確信、誰もがそれを是認しうるという理由によって正当化

された場合のみ、その政治的構想は公共性の条件を充たすと考えられる。ロールズは、『正

義論』において第1原理と同じ意味で「公共性」といい、「公共性」の他の2つの観点は、

正義にもっとも適った政治的構想として人々が想定する政治制度やそれに関する知識に依

拠するものとして、政治的共同体の安定性に関する議論に反映させている。正義の二原理

の価値は、公共性という一般的視点からも肯定できる。秩序ある社会は、自由で平等な人々

が是認しうる公正な協力の条件に支えられているからである(CP, p.325)。したがって、ロ

ールズのいう公共性を公正に関連させると、公共性が正義にもっとも適った政治的構想の

中心となっていることは、明らかである203。

ロールズは、理由基底的公共性について、以下のように説いている。すなわち、正義に

もっとも適った政治的構想は、法的強制力をとおしてのみならず、人々の生活に永続的に

深く影響し続ける制度として適用されるため、人々に共通する実践基盤を活用すべきであ

る。それは、自由が保障されるべき人々の通常の生活基盤のことである。この自由は、権

力による制約が懸念される政治的自由や自治(self-rule)を意味している。正義の領域外に

ある道徳的教説は、たとえその信奉者に重大な影響をおよぼしているとしても、公共性を

問題とする必要がない。ロールズが公共性の問題とするべき範囲を制限している理由は、

その影響の態様が合意に基づく他の社会的影響と異なるから、そして、政治的共同体にお

ける人々に共通する基盤があるとしても、ここでの道徳的教説は、他の人々が同意しそう

もない包括的教説だからである(CP, p.326)。公共性は、人々の価値観やそれに基づく意見

の相違にもかかわらず、人々の自己決定の自由を最大限尊重しつつ共生するために重要で

ある。

公共性に関する理論は、包括的教説の多様性に応じるために、ロールズの『政治的リベ

ラリズム』において優先度の高い課題となっている。ロールズは、1980 年代の過渡期にお

ける論文において、しばしば正当化(justification)と証明(proof)の区別の点で推論

203 福間聡は以下のように指摘している。「ここで注目したいのは、公正な、すなわち理に適っ

た市民達は重要な政治的問題(立憲上の本質や基本的正義に関わる)を議論する際に、如何な

る理由をもって自らの見解の正当性の根拠とするのかである。なぜなら彼らが示す「理由」に

おいて第 1 に、彼らの公正性という徳性は反映されているとロールズは考えているからであ

る」。福間聡『ロールズのカント的構成主義——理由の倫理学』(勁草書房, 2007)75 頁。

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(reasoning)の公共形態について説明していた204。そこでは、正当化は単なる「リストに

載せる前提から有効な議論」ではない。その代わりに、それは私たちと意見を異にする他

人に提出され、そして、それは常に幾つかの合意、つまりその同意を我々と他の人が真実

として公共的に承認するという前提から進まなければならない(CP, pp.394,426-7)。この

時期のロールズには、「合意」という考え方が「重合的合意」の基礎にあるという特徴がみ

られる。つまり「理に適ってはいるが相異なる包括的教説を各人が信奉しているとき、政

治的構想について重合的合意が可能かどうかの判断は、各人の真剣な宗教的、哲学的コミ

ットメントを批判することも、拒絶することもなく、公正としての正義の構想を真摯に擁

護しうるものとして提案するための充分な理由が存在するかどうかを確認する一つの方法

である」205。

正義の二原理が合意の目的であるべきだということの意味が、人々それぞれが正義の二

原理を擁護するために合理的かつ同様の理由をもつべきだ、ということならば、公共性は、

人々相互の尊重を表現したものとなる。重要なのは、この共有された視点が、人々の信奉

する包括的教説に通底しているにもかかわらず、各人の善の構想を抽象化することによっ

てのみ認められる基底的な理由に定着するかどうか、である206。ロールズが正義に関する

公共的推論および重合的合意を説いたことは、多様な価値観を有する多様な人々からなる

204 「単なる証明は正当化ではない。証明はたんに複数の命題間の論理的な結びつきを提示して

いるに過ぎない。しかし、ひとたび出発点が相互に承認されるか、あるいは結論が、その前提

によって表現されている構想の健全さを私たちに納得させるほど包括的であり説得力を有す

るならば、そうした証明は正当化に等しいものとなる。」(TJ, pp.508/764-5 頁, また CP, p.594.)

205 具体的に言えば、Rawls. J., 1985. “Justice as Fairness: Political not Metaphysical” in CP, p. 390;次の 2 つの論文においてこの概念を詳しく検討、Rawls. J., 1987. “The Idea of an Overlapping Consensus” in CP, pp. 421-48 と Rawls. J., 1989. “The Domain of the Political and Overlapping Consensus” in CP, pp. 473-96;やや異なる意味を持つ表現として参照、TJ, p.340/ 509 頁, pp.193-4/299-300 頁。

206 福間聡によれば、「正義の構想が我々の社会において実現されるとき、我々の社会は「理由

の空間 the space of reasons」によって充たされることになる。そのような社会とは、我々は

リベラルな社会の市民として、政治的、社会的、道徳的諸問題をお互いの利用を述べ合うこと

によって解決し、ないし解決はできないまでもお互いの利用を理に適ったものとして認め合う

ことによって、意見の相違を可能な限り狭めることが可能となる社会である。それゆえこのリ

ベラルな討議空間を充たしている理由とは「合理性」によって特徴付けられる理由ではなく、

「公正性」によって規定される理由であるといえる」。福間聡『ロールズのカント的構成主義

——理由の倫理学』(勁草書房, 2007)174 頁。

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政治的共同体を安定させるために、合意形成が重要であること、そして、多様な包括的教

説が正義に適った政治的構想とつながりうることを示している207。

第3款 理由基底的公共性による政治的構想の妥当化

ロールズは、「公正としての正義」を2段階にわけて論証している(PL, pp.64, 140)。第

1 段階では、市民相互の協力が公正だといえるための条件について、第 2 段階では、市民相

互の公正な協力が安定性を確立できることについて論証している。公共性は、第 1 段階に

おいて尊重されている価値である。理由基底的公共性による重合的合意は、第 2 段階に登

場する。公正としての正義へのコミットメントと調和する道徳的態度は、どの程度の範囲

まで拡がりうるかという問題において、重合的合意という概念は、1980 年代のロールズの

正義理論において重要な役割を果たしている。ロールズは、人々の善の構想、あるいは宗

教的、哲学的、道徳的な包括的教説のあり方、すなわち、人々が各々異なった意見を有し

ているという事実に、以前よりもはるかに留意している208。

たしかに、包括的教説には、社会的協力の公正に関する条件など重要ではないというも

のもあり、その支持者がロールズの正義の二原理を支持することは期待できない。しかし、

何らかの公正に関する条件が重要であることにコミットしうる宗教的、哲学的、道徳的な

包括的教説も存在する。ロールズは、このような包括的教説やその支持者が存在している

情況を捉えて、これを「穏当な多元主義」としている(PL, pp.36, 63)。公正さへのコミッ

トメントは、適理性をとおしてなされなければならない209。「穏当な多元主義」は、国家が

何らかの価値を標榜し、人々の判断を一定の方向に誘導しない情況、人々が各々の自由に

判断できる情況を支持する。「穏当な多元主義」といいうる政治的共同体は、この多元性の

207 Charles Larmore, “Public Reason” in The Cambridge Companion to Rawls, Samuel

Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., p.377. 208 ロールズはこれを「理性の重荷 the burdens of reason」(CP, pp.475-8)、後に「判断の重

荷 the burdens of judgment」(PL, pp. 54-8)と呼ぶ。 209 もし多元主義がアイザイア・バーリンによって示唆された倫理的構想とされたら、この文脈

で誤解を招くような用語になる。バーリンの多元主義は積極的な原則として、究極的な、還元

できないかつ、時には互換性のない人生目的を示している。ロールズの念頭に置いた多元主義

は、人間の善の本性に関する合理的な不合意の存在の記述だと考えられてよいかもしれない。

そして、バーリンの価値多元主義は諸論争中の観点の一つと見なされる。詳しく参照 Charles Larmore, 1996, The Morals of Modernity, Cambridge U.P., Chapter 7, “Pluralism and Reasonable Disagreement”

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様々な要素と調和するときに限り、安定する。ロールズは、『正義論』では政治的共同体に

おける多元主義的傾向と、それを認めた場合の政治的共同体の安定性について考慮してい

なかった。『正義論』の第 III 部では、人々が秩序ある社会において正当に行動することを

起点に、個人の善を合理的な生活目標として認める単一の倫理観が示されており、この倫

理観には、個人の自律、自律的人格を有する個人といったカント的特徴が顕れている(TJ,

p.501/752 頁)。たしかに、政治的共同体における人々それぞれの個人の善の尊重は、近代

的な立憲民主主義を促進することになろう。ロールズは、相異なる様々な包括的教説、個

人の善が自由社会における正義の公共的理解と重合しうることを認めている。

相異なる様々な包括的教説の尊重と公共性の確立という矛盾を克服するために、ロール

ズは、理由基底的公共性という概念を導入し、公共としての妥当性に関する公的討議に期

待する。正義の合理的な政治構想は、公共理性に意味内容を与えるために必要とされる。

ロールズによれば、合理的な政治構想の特徴は以下の3つである。一つは、自由と平等に

関する基本的権利のカタログがあること、第 2 は、一般的な善(general good)、経済的効

率性および完璧主義者の価値観に基づく政治的主張は、自由と平等に関する基本的権利よ

りも優遇されること、第 3 は、人々の自由を保障するために、全ての人々に万全な手段を

確保することである(CP, p. 582)。以上の特徴は、合理的な政治構想がリベラルであるこ

とを示唆している。これは、「政治的構想の集合」を意味し、このような構想の集合は合理

的であり、公的討議をとおして、公共理性に意味内容を付与する。したがって、「是認でき

る公共理性の形式(the forms of permissible public reason)」は多様である210。

しかし、リバタリアンは、ロールズの合理的な政治構想を認めないであろう。リバタリ

アンにとって、合理的な正義構想は、公共理性に意味内容を付与しうるものではない。リ

バタリアンが平等の観念を否定することからすれば、これは驚くべきことではない211。リ

バタリアンは、自由で平等な人々、そうした人々が互恵性に基づいて協力している社会で

はなく、個人の資産の所有者である自由な人々、そうした人々が契約によって関係してい

る社会を想定している。ロールズにとって、このようなリバタリアニズムは合理的ではな

210 参照 CP, p. 583。ここでロールズは、具体的にハーバーマスの討議正当性の構想および共通

善に関するカトリックの観念を、包括的な教説の一部ではなく、政治価値として表現される限

りでは、公共理性の是認できる形式として言及した。(PL, pp. lii–liii 参照) 211 ロバート・ノージックによれば、民主主義とは「人民の、人民による、人民のための政治」

である。Robert Nozick, 1974, Anarchy, State and Utopia, Basic Books, pp.268-71.

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い。それは、人々が各々の自由と平等な機会を有効に活用するための手段を確保できない

からである。機会均等や社会的ミニマムを確保しうる場所がない限り、リバタリアニズム

は、政治的構想の条件、すなわち互恵性の基準を満たすことができない。

ロールズは、「穏当な多元主義」の尊重と政治的共同体の安定可能性を整合的に説明する

ため、『政治的リベラリズム』を著わした(PL, p.xlii)。『正義論』は、カントとミルの伝統

的リベラリズムに依拠しつつ、正義の重要性を包括的道徳哲学の一部として提示したもの

にすぎない。実際に、公正としての正義という政治的構想において、個人の自律性は本質

的な要素ではなかった。ロールズは、「哲学自体に寛容の原則を適用する」ことにより、「穏

当な多元主義」にある政治的共同体の安定化を図ろうとしている(CP, p. 388; PL, p.10)。

『政治的リベラリズム』は、信念に基づく論争をやめ、正義を既存の包括的教説の共通

分母に還元し(CP, p.491)、「充分に知れわたっている事情(full publicity condition)」を

「公共理性」に拡大しようとするものである。公共理性は、『正義論』における公共性に由

来しているが、ロールズにとって、公共性の問題は、関心の周縁からむしろ中心へと移っ

ている。『政治的リベラリズム』の序文に記された目的は、「穏当な多元主義」という事実

を考慮し、さらに正義に関する合理的な政治的構想がいくつも存在していることを所与と

しつつ、『正義論』で説いた秩序ある社会という理念を再定式することである(PL,

pp.xliii,xlviii)。ロールズが「穏当な」という言葉を用いるようになったのは、「公正として

の正義」という構想がもっとも理に適った政治的構想だと確信しているが、この構想は、

これ以外にも存在する理に適った政治的構想の一つにすぎない、という「穏当な」位置づ

けを認めたからである212。

小 括

第2章では、ロールズが人々の対等性を重視する立場から説いた、自由で平等な市民に

よるリベラルな政治文化について、それを支える理論的基盤の変化、すなわち公共性から

公共理性への転換を概観し、公共理性により正義の二原理が承認される条件、正義の二原

理が承認されるプロセスにおける公共理性の役割を明らかにした。

212 PL, p.xlix; LP, p.140ff; 福間聡「理由の復権——公共理性に基づく正当化」社会と倫理 19号 46-7 頁(2006)。

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理由基底的公共性は、「相互性」と「互恵性」の観点から、理性をとおして正義の二原理

を受容しうる限り、異なる包括的教説等を信奉する人々の受容可能性も維持されうること

を示している。多様な価値観を有する多様な人々が共通して有している公共理性をとおし

た政治的構想の設定は、社会的協働の実効性を高めることにもなる。人々は、立憲民主主

義の国家における基本的な責任主体として、合理性と適理性を同時に有するべきだが、他

方で適理性は、合理性よりも優先されるべきである。

第1節では、『公正としての正義』における理性は「公共性」を担保するもので、社会的

協働の観点から、公共性が相互性あるいは互恵性に還元されていること、正義の二原理の

原初状態にある人々が有する理性が、この還元によって2つの実践的理性、すなわち合理

性と適理性に区別されたことを明らかにした。

第2節では、合理性と適理性の役割を踏まえ、「非公共的」理由と「包括的」理由を区別

し、「穏当な多元主義」の状況において正義の政治的構想を確立するためには、理由基底的

公共性に着目すべきことを明らかにした。これは公私の区分と異なり、行動や決定の理由

の区別を基底にして、政治的決定の正当化根拠をかかる理由に依拠し、間主観的な規範的

要請を指すものである。

第3節では、『正義論』における公正としての正義における公共性から『政治的リベラリ

ズム』における討議的民主主義への転換過程において彼の「公共理性」という教説へと変

換していく背景、条件とその意義を明らかにし、正義の政治的構想を支える公共理性・理

由に対して、異なる宗教的・哲学的・道徳的教説、いわゆる背景的文化という概念に対す

る注意を喚起し、ロールズの正義理論の土台となる「リベラルな政治文化」論を特徴づけ

る「理由基底的公共性」の内容において前提とされる諸々の観念について検討した。

私はロールズの思想において理性概念の変容を捉えることを通じて、彼のいう正義原理

の知の成立根拠を明らかにし、理を弁えた人々の理性的判断の重要性を再び確認した。つ

まり正義原理を受け入れようとする人々は「やはり理性=理由でもってその妥当性の有無

を確認」し、「恣意的で非理性的な要素を除去」してから、公正な社会的協働関係を築くこ

とが可能なのである213。理性使用と理由づけは社会的協働を行う公正なシステムとする正

義原理の成立を始めとする受容活動により導出された成果を体系化、組織化し、更なる社

会正義の促進の知的基盤を提供している。ロールズは主体的に整備すべき知的基盤の重要

213 川本隆史『ロールズ 正義の原理』(講談社, 2005)52-4 頁。

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111

性を指摘するとともに、公正性・適理性の合理性に対する優先地位を有することを通じて、

この知的基盤の整備が正義の理論の最終目的ではなく、あくまで受容可能な原理を見出す

ための 1 つの客観的条件に過ぎず、正義原理の受容環境として公共理性によって支えられ

るリベラルな政治文化を看過してはいけないと強調した。

ロールズにおけるこのような公共的政治文化の重要視の手がかりとなるのは、次の一文

である。「自らの育ってきた社会および文化の有する言語は、われわれが自分自身のことを、

すなわち自らの抱く目的や目標や価値を、発話や思考の中で表現したり理解したりするの

に用いるものであるし、また、この社会と文化の有する歴史や習慣や慣習は、われわれが

社会という世界の中で自らの位置を見出す際に依拠しているものなのである。われわれは

自分の社会および文化の多くの部分について、それを拒否しないまでも疑問に思うことが

あるかもしれない。しかし、たとえそうであろうと、われわれは、自分の社会および文化

を大体において肯定しているのであり、それについて表現はできないけれども詳細に知っ

ているのである。そうだとすれば、政府の権威は自由に受け入れられたものとはなり得な

い。それは、次のような意味である。教会の権威が自由に受け入れられたものと言えるた

めには、良心の自由が存在すればそれで十分であるが、政府の権威の受け入れについては、

同じようにはいかない214。というのも、社会および文化とのきずな、すなわち歴史や社会

的出身地とのきずなは、われわれの生活を非常に早くから形作り始めるし、またそのきず

なは通常は非常に強いものでもあるため、外国へ移住する権利が存在しても、政府の権威

が政治的意味において自由に受け入れられたものとなるには、なお十分ではないのである

(PL, p.222)」

かくして、ロールズの正義理論の形成・発展および正義原理の受容という見地からは、

リベラルな政治文化の視点が重要な役割を果たしている。本章での考察を踏まえ、次の第 3

章では、ロールズのリベラルな政治文化論をさらに整理しよう。

214 ロールズは権力の権威性を通じて「政治と文化」の関係を論じる際に、教会と政府の権威の

性質を区別する意味で、われわれにとってそれぞれの権威を受容するメカニズムの差異を強調

した。彼は宗教を文化の一つとして捉えて、宗教と文化を同一視している。しかし、「文化へ

の権利」が実際の「宗教の自由への権利」と同一視されることを拒絶する代表的な意見として

Waldron の名前が挙げられる。宗教の自由への権利は文化への権利と異なって、国家の支援

に対する権利ではなく、消極的権利として不干渉への権利。Jeremy Waldron, “Minority Cultures and the Cosmopolitan Alternative”, University of Michigan Journal of Law Reform, 25(3): 762.

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第3章 公共理性に支えられた「リベラルな政治文化」の基礎的考察

はしがき

ロールズによれば、「正義の原理は、人々が帰属する文化の諸形態を規定する(TJ, 194/300

頁)」ものである。正義の原理を受容することは、何らかの政治文化を形成することであり、

正義の原理に適応した文化的要素、すなわち権利概念、経済制度、立憲民主制等々の社会

的コンテクストを考慮せずに、正義理論の受容や実践について語ることはできない。「互恵

性の基準をともなう立憲民主制を拒否する人々」は、正義の二原理を支える「公共的理性

の観念をも、当然のこととして拒否するであろう」とロールズは説く(LP, p.133/194-5 頁)。

また、「正義の政治的構想は、リベラルな立憲民主制の公共的政治文化の一部」であり、

このような政治文化において「使用可能な政治的道徳的諸観念」によって構成される

(JF,56/97 頁;LP,15/21 頁)。「政治的構想は、立憲民主制の公共的政治文化に潜在的に包

含されているとみなされる根本的な諸観念から創りあげられる」ものである(LP,143/208

頁)。立憲民主制という公共的政治文化なくして、政治的諸制度の基礎となる政治的構想に

おける諸原理を導き出すことができないし、その諸原理を理解し、受容し、実践すること

もできない。

以上のことから、本章では、ロールズの説く「政治文化」のあり方について検討する。

序章において、中国において顕著となっている社会的経済的格差の背景には人々の差別意

識があると指摘した。社会的経済的格差を実質的に是正するためには、差別意識の緩和、

解消が必要であり、政治文化という概念からそのための手がかりがえられると考えている。

差別意識は、「既存の諸権利、すなわちシティズンシップの諸権利ではいかんともしがたい

問題」であり、「シティズンシップの諸権利を文化の領域まで体系的に拡張せよ」という要

請につながる。これを「文化的シティズンシップの権利」の要請というならば、本章では、

「文化的シティズンシップの権利」を正義概念に体系的に位置づけ、あるいは、シティズ

ンシップの権利を「文化の領域における権利」という概念に拡張させようと試みる215。

215 デイヴィッド・ウエスト(田中智彦訳)「社会正義と社会民主主義の彼方に——積極的自由

と文化的権利——」(飯島昇藏・佐藤正志訳者代表)『社会正義論の系譜』(ナカニシヤ出版, 2002)316 頁。

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性別、民族、宗教、職業、社会的身分等の相違によって、あるいは障害の有無によって、

マジョリティとマイノリティが生じ、マイノリティがマジョリティによって差別されると

いう構造は、その政治的共同体において主流文化にコミットしている者と主流文化と異な

る文化にコミットしている者との間で生じる政治文化の衝突であり、マジョリティとマイ

ノリティの社会的経済的格差は、その政治力学的帰結である。政治的共同体において主流

文化が生じること、すなわち支配的文化が形成されることは回避しがたいが、重要な問題

は、主流文化が支配的であることが、既存の市民的、政治的、経済的諸権利の不公正な適

用につながっていることである。すなわち、法に規定されている諸権利が形式的には差別

を排除しているにもかかわらず、その諸権利が保障される具体的局面において、性別、民

族、宗教等の文化的偏見が反映し、公正な保障が歪められている216。このような認識に基

づいて、女性の社会進出、環境の保護、同性結婚の容認、少数・先住民族の権利確立等の

運動が展開され、自律的個人としてアイデンティティを確立しうることによる充足感、様々

なスティグマから逃れられることによる安心感等々、従来の公共性から排斥されてきた主

観的要素に対する配慮の必要性に関心が寄せられている217。

人生観、ライフスタイル等の多様性を認める政治的リベラリズムにおいて、多数決によ

る決定という狭義の民主主義は、もはやさして魅力的なものではない。立憲民主主義国家

が文化の問題にどのように対応するべきかが課題となるときに、多数決という民主主義の

限界を拡張させうる機能を有するロールズの正義理論は、重要なヒントを提供するであろ

う。 216 政治文化史の視点からみれば「アメリカ政治は、諸々の外集団が、徐々にその少数者集団た

る地位を脱し、少数者意識を希薄化させて、中央文化に融合していく過程」と言われるが、そ

の融合していくという過程はまだ終わっていない。「宗教、民族的出自、言語、価値観、歴史

的記憶」また「何らかの理由で自分たちが他とは「違う」」と感じ、「他から「違う」と見ら

れる」人々にとっては、依然として多元社会の根底にある道徳主義、連邦主義、自由主義、平

等主義によって対立と統合が繰り返しており、人間の文化的欲求の一形態として意識されてい

る、と考えられるであろう。ロバート・ケリー(長尾龍一・能登路雅子訳)『アメリカ政治文

化史』(木鐸社, 1987)ix, 418-9 頁参照;アメリカの政治文化の特徴を同調性と個人主義との

両面性に求め、そのなかで個人主義の側に力点において、少数意見の展開に民主主義の重要な

基礎を見出そうとしたといった論点は、「アメリカの 2 つの顔」『図書』(1942 年 2 月号)

石田雄『政治と文化』(東京大学出版社, 1977)150-9 頁参照。 217 デイヴィッド・ウェスト(田中智彦訳)「社会正義と社会民主主義の彼方に——積極的自由

と文化的権利——」(飯島昇藏・佐藤正志訳者代表)『社会正義論の系譜』(ナカニシヤ出版, 2002)321,333 頁。

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リベラルな政治文化においてであれ、他の政治文化においてであれ、そこにおける政治

現象に普遍的な傾向が認められることも否定できない218。その傾向は、デイヴィッド・ウ

ェストの説くように、「文化の領域における『積極的な』自由と正義へのコミットメント、

それも文化的シティズンシップの諸権利の承認によって実質的な豊かさを獲得としたコミ

ットメント219」をとおして、社会的正義のリベラルな解釈を拡張させようというものであ

る。しかし、「法、権利、正義、自由等々の、政治文化を考える際に重要な諸概念は、文化

ごとに異なる意味を有するばかりでなく、諸概念の関係性も異なるため、まず文化の全体

像を理解してから、それとの関連において各概念について検討する必要がある220」。ロール

ズは、その正義理論が異なる政治文化においても受容可能であることを説明する必要性を

認識しており、実際に試みている。ロールズの政治文化概念を確認することは、欧米諸国

と政治文化の異なる中国にける正義の二原理の受容可能性、実践可能性を模索している本

論文にとって、きわめて重要である。

ロールズは、「政治的アイデンティティを有する市民」と「文化的アイデンティティを有

する市民」を区別し、多様な文化が存在する政治的共同体において、中立な政治文化、公

正な政治文化を確立させることは可能か、可能だとすればどのように確立させることがで

きるのかという課題を提示している。この課題は、多文化主義の主張に応じた従来のリベ

ラリズム221の拡張可能性とも関わり、リベラリズムを基調とする現代の立憲民主主義国家

が抱えている規範的課題に応じたものである。ロールズは、文化的諸権利を保障する前提

となる規範的個人像として、時間的には世代間の問題を、空間的には国家間の問題を視野

に含め、背景的文化の異なる人々による対話が可能となるものを設定しようと試みている。

多文化主義は、背景的文化、すなわち自己をとりまく文化が個人の価値観をあらかじめ規

定する事実に着目しているため、文化的諸権利は、一般的に「集団的権利」として理解さ

218 石田雄『政治と文化』(東京大学出版社, 1977)1, 4 頁参照「普遍的な傾向性」を持つと言

われるが、政治現象の現れ方の差異もある。その差異を規定するのは、「単に文化的な違いだ

けではない」。この意味で、本論文は政治制度に影響を与える文化的要素を重視するが、決し

て文化の一元的決定論の立場を取るわけではない。 219 デイヴィッド・ウェスト(田中智彦訳)「社会正義と社会民主主義の彼方に——積極的自由

と文化的権利——」(飯島昇藏・佐藤正志訳者代表)『社会正義論の系譜』(ナカニシヤ出版, 2002)322-3 頁。

220 石田雄『政治と文化』(東京大学出版社, 1977)10 頁。 221 長谷川晃「リベラルな平等についての覚え書き」北大法学論集第 43 巻第 5 号 430-409頁(1993)参照。

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115

れているが、必ずしもそうではないということは強調しておく必要がある。文化的諸権利

は、少なくとも当初は、立憲民主主義国家において既に制度化されている市民的、政治的、

社会的シティズンシップの権利と同様に、諸個人に保障される権利として理解されていた

222。文化的諸権利が要請されるようになったのは、自由主義的な政治的諸制度において、

個人の諸権利の平等な保障を重視されるようになったからである。本章では、ロールズの

多様な領域にわたる言説を再構成することにより、政治と文化に関する複雑な言説の背後

にある思考パターンを解明し、文化的諸権利の原理としてロールズの正義理論を拡張させ

ようと試みる。

222 デイヴィッド・ウェスト(田中智彦訳)「社会正義と社会民主主義の彼方に——積極的自由

と文化的権利——」(飯島昇藏・佐藤正志訳者代表)『社会正義論の系譜』(ナカニシヤ出版, 2002)336 頁参照。注意すべき点は、文化的諸権利は自由主義の文脈で個人の権利として理

解されうると同時に、文化的諸権利が常に集合的な次元という典型的な形で現れることを否定

していない。言い換えれば、個人が自らのアイデンティティを追求して、社会的多数者からの

抑圧を対抗するために、そのアイデンティティを是認・共有してくれる他者との結社・組織・

メンバーシップという形を通じて、外観上の「共同体」的表現を利用して個人の自由権を実現

する戦略も構造的弱者の立場から考えられる。「例えばゲイやレズビアンの共同体は、ある文

化共同体として理解されることになる。すなわち、支配的な文化の差し出すニーズの解釈によ

りもほんものに近い解釈を、また、支配的な文化の差し出す自己やアイデンティティの構想よ

りも妥当な構想を、各メンバーが手に入れられるように文化共同体である。」同書 331 頁。

特に文化的権利を「集合的な権利 Collective Rights」として理解する場合に、概念の曖昧さ

に対して批判は、「集団は、その成員から独立に考えられた福祉状態へのいかなる道徳的な請

求権も持つものではない。集団は、たんてきに言って、道徳的な地位を有する存在としてふさ

わしいものではないのではる。それは苦痛も快楽も感じない。苦悩を感じたり元気に活躍した

りするのは、有情な存在としての諸個人であって、彼らの生がより良いものであったり、より

悪いものであったりするのである。」Will Kymlicka, 1989. Liberalism, Community and Culture, Oxford U.P., pp.41-2.この訳文は盛山和夫『リベラリズムとは何か——ロールズと正

義の論理』(勁草書房, 2006)264 頁。また同じ観点について、Will Kymlicka, 1995. Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights, Clarendon Press, p.45ff.「個人的権利 Individual Rights」の文脈で上記の論点を扱う文献として挙げられるのは:Will Kymlicka (ed.), 1995. The Right of Minority Cultures, Oxford U.P.文化的諸権利を個人と集

団との 2 つの文脈を分けて考える意義は、文化的諸権利の機能が少数者集団の「対外的防衛

External Protections」と「対内的制約 Internal Restrictions」にあり、これは対外的関係に

おいて「少数者と多数者との集団レベルの平等」を目指すとともに、集団を内部の異論のもた

らす不安定化から保護するために、対内的制限という手段をもって「少数者集団内部の自由」、

普遍的な個人的権利や自由の尊重という大原則の下でのみ許容される。Will Kymlicka, 1995, ibid.,p.35ff. 盛山和夫, 2006, 前掲書 263-4 頁。

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第1節 政治哲学としてのロールズ正義論と文化との関係

第1款 政治哲学の源泉としての政治文化

ロールズは効率性で論じられている功利主義の正義の概念を批判し、正義を「公正性」

の見地から解釈し、社会制度編成を構築する諸原理とその理論的体系を明らかにして公式

見解として定立し、さらに、『正義論』で論じた秩序だった社会の理念を、穏当な多元主義

の事実を考慮に入れるのみならず、正義についての理に適ったリベラルな政治的構想が複

数存在することを所与とした上で、現実主義的ユートピアの可能性の擁護という形で再定

式化した。しかし、ロールズの正義理論(正義の政治的構想)が実際の政治生活のなかで

如何に応用されて活用されるか、またその理論の解釈の射程がどの程度まで文化的諸権利

への原理として読み替えると考えられるかといった理論的拡張可能性の如何はまだ課題と

して残っている。本節では、ロールズの構想(ユートピア)を現実化するために、主に理

論の現実妥当性を支える実践可能性と拡張可能性を検証することを手掛かりとして議論を

はじめる。

この議論の帰結は正義の二原理の要求事項を組み込むことで理論の現実性と可能性を担

保しようとすることである。ロールズによれば、たとえば、友愛(fraternity)の原理は自

由や平等と比べると、デモクラシーの理論においてそれほど重視されてこなかった。理由

として考えられるのは、友愛は政治的概念として具体性に欠けており、また、友愛は情操

および感覚の絆を必要とするので、大規模な社会の構成員どうしがそうした絆でつながる

かと予期することは現実離れしていることである。しかし、もし友愛の基底をなす理念を

正義の原理から考察すれば、「友愛は非現実的な構想ではない......少なくともそれらの制度

や政策によって許容されている不平等がより不遇な人々の暮しよさに寄与すると言う意味

において、友愛が求めるものを充足すると思われる。いずれにせよ......(友愛が格差原理の

要求事項を組み込んでいると解釈するならば)友愛の原理は、完全に実行可能な基準とな

る(TJ, p.91/142-3 頁)」。以下では、そうした理論的文脈を踏まえて共通的な思考パターン

の雛形を浮き彫りにしたうえで、政治哲学としてのロールズ正義理論をどの程度まで文化

的諸権利への原理として読み替えると考えられるのかという理論的拡張可能性そのものに

ついて、検討を行う223。

223 この検討を始めるまえに、一言だけ言わなければならないことがある。 それは議論前提と

しての「政治文化」の概念は非常に複雑的であり、一義的に規定することが困難だということ

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何人かの理論家にとっては、文化的諸権利を幅広く捉えれば、例えば、性差別(同性愛)、

人種差別(種族・民族岐視、先住民問題)、生命・医療倫理(中絶、クローン、安楽死、尊

厳死)問題等に対して、ロールズの説く正義理論はあまり関心不足ではないかという指摘

があり224、彼の提唱する「正義の諸原理」をもって以上のような文化的視角からアプロー

チしようとする問題状況の改善に役立たないのではないかと疑問を投げ掛けられることが

ある。しかし、ロールズは、「政治的・市民的不平等や文化やエスニシティによる差別に発

する窮状を簡単に受け入れてよいはずはない(TJ, p.477/715 頁)」と言っている。私の考

えでは、ロールズの正義理論には大きな文化的関心があり、主に政治哲学として読まれて

きたロールズ正義理論は文化的諸権利に対して「公正としての正義」という理論戦略を採

ろうとしている人にとっても意味深い示唆を与えている。大まかに言えば、ロールズの正

義理論や政治哲学それ自体が、歴史的文化的な背景に向けられる哲学的な反省要求として

社会の政治文化のために存在するといった理念的な部分も含んでいる。つまり正義の政治

的構想は「公共的な政治文化の一環」であって(LHMP, p.366/526 頁)、政治文化の観点か

らみた民主的な見解は、「いわば政治哲学を民主的な社会の一般的な背景文化の一部とみな

である。以前に行なわれた研究によれば、「政治文化は political culture の訳語であるが、

political culture が米国の行動科学的政治学において展開された概念である。その行動科学で

の政治文化の扱い方は経験的なデータを基礎にして政治文化を構成していく。ただ、本書で扱

おうとしている主題と地域について、行動科学的なアプローチをとることはきわめて困難であ

ると考えられる。」この点は経験的調査統計の不可能という意味で、本論文とまったく同じで

ある。また、「政治文化論が展開される至った背景には、西欧で構成された普遍性の高い政治

理論を非西欧地域に適用した場合、そこに普遍化されえない個別的要素が残ってくるという事

情がある。」政治文化を大雑把に理解すれば、これは「人々に共有されている政治的価値・感

情・態度などを寄せ集めたもので、一般的な文化の政治的側面を指す」ものである。阿部斉「国

民形成への「文化主義」的接近」(日本政治学会編)『国民国家の形成と政治文化』(岩波書

店, 1980)v-vii 頁;この意味で、政治文化を構成する要素に「経験的諸信条・情動的象徴、

および政治行動が行なわれる状況を規定する諸価値」である。石田雄, 1977, 前掲書 6 頁。ほ

かの政治文化についての典型的な扱い方として挙げられるのは、「政治文化」と言っているの

は、政治的行動様式(上記の行動科学的政治学の意味——筆者)や、政治思想とか政治に関す

る文化的著作や業績ということではなく、「政治的イデオロギー」という言葉とほぼ同義と考

える。馬場康雄「二十世紀の政治文化」(吉川弘之著者代表)『文化としての 20 世紀』(東

京大学出版会, 1997)101-2 頁。また、「政治文化」の研究方法について、D・ガヴァなー(寄

本勝美・中野実訳)『政治文化論』(早稲田大学出版部, 1977)1-18 頁参照。 224 批判者として挙げられるのは、例えば、Habermas, 1995. “Reconciliation through the Public

Use of Reason: Remarks on John Rawls's Political Realism”,The Journal of Philosophy 92. Cf. p.129.

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します......市民社会の一般的な背景文化に属する政治哲学は、その基本的な観念とその歴史

が論じられ、研究される市民社会の文化に貢献する」ものである(LHPP, pp.3-4, 6/6, 9 頁)。

その理由としては、次のように考えられる。第 1 に、リベラリズムやデモクラシー等の

政治制度や政策、また平等や自由等の権利観念は、一定の背景的文化という形で捉えた歴

史的社会的コンテクストの中に位置付けられて初めて意味をもち、その背景性や場所性に

根ざした形で社会諸制度や権利観念の基盤を整えられる。第 2 に、そうして背景的文化の

分析や考察等を通じて、制度や政策、権利等の意義や役割をより深く理解し、原理の受容・

実践に益するような環境と条件を整備し改善する方向性や課題を提示し、その上で、課題

を解決するうちに、新たな理論的枠組みを築き上げたり、拡張したりする可能性も含まれ

ている。また、政治哲学は、「本質的な政治的原理や理想の源泉を提供する際に、一般の背

景文化の一部として少なからぬ役割を果たします。それは、民主的な思想や態度の根本を

強化する役割を果たします」。そして、「背景文化の一部として教育的な役割を担います。

(LHPP, pp.5, 6/8, 11 頁;JF, p. 56/97 頁)」教育的な役割を担うことを通して「公共的な

文化を知りこれに参加することは、公民が自分たち自信の何たるかを学ぶ方法の一つ」な

のである(LHMP, p.367/526 頁)なぜロールズは政治文化のなかで教育的な役割を重視す

るかと言えば、「自分が帰属する社会の文化の享受および社会の運営への参画を可能にし、

それを通じて各個人におのれの価値に関する確固とした感覚を与える(TJ, p.87/136 頁)」

ことができるからである。このように、個人は先行する政治文化の、単なる受動的受け手

であるだけではなく、その政治文化に汎通する価値とシンボルの固有のレパートリを獲得

し、主体性の基底部分を形成・発展させ、他者と交信可能な社会的存在になっていくこと

を促すものである225。

第2款 政治文化の充実に伴う正義理論の拡張・実践可能

政治発展の速度を早めたり、民主主義の安定をもたらすこととの関連で、文化の変革の

問題をどう取り扱うかという関心は、政治的行為が文化的要因もしくは構造的要因によっ

て決定づけられるという点で特徴づけられる。たとえば、工業化と都市化の過程は文化的

近代化の広範な媒体とみなされてきたし、まだそこで文化的近代化は、社会・政治への積

225 河田潤一『比較政治と政治文化』(ミネルヴァ書房, 1989)4 頁参照。

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極的市民意識を促進することで、その重要性が強調される226。政治文化の充実に伴う市民

意識の成長は長い目でみると必ず経済的・政治的発展の道を開く。

リベラルな市民的政治文化を育成するための契機となるという点では、ロールズの正義

理論や政治哲学の拡張・実践可能性は、かれによって特徴づけられた政治哲学の 4 つの役

割によりむしろいっそう強まると推測することができる。ロールズによれば、政治哲学が

「社会の公共的な政治文化の一部をなすもの」として、「実践的な役割」「方向づけ」「和解」

「実行しうる政治的可能性の限界の探求」という 4 つの役割を果たしうる。実践的な役割

は政治哲学において深刻な論争の対象となっている問題に焦点を当て、そうした政治的抗

争の外観にもかかわらず、哲学的・道徳的合意の根底をなす何らかの基盤を顕わにするこ

とができないかどうか、あるいは、市民の相互尊重に立脚した社会的協働がなおも維持さ

れうるように、少なくとも意見の相異の幅を狭めていくことができるかどうかを検討する

ことである。ただし、理性と反省が果たす方向づけという役割は、政治哲学において政治

的・社会的制度全体と市民たる自分自身並びに家族やアソシエーションの成員との目標や

目的を区別することである。和解とは政治哲学において社会やその歴史に対する私たちの

不満や怒りについて、哲学的観点から適切に理解して、社会の諸制度の合理性およびその

合理的な形態を獲得にするに至った経緯を示すことである。実行しうる政治的可能性の限

界の探求という役割を果たすとき、社会的世界は少なくともまともな政治秩序を可能にし、

したがって完璧ではないとしても、理に適った仕方で正しい、民主的な体制が可能である

という信念を孕んでいる(JF, pp.1-5/3-9 頁;LHPP, pp.10-1/16-8 頁)。正義の政治的構想

の担う幅広い役割に応じた可能性としては、政治哲学の思考パターンのなかで文化的諸権

利を読み直し、問題解決を可能とする施策を見つけることが完全にできないわけではない

であろう。なぜなら、自己改良を行う人間の潜在性は、明白な限界もなく長期的に文化を

通じて発展させることができ、またこうした達成されたものを保持する制度は十分に尊重

され維持されうるのである(LHPP, pp. 204, 215/365, 385 頁)。これは、文化によって開発

されるべき人間の能力や技能でもあると同時に、私たちの人間性、すなわち道徳的な力と

本来的な能力を現実のものにする人間の文化的開明を表すものなのである。(LHMP,

p.188/281-2 頁)。

226 D・ガヴァナー(寄本勝美・中野実訳)『政治文化論』(早稲田大学出版部, 1977)55-6 頁

参照。

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第2節 ロールズにおける政治文化への配慮とその接近方法

ロールズの文化に関する正義理論の主な主張内容に個別的に検討を加えるに先立って、

その周到ではあるが、かなり複雑な理論構成の基礎にある方法論および彼の文化関心の全

体像を予め理解しておくことが適切と思われる。そこで以下では、その概要を紹介しつつ、

問題の所在をみておこう。

第1款 政治文化への配慮の諸表現:「無から有へ」と「弱から強へ」

ロールズが自らの正義理論において政治文化的要素を配慮する諸表現の一点目は、文化

的要素が無から有へと展開させることである。人々を協働の社会につなぎとめる規範的原

理を探求するためには、具体的現実的な社会・経済・政治・文化等諸制約を超えなければ

ならない。それゆえ、ロールズは原初状態と無知のヴェールといった思考実験の概念装置

を持ちながら、そうした探求が志向している先にある価値、即ち正義とその理論を構築し

た。その理論構成の特徴として、正義の原理の理論部において「無知のヴェール」によっ

て文化的要素が排除される一方、正義の原理の目的部において、政治生活に向けた実現可

能な正義原理は、明確な歴史的、社会的、文化的状態のなかで認識されうるという側面を、

彼は「多元主義の事実」として強調した。異なる文化的要因が政治的な排除/周辺化を惹

起することもしばしばあるので227、ロールズは正義原理を導出するために、文化という要

素を排除し、社会制度編成においてそのような差別化・周辺化という状況を避けるように

なる。例えば、ルソーは「自然状態」を法律の観点から「政治的権威の欠如した状態」と

して理解し、または文化の観点から「文化の原始的な段階」を意味するのに対して(LHPP,

p.196/352 頁)、ロールズの原初状態は、「実際の歴史上の事態とか、ましてや文化の原始的

な状態とかとして考案されたものではない。(TJ, p.11/18 頁)」無知のヴェールの背後に位

置づけられている、その社会がこれまでに達成できている文明や文化のレベルを彼らは知

らない(TJ, p.118/185 頁)。正義諸原理を現実の社会的諸制度・諸問題へ適用する場合は、

文化を含む無知のヴェールによって隠蔽された情報に対する制限を段階的に緩め、「原初状

態で正義の原理を選択した当事者たちが、憲法制定会議に移ると仮定する。当事者たちは

この会議で……無知のヴェールが引き上げられる。」特定の個々人に関する情報を入手して

いないが、「社会理論の原理に関する理解に加えて、社会に関連のある一般的事実−−自然環

227 齋藤純一『政治と複数性——民主的な公共性にむけて——』(岩波書店, 2008)57 頁。

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境および天然資源、経済発展の水準、そして政治文化など−−を知っている。(TJ, p.173/267

頁)」

ロールズが自らの正義理論において政治文化的要素を配慮する諸表現の二点目は、文化

的要素が弱から強へと変貌させられることである。かれは、『正義論』において文化的要素

を考える時の方法論的視点を提供し、文化的諸権利への関心を『政治的リベラリズム』お

よび『万民の法』においていっそう高め、解決のためにたゆみない努力を続けている。「民

主的文化における正義の環境を所与とすれば、そのような社会はどのような理想と原理を

実現しようと努めるのであろうか」という問題への答えは「民主的社会の永続的文化とみ

られる穏当な多元性(PL, pp. xviii, xxi; JF, p.84/150 頁)」の事実に基づく「政治的正義の

構想」のなかに探し求められるのである(JF, p.4/8-9 頁)。

ここでは、ロールズが「自由主義社会が公正な社会的協働の条件に関する最小限の前提

を含んだ善を前提していることを認めること(善の希薄理論)に注意すべきである。晩年

の彼の論文および『政治的リベラリズム』の中でロールズは、公正としての正義は公共文

化の基底に存在する一定の理念に依拠している、と主張していることを見落としてはなら

ない。228」公共的政治文化という視点からみた「1つの正義の公共的構想」は、「民主的社

会の公共的政治文化からよく知られているものであるとみられている。たとえそれらの観

念がしばしばはっきりと定式化されていなかったり、それらの意味が明確に示されていな

かったりしても、これらの観念は社会の政治的な思考、また、例えば裁判所や恒久的意義

があるとみられている歴史的その他の文書における社会の諸制度の解釈方法において基本

的な役割を果たすことができるのである。(JF, pp.6, 27, 29, 33/10, 45, 49, 57 頁)」つまり、

「そのような政治的構想は、この役割を果たす限りで、リベラルな立憲政体の公共的政治

文化(の一部)において使用可能な政治的諸観念(JF, p.56/97 頁; LP, p.15/21 頁)」から構

成され、「正義の二原理によって実現される公共的政治文化のもつ性質と、そのような文化

が公共生活の道徳的質と市民の政治的な性格に与える望ましい効果」を示している(JF,

p.118/208 頁)。そのためには、「最も不利な状況にある人々が自分は政治社会の一部だと感

じ、その理想や原理を備えた公共的文化が自分自身にとって意義あるものだとみなすこと

を必要とする。(JF, p.129/227-8 頁)」だからこそ、「政治的構想は、立憲政体の公共的政治

228 谷口隆一郎「共通善と自由——市民社会の公共善と市民の自由の間」聖学院大学論叢第 18巻第 2 号 179 頁(2006)。

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文化に暗黙のうちに含まれているとみなされる根本的な諸観念−−すなわち、自由で平等な

人格としての市民とか、協働の公正なシステムとしての社会といった諸々の構想−−から創

り上げられる。(LP, p.143/208 頁)」

市民の政治的な性格というものがどのようにみなされているかということは、上述した

ように、民主的社会の公共的政治文化、その基本的な政治的文書、並びにこれらの文書の

解釈の歴史的伝統において作り上げられるとロールズは考えている(JF, p.19/33 頁)。彼に

よれば、自由な人格の適切な意味は、「そのような社会の政治文化から引き出されるべき(JF,

p.21/36 頁)」であり、「公共的文化になじみ参与すること、これこそ、市民が自分を自由で

平等な者と理解するようになるための 1 つのやり方である」とロールズは論じた(JF,

p.56/97 頁)。そして、立憲民主制社会で成長する人々は「公共的政治文化」から、またそ

れに暗に含まれている自由で平等な「人格」と「正義の政治的構想」から、かなりの部分、

市民としての自己理解を形成するであろう(TJ, p. 146/259 頁)。さらに、ロールズの考え

た政治的リベラリズムに適った市民(リベラルな諸国の民衆)には 3 つの基本的な特徴が

ある。第 1 のものは制度的なもので、つまり民衆の利益に奉仕する相当程度に正義に適っ

た立憲民主制の政府ということである。第 2 のものは文化的なもので、J・S・ミルが「共

通の諸共感」と呼んだものにより一体となった市民ということである。第 3 のものは道徳

的なものであり、正しさと正義の政治的構想に対する強い愛着を要求するということであ

る。

こうした議論の進め方を支えている 1 つの考えは、相当程度に正義に適ったリベラルな

社会内では、様々な異なる民族的・国民的背景を有する諸集団による、道理に適った諸々

の文化的利益やニーズを−−彼の信じるところでは−−満たすことが可能だとロールズが考え

ていることである(LP, p.23-5/31-3 頁)。彼はその 3 つの特徴において文化的要素の役割を

意識し、民衆の根本的利害関心は「ある国の民衆が一国の民衆たるものとして抱く自尊の

念であり、それは自分達の歴史のなかの様々な苦難や、諸々の偉業を伴う自分の文化への

共通の自覚」によるものであると論じた(LP, p.34/46 頁)。つまり人々の自尊は公共的・市

民的文化の偉業の数々にも基づいているのである。だからこそ、ロールズは「文化の自由」

の重要性を確信し、「リベラルな文化の自由と独立」の保障を重要視している(LP, p.

48n60/66, 279 頁)。とにかく政治文化の重要性について、彼は政治的判断の誤りをできる

限り避けて修正するため(LP, 14・5 節)、または援助義務を正しく実行するため(LP, 15・

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3 節)、確かに通常政治の日々の内容を埋め尽くしてしまうべきではないが、その背景で政

治文化は重要な前提とされ、作用し続けなければならない(LP, p.102/149 頁)。

第2款 正義理論構成における政治文化の方法論的考察

ロールズの文化的要素を導入する技法からみた正義理論構成の方法論は、「整合的見解」

と「理論的整序」並びに「権利と義務との結合」といった中心的特徴を含んでいる。

「整合的な見解」は、彼の「整合的な平等229」という方法に深いところでつながってい

る。それはつまり、「道徳的人格(おのれの善の構想を抱き、正義の感覚を発揮することが

できる被造物)としての人間存在がすべて平等であることを示すところにある。平等の基

礎は⑴善の構想の形成と⑵政治の感覚の発揮という 2 つの点における類似性にあると考え

られよう。善の諸構想に対応する諸目的の体系は平等な各人の選択に委ねられており相対

的な重要度(value)に即してランクづけられるものではない。採択された諸原理がどのよ

うなものであれ、各個人はそれらを理解しそれらに基づいて行為するのに必須の能力=正

義の感覚を発揮する能力を備えていると見なされる。(TJ,p.17/27 頁)」正義感覚との整合

過程において、「私たちの原理と判断とが適合し合っているかが<均衡>なのであり、どの

ような原理に判断を従わせたのか、および原理を導き出した前提が何かという判断・原理・

前提の相互の照らして合わせの過程」を達成することができたら、つまり「正義に関する

私たちのしっかりした確信と合致する」。均衡状態は、「差し当たり社会正義に関する私た

ちの確信を整合的なものにし、それらを正当化するためにできることを成し遂げたとは言

い得る。(TJ, p.18/29-30 頁)」従って、ロールズの提唱する「公正としての正義」は一言で

いうならば、「反照的均衡の状態にある我々の熟考された道徳的諸判断によって表明された

229 方法論に関して、「ロールズは道徳哲学において一般に用いられてきた 2 つの方法論、つま

り、デカルト主義といわゆる自然主義を退け、道徳哲学のソクラテス的側面を正しく評価すべ

きこと」を強く主張し、「ロールズの方法論は、我々が日常生活において直面する諸問題に対

処するにあたって無自覚的に用いている手続きをきわめて明確かつエレガントに定式化して

おり、プラグマティズムと分析哲学との綜合をめざすハーバード大学の哲学者たちによって主

として理論的基礎づけを与えられ近時その支持者が増えつつあるといわれる「整合説

coherence theory」と特徴づけられている論証様式」である。田中成明「ジョン・ロールズの

「公正としての正義」論」法哲学年報 1973 年 176-7 頁参照。また「整合説」に基づいてロー

ルズの正義理論を理解するにあたって、当の正義二原理が整合的な観念体系の内部で適合する

ときに真が成立するということである。整合説を要約しているものとして参照、

http://plato.stanford.edu/entries/truth-coherence/

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ところの我々の道徳的情操の理論」である(TJ, p.104/162 頁)。ロールズの述べたように、

正義の構想あるいは理論の正当化は「自明な前提や条件から導出されるものではない。む

しろ多くの考慮事項の間での相互支持、すなわち全体がまとまって一つの整合的な見解に

収まるということによってこそ、正義の構想は正当化される。(TJ, p.19/30 頁)」

「理論的整序」とは、ロールズの正義原理を諸制度へと適用するにあたって、無知のヴ

ェールによって隠蔽された文化的要素を含む情報が、そのヴェールが徐々にあげられると

ともに情報や知識としての文化的要素への制約が必要に応じて緩和されていくということ

である。そこでは、第 1 段階「原初状態」における「無知のヴェール」による正義二原理

の導出、第 2 段階「憲法制定」における第 1 原理の適用、第 3 段階「法律制定」における

社会経済政策に関する第 2 原理の適用、第 4 段階における裁判官や行政官と市民によるル

ールの遵守といった四段階の目標と条件を達成するために、文化的要素の取扱いに有効な

取り組みを推進していくことが、正義の公共的構想のための条件を満たすと同時に、理論

の帰結の妥当性においても正義の理論の健全さを示すことになるのである(TJ, p.81/128

頁)。

「権利と義務との結合」については、ロールズは文化的諸権利を考慮する際に、基本的

に 2 つのルートを示していると考えられる。1 つは、文化的諸利益を権利化することである。

「文化の多数かつ多様な担い手や結社は、内部的な生活を有すると同時に、周知の思想・

言論の自由や、結社の自由の権利を保証する法の枠組のなかに存在する。(LP, p.134/196

頁)」つまり文化の要請は権利として法によって保障すべきである。そして、文化をめぐる

衝突は実に権利間の相克であり、とりわけ憲法上の権利間の相克とその解消を目指す権利

間の均衡ということである。もう 1 つは、ある特定の文化的主張は公共的政治のなかに持

ち込まれるときに、包括的な教説としてどんな時でも政治的な主張の中へ取り入られるこ

とは可能であるが、その主張の合理性の説明が義務づけられることである。ロールズはこ

れを「付帯条件 proviso」と呼び、文化の多様性による共同体間の、また共同体を構成する

個人間の衝突とその解決のための基準と位置づける。もちろん、特定の個人や共同体にと

っては何が善であるかについて公に承認された判断に達する緊急性は全くないが、もし何

かの包括的教説を支持しようとしたら、十分であるような適切な政治的理由を提示しなけ

ればならない(LP, p.152/221 頁)。一番目のものは文化への自由を権利保障の基底として肯

定されるのに対して、二番目のものは背景的文化が公共的政治のなかに持ち込まれる場合

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に、その十分な理由を開示する義務をもたらすと示されている。その意味で、文化への議

論については「権利論」と「義務論」とを結合・統合する手法をロールズは用いた。これ

は前述した彼の正義理論構成の方法論の全体的特徴たる「整合性」の重視に由来するもの

である。

第3節 ロールズにおける「リベラルな政治文化」の基本内容

本節では、政治文化の意義と役割に関するロールズの理論的設定の内容と、この理論的

設定を達成するための方法論を踏まえて、まず、「公共的文化」と「背景的文化」の内容と

関係を整理する。そして、前章の理性概念の変容の視点から政治文化をめぐる諸問題とロ

ールズの見解を明らかにした上で、リベラルな政治文化による正義理論の拡張可能性とそ

の方向性を提示しておきたい。

第1款 リベラルな政治文化の基本構成と特徴

第1項 公共的文化と背景的文化

ロールズは「文化」を「公共的(政治)文化 public political culture」と「背景的文化

background culture」という二種類に分けて考えている。前者は政治社会において公共理

性に基づく適切な政治的理由による正義の政治的構想を支えている必要な基礎条件を提示

するようになる230。それは、⑴裁判官たちが判決のなかで述べる言説、とりわけ最高裁判

230 「公共的文化」という概念は、ロールズ以外に、デイヴィッド・ミラー(David Miller)と

ハーバーマスも論じた。ミラーはナショナリティの擁護と価値観や生活様式の多元性の擁護を

両立させるために、「公共的文化 public culture」と「私的文化 private culture」の 2 つの次

元に文化を区別する。公共的文化とは、一般に「ある人間集団が共にどのように生活を営むか

に関する一連の理解」から成り立っており、法の支配といった「政治的原理」、日常生活やコ

ミュニケーションの様式を規定する「社会的規範」を、さらには宗教的信条や言語などについ

ての特定の「文化的理想」をも含んでいる。それに対して、ハーバーマスは、憲法原理の解釈

実践のコンテクストとなる歴史や伝統を強調するために、「公共的文化」(ハーバーマスは「政

治文化 die politische Kultur」と呼ぶ)と「個別文化」を区別する。前者は憲法原理の解釈実

践が積み重ねられることによって歴史的に形成されてきたものであり、歴史的コンテクストを

もちながらも、「正(正義)」をめぐる解釈実践の反復によって再構成される文化である。後

者は「善」(多元社会における構成員たちの価値観やライフスタイルなど)によって規定され

るものである。この区別は、移民の受容という文脈において重要であり、受け入れ国の市民は、

移民に対して政治文化の受容を求めることはできるが、多数者の支配的な文化への同化を強い

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事の言説、⑵政府公務員、特に最高行政官や国会議員の言説、⑶公職立候補者と選挙事務

所長の言説、特に街頭演説や政党綱領、政治的発言における言説という 3 つの部分からな

る公共的な政治的フォーラムである。一方、これとは明確に区別され、切り離されるのは

ロールズが「背景的文化」と呼ぶものである(LP, p.134/196 頁)。ロールズによれば、背景

的文化は、「何か1つの中心的観念や原理により導かれる」わけではなく、「多数かつ多様

な担い手や結社は、内部的な生活を有すると同時に、周知の思想・言論の自由や、結社の

自由の権利を保証する法の枠組のなかに存在する。」その根本的な理由は自由な制度という

文化による長期的結果である「穏当な多元性の事実」に基づいている(PL, p.xl)。こうし

た背景的文化は「多様な形態の非公共理性」を内に含んで、「公共理性の観念231を適用」さ

れないし、また「いかなる種類のメディアにも適用」されない(LP, p.134/196-7 頁)。つま

り、背景的文化は社会的理性および家庭内の理性といった非公共理性232を通じて成り立つ

のだということである。「背景的文化において、人々は結社の成員などとして、それぞれ善

の構想を追及している。233」

背景文化における非公共理性・理由に立脚した様々な善の構想に対して、正義の政治的

構想の特徴の 1 つは、「その内容が民主的な社会の公共的政治文化で暗黙として見られ、一

定の基本的なアイデアで表現されていることである。この公共的文化は立憲体制の政治機

関とその解釈の公共伝統(司法組織を含む)だけでなく、周知の歴史的なテキストと文献

をも含むことから成る。あらゆる種類の宗教的、哲学的、道徳的な包括的教義は、恐らく

我々が市民社会の「背景の文化」と呼ぶかもしれないものに属する。これは、政治的でな

てはならない。以上の区別の整理は、佐藤純一『政治と複数性——民主的な公共性にむけて

——』(岩波書店, 2008)42-3,51-3 頁参照。 231 ロールズによると、「公共理性の観念」は、「立憲民主的な政府とその市民たちとの関係、な

らびに、市民たち相互の関係を決定する基本的な道徳的・政治的諸価値」であり、要するに、

「公共理性の観念は、政治的な関係がどのように理解されるべきかということにかかわるので

ある。(LP, p.132/194 頁)」ロールズにおける、「政治的な関係」とは果たしてどのようなもの

であるのだろうか。それは「友か敵かの関係」のような闘争的関係とは相容れない理解の仕方

であるとされる(LP, p.132/195 頁)。 232 ロールズにあって公共理性・理由の対概念は非公共理性・理由であって、私的理性・理由で

はない。そしてロールズにとっては、「社会的な理由 social reason」と「家庭的な理由 domestic reason」といった非公共理由が存在する。(PL, p.220n7)

233 花形恵梨子「ロールズの「政治的リベラリズム」における人格の構想」哲学 118 集 100 頁

(2007)

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く、社会的な文化である。これは日常生活やあらゆる種類の結社における文化であり、い

くつかの例としては、教会や大学、学術団体や科学機関、クラブやチームが含まれている234。

民主主義社会のなかには、民主制の伝統があり、その内容は少なくとも一般市民の教育を

受けた常識に身近で分かりやすい。社会の主要な制度および一般に承認された解釈形態は、

共有のアイデアや原理の蘊蓄として暗黙的に理解されている。(PL, 13-4 頁)」つまり、宗

教哲学や道徳哲学と異なり、ロールズの「政治哲学という言葉、ならびに考察の出発点と

して用いられる人格や社会の理念が公共的政治文化に潜在していることが述べられるよう

になる。235」

第2項 非公共的理性としての背景的文化

背景的文化は包括的教義によって構成される。包括的教義とは、完全に理に適ったもの

であり、正義の政治的構想とは異なり、非政治的な価値や美徳を多く含み、政治以外の様々

な生活世界の領域においても、人々の行為や認識を規定するものである(PL, p.13)。「これ

は、市民社会の背景的文化を構成し、市民の認知に関する妥当性の基盤を提供する前政治

的な知の体系なのである。236」しかし、ロールズによれば、包括的教義の根本的特徴は、

秩序だった立憲民主制社会において「穏当な多元性の事実 the fact of reasonable

pluralism」が存在する限り「宥和不可能 irreconcilable」である。従って「市民たちは、自

分たちが信奉する宥和不可能な包括的教説に依拠する場合には、合意に到達できないばか

りか、相互理解にすら近づけない」ということである(LP, p.131-2/193 頁)。そうだとした

ら、包括的教説を公共的政治文化のなかに持ち込むことは、不可能であると見られる。つ

まり「宗教的であったり、哲学的であったり、道徳的であったりする、互いに相容れない

道理に適った包括的教説」による正しさは「自由な諸制度という民主制の文化」において

公共理性たる政治的構想によって取って代えられないのは、「当然の結果」なのである(LP,

p.131/193 頁)。しかし、「包括的教説が公共理性と民主的政治形態の必須要素と両立不可能

であるような場合を除けば、公共理性の観念は、いかなる包括的教説−−それが宗教的なも

234 「背景的文化のなかには、教会やあらゆる種類の結社、あらゆるレベルの教育機関、とりわ

け大学や専門大学院、学術団体やそれ以外の協会の文化が含まれている(LP, p.134n13 /309頁)」。

235 田中将人「ジョン・ロールズの社会観⑵」早稲田政治公法研究第 94 号 31 頁(2010)。 236 原科達也「討議と「リベラルな政治文化」の関係——討議参加の動機付けについて」早稲田

大学大学院文学研究科紀要第 1 分冊 121 頁(2009)。

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のであれ、非宗教的なものであれ−−も批判しないし、攻撃もしない」ということである。

その前提たる「基本的な要件は、道理に適った教説が立憲民主政体と、これに伴う正統な

法の観念を受け入れている」ということである(LP, p.132/194 頁)。

ロールズは、「背景的文化」を「公共的政治文化」や「公共的政治フォーラム」と対比す

ることを通して(PL, pp.13-4)、立憲民主主義の政治討議の種類により明確な意義を与えて

いた。公共理性の範囲は、政治的議論の支配が行われるべき範囲であるように定義される。

つまり全ての理性・理由付けが、公共理性・理由付けであるわけではない。教会、大学、

そして市民社会の他の多くの連合体による非公共理性・理由付けもあるからである。貴族

制あるいは独裁制の政権では、社会の善が考慮される時、それは−−そもそも存在している

としても−−公衆(the public)によってなされるわけではなく、誰であれ支配者によってな

されることになる。公共理性・理由付けは、民主的な市民たちの、同等の市民権(citizenship)

のステータスを共有する人たちの理性・理由付けである。彼らの理性・理由付けの主題は、

公衆の善たる正義の政治的構想が、社会の諸制度の基本的構造、そしてそれらの制度の目

的や目標に対して要求するものである(PL, p.213)。非公共理由とは、大学、教会、科学者

集団・専門家集団などのような連合体内部の議論で援用される理由である。こうした連合

体内部での理由付けは、その構成員には公共的であるが、政治社会・市民社会全体では非

公共的である。こうした連合体は市民社会において複数存在するのに対し、地域や分野な

どの各連合体を超えた政治社会は単一であるので、集合としての非公共理由は複数あるの

に対し、集合としての公共理由は単一である。

「公共的政治文化」と「背景的文化」との区別

文 化 公共的(政治)文化 背景的文化

政治性との関係 政治的なもの 前・非政治的なもの

公共理性との関係 公共理性・理由 非公共理性=(結社の理性)・

理由(社会的・家庭的)

内容 正義の政治的構想 包括的教義

性質 「正」 「善」

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第3項 公共的文化と背景的文化との媒介

ロールズは文化を「公共的文化」と「背景的文化」とに区別したが、その間に両者を媒

介するものは「非公共的な政治文化」である。こうしたものには、新聞、評論誌や雑誌、

テレビとラジオ、その他諸々の、あらゆる種類のメディア(媒体)が含まれる。(LP,

p.134n13/309 頁)」そうした「非公共的な政治文化」は「非公共的な理性」に結び、社会の

内部の個人や結社にふさわしい理性によるものであり、政治的正義の制限内でそれぞれが

それぞれの自己理解に対してどのように熟慮するのが適切か、その答えを導いてくれる(JF,

p.92/163 頁)。この公共性の判断基準は、一定の関係性により承認された方法で確定される。

例えば、「結社のための承認された推論方法は、その構成員との関係では公共的であるが、

政治社会との関係では非公共的であり、従って、市民全般との関係でも非公共的である。(JF,

p.92/163-4 頁)」ロールズは非公共理性(すなわち結社の理性)と公共理性とを比較対照し、

政治社会を結社とはみていないことを示している(JF, p.94/167 頁)。

こうした非公共的な生活を背景にして、ロールズは信仰の自由、寛容等といった政治的

リベラリズムがなければ、社会生活はその意義を失うであろうと指摘した(JF, p.94,

198/167,348 頁)。ロールズの説くところでは、「市民たちの平等な基本的自由と機会を規定

する諸々の原理は、全ての領域において、そして全ての領域を貫いて、つねに妥当する。

女性の平等な権利と未来の市民たる子どもたちの基本的権利は不可譲のものであり、かれ

らがどこにいようとも、これを保護する。これらの権利に制限を加えるジェンダー上の区

別は決して認められない。それゆえ、政治的なものと公共的なものの領域、非政治的なも

のと私的なものの領域は、正義の構想とその諸原理の内容と適用がもたらす副産物である。

いわゆる私的領域が、正義の貫徹が免除される空間を指すのなら、それはそもそも存在し

ない。(LP, p.161/232-3 頁)」そして、「公共理性のこうした観念が、非公共理性の多くの形

態とも完全に両立するものであること」をロールズは強調している(LP, 171/246 頁)。

第 4 項 リベラルな政治文化の基本特徴

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政治文化は私たちにとって「歴史的環境」として与えられており、私たちは意のままに

その外に抜け出すことはできないという主張は、たしかに正当である237。だが、政治社会

の文化を理解するにあたって、事実上、政治社会とその内部を横断する多くの結社の文化

とは区別されることに注意する必要がある。後者の文化は、教会や大学や学会等のように、

政治的境界を越えている結社の文化であり、ロールズはこれらの結社の文化を「背景的文

化」と呼び、「公共的(政治)文化」に対して特別な意味と役割を付与した。これらの結社

(例えば、前述した教会、大学、他の文化的制度)の幾つかは共同体という形を取ってい

るので、「共同体の構成員たちは、一定の共有の価値や目的を一体となって追求しており、

これらの価値や目的によって、構成員はその結社を支えるようになり、部分的には結社に

拘束されるのである。(JF, p.20/34 頁)」われわれは民主社会の一員たる市民であると同時

に、「諸々の共同体、諸々の宗教やその独特の文化のなかにも生まれ落ちる」と彼は指摘し

た(JF, p.20/35 頁)。「背景的文化」の多様性や独特性を強調すると同時に、ロールズは、

「公共的(政治)文化」に対しても、その特徴は「一義的ではなく、その代わりに用いる

ことができるかもしれないさまざまな編成観念、自由や平等についての多様な観念、社会

についての他の諸々の観念を含んでいる」と徹底させた。そして「われわれが要求する必

要のあるのは、公正な協働システムとしての社会という観念が、その文化のなかに深く埋

め込まれており、それ故、その中心的編成観念としての利点を検討しても、道理に反しな

いということだけである。(JF, pp.25, 34/43-4, 60 頁)」現代の諸々の民主的社会にみられ

る多様性(背景的文化としての宗教的・哲学的・道徳的教説等の多様性、公共的文化とし

ての様々な編成観念の多様性)は、「単なる歴史的条件ではなく、民主制の公共的文化の1

つの恒久的特徴(JF, pp.34, 181/58, 319 頁)」であり、つまり「万国民衆の社会においてこ

の穏当な多元性に相当するのが、宗教的なものであれ非宗教的なものであれ、相異なる思

想文化と思想伝統を有する、各国民衆のあいだの多様性(LP, p.11/16 頁)」である。

実は、ロールズはここで自由民主主義的社会制度において「ミニマム文化観の成立」を

主張している。つまり、ある社会のメーンストリームカルチャーは、フェミニズムカルチ

ャーやエスニック・マイノリティカルチャー、またエリートに反するポピュラーカルチャ

ー等が現れることで社会の文化が多元化してゆく。もともと主流文化の支配的位置が崩壊

し、異なった文化の間の優先価値を競合・選別・排除の対象としてではなく、同時同レベ

237 佐藤純一『政治と複数性——民主的な公共性にむけて——』(岩波書店, 2008)227 頁。

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ルで実現すべしと要求するような状況が明らかになっている。こうした文化状況において、

主流文化の崩壊ということは、こうした下位文化がひたすら細分化し、その細分化した文

化がある争点によって、さまざまな結びつき方をし、それはほとんどが生命・生活の重大

な部分にかかわることで、政治の水面に浮上してくることをいう。こうした細分化された

文化をひとまず「ミニマム文化」といっておこう238。

公共的政治文化の他の特徴は、例えば「政治文化が相互信頼と協働という政治的諸徳性

を涵養する」ということである(JF, p.133/234 頁)。「政治的意志が存在するかどうかは、

社会の政治的文化と伝統、社会の宗教的・民族的構成、その他多くのものに依存している

(JF, p.101/179 頁)」ので、「正義の政治的構想の内容が、民主的社会の公共的政治文化か

ら引き出される様々な根本的諸観念から生じると見なされていること」への注意を促す(LP,

p. 32/42 頁)。この意味での「ミニマム文化」は、「文化として決して閉鎖的なものではない。

しかし、それを吸収する既成組織はありえないし、ナショナル・レベルで統合されること

もない。とすれば、この文化が要求するものは、政党を通ずる代表過程も、圧力団体を経

由する代表過程にものらない。239」ロールズの念頭に置かれている(政治)文化とは、歴

史・慣習・慣行に依存しながら、言論や思考において言語という形を通して、共通の諸共

感によってお互いにひとまとまりとなった記憶パターンに含まれた市民的徳性を指すもの

である(LP, p.117/170-1 頁)。彼は J.S.・ミル『代議制統治論』第 16 章初めの文章を援用

しながら、ミルの「国民性 nationality」の観念を通じて「文化」あるいは「文化的諸価値」

を特徴づけた。「人類のある一部分が、共通の諸共感によってお互いにひとまとまりとなり、

その共感は、他のどんな人々とのあいだにも存在しないようなものであれば、彼らは 1 つ

の国民を形成するといってよいだろう。その共感によってかれらは、他の人々よりもかれ

ら同士で共働することを好み......この国民感覚を生み出してきた原因は、さまざまなもので

ありうる。ときには、人種または血統が同一であることの結果であることもある。言語共

238 「ミニマム文化」という用語は次の著作で扱われている。内山秀夫『政治文化と政治変動』

(早稲田大学出版部, 1977)第七章「ミニマム文化の役割」、特に 160 頁以下参照。本論文で

は、その概念を利用し、ロールズのリベラルな政治文化と他の文化との理論的包容力について、

他の文化はたとえそれが十分にはリベラルなものではなくても、基本的なレベルで正義の原理

とそれに基づく正義的構想を受け入れているならば、その文化が含まれることになるより広い

政治的共同体においてその文化が否認されることはないという意味で、他の文化を「ミニマム

文化観」の成立としての要請を容認する態度を説明する。 239 同上書 161 頁。

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同体や宗教共同体も、それに大いにあずかっている。地理的境界も、そうした原因の 1 つ

として数えあげられる。しかし、全てのうちでもっとも強力なのは、政治的沿革の同一性

である。言い換えれば、国民の歴史を有することと、その結果として記憶の共同体をなし

ていること、すなわち、過去の同じ出来事にかんする、集団として誇りと屈辱、喜びと悔

恨をもつということである。(JF, p.93-4/166 頁; LP, p.23n17/268 頁)」彼はこうした考え方

を「ミルが描きだしたようなたぐいの、文化的諸価値のパターンを指すものと理解してい

る」と指摘した。(LP, p.23n19/269 頁)

第2款 リベラルな政治文化をめぐる諸問題とロールズの見解

第1項 リベラルな政治文化をめぐる問題点

ロールズは公共理性と非公共理性を区別した上で、公共的政治文化の広い見方を提示し、

リベラルな政治文化に含まれた正義理論の拡張・実践契機を見出した。しかし、なぜ公共

理性の領域が全ての共同体の行うべき政治的決定まで広げるに代わりに、それらの基本構

造に限られたのかについては、ロールズは明白な答えを与えない。一方で、彼は最終的に

はその制限が撤廃されるかもしれないことを示唆している。というのも、基本構造に焦点

を当てた理由は、もし公共理性の要求がこの場合には適用されないならば、その要求をよ

り広く保持することができないからである240。その一方で、彼は市民が時にはより個別主

義的な傾向で問題を正しく解決するという予想しているようである。ロールズはまた、公

共理性の理想を、憲法に密接する問題や基本的正義に関連する問題にまで拡張・実践する。

しかし、これは重要な拡張であるにもかかわらず、必ずしもその役割を十分果たしている

とはいえない。普通の立法は、公共理性の理想が一般的な公共利益に影響を与え、それら

をカバーするために拡張・実践する必要がある場合もあって、必ず憲法上の必須事項や基

本的な政治正義に関わる問題に関係するとは限らない。多くの問題は普通の条件に従う立

法によって解決される。この点で、デヴィッド・レイディによれば、非公共理由から公共

理由を区別する条件は権力(force)と権威(authority)である。非公共理由は、市民が自

240 この点で、ロールズの思考は、討議民主主義の総括的な方向に移動する。詳しくは、Amy

Gutmann and Dennis Thompson, 1996, Democracy and Disagreement, Harvard U.P., pp. 34-49 を参照。

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由で開かれた社会の中で合理的に拒絶できる原因としての権力と権威から導き出される241。

つまり、権力と権威の主体は統治者の側にあるのではなく、被治者であると同時に主権者

である市民たちにある。

ロールズの初期の主張によれば、リベラルな社会の中での重合的合意という理想のため

に、背景的非公共的文化は政治的公共的文化と区別され、非公共的文化より公共的文化が

優先的に位置づけられる242。公共理性の理想は、いくつかの例外を除いて、すべての非公

共理由にアピールすることを禁止している。しかし、ロールズはこの問題に関する彼の初

期の立場を後に改訂した(PL, pp. I-Ivii; Rawls, J., 1997, pp.573-615.)。市民や公職者は憲

法上の必須事項や基本的正義に関する投票行為や立場を示すための公共理由を有する限り、

彼らがすべての公共的政治審議において非公共理由に公的にアピールすることができると

いうことを、ロールズは公共理性に関する「広い見方(PL, p.lii)」もしくは「公共的政治

文化の広い見方(CP, p. 591; LP, p.152/221 頁)」と呼んで修正して明示したのである。そ

れは、包括的な教説および非公共理由は、ロールズの認めている範囲より広い役割を果た

す必要があるということである243。政治的な領域において正当化を支えることとして提示

された公共理由は、道徳的または倫理的な動機を与える非公共理由によって支持されるこ

とがよくある。誠実な公共的正当性の原則では、公共理由を非公共理由による議論で補強

することは排除されていない244。

例えば、マーティン·ルーサー·キング·ジュニアの例を考えてみよう。彼は人種差別撤廃

の正当性(oughtness of integration)を宗教的な理由に訴え、人間の価値を神への関係性

241 David A. Reidy. “Rawls’s Wide View of Public Reason: Not Wide Enough.” Res Publica,

2000(6): 50, n3. 242 Liu Xin. “The implication of Rawls’ approach to public reason.” Frontiers of Philosophy in

China, 2011. 6(1):168. 243 Andrew Williams. “The Alleged Incompleteness of Public Reason”, Res Publica, 2000(6):

202-203, n11. 公共理性の範囲を拡張すべきという点について、他の賛成する意見もある。

David A. Reidy. 2000, “Rawls’s Wide View of Public Reason: Not Wide Enough.” Res Publica, (6): 49-72.

244 Micah Schwartzman, 2011, “The Sincerity of Public Reason”, Journal of Political Philosophy, 19(4):391, 394.

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にあると主張した245。また、男女の位置や役割に対して、女性が育児を中心とした社会的

位置づけによって家庭責任を独自に負担し、男性には家庭への参画を設定しなかった。そ

してロールズは、夫婦の役割や家庭関係をめぐるこの歴史的・文化的不公正を是正すべき

であると主張した(Rawls, J., 1997, 790, 792-3.)。法律は単に性別に基づいて男性と女性

どちらかを優遇することはしないはずである。もっとも、ロールズは伝統的な男女の役割

を拒絶するにもかかわらず、男性と女性は生物学的に異なっているという事実のように必

然的に子育ての役割に影響を与えるような超時代的な真理に反感を示すわけではない。ロ

ールズがもっとも基本的なレベルで言いたいことは、女性が子供を育てることにより大き

な役割を果たしていることが疑う余地はなく、それを否定するのはばかげているというこ

とである246。また一方、婚姻概念に関する宗教的な構想はもっぱら男女の組合せによって

定義されるが247、ロールズ流の政治的リベラリズムは基本的な正義の要件として同性結婚

に権限を与えるので、そのような宗教的な婚姻概念は、明らかに政治的リベラリズムの観

点から非公共的であり、かつ、立法の根拠として不適格である248。前者の例によれば、文

化的要因から宗教、信仰、生活習慣などの意味や役割を考慮することが紛争の解決を促進

する上で積極的な役割を果たしていくのに対して、後者の例において文化的要因からの異

なる構想は有益的なコミュニケーションや社会の秩序・発展および人間の平和を不安定化

するリスクを高める。しかし、異文化による積極的役割を高めリスクの懸念を低くするた

めには、どのような政治哲学・法哲学を考える必要があるのか、絶対的・普遍的な、つま

り個別性を完全に認めない価値の代わりに、社会制度編成における特殊性を認める一般共

通可能な価値はどのような政治哲学観・法哲学観につながるのかなどについても未だ明ら

かになっていない。

245 Martin Luther King, Jr., 1986, “The Ethical Demands for Integration,” in A Testament of

Hope: The Essential Writings and Speeches of Martin Luther King, Jr, James Melvin Washington (ed.), Harper & Row, pp.118, 122.

246 Michael V. Hernandez. 2010. “Theism, Realism, and Rawls.” Seton Hall Law Review, (40):929.

247 結婚に関する伝統的なキリスト教理解の簡潔な解明とその支持する観点は参照、J. Budziszewski, 2005. The Illusion of Gay Marriage, Philosophia Christi, 7(1):45-52.

248 Matthew B.O Brien, 2012. “Why Liberal Neutrality Prohibits Same-Sex Marriage: Rawls, Political Liberalism, and the Family”, The British Journal of American Legal Studies, 1(2): 419.

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135

社会制度編成には、何らかの公共理性・理由が認められるべきという社会的要請があり、

それを根拠として、権力の行使や権利義務の配分に関する法的規制に一般共通価値が認め

られる。その一般共通価値の認められる領域には、文化的諸権利の特殊性の適用はないで

あろう。他方、社会秩序一元論は現代正義論の文脈において、正義を基本的に経済的・配

分的問題として扱う。また、基本財の再配分に根本的に内在する問題として、文化的諸権

利を含め、全ての社会的・経済的不平等は一括りで語ろうとする。ここでは、文化的諸権

利に関する法的規制に特殊性がみとめられていない。そこでは、個人のアイデンティティ

および権利を所与的存在としてしまい、それが特定の社会文化的背景の中で構成されると

いう社会的事実を軽視している。さらに全員一致という社会的決定である配分的正義と、

個人の自由な選択の容認とを如何にして両立させるのかが問われ、個人の別個性や文化的

異質性などは勘案されない。この場合には、そのような異質性が福祉や資源の配分的問題

には簡単に還元されないことも明らかにしなければならない。自分の文化と異なる習慣、

民族、宗教などに対する異文化を理解・尊重できる知識や理解力、協調性は非常に重要な

問題であり、かつ地球社会の構築とともに、異なる文化や価値を乗り越えて共感できるコ

ミュニケーション能力や、新しい価値や世界を切り開く創造的能力をどのような社会制度

編成においてどのように育てることができるのかという問題は見逃せないのである。

もう一つの問題は次のようなことである。もし文化的要因を公共理性に組み込むならば、

理に適ったことのある包括的教説を公共的正当化に持ち込むことを意味するか否かの認定

手続に係り、それゆえ政治権力の行使を正統化することができるかどうかという公共理性

に課せられた課題につながる。つまり、公共理性の規律がどのような市民が参考にできる

政治的討議にも適用されるのか、それとも法的拘束力のある決定に達成するための公的手

続きの一部を構成する討議だけに適用されるのかということである。確かに、ロールズは、

市民は選挙の投票または議員や官僚などの公職行使によって意思決定に参加する時に、彼

らが共有できる視点に根差した推論に基づく決定をしなければならないことを主張する。

したがって、アメリカ最高裁は公共理性の典型的な機関として憲法原則の問題や紛争に決

着をつけるフォーラムである(PL, pp.231ff)。彼はまた市民社会が特定の団体の(例えば、

教会、大学、専門家グループ)構成員、それに様々な哲学的・宗教的構想の支持者によっ

て構成されている「背景的文化」において、自らの「非公共理由」に従って政治的問題か

ら基本構想までも議論することができると強調する(PL, p.14; CP, p.576)。政治的論争は

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136

公共理性の制限された範囲以外にも、実際に社会の各分野において各種の声を混ぜ合わせ

るという形で示しているが、ロールズの説く公共理性の理論が、例えばハーバーマスの広

い意味での「公共圏」を包含することを意味するというとすれば、それは間違っているだ

ろう249。つまり、ロールズの公共理性の理念は政治的自由主義という線を越え出てはおら

ず、民主的な熟議は市民が協同して社会を運営するのに必要とされる一方、他の市民の基

礎的諸自由と機会を尊重することを超えては要求されていないのである。公共的な理性に

よって議論が制限されるのは公共的な政治的討議の場のみに留められるべきであり、さら

にこの制限は憲法の必須事項や基礎的正義に関わる諸問題を討議する際にのみ発動される

べきであるという条件がゆるむことはない250。

おそらく、ロールズは背景的文化では如何なる正義概念が市民の間で構想されているの

かについて、人々の文化的、宗教的、民族的差異を認め、議論の余地を背景的文化には残

しているのだろう。しかし、市民や特定の団体は政治問題について、彼らの包括的な結論

を同じ意見を持った人だけではなく、共同体において異なった信念をもった人にも提出す

ることができるのかという問題に戻るならば、ロールズが公共的な観点を一定の境界内に

止めるべきだと信じているようと思われる。

確かに、文化的諸権利に基づく価値衝突に対して、公共理性の領域内外の価値衝突を区

別するのは一番難しい。基本的な社会的・政治制度の設計を正当化するときに、公共性の

領域外の不合意、例えば宗教的不合意は可能な限り避けるべきであろう。しかし、公共理

性の領域内の不合意は、基礎的条件として十分根拠のあるものである。まだロールズは、

政治権力のバランスを保持する人々は、このような質問について、自らの見解に基づいて、

それを行使することを躊躇する必要はなく反対の見解にその結果を課すべきだと考えてい

249 その公共性を参加する情熱を高めるために、サンデルは、ジャクソン時代の職人気質(proud

craftsmen)及びルイス·ブランダイス(Louis Brandeis)の「産業民主主義 industrial democracy」というアイデアを支持し、労働者が管理活動に参加して業務実行の責任を共有す

ることを賛成する。Michael Sandel, 1996, Democracy's Discontent, Harvard U.P., Cf. pp.170, 213.ハーバーマスは、『公共性の構造転換』において、「市民的公共性」というモデル

に限定し、公共性の生成・発展・崩壊・再生という問題をめぐって議論を展開し、福祉国家の

基礎に焦点を置く公共性の傾向を示している。Jurgen Habermas, 1962. Strukturwandel der Offentlichkeit, Darmstadt: Luchterhand,(細谷貞雄・山田正行訳)『公共性の構造転換』(未

來社, 第 2 版, 1994 年)ロールズは、「公共性」という用語について、ハーバーマスとの違い

を指摘。詳しく参照、PL, pp. l, 382. 250 福間聡「理由の復権——公共理性に基づく正当化」社会と倫理 19 号 55 頁(2006)。

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る。このことは、たとえば、戦争と平和、経済政策、税制、福祉、あるいは環境保護の問

題をめぐる政治的な議論において絶えず発生している。

言うまでもなく、多くの重要な問題は倫理的または宗教的な性格を持ち、人々の自己理

解の範疇に属しているが、市民が政治的原則を決めることに取りかかるときに、そのよう

な問題は除外されなければならない。なぜなら、この除外がなければ、市民がそのような

問題に対して、普遍的に容認可能な回答を受け取ることができないのである。しかしなが

ら、それは、ロールズにとって、問題解決案に関する広範な意見の相違が存在するという

理由だけでその問題は政治的協議事項から削除されようとしていると言うならば間違って

いるだろう。たとえ政治の最高目標は市民的平和だとしても、公共理性は、根深い対立の

包括的な回避を要求するものではないはずである。逆に公共理性は、公正の観念を示し、

そして社会協働の公正な条件に関連する問題——言い換えれば、基本的正義の重要な事項

——が政治的討議に関する社会的プログラムの中に属しているが、政治的討議に関する異

議を唱える可能性もありうる(PL, p.151)。例えば、1858 年にリンカーンとダグラスの間

に、政治的決定の対象となる奴隷制問題に関する有名な論争があったし、また人工妊娠中

絶について、ロールズは、男女平等はもっとも重要な価値であり、女性の中絶の権利を否

認する包括的な教説はかなり不合理的なものだと論じた(PL, p.243n.32)。しかし、この点

をめぐって支持者と反対者は論争しているのであり、それが公共的な問題でもある251。こ

の問題を解決するために、以下に示すように、ロールズは公共理性の空間において時間の

位相を導入すること通じて解決案を提示している。

第2項 ロールズの提案:時間位相の導入

リベラルな政治文化においては背景的文化、いわゆる広い意味での、あらゆる種類の結

社の包括的教義が存在しており、政治以外の生活世界の領域において人々の生活様式や行

動様式を規定している。こうした包括的教義には互いに衝突して拮抗する緊張関係も予想

される。こうした問題に対して、ロールズは公共理性の視点から、時間の位相を導入する

ことを通じて公共理性を未来志向で重層的なものに解釈し直し、現時点で公共理由に受容

できない包括的教説の主張を将来の「しかるべき時点」で公共理由として提示する可能性

251 例えば、John Finnis, 2000, “Abortion, Natural Law and Public Reason,” in Robert P.

George and Christopher Wolfe (eds.), Natural Law and Public Reason, Georgetown U.P., pp.75-105.

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を残し、公共理性そのものが変容して、受容不可能であった主張を公共的政治文化の新し

い解釈として組み込むことができるようになる可能性も生み出す。このことは、公共理性

を「開かれた公共的政治フォーラム=未来志向で創造的に対話するための場」に置いてお

いて、現時点で支配的である公共理性を批判的に考察する視点を与えることになろう252。

ロールズは公共理性を「市民が根本的な政治問題が問われているときに合理的に互いに

与える諸種の理由」に関するものとして考えた一方(CP, p.574)、アメリカの憲法史からみ

た文化的諸権利は既に公共的政治一部を構成し、単に宗教や信仰や慣習や言語などといっ

た射程範囲を超えて、リベラルな立憲民主主義政体の公共的政治文化に暗黙の程に含まれ

ているので、リベラルな理想や価値の体系である公共的政治文化を全ての市民が義務とし

て受容しなければならない文化であると位置づけている253。そのために、ロールズはこの

ような公共的政治文化の独立を保障する義務として、「付帯条件 proviso」を提示している。

つまり「宗教的なものであれ非宗教的なものであれ、自分の理に適った包括的教説はいつ

でも持ち出されてもかまわないが、ただしそれらの包括的教説が支持すると言われている

種々の原理や政策を支持する厳密に公共的な理由がやがてしかるべき時点(in due course)

で提示されなければならないということである。(Rawls, J., 1997, in CP, p.584/LP.

p.143/208-209 頁)」ロールズによれば、奴隷制反対の理解可能な諸教説は公共的な諸価値

及び政治的な諸価値として万人によって守られるけれども、19 世紀の奴隷廃止運動が宗教

的な諸価値によって育まれ、宗教的な包括的諸教説に根拠付けられていることも忘れては

ならない。それ故に、当該諸理由は、包括的な宗教的・哲学的・形而上学的教説の部分で

あることの価値によってではなく、政治的な諸善としての、即ち、政治的な共同善の諸要

素としての、当該理由の「内在的な価値それ自体」の観点から、公共の場において促され

252 この論法の考え方について、Hans von Rautenfeld, 2004, “Charitable Interpretations”,

Political Theory, Vol.32, pp.61-84. また、木部尚志「信仰の理論と公共理性の相克——ロー

ルズの公共理性論の批判的考察」早稲田政治経済学雑誌 381-2 号 52-3 頁(2011)参照。政治

生活の中で、「価値」である正義とその価値を支える社会的「構造」との間の現実的関係は、

「時間の経過とともに相互補償の関係にある傾向が強く、その両者がこのような形で相互作用

するという事実は、その価値を政治構造の作用から切り離すことをほとんど不可能とするので

ある。」D・ガヴァなー(寄本勝美・中野実訳)『政治文化論』(早稲田大学出版部, 1977)頁参照。

253 原科達也 「討議と「リベラルな政治文化」の関係」早稲田大学大学院文学研究科紀要第 1分冊 55 巻 122-4 頁(2010)。

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たのである254。しかし、時間のもとに上記の付帯条件を考えれば、それは「自分の理に適

った包括的教説」そのものが「いつでも」提示するか、それとも指定された時に提示する

という限定を指すのか、はっきりしない。さらに「しかるべき時点」はどの時点を指すの

かということも不明である255。この場合、時空を超えた初期状態に立ち戻れば、実践理性

を行使すれば可能であったはずの客観的論理性が示されている。つまり公共理性の内容と

指針を特定する方法の 1つは原初状態の観念であるとロールズは述べている(CP, p.581/LP,

p.140/205 頁)。

ロールズによれば、公共理性の適切な範囲は、文化や歴史や社会的諸条件などに依存し

て変化するので、非公共理性としての文化=背景的文化が、公共理性・理由の結論を支持

することで、「市民が公共理性の理想に敬意を払うように促し、長期的にみればよく秩序だ

った社会における公共理性の社会的条件を確保する」(PL, pp.247-9, 251)。ここで重要な

点は、文化による公共理性の強化や支持は、単なる文化と公共理性の内容的な一致を指す

のではなく、むしろ権利的な影響や帰結の側面を重視していることである。こうした権利

的帰結の観点は背景的文化を公共理性の枠組に包摂する議論にとって不可欠である。この

議論を実現するために論法の前提となるのは、上の引用にもあるように、長期的にみる事

後的な観点である256。ロールズ自身もこの点を認識しており、「要点は、市民が公共理性の

理想そのものに敬意を払うように促されるということであり、それは事情が許すならば現

時点でのことだが、より長期的な見方をとらざるをえないこともしばしばであろう」と言

明する(PL, p.251)。

第3款 リベラルな政治文化による正義理論拡張の方向提示

公共的政治文化の観念と正義の二原理との連結からロールズ理論を理解すれば、論争

はリベラルな政治文化の避けられない部分であるということが重要である。われわれは

254 Martin Rhonheimer, 2009. “Rawlsian Public Reason, Natural Law, and the Foundation

of Justice: A Response to David Crawford”, Communio: International Catholic Review 36(1):162ff. 平手賢治「自然法と公共理性」名古屋学院大学論集社会科学篇第 47 巻第 4 号 151頁(2011)参照。

255 この不明点について詳しく参照、木部尚志「信仰の理論と公共理性の相克——ロールズの公

共理性論の批判的考察」早稲田政治経済学雑誌 381-2 号 48 頁以下(2011)。 256 同上論文 52 頁。

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広く共有されたリベラルな枠組みの中で政治生活の重要事項を決定することにより、公

共的政治文化を共有してその共通観念を遵守する。このことは正義へのコミットメント

に対して不可欠なものである。「リベラル」という表現で示された公共的政治文化は、

社会的政治的生活において諸種の潜在的衝突や対立関係を公共的討議を通して調和す

る可能性を示す一方257、公正性が互いに尊重すべきという基本的性質を含むことを示す。

なぜなら、ロールズの示すところでは、我々は「最終的な政治権力を共有している市民

として、自らの政治的決定をそのような市民に対しても理に適った仕方で、すなわち自

由かつ平等である市民が受けるに値する尊重に適合する仕方で正当化できなければな

らない。我々の社会は自由主義と民主主義を両輪とする社会であり、被治者の同意が存

在しないならば彼らに対して如何なる法や政策も行使してはならないことを重要な政

治的価値として承認している」からである258。

この市民間の承認と関連して、公正さと尊敬は最も深いレベルでロールズの思想を形

作る概念であることに注意したい。それらの概念は、様々な方法で展開されている。例

えば、社会契約のメタファーにおいては公正性と共に展開し、また適理性と互恵性とが

同種の概念として説明されている。こうした互恵性と対になる概念である相互承認は、

道徳理論における相互尊敬と同じであろう。自尊を備えた自律的人格が互恵的関係に立

つとき、それは相互承認となる259。このことは注目に値すると思われるが、ただし、我々

はそれらが定義する全体的な概念を再検討しない限り、彼の思想を理解することはでき

ないと思われる。公正さと尊敬は、社会的理想を体系的に表現された彼の哲学の仕事、

つまり「自由的な人間の相互承認」によって引き起こされた「公正としての正義」に基

づいて社会的構図に吹き込まれる(CP, p. 59)。ロールズは公共理性を、合意をもたらす

257 ロールズは公共的討議において人々が自らの認めた真実性の観点から互いに主張すると

ころの公開討論(open discussion)と、法的拘束力のある意見を下すために政府機関に

参加して討論するところの意思決定(decision making)とを区別していないという指摘も

ある。Cf.Kent Greenawalt, 1995, Private Consciences and Public Reasons, Oxford U.P., pp.111-2; Veit Bader, 2008, “Securalism, Public Reason or Modestly Agonistic Democracy?” in Secularism, Religion and Multicultural Citizenship, Geoffrey Brahm Levey and Tariq Modood (eds.), Cambridge U.P., p.123. Charles Larmore, 2003, ibid., pp.382-3. Larmoreは公共理性の考えを政治的決定に関わる理由づけにのみ限定されるものとして理解するのが

妥当とする。 258 福間聡「理由の復権——公共理性に基づく正当化」社会と倫理 19 号 49-50 頁(2006)参照。 259 塩野谷祐一「福祉国家の危機と公共理性」季刊・社会保障研究 36 巻 1 号 19 頁(2000)。

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効果的な意思決定の手続きよりむしろ特殊な不合意、論争および反論の過程として考え

る。これは、評価と論拠に関する相互承認の方法であり、合意の結果をもたらすかどう

かということとは関係がない。ある論争、例えばアメリカで人工中絶の許容性の問題を

考える場合は公共理性への訴えを構成するかどうかは、それ自体がおそらく争われる問

題になると思われる。

では、このようなリベラルな政治文化を支える公共理性の基盤を与えるものはいった

い何なのだろうか。ロールズによれば、公共理性は他の政治的価値に包摂された概念で

はなく、立憲民主主義という思想を構成する全ての異なる要素をその中に包み込んでい

る。それはわれわれが自由で平等な市民としてお互いに立つべき政治的関係を支配する

もの、即ち立憲民主的な政府とその市民との関係、ならびに市民たち相互の関係を決定

する基本的な道徳的・政治的諸価値なのである(CP, p.574;LP,131/194 頁)。これらの

道徳的・政治的諸価値は最終に正義の諸原理という形で定立されて言明化されるが、実

際に正義原理を受容するためには、リベラルな市民的政治文化を通じて市民的人格性・

主体性を発揮することが重要とされる。

こうした市民的主体性はいったい何なのかという問題に焦点を絞ると、正義感覚とい

うものがロールズの正義理論の核心概念として浮き出てくる。彼によれば、「正義の理

論を<私たちの正義感覚を記述するもの>と見なしてよいだろう。(TJ, 41/66 頁)」大

まかに言えば、ロールズの考えていた正義理論はそれ自体が我々の正義感覚を映るもの

なので、ロールズ自分が正義原理とは何かについて発明的意味で何もしなかった、ただ

我々の正義感覚を彼の概念装置を通じて記録し、その映った正義感覚を撮影のようにそ

のまま複写・再現・記述しただけなのである。こうした意味で、ロールズは正義原理の

第 1 発見者として、我々がどのような正義感覚を持つべきかを規定(prescription)す

るというよりもむしろ原初状態や無知のヴェールといった顕像剤を利用して正義感覚

の画像を素描(description)し、その形成されたものを正義の二原理として固定化した

に過ぎない。正義の二原理は正義感覚が顕像化したものであり、正義感覚から離れてみ

れば正義原理は成り立たないことになり、正義原理を理解・受容する基盤も失われてし

まう。

正義感覚の問題は、『正義論』から『政治的リベラリズム』、そして『万民の法』におい

て重要なテーマとして浮上している。それはそれぞれの倫理的・宗教的差異を抱えた人々

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142

を、その差異にも関わらず自由で平等な者として扱うべき共通的基盤を提供するためのも

のである。それを如何に考えるかが、ロールズの哲学の核心的問題となっているのである。

正義感覚の概念自体は、ロールズの正義の諸原理の実質的な重要性を示す260。正義感覚は、

市民に公正な社会の構図を実現させる実践である。これは既に『正義論』において暗黙の

テーマとしてはあったが、それが今では政治的リベラリズムにおける政治生活の公正さの

意味を探求する哲学的結論のための方途の 1 つになっている。この概念の重要性と根幹性

については、次章において詳細に取り組むこととする。

小 括

本章では、第2章の「理性」概念に関する考察を踏まえ、ロールズの「リベラルな政治

文化」について、その内容を概観し、異なる背景的文化を有する人々にとっても正義理論

が受容可能、あるいは実践可能といいうるための概念として、正義感覚を抽出した。正義

理論が受容されるには、リベラルな政治文化における市民の主体性が重要な役割を果たす。

本章では、正義の二原理の射程範囲を拡張させ、公共的討議を豊穣にさせるため、背景的

文化という視点からシティズンシップの諸権利を政治的、経済的領域のみならず、文化的

領域まで拡張させる必要があること、異なる背景的文化を有する多様な人々の平等性を公

共的文化に包摂すべきことを指摘した。

第1節では、リベラルな政治文化を充実させることにより、市民の意識が陶冶され、長

期的にみれば経済的、政治的発展につながること、そのことが正義理論の受容可能性に積

極的な影響をおよぼすことが明らかになった。

第2節では、ロールズの説く政治文化を方法論的観点から分析し、「整合性 consistency」、

「秩序性 orderliness」、「結合性 associativity」という特徴を指摘した。

第3節では、ロールズの説く「リベラルな政治文化」の理論的包摂力について、たとえ

リベラルとはいえない他の政治文化であっても、基本的なレベルで正義原理を受容し、そ

れに基づく政治的構想を有しているならば、その文化を容認すべきであること、そのよう

な文化の容認によって、より広範な公共的空間において正義理論が受容されるようになる

ことを指摘した。

260 Charles Larmore, 2003. “Public Reason” in The Cambridge Companion to Rawls, Samuel

Freeman (ed.), 2003, Cambridge U.P., p.368.

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143

ロールズは、『正義論』から『政治的リベラリズム』を経て『万民の法』に至るまで、「公

正としての正義」という構想を提示し、「正義の二原理」に基づく公正な社会的協働システ

ムについて論じてきた。しかし、「正義の二原理」の受容条件は、必ずしも明確ではない。

正義の二原理がどのように受容され、どのように浸透していくのか、また文化的コンテク

ストにおいてどのように読み替えられているのかという疑問は、正義の二原理を制度設計

や行動の規範とする政治的共同体およびそこにおける人々にとって、もっとも根本的なも

のであり、本論文のテーマでもある。

ロールズによれば、「正義の理論は、『我々の正義感覚を記述したもの』とみなしてよい

(TJ, 41/66 頁)」。ここにロールズの正義理論の特徴——正義感覚こそが正義の諸原理の起

点となっていること——が顕れている。そこで、本論文は、いよいよ「正義の二原理」の

受容可能性を拡張させる重要な概念として「正義感覚」に迫っていくことになる。その作

業は、この後、第4章以下で行われる。確かに、ロールズ自身が、「正義感覚」という概念

によって「正義の二原理」の受容可能性、とりわけ政治文化の異なる人々や政治的共同体

における受容可能性を拡大させようと意図していたかどうかは必ずしもはっきりとはわか

らない。しかし、ロールズの意図はともかくとして、本論文では、その正義理論の総体的

な解釈を通じてその可能性を明らかにすることになろう。

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第4章 正義感覚とその開かれた理解:ロールズ正義理論に含まれる拡張契機

の解明の試み

はしがき

ロールズは、リベラルな政治文化に潜在するものとして、「公正な協働の体系としての社

会」、「自由で平等な市民」、「原理に規制された秩序ある社会」といった概念を提示してき

た261。本章では、これらの概念に関連して、ロールズの正義理論において極めて重要な「正

義感覚」の意義を明確にする。「正義感覚」は道徳的能力を指示するものだが262、その意味

について、主体性の観点から改めて解釈する263。ロールズによれば、正義と道徳は人間の

261 堀巌雄「『政治的自由主義(Political Liberalism)』と 民主社会の自我」ソシオサイエン

ス 7 巻 262 頁(2001)。 262 時にはロールズは『正義論』でヒュームやイギリスの「道徳的感覚」という伝統を合わせ、

「正義の理論は……<道徳感情(情操)の一つの理論>であって、私たちの道徳的な能力——あるいはもっと厳密に言うと、私たちの正義感覚——を律している諸原理を詳説しようとする。

(TJ, p.44/70 頁)」しかし、ロールズの正義論、特に公正としての正義というアイデアを考

察する際に、ロールズは、「カントの人格の自律に頼る」という考え方を明示的に取り入れ、

「結果としてもたらされる(正義)理論は、実際きわめてカント的なものとなった」と述べて

いる。(TJ, p.xviii/xxi 頁)そして、「ロールズの構成主義的な見方において人格概念は正義

感覚への能力と善の構想への能力という 2 つの道徳能力が存在する。」Freeman, S. ed., 2002. The Cambridge Companion to Rawls, Cambridge U.P., p.5.「正義感覚への能力」は、生涯

にわる行動の指導に「討議理性 deliberative reason」の原則を適用することに係る「善の構

想への能力」と異なり(主に良心と結社の自由に関するもの、PL, p.332.)正義諸原理を社会

と社会政策の基本構造に適用することにかかわるのである(主に政治的自由や思想の自由に係

るもの)。 263 ロールズの正義感覚論をめぐっては、例えば、Jon Mandle, 2009. ibid.,pp.119-26. David

Lewis Schaefer, 2007. Illiberal Justice: John Rawls vs. the American Political Tradition, University of Missouri Press, pp.187-98. Chandran Kukathas, Philip Pettit, 1990, Rawls: A Theory of Justice and Its Critics, Stanford U.P., pp.53-8. (山田八千子・嶋津格訳)『ロ

ールズ「正義論」とその批判者たち』(勁草書房, 1996)79-87 頁参照。また、川本隆史『ロ

ールズ』(講談社, 1997)99 頁以下参照。さらに、藤川吉美『ロールズ哲学の全体像』(成

文堂, 1995)188 頁以下参照。および藤川吉美『公正としての正義の研究』(成文堂, 1989)343-72 頁参照。正義感覚に関連する研究については、エドモンド・カーン(西村克彦訳)『正

義感』(信山社, 1992)。アリス・イヤー・スーン・ティ(深田三徳訳)「コモン・ローにお

ける正義感覚」(田中成明・深田三徳監訳)『正義論』(未来社, 1989)157-90 頁。関連す

る研究は、以下の参照。Alice Erh-Soon Tay(深田三徳訳)「コモン・ローにおける正義感覚」

同志社法学 37 巻 5 号 673-95 頁(1986)。葛生栄二郎「正義感覚論」ノートルダム清心女子

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145

本性に反するものではなく、むしろ私たちの本性の一部であり、人間の善にとって本質的

なもの、あるいは、少なくとも本質的なものでありうる(LHPP, p.xii/ix-x 頁)。こうした

考え方は、すでに『正義論』の第8章「正義感覚」と第9章「正義の善」において示され

ており、第8章では、人々がどのように正義感覚を獲得するのか、そして人々がどのよう

に「公正としての正義」に支配された社会を意図しようとするのかを説明している。また、

続く第9章では、正義感覚と人々の善の構想が一致することにより、「両者がともに正義に

かなった制度枠組みを支持すべく協力し合える(TJ, p.397/594 頁)」と説いている。この

ことは、『正義論』が著わされた時期の他の諸論文でも繰り返し指摘されている。

また、ロールズは、『公正としての正義:再説』において、以下のように考えている。す

なわち、この同書に「記述した諸仮定の背後にある道徳心理学は、『正義論』に詳しく示さ

れている。それらを実質的に改めるつもりはない。重要なのは、これらの役割を正義原理

の擁護論全体のなかで理解することである(JF, p.196n17/393 頁)」。ロールズによれば、「正

義感覚」は、正義原理に関する記述の中心であり、正義理論を「私たちの正義感覚を記述

するもの」とするものである(TJ, p.41/66 頁)。これまでに見てきたような他の概念につい

ては一定の変化や修正が認められるが、「正義感覚」は、正義原理に基づいて行動するとい

う人間の動機づけ関する一次的な条件であって、ロールズの正義理論を理解するために不

変的かつ不可欠なものである。

正義原理を理解し、受容しようとする人々にとって、正義感覚は、正義原理を受容する

ための条件として、正義原理の前段階に位置づけられる。この受容条件である正義感覚が

充足されなければ、正義という社会的協働の指針となる原理が受容され、法律や政治的制

度に反映されてゆく可能性はない。このような正義原理の受容条件の重要性は、例えば長

谷川晃の表現に倣って説明するならば、正義という価値主張があらゆる社会秩序において、

特定の個人や集団固有の考えにとどまらず社会全体に拡大して機能してゆくということは、

どのようにして可能なのかを考える際に、われわれは、あらゆる次元での相対主義的な現

大学紀要文化学編 19 巻 1 号 1-15 頁(1995)。阿部昌樹「正義感覚と法行動」人文學報 76号 71-99 頁(1995)。高野成彦「自生的秩序と正義感覚」学校教育研究 14 号 105-17 頁(1999)。笠間千浪「「不正義感覚」を共有するフェミニズム——《女型権力》と構造的劣性を糸口とし

て」神奈川大学評論 35 号 89-99 頁(2000)。小林建一「社会教育における「市民教育」の可

能性——「正義感覚」の役割と育成の問題を中心に」東北大学大学院教育学研究科研究年報

53 巻 2 号 105-26 頁(2005)。松岡誠「正義感覚に関する法哲学的考察」創価法学 35 巻 1号 95-113 頁(2005)。

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146

実をどう理解・克服して正義を社会全体に浸透させることができるのかという、正に正義

の展開の可能性についての問題を検討しなければならない、ということにある。正義が展

開する可能性は、正義の内容と並び、場合によってむしろそれ以上に重要なものである。

なぜなら、長谷川によれば、「正義の受容条件が理論的に証示されなければ、いかなる内容

の正義が説かれようと、それは相対主義の疑義の渦の中に埋没してしまう」からである264。

その一方、ロールズによる正義の二原理の中国における受容可能性、あるいは中国にお

ける実効的適用可能性を模索している本論文にとって、共同体主義等の立場からなされた

正義の二原理に対する批判は、重要である。

正義の二原理を論じる際にロールズの念頭にあった欧米諸国の政治および法制度は、学

説において様々に議論されているとはいえ、実質的にリベラリズムを基軸としている。そ

れゆえ、リベラリズムが前提とする「人格的に自律した個人」、あるいはロールズが設定し

た「原初状態において無知のヴェールを被った個人」という規範的個人像が、学説におい

て共同体主義の立場から批判されたとしても、それについて理論的に応答できるならば、

リベラリズムは維持され、またロールズの正義の二原理も基本的には受容されるであろう。

換言すれば、欧米諸国は、正義の二原理を基本的に受容しうる政治文化を有している。し

かしながら、中国の政治文化は、その良し悪しはともかくとして、欧米諸国のそれとは異

なる。リベラリズムの文脈において、正義の二原理を基本的に受容しつつ、実質的な配分

をめぐって様々な修正が試みられる政治文化とは異なり、中国の政治文化において、正義

の二原理そのものが受容されるとは限らない。しかも、正義の二原理に対する共同体主義

の立場からの批判は、それを受容しないための理論として転用されてしまう可能性もある。

原初状態において無知のヴェールを被った人々による合理的判断という設定が否定されて

しまえば、そこから導かれる正義の二原理は成立しえない。したがって、共同体主義の立

場からの様々な批判を踏まえつつ、ロールズが展開した理論が政治文化の異なる中国にお

いても受容可能であると示すことは、本論文にとってきわめて重要な意義を有する。正義

感覚を重視する本論文のロールズ解釈がリベラリズムの立場から示されている従来のロー

ルズ理解と異なるとしても、このことは、政治文化の異なる中国においても正義の二原理

が合理的であり、かつ受容可能であることを示そうという本論文の試みに由来するもので

ある。

264 長谷川晃『公正の法哲学』(信山社, 2001)234 頁。

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147

欧米諸国と政治文化の異なる中国においては、正義の二原理に合致しない公共財の配分

を不公正だと論じることは簡単ではない。しかし、ロールズが正義の二原理を提示してか

ら、共同体主義の立場からなされた批判に応じて導入していった諸概念をたどることによ

り、とりわけ、多様な包括的教説を信奉する多様な人々がそれぞれに有している「正義感

覚」という緩やかな普遍的概念を起点とすることによって、異なる政治文化を超えた正義

の二原理の受容可能性を拡大しうる。中国人であれ、日本人であれ、アメリカ人であれ、

身分や出身、性別や年齢、人種や民族、学歴や職業、能力や障害、宗教や信仰などの制限

的要素を超えた主体性そのものの地平から考えれば、自尊心や尊厳、正義や愛の信念と感

覚等の人間の自然的本性が同等に付与されるはずであり、そこにおける正義感覚は、人間

性に深く関わる本質的な能力と考えられよう。他方で、正や不正に関する原理や規範につ

いて啓蒙される以前に、人々は、正や不正に関する一定の身体的、感覚的認知能力を既に

備えており、たとえ正義理論の概念や内容について無知で、それを言明化できなくとも、

正しい行動をとることができるとも考えられるであろう。

ここで問題となるのは、正義の二原理を人間の本性に由来するものと理解することの是

非である。これまで、正義原理は、理性的な人々による合理的判断の結果として説かれ、

感情的なありのままの人々は、その説明から排除されてきた。あるべき法律や政治的制度

を合理性に基礎づける法学の議論において、感情が軽視、あるいは無視されてきたのは、

それが「本能的」なもの、「不合理」なものであるとみなされてきたからである。しかし、

人々が様々な感情を抱きつつ生活していることは事実であって、様々な感情のすべてを無

視した「理性的な人々」という個人像から正義理論を導くだけでは、正義の受容可能性の

観点においても不十分である。ルールの形成、受容、変容等のプロセス、つまり人間社会

の秩序形成プロセスにおいて、情動的要素がまったく作用していないとみなすことには無

理がある。本章では、正義原理の起点には情動的要素も含まれているが、それにもかかわ

らず規範的内容について一定の合意形成が可能である、と主張する265。 265 法の領域における感情の位置づけについて、アメリカ哲学者マーサ・ヌスバウムの優れた研

究業績がある。ヌスバウムは、感情を重視する観点から、『感情と法』においてロールズの「公

共理性」と「政治的リベラリズム」の見解に触れたが、ロールズの正義理論の中核をなす「正

義感覚」の概念にはあまり留意していない。本論文では、情動的要素の重要性を認め、ロール

ズのいう秩序だった社会を支える正義理論および政治的リベラリズムの基盤が正義感覚にあ

ることを明らかにしたい。直接述べられてはいないが、ヌスバウムも同様の見解を有している

ように思われる。上記著作の邦訳者の解題によれば、「ヌスバウムは、フェミニズムや共同体

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本章におけるこのような試みに関わる課題は、以下の3つである。第1に、理性的な人々

による合理的判断の結果として正義理論を説く立場は、感情を「本能的」で「不合理」な

ものとみなしているが、感情が「本能的」なものだとしても、「本能的」なものが「不合理」

であることを何ら証明していない。むしろ、例えば現代心理学や脳神経科学等の先端的な

研究においては、理性と感情が排斥的関係にあるのではなく、理性の陶冶にとっても感情

が重要であることが示されている。第2に、既述のとおり、正義理論が理性的な人々によ

る合理的判断の結果としてのみ説かれること、およびそこで想定される個人像の問題があ

る。法律や政治的制度は、基本的に「理性的個人」、「自律的個人」等、感情のない強い個

人を前提として検討され266、同性愛者、障害者、女性等のマイノリティ等への対応といっ

た実際の政策的課題について、基本的な政治的制度が確立された後、制度的、規範的枠組

みの範囲内で配慮しているように思われるが、このような人々は、リベラルな政治的共同

体において市民の地位を有する者として認められてこなかった。「人間性」の本質的平等と

いう観念からすれば、このようなマイノリティは、政治的共同体から排除され、あるいは

周縁化されている。規範的個人像が強調されるほどに、事実的属性によって差別され、社

会的経済的格差に苦しむ人々を正義理論において捕捉することが困難になる。第3に、多

様な人々に共通する正義感覚があることを示すため、人々それぞれの正義感覚について、

心理学的現象における共通性を重視する立場がある。そこでは、正義感覚とそれに基づく

主義がリベラリズムに対して投げかけてきた批判に答えようとしている。それは、リベラリズ

ムが、自由で平等で自立的な抽象的個人を前提に社会制度を組み立てようとする政治理論であ

り、障害者や女性、同性愛者といった「正常ならざる」人々に関わる諸問題を、社会の基本的

制度が設計された後に議論される「補足事項」ととらえ、これらの問題をいわば周縁化してし

まうという批判である」。マーサ・ヌスバウム(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出

版会, 2010)444 頁。また、ロールズは、正義感覚という能力を発達させることによって、す

べての人々を自由で平等な人格存在者として対等に配慮すべきことが主張できるようになる、

と説いているが、ヌスバウムは、基本的にロールズのこのような主張を継承しているといえる

だろう。田中宏明「ロールズの国際正義論批判とコスモポリタン正義論⑶」宮崎公立大学人文

学部紀要第 17 巻第 1 号 101-26 頁参照(2009)。 266 しかし、「知識の進歩」と「感情の進歩」を比較する観点から、以下のような指摘がある。

「人権文化はいかなる道徳的知識の進歩よりも、余暇や安泰が可能にする感情教育の進歩に負

うところが大です。感情や力を巧みに操ることができる者が、本来の人間らしさについての狭

い見方を広げるという実際の作業を行うのに対して、知識の探究者は事態を傍観しているだけ

です」。スティーヴン・シュート、スーザン・ハーリー編(中島吉弘・松田まゆみ訳)『人権

について』(みすず書房, 1998)14 頁。

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判断や行動は、各人の環境や背景的文化の相互作用によるものであるが、共通する正義感

覚は、各人の環境や背景的文化を理解し、その相違を相互に認め合うことによって、あら

ゆる人々が尊重すべき根源的価値を確保し、各人の平等な尊重が人々の間で効果的に具体

化されうると考えられている。本章では、このような立場を支持することになろう。

さて、正義感覚については、マーサ・ヌスバウムも『感情と法』においてすでに着目し

ている267。正義感覚的態度は、リベラルな政治文化の安定と発展に重大な意義を有してい

る。ヌスバウムは、「人間の平等を尊重するリベラルな見方を維持するための制度的・発達

的条件についての論考となることを意図している」とし、正義感覚的態度の再考をとおし

てリベラリズムを維持させようと試みている。なぜならば、「政治的平等性は感情の発達に

よって支えられるべき」であり、「その感情の発達とは、人間性を、不完全性を共有してい

るような状態として理解すること」に端を発しているからである。他方で、「制度は市民の

善意によって支えられねばならない。しかしまた、制度は、善き常識的な市民はどのよう

なものかについての規範を体現し、それを教育するものである。制度は、実際の人々の心

理によって支えられねばならないが、しかしまだ制度は、常識的な市民の諸規範と法の適

切な役割を通じて、政治的な心理を体現し、教育し、表現するものである」、と説いている。

この議論は、「平等な尊重という問題の教育的側面について大きな意味を持っているけれど

267 「英米法の伝統における感情全体に対する一般的態度を理解し、そして、この態度が知らず

知らずのうちに基づいている感情についての考え方を理解していくことが重要となる。英米法

の伝統は、いずれ見ていくことになるが、感情を重大だと思われる利害についての思考と密接

に結びつけ、そしてまた、どんな利害を重大だと考えるのがまともなのかに関する一般的な社

会規範と感情を緊密に結びつけてもいる。このような感情についての考え方は基本的に正しい

と私は考えているので、それを支持する論証をし、社会的感情や道徳教育の全体像にとっての、

この考え方の長所を示すつまりである」。Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., p.22.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾

大学出版会, 2010)28-9 頁。「社会規範と感情を緊密に結びつけている」という視点からみ

れば、そうした傾向は中国法の伝統においてよく見られるが、現在においても色濃く残ってい

るように思われる。たとえば、帝制期中国法体系について、「天理」「国法」「人情」の秩序

構造があり、情的要素を評価することは、限定的とはいえ、なお重要な役割を担っている。木

間正道ほか『現代中国法入門』(有斐閣, 第 5 版, 2009)6-7 頁参照。また、現代中国の刑事

裁判における「マスメディア裁判」現象の考察をとおして、感情が司法制度に影響を与えるこ

とが明らかにされている。熊キ・但見亮「中国の刑事裁判における「メディア裁判」現象の法

文化的背景」比較法学 46 巻 2 号 247-75 頁参照(2012)。

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も、それでも主に、人間の平等な尊重の法的・制度的側面に関わる」268ものとして重要な

示唆を含んでいる。

かくして、正義感覚の本質と役割から、リベラルな政治文化とリベラルな体制に相応し

い正義原理がどのように導かれるのか。正義の政治的構想が理に適っているかどうかを定

める正しい原理は、市民における適切な正義感覚を表現し、機能するものであるが、その

ために、どのような原理とそのアプローチがあればよいのか。このような問題関心の下に、

まず本章では、ロールズの正義感覚に関する通説的解釈とその疑問点をめぐって、能動的

主体性の視点から検討を行い、ロールズの正義感覚の新たな解釈を示したい。

第1節 ロールズの正義感覚論の通説的解釈

第1款 通説的解釈の概要:「形式的意味の道徳能力」と「安定性の保証」

ロールズの通説的理解によれば、「正義感覚」とは、「相互に利害関心をもたない公平無

私の合理性」を想定してもなお「選択された原理が尊重されることを確保してくれる」も

ので、「当事者たちが最終的に選択した諸原理を忠実に守るだろう、という(原理の内容に

立ち入らない)形式的な意味での能力(TJ, p.125/196 頁)」である。ロールズは、当初、

原初状態にある自由で平等な市民たちに、「合理的に、それ故に各自の善の構想に基づいて

行動する能力」を賦与していた。合理的な人々である当事者は、合理的であることによっ

て正義感覚という能力を有していると推定されている。この「合理性」は、一般的に説か

れているように、選好が首尾一貫していること、目的に合わせて選好にランクづケースる

ことの他、『正義論』で想定されているように、嫉みや恥辱といった感情に左右されないこ

と等を意味している。

さて、このロールズが『正義論』で想定した「合理性」について、嫉みや恥辱といった

感情に左右されない人々を想定することは、あまりに非現実的である、との批判がある。

ロールズは、「正義の諸原理の擁護論を2つの部分に分割することによって」、この批判に

応じている。すなわち、「第1の部分では、嫉みが存在しないという前提から諸原理が導出

される。第2の部分において、人生をとりまく情況を視野に収めつつ、最初の部分で到達

した構想が実行可能かどうかを検討する(TJ, p.124/194 頁)」。なぜならば、「嫉みは、す

268 Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton

U.P., p.16.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)19 頁。

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べての人々の暮らし向きを悪くする傾向」があり、「集合的(集団のメンバー全員に関わる)

不利益」をもたらすために、嫉みが存在しないことを前提にしなければ、「諸原理を選択す

るにあたって、原初状態にある人々が自己充足的な人生計画を有している(TJ, p.124-5/194

頁;JF, p.87/155 頁)」と考えられなくなってしまうからである。

マーカス・ダバーは、ロールズのことを、現代において改めて「正義感覚」の道徳的地

位について真剣に考えた道徳哲学者として高く評価している。ダバーによれば、ロールズ

の「正義感覚」は、道徳的情操、道徳的能力、一貫した自律性等に関するカントの議論を

わかりやすく説明しなおす試みである。ロールズにとって、「正義感覚」は、きわめて高い

道徳的情操であり、特有の道徳的情操に従って経験し、行動する能力と願望であり、また、

正義の視点を獲得する能力と意欲でもある。このことは、ロールズが、すべての人々には

自律する能力が備わっていることを理由に、すべての人々が合理的な人間とみなされ、平

等に扱わなければならないと考えていることを意味している。ロールズの「正義感覚」は、

一般的にあまり注目されてこなかったが、しかし、実際には重要な役割を担っている。「正

義感覚」は、規範的能力として広範におよび、政治的共同体を確立し、安定させるために

はその能力の発展が必要となる。このような理解は、ハーバーマスの諸理論と親和性があ

るとも指摘されている269。

ロールズの「公共理性」とハーバーマスの「コミュニケーション的理性」は、人々を「理

性的な存在」とするカント的思考から導き出されたものである。いずれも、立憲民主主義

269 Dubber, M.D., 2005. Making Sense of the Sense of Justice. Buffalo Law Review,

53(2):816-7, 835. また、例えば、意識(consciousness)の現代的構造に関するハーバーマス

の考え方および、個人は効果的な正義感覚を持つ能力というロールズの仮定は全部同じ中心的

概念である「道徳的自律性」の現代的再構成である。Jürgen Habermas, 1984, Theory of Communicative Action, Vol.1, Reason and the Rationalization of Society, Beacon, Cf. p.200. これらすべての概念的構成は、国民のアイデンティティまたはコンセンサスは市民社

会においてどうのように生成するか、そこに物質的利益の追求は道徳的情熱から解放されたと

いう点で、実際には一番の関心事となった。または、私的悪行を強調しすぎると現代市場で公

的美徳になってしまうことを明らかにする。Seyla Benhabib, 1986, Critique, Norm, and Utopia: A Study of the Foundations of Critical Theory, Columbia U.P., Cf. p.6.多元的社会

における政治制度の正当性の理論を発展する立場から、これは、ロールズとハーバーマスの議

論の論じ方からすると、おそらく驚くべきことではない。Markus Dirk Dubber, 2006, The Sense of Justice: Empathy in Law and Punishment, New York U.P., p.91.

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への忠誠、正義感覚による法の妥当性を主張している270。批判的見解もあるが、これらの

両説の関係については、議論の方法論をめぐる建設的な緊張関係を保持しつつ、両説から

共通要素を見いだし、メタレベルで親和性を説く見解も少なくない。この親和性について、

ロールズとハーバーマスの理論を比較してみよう。例えば、シャンタル・ムフの考察によ

れば、価値の多元性と普遍的合意の区別について、ロールズは、「非公共的領域と公的領域」

を区別しているが、ハーバーマスは、このような公私区分論を批判している。それに代わ

るものとして、ハーバーマスは、「手続と実質」という区別に基づいて「生活世界」の諸問

題を観察すべきだと主張している。これについてロールズは、手続的要素には実質的要素

が含まれると批判している。しかし、公的領域と私的領域という区別も手続と実質という

区別も、いずれも事実を把握するための区別として貫徹できてはいないように思われる271。

また、「私的自律」と「政治的自律」という区別を設けているロールズは、政治的正義につ

いて、私的自律の特権化と公的自律の手段に関わるものだと説いている。これについてハ

ーバーマスは、政治的自律(民主主義による統治)の手段として私的自律(個人の権利)

を尊重することにより、政治的「正統性」が確立されると考えた。いずれの主張にも「根

底的な緊張関係」は存在していない。ロールズは、正義を「重合的合意」から導き出すの

に対して、ハーバーマスは、それを「コミュニケーション的理性による合意」から導き出

している。いずれも自由で平等な市民による絶えざる「再認=承認」につながっており、

市民的正義感覚をどのように理解するか、人々がいかなる政治文化においてどのように市

民的主体性を確立できるか、ということを問題としている。

また、ロールズの通説的理解によれば、『正義論』に登場する「正義感覚」は、政治的共

同体の安定性を確立させるという重要な役割を担っている272。もっとも、「正義感覚(The

270 「完全なる立憲化に到達するためには、克服されるべきさまざまな抵抗や反動が存在すると

しても、世界市民法を機能させるためには、挑発的な戦闘行為や犯罪集団による人権侵害など

に対する「共通の憤り」や、民族浄化やジェノサイドに対する「共通の戦慄」さえあればよい

と、ハーバーマスは説明する。すなわち、ハーバーマスにとって、コミュニケーション的連帯

のもとに共有される「正義感覚」こそが法の正当性を構成するはずのものなのである。」内村

博信「ハーバーマスのディスクルス倫理学と九〇年代ドイツの人権政治(6・完)」千葉大学

法学論集第 23 巻第 3 号 138 頁(2008)。 271 シャンタル・ムフ(葛西弘隆訳)『民主主義の逆説』(以文社, 2006)137-41 頁。 272 例えば、「ロールズにおいて正義感覚が重視されるのも、秩序ある社会を成り立たせるため

である。ロールズは、『正義論』の第 3 部の「諸目的」のなかで「正義感覚」を取り上げ、

「秩序ある社会はまた、正義にかんするその社会の公共的概念によっても規制される」と述べ

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Sense of Justice)」(Rawls. J, 1963, pp.281-305. in CP, pp.96-116/221-54 頁)という論文

が公表される以前から、ロールズは、いくつかの著作に「正義感覚」を登場させている。

ロールズは、「正義感覚」の重要性をいち早く認識し、その概念を自己の理論に積極的に導

入している。正義感覚は、正義および正義概念と関連する一群の諸原理、さらに正義の諸

原理に適った政治的諸制度に関するロールズの立場を矛盾なく体系的に説明するのに重要

な役割を果たしているが、ロールズは、「恣意的差別の除去と、競合する様々な要求相互の

適切な均衡の実践における確立を本質的内容とする正義の通常の意味(the usual sense of

justice)」(Rawls, J., 1958. p.165, in CP, p.47/32-3 頁)に留意している。ここでの「適切

な均衡」は、換言すると政治的共同体における安定性ということになろう。秩序ある社会

の安定性を確立するため、「正義に適った決定が参加した人々にその決定に従う正義感覚を

惹起すること、つまり、適切な正義の諸原理を援用し、かつそれに則して行動しようとい

う動機を惹起すること(Rawls, J., 1968. p.62.in CP, Cf.p.171/187 頁)」が必要であり、こ

のことによって「正義の公共的感覚により実効的に統制される」安定的な社会が確立され

る。つまり、秩序ある社会を安定化させるシステムにおいて、正義感覚は、公的に認めら

れ、広く共有されている正義の諸原理に従う基底的な動機として重要な役割を果たしてい

る。

原初状態において無知のヴェールを被らされた当事者の合理的な判断の結果である正義

の二原理は、同原理を忠実に遵守する当事者の形式的な能力、すなわち正義感覚によって

維持される。そのために政治的共同体も安定性する。これがロールズの正義感覚をめぐる

通説的理解である。このような理解によれば、原初状態という初期条件の設定によって、

社会の安定性、秩序ある社会が確立されるわけではない。安定性を確立するために、別途

「正義感覚」が必要となる。しかし、ここで注意しなければならないのは、ロールズが「原

初状態」、「正義原理の導出」および「正義原理の受容」の関係性をどのように説明してい

るか、ということである。ロールズによれば、「分析的解釈(=原初状態——筆者273)の目

ている」。寺島俊穂『政治哲学の復権——アレントからロールズまで——』(ミネルヴァ書房, 2002)241 頁。

273 ロールズは原初状態を、「分析方法 analytic method (TJ, p.105/164 頁)」や「分析的な

想定 analytic assumptions(TJ, p.139/218 頁)」や「分析ための装置 analytic device(TJ, p.165/255頁)」また「分析的解釈 analytic construction(Rawls, 1963, p. 285. in CP, p.100/226頁)」と呼ぶ。

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的は、諸制度に適用される正義の諸原理を導出することである」。正義原理が導出された後

に、「人々が特定の事情において、しかもルールの基底に従って自分の役割を果たす番であ

るという時に、どのように行動するか」、つまり正義原理をどのように受容し、それに基づ

いて行動するかということは、「正義原理の導出」とは「全く別の問題である。たしかに、

制度に関与している人々は、自分達が分析的解釈の諸条件の下で承認するだろう諸原理に

基づいて行動ように拘束されていると感じているということは、それ自体この解釈によっ

て説明されておらず、また、当事者達が合理性概念のみによって記述されているかぎり、

説明されえない(Rawls, 1963, p.285. in CP, pp.99-100/226 頁)」。これに関して、最終的

に選択された何らかの原理を忠実に守るという形式的能力は、選択された原理を単純に遵

守する義務だけなのかという疑問があり、また、正義感覚を、原理としているのか、ある

いは原理よりも下位の概念としているのかという問題もある274。後者の理解については、

以下のような見解がある。すなわち、ロールズにとって、正義原理は「無知のヴェール」

のもとでの合理的な人々それぞれの意思決定から導かれるものであって、何らかの「正義

感覚」を前提としたものではないというものである。これらの通説的解釈の問題点につい

ては、次款で検討することとする。

第2款 通説的解釈の疑問点

形式的な意味での道徳的能力である正義感覚については、その道徳的能力が本当に「形

式的」な意味にとどまるのか、という疑問が提起されている。ロールズは、正義感覚につ

いて、選択された原理が尊重されるという形式的な意味での能力だと説いている。しかし、

尊重されている原理がなぜ選択されたのかという説明は、原初状態において無知のヴェー

ルを被らされた当事者の合理的な判断の結果だというものであって、正義の諸構想のうち

の一つが最善であると全員一致で合意するという想定にとどまっている(TJ, p.106/165 頁)。

したがって、ロールズの正義感覚は、正義の二原理を導出する根拠や方途ではなく、全員

一致で合意した正義の二原理を遵守せよという要求に従うものである。ここで重要になる

のは、正義の二原理の導出が契約説によって説明されているのに対して、全員一致で合意

274 「憲法上の自由と正義の概念」論文や「正義感覚」論文(1963)において示された諸概念、

例えば「承認」や「正義感覚」は「道徳上の概念の分析に議論の正否を決定する役割を与えて

きたが、『正義論』において「概念分析」が占める位置は副次的なものに格下げされているこ

と」になった。川本隆史『ロールズ 正義の原理』(講談社, 2005)125 頁。

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された正義の二原理が遵守される根拠やそのための方法を道徳心理学の観点から理解する

ことである。正義感覚の能力は、正義の二原理を遵守することにとどまらず、その内実で

ある平等な自由を保障する根拠ともなる275。しかも、社会契約論によって導き出された正

義の二原理、それを遵守する能力としての正義感覚という理解では、子どもの地位、環境

の保護等、正義の諸原理の選択に対する将来世代の社会契約への参加資格が問題として残

されてしまい、正義の適用範囲が「生活世界」よりも狭められてしまう。しかしながら、

正義感覚は、人の自然本性としての属性である。正義感覚には、その社会契約に参加して

いるとは想定しがたい人々でさえも正義の二原理を受容し、遵守すること説明しうる可能

性が認められ、そこに正義の二原理の受容可能性を拡大させうる契機が認められる。した

がって、正義感覚という能力に含まれる潜在的可能性について、もう少し詳しく検討する

必要がある。

また、ロールズの説くように、正義感覚の発展(『正義論』70-2 節)と関連しているアイ

デンティティの形成が、政治的諸制度に順応する方向へと人々を導き、正義の構想に則し

た政治的共同体の安定化につながるとするならば、現実的な制約となっている時代背景、

社会状況等によって正義感覚が変容してしまうという課題をロールズが理論的射程に含め

ているかどうかは、きわめて重要な問題である。正義感覚と人々の実際の行動の関係から、

人々の法律に従った行動を動機づけているものは何か。それが人々の自然な感情とは無関

係だとしても、倫理的感覚に基礎づけられる「権利のための闘争」は、法律の解釈や類推

といった形式的な論理学のみによって説明しうるものではなく、人々の人格と正義感覚に

基づく「不正」に対する感情に基礎づけられる人々の主体性にも深く関係しているように

思われる。ロールズも、「被害者を駆り立てて訴訟を起こさせるのは、冷静に熟考された金

275 ロールズは「正義感覚」(1963)との同期論文だった「憲法上の自由と正義の概念」(1963)の最終段落で「人間の特質は、正義と不正義の感覚をもっていることであり、正義についての

共通の了解への参加が、1 つのポリスを作るのである」というアリストテレスの命題を引き合

いに出した上で、次のように書いている。「それと類比して、公正としての正義の相互了解へ

の参加が、1 つの立憲民主制を作るのであるということを示すことができるかもしれない。

(CP, p.95/116 頁)」川本隆史の考察によれば、「正義の相互了解を心理発達の場面から論

じた作品」には「正義感覚」というタイトルが付けられている。「この「正義感覚」はしかも

たんに書物の上だけの概念ではなかった。その感覚こそ同時代のアメリカで燃え上がった市民

たちの抵抗運動の“共鳴盤”の役目を果たしたものであり、ロールズ自身がこの「市民的不服従」

の正当化を論じた際にも、「正義感覚」は重要な準拠点となるのである。」川本隆史『ロール

ズ 正義の原理』(講談社, 2005)98-9 頁。

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銭的利害ではなく、加えられた不法についての倫理的な不快感である」と説く。訴訟を提

起するような人々の法をめぐる行動が正義感覚に基づくものだとすれば、その行動は、「単

なる利害関係の問題ではなく品格の問題に、つまり人格を主張するか放棄するかという問

題」となる276。このことが認められなければ、道徳的人格からロールズの正義理論を理解

することはできない277。このことを認めなければ、ロールズが説く「市民的不服従」論と

祖語をきたしてしまうであろう。政治的諸制度を設置する政治や法の役割は、「一種の合理

的なプロセス」に還元され278、「自分が従う規則を自分で決定する」という自己統治を正統

性の起点とする民主主義によって政治的共同体を運営するという方法を喪失してしまうこ

とになる。正義感覚が政治的共同体を安定化させるためのものだと理解する場合、政治的

共同体内部の抵抗すべき不正に対して他者の正義感覚に公的に訴える市民的不服従と、自

己の良心に基づく法的命令の拒否279については何らかの整合的な説明が必要となる。しか

しながら、ここでは、正義感覚には、政治的共同体の安定を確立する基礎であるとともに、

市民的不服従や良心に基づく法的命令の拒否の動機でもあるという、重層的性質が認めら

れることを指摘しておきたい。正義感覚は、このように複眼的に理解されなければならな

い。そして、正義感覚の理解として、法律を順守しようとする動機と不正に抵抗しようと

する動機という重層的性質について、その均衡を明瞭にしていく必要がある。

しかし、ロールズの「正義感覚」は、「理性能力」、「反射的均衡」、「重合的合意」等の重

要な概念とも関連しており、ロールズの正義理論の全体像を理解するためにも重要な概念

であるにもかかわらず、「正義感覚」に着目している先行研究では、『正義論』で説かれた

276 ルドルフ・フォン・イェーリング(村上淳一訳)『権利のための闘争』(岩波書店, 1982)

48 頁。 277 ロールズは正義概念の体系的分析の際に、道徳的感情や自然的態度といった道徳心理学的解

釈を提示し、正義感覚の能力が何故正義論で道徳的人格の基本的側面となるのかを解明した。

(CP, p.96/222 頁) 278 シャンタル・ムフ(千葉眞ほか訳)『政治的なるものの再興』(日本経済評論社, 1998)98頁。

279 市民的不服従と良心的拒否の違いについて、三点注意する必要がある。⑴他者関与、つまり

公共性に関して、前者は他者の正義感覚に公的に訴えかけるが、後者は他者からの理解を求め

ない。⑵正当化の理由に関して、前者は政治的目的性があるが、後者は個人的な理由に基づく

行為も含む。⑶表現の手段に関して、前者は合法的手段が既にされた段階で正当化されるが、

後者はそうとは限らない。しかし、現実には、両者の違いは明確ではないし、両方の要素を持

つ行為もありうる。(Cf. TJ, p.323-6/486-9 頁)

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政治的共同体の「安定化」との関係ばかりが論じられている280。また、政治的共同体の「安

定化」についても、「公共性」、「公共理性」、あるいは「重合的合意」といったロールズの

概念との関係が明らかにされておらず、正義の二原理がどのようなメカニズムで人々に受

容されるか、について充分に検討されていない。ロールズの説く主体的市民の合理性と自

律性、また合理的選択能力には、カントの影響がみられるが、道徳的能力の発展に関する

ロールズの説明は、カントと異なっており、合理性のみで正義理論を理解し、維持するこ

とはできない、と明確に認めている281。さらにロールズは、正義感覚の形成と維持にとっ

て、愛することの重要性を強調してもいる282。このように、人々の「正義感覚」は、政治

的共同体の安定的な維持を可能とするまでに陶冶されていなければならない。つまり、そ

280 正義感覚概念の曖昧さについて、以下のような指摘がある。「特に「正義感覚」の位置づけ

がロールズの理論の中では極めて曖昧である。正義感覚とは「既存の諸規則を遵守するための

効果的な欲求」、または「正義の諸原理を適用し、それに基づいて行為する通常は効果的な欲

求」と定義されている。或る箇所では、「或る一定の年齢を越え、必要な知的能力を有してい

る各人は平均的な社会的環境における正義感覚を発展させる」と説明し、我々の熟考された判

断とはこの正義感覚を行使したものであると述べられている。しかし他の箇所では、正義の二

原理が基礎構造において実現されている「秩序ある社会」に人びとがおかれてはじめて、獲得

される能力であるようにも読みとれる。また正義感覚とは日常の人びとが有している能力であ

るのか、それとも原初状態の当事者も有している能力であるのかが明らかではない。」通常的

解釈は『正義論』第8章第 70 節から第 72 節にかけて「秩序だった社会」の安定性を確保す

るために正義感覚を獲得するところに注目している。こうした通説的説明によって正義感覚は

「経験的な実証研究に開かれているもの」として、「正義の諸原理に従う動機付けに関する」

ものと位置づけられる。それゆえ「ロールズ理論の論理内在的な正当性、すなわち理論それ自

体の正しさはこの説明によって確保されえないのではないのだろうか」という疑問も生じてき

た。福間聡『ロールズのカント的構成主義——理由の倫理学』(勁草書房, 2007)238-9 頁。

確かに、ロールズにおける正義感覚という概念の位置づけは曖昧であることには私も同感であ

るが、正義感覚を獲得してゆく「経験的プロセス」によって説明に訴えれば、ロールズ理論「そ

れ自体の正しさを確保されえない」と私は思わない。正義感覚に関する特殊な捉え方があるこ

とこそが合理主義と経験主義とを架橋し、「疑いなく両者とも十分な妥当性があり、無理のな

いやり方でこの 2 つの考えを統合しようと試み(TJ, 403-4/604-5 頁)」に契機を与えること

ができるのではないかと私は考えている。このロールズの考えの背後にある動機は、現時点の

私の推測によれば、⑴非合理主義と位置づけられた経験論との調和、それゆえ⑵理性的思惟・

推論(reasoning)のみならず、感覚的経験をも含むより広い理性概念(例えば、ロールズは

理論理性だけでなく、実践理性も重視する)によって正義原理を理解するという方法論的拡張

の狙い、そして⑶正義原理の受容空間の拡充可能性を確保する意図がある、と考えられている。 281 Okin, SM. 1989. “Reason and Feeling in Thinking About Justice.” Ethics 99 (2): 235. 282 Ibid., p.237.

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れを可能とする「正義感覚」といいうる条件がある。ロールズによれば、「正義感覚」は、

何らかの道徳的感情を基礎として成立するものだが、その道徳的感情とは、特定の人々に

対する愛情、信頼といった「自然な感情」にはじまり、やがて、すべての人々に妥当する

普遍的な「原理」となる283。ここでは、「正義感覚」が正義の二原理に先行する原理、いわ

ば正義の端緒として説かれている。

そこで、次の第2節では、以上のような問題、すなわち遵法の動機でもあり不正に対す

る抵抗の動機でもある「正義感覚」について、整合的な説明が可能かどうか、そして、「正

義感覚」が正義の二原理に先行する普遍的原理であると説かれることの意義を検討する。

整合的な説明が可能となれば、そして「正義感覚」の普遍性が政治文化の差異に関係なく

認められるならば、「正義感覚」をとおして、政治文化の異なる政治的共同体における正義

の二原理の受容可能性がかなり拡大するはずである。そのために、第2節では、ロールズ

が道徳的実践における「人間の本性」284として提示している「感覚能力」にも着目する。

そこに、従来の「感覚論」を再検討するための重要な要素が含まれていることも明らかに

なろう。

第2節 ロールズの正義感覚論の基本的特徴

第1款 正義感覚における内的視点と外的視点

ロールズによれば、正義感覚とは、「悟性のみによって作られた単なる道徳的観念ではな

く、理性によって照らされた魂の真の感情(Rawls, J., 1963. p.281. in CP, p.96/221 頁)」

であり、「正義の原理が道徳的観点を規定する限りにおいて、その観点を採用しその観点に

基づいて行為したいと欲する、確固たる性向・構え(TJ p.430/643 頁)」である。『正義論』

を公表した後、とりわけ『政治的リベラリズム』において、ロールズの正義感覚概念は、

より広範なものとなっている。すなわち、「正義感覚は、正義の公共的構想を理解して、適

用し、そして行動する能力」であり、「人々が公共的に支持できるという条件で他者との関

係のために行動する意欲(PL p.19)」を意味するものである。『政治的リベラリズム』で示

された正義感覚の定義において、内的視点と外的視点という区別が示唆されていることに

283 松嶋敦茂「合理性は道徳性をもたらすか?」彦根論叢第 333 号 20-1 頁参照(2001)。 284 ロールズの表現によれば、「道徳的感受性の一形態としての正義感覚は知的能力を含んでい

るが、これは、判断を下すにあたっての正義感覚の行使は、推論・想像・判断の能力を使うこ

とを必要とするからである(JF, p.29/50 頁)」。

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注意しなければならない285。内的視点とは、正義原理を道徳的に容認し、それに従おうと

する心的傾向のことであり、外的視点とは、自己の行動の他者にとっての意味に配慮しよ

うとする心的傾向、すなわち人々の内面の表象としての身体的行為について、一般的に認

められている正義原理に従う傾向のことである。「正義感覚は、公に承認された正義原理を

理解して適用し、そして、大抵は社会における人々の地位やそれにともなう義務を要求で

きるようにする(JF, p.9/15 頁)」ものである286。「制度に関与している人々は、自分たちが

分析的解釈によって承認する諸原理に基づいて行動するよう拘束されているように感ず

る」。人々は、遵法精神を備えているような外観を呈している。しかし、「人々がそのよう

に拘束されていると感じている」ということは、人々に備わっているように思われる遵法

精神が正義の諸原理の導出によっては説明されず、また当事者が私的な利害関心に照らし

た「合理性のみによって記述されている」かぎり、人々が正義原理にしたがって行動する

のかが説明されない287。

285 正義感覚の役割と適用範囲は、通説的解釈によって制限される。感情と認知の相互作用に関

連して、内的視点と外的視点という二重の視点からみれば、人間に共通する普遍的な感情とし

て捉えた正義感覚を実践する場と機会を拡充することができる。内的視点は正義の「目標達成

のため行動を動機づける役割を持つ」のに対して、外的視点は、正義という目標に対して「個

人の中で適応的機能を果たすばかりでなく、その表出を通じて他者との社会的相互作用に影響

を及ぼす」ということである。つまり、正義感覚の役割は、内的動機とその外的表出の両方を

意味している。田中知恵「感情とその制御」村田光二『社会と感情』(北大路書房, 2010)100-1頁。

286 正義感覚の能力は、ただ正義概念を理解して適用する能力のみならず、社会的協力の公正な

条件を尊重する能力も含むのである。(Cf. Rawls, J., 1980. p.530. in CP, p.318.また Rawls, J., 1985. p.233, in CP, p.56.)

287 戸田正直の指摘によれば、「普通に使われる意味での行動の合理性」、即ち「合理的な思索

の結果として得られた<自覚された>活動」という意味での合理性に対して、「感情に従って

活動していれば、そこが野生環境である限り結果として合理的な活動ができるという、進化に

よって獲得された<自覚されていない>合理性がある。「感情は従来からややもすれば曖昧模

糊とした非合理的存在と見られがちであったが」、実は「感情の本来の機能は、環境状況に応

じて適切な状況対処行動を個体に選択させることによってその生き延びを助けること」と考え

られ、「野生環境の特徴に適合した適応行動選択システムとして高度の合理性を持ったもので

あるということができる。」この合理性を「野生合理性」と彼が呼ぶ。戸田正直『感情:人を

動かしている適応プログラム』(東京大学出版会, 2007)5, 22 頁。

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ロールズの正義理論を適切に把握するには、内的視点と外的視点を区別し、それぞれの

正義感覚を起点に理解しなければならない288。正義感覚は、正義の二原理の導出と受容に

ついて検討する本論文において、いずれにおいても重要かつ有用な概念である。

内的視点からみれば、正義感覚の形成と維持に対して、家族に由来する感情や他の社会

構成員への付着(attachments to)が必要とされる。しかし、この感情的要素の重要視によ

って、彼が正義理論を説明するために頻繁に採用した「合理的選択」という考えに対する

緊張関係が生じる可能性は否定できない289。ここで現れてくる問題は、如何にして諸原理

がそれら自体によって私たちの愛着に影響を与えることが可能なのか、つまり、なぜそれ

は正義感覚を原理に従うという「自己完結型願望 self-contained desire」として生み出す可

能性があるようになるのか、ということである。ロレンツォ・サッコーニとマルコ・ファ

イロは、この問題への答えには 2 つの互いに関連し合った要素があるとしている290。まず、

正義感覚は諸原理の内容から独立していない。私たちは合理性をもった自由で平等な道徳

的人格として、無知のヴェールの下で合意する。これらの原理は、相互に有利であり、そ

れは、これらの諸原理が相互に我々の利益を促進し、それ故に我々の愛着(選好)と何ら

かの関係を有している為に公平に容認し得るものであるからである。したがって、正義感

覚の発展には、これらの原理は恣意的なことでありえない。それらは合理的な公平合意に

よって選ばれた原則でなければならない。次に、正義諸原理は合理的に容認できるという

ことを認める知的効果にもかかわらず、正義感覚に関する基本的な事実としては、それが

本来自然的な態度と本質的に結びつける道徳的情操であるという点が重要である。道徳情

288 この内的視点と外的視点によって、正義感覚は「2 つの能力から構成されたもの」として説

明されている。つまり、内的視点からみた正義感覚は、「物事の正義/不正義を判断し、かつ

そうした判断を支える理由を表明できる(TJ, 41/65 頁)」能力である一方、外的視点からみ

た正義感覚は、「現行ルールを遵守しかつ互いに権利資格のあるものを与え合うことへの実効

的欲求(TJ, p.275/415-6 頁)」、「正義の原理を適用し、それらに基づいて行為したいとい

う通常は実効性的な欲求を、少なくとも若干の最低限度までは抱くことができる(TJ, 442/661頁)」能力である。福間聡も同じ考えを持つと私は共感する。彼は正義感覚における 2 つ能

力について、前者を認知的能力として、後者を原理依存的な欲求として指摘し、正義感覚をこ

の「2 つの能力から合成されたもの」として説明する。福間聡『ロールズのカント的構成主義

——理由の倫理学』(勁草書房, 2007)118 頁。 289 Okin, SM. 1989. “Reason and Feeling in Thinking About Justice.” Ethics 99 (2): 238. 290 Sacconi, L. & Faillo, M., 2009. Conformity, reciprocity and the sense of justice. How

social contract-based preferences and beliefs explain norm compliance: the experimental evidence. Constitutional Political Economy, 21(2): 175

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操を欠くときには、道徳的責務は自然的な態度の不足に直接相当するものを持つことにな

り、それは罪悪感、怒りや恥の感覚のような感情的な反応という結果を招く。したがって、

正義感覚は人々を動機づける力を独自に保持し、それは必ずしも完全にその知的正当化の

経験に還元されるものではなく、道徳情操や願望としてその動機づけの本質にまで遡るこ

とができる291。さらに、ここでは互恵性も基本的な要素である。互恵性の傾向は人間性の

基底的な心理事実として理解される。これは中国では「其の人の道を以て、還して其の人

の身を治む answer in kind」ということであり、つまり、「同じことで返礼・応答するとい

う傾向性が基礎的な観念として捉えられている。この互恵の傾向性は深層心理に関連する

事実である。この傾向性を欠くならば、私たちの自然本性はきわめて異なるものとなり、

実り豊かな社会的協働は——不可能ではないとしても——脆弱なものとなってしまうであ

ろう。」そしてまた、「愛や友情といった能動的な情操そして正義感覚でさえ、他の人々の

明白な意図に起因している。それゆえ、私たちの善が人々や制度から影響を受けているこ

とをどのような仕方で理解するのかに応じて、人々や制度に対する愛着を私たちは習得す

る」のである(TJ, p.433/647-8 頁)。

その一方、外的視点からみれば、ロールズによれば、思想と言論との自由を含むリベラ

ルな政治文化において自由を優先するための根拠になるために必要とされている「正義感

覚」への能力は、道徳感覚の発達を説明する過程で導入され、ある種の互恵性の結果であ

ると主張されている。ただしここで強調されるべきことは、正義感覚はただ正義原理に従

う能力のみならず、正義原理を再認・変更・発展させる能力でもあるということである。

もし単純に正義感覚が正義原理に従う能力と見なすならば、正義感覚と遵法義務の両概念

が価値的把握と実践的評価の各次元において識別されず混同されがちであるが故に、正義

感覚をもって自分の行動の法的帰結を確信する事は、既存の法への忠誠という範囲外にあ

るとしても、「法への忠誠」と「法への服従」の間の位置関係には混乱が生まれる(CP,

p.182/206 頁)。つまり、そこでは、われわれが規範原理において社会現象としての法行動

291 正義を規範的原理として理解・受容する場合、正義感覚はその規範を最も強くサポートする。

「社会規範を維持する感情は文化の違いにかかわらず普遍的であると考えられる。」つまり、

感情が「行動を変容させる様々な社会規範を支え維持していることを示している」のである。

また、感情と社会規範との関係は双方向的なので、原理の受容、即ち社会規範に関する認識が

「感情によって引き起こされることもある。」ヤン・エルスター(染谷昌義訳)『合理性を圧

倒する感情』(勁草書房, 2008)115, 120 頁。

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の理解を専ら正義原理に従う能力を目指したものとして捉える視角と、そうした法行動の

動機付けを「良心」「常識」といった規範感覚において把握する視角を対置するとともに、

前者の「合理性のみによる記述」的妥当性を後者の経験的妥当性によって基礎付けること

が必要である。そして、さらに、理想と抽象的なものを表現する正義原理が経験に先立っ

て理性のみに与えられる内在的妥当性は、現実的な生活において具体的な体験や法行動の

外的妥当性によって捉えられる。つまり、正義感覚は正義原理に付随する結果という遵法

義務(正義原理に基づく社会的協働によってもたらされた利益)だけでなく、「我々の行動

が共同体の確信に道徳的基礎を有していること」を心理学的研究と、若干の法社会学的考

察によって実証的に示されるのである(CP, p.182/207 頁)。ロールズによれば、「市民的不

服従は、ただ単に市民生活を規制する原理に基礎づけられた誠実な確信の所産という」だ

けでなく、それが「まさに良心的であり誠実なものであること、つまり、それが真に多数

者の正義感覚に訴えようとするものであることを多数者の眼に確証させるのに」役立つも

のである(CP, p.182/207 頁)。つまり、市民的不服従の根底にある正義感覚は法的実践に

おいて重要な要因なのである。市民的不服従の行動を取る人々の正義感覚は、やはり、し

ばしば、自己の尊厳への攻撃から自分を守るのか否か、また、どのような仕方で守るべき

なのかを決定するのに関わってくる292。

付言すれば、ロールズの『正義論』において正義感覚がなぜ学問的問題になるかという

ことについては、種々の議論が体系的に展開されてきたが、本論文で正義感覚を問題にす

るのは、専ら正義感覚の発揮と見られる社会行動が正義原理の生成・発展・変動に重要な

意味をもつからである。この意味で、本章ではまず正義論研究における正義感覚の位置づ

けや主題や役割を明らかにしなければならない。その上で、正義感覚の目指すところに、

市民的不服従・正義感覚の発達の問題意識およびそれらを支えるアプローチに応える必要

があるということに注目すべきである。

第2款 正義感覚とは何か:正義の理論を記述するもの

292 マーサ・ヌスバウムの指摘によれば、感情は法的実践において重要な役割を果たしている。

「手っ取り早く感情を排除するこのようなやり方は誤りである。まず感情に訴えかけない法な

ど実際に想像不可能である……法はどこであっても、人々の感情的状態に配慮する……より深

いレベルでは、感情を考慮に入れなければ、多くの法的実践の根拠は理解することが困難にな

る。」Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., pp.5-6.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)6 頁。

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正義感覚は、ロールズの正義理論においてどのような位置づけがされているか、この概

念で指示そうとしているテーマは、どのようなものであるか。そして、これらの目的を達

するために、正義感覚は正義の諸原理に関連して、どのような役割を持っているか。これ

らのことを検討しながら、われわれにとっては正義感覚がどのような仕方で可能であり、

またどのような意味をもつのか。以下ではこれらの問題について論じてみたい。

ロールズにより展開された正義は、現代の自由民主主義的な政治社会の基礎となる293。

主要な政治的・経済的・社会的制度は、公正としての正義という基準を通して「正義の二

原理」という理論的段階から、正と不正の道徳判断能力を習得・応用する「正義感覚」と

いう実践的段階へと編成されていくものである。つまり、道徳的能力の 1 つである「正義

感覚への能力」は、社会的協働の公正な条項を明確化する政治的正義の原理を理解・適用

するものであるが、単にそれに合致しているだけではなく、準拠して行動する能力である

(JF p.18-9/31-2 頁)。われわれは、正義感覚を通じて民主政において積極的政治参加を伴

う政治過程を実践する力を身につけているのに加え、とりわけ市民社会の主人公あるいは

主権者である市民として、規範的意味の捉え方から正義感覚を理解し実践するという法的

思考に向けられた心的志向性をも有するべきである294。『正義論』の全体構成からみれば、

293 自由主義と民主主義について、『正義論』において展開されたリベラルな正義の構想と、『政

治的リベラリズム』において示された民主主義理論への傾向という思想的変遷が提示されてい

るが、これによってロールズの「正義の理論」の全般を如何に理解するか、ロールズは『正義

論』において民主主義自体に関する論述がそれほど多くない。特に『正義論』の索引に、

Democracy という項が存在しないことはしばしば指摘されている。『正義論』における民主

主義の位置づけという問題が残っている点は注意に値する。以下の参照:石黒太「正義論にお

ける民主主義の位置」学研論集 7 巻 32 頁(2006)Joshua Cohen, 1989. “Deliberation and Democratic Legitimacy” in The Good Polity: Normative Analysis of the State, ed. Alan Hamlin and Philip Pettit, Basil Blackwell, pp.17-23; Jonathan Wolff, 1998, “John Rawls: Liberal democracy restated” in John Rawls Critical Assessments of Leading Political Philosophers vol. II, ed. Chandran Kukathas, 2003, Routledge, pp.346-347; Ronald Moore, 1979, “Rawls on Constitution-Making” in John Rawls Critical Assessments of Leading Political Philosopher, vol. II, ed. Chandran Kukathas, 2003, Routledge, pp. 319-20; James Bohman & William Rehg, 1997, Deliberative Democracy, The MIT Press, xvi; Michael Saward, 2002, “Rawls and Deliberative Democracy” in Democracy as public deliberation, ed. Passerin D'Entreves, Manchester U.P., pp.114-5.

294 共感意識と規範意識との関係について、カントは『判断力批判』において共通感覚(sensus communis)あるいは共感覚(synesthesia)と論じている。共通感覚は、万人に共通した判

断力であり、常識(common sense)と明確に異なる。「他のすべての人の表象の仕方を考え

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正義感覚論は、正義原理の理論性と実践性の理解に対して積極的な役割を果たしているこ

とが示されている。

正義感覚は、もともと正義の二原理の結果、あるいは目的だと理解されてきた。しかし、

分配的正義の基本枠組みからみて、正義感覚は、正義理論の目的を達成する手段である言

葉として、ロールズの『正義論』第 1 部の「理論」から第 3 部の「諸目的」まででよく使

われている一方、正義の諸原理を成り立つための論理構造からみると、正義感覚は、正義

原理による実践の結果ではなく、正義の二原理と同じように原理のレベルで説明する必要

があることを再認識すべきである。なぜなら、ロールズによれば、正義の理論は実は私た

ちの正義感覚の記述だからである。ロールズは『正義論』を構築するときに正義の理論に

関する全体像の基本定位においては、正義の理論と正義感覚とを等置する。こうした正義

感覚は根本的基盤として、一連の正義原理を導き出すことになる。この意味で、正義の理

論はそれ自体が原初状態と無知のヴェールという 2 つの観察道具を通して我々の正義感覚

に映るものを記述した結果であり、何らかの発明的意味を持っているのではない。それは

むしろ、我々の正義感覚をロールズの概念装置を通じて記録し、その映った正義感覚を撮

影のようにそのまま複写・再現・記述したものなのである。正義感覚と正義原理は原物と

のなかで(アプリオリに)顧慮する能力なのである。…このことは、我々が自分の判断を他者

の判断と言っても、実際の判断というよりはむしろ可能的判断に引き当て、自分自身を他者の

立場に置いてみることによってのみ可能である」(Immanuel Kant, 1977, Kritik der Urteilskraft, § 40. Vom Geschmacke als einer Art von sensus communis, Werke in zwölf Bänden. Band 10, Frankfurt am Main. 224-8. )。アーレントは、カントの提示した共通感

覚を共同体感覚と解釈している(Hannah Arendt, Ronald Beiner(ed.)Lectures on Kant's Political Philosophy, University of Chicago Press, pp.70-1.)。判断力は、「政治的動物」と

しての人間にとって、「公的領域」で自らの位置を定め得る基本的な能力の 1 つである。彼

女は、すでに「文化の危機——その社会的・政治的意義」Hannah Arendt(斎藤純一・引田

隆也訳)『過去と未来の間』(みすず書房, 1994)において、カントの提示した判断力を古代

ギリシャの概念「フロネーシス(賢慮)」と同じ能力である、と指摘した。他に Andrew Norris, 1996, Arendt, Kant, and the Politics of Common Sense, Polity, 29(2):165-91; Howard L. Williams, ed., 1992, Essays on Kant's Political Philosophy, University of Wales Press, pp.76, 205; Robert Nehring, 2010, Kritik des Common Sense: Gesunder Menschenverstand, reflektierende Urteilskraft und Gemeinsinn-der Sensus communis bei Kant., Duncker & Humblot; 千葉建「カントの共通感覚論」倫理学倫理学 17 号 69-80 頁

(2000)を参照。

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写像として関係づけられ、正義感覚という原物から離れてみれば正義原理という像は成り

立たないことになり、正義原理を理解・受容する基盤を失ってしまう。

ロールズは、恐らくカントの「善意志 good will」と同じ発想の延長線上で正義感覚を提

案してきたのであろう295。「善意志は他の様々な善きものが道徳的に善いものであるため

の条件となる」ように、正義感覚はロールズの正義理論において社会制度の「正と不正」

の端緒として位置づけられていると考えられる。行為の善し悪しは、純粋に意志の善さに

求められねばならないと同様に、正義原理は正義感覚のもとに記述される。カントは、そ

の重要な著書である『人倫の形而上学の基礎づけ』第 3 章のある箇所で、「もし私がただ

可想界のみの成員であるならば、私のすべての行為は、意志の自律につねに適合している

だろう。ところが、私は同時に、自分を感性界の成員として見るのであるから、すべての

私の行為は、意志の自律に適合すべきである」ということになり、そして「心ばえのよさ、

善い格率をまもる志操の堅さ、同情や一般的な親切心などの実例が示される場合、自分も

またそのような心持ちでありたいと望まない者はいない」296と言う。このことと同じよう

にして、正義原理の作動によって現れた正義感覚の諸現象は、既に実践的使用という意味

で、感覚上の”Sollen”が秩序だった社会の構成員としての彼自身の必然的な”Wollen”であり、

彼が自分を同時に正義感に溢れる市民とみなすかぎりでのみ、彼によって”Sollen”と考えら

れ、その妥当性について確信することができるだろう。

それゆえ、『正義論』におけるそれぞれの中心概念は概ね次のように配列されているこ

とを確認することができるだろう。正義の理論は正義感覚の記述として、制度や行為に関

する構成・判断・説明・解釈と関わりのある一連の理論系譜にあたり、「公正としての正義」

の総称である。つまり、正義の一連の原理を総称した正義の理論は、幾つかの核概念と中

心原理によって構成される。このとき「ロールズの全説明のうち」で感覚的要素は、「理論

のための証拠として」、正義の理論は、「われわれの正義感覚が現在あるようなものである

295 基礎的な善の重要性に関する認識は同じ発想の延長線上に立つにもかかわらず、「ロールズ

の主張する政治的自由主義は、カントや見るに見られるような、自律と個人主義を強調する包

括的教説としての自由主義をさえ、人々に強要しない。それは異なる信念をもつ多くの人々に

とってそれぞれに住む場所のあるきわめて広い世界なのである。」岩田靖夫『倫理の復権——ロールズ・ソクラテス・レヴィナス——』(岩波書店, 1994)81 頁。

296 坂部恵『カント』(講談社,1979)260 頁。

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のはどうしてであるかについての体系的説明に他ならない」のである297。正義感覚は正義

理論のための証拠を与え、正義原理の導出・受容・実践が行われる必要な条件を示し、内

的視点での法規範の遵守義務観と、外的視点での法制度の利用行為が正義感覚に基づく道

徳的評価に大きく依存しているという役割を果たしている298。

秩序だった社会の構成員は、自分を自由で平等な道徳的人間と見なす。換言すれば、彼

らは自分自身が社会制度編成における対等な尊敬や自らの善に関する根本的利益を主張す

る正当な権利と正義感覚をもつと考えている。その社会成員は強く効果的な正義感覚を発

達すると同時に、基本的社会制度は、正義感覚に対する効果的な支援をも生み出す。これ

は社会の安定性に対して必須である(Cf. Rawls,J.,1974a. pp.634, 653.in CP, pp.233, 251;

Rawls, J., 1975a. p.95. in CP, pp.255-6; Rawls, J., 1958. p. 165. in CP, p.279.)。ロールズ

が、「公正としての正義」という構想にしたがった社会は整然とした組織体系が組まれてい

るということは、次の三つのことを意味していると考えられる。第 1 に、同様の正義諸原

理はすべての市民によって受け入れられ、是認されること。第 2 に、是認された正義諸原

理に適った社会的基本構造は公共的に知られていること。第 3 に、「秩序だった/秩序整然

な社会 a Well-Ordered Society」には、正義感覚は不可欠であり(Cf. Rawls, J., 1988. p.269.

in CP, p.446.)、「市民の実効的な正義感覚、つまり公に承認された正義を理解して適用し、

そして社会における彼たちの地位やその義務と責務が要求するように行動することができ

る(JF p.9/15 頁)」こと。つまり、彼の考えではこれらの三点を支える基盤が正義感覚に

あり、この基盤に欠落や不備があれば正義原理の受容に大きな影響を与える。正義感覚は

社会全体の秩序維持や機能作用に対して代替不可能な役割を果たしているのであり、それ

ゆえに正義感覚は重要視されているのである。

さらに、社会全体の秩序維持と正義状態を実現するために、社会秩序やその状態を形成

する基準(特に法規範)自体が正義に適っていなければならない。ロールズは社会契約の

観念によって引き出された「原初状態」と名付けた仮説的状況におかれる際に受容できる

ような正義の諸構想に、正義の二原理の妥当根拠を求めており、この状態は、周知のよう

に、社会の構成員が「無知のヴェール」に覆われた状態である。このような状態において

人は、他者に対する卑屈や憎しみや嫉妬や反目や優越感等といった、社会との対比の観念

297 クレスピニイ、マイノウグ編(内山秀夫他訳)『現代の政治哲学者』(南窓社, 1977)328頁。

298 阿部昌樹「正義感覚と法行動」人文学報 76 号 88-90 頁(1995)。

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を持つことなく、行為のルールを合理的に選択するであろうと推測され、また誰しも同じ

思考・行動パターンを選択するという正義感覚が期待されるということである。この「原

初状態の考え方は、表現の装置として、公共的反射(public reflection)および自己明確化

(self-clarification)の手段として機能している。(PL, p.26.)」それは、社会において日常

生活を送る人々が「自由かつ平等である」と考えられ、「2 つの道徳的能力——正義感覚の

能力と善の構想の能力——によって特徴づけられる市民たちの基本的なニーズや要求に基

づく」効用関数を表現するものである(LHPP p.267-8/476 頁)299。

この点で、道徳心理学からみた「正義感覚あるいは正義感情には大きな心理学的強度が

あり」、それゆえ道徳心理学的解釈は効用原理的解釈と「明らかに衝突する」。正義感覚は、

「効用原理と何らかの仕方で整合的に説明されうるか」という疑問に対して、ロールズは

J.S.ミルの見解を批判的に考察した上で次のような考えを示した。「人々が正当であるとか

不正であると呼び習わしているものすべてに、一つのまたは一連の共通の属性がつねに存

在しているとすれば、この特定のまたは一組の属性が、私たちの情動の組成の一般法則に

よって、その特定の性格や強度をもつ感情をそのもとに集められるかどうか、それとも、

そうした感情が説明できないものであり、自然によって特別に用意されたものとみなけれ

ばならないかどうかが判断できるだろう」というのである(LHPP p.272/481-2 頁)。つま

り、人格や社会についての規範的な構想を生物学的あるいは心理学的な特徴によって与え

られるものとするミルの考え方に対して、ロールズは、不正義の感覚は効用原理および私

たちの道徳的心理学の双方と整合するものとして、私たちの道徳的・政治的な思想や実践

によって得られるものであると述べている。「社会を公正な協働システムとして明確に規定

する公正としての正義においては、全生涯にわたり十分に今日働する成員としての役割を

果たしうる、自由で平等な人格というそれにともなう観念を私たちは用いている。公正と

しての正義における規範的・政治的な人格の構想は、市民としての人格の能力と結びつい

ている。彼らは自由かつ平等であり、2 つの道徳的能力を持っている......また、2 つの道徳

299 藤川吉美の考察によれば、平等の根拠は最小限の正義感覚を備えていることが必要なのであ

る。「Rawls は平等権の保障範囲を最小限の正義感覚能力の保有者に限り、正義の運恵に浴

する資格を「正義を与え得る者」に限定する。」つまり、ロールズは「最小限の正義感覚の具

備を平等権の根拠と解し、正義の保障範囲を当該要件の充足ものに限定する」のである。藤川

吉美『公正としての正義の研究——ロールズの正義概念に対する批判的考察——』(成文堂, 1989)362 頁以下参照。

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的能力を行使するために必要となる理性、推論、判断の能力ももっている。(JF

pp.18-23/31-41 頁;LHPP pp.269-70n7/505-6 頁)」のである。ロールズにおいては、われ

われは社会を公正な協働システムと見なす限り、正義感覚が社会的協働のための道徳的能

力となり、平等な市民として社会に参加するのに必要な最小限の道徳的能力をもっている

と見なされる。そしてまさにその点で、平等の意義とその重要性が見出されるようになっ

た。つまり「われわれは、この程度の道徳的能力をもっていることを人格としての市民間

の平等の基礎とみなす(JF p.20/34 頁)」のである。

第3款 正義感覚の実質:自由で平等な人格的存在者の規範的期待

前款で述べたように、正義感覚は正義原理の選択に重要な影響を与えるにとどまらず、

正義原理の受容に対して端緒として代替不可能な役割を果たしている。この役割は主に正

/不正への情動的反応——例えば、社会制度の正当な要求にしたがって恩恵を感じる心的

満足や喜び、また他者や社会の悪行によって犠牲や被害を被った悲しみや怒り等を通して

機能する。こうした正や不正の反応は、「主観的なものではなく、間主観的、間身体的なも

の」であり、「観念のレベルで受容されるにとどまらず、私たちの心身のうちに具体化され

てもいる。」それは「人々の間で共有される規範的期待を指し示す」ものである300。ロール

ズにとって、正義感覚が根本的には善悪のフィーリングやセンスであるが、より具体的に、

それは公正感(sense of fairness)であり301、不平等を是正できる機会や、善き生の構成を

承認する契機などを提供するものである。言い換えれば「正義に適った諸制度というもの

は、おのずと現れてくるのではなくて、まさにそうした制度自体からなる文脈のなかで学

習される正義感覚を、市民たちがもっていることにかなりの程度——もちろんこれだけで

はないが——依存する。正義への関心の不在がそれ自体として望ましくないのは、正義感

覚をもつこと、そしてそのことに含まれるいろいろなことすべてが、人間の生活の一部で

あり、他の人々のことを理解し、彼らのさまざまな請求資格を承認することの一部だから

300 佐藤純一「感情と規範的期待」(飯田隆ほか編)『社会/公共性の哲学(岩波講座 哲学 10)』(岩波書店, 2009)115-6 頁参照。

301 Cline, Erin M. 2007. Two Senses of Justice: Confucianism, Rawls, and Comparative Political Philosophy. Dao 6 (4) (December 5): 363.また「公正(fairness)としての伝統的な

西洋の正義感覚を再利用・改善することによって、ロールズは明確的かつ具体的な条件で、ロ

ックやルソーならびにカントの近代的社会契約論で暗黙のように想定された公平性

(equitability)の一般原則をはっきり説明し、理論を構築する」。Wang, H., 2009. The Way of Heart: Mencius’ Understanding of Justice. Philosophy East and West, 59(3): 319.

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である。(LHPP pp.371-2/673 頁)」さらに言い換えれば、正義感覚の実質は自由で平等な

市民たる資格要件としての人格的存在者の規範的期待なのである。「公正としての正義」を

実現しようという要望が寄せられるのは、自由で平等な個人がより強い愛と相互信頼の深

い絆で結ばれた豊かな人間関係を希求する姿勢ゆえである。ロールズは、こうした問題意

識に基づいて功利主義を批判し、格差を是正するために「諸制度がまずもって発揮すべき

効能(TJ, p.3/6 頁)」に着目して公正としての正義を実現すべきであると説いた。

公正としての正義は、原初状態における合意を経て、社会を規律する正義の二原理を確

立することによって成り立つ。次いで、人々は、憲法制定会議でそれらの正義の諸原理の

課す諸条件を満たす憲法を制定し、そのうえで、立法機関において正義の諸原理を具現さ

せる憲法の明確な実体的及び手続的制約と規定に従って個々の法律を制定することになる。

ここでは、法律は憲法に、憲法は正義の諸原理に、正義の諸原理は正義感覚に拘束される、

という関係が成り立つ302。この場合、前政治的な社会から政治的な社会へと移行する際に、

政治的権力・権威は社会契約のような契約主義的な考えに基づいて構築されなければなら

ないという問題は、こうした契約的な考え方が公共理性に付されたものである限り、理性

的推論の帰結として正当化可能であるという観点からある程度説明される。しかし、それ

は同時に、正義の諸原理は原初状態という思考実験の仮説的な状況から導き出されている

ため、現実的状況から逸脱し乖離したものとなる危険性がある。

ロールズは、この危険性を克服するために、社会契約の説明が四つの仮定を行っている

とする。この諸仮定の第 1 は「誰もが政治的な正義感覚の能力を等しくもち、それに従っ

て行動することに利害関心をもつ」ということである。「この正義感覚は、社会契約の諸原

理を理解、適用し、これに基づいて行動する能力」と見なされる(LHPP p.219/392 頁)。

勿論そこでは、この正義の諸原理はどのようにして社会的協働に取り入れられるのかとい

う問題が生じるであろう。確かに、正義の二原理がどのようにして得られたのか、そして

それは現実に適応し得るのかと問うことは重要である。しかし、ここで重要なのは、「人々

が社会的協働に従事することが可能となるときの、善悪の感覚、すなわち正義感覚の役割

(LHPP p.57/101 頁)」である。特に「市民たちの正義感覚は、正義にかなった基礎構造の

302 上記の⑴原初状態で正義の原理を選択する段階、⑵憲法制定会議の段階、⑶立法段階という

3 つの段階の以外に、系列の最後の段階では⑷ルールの適用と遵守という段階もある。この四

段階の系列は正義の諸原理を適用ための仕掛けに相当するものとして捉えられる。(Cf. TJ, pp.171-6/266-73)

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下での生活によって形作られた性格や利益を考え合わせると、通常の不正の傾向に抵抗す

るのに十分なものである……公正としての正義によって要求されたある種の安定性は、リ

ベラルな政治的見解であることに基づいて、市民を合理的かつ適理的な者としてだけでは

なく(PL, pp.142-3)」、「正義感覚論」において展開した、正しい原理を発見するプロセス

としての「反照(内省)的均衡 reflective equilibrium」でもある。

正義が問題となりうる状況においては、「反照的均衡」に至るまでに主観的条件303と客観

的条件304とを具備する必要があり、いわば正義感覚を有する理想的な中立的観察者

(impartial spectator)が想定される。より共感しやすい原初状態を想定した場合において、

当事者はどのようにして正義原理の選択を合意していくのであろうかということについて

は、この選択の方法には、少なくとも 2 つの可能性が考えられる。一つは、様々な選択肢

を比較衡量することなく、すぐに全員一致により答えを引き出す場合である。もう一つは、

合理的存在者が自らの内部に様々な制約を含む全ての選択肢をよく吟味し、それへのコミ

ットメントが可能かという視点から順序づけることで漸進的に正解に近づき、最終的に全

員一致でもってそれを選択するという場合である。ロールズは後者を採用しており、その

際に当事者が比較を介して正しい原理を見出していくプロセスが「反照的均衡」である305。

実験や観察に依拠して理論構築をする自然科学や科学技術においては、新たな概念や魅力

的な仮説に依拠させるべく客観的事実の具体的根拠を変更することができないのに対して、

道徳哲学と政治理論においては「道徳的理由」、「熟考された道徳的判断」に流動性があり

うることに着目し、ロールズは正義の共通感覚を形成するために反照的均衡と呼ばれるこ

303 ⑴契約当事者は平等かつ自由な存在であり、⑵相互に無関心であり、⑶経済の一般原理や心

理学の一般原理などの知識(自分自身の有利になるような自己や他者の特殊性や個別性に関す

る情報のみを除いて)を持ち、⑷自律的・義務論的動機に基づいて(正義の)原理を守る。 304 ⑴同時期に人々が同時間を一定期間内ともに過ごしていること、また⑵人々の身体的能力・

精神的能力がほぼ類似していること、そして⑶人々の協働を必要としないほどあまり豊かでは

なく、かつ彼らの協働を可能としないほどあまり窮乏してないほど穏やかな 「希少性

moderate scarcity」 の状態であることである。飯島昇蔵『社会契約』(東京大学出版会, 2001)139 頁参照。

305 ロールズの「反照的均衡」の考察について、Norman Daniels, ‘Wide Reflective Equilibrium and Theory Acceptance in Ethics' Journal of Philosophy 76(5):256-82; reprinted in Daniels, N., 1996, Justice and Justification: Reflective Equilibrium in Theory and Practice, Cambridge U.P., pp. 21-46; Richard Brandt,“The Science of Man and Wide Reflective Equilibrium.” In Ethics 100, 2 (1990): 259-78; François Schroeter, ‘Reflective Equilibrium and Anti-theory’, Noüs 38 (2004):110-34.

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の正当化手続を説明している。人は様々な哲学的考察を行う時に、自分自身の内側にある

道徳意識や正義感覚は現状のままの放置状態に合わせるようにしておいて、その態度の強

度や方向性などを微調整するのみで済ませる場合と、自分の正義感覚を根本的に変化させ、

それゆえ、自分の道徳的判断およびそれらの規範的判断を正当化してきたメタ倫理学的な

議論をその変更に適応させねばならない場合とがあり、反照的均衡が関わるのは後者の場

合である。

ロールズの正義論においては、正義感覚、原初状態、正義原理の選択と受容という三項

の間で首尾一貫した合理性と整合性が得られるまで、つまり原理的一貫性(consistency)

と規範的整合性(coherence)といった均衡点に到達するまで、当事者たちが正義感覚を通

じて合理的選択された正義の諸原理を理解し応用し、動機づけることのできる能力を発達

させて行動していく過程において、広い意味での人格利益含むより高次の利害関心、即ち

私利や便宜などの個人的効用を求める能力だけではなく、自/他の行動が正義に適ってい

るか否かを判断し、それに基づいて自らに責務を課す調整を繰り返すことを通じて再遂行

されねばならない306。正義の理論は、私たちの正義感覚の行使に好都合な条件のもとで下

された判断の記述であるが、この判断には不規則性や歪みがある可能性があるので、判断

を修正することが常に必要とされる。つまり「ある人の正義感覚の最善の説明とは、当人

が何らかの正義の考想を吟味する前から抱いている判断と合致するようなものではなく、

むしろ「反照的均衡」における当人の判断と適合するものにほかならない。(TJ, p.43/68 頁)」

私たちの正義感覚を調整する「反照的均衡」は、実は法や社会的秩序への正義の受容過程

の問題であり、また憲法秩序および政治過程としての正義の実現化の問題でもある。この

意味で、ロールズは、正義秩序の展開を正義感覚と関連して考え、正義原理の受容の後に

秩序化・組織化という社会状態を達成することができるために、正義感覚の概念を登場さ

せるのである。

こうした理解を踏まえ、『正義論』の中でロールズが何よりも強調するのは、正義感覚が

正義原理に先行するという点であると言えるだろう。正義感覚という抽象観念は、原初状

態において無知のヴェールから合意を経験した個別具体的な正義原理の内容と特徴を抽出

ないし導出したものに比べれば抽象的であるが、抽象さこそが個別的経験に先立って存在

し、そして、正義理論における理論・諸制度・諸目的の関係性を、正義感覚を抽象的段階

306 仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想』(日本放送出版協会, 2008)87 頁参照。

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から漸次的に正義の諸原理に置き換えることによって具現化する307。正義の二原理の導出

は原初状態や無知のヴェールといった概念装置を必要とするが、正義の二原理の具現化す

る諸原理群は無知のヴェールによって設計されるものではなく、むしろ人間理性のなかに

本性的に課されている「正義感覚」に基づいている。人間は必ずしもそれ自体を明確に意

識しなくともそうした「正義感覚」に従って行動している。例えば言語の文法規則につい

て明確に語るまえに、その言語を自由自在に使用することは可能である308。われわれは文

法(=正しく話せるルール)を知らないけれども、相手に意思疎通をすることも可能であ

るように、日常生活の中で、私たちの行動パターンからみれば、われわれは決して正しい

行動を判断するためのルールを十分に承知した上で法実践を行うわけではない。一般常識

的に考えれば、社会の構成員たちは一定の正義感覚を持ち、それに従って発言かつ行動し

ている。その意味で正義感覚は正義原理より先に登場するものと言えるだろう。秩序だっ

た社会の成立条件として、正義原理はもちろん、「正義原理の要求する仕方で行為すること

に対する強固で通常は実効的である欲求(TJ, p.398/595 頁)」も必要とされている。われ

われが正義の二原理を承知・理解・受容するまえに適理的な行動ができるということは、

つねに意識しない抽象的な観念である「正義感覚」によって支配されていることによるの

であり、その感覚の実質は自分らしく人生を生きていこうということにある。こうした視

点からみたロールズの正義論は、自分らしい生き方や自分に都合のよいようなあり方を志

向しながら、それぞれの価値観・あり方・生き方を尊重し、相異なる他者との協働にも満

足できる秩序ある社会の条件を目指している。正義感覚の実質を一言で言えば、これはリ

ベラルな政治文化において自分の生き方を尊重されたいから相手の生き方を尊重し、礼儀

正しく接してほしいから礼儀正しく接するという規範的期待である。これはリベラルな政

治文化に含まれている市民的礼節、とりわけ自尊心に由来する対等で相互尊重の人間関係

307 正義の二原理の置き換えとして上げられるのは、例えば、優先順位のルール(8 節)、個人

に関する公正の原理(18 節)、自然本性的な義務(19 節)、責務(51-9 節)、アリストテレ

ス的原理(65 節)、道徳的心理学の原理(75 節)など個所である。 308 ハイエクはこれを「言語感覚」と呼ぶ。つまり、「「論理的に考えたわけではないが感じる」

という意味は「感じる」という言葉から導かれるような情緒的なものではなく、意識されてい

ないとはいえ情緒的過程よりは知的過程の方にはるかに共通点が多い過程で決定される。」

F.A.Hayek, 1978, “The Primacy of the abstract” in New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas, Routledge & K. Paul, p.46.(池田善昭監訳)「抽象の

第 1 義性——精神活 動とヒエラルキー」『還元主義を越えて』(工作舎, 1984)441 頁

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である。日常生活のなかでこうした人間関係に相応しい行動を営む中で体得される習慣が

強調されると、正義感覚は「政治文化」概念に生まれ変わる。われわれがそうした生活態

度を意識的に志向する、あるいは主体的に要請するとき、つまり正義の諸原理の受容の過

程において、行為主体と諸原理との多様で実践的な関係が志向的活動によって作り出され

るときにのみ内在化が起こり、承認された諸原理は人格的・主体的な所有になり、外的強

制が規範感覚において内的自覚へと転換することになる。

第3節 ロールズの正義感覚論の再検討:相互的主体性の視角から

ロールズは「正義感覚(1963)」という論文において、ルソーの影響を受けて、正義の感

情を結びつけていく感覚的な理性において展開する「内部感覚 Sensintérieur」と「共通感

覚 Sens commun」を通して正義感覚を「心の最初の動き309」と見なす道徳心理学的解釈を

肯定し、さらに、正義感覚に関する 2 つの問題を提示する。それらは、第 1 に「正義の義

務は誰に対して負うものであるのか」という問題と、第 2 に「正義の要求することを実際

に行為するという連関はどのように説明されるのか」という問題である。これらは正義感

覚の主体と能力及び正義感覚の獲得による正義原理の受容と関連している。

前者の問題について、ロールズは、正義の義務は「正義感覚をもつ能力のある人々に対

して負うもの」とする。また、後者の問題については、自己の利益や便益を促す場合以外

では、正義の要求を行わないから、正義による拘束を考えず、また憤慨を感じる能力もな

いゆえに、友情と相互信頼のような人間性のある本質的な諸要素を欠いている」ような人、

つまり正義感覚を欠いた人は人間性のある本質的な諸要素を欠いていることになろう、と

論じた(CP, p.96/221 頁)。このことは、当事者たちがカント的解釈に基づく主体性として

効果的な正義感覚を持っており、種々の検討中の正義原理を理解し、適用する能力および

最終的に採用された原理に基づいて行動するために十分に強い欲求を持っていることを意

309 ルソーは、心の最初の動きから「良心の最初の声」が聞こえるとし、また愛憎の感情から「善

悪の最初の観念」が生まれると述べ、そしてルソーは、正義と善とは悟性のみによる倫理的な

ものではなく、「理性によって照らされた魂がほんとうに感じるもの」こそ、「原始的な感情

の正しい進歩の一段階」であると説く。さらにルソーは、良心と関わらない理性では、「どん

な自然の掟も確立されない」とし、心の要求によらなければ自然の権利も幻影になるという。

ルソー(今野一男訳)『エミール(中)』(岩波文庫, 1963)56-7 頁。Rousseau, J.J. 1979. Emile. Trans. Allan Bloom. Basic Books, pp.211-53.

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味する。もっとも、これらの正義原理はまだ同意され確立されていないがゆえに、当事者

たちの正義感覚には内容がない。すなわち、彼らの形式的な正義感覚は、単に社会の一員

として、彼らは正義に入れられるすべてのものに関するもっとも理に適った構想に従うこ

とができることを保証している(Rawls, J., 1980. p.547. in CP, p.335)。

「公正としての正義」という構想を実現するために、人々の間にある正義感覚における

主体と能力について、ロールズは、原初状態の当事者の適理性、つまり正義構想を公共的

に理解する正義感覚の能力を持っていることを想定する。しかもこれは、当事者たちの間

では周知の事実となっている。また、正義感覚を獲得する方途については、正義秩序の展

開という問題として見ることもできる。この意味での正義感覚の役割は正義原理の内容を

特定化するよりも、むしろ正義原理の受容を強調するところに重要性がある310。それに関

しては、長谷川晃に倣って、正義原理の次元と正義の機能の次元とを区別することができ

る。長谷川によれば、「正義原理の次元とは言うまでもなく特定の正義原理、例えば、J・

ロールズが示したような正義の二原理のセットそのもののことである。換言すれば、それ

は特定の実質的内容をもつ正義の観念の次元である。これに対して、正義の機能の次元は、

一定の内容をもった正義原理が、法—政治制度の設計や人々の倫理観念の内化の過程を通

じて具体的に実現されてゆく場面である」。この区別により、正義の受容の重要性が顕在化

され、正義感覚は、特定の内容を有する正義原理が社会に広く受容されるようになってゆ

く端緒となる一般的条件として、「この端緒となる条件の充足がなければ、正義という社会

秩序の基本となる価値原理が広く受容され法や社会慣行の形で展開してゆく一般的な可能

性が存在しないであろう」311。

これらを踏まえ、本節では正義原理の端緒としての正義感覚の考察は正義原理の受容、

いわゆる主体的条件に焦点を合わせ、リベラルな政治文化の理念の浸透のために、市民の

能動的主体性の視点を重視すべきだと考える。ロールズは、立憲民主主義下の現代社会に

は共約不可能な善の構想が複数存在するという意味で「多元性の事実」として認めた上で、

310 「もっとも、個人と政治体制との間を正義の諸原理によって結びつけ、バランスをとろうと

しているのが、彼の議論の特徴であり、<正義感覚が人類愛と連続していることも事実である

>という言明に見られるように、彼の概念規定の普遍性志向も見落してはならない。」寺島俊

穂『政治哲学の復権——アレントからロールズまで——』(ミネルヴァ書房, 2002)242 頁。 311 長谷川晃『公正の法哲学』(信山社, 2001)235 頁。

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政治社会を統合する可能性を期待しているためである312。多元的で複雑な現代社会では、

多様な善の構想に柔軟に対応し、自ら相互の境界線を発見し、尊重する力が求められてい

る。また、われわれが「穏当な多元主義的社会」の構成員として、主体的・能動的にそれ

に取り組み、協働しながら政治社会の環境を構築し、また各種共同的社会生活を通じて得

られた体験をもとに、より自己理解と他者理解を目指す主体的市民を求めるとともに、自

主性・自律性・能動性・積極性・協調性・主体性のある市民を育成するために、その基盤

としての正義感覚を養うことも必要とされる。そこで、以下では、まず、正義感覚におけ

る主体性・能動性を一番効果的に喚起させる市民的不服従問題から既成概念の基本的構成

を明らかにし、それを踏まえ正義感覚の発達過程において諸問題に検討を加えて解明した

上で、さらに正義感覚の新たな諸条件を考察する。

第1款 「市民的不服従」からみた正義感覚の主体的構成

正義感覚の主体的構成に関して、これは、人々の共有している万人共通の感覚なのか

(common sense)、または宗教信仰だけでなく、生活慣習、社会習慣、文化伝統、学習教

育等の影響も受けて形成される自分の中の良心に従う判断力なのか(conscience)という問

題がある。ロールズによると、正義感覚は、社会において「相互の関係を規定する一定の

振る舞いの規則を承認し、その規則におおむね従って行為する人々(TJ, p.4/7 頁)」が持つ

道徳的傾向である。これは市民社会の中での自由意志の主体としての人間存在のあり方と、

それに基づく市民社会の人間関係や組織のあり方や公共性のあり方を、いわば市民共同体

感覚として示しており、公共的領域におけるわれわれにとって、社会的・経済的だけでは

なく政治的にも極めて重要な意味を持っているとされる。さらに、社会秩序形成における

法的紛争処理システムである裁判に対して、法律と市民的正義感覚との間に重要な相違が

ある場合に限り、どのような是正の方策が考えられるかということも問題である313。市民

312 多元的で複雑な現代社会に基づく生活の多様性と正義原理の受容に関わる情動的要素との

関係について、現代社会において「生活に味わいがあるかないかは、その多様性ではなく、実

に情動性の有無による。もちらん、それら 2 つが関連し合っていることは明らかである。」

と指摘される一方、情動的表出の基本的な様式は「それぞれの文化によって異なる」が、「あ

る種の基本的な情動にともなう顔の表情は、異なる文化に属する人々でもあてることができ

る」と考えられる(南博・大山正訳)『感覚と感情の世界 図説・現代の心理学 4』(講談社, 1977)205, 245, 255 頁。

313 Darley, J., 2001. Citizens’ sense of justice and the legal system. Current Directions in Psychological Science, 10(1):10-3.「共通感覚の正義 commonsense justice」という言葉は、

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共同体の多数である「コミュニティのマジョリティの正義感覚」は常にマイノリティの正

義感覚と一致するとは限らない。それは社会的安定性がどうなるのかということに大きな

影響を与える。社会的基本構造の下で生活することによって形成された人々の性格や興味

の特性といった観点から、市民の正義感覚は、不公平へと流される一般的な傾向に抵抗す

るのに十分な強さをもっている(Rawls, J., 1989.p.246. in CP, p.487)。この場合は、ロー

ルズは多数者の正義感覚を疑い、「市民的不服従 civil disobedience」への訴えに答えを求め

る。

ここで、「市民的不服従」とは、ロールズによれば、市民が「政府の法や政策」が「自由

で平等な人々の間の社会的協働の諸原理」、つまり価値尊重・規範遵守・社会的統合といっ

た複数の異なった規範的要請を可能にする正義という公共的価値を毀損すると内的に確信

した場合に、それに対しその取消又は変更を求めるとする行為——それもコミュニティの

マジョリティの正義感覚に向けた、「法に反する、公共的、非暴力的、良心的、かつ政治的

な行為」——を通じて自分の立場や確信を宣言する強い行為である。ロールズの市民的不

服従論は、彼の正義の理論と緊密に結びつき、特に多数決ルールの限界である民主主義的

手続の不完全性を補完する機能を持つものとして、正義にかなう社会制度編成の不可欠な

構成的契機である314。このロールズの市民的不服従の定義においては、次のような特徴と

条件が注目に値する。第 1 に、公共性(public)であり、それは不服従が秘密裏にではなく、

充分な予告・公示をもって公開されている事を求める。第 2 に、非暴力性(nonviolence)315であり、そこでは不服従が、脅威ではなく、法への忠誠の範囲において、他者の市民的

Norman Finkel によって提出されたものだが、一つの社会心理学的解釈であると考えられる。

これは主に法律制度に対する信仰という態度を通して法に対する服従であろう。それは、法的

システムによる非難や建前が不当であると考える市民は法制度に対して敬意を有さず、或いは

市民が法制度に敬意を失うかもしれないからである。その意味での「共通感覚正義論」に関す

る研究は既に心理学で行われていた。Psychology, Public Policy, and Law, 3(2-3), 1997.参照。 314 John Rawls, 1969. “The Justification of Civil Disobedience”, in H. A. Bedau (ed.), Cvil

Disobedience, Pegasus, Cf. pp.240-55.また TJ, pp.320-3/480-5 頁参照。 315 非暴力性について、ロールズ以外に、現代哲学者の Bedau, Carl Cohen は主張する。Hugo

Bedau, 1961, “On Civil Disobedience”, Journal of Philosophy, vol. 58; Carl Cohen, 1964, “The Essence and Ethics of Civil Disobedience”, Nation. 参照。但し、 Carl Cohen は後で 『Civil Disobedience』において考えを変えさせる。Carl Cohen, 1971, Civil Disobedience, Columbia U.P., p. 24. John Rawls, 1969, ibid.,pp.247-8; TJ, p. 320/480 頁;A. D. Woozley, 1976, Civil Disobedience and Punishment, Ethics, 86(4):324-5.

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諸自由を妨害しない限りで警鐘を鳴らして社会に警告するのである。第 3 に、 不服従は良

心(conscientious)316的である。正義にもとっているという良心的な信念が不遵守を正当

化する理由として挙げられ、可能な限り法に忠誠を求める。第 4 に、政治性(politics)317の

条件がある。それは、不服従が政治権力を握る多数派に宛ててなされるという意味のみな

らず、政治的原理によって導出されかつ正当化される行為であるという意味においても、

政治的行為だということであり、政治秩序の根底にある、共有された正義の構想に関わる

ものである。 我々は正義に従うように道徳的な義務がある。換言すれば、これは政治的義

務である。第 5 に、不確実な違法性(illegality)318があり、それは、現行制度への反対・

抵抗が仮に「違法」となされる場合において、本当に行為の違法性があるか否かに関して

ある程度の不確実性が残ることを意味する。

ロールズは多数者の正義感覚に訴えかけて市民的不服従を行う際に、以上の諸条件を守

る限り「法への忠誠」が言えると指摘した。この法への忠誠は、「市民的不服従の行いが実

際に政治的に良心的で誠実であることと、公衆の正義感覚への呼びかけを意図しているこ

と」を表現する(TJ, p.322/483 頁)。つまり、正義感覚を出発点とした「市民的不服従」

はたとえ形式上の法規範を違反したとしても、正義原理の受容からの要求に応え、それを

決して裏切らない。そうした正義原理は、リベラルな政治文化において市民達の深層心理

316 良心問題において道徳的中立性について参照、Joseph Raz, 1979, The Authority of Law,

Clarendon, p.263; Paul Harris, 1989, Civil Disobedience in Civil Disobedience, ed. Paul Harris, America U.P., pp.1-56; David Lefkowitz, 2007, On a Moral Right to Civil Disobedience, Ethics, 117(2): 205.

317 政治性について参照、H. A. Bedau, ed., 1969, Civil Disobedience: Theory and Practice, Pegasus, p. 215; Carl Cohen, 1971, Civil Disobedience: Conscience, Tactics, and the Law, Columbia U.P., pp. 2, 6; Marshall Cohen, 1972, “Liberty and Diso-bedience”, Philosophy & Public Affairs i, no. 3(spring): 288-96; Paul Harris, ed., 1989, ibid.,pp. 2-4, 13-7, 34; Jeffrie G. Murphy, ed., 1971, Civil Disobedience and Violence, Wadsworth, pp.5-8; John Rawls, 1964, “Legal Obligation and the Duty of Fair Play”, in Sidney Hook, ed., Lawand Philosophy, New York U.P., p. 3; Peter Singer, Democracy and Disobedience, Clarendon Press, 1973, pp. 136-47; David Lyons, 1998, “Moral Judgment, Historical Reality, and Civil Disobedience”, Philosophy & Public Affairs, 27(1):31.

318 市民的不服従において参照、「違法性」について、David Lefkowitz, 2007, ibid.,pp. 221-223; Paul F. Power, 1970, “On Civil Disobedience in Recent American Democratic Thought”, The American Political Science Review, 64(1):37, 41, 45; Daniel M. Farrell, 1977, “Paying the Penalty: Justifiable Civil Disobedience and the Problem of Punishment”, Philosophy & Public Affairs, 6(2):165-84; David Lefkowitz, 2007, ibid.,pp.202-33.

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にある正義感覚の端緒と一致しているのである。これは、自らの振る舞いを自主的な活動

として行い、その法的な帰結を自覚的に受け入れることを通じて市民の能動的主体性を表

現し、リベラルな政治文化において十分な道徳的確信に基づいて正義の諸原理を機能させ

られる、ということである。ロールズによれば、市民的不服従は良心的な政治的確信であ

り(TJ, p.321/482 頁)、直接に法規範に命令されても良心ゆえに従わず、多数決による法

に従う義務と不正義に抵抗する義務の衝突を個人の義務と責務という視点から扱う点で、

「法を守る義務=法への服従」より、「正義の義務=法への忠誠」の方が強い。なぜなら、

「正義の自然本性的な義務の相対的な重要性は、1 つのの重大で特別なケースにおいて指し

示されるだろう。それはまた、人びとの互いに対する尊重のみならず自己肯定感をも強め

ることを通じて、社会全体における正義の実現を促すことに寄与するだろう……[不服従]

行為の様態は厳密に言うと法に反するものの、それでも立憲体制を堅持しようとするやり

方としては道徳的に間違っていない。(TJ, pp.336-7/504-5)」

道徳的判断における感情あるいは人間の情念の役割について、ロールズは幾つかの理論

家の見解を詳しく考察した。例えばロールズは次のように言っている。「ヒュームは彼の方

法を、道徳の主題に適用することをめざしています。道徳の主題とは、次のような事柄を

説明する第 1 原理の理解に関する主題のことである。つまり、人間の信念と知識、人間の

情念、つまり感覚や情緒、願望や感情、性格や意志、(もっと狭い意味での)道徳感情(そ

れには、道徳的な判断をする私たちの能力と私たちが道徳的判断をする仕方が含まれます)、

こうした判断によって、どれほどまで私たちが行為をするように動かされるか、等々です。

(LHPP, p.164/298 頁)」また正義感覚論の基礎をなすルソーの理論についても以下のよう

に言う。「完全可能性と自己改善の能力で、私たちが諸々の能力を発達させ、またその長期

的な発達のなかで文化に関与するようになることで発展する能力である。これらの能力に

は、次のような能力もつけ加えることができます。知的な思考をする能力、道徳的な態度

と情緒の能力、他人に同一化する能力(LHPP, p.218/389 頁)」がそれであると考えている。

また、ロールズは、「ヒュームには、道徳的な是非が、人間の自然な情動——私たち人間の

本来的な(あるいは人間本性にとって生得的な)情念——すなわち愛や嫌悪とつながって

いるという考え方が見出される。……道徳的な是非は、人間性の原理とつながっている

(LHPP, p.376/681 頁)」としている。

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この点、ロールズの研究によれば、ヒュームの注意の焦点は情念あるいは情緒は「反省」

という経験を喚起するということである。反省は「感覚の印象から、観念を介して間接的

に派生することがありうる。例えば快や苦の印象のような感覚の印象は、快や苦の対応す

る観念を起こすが、その観念は「心が受けとる模写」である。するとつぎに、この快や苦

の観念は、それが魂に戻るときは反省の新たな印象を、すなわち、場合に応じて、欲望や

反感という反省的印象なり、希望や恐怖という反省的印象なりを、生み出す。これらの反

省の印象はそれ自体、記憶や想像力によって模写され、そのようにしてさらなる観念を起

こすかもしれない。(LHMP, p.35/56-7 頁)」ここで重要なのは、ロールズはヒューム研究

の影響を受けて、「情念」の視点の導入によって「理性」概念の理解を変容し、「厳密な理

性と穏やかな理性」を区別するということである。「私たちは「情念」によっては普通、欲

求の喚起に適したなんらかの善や悪が私たちに提示された場合の、感知できる烈しい情緒

を意味し、また、「理性」によっては普通、まったく同じ種類の情動ではあるが、よりいっ

そう穏やかに作用して混乱を引き起こさないものを意味する、と。それゆえ、理性主義者

の誤りは、常識的思考のなかにそのよって立つ基盤をもっている。私は、文脈に適するか

ぎりで、ときとして、ヒュームの定義する形の理性を厳密な理性と呼び、他方、理性を穏

やかな情念の不動の影響であるとする、理性についての常識的観念については、これを穏

やかな理性と呼ぶ(LHMP, p.30/63 頁)」。ロールズは「穏やかな理性」の観念を受け止め

ると同時に、穏やかな理性に含まれている、人間に与えられた感情や情念、いわゆる心理

的・身体的感覚をも同時に認め、更に推論(reasoning)による純粋な論理的思考や知的活

動を指す理性の観念にとどまらず、理性の様相を身体・感覚に加え、具体的な経験と結び

つける常識にまで拡張させ、理性を支える基盤を社会システム全体と捉える。

では、その中において正義感覚の位置づけはどうなるのか、また理性以外に情動的要素

は正義の受容において注目される背景と意義とは何なのか。既に示してきたように、ロー

ルズは正義感覚を、基本的には秩序だった社会における安定性の問題につなげ、正義感覚

は市民が正義原理を維持して秩序を方向付けるという形で、主に正義感覚を正義原理の受

容の能力として捉えている。しかし、正義感覚はただ原理を受容するのみならず、不正に

対する抵抗能力でもある。つまり、市民が「政府の法や政策」が「自由で平等な人々の間

の社会的協働の諸原理」を毀損すると内的に確信した場合に、それに対しその取消又は変

更を求めるとする主体的資格もありうる。この意味で、ロールズの議論には変容という側

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面も見られる。そこでは、ロールズの正義論、そして正義感覚論の能動的で主体的な性格

をより明確にしてゆくことは重要な意義を持つであろう。次款ではこの点についてさらに

検討を加え、その結果に基づいて正義感覚の新たな条件を論じる。

第2款 正義感覚の 2 つの側面:「正義の受容」と「不正義への抵抗」

既に指摘したように、ロールズの言う正義感覚には基本的に 2 つの側面がある。1 つは、

「相互に利害関心を持たない公平無私の合理性」を想定した上で、「厳格な遵守」を保証す

るために、「選択された原理が尊重されることを確保してくれる…当事者たちは最終的に選

択された諸原理を忠実に守るだろう(TJ, p.125/196 頁)」という意味で、「正義の受容」あ

るいは遵法精神を指す側面である。もう 1 つは、不平等や不公正への抵抗を行い、それに

対してその改正や変更を求める側面である。この特徴に関しての議論は一箇所にとどまら

ずに『正義論』以降その重要性と指摘を重ねてもいた。例えば、『正義論』の中で、正義感

覚は「抵抗様式の妥当根拠を与える(TJ, 319/479 頁)」ものだと論じた。また『政治的リ

ベラリズム』において正義感覚は「通常の不公平という傾向に抵抗するのに十分な強さを

もっている(CP, p.487;PL, 142-3)」と説いた。『公正としての正義 再説』の中で正義感

覚は「不正義へと向かう通常の諸傾向に抗うことができるほど強いものである(JF, 178/326

頁)」と考えた。こうして、ロールズは、前者では主に「正義の感覚」を中心に置いて議論

するのに対して、後者では「不正義の感覚」をめぐって経験的・実践的意味で議論を展開

する。以下では、この正義感覚の 2 つの側面をモデル化して比較した上で、正義感覚の「規

範的性格」と「実践的性格」を整合的に析出し、正義感覚の理解における複眼的思考の意

義を明らかにする。

第1項 2 つのモデルの比較:「受容可能」と「変容可能」

正義感覚を一定の主体性の感受性と結びつけて考える場合、それは「正義の感覚 sense of

justice」と「不正義の感覚 sense of injustice」といった異なった方向性をもつ。ジュディ

ス・シュクラー(Judith N. Shklar)が指摘するように、不正義の感覚は歴史的、文化的に

普遍的であり、近代的な政治的・哲学的理論の発展にとって非常に重要な要素である319。

正義に適った政治的コミュニティは、そのメンバーのために不平等の是正を行う必要があ

る。不公平の被害感覚が政治生活の中で果たすべき重要な役割を持っている理由は、次の

319 Shklar, Judith N. 1990. The Faces of Injustice. Yale U.P., Cf. pp.83-126.

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通りである。社会情勢の変化に応じて、新たな不正が起こるだろう。我々はそれらの不平

等や不公正に苦しむ人たちに同情の耳を傾けるときだけ、政治的秩序はそれらの不幸や不

平等を軽減し、不当な扱いを是正する機能を有する。不正義の感覚の表現を通じて、全て

の市民がその不満を自由に表明し、社会的不正に苦しむ人たちの声にしっかりと応える時、

我々は絶え間なく生じ続ける不正に対処し続ける為に、可能な限り最善を尽くしていると

考えられる。これらの対処は、他の不正を生むであろう320。「ある不公平を是正するために

は、別の不平等を作り出すことがあるかもしれない」。だが、公正な政治システムにおける、

変化に対処する為に生じた不正をいかに分配するかとの予期と、公的状況の変化に対応す

る養成とのギャップを埋めるための最良の方法は、「効果的かつ継続的な市民参加のシステ

ムのなかで、誰もがいつも成功しているわけでも失敗しているわけでもない321」ことを認

識することである。また、この点に関して齋藤純一の指摘するように、「正義の感覚」は、

すでに確立され、現に妥当している規範に方向づけられた感覚であり、ある行為がそうし

た規範に照らして正しいか否かを問う。これに対して「不正義の感覚」は、現下の規範か

らすれば、当事者が甘受し堪えてしかるべき「不幸」や「不運」と見なされている事柄を

「不正義」として受け止め直す感覚、言い換えれば、不運と不正義との間に引かれてきた

境界線を問い返す感覚である322。そうして区別に応じて正義感覚に関して 2 つのモデルが

考えられる。それは、前者は「正義の感覚」によって妥当とされる規範として「受容」を

可能するモデルであり、後者は「不正義の感覚」によって「正義の感受性」を喚起する規

範として、不正を「変容」に可能するモデルである。

比喩的にいえば、「受容可能」モデルのメカニズムは、正義感覚を社会の制御装置として

考えるところに特徴がある。ロールズにとって、道徳的主体には「正義感覚の能力」と「善

の構想の能力」という 2 つの基本的側面があるが、ロールズは道徳的能力の理解について、

主に道徳の拘束力或いは道徳の消極的抑制作用を主眼として考えてきた。正義感覚は、言

ってみれば、ブレーキのような運動・移動する物体の減速あるいは停止を行う装置のよう

なものである。制御装置としての正義感覚は、ロールズの強調した「秩序だった社会」の

安定性問題につながり、社会のリスクを予防・解消し、平和を維持し、安心して暮らせる

心理的帰属感を育成する生活環境を守ることを目的とした。この秩序維持機能は「法への

320 Kraut, Richard. 1992. “The Faces of Injustice . by Judith N . Shklar.” Ethics 102 (2): 394. 321 Shklar, Judith N. 1990. The Faces of Injustice. Yale U.P., p.121. 322 佐藤純一『政治と複数性——民主的な公共性にむけて——』(岩波書店, 2008)220 頁。

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服従」による法の実効性及び安定性の保障を通して、立憲民主制社会の安定化要因に転化

することで実現される。つまり正義感覚は個人の自然的態度から社会的参加、正義諸原理

の実践への移行を効果的に行う際の社会的・政治的態度として、他者あるいは社会に対す

る妨害や危険に確実かつ安全に緩和及び阻止を行うことができ、社会や周りの人へ悪影響

を与えられないように制御する機能として極めて興味深いものである。それと同時に、正

義感覚は人々の公正な社会的協働の働く仕組みの正確な理解を一層深めるものであり、そ

の理解に基づく主体的活動が期待される。

他方、「変容可能」モデルは、正義感覚はブレーキであるよりもアクセル、つまり社会的

不正を是正し、公正な条件を促進し、人類社会の自由化・平等化を加速する装置と考えら

れる。正義の義務はただ現存法律制度への服従だけでなく、正義感覚を通じて示された社

会的不正への抵抗でもある。ロールズによれば、正義感覚は、デモクラシーの道徳的基礎

及び、多数決ルールの本性と限界を追究し、「市民的不服従」「良心的拒否」といった義務

と責務を自由で平等な市民に課し、自由な社会における抵抗様式の妥当根拠を与える(TJ,

p.319/479 頁)。つまりロールズが一方で述べたように、「市民たちの正義感覚は、不正義へ

と向かう通常の諸傾向に抗うことができるほど強いものである。(JF, p.178/326 頁)」正義

感覚をもつ道徳的主体としてのわれわれは、既存の社会的および政治的諸制度に従って、

他人への不干渉を維持し、社会に危害を与えない以上に、安定性を前提としつつも社会的

制度や社会全体の意識の変革を望み、主権者である市民の政治的および社会的創造活動に

よって古い社会制度・観念が新しい社会制度・観念に交替させ、新しい社会の形態と構造

に正統性を与えるのである。

正義感覚 正義感

分類 正義の感覚 不正義の感覚

方途 正義の諸原理を受け入れる 市民的不服従、良心的拒否

様態 理想的関係、静的な状態 現実的関係、動的な作用

性格 規範的性格 実践的性格

目的 秩序ある社会の安定性の維持 不平等や不正への抵抗、社会正義の促進

モデル 正義の受容 正義の変容

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人間像 受動 能動

性質 遵法義務賦課(義務論) 不法抵抗権利賦与(権利的視点)

条件 個人の道徳心理的構造 社会の政治文化的環境

共通点 リベラルな政治文化、立憲民主制、法の支配等

第2項 正義感覚の「規範的性格」と「実践的性格」

ロールズの見解においては、様々な社会的不正に抗して正義の理論から維持されるべき

社会の基本構造の一環として法が存立する323。この意味において、「ある種の感情とその感

情が理に適っているということに実質的な規範的役割を与えない法体系などは、想像困難

なのである。324」法は様々な社会的問題を正義感覚の見地から是正する際に、一定の規範

的性格に依存しながら社会的基本財の配分における道徳的あるいは権力的恣意性の是正処

置を実践している。正義感覚という概念においては、自らがなすべき実践や行動のパター

ンを促すという意味での「規範的性格」325と、社会的現象を心理的・行動的に判明し、そ

の結果を善き社会に役立てることを目指す「実践的性格」が同時に含まれ、それぞれに応

じた「知的要素」と「情的要素」も同様に包含される。そして、それらに基づいて、正義

の規範的な意味や方向性が正義感覚の実践性を通して顕在化し、そして潜在意識から湧い

てくる正義感を感じ取ることができる。正義感覚は、理論的に正義を表すだけでなく、あ

る実際の行動に対する心情や心的傾向の表れである。前述したように、「the sense of

323 ロールズによれば、正義の理論は<私たちの正義感覚を記述するもの>である。(Cf. TJ,

p.41/66 頁) 324 Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton

U.P., p.10.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)11 頁。 325 「規範的な意味において、感情は理に適ったものたりうるという共通の判断を背景にして、

それらの判断は行われる。他の言い方をすれば、これらの感情については、問題となっている

ことについての理に適った見方を背景として、そこからどのようなことが生じたかによって、

その感情が正当なものかどうかが決まるのだ…….法における感情が理に適っているかどうか

の判断は、「常識人」を想定しながら行われる規範的判断となる。驚くべきことではないが、

その常識人の想定は、既存の社会規範に呼応している。そしてさらに、そのイメージは、規範

の曖昧さを補ったり、あるいは規範を問題視したりすることで、よりダイナミックな役割を果

たすことがある。よって、法は、既存の感情的規範をただ記述するのではなく、それ自体が規

範的であり、ダイナミックで教育的な役割を果たすのだ。」Ibid., p. 12. 同上書 14 頁。

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justice」を、「正義感覚」と「正義感」と区別して翻訳する場合において、正義感覚の実践

的性格を示す時は、「正義感」と表現した方がこのニュアンスをより正確に伝えられるであ

ろう。ここにはただ言葉のニュアンスの違いだけではなく、論理的に、正義概念に関する

受容と理解の違いも現れる。特に、社会的不正現象に対して、われわれの「不正義の感覚」

が働くのは理想的な関係または静的な状態の中に思弁的なものとしてとどまる時ではなく、

正義に関する我々の感覚は、「人間の示す反応のなかに躍動的に経験されるものとして問題

とされる」からである。それは「人間の身体のなかで脈動し、あたたかく生きている」。そ

のように、正義感覚の実践的性格は「不動の状態ではなくてプロセス(過程)であり、静

的な状態ではなくて動的な作用である。」われわれが「正義」という概念で思考するときに

は、これは「<それでは正義に反するという感じ>を生ぜしめるおそれのあるものを矯正

または予防する積極的なプロセス」を意味しているのである326。

正義感覚を活かすために、立憲民主主義的市民社会において権利の主体である市民は平

等な実践者として自立・自律し、社会的責任を負いながら行動している。全ての社会構成

員は市民として正義感覚を通じて法の制定や政策の選択などの「公共的意思決定」(特に憲

法の制定権力)に関与し、自己実現ないし自己統治を平等に実践するであろう。しかし、

不完全な手続的正義327としての多数決ルールは、差別や構造による社会的少数者または社

会的少数集団への抑圧・同化・排除を導く可能性や人権侵害立法を引き出す可能性がある

ために、少数者や少数集団から批判される可能性もありうる。この少数者による、不服従

を通した多数派の決定の拒否は、少数者と多数者との位置づけを平等に実現する為に、憲

法的に重要である。静的な面からみると構造的不平等として存在する少数者が、動的な面

での実践的平等を通じて多数派と平等に位置づけられ、よって少数者の自由が保証される

ことで社会的制度は正当化され得る。ロールズは社会のこのような動きに的確に対応して

いくために、立憲民主制における手続的正義を正義感覚による主体関与的正義の理論に切

り替える、自由かつ平等な社会に向けた市民的不服従を鍛え上げていこうとする。この点

326 Edmond Cahn, 1964. The Sense of Injustice, Cf. pp.13-4 (西村克彦訳)『正義感—人間を

中心とした法律観—』(信山社, 1992)12-3 頁参照。 327 ロールズが<純粋な手続き上の正義(pure procedural justice)>、<完全な手続き上の正

義(prefect procedural justice)>および<不完全な手続き上の正義>という 3 つの正義観念

を提示した。詳しい比較は、Cf. TJ, pp.73-8/116-22 頁。また、田中成明『法理学講義』(有

斐閣, 1994)185 頁以下参照。

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185

については、『正義論』における主体性には正当化に明確さを欠き、かつ原初状態といった

概念装置に関して現実から離れようとする姿勢がうかがわれると指摘されているが328、私

はここで以下のようにロールズの考え方を代弁しておきたい。

まず、正義感覚により「不服従の権利を行使すべきか否か、どう行使すべきか」という

選択については個別的な現実的実践問題であるとして、ロールズは「市民的不服従の正当

化(57 節)」の節においては論じていない。しかし、正義感覚は市民的不服従・良心的拒否

を通して市民の実践的平等を積極的に促すという観点から理解すれば、市民的不服従と良

心的拒否の現実的・実践的側面をロールズも考えていたと言えよう。すなわち、市民的不

服従・良心的拒否という問題設定は、論理の関係であるとともに生活実践の関係でもある

ことを捉える視点に立たねばならない。そのことは、「正義感覚をめぐるコミットメント」

という形でより明確に展開されるような、市民相互の間の承認的関係のうちに示されるこ

とになる。

次に、ロールズにおける正義感覚の問題は権利の頑なな自己主張を通した正義の結果に

のみ求められているのではない。彼が求めているのは、「平等な人々の間における協働のシ

ステムとしての社会(TJ, p.336/503 頁)」として捉えられるデモクラティックな考え方を

前提とする市民の活動であり、そこからすれば、正義感覚による市民的不服従・良心的拒

否という実践行為が正義の理論の記述をどのように変えるか、そしてまた、こうした正義

の理論の記述が市民的秩序に与える影響に関してどのような義務・責務をもたらすかとい

う観点から判断することである。「デモクラティックな社会では、各市民が正義の原理のお

のれの解釈とそれらを踏まえた上での自分の振る舞いに対して責任を有することが認めら

れている(TJ, p.342/511-2 頁)」と彼は主張する。

最後に、正当な市民的不服従であるためには、ロールズは次のような条件が必要と考え

ている。⑴つまり、不正の存在が平等な市民の諸自由の大幅で明白な侵害であること、⑵

十分な合法的な政治的異議申し立てが相当期問にわたり多数派によって無視されているこ

と、⑶「同様の場合に同様に異議を申し立てることが一般的に行なわれたとしても」「基本

法の効力を根底からゆさぶる」ことがない、すなわち、最後の手段であること、⑷深刻な

混乱を生み、正義に適う法と憲法の実効性を損害しないようにその他戦術上の適切な配慮

がなされること(TJ, pp.326-35/490-502 頁)である。その上で、特に⑵に関しては「合法

328 川本隆史『ロールズ 正義の原理』(講談社, 1997)171 頁参照。

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的な抗議やデモ」による通常の政治的異議申し立てを無限に長く続ける必要はなく、多数

派が全く動じずに冷淡であることが判明すれば、充分である。⑶については、市民的不服

従は正義の理念に合致する法と憲法に対する尊重を前提とした上で対等な説得力を備えた

権利要求の正当性を問題にするものであるから、当然に必要な配慮と考えられる。そして、

⑷をも含めて、要するに「法や憲法に対する尊重を損なうこと無しに、またそれによって

全員に不幸な帰結をもたらすこと無しに、市民的不服従が行使されうる」ことが必要だと

いうのである。この場合、ロールズによれば、「正義の原理がおおむね公共的な承認を得ら

れているものと想定される結果として、人は市民的不服従の行使を通じて、多数派の正義

感覚に訴えかけ、また当人の熟考された誠実な意見からすると自由な協働の条件が侵され

ていることを伝えるべく、公正な警鐘を打ち鳴らそうと意図する(TJ, p.336/503 頁)」の

であって、行為者が⑴から⑷までの条件を尊重する限り、無秩序の状態に陥る危険性もな

い。

無論、正義感覚による個人・社会といったレベルでの社会的コンフリクトには権利とし

て認めてもらう為の闘争を導く可能性を完全に排除しきれないと、ロールズは考えている。

しかし、政府を相手とする場合において正義感覚による正当な市民的不服従が市民間の協

和を脅かすようであるならば、責任は抗議者の側にではなく、そのような反対行動に正当

性を与える権威と権力の濫用者の側にある、と彼はいう(TJ, p.342/512 頁)。そうすると、

「同質的志向性」として批判された格差原理は、実践的平等を通して正義感覚の不一致性

を認めることで、ロールズ正義論においてはむしろ異質なものの平等が配慮されているこ

とが明らかになる329。正義感覚による市民的不服従の理論は実践的平等のもとで正当化さ

れる。そのために、人格の諸構想と実践知としての正義感覚との関係が強調される。「社会

と人格の諸構想がなければ、実践理性の諸原理は、要点を有せず、用いることもかなわず、

適用されることもないであろう…。実践理性の諸原理が構築されることがないのと同様に、

理性の諸概念としての社会及び人格の諸構想は構築されないのである。(PL, p.108)」この

329 ロールズの正義論は平等な懸念をもとにした道徳的構成として解釈されることは最も首尾

一貫している。こうした正義論は他人との共感や他の人のためのケアといった視点だけからで

なく、互いの差異を認めていくことによって成り立つ理論なのであるとスーザン・モラー・オ

ーキンは主張した。Okin, SM. 1989. “Reason and Feeling in Thinking About Justice.” Ethics 99 (2): 248.

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ような傾向性は、特に『政治的リベラリズム』を代表とした後期ロールズの理論展開にお

いてもっと明らかにされている330。

正義理論は立憲民主制に基づいて公正を原理とするものであり、正義原理の内容や条件

を認知する規範的な性格を持つと同時に、正義の諸原理をふまえて「理論から諸制度、そ

して諸目的へ」と展開し、秩序だった社会の形成を目指する意味で、公正な社会的協働に

向けられた実践的な性格をも持つ。特に、正義感覚を変容可能モデルとして解釈する限り、

不正への抵抗といった市民的不服従や良心的拒否は、その実践的性格を顕在化させる。つ

まり「「行動的シティズンシップ」や市民的不服従、人権学習、ボランティア活動などの実

践の中で」正義感覚を育成する有効な方途が見出される。正義感覚は、正義原理の受容な

いし政治的行動としての市民的不服従を通じて、認知的性格をもつだけでなく、あるべき

行為や実践を促すと言う意味で、市民の権利意識を高め、シティズンシップの形成とそれ

にもとづく政治的・社会的実践の可能性を開くと考えられる331。

第3項 正義感覚の理解における複眼的思考の意義

先の二項で述べた正義感覚の変容可能モデルによる理解と正義の規範的及び実践的性格

に関する理解にはいかなる意義があるのであろうか。それは第 1 に、ロールズ正義理論の

イメージを変えるという意義がある。すなわち、ロールズ正義論は義務論的正義論である

と共に権利論的正義論でもある。規範的側面から考察すれば、以上述べたような「受容」

330 前期ロールズと後期ロールズとの具体的な相違について、Rhonheimer の”Rawlsian Public

Reason, Natural Law, and the Foundation of Jusitice: A Response to David Crawford”とう

い論文を参照。彼の考えを簡単にまとめて、前期ロールズを代表した『正義論』と、後期ロー

ルズを代表した『政治的リベラリズム』に応じて、それぞれのデーマと問題意識が違う。『正

義論』は、正義に適った社会についての一定の構想を説明し、そのような正義の見方はどのよ

うに見えなければならないのかと考える。それに対して、『政治的リベラリズム』は、リベラ

ルな伝統における立憲民主制という政治的枠組についての理論であり、道徳的・哲学的・宗教

的な諸教説によって深刻にも分裂したままの自由かつ平等な市民からなる正義に適ったまた

安定した社会が存在するのは、如何にして可能であるのかと考える。つまり、社会的事実の多

元性を認めて、制度の安定性を達成する政治的な正義についてのあり得る多くの諸構想の中の

たった一つにすぎないものであることを強調する。ロールズの説明について『政治的リベラリ

ズム』4 頁、『万民の法』(中山竜一訳, 2006, 岩波書店)256-8 頁を参照。Rhonheimer の議論の詳しい内容については Rhonheimer, 2009, International Catholic Review 36(1):138-67 を参照。

331 小林建一「社会教育における「市民教育」の可能性–「正義感覚」の役割と育成の問題を中

心に」東北大学大学院教育学研究科研究年報第 53 集第 2 号 110 頁(2005)。

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の考えを、私は正義感覚による道徳の諸拘束(感)という消極的義務と呼ぶ。これは命令・

禁止・許容の指図方式として、義務賦課規範として位置づけられる。それに対して、不完

全な手続きとしての多数決によって導いた法に従う消極的義務に対して、不正義に抗うと

いう「変容」の見解を正義感覚による積極的義務と呼ぶ。この場合の正義には、権利への

主張を保証するための積極的機能を果たすものとして授権を目指す権能付与規範という位

置づけが与えられる。そして、正義感覚の能力はただ「最終的に選択された何らかの原理

を忠実に守るという形式的能力」、つまり市民の能動性を制限し、又は市民に遵法義務を課

する義務論的要求であるのみならず、その一方ではむしろ、ニーズを主張し権利的要請が

できる権利論的な実践的能力でもある。これは「当該社会において支配的であった多数者

集団に対抗して独自の社会的あり方を追求し、」そして「社会的少数者を抑圧的な体系から

保護し、各人固有の価値観と自律的な生活の追求、そしてそれに対する等しい配慮の要求

を発展させ、」さらに「社会の支配携帯を変革しようとする」ものである332。

第 2 に、ここで考えられるモデル変換は、正義感覚の深層構造を明らかにするものとし

て、個人主義的心理よりむしろ政治文化的環境における視点によりもたらされる。ロール

ズは、正義感覚のメカニズムを解明するために、方法論的個人主義を突き詰め、かつ個人

内の心理的諸要素と過程にその原因を求める傾向が非常に強い。要するに、政治的正義構

想の立場から、ロールズは道徳心理学よりむしろ正義感覚を政治心理学研究において考え

ている。しかしながら、そもそも人間の正義感覚は生物的要因、心理的要因、地理的要因、

社会・経済的要因、文化的要因などの諸要因により発生し、正義観念とその物質的・精神

的環境とのかかわりにおいて規定するものである。正義感覚は少なくとも言葉や感覚だけ

でなく、悪法や権力者の不正に対して行動をもって「いつでも、どこでも、だれでも」抵

抗する姿勢を可能にするものである。それ故、正義感覚は個人主義的心理というよりもむ

しろ政治文化的環境よりもたらされる深層構造と考えた方がいいだろう333。

政治文化的側面から捉えられる正義感覚は、既存の社会的・政治的諸制度および個人主

義的心理の枠組みを乗り越え、様々な歴史的事例においても存在している。例えばユグノ

332 長谷川晃「統一テーマ「多文化時代と法秩序」について」法哲学年報 1996 年 1 頁。 333 ハイエクによれば、「正義感覚」概念の抽象性を 1 つの文化の特定の側面として、その文化

の文脈の中でしか批判的に検討しない。F. A. Hayek, 1976, Law, Legislation and Liberty, Volume 2: The Mirage of Social Justice. Routledge & Kegan Paul, pp.25, 39-40.(篠塚慎吾

訳)『社会正義の幻想』(春秋社, 1987)25, 39 頁。

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ー戦争、名誉革命、アメリカ合衆国の独立、フランス革命等の社会改革運動などは抵抗の

正当性の根拠を正義感覚に求めており、そこでは経験的に共有された公共的政治文化にお

いて実定的抵抗権が民主主義的政治制度によって肯定され、法律によって規定されるより

も前に、正義感覚はずっと社会的生活の実践として働いている。そしてそれはさらに遡っ

て中世の自然法論の時代から、「超実定的抵抗権」としての正義感覚は良心の問題として、

人々の日常生活において大きな役割を果たしている。正義感覚の政治文化は、不正義への

抵抗の伝統や慣習ということである。これはただ個人的心理的なもののみならず、一定の

伝統や慣習などの歴史的・宗教的・教育的・経験的要素に基づいた伝統的正当性を伴うも

のでもある334。ただし、ロールズの言う市民的不服従は正義に適う状態における、立憲民

主制を前提として論じられており、そうした抵抗は公共的・非暴力的・良心的・政治的な

違法活動であり、法を遵守した抗議活動である。市民的不服従としての抵抗は法を無視し

た抵抗との境界にあるとしたら、第 1 に、抵抗は法や政策を変えるために、他者からの理

解を求める公共的なものに訴えていくというものと、第 2 に、抵抗は世俗的な偏見や社会

的な差別を是正するために、公共性と政治的理由のみならず、個人性と文化的理由も含ん

で、社会の注意を喚起し、連帯・尊重・寛容・共生などの意識啓発を図ろうとしていたも

のとの 2 つに分かれるであろう。そして、ロールズは、主に 2 つ目の意味で、市民的不服

従と区別して良心的拒否を考えている。ロールズは、正義感覚をもって良心的拒否を考え

334 政治文化、とりわけリベラルな政治文化の発達について、「リベラリズムは多元論の恒存と

いう不可避の歴史的事実を真正面から肯定するところから出発する。」この事実は、十六、七

世紀の宗教戦争の経験にある。また、絶対君主の王権を制限しようとする、貴族ならびに中産

階級の王権との抗争とその結果である立憲主義の政治型態を産み出すことにある。それ故以上

が我々の政治文化を形成する歴史的状況だとすれば、「あるべき社会の基本的構造という問題

について、この状況の中から社会の基本原理に関する合意の基礎が見出されうるか、というの

がロールズの設定している問題なのである。」さて、「ロールズがその中に自己を定位してい

る歴史的経験とは以上の節面からすでに明らかなとおり西欧人類文化のあるべき方向を示唆

するものと見なして、かれの志向を普遍的なものとして検討することは意味のあることであろ

う。そうすると、自由主義的民主主義の公共的な政治文化の中に、われわれが見出す社会構成

の基本原理ならびにそれと連結する人間観は何であろうか。」ロールズの念頭に置いた公共的

政治文化はとは、「ヨーロッパ人の苦悩と闘争の産物としての政治的社会的諸制度にとどまら

ず、ホッブズ、ロック、ルソー、カントなどの哲学者の思索のうちに結実した人間観や社会観、

さらにはアメリカの独立宣言と憲法のような政治的諸文書のうちに盛られた志向をも含むも

のである。」岩田靖夫『倫理の復権——ロールズ・ソクラテス・レヴィナス——』(岩波書店, 1994)52-3 頁。

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る時に、公共理性や理由とは限らず、人は主体性に立脚して、個別的善の目標や特定の背

景的文化に即して自分らしい生き方を追求していくことのできる環境を育てようとしてい

た。公正な社会的協働と両立する限り、ロールズはできるだけ最大限に「自由で平等な市

民」になる条件を保障し、主体的正義論を拡張・実践させるための要件を理論的に提示し

ている。

第 3 に、なぜ、正義感覚を道徳心理学・社会心理学よりむしろ政治文化的なものと見た

ほうが有意義なのだろうか(Rawls, J., 1985)。確かに、心理学的要因は社会的・政治的諸

制度や法律・政策並びに権力者に対する嫌悪感や不満や拒否に、短期的・瞬間的な反発を

動機づけるものであり、不正義に抵抗する欲求やパワーを触発する最初のきっかけとして、

私は積極的に評価したい。しかし、触発された動力源は一回的なものでなく、維持する必

要がある。そして、その抵抗の意欲やパワーを維持する中長期的な動力はどこからくるの

かと言えば、その正義感覚の背後にあって正義感覚を支えているものは単に変動しやすい

心理的なものではあり得ず、その維持動力は政治文化に根ざしていると私は考える335。心

理学的要因が変動しても政治文化が変化しない場合、変動後の心理的要因は政治文化との

接点を持たず根付きにくいものであって、再び変動する可能性が高くなるので、正義感覚

を生み出すことができない。しかしながら、政治文化による正義感覚はその政治文化に基

づき人々に数世代にわたって共有されているものであるので、既存の社会的および政治的

諸制度以上に変化しにくいものでもある。正義感覚は心理的構造と不即不離の関係にある

ことは確かではあるが、正義感覚はそれ自体が政治社会の変容モデルとして存在している

ことによって、単に既存の心理的構造を温存するのではなく、場合に応じて心理的構造を

逆転させもすることに注意する必要がある。

第 4 に、われわれの正義感覚の成熟度あるいは正義感覚の強度は、自分達の社会の経済

的・政治的状況、文明文化のレベルに関わり、それが属する政治文化的環境によってかな

りの影響を与えられる。もっとも何が平等で、何が平等でないかの感覚は歴史的・文化的

に変化する。この変化の過程が文化の成熟あるいは退廃過程である336。要するに正義感覚

は、法や政策に反省的な視線を向けることのできる市民と成熟した政治文化を背後にもつ

335 Cohen, G.A. 2010. “Critical Notice.” Canadian Journal of Philosophy 40 (4): 669–700.

Mohr, Richard D. 2005. “Some Conditions for Culturally Diverse Deliberation.” Canadian Journal of Law and Society 20 (1): 87-102.

336 堀川哲「マルクス主義と稀少性」経済と経営 41 巻 1 号 23 頁(2010)。

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か否かによって、その成熟度を大きく変える。例えば、政治文化の「型」や自由民主の環

境と専制独裁の環境、個人中心の環境と集団中心の環境、それとも多元文化の環境と単一

文化の環境などに従って比べれば、われわれは正義感覚の成熟度を概して比較可能な事実

として直観に認識することができよう。一定の政治文化が正義感覚に影響を与えるという

仮定が政治文化の条件として存在するのである。この観点からすると、自由民主や個人中

心や多元主義の政治文化における正義感覚の成熟度は、専制独裁・集団中心・単一文化型

のそれに比べて高いと言えるだろう337。

上記の複眼的考察を踏まえつつ、正義感覚を持つ人間の主体性に焦点を当て、正義の受

容のみならず、不正な法や政策、他の社会的不正義や不平等に対する抵抗感と抵抗力、ま

たそこに現れた人間の主体性の特質について考察を加え、正義感覚によって問われた人間

の主体性のあり方を次款以降で解明したい。そのために、まず正義感覚を成り立つ主体性

的条件の背景として、市民権の意義と正義感覚の発達について検討を進めることとする。

第3款 正義感覚の基礎となる相互主体性:「対等な市民性」と「能動的志向性」

正義感覚という概念は、社会システム全体の中で正義感覚に関わるバックグラウンドが

どのような意義をもつのかという形で問われるべきものである。このバックグラウンドた

る政治や経済や文化的現象との関係で、いかにして正義感覚を正しく捉えるのかという問

題は、ロールズによれば、正義感覚は自由で平等な市民である多数派の正義感に訴えるよ

うに定式化され、こうして正義感覚という概念に依拠しながら社会の基本構造の一環とし

ての法のあり方を考察していくことで明らかにされる。すなわち、こうした定義された正

義感覚に関わる問題は、第 1 に、それらを基にしながら市民的な相互主体性は、市民(権)

338に関する考え方の違いによって、正義感覚の主体性について新たな理解を求める発見的

337 例えば、シュモラーは歴史の連続性において正義感覚を重視し、急激な革命は必ず暴力と独

裁へと再び転化することを見抜いた。「財産や所得のあまりに大きな不平等や、あまりに激し

い階級闘争は、時とともにあらゆる自由な政治制度を否定することとなり、再び絶対主義的統

治の危険をもたらすことになる、とわれわれは信ずる。」Schmoller, Gustav, 1890, Social- und Gewerbepolitik der Gegenwart: Reden und Aufsätze, Duncker & Humblot. S.12. 山口宏

「ドイツ福祉国家思想の源流と現代性」社会と倫理第 22 号 113 頁(2008)参照。 338 「広辞苑」によれば、市民権とは、「⑴(citizenship イギリス)人民ないし国民の権利。人

権または民権に同じ。また、公権とも同義に用いる。⑵市民としての行動・思想・財産の自由が

保障され、居住する土地や国家の政治に参加することのできる権利」である。しかしながら、

市民権をめぐる理解は、国民国家という統治単位の有用性が疑問視され、国際化

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意義を有しているのである。第 2 に、正義感覚をもちうることによって特徴づけられるよ

うな市民は、基本的に多元的で多様な価値観を持っている。単に個人の価値観が多様であ

るのみならず集団的・文化的な価値観の多元性もまた生じているのであって、そこから発

生する異質な価値の衝突は、正義感覚の主体性が拡大してゆくとともに、深刻化する傾向

性がある339。第 3 に、正義感覚を通した様々な法的アクターによる判断実践においては、

結局のところ、法実践に一定の共通性を見て取るのは我々の行為によってである。現代に

おける市民の観念をもとにして正義感覚を定立して構築するときに、その正義感覚の共通

性について、市民がその内外からの分断の圧力をどこまで堅持できるのか、あるいはその

制度的インテグリティがどの程度において、どのような範囲で維持できるのかといった問

題がある。つまり、正義感覚は政治道徳的な価値との関わりという形で議論を動かし、特

に市民間に成立しうる相互主体的な視座から捉え直す形で編み出されたものである。

ここで関連するのは、市民権の意義である。市民権概念について、政治学においては、

基本的に三つの理解モデルがあり、とりわけアメリカとヨーロッパの相違が説かれている

340。アメリカは移民によって構成される国家であって、移民は、citizenship(市民権)が

認められ、政治的意思決定プロセスに参加できるようになることによって nationality(国

民性)を獲得していく。したがって、アメリカでは citizenship から nationality へと発展

するわけだが、現在、基本的には、citizenship は nationality と等しいものであると理解さ

れているといってよい。他方、ヨーロッパ諸国は、そのほとんどが植民地を有していた。

たとえばイギリスは、本国から遠く離れた植民地の人々にもイギリス国王の臣民として「市

民権」を与えてきた。植民地の人々は、自分たちの国家に帰属したままイギリスの市民権

を与えられてきたため、ここでは、nationality と citizenship は異なる概念である。ヨーロ

(International)とは異なる意味を有するグローバル化(Global)が説かれている現代にお

いて、世界の諸地域毎に異なっている。 339 この事情に対して、次のような論点がある。正義感覚また正義原則は偏愛や好悪、多元的価

値観といった何らかの選好が無ければ意味が無い。さもなくば、正義の議論は成り立たないの

ではないかというものである。つまり、選好と多元主義の出現は、正義と不正義の両方の可能

性を生じさせるというのである。Lister, A., 2007. Public Reason and Moral Compromise. Canadian Journal of Philosophy, 37(1):27.これについては、我々は公共理性に黙って従うこ

とができるかどうかの問題に関連している。本論文第2章に参照。 340 市民の問題の意義について、日米間市民概念の相違を比較する視角から、長谷川晃「市民の

時代の公共哲学」今井弘道編著『「市民」の時代』(北海道大学図書刊行会, 1998)159-198頁参照。

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ッパ諸国の植民地における市民権制度は、植民地支配が終わり、国家の独立を回復した後

もそのまま残されている場合がほとんどであり、旧植民地の人々のほとんどは、現在でも

かつての宗主国の市民権を有している。ちなみに、中国や日本といった東アジアにおける

市民権はどのように理解されているだろうか。とりわけ日本では、そこに住んでいた人々

によって国家が形成され、近代国家となってからも、政治的意思決定プロセスへの参加よ

りも天皇陛下の臣民であることが重視されたことから、日本国憲法が制定されるまではナ

ショナリティのみが認められる状況であった。日本国憲法により政治的意思決定プロセス

への参加が保障されたが、それは国民の権利であると説かれていることから、結局、日本

において市民権はナショナリティとほぼ同義である。つまり、「国民たる身分」を持つ者の

中にも、政治社会への参加資格を持った「能動的国民の身分」という階層秩序が成立しな

ければならないのである341。

以上のような市民権理解からすれば、「シティズンシップ」をめぐる問題を以下のように

指摘できよう。すなわち、現代社会には、市民権という概念にも包摂されていない法的ニ

ーズをもつ権利主体がある、ということである。「シティズンシップ」は、国民のみが政治

的意思決定プロセスに参加できるとする国民国家に対し、難民や移民の参加も認めるべき

だと主張する文脈においてしばしば用いられるが、市民という属性は国民以上に抽象的な

ものであり、居住国の政治的意思決定プロセスが、(ほとんどがそうであるように)民主的

である場合、民主主義に参加する要件として、国家間というよりもグローバルな普遍的な

内容が求められている。したがって、現代国民国家における唯一の規範的身分である国民

であるとともに、民族、社会階層、家族、言語、宗教、職業、性差(ジェンダー)等の多

様な具体的属性を有する「人」に保障されるべき権利について、「シティズンシップ」とい

う概念を導入する意義は、それほど大きくないように思われる。

それは、より具体的には、次のことを意味する。つまり、すべての国民を等しく尊重し、

すべての国民に等しく自由を保障することを基本原理とする自由主義的法秩序においても、

国民から女性が、あるいは民族的マイノリティが排除されてきた歴史的経緯がある。多様

な具体的属性、あるいはその差異に基づく権利要求(ニーズ)、たとえば、先住民等の民族

的マイノリティの権利要求(ニーズ)は、平等、人権、そして社会的正義実現の問題であ

341 遠藤比呂通『不平等の謎——憲法のテオリアとプラクシス』(法律文化社, 2010)171 頁参

照。

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194

る。こうした多様なニーズを同一性と差異、あるいは普遍性と個別性を両端に据える法理

論のどこに位置づけるか。問題なのは、これはどのように合理的主体という啓蒙主義的概

念を前提とせずに行うことができるかということである。合理的主体は、誰かが中立性、

歴史や歴史発展または伝統に無関心または無関係な位置を占めていると言われ、常に情熱

を理性のコントロールに服させることのできるようになっている。

われわれは文明化したあらゆる社会の構成員として、「自分たちを一定の政治的地位——

民主制のもとでは平等な市民たる地位——を有する構成員として理解し、この地位が自分

たちの社会的世界との関係にどのように影響するかを理解することを可能とする(JF, p.3/5

頁)」ようなシティズンシップ論、いわゆる市民的徳性論を必要とする。こうしたシティ

ズンシップ論に関する議論においては、市民が相互にいかなる倫理的立場によって、いか

なる正義感覚を持つべきか、ということが問題とされると共に、いかなる形でシティズン

シップ教育が要請されるか、つまり、正義感覚の育成により、「市民的不服従」や「良心

的拒否」や「人権学習」等といった行動的シティズンシップを可能にする市民的主体性が

要求される。ロールズによれば、近代以降のシティズンシップの条件の一端として、「正

義にかなった社会においては、<対等な市民としての暮らし>(equal citizenship)」、す

なわち平等な市民たる地位を確保しなければならない(TJ, p.3/6 頁)342。「対等な市民的

主体性」というスタート上の地位を選んだことを通じて、「背正義の二原理は、自然的偶

発性および社会的運/不運の恣意性を緩和・軽減しようと企てるものである」という理念

がかなえられる基本的条件が確保される事によって、個人に対する分配上の効果は除外し

て、<共通の利益=自由で平等な市民間の互恵的利益>の原理を適用することが許される

(TJ, pp.82-3/129-30)。さらに、この地位に基づいて、社会システムの評価を可能な限り

下そうとする(TJ, p.84/133 頁;JF, 22/37 頁)。そうした市民的主体性の視点からみた政

治的諸価値は、「判断・推論・証拠という基本的な概念を適切に用いることだけなく、常

識的知識の基準及び手続、並びに、異論がない限り科学の方法及び結論に従うことに示さ

れるような、道理に適うことや偏見のなさに関係する諸徳性も含まれている。これらの価

値は、市民たる地位の理想を反映するものである。(JF, p.92/162 頁)」

342 ロールズによれば、「平等な市民たる地位」とは「誰も自由で平等な人格としてもつ地位」

であり、これは「政治社会における基本的な地位でもある(JF, p.132/232 頁)。

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次に、正義感覚の獲得に問われた人間の主体性について考察する。ロールズは正義感覚

の発展が、さしあたり三段階からなるものと考える。この三段階は、正義感覚を解明しう

る心理学的解釈による「罪の感情の三形態」に基づいて構成される。そこでは権威の罪、

協同の罪、そして原理の罪という順序で発達を続けるのである343。第 1 段階を「権威の道

徳性」と呼ぶ。典型的には家族制度における幼児の従属行為にみられる道徳性である。知

識と理解力を持たない幼児は理由と理性によらず、両親の命令の合理性を疑わず、権威を

もつ人々からの指針、命令を評価できないまま従う。それは第 1 の心理法則として「両親

の方が先に、はっきりと分かるように子どもを愛する場合、子どもは両親を愛するように

なる(TJ, p.406/611 頁)」と想定される。道徳的発達の第 2 の段階は「連合体の道徳性」

の段階に相当する。例えば、家族、学校、会社などにおける集団での道徳性であり、国民

共同体の総体さえも含んでいる。正義に適った連合体のうちに仲間意識と相互信頼が生み

出されるのだとすると、その際どのように愛着が生じたかについては、第 2 の心理法則が

想定される。すなわち、「第 1 法則にしたがって愛着を習得することで仲間意識に向かう能

力ができたならば、またその人の仲間が明確な意図をもって義務、責務にしたがって生活

するならば、その人は信頼、信用の感情とともに仲間に対する友情を発達させる(TJ,

p.411/616 頁)」。最後に、人は原理そのものに愛着を抱くようになり、正しい人になりたい

という「原理の道徳性」の段階に至る。政治的な事柄に関心をもつ市民や、立法、司法の

仕事をしてきた人は、正義の基準を適用、解釈することを求められており、競合する複数

の要求の間に理に適ったバランスをとることになる。そこで、第 3 の心理法則が受け入れ

られる。すなわち、「愛と信頼、友愛と相互信頼が第 1、第 2 の心理法則により生じた場合、

私たちや、私たちが気に掛ける人々が確立し存続している、正義に適った制度の受益者で

あると認識することを通じて、それに対応する正義感覚が生じる(TJ, pp.414-5/619 頁)」

という段階である。それは愛や信頼といった低レベルの道徳情操を下位レベルの組織(例

えば家族や団体)への愛着の気持ちとして理解されると推定される。しかし、彼らが無知

のヴェールの下で選択いたなら、正義感覚は正義に関する一般的かつ抽象的な原則に基づ

343 罪の権威、協同、原理といった言葉の代わりに、彼は『正義論』においてそれらを道徳性の

3 つの異なる形態として発達段階を指している。(Rawls, J., 1963. p.286. in CP, p.100/227頁。TJ, 70-2 節)

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いて行動する端緒となることは特に注目すべきことである344。つまり「その個人は、自分

やおのれが世話を焼いている人たちがそうした制度編成の受益者であることを認める限り、

それに対応した正義感覚を習得する。(TJ, p.429-30/643 頁)」

上で述べてきたロールズの正義感覚の発達に関する議論の流れは、「愛着」の拡大とでも

言うべきモデルを軸に概観することができる。第 1 段階の「権威の道徳性」における「両

親と子どもの相互の愛と信頼」および第 2 段階の「連合体の道徳性」を達成するための「構

成員が所属する連合体への愛着」は、第 3 段階の「原理の道徳性」に移行する。特定の個

人や家族が参加している連合体への愛着から正義感覚が独立するといって、それが愛着モ

デルが消え去るということは意味しない345。なぜなら、「原理の道徳性の内部にあっても、

依然に罪責や憤慨、その他の道徳感情を生じさせた違反は、今や厳密な意味においてそう

した感情を引き起こす」からである(TJ, pp.418/623 頁)。そうであるならば、正義感覚の

発達や道徳的情操(sentiment)の形成ならびに正義感覚能力の発達に向けての理解上の留

意点といった側面から、『正義論』における第八章「The Sense of Justice」の日本語訳「正

義感覚」は「正義感」とすべきではないだろうか。なぜなら、正義感覚という言葉からは、

静的な形態論的記述として論理的分析を把握する響きがあり、それに対して「正義感」と

いう言葉からは、動的な過程論的素描として実践的行動を重視するニュアンスがある。但

し、正義感覚は正義への感覚(sense)という自己中心面にアクセントを置き、一方で正義

344 Sacconi, L. & Faillo, M., 2009. Conformity, reciprocity and the sense of justice. How

social contract-based preferences and beliefs explain norm compliance: the experimental evidence. Constitutional Political Economy, 21(2):175.

345 愛着について考察することは、「世界の不安定な側面——他者、私たちが欲する物質的な財、

社会的・政治的な状態——への愛着が私たちの感情生活のなかでどれほど大きな役割を果たし

ているかを知るのに良い方法である。そのことに対応して、感情生活への考察は、恐怖や悲嘆、

怒りといった感情が、人間の生の航路——その生とは、自分では十分にコントロールできない

ままに重要な出来事が生じてしまうような世界の中にいる傷つきやすい動物の生命である

——を描き出すのにどれほど大きな役割を果たすかを知るのに役立つのである。」なぜ私たち

が不安感を抱えるかは、「私たちの社会性と切り離せない。そして不安感と社会性は、私たち

が持つ感情的な愛着心への傾向からも切り離せない。もし私たちが、自分たちを自足した神々

であるかのように考えたなら、私たちは、同胞たる他の人間に自分を結びつけている絆を理解

し損ねてしまう。そのような理解の欠如は無害というわけではない。人を理解することの欠如

は、社会性からの害に満ちた逸脱を生み出す。」Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., p.7.(河野哲也訳)『感情と法』

(慶応義塾大学出版会, 2010)8 頁。

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感は正義への感情(emotion)という他者関与面にアクセントを置くならば、感覚と感情と

の差異とも言えよう346。

ある論者によれば、ロールズは、正義感という概念を通じて人間性の感情的発達

(emotional development)の重要な側面を詳細に説明する347。つまり「正義感覚を欠き……

そのことによって人間性の観念に含まれる一定の基本的な態度や能力を欠いているという

事実は、……重要な真理である。正義感覚をもたないこと……それは我々の人間性の一部

を欠くことでもあるだろう。(Rawls, J., 1963.p.300. in CP, p.112/244 頁)」ロールズによ

れば、正義理論の根底にある自尊という基本財は、感情の視点から捉えれば、「特別な種類

の善に対して与えられる衝撃によって喚起される情緒」であり、「自己肯定感の基礎を確立

する人生計画を遂行する」機能をもつ(TJ, p.388/581 頁)。こうした正義の感情は「自制

という善を達成しそこなったことを示しており、自分自身には価値があるという感覚を確

認する」のに役立ち、しかも、「これらの感情は正と正義の原理を私たちが受け入れている

こと」を表明し、われわれの個人的状況において対照することで正義の諸原理を理解する

条件を提供している(TJ, p.391/585-6 頁)。また、正義感覚の役割を達成するための道徳的

情操が必要とされる(TJ, p.401/600 頁)。その「道徳的情操の情緒的な基礎」は「私たち

の生来の知的および感情的能力」によるものであり、「他者に対する生来の共感を有し、仲

間意識や自制に由来する喜びへの生得的な感受性」から得られるものである(TJ,

pp.402-3/602 頁)。

ここでは、正義感覚の獲得による正義原理の受容過程をロールズの道徳的心理学の方法

で簡単に説明した。ロールズは正義感覚の獲得において主体性的要素、つまりに正義感覚

発達の担い手とその仕方を重視し、正義感覚の獲得による正義原理の受容に伴うのは、人

間的主体性の実現であるということが強調される。つまり、われわれが公共理性及び正義

感覚に従って、内在的・外在的諸因素によって「自分らしい生き方」を妨げられている諸

条件を克服して、他者理解のレベルでも自己理解のレベルでも、自分本来のあり方を知り、

正義に志向する意志で判断・行動して、自ら責任を取るという人間的主体性を育成すると

ともに、われわれが正義の受容過程においてその市民としての主体性を持つことから可能

となる、と指摘しているのである。主体性の欠如が起これば、人間が自主性や自発性をな

346 松嶋岡誠「正義感覚に関する法哲学的考察」創価法学 35 巻 1 号 105 頁(2005)参照。 347 Karni, E. & Safra, Z., 2002. Individual Sense of Justice: A Utility Representation.

Econometrica, 70 (1):263.

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くし、自律と自立の能力を発揮できず、自信心と自尊心の喪失に伴う様々社会への適応障

害を起こし、当事者意識や責任意識等を感じなくなってしまう。以上のように、道徳的な

判断をなす正義感覚の基礎である人間の情念、つまり感覚や情緒、願望や感情を分析した

結論をふまえて、道徳的な判断をなす正義感覚の条件、特にその主体性的側面に注目して

さらに考察してみよう。

第4款 相互的主体性の背後にある注意点

以上のロールズの正義感覚論を踏まえて、特に留意すべき点を挙げると同時に、そこに

浮かび上がる「正義感覚の主体的条件」という課題の解決のために、以下、六つの注意点

に言及する。

第 1 に、正義感覚の主体の範疇について、正義感覚の主体的要素は、「万人の正義感」と

いう普遍的正義感覚と、「社会の多数者の正義感」と言う一般的正義感覚の大きく 2 つに分

かれる。しかし、「万人の正義感」は理想的形態に過ぎないために、結局のところ、ロール

ズは正義感覚を「コミュニティのマジョリティの正義感覚」として定式化した348。一方で

は、「コミュニティのマジョリティの正義感覚」に向けた、「法に反する、公共的、非暴力

的、良心的、かつ政治的な行為」を通じてロールズはシティズンシップの次元における「市

民的不服従」を捉え、正義感覚を或る社会の市民共同体の共通感覚として理解する。ここ

には、2つの問題が含まれている。まず、シティズンシップに立脚した正義感覚論につい

ては、社会の権力関係において構造的少数者の尊厳と地位の平等化を目指すマイノリティ

権利運動や多民族・異文化共生政策に立つ多文化主義349、ジェンダーの視点から批判を展

開してきたフェミニズムといった視点350から、構造的少数者や性的少数者、ネーションで

ある少数民族や障害者などの様々な文化的背景を有する主体について、シティズンシップ

概念の中で平等な市民権を得ずに等しく配慮されていないという批判が妥当する。更に、

グローバル化の進展に伴い、地球市民であるグローバル・シティズンシップも注目され、

348 普遍的主体性の不可能について、参照 Greene, JD. 2002. The Terrible, Horrible, No Good,

Very Bad Truth About Morality and What to Do About It. http://www.wjh.harvard.edu/ ~jgreene/GreeneWJH/Greene-Dissertation.pdf. p.260

349 Chandran Kukathas, Philip Pettit, 1990, Rawls: A Theory of Justice and Its Critics, Stanford U.P.,(山田八千子・嶋津格訳)『ロールズ「正義論」とその批判者たち』(勁草書

房, 1996)第 5・6 章参照 350 例えを参照せよ。Iris Marion Young, 1990, Justice and the Politics of Difference,

Princeton U.P.

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権利保障の多元重層化とでもいうべき状況が生じている351。このようにして時代の変化と

共にその深化がさらに進んでいる権利保障の体系の中で、これらの新しい視点に応じて、

シティズンシップにおける正義感覚の主体の多様化や感覚育成方法の差異化などの問題に

焦点を定め、そこには社会の中で正当に処遇されるべき重要なものがあると認める必要が

ある352。

この点との関わりで、ロールズは「諸人民の法」の構想において、合理的で正当的な立

憲民主制(a reasonably just constitutional democracy)、共感覚の連合( common

sympathies)、道徳的本性(a moral nature)といった三つの特徴を備えた(LP, pp.23-5/31-4

頁)、「国民国家を超えて世界各地に生活している自由で民主的な市民の間で妥当する正義

(LP, pp.121-2/177-8 頁)」を元にしたポスト国民国家の理論に基づき、上述の問題を論じ

た。市民権の主体としてのシティズンシップの差異の承認は自文化中心主義

(ethnocentrism)353の排除や異文化理解および人権の擁護に結びつく。これらに対しては、

市民の「普通に実効的な正義感覚」が答えを与えてくれるだろう(JF, p.8/13 頁)。しかし

351 例えを参照せよ。Robert Amdur, 1977, “Rawls' Theory of Justice: Domestic and

International Perspectives”, World Politics, 29(3):438-61; Brian J. Shaw, 2005, “Rawls, Kant's Doctrine of Right, and Global Distributive Justice”, The Journal of Politics, 76(1):220-249; 佐々木寛「「グローバル・シティズンシップ」の射程」『立命館法学』5・6 号

(333・334 号):681(2141)-709(2169)頁(2010)。 352 長谷川晃「法と権利保障」道幸哲也・加藤智章編著『市民社会と法』(放送大学教育振興会,

2012)32 頁参照。 353 自文化中心主義によれば、自分が所在するグループは全ての物事の中心であり、他の全ての

存在はそれに合わせて調整・参照・評価される。こうした自文化の中心性は常に優越性に関連

して導出しているが、2 つの概念の区別を注意する必要がある。詳しい参照:Robert King Merton 1996, Piotr Sztompka. ed. On social structure and science. University of Chicago Press. p. 248; Albert J. Lott, Bernice E. Lott, 1963 “Ethnocentrism and Space Superiority Judgments Following Cosmonaut and Astronaut Flights”, The Public Opinion Quarterly, 27(4): 604-11.自文化中心主義のリスクと問題について、William R. Catton, Jr., Sung Chick Hong, 1962, “The Relation of Apparent Minority Ethnocentrism to Majority Antipathy”, American Sociological Review, 27(2): 178-91; David A. Hamburg, 1986, “New Risks of Prejudice, Ethnocentrism, and Violence”, Science, New Series, 231(4738): 533; Peter R. Grant, Rupert Brown, 1995, “From Ethnocentrism to Collective Protest: Responses to Relative Deprivation and Threats to Social Identity”, Social Psychology Quarterly, 58(3):195-212; Cindy D. Kam, Donald R. Kinder, 2007, “Terror and Ethnocentrism: Foundations of American Support for the War on Terrorism”, The Journal of Politics, 69(2):320-38.

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200

ながら、この点に関しては確かに、ロールズ理論は理想に依拠した抽象的なものであるか

ら、正義感覚の概念を具体・現実化する作業が必要である354。また、立憲民主政における

具体的実践の形態の 1 つである市民的不服従という行動は、宗教的理由・背景に関わり、

このような背景的文化と伝統に欠けている東アジアにとって、この理論はどこまで実践的

かという疑問もある。

第 2 に、正義感覚における信頼の実行可能性について、親子関係における「両親と子ど

もの相互の愛と信頼」から生ずる権威の道徳性や、仲間内における「好意や信用」から生

ずる連合体の道徳性という形で現れる「正義感覚」は、どれほど実行可能なものとして捉

えられるかという疑問がある。ローレンス・コールバーグ(Lawrence Kohlberg)はロー

ルズに対して正義の推論の優位性に関する哲学的主張をするように促した。コールバーグ

は文化的根拠に関する横断的・縦断的研究をもってロールズの主張を支持し、正義の推論

が実際には道徳的形成・発展のエンドポイントだと強調した355。コールバーグは、人間が

生涯を通して道徳的発達過程を 6 つの段階に分けているが、この段階を経ることで共通感

覚の基盤が培われ、最終的には普遍的な原理を活用して正義の判断力を形成することがで

きる段階に至るものとする356。道徳的発展のより高い段階は、意思決定の場合において人々

に対してより高い能力を提供するというものであり、それゆえ、人間はより複雑なジレン

マを処理することができるようになる357。このように、道徳的発達のプロセスは主に道徳

判断において正義を考慮する方向へ進み、道徳的発達のプロセスは一生を通じて持続し続

けるものであると、彼は主張する358。正義を、道徳原理として普遍性の獲得を目指すもの

354 「ロールズが、正義感覚を法の支配において社会生活をする平均的な人々に、自然に有して

いるものと解するならば、その点では理想的であり、またユートピア的でもある。」松岡誠「正

義感覚に関する法哲学的考察」創価法学 35 巻 1 号 103 頁(2005)。 355 Shweder, RA, and Jonathan Haidt. 1993. “Commentary to Feature Review: The Future

of Moral Psychology: Truth, Intuition, and the Pluralist Way.” Psychological Science 4 (6): 362

356 Lawrence Kohlberg, 1973, “The Claim to Moral Adequacy of a Highest Stage of Moral Judgment”, The Journal of Philosophy, 70(18): 630-46.

357 Rest J, et al. 1988, “Lawrence Kohlberg (1927-1987)”, American Psychologist, 43(5): 399-400.

358 Kohlberg, Lawrence, 1958. The Development of Modes of Thinking and Choices in Years 10 to 16, Ph. D. Dissertation, University of Chicago, p.312ff.また、「ミルによれば、女性が

公共生活の経験がない場合には、正義感覚を欠いている結果として、利己的な、私的な存在の

ことが例となる。」Carole Pateman, 1989, The Disorder of Women: Democracy, Feminism

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としてとらえる道徳発達理論は、正義の普遍的な倫理的体系を志向して立てられたもので

あって、市民的不服従などを担保する契機を道徳発達の最終段階である原理の道徳性に求

めるロールズの正義論ときわめて親和であることは、彼の後期の著作において明らかなこ

とがわかる。ここでは、正義感覚の発達はロールズの理論において可能であることが示唆

されている359。しかし、現実的社会に生きる人びとに目を向けると、道徳的発達過程に示

された通りに行かないこともあるのであって、諸々の社会問題で現れた信頼関係の不全や

不在はロールズの正義感覚の理論的範囲から除けられてしまっている。例えば児童自閉症

や虐待により親が子に「権威の道徳性」を持つということは簡単に言えず、また、成人間

の詐欺により仲間内における「好意や信用」は容易に生ずるわけでもないということも明

らかにしている360。理論上の構想としての「権威の道徳性」、「連合体の道徳性」はよいと

しても、ロールズの強調した正義感覚の「普通に実効的な」実行可能性については容易に

是認できない。

第 3 に、情的な正義感覚と知的な正義感覚との区別については、正義感覚の能力は思考・

判断・推論という知的活動の能力だけによってなされているのではない点が改めて重要と

なる361。ロールズのいう正義感覚の能力における家族に対する愛と、連合体に対する愛、

and Political Theory. Stanford U. P., p.130. そして、女性にとって、正義感覚の能力を獲得

するために、社会参加と社会的協働が必要とされる。それゆえ協力の公正な条件を遵守する能

力も同時に発展されている。Severance,M.L., 2000. Sex and the Social Contract. Elh, 67(2):480.道徳性の発達論について、ロールズが述べたように、J・ピアジェ(代表作:Jean Piaget(大伴茂訳)『児童道徳判断の発達』(同文書院, 1957))とコールバーグの理論に負

っている。TJ, p.404/607 頁。また、それも川本隆史(『ロールズ』(講談社, 2005)99, 188頁)と塩野谷祐一(『経済と倫理』(東京大学出版社, 2002)189 頁)から指摘される。

359 小林建一「社会教育における「市民教育」の可能性–「正義感覚」の役割と育成の問題を中

心に」東北大学大学院教育学研究科研究年報第 53 集第 2 号 109-10 頁(2005)。 360 Pateman,C., 1980. “The Disorder of Women”: Women, Love, and the Sense of Justice.

Ethics, 91(1): 32. 361 リチャード・ローティは、ベイアーの人権現象の考察を踏まえ、「人間の本性に関する知識

を重視する主張」と「感情における進歩」との関係について、以下のように指摘した。「ペイ

アーは過去二百年間の道徳的進歩の歴史を味方につけているからです。この二百年間は、合理

性や道徳性の本質についての理解が深まった時代としてではなく、驚異的な速度で感情面での

進歩がみられ、私たちが悲しい、感情を揺さぶる物語に感動してそれを行動に移すことがはる

かに容易になった時代として理解できるのです。」ベイアーのいう「感情の進歩」とは「私た

ち自身と私たちとはかなり異なる人たちの類似性のほうがさまざまな相違よりも大切だとい

うことに気づく能力が高まることです。」リチャード・ローティ「人権、理性、感情」スティ

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および原理に対する愛という「愛着モデル」には、空間的・量的な広がりの変化が見られ

る(例えば、個人から連合体への展開における正義感覚の空間的領域と、正義を感じる人

の人数が広がっている)と共に、時系列的な変化が肯定される(例えば、幼児から成年へ

の成長における正義感覚の習得能力はますます強くなっている)。そこではそれに加えて内

容的・質的な変化と機能的変化も注目されている。しかし、問題は、同じ「愛着」モデル

によって、全ての正義感覚の発達の段階を説明できるのかということである。家族と連合

体における人間に対する愛着と原理に対する愛着との意義は同じなのだろうか。

ロールズが示唆するところでは、同じ正義感覚という概念であっても、その中で情的な

正義感覚と知的な正義感覚との区別が可能である。この点についてはほとんど注意が払わ

れていない。ロールズは次のように言う。「いずれにしても、少なくとも大多数の人類が正

義感覚をもっており、また、あらゆる実際的な目的のために、人は安心してすべての人々

が原初的にその能力をもっていると仮定してよいということは、ほとんど確実であると思

われる。言語能力をもったあらゆる人間が正義感覚をもつのに必要とされる知的活動の能

力をもっていると想定することは、もっともなことと思われる。そして、これらの知的な

力がある場合、愛や好意、信用や相互信頼という自然的態度の能力はすべての人に備わっ

ているように見える。それ故、正義感覚の発達のための必要最小限を、人間がその原初的

な自然的能力の一部として所有していることには、疑いがないように思われる。(Rawls,

J,1963. p.302. in CP, p.114/247 頁)」ここでは、正義感覚が二面的であり、この2つの間に

は存在的性格として、感覚的/知覚的、感受的/認知的、感情的/知識的といった相違があるこ

とが示唆されている。そして、このような感覚の存在的性格の相異は、それぞれの感覚の

展開のプロセスにおいて考えられるべき条件の相異をも意味しているはずである。

実際、ロールズ自身、このことを無意識に「正義感覚論」の理論として展開していくこ

とになるのである。その一例として、彼の正義感覚論においては「承認(recognition)」の

問題が言及されていることが挙げられる。ある正義の構想が安定的であるための条件とし

ては、「ある正義の構想が社会によって実現されていることが公共的に承認されていること

が、当の構想に対応する正義感覚を生み出す傾向にある。(TJ, p.154/240 頁)」とロールズ

は言うのであるが、これは、ロールズが正義感覚による正義の受容という視点に立ち、「あ

ーヴン・シュート、スーザン・ハーリー編(中島吉弘・松田まゆみ訳)『人権について』(み

すず書房, 1998)158,165 頁。

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る正義の構想」はわれわれの本性の知的部分の働きと同時に情的部分の働きでもあること

を道徳発達心理主義的アプローチから把握し、承認という営為は、正義感覚による主体的

認知と情動から当然のものとして為される、ということを意味する。

第 4 に重要なのは、正義感覚を発達させるために、道徳的教育が重要な役割を担ってい

るという点である。ロールズによると、秩序だった社会の市民がお互いを自由で平等な者

として承認すべきものであるなら、基本的な諸制度は、そのような政治的正義の理想を公

にし、奨励するだけでなく、そのような市民の見方を市民自身に向けて教育するようなも

のでなければならない(JF, p.56/97 頁)。つまり、「ロールズの『正義論』においては、道

徳学習の理論を経験主義と合理主義の伝統にもとづくものと捉え、…権利の道徳性から原

理の道徳性までの段階の全体を通じて学習されることになる、正義の概念に結びつけて道

徳的発達を説明できればそれでよかったのである362」。学習論を追究すると、知的主体の立

場に基づく知識能力と、科学的認識という認知的性格という 2 つの要素が重要である。し

かし、児童や成人の道徳性を発展させるのは単純な知的認識のみではないので、発展段階

においては感情的な抵抗感が発生したり、成育環境や教育の背景によっては充分な発展が

なされないなどの困難な問題に直面することがある。正義感覚は公共的空間に関して認知

的性格を持つだけではなく、行動や実践が如何にあるべきかという意味で規範論的性格が

濃いものといえるのであって、規範理論という位置づけからみると、学習の理論の構築よ

りも、社会的実践ないし政治的行動としての実践の立場を想定し、そのような場で働くは

ずの正義感覚の役割と構造をより具体的に分析することも必要であろう363。そこでは、正

義感覚における能動的主体性を通して正義感覚の役割と構造を理解する際に、抽象的なレ

ベルと具体的なレベルを区別し、正義原理の拡張されるべき方向を示すことが重要になる

であろう。

第 5 款 正義感覚の間主体性論に係る二重目的

本款では、抽象的なレベルと具体的なレベルという二次元の視角から正義感覚の能動的

主体性を考察する。 そして、それらの考察結果に基づいて正義感覚の役割と構造を解明

し、これまで述べたようなロールズ正義感覚論の諸特徴や内容——例えば遵法義務と市民

362小林建一「社会教育における「市民教育」の可能性——「正義感覚」の役割と育成の問題を

中心に」東北大学大学院教育学研究科研究年報第 53 集第 2 号 110 頁(2005)参照。 363 同上論文 110 頁参照。

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204

的不服従、「受容可能」と「変容可能」というモデル化された正義感覚、正義感覚の規範的

性格と実践的性格等——をまとめる。このような作業を通じて、以下ではロールズ正義理

論の拡張方向を示したい。

第1項 抽象的主体性における人格構成と人格理解

ロールズ正義感覚論においては、その人格概念を解明することを通じて、彼の正義論の

展開と拡張は単に抽象的な哲学の次元に留まらず、リベラルな政治文化に内在する価値理

念とそれを支える社会的基本構造の基軸を理解させうるものであって、それにより彼の正

義理論をふまえて拡張されるべき方向をも指摘することが可能である。これは、正義理論

における諸原理の規範性と実践性との関係、つまり、ロールズの正義理論には現実的ユー

トピアによる十分な政治的効果を期待できる根本的な構想力は何か、また、それは生活秩

序においてどのようにして現実的且つ理解可能なものとし得るか、ということを、市民的

主体性の視点から、ロールズの人格概念である自由かつ平等な市民という構想に照らして

以下のような区分・枠組みの中で確認することにもなる。

第 1 に、ロールズは、「ある人が実効的な正義感覚を有していると仮定するならば、当人

はそれに対応する原理に従おうとする統制的な欲求も抱いているだろう(TJ p.498/748

頁)」と説くが、そうした統制的な欲求はロールズの人格概念はカント的な人格の観念に立

脚した、甚だ抽象的なものだと考えられる。彼は人間の本質的特徴を道徳的人格性に還元

する。つまり、個人の人格性を道徳的アイデンティティが属する具体的な歴史的基礎との

関連から切断することで道徳的人格以外の要素を排除し(Rawls. J, 1980. pp.528-529. in

CP, p.316)、道徳的関係以外の要素は無視しても構わないという本質的表明を行なっている

364。これは、原初状態においては無知のヴェールの想定の下での人間の道徳的主体性とも

符合する。もっとも、このロールズの理論装置は、サンデルを代表とした共同体主義によ

って常に「負荷なき自己」として批判され、「位置ある自我365」に代えられたことは既に触

れたとおりであるが366。

364 若松良樹「現代正義論における人格概念の役割」人文学報第 76 号 63 頁(1995)参照。 365 Michael Sandel, 1982, Liberalism and the Limits of Justice, Cambridge U.P., Cf. p.21.(菊

池理夫訳)『リベラルリズムと正義の限界』(勁草書房, 2009)23-4 頁。 366 Michael Sandel (ed.), 1984, Liberalism and Its Critics, Basil Blackwell, Cf. p.5.

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205

しかし、サンデルの批判には誤りがある。カントの「自律性 autonomy」あるいはミルの

「個性 individuality367」といったように、人格性についてのロールズのカント的な道徳的

構想は、しかし形而上学的なもの及び形而上学的なアプローチに依拠するものではなく、

宗教的・哲学的・道徳的諸教説から独立した経験的事実にのみ認識の根拠を認めるのであ

る368。このような経験的な事実を体感する、役割の担い手としての人格(person)が考え

られ、役割を演じるアクターは「無知のヴェール」をかぶっている必要がある。その役割

の担い手としての人格に対して、役割としての位格(position)、例えば社会生活上の「父

親」「裁判官」「教師」などの立場に立って考える際に、自由で平等な市民たる地位を持っ

た上で、自らの位格、つまり「父親」「裁判官」「教師」等の役割に相応しい行動や操守を、

正義感覚による主体的義務と責務を通じて認知・体験することができる。そのような位格

に即した諸観念は、本質的に生活上の経験的事実でなく、人間の自然的本性、つまり正/

不正への道徳的傾向に由来するものである369。そして、そこからは、正義についての政治

的構想、すなわち、正義の内実あるいは諸徳の本質において、「実践的な動機づけまた判断

において関連性のある諸事実」と「人格および社会の諸構想」が構成主義的な手続によっ

て与えられる必要がある(PL, p.121)。「そのように理解されるならば、構成主義的な政治

的構想は、真理についての私達の常識的な諸理念、又、事実の諸問題、と調和しないもの

ではない(PL, p.122)」とロールズは強調している。

第 2 に、ロールズはリベラリズムを「包括的なリベラリズム」と「政治的リベラリズム」

とに区別した上で、後者の立場から、形而上学的な認識以外に、身体的存在と精神的存在

367 自律性の概念を問題にする際の範型がカントであることは何人にも異存がないことであろ

う。カント的自律性に対して、ミルの理論のうちに、「自律性」という概念の捉え方を通じて、

人間本性(人格性)は個性に還元し、さらに個性が社会の善の源泉であると主張する。馬嶋裕 「ミルと自律性」待兼山論叢第 34 号哲学篇 15-28 頁(2000)参照。

368 平手賢治「自然法と公共理性」名古屋学院大学論集社会科学篇第 47 巻第 4 号第 138, 143-148頁(2011)参照。

369 換言すれば、抽象的主体性における人格構成と人格理解という視角から、正義感覚と正義と

の内面的な結びつきについて語ることが意味をもつのは、正義の基準を正当化する試みが単に

人々を説得して、その同意をとりつけることを通じてではなく、正義の本質を探求することを

通じて為される場合であり、そして「正義とは何か」という問いは人間の本性——単に人間は

しかじかの風に振舞うという事実的な意味での本性ではなく、人間が究極的にそれであるべき

ものとしての本性——が探求される場合において問われるべきであるという見通しが開かれ

た。稲垣良典「正義と真理——正義論の一考察——」矢崎光圀編『現代の法哲学』(有斐閣, 1981)365 頁参照。

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および個人的存在と社会的存在を含めた人間存在のあらゆる諸形態を社会的政治的生命体

として考え、「公正としての正義は、…社会及び人格についての政治的な諸構想を示してい

る(PL, p.162)」ものであり、経験的な諸問題であると認める。そして、自由かつ平等な諸

人格は、特定の真理を要求する包括的な教説に基づく形而上学的なものではなく、正義感

覚を通じて諸市民間の政治的な承認という形で示された実践理性による合意的構造を有す

ると説く。「政治的リベラリズムにおいては、自由かつ平等な市民に関する政治的な構想が、

人格に関する哲学的な構想に取って代わっている。(PL, p.380)」、「市民社会において我々

が公正としての正義を申し立てるとき、否、事実任意の政治的構想を唱えるとき、これら

の観念は常に、政治的構想それ自体の内部の構想や原理によって記述され表現されている。

(PL, p.395)」そのような政治的構成主義は、「理論理性」に依拠した形而上学的合理主義

が正義原理を知識の問題として捉えるのに対して、主として「実践理性」に依拠して市民

を公正な社会的協働的メンバーとして把握する。それは「理性的」とされる道徳的人格そ

のものが実践理性の概念を前提としている370。構成主義的政治理論において提示された人

間像は、「学説的自律 doctrinal autonomy」を通じて、何か外的な権威によって市民に対し

て強制するものではなく、自由かつ平等な市民として正義感覚による実践理性に基づくも

のとして理解できる(PL, pp.97-9)371。原初状態で採用される第 1 原理を肯定することお

370 吉田徹也「合意と自律:ハーバーマスのロールズ正義論への批判を中心として」メディア・

コミュニケーション研究 53 巻 92 頁(2007)参照。 371 「自律性 autonomy」の概念について、ロールズは明確に「合理的自律 rational autonomy」と「全面的自律 full autonomy」を区別する。後者は政治的な理念であり、ある秩序だった社

会のより完全な理念の一部であるのに対して、前者は決して理念ではなく、「適理性」と対比

して「合理性」をモデル化するといった方法である(Cf. PL, p.28)。この意味で、「合理的

自律」は政治的なものではなく人工的なものである(PL, pp.71-7 参照)のに対して、「全面

的自律」は倫理的なものではなく政治的なものであるとロールズは『政治的リベラリズム』で

考えている(PL, pp.77-81 参照)。更に、ロールズは「政治的自律」を論じる。政治的自律

の理念を明らかにするために、次の条件を考えている。まず、市民は全面的な政治的自律を獲

得するために、彼らが自由と平等を確保できる憲法、次に、それに従って市民が生活し、また

それを理解し賛同するような適切な下位の法律や戒律を備える社会的基本構造、加えて、彼ら

の正義感覚やその他の政治的美徳によって、変化する社会状況に応じた調整・修正が為される

こと、そして、憲法と法律の様々な領域に不備がある場合において、理性的な市民はその歴史

的・社会的状況に応じ、合理的かつ理に適った解釈をすることによる全面な自律を促進するこ

とである。(Rawls, J., 1995. p.155.また PL, pp.xlii, 78, 396, 399-403; JF, p.13/23; LHMP, p.321/468)

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よび正義感覚が必要とする諸原理を合意されるであろう方法を認識すること、そしてこれ

らの原則から行動することによって市民が完全な自律を達成している(Rawls, J., 1980.p.

528, in CP, p.316)。

第 3 に、以上のような問題文脈から、ロールズは、各人の目的は、各人の個性により多

様であり得るとしている。そして、人格概念における価値と役割期待は、単なる本質的な

ものとして記述されるものではなく、一定の政治的目的から、個性の多様性における人格

概念を再構成していくものであると強調している。これまで人間社会において追求されて

きた自由や平等、秩序などの諸価値は、一般的には、具体的な個人の肉体的感受および精

神的活動を繰り返して実践する、情的・知的感覚によって洗練された認識的経過およびそ

の結果であり、さらにその個別・特殊な認識を超えた普遍的規範に至るものである。すな

わち、価値の認識はそのまま静止的な存在の記録ではなく、動的に実践する経験である。

このような実践において自律的な存在として人間においては、社会契約論という概念装置

において他者との間で行われる行動によって、人格が複数存在するという「多元性・異質

性」が想定されている。ロールズの人格構想は、「承認」や「受諾」という相手の存在や事

実状況を解読するという認識論的理解へと移行しており、もはや格差原理によって極力排

除されるべき恣意性に左右されないという独立した市民像からはずれて「間主観的な存在

の自己認識 self-awareness of an intersubjective being」に移行していると指摘されている

372。

第 4 に、自らの人格の同一問題がある。ある人の宗教、信仰が大きく変わってしまった

場合、あるいは、集合体である社会に参加すること、或いは、「愛・ケア・連帯・教育」と

いう肯定的評価もしくは「攻撃、破壊」という否定的評価のようなコミットメントを介す

る時に、この人は昔の人と同一人物とは言えないのではないかという人格の同一性問題が

ある373。この問題に対して、ロールズは、社会実践において公的に関与すべき領域と私的

に関与すべき領域とを分けた上で、人格の同一性を公的・制度的同一性と、私的・道徳的・

372 Michael Sandel, 1982, Liberalism and the Limits of Justice, Cambridge U.P., p.132(菊池

理夫訳)『リベラルリズムと正義の限界』(勁草書房, 2009)23 頁参照。 373 Derek Parfit, 1984, Reasons and Persons, Oxford U.P., pp.325-9.パーフィットにおける人

格の同一性問題は直接的に現代正義論における人格概念に関わらないが、正義論にとっても無

視できない意義を有している。Michael A.Mosher, 1991, “Boundary Revisions: the Deconstruction of Moral Personality in Rawls, Nozick, Sandel, and Parfit,” Political Studies, 2(39):287-302.

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非制度的同一性とに区分する(PL, p.30)。前述の場合、失われたのは、自律的に行為する

道徳的な主体としての人格における原初的同一性であると言えるが、公的・制度的同一性

は保持され、制度的仕組みの運営において一体感をもたらす。なぜなら、ロールズの社会

制度編成の視点から、市民性の前提とする立憲民主制という社会において自由かつ平等な

諸個人がもつ基本権利と義務は、権利主体の個人的な選好形成やコミットメントの内容と

関係なく、市民であるが故に付与されるものであり、人格に関する私的秩序形成すべき領

域が変わっても、同じ人は依然として公的制度に関与するべき領域において同一の基本権

利と義務を有しているからである。市民は政治・社会制度を支える政治的な美徳および正

義感覚を持っている必要があるのである(Rawls,J.,1997. p.788. in CP, p.596.)。

以上の内容をふまえて、1990 年以降、ロールズは道徳的人格を、「市民という公的アイデ

ンティティ」と、「私人という、それぞれ善き生の構想を追求する私的アイデンティティ」

という 2 つに分けた。そして、その理論の転換により、『正義論』における形而上学的なテ

ーゼとしての道徳的人格性の主張は、『政治的リベラリズム』における人格についての公共

的で実践的な像を素描しようとすることの強調へと転じた。ロールズの人格概念は、「人格

をありのままに記述するという役割は担われてはおらず、むしら、公的な視点から人格を

構成しようとするものである。374」

第2項 具体的主体性における自己と他者の再認

日常生活の言行は、ある種の直感的な信念を絶えず暗示している。我々は人間の正義感

覚に訴える時に、その普遍性はすべて当然のものだと考えている375。それに基づいて、正

義感覚を捉える能力とは、心的な発達過程の一つで、個人の脳からの信号と身体から戻る

信号である本能的な精神的直感力をもとに、自分の体が外界から得た情報に知覚を通して

「正・不正」を意味づけた上で、その本能的直観をさらに外側の世界に拡大して意識に上

げるということである。ここで、正義感覚は、情的認識能力=直感的感覚による感情・意

志と、知的認識能力=知覚による思考・分析・判断・表出との一体感、つまり人間性の統

合としての共感(覚)をも含んで構成されたものとなる。

374 若松良樹「現代正義論における人格概念の役割」人文学報第 76 号 67 頁(1995)。 375 Gray,T.,1988. Is Herbert Spencer’s Law of Equal Freedom a Utilitarian or a

Rights-Based Theory of Justice? Journal of the History of Philosophy, 26(2): 272.

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そう理解すると、まず、ロールズの場合には、「合理的に、それゆえその各自の善の構想

に基づいて、行為する能力」として理解された正義感覚の能力は、二種類の行為する能力、

すなわち、正義感覚は感性に基づく情動行為と、理性に基づく知能行為によって構成され

たものである。自分と相手との人格を認識することは、単なる知的認識能力以上のもので

ある。というもの、通常、人格の認識は、その人格が時間的・空間的関与の中で存在する

ことを認識するのみならず、その人格をあれこれの自己目的的な特性を持ったものとして

共感することをも含意しているからである。したがって、たとえ視覚的・言語的に相手の

存在を認識していたとしても、その相手への社会的共感が間違っていたなら、それは、相

手を正しく認識できていなかったということになる。私たちは受け取られた外部の刺激か

ら自分の外の世界を知り、周りの世界を感じとる受容体として、幅広いメカニズムと能力

を持つが、それらの 1 つは、正義を感じる能力である。この感覚によって、私たちは「私

憤」や「義憤」を感じ、家族、連合体、社会からの愛やケアや連携など相互関与のような

絆を保つことができる。その正義感覚は机上のものではなく、他者への共鳴・共感・共生

の役目を果たしたものである。すなわち、ロールズの言葉で言えば、「単純な共感ではなく、

ある場合には部分的に反共感的でさえあるものの、しかし同時にある角度においてはその

ような他者をもひとりの人間として生きていることを認めるというものであり、このよう

な人格内部での軋轢を一定の統合的な判断力を最終的な拠り所として維持し、その相同性

を相互に承認する態度である」376。

私の考えでは、ロールズは潜在的に、単純に理性に基づいて構成された正義の諸構想は、

「理性の限界」という壁を越えられないということを認識している。カント哲学的理解に

立脚したロールズは、カントによって指摘された二律背反という理性の限界問題を知って

いただろう。ロールズは哲学だけでなく経済学の知識をも有しており、『正義論』における

功利主義への批判は377、そして、ゲーム理論や経済学において例としてよく挙げられた囚

人のジレンマ(Prisoner's Dilemma)や、社会選択理論において不可能性定理(Arrow's

impossibility theorem)、および自然科学において科学の限界の例として挙げられた不確定

性原理(Uncertainty principle)や、知識の限界の例として挙げられた不完全性定理(Gödel's

incompleteness theorems)などの例への言及もそこに由来する。そうであれば、ロールズ

376 長谷川晃『公正の法哲学』(信山社, 2001)254 頁。 377 川本隆史『ロールズ』(講談社, 2005)70 頁。

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は理性の限界という問題を認識した上で、自分が『正義論』において正義の諸原理という

構想を補完する視座に基づいて、理性だけでなく、感覚という概念を中心にして自らの「正

義主体論」を展開するだろう。経済人(homo economicus)という理性な近代人間像の発

想は、近代法と経済学において措定されている。そこでは、人間の活動を動機つけている

のは、基本的に自己利益のみであり、正義感覚はせいぜいのところ副次的な役割を果たし

ているにすぎないとされる。法は主として効率的な資源配分を実現するための道具として

観念されているが、その前提として、人々の遵法活動を含めた一切の法的行為はもっぱら

私的利得計算によって動機付けられていると考えられている。このような見方は、そうい

った法行動の私益モデルに従って社会科学方法論としての行動主義の基本前提に忠実に、

外部に表出された観察可能な活動のみを分析対象とするものであって、行動を惹起する心

理過程を問題とするものではない378。しかしながら、ロールズは、「理性」と「正義感覚」

といった相互補完的なやり方で、根本的な問題、つまり、契約説による正義の諸原理と、

心理学による正義感覚の能力との矛盾を調和させようとするが、その結果「正義感覚」そ

のものの魅力を看過してしまった。恐らく、ロールズは自分の論理体系の厳密性と科学性

を強調するために、理性重視の立場に立ってしまったかもしれない。しかし、西洋の哲学

伝統においては、感性は理性よりも下位のものとされているかもしれないが、実際は決し

て感性は理性より下にあるというわけではない。

その一方、「実践的平等」によって「格差原理」の不完全性は克服され補完されるととも

に、「再認」に基づく「正義感覚」という正義の実践は主体的位置づけの絶対視および格差

原理における配分の固定視という問題を克服し得るものである。前述したように、実践的

平等とは、法の下の平等というより、正義感覚の平等である。そして、法に従う義務と正

義感覚に従う義務との間に衝突を生じた場合、すなわち、法の現実的拘束力と法の倫理的

権威との相剋問題については、市民的主体性にとっての最終解決手段としての、法の倫理

的被規定性を無視して答えを出すことはできない。つまり、正義感覚による人間の義務観

念には、2 つの種類がある。1 つは、人間の共同生活の存立維持にとって不可欠な義務、す

なわち、それを守るか否かについて服従者の判断の余地なき「狭き」義務としての法的義

務である。もう 1 つは、義務法則を守るべきか否かにつき服従者の自由な判断の余地を残

378 Richard A. Posner, 2011, Economic Analysis of Law, Aspen Publishers, p.3.林田清明『法

と経済』(信山社, 2002)15-6 頁参照。

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す「広き」義務としての道徳的義務である。そして前者は後者に取り入れられて間接的倫

理義務に転化する潜在的可能性をもつのである379。実践的平等と共に、再認という概念の

背後にある規範的=価値的意味やそれらの源泉は、個人の意欲、理想、そして精神と情熱

なのであり、これは単に社会制度編成のための科学的真理を得る方法論ではなく、正義の

成立根拠や善き生の探求を問うという積極的な役割を担っている。これは正義感覚にした

がって判断・行動するという「心情倫理 Gesinnungsethik」の立場に止まるものではなく、

自己統治と自己実現に基づく行為の結果に対する責任の自覚を根本とする「責任倫理

Verantwortungsethik」の立場を十分に取り入れたものでなければならない。それに関して、

「市民的不服従」や「良心的拒否」といった市民的主体の活動が社会秩序に与える結果に

対する責任は、不服従行動を行う側にあるか、それとも不服従の行為を行わせることによ

り非秩序的結果を惹起する側にあるかという問題について、後者に責任を及ぼそうとする

ものである。そうであれば、市民的行為の妥当性の基準は帰結主義的観点からみた責任倫

理でなく、自由で平等な市民たる地位による責任倫理によるべきである。

さらに、正義感覚という概念において「規範的性格」と「実践的性格」という両面があ

るとともに、それぞれに応じた承認という概念には規範的側面と事実解明的側面(=実践

的側面)がある。なぜなら、政治的市民としての責務を果たすため、市民は政治上の積極

性をもち、自らの同意や不満を表明することができなければならず380、ロールズは「承認」

という概念において「正義感覚」の契機を見出すからである。「承認が当の構想に対応する

正義感覚を生み出す傾向がある」と彼は述べた。

さて、以上の議論は承認が承認概念の規範的側面、つまり「市民としての礼節の義務」

という承認をめぐり展開したものである。ここからは、承認の実践的側面を分析しておき

たい。

立憲民主制の社会では、自由で平等な人々の意欲ある協働の基本的な条件として、正義

の原理がおおむね公共的な承認を得られているものと想定する(TJ, p.335/503 頁)。その

結果として、承認概念の実践的側面は集中に市民的不服従と良心の拒否の中で現れる。そ

れは、社会制度編成が成立してしまったものに対し、市民である当事者は市民的不服従を

通じ、「コミュニティのマジョリティの正義感覚」に訴え、異議申し立ての措置の真剣な再

379 不完全義務と完全義務という判断基準は、服従者の自由な決定の余地があるかどうかである。

加藤新平「法と道徳」『講座現代倫理(第1巻)』(筑摩書房, 1958)85 頁参照。 380 Lanoix, M., 2007. The Citizen in Question. Hypatia, 22(4): 115.

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212

考を促し、反対派の人たちの強靭な確固たる意見では社会的連携・協働の諸条件が最小限

尊重されていないことを警告する、という「法に反する、公共的、非暴力的、良心的、か

つ政治的な行為」のうちに現れるのである。

ここで、ロールズの正義感覚論における承認概念の特徴が見出される。ロールズの承認

論の主題は、再認をめぐる承認の闘争よりも、むしろ承認が実現された状態、つまり、市

民社会と既存の制度編成においては、ある承認がなすもの、すなわち承認状態にあり、承

認の闘争はそのための前提にすぎない。承認状態とは、法の制定以後、ある法が法である

かどうか疑わしい場合に、個々人が法に関する自分の責任倫理にしたがって判断を下し、

正しいと思われるような合理的な行動を起こし得る状態である。しかし、ロールズの原理

の場合、自由原理>公平な機会均等原理>格差原理の順で、善に対する正と福祉と効率に

対する正義はつねに優先され(lexical priority)、理に適った人間としてのわれわれの本質

を表す381。承認は社会制度編成に付随するのではなく、社会生活の自由を本質的に特徴づ

ける原理であるということをロールズは暗示した。彼にとって再認は、原理としての意味

を有するといえるであろう。ロールズは正義感覚や承認などの概念を原理としては直接言

及しないが、彼は原理よりもむしろ承認を「人間が編み出し、感情や表現の様式を精緻化

する」技法として考えている(Cf. TJ, p.461/690 頁)。実際に、分配的正義としての二原理

と、「正義感覚」の契機を生み出す「実践的平等」としての承認原理は、相互に関連し、分

配的不正義による社会的不正と、権利運動がもたらす社会的秩序の混乱を予防することが

承認原理の重要な課題となるのである。

第4節 ロールズの正義感覚論に対する開かれた理解

ここまで、私は、ロールズの正義感覚論における「正義の受容」という側面のみならず、

不平等や不公正への抵抗を行い、それに対してその改正や変更を求める側面、いわゆる能

動的主体性の視点の導入を通じて、ロールズの正義感覚論に対して開かれた解釈の作業を

行ってきた。そこでは、ロールズの既成概念と既存論拠を利用して再構成した上で、ロー

ルズの正義理論と方法論が交錯する根源的な契機、即ち「拡張された共感382」を見出し、

381 Taylor, R.S., 2003. Rawlsis Defense of the Priority of Liberty: A Kantian Reconstruction.

Philosophy & Public Affairs, 31(3): 258. 382 アメリカの経済学者ケネス・アローはロールズの正義理論の構成方法を「拡張された共感」

と呼ぶ。彼はその論文「拡張された共感と社会的選択の可能性」において、ロールズの正義論

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213

ロールズの正義理論の拡張を可能にする具体的な方策を提示するもの、つまり私が考えて

いるところの、市民的主体性に立脚した関与(コミットメント)を重視する方向へと転換

しつつある意図を明らかにした。この内容、即ち主体的関与の原理とそのアプローチにつ

いては次章で詳しく説明することとして、その前に、主体的関与の原理の背景や目的をよ

りよく理解するために、まず、ロールズの正義感覚論に対する開かれた理解の意義につい

て触れる。

特に、本論文の冒頭で紹介された正義理論の背景からみれば、「平等」や「平等主義」は、

時代や社会が大きく変化していく中で、内容と問題関心も変化してくる。分配的正義とし

ての効率的・形式的・機会的平等観念は、単なる「平等=同一性」といった最も単純かつ

抽象的な等式まで還元される。それに対して、現代において推し進められている平等論に

は、同質志向といった画一主義を克服しうる新たな平等主義への可能性も見られる。すな

わち、差異の認識原理としての平等観念は、平等論の範囲を超えて、或は新たな平等論と

いう形で共感とつながって、共感的正義という形で成立する。その契機を見出すのがロー

ルズの「正義感覚」論である。彼が展開した「正義感覚」論において、各人の正義感覚の

充足は社会的な安定性に必須の要件とされる。そこでは、平等な権利の根拠を最小限の正

義感覚の要件充足に求める383。しかし、正義感覚は、ただ学習理論に基づいて社会を安定

化させる心理的基礎のみならず、秩序だった社会には正義の諸原理を導き出す規範的基礎

をも含むのである。その意味では、正義感覚は、正義を平等に実践する社会において諸原

を社会的選択理論の文脈に埋め込み、ロールズの理論の根幹をなす「公平で共感的な観察者の

想像力 the imaginative acts of the impartial sympathetic spectator」によって「熟考された

確信 considered convictions(TJ, pp.17-8/28-9 頁)」から導かれる主体性を拡張する理解を

試みた。詳しく参照:Arrow, KJ. 1977. “Extended Sympathy and the Possibility of Social Choice.” The American Economic Review 67 (1): 219–25. また、「拡張された可能性」とは、

相手の立場にたってものを考えること、これに尽きる。そして人は、自分が彼の立場だったら、

そのときどんな厚生を得ることができるか、を考えて、自分と彼の厚生を比較し順序づケース

るのである。渡辺幹雄『ロールズ正義論の行方』(春秋社, 1998)69 頁以下。こうして、「拡

張された共感」を成り立つ条件の 1 つは、「ロールズは自分の哲学的人間学が、欲求、利害、

目的、対立しあう権利要求など、さらに「自分の善の観念は承認に値すると勧化、自分のため

の権利要求は満たされるにふさわしいと主張する私の利害」に関して、ヒュームの『人性論』

第 3 巻におけるそれにきわめて近いことを、率直に認めている」ことにある。ポール・クリ

ール(久米博訳)「ジョン・ロールズの『正義論』以後」『正義をこえて——公正の探求1』

(法政大学出版局, 2007)96 頁。 383 藤川吉美『公正としての正義の研究』(成文堂, 1989)343 頁参照。

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理を発見・適用・展開するすべての段階に存在し、機能を発揮するものである。そこで、

以下では。その問題を明らかにするために、まず正義感覚を平等に実践する主体の人間性

に着目する。

第1款 開かれた理解による平等志向の本質化

平等への志向性は、人々の本性としての要求として定立される。このような自然本性に

よって、他者の経験が自身の実感となる。そのような感覚において、人々は互換的関係を

想定し、他者の経験が自己の身につまされる共感覚的なものとなり、それが人々の共通感

覚にまで展開され、相互に平等であるという共感が形成される。ロールズは、基本的かつ

深い道徳的感覚を人間性の一部としている384。「ロールズの説明では、正義感覚は何か間違

っている(wrong)ことを教えてくれるものである。より具体的には、それはわれわれが偶

発性や偶然性385に強く影響され、その偶発的なものによって犠牲者となる時に、何が不正

なのか(unfair)を指示するものである」。386正義感覚としての平等への志向性は、自己決

定のおよばない状況における恣意性に対して不平等を感じる人間的態度である。

ロールズは、⑴自分が危険に晒されたり損失を負わされたりすることなく困っている他

者、危険に晒されている他者を助けられるならば、そうすべきである、⑵他者に危害を加

えたり、他者を傷つけたりしてはならない、⑶不必要な苦しみにあえぐ人々を生じさせて

はならない、という規範を提示している。規範の性質としては、⑴は相互扶助の要求であ

り、積極的義務ということができる。⑵と⑶は、人々のそのような行為を禁止するもので

あり、消極的義務といえよう。積極的義務と消極的義務の優先性について、ロールズは、

後者がより重要だとしている(Cf. TJ, p.98/153-4 頁)。このような自然本性的な義務は、責

384 例えば、正義感覚は、私憤や公憤を感ずるような道徳的感覚だけではなく、友情や好意や相

互信頼のような自然的態度をもつと言えよう。(Cf. Rawls, J., 1963. p.281. in CP, p.96/243-4頁)。また、「正義感覚は自然本性的な人間的態度の通常の発達が生み出したものである。(TJ, p.429/642 頁)」

385 恣意性による不平等には、(具体的に不平等が2つに分かれる。一つは、分配的正義の意味

での取扱いの不平等のこと、もう一つは、承認的正義の意味での評価の不平等)三種類の主要

な偶発性や偶然性は考えられる。⑴生まれ落ちた家族および階級が他の人々よりも不利な人々

(出生);⑵実現された自然本性的な才能や資産の賦存がそれほど豊かな暮らしを許されない

人 (々天賦才能);⑶人生行路における運やめぐり合わせがあまり幸福な結果をもたらされな

い人々(運)。(TJ, p.83/131 頁。また JF, p.55/95-6 頁) 386 Cline, Erin M. 2007. Two Senses of Justice: Confucianism, Rawls, and Comparative

Political Philosophy. Dao 6 (4) (December 5): 363.

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務と異なり、それらの義務の実践は契約を交わすことなく存立している。実践的平等とい

う視座から、自然本性的な義務は、すべての人々を平等な道徳的人格と認めるという、あ

らゆる人々に普遍的に承認されているものと想定される。ロールズの「自然本性的な義務」

の核は、相互の公共的尊重、扶助、信頼によって支えられている自尊の共感覚であり、「己

の欲せざるところ他人に施すことなかれ」という共感的認識である。このような共感覚な

いし共感的認識は、人間関係の基本であり、正義の諸原理に関する共通理解が政治的共同

体の安定化につながることの前提である。「秩序ある社会では、市民が実効的な正義感覚を

あまねく保持しているという公共的な理解がきわめて重要な社会的資産である(TJ,

p.295/444 頁)」。ロールズは、このような自然本性的な情操を人間生活の特徴と捉え、正義

感覚をとおした共感の不在が自然本性的な絆の不在を示すと考えている。「私たちの自然本

性と道徳的情操との適合性は、原初状態において合意されるような原理によって確定され

る」387。

以上のような把握からすれば、ロールズの「正義感覚」論には、共感的相互作用論の源

流であるアダム・スミスの『道徳感情論』における「当事者―傍観者」という視座との親

縁性が認められる。近代市民社会において、自己の欲求を充足させようとする市民は、自

己と他者を含むあらゆる人々がそれぞれに意思を有しているとしたため、他者から自由で

自律的な人格と、自然本性的な人格との葛藤が生じた。人々は、個人を尊重しつつ公共性

を発見しなければならないという課題に直面することになった。人々は、「他者との共感」

という能力によって、他者とのかかわりをとおして自己理解を深め、さらに他者への理解

をも深めることにより、この課題を克服することになる。スミスによれば、「人間がどんな

に利己的なものと想定されうるにしても、あきらかにかれの本性のなかには、いくつかの

原理がある。それらは、かれに他の人々の運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を彼自身

に必要なものとするのである」。「それを証明するのになにも例をあげる必要がないほど、

明白である。すなわち、この感情は、人間本性の他のすべての本源的情念と同様に人間に

存在しており、けっして有徳で人道的な人に限られているのではない。とはいえ、そうい

う人々は、おそらく、もっとも鋭い感受性をもって、それを感じるであろう。最大の悪人、

387 ミルの『自由論』における「危害原理」との関連において、ロールズは人間の自然本性を解

明し、他者と両立する可能性を見出す。(Cf. TJ p.429n20/641 頁注 20)

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社会の諸法のもっとも無情な侵犯者でさえも、まったくそれらの感情をもたない、という

ことはないのである」388。

しかし、ロールズは、理性によらない運の影響を最小限に抑えるという正義の概念を考

えるよりも、むしろ現代民主主義社会の基本構造と人間関係を調整するためにもっとも理

に適った正義概念を明らかにしようと試みる389。人間関係において人が他者との関係を構

築するために、共感能力は必要不可欠である。正義の諸原理の受容の前提条件として位置

づけられる共感能力の問題は、具体的には、当事者は「内なるもの」として内面化・主体

化する一方、「公平な観察者 Impartial spectator」という中立的第 3 者の立場を確立するこ

とができ、そして、良心(Conscience)・常識(Common Sense)・正義感(Sense of Justice)

によって、他者の目をとおして自己をみつめ、自己反省しつつ相互行為するものである。

『哲学史講義』において、ロールズは、ヒュームを含む幾つかの思想家の理論を再考察

しており、彼らの思想の影響を受け入れている。例えば、ヒュームはイギリス経験論者と

して、ロックから経験論の哲学を受け継ぎながら、『人間本性論(A Treatise of Human

Nature, 1739 年)』と『道徳原理研究(An Enquiry Concerning the Principles of

Morals,1751 年)』において人間本性を問題関心とした実証的哲学考察を構築することを試

みた。彼は、「正と不正」についての判断主体及び最終的な判断基準と根拠の所在を、感情

の動きを伴わない論理的概念によって把握せずに人間的印象による感じるもの(感情や感

覚、感動(sense, feeling, emtion, passion)などの力強い刺激を含み)にあると考える。

388 アダム・スミス(水田洋訳)『道徳感情論』(岩波書店, 2003)23-4 頁。アダム・スミスの

『道徳感情論』の最新邦訳が出版された 2013 年 6 月には、本論文が参照文献リストまでほぼ

完成されていた。しかし、新訳の幾つかの特徴を考慮したうえで、箇所の内容は参照になった。

これらの特徴の 1 つは「感情・情動」への注目を再び喚起している。訳者のまえがきによれ

ば、「現代イギリスの進化心理学者ディラン・エヴァンズは、その著書の読書案内のなかで、

スミスの『道徳感情論』は「今なお、情動に関する際立って素晴らしい研究書であり続けてい

る」と激賞して推薦しているし、「社会的本能」の概念を提唱したチャールズ・ダーウィンが、

『人間の由来』(1871)のなかで、『道徳感情論』で展開された共感概念とその理論を、道

徳の進化とからめてきわめて高く評価したという事実が示唆するように、アダム・スミスの思

想は、アイザック・ニュートン的な機械論的科学の世界に留まることなく、ダーウィン以降の

生物学的な人間と社会の進化論的解釈のなかで、捉え直される必要があると思われる。」訳者

は水田版を参照したうえで、「同感」を「共感」とする改訳によって、スミスの主張の理解や

意味の分析にとって発見的意義を持つと考えられる。アダム・スミス(高哲男訳)『道徳感情

論』(講談社, 2013)3-6 頁。 389 Scheffler, S., 2005. What is Egalitrianism? Philosophy & Public Affairs, 31(1):25.

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彼によれは正義感覚の発展は 2 つの段階を経て生起する。第 1 の段階は、「正義への自然的

責務 natural obligation、すなわち利害390」を説明する。狭小な社会のなかでは、私たちが

自分自身や家族や友人に対してもつ利害が、また自分の仲間一般に対してもつ利害が、共

通利害の相互的な感覚とその感覚の公共的な承認を通して、正義の諸コンヴェンションを

採用させるのに十分だとみられる。つまり、部族社会や国家になる以前には、正義の諸規

則を支えるためには自然的責務だけで十分である。しかしながら、広大な社会のなかでは、

私たちの自然的責務はしばしば私たちを動かすのに十分でない。そして第 2 の段階は「正

義への道徳的責務 moral obligation」の基礎を、ないしは正と不正の感覚の基礎を示す。彼

は自分の結論を次のように要約する。「利己心は正義の樹立への原初的動機であるが、しか

し、公共の利害への共感が、その徳に伴う道徳的是認の源泉である。」(LHMP pp.66-7/114-5

頁)

ここで重要なことは、ロールズの次のような考えである。つまり、ヒュームは、正義感

覚がなぜ利己心によって動かされるのではなくて、制限された寛容や、家族と友人への私

たちの情愛や、それ以外の絆によって動かされるところの長期にわたる発展ののちに現れ

るのかということについての背景的説明を見いだしている(LHMP p.67/116 頁)。我々は理

論理性的合理性(reason)だけに基づいて道徳的判断を下すことができない。なぜなら、

理論理性によってわれわれは事実を分析して結論を推論するのであるが、ここですべての

ものを同一のものとみなすとすれば、理論理性は何らかの選択を為すオプションを導出す

ることができない。ヒュームによれば、共感力による情動の感染と、想像力による情念の

再現という二種類の共感作用があり、それは私たちの道徳的情操(moral sentimentalism)

があるために可能となっている。つまり「判断を行う能力を有する者は、個々の事例にお

いて相対立するが故に道徳上の決定を下す必要性を惹き起こすような人間的な利害につい

て、共感的知識を有していることを要求される。(Rawls, J., 1951. p.178, in CP, p.2/259頁)」

道徳的情操主義に対して、道徳的合理主義(moral rationalism)の論者である J.S.ミルは、

人々の道徳的能力を私たちの生来の知的および情的能力の先天的な本有能力と捉え、正義

感覚によって我々は他者に対する生来の共感を有し、心身の発達に伴う天性の自然的発揮

が可能になると解する。彼は、正義感覚を含む高次的能力の発展とその行使、および「個

390 David Hume, 1739. A Treatise of Human Nature, Book Ⅲ Of Morals, Section Ⅲ Of Justice

and Injustice. The Clarendon Press, p.498.

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性 individuality」は、個人の幸福その大部分を形成する重要なファクターとなっているこ

とを示す391。

スミスの場合は、ヒュームと同様に非認知的(non-cognitive)過程の共感の可能性を認

める。人が他人の情動的状態を直接的には経験しえなくても、 立場交換という想像力(想

像上の立場交換 imaginary change of situation)を通じて感情を共有することをスミスは

認めた。「我々は、想像力によって自分自身を彼[=他者]の状況において、我々自身も彼と同

じ苦しみを受けていると想像する。我々は、いわば彼の身体に入り込み、ある程度まで彼

と同一の人物になる。そして、我々は、彼の感受作用(sensation)について何らかの観念

を形成し、程度は弱いけれども彼の感情に全く似ていなくもない何かを感じさえする」、「想

像において被害者と立場を交換することから、彼が感じることを自分たちで感じたりある

いは心動かされたりする」ようになり、「他の人びとの悲惨に対するわれわれの同胞感情

fellow-feeling」や「共感 sympathy」がもたらされる392。

このような道徳的情操に関する伝統的見解に対して、ロールズは、これを経験論的立場

と合理論的立場とに大別し、両者を独自の理論体系において「止揚」・統合しようとしてい

る393。ロールズは、「道徳の学びに関する2つの考えがそれぞれどれくらいの利点を備えて

いるのかを査定するつもりはない。疑いなく両者とも充分な妥当性があり、無理のないや

り方でこの2つの考えを結合しようと試みることは好ましいと思われる(TJ,

pp.403-4/604-5 頁)」と述べている。

第2款 開かれた理解による人間社会の紐帯強化

われわれが住んでいる世界は、物理的にはすべて三次元の空間と一次元の時間の中にあ

る。だから、ほとんどすべての概念や関係が 3 次元空間+1 次元時間で表される時空によっ

て表現されるのは当然のことである。時空をもとにして、物理的な場の上に、地理学的場、

天文学的場などの概念や関係の非常に大きな部分が直接に空間的表現をとることができる

391 J.S. Mill, Utilitarianism, chap. 2, and On Liberty, in On Liberty and Other Essays,

edited by John Gray. Oxford U.P., 1991, Cf. chap. 3; Freeman, S., 2001. Illiberal Libertarians: Why Libertarianism Is Not a Liberal View. Philosophy & public affairs, 30(2): 106.

392 アダム・スミス(水田洋訳)『道徳感情論』(岩波書店, 2003)26 頁。 393 同じ観点は、藤川吉美は「Rawls が「正義感覚の修得」について経験論・合理論という両伝

統の総合を企図した「契約論的見解」は以上のとおりである」と述べた。藤川吉美『公正とし

ての正義の研究』(成文堂, 1989)343-57 頁参照。

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が、生物学的場、人類学的場、そして、その上に、人種、民族、歴史、宗教、言語などの

場が重なり、さらにそれらの上に、国家的・政治的・経済的・社会的・文化的場などへも

つながっている。特に、法律の基礎となるものは文化の主張による衝突に直面している。

しかしこれは厳密には通約可能なものではない。我々がよく知っているように、それぞれ

異なる文化は、それぞれ多様な道徳原理や社会規範によって特徴付けられる。これらは行

為規範や思考方式および紛争解決プロセスの基礎を共同体生活の中で実際に形成している

ものである394。法を支える社会的構造は幾層にも交互に重なっていた場にまたがって存在

し、このような重層的な空間の中で一定の秩序の下で成り立っている。

この点に関して、ロールズ正義理論の主題は終始一貫している。彼は前期において、市

民は彼らが正義の原則をサポートするために正義感覚を抱くことができることを示してい

た。その後、彼は理に適った、されど両立しがたい包括的教説、例えば宗教的信仰のよう

な多元主義が現代民主主義社会にあるという事実を強調している395。秩序だった社会構造

の時空的表現を明らかにするためには、任意の座標軸を想定して制度的空間が定まる。空

間的表現は、この社会的空間における諸制度や諸関係の基底の部分にあるのは当然として、

さらに上層の各所で豊富な力を発揮しているのである。その上で、人間社会における相手

の位置と活動を解析し、行為を支配する法則性が解明される。これは行為者の間に働く力

と構造関係を明らかにし、その場における法則を規範と仮定することで定立した規範を基

に人間全体像を再構築し、社会の法則で現れた規範の理想型を再検討することによって、

社会制度編成における諸原理の信憑性・合理性・実現可能性を検証することである。生活

世界における人々の自然的および社会的存在様態は「場所性 sense of place」から把握され

るので、このような空間的認識は社会制度と人間関係の基本構造を認識するための鍵とな

る概念ともなるということができる396。

394 Mohr, R.D., 2005. Some Conditions for Culturally Diverse Deliberation. Canadian

Journal of Law and Society, 20(1):91. 395 Freeman, M.D. a., 2004. The Problem of Secularism in Human Rights Theory. Human

Rights Quarterly, 26(2): 396. 396 社会制度編成という意味での空間的認識における「空間」という概念は、物理的存在形式の

みならず、人々の外的感官の形式である。それはすなわち、人間社会における自分の立場、位

置づけという心的存在空間を現れるような概念装置である。また、空間・時間の座標は直線的 (線形) なものと捉える必然は無く、変形したものを考えることも可能である。

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しかし、社会制度に関する空間的認識の特徴は、認識対象を平均(均質・同一性)化さ

れない固有のものとして理解される点にある。すなわち、空間的配分された位置からみて、

全ての存在は離散的に分布し、本質的に異なるものであり、共約・比較することができな

い。個人を単位とした空間の位置座標が異なるだけでさえ、平等視=同一視はできないと

言えるだろう。なぜなら、われわれは異なる空間的存在者としてある場に属していて、そ

こからある働きを受けているように、社会制度編成においては権利と義務との定位座標系

には空間的特性があるからである。具体的にみれば、人間の社会的空間的位置づけから生

まれる風俗や慣習の場、そして、人種や民族、宗教、公共道徳、親族、言語等の場に基づ

く家族制度、身分制度、階級制度などといった社会制度が編成されてきた。空間的認識と

いう視座から見ると、格差があるから、少なくとも人間が生まれながらにして不平等だと

いうのは普遍的事実であろう。しかし、その格差を是正する力である正義感覚もまた、私

たちの大部分が正義観念として持って生まれてくるものなのである397。

社会制度編成は、三次元的空間的位置づけにおいて「正と不正」を原理として捉えるが、

第 4 次元としての時間という視座を導入することで、これは再び正義から平等へと転換す

る契機を提供する。空間的認識の位置づけという特性に対して、時間には圴一性という特

徴がある。時間そのものは目に見えず表現することは難しいが、われわれは時間を「均質

均一」な成り立ちのものと考えている。今までの平等学説と比べて、「時間の前にすべての

人間は平等である」という観点は一番説得力のある強い理論だとされている。そのような

分配的役割を果たす空間の不平等から時間の「平等」へという特徴は、近代から現代にか

けて「平等をめぐる承認闘争」を激しく引き起こし続けている。1848 年革命からの 120 年

は、「平等=同一性=再配分」を求めたものであり、民衆の経済的政治的平等要請という大

義の下で闘争を為さしめ、社会制度編成は最終的に福祉国家という形で定式された。その

後、「平等=差異性=再認」という形で展開された現代平等論は、経済的不平等や貧困だけ

ではなく、これまで看過されてきた「差別・抑圧・蔑視」といった情的な面における不平

等の是正や異質性を前提とした平等把握にも注目が集まっている。

しかし、存在対象としての時間は全ての人に平等に与えられる絶対的なものとされてき

たが、認識対象としての時間は、実は自然、歴史、文化、伝統などといった背景の下、時

397 May, B., 2008. Extravagant Postcolonialism: Ethics and Individualism in Anglophonic,

Anglocentric Postcolonial Fiction; or, “What Was (This) Postcolonialism?” Elh, 75(4): 903.

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間性の平等に対する認識も異なり得るという事実が今日明らかになっている。アインシュ

タイン(Albert Einstein)による「熱いストーブの上に 1 分間手を当ててみて下さい、ま

るで 1 時間位に感じられる。では可愛い女の子と一緒に 1 時間座っているとどうだろう、

まるで 1 分間ぐらいにしか感じられない」という言葉は時間概念において感知された平等

の差異を端的に表現した。平等に関する意識や認識は感覚空間に展開し外在化した時間的

な流れにおいて流動し、かつ変化している。すなわち、時間の特性には「圴一性」に加え

「持続性」がある。その「持続性」は、平等に関する「純粋な異質性」が見出される契機

となり得る。

アンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson)の時間論によると、「純粋持続とは、質的

変化の継起以外のものでありえないはずであり、それらの変化は、はっきりした輪郭をも

たず、お互いに対して外在化する傾向ももたず、数とのあいだにいかなる血のつながりも

もたずに、融合し合い、浸透し合っている。それは純粋の異質性であろう」398。時間の単

位に関連して考えて見ると、 一秒ごとの瞬間にその持続が異なることである。 細分化さ

れた瞬間は比較不可能である。社会的時空において空間的次元を除いた単なる時間的次元

によって現実の社会の不平等を捉えようとする試みは不完全である、また、平等問題を存

在論的立場に基づいて解決する戦略も、その認識論的視点の差異の中で大きく揺さぶられ

よう。しかし、実際に日常的な社会生活における「純粋知覚 perception pure」によって、

純粋持続は純粋なまま保持されるのではなく、純粋持続は「感覚・知識」として記録され、

情的認識能力と知的認識能力を通じて言語によって置き換えられる。そして、時間軸から

空間への投射である公共空間における純粋持続は人々の間で共通認識を獲得し、人間がこ

の原理を認識する際、他者との人間関係や日常生活を円滑に営むことができる。重要なの

は、「感覚」を通し、言語によって、自らの内的状態の変化を直観することは可能であるが、

それは時計で測るような客観的な判断ではなく、厳密には経験的統覚と内的感官の形式で

しかないと意識することである。空間が外的感官の形式であるのと同様であり、時間は内

的感官の形式(Form des innern Sinnes)である399。結局のところこのいずれについても、

あらゆる表象が内的感官を通過する為に、時間として経験される。それは自分自身とその

内的な心的状態を直観する、つまり内感の直観というプロセスに他ならない。

398 H・ベルクソン(平井啓之訳)『時間と自由』(白水社, 1990)109 頁。 399 Immanuel Kant, 1977, Werke in zwölf Bänden. Band 3, Frankfurt am Main, S.81.

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時空的位置づけに立脚した「制度 institution」や「制度化 institutionalization」に対す

る関心は、政治学や社会学だけではなく、法哲学の様々な立場において高まっている。正

義原理を認識するために、本章における正義感覚解明の試みでは、法的思考とその中で実

践的平等の果たすロールズの「正義主体論」の構造とその妥当性基準の解明に主眼を置き、

妥当性に内包された理性と感性、知識と情感、合理性と道徳性などの相対関係の中にも対

立性と相補性を示してきた。社会制度編成の視点から正義の意味を考察すれば、共感の正

義は「無知のヴェール」という思考実験や人々の試行錯誤の反復において時間的・空間的

に固定され言明される行為パターンを意味するものである。しかし、「思考実験によって制

度化された正義」と「試行錯誤によって制度化された正義」における、実践という主体的

契機に関する認識はまったく異なる立場をとっている。

最後に、実践的主体性に関して言及しなければならない。これはロールズの『正義論』

の中で以下のような中心的論点となる。すなわち、「秩序だった社会にあっても自分の正義

感覚を確証・肯定することが当人たちにとって善とはならないような人々がいる」と仮定

してみると、秩序だった社会における人々は、道徳的によい人(morally good men)では

なく品行方正な人(men of good morals)として行動することを通じて自らの利益かつ他の

社会構成員の利益になることを認識するようにするかもしれない400ということである。例

えば、原初状態のような普遍的で、しかし権威的な過程が無い場合、合理的なものがどれ

ほど豊富にあっても、哲学上の道徳的な判断からは何の選択肢も引き出せない。もちろん

人々は公正な人であることに合理性を認めないわけではないとロールズは認める。しかし、

合理性は道徳的なコミットメントと両立し得るとするが、それは道徳原則へのコミットす

ることは必然でないとしている。そして、「彼らの達成目標や欲望、そして彼らの自然本性

の特異性を考えると、善の希薄理論に基づく説明は彼らがその統制的な情操(正義感覚)

を維持するのに足るだけの理由を定めてくれない。このような人々に対しては、正義を一

つの徳として誠心誠意推奨することはできないと主張されてきた。そしてこのことは、そ

うした推奨が以下のことを含意すると想定するならば、たしかに正確である。すなわち、(希

薄理論が見定めてくれる)合理的な根拠がこの方針を取ることを個人としての彼らに勧め

るのだということである。しかし、もしそうならば、自らの正義感覚を確証・肯定する人々

はそうした(正義感覚をあくまでも確証・肯定しない)人々を、正義にかなった制度につ

400 Nielsen, K., 1977. Rawls and Classist Amoralism. Mind, 86(341):19.

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き従うよう彼らに要求するという点で不当に取り扱っているのかどうか、というさらなる

問いが残ってしまうことになる。

さて不幸にして私たちはまだ、この疑問に適切に答えうる立場にはない。なぜなら、こ

の問いは刑罰理論を前提としているにもかかわらず、正義の理論のこの部門について、本

書はほとんど述べてこなかったからである(pp.503-4/756-7 頁)」。ロールズはこの問いの

答えを刑罰理論が、これよりもっと広く、普遍的な意義を有する問いに答える為の示唆を

既に示しているのではないかと考える。例えば、伝統的な共感理論の中にも一般的に適用

可能な概念や経験がある。実践的に関与する主体との関連性を踏まえると、「理論理性」と

「実践理性」の働きと性質の異同が顕在化する一方、社会編成において法や制度の自己完

結性を進行させるような特徴も見出すことができる。このような理論の根底に潜む実践的

関心を取り出すとすれば、それはさしあたっては、明瞭性、確実性、信頼性、予測可能性

といった法的安定性の要請たる「法の内在道徳 internal morality」となるかもしれない401。

法の内在的道徳という考え方はロン・フラーの説いたものであり、H・L・A・ハートによ

って法を道徳的に検討する可能性を奪うものとして批判されたが、法から独立した外在的

道徳の立場と背景にある法の倫理的基礎の再探究を可能にする見方である。次の章では、

正義感覚や良心や世論のような実践的関心から、「正義の主体性論」に先立つ条件として「再

認の理論」の意義を際立たせたいと思うが、その前に、正義感覚の開かれた理解による法

的思考における主体的特徴について補足しておくこととしたい。

401 Lon L. Fuller, 1969. The Morality of Law. Yale U.P.フラーが、合法性を「法の内在道徳」

「法的道徳」「法を可能ならしめる道徳」、さらにやや具体的に「法の定立者・運用者という

職務に伴う役割の特殊な道徳」と呼ぶ場合(Ibid., p.206)、その力点は、合法性の諸要請が

最低限遵守されていることが法体系の存立にとって不可欠であるという側面に置かれている

と言ってよいであろう。このような合法性の基本的要請としては、法の一般性、公布、遡及法

禁止、明瞭性、無矛盾性、服従可能性、相対的恒常性、公権力の行動と宣言された法律との合

致である(ibid.,p.104)。合法性に関するフラーの見解は、自然法論の実践的叡智を承継しつ

つ厳しい法実証主義批判の姿勢を貫いた彼の方理論の根幹を成すものであり、その特徴は、法

を「人間の行動のルールの支配に服させようとする企て」としてとらえ、合法性をこのような

法の「手続的自然法」として位置づけるところにある。すなわち、合法性は、「法的ルールに

よって追求されるべき正しい諸目的」たる「実体的自然法」ではなく、「人間の行動を規律す

るルール体系が実効的であると同時にその本来の姿からそれないようにするためには、その体

系はどのように構成され運用されねばならないかという方法」に関わるものとされている

(Ibid., pp.96-8)。田中成明「「合法性」に関する法理学的考察——ロン・L・フラーの見解

を手がかりに」矢崎光圀『現代の法哲学』(有斐閣, 1981)376-7 頁。

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第3款 開かれた理解による法的思考の主体性発揮

正義論のテーマは、今まで社会制度編成の妥当基準として考えられてきた側面をとりわ

け強調する正義理論において、規範原理の内面化のメカニズムを解明することである。そ

のことから、秩序ある社会の維持・安定化を旨として、人間は正義原理の受容によって社

会化され、そして既成社会の中に組み込まれてしまう存在として描かれてきた。しかし、

あまりにも社会化されすぎた人間は「常にそのように受け身的、消極的、画一化された「操

り人形」的存在402」になり、または、「人間が社会から逸脱したり、反抗したりする場合に

は、必ず社会統制が加えられる403」と考えられる恐れがある。それゆえ、「正義原理の受容」

を焦点とした秩序形成と構造維持という点に対し、市民的主体性と原理的規範性との機能

的な連関に着目することによって正義感覚の概念を持ち込み、それによって社会制度と社

会構造の実質を認識・意味付与をし、またそれを変更し、再構成するということも非常に

重要である。

個人が抱く「組織・制御技術」としての政治概念は、社会の規模が大きくなるにつれて、

「政治制度」となる。それに即した政治現実の多元化と重層化により、「自由・平等という

共和感覚をもった自発的人間型、したがって市民自治を可能とするような政治への主体的

参加という徳性をそなえた」市民的人間型は、理想ではなくて規範概念として要請される404。

社会制度編成における規範の多元性・重層性の表現は政治的なものとしてだけでなく405、

文化的・宗教的なものでもある。それらの拮抗・共存関係に伴う重層性・流動性は、現実

社会の法システムが空間的に多元重層的な秩序を形成・維持することを促す406。しかし、

法的空間には、ただ多元重層という構造的次元だけでなく、法実践に関わる主体の解釈的

な規範創造に背景的条件を与えるという視点からみれば、法の概念の動態化・解釈化・主

体化を軸とする、いわば機能的次元もある。私は、「正義感覚」という概念を導入すること

を通じて、些か静態的で一定の社会内に限定された法の理解に止まらず、現代社会におけ

402 船津衛「社会的自我論の展開」東洋大学社会学部紀要 38 巻 1 号 46 頁(2000)。 403 船津衛『自我の社会理論』(恒星社厚生閣, 1983)37 頁。 404 松下圭一『市民自治の憲法理論』(岩波書店, 1975)50 頁。 405 政治の多元化・重層化の様態とそれに伴う分節政治の構想について参照:松下圭一『政策型

思考と政治』(東京大学出版会, 1991)346-7 頁。 406 長谷川晃「法的空間の多元重層性」民商法雑誌 133 巻 3 号 447-68 頁(2005);中村浩爾「多

元的重層的な市民社会における社会規範の存在様式」社会科学研究 60 巻 5=6 号 11-44 頁

(2009)。

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る法の複雑性ないし多元重層性、そしてそれらと相俟って動態的な法形成に関する理論的

構想や過程を明らかにしようとしている。正義感覚論からみた法は、法的な活動主体性を

媒介として主体的構成の知的能力と情的能力による様々な法的経験を生かして、社会的正

義の実現を目指す法実践を不断に見直し再編成し続けることを基調とする。このことは長

谷川晃が法の動態性について説くところでもあり、「ここで重要な活動主体における法的経

験は、解釈的な法の理解とそれが形成する法実践の構成的エレメント——それは、理念・

制度・活動といった活動様式、政治的領域・社会的領域・経済的領域といった活動領域、

条理・制定法・慣行・判例・学説といった活動内容、全体社会における様々な法的アクタ

ーの布置と諸関係、法実践におけるミクローメゾーマクロのスパイラルの有り様、異なる

法実践の間の相互作用などといった諸々の次元において交錯しているであろう——を通じ

て立体的に把握されるはずのものである」407。

こうした法的経験をより効果的に伝えるために、法的空間には多元重層性という特徴に

加え、これらと結合する法の多孔性(legal porosity)が有効である。つまり、多元的で重

層的な法的空間において様々な法実践を立体的に把握するために、法の複雑性ないし多元

重層性に対応した形で、複数・多様な接点が求められる。法実践の主体と対象との間、或

いは主体と主体の間に、互いの接点を見出さない限り、法の内面化は不可能となるのみな

らず、主体の解釈的な規範創造活動の契機も失うことになる。それゆえ、諸次元において

重要な結節点となっている法実践主体が注目され、方法論として、法実践主体の正義感覚

に含まれる諸々の接点による法的空間の動態的把握や豊饒化努力を現実化させるような法

的思考も現れてきた。

正義感覚はそれ自体が多孔体であり、内部に複数的で多様な法的素材を含んでいるが故

に、様々な社会現実に接する法現象の中から特定の法的経験を選択的に活用し、それを通

じて多面的かつ多次元的な法実践を行うことが可能なのである。正義感覚によって与えら

れる法的経験の豊饒性——例えば、差別されたときの不快感や抑圧感、社会的不正に対す

る公憤感等といった道徳的感情、信頼や憐憫や同情等といった自然的態度——は法の形

成・受容・変動の有り様に関わる人間的な行為を重視・要求し、様々な法実践主体の間で

の感受性と関係性の作用とそこに生ずる不断の相互影響・浸透及び法実践の形成・変容過

407 長谷川晃「<法のクレオール>の概念をめぐる基礎的考察」北大法学論集 58 巻3号 247(1313)頁(2007)。

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程の根底をなす因子に注目し、正義原理は、純粋に合理的な推論による所与の静態的規範

体系としてだけでなく、正義感覚の開かれた理解によって無意識に身体化された主体的秩

序感覚としても提示されることにより、複雑に重合的社会的関係を通じて普遍的なものと

されている。こうして「有益な結合が自発的に発展できるようにする社会制度の枠組が欠

けていた」のであれば、「人間の存在基盤たる秩序感覚の崩壊をもたらした」と考えられる

408。

正義感覚の多孔性は多様多種な法的経験や法感情、法意識が集まるところに現れる一方、

正義感覚は多孔体に付着するそれぞれの主体的秩序感覚と実践的な経験の蓄積を活かし、

それらを以て触媒担体のように特定の法的アクターの活動のあり方を議論し、実践まで誘

導・促進し、または法的アクターの活動を抑制するとともに、もともと拡散している様々

な個別の法的思考を全体として正義に向けた方向へと収斂していく。ここに、正義感覚と

いう概念には発見論的意義があると思われる。つまり、様々な人びとの正義感覚の中で現

れてくる法的思考や法実践は決して同一化されたものとは成り得ないが、にも拘わらず正

義感覚全体として基本的には同じ正義の方向に向かって取り組んでいく協働的な基盤はそ

の開かれた理解によって確保され、さらに穏当な多元性の事実に応じた経験的かつ実証的

な形で展開していく。正義感覚を通した正義構想の「分散的収斂409」という傾向は、特に

リベラルな政治文化という条件の下で、昨今多様な様相で現れたようになっている多くの

研究者たちの新たな視角からの正義構想にも共有されていると言ってよいであろう。

第5節 道徳認知に関する心理学的・神経科学的研究からの補論

これまでの道徳心理学では、ジャン・ピアジェ410とローレンス・コールバーグ411の研究

をはじめとして、道徳的判断や道徳的認知に関するものが中心に展開されてきている。1980

408 内山秀夫『政治文化と政治変動』(早稲田大学出版部, 1977)4 頁参照。 409 これは長谷川晃の「<法のクレオール>と主体的法形成の研究へのアプローチ」を借りて表

現するものである。この概念を通じて彼は思考のベクトル的統合という意味で、文化混淆的な

法全体のマクロな変動プロセスの有り様を説明し、法変容の方向性を指摘した。長谷川晃「<

法のクレオール>の概念をめぐる基礎的考察」北大法学論集 58 巻 3 号 264 頁以下(2007)参照。

410 Jean Piaget, 1932. The Moral Judgment of the Child. Harcourt. 411 Lawrence Kohlberg, 1984. The Psychology of Moral Development: The Nature and

Validity of Moral Stages (Essays on Moral Development, Volume 2) Harper & Row.

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年代以降、コールバーグの道徳性理論批判とコールバーグ以降の理論的展開がアメリカを

中心に進んでいる。例えば、キャロル・ギリガンは、男女の道徳認知の相違を心理学の視

点から論じ、従来のコールバーグの道徳発達段階理論における正義と権利のモデルが男性

のみに当てはまるものとして批判し、ケアと責任の道徳性の観点から女性独自の発達プロ

セスを見る必要があるとした412。またスーザン・オーキンは正義感覚においてジェンダー

の意義をどう捉えるべきかによって、社会的不平等、とりわけ男女差別を改善する契機が

あると指摘した413。さらに、エリオット・チュリエルによる道徳と慣習の領域特殊性414、

M.L.ホフマンによる共感性と道徳的行動についての実証的研究415など、特に発達的・社会

心理学的理論化が盛んになっている416。1990 年代以来、正や不正、善や悪のような「道徳

的判断」や「道徳的認知」の背後にある心理学的・脳科学的・神経科学的過程に関心が集

まって、その現象を調べた研究が増えてきている。道徳認知の原因の 1 つとして推測され

ている情動や感情的直感といった要素は道徳的葛藤にどのようにかかわっているかが、制

度編成における人間の行動パターンの基本となるべき重要な問題として注目され、そのメ

カニズムの解明が強く要望されている。

従来は、純粋な理性的推論によってのみ道徳的判断がなされると考えられていたが、そ

れが近年になって実験心理学や神経生物学や機能的磁気共鳴画像(fMRI)等の手法を通じ

て、行動実験や脳イメージングや脳損傷による機能障害等の研究から、道徳的経験的判断

における情動の役割は重要であることが示唆さるようになった417。例えば、「情動と道徳的

412 Carol Gilligan, 1982. In a Different Voice: Psychological Theory and Women's

Development. Harvard U.P.(岩男寿美子訳)『もう一つの声——男女の道徳観のちがいと女

性のアイデンティティ』(川島書店, 1986) 413 Okin, SM. 1989. “Reason and Feeling in Thinking About Justice.” Ethics 99 (2): 229-49. 414 Elliot Turiel, 1983. The Development of Social Knowledge: Morality and Convention.

Cambridge U.P. 415 Hoffman, M. L. 1988. Moral development. In Bornstein, M., Lamb, M. (eds)

Developmental Psychology: An Advanced Textbook. Lawrence Erlbaum Associates, Hillsdale, NJ. pp. 497-548.

416 川畑秀明「道徳性の認知科学 : その視座と教育的展開」鹿児島大学教育学部教育実践研究紀

要第 12 巻 69 頁(2001)。 417 道徳心理学は長い間に推論(reasoning)に焦点を当てているが、最近の証拠は、道徳的判

断は、討議的な推論よりも感情や情動的直感の問題であることを示唆し、道徳心理学の研究に

おいて推論と情動との統合過程を重視している。Greene, Joshua, and Jonathan Haidt. 2002.

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判断は同時に発生している、情動は道徳的判断に影響を与えている、道徳的判断にとって

情動は必要条件である」ことが指摘された418。アントニオ・R・ダマシオの研究によれば、

人間の意識には中核意識と延長意識があり、前者は 1 つの瞬間「いま」と 1 つの場所「こ

こ」についての自己感を授けているものであり、後者は人に精巧な自己感すなわち「あな

た」「私」といったアイデンティティと人格を授けるもので、生きてきた過去と予期される

未来を十分に自覚しうるものである。この 2 つの意識は相互独立しているわけではない。

延長意識は中核意識の上に定立している。中核意識がなければ延長意識は生じない。中核

意識を生み出す根元は「情動」であるという。情動とは動物が外部とコミュニケーション

した結果生じる身体的変化のことである。情動は脳に作用して脳の中で神経的に表象され

る。これが「感情」である。感情の認識には意識が必要である419。人間の心は意識下の領

域に深く支配されていることは確かであろう。心は情動といった動物的な範疇から、自我

といった人間固有の範疇まで重層化されて存在しており、これらのそれぞれの機能を司る

脳領域は異なりつつも互いに関連して全体として一つの心や人格を形成している。だから

重層化されている心のどこかに情動や感情の障害が起これば、認知のありようや人格は少

し或いは大幅に変化してしまう420。

ハーバード大学の心理学者ジョシュア・グリーンらによって行われた道徳的ジレンマの

脳科学研究は、それまで合理主義的伝統に支配された道徳的判断における推論=理性の役

割だけを強調している道徳心理学に代わり、倫理的判断の源泉の 1 つとしての情動をより

重要な機能的位置に据えた理論的動向を指摘するようになった。我々は、なぜ5人を助け

るために1人を犠牲にするという考え方はトロッコ実験(trolley problem)で受け入れら

れるけれども、これとは別の歩道橋実験(footbridge dilemma)になったら許されないのか?

グリーンらは fMRI を用いてトロッコ問題と歩道橋のジレンマの被験者の脳イメージング

“How (and Where) Does Moral Judgment Work?” Trends in Cognitive Sciences 6 (12) (December 1): 517-23.

418 永守伸年「道徳心理学の 3 つの話題 : 客観性なき実在論——近年の道徳心理学における感情

主義の検討——」実践哲学研究第 33 巻 102-6 頁(2011)。 419 池田清彦『遺伝子「不平等」社会——人間の本性とはなにか』(岩波書店, 2006)126-7 頁

参照;意識における情動と感情の役割について詳しく参照、アントニオ・R・ダマシオ(田中

三彦訳)『無意識の脳 自己意識の脳』(講談社, 2003)。 420 池田清彦, 2006, 前掲書 127-8 頁参照;認知的無意識の特徴や推論のメカニズム、観念と感

覚運動の同時賦活の構造については詳しく参照、ジョージ レイコフ、マーク ジョンソン(計

見一雄訳)『肉中の哲学』(哲学書房, 2004)。

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比較を通じて、情動的反応(emotional response)がこれらの 2 つのケース間の決定的な違

いである可能性が高いことを強調した421。グリーンらの研究によれば、私たちの道徳的直

観の根底に 2 つのサブシステムがある。1 つは感情的神経プロセスを利用し、倫理上の義務

論的ポジションに関連するある種の判断を生成し422、もう 1 つは、より認知神経プロセス

を利用して、倫理における功利主義/帰結的ポジションに関連する判断を生成する。2 つの

サブシステムは、指定された場合において全体的道徳判決を下すために競合し合うという

ことがある423。この主張はそれ自体では単に私たちが道徳判断を下すための原因となる実

証的仮説である。ピーター・シンガーとグリーンは、この実証的仮説が真実ならば、我々

がある種の道徳判断を下すべきだとする結論が得られると主張する。これは義務論的直感

421 Greene, JD, RB Sommerville, and LE Nystrom. 2001. “An fMRI Investigation of

Emotional Engagement in Moral Judgment.” Science 293 (5537): 2107. 422 実はそれ以前から、進化心理学や霊長類学の研究は、道徳性進化とある種の情動的起源の関

連を指摘していた。具体例としては、以下のようなものが挙げられる。Hauser, M D. 1992. “Costs of Deception: Cheaters Are Punished in Rhesus Monkeys (Macaca Mulatta).” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 89 (24) (December 15): 12137-9. Hauser, M D. 1993. “Rhesus Monkey Copulation Calls: Honest Signals for Female Choice?” Proceedings. Biological Sciences / The Royal Society 254 (1340) (November 22): 93-6. Hauser, M D. 1993. “Right Hemisphere Dominance for the Production of Facial Expression in Monkeys.” Science (New York, N.Y.) 261 (5120) (July 23): 475-7. Hauser, M D, and K Andersson. 1994. “Left Hemisphere Dominance for Processing Vocalizations in Adult, but Not Infant, Rhesus Monkeys: Field Experiments.” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 91 (9) (April 26): 3946-8. Hauser, M D, S Carey, and L B Hauser. 2000. “Spontaneous Number Representation in Semi-free-ranging Rhesus Monkeys.” Proceedings. Biological Sciences / The Royal Society 267 (1445) (April 22): 829-33. Ramus, Franck, MD Hauser, Cory Miller, Dylan Morris, and Jacques Mehler. 2000. “Language Discrimination by Human Newborns and by Cotton-Top Tamarin Monkeys.” Science 288 (5464): 349-51. 上記、霊長類研究を考

察した道徳の存在と機能について直接論じた諸論文の日本語紹介として、和田幹彦「「法と進

化生物学」・「法と進化心理学」序論」法学志林 107 巻 4 号 13-9 頁(2010)参照。 423 Greene, JD, RB Sommerville, and LE Nystrom. 2001. “An fMRI Investigation of

Emotional Engagement in Moral Judgment.” Science 293 (5537): 2105-8; Greene, Joshua D, Leigh E Nystrom, Andrew D Engell, John M Darley, and Jonathan D Cohen. 2004. “The Neural Bases of Cognitive Conflict and Control in Moral Judgment.” Neuron 44 (2) (October 14): 389-400.; Greene, Joshua D, Sylvia a Morelli, Kelly Lowenberg, Leigh E Nystrom, and Jonathan D Cohen. 2008. “Cognitive Load Selectively Interferes with Utilitarian Moral Judgment.” Cognition 107 (3) (June): 1144-54.

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を割り引くための根拠を与えると思われるが、我々の功利主義・帰結主義的直感を重視す

るというわけではない424。

現代の認知神経科学の目的は、物理的な面で人間の心(human mind)の構造を理解する

ことである425。こうした方法でなされた研究によると、道徳的思考は先天性(innateness)

を持つものである。それは道徳的思考の形式が人間の心の構造に大きく依存しているため

だと考えられる。私たちが直観的に考えるということは観念的な白紙状態に書き込まれた

道徳規則の所産ではなく、人間の道徳的思考の形式は非常に大きな範囲または程度に人間

の心がいかに進化してきたかによって形作られているのである426。道徳判断に関連する社

会的情動反応が重要であることは、脳損傷による高次脳機能障害を伴う情動コントロール

の不全を通じても示される。上述した 2 つの道徳ジレンマ実験を背景に、正常な社会的情

動を司る脳の前頭葉腹内側部(VMPC)に選択的な障害を受けた患者を被験者とした関連

質問の回答を比較することで、次のことが明らかになった。「VMPC 患者の社会的道徳的

規範の知識は正常であったが、他者を傷つけることの情動反応が欠如しているので、彼ら

は他者を傷つけまいとして多数の利益を最大化する意見に賛成するという方略をとってい

るのかもしれない。もしそうならば,VMPC 患者は(情動反応との競合が少ないはずの)

低葛藤条件では正常なパターンの判断をするが、高葛藤条件では異常なパターンを示すと

予想され、結果はまさにその通りであった。この結果は。VMPC は道徳的な判断全般では

なく、社会的な情動が強く関与する道徳的ジレンマにおいてのみ重要であることを示して

いる。別の言い方をすれば、VMPC は意識/推論ではなく、本能/情動システムに重要な

424 Greene, Joshua. 2003. “From Neural ‘Is’ to Moral ‘Ought’: What Are the Moral

Implications of Neuroscientific Moral Psychology?” Nature Reviews. Neuroscience 4 (10) (October): 846-9; Singer, Peter. 2005. “Ethics and Intuitions.” The Journal of Ethics 9 (3-4) (October): 331-52; Greene, JD. 2008. “The Secret Joke of Kant’s Soul.” In Moral Psychology, Vol. 3: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and Development, ed. Walter Sinnott- Armstrong, 35-79. MIT Press.

425 Greene, Joshua D. 2009. “The Cognitive Neuroscience of Moral Judgment.” In The Cognitive Neurosciences IV, ed. M.S. Gazza, Cf. p.987. MIT Press.

426 Greene, Joshua. 2005. “Cognitive Neuroscience and the Structure of the Moral Mind.” In Innateness and the Structure of the Mind. Vol. I.Structure and Contents, ed. P. and Stich. S. Laurence, S., Carruthers, 338-352. Oxford U.P.

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神経機構であることを示している。427」つまり VMPC 患者は感情的反応を生成するための

重要な神経的基盤の不備が生じている為、健常者のように適応力のある意思決定を下すこ

とができない428。

なお付言すれば、法に関連する心理的活動と社会的行動を、認知科学の発展に際してど

のように扱うか、その基盤をなしているものを認知性神経科学の方法と技術によってどの

ような意味において解明すれば生理学的過程が法的思考に対応すると言えるだろうか、ま

た、どのような意味において、脳イメージングによって道徳性を得ることができると言え

るだろうかということについて、既に神経法学(neurolaw)という学際的分野において研

究が展開されている。例えば、コモン・ローの伝統からみた刑法における当罰性と可罰性

をめぐって加害行為と加害目的を要件として論じたが、行為確信と行動結果は、認知神経

科学のアプローチを通じて道徳的判断に役立つ信念帰属のための一般的な要件を明らかに

するきっかけを与えるだけでなく、神経・行動レベルの両方におけるプロセスの相互作用

に依存していることも示している429。また道徳性と規範性との関係については、実質的な

規範直感(substantive normative intuitions)という視点からの認知神経科学的研究があ

る430。道徳判断における意識的推論と情動的直感の役割についての道徳心理学的実験は、

以下のことを示している。すなわち、いくつかの道徳原則は、被験者の大多数において意

識的推論という形で認知可能であるが、単純な推論という方法で認知できないということ、

および、直感的プロセスで道徳原理を理解することができるように思われるということで

ある431。脳科学の研究により、規範(特に法律)を理解することは認知プロセスによって

427 川合伸幸「道徳認知に関する最近の心理学的・神経科学的研究の紹介」Cognitive Studies,

14(3):459(2007) Koenigs, Michael, Liane Young, Ralph Adolphs, Daniel Tranel, Fiery Cushman, Marc Hauser, and Antonio Damasio. 2007. “Damage to the Prefrontal Cortex Increases Utilitarian Moral Judgements.” Nature 446 (7138) (April 19): 908-11.

428 Greene, Joshua D. 2009. “The Cognitive Neuroscience of Moral Judgment.” In The Cognitive Neurosciences IV, ed. M.S. Gazza, MIT Press, Cf.p.989.

429 Young, Liane, Fiery Cushman, Marc Hauser, and Rebecca Saxe. 2007. “The Neural Basis of the Interaction Between Theory of Mind and Moral Judgment.” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 104 (20) (May 15): 8235-40.

430 Berker, S. 2009. “The Normative Insignificance of Neuroscience.” Philosophy & Public Affairs 37 (4): 293-329.

431 Cushman, F, L Young, and M Hauser. 2006. “The Role of Conscious Reasoning and Intuition in Moral Judgment: Testing Three Principles of Harm.” Psychological Science 17 (12): 1082-9.

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制限されると同時に、人間の認知プロセスを形作る。その認知プロセスの活用は、現行の

法制度の理解と社会福祉の向上の為に、単なる抽象的な数理モデルや、経済現象を利己的

個人に還元したモデルよりも強い説得力がある432。法概念の理解と発展は主体の情動的要

素——例えば愛の感情、美しさの鑑賞、カンニングする欲求、相手が何を考えているか想

像すること等——の実現に依存している。現代の神経技術は、主体の心理活動や精神状態

は、通常脳全体での特定の神経活動に相関していることを明らかにした433。神経科学は既

存の法的原理に従う我々のパターンを説明するのみならず、法律上の変革の可能性をもも

たらす。神経科学の発展は、今ある法的原理を弱体化することによってではなく、自由意

志と責任についての人々の道徳的な直観を変換することによって、新しい法的原理を提示

する。重要な新事実や巧妙な新論説の発見からではなく、認知神経科学が提供する鮮明な

イラストレーションによる道徳的な直観の変化は、従来の見解の新たな解明をもたらすの

である434。

このような研究によって、情動的アプローチは、道徳認知および法の理解に対し、非常

に重要な役割を果たしているということが明らかになった。現代の科学研究・実験におい

ては生体情報をもとにして、人間の感情的情報を客観的に分析する方法がしばしば用いら

れ、そこでは人間の認知モデル・行動発達に影響を与える要因を解明される。生理解剖学

と神経細胞学的次元によると、大脳辺縁系において「ミラー・ニューロン」と呼ばれる神

経細胞が情動と最も関係の深い中枢神経構造である。 人間行動のパターンに関して、自分

の行動と他人の行動にが「鏡」のように同じような主体的関与的反応様式をもつことは、 イ

タリアの神経生理学者であるリゾラッティ(Rizzolatti)とそのグループによって発見され

た435。脳科学研究において、fMRI を通じ、被験者の脳活動レベル(BA-Level)を解析し、

432 Chorvat, T, and K McCabe. 2004. “The Brain and the Law.” Philosophical Transactions:

Biological Science 359 (1451): 1727-36. 433 Zeki, S, and O Goodenough. 2004. “Law and the Brain: Introduction.” Philosophical

Transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological Sciences 359 (1451): 1661.

434 Greene, Joshua, and Jonathan Cohen. 2004. “For the Law, Neuroscience Changes Nothing and Everything.” Philosophical Transactions of the Royal Society of London. Series B, Biological Sciences 359 (1451) (November 29): 1775-85.

435 Wolf N.S. and Gales M.E. and Shane E. and Shane M., 2001. “The Developmental Trajectory from Amodal Perception to Empathy and Communication: The Role of Mirror Neurons in This Process.” Psychoanalytic Inquiry 21 (1): 94-112.

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233

または心電のデータに基づく心拍数レベル(HR-Level)により、脳波と同様に正変換(FFT)

で周波数分解したうえで、心拍数変動指標(LF/HF)から被験者の内面的な情報を導出す

ることもなされている。 共感や同情等の主体感覚(sense of agency)的体験は、他人の情

動的反応を共有することで生じる共鳴や道徳的認知や推論の原始的な基盤形成において重

要な役割を果たすものと考えられる。それは、意思決定や社会的活動における情動と感情

の役割を理解することによって、規範意識や他者に対する共感性の乏しさを特徴とする社

会性の発達障害になる主な原因が明らかになり436、また、道徳的推論および他者理解の可

能性が生じるとともに、道徳能力の発達に必要な働きかけとしての情動的共感性が考えら

れる437。しかし、「情動的関与」という非常に複雑多様かつ高度な知性の能力における、心

の働きという人間の精神的な作用の機制に関する脳科学研究は、心の中にある情動という

主体的体験に対して、どのような生理的な反射と神経回路が関係するのだろうかという問

いに対する答えはまだはっきりとはしていない438。

ここまで見てきたように、道徳認知に関する最新の研究は、規範理解と意思決定の神経

科学的理解や生物学的基盤のみならず、特に社会的場面で生じる社会的情動にかかわる歴

史や伝統に依存した文化や動機づけの状態も道徳認知に関連するとしている439。しかし、

道徳認知には重要な役割を果たしている「共感」は単なる生理現象に還元されるものでは

ない。それは、個としても同類の集団としても、社会的発達においても把握されなければ

ならないものである440。例えば社会学や政策学との関連において、正義の受容と変容に関

する「情動」の問題をさらに追究が求められよう。ここまでに整理してきたような脳神経

436 Decety, Jean, Kalina J Michalska, Yuko Akitsuki, and Benjamin B Lahey. 2009.

“Atypical Empathic Responses in Adolescents with Aggressive Conduct Disorder: a Functional MRI Investigation.” Biological Psychology 80 (2) (February): 203-11.

437 Sommerville, Jessica a, and Jean Decety. 2006. “Weaving the Fabric of Social Interaction: Articulating Developmental Psychology and Cognitive Neuroscience in the Domain of Motor Cognition.” Psychonomic Bulletin & Review 13 (2) (April): 179-200.

438 J. E. Ledoux, 1986, The neurobiology of emotion, In J. E. Ledoux and W.Hirst (eds.),Mind and Brain, Cambringe University Press, pp. 301-54。

439 この視点からの紹介と整理について、参照:Moll, Jorge, and Roland Zahn. 2005. “The Neural Basis of Human Moral Cognition.” Nature Reviews: Neuroscience 6: 799-809.特に

道徳認知の中に歴史的要素の役割と重要性について、Cotkin, G. 2008. “A Conversation About Morals and History.” Journal of the History of Ideas 69 (3): 493-7.

440 仲島陽一「共感の生理学と病理学」 国際地域学研究 12 号 112 頁(2009)

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234

生理学的観点による理解では、感情・情動による主体的関与現象は反応能力と主体的関与

メカニズムの十分な説明にはならないように思われる。脳イメージングを軸に人間の感情

的・情動的な過程の神経基盤を探ってきた脳科学的手法よりも、むしろ規範的立場から正

義論を考究してきた法哲学のレベルでの主体的関与を考えるべきではなかろうか。もっと

も、これはきわめて困難な問題なので、本論文では十分に議論することはできない・主体

的関与について、以上のように既に述べた道徳心理学・脳・神経科学研究の説明に関して

はこの補論ではこれ以上は立ち入らない。

小 括

第1章において現代正義論とその批判の概要、第2章においてロールズの説く理性概念

とその変容、第3章において公共理性およびリベラルな政治文化について考察したが、本

章では、その成果を踏まえ、本論文にとってももっとも重要な「正義感覚」について、正

義理論は「正義感覚を記述するもの」である、と説くロールズの含意を確認し、その拡張

可能性について論じ、能動的主体性という観点から、以下ことを明らかにした。

正義感覚は、当事者たちが最終的に選択した諸原理を忠実に守るという形式的道徳能力

として、「正義の受容」あるいは遵法精神を意味するもので、「正義の感覚」ともいいうる。

他方で、正義感覚は、不平等や不公正に対する抵抗、それらの是正を要求する動機ともな

りうるもので、「不正義の感覚」でもある。

正義感覚のこのようなアンビヴァレントな性格に即して、本章ではさらに、正義感覚の

「規範的性格」と「実践的性格」を整合的に析出し、正義感覚を理解するための複眼的思

考を確立した。そして、多様な価値観を有する人々や諸集団を内包している政治的共同体

において、正義に適うとされる価値観を浸透させるにはどうすればよいかという正義の展

開の可能性について検討したが、その際には、「不正義の感覚」、「実践的性格」に着目して、

正義感覚を正義の二原理と同様に原理のレベルで認識する必要があると主張した。ロール

ズによれば、「正義感覚」は、一つの道徳的感情を基礎として成立するものである。また、

特定の人々に対する愛、信頼、相互敬譲といった「自然な感情」にはじまり、やがてあら

ゆる人々に妥当するものとして普遍化されてはじめて完成するものである。ここでは、正

義の二原理に先立つ原理、いわば正義の端緒としての正義感覚が提示されている。ロール

ズによれば、正義の理論は、我々の正義感覚の記述に他ならない。このような正義感覚は

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235

正義の二原理の根本的基盤であり、一連の正義原理はここから導かれる。それゆえ、ロー

ルズにおける正義の二原理の設定、すなわち原初状態において無知のヴェールを被った

人々の合意という設定は、正義感覚を抽出するための条件といえる。正義の二原理は、こ

のように抽出された正義感覚をそのまま記述したものであって、正義感覚と正義の二原理

は、対象とその写像の関係にあり、正義感覚がなければ正義の二原理は成立しえない。そ

して、正義感覚は、政治的共同体を構成する人々が正義を発見し、あるいは受容する端緒

として、政治的共同体の安定性の確立にとっても重要なものとなる。

第1節では、ロールズの正義感覚に関する通説的理解を批判的に検討し、正義感覚は、

形式的な意味における道徳能力だけでなく、自由の実質的な平等を保障する根拠となるこ

とを示した。また、その感覚は、選択された正義の二原理を忠実に遵守し、正義理論を受

容するだけでなく、現実になされる政治的決定に対して、それが不公正であると抗う動機、

抵抗の妥当根拠ともなりうるものであることを明らかにした。

第2節では、ロールズが「正義理論は正義感覚を記述するものである」と説いている含

意について、内的視点および外的視点から再確認し、正義感覚が正義の二原理の選択に重

要な影響を与えるのみならず、正義の二原理を受容する端緒条件としても重要な役割を果

たしていることが明らかになった。ロールズは、リベラルな政治文化において自己の生き

方を尊重してもらうためには他者の生き方を尊重し、他者から礼儀正しく接してもらうた

めには自己も他者に礼儀正しく接しなければならない、という規範的期待を正義感覚に委

ねている。

第3節では、能動的主体性という観点から、ロールズが市民的不服従について述べてい

る論考を手がかりに、第1節で明らかになった正義感覚のアンビヴァレントな性格に即し

て、正義感覚の規範理論と実践における意義について検討した。本節では、規範理論にお

ける意義、すなわち「正義の受容」における役割について論じている。正義について能動

的に、主体的にその是非を判断できる個人には、正義感覚が備わっていなければならない。

多様な包括的教説を信奉する多様な人々がそれぞれ同様に尊重されるために必要な条件を

把握する能力として、正義感覚は重要であり、その陶冶も求められる。あらゆる人々に備

わっている正義感覚により、政治文化の相違を超えて正義の二原理が受容されうる。すな

わち、リベラルな市民社会において公正な配分と対等な配慮を要請する正義感覚によって、

各人の環境や背景的文化を理解し、その相違を相互に認め合うことが可能になり、その結

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236

果、各人の平等な尊重が間主体的関与によって効果的に確立される。正義感覚は、あるべ

き行為や実践を促すという意味で、市民の権利意識を高め、シティズンシップの形成とそ

れに基づく政治的、社会的実践の可能性につながると考えられる。

第4節では、正義感覚の実践における意義、すなわち「是正要求や抵抗の妥当根拠」と

しての役割について論じた。このような役割は、ロールズの通説的理解において充分に理

解されていない。そこでは、正義とは何かという規範論と正義をどのように実現するかと

いう方法論とが交錯する契機として、「拡張された共感」に着目し、ロールズの正義理論の

受容可能性を拡大させる具体的な方途が重要であって、それは、市民的主体性に立脚した

関与(コミットメント)を重視する方向への転換である。正義感覚は、正義の二原理に記

述されるもの、正義の二原理の起点であるとともに、多様な包括的教説を信奉するすべて

の人々が有するものであり、正義に適う価値観の受容可能性を担保するとともに、あらゆ

る政治的共同体において正義の二原理が実効的に機能しうることを担保するものである。

あらゆる人々が正義感覚を有しているという場合、ロールズは、人間の主体性に着目して

いる。正義感覚は、人々の能動的主体的地位を重視している。人々は、自由で平等な主体

性の確立を志向しつつ、「正義の受容」として秩序の形成と維持に、また不正義の是正と

して市民的不服従に主体的に関与する。その結果、政治的共同体の紐帯も強められる。こ

の「主体的関与」に関する理解を深めるため、ロールズが正義感覚に託した役割に、平等

志向性の強化、政治的共同体の紐帯の強化だけでなく、法的に思考する主体性の強化が含

まれていることを明らかにした。

第5節では、補論として、現代心理学・神経科学における実証的研究の成果を踏まえ、

正義感覚、すなわち情動という主体的要素も道徳認知に大きな役割を果たしていることを

確認した。また、正義感覚の形成、維持、変更が歴史や伝統の反映された文化的あるいは

社会的コンテクストに依存していることも明らかにした。

本章において、正義感覚はロールズの正義理論において重要であるだけでなく、ロール

ズの正義の二原理の受容可能性を拡大させるためにも重要であることが明らかになった。

そこで次の第5章では、人々にこのような正義感覚が備わるプロセスを確認する。ロール

ズによれば、正義感覚は、再認によってもたらされる。「再認 recognition」は、正義感覚の

契機であり、「正義の構想に対応する正義感覚を生みだす」ものである。したがって、次章

では、この「再認」について詳しく論ずることにしたい。

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第5章 再認による主体的関与:ロールズ正義理論の拡張解釈の確立

はしがき

本章では、「再認」という概念の意義を明らかにする。ここで言う「再認」は、Recognition

の訳語である。Recognition は一般的には「承認」と訳されるが、本論文では「再認」と訳

す理由はなにか。

本論文では序章から4章までをとおして、「自由で平等な市民が正義原理を公共的に受諾

するための基礎」について論じてきたわけだが、「再認」こそ、その基礎となる。4章では、

ロールズの正義感覚を概観しながら、「再認」について再考しなければならない理由を説明

した。ロールズは、人々の正義感覚を陶冶する契機として承認という概念を提示していた。

「ある正義の構想が社会システムによって実現されていることが公共的に承認されている

ならば、その承認がその構想に対応する正義感覚を生み出す傾向がある(TJ, p.154/240 頁)」。

この場合、人々が正義感覚を獲得し、かつ正義の諸原理に合致して行動したいという欲求

を発達させる傾向にあるならば、正義の諸原理が公共的に受容され、普遍的に適用される

ということを帰結的に捉えて、Recognition を「承認」と訳すのもよいかもしれない。また、

ロールズの説く Recognition は、ヘーゲルの説く「承認」、すなわち「生死をかけた政治権

力闘争」ではなく、むしろ正義原理が適用されないままに残されている領域を改善し、市

民社会全体の正義の水準を向上させるためのものである。それ故、以下では、人々の市民

的主体性を強調するためにも、またヘーゲルの「承認」の趣旨と区別するためにも、正義

原理の実践的主体が合理性と適理性によって導出された原理を各自の正義感覚をとおして

受容する、という意味で Recognition を「再認」と訳すことにしたい。

ロールズは、その正義理論における「公共理性」、「リベラルな政治文化」、「正義感覚」

等の説明において、「再認」を頻繁に用いているが、それを定義していない。したがって、

本章の課題は、ロールズの正義理論、とりわけ正義感覚の起点として、「再認」がどのよう

な役割を果たしているかを明らかにするところ、また法思想史的観点から、一般的な「承

認」とロールズの「再認」を比較し、その異同を明らかにするところにある。そのため、「再

認」がいかなる概念であるか、だけでなく、いかなる概念ではないのか、についても説明

することになろう。

ロールズによれば、「再認」には「正義の構想に対応する正義感覚を生み出す傾向がある

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238

(TJ,154/240 頁)」。しかし、ロールズは、「再認」が正義感覚を生み出すメカニズムについ

ては何も説明していない。正義感覚を生み出す具体的な方途が提示されなければ、ロール

ズの正義感覚は、何か存在しているようでも決してたどりつけない蜃気楼のようなものに

すぎないということになってしまう。「再認」を起点に正義感覚が生み出されるメカニズム

について説明するため、第1節ではロールズの「再認」概念を再確認し、第2節で主体的

関与という視点を確立し、第3節において、「主体的関与」としての「再認」について説明

する。

第1節 ロールズ正義理論における再認概念の検討

第1款 2 つの再認のモデル:「権力闘争的承認」と「法的承認」

Recognition は、再認という意味で理解する場合、すべての当事者が正義の諸原理を公共

的に受諾するための基礎となるということを意味する。こうした意味において、その社会

の構成員たちは自律的であり、人々が承認する責務は自ら課したものとなる(Cf. TJ,

p.12/20 頁)。ロールズは、正義感覚を導き出す契機として「再認」という概念を提示した。

「ある正義の構想が社会システムによって実現されていることが公共的に承認されており、

その承認が当の構想に対応する正義感覚を生み出す傾向がある(TJ, p.154/240 頁)」。正義

感覚を獲得し、かつ、原理に合致して行為したいという欲求を発達させる傾向があると仮

定した場合、認容可能な正義の構想についての評価は正義の諸原理が公共的に承認され、

普遍的に適用された場合の一般的帰結の観点から出発しなければならない。そのことは、

包括的な宗教的、哲学的、道徳的諸教説がリベラルな政治文化において穏当な多元性の事

実として普遍的に存在しても、公共理性によって承認されない教説の主張を非公共的空間

から公共的空間へと移行させるために必要とされる共通感覚が一般的に成立していなけれ

ば、包括的教説は、非公共性から公共性への転化ができないということである。そして、

立憲民主制において自分たちの振る舞いが遵守すべきルールと合致しているという互いの

理解に関する相互承認は、正義の諸原理が有効となるための基礎であり、自然本性的な義

務・責任を再認するための前提である441。 441 ロールズの相互承認という考え方は、カントにおける法の普遍的自由の実現のための基礎と

なる定言命法との近い関係にある。「定言命法は、法における普遍的自由の実現の為の基礎と

なる。その実現の為には、個々人の自由は他の理性的存在者との共同体へと整序付けられなけ

ればならない。この整序化を経て初めて個々人の自由は法における普遍的自由と一致する。こ

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ロールズは、「制度および社会の基礎構造なるものが、<諸ルールの公共的体系>である

という言明に、以下のような意味をもたせている。すなわち、それらのルールとルールが

規定する活動への参加とを合意がもたらしたとすれば、その場合に当事者として了解して

いるはずの事項を制度に関与している全員が知っている、ということである。ある制度に

参画している人は、自分と他の人々に対してルールが何を要求しているかを知っているこ

とを知っていること等々も、承知している。言うまでもなく、こうした条件は実際の制度

においてつねに充たされているわけではないけれども、ことがらを単純化して示すのには

穏当な想定である(TJ, p.48/77 頁)」。この相互承知という意味において<公共的>なもの

だと理解された社会の制度編成にこそ、正義の諸原理は適用される。

再認によって、公共性のみならず、自分の善の構想は社会において価値あるものと見る

ことができる。人々が主観的・主体的に抱いたニーズや利害関心は、承認された自己肯定

感とともに、政治的諸制度において適正な配分が実現されることへの期待となる442。さら

の普遍的自由による調和を通じてのみ、自己と他者のそれぞれの自由は法において保障され得

ることにある。」つまり、カントは法規範を「人格の自律性との内的関係にあるもの」として

構成し、普遍的原理をなすために、「自己と他者の両方に関係」するのみならず、さらに「自

己と他者との間主体的関係性」を遂行しなければならないと考えたのである。「法は英知的要

素のみによって基礎づけられるものではなく、それと同時に構成的メルクマールとして外面性

という経験的要素が重視されなければならない。自己と他者の外的な現象としての自由を普遍

的な視点から調整するのが法の役割」であり、これもカント的承認の役割と考えられる。飯島

暢「法概念の基礎としての相互承認関係」法学政治学論究第 47 号 166-8, 171 頁(2000)。

ロールズは正義の受容を通じて人々の関係性を重視することで社会的協働の公正なシステム

を探究する際に、具体的な主体の自己受諾から出発し、かつ自己を超えて他者存在をも踏まえ

た相互承認活動と結びついており、公共理性の前提から正義原理の内容を演繹的に導出すると

いう意味で、カントとの近い関係がある。 442 田中智彦によれば、承認は人間の条件の 1 つであり、人間にとって普遍的なニードの 1 つで

もある。これはアイデンティティの生成および尊厳の保有ならびに差異に対する対等な配慮に

関係し、ニードを権利に転化する=法に書き込むことにも重要な役割を果たしている。田中智

彦「承認のニードと<法=権利>の主体のゆくえ——哲学と思想史の視点から——」法社会学

第 64 号 12-27 頁参照(2006)。こうした視点を踏まえ、意識形態(イデオロギー)の対立の

緩和によって個人のアイデンティティは階級・階層といった政治的アイデンティティから、ジ

ェンダー、セクシュアリティ、エスニシティ、ハンディキャップ等の文化的アイデンティティ

へと拡散するようになっている。いわゆる「多文化主義」の潮流のもとで、それらの文化的ア

イデンティティは「少数者への対等な配慮」の問題として浮かび上がるにようになって、「正

義論は<承認>という新しいテーマを発見することになったのである。」向山恭一「多文化主

義と「承認」パラダイムの正義論」法学研究 70 巻 2 号 324 頁(1997)。ロールズはこのよ

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240

に、公共的に承認したことは、個々人の自尊の促成と発展に対する強力な支援を提供し、

ひいてはこれが社会的連携・協働の有効性や実効性を保障する。「人々が満足げに自分の善

の構想を追求し、その成就を楽しむことができるためには、自分自身に価値があるという

感覚を欠かすことができない……私たちの自尊は通常、他者が示す敬意に依存している。

私たちの奮闘努力は他の人々から尊重されていると感じるのでない限り、私たちの目的が

促進するに値するという確信を維持することは、不可能ではないまでも難しい(TJ,

p.155-6/242 頁)」。

したがって、人々の承認を相互の敬意として公共的に表明し、自己と他者を尊重する傾

向が認められるならば、政治的共同体の基礎構造における諸権利の根拠を——とりわけ他

者のニーズ・善の構想を斥けようとするときに——説明するように求めるようになり、相

互の承認による相互の尊重という人間本性的な義務を当事者たちは受容することになろう。

すなわち、「その社会のメンバーが約束をする際には、それぞれが自らに責務を課す意図が

あることに関する互恵的な承認が存在しており、その責務は尊重されるという合理的な理

念が分かち合われている。制度編成の創設と存続が可能となるのは、まさにこうした互恵

的な承認と共有された知識による。(TJ, p.305/459 頁)」こうした市民としての礼節の義務

がある程度は承認されないと、正義感覚にある相互の信用と信頼が崩壊していくとともに、

立法過程も正当な結果を達成するものだと認められなくなることにより、制度編成は不可

能になる。これをうけて、立憲民主制の社会では、自由で平等な人々の意欲ある協働の基

本的な条件として、正義の原理がおおむね公共的な承認を得られているものと想定される

(TJ, p.335/503 頁)。その結果として、承認概念の実践的側面は、市民的不服従に象徴的

に現れる。それは、社会制度編成が成立してしまったものに対して、社会的構成員である

当事者は市民的不服従をとおして、「コミュニティのマジョリティの正義感覚」に訴え、異

議申し立ての措置の真剣な再考を促し、反対派の人たちの強靭な確固たる意見では社会的

連携・協働の諸条件が最小限尊重されていないことを警告する、という「法に反する、公

うな社会的現実と理論的要請を無視するわけにもいかないだろうということで、あえて『正義

論』から『政治的リベラリズム』へと取り上げることにしたのではないと私は推測している。

だから『正義論』において「自己」概念の抽象化によって正義原理の普遍化を目指すロールズ

は、『政治的リベラリズム』において「多元性の事実」を認めた上で具体的な人間を、内部的

には等質的で相互には異質的な存在として捉えることによってはじめて「自由の平等」を真に

提唱することができる。

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共的、非暴力的、良心的、かつ政治的な行為」である。ここに、ロールズの正義理論にお

ける「承認」の特徴がある。

「再認 Anerkennen/recognition443」の概念は、社会哲学、政治哲学及び法哲学的次元に

おいて G.W.F.ヘーゲル的意味で L ・ジープのいうところの「承認をめぐる闘争」としてよ

く取り上げられる444。思想史的文脈からみれば、「承認をめぐる闘争」は、ホッブズにおけ

る「万人の万人に対する闘争 」の体系的機能と親近性を持つものとして扱われた445。ハー

バーマスは、マルクスの「資本家とプロレタリアート」の階級対立と階級闘争の論理を、

ヘーゲルのイェーナ(Jena)時代の精神哲学における「主人と奴隷の弁証法」という承認

をめぐる闘争で解釈する。そこでは、労働と相互行為の関係とその調整に読み取れる動的

なプロセスを、フロイトの精神分析的な対話モデルにもとづき、支配関係によって歪曲さ

れたコミュニケーションと内的自然の抑圧が対話的な啓蒙と反省化によって克服されるプ

443 「語源的に言えば、Anerkennen は「なにかを妥当なもの、拘束力あるものとしてみとめる

こと」を意味する。Erkennen にもそってそのような意味があり、なんなる「認識」の意味か

らこれを区別するために前綴 an を付した語が作られた……英語の recognize は最初は法的な

意味で(14 世紀のスコットランドではとくに封建領主が領土を回復するという意味で)用い

られ、16 世紀に「真なるもの、妥当なものと認める」という意味が生じ、「再認識」という

意味は 18 世紀になって生じたとされる。」高田純「ヘーゲルの相互承認論の形成と構造⑴」

経済と経営 19 巻 2 号 6-7 頁参照(1988)。 444 政治的闘争という文脈から理解された承認概念について、アクセル・ホネットによれば、「承

認とはそれ自体相手を尊重する意識・姿勢を含んでおり、そうでなければ相手はその主体によ

る承認を受け入れず、それは相手を否定的に認める非承認を意味することになる。」こうした

承認概念は「単に他者の存在を感覚的に認識することではなく、主体が意識的にその他者を家

族、友人、同僚、同胞として、その個性、知力、能力も含めて受け入れることを意味する」の

である。他者を承認するための前提としては、「主体はその他者から承認されているというこ

とを知覚する必要がある。」つまり、承認は「相互プロセス」なのであるが、「同時にそれは

己の自己中心性について主体に気づかせ、相手から承認されるために、利己心を制御し、人間

性を高め、徳を磨くといった努力を主体に促すプロセス」でもある。小林久子「分配から承認、

そして再度統合へ:紛争解決プロセスの重層性について」法政研究 72 巻 4 号 908 頁(2006)。 445 Siep, Ludwig. 1974. “Der Kampf Um Anerkennung. Zu Hegels Auseinandersetzung Mit

Hobbes in Den Jenaer Schriften” Hegel-Studien 9: 155-207.また、ドイツにおける法承認論

に関する法思想史的文脈からの考察は、参照:大橋智之輔「ドイツにおける法承認論」大橋智

之輔ほか編『現代の法思想:天野和夫・矢崎光圀・八木鉄男先生還暦記念』(有斐閣, 1985)2-29頁参照。

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242

ロセスとして承認が描かれている446。ヘーゲルの意味における「承認」を求めるために、

人間と社会は生死をかけた力による政治的闘争をする。つまり、「生命を賭けることによっ

てしか自由は確証されえない。自己意識にとって、ただ生きること、生きてその日その日

を暮らすことが大切なのではなく、浮かんでは消えていくような日々の暮らしのその核心

をなす一貫したもの——純粋な自立性(自主性)こそが大切だということも、生命を賭け

ることなしには確証されないのである」447。この意味での承認は、ホッブズから始まり、

ヘーゲルを経てマルクスに至る近代的政治理論において力が政治的な理論形成の転換をも

たらしていると言われるが448、これに対して、ロールズの承認論の主題は、再認をめぐる

承認の闘争よりも、むしろ承認が実現された状態、つまり、市民社会と既存の制度編成に

おいては、あの承認の成果をなすもの、すなわち承認されたあり方である承認状態にあり、

承認の闘争はそのための前提にすぎない。法の制定以後の段階において、ある制度や政策、

法律が妥当であるかどうか疑わしい場合には個々人は法に関する自分の責任倫理にしたが

って判断を下し、そうすることが正しいと思われる合理的な行動をとる。再認は、政治社

会における自己と他者の関係の規準としてだけではなく、規範の基礎づけや法的判断の正

当化手続としても注目されている449。ロールズの考える正義原理は、福祉や政策、そして

善に対する正について、自由原理>公平な機会均等原理>格差原理という順で、優先し

446 Habermas, Jürgen. 1968. “Arbeit Und Interaktion. Bemerkungen Zu Hegels „Jenenser

Philosophie Des Geistes“.” In Technik Und Wissenschaft Als „Ideologie“, Vgl.S.34-8. Frankfurt am Main.(長谷川宏訳)『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社, 2010)35-40頁。しかし、最近のヘーゲル研究により、ヘーゲルの構想とマルクスの労働疎外論との端的な

違いであると指摘されている。詳しく参照:中岡成文「ヘーゲル承認論における 「ひと」 と 「もの」 の媒介関係」メタフュシカ 38 巻 19 頁(2007)。

447 W.G.F.ヘーゲル(長谷川宏訳)『精神現象学』(作品社, 1998)132 頁。ヘーゲルにおける承

認論の意味について、高田純「承認・正義・再分配(上)(中)(下)——ヘーゲル『法哲学』

承認論の現代性——」札幌大学綜合論叢第 26・27・28 号参照(2008-9)。 448 アクセル・ホネット(山本啓・直江清隆訳)『承認をめぐる闘争』(法政大学出版局, 2003)

192 頁。 449 つまり「承認を基盤とする主体間関係もただ人倫的なだけでなく、それによって主体同士が

お互いの人間性を高め合うという拡大効果を秘めたものとして理論化されるのである。」小林

久子「分配から承認、そして再度統合へ:紛争解決プロセスの重層性について」法政研究 72巻 4 号 909 頁(2006)。

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(lexical priority)、理に適った人間としてのわれわれの本質の訴求を表す450。再認は社会

制度編成に付随するのではなく、社会生活の自由を本質的に特徴づける原理であるとロー

ルズは暗示しており、彼にとって再認は原理としての意味を有するといえるであろう。 む

ろんロールズは、正義感覚や承認などの概念について原理としては積極的に言及しないが、

彼は、承認を「人間が編み出し、感情や表現の様式を精緻化する」技法として考えている

(Cf. TJ, p.461/690 頁)。実際に、配分的正義としての二原理と、正義感覚の契機を生み出

す承認原理は、相互に関連して、配分的不正義による社会的不正と、権利運動がもたらす

社会秩序の混乱を予防することを重要な課題とする。

それ以外にも、recognition という言葉は正義感覚という文脈において「認知・認識」と

いう意味でも使われている。例えば、「公正としての正義」が実現されている社会における

正義感覚の発展は、一定の段階を経ながら、「子どもによる両親の愛情の認知(recognition)

が直接的に、応答的な情操を引き起こすとはありそうもない……子どもに対する両親の愛

が、親たちの明白な意図に基づいて子どもによって認知(recognized)されるとき、子ども

は一個の人格としての自分の価値を確信する(TJ, p.406/609 頁)」。また、そのような心理

学的原理に従う私たちや私たちが世話している人たちが確立し存続している正義にかなっ

た制度の受益者であると認識(recognition)することを通じて、それに対応する正義感覚

が私たちの中に生じる傾向がある(Cf. TJ, p.415/621 頁)。或いは、心理法則の作用に関与

している善に対する無条件的な世話・道徳的な指針についての明確な自覚・規範の受容と

いう3つの要素を正確的に認識(recognition)すれば、結果的にもたらされる正義感覚は

それの分だけ強まる(Cf.TJ, p.436/652-3 頁)。

以上述べたように、ヘーゲルの場合であれ、カントを重視したロールズの場合であれ、

再認概念が注目に値することに相異はないが451、正義と善き生をめぐる人間の実践領域全

般にわたる一貫した鍵概念の観点から評価する際において、基本的視点を定めたものにつ

いて考察を深めるべきだと考えられるため、それについて二点ほど指摘したい。

450 Taylor, R.S., 2003. Rawlsis Defense of the Priority of Liberty: A Kantian Reconstruction.

Philosophy & Public Affairs, 31(3): 258. 451 「イェーナ期ヘーゲルの承認論は、現代正義論において、自己のアイデンティティをめぐる

様々な議論の中でしばしば言及され、単にヘーゲル研究者にとってのみならず、広範な関心を

呼び起こしている。」(重松博之「ヘーゲル承認論の現在——A・ホネットの承認闘争論を中心

として」法哲学 1999 年報 120 頁参照)。

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第 1 に、そのヘーゲル流の権力闘争による事実上の承認に対して、ロールズは、正義概

念、概念構想、そして概念構想を示す正義諸原理ならびに諸原理によって支えられる諸制

度をとおして法的承認を求める。法的承認とは、力による権力奪取としての政治闘争から

分離し、主に制度化される公正の理念を求め、公共理性と正義感覚をもつ個々人が社会諸

制度のもとで原則として他の全ての人々と平等の法的権利を有し、自由で平等な人格的存

在者として対等な配慮と尊敬を受けるべきことを目的とするものである。したがって、個

人の人格の道徳的尊重(道徳的承認)には公共的に認められた権利としての制度的保障(法

的承認)が必要とされることは明らかである。つまり、承認が実現された状態、いわゆる

ロールズのいう秩序だった社会とは、法的承認による動的な平衡状態では積極的に権利追

求から始まり、既存制度や政策の不正・不備を改正し直すことで補完されて循環するシス

テムであり、柔軟性、持続可能性、そして社会全体としてのバランスを保つシステムを意

味するものである。この動的な平衡(循環)は、単なる往復の循環でなく、発展的な循環

かつ螺旋状の上昇を示しながら進化してゆく姿として、力による政治秩序の形成過程とい

うよりも、正義感覚と正義原理による政治社会の紛争解決や衝突緩和、法秩序の回復につ

ながるものであると位置づけられる。

この意味で、前章のロールズの正義感覚論において説明された「実践的平等」、「再認」

の意義がより明らかになる。正義感覚は実践的平等という性格を持ち、また、実践的平等

の目的を達成するために、承認が必要とされるのである。ロールズは、「生死を賭した闘争

による承認獲得」に対して、自分の正義理論における承認の主題は承認を巡り闘争ではな

く、市民社会において既存の社会制度編成を巡り、再認の状態をなすものを能動的に主体

的な関与をするということである、と考えている。この意味においてロールズにとっての

「承認」は、ここで言う「再認」のことである。ロールズは再認について、ヘーゲルが承

認闘争の理論設定上捨象していた「秩序」の問題を、カントの承認論を批判的摂取しつつ、

正義感覚論の中で批判的に再考しようと企て、承認の概念のうちにその方法を見出す。す

なわち、ロールズは「力による闘争」に対して、「正義原理」を鍵として、正義の政治的構

想を秩序だった社会における市民的主体の、正義原理によって設定された人間関係から出

発しつつ、漸次制度化されつつもいまだ正義感覚に合致していない状態における社会的蔑

視・軽視・差別視等の人間関係を正義感覚による主体的関与を通して回復しようと構想す

るのである。人間の相互関係に対する承認という構想よりは、むしろ、われわれは能動的

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な主体として、人間の相互関係を設定するルールの体系、すなわち「社会的協働という中

心的な編成概念(JF, p. 6/11 頁)」を公共的に承認するという構想に傾いていくと見ている。

「それ故、秩序だった社会では、正義の公共的構想は、市民たちが、政治的諸制度や相互

に対する政治的権利の要求をそれに従って調整できる、そのような相互に承認された視点

を提供するものである(JF, p.9/15 頁)」。

第 2 に、ロールズにとって「再認」は社会的及び政治的諸制度や人間的秩序を支えるも

のではなく、むしろ社会制度や秩序によって支えられている。また、不公正な制度におい

て、承認の欠缺がありうるからこそ恣意的評価・判断や社会的蔑視を防止せざるを得ない

ので、制度の不備と不正は承認の欠如をめぐる闘争の原因である452。こうした承認の欠缺

の問題に対して、ロールズの正義理論には、「正義原理によって満たされていないままに残

されている領域」を中心に取り上げることで、一切補完・更新が必要とされない正義の「閉

じた構造」に対して、理性・正義感覚・再認の立場から人間が完全に合理的な存在者では

ないと認める上でたびたび新たに現れた問題に対応するために、正義の観念を閉じた構造

から開かれた理解に変化させるという意味合いがある。もっとも、ロールズの議論は、正

義理論のなかでも、特に社会安定性を守る限りでのみ正義感覚を援用する理論枠組みの目

的性と方向性を示しているにとどまっており、実は社会安定性を達成するために、承認の

不備や欠缺によってもたらされた諸問題を解決するために、正義原理に即した実践的かつ

経験的な動機づけによる補完を必要としているといえるであろう。

以上の二点を要約すれば、静態的側面から見れば、ロールズの「再認」概念は、権利の

法的性格が見出されると共に、法体系を動的側面から捉え、その生成発展の原理は開かれ

た理解をとった社会的実践に基づいて社会制度を支える、諸規範の正当性を求めるものと

言えるだろう。なお、前章で述べたように、正義感覚を規範的側面から考察する際に、ロ

ールズ正義理論にとって重要な拡張契機の1つとしては、義務論的性格から権利論的性格

へと転換する可能性が見出される。また、そういった権利論的なものは、ただ実定法上の

452 アクセル・ホネットは承認闘争と承認原理の関係から、法的承認とそれに基づく措置が要求

されていると論じた。特に、承認原理としては、法的平等の原理に基づき、個人的業績の如何

には左右されない平等な社会権の承認と、それに伴う「基本財への平等的接近」を求めること

が重要であると考えていた。日本に展開されてきたホネット承認論の研究については、水上英

徳「労働と承認——ホネット承認論の視角から——」社会学研究第 78 号 73-94 頁(2005)、

水上英徳「アクセル・ホネットにおける承認の行為論——承認論の基礎——」大分県立芸術文

化短期大学研究紀要第 46 巻 89-102 頁。

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権利であるのみならず、道徳的権利、つまり道徳的正当性をも十分に規定し得るという点

である453。

第2款 法的承認とは何か:H.L.A.ハートの「承認のルール」を手掛かりに

ロールズの言う法的承認の意義をさらに考えてみるために、法体系のあり方についてそ

の基礎としての承認のルールの重要性を主張した H.L.A.ハートの法理論について少し考え

てみたい。ハートの法理論の特徴は、すべての法体系には構成要素である妥当なルールを

確認するための諸基準を定める承認のルールがあるということである454。かれのいう「承

453 正義感覚の視点から見た規範承認、即ち人に受け入れられる正当性規準が次のような性質の

感情を伴っている。つまり、「人のもつ正当性規準によって正当化される規範を、具体的場合

に、実際にも遵守するように、この人を動かすのに十分な動機づけの力をそれ自体としてもっ

ている義務感情。すなわち、その遵守がもっぱら目的のための手段として根拠づけられている、

純粋に「仮定的な」規範が問題となっているのではない。正当性信念はむしろ、純粋に道具的

な、規範名名宛人の個人的利益増大にのみ照準を合わせる戦略を越える行為動因を含むべきも

のである。この意味で、正当性帰属は真性の「道徳的」動機づけを伴っている。」ミヒャエル・

バオルマン(吉田敏雄訳)「規範承認、正当性および合法性の関係に関する十命題」法学研究

32 巻 3 号 602 頁(1997)。 454 深田三徳「法体系の究極的規準——ハートの承認のルールをめぐって——」矢崎光圀『現代

の法哲学』(有斐閣, 1981)196 頁。なぜハートの「承認のルール」はロールズの再認概念の

再考の手がかりとなるのかについて、主に 3 つの理由がある。1 つは 1953 年にオックスフォ

ードに留学して以来、ハート等から重要な影響を受け、私見によれば特に「承認 recognition」という概念の表現を通じてある意味での両者の共通な見解を示し、正義原理の妥当性を立証す

る際に承認の観念もロールズの学問的背景の 1 つとなるのである。さらに、手がかりとなる

のは、次の引用文である。「本書における私の目的は、法とは何かについての一般的かつ記述

的(general and descriptive)な理論を提示することであった。『法の概念』(第 2 版)p.239/60頁」この引用文は、ハートの『法の概念』という書物が、いったい如何なることを行おうとし

て書かれたものであるのかを示している。こうして提示された最大特徴は、ハートが「法」を

記述可能な対象として認識し、法に関する規範理論について、特定の法体系ないし法文化に関

係しない「説明に明確化する解明」を与えようとした「一般的かつ記述的な理論」だと考えて

いたということである。この「一般的かつ記述的」という点について、ロールズも『正義論』

において次のように述べる。「本書の場合だと、正義の理論を<私たちの正義感覚を記述する

もの>と見なしてよいだろう。こうした記述でもって意味されるものは、制度や行為に関する

私達が差し出す用意のある判断(およびそうした判断を与えるに際しての支持理由も含めて)

の単なるリストではない。むしろここでは、次のような一組の原理を定式化することが求めら

れている。すなわち、これらの原理に私たちのもろもろの信念および情況に関する知識を結び

つけることによって、制度や行為に関する判断を私たちが下せるようになるとともに、当該の

諸原理を良心的かつ知性的に適用したならば、これらの判断を支持する理由をも挙げることが

できるような、そうした諸原理である(TJ, p.41/66 頁)」。第 3 の理由は、前章の正義感覚

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認のルール455」は、第 1 次ルールに対する第 2 次ルールとして、「ルールの体系」の中にあ

る。「第 1 次ルール」とは、「物理的動きや変化を含む行動に関係」し、「これによって人々

は望むと否とにかかわらずある行為をなし、あるいは差し控えることを要求される」ルー

ルのことである。一方の「第 2 次ルール」は、「第 1 次ルール」と関係する「物理的動きや

変化だけでなく義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意」し、「第 1 次的タイ

プの新しいルールを導入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、さまざまなやり方

でその範囲を決定したり、それらの作用を統制することができるように定める」ものであ

る。それぞれの機能の相違点を簡潔に述べると、「第 1 次ルール」は義務を賦課する規範で

あり、その性質からして不確実性、スタティックな性質、非効率性などの欠陥があるのに

対して、「第 2 次ルール」は、上の特徴からルールの手続きや相互関係を承認・変更・裁定

し、「公的または私的な権能を付与する」規範である456。このうち承認のルールは、法的妥

当性を確保し、ある種の基本的な社会的事実との関連において社会的実践として確立され

るのである457。

とそれに開かれた理解に応じて、ハートにおける解明理論と概念の開かれた構造理論(例えば

『法の概念』121-32 頁)があって、方法論的側面からみた両理論が「開かれた」という共通

点を持っているからである。ハートの言う「一般的かつ記述的な理論」とはどのような理論な

のかについて詳しく、水谷誠司「2 つの法モデル——H・L・A・ハート『法の概念』「追記」

についての部分的検討——」同志社法学 54 巻 1 号 156-234 頁参照(2002)、また、ハート

における解明理論と概念の開かれた構造理論について詳しく、高橋秀治「H・L・A・ハート

における法的概念の分析理論に関する一考察」早稲田法学 67 巻 4 号 21 頁以下参照(1992)。 455 「Rule of recognition」は「承認のルール」が定訳であるが、「認定のルール」とでも訳す

ることができる。嶋津格「法における事実的要素——H・L・A・ハート『法の概念』を題材

に——」亜細亜法学 19 巻 1・2 号 289 頁(1985)。また、「体系内の法のルールを最終的に

確認する際に、その根拠として用いられる法の確認基準」という意味で、「確認のルール」と

いう訳語もある。布川玲子「H・L・A・ハートの法理論と遵法義務」山梨学院大学法学論集

10 号 51 頁(1986)。 456 H.L.A. Hart, 1961. The Concept of Law, Clarendon Press, pp. 79, 89-96.(矢崎光圀訳)『法

の概念』(みすず書房, 1976)90, 100-8 頁参照 457 承認のルールには、個人に義務をかすところの第 1 次規範の存在を前提とする。共通な特徴

は、「それが、第 1 次規範を考察するための決定的な基準を指し示していることにある。」

こうした基準によって指示される諸要素に権威を付与する。島津英郷「法の第 1 次規範と第 2次規範—— H・L・A・ハートの<第 1 次ルール>と<第 2 次ルール>をめぐるボッビオとガ

ヴァツィの見解——」法哲学 1970 年報 90-1 頁参照(1971)。

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ハートは被治者の視点や権利関係等が複雑に入り組んだ現代社会においてジョン・オー

スティンの「法が主権者の命令だ」という命題だけで法を説明することができないことを

指摘するとともに、ハンス・ケルゼンの「根本規範 Grundnorm」に対して、社会状況の変

化に応じた法体系が常に生成・流動・発展すべきという側面を、その時々の立法者の政策

形成・意思形成過程にすぎないとして過小に捉え、法自体の生成変化という視点を欠いて

いると批判した。社会規範の一つである法には、強制的性格は「法命令説=法は主権者の

強制的命令という命題」に見られる重要な一面であるが458、もう一つの面も見落されては

ならない。それは、法が制度的な公共性をもっていることである。法は人間に心理的脅威

を与える実体的なもの(例えば、直接的脅威としての罰、間接的脅威としての非難、否定

的評価)というよりも459、むしろ人間の外面的な生活条件や秩序におけるより良い人間関

係を築き相互の交流や理解を円滑にするために人為的に作られたものである。法命令説と

は、「いかなる国の法も主権者、あるいは主権者に服従する従属者によって発せられた威嚇

を背景とする一般的命令」であるとする考え方である460。代表的な論者であるオースティ

458 ルールと命令との区別およびハートの法=命令説批判の考察について詳しく、酒匂一郎「法

の自立性と法の批判⑴——H・L・A・ハートの法理論に関する一考察——」法政研究 57 巻 4号 89-116 頁参照(1991)

459 ここで、注意すべきことは、⑴法と法律との区別および⑵法と道徳あるいは法と倫理との区

別である。⑴「法律は,一定の権力機関が介在して確立される強制的な権力の裏打ちを伴った

人為的な規範の体系であり,法の非常に重要な一部分であることに違いはない。しかし,法そ

のもの(the law)は法律と同じではない。法律は法を一定の手続的条件のもとで主として要件

=効果の結合形式に則って明確化したものであるが,しかし法は常にその根源として存在して

いるのである。」(Cf. R. Dworkin, 1986, Law’s Empire, Harvard U.P., Chap. 1, 11.)⑵「法

と道徳あるいは法と倫理とは何らかの形で区別はされている。例えば最近の法哲学の議論では,

倫理(ethics)は個々人のそれぞれの善を表現するものであって,必ずしもそれが全ての人に

通用するわけではないと考えられる一方で,それに対して法はパブリックなものであり,倫理

とはレベルが異なると考えられることが多い。そうであるとすれば,一面では法と道徳とは異

なると同時に,他面では,例えば法を支える基本的な価値,特に自由や平等などは政治道徳の

基本価値として法と重合的ところもあることになり,ここに見られる関係は些か複雑である。

ともあれ,ここでは法とは単に法律,あるいは社会的ルールであるというにとどまらず,さま

ざまな規範を含みうる広い概念であると捉えられるということを確認しておきたい。」⑴と⑵

と関連して、「最近では,道徳,とりわけ政治道徳(political morality)として把握される公

共的な価値原則をも含めて法として考えるという方向での議論もある。」長谷川晃「公正な法

とその公共性」早稻田政治經濟學誌 357 号 25-6 頁(2004)。 460 H.L.A. Hart, 1961. The Concept of Law, Clarendon Press, p. 25.(矢崎光圀訳)『法の概念』

(みすず書房, 1976)28 頁

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249

ンは法を主権者(何者からも独立した支配者)からの命令として認識し、その命令には罰

則が付随すると考える。

ハートが『法の概念』において「威嚇・強制対受容」という承認の視点から法のあり方

を整理して以来、法哲学においては「強制的命令」と「ルール体系」という区別が為され

る。法を強制的命令というモデルとする理解に対して、ハートは次の3点にわたって構造

的な欠陥が背景に存在すると批判する。第 1 に、法の内容に関して、法には義務を課し、「制

裁」と「威嚇」を背景とする強制的命令と、それと全く異なる重要な部分がある。すなわ

ち、義務(duties)と責務(obligations)を課するという法の強制的な枠組みの中で、「個

人が権利、義務の構造を、一定の明確に規定された手続のもとで、また、一定の条件に従

ってつくり出す法的権能を彼らに与えることによって、彼らの願望を実現する便宜を提供

しているのである」461。ルール体系としての法は法的義務を課すだけではなく、立法権、

司法権に関する権能を付与したり権利を決定したりする。ただ単なる強制的ルールは、真

正な法的ルールの不完全な断片にすぎない。ハンス・ケルゼンの理論の場合、権能付与の

ルールは法の断片であるとして制裁の概念が拡大解釈されているが462、義務を生じさせる

条件、権利を与え定めているルールは、公的領域においても同じ様に事実を曖昧にすると

いう欠点をもっているので、法の概念を検討しなければならないとハートは主張する。第 2

に、法の適用範囲に関して、威嚇を背景とする強制的命令は、専ら他人に向けた形で立法

するだけで、立法者は法の拘束の射程外にいると考える。民主的な体系における「立法の

自己拘束性」は、法命令説では説明できない。法のルール説明により、「法を制定すること

は、約束する場合と同じように、その過程を支配している一定のルールの存在を前提とし

ているからである」463とハートは考える。第 3 に、法の起源の様態、すなわち「法的資格

は何に由来するのであろうか」という問題について「命令・制定法対慣習的ルール」とい

う対立構図からみると、ある法のルールは社会的習俗と慣習(custom)によって生まれる

ということ、つまり、意識的な法定立行為だけにより法は作られるのではないということ

が重要である。更に、現代社会において近代国家では主権者の黙示的に公開しない意志表

461 Ibid., p.27.同上書 31 頁 462 「法とは制裁を規定している第 1 次規範である。」Kelsen, Hans. 1949. General Theory of

Law and State. Trans. Anders Wedbergs. Harvard U.P., p.63. 463 H.L.A. Hart, 1961. The Concept of Law, Clarendon Press, p.42.(矢崎光圀訳)『法の概念』

(みすず書房, 1976)48 頁。

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250

明を慣習として考えるのは不可能であり、「一般的命令だけが法であるという理論を詳細に

吟味する必要がある」464と、ハートは主張する。このようにして区別された主権者命令説

そのものの分析において、命令説の致命的欠陥は、「その構成要素たる命令・服従・習慣及

び威嚇というような諸観念がルールの観念を含んでいなかった」ことである465。

法を強制的命令とする考え方は「法の支配」という立憲主義の理念を否定し、命令を下

す者は法の拘束から解放され、命令者は制度の範囲外に置かれることとなると捉える。そ

のような命令者の視点から法を見るかぎり、法の制度的な公共性は理解されない。なぜな

ら、法が人間の手によって作られるものであるという法実証主義的理解は、命令説の強制

的な側面のみと結びつくからである。この法の人為性はただ命令者によって与えられるも

のだという理解は、公的な場において人間相互の関係を一般的に規制するという意味で法

は制度的な公共性をもつということを看過している。それに対して、法を制度の内側から

見ると、そして法の制作・認識・再認という意味で、法の制度的な公共性をより深く理解

できる466。法が作られるということは、命令者による法の制定だけでなく、当該法域にお

464 Ibid., p.48.同上書 54 頁。 465 田中成明「判決の正当化における裁量と法的規準——H・L・A・ハートの法理論に対する批

判を手がかりに——」法学論叢 96 巻 4・5・6 号 177-8 頁(1975)。ハート自分の考えによ

れば、「承認されたルールは、習慣的に従われる命令ではないし、人への服従の習慣として表

現できるものでもない。それらは法体系の根源に位置するのであり、功利主義の枠組に最も欠

けているのは、社会集団とその公機関がそのようなルールを受け入れるとはどういうことかに

関する分析である。オースティンが主張する命令の観念ではなく、この観念こそが「法の科学

への鍵」である。少なくとも鍵の 1 つである。」H.L.A.ハート(上山友一訳)「実証主義と

法・道徳分離論」(矢崎光圀・松浦好治訳者代表)『H.L.A.ハート 法学・哲学論集』(み

すず書房, 1990)68 頁。 466 承認のルールが「裁判所や他の人々によって、そのシステム内の個々のルールの同定に際し

て使用されることが、内的観点の特徴なのである。承認[認定]のルールをそのようにして使う

人々はそれによって、承認[認定]の諸ルールを指導ルールとして自分自身が受容(acceptance)しているということを現している(manifest)のであり、この態度には、外的観点に自然な

諸表現とは異なったある特徴的な用語群が伴う。」ここでは「内的観点」を通した「ルールの

受容」があって、それはすなわち「承認[認定]のルールの綱の目を通して第 1 次ルールを見て、

それについて語る(またはそれを記述する)ことである。承認のルールの受容はこの活動の中

に表明(manifest)されているのであり、それと別にこのルールの自覚的・意志的に受容が

あるわけではない。承認のルールの受容に於いて自覚されるのは、むしろ第 1 次ルールに属

する個々のルールなのであり、それの認定の仕方の中に、承認[認定]のルールは体現されてい

るのである。」嶋津格「法における事実的要素——H・L・A・ハート『法の概念』を題材に

——」亜細亜法学 19 巻 1・2 号 292 頁(1985)。

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251

ける人々による法の承認をも含んでいる。法は、特に憲法の成文を通じて、主権が国民に

存することを宣言し、現実に機能している権力分立や抑制と均衡に対する規範的制約とし

て働くのであり、十分な正当化理由を伴う説明責任を課することで権力の公共的な統御を

志向するのである467。こうした文脈から法命令説を区別する上で、法の制度的な公共性を

探る糸口が見つけられる。なぜなら、命令はただそれだけで法たり得るのではない。命令

を認め得る者が、命令者とは違った別な形で法の制作に参与してくる。言うまでもなく法

を承認する人々は、命令者とは違って法制度の内側にいる。承認の立場が社会の内では憲

法や法律を介した規範に関する公共的な枠組みのもとで営まれているということもまた、

法の支配の一面として確認しておかなければならない。結局のところ、法はそれ自体とし

て強制性だけではなく、一定の公共性を有する一連の規範である。

ここで公共性の概念との関係について、幾つかの点を付言しておきたい。まず、ハンナ・

アーレント(Hannah Arendt)によれば、公共性とは、「私たちにとっては、現れがリアリ

ティを形成する。この現れというのは、 他人によっても、私たちによっても、見られ、聞

かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティに比べると、内

奥の生活のもっとも大きな力、例えば魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものさ

え、それらがいわば公的な現れに適合するように 1 つの形に転形され、非私人化され、非

個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在にすぎない。」 「私たちが見るも

のを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはりおなじように聞く他人が存在す

るおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信することができるのである」468。

これは全ての人々にとって共通なるものとして、人間の実感によって承認され公示される

ものであり、さらに他者から批判され評価されるものである。さらに、私的に所有された

領域から発展していく「社会的領域」なるものが拡大することである。彼女は政治秩序か

ら強制(=暴力)と利益(=私益)の要素を排除し、政治体の個々の構成員の自発的参加に

その存立の基礎を求めたという意味では、基本的に「信条」型の政治秩序といえよう469。

あるいは人間の唯一性(uniqueness)に基づく差異性の競合する複数性(plurality)の織

467 長谷川晃「公正な法とその公共性」早稻田政治經濟學誌 357 号 26 頁(2004) 468 Hannah Arendt, 1958. The Human Condition, The University of Chicago Press.(志水速

雄訳)『人間の条件』(中央公論社, 1973)50 頁 469 川崎修『アレント——公共性の復権』(講談社, 1998)333 頁参照。

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り成す討議空間において、人間と政治との関係を検討していくことになろう470。こうした

人間と政治との関係は、公的領域(the public realm)において人々の差異性ある複数性を

前提とした共同体の構成員を「平等者 equals」として扱い、各人の唯一性を尊重するとと

もに平等な自由である政治的討議空間を営むことをも可能にする。したがって、もしも政

治的な実践・活動に倫理的意義を見出すことができるとしたら、社会的領域のなかでの公

共的な共同体感覚(=共通感覚)、あるいは正義/不正義の感覚は洗練されるとともに、正

義/不正義の感覚の質を問題化する他者へと配慮したことも要請されることとなる471。

次に、ハーバーマス流の代表された「言語の公共圏」が例として挙げられる472。ハーバ

ーマスは『公共性の構造転換』において、「市民的公共性」というモデルを採用し、公共性

の生成・発展・崩壊・再生という問題をめぐって議論を展開し、福祉国家の基礎に焦点を

置く公共性の傾向を示している。しかし、このなかで「歴史過程の中でいわば抑圧されて

しまった人民的公共性という変形を度外視する473」と断っている。ハーバーマスによれば、

16 世紀以後ヨーロッパが主導とした世界の一体化の中で、近代的な生活圏において公的空

間と私的空間が分離し、権力の境界領域で区切られた国家と社会が見られ、公共性の歴史

的起源を私的生活圏にあると考えられる。市民社会が出現すると、討議に参加する民衆は

言語で表現された論理論証以外のあらゆる知的権威を一切否定し、教養を有する者はある

470 久保紀生『ハンナ・アーレント 公共性と共通感覚』(北樹出版, 2007)68-9 頁参照。 471 同上書, 89-90 頁参照。 472 この「言語の公共圏」の議論は、例えば、ナンシー・フレイザーのような「対抗的な公共圏

counter publics」、また「オルタナティヴ・パブリックス alternative publics」がある。これ

らはにおいて支配的な公共圏とは相対的に異なった「言説の資源」が形成される。そこでは、

「自分たちの「ニーズ」に外から与えられた解釈を問題化し、自分たちに規定された「アイデ

ンティティ」なるものを疑問に付し、「異常である」「劣っている」「遅れている」といった

仕方で貶められてきた自分たちの生のあり方を肯定的なものとして捉え返し……という再解

釈・再定義の実践が試みられるだろう。」つまり、文化の支配に結びついた公共圏に対して、

マイノリティのアイデンティティをめぐる承認の問題はやがて文化そのものの質を問わざる

をえなくなる。斉藤純一『公共性』(岩波書店, 2000)14-5 頁。 473「フランス革命においてロベスピエールの名前に結び付いている段階に至って、一つの公共

性が文人的衣裳をぬぎすてて、いわば一瞬間だけその機能を発揮するが——その主体たちは、

もはや「教養ある身分」ではなく、無教育な「人民」である。この人民的公共性は、チャーチ

スト運動においても、とりわけ大陸の労働運動の無政府主義的伝統においても、ひとしく底流

としては生き続けているものである」ユルゲン・ハーバーマス(細谷貞雄・山田正行訳)『公

共性の構造転換』(未来社, 1994)2 頁。

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種の合理性や理性に従って自由に議論することによって、世論(public opinion)を形成し、

さらに政策制定や行政機構の行動を監察するという理念は「市民的公共性」と呼ばれる。

しかし、公衆はこうした公共性で現れた市民的文化において、公共性なしに議論する専門

家たちから成る少数派と、公共的に受容する消費者の大衆とへ分裂し、文化を議論する公

衆から文化を消費する公衆に至った474。19 世紀以来、特に第 2 次大戦以後における公共的

議論の主題は、再配分をめぐる資本と労働の階級闘争を経、しかし冷戦終結による政治的・

イデオロギー的対立の崩壊に伴い、制度的・政治的疎外を、ただ存置させただけでなくむ

しろ拡大させた。格差是正の為の救貧制度や労働者の保護・社会保障などの公共事業が求

められた福祉国家において、公共性への要請は、世界的な消費主義の傾向による消費者の

「選択の自由」や「受益の平等」に変容してしまったのである。そして、ハーバーマスに

とって公共性の本質である「政治的公共性」は議会の元来の機能などが喪失したことによ

って崩壊し、議会は政策討論会の目的ではなく経済的配分や私利の調整の場になる。公共

性の再生を模索するため、ハーバーマスは公共的意思疎通の相互行為と公衆の批判的な政

治参加に基づいて諸利益集団の戦略的相互作用と政策選択の帰結たる「抑制と均衡」、更に

その組織の内部において公共空間を創り出して公共性を確立することを提案している475。

474 前掲書 231 頁。しかし、市民は万人の平等な参加による法決定の過程において消費文化によ

って参加情熱を奪われるにもかかわらず、多くの場合政治的—倫理的討議において「国民の多

数派の文化が表現されがちであるから」、そこではマイノリティが、「差異に鈍感な多数派に

対して」自らのエスニシティの「差異の価値評価に関する承認をめぐる闘争を行われなければ

ならない。」こうしたマイノリティの「承認をめぐる闘争」が「平等な普遍性と個別的な差異

との新たな結びつき」を引き起こすとともに、「新しい合意を生み出し権利体系の実現を前進

させるのである。」つまり、「ハーバーマスの考えでは、個人の平等な権利実現が、文化的生

活形式の平等な共存にまで拡張されるべきなのである。」要するに、「生活諸形式の平等な共

存の権利とは、「すべての市民に文化的伝統の世界で差別されずに成長し、またその中で子供

を育てる機会を保証すること」を意味している。」「ハーバーマスのこの文化に対する権利理

解の特徴は、それがあくまで個人の主観的権利の延長上に捉えられていることである。つまり、

個人の主観的権利が十全に展開されるべきことを前提として、そのために集合的アイデンティ

ティをもたらす文化的伝統への接近を保証する権利が要求されるのである。」日暮雅夫『討議

と承認の社会理論 ハーバーマスとホネット』(勁草書房, 2008)164-7 頁参照。 475 「アーレントとハーバーマスの公共性論は、見方によってはかなり重合する部分が多い。実

際、ハーバーマスによる「コミュニケーション的行為」と「道具的行為」との対比は、アーレ

ントによる「行為 action」と「労働 labor」「製作 work」との区別に依拠したものである。」

齋藤純一『公共性』(岩波書店, 2000)37 頁。

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さらに、斉藤純一は『公共性』(2000 年)において公共性を国家に関係する公的な(official)

もの、全ての人々に関係する共通のもの(common)、誰に対しても開かれている(open)

ものの 3 つの意味規定に分ける476。特に彼は公共性(publicness)と公開性(openness)

との間に「共通していることと」と「閉ざされていないこと」という 2 つの意味の拮抗が

あると指摘した477。その主体的視点からの区別に対して、長谷川晃は公共性が問題となる

レベルを社会構成単位、制度射程、実質的意味という 3 つに区分する必要があると考える。

社会構成単位は「社会の中に存在するいかなる活動単位がイニシアティヴを取るのか」と

いう問題、制度射程は「それらの内のいかなる単位のいかなる関係を公共性の範囲として

扱うか」という問題、実質的意味は「どのように公共性の内質、価値原理を定めるか」と

いう問題にそれぞれ関わっている。より大きなテーマとして要約すると公共性は人間活動

の条件だということである。長谷川の言葉を借りれば、「公」と「私/個」との間である「公

共空間」において生きている我々にとって、公共性は、「<ひと>の自己形成への社会的な

見地からの支えを与える」ことである。その公共性は法という形で、公共的な規範世界と

して現れている。ここに、長谷川による「価値の公共的受容」という問題提起が注意に値

する。「われわれはさまざまな価値を抱えて生きている。誠実、慈善、友情、あるいは自由、

平等、連帯、あるいは効率性などである。これらの価値は個人的なものから、多数の人が

地球的な規模で受け容れているかもしれないものまで幅広くある。しかし、そういった価

値群の中で公共的であると言えるものは一定の条件を満たす必要がある。とりわけ典型的

に公共的価値として考えられるのは、自由と平等と効率性であるが、問題は、なぜこれら

の価値が公共性を持つかの基準にある」。いかなる基準のもとで公共的であるかということ

は 3 つの種類の問題に関わる。「1つは、公共性には他者関係性ということが必然的に含ま

れるということである。そして、さらにそこでは相互性もしくは互恵性が重要になるであ

ろう。これは自己と他者との同等性を含んでいる。しかし、他者関係性と相互性だけでは

なお、それがいかなる程度の同等性を含むのかは特定され得ない。そこでもう1つ、公正

であることという基準が加わる必要があると考えられる。478」

以上のような考察を踏まえて、再認概念の意義の、公共性概念との関係における問題は、

以下のように要約することができる。それは、いかなる社会においてもその普遍的・公共

476 久保紀生『ハンナ・アーレント 公共性と共通感覚』(北樹出版, 2007)71-2 頁参照。 477 斉藤純一『公共性』(岩波書店, 2000)viii-Ⅲ頁。 478 長谷川晃「公正な法とその公共性」早稻田政治經濟學誌 357 号 31 頁(2004)。

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的要素となっていないような多くの価値・信仰・慣習などの「ルール」は単純で自律的な

ものであり、他の領域に干渉・支配・強制できないということである。それは、価値は人々

によって承認された場合を除いて、普遍的・公共的資格をもってはおらず、平等に基づく

相互関係によって「承認された」場合にのみ価値は普遍的なものになるということを示し

ている。

再認に関するこれらの性格を取り上げるために、われわれは法の概念において法的に承

認されるための前提、つまり公共性の管理者の存在を思い出さねばならない。このような

問題があるにしても、ハートが公共性的価値を形成する眼差しを向け、それに実践的に関

与する社会的主体にとっての必要性に想到していた点は、評価しておかなければならない

であろう479。しかも、この公共性が、それを一層自覚し主体的に担う人間相互の同意・承

認による永久不断の調整及び必要な改善措置を必要とするものであることも、ハートは正

当に理解していた。問題は、彼がこの調整を市民社会に外在的な役人(Officer、特に裁判

官480)に委ね、それによって相互承認の可能性を結果として窒息させてしまったこと、そ

してハートのいう開かれた構造を実際に閉じられた構造にしたことにある481。換言すれば、

479 「法への服従」と「法への忠誠」との区別の視点を踏まえ、ハートの承認のルールの趣旨が

示すように、法体系の基礎は強制力ではなく、実践的に関与する社会主体が「ある基本的な法

制定手続きを特定化する、基礎的な承認される諸ルール」に従って、「法体系の毎日毎日の機

能において頻繁に適用」し、単に「尊敬を以った服従のみならず」、むしろ積極的に信じる諸

原理に向けて行うような忠誠を以て「自発的収斂」に努力するということである。布川玲子「法

と道徳の区別理論の検討——H・L・A・ハートと L・L・フラーの論争——」早稲田法学会誌

28 巻 286-7 頁(1978)。この区別視点の背後に、「法に従うか従わないかの遵法判断と、法

であるかどうかの妥当性判断の分離がある。」布川玲子「H・L・A・ハートの法理論と遵法

義務」山梨学院大学法学論集 10 号 49 頁(1986)。 480 「裁判の第 2 次的ルールや変更の第 2 次的ルールが権能付与的であったのに対して、この承

認のルールは義務を規定している。すなわち、これは、公的かつ公式の権能を行使する人々、

とりわけ裁判の機能を行使する人々の義務を規定するのである。」N.マコーミック(角田猛

之編訳)『ハート法理学の全体像』(晃洋書房, 1996)77 頁。 481 ハートによれば、近代法体系においては、多様な法源が存在していることに対応して、承認

のルールも複雑なものであり、その存在は、裁判官、その他の公務員、私人或はその助言者が

通常成文憲法や立法部による制定法及び裁判先例を通じて特定のルールを識別する仕方のう

ちに示されている。それゆえに法というものが「開かれた構造 open texture」を不可避的に

要請し、裁判官が法の妥当性の究極的識別規準を確定する創造的権能を行使することをもたら

すのである。H.L.A. Hart, 1961. The Concept of Law, Clarendon Press, pp.144-50.(矢崎光

圀訳)『法の概念』(みすず書房, 1976)161-8 頁。また、田中成明「判決の正当化における

裁量と法的規準——H・L・A・ハートの法理論に対する批判を手がかりに——」法学論叢 96

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ハートの承認は、「法を一方的な権威の投射の所産」として「垂直的関係」において捉え、

「法がむしろ市民と立法者或は市民相互間の相互作用」として「水平的関係」ないし「社

会的次元」を持つものであることを看過するものであろう482。

この問題は、同性愛をめぐるハートとデプリンの論争の中にハートの取る見方を通じて

典型的に見られる。その論争の結果として、ハートの議論とハート側が優勢であるが、「同

性愛は私的なものという側面が強調され、かえって同性愛差別を隠蔽し……本来公の場で

語られうるものが、不当に何ら<語られる事のない>プライバシーの領域に閉じ込められ

てしまう危険性がある。同性愛的指向についても結婚、恋人などの異性愛関係と同様、あ

る程度はオープンにすることを可能とすべきかもしれないし、同性愛行為を<クローゼッ

ト>に押し込めることは、性行為という側面のみによる同性愛者像形成につながりかねず、

同性愛者が異性愛者と変わらぬ生活を送っていることが何ら省みられなくなるかもしれな

い。」つまり、「同性愛者はただ単に、私的領域での同性愛行為の自由を望んでいるわけ」

ではなく、「同性愛者としてのありのままの自分を認めて欲しいという強い規範的要求を有

している」のである。そうした同性愛者の強い承認欲求に対して、ハートの承認概念は対

応しきれていない欠点が存在する483。それゆえに人間活動の条件とする公共性的なものの

巻 4・5・6 号 179-83 頁(1975)参照。「Open texture」について「粗い織り目」という訳

語は『権利論』(木下毅ほか訳, 木鐸社, 1986, 14 頁)においても使われる。「粗い織り目」

の訳語は、「開かれた構造」の「構造」という語感の確固さに比べて、言葉に内在する確実性

の核心部(core of certainty)と不確実な疑問の周縁部(penumbra of doubt)の中に、ルー

ルの使用慣行の特徴を社会性と流動性と表し、ルールの体系は「粗密な織り目がある布地のよ

うな条文を重ねることによって成立しており、単純な形で核や周辺を持っているのではないか

らである」と考えられる。「Open texture」を「粗い織り目」と訳した理由について詳しく、

石井幸三「ハートの登場とイギリス法理学(2・完)」龍谷法学 43 巻 2 号 82-3 頁参照(2010)。特に、ルールの流動的な特徴について、ハートはロン・L・フラーの批判を応答する際に、次

のように明確な指摘がある。「私は、非常に複雑で曖昧で流動的なものをルールとよぶことが

誤っているかどうかを考察し、誤ってはいないと結論を下した。」H.L.A.ハート(小林和之

訳)「ロン・L・フラー著『法と道徳』」(矢崎光圀・松浦好治訳者代表)『H.L.A.ハート 法

学・哲学論集』(みすず書房, 1990)406 頁以下参照。 482 田中成明「判決の正当化における裁量と法的規準——H・L・A・ハートの法理論に対する批

判を手がかりに——」法学論叢 96 巻 4・5・6 号 187 頁参照(1975)。 483 同性愛をめぐるハートとデプリン(Patrick Devlin)の論争、とりわけハート型の承認アプ

ローチの問題点について詳しく、前田剛志「同性愛と法理論——「承認」概念を手がかりに

——」阪大法学 54 巻 1 号 219-23 頁(2004)参照。また、論争自体についての詳細は、加茂

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空間は、実際には自己中心の主観的利益の実現を目指すにも関わらず、公共的領域にも主

体として参与するという能動的市民像から遠ざかり、受動的市民像に近づいている。

それに対して、私的領域から政治という公的領域へと拡張する意味でロールズの承認が

注目され、強制と合意との狭間という立場から、社会が高度に複雑化し人々の価値観も多

様化したという現代的「法的空間」は、相互主体的視座に基づいて法律家や市民などの法

実践によって支えられ動かされ、強制的命令システムから議論フォーラムへと転換してい

く必要があると指摘されている484。一方、現代社会における法的空間の多元重層の実相に

対して、「その空間の多元重層性に伴う様々な緊張や対立をどの様に把握し、方向づけるか」

ということが「法的空間において表明される様々な法的要求をこの空間はいかに統合し整

序できるのか」と法哲学的に問うことによって、極めて重要な問題であると強調されるこ

ともある485。田中成明は「法的空間の知的地平」から法律学的方法論・裁判論と実践的議

論・規範的正義論を位置づけ、問題状況と相互関連とを整理したけれども、前章の最後で

述べた、法的時間論および情的認識能力と知的認識能力との二分法による問題の提起をっ

めぐって、⑴知的認識の要素に対して、法的空間において情的認識能力をどう理解しうる

のかについて、そして、⑵もし情的認識能力を考察すれば、法的空間という側面を超えて、

法的時間および主体的関与という側面と関連づけて考えなければならない。なぜなら、こ

れは、格差を是正する公正な配分と、差別を解消する対等な配慮を目指す社会的正義の実

現という共通の課題に取り組み、フィードバックする必要性と可能性を示すとともに、こ

れによりロールズ正義理論において再認概念の再検討を通じて意味拡張の契機を確認する

ことができるからである。そこで、次款では、上記の問題提起に対応する手がかりとなる

再認の概念の諸特徴を説明したい。

第3款 ロールズ正義理論の意味拡張に係る再認概念の諸特徴

以上の考察をふまえて、本款ではロールズ正義理論の意味拡張に係る再認概念の諸特徴

に簡潔に触れる。それぞれの特徴については、説明を進めながらより詳しく検討すること

にする。

直樹「法と道徳についてのノート(Ⅲ)」京都教育大学紀要 49 号 119-21 頁(1976)、児玉

聡「ハート・デプリン論争再考」社会と倫理 181-99 頁(2010)。 484 田中成明『法的空間』(東京大学出版会, 1993)3, 9, 13 頁参照。 485 長谷川晃「『法の支配』という規範伝統——1 つの素描」法哲学年報 2005 年 71-2 頁参照。

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第 1 に、相互性から互恵性へという特徴がある。まず、承認という活動は、相互的なも

のである。承認の相互性という特徴は、カント以前より注目されている。相互性という抽

象的な表現を具体化する際、カントは「関係性」をもって論じた。カントによると、われ

われは、判断作用における関係性のさまざまな契機を示している。まず「原因と結果(因

果関係)」「実体と属性(主属関係)」があるが、「相互性 Interaction」はそれに次ぐ第 3 の

関係性である486。彼はその3つの関係に応じて、判断における主語と述語との関係から、「定

言的」「仮言的」「選言的」との3つに分ける。実体のカテゴリーが定言的であり、因果性

のカテゴリーが仮言的であるのに対して、相互性のカテゴリーは選言的である。この関係

の規定は、経験判断によって認識されるべきかぎりにおいては、相互性(相互作用)とい

う概念のもとに包摂されなければならない487。人間の行為としての相互行為は、複数の個

人が互いに働きかけあう社会的行為、とされる。人間は人間性の尊厳をあらゆる他人にお

いても実践的に承認すべき義務を負っているのである488。

相互性には、対称的な関係もあるが、非対称的な関係もある。前述したように、ヘーゲ

ルの「相互承認」における「相互」といったものは基本的に「奴隷―奴隷主」の間の非対称

的な相互性である。対称的な相互性を求めるために、力による支配の闘争的世界から、法

による支配の秩序的社会への移行が必要とされる489。その移行を行う可能性はただ「相互

性 Mutuality」としての承認のみならず、「互恵性 Reciprocity」としての承認によっても担

保される。つまり相互承認は互恵性を通して非対称的関係性から相互的関係性へと動的に

変化するプロセスにおいて実現されるのであり、ロールズはこの点に注目している。彼に

よれば、互恵性は「正義原理によって表現される市民間の関係」である。つまり、正義原

理は「社会的世界を規制するにあたって、その世界のなかで協働に従事し、そのルールと

手続の要求に従って役割を果たすすべての人が、適切比較の標準によって測られる適切な

486 「実体と属性との内属関係、原因と結果との帰結関係、交互性による合成関係の 3 つの関係

が、他のあらゆる関係の生ずる基本的な関係である。」イマヌエル・カント(高峯一愚訳)純

粋理性批判(河出書房新社, 1965)262 頁。「こうしてここにしめされた三種の類推とは、あ

らゆる現象の連関に見られる自然の統一性を時間関係のもとに表したものですが、(中略)よ

り根源的には、それぞれ「A は A なり」という同一律をその根底に持つものと見ることがで

きるでしょう。」高峯一愚『カント純粋理性批判入門』(論創社, 1979)225 頁。 487 イマヌエル・カント(高峯一愚訳), 前掲書 99 頁;高峯一愚, 1979, 前掲書 170 頁参照。 488 イマヌエル・カント(白井成允・小倉貞秀訳)『道徳哲学』(岩波書店, 1954)141 頁。 489 ヘーゲル(藤野渉・赤沢正敏訳)『法の哲学Ⅲ』(中央公論新社, 2001)187 頁参照。

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利益を受けるべきことを要求する……正義の2原理は、市民間の互恵性という観念を定式

化するものである(JF, p.49/366-7 頁)」490。

第 2 に、具体性から抽象性へという特徴がある。後期ロールズは、『政治的リベラリズム』

では『正義論』の枠組み、特にその抽象性と包括性をかなり変更(見方によれば「後退」)

させた議論を展開するようになっていると言われる491。しかし、ロールズ正義理論の全体

からみれば、その抽象性が相当程度後退することになるという評価は必ずしも妥当ではな

い。まず、前期から後期にかけて、理論全体の各段階において取り上げる中心問題が明ら

かになると共に、問題関心に応じて、理論内容の関連や統合、また他の内容を加えること

ができると暗示している。この考えとなる手がかりとなるのは、次の引用文である。すな

わち、『正義論』と『政治的リベラリズム』の根本的な違いについて、ロールズは次のよう

に述べる。「『正義論』は、明確に、ロック、ルソー、カントにより代表される社会契約の

観念から、次のような正義理論を展開することを試みるものである。すなわち、もはや、

正義理論にとってはしばしば致命的であると考えられる異論にさらされることのない、そ

して、長らく支配的だった功利主義の伝統よりも優れていることが明らかな、そうした正

義理論である。『正義論』は、正義についてわれわれが行う熟慮された判断の最良近似であ

り、そしてその結果として、民主的社会に対しもっとも適切な道徳的基盤を提供するよう

な理論の、構造的特徴を提示したいと願うものである。さらに『正義論』では、公正とし

ての正義[の構想]が、1 つのリベラルな包括的教説として提案され(もっとも、この本で

は、『包括的教説』という言葉はまだ使っていなかったが)、その秩序だった社会の全構成

員がこの同じ教説を支持しているとされるのである。こうしたたぐいの秩序だった社会は

穏当な多元性の事実と矛盾するものであり、それゆえに、『政治的リベラリズム』はそうし

た社会を不可能なものと見なすのである。こうして、『政治的リベラリズム』は別の問題に

検討を加えることとなる。すなわち、人々が、宗教的であったり非宗教的であったりする

包括的教説、とりわけ教会や聖書といった宗教的権威に基づく諸々の教説を指示すると同

時に、立憲民主制社会を支える、道理に適った正義の政治的構想をいだくといったことは、

どうすれば可能であるのか——こうした問題である。政治的な構想はリベラルで自立的な

490 互恵性の観念に関する議論は、PL, pp.16-7 及びペーパーバック版のはしがき pp.xliv, xlvi, liを参照。また、JF, pp.122-4/215-9頁及びJohn Rawls, 1997, in CP, pp.573-615, LP, pp.129-80/ 194-258 頁。

491 嶋津格『問いとしての<正しさ>: 法哲学の挑戦』(NTT 出版, 2011)100 頁。

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260

ものと見なされるが、包括的であるとは見なされない。他方、宗教的教説は包括的である

かもしれないが、リベラルではないこともある。

『正義論』と『政治的リベラリズム』の二著は、どちらも公共理性の観念を有するもの

であるが、非対称的である。『正義論』においては、公共理性がリベラルな包括的教説によ

りあたえられる。それに対し、『政治的リベラリズム』にあっては、公共理性が,自由で平

等な市民たちに共有される諸々の政治的価値に関する推論=理由づけの方法となり、そし

てこの理性は、市民たちの包括的教説が民主的な政治形態と両立する限りにおいて、それ

らの教説に干渉しない。したがって、『政治的リベラリズム』の秩序だった立憲民主制社会

とは、有力で支配的な市民たちが、宥和不可能だが、それでもなお道理には適っている諸々

の包括的教説を支持し、そしてこれに基づいて行動するような社会である。こうした包括

的教説の数々が、ひるがえって、社会の基本構造において市民たちが有する諸々の基本的

な権利、自由、機会を特定する、道理に適った政治的構想―必ずしももっとも道理に適う政

治的構想ではないかもしれないが——を支えるのである。(John Rawls,1997, pp.806-7, in

CP, p.615; LP, pp.179-80/256-8 頁)」。

ここでロールズは、各社会における民主的な政治形態の具体性を捨象し高度に抽象化さ

れた概念をもって、理に適った政治的構想を導出し、特に自由で平等な市民像の把握のも

とで理論的基盤を構築している。ロールズの再認概念の抽象性は、全ての市民は自由で平

等な主体として、付与された権利と義務において平等であるというところにその意義があ

る。つまり、抽象的な相互承認は、財の交換関係は契約という形を通して財の公正な配分

を求めるという意義をもつとともに、公正な配分の基底にある市民的主体性を相互に受け

入れることで「秩序だった社会の市民がお互いを自由で平等な者として承認」することに

意義がある(JF, p.56/97 頁)。そこでは具体的な配分関係と配分政策の背後にある一般共通

的な権利意識も認識されなければならないのである。

第 3 に、相互承認は道徳上の儀礼的次元から法の象徴的次元へ変わってゆくという特徴

がある。相互承認が道徳上の儀礼的性格をもつということは、「市民としての礼節 Duty of

civility」を重視するということである。「社会の制度編成を遵守しないことの安直な理由づ

けとしてそうした編成の欠陥を持ち出さないという、また私たちの利益を増進するために

ルールにつきものの抜け穴を悪用しないという、<市民としての礼節>を果たす自然本性

的な義務が存在する(TJ, p.312/469 頁)」。そうした市民としての礼節は、市民たる地位の

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理性を反映するものである。つまり、「自由で平等な者としての他の市民からみても道理に

適い、かつ合理的であるような仕方で、基本的な政治的諸問題に進んで対処するような市

民の姿である(JF, p.92/162-3 頁)」。この公共理性の理想は、適理性や公正感覚、妥協の精

神や公共的な市民としての義務を尊重する意志といった、協調的な政治的徳性を公共生活

において実現する社会によって達成される偉大な諸価値であること(JF, p.118/208 頁; PL,

pp.122-3, 194)を明らかにし、それにより次のような認識が生まれる。つまり、民主的な

市民たちが自分たちの政治的構想に忠誠を尽くすとき、その根幹には、諸々の政治的構想

にとって公民としての礼節を尊重するような社会的基盤が必要不可欠なのだという認識で

ある。つまり、「市民たちが公共理性に対する忠誠と公民としての礼節義務に対する敬意を

持たなければ、諸々の教説間の分裂と敵意がやがて自己主張を始めることは必至である LP,

p.174/250 頁」そして、相互承認は道理に適った正義の政治的構想によって実定化された立

憲民主主義的社会において「法の前の平等」の原則により、ヘーゲル流の「権利のための

承認闘争」の意義より離れ、「権利のための妥協(Toleration)」という法の象徴的次元にお

かれることになった。

第 4 に、心理的欲求から規範的理由への転換という特徴がある。相互承認の原点は、人

間の平等性を求める心理的欲求である、その欲求は他人から認められたい欲望であると同

時に、自分の存在価値を求める欲望でもある。しかし、この欲求は心理的レベルだけに止

まらず、規範意識も含む。つまり承認という言葉は、「承認する」・「承認される」といった

実効的結果のみならず、「承認すべきもの(JF, p.56/97 頁)」・「相互に承認されるべき正義

原理(JF, p.103/181 頁)」・「承認されるべきもの(JF, p.127/223 頁)」といった政治的・社

会的諸結果に照らして正義原理を評価するよう、市民たちに求める。ロールズの表現によ

れば、規範的理由としての承認は「公知性 publicity」の観念に属しており、「常識的な政治

社会学の一般的事実として、秩序だった社会で育つ人々は、その公共的文化や、それに含

まれている人格や社会の構想から、市民としての自己理解をかなりの部分、形成するだろ

うと想定する。公正としての正義はそうした文化に属する基礎的な直観的諸観念から組み

立てられるのだから、この役割は公正としての正義にとって中心的なものである(JF,

p.122/214 頁)」。

前章で述べられたロールズの正義感覚論の内容をふりかえると、そこには正義感覚にお

ける「実践的平等」・「再認」の意義が説明されている。正義感覚は実践的平等という性格

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を持ち、実践的平等は承認概念に依存して発展しているものである。ロールズの承認論の

主題は承認をめぐる闘争ではなく、市民社会における既存の社会制度編成をめぐる、あの

再認の状態をなすものに能動的且つ主体的に関与するということである。ロールズは再認

について、道徳心理学や社会心理学でいう「承認欲求」と、社会科学と社会政策にかかわ

る客観的「再認識」との 2 つの意味でこの言葉を使っている。正義感覚を規範的側面から

考察する際に、ロールズ正義理論にとっての重要な拡張契機の1つとしては、義務論的性

格から権利論的性格へと転換する可能性がある。更に、その権利論的なものは、ただ実定

法上の権利であるのみならず、道徳的権利、つまり道徳的正当性をも十分に規定し得ると

いう点である。この背景をふまえて言うならば、再認とは、正義の意味の整合性

(consistency)と一貫性(coherence)を法的思考によって解明しつつ理解し、これによっ

てその実践的構造とその経過とを認識するということである。再認には正義感覚を生み出

す傾向があり、認容可能な正義の構想についての評価基準として普遍的に適用された場合

の一般的帰結の観点から正義の諸原理を公共的に理解するのである。

第2節 再認による主体的関与の視座の確立

第1款 法の妥当根拠:3 つの視点から

法哲学は法の現実性を止揚する当為命題を研究対象とする限り、法の妥当とは何かとい

う根本問題が理論体系の不可欠な構成要素として問われ続ける492。この問いは、ロールズ

の再認概念を学問的に探究する前に答えられなければならない問いの 1 つであり、最も重

要な問いの 1 つである。そして再認は、妥当性を理論的領域での合理性としてだけではな

く、実践的領域での妥当性の面からとらえられなければならない。カント以来の法と道徳

の峻別を手かがりとして、法の本質或は法の妥当根拠は「命令者の意思 order」や「根本規

範 Grundnorm」、また「ルール rule」や「原理 principle」や「準則 policy and standard」

であるとする理解や見方が提示されてきた。それらの定義による境界画定の試みにおいて、

法または正義に関する次の 2 つの認識方法が挙げられる。第 1 に、法の発生的基盤が世界

秩序(自然)の事実にあると仮定し、法に固有意味を内容的もしくは形式的に当為として

規範化する方法であり、第 2 に、法および法学的思惟の根本的変革の動力を以て人間精神

492 西洋法思想史における「法的妥当」の位置と意義について、参照竹下賢「法の妥当根拠につ

いての一考察(一)」法学論叢 99 巻 2 号 90 頁以下(1976)。

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の普遍的相互理解を目指す方法である。法の存在構造はそれ自体が説明不能な概念として

原理的に独立して自存することはありえず、(観察者ではなく)参加者としての我々の身体

や欲求や究極的関心といった心的志向と実践的理性に応じて立ち現れてくるものであると

考えられる。これらはすべて、正義に関する法的思考について決定的なものであり、法哲

学は、その役割・システム・構造・機能およびそれ以外にありえた潜在可能性を明らかに

しなければならない。

その一方、正義の分類には、「形式的正義」と「実質的正義」がある。形式的正義は、正

義の理念や思想の具体的内容を抽象化し、様式あるいは手続上の統一性を重視する意味で、

所謂「手続的正義」とも呼ばれるものである。形式的正義に合致するためには、分配に際

しては基本的に形式的平等という理念に従い、個体間の異質性を無視して同一性のみに基

づいて無差別的に取り扱うこととなる。正義に関する形式論理的考察はルールの一般性と

平等な適用と公共性という普遍主義的要請を内包している。しかし、正義の外在的表現形

相や内的組織構造は、正義の内実、内容および素材との関係において止揚されるとすれば、

顕在化している差異を認めつつ平等を要請する現代社会において異質性に配慮した人間の

尊厳を保障するという実質的な正義の役割を果たす。人間の異なる行動様式や生活様式、

いわゆる内生的異質性を配慮する場合、準拠すべき基準は「平等」の他にも無数に存在す

る。例えば、自由、秩序、効率性など法的価値であり、それらの価値の正当性が互いに競

合するということもしばしばである。その意味において、実質的正義は定義し難い。そう

すると、実質的正義の定義は、唯一の正しい結論の探求のうちにではなく、答えを導くア

プローチとしての「法の妥当根拠」を的確に把握するうちに為される。

「法の妥当根拠」については、「自然法主義」、「歴史主義」、「法実証主義」という 3 つの

視点から区別し概観されるが、それぞれの主要な論点に焦点を当てるならばそこには共通

問題が把握される493。

第 1 に、自然法主義思想により、実定法に妥当根拠を与えるものは、神性や自然、人間

理性を基礎とする「自然法」であり、それは、実定法よりも高次の規範である494。中世自

493 法的妥当の概念が如何に規定されるべきかについて、概念規定の類型的区別を前提にして議

論を進めた考察もあった。このような概念類型論によれば、具体的に「事実的妥当」「規範的

妥当」「存在論的妥当」という3つの見解に類型論を分類することができる。竹下賢「法的妥

当の概念の三類型(一)——(二・完)」関西大学法学論集 28 巻 2-3 号(1978)、竹下賢「法

の妥当と規範性」法哲学 1977 年報 72-91 頁参照。

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然法思想が自然法の妥当根拠にローマ・カトリック教会の権威とローマ・カトリック神学

の信仰を挙げ教会法を自然法思想の担い手とするのに対して495、近代自然法思想はそれを

人間本性に共通なものに求め、宗教的な教義による形而上学的な枠組みと権力構造との結

びつきを切断し、正当性のない権力とその恣意的行使による抑圧から自由を解放する。近

代自然法学説は、 フーゴー・グロティウスによって、人間本性は社交性 (sociability)に

本質的特性があるとし、そうした人間の自然本性に基づく理性的な人間の法は、神的な存

在が全くしなくても期待可能であるとされ、「宇宙の万物は神意によって支配される496」と

いう中世自然法の宗教思想から法を解放した。彼はまた、そうした共同体性を国際社会に

まで拡大することによって国家間の国際法の存在を明らかにし、後に国際法を自然法と実

定法の 2 つの側面から把握するグロティウス学派を生んだ497。こうした考えに基づいて、

自然法と実定法との関係は授権関係だと考えられる。すなわち、自然法は実定法に対する

授権主体であると同時に実定法の法的権限の淵源であり、 自然法に違反する実定法は無効

なものであって服従する義務はないものであるとされる。その他にも、自然法は実定法が

欠缺して機能しない領域を補足し解釈する素材となり、特に国際公法と国際関係において

よく適用された。これは、特に近代以降国際社会において、国家間関係および国際秩序を

規律するルールが整備されていないという厳しい状況において、実定法に対する補完主体

としての自然法の復権を訴える主張につながる498。

第 2 に、歴史主義は、上述のような自然法思想や宗教における信仰の普遍性や教義の普

遍的な規範的価値を認めず、規範の文化的歴史的相対性を主張する499。歴史法学派の集大

成者たるサヴィニーは、 法は言語と同じように民族の共通の確信(Volksglauben)である

494 山田晟『法学』(新版, 東京大学出版会, 1964)34 頁。我妻栄ほか『新法律学辞典』(新版, 有斐閣, 1967)511 頁。また、ハンス・ケルゼン(黒田覚・長尾龍一訳)『自然法論と法実証主

義』(木鐸社, 1973)11 頁参照。 495「カトリツク教会が神法にその根源をおくことにーよってこれに権威を与え、信仰と神学的

解釈から自然法を支持した経緯である。」詳しい参照:高橋良三「正義の座としての自然法思

想の展開——上——」立命館経済学第五巻第五号 124(570)頁(1956)。 496 山田晟『法学』(新版, 東京大学出版会, 1964)34 頁。 497 山田晟『法学』(新版, 東京大学出版会, 1964)35 頁。また、我妻栄ほか『新法律学辞典』(新

版, 有斐閣, 1967)269-70 頁。 498 Hall, Stephen. 2001. “The Persistent Spectre: Natural Law, International Order and the

Limits of Legal Positivism.” European Journal of International Law 12 (2): 269-307. 499 宇都宮芳明『倫理学入門』(放送大学教育振興会, 1997)131 頁参照。

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民族精神(Volksgeist)に基づいて形成され発展されるものであるとし、法解釈について歴

史的体系と形式的論理との視点の双方からの知識と思考を求める立場をとっている。また、

サヴィニーの後継たる歴史法学者のゲオルク・F・プフタは、体系性・論理性を求める法解

釈は法的紛争を解釈する明白な基準でもなければ、裁判を導出するための指導的原理抽出

の前提でもなく、法を認識する先験的枠組のみから導き出された帰結であるとした上で、

民族精神は法を解釈する目的ではなく、解釈権限の妥当性を付与する根拠規定である、と

考えた。もっとも、こうしたプフタの主張は、概念相互の関係性を明らかにするものでは

あってもその概念そのものの意味については何等言及するものではなく、それ故に「概念

と構成を至上命題とし論理的体系性のみを追求するもの」として後にルドルフ・フォン・

イェーリングによって「概念法学」と批判された500。こうして歴史法学派は、非合理的契

機および形而上学的な要素を含みながらも、普遍的な自然法の存在を退けて近代経験主義

法学・実証主義法学の先駆となり、民族精神と法現象の実証的研究を推進した点において

その功績は極めて大きいとされる501。しかし、法を含む生活世界のあらゆる現象と現実を、

抽象的な時空概念とは別にある具体的歴史的な流れという連関のうちにおいてしかとらえ

られず、規範とその妥当性とを歴史的に構成して理解するにすぎないのであって、その連

関を超えた歴史的限界を開放する普遍的妥当性を得られずに歴史相対主義を生じる危険性

があるという欠点がよく指摘される。

また、そうした歴史的認識から出発し、古代社会、前近代社会、現代社会という法の発

展の視点を伴う法社会学に立脚する事実的妥当という概念を提唱したニクラス・ルーマン

の法的妥当概念は、法進化論に密接に結合し、現実の意識的な知覚、情報加工及び予期等

と言った「体験を加工する構造」の「整合的一般化」によって、規範的予期の「反事実的

に安定化された」程度が高められた状態である502。その安定化の主たる機構は、「氏族内部

の諸観念」から「自然法上の価値原則」を経て「立法手続における決定」へと推移する。

つまり、前述した自然法思想による法の妥当観念は、近代化に伴う法発展の一段階に当て

500 我妻栄ほか『新法律学辞典』(新版, 有斐閣, 1967)107 頁。また、亀本洋「法解釈の理論」

大橋智之輔他編『法哲学綱要』230-1 頁(青林書院, 1990)。 501 我妻栄ほか『新法律学辞典』(新版, 有斐閣, 1967)245 頁。また、山田晟『法学』(新版, 東京大学出版会, 1964)39 頁。

502 竹下賢「ニクラス・ルーマンにおける法的妥当の概念」関西大学法学論集 35 巻 1 号第 28, 32, 36 頁参照。

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はまるものとして相対化され、現代社会においてはその正当性は否定されるに至る。そし

て現代社会は「制度としての手続」によって正当化されたのである503。

第 3 に、法実証主義は一切の形而上学的思考を拒否し、所与の事実のみから法則性を明

らかにしようとする504。その共通の特徴として、法的妥当性を裏付ける論拠について道徳

的な理解に依存することを拒否し、所与の実定法の内在的秩序により自己正当化を試みる

ことが挙げられる。法の妥当根拠に関しては、「主権者命令説」と「根本規範」、「承認のル

ール」という見解があった。分析法学において、 ジョン・オースティンは自然法論の形式

的妥当性と道徳的正当性の混淆を厳格に排除し、実定法のみを対象とすべきとし、「法は主

権者の命令であり、悪法もまた法である」と主張した。純粋法学者たるハンス・ケルゼン

は新たな法実証主義学説として「根本規範」は考えた。彼は、一切の道徳的ないし政治的

価値判断を法の体系から排斥し、更には法の社会学、心理学といった経験的説明をも排除

して、実定法秩序全体の妥当性の最終根拠を仮説的に設定された最高規範たる根本規範に

ある、と考えた。もっとも、純粋法学は法規範の妥当性を、「経験的妥当」の次元から脱し

て「観念的当為」の次元の中で説明しようとしたが、法の妥当性に関する窮極的な妥当根

拠を憲法の上位に定立するところの仮設的基礎たる根本規範を依拠する点で、その点の曖

昧さを残したままの検討しか為され得ない。要するに、一般の法律であれば、法の妥当性

は上位の法規範と下位の法規範との垂直的な基礎づけ連関の相互依存関係に焦点を当てる

ことで体系的妥当を確認し、既存の法体系の最終的妥当性は合憲的妥当に求められるのだ

が、最上位の法規範である憲法の法体系の妥当は説明し得ないのである505。

ケルゼンは憲法の上に根本規範(「法理論的な意味での憲法」「歴史上最初の憲法」)を仮

定するが、最近の研究では、ケルゼンは存在と当為を完全に分離したのではなく、「根本規

範」は擬制的規範定立行為によって成立したのであって、「存在なしには当為はあり得ない」

という構造を貫徹させていたことが明らかになっている506。ケルゼンが階層構造を有する

ものとして法体系を理解する中で提示した「根本規範」の概念は、法体系が常に生成・流

動・発展すべき性格をその時々の立法者の意思形成過程として過小に捉えることにより、

法の変革という視点を見失わせた。彼は、大体において実効的な強制秩序は法秩序として

503 同上 44 頁。 504 宇都宮芳明『倫理学入門』(放送大学教育振興会, 1997)131 頁。 505 西野基継「法の妥当根拠」大橋智之輔他編『法哲学綱要』182 頁(青林書院, 1990)。 506 同上書 183 頁。

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妥当するということを主張するに留まっており、規範の実効性によって法学の純粋性を保

とうとするのであれば、規範の妥当性と実効性の連関を原理的に把握することはできない

のであって、法的現実の把握は不十分なものとならざるを得ない507。

現代における法秩序の妥当性を規範理論的見地から理解するときに最も意義のある見方

は、ハートが『法の概念』において示した基軸となる「承認のルール」であろう。彼は承

認のルールに基づいて、法的妥当性のある規範とそうでない規範とを峻別し、法体系の妥

当根拠の明確化を試みた。承認のルールは、実践の特徴として現れるということが強調さ

れ、妥当性の議論においては公的に権力を行使する公職者が特に重視される。「承認のルー

ルは、大部分言明されないが、その存在は、裁判所やその他の機関あるいは私人や法的助

言者が、特定の諸ルールを確認していく仕方の中に示されているのである」508。「諸ルール

を確認していく」という実践の過程において、ルール自体の妥当性は規範体系の問題と関

係なく、ルールに従うという社会的実践(social practice)を通じてのみ確証されるのであ

り、「その体系の一般的な活動のなかで実際に受け入れられ使用されているのが実状なので

ある」、とされる。「承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方〔他

のルールに基準を与える〕で用いることが適切であるとして単純に受け入れられている」509。

ハートによると法が妥当しているためにはそれが受容されていることが必要である。「彼は

法体系の存在の必要十分条件は、⑴公的機関が公的権能についての二次的ルールを内的視

点から受容し、⑵動機が何であれ、一般人が一次的ルールに服従していることの 2 つだけ

だと考える。つまり法体系が成立するためには、一般人は二次的ルールを知っている必要

もなけれぱ、一次的ルールを受容する内的視点を持っている必要もない。極端な場合には、

内的視点を取る者は公機関だけに限られているかもしれない」510。しかし、単に「一般人」

が法に従うという事実からは、ルールを順守することが法の妥当性によるか法の実効性に

よるかは明らかであるとはいえない。

もちろん、法が妥当性と同時に実効性を備えるものでなければ、法は公共空間において

制度的な公共性を実現することができない。しかし、もし法は単に遵法される(動機が何

507 竹下賢「法の妥当根拠についての一考察(一)」法学論叢 99 巻 2 号 99 頁以下(1976)。 508 H.L.A. Hart, 1961. The Concept of Law, Clarendon Press, pp.86, 98.(矢崎光圀訳)『法の

概念』(みすず書房, 1976)98, 111 頁 509 Ibid., pp.102, 105-6.同上書 115, 118 頁 510 森村進「H・L・A・ハートの『法の概念』」一橋論叢 103 巻 4 号 448 頁(1990)。

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であれ、一般人が一次的ルールに服従していること)という事実だけが要求されるならば、

妥当的規範としての法という存在性格は失われよう。法の妥当性と実効性を兼備する必要

は、特に強制規範の場合に明らかである。しかし、授権規範の場合といえば、妥当性と実

効性とが常に完全一致するということは期待できない。それは、妥当性が法の規範的属性

であり、実効性がその事実的属性であることから来る当然の帰結である。また、法は規範

的なものである。「規範としての法は「妥当」する。妥当するというのは、規範が事実の如

何にかかわらず行われなければならないという要求をもつことである。……法が規範であ

る以上、このような「妥当性 Gültigkeit」を有するのは当然である。妥当しない命題は規範

ではなく、したがってまた、法ではない。511」

我々は、規範の実効性ではなく妥当性に基づいて、規範を法として認める。法に従うと

いう遵法行為は法の承認の前提ではなく、その結果なのである。しかし、同じような遵法

行為に対しても異なった動機があり得る。法の妥当根拠について、前述した歴史的概観に

関連して、三段論法の視点から以上の論点をまとめて考えることとする。例えば、⑴自然

法論の妥当根拠によると、「法には従うべし、これは法である、∵この法は自然法に合致し

ている、∴この法に従うべし」;⑵ルール権威主義によると、「法には従うべし、∵これは

法である、∴この法に従うべし」;⑶ハートの考えによると、「法には従うべし、これは法

である、∵この法は承認のルールと一致する、∴この法に従うべし」;さらに⑷ロールズの

市民的不服従論によると、「法には従うべし、これは法である、∵よく考えてみるとそれは

私の正否感覚と一致しない。∴多数者の正義感覚を疑い、市民的不服従に訴えよ」という

ことになる。

このようにして、承認こそが法に制度的な公共性を付与し、民主制国家における法の妥

当根拠を提供するのである。法の妥当根拠については、当該社会の権力構造の視座から見

ると、「法の拘束力はいかなる条件の下で存しうるか」、つまり、「いかなる条件の下では、

法はもはや法としての拘束力を失うか」という問題につながり認識原理として展開される。

認識原理は下からの法として、——法に服する者の承認により法は法たらしめられる——

語られる所に、認識原理の核心部分があるだろう。この理論に共通するのは、法の拘束力

をその法主体による規範の承認・尊重・肯定から引き出す点である。

511 尾高朝雄『法哲学概論』(日本評論社, 1949)262 頁。

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妥当根拠の三段論法についての小括

妥当根拠の三段論法 大 前 提 小 前 提 結 論

自然法論 自然法に合致する法

には従うべし この法は自然法に合

致している この法に従うべし

実定法権威主義 法には従うべし これは法である この法に従うべし

承認のルール512 承認のルールと一致

する法には従うべし この法は承認のルー

ルと一致している この法に従うべし

正義感覚 正義感覚と一致する

法には従うべし この法は私の正義感

覚と一致しない

多数者の正義感覚を

疑い、市民的不服従

に訴えよ

第2款 自由の平等からみた再認の位置

現代において再認概念が脚光を浴びるにようになったのは、1990 年代以降、「当事者主権」

たる少数者権利擁護運動(マイノリティ)、女性解放運動(フェミニズム)、多元文化主義

運動(マルチカルチュラリズム)が高揚してからである。再認という概念には長い歴史が

あり、近代社会成立にまでさかのぼることができる。しかし、「承認概念にかんするこのよ

うな状況に根本的に転換がおこなわれたのは、ようやくここ 20 年のあいだに一連の政治的

議論と社会的運動が起こってからである。(中略)というのは、マルティカルチャリズムに

かんする議論においてもフェミニズムの理論的な自己理解においても、個人あるいは社会

諸集団はそれらの<相違>の点で承認されるか、尊重されなければならないという規範的

な考えがつねに共通の指導理念として直に示されたからである」513。現代社会においては、

貧富の格差の是正や財の配分の偏りの抑制によって諸個人の法的権利と福祉の実現が保障

されるとともに、マルティカルチャリズムを代表とする新たな法的認識原理は、異文化理

解の立場から社会的な疎外・周縁化・無視されることにより社会的統合が脅かされる可能

512 「これは法である。しかしそれはあまりにも邪悪であるので適用あるいは服従できない。」

H.L.A. Hart, 1961. The Concept of Law, Clarendon Press, p.203.(矢崎光圀訳)『法の概念』

(みすず書房, 1976)226 頁。 513 アクセル・ホネット(加藤泰史・日暮雅夫ほか訳)『正義の他者』(法政大学出版局, 2005)

190 頁。

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270

性を問題視し、不平等を経済的貧困という側面として考えるだけではない。新たな法的認

識原理は権利的主体間関係への認識視点を含んで、歪められた承認関係のコンフリクトを

解消するために、ヘーゲル流の「承認の闘争」の再燃の代わりとしての「再認」を契機と

して、社会秩序の崩壊を予防し、新たな社会秩序原理を構築する。

ここで重要なのは再認の二重の意味である。平等規範に基づいて、他者を承認し他者か

ら承認されることは、自由で平等な法秩序を形成する前提である。社会的秩序とそれらの

規範の則法性を妥当な形で認識する時、2 つの視点から再認の意義を理解することができる。

1 つは規範的意味の承認、つまり「根本法」ないし「基本法」の妥当根拠や基礎づけとして、

国家の支配秩序を正当化するという意義である。それは全ての支配権力を「承認」の原理

のもとで拘束することによって統治者と被治者を平等に位置づけ、単なる社会的資源の「希

求者」と「配分者」という非対称的な関係ではなく統治者と被治者との権利および義務の

対象的関係を目的とする立憲主義の核となるものあり、自由主義、民主主義の発展とも密

接に結びついている。人間は「彼ら自身の同意なしに他人に自然的に服従することはない」

のであり、「何人も自分自身の同意により、また彼ら与えられた権威による以外には、社会

に対して法を作る権力を持つことはできない」として、同意や承認を法の拘束力の基礎と

する見解は数多くある514。もう 1 つは、個別的社会のより具体的な法秩序を実現するプロ

セスにおいて理解された事実的意味の承認、つまり、能動的な参加・関与という市民的人

間の基本的態度をもって、自律的で自発的・創造的に法制度を発展させる法実践としての

意義である。再認の中心的思想とする認識的主体主義(Rekognition Subjektivismus)は、

社会・国家を動かしうるのは人民のみであり、人民のみが権威の源泉であるとする。以上

のような理解を踏まえると、再認は、「法を一方的な権威の投射の所産」として「垂直的関

係」においてのみ捉えずに、「法がむしろ市民と立法者或は市民相互間の相互作用」として

「水平的関係」ないし「社会的次元」において、自己と他者との間主体的な関係性、つま

り社会的存在たる相互承認的関係のなかでの自由の平等という法的価値の再認識・再理

解・再定位を検討する原理であろう。

ロールズの「市民的不服従」の視座から見ると、法についての市民的再認は、多数決ル

ールの限界という不完全な手続的正義を補完する機能をもつものとして、正義に適う社会

制度編成の不可欠な主体的契機であると考えられる。コミュニティのマジョリティに対し

514 ジョン・ロック(鵜飼信成訳)『政府論』(岩波文庫, 1968)118, 135 頁。

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271

て、マイノリティが再認を通じて正義感覚の覚醒を促すうちに、アイデンティティと社会

的価値を保持している感覚を他者に尊重してもらう主体的関与により、対等な配慮という

道徳的義務を超えて、平等という法の根本規範に回帰する。

また、再認には法のイメージを変容させるという意義がある。第 1 に、再認は法の概念

を本質に変容し、権威的な手段性及び実効的な強制性の要素を法概念から排除するという

意義を有する。権威と権力の支配の「正当性の感覚」は、如何なる「聖なる外的な力」・「超

越的な神秘」・「無条件的なもの」ではなく、自由の平等を承認し合うことができる「平等

で自由な個人」へと置き移される。第 2 に、そこには、法の本質を完全に変容し、法の起

源や評価を間主体的社会的条件から説明するという意義がある。「支配―被支配」という伝

統的な法本質認識の枠組みを越えて、近代社会における法の本質は、正義と秩序を基調と

する社会における「平等で自由な個人」が相互に承認を求める関係にあり、それは「支配

の正当性」から「自由の平等の相互承認」へ転換しているのである。法を制度の内側から

見ることにより、そして、法的承認という意味を拡大することにより、法の拘束力を法の

強制性から法の制度的な公共性へと転換することを理解することができる。こうした理解

は同時に内的視点を充実させるものになる。第 3 に、再認は「法の理解」も積極的に促進

するという意義がある。社会規範との関わりにおける人間関係と行動様式のあり方に目を

向けさせ、法に関する理解を深めさせるとともに社会の構成員としての我々の人格と主体

性の育成を図り、他者との相互承認を通して法における人格の再帰・役割の統一を促すも

のとなる可能性がある。自己及び他者の人格や個性の理解と尊重、自己自身を普遍的な「ほ

んもの authenticity515」である本質を投射する。第 4 に、再認には「法の実践」をも本質

的に変容させるという意義がある。「自由の平等の相互承認」による近代社会の関係の本質

は、人間を「支配—従属」から平等で自由な個人間の「寛容・連帯・ケア」へと決定的な

変化をさせ、また、「社会的排除」から「社会的統合」へと発展をさせ、「同質志向的平等」

から「異質志向的平等」観念へと進歩させる可能性を高めることによって、「概念としての

法」により隠蔽された「法のイメージ」を変化させるのである。

515 Authenticity は「私自身の特有な存在の仕方に忠実である」という意味で「かけがえのなさ」

と訳される。つまり、「万人と平等で共通な私のあり方ではなく、この特殊で他者との差異を

持つ私のあり方が問題となっている。」日暮雅夫『討議と承認の社会理論 ハーバーマスとホ

ネット』(勁草書房, 2008)173 頁。

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第3款 主体的関与の基盤としての平等

第1章においては平等概念の諸相を思想史的文脈で整理した上で、平等論をめぐる諸問

題の設定から平等主義的平等論を導き出してきた。ここでは現代平等論哲学の若干の問題

点を克服するために、平等と主体的関与との結びつきという視座から考察し、正義原理の

受容に関する新たな認識原理としての「主体的関与」を引き出す契機を捉えたい。

竹内章郎によれば、「歴史実態的平等論」・「社会構造的平等論」・「概念形態的平等論」と

いった伝統的平等論から現代リベラリズムに至る文脈の中で発展されてきた平等論により、

平等をめぐる問題関心は基本的に、<平等の形式・機会志向>から<平等の配分志向>、

そして<平等の関係志向>へと展開していく。さらに、同質志向的平等と異質志向的平等

とを区別した上で、平等概念を同一性に限定せずに、同一性としての平等を踏まえながら

も同時に非同一性もしくは差異性としての平等をも重視するようになった516。このような

平等の捉え方から見れば、ルソーの社会契約論をカント的理性で基礎づけた、形而上学的

平等主義の色彩を帯びたロールズ正義論においては諸個人の内面性を重視しながらも諸個

人間の相互関係性を強く示すことも考えられるだろう。ロールズは功利主義者たるヒュー

ム、スミスなどの理論を批判しながらも、正義感覚論の中では彼らの影響を受けた。例え

ば、原理の道徳性における「自己規制 self-command」という概念をスミスの『道徳感情論』

から取り上げ、道徳性の観点はヒュームを参照した(TJ, p.419, Note.17/629 頁引用 17 参

照)。こうした理論的継受の背景を踏まえ、理性や正義感覚や再認等の諸概念の再検討を通

じて、ロールズ正義理論の拡張解釈の契機である主体的関与を構築することが可能である

と考えられる。

主体的関与とは、公共理性の発揮と正義感情の伝達をもとにして人間関係を認識する上

で、正義原理を生成・確立・受容しようとするものである。平等はこうした個別的正義感

覚から共通的正義感覚の次元への過程において共同性や相互性を見出し、正義という普遍

的価値判断と関連づけるというプロセスにおいて重要な役割を担っているものである。

第 1 に、関与の主体について言及すると、我々は、生命体としての同種性、「人間性」と

しての同一性を持つことを理由として、すべて対等に扱われるべきである。生と死という

本質から、人類は生の質を保証するために種としての遺伝的な多様性を自覚的に確保しよ

516 竹内章郎『現代平等論ガイド』(青木書店, 1999)第2・3章参照。

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273

うとする意識を有しており、遺伝子間の交配により人間は多様性を維持し、共存している。

なぜ優性遺伝子のみならず、劣性遺伝子も常に存在するのかといえば、それは多様な遺伝

子を絶えざる自己保存と自己更新のために保存しておくことによって、病原菌や環境への

急速な対応の可能性を維持する為である。比喩的に言えば、同種の生命体としての人間存

在は既に遺伝子のレベルで多種多様であると示しており、そうした存在自体は存在の様態

や特徴の優劣に関係なく、あくまでも差異を示す対等な立場でしなない。こうして、差異

の尊重から導出する平等の観念はより根本的、象徴的な意味において人間関係や社会関係

の基本的な在り方を明らかにし、正義の担い手として制度編成や政策制定の方向性を見出

すことができるものと思われる。

第 2 は主体的関与の対象についてである。もし我々が自分と他人とは全く異なる存在だ

と考え相手を主体的関与の対象として認めないならば、他者に対して何ら感応せず、そし

て感応できないという軽視・無視が生まれようし、他者からの法的要請も無視されること

となろう。たとえば種族の差別が当然視された時代において、他者の存在は主体的関与の

対象にならない。今日においてアメリカでは白人種・黒人種の人種間対立が問題視されて

いるが、白人と黒人との間に人間の同一・同種性が認められなかった時代にいては、異質

的基盤の上に置かれた黒人の、政治的権利である投票権は否定されていた。そこで多数者

の決めたルールに照らし合わせて、主流である状態や結果と違うから誤りだと判断するよ

うに、異質的存在という事実は、否定的な価値判断へと関係づけられる。20 世紀前半にお

ける、近代反ユダヤ主義によるユダヤ人の受難も同様の説明が妥当する。我々は、こうし

た歴史の教訓から、主体的関与的態度による差別の認識が可能となり、主体的関与対象の

平等を求められるようになってきているのではなかろうか。

第 3 に、主体的関与の基底についてであるが、「世界人権宣言」の追求する精神によると、

人類社会のすべての構成員にとって、良心の自由と平等は固有のものでかつ平等で譲るこ

とのできないものである。思想および良心の自由と人間尊厳の平等は、人間社会と法の規

範的時空における正義の観念の基底的な力である。良心の自由及び人間尊厳の平等に関わ

る正義感覚は、人々の胸中において等しく存在している。すべての人間は、生まれながら

にして感受性と良心とを有しているのであって、しかもこれは自由で平等なものである。

これは多元的認識構造をもつ「開かれた社会」の中でこそ確保されるのである。

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274

以上のような特徴を有する主体的関与は、正義感覚の発揮を通じて平等を実現してゆく

ための動因である。

第4款 関与主体の比較的理解

何をもって正義原理とみるかの問題は、関与主体の捉え方により、または主体的関与の

内容により、或いは関与対象の限定の仕方により、更には関与という行為をどのように把

握するかにより、かなりの違いが生じてくる。関与主体の問題からみて、全ての人々によ

る主体的関与と社会の多数者の主体的関与の区別によって、主体的関与は「万人の主体的

関与」という個別的主体的関与論から出発したが、それは理想的形態に過ぎないために「社

会の多数者の主体的関与」と言う一般的主体的関与論へと移る。しかし、一般的主体的関

与論に対しても、それを維持するためには大きな修正が必要されよう。

ロールズによれば、ある正義の構想が社会制度編成によって実現されているということ

は、公共的に承認されているということである。全ての人が社会的協働から便益を受け、

その社会の多数者の正義感覚として現れた正義の諸原理に従って、市民が公共性・協働性

の中心的な担い手とされた新たな法-政治秩序が模索されるようになっている。これに対し

ては、ハートが『法の概念』において、官僚あるいは支配階層を正義感覚の担い手とし、

遵法義務を統治階層に課す法実証主義論、あるいは道徳を範疇に入れた法実証主義を展開

している517。しかしそれは、正義感覚の主体が社会の全体構成員ではなくその部分集団、

すなわち当該社会の指導者層に求められるに至ったならば、それは法の主権者命令説と殆

ど同じく、実力説へと化してしまうのではないかと思われる。

部分社会ではなく、全体社会に関与の主体的基礎を育てるという目的から考えると、主

体的関与の名宛人と主体的関与の受容者との区別という視点は正義原理の受容にとって有

益である一方、関与主体の認識に関する方法論も提供している。

517「人間が共同していかに生きるべきかについて、このような、もしくは何かほかの問題を立

てるためには、一般的に言って人間の目的は生きることであると仮定しなければならない。こ

の点から出発すれば議論は簡単である。人間本性および人間の住む世界に関するいくつかの非

常に明白な一般原則―まさに自明の真理―を熟慮してみると、それらが妥当するかぎり、いか

なる社会組織でも、それが存続しようとする以上もたなければならない一定の行為のルールの

あることがわかる。」H.L.A. Hart, 1961. The Concept of Law, Clarendon Press, p.188.(矢

崎光圀訳)『法の概念』(みすず書房, 1976)210 頁。

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主体的関与の「名宛人 addressee」とは、主体的関与によって正義感情に伴う論理的法思

考・法実践を行うべきであるとされている人のことをいう。主体的関与の作動する環境で

は、人々のアイデンティティや特定の活動様式及び生活様式を問題視する場合としない場

合がある。問題視しない場合は、その主体的関与の基盤となる共通性・公共性、つまり社

会における平均的な能力や人(一般人)ないし平均的な社会意識を基準にする。問題視す

る場合、主体的関与の名宛人は、法思考・法実践を行うべき各場面において実際に対象と

なっている個性的で具体的な人、すなわち「特定人」である場合である。関与の名宛人の

立場により、正義感覚の主体性は区別される。例えば、一般市民の正義感覚と裁判官の正

義感覚、社会・政府組織における役人の正義感覚の区別がある。ハートの「法の重層性」

を理解において彼が正義感覚の名宛人を設定する対象は、社会的指導の層としての国家の

官吏、特に裁判官であるので、法の規定は国民に直接に作用し、国民の行為を直接に縛る

のではなく、当該裁判を執り仕切る裁判官が裁判を通じて当該事件の当事者の行動を律し

縛る。つまり法の直接支配の対象は裁判官であり、一般的国民はその裁判の当事者となる

場合に縛られるのである。

主体的関与の名宛人に対して、主体的関与の「受容者 acceptance」とは、正義感覚を拒

否・受容するといった判断を行うような内的視点により、法行動を惹起させる刺激として

の正義感および法の意味を再認する者である。ノルベルト・ヘルスター(N. Hoerster)は、

ハートの理論を基本的に受け入れた上で518、再認による法の妥当を主張する。かれの受容

の理解を借りて説明すれば以下のようになる。主体的関与による受容とは、⑴正義感覚に

合致する態度のための努力、⑵その努力の基本的方向は、自分が正義感覚に離反する態度

を取った時は正義感覚に照らして後悔し、正義感覚に反する他者の態度には正義感覚を引

き合いにだして非難する、⑶自分が正義感覚に離反する場合には、他人の批判を正義感覚

によって是認されるものと考える用意があることを意味する。正義感覚に照らして正義の

意味を再び認識する意味で関与主体は受容者と名づけられ、主体的関与の名宛人と区別さ

れる519。名宛人と受容者との区別によって、受容行為は単に事実的に法律規範を使用・遵

守するのでなく、法の利用と法の承認を区別する必要性が明らかになる。「遵法事実」から

518 N. Hoerster, Wirksamkeit, Geltung und Gültigkeit von Normen, in: D. Mayer-Maly und

P.M. Simons (Hrsg.), Das Naturrechtsdenken heute und morgen, Berlin 1983, S.595. 519 大橋智之輔「承認論における「主体」の問題:承認論ノートより」立命館法学 5・6 号 639-40頁参照(1988)。

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「遵法義務」を引き出すことは、法共同体構成員が法規範への再認することと同義である。

主体的関与は、正義の理念に合致する正義感覚を前提とした上で個々の公的判断の統合性

を問題にするものであるから、個人的正義感覚のみならず共通的正義感覚に対しても配慮

することが必要とされる。まして、近代社会において自由の平等の相互再認は単なるルー

ル関係ではない。今や人間関係の本質を普遍的主体関与の運動を通して展開し、深化させ、

自由の平等の相互再認に基づく普遍的主体的関与の時代である。

普遍的主体関与の時代においてはどのような社会・領域・組織であれ(地域社会、国家

社会、地球社会)のいずれの領域においても、我々は一般的抽象的な「人間」ではなくて

様々な具体的な係を分担する役割者として、共生的社会秩序を維持しながら生活世界とい

う舞台に登場する。社会や他者に対して規範的期待・主張を提起する機会を互いに認め合

うことによって、人々は互いの主張の名宛人としての地位を引き受けることになる520。し

かし、人は役割を担当する時すなわち名宛人になる時に初めて当該役割内容を是認するわ

けではないから、予め包括的に、自分が将来なりうる名宛人としてそれを是認することに

ついては注意すべきである。これは、将来なりうる名宛人が、民主主義社会において社会

階層の流動性故に原則として全ての人に平等に開かれており、それ故に再認を行う関与主

体が常に「可能的な」名宛人たりうるからである。しかしながら、規範再認としての関与

主体と名宛人とは常に同一性を保っているわけではない。なぜなら、他者によって提起さ

れる規範的主張のすべてを正当なものとして受け入れることはできないし、またそうすべ

きでもないのである。それを受け止める場合、名宛人は自らの規範に関する正義感覚ある

いは確信に修正を迫られることもあり、規範の正当性をめぐる関心が他者と共有する政治

文化の長期的な再解釈に同時に関与しなければならない521。

さらに、これらの役割において社会的に期待される適切な具体的行動を特定する公共的

規範の引導、予測、評価、教育、強制などの行動様式を理解して受容していくプロセスに

おいて、このような社会的役割は単に人が個人の才能、興味、傾向等から自発的に追求す

る位置だけではなく、社会的な伝統・慣習・圧力によって個人または共同体に割り当てら

れた位置でもある。一方、現実社会において人々の存在の多くによって、独立した個人と

しての立場であると同時に社会集団の構成員の立場であることから、他の集団成員の立ち

520 斉藤純一『政治と複数性——民主的な公共性にむけて——』(岩波書店, 2008)60 頁。 521 同上書, 61-2 頁参照

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振る舞いや関係各所を理解した上でそれらの影響を受けてグループのルール是認するまで

集団と自分との位置関係を把握することができる。個人が没個性化した状況において彼ら

は社会集団の規範に同調し、集団的アイデンティティを自己のアイデンティティとして理

解し、彼らの行動は社会集団の規範のみによって導かれるようである。こうした社会規範

の受容は不断の内面化や頻繁な活性化を通して定着するのである522。他方、こうした社会

は能力主義や業績主義を重視することによって、階層差別や能力差別をもたらし役割の交

代を事実上不可能たらしめ、それ故に役割が新たな身分(status)とさえ捉えられる時にお

いて、関与的主体はもはや可能的名宛人との同一性を維持しえなくなり、関与的主体の再

認により名宛人は義務づけられると楽観視することは困難だろう。

ところで、主体的関与による「再認=内的拘束 Self-restraint, self-enforcing」の型式を

次のように言うこともできる。即ち、個人の自己拘束が主体的関与に基づくのと同じよう

に、国家或いは社会をある 1 つの統一体と捉え、個人とのアナロジーで、「国家の自己拘束

が国家の主体的関与に基づく」と語る事も可能かもしれない。しかし、自己本位の立場に

立つ主体的関与に対して、国家・社会・集団などの「超個人的な集団統一体」はどこに位

置付けられるかということについて、また、「超個人的な集団統一体の主体的関与」とは何

かについて検討する必要がある。主体的関与に伴う国家の自己拘束の根拠が、国家権力の

授権方式に関連して考えて見ると、具体的な法律条文による個別的例示限定方式から法の

基本原則による概括的授権方式へ、そして当該法秩序全体による包括的な白紙委任に移さ

れることは適切かどうか、また、それらを超えて、具体的な規範内容に関係せずに当該社

会において現実に決定的機能・役割を果たしている法定立機関の承認が為されるならば、

それは果たして適当かどうかの吟味と反省が必要である523。「超個人的な集団統一体」につ

いてのゲオルク・ジンメル(Georg Simmel)の社会学理論によれば、社会は諸個人の単な

る集合ではなく、諸個人の「相互作用」から成り立つものである524。ジンメルは、「多くの

522 Eliot R. Smith & Diane M. Mackie. 2000. Social Psychology. New York: Psychology Press.

pp.381-2. 523 承認の対象を法定立機関に求める代表的見解として、ゲオルグ・イェリネック(芦部信喜ほ

か訳)『一般国家学』(学陽書房, 1974)272 頁参照。 524 杉本学「相互作用と社会の実在性とのあいだ——ジンメル形式社会学の一側面」年報社会科

学基礎論研究第1号 112-25 参照(ハーベスト社, 2002)。

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諸個人が相互作用に入るとき、そこに社会は存在する525」と言った。彼の理論における、

社会を相互作用へと還元する認識を、ここでは<社会=相互作用>認識と呼ぶこととする。

個人と個人の相互作用、そして「統一体」としての集団・社会・国家という認識過程によ

って、「統一体」は特有の存在性格があるので、「統一体の主体的関与」は決して各人の正

義感覚の量的総和ではない、特別な感覚の様式があるのだと言うことも理論上は可能だろ

う。これは単に観点が異なるに過ぎないのではなく、「個人」と「統一体」のどちらが優位

に立つかという問題が浮かび上がらせるものである。

この問題は更に「統一体の実在的意志の担い手は誰か」という問題に繋がる。「法命令理

論」を説くジョン・オースティンにおいてこの担い手は命令を下す主権者であり、「法ルー

ル理論」を唱えるハートにおいて遵法義務を負った官僚であり、「法純一性理論」を提唱す

るドゥオーキンにおいては法の背後に浸透している法律家や裁判官である。こうした普遍

身分としての官僚や法曹の再認によって「統一体」の主体的関与が成り立つとされる。し

かし、主体的関与の主体が、⑴民主主義的な国家・個人理解の立場に立って、社会成員の

多数者と支配的部分たる当該社会の指導的階層に対して共同感覚の形成における重要な役

割を担っているのは誰かということがあるが、民主制において、全てのことを万人が自己

決定するのは必ずしも望ましくなく、専門家に委任することが推奨される。しかし指導層

=支配層に社会の選択の方向づけを規定され、それに只同意するだけの「指導された民主

主義」は、洗練されて見誤り易くなっているが実力説と殆ど変わらず、ケルゼンも言う「絶

えず形成されていく国家の諸規範に対して、最初から存在する無条件の賛成は事実上、一

切の承認の放棄である。526」それ故に、承認による主体的関与の特徴を失うことになろう。

「多数者」と「指導者」の違いは決して無視できぬ差異であり、次の点についてだけ言及

しておきたい。一般的主体的関与論は「多数者の主体的関与が何故に、非主体的関与の少

数者に対しても法の拘束力を与えるのか」を説明しえない故に——上記の指導された民主

主義の拘束力を認めるために、多数決に先立ち多数決制に対する万人の主体的関与が与え

られるか、或いは多数者の再認した内容に万人が「再認すべき」価値が必要となるだろう。

前者は個別的主体的関与論への復帰である一方、後者においては、主体的関与は事実的平

525 ゲオルク・ジンメル(居安正訳) 『社会学:社会化の諸形式についての研究』(白水社, 1994)

15 頁。 526 Kelsen, Hans. 1923. Hauptprobleme Der Staatsrechtslehre: Entwickelt Aus Der Lehre

Vom Rechtssatze. Tübingen: J.C.B. Mohr. S.358.

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面から当為的平面に移されてしまうのである。次に、⑵自由主義的な国家・個人理解の文

脈においては、社会的規範関係・規範秩序は人間の意志と手によって合理的に生み出され

たものであるために、人間の意志と手によってこれを変革することも可能である。しかし、

法は人間の手によって作られるものであるという法理解は、前述したようなホッブズの法

命令説の強制的な側面と結びつく。すなわちこれは、法の人為性はただ命令者によって与

えられるものなのである527。周知のようにホッブズは「法の支配」を否定し、法の命令者

を法の拘束から解放することで、命令者は法制度の外に置かれている。制度の外にいる命

令者の視角から法を見るかぎり、法の制度的な公共性は理解されない。これに対して、ハ

ートの内的視点は、法を再認する人々を制度の内側に置くことにより、法の制度的な公共

性を探る可能性が提示した。規範の自由な受け入れと規範の正しさ故に規範を自由に実現

することに求めたリュッフェルも、法的社会の成員や国家機関の構成員の人格構造を法の

社会的実現過程に影響を与えるものとして取り上げ、民主的法治国家において権威主義的

人格構造は不適合であり、非権威的でなければならないこと、それは自律と規範に対する

反ドグマ的態度——規範は今日の社会では絶えず現実に適応し変化することを求められて

いる故に——を特色とするということ語っているが、規範的妥当の根拠としての再認を考

える場合においても主体的関与主体の特性が検討されてよいのではなかろうか。

主体的関与の名宛人と主体的関与の受容者の二分法の理論的視座によると、そこで生じ

る問題は、しばしば主体的関与論の中心的思想として、主体的関与の問題を自己決定力の

問題——本人の感覚表出なしではなんらの効力も生じないとの主張——として語られる場

合における名宛人と受容者の関係を指すである。例えば、法の自律性を強調するラウン

(Laun)は、外的立法はそのままでは Sollen を生み出さず、良心や法感情の再認によって

のみ当為となると論ずる。このような捉え方は個別的主体的関与論にとって支配的といえ

るであろう。

第3節 主体的関与の原理とそのアプローチ

第1款 主体的関与の原理:消極的側面と積極的側面

527 ホッブズ承認論の特性について、山本陽一「ホッブズの法命令説における「承認」」阪大法

学 40 号 159-84 頁参照(1990)。

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280

古代中国の思想家である孔子は、『論語』において「己所不欲勿施于人528」という言葉を

残している。つまり、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」ということである。生

活世界において人間の行動を規制する法的規範の枠組みから見るとこの言葉は、法の基礎

となる社会的基盤と、対人関係の基本を語ったものである。「己所不欲勿施於人」という出

典は『論語』であるが、洋の東西を問わず共通する道徳規範といえよう。「自分がしてほし

くないことは人にするな」という規範に対して、西洋においては次のような理解があった。

「<君に対して為されるのを欲しないこと云々>という取るに足らぬ言辞を、基準或いは

原理としてここに適用できるなどと考えてはならない。こういう言葉は、種々な制限を加

えてのうえにもせよ、けっきょく上記の原理(人間は目的自体であるという)から派生し

たものにすぎないからである。」529。

その言葉を原理の視座から理解するにあたっては、消極的な側面と積極的な側面との 2

つに分類することができる。直感的立場から消極的側面を見ると、「自分の望まぬことは他

人にするな」という当たり前の話は、自分の好まない・したくない嫌なことは他人も好ま

ない・したくない・嫌だろうから他人に対してしてはいけない・他人に強要しない、とい

うことを意味する。人にはそれぞれ自分の立場があるわけだから、自分の望まぬことを相

手に頼んでもおかしくないとの反論もあろうが、できるだけ非の打ち所のないように、「相

手と自分が主体的関与をしようとする場合には対等な立場に立つ」という前提条件を付け

加える必要があるだろう。

主体的関与についてのこうした消極的理解に対して、「己の欲するところを人に施せ」と

いう主体的関与に関する積極的理解はキリスト教世界においても、対人倫理の核心を表す

「黄金律」として大いに尊ばれてきた530。さて「人にしてもらいたいと思うことは何でも、

528 『論語』巻第八衛霊公第十五、二十四。 529 イマヌエル・カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波書店, 1976)105 頁。 530 「黄金律」に関する儒教・キリスト教・ユダヤ教の比較的研究について、高橋文彦「「黄金

律」の歴史的起源と論理構造」一橋論叢 115 巻 1 号 108-28 頁参照(1996)。また、公共性の

視点から黄金律の消極的側面と積極的側面の考察について、瀧川裕英「公共性のテスト」(井

上達夫編)『公共性の法哲学』(ナカニシヤ出版, 2006)29-30 頁参照。「己の欲せざる所を人

に施す勿れ」という道徳訓は、「己の欲する所を人に施せ」と説くキリストの積極的な隣人愛

の教えに比べて、一見いかにも消極的で見劣りするようであるが、その反面、いわゆる親切の

押し売りというようなことの起こる心配もなく、複雑な人と人の道徳的関係に対処してゆくべ

き指針としては、いっそう深い知恵を秘めているように思われる。大江精三『理想的人間像』

(南窓社, 昭和 41)96-7 頁。

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281

あなたがたも人にしなさい531」という理解はどうすれば成立し得るかという疑問もあろう

が、実はこの主体的関与における「優先順位」と「不偏性」は密接に関わり、こうした公

正を重視する精神は既にロールズの格差原理においてよく考えられていたものである。す

なわち、自己というものは思考・実践する活動の中心的位置を占める一方で、自己と他人

との非対称な関係ではなく主体間の平等の関係志向を目指すものであるとも考えられるの

である。「個人的価値と超個人的価値とか、それらの自然的な対抗関係にもかかわらず調和

的に充足される程度を高める」ことが彼の平等論の最大の課題として考えられている532。

531 『マタイによる福音書』7 章 12 節。 532 Nagel, Thomas.1991. Equality and Partiality. Oxford U.P., p.32.

黄金律 己所不欲勿施于人 Do unto others as you would they

should do unto you. (旧約聖書レビ記 19 章 18 節)

中心的思想 己の欲せざる所を人に施す勿れ 己の欲する所を人に施せ

出典・表現

『論語』衛霊公第十五「子曰く、『其

れ恕か。己の欲せざる所人に施す勿

れ。』」『中庸』第十三章「忠如は道

を避ること遠からず。諸れを己れに

施して願わざれば、 亦た人に施す

こと勿れ」

聖書 マタイ伝 「だから、人にしてもらいたいと思

うことは何でも、あなたがたも人に

しなさい。これこそ律法と預言者で

ある」(マタイ7・12『聖書新共同

訳』(日本聖書協会,1987))

宗教的背景 儒家思想 キリスト教

思考パターン 「……勿れ」という否定形 「……しなさい」という命令として

の肯定形

実践方式 仁愛と寛容 祈りと懺悔

自他関係 世俗世界における人と人 基督世界における神と人

関係性 消極的他者関与 他者への積極的働きかけ

想定の人間像 人間の弱さ 強い者

共通点 通俗倫理:思想家・宗教家によって作られた原理ではなく、むしろ民間

に伝承されてきた伝統的な格言;論理理性と実践理性との結合

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282

このような人間理解を踏まえて、例えば、私が他人にしてほしいことがある場合に、ま

ず私が模範・手本を示すように意識して振る舞えば、他人は自らの共感から捉えた「私の

意識」を納得し、それを身につけてもらいやすいのである。つまり、他人に拠り所を求め

たいことがあるならば、所作を常に自己点検すべきだということである。結局、人は相手

をどう扱うべきかという、行為の価値尺度を引き出すような思考から主体的関与原理は平

等の観念に包含される。すなわち、「あなたが<人はあなたをそのように扱うべきだ>と考

える(=意欲する wollen)仕方で、あなたは人を扱うべきである」という主体的関与とし

て解釈されるかぎり、「人があなたを扱うべき仕方で、あなたは人を扱うべきである」とい

う形で平等の意味を理解すべきである533。

以上の議論を踏まえてみると、『正義論』で中心的に論じられた「社会正義の諸原理の第

1 義的な主題は、社会の基礎構造、すなわち社会の主要な制度を一つの協働の枠組みへと編

成した様態(TJ, p.47/75 頁)」であるのに対して、個人に関する主体的関与の原理を考える

ことが可能である。そこには上述した 2 つの側面がある。すなわち、関与の原理の消極的

側面:各人は、自分が他人からしてほしくないことは、他人も同じように思うのだから、

そのようなことを他人にしてはならない、と、関与の原理の積極的側面:自分が他人から

してほしいと思うようなことを、他の人々にもせよ、である。

主体的関与の原理を対立図式的に理解するにあたって、複数の解釈の価値には、⑴受動

的・他発的・否定的であると認識される、原理の性質や能力に関する<消極的な価値>と、

⑵能動的・自発的・肯定的であると認識される、原理の性質や能力に関する<積極的な価

値>という 2 つの側面がある。⑴の側面と⑵の側面の双方を統合的に「原理」として把え

ることによって、より広域の主体の人格が尊重され、自己の正義感覚を抽出し(正義感覚

抽出原理)、自分の心的装置(良心・正義感覚)を通じて自らの内面主体的立場を他の対象

に投射することでその対象と自分とを同じものだと見ることで共感を得(正義感覚移入原

理)、常に近似値としての確率的な正当性しか保証されない意識作用を体験することによっ

て最もそれに近い存在が諸共同体あるいは諸集団の間の権利関係と権限配分を再定義する

(近似値ルール)と考えられる。

533 高橋文彦「「黄金律」の歴史的起源と論理構造」一橋論叢 115 巻 1 号 119-20 頁頁参照(1996)。

Hoerster, Norbert. 1971. Utilitaristische Ethik Und Verallgemeinerung. Freiburg, München: Alber Verlag. SS.52,56 ff.

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このようにして私の考えている主体的関与は、ロールズの方法論である「拡張された共

感」と本質的に一貫している。主体的関与とは、正義感覚を通して正義原理の体験の機会

とその条件を確保することで、主体的市民を積極的に社会的協働に参加させ、よりよい人

間関係を基盤とする秩序だった社会を構築することをいう。その関与的アプローチを通じ

て人々の実践的な思考や行動の原理を人間関係のあり方に還元させ、それによって社会的

不正という問題の存在の原因は関与の不足にあることを明らかにするのである。この社会

的不正を是正するための必要措置として、既存の制度によって排除された人々、或は平等

的配慮に関心を寄せない人々は、人間のアイデンティティの真意を問い、責任をもって主

体的関与の行動を取り、更には等しい人格的存在者として自らの平等的要請を理性的・モ

ラル的・戦略的コミットメントを通じて他の社会構成員の正義感覚に積極的に訴え、自ら

のアイデンティティを再認するとともに、社会的正義を形成・受容・発展しなければなら

ない。この具体的なアプローチは以下の各款で展開することにする。

第2款 理性的コミットメントのアプローチ:正義感覚抽出

第1項 正義感覚を含むあらゆる感情の呈示

非偏愛性的平等による主体的関与の観点から正義にアプローチする時に、まず、自己か

らの正義感覚抽出のルールが必要とされる。これは次のように考えられる。現実的社会に

おいて、多様な物理的、精神的、機能・構造的な感覚がある。これらの感覚によって認識

主体である自己を認識対象である相手から分離し、自己と他者との間に一定の距離をとる

ことができるようになる。こうした感覚は、特に人間が理性的思考による生活世界の考察

よりも、「感情生活の方が現実的な性格をより豊かに担っている」という点で、自己認識及

び自己理解を通じて我々を「個的存在」として独自の価値を抽出することに対して非常に

重要である。感情、つまり自我を感じるときの感覚内容が経験された様々な観念構想と結

びつき、「われわれを自分自身の中に連れ戻し、はじめてわれわれを個体にする」。そして、

「感情を遠く外界の経験に共鳴させればさせるほど、われわれは普遍的存在から切り離さ

れる。自分の感情を遠く理念の世界にまで高めていくことができる人こそ、真の個性をも

った存在であると言えるであろう」534。正義感情の抽出を通じて普遍化・抽象化された人

間存在が個別的・身体的・具体的存在に還元されることによって、人々の側での規範意識

534 ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)『自由の哲学』(筑摩書房, 2002)128 頁。

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を醸成し、正義原理への信頼と受容をもたらす。特に「法における感情の役割は、いまま

で述べてきた法的規範を正当化する一般的な役割に関係している」。そこにおける人間を自

由で平等な人格存在者とする理解及び正義原理を認識・受容するには、自己からの正義感

覚抽出が必要である。つまり、感情に含まれる法思考は「これこそ感情であると言えるも

のの一部をなしているのであって、まさに感情本体を構成しているということを意味する。

さらに、思考は感情の構成要素である感じが変化、変動しやすいのに比して、より安定し

ていて分析しやすいと思われる部分でもある。」そして、「すべての感情は対象の値踏みや

価値評価を含み、すべての感情はその対象を、取るに足らないものとしてではなく、重大

なものとして評価」しなければならない535。

自己が正義感覚を抽出することによって、法を認識するための諸概念は個体化されてき

た536。例えば平等という概念について、関与主体の思考に組み込まれている平等という概

念の内容は、思考主体が有する具体的な情景と結びついている。その結びつきがないとし

たら、平等は抽象的な概念にすぎず、経験しないと理解できないかもしれない。そして、

体験に伴わないかつ想像力も使われない平等の概念理解が正しい仕方で概念の本質を問い

かけるのは困難であり、それが平等の「表象」に過ぎないものだけである。具体的な事物

に対して認識した結果としての平等には、個人差によって生じてきた多様な結論がある。

「平等だ」と考える人もいれば、そうでない人もいるわけである。個体化された概念=個

的存在によってこそ、主体的自由は意味をもつことができる。その意味で、「個」であるこ

との意味を見ていく必要があり、そこにおいて「感情」というダイナミズムは「概念が具

体的な生命を獲得するための最初の手段である」537。我々は生きられる感情を通して高度

に抽象化され観念化されたものを具体化し、概念に意味や価値づけを与えていく。

第2項 感情の呈示のための促進的環境

535 Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton

U.P., pp.8, 29.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)9, 36 頁。 536 例えば、Izard は人間の表情形成によって、感情を「喜び」「哀しみ」「怒り」「嫌悪」「恐怖」

「罪」「恥」「興味」「驚き」の 9 つに振り分けて抽出したうえで、分類し、その感情の強度を

0.0~1.0 のスコアによって表したものを感情抽出とする。C.E. Izard, 1971. The Face of Emotion. (Appleton-Century-Crofts) Cf. p.182. また、情動的意味の構造分析について、(南

博・大山正訳)『感覚と感情の世界 図説・現代の心理学 4』(講談社, 1977)213-5 頁参照。 537 ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)『自由の哲学』(筑摩書房, 2002)130 頁。

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感情的存在としての我々は、内的自己を感情的リアリティとして行為者みずから理解し

ているかぎりにおいて、正義感覚の育成のための試練などといった様々な出来事に対処し

得るだろう。人間が自己真実(authenticity)に向かって絶えず成長して生きていくその原

点は、我々が心の声に耳を傾け、正義感を大事にし、自分の弱さを認め自分に嘘をつかず、

事実を事実して捉え自分の都合のいいように世の中を解釈しない、つまり自分の本心に忠

実に生きるということである。われわれは幸福感・喜び・熱意・満足などで特徴づけられ

る「ポジティブな感情」を大事にすると同時に、悲しみや不安や恐れ・怒り・苛立ち・恥・

嫉妬・憎しみ・罪悪感・自尊心の低下・抑圧などといった「ネガティブな感情」を拒絶し

たり無視したりせず、それらが伝えようとしていることに耳を傾け、あらゆる感情を解放

しなければならない538。特にネガティブな感情を解放することは重要である。生理学・心

理学の領域において、自分を解放する手段としての夢はしばしば抑圧した感情を解消する

ために用いられる。精神分析の治療の中で、病的表象はそれが患者の精神生活から出てき

た諸要素へ還元されると、患者はこの表象から解放される539。哲学的立場から見れば、ニ

ーチェの言う「運命愛 Amor fati」の視点も実践的なガイドとして有意義なものになるだろ

う。彼の「運命愛」540思想の核となるのは、過去の受容である。すなわち、人間のニヒリ

ズムの力強い肯定・承認によるニヒリズムの克服ということである。自分が自らの運命を

愛するのは、自分に向かっての自己超克であり、「否定性の<荒野>から新しい肯定性の創

造に到るべき第 2 の歩み」である541。彼の視点を踏まえて、われわれは自分の成長にとっ

ての阻害的な道徳や価値を解体し、人間存在そのものに備わった欲求や感情などの意志に

538 マーサ・ヌスバウムもリベラルな規範の心理学的基盤から特に「ネガティブな感情」を呈示

する重要性について、次のように指摘した。「こうした受容は、怒り、嫉妬、妬みなしにはけ

っして達成されないのだが、成熟の過程に従えば、ある時点において、子どもは人を支配しよ

うとする他の企てとともに妬みや嫉妬を手放すことができるようになる。子どもは、その時点

までに発達させた感謝と寛大さという力——これは、部分的には自責の念や悲しみのゆえに発

達したのであるが——を用いて、平等と相互依存に基づいた関係を確立する。」Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., p.224.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)286 頁。

539 Freud, Sigmund. 2004. The Interpretation of Dreams. Kessinger Publishing Co. p.69. 540 Nietzsche, Friedrich Wilhelm. 2001. The Gay Science: With a Prelude in German

Rhymes and an Appendix of Songs. Ed. Bernard Williams. Trans. Josefine Nauckhoff & Adrian Del Caro. Cambridge U.P. p.157.

541 Jaspers, Karl. 1950. Nietzsche: Einführung in Das Verstiindnis Seines Philosophierens. de Gruyter. Vgl. S.46.

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よって創出される生を生きるべきである。そして、そのような生き方が「永遠の回帰」と

いう感覚に至った際、つまり人生の喜びと悲しみを無限に反復すると感じることができる

ならば、われわれの人生は生きるに値する。ここに、運命の受容を超えるという形で現れ

る運命の愛が生じ、感情面の健康や精神面の健康を増進する心理的条件を提供することが

できる一方、法や公共政策に対して、そうした心理的条件を維持する社会的基盤は同時に

要請されている。いわゆる心理的条件と社会的条件からなる促進的環境がなければ、個人

と社会の健全な状態を維持することを望むことができないからである542。

こうして、正義感覚抽出における、正義感覚を含むあらゆる感情の解放と感情の呈示を

支える促進的環境とにより、我々は新たな自己理解を可能にし、自己成長という人格構造

の変容へと向かう実現的体験を促進する。われわれは、「正義への受容」と「不正義への抵

抗」を正義感覚抽出の過程において鮮明にして、自分自身を全面的に受け容れ肯定する統

一的な正義感覚認識を導き出すのである。

第3款 モラルコミットメントのアプローチ:正義感覚移入

「個的存在」として我々は、周りの世界との関連をどのように把握することができるだ

ろうか。個的独自性と人間性・社会性の両立のためには、人間関係において他者を平等な

主体として感受するような正義感覚移入が必要である。正義感覚移入とは、正義の観念に

関して、「個的存在」としての自己の直接的感覚的な経験と他者の間接的感覚的な経験との

同質性を感じ取るという、正義感覚的次元での他者経験の原初的態度を把握するために使

われる概念装置である。

現実生活における他者への正義感覚入力は、「対人関係において他者がおこなう行動や言

動によって意味を読み取り、心が動かされて敏感に反応する」543ことによる。人間の正義

感覚は自然に発生するものなので、それは良心の発生のように人間の衝動と本能から取り

出されるのである。我々の「全ての現実的なものに関する認知は本能に基づいて導き出さ

542 促進的環境を維持するための社会的条件、いわゆる法と公共政策が市民の感情面を介入する

正当性理由は「感情面の健康のための能力、自尊のための能力、他の市民と互いを尊重する関

係を築くための能力は<基本財>に違いないのであり、どんなリベラルな社会であっても市民

がこれらを得られるようにすべきだと考えることは理に適っているからである。」Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., pp.224-5.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)287 頁。

543 三好力「対人関係における感受性研究」日本社会心理学会第 39 回大会発表論文集 338 頁

(1998)。

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287

れる」結果である。他者への認知もまた「感情移入の本能」に由来するものである。この

人間本性は、表現手段或いは本能的な二次的衝動と「模倣の本能」とから成る544。更に、

人間本性としての共感は、社会関係における人間が「どんなに利己的なものと想定されう

るにしても、明らかに人間の本性の中には何か別の原理があり、これによって、人間は他

人の運不運に関心を持ち、他人の幸福を、自分にとっても必要なものだと感じる」545。つ

まり、人間が社会的存在者だことさえ認めてその価値評価を維持する限り、他者への感情

移入の可能性が保証されているのである。

主体的関与を通じて他者と情的につながっているという体験によって、相手の意図や気

持ちを理解できる可能性が高くなる。そのために、人間は、自らの置かれている立場・役

割・状況を認識した上で、自らが進んで積極的に他者理解を取り組むと同時に、自己発見・

自己理解および正義原理の受容を深める契機を把握することができる。具体的な状況にお

いて具体的な正義感覚を移入するために、次のようなプロセスがある。すなわち、⑴相手

に感覚を入力する装置による正義感覚の喚起と覚醒(触発・共鳴)と、⑵相手から感覚を

導出する装置による正義感覚の評価と表出(解読・交換)である。

第1項 正義感覚入力

まず相手に正義感覚を入力する装置についてであるが、テオドール・リップスは人間が

相手に感情を導入する能力を本能として認識し、アダム・スミスは主体的関与を人間本性

として理解した。この問題について注目されるのは、長谷川晃による人間の潜在能力とし

ての理解である。長谷川は『公正の法哲学』と幾つかの論文を通じて、正義感覚入力の客

観的環境を個別的現実と根源的現実とに区別した上で「正義の受容」とそのプロセスとい

う重要な法哲学的課題、すなわち「一定の正義の理想がそれに対立する種々の現実に抗し

て社会の人々に浸透しうる基本的な条件は何かという問題」に注意に促してきた546。長谷

川によれば個別的現実は種々の抑圧や差別、あるいは機会や富の不平等であり、根源的現

実は、様々な社会実践の背後において人々の思考や行動を規定し、それらを正義の受容の

障害たらしめているところの、実践の根本的態様である。正義の受容にとって障害となる

544 Lipps, Theodor. 1907. “Das Wissen Von Fremden Ichen.” Psychologische Untersuchungen

1: 694-722. SS.710, 713ff. 545 アダム・スミス(水田洋訳)『道徳感情論』(岩波書店, 2003)1 頁。 546 長谷川晃『公正の法哲学』(信山社, 2001)第Ⅲ部第 1 章参照。

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288

人間と社会の根源的事実の背後で、それらの現実を超えて正義の価値を把握し実現しよう

とする、あるダイナミズムを生み出す引き鉄がある。それは、「よりよき秩序の実現を志向

する人間と社会の潜在能力547」である。

本能としての正義感覚移入は、先天的なものでありながら、人は「人間的センス」を磨

けるように努力する必要がある。なぜなら、現実世界と感覚世界との間には物理的・社会

的・個人的・文化的・経済的な距離といった様々な障壁があるために、人間はそれらの試

練を乗り越え、妥当性と信頼性を高めていく努力が不可欠であり、信念を以て敢えて試練

の道を選択しなければならない。潜在能力としての感覚移入は日常の経験を通して様々な

生活場面において無意識的に実践され、その無意識的な体験により自分と相手の感情的同

一性を達成することになる。すなわち、人と人との間の感情的な融合のためには、主体間

関与の認知的な前提条件としての「役割取得」問題にも注意を払う必要がある。そのよう

な「役割」は、特定の人格の内部構造の一致性を要請するものではなく、それらの外的関

係におけるあるパターンの相同性によって一定の関係に入ることを示すことである。すな

わち、人間と社会との状態や内部構造に一定の差異を保ったままでの近似値があることを

示すものである。そして、人間は、豊かな感性を根本にして、現実的感受力や道徳的想像

力や脱利己主義的な創造力あふれる主体として、豊かなパーソナリティと明確な意思決定

の実現が可能である。内面的解放・精神的成長・心の豊かさを人生の基本的な生活態度と

価値観とすることによって、人格の完成と豊かな人間性が究極の目的とすることが可能と

なるだろう。そして人格の豊饒化に伴い、正義感覚の質と量も向上させ、異なる正義感覚

入力のための接触契機と入力確率も確保することができるようになるだろう。

第2項 正義感覚導出

他者への正義感覚移入について、主体的関与のアプローチから見ると、まず、触発・共

鳴による正義感覚の喚起と覚醒に基づいて、相手の正義感覚を受容したうえで、 さらに、

相手から正義感覚の評価と表出への配慮を求めることになる。つまり我々は、対象となる

相手の様子によって触発された自分の過去の経験や記憶の照合により共鳴し、その感覚刺

激の意味を認知し、その価値を評価し、さらに主体的経験によって客観的に捉えられる生

体の反応に伴う情動的表出という「正義感覚を導出する」過程を経ることが他者への正義

547 同上書 247 頁参照。

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289

感覚入力には必須である。この場合、相手から正義感覚を導出するためには「情動的評価」

と「情動的表出」という 2 つの側面が必要である。

「感情はそれ自身のうちにその対象の値踏みや価値評価を含んでいる」とともに、「感情

自体も評価されうるということを意味している」548。規範哲学からいうと、他者への正義

感覚移入に対して相手から正義感覚を導出する装置である情動的価値評価はなぜ必要なの

かという問題がある。引き続き、上記で触れた長谷川晃に依拠するならば、「共鳴は、正義

の重要性に関して直観的に起こる心理的過程である。しかし、いったんそれが言語的に反

省されるならば、実際には人々は価値観や背景となる文化を異にしており、それに則しな

がら正義の内容を理解してゆく必要に迫られるであろう」549。そして、自分と相手の構成

的な相互了解のための評価の意義を確認するのは当然のことである。つまり、我々の正義

感覚入力は、相手の正義感覚に一定の観点から意味を付与しつつ理解するという解読的関

与である。相手の正義感覚を読解する際には、自分の正義感覚である先行感覚による、具

体的な状況に適用による現状と目標のギャップが明確化されるという投射的体験によって、

相手と自分はその中で明らかになった差異を認めながら、「正・不正」に関する普遍的基準

を共有している。この共感が更に一定の先行感覚となり、更なる相互理解が進められるこ

とになる。主体的関与はこの不断の「先行―同定」の循環において漸進的に発展していく。

もちろん、正や不正の感覚刺激に対して、情動的価値評価は常に多様性の解釈仮説が前

提されている。この点について、相手から正義感覚を導出する装置である感情表出に関連

して説明する。感情表出とは、個人的・主観的に感情・感覚・情動として体験される内的

なものを通して、客観的に捉えられる生体反応とそれに伴う情動的自律反応を外部世界で

表象することである。多元性の解釈を押し進めるならば、公正のような正義感覚が一定の

収斂に至ること殆ど無いかもしれず、もしあったとしもそれは現実の生活世界の実践の中

における単なる偶然にすぎないのではないかという疑問が出てくるのは当然のことだろう。

正義感覚主体の多様性についての情動的価値評価は多様であり、そこにおいては評価の争

いは不可避である。それは、同一の性質を有する感覚刺激を異なる立場から解釈すれば、

他者の情動的価値評価よりも身近にある自分の利益・地位・財産を確保するために、自ら

の情動的価値評価を優先する為である。また、「心と感覚を介して世界を把握する能力が成

548 Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton

U.P., p.31.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)40 頁。 549 同上書 255 頁以降参照。

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290

熟していっても、私たち自身が欲しいものを得る肉体的能力はそれに見合うようにならな

い」のである550。

この点、アダム・スミスによれば、自己の情動的価値評価の歪みを補整するため、道徳

的評価に際して「公正な観察者 impartial spectator」の観点を採用し、自己利害と他者の

利害を等しい距離から比較しなければならない551。「他人の一方的な判断から自分自身を守

るために、われわれは間もなく、自分と自分が一緒に生活する人々の間の裁判官を心の中

に設け、彼の前で行為していると思うようになる。彼は非常に公平で公正な人物であり、

自分にたいしても、自分の行動によって利害を受ける他の人々にたいしても、特別の関係

を何ももたない人物である。彼は、彼らにとっても自分にとっても、父でも兄弟でも友人

でもなく、単に人間一般、中立的な観察者であり、われわれの行動を、われわれが他の人々

の行動を見る場合と同じように、利害関心なしに考察する存在である」552。

そのために、自分は相手と情報および視座を交換し合うことになる。情報交換とは、相

手から何らかの媒体(言語性または非言語性)を通じて自分に伝達される、一定の意味を

持つ実質的な意味内容を認知した上で、行為の遂行状況に関する背景的知識、正義感覚の

表出としての「原因入力 causal input」に対して、相手に自分の主張の含意を伝えるという

ことである。

我々は、相手の心理的・道徳的感情状態を直接的には体験しえないものの、「想像上の立

場交換 imaginary change of situation」ということを通じた非認知的主体的関与の可能性

をヒュームとスミスは認めた。「我々は、想像力によって自分自身を彼[=他者]の状況におい

て、我々自身も彼と同じ苦しみを受けていると想像する。我々は、いわば彼の身体に入り

込み、ある程度まで彼と同一の人物になる」553。そして我々は、「感受作用 sensation」を

通じて、各自の解釈(=情動的価値評価)の不一致を再理解し、合理的修正が必要である

ことを感じ、さらに人間の独特と思われる嵩高な使命感や正義感なども常に維持・確保・

550 この弱点を克服して、適切な感情を促進するために、「人の感情の価値評価的要素を評価す

るときに、私たちは、最終的に、事実についての信念で行ったように、理に適っていることか

ら真であるからということを区別する必要がある。」Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., pp.33-6, 60.(河野哲也訳)『感

情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)42-6, 74 頁。 551 アダム・スミス(水田洋訳)『道徳感情論』(岩波書店, 2003)222-7 頁 552 同上書 307 頁。 553 島内明文「ヒュームとスミスの共感論」実践哲学研究 25 号 11 頁(2002)。

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発展させることができる。この視点交換という作業はさらなる解釈の多元化の営みではな

く、むしろ多元性の収斂の試みであろう。

第4款 戦略的コミットメントのアプローチ:共感的配慮

人間の社会全体を見渡した場合、共通的正義感覚をもたらす主体的関与は社会の様々な

領域において行われ、それぞれの場所でそれぞれに正義感覚の共有を生み出すであろう。

そして、それらの正義感覚はそれぞれに規模を異にするであろう。そうであれば、これら

の局部的な正義感覚は、いかにして現代社会全体へと広がり、正義の主体的関与を可能に

するのだろうか。正義という価値理念に基づく規範秩序の主張は社会のどの範囲において

普遍的たりうるのだろうか。

主体的関与の原理を可能にするために、主体的関与的アプローチとしての⑴「自己から

の正義感覚抽出」、⑵「他者への正義感覚移入」が必要である。正義感覚移入のルールに対

して、まず、相手に感覚を入力する装置による正義感覚の喚起と覚醒(触発・共鳴)を行

った上で、相手から感覚を導出する装置による正義感覚の評価と表出(解読・交換)をす

る必要がある。前述したように、情報と視点との交換によって個人は、単なるエゴイズム

に走らず、道徳的に普遍化される正義感覚が役割を果たすことは可能であり、また正義感

覚を共有する人々が局部的であれ集団的であれ正義の原理を普遍的なものとして受容し、

それに従って道徳的な生活を送ることもできる。このときに局部的に妥当だと自認した正

義感覚の解読とそれに基づく感覚秩序全体が、一定の基準によって意味範疇の普遍性を有

するものへと拡張されるというのであれば、それは、局部的に経験している感覚そのもの

によってではなく、それとは別の基準で当該解読が全体的な意味範疇の射程を有するに至

るということを意味しているはずである。

第1項 主体的関与のパラドックスの解消のために

生活世界の多元性と平等の擁護に立脚するわれわれは、このような正義感覚を拡張し実

践するために、さらに主体的関与的アプローチとしての第 3 の要素となる「相互主体的配

慮」、即ち間主体的関与が必要であると思われる。すなわち、人間は行動様式と生活様式と

いう次元の多様性の前提から、他者理解ために感情移入する場合に相手への誤解を避ける

ような「主体的関与」を強調し、自己理解としての感情抽出と他者理解としての感情移入

とを統合させようと取り組んでいる。間主体的関与に内在する理念を実現するために、他

者の事実上の快楽主義的な願望・欲求・期待に従うのではなく、むしろ自分がその人と同

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じ選好をもち、同じ事情のもとにいると想定した、主体的関与的アプローチに基づく思考

パターンに基づかねばならない。特に、この原理においては重要なのは、相手の心的能力

を承認したり、相手が自分とは違う感覚を持っているということを理解したりすることで

ある554。

相手の自由な選択を認める「リベラリズム」と相互一致の感覚を中立的決定とする「主

体的関与」の、両立しない「主体的関与のパラドックス」は、社会的選択理論においてし

ばしば言われる「リベラル・パラドックス」のように考えられ、特にゲーム理論の領域で

重要な考察がなされてきた。しかし、主体的関与と個人的自由の容認とが必ずしも両立不

可能ではない。何故ならこれは、自らの正義感覚と他者の正義感覚との不一致性を解消す

るための「相互の主体的関与的配慮」が現実的に可能なのである555。この点の説明につい

ては、アマルティア・センが「自由、全員一致、権利」という論文において提案した解決

554 この考えをより正確にするために、マーサ・ヌスバウムは政治的リベラリズムにおいて人格

の尊重という規範に訴える。それについて議論する際に、彼女は、特にチャールズ・ラーモア

とジョン・ロールズの理論を最も強力な新しい形のリベラリズムとして名前挙げて、次のよう

に述べた。「それは、人生で何が善いことであり、何に価値があるのかに関する人々のいろい

ろな考え方を尊重するように要請しているものと理解される。現代のどんな社会でも生き方に

はたくさんの宗教的な立場、世俗的な立場があり、そして、こうした立場の間の不一致はなく

ならないように思われる。そう理解したうえで政治的リベラリズトは、究極的な価値の問題を

めぐる人々の間の「理に適った不一致」には限度があると考えている。政治的リベラリズトは

懐疑論者ではない。他の立場よりも優れた立場などない、と考えていないだけである。これが

実情である以上、政治的社会が人格の尊重に必要なことの一部として、そうした相違を尊重す

ることは正しい。しかし、相違を尊重するがゆえに政治的リベラリズトは政治生活から価値を

除くべきだと信じなければいけない、ということにはならない。逆に、人格の尊重はまさしく

基礎的な価値であって、それに関して政治的リベラリズトが中立であるわけがないのである。」

Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., p.60.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)74 頁。

555 マーサ・ヌスバウムの言葉を借りて表現すれば、これは「理に適った共感」である。つまり、

「法理はまた、これらの感情は、事実の正しい評価と、重要な価値の理に適った説明に基づい

て、「理に適っている」ことがありうる、と考えている。」それは「苦しんでいる人と、共感

している人自身の可能性や弱さとを結びつけて」いて、かつ「人間の苦しみに同情を抱くとい

うことも、私たちは想像できる」のである。こうした「人と同じような可能性があるという判

断も、感情移入による想像も、厳密に言えば同情には必要ではない。」Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., pp.48-9.(河野哲也

訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)60-3 頁。

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策を参考にしたい556。センは「パレード原理」を抑制する方法でパラドックスの解決を図

る。まず、彼は「x を y よりも選好している個人 i と、社会的選択の決定にあたって自分の

選好が重きをなすことを望んでいる個人 i とを区別する」557。すなわち、主体的関与の主体

として考えるべきは自分の正義感覚が主体的関与的決定において考慮されることを望んで

いる後者の個人であって、単に感覚するだけの前者の個人ではない。ここから、「主体的関

与的アプローチ」は「条件づけ」のものとして、次のように解釈すべきである。すなわち、

「もしも社会の全員が感覚 x を感覚 y よりも選好し、かつその選好の考慮の対象として数

えられることを望んでいるとするならば、感覚 x が感覚 y よりも社会的に関与されなけれ

ばならない」。他方で、このような条件づけの主体的関与的アプローチのもとで登場する個

人は、他人の感覚の自由を尊重すべきである。すなわち、「自分の感覚全体の中で、各個人

にあてがわれた「保護領域 protected sphere」に関するすべての人々の感覚と組み合わせる

ことが可能な部分についてだけ、自分の感覚が考慮の対象として数えられることを望んで

いる」個人である。こうして、他人の正義感覚を尊重する個人が少なくとも一人でも存在

するならば、諸個人がどのような正義感覚を示そうとも、条件づき主体的関与と弱い自由

裁量との間の対立が生じる余地はなくなるだろう558。

センは次のように言う。「どの選好を無視するべきかを判断するとき、どこに一線を画す

かを決めることは難しい……ある個人の選好が[社会的選好における]考慮の対象として数

えられるべきかどうかを論じるためには、たまたま彼が示している選好についてだけでな

く、それ以上の情報——例えば、彼がそうした選好を抱くに至った理由——が必要となる

だろう」559。センの文脈を踏まると、個人的正義感覚のうち、主体的関与において重んじ

なければならないものと、そうでないものとを判別しなければならないのであるから、個

人の正義感覚の背景にまで立ち入った情報が必要だということになる。すなわち、主体的

関与にあたって個人の相互の自由が尊重されなければならないと同時に十分な情報が提供

される必要がある。そのためには個人的正義感覚や主体的関与の認識に至る過程での、情

報交換や視点交換や意見交換などが不可欠になるであろう。

556 Sen, Amartya. 1976. “Liberty, Unanimity and Rights.” Economica 43 (171): 217-45. 557 Sen, Amartya. 1982. Choice, Welfare and Measurement. Basil Blackwell. p.313.「自由・

全員一致・権利」(大庭健・川本隆史訳)『合理的な愚か者』87 頁(勁草書房, 1989)。 558 Sen, Amartya. 1982. ibid., p.314.(大庭健・川本隆史訳)同上書 89 頁参照。 559 Sen, Amartya. 1982. ibid., p.315.(大庭健・川本隆史訳)同上書 91-2 頁。

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第2項 友人的コミットメント

相手から正義感覚を導出するために、さまざまな情報を解読・交換する中で、関与主体

はさらに「相手への関心と尊重」と「友人的コミットメント」を積極的に捉えることを重

要視しなければならない。「相手への関心と尊重」は直接に自らの利益に影響を与える条件

に関わっている。すなわち、これは相手の正義感覚を形成・維持・変容する苦悩や不利益

など状況と理由を知ることによって自分自身がそのような状況を避けようとする準備を可

能にさせるとともに、その状況による利益を積極的に確保するための対応を可能とする。

次の見解は既に第 2 章で示したが、再びロールズの議論に照らして、友人的コミットの

理論的意義を説明するとともに、ロールズの先見的な知恵を強調したい。ロールズによれ

ば、友愛(fraternity)の原理は自由や平等と比べると、デモクラシーの理論においてそれ

ほど重視されてこなかった。理由として考えられるのは、友愛を政治的概念として具体性

に欠けており、また、友愛は情操および感覚の絆を必要とするので、大規模な社会の構成

員どうしがそうした絆でつながるかと予期することは、現実離れしている。しかし、もし

友愛の基底をなす理念を正義の原理から考察すれば、「友愛は非現実的な構想ではない......

少なくともそれらの制度や政策によって許容されている不平等がより不遇な人々の暮しよ

さに寄与すると言う意味において、友愛が求めるものを充足すると思われる。いずれにせ

よ......(友愛が格差原理の要求事項を組み込んでいると解釈するうち)友愛の原理は、完全

に実行可能な基準となる(TJ, p.91/142-3 頁)」。

こうした文脈からみた「友人的コミットメント」は、センの表現を借りれば、「他人が苦

しむのを不正なことと考え、それをやめさせるために何かをする用意があるとする」よう

な共感的配慮であり、「現実的な意味で反選好的な選択を含んでおり、そのことによって、

選択された選択肢は、それを選んだ人にとって他の選択肢よりも望ましいはずだという、

根本的な想定を破壊する。そしてこのことは、モデルが本質的に異なった仕方で定式化さ

れる」ことを要求するのである560。この主体的関与の基礎となる友人的コミットメントは

あらゆる関与対象を自由で平等な人として、彼(女)らの尊厳と福祉への権利を尊重し、

衝突和解の方向性を明らかにする。そこにおける法は、「脆弱な市民を守ることや、脆弱な

人々を餌食にする者を懲罰することに加担するとすでに表明している。561」 560 Sen, Amartya. 1982. ibid., pp.91-3.(大庭健・川本隆史訳)同上書 133-6 頁参照。 561 Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., p.249.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)369 頁。

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しかも、このような相手への関心・尊重と友人的コミットメントの中で、当初の各個人

的正義感覚や情況認識も変化する可能性がある562。ここでも、ばらばらな個人的正義感覚

をそのまま集計したものを主体的関与した結果とするのではなく、個人のよりよい認識・

選択や社会的決定に至る過程こそが重要なのである。これが、個人の自由と社会的決定の

民主主義とを両立させる保障でもあるだろう563。

562 リベラリズムの欠点と言われるものには、大きく分けて二種類がある。1つは市民の権利と

尊厳への配慮に欠ける制度や政策の問題である。例えば、少数者へのスティグマや、恥辱刑の

ような問題である。もう1つは、社会の平均的な成員や健常者や異性愛者の視点から、無視・

軽視・蔑視・差別視などの感情的・情緒的な捉え方を通じて「尋常ならざる」人々を「人間」

の枠組から排除するということである。特に後者については、市民社会の構成員として位置づ

けられる我々が自由で平等で自立的な人であるので、市民権を有する者としてその権利が立法

や制度を通じて平等に付与される上で、それらの権利が具体的にどう使われるかは個人の自由

でありながら、権利実現の能力や条件について平等であると考えられる。そしてこうしたリベ

ラルな人間の捉え方は、「<普通の人>(例えば、コミュニティの平均的な成員や健常者や異

性愛者)」の視点から、脆弱さが抱える者がわずかに一部の人だけということを強調し、「私

たちが、多様な仕方で、また異なる程度においてではあるが、みな死に向かって衰えゆく身体

を持ち、そして他を必要とし障害を抱える存在である、こうした事実」に十分に向き合うこと

ができない。実際に、脆弱さが一部の人だけのものではなく、「全ての人が潜在的な脆弱さを

持っていることを認め、それが顕在化した場合、その人の持つ権利やエンタイトルメントを考

慮しながら、しっかりと対応するという姿勢」を示す必要がある。(河野哲也訳)『感情と法』

(慶応義塾大学出版会, 2010)444, 448 頁参照。この意味で相互の共感的配慮がリベラリズム

の欠点を克服するための有効な方策だと私は考える。「普通の人」の視点から、現代社会の恒

久的特徴である「穏当な多元性の事実」を扱う場合、その多元性のあり方とその相互作用をま

ともに対応することが通常非常に困難であることから、事実性としての主体的で具体的な人間

存在は、規範性としての抽象的な被規定対象、いわば「ある平均的なあり方」と見なされる。

しかし、我々は、具体的な人間存在としてその多様な存在のまま尊重されなければ、人間尊厳

とその主体性が喪失されるかもしれない。だから、この意味で、日本国憲法第 13 条は国民を

一般化、普遍化された「人間」とするイメージを回避し、具体的な状況内部で自分なりの選択

を行なわざるをえない「個人」という主体性を強調するために、人間としてではなく「個人と

して尊重される」べきだと定めているのではないと私は推測する。 563 牧野廣義「自由・平等とケイパビリティ」阪南論集人文・自然科学編 42巻 1号 5頁参照(2006)。

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主体的関与のアプローチについての小括

主体的関与の

アプローチ 内 容 目 的 方 式

理性的コミッ

トメント(正義

感覚抽出)

感情の呈示 感情・感覚を豊饒化する

本真

自己理解 促進的環境

現実逃避を克服する

「ありのままの自分」の自認

依存とケアの必要理由

モラルコミッ

トメント(正義

感覚移入)

感情移入(感情

喚起と覚醒)

触発 関与のための感覚を活性化する 自己啓発

感動体験 共鳴 人格における共通構造を強化する

感情導出(感情

評価と表出)

解読 同情でなく理解で意味を賦与する 尊敬

善意 交換 道徳感情の交換からの社会的協働

戦略的コミッ

トメント(共感

的配慮)

相手への関心 市民的絆を深める 承認

寛容

他者理解 友人的コミットメント 友愛を充足する

第5款 主体的関与の実践的意義

本章での試みの目的は、正義感覚の展開の軸となる主体的関与の原理と、3 つの主体的関

与アプローチを示し、それらによって、理想と現実においてしばしば見逃されがちな概念

的通路を、改めて明確にすることにあった。自己理解としての正義感覚抽出(正義感覚を

含むあらゆる感情の呈示と、感情の呈示のための促進的環境)、他者理解としての正義感覚

移入(正義感覚の喚起と覚醒としての触発・共鳴と、正義感覚の評価と表出としての解読・

交換)、そして相互主体的関与の配慮(相手への関心・尊重と友人的コミットメント)とい

う形で述べたことは、我々の価値判断や実践的行動の枠組みにおいて有効かつ有意義な思

考様式であると同時に概念化された諸経験である。こうした経験理解を自覚することによ

って、正義感覚の普遍化は一層容易に行われる可能性が高まるであろうというのが、ここ

での主張の要諦である。

こうした考え方は古典的な伝統であった思弁哲学的な方法論ではあるが、しかし、そこ

には特に次のような点において体験的・実践的な帰結が伴う価値と意義を今尚見出し得る

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と考える。現在、市民社会の復権による市民の時代ということが語られ、日本にも中国に

も、アジアにも欧米にも新たな人間的秩序への胎動が始まっている。正義感覚を有する我々

は、まず自由で平等な実践的主体として生活世界の中に安住し、対立や整合、分裂や融合、

排除や包摂などといった多様な文脈において、主体的関与的の諸条件と可能性を実感して

いる。正義感覚を獲得するための共通感覚において、感覚による「個」の独立性と、主体

的関与による「個」と「個」との統合可能性を見出すことができる。感覚主体としての我々

は、既存の国民国家において地域連合や民族の再認、更に種々の NPO や NGO 等との社会

連帯などによる急速かつ広範囲の社会変動の中で新たな秩序可能性の模索手段としての市

民の正義感覚に注目し、そしてその正義感覚を中心的な手かがりとして、様々なレベルで

新たな法—政治秩序の模索が始まっている。

この意味で法―政治秩序は、支配・統治による秩序から市民的主体的関与による秩序へ

と転換してゆく。社会秩序の形成と維持に関する概念転換と認知構造が導入されることに

よって、さらに普遍的価値としての正義は地球規模で広がる可能性も見出すことができる。

我々は、相互に異質な他人の思考や行動をコスモポリタンとしての感覚から理解・是認し、

その感覚を踏まえ、種々の人間的困苦に関して可能なかぎり他人の経験を自分にも同様に

感じようとしたり理解しようとしたりする態度を保持することによって相互に共有する感

情関心を志向し、そこからお互いがそれぞれの位置を確認すべきということが、主体的関

与アプローチの基本的出発点と帰結点であり、その実現には現実的可能性があると考えら

れる564。 564 「普通ならざる人」が「普通の人」より時々多くの資源を持たなければならないこと、また、

「普通ならざる人」と「普通の人」の承認ニーズの違いが明らかなのに両者を同等視しなけれ

ばならないことがある理由を説明するのに何らか平等概念が本当に必要かというと、これは少

しも明らかなことではない。私は、生の前提に依拠することなく「普通ならざる人」にとって

共感可能の問題をうまく説明できるかもしれない別のアプローチを提起するつまりである。 第1章で述べたような諸種の平等観念、例えば功利的平等、厚生の平等、権原の平等、社会的

基本財の平等は、コミュニティの平均的な成員や健常者や異性愛者の視点から規定される。資

源の平等、潜在能力の平等戦略において障害者への配慮の視点が含まれるが、それは、「選択

の運」と区別した上で、少なくとも身体障害者の「生の運」が偶然性によって左右される個別

的な出来事を補償するための措置なのである。いわば R・ドゥオーキンの言う「仮想保険市場」

を通じて、「社会の平均的な成員 average person」は不運が生じる場合にそのような障害を

被る不運者に補償する(R. Dworkin. 2000. Sovereign Virtue, Harvard U. P., p.78.(小林公

ほか訳)『平等とは何か』(木鐸社, 2010)111 頁)。また、アマルティア・センはもっと現

実的な人間の生の能力や機能(function)に焦点をあて、「ケイパビリティ・アプローチ」を

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そこでは、対等な配慮の拡大という社会的要請が主体的関与に求められることによって、

社会的正義が促進・拡張される。個人主義や文化的同化という市民的・政治的平等の理解

から、公共理性に支えられた政治的構想において、シティズンシップや「文化的権利」を

承認するものとしての平等へと変化が生じている。この意味で、シティズンシップの平等

あるいは文化的諸権利への平等とは、公的態度や社会的評価を改めることで、アイデンテ

ィティやライフスタイル・個人的追求の示す個人的特徴を、隠したりそれらについての自

身の選好を弁解したりする必要をなくし、むしろそれらを尊重・推奨されるようになるこ

とを望むことなのである565。文化的差異や個人的特徴を強調することは、社会正義や社会

的統合をより困難にするように見えるかもしれないが、それらの可視的な差異(例えば性

別、職業、人種、民族、言葉などあらゆる「違い」)による理解から、相互関与を通じた人

通して「平等」に取り組んできた(Sen, Amartya. 2009. The Idea of Justice, Allen Lane. p.233(池本幸生訳)『正義のアイデア』(明石書店, 2011)338 頁)。両者とも人の善い生活や善

い人生を生きるために、平等の重要視が必要とされると主張する。大雑把に言えば、上述の諸

種の観念は「人間として生きるため」の平等の文脈にたって、生の前提視・日常視に焦点を当

て、「普通の人」また「社会の平均的な成員」の視点から、「事後補足」の形で障害者のよう

な普通ではない人のニーズを制度的枠組において配慮するすべきということを示す。言うまで

もなく「普通の人」の視点は社会制度や公共政策、日常生活のあり方を構造的にそして積極的

に規定している。しかし、ドゥオーキンの「保険」概念においても、センの「潜在能力の平等」

においても看過されるものがある。これは「死」の概念を導入することで一目瞭然となる。「保

険」という言葉は不幸の偶然性の予防を指すものなのであり、「潜在」という言葉も「不運が

まだ未発生であり、ただ発生可能性がある」というニュアンスを強く暗示する。つまり、全て

の人が確かにある程度において脆弱さを潜在的に持っているが、実際に、もしこの脆弱さの中

に生命の「終止」や身体の「衰弱」という死に向かう観念が含まれば、「保険」で防止する不

運や「潜在」で指す事情は「偶然的」「可能的」なものでなく、既に「必然」「顕在」として

表れている。生の日常視を前提とする平等論は人々の自律性を強調するのに対して、死の日常

視を前提とする平等論は、人々の互恵性を強調する。衰えと死を直面する際に、物質的財の配

分の重要性もさることながら、機能(functions)的価値のみなら、心のケアやメントケア、

いわば人間の情緒的価値も対等な地位を有するものとして十分な配慮をする必要がある。死を

前提とする平等論としては、少なくとも⑴共感の可能性の強化;⑵財の配分の重要視と共に、

心のケアやメントケア、いわば「情緒的価値」の重要視;⑶強い人間像の再認の促進等の利点

がある。 565 タリク・モドゥード(宇羽野明子訳)「人種間の平等——有色人種、文化、正義——」、デ

イヴィッド・バウチャー、ポール・ケリー編(飯島昇藏・佐藤正志訳者代表)『社会正義の系

譜——ヒュームからウォルツァーまで——』287 頁。

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間の内面にある不可視的な主体性として理解に移行され、社会正義にとって相互関与が不

可欠なものとされることによってはじめてそれが現実のものとなるのである。

小 括

第 5 章では、正義感覚を生み出す契機となる「再認」概念とその方途を検討し、主体的

関与の原理とそのアプローチを提示した。その結果、ロールズ理解としての新たな解釈と

その方法論的視座が明らかとなった。ロールズの正義の二原理は、政治哲学・法哲学だけ

にとどまらず、人々がどのように正義概念を形成・受容・維持・発展させていくか、それ

によってどのような社会的人間関係を確立・発展させていくか、という問題関心に即して

論理的に導き出されたものである。主体的関与は、人々の個性や差異等を相互に尊重しつ

つ社会を構築する方法に関わる。これは、「拡張された共感」に依拠するロールズの方法論

と本質的に合致するものであり、正義感覚をとおして正義の二原理を思考的に体験する機

会とその条件を確立することにより人々を社会的協働に主体的に参加させ、よりよい人間

関係に基づく秩序ある社会の構築につなげようとするものである。

第1節では、ロールズにおける再認概念を再検討した。ヘーゲル流の「承認」概念との

区別、すなわち、市民の能動的主体性をとおして合理性と適理性によって導出された正義

原理に対して自分の心に起きていることを再び深く確認して受容するという意味で、本論

文では「再認」という訳語を用いた。このような再認によって生みだされる正義感覚は、

理想状態における思弁的なものにとどまらず人々の現実生活における経験を問題化する実

践的性格を有するものであり、規範を基礎づけ、法的判断を正当化する手続でもある。社

会的制度や政策が公正かどうか疑わしい場合には、責任倫理にしたがって法実践に関わる

主体の解釈的な規範創造に能動的条件を与え、正義の二原理によって設定された人間関係

から、正義の二原理によって充たされないまま残されている領域において正義感覚に合致

していない状態の回復が図られる。このことが正義の二原理を公共的に受諾するための基

礎となる。こうして、ハートの「承認のルール」との比較的考察をとおして、ロールズの

正義理論の拡張的理解に向けた「再認」概念の特徴が明らかになった。

第2節では、再認による主体的関与の視座を確立するために、再認の実践的性格に関わ

る主体の法解釈の妥当根拠について 3 つの視点から再検討した。そこでは、まzy、再認

概念の社会的文化的コンテクストを踏まえ、現代社会においては貧富の格差の拡大および

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富の配分の偏りへの抑制によって諸個人の法的権利と福祉の実現が保障されるとともに、

マルティカルチャリズムを代表とする新たな法的認識原理は、異文化理解の立場によって

社会的に疎外・周縁化・無視された人々との社会的統合が脅かされるということが問題視

された。また、不平等は経済的貧困という側面として考えるだけではなく、権利的主体間

関係への認識視点を含んで、「歪められた」承認関係のコンフリクトを解消するために、「承

認の闘争」とは異なる「再認」を契機として、社会秩序の崩壊を防ぎ、新たな社会秩序原

理を構築し、自由で平等な法秩序を促進するという意義も明らかとなった。さらに、そこ

では能動的な参加・主体的関与という市民的人間の基本的態度を以て自律的で自発的・創

造的に法制度を発展させることが強調された。

第3節では、再認は正義の構想に対応する正義感覚を生み出す傾向があるとロールズは

述べたにも関わらず、彼は正義感覚がいかにして生み出されるか、そのためにはどのよう

なアプローチをとるべきかについては何ら言及していなかったために、ロールズの採用し

たであろう立場を想像し、彼が如何に考えたかを想定し、そしてそれに対して我々が如何

なる理解・解釈をすべきかを論じた。再認を通じて、正義感覚は如何なるもので、如何な

るアプローチを以て生み出すかを説明するために、私は「主体的関与」の原理とそのアプ

ローチを提示した。そこでは、主体的関与により人々の実践的思考や行動の原理を人間関

係に還元し、社会的不正が存続している原因が人々の主体的関与の不足にあるという診断

に基づいて、社会的不正を是正するための処方箋として、既存の制度により排斥されてい

る或いは等しく配慮されているとはいいがたい人々の存在に留意しようとしない人々に対

してアイデンティティの真意を問い、主体的関与を促し、すべての人々が等しく尊重され

るべき人格的存在であることに関する理性的・モラル的そして戦略的コミットメントを通

して、自己のアイデンティティを再認するとともに、正義感覚をとおして社会的正義を形

成・受容・維持・発展させていくべきだと強調した。

ここまで、本論文では、現代正義論とその批判の概要や格差を是正するために検討すべ

き差別概念、差別を解消するために必要な「対等な配慮」等をまとめた「導入部」(序章・

第1章)と、理性、政治文化、正義感覚、再認等の諸概念を改めて詳細に検討した「再解

釈部」(第2・3・4章)の考察を踏まえ、再認の手続として、「主体的関与」を基軸とし

た、ロールズ理解における新たな方法論的視座を提供した。次章では、主体的関与の主旨

は「自由の平等への漸次的接近」を訴えることにあること、それはロールズの二原理の根

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301

幹をなす基底的価値であることを明らかにする。特に長期にわたって関心が抱かれずに来

た第1原理に対して再び注意喚起を行うことにより、差別問題に対するロールズの正義理

論の拡張・実践可能性を説明したい。

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第6章 社会的正義への主体的関与:自由の平等への漸次的接近

はしがき

ここまで私は、公共理性と正義感覚による「正義への主体的関与(コミットメント)」の

あり方という課題に正面から取り組んで来た。本章では、既に解明された公共理性とそれ

によって支えられるリベラルな政治文化及び正義感覚という諸概念を踏まえ、それらの基

軸として用いられた「関与(コミットメント)」を妥当化するものは何か、という問いにつ

いて論ずる。本章まで考察してきた様々な概念の間の、いかなる種類の論理的組み合わせ

と実践的結びつきが主体的関与による正義の受容的な態度と推定されるであろうか。それ

らの根拠と導出を含む論証全体は、「合理性」や「適理性」といった理性的な論理的思考の

みを要求するにとどまらず、同時に、正義感覚による正義の受容における実践的な妥当性

を与えるという重要な役割を有する。換言すれば、論理性と客観性を基盤とする正義理論

の合理性という認知体系以外にも、正義感覚を持つ主体的市民の実践性と能動性を基軸と

する情動体系が必要であろう。そしてこのことは、これまでの、理性と知識を統合する合

理主義的正義論を暗黙に織り込んできた科学的な認知や法的思考がこのままの姿で立ちゆ

くのか、それともそれは何らかの形で正義に係る「感覚 sense・気分 feeling・感情 emotion・

情操 sentiment・情感 passion・熱情 fervor・熱意 enthusiasm」等を鍵として情的に彩ら

れた情動的要素566とそこから成る心の構造を前提として組み立て直した方が心理的身体的

体験や経験として合理的ではないのか、という認識論的な問いにも関連している567。

法哲学の諸学説及びその思想史的背景において、本論文で注目している関与や受容を厳

密に表現した正義の理論については明らかな不備があり、正義論の枠組みの中では受容感

覚についての議論の乏しさが問題だと言える568。そこでは、正義感(覚)による「正義の

566 「もちろん感情主義と一口に言っても、人間本性や社会編成のうちに有機的調和を想定する

シャフツベリ、ジョン・ロックの認識論を用いて「道徳感覚 moral sense」理論を仕上げたフ

ランシス・ハチスン、「共感 sympathy」概念に基づく道徳理論を構築したデイヴィド・ヒュ

ームとアダム・スミス、それぞれの思想家が独自の仕方で議論を展開しており、一筋縄ではい

かないところがある。」島内明文「ヒュームとスミスの共感論」実践哲学研究第 25号 2頁(2002)。 567 ポール・リグル(久米博訳)『他者のような自己自身』(法政大学出版局, 2010)284 頁参照。 568 実際のところ、政治哲学に関する著作の中で私が主要な情報源としている『正義論』、及び、

法哲学に関する著作において主要な情報源としている『公正の法哲学』のような著作は、私の

「正義へのコミットメント」の研究のきっかけであり、こうしたアプローチはこれまであまり

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へ主体的関与」という言葉の有する意味の多様性と、理性的存在者たる人間の論理的思考

によって「正義原理の生成・確立・受容・変容」、いわゆる正義論の全体を統合する為の整

合性とが互いに対立している。そうした対立の根本的原因は、「正義感(覚)」や「関与」

という語が単なる合理論的哲学の領域を超えて用いられることにある。

私は、「私は正義原理に関与する=正義を感じる」という能動態で捉えるか、或いは、「私

は正義原理に関与させる=正義を感じさせる」という受動態で捉えるかにおける、「関与す

る」という動詞の用法の考察のうちに、こうした語用論的な意味の差異を哲学的文脈から

捉える試みを行った569。つまり、この差異は、「関与」という言葉の哲学的解釈の脈略の平

面において、正義感覚を契機に主体性的関係を成し遂げるという方向に転換してきている

のではなかろうか。それは、思考する主体的市民同士の立場からその思考や行動の意味や

解釈を再構成することを求めるという、個々人の正義感から共通的な市民的正義感覚への

移行である。正義原理との関与において主体的市民は自らの正義感覚を抽出・発揮する諸

能力を以て他者の正義感覚との再認を経、垂直的権力関係と水平的権利関係において人間

の対等な相互主体性と能動性を育成することができる。これは、垂直的関係における支配

や統制、水平的関係における蔑視や差別などといった非対称的人間関係の現実を、関与的

アプローチを通じて対等的な関係に変容させることで人間の主体性とその平等性を目指し、

現実的差異のもたらす諸種の社会的差別を是正しようとするものである。

本論文は、こうした法哲学的な思考の現実的で柔軟な発想の転換を図りつつある動向と

その法実践的意味について明らかにし、そして最後に、旧来の法的思考パターンのゆきつ

いた隘路に対し、普遍的・統合的な法的志向はどのような解決の示唆を与えてくれるかに

ついて、合理主義の再考の方向性をとることによって説明している。もちろん、主体関与

的正義には絶対的に正しいとまでは言えない内容もあろうが、ロールズ正義理論の拡張解

釈を通じて、最低限示すべき、1 つの規範的方向性と論理的可能性を提示するものである。

この転換の背景には、規範主義対道具主義、経験論対合理論、または自然法論対法実証

主義という対立図式の相剋における、規範に関する合理性と道徳性をめぐる法観念の問題

重視されていなかったものである。私は、『正義論』における「正義感覚」の先行研究および

『公正の法哲学』における「正義の受容」の先行研究に多くを負っている。そうした先行研究

のおかげで、私は、ひとまとめにされた語彙の領野の豊かさを発見することができた。 569 以上の視点の収束方法と、能動態と受動態の二分法の論証方法について、ポール・リクール

(川崎惣一訳)『承認の行程』(法政大学出版局, 2006)353-5 頁参照。

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があるとされる。しかしここ十数年の間に合理主義の説得力が増すようになったことは否

定しがたい570。法的思考の領域においても、規範に関する情動的認識パターンは合理性の

欠いた道徳的なものとして拒否されているのである。特に法実証主義は、検証可能な社会

的事実として存在する実定法のみを法学の対象と考え、法にとっては正義・道徳といった

形而上的な概念は本質的構成要素ではないとし、存在と当為・事実と規範・現実と価値の

分離を法の思考における前提とする。しかし、規範と事実との分離だけでは法を純化する

ことはできない。なぜなら、規範の範疇という視点からみれば、法規範・道徳規範・宗教

規範・慣習規範などの様々な規範類型があり、法は規範の 1 つに過ぎず、他の規範との関

連性を排除することはできないだろう。更に、ロールズ正義論における、合理的要素と経

験的要素との微妙な交錯もこの転換の動向を反映しているものだと言ってよいであろう。

すなわちロールズは、「疑いなく両者(合理論と経験論の——筆者)とも十分な妥当性があ

り、無理のないやり方でこの 2 つの考えを統合しようと(TJ, 403-4/604-5 頁)」試みている

のである。さらに、近年ロナルド・ドウォーキンによって提起された第 3 の立場は「解釈

的法理論」を導入する。つまり、法は最終的に一定の政治道徳的判断との関わりで、法の

規範性と感覚的認識に関する意義の問題を提起するというのである。これは規範論の補完

に大きな意味がある571。

570 合理主義の説得力が増すようになったが、経験的要素は合理主義そのもの自体の中にあり、

両者は両立することができるように考えられる。例えば、碧海純一によれば「「合理主義」は

認識論上の概念としては、「経験主義」に対立するものと解されるが、この意味での「合理主

義」はここではとりあえず視野の外におこう。私のいう合理主義は認識論上の「経験主義」と

もむすびつきうる——そして、たとえばラッセルにおいては現に不可分にむすびついている

——ところの、理論上および実践上の一つの態度である。」碧海純一『合理主義の復権』(木

鐸社, 再増補版, 1985)24-5 頁。 571 ドウォーキンが「平等な配慮と尊重を受ける権利 the right to equal concern and respect」を提唱している。こうした権利の性質は、ただ実定法によって認められた諸権利(=実定法上

の権利)に留まらず、個人が実定法上の権利を超え、国家に対して一般的承認を主張する道徳

的権利を有しているというものであり、この道徳的権利は立憲制度の中に組み込まれ憲法訴訟

を通じて法的権利として明確に表明されるものである。市民に立脚する視点を変えて見ると、

政府はこの権利的要請に応じて市民的権利を実効的に前進させるためには、「その統治下にあ

るすべての人間を、平等な道徳的・政治的地位にあるものとして扱わなければならない」こと

になる。R. Dworkin, 2001. Taking Rights Seriously, Harvard U.P., pp.184f, 273-3.(小林公

訳)『権利論』(木鐸社, 2001)65 頁、また(木下毅ほか訳)『権利論Ⅱ』(木鐸社, 増補版, 2004)243 頁以下。ドウォーキン権利理論における政治性と道徳性との連続戦略について、

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以上のような問題関心の下で、私は第 1 に、社会規範の研究に規範感覚の位置づけとい

う問題の検討を置く。次に、正義感覚と正義の諸原理を二重化するもの、つまり道徳性と

合理性の関係についての検討を行う。そして最後に、認識の衝突に関する平等規範の意義

とその法解釈学を検討することにする。

第1節 「社会規範」の研究における「規範感覚」の位置づけ

第1款 法はどこに存在しているのか?

法がどこに存在しているかについての答えは 1 つだけではなく、複数の答えが存在して

いる。認識対象としての法はどこに存在しているのかという質問に対して、われわれは、

まず制定法である法律条文を想起することができる。日本六法のような法典は法の存在担

体として、様々な法規範が書かれている。しかし、法は「法典」・「法令」としての存在形

式だけではなく、現実世界における社会生活や家庭生活また社会通念や日常的感覚などの

領域においても存在しているのである。特にこれらの存在形式は、本論文の課題に対する

重要な意義を持っている。

例えば、男女の地位の平等感に関する面接調査において、「法律や制度上」、「家庭生活」、

「社会通念・慣習・しきたり」という領域で男女が感じる平等感は以下のようであるとの

結果が出た。「法律や制度上」においては、女性の約 55%が「男性の方が非常に優遇されて

いる」または「どちらかといえば男性の方が優遇されている」と考えており、「平等である」

と考える女性は 30.8%にとどまる。また「家庭生活」においては、男性の方が優遇されて

いると感じる女性が「法律や制度上」より増加するが、同様に感じる男性は全体のほぼ半

数である。さらに、「社会通念・慣習・しきたり」においては、「男性の方が非常に優遇さ

れている」または「どちらかといえば男性の方が優遇されている」という意見が、男女と

も 70-80%を占めている572。

この統計調査によれば、不平等の感覚が、条文としての法=法律や制度上の法から、社

会生活において実現された法、そして人々の意識にある法=法観念・社会通念という順で

強まっている。この法意識の変化結果によれば、規範たる法律や制度上の法よりもむしろ

R.Dworkin, 1990. 'Foundations of Liberal Equality', in The Tanner Lectures on Human Values, Vol. XI, Grethe B. Peterson (ed.), University of Utah Press, p. 33f.

572 内閣総理大臣官房広報室編『月刊世論調査』(大蔵省印刷局, 1993)5 月号参照。

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正義感覚としての社会通念の法の方が現実的な存在感があり、大きな関心と注目が寄せら

れているようである。たとえ紙面上の正義が実現されたとしても、人々の意識にある正義

までもがそれに伴って実現されるとは言えないだろう。正義原理の定立と正義状態の実現

を区別することによって、正義感覚の研究は現実的な課題として重大な意義を持っている

ということが明らかになる。つまり、「紙の上の法 Law in books/text」と「行動における法

Law in action/practice」という二分法の視座573によっては看過されてしまった重要な第 3

点である「潜在意識における法 Law in sense/subconscious」について、新しい問題として

議論の場を持つことが必要である。この議論の場は法や道徳規範といった領域を超えて、

人々の規範意識といった領域にまで伸び、改めて正義感覚を開放して見つめ直すことで正

義状態の時空領域を拡張し、正義原理をより普遍的なものへと変えていくように見られる

574。もし「潜在意識における法」という概念に、科学性、客観性、合理性と言葉のニュア

573 R・パウンドは、社会学的法理学(Sociological jurisprudence)の論述という文脈において、

「law in books」と 「law in action」という区別を最初に提示した。Pound, Roscoe. 1910. “Law in Books and Law in Action: Historical Causes of Divergence Between the Nominal and Actual Law.” American Law Review 44: 12-36; Pound, Roscoe. 1912. “The Scope and Purpose of Sociological Jurisprudence.” Harvard Law Review 25 (6): 489-516.「この区別の

根底にある前提は、裁判官が彼らの意見書において下された判決の内容は本当にその特定の判

決の決定理由ではなかったということである。なぜなら、演繹的論理学(deductive logic)上

の専門職の信頼のために、書かれた意見が大前提としての法の支配である三段論法と、例の特

定の事実で表現された小前提との観点によって述べられるのである。」「司法的活動(judicial behavior)の理解に関して、 法律現実主義者はパウンドの「law in books」と「law in action」との区別をとらえて、これを礎石として伝統的な「 先例拘束性の原則 doctrine of precedent」を非難する」。David E. Ingersoll, 1966. Karl Llewellyn, American Legal Realism, and Contemporary Legal Behavioralism, Ethics 76:254-5.「law in books」と 「law in action」という区別の意義について、「法発展の現代的研究は、法律現実主義学派の貢献が 1930 年代

以来アメリカの法学界を支配したということによって反映され、特に「law in books」だけで

なく、「law in action」と言う考え方は法システムが社会をどのように発展・影響させるかを

理解する時に、重要である」。Harry N. Scheiber, 1987. The Bicentennial and the Rediscovery of Constitutional History, The Journal of American History 74:669.

574 この問題意識について、佐藤純一は次のように指摘する。「近代の秩序において私的なもの

に属するとされてきた女性と信仰はともに感情に親和するものとみなされてきたということ

である。……私的領域に位置づけられるものは、それが情動と不可分であるがゆえに、非合理

的なもの(irrational)、不穏当なもの(unreasonable)として扱われてきたのである。……理性と熱情をそれぞれ公共的なものと私的なものに割り振ろうとする考え方はこの挑戦を受

けてきたが、公私区別を理性的なものと感情的なものとのそれとして描く思考の習慣はどのよ

うに問い直されているだろうか。」この問いを考察するためには、「そもそも感情を理性から

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ンスが含まれないからといって、人々の情動的要素に伴う経験論的理解を排斥するならば、

つまり合理的思考を唯一の志向とする認識パターンを以て他の思考パターンを排除すれば、

それは既に近代合理主義の復権という範囲を超えたものであり、理性主義・科学主義の専

制に陥る危険性をもたらすものだと言えるだろう。もし人間の「情動性」が抑圧され理性

至上的な考え方が極端になるならば、理性を通した言語的・意識的・論理的表現形式であ

る規範・ルールと、感性による非言語的・無意識的・直感的表現形式である感覚・知覚と

いう人間存在の二元性が崩れる危険性は高まる。法律や道徳などの規範を含めた生活世界

における全ての存在現象を単なる理性中心主義の考え方で説明しようとすれば、それが反

合理主義にゆき着いてしまうのは当然の成りゆきであろう。理性がなくては、観察・分析・

科学のみが識別しうる社会的効用という目的に奉仕しえない。感情移入がなくては、その

暖かい感受性と力強い自然の衝動力を失ってしまう。正義感覚は両者の要素が不可分に融

合したもので、一方だけでは存在しえない。なぜなら、感情移入という基礎のない単なる

合理性では、通常、極端な懐疑と不信に陥ろうし、他方、理性によって知識を供給されな

い感情移入では、なにも知らずに盲目的な信仰を手さぐりするのに役立つだけだからであ

る575。

第2款 法はなぜ変動・発展できるのか?

正義感覚をなぜ問題にするかということについては種々の議論がなされてきたが、本論

文で正義感覚を問題にするのは、専ら正義感覚を共有するとみられる人間行動が法の生

成・維持・発展とそれぞれに応じた人間の再認・肯定・批判の上で重要な意味を持つから

である。特に法発展の視点からみた正義感覚はそれ自体柔軟性をもって法を発展・進化・

切り離すことができるのか、感情はどのように/どの程度まで文化によって規定されるのか、

といった数々の原理的な事柄を問わなくてはならない」。そのために、彼は「感情が規範の正

/不正をめぐる人々の判断を表すものであることを明らかにする」とともに、「公共的領域に

おいて感情を受け止め、それを解釈する過程が規範の正当性を問い返す討議に内在すること」

を確認し、最後に、「感情が「我々」を閉ざす方向だけではなくそれを他者に向けてひらく仕

方でも作用すること」に注目した。佐藤純一「感情と規範的期待」『社会/公共性の哲学(岩

波講座 哲学 10)』(2009)109-27 頁参照。 575 Edmond Cahn. 1964. The Sense of Injustice, Indiana U. P., p.26.(西村克彦訳)『正義感』

(信山社, 1992)27-8 頁参照。

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改善させる契機を提供する576。法規範や道徳規範を変動・発展させる可能性は、人間の感

覚世界と意味世界における柔軟性と創造性に由来するものである。生活世界の多様性は、

この柔軟性と創造性を本質的特性とする感覚の視点から、人間の自己理解と他者理解との

根本的契機を明らかにする。同じ「正義」の意味づけに対して、同一の正義感覚という概

念の枠組の中で個々人の経験の差がある。これは正義感覚の開かれた理解の柔軟性という

開放的特徴に由来するものなのである。つまり、正義感覚の柔軟性は、正義原理の理解と

いう意味づけの認識活動に対して規範的コミットメントの役割を含めるとともに、正義原

理の受容活動に対して個人の規範への情動的コミットメントを高める要因となるのである。

人々の個人的正義感覚と人々の間での共通的正義感覚との区別については、先に触れた。

個人的正義感覚の領域の中に、ある人の正義感覚から他者の正義感覚への伝播と、人々の

間での正義感覚の衝突がある。正義感覚の伝播は、異なる正義感覚が直接或は間接に接触

した場合、一方の正義感覚から他方の正義感覚へとの移行・受容が行われる過程を指すの

に対して、正義感覚の衝突は、正義感覚間の相互作用における対立・対抗的な関係をその

主眼として捉えるとともに、さらに、衝突の克服を法の生成・変動の動因として位置づけ

る。

正義感覚の衝突が法の生成・変動の動因であるというのは、次のような意味においてで

ある。例えば、正義感覚の対立による個人間の主張が対立している場合において、普通は、

当事者の少なくとも一方が、何が「正しいことである」かについて誤っていると見られる。

しかし、そこには、何が「正しいことである」かについての誤りの有無という問題が存在

するのではなく、ただ、各自が「正しいことである」としているものの間の対立が存在す

576 正義感覚は柔軟性という特徴を有することで不確定的なものではないかと思われるかもし

れない。もしそうだとすれば、不確定性は正義感覚特有の問題ではなく、言語の余剰性(例え

ば多義性・抽象性・包摂性による意味拡張の可能性)から自動的に帰結するものである。例え

ば正義や自由等の抽象概念はそれ自体も不明な点が多いので、慎重で厳格な解釈をする必要が

ある。解釈の能力は「どの文がどの文をどれくらいの度合いで裏づける証拠となっているか、

という点で探り当てるわれわれの能力が、正確な解釈の手がかりになる。」ドナルド・デイヴ

ィドソン(清塚邦彦・柏端達也・篠原成彦訳)「不確定性の主張と反実在論」『主観的、間主

観的、客観的』(春秋社, 2007)133 頁。つまり、不確定性問題はそれ自体が問題ではなく、

不確定性を解消するために適切な解釈ルールがあるか否かが問題なのである。本論文は正義感

覚の役割と機能を明確化する問題をめぐって、主体的関与とそのアプローチという具体的な解

釈ルールを提示し、概念の意義を統一的に把握することを通じてその曖昧さをできる限り解

消・止揚しようと試みる。

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ることが示されるだけなのである。その主張の対立に対して裁判官が判決を下しても、判

決と異なるものを「正しいことである」と主張していた当事者がその判決を争うならば、

当事者間で何が正しいことであるかはまだ確定しない。過去に同種の事案で下された判決

は、現在の事件についての法ではないのであり、現代の事件についての判決の確定があっ

てはじめて、この事件について法はこれであるということが定まる577。過去のある判決と

現在のある判決との間に矛盾があれば法の変動があったということになるのであり、この

ような法の変動は最高裁判所の判例の変更の際に最も鮮明な形で現れる。ある種の社会関

係について最高裁判所が一度ある判決を下しても、その判決を導いた正義感覚と対立する

正義感覚の持主がその判決の判示した法規範命題を他の同種の事件で争うならば法の変動

がもたらされ得るということは、誰も否定しえない経験的事実であろう。要するに、正義

感覚の衝突は以上のような意味において、法の生成・変動の動因たり得るのである。無論、

こうしたことは判決の次元においてのみ言えるのではない。

例えば、法規範の要求している許可を得ていないデモ行進を警察官が制止する際にデモ

隊員を傷つけ、負傷者がそれに対して何も文句を言えない立場にあるのだと信じ込んでい

るならば、そこに正義感覚の衝突はなく、そのようなデモ行進は参加者の身体を警棒で殴

って制止してもよいという「法」の承認・貫徹があったことになろう。このような場合が

多ければ多いほど、「法は、最高裁判所の判決のなかにあるよりも、むしろ巡査の警棒の先

にある」といってよい状態にならざるをえない。しかし、上記のようなデモ制止を「正し

くない」とする正義感覚の持主が警察官の行為を否定して訴えを提起するというような行

動に出るなら、ここに、正義感覚の衝突を契機とする法の生成がもたらされうることにな

る。こうした意味において、正義感覚の衝突は法の生成・変動の動因なのであり、そのよ

うなものとしてそれは法現象の分析の上に重要な意味をもつのである。正義感覚を用いれ

577 判決の法源性について言及すると、英米法の判決においては、裁判官が示した法的判断が拘

束力の有する先例(ratio decidendi)として後に他の事件に適用する可能性を持つならば、そ

の判決の中に価値のある部分を「判例」としてその法源性が認められるが、大陸法では法源性

が認められない。判例の法的拘束力(doctrine of stare decisis)については、英米法と大陸法

との区別の文脈から拘束力の有無がある一方、英米法の国においてもその拘束力の強度が異な

る。例えば、英国が厳格な先例拘束力の原理を採用するのに対して(最高裁(旧貴族院)それ

自体が下した先例に従う必要はない)、アメリカが先例(precedent)に示された判断の変更

を比較的緩やかに認める。アメリカにおける先例原則の柔軟性は最高裁で行われた憲法のケー

スにおいてよく示される。

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ば、我々は社会的・政治的規則性が「外からの」制裁によって維持される度合や、それが

参加者の内面化された動機づけによって維持される度合を検討することに敏感になる578。

ここでロールズの考えた再認の意義が現れよう。ここでは、社会制度や政策の確立は公共

的に承認するという前提から進まなければならないのである(CP, pp.394,426-7)。正義原

理に従って社会制度を編成して法行動を行う際にあたり、「制度に関与している人びとは、

自分達が分析的解釈の諸条件の下で承認するであろう諸原理に基づいて行動するように拘

束されていると感ずる」ならば、表面的な遵法精神を有しているように見えるであろう。

しかし、「彼らがこのように拘束されていると感じている」ということそれ自体は正義諸原

理の導出段階では説明されず、「おおむね公共的な承認を得られているものと想定」される。

「その結果として、人は市民的不服従の行使を通じて、多数派の正義感覚に訴えかけ、ま

た当人の熟考された誠実な意見からすると自由な協働の条件が侵されていることを伝える

べく、構成な警鐘を打ち鳴らそうと意図する(TJ, p.336/503 頁)」。

法実践において規範の意味理解は一義的に確定・解釈していない。新しく形成された行

為規範の意味が人々の間に共有され現実の生活世界でその規範の妥当性が認められれば、

規範の意味理解は普遍化され社会規範に定着する。意味の理解・共同体への伝播・定着・

継承・変容といった規範に関する感覚現象の集積が、感覚の視点から規範へと転換しつつ

ある。この意味で、感覚的構造は柔軟性のみならず、開放性をも有する。この開放性とい

う特徴は、空間という側面においては共同体構成員の間に広める一方、時間という側面に

おいては法解釈の様々な議論可能性について新たな意味付与という法的解釈の作業に向け

た不断の発展を支える。正義感覚の「開かれた柔軟性」があり、それを通じて法を解釈体

系として開放化するかぎり、法の発展・進歩の動力が保証される。法規範の意味世界には

今の今まで予想していなかったような正義感覚が出現する可能性が潜在している。すなわ

ち、正義感覚のあり方は予めリストアップし尽くすことはできない。正義の意義理解は「規

範」という閉じた枠組によって確定論的に定式化されることはなく、正義感覚における開

かれた柔軟性によってこの意味世界の様々な可能性が切り開かれてゆくのである。社会は

社会契約のような規範によって制度編成を自らに与えるのに対して、個人の自由意思は自

律的正義感覚によって自らに法則を与えると見られるのである。

578 F・I・グリーンスタイン(曽良中清司・牧田義輝訳)『政治的人間の心理と行動』(勁草書

房, 1979)190 頁参照。

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法を以て社会事情を判断する際は、事柄に関する情報を集めて「論理性」や「合理性」

といった法的技法を軸に判断を行う。しかし、時には「感性」や「感覚」で判断すること

も重要である。なぜなら、論理性や合理性によって導出された「正解」は理論的・学問的

議論として、言明化された言葉の信憑性と解釈技法の科学性を持つというメリットはある

が、これは人々にとって抽象的すぎて理解ができないという可能性があるからである。逆

に、感性や感覚での認識は同一感覚内における個体の経験的差による再現性や永続性に乏

しいけれども、感覚は認知活動の最先発として、事物を認識・理解しようとする意欲的態

度と認識対象との最初の直感的接触を保証するのと同時に、知覚・認識・理解に基づく評

価・意味付与・価値判断を行う上での重要な契機ともなる。このような意味において、「感

覚する能力が、現実態としてではなく、唯可能態としてのみあることが明らかとなる」で

あろう579。つまり、正義の理解は、思惟・概念による認識のみならず、感覚・情緒による

認識をも含んでいるのである。こうした「理性に裏付けられた感性」や「感性の奥に潜む

理性」という相互補完的認識があるからこそ、人々は不断に正義の在り方を探究していく

活動において能動的主体性を発揮する契機を与えられ、自由で平等な人格的存在者として

把握されると言えよう。

第3款 合理性と道徳性との関係の再考

正義感覚による道徳性は、中立的現実把握である正義原理による合理性に先行する、す

なわち、正義感覚に関わる関与的態度は正義原理に関する規範的認識に先行するというテ

ーゼを説得的であらせる為に、義務論的正義論は倫理的な正義感覚に何らかの仕方で訴え

るのではないか、という問いに答える必要がある。我々は、社会の基本的制度に適用され

るであろう正義の純粋に手続的な基礎づけの試みが、(普遍的な人間のあり方という意味で

の)道徳の義務論的視点を(ある社会集団の規範的指向という意味での)倫理の目的論的

視角から解放しようとする企図を最も高めるのは、どのような意味においてであるかを明

らかにしなければならない。他方でこの試みはまた、この企図の限界を最も強調するもの

であるかもしれない。ロールズによれば、「手続的な考え方が立っている論拠は、不正と正

との意味することについての前理解に基づいてである。その前理解は、無知のヴェールを

かぶった原初状態で選択されるのが正義の 2 つの原則であることを証明できるまえに、そ

579 Aristotelis De Anima, Lib.Ⅱ, c. 5, 417a.

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の 2 つの原則を定義し、解釈することを可能にする580」。この可能性の依拠するところの 1

つは、所与の事実たる法それだけでは、我々に対して規範としての合理性を付与すること

は絶対にできないと考えられるということである。なぜなら、歴史的事実たる成文法が、「か

くある」または「かくありし」ということは、単に歴史的事実として「かくある」または

「かくありし」という意味しか有していない。この歴史的事実自体は、善悪・正不正の価

値判断をまったく含んでいないのである581。また、直観的認識の経験・体験たる事実から

見れば、感覚的な領域において人間としての本来の純粋な自然感情としての不正に対する

倫理的に不快な感情なるものが存在し、それが人々の法的判断や行動に対する強い動機付

け為す可能性がある。もちろん、個人の感情的・経験的・道徳的な判断、いわゆる正義感

覚を社会的存在意義あるものとして明らかにしてゆくにあたって、その正義感覚の経験的

妥当性を確認することが避けて通れない課題であるように思われる。こうした情動的認識

に基づいて道徳的訴求を具現化して人々の法思考や法行為を明らかにしようとする意味で

の経験的妥当性と、個々人の私的利害関心や選好の充足を機能的に説明しようとする意味

での論理的妥当性582との間に競合関係と相関関係が同時に存在することを明らかにした点

で、正義感覚は法思考の基礎付ける重要性を有し、市民は経験的妥当性からその重要性を

把握することになるであろう583。

義務論的性格をもつ正義論は公正な社会的協働を目指す正義感を前提にして、そこから

正義原理の妥当性を推論する為には、義務論と正義感のつながりを十分に理解しなければ

ならない。つまり、「義務論が自分の引き起こした葛藤に悩んでいるとき、正義感がどんな

580 ポール・リクール(久米博訳)『他者のような自己自身』(法政大学出版局, 2010)294 頁。 581 牧野英一『法律に於ける進化と進歩』(有斐閣, 1924)4 頁参照。平野義太郎『法の変革の理

論』(法律文化社, 1970)130-1 頁参照。 582 経済人(Homo economicus)という利己的な人間像の発想は、近代法と経済学において措定

されている。人間の活動を動機つけているのは、基本的に自己利益のみであり、正義感覚はせ

いぜいのところ副次的な役割を果たしているにすぎないとされる。法は主として効率的な資源

配分を実現するための道具として観念されているが、その前提として、人々が遵法活動を含め

た一切の法的行為はもっぱら私的利得計算によって動機付けられていると考えられている。そ

の法行動の私益モデルに従って、法と経済学は、社会科学方法論としての行動主義の基本前提

に忠実に、外部に表出された観察可能な活動のみを分析対象とするのであって、行動を惹起す

る心理過程を問題とするものではない。Posner, Richard A. 2011. Economic Analysis of Law. Aspen Publishers. p.3. 林田清明『法と経済』(信山社, 2002)15-16 頁参照。

583 阿部昌樹「正義感覚と法活動」人文学報第 76 号 71-99 頁参照(1995)。

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種類の解決手段であるかを最終的に理解できねばならない」のである584。義務論的正義論

は正義原理に関わる目的論的視座から離れて、リベラルな政治文化を共有するあらゆる人

間のポリシーとして措定され、原理の持つ普遍性を基準とする社会統合の具体的方策を考

案する。この意味で、もっとも根本的な形でのカントの定言命法であるところの、「あなた

の意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ585」は、

人格的・理性的な意志の構成と、それ自体が目的としての人格の措定にも関係するだけで

なく、手続的な普遍主義のもとにある正義の諸原理の要請にも関係する。こうした普遍主

義的正義原理は、諸合理性586に依拠しながら、人々の正義感覚に合致する。しかし、こう

した普遍主義的要請の限界がどこにあるかを知るためには、「会話の作法」に含まれる相互

性の養成が必要である587。こうした相互性の養成は正義の普遍主義的要請であるが、会話

の限界が普遍主義的要請の限界ともなる。ここに、普遍主義という要請は実際に会話しな

いかぎり普遍性を備えずに一般性・普遍性を失うことになるのか、という問題がある。し

かし、それに対しては決してそうではないと答えるべきである。私の考えでは、正義感覚

は、普遍的で細分化された前会話・会話・脱会話という三水準およびそれらを構成する各

段階で具体化する。そして、一番狭い意味の「会話」であるダイアローグを除いて、普遍

584 ポール・リグル(久米博訳)『他者のような自己自身』(法政大学出版局, 2010)284 頁。 585 Kant, Immanuel. 1974. Kritik Der Praktischen Vernunft. Felix Meiner Verlag.S.36. 586 ロールズによれば、合理性は、主観的合理性と客観的合理性の二種類がある。前者は⑴選好

の首尾一致性、⑵目的に照らした選好のランクづけ、という2つの基準に加え、『正義論』に

おいて特別な想定として、⑶合理的な個人は嫉みや恥辱といった感情によって悩まされないと

いうものが付け加えられた。後者は合理的選択の原理として、⑴実効的な手段、⑵包括性、⑶

有望性、⑷計数、⑸純粋な時間選好の拒否、⑹連続性、⑺自己責任などの原理を含む。TJ, pp.123-4, 361-5, 369-72/193-5, 540-6, 522-57 頁参照。

587 社交体を可能にする具体的な品行規範とは、会話である。会話は「営為(実践知の体現)」

であり、「行動」としてのコミュニケーションとは異なる。会話は、形式的・目的独立的であ

るために開放的であり、コミュニケーション的共同性や言語ゲーム的共同性はローカルな習律

的規則の共有を前提にした閉鎖的なものである。会話とは異質な諸個人が異質性を保持しなが

ら結合する基本的な形式である。会話は行動を共にする人間の結合ではなく、行動を異にしな

がら同じ共生の営為を営み続ける人間の結合である。会話の作法をなす規範を基礎づけ、そこ

に具現しているような正義の諸原則に我々は社交体を可能にする公民的営為の規範を求める

ことができる。井上達夫はこれを「会話としての正義」と呼び自己の指導的・批判的理念とし、

社会像の具体的含意のための様々な理論構成においての指針とする。井上達夫『共生の作法

——会話としての正義』(創文社, 1986)第五章 3 節参照。

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主義的要請は前会話と脱会話の段階において相手と実際に話すことを必要としない。それ

らの段階は概ね以下のように理解することができよう。

第 1 水準

(普遍性=道徳性)

前会話

(自己対自己)

独白・モノローグ

(monologue) 自律

欲求感覚から

正義感覚へ

第 2 水準

(普遍性=秩序性)

会話

(自己対相手)

ダイアローグ

(dialogue) 合意

正義感覚から

正義概念へ

第 3 水準

(普遍性=超越性)

脱会話

(自己対未来の他者)

傍白

(aside) 原理

正義概念から

正義原理へ

まず、前会話たる第 1 水準について言及する。日常生活の中で我々の行為の方針を決め

るものには、自らの欲求を満たすために生じる欲求感覚があり、一定の格律により生じる

心的傾向がある。アブラハム・マズローの人間性心理学の研究により、親和欲求・承認欲

求は会話の表現形式によってその普遍性が証明された。しかし、前会話の段階においては、

話したくても誰とも話せない状況において、誰とも話さずずっと一人で時間を過ごすこと

の魅力を感じやすくなるという面がある。一緒にいたり顔を近づけて話したりしないにし

ても、内的感覚世界において自分を持続的に支えてくれる安定した他者イメージである「対

象恒常性 object constancy」が確立されていれば588、一人で孤独感・寂寥感・疎外感に襲わ

れる機会は減少し、自分が完全に無縁状態ではなく誰に受け入れられ、どこかに属してい

るという心理的な裏づけのようなものも重要と考えることができるようになる。モノロー

グを通して自己と自己との対話による自己納得性が高め、前会話的状態において欲求感覚

が満足されることがありうる589。承認欲求という視点から心的傾向に関連して考えると、

前述したカントの定言命法は、「行為以外のいかなる目的をも前提とせず、行為そのものを

無条件に命じる590」ことによって普遍的な原則を導き出す。このときの自律は、「意志の自

588 Frankl, Liselotte. 1963. “Development of Object Constancy: Stages in the Recogniton of

the Baby’s Feeding Bottle.” Journal of Humanistic Psychology 3: 60-71. 589 Maslow, Abraham Harold. 1943. “A Theory of Human Motivation.” Psychological Review

50: 370-96. 590 小川仁志『はじめての政治哲学:「正しさ」をめぐる 23 の問い』(講談社, 2010)25 頁。

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由」を前提に置きながら、「自分自身を普遍的に立法するもの」とみなす働きである591。す

なわち、個人の欲求感覚に基づいて引き出された心的傾向は公正さの理解へと従属する。

このような自由意志の働きは理性的存在者の能力に賦与されるものであり、普遍的な人間

性として認識されていたものである。

次に、会話たる第 2 水準において、会話の普遍性は、意見の交換や意思の疎通などを通

じて相手との話題を共有し、時間・空間の共通性を分かち合うことで生じる。こうした会

話の普遍性は、既に成立している合意のうちに、正義感覚を通した絶えざる異議申し立て

を聞き入れようとする正義の諸原理を基礎づけることになる。会話の普遍性は、道徳的・

法的役割を遂行することや、秩序だった社会や他者の正義感覚による期待を強く指向し、

正義感覚の合意を共有した正義の諸原理の中に肯定されている公正さに接近する。そして、

我々は相手に関与していると同時に相手から関与されている。相手から是認されることや、

喜ばせたり、励ましたり、支えあったたりされたいと望むとともに、正義の諸原理に違反

することによってもたらされるであろう制度化された非難を予測し、「関与的配慮」に従っ

て社会的規範へと同調して、自然本性における正義感覚からの直観から規範的な正義諸原

理を体験・経験した上で、正義原理は自覚的に自らの法行動を正義に照らして一貫するこ

とになる。

会話としての第 2 水準における関与主体の各役割と動的な捉え方について、演劇舞台の

イメージに例えると、法的空間には、演技空間である舞台と、舞台装置などを納める舞台

裏、そして観客席が備わっている。その法的空間の中で、関与主体における自己と他者の

関係及びそれを支える条件に応じて、複数の活動者が幾つかの役割を担う592。すなわち、

舞台上で互いを相手とする役者、舞台裏にいる傍白者(第 3 者)、観客席にいる観客(第 4

者)といった想定の上で、会話もそれぞれに応じた類型に分かれる。例えば、舞台上にた

だ一人いる人物によって語られる独白、または、二人もしくはそれ以上の主体間における

591 カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波文庫, 1976)112-3, 141 頁参照。 592 この考え方は、仲正昌樹がアーレントの政治理論を研究する際の指摘を借りて説明すれば、

政治原理を理解することは、「ポリスの公衆の前で演じられた芸術活動、共同体のアイデンテ

ィティ形成の上で重要な機能を帯びていた<演劇>をモデルにして構築されているのであ

る。」したがって、自由で平等市民が存在・活動する公共領域の演劇的構成とされ、正義原理

を適用する人々はその公共領域(=演劇場)において、正義の受容・変容者(actor)として

諸原理を理解・実践(acting)するのである。仲正昌樹『<法>と<法外なもの>』(御茶の

水書房, 2001)40 頁。

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言語の発声に限らず手話やジェスチャーなども含めたコミュニケーション、或いは向き合

って話をする会話(ダイアローグ)、複数の人物が登場する会話舞台上に特定の人物によっ

て語られ他の人物には聞こえない建前になっている傍白がある。傍白は、語り手の秘密や

本心などの心声、他人に知られたくない自分の内面の情報を観客に提示するための大きな

役割を果たしているものであり、これによって語り手である役者と聴き手である観客は現

在の状況を了解し、近未来の状況を予測し、状況の進行を距離をおいて眺めることができ

るのであって、これは状況認識を共有するための最も有効な表現手法である。

続く脱会話たる第 3 水準において、傍白者は役者にも観客にも見えないものを自分の目

で観察および解釈し、それを伝えることができる。傍白者は「絶対的な他者」として、カ

ント的自由の自己自律性、或いはヘーゲル的自由の「相互承認」による個人間の相互規定

性を超越し、認識対象に関する原始的な印象から情緒的な身体感覚と倫理的価値評価に対

する適宜性に至るまでの様々な立場や解釈の位相を自分自身に投射する役割を果たすと共

に、同等性と中立性の観点から見た公正さの理解を導き出し、より普遍的な原理を見出す

ことができる。

関与の当事者は自分の共感的感情が傍白者の情景設定によって、心の中に抱えている利

益・損害、美・醜、名誉・不名誉、正・不正などを表現することで、勧奨・制止、称賛・

非難、告訴・弁護などの価値評価に共感的に是認してもらうことに対して関心をもつ為、

市民は傍白者の視点に自覚的・自律的に入り込み、そこから自分の共感的感情を適宜に持

つことができるようになる。観衆たる我々が傍白者の導きを通じて舞台上の役者に関与す

る場合、我々が傍白者の存在に関心をもっているのであれば、その傍白者が想定した視点

に立って自らの関与のあり方を制御する。つまり傍白者の思考枠組みに沿って関与のあり

方が作られるのである。これは傍白者を中心とする視点から見れば、当事者自身とその対

象との間に交流・信頼・受容という情動的な価値交換がゆき交う中で自らにも感情的な変

化や対応が引き起こされるということであり、そしてそれは固定化された思考の枠組みを

解体し、自らの思考パターンを再構築することにつながってゆく。

なぜ傍白の視点は普遍性を理解する際に重要なのか。また、なぜ傍白の観点はより普遍

的な原理を引き出すことができるのか。この問題をより明らかにするために、議論の方向

を「自由」から「平等」へと転向する必要がある。なぜなら、自由意識を根底に置いた人

間関係の理解からすれば、我々と対等な存在としての他者は我々に対して反証してくるで

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あろうとの予測が常に為されるからである。他者から無限に異議申立てが為されるという

想定の普遍性と永遠性の直観にのうちに、公共的合意に基づいて自由の構造的な普遍性を

理論的に根拠づけることはできないのだろうか。決してそうではない。なぜなら、自由意

志の存在とそれらの表現形式の基底にあるものは、人間の存在に依拠して思惟の形として

普遍的に存在しているからである。思惟という実践の中で、我々は存在の意味現象を自由

に解読することができ、実際自由に解読すると同時に、潜在的思惟能力を通して具体的に

認識された関係において自らを思考主体として平等に位置づけており、その上更に、自由

の思惟ということは潜在的な思惟能力の平等を意味している。もし平等を志向する心的傾

向という意味での実践的基底がなければ、自由への行程を達成するための中核的存在を欠

くことになる。逆に言えば、平等を基底的理念とする場合、時間的な展望を開くことによ

って想定される「未来の他者」は、どんな人間にも「自由」と「尊厳」において対等であ

るという正義の感覚の上に成り立っている。そして、平等の普遍性は正義に関する「感覚・

概念・原理」の段階において共通していることになる。

傍白者の存在は我々にとって、この「平等の普遍性」のありようを提示しているように

見える。これを提示するという使命を完了した傍白者は、自らが属する共同体にコミット

メントすることによってその共同体に回帰し、これによって自我が構成されることになる

593。「認識・再認・共認」という一連の経路を通したこの共同体の境界はより柔軟で、より

包括的で、より解放的なものとなり、固定的で独自的で静止的な共同体から、流動的で共

有的で動的な人間社会へと移り変わっていく。その意味においてコミットメントとは、過

去においても現在においても未来においても、関与主体が多元重層の価値体系の矛盾対立

性を意識しながら、それらの対立性・衝突性の調和・再認において、主体的自覚の深まり

や広範な関与能力の育成を通して社会の規範的な統御を目指すということである。

第2節 主体的関与の実践的諸条件

そこで、すでに触れた「4W1H」、すなわち Who・ What・ When・Where・ Why・

How という区別を活用することにより、「自己—他者」の関係性の場合と同様にして主体的

関与論をより明確に理解することを試みる。まず、関与の主体(who)と内容(what)を

まとめ、更に、正義感覚を媒体にした情動的認識を図る必要のある、恒常的かつ広範な関

593 酒井直樹『日本/映像/米国 共感の共同体と帝国的国民主義』(青土社, 2007)111 頁参照。

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与的状況を時空間の枠組み(when & where)として認識・規定する。逆に言えば、正義感

覚を媒体にした情動的な認識は、社会的・文化的時空の枠組みに常に組み込まれている。

最後に、社会的正義を理解するために、主体的関与論の必要性(why)と可能性(how)に

ついての概要説明をし、主体的関与論が市民社会の正義を求めることを強調する。

第1款 Who=主体的関与の主体

私は、関与の原理を分析に際して、関与的理解への到達アプローチを、⑴理性的コミッ

トメントによる、自己からの正義感覚の抽出、⑵モラルコミットメントによる、他者への

正義感覚の入力、そして⑶戦略的コミットメントによる共感的配慮という 3 つの過程と捉

えている。それは、自由で平等な市民が自然本性に基づいて体験できる正義感覚を踏まえ、

各人で共感した共通感覚に基づいて正義感覚と正義原理を一体化することにより、最終的

に我々は自由で平等な市民として正義感覚と正義原理を主体的に認識し受け止めることが

できるようになるということである。そのようにして得た社会的正義の観念は自分のもの

となり、自分で正義感覚と正義原理を見る目を得ることにつながるとの考えに立ち、正義

感覚と正義原理との組み替えや一貫性、相互作用を行ったことが、「関与の正義」に関する

主体性という大きな特徴を提示するといえる。

こうした正義感覚を有する自律した市民は、それぞれが自分の目で物事を捉え、自分の

頭で考え、自分自身の中で消化し、自分の手で確かめることによって答えを導き出す。そ

れこそが重要な事であり、それによって起こる認識のズレは生活世界での環境の意味の多

様性を意味する。一方、正義感覚が相互矛盾する場合には、相互の正義感覚の間の葛藤・

矛盾・混乱・対立を調整・修復・統合することによって、生活世界における規範の拡張の

契機を提供するとともに、多様な現実的秩序に悪影響を与えない限り、再帰性(reflexivity)

は空間的に拡張することが保障されることになる。つまり自律した市民は、「社会の営みが、

それに関して新たに得られた情報によって吟味改善され、結果としてその営み自体の特性

が本質的に変化してゆく」過程において正義感覚を理解し、正義原理への再帰性を発見し

ているのである594。市民が自らの正義感覚を通して社会制度や公共政策を理解・受容する

ことによって、「規則」や「資源」に反映する正義原理に積極的影響を与え、外的視点から

594 Giddens, Anthony. 1991. The Consequences of Modernity. Polity Press. p.35.(秋吉美都ほ

か訳)『モダニティと自己アイデンティティ』(ハーペスと社, 2005)38 頁。

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内的視点へと転換し、その地位は被治者として束縛・支配されたものから参加者としての

主体的・能動的地位へと生まれ変わってゆく。 市民的正義感覚や社会問題に対する正義に関わる態度に着目する自律的市民は、関与の

正義の構築のために、受動的ではあってはならず、積極的に社会全体へと働きかけ状況参

加するという能動的市民が必要である。自らが主権者として構成された市民社会の一員で

あることを自覚し市民的正義感覚を通して正義に関する規範意識の意味や規範理論の方向

性を認知し、正義の諸原理を基に市民的権利と社会的義務を遂行すると共に、観察者の視

点から観察対象としての市民的行動を説明するだけではなく行為者が行為に込めた意図を

認識し且つ理解するという行動に向けられた心的傾向をも重視しなければならない。これ

は正義原理を社会制度編成の営為としての正当性を確立するために必要な第 1 歩であると

も言えよう。

人間の自然的善性に基づく、自己決定による能動的な道徳律・共同体倫理としての正義

原理は、そのコミュニティ・市民社会における市民の道徳性による、正義感覚に基づく自

己決定によらなければならない。共同体の構成員として存在する相手は、「想像した共感」

を通じて自己の「外在心身」として自分と平等な立場になっている。リン・ハント(Lynn

Avery Hunt)によれば、この「想像した共感 imagined empathy 」は社会的・政治的な変

革の基礎として人権の概念に変革を起こすものでもある。こうした共感の成立によって基

底的な社会機能が保たれ、平等への態度が可能になる。そしてその基底的な地平にある人

権の概念も生まれる。身体の整合性(bodily integrity)と共感的な自我(empathetic

selfhood)といった概念は人権の歴史と密接に関連し、同じ歴史を持っている595。

我々は平等な立場から受難者の境遇に身を置いて、受難者の状況を想像力の作用により

立場を交換し相手の幸せや苦痛を認識することができる596。そのことを通じて、個人的・

主観的立場を脱することでそれらを自らの幸福や痛みとしてより切実に受け止めることに

徹底して取り組んでいるのであれば、 ただ観念上の「平等で自由な市民」から「自立・自

595 Hunt, Lynn Avery. 2007. Nventing Human Rights: A History. W.W. Norton & Company.

p.30. 596 スミスの言葉を借りれば、「われわれは他人がどんな感じを抱いているかについて、なんら

かの知識をもちうるのは、ただ想像の働きによってだけである」。ただし、スミスにおいては、

単に他者の経験を想像するだけではなく、やはり想像力を使うことで、「いわば他人の身体に

移入して、ある程度までその人間と同じ人格に」なる。アダム・スミス(米林富男訳)『道徳

情操論〔上〕』(未来社, 1969)42 頁。

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律した市民」を経て「能動的市民」へと発展してゆくことができよう。それゆえ、その方

向に沿って、その為の基本的条件に応じて、正義に準じた原理や公正な社会的協働に関す

る原理を、主体的な市民像という背景の下で把握しなければならない。

第2款 What=主体的関与の内容

第4章では、「関与の正義」の核となる主体的関与の原理を暫定的、試行的に提示した。

第5章を踏まえると、関与の正義とは、「主体的関与の原理」と「体系的コミットメントの

アプローチ」によって構成されると考えられる。要約すれば次のようになる。

主体的関与の原理は制度に関するものだけではなく個人に関する原理でもあり、形式上

ではなく実体的な意味での正義の原理である。主体的関与の原理は次のように定式化され

る。――消極的関与:各人は、自分が他人からされたくないことは、他人も同じように、

いやだと思うのだから、 そのようなことを他人にしてはならない。――積極的関与:自分

が他人からしてほしいと思うようなことを、他の人々にもしてやりなさい。

主体的関与の原理を達成するための 3 つのアプローチは、次のようなものである。――

第 1 のアプローチは、正義感覚抽出に関する理性的コミットメントである。これは正義

感覚を含むあらゆる感情の呈示と、その感情の呈示のための促進的環境に関わるものであ

る。第 2 のアプローチは、正義感覚移入に関するモラルコミットメントである。これは感

情入力による正義感覚喚起・覚醒と、感情導出による正義感覚評価・表出(解読・交換)

に関わるものである。正義感覚の喚起と覚醒の為に感覚の触発と共鳴が必要とされるのに

対して、正義感覚の評価と表出の為には相手の感覚を解読しなければならない。その為に、

相手との情報や善意等の交換が必要となる。第 3 のアプローチは相互の関与的配慮に関す

る戦略的コミットメントである。この戦略的コミットは主体的関与のパラドックスの解消

に役立つと共に、そこでは、人間尊厳と福祉への権利を尊重し衝突の和解を促進する為に、

友人としての立場を取るコミットメントが高く評価される。――

主体的関与の原理とそのアプローチは、社会や集団や組織の場において制度や政策等を

制定・執行・遵守・改正する諸理由を、個人的な場における、感情的な面も含めた人と人

の関係(例えば、以前は、血縁、地縁による関係から信仰や宗教、文化等による関係へ)

から生じる現実的志向に還元しようとするものであり、他者との関係における自らのアイ

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デンティティとパーソナリティの維持と修正にとって、なくてはならない源泉である。主

体的関与のアプローチを成す諸体系的コミットメントについては、自由で平等な市民は正

義秩序を形成するために自らの正義感覚を抽出し(正義感覚抽出)、抽出された内面主体的

立場を自分の心的装置(良心・正義感覚)を通じて仲間の市民同士に投射することで、そ

の市民同士と自分との同様な融合を感じ(正義感覚移入)、常に近似値としての確率的な正

当性しか保証されない正義原理を、しかし意識作用を通じて体験することができる。そし

て我々は他人が示す正義感覚に共感することよって、人間行動の多様性から相手に誤解さ

れない正義感覚入力の重要性を理解し、自己理解としての正義感覚抽出と他者理解として

の正義感覚入力とを統合させようと取り組む過程において、基本的社会規範を生成・持続・

変化するメカニズムを理解・受容・把握し、かつ最高道徳としてのモラルコミットメント

を「互いの承認しうる合意」において到達することを目指す597。これは、主体的関与の原

理とそのアプローチに基づいて、具体的な背景的文化の中で自己理解と他者理解を実践し、

道徳性の水準を高めていく基本条件を保証するものである。つまり、主体的関与の原理と

そのアプローチは、第 1 に自己の正義感覚を明確に示す自己理解を中心とした感情抽出、

第 2 に相手の正義感覚を喚起・覚醒・解読・交換させるという共感中心の感情移入、そし

てそれらによって、最終的に戦略的コミットメントに達することで、既存の社会通念や世

論や政策の形成に影響を与え、政治文化や社会構造、様々な価値や規範・制度・秩序など

の既存の社会基盤に徐々に改善や改良することを促していくことから構成される。

第3款 When=主体的関与の時間的条件

主体的関与の原理と体系的コミットメントのアプローチからなる関与の正義は、できる

かぎり当事者の意識で社会的秩序的に把握されるべきであるとともに、時間的文脈のうち

に意味づけられることも重要である。正義を把握するこのようなアプローチを「時間モデ

ル」と呼ぶこととする。つまり、この時間モデルは、「関与」を「共時的」視点と「通時的」

視点といった 2 つの時間軸から捉えようとするものである598。ある時点からある時点至る

597 L.コールバーグ「第 6 段階と最高道徳(1985 年)」(岩佐信道訳)『道徳性の発達と道徳教

育——コールバーグ理論の展開と実践——』(広地学園出版部, 1987)44 頁。 598 言語学の研究においてはソシュール(Ferdinand de Saussure)以来、共時態 (Synchrony) と通時態 (Diachrony)による研究の対立軸によって、言語学は大きく 2 つに分かれた。1 つは共

時言語学(Linguistique synchronique )であり、ある言語の一定時期における姿・構造を体

系的に研究するものである。もう 1 つは通時言語学(Linguistique diachronique)であり、

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までに存在し続ける正義感覚と、時間的経路のある時点における、断面としての空間にお

ける正義原理について、通時的視点から様々な歴史的経路の優劣を論じる歴史主義と、共

時的視点からその時点における事態のみに着目する時点主義とがある。時間モデルは、あ

る時点のある地点における事態のみに着目するとしても、その時点のその地点から予想さ

れる将来の諸事態において関与は必要にして充分なだけ折り込まれているのだから、ある

時点のある地点の事態において平等がもっとも広範になるように行為を選択せよ、と主張

する599。この時間モデルによる主張とそれを支える規範は、⑴概念の共通性と構想の個別

性、⑵歴史の連続性と時代の断片性、⑶法発展の絶対的運動と相対的静止という 3 つのダ

イコトミーを含むものである。

第1項 共時関与(共時的視点)からみた正義

正義を共時的視点から捉えるということは、ある時点のある地点、例えば近代ヨーロッ

パに暮らしていた人々が一般的にどのような意識や思想を持ち、何を正あるいは不正と考

え、自己がどのように扱われるべきだと信じていたのか、そして正義に関する共時的な規

範意識がどのように制度化されていたのかを明らかにするということである。共時的視点

については、それが「正義に関する共通感覚がどのように具体化され、制度化されていた

か」、という説明に帰着するのではないかとの見解があった。なぜなら正義とは、最終的に

は普遍的な整合的秩序においてその社会が承認する何からの権力関係によって実現もしく

は保護されねばならない規範だからである。「法は、その限りで人々の共通感覚や社会規範

のより厳格で明確な表現形態である」。ある時間のうちに「一定数の人々がある程度普遍的

に正しいと考え、それを力によっても守らねばならない」と考えるとき、そこには法があ

る600。

人は、この世に産まれ落ちたその時から、その社会に適合して生きていくために規範を

身につけていく。この過程において人々の意識や意欲や感覚は、相互媒介的・相互関係的

である。個々人の思考様式や行動様式を一定の方向性へと導く様々な規範が意識的・無意

時間の流れにそって変化していく言語の諸相を研究しようとするものである。現在に至るまで

言語学といえば共時言語学が主流とされている。この考え方は、共時と通時といった概念を参

照した。Bouissac, Paul. 2010. Saussure, A Guide for the Perplexed Bouissac. Continuum. pp.104-14.

599 安藤馨『統治と功利』(勁草書房, 2007)118-9 頁参照。 600 勝田有恒ほか編著『概説西洋法制史』(ミネルヴア書房, 2005)2 頁参照。

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識的に取り込まれ、そのうちに「規範は個々人の血となり肉となり、感覚化される……人々

の常識や感性、規範感覚や法観念もまた、それに適合的なものとなるのは自明なことであ

ろう」601。このように、社会にある正義原理と個々人の正義感覚は渾然一体としており、

それらは互いに関係し合い大きな影響を与え合っている。ある時点のある地点に暮らして

いた人々の感情・感覚構造や正義感覚、共通感覚や規範意識は、そこにある正義の諸原理

と不可分の関係にある。いわば、そういったものの総体が「共時関与としての正義」にほ

かならない。

第2項 通時関与(通時的視点)からみた正義

ある時点における、正義感覚ないし正義の規範意識の集合から成る正義の諸原理は、時

間軸を過去に遡って見ると、個別的概念構想が正義観念を中心として分散しながらも、収

束しようとする或いは少なくとも正義観念と一定の距離を保ち続けようとする様子が確認

できる。過去のある時点から未来へと向けて社会正義の原理を眺めれば、分散している個

別的構想が相互関与によって収束し正義観念に至る様子が観察できる。正義観念は、過去

に遡ればその個別的構想に共通する正義体系の「中核」に収束するはずであるが、それら

の個別的構想が相互作用や影響を通じて変容していた場合は、正義観念は収束すべき「中

核」を見失い、分散してしまうこともある。この場合、例えば法におけるクレオール的混

成過程の場合のように602、諸種の正義観念は正義の中核には収束せず、むしろそれは普遍

的正義感覚能力から生じているとも言える。

それを踏まえると、正義と平等の理念や規範は決して固定的なものではない。個々人の

感情構造、行動様式や規範意識は変化するものである。人と人、集団と集団、国と国との

関係もまた変化する。それに伴って規範に関する理論もまた変容し、新たな共通感覚や規

範意識が生じてくるはずである。このように、正義や平等の理念を通時的視点から捉える

601 同上書, 3 頁参照。 602 クレオール的混成とは、基本的に相異文化の「接触・衝突・容変・融合」を指す社会現象で

ある。異なった文化の遭遇の際に生ずる様々な関係の内で、複雑に重なり合う社会的関係を通

じて人々の既定認識や理解や観念が様々な体験を惹起しながら秩序変動が進み、そして新たな

秩序が出現するという 3 つの段階を含んで反復される融合的な過程であり、またそれ自体が

様々なクレオール的経験から普遍化されうる根元的動態として考えることができる。長谷川晃

「<法のクレオール>の概念をめぐる基礎的考察」北大法学論集 58 巻 3244[1310]-269[1335]頁(2007)、および長谷川晃編著『法のクレオール序説——異法融合の秩序学』(北大出版

会, 2012)参照。

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ということは、共時的視点から捉えた正義や平等理念の変遷を追いかけるようなものであ

る。ある時間の正義原理を構成する正義感覚は変容しているため、それに伴って、ある時

間の正義感覚から次の時間の正義感覚への移行は通時的に説明されなければならない。通

時関与は、共時の正義原理を 1 つの分節として軸のなかに組み込むものである。ある時点

の正義の理念から別のある時点の正義の理念への変遷は通時的視点からのみ把握できる。

西欧における近代法から現代法への平等理念の変遷を各時代において共時的に把握しなが

ら通時的に俯瞰することにより、近代法における平等理念と現代法におけるそれぞれの平

等理念を理解すると共に、通時的視点により平等理念において通底しているものを捉える

ことができる。

共時的視点による相違は通時的には変化として捉えられる。だが、それは必ずしも過去

との完全な断絶を意味するわけではない。たとえかなりの程度断絶していたとしても、そ

の共時的認識はそれぞれ理解不能なほど断絶しているわけではない。通時的に変容する正

義原理は、その時々の共時的な社会構造、風俗習慣や地理的条件など複雑に絡み合って互

いに影響し合う性質を持つ。また正義に関する規範意識と原理は、一般には、隔絶して存

在しているのではなく、様々な社会集団との交流や接触による異文化理解を通じ、他の意

識と原理と何らかの関連を持って通時的に変容してゆく。すなわち、我々は通時的視点か

ら正義原理を考察することで、正義観念の変容の中で変わらないもの、共通して共存する

何らかの関係といったものを知ることができる。そこにはやはり、何かしらの変化しない

正義や平等の理念が、通時的時空を貫徹しているのである。それらをここでは便宜的に「正

義の系譜」と呼ぶこととする。

第4款 Where=主体的関与の空間的条件

これまで述べたように、関与者・関与の行動・関与の状況がいかなるものであるかは各

規範的制御が決定すべきことである。このことを体系的に考えるために、次のような概念

装置を使ってみよう。

体系的コミットメントの空間的枠組みとは物理学的意味での一定の必要な「場所」であ

り、緯度・経度の地理的な座標によって表現され得る地球上の位置である。それに対して、

社会学的意味での空間とは、一定の「組織様式」とコミュニティに属する社会的位置と役

割である。例えば、家族の一員として「家」という組織様式は必要があると同時に、この

家は一定の物理的な「場所」に存在している。また学生という役割を取得するための大学

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という組織のなかに行動する必要があり、この大学は一定の「場所」にある。個々人はあ

る時点において、物理的な意味では特定の場所にだけ属しているとしか言えないが、社会

構成員としては一定数以上組織の中に、同時に身分をもって存在していると言える。この

ような場合、個人的レベルから見ると、人は同時に複数の組織に所属し同時に異なる役割

を演じていることになるので、異なる組織に共通する正義感覚が共通することもあり得る。

個人は自らの意志でいつでも自分の属する物理意味での空間から離脱できる自由を原則

として有する一方、規範意味での「組織」とコミュニティからには拘束力があり、離脱に

際してはリスクを伴う。個人が一定の物理的な空間に相対的に固定された場合、その物理

的空間から投射される組織的空間に参加する可能性は必然的に高くなる。何故なら、その

コミュニティの構成員がその空間に長期的に存することによって、相手との主体的関与が

可能かつ必然なものになるからである。コミュニティの構成員は、他者の立場に立って状

況を想像的に再構成するという視点から、閉鎖空間としての自己の立場から開放空間であ

る公共的立場へと自律的に移行してゆくとともに、相手を想像する感情的役割を取得する。

第5款 時空的条件による主体的関与の強度

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時間の条件が「共時的」であり、かつ空間の条件が同一地点に設定され、特にそれが長

期に渡ると、個人間の関与は深化する可能性が高い。逆に、時間の条件が「通時的」であ

ったり空間が異なったりすれば、それらは歴史的な事実に過ぎなかったり他所の出来事と

捉えられてしまったりすることで深化することが難しくなり、また、「共時的」であっても

短期的なものであれば、個人間の関与は希薄化してしまう。関与に制限時間が設けられて

いたならば、個人のもつ正義感覚に基づく関与的関係が深化しないのも必然であろう。個

人間関与の濃密化・深化の可能性は、その個人が存在する社会の時間的移調と空間的位置

との連続性に左右されることは前述した通りである。つまり、本節冒頭で述べたように、

感情・感覚を媒体にした関与の正義は、社会的・文化的時空の枠組みに常に組み込まれて

いる。総括すれば、「共時的/開放的」な関与時空が、最も個人間の関与を濃密化・深化さ

せる可能性が高く、続いて「通時的/開放的」・「共時的/閉鎖的」な関与空間と続き、「通

時的/閉鎖的」な関与空間は最もその可能性が低いと言える。これらの諸時空間の位相を

図化すると以下のようになる。

まず横軸の関与の時間的区分において、その時間的連続性が「共時的=空間的同一時点」

であれば関与の深化の可能性が高まる。原点から右にゆけばゆくほど「共時的」であり、

原点から左にゆけばゆくほど「通時的= 時間的・歴史的な変化」となり、その可能性は低

くなる。続いて、縦軸の関与の空間的区分において、その空間的連続性が「開放的=他者

との関与」であれば関与の深化の可能性が高まる。原点から上にゆけばゆくほど「開放的」

であり、原点から下にゆけばいくほど「閉鎖的=自我の状態」となり、その可能性は低く

なる。

そして⑴を「共時的/開放的」領域、⑵を「通時的/開放的」領域、⑶を「共時的/閉

鎖的」領域、⑷を「通時的/閉鎖的」領域とした時、最も個人間の関与の深化の図ること

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ができる領域が⑴であり、続いて⑵・⑶となる。⑵・⑶はどちらも、時間的連続性あるい

は時間的連続性のいずれかを欠いているために、⑴の領域よりもその深化可能性は低くな

る。最後に、深化可能性が最も低くなる⑷の領域は、時間的連続性ならびに空間的連続性

の両者を欠いているために、その時空間内の関与は必然的に希薄化する。

第6款 Why=主体的関与の法変容

正義感覚とは、ある行動パターンを「正義である」ないし「正義とすべきものである」

とする感覚である。正義感覚は、それに反した行動パターンに対して市民的不服従が発動

されることを是認あるいは要求するという形で現れる。こうした市民的不服従は個人対国

家の関係で発動されるべきものであり、その背景には自らの正義構想に基づく権利意識を

高め、市民の主体的地位を強化することがあるようである。

ところで、ある行動パターンを「正しいことである」とする正義感覚と、ある行動パタ

ーンを「正しいとすべきものである」とする正義感覚とはしばしば区別しがたい。例えば、

デモ行進が立法により許可制とされている場合において、不許可処分の効力を無視しても

デモ行進をし得るということが「正しいことである」とする正義感覚の持ち主は、その許

可内容およびそれを規範とする法的性格が無効であると主張するばかりでなく、その法規

範を有効なものとして適用すべきだと解釈する警察によるデモ行進への干渉を阻止するな

どの目的で、その法規範の改正または廃止等の政府立法活動をも要求するかもしれない。

そうすれば、その限りにおいて、許可なしでもデモが行われることを「正しいことである」

か「正しいとすべきものである」かの区別は困難である。ある行動が「正しいである」、ま

たは「正しいとすべきものである」という認識パターンは流動的であり得るのである。こ

れは解釈論の形で現れることもあり、立法論の形で現れることもある。

共通感覚は、個々人がそれぞれ全く異なる正義感覚を持って自由になる規範的状態では

なく、個人の具体的な正義構想を超えて、一定範囲の人々の正義感覚に共通するものであ

る。しかし、共通感覚を誤りなく認識することは難しい。なぜなら、共通感覚を認識する

ための手がかりになり得るのは各人の行動であって、およそ一般的に行動を客観的に確定

することができるとしても、行動はその背後に潜む表象を映す鏡ではあり得ないからであ

る。しかし、我々は法的行動からある人の正義感覚を、また、ある範囲の人々の正義感覚

に共通なものを推測することができる。ある人が何かを権利として主張している場合には、

通常その人は自分が法律上そのような要求を主張できる根拠があると考えているという気

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持ちを推測することができる一方、その主張を相手方から拒否された場合には、通常市民

はそのような主張に応ずる法律上の義務、またはその主張に応じなかったときの法律上の

制裁等は自分にないと意識していると推測することができる。ただ、こうした推測や判断

を誤る可能性もある。ところで、人々の行動という法現象に基づいてその妥当根拠を分析

しようとする際に重要なのは、通常、個々人がどのような正義感覚の持ち主であるかとい

うことではなくて、どのような正義感覚を推測させる行動パターンが社会現象として存在

しているか——特に、どの程度の規範的重みをもって存在しているか——ということであ

り、そこでは、相手がどういう行動をとるかについての推測を誤る可能性は確かにある603。

しかし、正義感覚の発現とみられる行動の客観的存在それ自体が重要であって、それは問

題ではない。

これまで述べたことに照らすと、どの社会においても人々の正義感覚には多かれ少なか

れ分裂やズレが存在するのであり、特に現代社会においては正義感覚の分裂が特に著しい。

例えばそれは種々の訴訟や裁判における多数意見と少数意見の対立、立法における多数決

などの各種の形をとって現れる正義感覚の衝突などをとってみても明らかであるが、たと

え同じ正義構想の内容においても、その内容の強弱には強弱がある。しばしば言われると

ころの「一般的正義感覚」なるものは、現実の存在ではない。そこに一般的なものとして

存在し得るのは、せいぜい「正義たるべきもの」は存在するということを肯定する意識だ

けであって、具体的な問題に即して何が「正義たるべきである」かということが問題とな

るや否や、全ての人の一致が得られるという保証は存在しないのである。既に示唆してき

たように、我々にとって重要なのは正義感覚そのものではなく、ある正義感覚の発現たる

(正確にいえば外部からそのように推測される)人間行動、とりわけ、正義感覚の衝突に

603 私達は他者の心的状態に関する推論の能力を有し、その推論のメカニズムに基づいて自分が

どう行動するかを決定することができる。たとえ他者が実際にどう思い、考えているかを直接

たずねないとしても、起こっていない事態を想定し、そこで他者がどのように感じたり、考え

たりするかを推論することができる。他者の心的状態を推測する場合は誤る可能性があるけれ

ども、2000 年以来の認知心理学の研究によれば、「自分の主観的経験を係留点とし、それを

他者に投影し、その後、他者と自分は異なるという知識に基づいて調整を行うという過程に基

づいて考えると、正確に推測しようという動機があれば、より慎重に調整が行われることにな

るため、より正義な推論ができるようになると考えられる」。工藤恵理子「他者の心的状態の

推論のメカニズム」村田光二編『社会と感情』(北大路書房, 2010)169 頁。

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基づく(正確にいえばそのように想定される)対立的な人間行動であり、それが重要な所

以は、それが法の生成・変動の動因であるというところに求められる。

第7款 How=知的理解と追体験的理解との統合

我々は、法的主体がどのような過程をたどって重要な決定を下すか、裁判所などの組織

制度がどのような権限を有し、どのように機能するか、どのようにして権力関係を発達し、

目的を形成するかといった本質的な問いに対して、正義感覚がどのように動いているかに

焦点を当てることによって、より根源的な答えを求める。また、我々は、個人差或は個人

の多様性が正義への主体的関与においてどう理解するのかという疑問を抱くようになり、

また、立場交換による他者への理解と関与的配慮の可能性を再認識する必要性を感じた。

関与の類型は、一般に 2 つに大別されてきた。「相手への理解と認知」を関与とする発見的・

探索的能力を重視する類型と、「相手への興味と感動」を関与とする構成的・ 建設的能力

を重視する類型である604。

平等に基づく各個人の均質性を重視する観点から、単なる個人の正義感覚から正義原理

を定義し、しかし各個人の均質性故にそれらの適否の判断ができないのであれば、何がよ

り包括的で本質的なものか判断することはできない。というのも、そのような正義観念で

は、多数による正義の実現こそが理想的手続かつ規範的な目的として定義されてしまうか

らである。そのような例としては J・ベンサム、J.S.ミルなどの功利主義が挙げられる。

しかし、公共空間的関与時間において制度的正義が正義たる所以は、ただそれが個人的正

義感覚を生じさせるからではなく、一般的な正義感覚(あるいは正義の共通意識)を生じ

させるからである。そして、それを生じさせる原理というものこそが関与なのである。そ

604 A・スミスは構成的思考パターンを採用し、共感を建設的な能力として捉える。それに対し

て、D・ヒュームは発見的思考パターンを採用し、共感を発見的能力として考える。「ヒュー

ムの正義論において重要なことは、事実として成立している事柄について、それを徳として尊

重・維持するためには共感という原理が必要であるということである。尊重・維持の面に強調

点をおくならば、たしかに共感は発見的能力というよりは、自己に関する志向——建設的能力

かもしれない。だが、ヒュームにとって、因果推論の原理というものが、自己の精神が決定付

けられていることを知らせるものであるのと同時にその傾向性を強化するものであるのと同

様、共感の原理もまた、発見的かつ建設的な仕方で自己の精神を形成するものである。それゆ

え、共感の原理のもとでは、既に正義の規則に決定付けられている自己が発見されるのと同時

に、そのような自己の現れは、再——志向——建設的な仕方で、決定されてしまっている自己

を再強化するものである」。中村隆文「ヒュームの正義論において中心的役割を果す「共感」

の概念」社会文化科学研究 第 12 号 174 頁(2006)。

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もそも、各個人がそれぞれ感じるところの正義感覚が正義であり、単に総量が多い方の正

義感覚をより高次な正義原理として社会全体が遵守すべものと考えるならば、関与という

ものは正義の生成意味論において理論的な価値や実践的価値を全く失ってしまう。しかし、

関与作用が制度的正義にとって必要なものである。なぜならそれは、共通感覚とそれに関

わる正義原理が定立される限り、個人的正義感覚や直感で捉えた感情の偏見を越え、一般

的正義感覚に立脚して普遍的な道徳原理に合致した統合的な認識であるからである。

正を追究し不正を改めるという正義の意欲が我々に備わっているとしても、公共的空間

において各個人がそれぞれの個別的正義体験を基準として自分勝手な正・不正定義をして

しまうことは正義感覚の役割を誤解するものである。なぜなら、そもそも正義感覚は正義

原理を形成する最終的な基準として認識されているわけではなく、正義原理および社会制

度を編成するための情念を形成する因子に過ぎないからである。つまり、或る行為や活動

が「正」また「不正」という形容動詞をもって感じられ評価される場合、⑴発話者に正・

不正の感覚を与え、正義感・不正感をもたらすものであること、そして⑵その感覚効果を

他人の正義感覚に引き起こすこと、つまりその発話者以外の人たちにも、その発話者の正

義感もしくは不正感が理解できること、という2つの条件が満たされていなければならな

い。1 つ目の条件だけしか満たしていないならば、それはその認識対象についての「正」・「不

正」ではなく、単に、その考えを持つ人が個人的理解としての「正」・「不正」に留まるに

すぎない。2 つ目の条件が満たされてはじめて、「正」・「不正」という正義感覚の中に含ま

れる客観的意味構成は成立するのである。それら 2 つの条件と、主体間の再認の試行錯誤・

フィードバックによって、誰もがそのような正義観念を受け入れるであろうという思考パ

ターン、即ち共通的正義感覚が成り立つのである。

よく問われる問題として、正義へのコミットメントは可能なのか、または、コミットメ

ントはどうして可能なのか、という問題がある。関与的態度とは、単に関与主体相互の反

射的なのではなく、共感現象として理解されるべきである。共感現象において、理解しう

る感覚と理解しえない感覚とは常に混淆・交錯・融合しあい、そして変容していくのであ

る。関与の意味理解は、社会的文脈に根ざした「感覚(情)連関 Gefühlzusammenhang」

のうちに「追体験 Nacherlebbarkeit」を通して理解されなくてはならない。「類型的概念構

成の指示する形で生活世界のなかで個々の行為者の遂行する行為が、行為者の仲間だけで

なく、行為者自身にとっても、日常生活の常識的解釈という観点から理解可能になるよう

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に構成されなければならない」のである605。ある意味で、関与的配慮の、「人間としての自

然な情」に直接訴えるのではなく、エゴイスティックな人間のリスク回避傾向を利用する

戦略を取ることで、「共感」の押しつけを回避しようとする点は重要である。あらゆる他者

に対して「共感」的想像力を働かせることの難しさが露呈し始めている以上、「エゴイズム」

の視点と「共感」の視点を無理なく調和させる方法論的を模索するロールズ的発想は有用

であり、この方向で考えてゆくべきである606。

関与的態度においては⑴論理的な、数学的な、或いは合理的な性質のものもあり得るし、

⑵情動的に追体験される性質のもの、すなわち、感覚的なないし情緒的な、或いは受容的

な性質のものもあり得る。前者は知的理解であり、後者は情動的理解である。あるべき主

体関与は、合理性と情動性との連結的表現で理解される。現実的な道徳情緒と客観的合理

性から引き起される心理的反応は、それらが近しいものでわかりやすいものであるほど、

感動的・情緒的に追体験が容易であると思われる。我々は情動的に正義原理の意味を理解

して、それらが原理理解の方向と手段構築に及ぼした要素を「情的体系」と「知的理解」

によって統合することができる。

こうした実践的諸条件は社会正義の理念の実現に関わる。公正さや正義との関係での主

体的関与は、自由で平等というそれぞれの個人の本来のあり方が尊重・承認されるような

行動指針を提供する。それによって様々な背景的文化の中にいる個人のあり方の多様性か

ら生じる「等しい配慮」や「承認の理由」を明らかにし、人々の自由の平等を達成するた

めの主体的要素を、市民社会の構成員として、積極的に重視・発揮すべきだという示唆し

てくれる。積極的に主体的関与を行い主体性を発揮すべきであるという要請の本質は、様々

な文化的背景における具体的な人間像よって決定される。例えば、自己中心/社会貢献、

605 アルフレッド・シュッツ著、モーリス・ナタンソン編(渡部光訳)『シュッツ著作集(第 1巻)』(社会評論社, 1983)98 頁。

606 「共感」と正義との相関関連の整理について、仲正昌樹『ポストモダンの正義論』(筑摩書

房, 2010)227 頁以下参照。また、共感の立場からロールズの正義原理を解読する見解は、同

上書 230 頁以下参照。この内容を簡単にまとめれば、「無知のヴェール」がかかっていれば、

最も「不遇な立場にある人」を基準にして考えることになるのは、我々にはリスクを回避しよ

うとする<自己中心的>な傾向があるからであるということである。自分が社会全体の中でど

の辺りにいるのか分からない時、私達は不安になり、最悪の事態だけは避けようとする。つま

り、自分が一番弱い立場にある場合を想像し、その弱い「私」でもとりあえず生き残り、そし

てある程度の快適な生活を送れるには、どういう制度を備えた社会であればいいのか考えるの

である。

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332

家族や組織における男性支配/男女平等、結婚制度における異性愛絶対主義/ジェンター

フリー等の非対称的な構図において、前者の下に行われるコミットメントがよりよき人間

存在に成長しようとするポテンシャルな「人間像」を持つものと構成することは困難であ

る。このような場合には、男性と女性、異性愛者と同性愛者、健常者と障害者、高齢者と

現役世代、白人と有色人種等の存在差異によって、人と人、人と社会/集団といった諸勢

力を対立・分裂させる危険性が高くなる。そこで、この対立・分裂の回避を、そして秩序

の維持と安定の確保および社会発展の促進を図るために、リベラルな平等の観点からみた

人間社会のあるべき姿を考えながら、主体的関与に期待される人間像を次節において整理

して提案したい。

第3節 主体的関与に期待される人間像

第1款 主体的関与の出発点にあるもの:感覚秩序

前節に述べたように、正義感覚の衝突の深層的な原因は、自らの正義感覚を社会全体に

訴える際における、個人的正義感覚と共通的正義感覚との対立関係にある。つまり、個々

の法的主体は、「手段—目的」といった経済学の人間行為学的方法に基づいて、正義感覚に

よる自己決定を通じて最適な資源配分を行うことができるが、社会全体の場合は、私的個

人間の資源配分を基に公的な資源配分を定義することができない。なぜなら、個人間の効

用比率が不可能であり、社会厚生としての資源配分を個人の効用の集合としての個人的経

済資源と利益に分解することはできないからである。これに対する解決策として考えられ

るのは、普遍主義的感覚秩序と呼ばれる概念である。この節では、普遍主義的感覚秩序を

社会規範理論として最大限活用しようと試みる。

感覚秩序とは、ある人の正義感覚が他の人の正義感覚との相互作用や体験・行動のパタ

ーンを通じて安定するに至ったところの制度的システムである。それは人工性の有無に従

って、物理・自然的秩序(=物理的な法則)、と制度・人為的秩序(=倫理的な法則)に区

別することができる607。感覚秩序を存続させるには、一定の認識的条件の存在と、その条

607 この概念については、F A. Hayek, Beiträge zur Theorie der Entwicklung des Bewußtseins

(1920) in Hayek archives, Hoover Institution, Standford University, Box104, Folder28.「意

識の発達の理論への論考」、F A. Hayek, 1952. The Sensory Order, Routledge & Kegan Paul, Ltd. (穐山貞登訳)『感覚秩序』(春秋社, ハイエク全集第 4 巻, 2008 新版)参照。『感覚秩序』

という著作の重要性は、ハイエクが「社会科学の方法論の問題を扱うにあたっては、しばしば

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333

件を継続的に再認する必要がある。その条件には、財の所有、社会的および政治的配分・

支配関係だけでなく、異文化理解、意識形態のイデオロギーや日常的コミュニケーション

などが含まれる。感覚対象としてのある事物のあり方またある行動パターンに関する物理

的秩序と倫理的秩序を確定する前の感覚主体は、ただ主観的感覚を有するのみで、恣意的

な秩序しか形成しない。感覚秩序に適った正義感覚と正義原理は、特定個人の意志表示に

より意図的に設計されたものではなくて、自動生成と自発選択という自己組織化のプロセ

スを無意識に繰り返す結果として進化するものである608。人の内的秩序としての感覚秩序が、

その形成において外的秩序としての原理秩序である自然と倫理との法則を利用し、そこで

生成された感覚秩序に基づいて人が正義感覚に訴え社会制度編成の具体的措置の再考を促

し規範的秩序を再構成していくという点で、感覚秩序と原理秩序はその相互作用により、

その密接な協働関係を発展させる。

後援となったのであった」と考えたが((穐山貞登訳)前掲書 3 頁)、最近の研究によれば、

この概念は移行期と後期ハイエク理論の“橋渡し”的な存在だと指摘される(阪井遼「ハイエク

知識論の展開と構造」学生法政論集 7 号 95 頁(2013))。これに関する詳細な説明は、嶋津格

『ハイエク, ハイエクを語る』(名古屋大学出版会, 2000)242-52 頁参照。他の代表的研究と

して、K. R. Leube, Some remarks on Hayek’s The Sensory Order, Laissez-Faire (18-9):12-22 (2003);Bruce Caldwell, Some Reflections on F. A. Hayek’s The Sensory Order, Journal of. Bioeconomics (6):239-54 (2004);嶋津格『自生的秩序——ハイエクの法理論とそ

の基礎』(木鐸社, 1985);上山隆大「秩序論の背後にあるもの——F.A.ハイエクの『感覚

秩序』をめぐって」思想 778 号 74-95 頁(1989)。 608 嶋津格のハイエク研究によれば、ハイエクのアプローチは「ルールに従うこと」と「ルール

を知ること」を区別した上で、我々の意識的思考や明示された言明は「ルール」中心であると

している。この考察は、「ルールの概念は行動についてだけでなく知覚にも適用される」とい

う意味で、「それを知らなければそれに従うことなどできるはずがない」という考えを反証す

る可能性があることを明らかにする。例えば、正義感覚の本質は、「我々が言明化できるとい

う意味で知っているわけではない諸ルールに従う能力にあると考えてならない理由はないの

である」。つまり、我々が感覚を通じて主体的関与を行う場合、模倣の対象を構成している諸

要素またはルール複合体を個々に意識しないまでも、関与活動が可能なのである(嶋津格『自

生的秩序——ハイエクの法理論とその基礎』(木鐸社, 1985)49-50 頁)。なお、ハイエクの

言うところの、我々の行為を支配している無意識の諸ルールは「慣習」や「習俗」という言葉

で理解されるものとは必ずしも一致しない。後者は一般にかなり特定された具体的な行為を指

すのに使われるが、ハイエクが問題にするのはもっと一般的なルールであった。それは具体的

な行為の特定の側面にかかわり、情況に応じて具体化されるべき一般的な枠を提供するような

ものである。(同上書, 51 頁)

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我々は人間行為学(Praxeology)の基礎的地平から、人間の活動の外面的な部分を演繹

的に理解することによって、権力・責任・権利・義務などといった法命題を捉え直す過程

においてそれらに関連する行為の合理性を先験的に認め、それによって、行為の目的と効

果を、認識論的位置づけにおいて合理的配慮の結果として解釈する必要がある。なぜなら、

合理的説明=観察された現象、という等式関係が成立する、すなわち理論と経験実践を直

接的に結びつけられると認められるのであれば、合理的判断は、感覚秩序によって得られ

た様々な素材の、論理的なカテゴリーの統一体として成立する。しかし、個人の極端な合

理性の仮定や追求という視点から見れば、全ての人間活動とそこから照射される社会現象

や社会現実を計画・意識・意図的結果とするような考えに対して、合理主義的思考には限

界があるのではないかという疑問が抱かれるかもしれない。理性が正義感覚という感覚秩

序の地平を離れて単独で感覚秩序以外の対象の認識を生み出そうとすると、必然的に認識

不足を伴い、誤りの多いものとなる。現実世界の全体知識は、社会を支えている知識構造

において科学知・専門知以外にも膨大な経験的知識が存在し、合理性という枠組みで捉え

きれない社会科学の対象も含む。これに対して私は、情動的な認識原理を強調すると共に、

合理主義を全面的に反対するわけではなく、弱い様相の合理主義を主張する。つまり、認

識主体たる人間の認知過程と言語理解の傾向を表す枠組みは、その人が置かれた文化や歴

史や伝統などの背景的環境から独立するのではなく、個人的意思決定における合理的要素

により社会現象の目的と動機を解釈するのみならず、他の要素として人間心理・感情・個

性・慣習といった認識方式の役割を重視するようになるのである。

正義感覚は本能と理性の間にある。感覚秩序は、感覚経験を通じて獲得する具体的かつ

実践的知識を重視するところにその特徴がある。それは身体的反応・利己的要求という本

能的な方向性を抑制して正義原理の達成に役立つのであり、それを背景的正義として社会

制度編成を支える。人間は感じるべき正義感覚があったから秩序だった社会の構成員にな

ったのである。人間行為学における法学的知識と法思考との存続時空の限界点を捉えるこ

とにより、法秩序に関わる知識・認識・体制等に依存した認識原理や意味解明の構造をよ

り深部から捉え直し、正義の存在構造の普遍妥当性・安定性・不変性といわれるものの内

実をより確実に把握することを可能にする考え方は、知識と認識の秩序を併せた、人々の

正義感覚を秩序づける共通の秩序構想を展開するにあたって新たな視点を提起するもので

ある。それは明文化することが難しいため、理性的学習・認知だけではなく、理性的限界

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を超え、体感の反復を通じてしか獲得できない認識論的な実践である。この現象は、マイ

ケル・ポランニーの人間の知識の考察に関する指摘によれば、「我々は語ることができるよ

り多くのことを知ることができるという事実である」。このような事実は十分に明白である

と思われるが、この事実が何を意味しているかを答えようとすれば、これは「我々の知識

は暗黙的なものにどどまる」のであり、「知識が暗黙的の思考の論理の枠内で組み替えられ

て獲得される」ことである609。

「暗黙知 tacit knowing, tacit knowledge」という概念の哲学的意義は、「言葉」とその言

葉が担う「意味」との固定的関係を絶対視せずに疑ってかかる、ということである610。ポラ

ンニーの著作の初訳本には原著にない「言語から非言語へ」という副題が付されていた。

これは、「暗黙知は言葉と意味との明示的な関係を越える隠れた知の存在を提起する」とい

うことを意味するのかもしれない。言葉と意味の関係は静的なものである。生きる事がつ

ねに新しい可能性に満ちているように、言葉は常に新しい意味のポテンシャルに満ちてい

るのである。個人は暗示されるポテンシャルを信じて、言い換えるならそれに賭けて、よ

り高次の、新しい意味を発見しようと努力する611。この意味において、正義感覚も常に新

しい可能性を追求することを目標として、社会不正に関するより低次のレベルの反応をし

っかりと感知し直し、より高次のレベルに向かう「志向性」や「社会的要請」を形成して

ゆく。また、感情の模倣は社会的秩序形成の過程において重要視される。つまり、不特定

の他者の感情を観察・共感することから得られた情動的反応によって、自分もその感情と

その意義によって感化される。要するに、意味が生ずるのは、私たち自身の身体内部で手

609 マイケル・ポラニー(伊東俊太郎訳)『暗黙知の次元——言語から非言語へ』(紀伊国屋書

店, 1980)15 頁以下参照。 610 ここで、私がポランニーの「暗黙知」の概念を引き出したが、「彼の思想に関する誤解を避

けるために、差し当たり次の点を確認しておかなければならない」。すなわち、ポランニーが

近代思想の合理主義や物質主義や客観主義を批判するからといって、彼が理性や科学を排除し、

非合理主義や情緒主義や主観主義を擁護しようとしたわけではないということである。彼が批

判し否定するのは、文化的伝統の支柱あるいは皮膜を拒否した、いわば「剥き出しの合理主義

や科学主義」である。ポランニー知識論の基本的特徴を要約すれば、彼がしているのは知識対

象への知識主体の個人的・人格的・積極的関与(コミットメント)を知識獲得における不可欠

な要素とする「人格主義 peronalism」や「積極主義 activism」、あらゆる知識における「暗

黙の要素 tacit component」や「分節化されない知性 inarticulate intelligence」の根本的意義

の主張である。佐藤光『マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学』(講談社, 2010)225-6頁。

611 マイケル・ポラニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』(筑摩書房, 2003)179-81 頁参照。

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がかりを統合することによるか、もしくは、外部で手掛かりを統合することによるか、そ

のいずれかによるである。そして、我々が他人を理解する際には、ちょうど身体において

感情や感覚等のような分節化することができない知覚・暗黙知を取り扱うのと同じように、

他者の反応に対して何らかの解釈を加えて取り扱う。このことは他者の反応を内面化する

ことであるとも言えようし、私たち自身を他者の中に注入することであるとも言えよう612。

勿論、表面的な観察からは相手の内部で働いている感情自体を知ることはできないが、 人

間が情緒を感じていると表象すれば、表象を反復しながら体験することによって他者の内

部にある感情とその意味を自分の内部で再構成してゆくことはできる。更に、相手の感情

と自分の感情が同じであるかどうかを確認することはできないが、表面的に観察される結

果が同じであれば、自分と社会にとってその不可知性は問題ではない。

我々が日常的意識的なものとして受け取っている感覚世界の豊穣性や定常性は認識者の

理解能力と関与度によって相互に規定され、言葉で抽象化・単純化した意味理解の記述で

あるということになる。人間の感受性——我々の知的、道徳的、芸術的、宗教的な諸観念

——の世界は全て、我々の文化的遺産の枠組の内に潜在的に存在しながら喚起・生成され

るものであるから、我々は人間の精神性格へも入っていくことができる613。これは、具体的

な正義感覚の体験を超えて抽象化された言葉や概念に置き換える実践活動において普遍性

や共通する力を獲得する正義システムの基盤となるものである。それゆえに、人間は積極

的な関与を通じて知性・知力では多すぎて消化しきれない具体的な正義原理の複雑性と取

組み、開かれた正義システムの集合を理解・展開することが可能になる614。「私たち人間は

同じ種類の感覚印象だけでなく、ちがう種類の感覚印象の間でも比較し、それらを見分け

ることができる。たとえば視覚にかかわる白と黒だけでなく、視覚にかかわる白さと味覚

にかかわる甘さとを感じ分けることができる……この場合感じ分けることが意志的な判断

以前の段階で行われる以上、それはやはり感覚によらなければならない。しかも、視覚だ

とか味覚だとかいうような個別的感覚ではなく、ちがう種類の感覚に共通して働く感覚能

力でなければならない。諸感覚を十全に発揮させ統一的に働くこの根源的な感覚能力が『共

612 マイケル・ポラニー(佐藤安仁ほか訳)『知と存在——言語的世界を超えて——』(晃洋書

房, 1985)234 頁参照。 613 中山潔『マイケル・ポラーニ:人間について』(ハーベスト社, 1986)37,60 頁参照。 614 同上書 63,76 頁参照。

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通感覚』、つまりコモン・センスなのである」615。感覚秩序は、共通感覚と相互に共有され

た暗然の議論的基盤をもち、社会的な常識(コモン・センス)の基礎となるものである。

しかもそれはまた、「五感の 1 つ 1 つとはちがった次元の全体的直観」として、「より全体

的に、より秩序立ててとらえていく働き」なのである616。

抽象的な感覚秩序は秩序の方向性を規定する。秩序の方向性は多様であるが、感覚秩序

によって支えられた方向性は最も強い。感覚秩序の方向性は正義感覚の中に存在し、その

正義感覚の示す方向によって正義原理が規定される。正義原理はより強い方向性として、

感覚秩序の方向性自らを正義感覚によって方向づけることで、他の原理と区別する個別存

在を実現することができる。正義感覚の方向性が正義原理の在り方を規定することによっ

て、感覚秩序の方向性と正義の方向性は一致する。普遍的な正義運動の方向性は方向づけ

られることによって、特殊化する個別存在の運動を構成し、感覚秩序の方向性が連なれば

それは循環することもある。感覚秩序を構成する相互規定的な循環構造による正義感覚の

再帰が正義概念の方向性を規定し、各個別的正義構想の仕切りを越えて成立する生活世界

と個人との関係において、「万民の社会」を舞台として正義の議論を展開する。

この点で、フリードリヒ・ハイエクは「共通感覚」論において、「何かを『円い』と知覚

することは本質的に、われわれが円運動と呼ぶものを異なる規模・次元・方向で導くよう

な筋肉運動の連鎖となることだけを共有する一群の四肢や身体全体の動作、へと向かう 1

つの傾向性の喚起からなるのである617」との言明をしている。この一見わかりにくい言明

について中村雄二郎は、「一人の人間の裡での諸感覚の統合による総合的で全体的な感得力

=共通感覚は、あたかも、1 つの社会のなかで人々が共通にもつ、まっとうな判断力=常識

と照応し、後者の基礎として前者が想定される」と述べるが618、これが含意するものは、

正義原理は現象として存在しているだけではなく、感覚秩序の一部であるということであ

る。現象とは異なるような正義感覚を導出することは、関与の正義の正当性を保証する上

で重要な作業である。つまり、感覚秩序は、正義感覚に基づいて導出された正義原理に関

615 中村雄二郎『哲学の現在』(岩波書店, 1977)53 頁 。 616 同上書 54 頁。 617 F.A.Hayek, 1978. The Primacy of the Abstract, in New Studies in Philosophy, Politics,

Economics and the History of Ideas. Routledge & Kegan Paul, p. 46. 中村雄二郎『哲学の現

在』(岩波書店, 1977)163 頁。 618 中村雄二郎『共通感覚論(岩波現代選書 27)』(岩波書店, 1979)10 頁。

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わる運動図式なものであり、関与の正義という方法論、ひいては社会科学全体に対して重

要な論点を提供するものである。

第2款 強い人間像の背面

人間として想定されるイメージの典型例は、「理性的・意思的で強く賢い人間」である619。

しかし、この強い人間像においては 20 世紀の後半、2 つの世界大戦に伴う大きな体制的変

容と社会構造の変化により自由民主主義的風潮の民主主義的風潮が高まるうちに、特に、

平等という視座から、「差別」と「格差」という問題が顕在化してきた。貧困の拡大や格差

の固定化という実態から「格差社会」とも形容されるような現代において、機会の不平等

に伴う結果の不平等が相関的に生じてしまっているにも関わらず、単に保護されるべき客

体となってしまっている個人に対して様々な意味での強い人間像を法思考の前提とする事

によって、弱い人間像に基づいた「弱い個人」への状況に応じた適切な支援や配慮が認め

られていないということには大きな問題がある。そして、社会保障制度は、リベラリズム

の立場から「自律した個人の主体的な生の追求による人格的利益の実現のための条件整備」

を提供することと目的とし620、「積極的能動的な法主体」」ないし「自立的主体的な個人像

(人間像)」を強化している621。そのような人間理解の上で、法理念は平等を副次的な要素

として法秩序の基盤を自由の概念に求め、個人主義の思想を背景とする合理主義的認識論

にあって、社会制度編成における基本的な指導理念として位置づけられている622。

前節で述べたように、ロールズが求める人間像は、倫理・宗教・道徳という包括的な教

義から理解するものではなく、政治的構想にのみ関わる部分を基軸として規範的意義を解

明してきたものに過ぎない。『正義論』において様々な正義感覚を統合して普遍的妥当性を

もった正義原理を導出し正当化しようとするカント的な解釈が為されたのに対して、『政治

的リベラリズム』においてはむしろ歴史的文脈を重視し、自らの特殊性・相対性を自覚し

619 星野英一『民法のすすめ』(岩波新書, 1998)163 頁。 620 河野正輝「社会保障法の目的理念と法体系」日本社会保障法学会編『講座社会保障法第 1 巻』

139-40 頁(2001)。 621 菊池馨実「社会保障法理論の系譜と展開可能性」民商法雑誌第 127 巻 4=5 号 595, 598 頁参

照(2003)。 622 しかし、マーサ・ヌスバウムの指摘によれば、「リベラルな社会とは、それぞれの個人を等

しく尊重し、共通の人間性に内在している脆弱性を承認することに基づいた社会を意味する。」

Nussbaum, MC. 2004. Hiding from Humanity: Disgust, Shame, and the Law. Princeton U.P., p.18.(河野哲也訳)『感情と法』(慶応義塾大学出版会, 2010)21 頁。

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つつも様々な異なった見解によって支持され得る政治の基盤を解釈学的に紡いでいこうと

する試みがなされた623。それゆえロールズの人格の概念は、正義の構想の中に取り込まれ

ることによって、政治的な実践活動の原動力となる。ロールズにとっての人間像は形而上

学的哲学とか経験的心理学から借用したものではなく、規範的で且つ政治的価値あるもの

である。人格の構想は、民主的社会の公共的政治文化、その基本的な政治的文書(憲法や

人権宣言)、ならびにこれらの文書の解釈の歴史的伝統において見られている市民像から作

り上げられる624。

ロールズが想定した人間像は、市民観念の中で具体的に表現され、制度編成と人間との

関係で市民社会をどのように位置づけるのかということと深く関係している。これには以

下の 3 つの側面がある。1 つは、公正な社会的協働システムにおいて「協同する人々がその

行動を規律するのに適切であるとして受け入れる、公共的に承認されたルールと手続き(JF,

p.6/11 頁)」から規定され、公共的に再認された市民的公共性を生成させるということであ

る。2 つは、他者が全て受け入れている条項は同じように受け入れ、かつそこからの利益を

他者と同じように得るという互恵性の原理も強調されなくてはならない(TJ, 第 75 節参

照)ということである。3 つは、各人は公的な社会制度編成を、専ら自分の私的な達成目標

への手段として評価しているに過ぎないという合理的選択の原理で特徴づけられる(TJ, 第

79 節参照)ということである。

ロールズは人格の構想を哲学的な論理的思考から切り離して、純粋に市民=政治的なも

のとして構成し、その人格理解を社会制度編成との構造的相互作用という背景から捉え、

政治的構想において討議に能動的に参加する市民が必要とされると想定する。このような

背景から、ロールズは正義感覚を通して関与の正義に基づき他者との社会関係の中で作り

出されていくような個人を想定した。そこでは個人を決して、完全自立的な、或いは完全

自律的に行動できる存在としてではなく625、正義感覚を有しながらもそれは誤りやすいも

623 田中将人「ジョン・ロールズの社会観⑵」早稲田政治公法研究第 94 号 27 頁参照(2010)。 624 JF, p. 19/33 頁参照。なお、このような立場は、ローティに近い。「哲学が望みうる最大のこ

とは、何が正しいかを判断するために、文化的に影響を受けた我々の直観を要約することだけ

です」R.ローティ「人権、理性、感情」ジョン・ロールズほか著、スティーヴン・シュート、

スーザン・ハーリー編(中島吉弘・松田まゆみ訳)『人権について』(みすず書房, 1998)144頁。

625 ラズの人間像は「個人の自律という理想の背後にあってそれを支配している観念は、人々は

自分自身の生を形作るべきだと言うものである。自律的な人物は自分自身の生の創造者である。

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のであるという不完全な存在であるとする。そして、正義感覚は、社会に関する認識や理

解とそれに応じた政治的社会化の過程の中でしか補完されることができないものであると

考える。しかし、それは事前に決定されたものではなく、不確実性(Uncertainty)を伴う

環境において、間主体的作用を通じて形成されていくものである。つまり、自らの正義感

覚による感覚秩序は文化や環境によって予め決められているわけではない。例えば、自ら

の有するのと異なる正義感覚は、よりよい正義原理を考え直すために社会に発信された試

みとしての側面を有するのである。この試みは、常に我々が与えられた生活環境の中でよ

りよい正義原理とは何かということを再構成することで、その課題に取り組もうとする努

力である。人生もまた同様である。正義感覚は環境によって予め決まっているわけではな

く、その環境に対し、自らのやり方で挑戦していくことである。

それゆえに、人格の構想を、生活世界を展開する主体である自我といった視座から批判

するのは的外れであるとしても、人間に関するイメージはどのような社会構造との相互作

用によって作り出されているのか、また社会的不正の環境に対して挑戦していくのに必要

とされる能力がどのような環境においていかにして遂行されるのかを容易に解答に至るこ

とができないだろう。そう考えると、現在の環境は正義感覚の制約条件として考えられる

だけではなく、正義感覚の構成要件要素として適切に見ることも可能になり、正しい仕方

で認識することが関与の正義の条件をなすと考えられている。例えば、ドゥオーキンは彼

の主張する人格的な生の「挑戦モデル」を擁護するために、直観的な魅力と、正義と善き

生との関連関係から解釈する。この挑戦モデルにおいてはドゥオーキン自らがアメリカ人

であることを構成要素として挙げている一方で、現在のアメリカの問題状況にふさわしい

政治・法理論を組み立てるに際して、彼がアメリカに住んでいることは彼の善き生にとっ

て制限ではなく、むしろ構成要素であるといえよう626。

ドゥオーキンによれば、このような善き生を掲げる理想を遂行するために、「強制的な批

判的パターナリズム Coercive critical paternalism」と「外科的パターナリズム Surgical

paternalism」、「代替的パターナリズム Substitute paternalism」と「文化的パターナリズ

個人の自律という理想は、ある程度まで自分自身の運命をコントロールし、生涯を通じての引

き続く決断によってそれを形成していく人間像である。」J.ラズ(森際康友訳)『自由と権利』

(頸草書房, 1996)247 頁。 626 R. Dworkin, 2000. Sovereign Virtue. The Theory and Practice of Equality, Harvard U.P.,

pp. 240, 257-8.(小林公ほか訳)『平等とは何か』(木鐸社, 2002)330, 351 頁参照。

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ム Cultural paternalism」を排除しなければならない627。「挑戦モデルは、生の批判的価値

がその生を送っている人によって改善として見られない限りは、生の批判的価値は何もの

によっても改善されえないと主張し、このことにより外科的パターナリズムは成り立たな

い。挑戦モデルは、代替的な生が倫理的純一性を欠く場合には、代替的パターナリズムも

成り立たない。最後に、挑戦モデルは文化的パターナリズムを減殺する。なぜなら、この

形態のパターナリズムは独立した超越的な倫理的価値像を前提にしているが、挑戦モデル

はそのような像をいずれも排除しているからである628」。そこでようやく我々は、人間にと

ってどのような挑戦モデルを受容する人生が善き生であるかという問題について真剣に考

え始めるようになる。これは、当事者である本人が 善き生の構想を自ら発展させそれに従

って自己の生を形成できるかどうかに決定的に依存しており、 他者のパターナリスティッ

クな介入(Intervention)が禁じられることに求めることができる。そして、どのような挑

戦も法によって強制的に禁止されるべきではなく、寛容が要求される629。

しかし、我々が常に社会制度編成においてせめぎ合う、強者と弱者・勝者と敗者・健常

者と障害者という現実的な関係の網の目によって規定されているということは経験的・感

覚的には自明である。それ故、たとえ極めて強い個人的な倫理的確信を持っている人であ

っても、或いは非常に寛容な条件下に生活したとしても、彼(女)らは不安に直面すると

きに、本心を打ち明けたくても本音を言わず、建前しか言えなくなってしまう。具体的に

説明するならば、弱者と言われる人々、とりわけ高齢者や知的・精神障害をもった人々の

ように、苦しみ悩んでケアやサポートや援助などを必要としている人が反対・非難された

り、嫌悪・排斥されたりしている状態は、我々の周りに多数存在している。しかし、我々

は常に「自分が強い」、「自分は大丈夫」と言い続け印象づけることで、この日常的な弱い

存在としての側面を隠そうとしているのである630。このような心的志向を回復するために、

627 Ibid., pp.267-74.(小林公ほか訳)同上書 362-72 頁。 628 Ibid., p.274.(小林公ほか訳)同上書 371-2 頁参照。 629 Ibid., pp.281-4.(小林公ほか訳)同上書 380-3 頁参照。 630 岩田靖夫の指摘するように、人間は生きるために、アレテーを身につけ、能力を開発し、自

己実現を希求するだろう。それは競争原理を社会に導入するとともに、社会の不平等な構造を

もたらす危険性も高くなる。どれほど教育を普及し、社会の流動性を確保し、政治的・社会的

平等を実現しても生が存在欲求であるかぎり、諸種の現実的差異の存在による社会的不平等を

脱却することは困難である。それゆえ、リベラリズムやデモクラシーによって社会的制度が備

えられたとしてもそれが強い人間像と結びつかざるを得ない以上、それだけでは、人間に真の

幸福を保証しえないのである。それを避けるために、究極の一歩として、自分自身が弱者とな

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潜在的可能性という関与の主張が必要である。なぜなら、相手に誤解・非難されたり、社

会から責められて不当な要望をされたりすることによって引き出される心身の不快体感は、

少数者や被害者、障害者や高齢者、部落出身者や貧困者などの特定人に限定されるわけで

はなく、多数者や有能者、健常者や青壮年、富裕層などあらゆる人が社会から排除・否定

される可能性があるからである。そして、我々はこのように望ましくない経験を感知した

り意識したりする場合、基本的に人間感覚の平等性を互いに情動的に認め合い、互いのオ

リジナリティと差異を承認しつつ、平等の理解促進を図るというよりもむしろ包括的全体

共感を関与することができるにようになるのである。

正義原理に関与する潜在的可能性に関する法哲学的議論とは、正義原理と感覚秩序の理

論化において「感覚」が果たしてきた役割を整理しながら正義問題が抱える感覚論的本性

を体系的に明らかにし、 正義原理の深層構造の理解に努め、正義理論とその学説史におけ

る「関与の正義=主体的正義論」の潜在的可能性を再発見しようとする法実践の根底を成

すものである。従来正義理論は、とりわけ配分的正義における方法論的合理主義であるゲ

ーム理論や、理性主義的人間学である社会的価値理論とのダイナミズム、その歴史的過程

の多様性、法実証主義などによって解明してきた。それに対して、正義理論の認識の方法

をめぐる共感的議論は、「制定法による秩序」と「原理による秩序」の対比を経由して、練

りあげられた「感覚」と「感受力」という概念を援用し、「感覚による秩序」の意義を考察

しようと試みたものである。それは、全ての法的活動の基盤となるこの「法的に感受する

力」を育成する為に、法のイメージの形成に関する感覚や知覚による感性的側面と法的諸

要素を感受するための知的構造の側面を同時に育てていくことを重要視し、正義感覚の実

践化を促す 1 つの試みである。また、これは相互理解・受容・共感をしながら情動的な表

現を工夫する活動を重ねることにより、法への感受力や思考力をより柔軟なものに、正義

からの表現形式をより豊かなものに変化させようとする試みである。この意味で、法の規

範および法的規範性に関する理解を更に深化・拡大させ、自由の擁護及び促進、相互理解

の促進並びに相互協力の拡大を含めた共通の基盤と理念を醸成する潜在可能性をも引き出

り、裸となり、幼児になり、武装を放棄したものとなって、裸の他者、幼児としての他者、カ

テゴリーのない他者に出会える者となれば、そこに、おそらくは真の幸福がある。岩田靖夫「デ

モクラシーと幸福」(宮本久雄・山脇直司編)『公共哲学の古典と将来』(東京大学出版会, 2005)30-3 頁。

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し、共生な価値・規範並びに豊かな生活世界を将来の世代に伝承する潜在可能性をも増大

させるのである。

確かに、近代以来の「法の支配」は、統治者も被治者も均しく法のもとにあるべきであ

り、強者や富者もそうでない者と同じルールに従うべきであるとする。しかし、法の形成

と実現における弱者たちは組織・制度・権威に抵抗しきれず、強者が決めるいかなる制度

編成にも全面的に服従せざるをえないという現実がしばしば見られる631。こうした人間関係

と人間像は、近代社会における「身分から契約へ」の転換や、人権宣言における「幸福の

追求」の観念の出現、個人と集団との関係の変化に伴う具体的人間像の多様化 ・複合化の

進展による新たな人間関係や表現形態等が次々と出現によって変化が望まれ、それらに応

じた法的権利関係における新たな、期待可能な人間像が必要とされるのである。それゆえ、

法ないし法的関心がますます「具体的人間」に、すなわち「苦しみや挫折感をもつ」「弱き」

人間に向けられてきている632。我々は、組織と集団への没入・制度とルールへの服従・権力

と権威への忠誠と依存によって束縛され矮小化された人間存在ではなく、組織・制度・権

力自体に打ち込み、自己充実と自己実現をはかる自立的・自律的・能動的な人間である。

このような関与の正義の潜在可能性に基づいて、期待可能な人間像を提案したい。本来は、

一人一人が、個性的な自分自身の理想的人間像そのものをあくまで自らの手で育てて形成

しなければならないので633これらの試みは、ただその理論的な手助けの 1 つにすぎない。自

らの力と考え方で自分の望む姿に変わっていくという意味での「人間像形成」は、正義感

覚を「変容モデル」とする実践的性格による「実践的形成」と、「理論的形成」によって形

成される。そこで、これまでは「実践的形成」について説明してきたので、「理論的形成」

については次款から説明する。これは、期待可能な人間像の理念に基づくものである。

第3款 期待可能な人間像の提案

各個人の個性的・期待可能な人間像の実践的形成を手助ケースるための理論的な理念形

成の提案に際しては、各個人間の多種多様な個性差にも関わらず、全ての人間には人間と

しての基本的な共通性のあることも明白であるから、我々の期待可能な人間像の理念の形

631 田中英夫「法の形成と実現における私人の役割」『岩波講座 基本法学1−人』(岩波書店,

1983)251-80 頁参照。 632 佐藤幸治「法における新しい人間」『岩波講座 基本法学1−人』(岩波書店, 1983)313 頁。 633 大江精三『理想的人間像』(南窓社, 昭和 41)102 頁。

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成においても、当然そうした人間性共通の基本的構成要素に着目しなければならない634。

この期待可能な人間像は、市民的正義感覚を通じて、正義にコミットメントする基盤を強

化し、積極的な主体的関与と正義の受容し、関与拒否の行動様式をしないという期待に反

することによって非難される場合にはその社会的責任を負うべきだとするものとして考え

られる。

ところで、特殊な外部的事情が存在している為に反対動機が存在してもその関与行為を

拒否せざるをえないような心理的圧迫が外部から加えられる場合には、反対動機による関

与拒否の抑止が期待できないことから、関与拒否に対する責任非難ができない。こうした

特殊な外部的事情こそが期待可能性を失わせる事情である。反面、そのような特殊な事情

が存在しないことが道徳的責任要素となっている。期待可能の考えは、本来、行為者の人

間性の弱さに対して関与的配慮を与えようと意向に出たものであり、社会生活上例外的な

事態のもとにおける関与拒否の行為についてこれを道徳的責任から解放する理論であるた

め、基本的には超規範的な性格を有している。この期待可能性の有無・程度は、当該の具

体的行為事情の下における当該行為者自身の立場に求められ、行為者の正義感覚能力に照

らして関与を期待しうるかを標準とすべきである。そして、期待可能性は、どの程度まで

関与を期待するかという期待する側と期待される側の「緊張関係」において判断されるべ

き、規範的な問題であると言い得るのである。たとえば、自己愛性パーソナリティ障害

(Narcissistic Personality Disorder)や自閉症(Autism)やアスペルガー症候群(Asperger

syndrome)などにより、客観的な発達の疎外があった場合には、関与を期待することがで

きないこともある。

より現実的、最終的に期待可能な人間像を模索するために、私は、志向としての平等の

同一性と異質性の統合を通じて、想像力・感受力・理解力・包容力を備える豊かな人間性

を育成することに主眼を置く。生命の尊厳や人間尊重、健全な価値観や適正な倫理観など

の基盤となる正義感覚を養い、それを基盤とした自由民主主義的社会における法規範やル

ールの意義やそれらを遵守する社会的行為を解明しつつ理解し、総合的に理解し、主体的

634 同上書 105 頁。人間性共通の基本的構成要素について、本論文で既に展開した分析の指摘す

るように、市民社会の構成員としての人間性共通の基本構成要素とは、政治性(社会の安定・

発展のための支配・統治ルールを制定・修正する能力)、経済性(資源を利用して生産・配分・

消費する能力)、社会性(他人との相互関与によって人間関係を形成する能力)、そして文化

性(世界観や人生観や価値観などを思考・形成する能力)等を指す。

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に判断し、適切的に行動し、責任をもつことができるような実践的な人間態度の基礎を育

てることこそが重要である。この考えの根底にある人間性の意味は、ヒューマニズムにお

ける人間存在を指す635。

法哲学の視点から、主体関与的な人間理解を具現化する為の基本的条件は以下のような

ものであると考えられる。⑴身体的基盤。これは正義感覚を表現するために、心身状態や

臓器機能の健康を維持することである。⑵認知的基盤。これは、身体感覚および社会的体

験に基づいた知的創造を通じて人間行為や規範内容を評価・判断し、それに応じた成果を

体系化、組織化、再構成をすることである。⑶道徳的基盤。これは、行為または制度を一

定の価値基準に従って道徳的に判断し、肯定や否定、支持や抑制などといった評価に関す

る道徳的ないし倫理的な根拠を提示するものである。この 3 つの条件によって主体的関与

が可能となり、それによって正義に関する法思考を調整することができる。更に、自己理解

と他者理解は、それぞれこの 3 つの側面から細かく見つめ直すことで、具体的評価項目の効

果的な反省を促すことができる。そして、具体的な目標の設定と関与可能の強化を次につな

げ生かすことで、政治・経済・文化など人間社会全般の一貫性や統合化を図ることができ、総

合的な正義システムとしての展望が見えてくるのではないかと考える。前述したように、正

義感覚は普遍的で細分化された前会話・会話・脱会話という三水準およびそれらを構成す

る各段階に照らして636、「体・知・徳」からの関与を重視する人間像を提案する。そこにお

いては以下のような基本的要素が考えられる。

前会話的段階 会話的段階 後会話的段階

自己理解 ⑴自立⑵勇気⑶責任

⑷学習 ⑸自己評価⑹自尊 ⑺反省⑻運命愛

他者理解 ⑼忍耐 ⑽他者尊重⑾正確な評価 ⑿寛容⒀ケア⒁連携

635 木下一雄『期待される人間像——その注解と考えた過程——』(日本図書センター, 2004)9頁。

636 この内容については本論文の第 6 章第1節第3款参照。

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⑴自立とは、自由かつ平等な人間像の想定の下、他への従属・支配から離れて独り立ち

することである。それは、自然の肉体的欲望を超え、自らの正義感覚で立てた普遍的正義

原理に従い、自分の判断のもとに目標を達成して生きることである。

⑵勇気とは、正義の為に、感情の抽出と移入という情動的な表現を恐れずに自分の正義

感覚を貫き向かっていくという心的志向を積極的に追求するとともに、相手を鼓舞し、正

義感に強固な信念を与えるということである。

⑶責任とは、本人が自由に選択して作り出した状態に対して因果的説明と必要な応答を

行い、法的または道徳的に負うべきものである。

⑷学習とは、適当な正義感覚を育成するために身の回りの生活体験や学習活動などから

必要な知識や技術を身につける必要がある。これは法的思考や道徳的判断という法実践の

前提条件である。

⑸自己評価⑹自尊とは、自尊心的な意味という文脈において、自己を肯定するとともに

自己を建設的に批判する態度である。

⑺反省とは、正義感覚を通して正義の諸原理を導出する過程において、正当性の判断と

その判断の根拠となる認識との間を往来し、反照的均衡のように正義感覚に照らして是正

すべき点を意識しそれを是正しよう比較検討しようとする態度である。

⑻人間・運命愛とは、自分にとって都合のいい部分だけではなく、自らの人生の長所と

短所という全ての状況を受け入れ、自分のことを適切な態度をもって全て認めてから新た

な人生の視点を持つことであり、それによって、更に自分から他人、そして人間の幸せを

考えることになる。

⑼忍耐とは、相手に誤解・非難されたり、社会から責められて不当な要望をされたりす

ることによる苦しさ、辛さ、悲しさなど様々な困難な状況を乗り切り、試練に耐える寛容

さに満ちた肯定的な態度のことである。

⑽他者尊重⑾正確な評価とは、自分と他人の問題や不足を冷静に認識し、建設的な批評

を受け入れ、他人の問題関心や理解視点、自分と相手との差異や境界線を尊重することで

ある。

⑿寛容⒀ケア⒁連携とは、相手の状況を合わせて適当な理解と支援を与え、交流を密接

に取り合う主体として協力して物事を成し遂げることによって、市民の信頼関係を構築し、

友愛・善意を定着させる。

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さて、最も広い意味で、法に関する教育は関与の正義への途の 1 つと考えられる。具体

的には、小・中・高等学校における公民教育、大学法学部における法学教育、法科大学院・

司法研修所における法曹教育という 3 つのレベルから大まかに分けることができる。今法

学界において後二者についての議論が行われており637、引き続き検討を進める課題であると

認識された。例えば、転換期にある社会・文化などの体制変化に伴う司法教育の役割、司

法改革を背景とする法曹養成制度、法科大学院、司法試験と法学教育の関係、専門職養成

のための臨床法学教育などに向けては膨大な課題が存在し、徐々に研究されつつある一方、

法に関する教育において想定された人間像については昔から今に至るまでずっと、方法論

的合理主義の下で強さを求める教育が主流となっている。このような背景を下にした市民

的資質の訓練は公民教育として登場し、積極的にとりあげられ実施されている。特に、今

日の小・中・高等学校教育は、「子どもたちに確かな学力や豊かな人間性、健康・体力など

の「生きる力」をはぐくむことを目指している。今後予想される変化の激しい社会をたく

ましく生き抜くためには、生きて働く学力と強人な心身が必要である。したがって、学校

教育においては、自ずと子どもに<“強さ”を求める教育>が主流となり、“強さ”は大いに褒

められるが、“弱さ”はほとんど認められない。それどころか、どんな時にも弱音ははかず、

強く前に進むことが期待され、過剰なまでに“弱さ”を拒否し“強さ”を志向することが、人生

にとってもっとも大切だというような雰囲気になってきているような気がする」638。法学

教育や法曹教育においても「権利のための闘争」といった強い人間像をもとにして、法=

正義の概念を「正しい道を見出すために絶えず模索し、追求しつづけねばならず、正しい

道を発見してからは邪魔になる抵抗物を打破してゆかねばならない」としている639。

しかし、このような状況の中では、人間の生き方を考える道徳的可能性はうまくいくは

ずはない。我々は、意志や理性の強さを求める人間像の想定の下、他人からどのような目

637 公民教育というレベルで期待される人間像について、昭和 40 年 1 月 11 日、日本中央教育審

議会第 19 特別委員会が国民の意見を求めた。これに対して広範な手段を通じて多数の意見を

表明され、社会各界から数多くの意見も寄せられた。これらの意見に関する整理資料は「主要

論文等意見」と「事項別意見」との二種類を作成する。貝塚茂樹監修『期待される人間像(中

間草案)に関する主要論文等意見』(日本図書センター, 2004)、貝塚茂樹監修『期待される

人間像(中間草案)についての事項別意見』(日本図書センター, 2004)参照。 638 笠井稔雄「人間の“弱さ”への共感を重視した道徳の授業」北海道教育大学紀要(教育科学編)

第 62 巻第 2 号 212-3 頁(2012)。 639 イェーリング(村上淳一訳)『権利のための闘争』(岩波書店, 1982)38 頁参照。

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にあわされるのか全く分からない中で、弱いからいけないという考え方に陥りがちである。

差別されたくないと考える我々は心を閉ざし、自分の弱さや脆さを強がりという仮面で必

死に押し隠す一方、内面の弱さに向き合ってそれを受け入れる強さを育てる契機も、強さ

しか認めない社会通念によって全社会的に潰されてしまった。周囲の空気を読みながら、

互いに本心を隠したままの表面的な付き合いを重視する形式主義的な作法が普遍化すれば、

人間が「ほんもの authenticity」を失い、内面から発せられる己の内なる声に耳を傾ける能

力を失ってしまうかもしれない640。それに対して、人間の弱さと理性の有限を率直に認め

るのは本当の人間、完全な人間になるために達成すべきものである。我々は人間のほんも

のへの共感を重視する道徳教育において期待可能な人間になる可能性と方向性を積極的に

問い直し、関与能力の発達を制度的に構成するための「契機」を探している641。この契機を

道徳教育の観点から見ようとすれば専門的な研究、論述と著作の山を想起するかもしれな

640 社会における他者からの評価や肯定は自己存立にとって重要であるが、その評価と肯定に依

存するわけではないとルソーは考える。もし人間が他者からの評価ばかりを求めて同調し、他

者の視線に基づいて自己の存在を規定すると我々は既に他者依存的になり、そうした高まる依

存要求によって他者を「評価の奴隷」として位置づけられると同時に、自分が自立性や人格の

自由を喪失し、自己疎外に至る。ルソーの一般意志を承認の視点から見たとき、次のような指

摘がある。「他者と私が異なる目的を持つ存在であるから、他者の評価を得ようとすることが、

自己疎外となるのであって、もしすべての人が同じ目的を共有し「一般意志」に従う平等な存

在であれば、他者の評価に従うことは、何ら疎外を生み出さない。それどころか、他者への依

存は、すなわち「自分自身に従っている」ことになり、自立や自由と両立することになる」麻

野雅子「アイデンティティの社会的承認という問題」三重大学法経論叢 22巻 1号 12頁(2004)。市民の尊厳や承認の本質を見抜き、階層制度により構築された近代社会から自由で平等な個人

による民主主義的社会へと移行するという意味で、テイラーはルソーを評価するとともに、ル

ソーにおける決定的な欠陥を指摘する。それは、ルソーにおいては、具体的な人間は、内部的

には等質的で相互には異質的な存在者として捉えられるという点を認めず、いかなる差異化と

も両立しない同質的社会秩序を指向するということである。Taylor, Charles. 2003. The Ethics of Authenticity. Harvard U.P., pp. 26, 48-9.(田中智彦訳)『<ほんもの>という倫理』

(産業図書 , 2004)36, 41, 67 頁参照。Charles Taylor, and Amy Gutmann. 1994. Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition. Princeton U.P., pp.48-51.(佐々木

毅ほか訳)『マルチカルリュラリズム』(岩波書店, 1996)67-70 頁。 641 共感の点について、テイラーの「ほんもの」の理論も次のように理解される。つまり、「テ

イラーの議論は、人びとの多様なアイデンティティが社会的に承認され、差異や多様性が花開

いていくためには、ある種の一体感や忠誠心、差異への共感、差異を自分たちの社会を構成す

る 1 つの価値として認める態度などが必要であることを教えてくれる。差異の承認には、差

異への共感が不可欠なのである。」麻野雅子「アイデンティティの社会的承認という問題」三

重大学法経論叢 22 巻 1 号 17 頁(2004)。

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いが、ここでは、関与の正義への途を描き出す一つのやり方として法哲学の見地に立ち、

人間の正義感覚は、何が正しく何が間違っているかを直観的に理解する能力を如何に育て

られるかという観点から出発しようと思う。

複雑な物事の道理をより深く理解して論理的に説明し、全体の是非を振り返って総合的

に判断しようとする場合に必要なものは合理主義に基づく怜悧な計算と理知的な判断だけ

ではなく、個人的内面に密接に結びついた、最も奥深い部分にある信念・感情的反応も必

要とされる。正義感覚の源泉は人間関係の内面に普遍的にある。これは普遍的なものであ

ると同時に、生きがいのある人間が自分らしく生きる為に独自の生き方を試みることなど

を通じて現れる、多様性という特徴も有するのである。つまり、人間は「誰しもひとりひ

とり固有の尺度をもっているのであり、いわば感覚を通じて得られる感性にはすべて、ひ

とりひとり独特の規定がある」のである642。志向すべきものとしての平等において、同一

と異質の 2 つの側面を同時に存在しているということは、その人だけの自己のあり方とし

て、他の誰とも代替不可能な平等性を持ち、そして人間存在が自分自身に忠実であるべし

ということに新たな認識論を与える。もし私が自分に忠実に生きることがなければ私は自

分の人生の何たるかを見失い、私にとって人間らしく生きることとはどういう意味かを理

解できなくなるだけでなく、さらに、他人の存在意義はどのようなものか、人間社会はど

のような意義があり、それは我々の存在にとって有益なのかどうかということさえも理解

できなくなるならば、社会秩序の崩壊は不可避だと考えられる。

このような状況を回避するために、社会制度編成の前提となる健全な人間像が必要とさ

れる。こうして期待される人間像は、前述した諸種の要素によって構成され、理性と情動

の側面を含む自己理解、他者理解、そして現実認識の 3 つの目的につながる。これらの諸

要素は単なる抽象的な「人づくり論」でなく、その中身としての具体的な内容や行動指針

を例示したものである。その根幹は、リベラルな政治文化において自由で平等なシティズ

ンシップの保証、政治的・文化的アイデンティティの形成及び、自分なりのパーソナリテ

ィの促進等を中核とする人間像である。政治哲学に属する人格や市民、人間像の構想が望

みうる最大のことは、「何が正しいかを判断するために、文化的影響を受けた我々の直感を

642 Johann Gottfried Herder, Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit, vii. Ⅲ.,

in Sämtliche Werke, vol.Ⅲ, ed. Bernard Suphan, 15 vols. Weidmann, 1877-1913, p.291.(常

良訳)『人間史論Ⅲ』(白水社, 1948)112 頁

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要約することだけ」である643。ロールズはこの点も認める。これは「哲学的あるいは心理

学的な構想(それらが健全である限り)と両立しなければならない(JF, p.19/33 頁)」。彼

によれば、正義原理のもとで公正な社会的協働を実現することになるであろう市民の構想

は、「民主的社会の公共的政治文化、その基本的な政治的文書(憲法や人権宣言)、ならび

にこれらの文書の解釈の歴史的伝統において、市民というものがどのようにみなされてい

るかということから作り上げられる(JF, p.19/33 頁)」ものであり、人格の構想自体は、「規

範的かつ政治的」でなければならない。ここで、問題となるのは、人格の構想にとって、

哲学的あるいは心理学的条件が重要な意義を持つけれども、この条件が、ロールズの言う

「全生涯にわたって社会的協働に携わる」市民にとって、必要条件なのか、十分条件なの

か、それとも必要十分条件なのかについて、ロールズははっきり答えず曖昧にしている。

哲学的あるいは心理学的条件と規範的かつ政治的条件の人格構想にとっての関係は、必

要条件であれ、十分条件であれ、それとも必要十分条件であれ、いずれにしても、これら

の諸条件が「両立しなければならない」と認められる場合に限り、我々はこれらの諸条件

の整備・充実に努め、過去及び現在の人間像構想の中から健全なるものを生かし、人間疎

外によって奪われた、本来あるべき自己の本質を回復しなければならない。私はそういう

ことを念頭において、上記のような諸要素を、期待される人間像の条件として提起した。

また、ロールズの正義理論では、このような健全な人間である限りにおいてその実践性が

いっそう充実・強化されていくことが予想されている。能動的・実践的政治的主体は自ら

積極的に社会へと働きかけ、期待される人間像は、「平等で自由な市民」から「自立・自律

した市民」を経て「能動的市民」へと変化していく。それでは、そのように期待される人

間像を、法的思考との関わりにおいて考えてゆくと、主体的関与の法解釈にどのような有

益な示唆を与えるのであろうか。この問題はさらに次節において具体的に考察したい。

第4節 主体的関与の法解釈学

カントは心情の内面性に対して道徳的立法の根本的価値を立て、行為の外面性に対して

は法律的立法の根本的価値を付する。すなわち、道徳と法とは、内部性と外部性との標識

643 リチャード・ローティ「人権、理性、感情」ロールズほか(中島吉弘ほか訳)『人権につい

て——オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(みすず書房, 1998)114 頁。

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351

によって区別される644。これは、合理性の視点から社会制度編成の中での諸原理の妥当性

を説明しようとしたものであるが、実際の法的妥当性についての問題性を残している。つ

まり、法規範を形式的体系の視点からみれば、上位規範と下位規範との間に効力的には相

互依存関係があり、法的妥当は最上位の合憲的妥当として法体系の妥当性を意味する。し

かし、最上位の法規範である憲法の法体系の妥当を説明できず、憲法の上に根本規範を仮

設しなければならなかったのである645。

法実証主義者の法と道徳を区別する考え方に対して、ロナルド・ドウォーキンは逆に、

道徳性を法制度内在的価値として位置付けようという「法の純一性」を主張する。この考

え方から取り組まれた制度的正義は、道徳的正義に従属する特殊価値であるとされている。

つまり制度的正義は個々人の人間関係を地盤として、その具体的客観性から自己目的の人

格を目標とする道徳的正義に転向することによって、制度的正義は間接的にのみ価値に導

入されるのである。したがって、個々の人格に対してではなく社会全体のために実現され

る法律規則は、「道徳」の手段としてのみその意味を有すると理解されている646。ここで考

えられた道徳性は人間性であり、言い換えればこの人間性は、道徳的能力を持つ主体とし

ての人格性(Persönlichkeit) あるいは人性 (Menschheit) として表現される。

第1款 R・ドゥオーキンの「第 3 の道」

ロナルド・ドゥオーキンは、自然法論と法実証主義という従来から対立する 2 つの思想

に対し、両者の利点を組み合わせ、対立を超越した、自らの「法原理」という思想を立ち

上げる647。この法原理という思想は、主に彼の「純一性」としての法構想の 3 つの柱、即

644 Immanuel Kant: Kritik der praktischen Vernunft. In: Immanuel Kant: Kritik der

praktischen Vernunft. Kritik der Urtheilskraft. Herausgegeben von Paul Natorp. Georg Reimer, Berlin 1908 (=Kant’s gesammelte Schriften. Herausgegeben von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, 1. Abteilung, 5. Band), SS. 1-163, 219.

645 西野基継「法の妥当根拠」大橋智之輔他編(青林書院, 1990)『法哲学綱要』182 頁。 646 Radbruch, Gustav. 1914. Grundzüge Der Rechtsphilosophie. Leipzig. SS. 41, 87. 647 ドウォーキンが『法の帝国』において「第 3 の道」としての「純一性としての法」という理

念を提案した。「純一性というものを——少なくとも前記 2 つの理論の 1 つについて人々の見

解が対立するときは——第 3 の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の

どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず

けるだろう」。R. Dworkin. 1986. Law’s Empire. Harvard U.P., p.178.(小林公訳)『法の帝

国』(未来社, 1995)283 頁。

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ち「慣例・経験」、「懐疑・賢慮」、「整合・統合」を通じて表現される。ドゥオーキンの「第

3 の道」を示すために、それぞれの法構想について概観する648。

慣例主義によって構成された解釈には 2 つの特徴がある。第 1 に、法的実践は過去の政

治的決定、すなわち法的慣例である明確な社会的慣例を尊重し実行に移すこと、慣例から

帰結することを——そしてこれだけを——法として取り扱うことである。第 2 に、慣例に

よる法は決して完全なものではないということである。それ故、ハード・ケースにおける

裁判官の裁量による判決が、将来の法的権利を変える正当性を見出す必要がある。この解

釈の過程において慣例主義の政治的な価値は、予測可能性と柔軟性、手続き上の公正によ

って保証される649。

プラグマティズムは、法概念の中に含意されていると我々が想定する前提に対して懐疑

的な態度をとる650。前述したように正義感覚は柔軟性を有するが、この懐疑的な法観念に

も強い創造性が含まれている。すなわち、過去の政治的決定がそれ自体で何からの正当根

拠を与えるという想定を拒否することで、過去の盲目的崇拝から解放されるのである。

先例の尊重によって法の予測可能性が担保され、懐疑的な法観念によって法的思考の正

義志向が保証され、過去の判決との不一致性を調和するための柔軟性も重視される。ドゥ

オーキンはこの 2 つの法構想の間に、統合志向としての第 3 の道を見つける。すなわち、

彼は「コンベンショナリズム」と「プラグマティズム法学」の双方の欠点を補うために、「イ

ンテグリティとしての法」を提案するのである。そこでは、裁判官は過去との判決の整合

性よりも政治共同体の将来にとって利益になるものを選択すべきであるとする。純一性と

しての法は政治的実践において内的妥協を達成し651、市民間に一種の平等を生み出す道を

導く652。そしてこの平等は魅力的な政治理念と資源に対する権力の平等を提示するものと

して653、 道徳的正当化を更に促進する。

648 中山竜一『二十世紀の法思想』(岩波書店, 2000)89-96 頁参照。 649 R. Dworkin. 1986. Law’s Empire. Harvard U.P., pp.114-20, 147-50.(小林公訳)『法の帝国』

(未来社, 1995)190-4, 235-40 頁。 650 Ibid.,p.151.(小林公訳)同上書 244 頁。 651 Ibid., pp. 178-84.(小林公訳)同上書 283-92 頁。 652 Ibid., pp. 184-5.(小林公訳)同上書 293 頁。 653 ドゥオーキンの「資源の平等」論は大きく分けて、2 つのテーマに分けることが出来る。1つは私的に「所有されうる資源に関する平等の議論」であり、もう 1 つは公的に「あるいは

共同で所有される資源に対する権力の平等」である。R. Dworkin. 2000. Sovereign Virtue.

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解釈的実践としての法において、ドゥオーキンは裁判官の裁判活動の創造性を認めない

代わりに、裁判過程における原理の選択を重要視する。すなわち、裁判官は具体的な案件

を審判する過程の中でいくつかの原理の中からもっとも適切だと思う原理を採用し、その

原理の理解に対して具体的な解釈を行ない、固定的な解よりも、それぞれの具体的な情況

に応じたよりよい解を導き出す。この相対的によりよい解釈的法原理を導出する選択作業

において、法は最終的に一定の政治道徳的価値基準との関わりで規定される規範的論証実

践であると捉えられ、そこでは裁判官の政治道徳的思考が行われている。同じ価値基準を

持っている諸原理は絶えず競合しているので、法と道徳において、結合と離散を繰り返す

緊張関係のある協働が生じ、具体的案件の法情況が変化したときは、新しい協働と価値指

向の組み替えが起こる。いわゆる法と道徳は「開かれた構造」において相対的に動態的な

均衡をとるのである。この解釈的法理論は、閉鎖的・創造的なものではなく、内部での幾

つかの対立または競合する複数の原理の中から、より良い原理を求めようという法の純一

性に基づく政治道徳である。これによって法と道徳の適切な緊張関係を維持すると共に、

相互転化の可能性における相互交感、対立制約、互根互用、消長平衡、相互転化という 5

つの関係をも見出される。しかし、このように構築された政治道徳においては、平等性の

程度また範囲についての疑問も残る654。特に法実証主義を超えた条件下で、政治哲学と法

理論との空間において権利とデモクラシーとの関係は、平等の視座からどのように捉えら

れるべきか655。ドゥオーキンはそれらの難問を解決しようとする裁量論において幾つかの

論法を提示した。

裁判官の法解釈の活動には平等の原理が含まれ、その原理は一般政治道徳的平等性にあ

る、とドゥオーキンは考える656。しかしこのような平等性は、法外在的な視点すなわち観

察者の視点ではなく、実践者たる法内在的な視点からみれば、H.A.L.ハートの言うところ

The Theory and Practice of Equality, Harvard U.P., p.65.(小林公ほか訳)『平等とは何か』

(木鐸社, 2002)94 頁参照。 654 井上彰「ドゥオーキンは平等主義者か?」宇佐美誠・濱真一郎編著『ドゥオーキン:法哲学

と政治哲学』(勁草書房, 2011)189-205 頁参照。 655 藤原保信「デモクラシーと平等——ロナルド・ドゥオーキン」藤原保信・千葉眞編『政治思

想の現在』(早稲田大学出版部, 1990)第4章参照。 656 長谷川晃「ロナルド・ドゥオーキンの法—政治哲学の包括的検討」アメリカ法 2 号 307-11頁参照(2006)。旗手俊彦「ドゥオーキンの法哲学・政治哲学とリベラリズム」法哲学 1989年報 59-75 頁参照。

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のルールの体系によって構成されたものではなく、解釈的な概念によって構成されたもの

である。こうした平等性は裁判官自らの道徳的要求ではなく、法的解釈の活動における人々

を平等的な主体として考え、一人ひとりに平等な配慮を賦与し、法の物語としての法の解

釈に含めた概念に対して裁判官が忠実に従わなければならない解釈の基本姿勢を呈示する

ものである。そこにおける裁判官と法共同体の構成員の位置関係は法の物語を超えた存在

ではなく、両者は法の物語の中に平等に関連・定着・位置づけられる。そして、裁判官が

成文法を解釈することを通じて「法の物語」を社会状況に擦り合わせていくにあたっては

市民の一人一人が平等者として扱われ、平等に配慮・尊重されなければならない657。裁判

官はこうした法の物語についての作業をするときに、以上の諸事情を自律的に統合しなけ

ればならないのである658。彼(女)は規範的命題に対する功利主義的評価や、主観的な評

価を理論によって排除しなければならない。裁判官の試みは「理論理性的合理性」という

限られた意味であっても、何らかの仕方で法的判断の合理性を探究しようとしている点で

は、「実践理性的合理性」を志向する、と言えよう659。

法的解釈における政治道徳的平等性は、法共同体の構成員が、己の人格が平等に尊重さ

れ配慮されていないと感じた時に660、「法の物語」を通じて対等な位置づけを求め、法的要

請を平等に発動し、正当な法的取扱いと公正な結果を追求することに対して理論的根拠を

与えるものである。この点で、ドゥオーキンは、「道徳」と「法」について以下のように述

べた。「たぶん多様な仕方で相互依存的だが、原理的には別個の思想上の諸部門の名である

という伝統的理解に挑戦してこなかった……すなわち、法を道徳から分離したものとして

ではなく、道徳の一部門として扱えるかもしれないのである」661。彼が推奨する「法を道

徳の一部門として捉える見方への」移行をより論理的な仕方で考察すれば、これは法の道

徳化ないし道徳の法化という問題である。こうした見方では、我々はもはや法が何である

かを固定する際に、正義が何らかの役割を果たすことを疑わないだろう。そうすると、ま

657 小林公「ドゥオーキン:自由主義的平等権の擁護者」 法学セミナー369号 102-5頁参照(1985)。 658 小林宙「R・ドゥオーキンの『統合性に基づく自律』」同志社法學50巻1号279-339頁(1998)。 659 亀本洋「法的議論における実践理性の役割と限界⑴」判例タイムズ 550 号 55 頁参照(1985)。 660 長谷川晃「平等・人格・リベラリズム——R・ドゥオーキンの平等論をめぐって」思想 775号 53-94 頁参照(1989)。

661 R. Dworkin. 2006. Justice in Robes. Harvard U.P., pp.34-5.(宇佐美誠訳)『裁判の正義』

(木鐸社, 2009)48 頁。

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さしくその役割とは何かという、いっそう複雑で重要な論点に集中することができるだろ

う。

第2款 法と道徳との相互転化

R・ドゥオーキンのみがこのような法と道徳との相互転化という想定をするわけではない。

思想史的背景から、法と道徳が極めて近いものと考えている見解は多くの論者の間で広ま

りつつある。民法・刑法・社会法などの法律において、正・不正の観念だけではなく善・

悪の道徳的価値も重要な役割を担うように、社会制度編成の中に「正義」と呼ばれる要素

の内実が見られる。これは「法と道徳との分離が徹底せず、しばしば、法的正義と道徳的

正義とが同一の「正義」の言葉で呼ばれ、混同して使われてきた。このため、法の基準と

道徳の基準とが、しばしば混同され、道徳によって法を理解する傾向、また法によって道

徳を理解する傾向が、しばしば見られた。私は、これを、法の道徳化ないし道徳の法化現

象と呼んでいる」のである662という表現に明らかである。

道徳を則法的見地から捉える代表的な哲学者として、カントが挙げられる。彼は、ある

行為が道徳的な行為と言えるかどうかは、その行為を普遍化(=法則化)できるかどうか

によると考える。それは、人々が本能的な衝動や欲望という傾向性また自然のルールに従

って行動するのではなく、全ての人々が自分自身で定める法則に服従し行動するというこ

とである。こうした行動パターンが定言的命法として普遍性を持ち、道徳的価値ある法則

となる。カントは道徳の法則性を重要視し、たとえ殺人犯から友人を匿うために嘘をつこ

うとも、これは道徳的に正しいと認めない。彼は自分の論文「人間愛からなら嘘をついて

もよいという誤った権利について(1797 年)」において、「われわれの友人を人殺しが追い

かけてきて、友人が家のなかに逃げ込まなかったかとわれわれに尋ねた場合、この人殺し

に嘘をつくことは罪であろう」663と考える。なぜなら、人の命を救うためにしても、嘘は

「法の根源を役に立たぬようにすることにより、人類一般に損害を与えてしまう」からで

ある664。法の基底としての道徳性は、近代社会における自由かつ平等な個人に対して、法

的秩序を内面化した自律的存在であることを求めているからである。このような道徳の領

662 渡辺洋三『法とは何か』(岩波書店, 1979)54 頁。 663 加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫, 1997)20 頁。 664 Immanuel Kant, Über ein vermeintes Recht aus Menschenliebe zu lügen, Erstdruck in:

Berlinische Blätter, 1. Jg., 1797, SS. 301-14.

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域における法の拡張、つまり道徳原理を法律規則のように見なすことは、近代社会の変革

に合わせて法受容の必要から要請されたものでもある665。

一番理解しやすい例としては、法による道徳の強制である「尊属殺重加罰」という刑法

旧200条の規定が挙げられよう。憲法の平等の思想に明らかに反する尊属殺の刑法規定は、

法によって道徳を強制するという発想と強い親縁性をもつものに見える。尊属殺人などの

罪が一般の場合に比べて重く罰せられるのは、「法が子の親に対する道徳的義務を特に重要

視したものであり、これ道徳の要請に基づく法にある具体的規定に外ならない」からとさ

れていた666。かような夫婦・親子・兄弟などの関係を支配する道徳は、自然法に属する」

ものであるというのである667。または、軽犯罪法が登場したことによって、各自治体の迷

惑防止条例が制定され施行された。例えば、「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等

に関する法律」の第 2 条は、「すべて国民は、飲酒を強要する等の悪習を排除し、飲酒につ

いての節度を保つように努めなければならない。」と規定する668。これらの法律や条例の目

的は、もともと市民社会内部の自主的道徳秩序によって自らの手で自主的に守るべきとい

う道徳的法則であるが、それを国家や各自治体の側から法律または条例で干渉、強制しよ

うというのである。

道徳の法化を支える理由には 2 つのものがある。1 つは、市民社会における自由で平等な

市民として有すべき個人的自主性・自律性が未熟である為に、他の社会構成員と同等の利

益を維持する為に、法が同質性を強要するというものである。これは、社会生活の様々な

局面において強い立場にある国家・集団・組織が、社会的構造において弱い立場に立つ者

の不利益を解消し利益を促進するために、本人の意志に関わりなく介入・保護を強制的に

行うことを通じて、道徳的な義務を法的思考において要請しているパターナリズムとして

665 カントは「合法性 Legalität」と「道徳性 Moralität」を区別し、前者は「動機を考慮に入れ

ず、単に行為と法則との一致または不一致」を指すのに対して、後者は「法則からの義務の観

念が同時に行為の動機となっているもの」を意味する。法則に適う行為は合法性を有するが、

「義務から」、すなわち法則に対する尊敬からという動機のみによって行なわれることこそが

道徳性を有する。このように法と道徳を区別するが、両者を無関係のものとして分離していは

いない。すなわち、「法に従って行為すること(das Rechthandeln)を自分の準則にすると

いうことは道徳から来る私に対する要求である」。この意味で法と道徳は結びづいているので

ある。金澤文雄「法と道徳」矢崎光圀編『現代の法哲学』(有斐閣, 1981)172-3 頁参照。 666 最大判昭 25 年 10 月 11 日刑集 4 巻 10 号 2037 頁参照。 667 大塚仁 『刑法概説(各論)改訂増補版』(有斐閣, 1992)15 頁参照。 668 昭和 36 年 6 月 1 日法律第 103 号。

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表現される669。もう 1 つは、ゲオルグ・イェリネックの言うところの「法は道徳の最小限

das ethische Minimum」という定式で表現されるものである670。法は最も基本的な道徳的

要請の保証に限定されねばならない671。客観的には、法は人間の意志により秩序だった社

会の諸条件を規定する限り、社会倫理的規範との相互作用を通じて、社会の構成員の自律

的な外部行動に影響を与えることができる。また、主観的には、「道徳の最小限」は法に対

する人間の心の働きの平均状態、つまり人々の道徳的直観による自明の真理の発見を支え

る。個人の道徳的直観による自律的な選択の内容となる個人の道徳律も、最小限の社会的

道徳である法律による影響を受けることがある。このような視座からすれば、法の基底的

な部分は社会的道徳と合致している。法はその目的につき、社会秩序の維持のために必要

最小限の道徳的内容を取り入れることが要請される672。尤も、法と道徳との対立関係をよ

りも、多様的な道徳・価値観の、法という媒介を通した共存の可能性を考えるべきであろ

う。

他方では、法が道徳への干渉を行うこともある。もともと道徳には強制的制裁はないが、

法は制裁の手段を持っている。道徳規範が法体系の中に取り込まれる際には強制的制裁を

具備することで、道徳は最大限に有効性を発揮する。これが「倫理的最大限度 das ethische

Maximum」との言葉で現されるものである673。例えば、配偶者の不貞行為という不法行為

(浮気など)に対して離婚請求や慰謝料請求ができると規定する民法は、法が道徳に干渉

している一例である。また、アメリカでは「同性愛」は処罰の対象としている。これは、

単なる道徳評価や道徳制裁を超えて、社会の一般道徳的要望を満足させる為の道徳制裁と

して法的手段が採用されているのである。すなわち、配偶者の不貞行為に対しての、世間

669 横山謙一「パターナリズムの政治理論」澤登俊雄編著『現代社会とパターナリズム』(ゆみ

る出版, 1997)166 頁参照。J.S.ミル(早坂忠訳)『自由論』(中央公論社, 1967)224-5 頁参

照。 670 Jellinek, Georg. 1908. Die Sozialethische Bedeutung Von Recht, Unrecht Und Strafe. O.

Häring. S.45.(大森英太郎訳)『法・不法及刑罰の社会倫理的意義』(岩波文庫, 1936)67 頁。

この命題について、批判的立場から分析する文献として、伊津野重満「わが国法体系に於ける

法と道徳の考察」鹿兒島経大論集』8 巻 1 号 86-7 頁(1967)白羽祐三『「日本法理研究会」

の分析: 法と道徳の一体化』(日本比較法研究所, 1998)539-46 頁参照。 671 永尾孝雄「法と道徳の区別と連関」アドミニストレーション』5 巻 3 号 90 頁(1967)。 672 団藤重光『法学の基礎』(有斐閣, 1997)21 頁参照。 673 Schmoller, Gustav. 1900. Grundriß Der Allgemeinen Volkswirtschaftslehre. Duncker &

Humblot. S.57. 団藤重光『法学の基礎』(有斐閣, 1997)21-2 頁参照。

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からの厳しい道徳的非難や、同性愛に対する世論の非難に対しては単なる道徳的制裁があ

るとしても、それ自体では法制裁のような外面的に強力なものを基礎づけることはできず、

社会の一般道徳的要望によって拡張された道徳制裁としてそれが法的に基礎づけられるの

である。

道徳的正義は社会心理的なものであり、社会心理的なものとしての道徳的正義が法を支

えているのであれば、それは市民的法へのコミットメントだといってよいのではなかろう

か。言い換えれば、感覚的・心理的なものと規範的・制度的なものとの関係から見れば、

正義感覚による道徳的正義が正義諸原理による制度的正義を基礎づけているということで

ある。もし正義の諸原理が全面的に正義感覚から見離されるような状態になった時、制度

はもはや制度的正義として機能することができなくなったことを意味する。もしこうした

形骸化された制度が強行されれば、それは、国民を服従させる手段としての実力行使でし

かない674。

こうした制度の基礎としての道徳的正義を考える時、次のような問題にゆき当たる。第 1

に、これは、共同体における正義が個人における正義感覚の側面と、市民社会における正

義の諸原理の側面という 2 つの側面を持つものであることにつながる。前者は心的志向性

による道徳性発達段階に表されるもの、つまり秩序だった社会の自律した構成員がもつ、

正義の観点に立とうとする安定した統制的な情緒(regulative sentiment)、つまりは正義

感覚である(TJ, p.498/747 頁)。後者はリベラル・デモクラシー体制における様々な社会

的な制度編成のうちどれを選ぶかについての、社会の基礎構造に関わる社会的正義に表さ

れている。しかし、個人の正義感覚とリベラル・デモクラシー体制において正義諸原理と

して表される社会的正義を、一概に同一視することばできない。

正義感覚における個人の正義とは、公平性や平等性、相互性や互恵性(reciprocity)を原

則とする個別的主体性という視点を通じて、一層高次の規範性や普遍性を目指す間主体性

と相互主観性を増大していくという、より包括的な人格特性を記述したものである。そし

てその内実は、社会的領域に存在する道徳的な緊張・対立・競合を調停するための、判断

の基準と手続きが道徳的に発達していく思考過程である。つまり正義感覚において示され

る個人の正義とは、正義の原理を適用し正義の原理に基づいて、つまり正義の観点から行

為したいという実効的な欲求にほかならない(TJ, p.497/745 頁)。そこで立証されるべき

674 団藤重光『法学の基礎』(有斐閣, 1997)35 頁参照。

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事柄は、秩序だった社会に住まう人々にとって自らの人生計画を統制するものとして自ら

の正義感覚を確証・肯定することは、公正性や平等性、または相互性互恵性という、思考

の手続きが正当であるかという点に絞られるのである。

では、社会的正義を達成するための諸原理はどのように成立するのであろうか。正義の

諸原理は、ロールズによれば、全ての個人が利己的で自由で合理的な諸個人として、平等

な初期状態において無知のヴェールに覆われた状態のままで選択され受け入れるようなも

のである。これは「全ての個人と団体が一定のルールの下で、等しくその利益や選好を主

張することが許され、そこに生じる不断の葛藤が平和的な相互交渉(政治)を通じて調整

され、ある共同決定がなされるというプロセスないしは手続」を意味する675。つまり、市

民社会における社会的正義は、社会の協働のシステムをこのような「純粋な手続き上の正

義」を備えたシステムにするという役割を果たす。「純粋な手続き上の正義」という観念の

実用上のメリットは、自由かつ平等な個々人は共同決定がなされるまでの一連の過程を、

社会正義に従って市民的共同合意の内容の審査および受入の決定に手続的な問題が無いか

チェックすることであると言える。

このように、個人の道徳的正義による正義感覚と社会的正義としての正義の諸原理は手

続的正当性を追求する点で一致するものの、個人の正義感覚があくまで個人の感情・感覚

を対象とするのに対して、社会的正義は、社会制度編成を作り出す際に必要とされる正義

であるという点で異なる。では具体的には、市民社会においてロールズの捉える正義原理

はどのように取り入れられているのであろうか。

このことをよりよく解明するために、第 2 点として、一人ひとりの正義感覚とコミュニ

ティの共感との関係を検討しなければならない。1 つの例を挙げよう。ベトナム戦争下のア

メリカ社会と太平洋戦争下の日本社会における、徴兵問題への直面の際に、自らの良心=

正義感覚を貫いて戦争に反対し兵役義務を拒否した人たちに対して、アメリカ社会と日本

社会の良心的徴兵拒否行為への評価は全く異なる傾向を示している。多くのアメリカ市民

は、良心的兵役拒否の行為を高く評価し、良心的兵役拒絶権を自らの正義感から認めて同

感したのに対して、日本の場合は良心的兵役拒否、あるいは内村鑑三不敬事件のような信

仰上の自由を人間的にも非難し、しばしば周りの人も心の底から冷たい態度をとって白眼

視した。なぜ良心的徴兵拒否者は同じ正義感覚に従って道徳に反する悪を拒否しているの

675 中谷猛・足立幸男『概説西洋政治思想史』(ミネルヴァ書房, 1994)376 頁。

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にも関わらず、国民の道徳評価にはなぜ違いが生まれるのか。これは正義感覚へのコミッ

トメントの基盤の有無に関わる。主体性関与の正義は、正義感覚から正義原理へという転

換とは何かを考える上に 1 つの重要な観点を与えるものでもある。

例えば、A は自分の正義感覚から B の行動や発言を批判する一方、B は自分の正義感覚

から A を批判する。A と B それぞれの正義感覚が対立していたり、立場や見解の違いがあ

ったりするため、結果として、最終結論を出すなどといった大きな意思決定が必要な際に、

いつまでたっても話し合いができず、その間にも法的情況はますます悪化していくことに

なる。衝突・対立という状態は行動・発言といった目に見える視覚領域だけに存在するの

ではなく、その背景にある感情的な対立にも深く根ざしている。すなわち、行動・発言的

な対立に伴い、感情・感覚的差異が構造的に存在しているのである。我々は人格的意識主

体として常に各個人の人称的な意識、各自的な私の意識といった「自我の自覚」を通じて

相互作用しながら、近代の「個我の人格的平等性676」を表現する「主観の各私性 Satz der

Jemeinigkeit od. Persönlichkeit」を維持する。この平等性は、認識主観の「範式 Isomorph」

の中で捉えられる677。つまり、私と他人との間の境界線(主観の各私性)は、共同主観性

によって把握される。これは、合意が共同主観性の契機として重要な役割を果たしさまざ

まな場面で存在するので、同じ範式において「感情移入」などの関与の可能性が見出され

るということである。そして人々の正義感覚から、コミュニティへの関与と合意を経て社

会秩序に適う正義原理へと至るプロセスにおいて、共感的な人間理解を基盤として、正義

感覚とその規範的意味によって動機付けられた相互関与が行われることになる。

「何が正義で何が不正義であるかについて一定の合意がなければ、相互に便益をもらす

制度編成の維持を確保するために、個人の計画の効率的な協調を図ることは、明らかにそ

の困難さを増すだろう(TJ p.6/9-10 頁)」。それらに基づいてこそ、ひとりの人間にとって

の原理が社会に適用可能となる。「多数の人々が溶かし込まれてひとりの人間へと融合され

てしまう。共感と想像力という理想的な知力を賦与されているので、公平な観察者は他者

の欲求をまるで自分のものであるかのように経験し、かつそれらと一体化する(TJ

p.14/8-39 頁)」。公平で共感的な観察者の想像力を通じて、全ての人々が単一の人へと合体・

融合されてしまう。こうした関与は人々の共感的合意(consensus, accommodation)であ

676 鷲田小弥太『昭和の思想家 67 人』(PHP 研究所, 2007)515 頁参照。 677 廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(講談社, 1991)7-8 頁参照。

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361

り、自由で平等な理性的存在者として我々は無知のヴェールがかけられているので、偏っ

た個人的観点からではなく他の人と分かち合う共通の観点から、関与すると考えられる原

理に従って、所定の社会に参入することや所与の統治形態を採用するのではなく、一定の

道徳原理を受容する(TJ p.14/23 頁)。このような関与は、社会生活における合意を公共的

受容として捉え、正義感覚の開かれた理解を要求する。また、従来の正義感覚が変化する

につれて、合理的な観点から受容されるであったであろう正義の諸原理も変化するとした

ら、こうして漸進的発展する正義諸原理は人間本性に関わる共感的合意として理解されて

よいだろう。こうした共感的合意の条件は、社会連合の成員として共同体の価値を追求す

る人間の理念と結びついているのである。

道徳的哲学の達成目標の 1 つは、いかなる合意も存在しないと思われるところに、合意

のための可能な基礎を探し当てることにある(TJ, p.509/766 頁)。正義へのコミットメン

トは、相手の感情や感覚とその感情を持つに至った背景や原因を敏感に感じ取り相手の真

意を深く理解し、この双方の正義感覚を調和させようとする試みである。コミュニティに

おけるモラルコミットメント的な人間関係の中で、正義感覚によって方向付けられた合意

を形成することを目指すのである。正義感覚と正義原理への関心は公共秩序的関係にとっ

て共に必要な要素であり、正義に関する問題を解決するためには正義感覚と正義原理が両

立し調和していなければならない。

正義感覚と正義原理との関与的調和は、個々の正義感覚の機能を保障しその道徳的成長

を促すと共に、公共的秩序の影響力をも導入しようとする。平等で自由な個人を正義に基

づいたコミュニティの構成員とすることによって、つまり自律的に関与することによって、

個人の道徳的な発達だけでなく、共同体における道徳的理解・寛容・ケア・連帯や、道徳

的雰囲気を高めようとするのである。この際とりわけ重要になるのは、市民たちの正義感

覚が、現実の生活に根ざした他者の正義感覚との関与で共通的正義感覚になったことであ

る。

規範的コミットメントによる合意は、秩序を形成するために相互が努力する中で各人が

自らの正義感覚を抽出し(感情抽出原理)、自らの心的装置(良心・正義感覚)を通じて自

らの内面主体的立場を他の対象に投射することでその対象と自分との同様な融合を感じ

(感情移入原理)、常に近似値としての確率的な正当性しか保証されない意識作用を体験し、

そして他人が示す感情に心をつかむことによって、人間行動という次元の多様性を前提と

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362

して他者への感情移入と相手に誤解されない関与の重要性を強調し、自己理解としての感

情抽出と他者理解としての感情移入とを統合させようと取り組む過程であり、それによっ

て最高道徳としてのモラルコミットメントは「互いの承認しうる合意に到達すること」を

目指す678。コミットメントに基づく正義感覚の合意は具体的な他者理解をするための手段

であり、道徳性を発達させる手段である。つまり合意とは、第 1 に自己の正義感覚を明確

に示す自己理解を中心とした感情抽出、第 2 に相手の正義感覚を喚起・覚醒し、解読・交

換するという同感中心の感情移入、そしてそれらによって最終的に戦略的コミットメント

(合意)に達する、ということを意味する。

非人称的関与構想による関与的な態度が市民社会の構成員の間の正義感覚を活性化し、

「感じる」ことと「感じられる」ことの相互作用が形成され、そこに関与の原型を見るこ

とができるのである。それでは、「感じる」ことと「感じられる」ことから関与を捉えた背

景には、何が考えられるだろうか。そこには、市民社会において正義感覚と正義原理を導

き出す道徳的発達があるだろう。先述したように、正義感覚という情操(sentiment)は、

それぞれの人格的特徴に基づいて為される異なった考え方、異なった行為を通じ、それら

の関与の強さやそれらの差異の比較を可能とする。こうした関与や変容関係を踏まえた上

で正義原理の内容を特定する為には、人間の自然本性への配慮と善への配慮との連続性を

解釈的視野に入れる必要があり、それによって正義原理は、他者への戦略的コミットメン

トする、つまり理解や寛容やケアや連携意識や責任感を伴うものになるであろう。そして、

「正義はその態度に基づき平等や権利といった原理に照らして道徳判断を行う方向性をも

つのに対して、ケアないし慈愛は、個別的な状況における人間関係から、共感や責任、思

いやりといった態度を持つのである……関与的な人間理解という態度に基づき、諸要求の

対立を正義によって方向づけることであると措くことが可能である。そのためには、まず

相互尊重、つまり慈愛という態度に基づいた土壌が必要とされる。それによって、他者と

の会話という相互交渉を通じて、普遍的真理へと接近していくのである。また会話によっ

て得られるのは、正義推論に表されるような普遍的な正義の状態ではなく、真理へと近づ

いていくプロセスであるといえよう」679。

678 L.コールバーグ「第 6 段階と最高道徳(1985 年)」(岩佐信道訳)『道徳性の発達と道徳教

育——コールバーグ理論の展開と実践——』(広地学園出版部, 1987)44 頁。 679 荒木寿友「L・コールバー グの道徳論と共同体」京都大学大学院教育学研究科紀要第 47 号

214 頁(2001)。

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第3款 主体的関与の平等に関する法的思考

これまで述べた主体的関与の平等に関する補足として、非嫡出子の処遇をめぐる法的思

考のあり方を一例として示す。

第1項 非嫡出子の処遇をめぐる背景的整理※

日本において婚姻制度が成立した歴史的理由は、家系を存続させるためであったと言わ

れている680。婚姻関係にある男女から生まれた子という概念は、人間関係のモデルを前提

として、子の社会的公認にとって重要な意味を有するとされる。嫡出子とは婚姻関係にあ

る男女間に生まれた子であり681、非嫡出子とは婚姻関係にない男女間に生まれた子である

682。嫡出子と非嫡出子との間に法的差異を設ける思想史的背景には、一夫一婦制の婚姻秩

序を強調し婚姻関係にない性関係が強く否定するという道徳観がある。これは婚姻関係に

対する道徳的正義の要求であり、婚姻関係にある男女に対する道徳的平等である。法律上

の規定において、嫡出子と非嫡出子との間には一定の差異が認められている683。これらの

差異は、出生という客観的社会的事実について、嫡出子と非嫡出子を区別する法律によっ

て擬制された結果にすぎない。日本民法が事実婚主義を排して法律婚主義を採用した結果、

婚姻関係にある男女から生まれた嫡出子と婚姻外の関係から生まれた非嫡出子という区別

が生じた。そして、その人為的な区別に由来する両者の法律関係についても、親子関係の

成立、親権の行使、氏の利用、相続における遺留分等において異なる規定がなされている684。

※この問題については、本論文審査中の平成 25年 9月 4日に最高裁の違憲判決が出されたが、

本論文はそれ以前に書かれているため、この判決の内容はまだ反映されていない。 680 内田貴『民法Ⅳ 親族・相続』(東京大学出版会, 補訂版, 2004)166 頁参照。 681 千葉洋三ほか『プリメール民法 5−家族法』(法律文化社, 第 2 版, 2005)78 頁。 682 遠藤浩ほか『民法<8>親族』(有斐閣, 第 4 版増補補訂版, 2004)172 頁。 683 千葉洋三ほか『プリメール民法 5−家族法』(法律文化社, 第 2 版, 2005)78-81 頁参照。 684 嫡出子と非嫡出子の差異における父子関係の成立について、嫡出子は母の夫が父であると推

定されるが(772 条)、非嫡出子の父子関係は父の認知によって成立する(779 条)。なお、母

子関係については後述の通り、通常、懐胎・分娩という事実から当然に発生する(判例として

最判昭 37・4・27 民集 16 巻 7 号 1247 頁)。親権について、嫡出子の親権は父母が共同で行

うが(818 条)、非嫡出子の親権は母が単独で行う。ただし父はこれを認知し父母の協議によ

って父を親権者と定めることができる(819 条 4 項)。氏について、嫡出子は父母の氏を称す

るが(790 条 1 項)、非嫡出子は母の氏を称する(同条 2 項)。父の氏への変更は家庭裁判所

の許可により可能であり(791 条 1 項)、このとき子は父の戸籍に入る。相続権について、民

法第 900 条 同順位の相続人が数人あるときは、その相続分は、次の各号の定めるところによ

る。 一 子及び配偶者が相続人であるときは、子の相続分及び配偶者の相続分は、各 2 分の 1

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相続制度については、「内縁の配偶者には他方の配偶者の相続が認められないなどの差異が

生じても、それはやむを得ないところといわなければならない」という判決もある685。

言うまでもなく、婚姻や相続の制度を設ける際には、歴史的慣習・国や地域の伝統・社

会的事情等も配慮されるのであって、嫡出子と非嫡出子を区別する法律には多かれ少なか

れこれらの事情が反映されている。しかし、現在においては、法律婚を尊重するという当

初の立法目的と、嫡出子と非嫡出子との法定相続分における差異との間に合理的関連性が

あるかどうか、また、このような区別は「差別」ではないか、或いは平等に対して配慮の

ない「区別」ではないか、という問題意識が強まっている。立法府の裁量による判断が合

理的といえるかどうか、という疑問は、差異に応じた別異の法的取扱いに関する合理的区

別の範囲といえるかどうか、という本質的な問題につながっているのである。立法目的や

立法者の意識、国民感情への配慮等を総合的に考慮する「主体的コミットメント」として

の平等理念の観点から検討する必要があるのである。

民法 900 条 4 号但書前段は、非嫡出子の法定相続分を嫡出子の 2 分の 1 とする旨を定め

ている。この規定が憲法 14 条 1 項の規定する「法の下の平等」に反しないかどうかについ

て、長年争われてきた。最高裁は、平成 7 年 7 月 5 日大法廷決定において同規定を合憲と

判断したが、その後も下級審判決では合憲と違憲の判断が拮抗し、以後の最高裁の小法廷

による合憲判断の全てにおいても反対意見や立法による解決を求める補足意見等が付され

ている686。近年の高裁判決においては違憲判決が続出しており、憲法や民法の学説において

も同規定の合憲性について強い疑問が呈されるようになっている。 とする。 二 配偶者及び直系尊属が相続人であるときは、配偶者の相続分は、3 分の 2 とし、

直系尊属の相続分は、3 分の 1 とする。 三 配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは、配偶

者の相続分は、4 分の 3 とし、兄弟姉妹の相続分は、4 分の 1 とする。 四 子、直系尊属又は

兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。ただし、嫡出でない子の

相続分は、嫡出である子の相続分の 2 分の 1 とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の

相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の 2 分の 1 とする。民法第 1028 条 兄弟姉妹以外の相続人は、遺留分として、次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定

める割合に相当する額を受ける。 一 直系尊属のみが相続人である場合 被相続人の財産の 3分の 1 二 前号に掲げる場合以外の場合 被相続人の財産の 2 分の 1 第 1044 条 第 887 条第 2項及び第 3 項、第 900 条、第 901 条、第 903 条並びに第 904 条の規定は、遺留分について準

用する。 685 最大決平7年7月5日民集49巻7号 1789 頁、判時 1540 号 3 頁。 686 菱沼誠一、「非嫡出子相続分の規定(民法第 900 条第 4 号 但書前段)の合憲性について」、

立法と調査 312 号 26 頁(2011)。

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平成 7 年 7 月 5 日最高裁大法廷決定は同規定について、民法が法律婚主義を採用したた

め、婚姻関係にある配偶者とその子を優遇する一方で非嫡出子に対しても一定の保護を図

ったものであるとして、憲法には違反しないと判断した687。これに対して本節では、非嫡出

子相続分規定違憲判決を素材として、家族観・社会事情・民法の歴史・国際情勢・国民の

正義感等の要素の変化に注意しつつ、全ての平等の構想に共通する規範的条件である平等

概念と、リベラリズム・リバタリアニズム・コミュニタリアニズム等の具体的な平等の構

想を提示した上で、「差異」の概念を明確にしながら平等概念について検討してゆく。そし

て、立法は平等基底的になされなければならず、平等概念と平等の構想という 2 重の規範

的制約が立法に課されているということを示す。

平成7年最高裁の合憲決定と対比される下級審の一連の違憲意見の中で688、各高等裁判

所に共通する論拠は、事実婚や非婚など男女の共同生活のあり方を含む婚姻関係や家庭関

係や親族関係に関する意識も一様なものでなくなってきており、この公知の事実を維持発

展させるについては国民感情ないし市民的正義感覚の容認が基本となることは明らかとい

うべきであって、それらの社会環境や習慣伝統などの変化に伴って変容する国民の法意識

に照らして、法発展の後進性により法規定や制度の合理的関連性は常に検証されるべきも

のである、というものである。人間の社会的存在が法意識を規定すると同時に、現実社会

における一定の生活事実によってある正義の構想が実現されることが公共的に再認される

にしたがって、当該正義の構想に対応する国民の法感情=正義感覚が生み出される。

言うまでもなく裁判所は紛争を解決し裁判するための機関であるから、公正な判断を確

保するために、裁判官は当事者双方の言い分を公平に聞き、判断の根拠としての法律条文

の解釈や事件ベースでの適用判断基準などを示す義務があり、それは適用条文の法律要件

に対する法的思考からの評価および判断として社会的合意(社会通念)に合致するように

行われる必要がある。すなわち、裁判官の法律的解釈の活動においては、国民感情や市民

687 最大決平成 7 年 7 月 5 日民集 49 巻 7 号 1789 頁。 688 日本の場合、判例は法源とはならないとされる。つまり判例の法源性は否定され、制度上は

先例拘束性が認められず、下級裁判所は、別の事件において上級裁判所(とりわけ最高裁)に

おいてなされた判断に法的には拘束されないと解されている。注意すべき点は、下級裁判所が

上級裁判所と異なる法解釈を行っても、上訴の結果、上級裁判所によって判決を取り消される

可能性があるので、実際には下級裁判所が上級裁判所の法解釈に従うことが多いということで

ある。そこで、上級裁判所の判例は事実上の拘束力を有すると言われている。市川正人ほか『現

代の裁判』(有斐閣, 第2版, 2001)15, 48 頁参照。

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的正義感覚や社会的慣習などの様々な価値観のバランスを取った上で良心に従って、そう

いった社会通念が「ある」と信じ、「ある」と判示しなければならない。

現在においては、シングルライフや事実婚ないし非婚などの出産形態が多様化している

一方、多元的価値観の保持が可能であり、その要請は強まっている。婚姻制度についての

伝統的な規範意識が希薄化するとともに、市民は徐々に非嫡出子という身分設定が無価値

である、或いは無意味であるとして認識するようになり、非嫡出子が道徳や公的および社

会的な秩序に対する脅威ではなく、社会の構成員として自由な社会に平等的に参加するこ

とを感情的に再認してゆく。このような国民感情や市民的正義感覚に対して、裁判官は国

民の再認を主体的関与するという形を通じて、非嫡出子の平等な地位を最終的に肯定する

べきである。なぜなら、近代市民社会において重要なのは、人間は自由で平等な法的主体

であり、その自由な意思に基づいてのみ権利の取得と義務の負担が認められるべきである

と考えられるようになったことである689。「言葉にならない言葉」や「声なき声」を発する

市民の正義感覚に対して、裁判官にはこの言説化されていない市民的法感情を「主体的関

与」という形で聞き取る要請がある。これが、市民の時代の要請なのである。名宛人とし

ての市民であれ受容者としての当事者であれ、彼らは正義感覚の能力をもっていると推定

されており、そのことが彼らの間での公共的な知識となっている(TJ, p.125/196 頁参照)。

しかし、ある判決が出るやいなや国民をして「おかしい」と言わせ、国民或は国民の代

表者がその判決に納得できないようなことがあったとしよう。そのような、裁判官の能力

や識見に疑惑を抱かせ、ひいては司法に対する国民の信頼に影響を及ぼすおそれがあるよ

うな事態を招来したことは、市民の正義感覚に悪影響を与えるに違いない。しかし、国民

感情や市民的正義感覚との主体的関与という形で裁判を理解すれば、裁判官が「正しく」

主体的関与できなかった時に法の権威性や制度の妥当性・秩序の安定性などの社会構造に

おける根本的基底にどこまで影響を与えるか、または、国民の正義感覚や裁判官の正義感

覚などといった各自の正義感覚が統合して主体的関与する可能性はどこまで広がってゆく

かという疑問が残る。法創造という視座からみれば、国民に承認されないものを法と言え

るだろうか。平等な法的主体という視点から考えれば、裁判官と国民との法的位置づけを

理解せずして「公正としての正義」の問題を語ることは出来ないだろう。

689 近江幸治『民法講義Ⅴ 契約法』(成文堂, 第 3 版, 2006)5 頁。

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法解釈の目的は何らかの正義構想の実現と社会秩序の維持とのバランスのとり方にある

とされるが、秩序だった社会を実現するために必要なのは一定の目的を達するに適する具

体的な手続きや技術的手段である。我々は目的・手段関係の合理性を付与する際に、道徳

的な公共性をもつ人間の基本的能力である正義感覚を基本的に信頼し、感覚秩序維持のメ

カニズムに依拠して特定時空にある社会秩序を維持しようとするような法理念を前提して

いる。人間の正義感覚によって、その法の内容が原理的に支えられていなければならない

のである。そして裁判官をも含めた法実践の全体基盤もまた、社会秩序に限られない「正

義感覚」の要件なのである。

第2項 正義の共通感覚の可能性

正義に適った社会秩序は一般市民の正義感覚によってコントロールされる。裁判所と立

法府のそれぞれの行動は正義感覚によって動機付けられたものである。しかし同じ市民的

正義感覚という基盤からの評価であるにも関わらず、その内容には、裁判所の正義感覚と

立法府の理解との相違が存在することは否定できない。裁判官の正義感覚と国民(代表者)

の正義感覚との衝突のうちに、正義の共通感覚の可能性はあるのだろうか。この問いへの

回答は3つの問題に関わる。1つは、正義感覚に関する概念と概念構想との統合問題であり、

もう 1 つは諸正義感覚間の主体的関与の強度の問題であり、最後は、方法論から見た正義

感覚の矛盾の事後調和の問題である。

第 1 に、正義感覚に関する概念と概念構想との統合問題は、前述したように、司法=裁

判官に対しても立法府=議員に対しても、部分社会としての固有の思考方式・感覚特徴が

存在していることは周知の事実であり、それぞれの確固たる固有の領域を全面的に否定し

て一元的普遍性を強要することは妥当でないことは確かである。仮にこれを全面的に否定

すれば、権力分立の体制と相互の抑制均衡に何らかの大きな確実や衝突が起こらざるを得

ないのである。それを防ぐ為に市民的正義感覚は、裁判官や議員の各自の特定の正義感覚

の特徴を一定限度で承認しなければならない。その調和点としては、それぞれの正義感覚

が全体社会の正義感覚と有機的な関連性をもって多元分散的普遍性を有する共通感覚を示

す限りにおいて、それぞれの正義感覚は全体社会の中で尊重されることになるという点に

あると考えるべきである。

第 2 は、諸正義感覚の間の主体的関与の強度に関する問題である。公共性の空間におい

て自らの市民的正義感覚を有する立法府と裁判所は、自らの感覚的な体験・特徴を保持し

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ている。それらの正義感覚の強さは異なり、政治的参加や市民的不服従などの市民活動に

応じてそれぞれ正義感覚による刺激を受けるのであるが、その程度によってそれぞれの制

度的特徴が特定されるのである。立憲民主制において、立法府と市民との距離は裁判所よ

り近い。議会は市民社会の声を反映することにより市民により身近な立法府としてその役

割を担うのであって、幅広い層からの市民の参画が求められる。立法府と市民よりも裁判

所と市民の方が距離があることや、結果として感じられた主体的関与の強度から考えれば、

裁判所の主体的関与よりも立法府の主体的関与による結果の方がより正確に市民的正義感

覚を反映するかもしれない。しかし、立法府と市民の関係においては、主体的関与対象と

の距離が近すぎるので公正的な判断を失う可能性も高くなるともいえるだろう。立法府の

主体的関与の特徴は市民的正義感覚との距離の近さであるのに対して、裁判所と市民との

間には「社会的な距離」や「中立的姿勢」がある。この距離は裁判官の独立的思考と中立

的判断を担保するものである。裁判所の主体的関与の特徴は、市民的正義感覚との表現の

公正性である。これに対して立法府は、市民との距離が近いので最大限市民の声を聞くこ

とができ、市民的正義感覚を行政・司法に伝える役割を有し、市民的正義感覚による種々

の要請を関数線型の近似値して捉えようとする方法によって、ある程度正解に近い解を得

ることが出来るだろう。市民的正義感覚への「正解発見」について、不完全で近似値的に

しか正義に適わない市民的感覚の理解の下では、立法府の正義感覚に内容的合理性がある

といえるだろう。

立法府が市民的正義感覚への近似的な正解を発現することについての実質的合理性が望

まれるのに対して、裁判所が民主主義原理とも市民的世論とも意識的に距離を置くべきだ

というのは立憲民主主義、権力分立の発想である。それ故、裁判所には司法権の独立、公

正な裁判が保障される。裁判所にとっては、当事者が社会的構造において多数者であれ、

社会的弱者、少数者であれ、もっとも一定の距離のあるものになっているので、特定の思

想や立場をとらず中間的立場に立って法的判断を行う。裁判官は中間的な判断の形式を取

り、不偏的な(impartial)裁判位置による公正な(fair)判決を作り出す。裁判所は裁判

対象とその影響因素との物理的・心理的距離感を強調し、市民的正義感覚への「合意達成」

のアクセスの中で、中間的に位置する形式を重視することによって、形式的合理性を有す

るものといえる。

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主体的関与の強度

主 体 特 徴 意 義 合理性の区分

立法府の正義感覚 近似性 正解発現 内容的合理性

裁判所の正義感覚 公正性 合意達成 形式的合理性

第 3 に、方法論からみた正義感覚の矛盾の事後調和の問題である。<法=公正>におい

ては、法の実現と正義の追求の間における、外観的に識別できる形式・手続が重要であり、

この形式・手続的基準はすべての人に普遍的に適用され、正義の普遍妥当性が確保される

ものである。この意味における妥当を「形式的合理性」とすれば、<法=権利>における

妥当は、それが人々の正義感覚と結びついていることから生じる市民的権利意識であり、

「内容的合理性」ということができるだろう。しかし、正義感覚における抽象的レベルか

ら見た正義の概念が、市民各自の正義感覚という具体的レベルにおける正義の概念構想と

一致するという保証が事前にあるわけではない。

具体的な問題に対して、近似性をもつ正解発現を目指す内容的合理性に着目すべきか、

または公正性を目指す合意達成のための形式的合理性に着目すべきか、という判断は困難

な場合が多い。例えば、「脳死の人からの臓器提供を許すべきか」という問題を肯定する意

見も否定する意見もいずれも可能であるという意味で、意見対立を解決するということは、

外的視点から意見統合に向けた合意達成が要請されることもあるかもしれない。たとえそ

うであったにしても、我々はむしろ正義感覚の合意達成に関わる主体的関与に至るために

も、自分が正しいと思ったことを正しいと思うのではなく、納得できることを正しいと考

え、根拠を挙げながら結論を論証しなければならないのである。そのようにしてはじめて、

正義感覚の合意に関する反省的調整或いは一時的な一致が、結果として人々の間で達成さ

れる可能性のあるものを示す潜在的な契機となるのである。

我々は「正しいもの」に関する根拠づけの多次元ネットワークの中にありながら、その

地球規模の多次元ネットワークを取り巻く他者との関係を、共通する正義感覚の視点から

捉える可能性がある。異なる正義感覚は主体的関与に先立つものであるが、全ての正義感

覚の構想の中に共通する規範的制約条件は事後的に調和しなければならない。正義感覚の

合意に関する結論は完全に一致することはできないかもしれない。その場合でも我々は、

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自分が必ずしも全面的に賛成していない相手の規範的世界の中で一定の結論を正当化し、

同じ正義感覚の方向に向けて一定の共通可能性をもって自らの正義感覚を肯定するに値す

ると、すなわち相手が認められるべきであるということを主張することができる。相互承

認によって正義感覚の合意の方向性を生み出す為の力を、ある領域において秩序だった社

会を実現するためには、我々はこの方向性を得るための技術を高めなければならない、と

いうことである。諸々の正義感覚の中に共通する規範的制約条件によって、我々は、正義

に感応する自分と正義に感応される相手との共通感覚との同調を試みる。そして我々は正

義感覚を言語感覚に転換し、それを通じて異なる正義感覚との間で平衡の感覚秩序を構築

してゆく。このような体験的・整理的背景の下ではじめて正義感覚の実践的意義は広く理

解され、法をより根本的な、人間本性から定義することも可能となるのである。

結局のところ、人間の存在と活動の多元性が社会的事実として認識され、その存在様態

と行動モデルは人々の道徳的評価に大きく依存し、彼らの正義感覚によって強く動機付け

られたということは明らかである。これらの多元多様性を規制・制御・統合すべく、法規

範・社会制度はどこまで人々の正義感覚の概念に相反するか、或いは、長期的視野に立っ

た個人の正義感覚がそうした法に同調していくのかは、事前には判断し得ない問題であっ

て、これは多くの条件に依存しているのである。しかし、正義感覚と関連づけられる法は、

価値合理性・目的的合理性・道徳性などの要求に伴うと同時に、中立性(impartiality)・

公正性(fairness)・公平性(equity)などの要求に従うから、全ての個人の動機づけとし

ての正義感覚の構想を正義感覚の概念によって同調・共通する潜在的可能性を有している

といってよいであろう。この文脈においては、今後「区別」と「差別」を同義語として扱

うことは、徐々に少なくなると言えよう。法曹または立法府、行政府のみが法と正義を独

占する問題に対しては、原理的に正義感覚を通した「法の開放」を土台として、最終的に

正義感覚の主体的関与を中核とする法的思考によって基礎づけつつ、1 つの平等規範による

秩序だった市民社会を構想する、という解決策を考えるべきである。

第3項 優先処遇の問題

このような、差別を受けてきた特定の対象を優遇するといった立法目的の背後にある法

的思考は、平等の視点から区別の合理性を有するといえるかの検討を要する。その検討に

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371

当たっては、「個人の尊重と公共の福祉、家族生活における個人の尊厳と両性の平等690」を

考えるべき一方で、優先処遇と保護主義により実質的平等を図る措置についての合理性を

検討する必要もある。優先処遇という立法手段の合理性は、このような立法考量の目的か

ら導き出される。すなわち、「社会内での不平等を除去しようとするときに、単に各人を形

式的に平等に扱うのでは足りず、むしろ社会的弱者や被差別者を優遇する措置をとること

によって、実質的平等を達成すべき場合が生ずる。……優先処遇は、歴史的に本人に責任

のない差別によって虐げられてきた人々に対して、現に存在している差別を解消するため

にとられる措置であり、積極的に評価されなければならない。この優先処遇の当否はその

具体的内容によって判断されるが、優先処遇それ自体を直ちに平等違反と解してはならな

い」691。優先処遇はその対象者を社会的弱者に制限するのであり、女性・子ども・高齢者・

障害者など特別なニーズを持つ社会的弱者への特別の配慮である。

しかし嫡出子は法的地位によって優遇されているのであり、その優先処遇の社会的背景

から考えれば、もともと嫡出子の社会的評価と地位は、社会通念において非嫡出子より高

いものとされてきたと思われる。例外的諸事情を捨象した概言が許されるならば、法律上

または社会的に、非嫡出子が嫡出子と区別され、冷遇・虐待の歴史があったといえるであ

ろう。それは特にキリスト教の影響を受けた一夫一婦制・婚姻の神聖性が強調されるよう

になってからである692。もともと優遇されている嫡出子に対し、それに加えて非嫡出子よ

り高い法的地位を付与することは、平等配慮の視点から本当に合理的だといえるであろう

かという疑問が出てきた。

注意に値するのは、最近の高等裁判所の違憲判決の中では、現実生活から非嫡出子を事

実的に容認していくという国民感情の動向を捉えるようになってきたことである。更に、

世界レベルの「正義感覚」として、国際条約における児童権利の考え方や知恵が広く世界

690 「憲法13条が,すべて国民は個人として尊重されるべきであり,公共の福祉に反しない限

り,憲法その他の国政の上で,最大の尊重をすべき旨を定め,また,同24条1項は,婚姻は

両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本とする旨定め,同条2

項が,相続,婚姻等及びその他家庭に関する事項を定める法律は,個人の尊厳と両性の平等に

立脚して制定されるべき旨を定めていることを十分に考慮して判断されるべきである」。名古

屋高裁平23(ネ)866号遺留分減殺請求控訴事件。 691 戸波江二『憲法(新版)』(ぎょうせい出版社, 1998)212-3 頁。 692 高橋敏「非嫡出子の相続法上の地位⑴」比較法制研究第 7 号 65 頁(1985)参照。

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各国の理解と主体的関与を得たものと言えよう。日本政府は平成6年(1994 年)にこの共

通認識の下で『子どもの権利条約』を批准した693。

高等裁判所は、上述の理由を考慮し、社会生活の事実や公知の社会事情を指摘したとと

もに、国際条約と国際社会の事実的動向から見て、憲法における法の下の平等の理念に照

らし問題があると考えた。そして、優先処遇という立法目的を肯定すると同時に、本件規

定において「適用条件の不在」を理由として優先処遇の必要性を否定し、本件規定は憲法

14条1項に違反して無効というべきであるという判決を下している。

社会的生活における自然と人間の本性的な限界や偶然性、あるいは歴史的・社会的・運

的偶発性において、自由は等しくないということは周知の事実である。例えば、政治参加

において一部の人がより多くの投票権をもっている場合、政治的自由は等しくない。また、

非嫡出子の法定相続分が嫡出子のそれの2分の1であることもそうである。違憲判決が出

る前においては、非嫡出子の法定相続権は嫡出子の相続分の 2 分の 1 と規定されることが

一定の妥当性をもっていると思われるのである。しかし秩序だった社会の下であれば、こ

うした不平等な自由=権利が存在する中でどのような手引きが必要かを問わなければなら

ない。社会制度編成に合理的理由がない差別は、疎外された当事者に対する社会の事実上

の「差別・偏見・蔑視・敵視」などの感情を助長し、こうした人間を社会から排除する一

方で、正義感覚を有する人間本性の本来の姿を歪曲させる恐れもある。こうした制度編成

は直ちに改められなければならない。

平等の理念の最も重要な任務の 1 つは、社会制度の恣意性の抑制によって「排除的社会」

を克服することである。しかし伝統的な平等の理念は、もはや失効してしまっている。 そ

れは、ある立場からすれば、平等を正しく理解されなかったためと言われ、ある立場から

すれば、我々の住んでいる世界が変わって平等要請の内実を変化しまったためとも言えわ

れる。伝統的な平等の目標は同一性としての平等であり、個人はそれぞれの属性や様態を

無視された同等で平等(同一)な人間として扱われる694。近代社会制度の合理性を付与す

る契約論の中で想定された諸個人の社会的身分は同一・無差化されたものであったが、近

代的平等の基礎を支えるものは社会的合意形成の主体の同一性ではなく、個人の差異に配

慮する上での平等である。このような平等主義の立場からすれば、構造的弱者・障害者は

693 日本は『子どもの権利条約』を 1990 年 9 月 21 日に署名し、1994 年 4 月 22 日に批准した。 694 竹内章郎『現代平等論ガイド』(青木書店, 1999)14 頁参照。

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必然的に差別・排除せざるを得ないのであって、そこには等しい自由な生き方があるわけ

ではない。

後期近代の平等の目標はそれと異なり、資本主義体制ないし市場関係において相対的な

経済的搾取をなくすことであり、能力・業績主義により多様化する社会への移行を通じ、

自己実現と平等主義的アイデンティティを充足させるものであることが要請された695。社

会は個人を社会的主体として取扱い、承認感覚の不全或は存在論的不安を解消するにあた

って、政治的・経済的包摂だけでなく社会的・文化的側面から分析し、且つ法的ニーズの

把握した上で、包摂のプロセスを見出す必要がある。差別されたと感じた場合、開かれた

社会としての可能性は人々の正義感覚に訴え、違憲審査などの手段を通じて平等権を回復

しようとし、これに依拠して社会的包摂を目指そうとする積極的実践を行うのである。

事実と規範という二分法の思考様式によれば、自然法を実現するためには人為的な強制

手段を必要としないが、これに対して実定法は何らかの人為的な強制手段に頼らざるをえ

ない696。第1節において考察した事例のように、嫡出子として、または非嫡出子として生

まれたという出生の事実に対しては、当事者は自分の意思や努力で意志的にコントロール

できない、つまり出生事実という結果は自分の自由意志によって左右できないのである。

したがって、自由意志を行使した人々(親)の結果を、自由意志を行使しなかった、或は

自由意志を行使できなかった人々(子)が負担することは、社会制度編成の恣意性を示す

不正義であるといえるだろう。すなわち、自然的な差異は事実として一定の合理性を有す

るが、人為的に擬制される社会制度的区別において、もしこうした擬制的な隔離の合理性

が十分に説明できないならば、こうした制度的区別は正当性を持たないので、改正される

必要がある。社会制度を編成するに当たっては、できる限り主観性や恣意性を排除しつつ

も科学性や客観性をもたせることが重要であり、国家の役割、権限および責任を予め明ら

かにしておき、それに基づいて制度編成を行うことが効果的・効率的であり、よりよい善

き生を構想する上で重要であると言える。

第4項 差別と区別との本質と限界

695 竹内章郎『平等論哲学への道程』(青木書店, 2001)285-9 頁参照。 696 ハンス・ケルゼン(黒田覚・長尾龍一訳)『自然法論と法実証主義』(木鐸社, 1973)7 頁参

照。

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言うまでもなく、「婚姻関係」による出生と「婚姻外の関係」による出生との差異は社会

的事実関係上の差異として、外形的客観的に存在する。周知のように、人間の社会生活に

おいて完全に同等な事実はほとんど存在しないのであるから、社会的その他種々の事実関

係上の差異を理由としてその法的取り扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有

する限り、差別または蔑視ではない697。法における平等の理念は自由とともに、常に最高

の目的とされてきたが、合理的理由のない恣意的な差別は許されない。「具体的生活事実の

不圴一による法的取扱の不圴一」ということは特定の場合において必要性が認められるも

のの、法的取扱の不圴一は常に不明確さを伴うのであって、それについては再考する必要

があると考える698。前述したように、事実的差異がどの程度規範的差異に影響を及ぼすか

を判断できるのであれば、法的取扱の不圴一をめぐる必要性と合理性を明らかにできる可

能性は高まる。価値と目的の合理性をもって妥当性を明らかにした上であれば、具体的生

活事実の不圴一による法的取扱の不圴一も説得的なものとなろう。

憲法における平等の規定に違反するかどうかは、法的な差別的取扱いに立法目的自体に

よる合理的な根拠があるかどうかによって決まる。合理的根拠がある場合、差別的取扱い

は単純な「差別」とは言えない。すなわち、平等の要請とは、「事柄の性質に即応した合理

的な根拠に基づくものでないかぎり、差別的な取扱いをすることを禁止する趣旨と解すべ

き」である699。

まず人は人間本性をもつ理性的でありながらも感覚的でもある主体として自然法則に従

って生きるべきであるとともに、社会の主体として社会規範に従って生きるべきである。

このような考えの下では、自然的な法則と人為的な法則とは同一の概念に属していないの

で、「平等≠等しい」という問題が生じる。「自然法則に従う出生」という事実的差異と、「社

会法則に従う位置づけ」という規範的差異との区別には、注意を払うべきである。

こうして、最初に事実的差異と規範的差異の 2 つに分類される。自然意味での差異は純

客観的な事実として物質的に存在しそのまま記述されている。しかし規範的評価をする際

に、「平等なのか」「不平等なのか」という価値判断は付与されるにあたって、それぞれの

697 最高裁昭和 37 年(あ)第 927 号同 39 年 11 月 18 日大法廷判決・刑集 18 巻 9 号 579 頁、同

昭和 37 年(オ)第 1472 号同 39 年 5 月 27 日大法廷判決・民集 18 巻 4 号 676 頁参照。 698 樋口陽一編著『権利の保障(講座憲法学第 3 巻)』(日本評論社, 1994)77-9 頁参照。 699 最大判昭和 39 年 5 月 27 日・民集 18 巻 4 号 676 頁、最大判昭和 48 年 4 月 4 日・刑集 27巻 3 号 265 頁参照。

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目的に応じた規範的差異は生じる。「等しくない」という「区別」は直ちに「不平等」とい

う「差別」を意味しない。規範的平等は各人の現実の事実的差異に着目して、それに応じ

た異なった措置(differential measures)を適用することの重要性を認めるものである。個々

の事例にふさわしい価値判断は「合理性」を持って、いわば「実践的合理性」という形で

現れる。この実践的合理性という考量は、さらに「価値」と「目的・手段」によって展開

され得る。例えば、非嫡出子の法定相続分事件において、法律婚の保護という価値から嫡

出子に優遇処置を与えるのに対して、非嫡出子の保護というヒューマニズムの目的から、

非嫡出子は法定相続分として嫡出子の 2 分の 1 であるがそれを受けられるという保護手段

が規定された。尊属殺規定においては自然的憐憫ないし普遍的倫理の維持という価値から、

尊属殺の加重罰は刑法上の手段として値するものと考えられていた。

ところで我々は事実的差異と規範的差異との関係を原因と結果との連続性として捉える

が、「価値合理性」と「目的・手段的合理性」は同質的な関係として捉えない。例えば、尊

属殺規定において、加重罰は価値合理性を有するとして認め得るが、加重罰の手段は目的

合理性の限界を超えたものとして違憲となり得る。

事実的差異に基づいた規範的区別に合理性があれば、差別と言えない。しかし、「合理性」

をもとにして平等を判断する場合、「平等」という概念は更に段階的構造を有するものとし

て捉えられるべきであり、その分析を中心に据えることこそが、「平等」概念を理解する上

で最も重要なことなのである。

平等の問題には判断を下す場合、基本的に、「平等」と「差別」との間には四段階の系列

を分けて考える必要がある。第1段階は事実的差異と規範的差異との区別である。事実的

差異は純粋で客観的な事実を複写素材としてそのまま存在論的に記述するものであり、解

釈を通じた意味づけの作業ではない。第2段階においては、事実的差異の無価値に対して、

規範的差異=法的差別的取扱いは価値合理性があるかどうか、 その別異の取扱いが必要不

可欠か否か、という価値判断が厳格に問わなければならない。もし価値合理性があれば、「平

等」という基準はこの段階における一時的な点検の目的を達成することができる。第3段

階において、価値合理性という条件を満たすこの「規範的差異」が、目的に対しての手段

としての合理性があるか、また、目的との実質的関連性を有するか、やむをえないと認め

られる必要最小限度(必要不可欠)なのものであるかを検討する。この段階で合理性は、

実際に本当に必要とされ実現されるべき法と政策の目的と、目的達成の為に取られる手段

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や技法としての制約・調整との間に合理的な均衡性を要求する。具体的には、適合性、必

要性および均衡性という 3 つの要素が要求される。

第 1 の要素としての適合性は、つまり手段が法や政策の目的を達成するのに適合してい

ることである。一般に、手段・方法・技法といったものが必要とされる場合、更にその手

段・方法・技法を、法・政策・原理が満たしているかどうかを確認する必要がある。これ

を適合性評価(conformity assessment)という。

第 2 の要素としての必要性は、つまり規制方法などが目的を達成するために必要最小限

(必要不可欠)なものでなければならないということである。自由の平等という要請は、

個人的な欲求や主観的な感情や物理的なニーズなどという多様な内部的な要素に注目しな

がら、外部的客観的な条件・情況に基づく制約を免れない。しかし、外部的客観的な制約

は内心的な権利要請の自由に深くかかわる問題であるから、それは必要最小限度のもので

なければならない。

第 3 の要素としての均衡性は、つまり価値実現の目的に対して制約の程度の大きさが比

例的に対応していることである。法や政策の目的は法的時空と共に変容しながら手段との

バランスを維持・均衡し、特に価値と目的、目的と手段との不整合性によって引き起こさ

れる様々な問題を克服することを目指すのである。

第1段階から第3段階までの基準を全部満たせば、更に、第4段階において「正義感覚」

を通して道徳性的平等という基準を以て私たちの良心に問いかけることとなる。これは「公

正としての正義」という目的を達成する為の根本的要求である。

近代市民社会以来の、市民の主体性を尊重する立法は、最優先に各個人の自由を最大限

尊重すべきである。正義および不正義の感覚、正義に関する共通の理解は、自己決定のみ

ならず自由を支える最も強い根拠をも提供してくれる。正義感覚は、社会の全構成員が最

も広範な制度編成において平等な基本的諸自由を対等な権利として有すべきだという考え

方を提供する。他の基本的自由と相互に衝突しないかぎり、基本的自由は制限されたり消

減したりしないのである。すなわち、自由は自由自体のためにのみ制限されうる、という

ことを自由の優先権が意味する(TJ, pp.52-6, 214-220/83-9, 328-38 頁参照)。これはロー

ルズ『正義論』の中における、正義原則における自由の優先性という原理からの提示され

るものである。

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しかし、我々はその制限される自由の程度が合理的なのかを判断する時、また自らの自

由が不法に侵害され制限されるかを判断する時に、常に人間社会において正義感覚が醸成

するところの主体的関与に直観的に訴え、異議の申立てを行うことができるのである700。

法的空間から考察すれば、その空間の中の正義感覚は 2 つに分かれる。すなわち、「全体

社会における共同感覚」と「部分社会における共同感覚」である。この区別においては、「社

会において存在する公共空間の領域範囲には、国家のレベル、地域のレベル、集団のレベ

ルが一応区分され、それぞれの内で活動する諸個人を含めて一定の制度射程の区分が含ま

れてもいる」701。ここで、注意すべきは、公共空間の領域的範囲においては組織化・制度

化されたもの(特に国家レベルの公共性)が特に重要視されている一方、組織化・制度化

されないものには、例えば、個々人のニーズという価値そのものはそれ自体では公共的な

ものとはあり得るか、また個人的ニーズを公共性という視点からどうとらえるか、公私の

異なった要素がどう関連するか、法的取扱いの差異に焦点に置くかといった視点の置き方

についての課題がある。この視座を踏まえて少数者は、部分社会をめぐる社会通念、すな

わち多数者の正義感覚の変化を引き出し、異質性の理解、多様な差異の承認と尊重、普遍

的な主体的関与という普遍主義的な異質性理解を要請する。

普遍主義的な異質性理解を要請している主体的関与は、異なる多様な価値観・倫理観の

共通する潜在可能性を前提とする正義感覚に依拠する。したがって、主体的関与可能な空

間の範囲は、この正義感覚の基礎をなす共通認識・理解を有する人々の集合として把握さ

れる。しかし、正義感覚の「共通性」の範囲は全体社会と部分社会においてどこまで及ぶ

のか、また、どの程度の強さで関連し影響し合っているかのかが問題となる。現在、共通

可能性という問題は市民社会において「共通なもの」という社会的公共性の概念につなが

り、それは「正義」という抽象的な価値追求としてしばしば現れ702、公共性に関する範囲、

700 アリストテレスによれば、正義および不正義の感覚は人間に特有のものであり、また正義に

関する共通の理解を人間が分かち合うことによってポリスが形成される。Politics, 第 1 巻、

第 2 章、1253a15。アリストテレス(山本光雄訳)『政治学』(岩波文庫, 1961)35 頁参照。(牛

田徳子訳)『政治学』(京都大学学術出版社, 2001)10 頁参照。 701 長谷川晃『公正の法哲学』(信山社, 2001)96 頁。 702 例えば長谷川晃は、正義を「正義としての公正」という理念を考えている。「正義とは、自

由、平等、効率性のバランスを司る公共的価値であり、さらにその機能はこのトリプレックス

を適切に処理できる独自の内容的枠組に依拠しているのである。」(136 頁)その目的を提示し

た上で、具体的な構想内容は、「正義という価値の内容の一解釈としては、公正の理念が意義

深いと考えられる……公正の理念は 2 つの原理を含むと考えられる。すなわち、均等な個体

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主体、手続、理由基底などの形で議論されてきた。例えば、公共性とは、「我々が依拠する

理由が、単に我々自身の行動根拠であるということを超えて、他者の行動を統制する統治

権力によって執行される政治的決定を正当化しうるものであるためにはもたなければなら

ない特別の間主観的な規範的地位」を意味する703。

特に現代社会のように、自然と人間社会を含めた広い意味での生活環境が多様化し、世

界的な地球規模化に伴い価値観が多元化・個性化しつつある状況にあって、共生社会にお

いて生活している人々は同じ正義の<概念>(concept of justice)について、さまざまな異

なった正義の<構想>(conceptions of justice)をもっている。多元的で多様性に富む共生

社会における人間の存在様態と価値観念の分散化と別個化のうちに、諸価値の共通統合・

共通的正義感覚の形成という問題が顕在化してきている。「こうした諸価値の組み合わせや

相異なる構想が共通に有している役割によって、その内容が明らかになるものと見なして

も無理はあるまい(TJ, p.5/8 頁)」。異なる正義の構想を抱いている人々に対して、異なる

善き生の諸構想がそれぞれ多様な目標や範型を求め、特に現実生活がもたらした利益関係

においてそれぞれの利害をめぐって相対立する要求をする中で、「正義概念」についての共

通する正義感覚による適正な折り合いのルール、すなわち正義原理が存在する場合には安

定した社会秩序を維持することが可能となる。そこに共通する正義感覚の主体的関与は普

遍主義的要請であり、それは「自己と他者の措かれた状況のみならず、自己と他者の視点

を反転させたとしてもなお受容すべき理由により、自己の他者に対する要求が正当化可能

か否かを我々に反実仮想的に吟味・テストさせる」という「反転可能性 reversibility」の要

請である704。

もし我々が主体的関与の普遍的要請を、全体社会と部分社会における感覚者の数量的差

異として理解すれば、主体的関与の普遍的要請は多数者の正義感覚に置き換えられるであ

抽出の原理と資源配分の実質的公正の原理である。公正は、まず均等な個体抽出の原理によっ

て、問題とされる資源の不均衡の性質に則しながら考慮の対象となる等存在(Equals)とし

ての単位(例えば同等な個人)をまず定め、それを踏まえて、資源配分の実質的公正の原理に

よってその単位間での資源の均等化を要請する。」長谷川晃『公正の法哲学』(信山社, 2001)202-3 頁参照。

703 井上達夫編『公共性の法哲学』(ナカニシヤ出版, 2006)6 頁参照。 704 井上達夫『他者への自由』(創文社, 1999)223 頁以下参照。また、井上達夫『公共性の法哲

学』(ナカニシヤ出版, 2006)22 頁参照。「反転可能性」と「共約不可能性 incommensurability」との問題意識の対立については 㟢幾つかの疑問が提示されている。宮 文彦「法哲学はいかにし

て「政治」を語り得る/得ないのか」公共研究第4巻第3号 151-8 頁(2007)参照。

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ろう。しかし、質的側面からみれば、「非嫡出子が少数者として民主過程における代表を得

難いことが明らか705」であり、こういった、現実に構造的少数者に属する部分社会には、

部分社会としての固有の感覚特徴が存在しているのであって、その存在を全面的に否定す

ることは妥当ではない。主体的関与理論の中で、「主体的関与」という概念はその部分社会

(構造的少数者)における正義感覚を全体社会(多数者)における正義感覚と対比させる

だけではなく、規範的考察の出発点としての意義を有する。ここで主体的関与とは、⑴一

定の情緒的および感情的な生活事実を基礎とする感覚であって、⑵人間の社会的存在とそ

の生活世界のあらゆる諸様態を一応受容し得るような規模の寛容性・包容性・包括性を持

ち、⑶そして、種々の関係の対抗・利害の対立・価値の紛争を含みながらも、なにより根

底的な利害関心の共有・共同生活・共属感情という正義感覚の生成過程によって結ばれて

いるものである。

第 5 節 ロールズ正義論の拡張解釈から中国問題への示唆

本節ではこれまでの検討結果を要約した上で、公共理性、リベラルな政治文化、正義感

覚および再認というロールズ正義論の拡張的解釈基盤から中国社会の現実問題と現代正義

理論の接点を整理する。そして、そこからロールズ正義論の拡張解釈から中国社会におけ

る格差問題と差別問題への示唆を引き出すとともに、拡張解釈の方法論的枠組の活用が正

義に対する相対主義的な価値主張を克服するための有益な共通基盤となるだろうとの結論

への到達を試みる。さらに、これらの検討を踏まえたうえで、最後に残された課題を指摘

する。それは経験論的現実主義で経済発展という大きな結果を得た中国が積極的に正義へ

原理的にコミットメントする可能性であり、経済的な力と国情論に深く関わる、無視でき

ない実践的課題である。

第1款 中国におけるロールズ研究の現状と問題

体制改革や社会制度の転換の中にある中国社会における社会的不正義にいかに対応でき

るかを問うことが中国における社会科学の大きな学問的課題であると共に、現実的社会へ

の挑戦でもある。それは政治制度や経済制度のみならず文化制度そして日常生活と多方面

にわたる課題であることは言うまでもない。そして今、現に様々な学問領域でそのような

705 大阪高裁決定平成 23 年 8月 24 日遺産分割審判に対する抗告事件、判時 2140 号 19 頁参照。

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模索が行われている。現代正義論の視点から指摘されるように、今中国にある諸々の社会

的不正義問題は、アジアや欧米において現代社会の形成に向けて大規模な社会変動によっ

て生じた問題と同様に社会諸制度の妥当根拠に関わる問題であり、そしてそれらの諸制度

から全ての社会構成員に期待される適切な行動様式と生活様式(感情や観念等に関する様

式も含む)、それらを背後で支える豊かな感性と規範性に関わる問題でもある。

中国社会の伝統的な権威主義・集団主義的政治体制や制度は、自由で民主的な政治の要

求や、市場経済の発展とそれに伴う社会的格差と構造的差別といった現実に直面し、変革

せざるをえない。このような認識の中で、中国における諸々の社会問題に対する理論的・

現実的帰結は社会的正義によって社会的格差と構造的差別を如何に対応させ、これらの相

反する諸価値をどのように調和させていくか、というところに問題がある706。私はロールズ

の正義論を 1 つの手かがりとして考察していくことにした。ロールズ理論に関する研究は、

何よりもそれが中国社会研究全体に大きく影響するものである。彼の理論に解釈に基づい

て、我々は新しい見方を提示することができるようになるだろう。たとえ正義論が転換期

にある中国社会問題に関して全ての答えを提供してくれないとしても、それを活用するこ

とは我々が直面する諸問題を解決する手助けとなってくれることであろう。

既に序章で指摘したように、中国において正義の論考は主に政治領域で行われるのに対

して、日本及び欧米においては哲学と倫理学といった規範理論の立場から考察をすること

が多い。すなわち、欧米や日本の社会理論においては規範的分析を最も重視する手法によ

る社会科学研究が為されるのに対し、中国では、法に対する政治の優位や法制度に対する

政策的な主張及び政治的判断が優位に立っているということである。これにより、政治に

も経済にも従属しない独立した「法の支配」及び「法治国家」への転換が強く求められる

ようになった。「改革開放」の指導思想である「摸着石頭過河(石に触りながら川を渡る)」

706 中国に関連する視点からアジア社会における価値衝突と統合の問題について論じたものと

して、長谷川晃『公正の法哲学』(信山社, 2001)III 部 2 章を参照。そこでは、法実践を法

原理と制定法、法運用に区別した上で、「一定の複合性の内で柔軟に形成する」法、つまり「法

のハイブリット化」が現時点における中国法の発展という困難な問題の解決に一定の役割を果

たす、とされている。しかしながら、ハイブリットな法においても、異質な価値の緊張関係が

存在し続けていることから、対立する諸価値観の緊張関係とそれらの間のダイナミズムの問題

が残されることになる。これについて長谷川晃は、「法は全体として最終的には一定の正義観

念を基軸としながら、法原理をめぐる解釈を通じてその法原理の許容範囲に従って統合されて

ゆく傾向にある」と述べている。

Page 394: 公共理性と正義感覚による主体的正義論 : ロールズ正義論の拡張 … · II ジョン・ロールズの論文 1951. Outline of a Decision Procedure for Ethics

381

は、規範理論上の妥当性を問題とせずに実際的にやってみることでその考え方と方法の妥

当性を検討するという中国社会科学哲学における主流思想となっており、中国の経験主義

的哲学傾向を鮮明に表しているものであると思われる。つまり、法及びその他の社会科学

は事後的な説明を通じて政治の目的とその正当性を達成するために役立つにすぎないと位

置づけられるのである。こうした経験主義的哲学傾向の特徴を大きく 3 つにまとめてみる

と、第 1 に、結果を重視すること、つまり政策や社会的意思決定の正しさを、その結果と

して生じる効用(功利性、有用性)のみにより判定を行うという帰結主義が挙げられる。

第 2 に、結果の総量を最大化すること、つまり政策や政治的行為の正しさとは、その政策

と行為によってもたらす利益或は社会的効果の総量の単純加算で判定され、個々人の充実

より総量の最大化を重視するという最大化主義が挙げられる。第 3 に、現実主義を擁護す

ることが挙げられる。これは、現実的社会問題を論理ではなく、実証的・実践的方法で検

討するということと、社会は常に発展変化するものであるから、社会的発展にとって有用

か否かの基準も常に発展するのであって、絶対的価値や普遍的妥当性は否定される為に、

社会現実に問われるものは常に相対的な価値にしかすぎないということである。例えば、

鄧小平が残した政治・政策についての「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫であ

る(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)」という「白猫黒猫論」はそれを端的に表してい

る。

以上の三点特徴を要約して一言でいえば、中国における政治的功利主義の基本的な特徴

は現実的な社会情勢判断に基づいているということである。ロールズの政治哲学は、中国

において現実的政治的な手段の合理性を論証する際に用いられているが、その際には制度

や公共政策の規範的妥当性の論証が意識的に回避されている。経験論的現実主義によって

経済発展という大きな結果を得た中国において、政治-法制度が積極的に正義へ原理的に

コミットメントすることは可能なのかという課題は未解決のままである。直截にいえば、

中国の政治-法領域においては、諸々の社会問題を解決する為の制度や政策の合理性をロ

ールズの哲学思想によって帰納的視点から事後的に説明しようとする。しかしロールズは

リベラリズムの立場に立って真正面から規範の妥当性を分析し、社会生活における一般の

正義原理を提起し、正義原理へのコミットメントを引き出していく構成的証明を行い、正

義原理についての、個々の主観を超えた本来の意味での哲学的普遍性を再確認する必要が

あると理解していたのである。ここに、妥当性の源泉を経験に求める論理と、抽象的原理

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382

や普遍的理性にそれを求める論理の相違が現れる。前者に立脚している中国には後者の視

点をどう受け止めるべきか、そのために必要な条件と基盤とは何かという問題に向かい合

い理解していくという課題がまだ残されている。

静態的な理論分析から格差社会の現実に目を向ければ、中国は、清朝末期にヨーロッパ

功利主義と遭遇して以来、その模倣を続けているのである。我々は経験論的現実主義・功

利主義に走る限り、適理性(reasonableness)を念頭に置くことはできず、目先の利益計

算(rationality)しか理解できない。そのような理解の下では、国家の将来や人々の将来は

見えざる手により簡単に操られてしまう。繰り返し強調するように、欧米や日本の資本主

義的政治体制の成功には功利主義的要素があるとしても、その体制の背後にある政治文化

において多くの非功利主義的要素が含まれていたことを、功利的政策を取る中国社会は忘

れてしまった。中国の政治哲学や法哲学は、功利主義を正当化するという無駄な試みが成

功していないにも関わらず、その正当化を欠いたままに経験論的現実主義によって支配さ

れており、功利主義に対抗するロールズの思想の根底にある「公正としての正義」に接近

できていないように思われる。この意味で、ロールズの正義理論を再認して拡張する作業

は、格差と差別問題を解決し、よりよい社会の実現と豊かな人間生活を目指す中国にとっ

て大きな現実的意義を持つと言えるであろう。

第2款 ロールズ正義論の拡張解釈からの示唆

功利主義を批判するロールズの正義理論は、中国の政治体制改革に対して直接的な影響

を与えることはないとしても、多元性の事実を背景として、自由民主化の発展及び市民社

会の観念の深化を伴う中国社会が抱える様々な格差・差別問題について、問題解決の糸口

を与えてくれる可能性があるものである。ただし、欧米の文化的・社会的伝統や価値観お

よび独自の歴史観と社会的事情を基礎にして成り立ったロールズの正義理論は、中国にお

いてはその思想的価値を充分に受容し得ないという理論的限界があるのではないかと思わ

れるのは確かである。しかし、私はこの問題を解決する突破の糸口が、ロールズの正義理

論それ自体に含まれていると考える。

ロールズによると、英語圏における規範政治理論の伝統は社会契約論と功利主義である。

彼はホッブズ以来の社会契約論の再構成を通じて功利主義的な倫理観念を本格的に批判し

ながら、公正としての正義を提唱し政治哲学の再生に寄与している一方で、ロールズの思

想が常に哲学と教育と不可分であることから、哲学的思考の中に教育的知見を見出そうと

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383

試みている。つまり、ロールズ正義理論は政治哲学であるだけでなく、政治的行為や活動

等政治現象を解明するにあたって、政治に対する関係における人間の本質および人間の政

治文化に関する究明を中心に据えた哲学的人間学でもある。その人間像を構築するために、

ロールズは以下のように言及する。「秩序だった社会の市民がお互いを自由で平等な者とし

て承認すべきものとするなら、基本的な諸制度は、そのような政治的正義の理想を公にし、

奨励するだけでなく、そのような市民の見方を市民自身に向けて教育するようなものでな

ければならない。そうした教育の仕事は政治的構想の広い役割と呼んでよいものに属する。

そのような政治的構想は、この役割を果たす限りで、公共的政治文化の一部である。(JF,

p.56/97 頁)」

以上の考察をもとにした、現時点における私の推測では、社会的安定性を守りながら中

国政治民主化の環境を整備する問題は、正義論の視点から見て、少なくとも以下の 3 つに

区別されるように思われる。

第 1 に、制度の正統性と社会の安定性との関係についてであるが、正義に適わない制度

の安定性を維持する必要性はない。もし制度を支える正義観念がなければ、その国家統治

の正統性を支える基礎は危ういということである。正統性を配慮せずに、単に社会の安定

性を求める主張ばかりをするものは、ただ「実力」を後ろ盾に、社会的および政治的諸制

度や法律等を「虚像」として被治者を支配する道具として用い、被治者に対する力による

支配をしているにすぎない。

第 2 に、市民的不服従と、社会不安・不満の緩和装置との関係についてである。市民的

不服従は決して社会の安定性に反するものではなく、むしろ自由選挙や独立した司法と同

様に、政治的共同体の少数者が多数派の正義感覚に訴えかけ自らの適切な訴求の再認を促

すことで、正義に適う社会を安定させるものである。市民的不服従は社会の不満や不安を

解消する装置として、司法、メディアや ADR、NGO・NPO 等における組織・機能等の拡

充強化との相互作用によって強固な制度的基盤の確立を図る。市民的不服従がその機能を

発揮することが今の中国にとって重要の課題であると言えるだろう。

第 3 に、権利的要請と社会的承認との関係については、市民の抵抗による統治危機を解

消するために、権力者の統治理念の変革が必要である。市民は、権力構造に抵抗しうる能

動的な存在として、被支配集団から自分達の理に適った権利的要請を統治集団に発信し、

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384

統治集団の再考を促す。それに伴い、中国では、社会的正義の最優先課題として、政治制

度改革の方向性とその実現に向けた政治文化の型の転換が焦点となっている。

更に踏み込んで言うと、ロールズ正義理論は中国の具体的な社会実践問題に対して、少

なくとも 3 つの意義をもっている。

第 1 に、分配関係を巡る、貧困や経済的不平等を是正する為の制度や政策の妥当性を考

量する際に、ロールズの正義理論は基本財の適切な配分基準を設定すると同時に、その基

準を導出するための方法論的視座も提供している。序章で述べたように、中国においては

急速な経済成長と共に激しい格差や貧困問題が発生している。農民工現象は既に説明した

ように、こうした社会的格差の特徴的な側面である。政府主導型の経済開発戦略を採用し

た中国は、効率的な自由競争を促進すべきだと主張するのであれば、自由競争を行うため

の、資源への平等なアクセス及び平等な競争環境を作りださなければならない。つまり、

競争の「自由」にとって、「平等」の充実はきわめて重要な前提条件となのである。この「自

由の平等」を重視する態度はロールズの正義理論の核心をなし、第1原理を通じて明確化

されるとともに、第2原理との関係を通して、自由の尊重から一定の平等の保障を図る理

念を示す。この意味で、中国ではまず平等な自由と権利の保障を実現しなければならない707。

従って、格差の是正の為に、先富論に起因する経済的社会的格差の拡大や富裕層と貧困層

の固定化問題について、公正な配分原理の視点から検討しなければならないのである。人

民が実質的に自由を享受できるように、公正な社会制度や公共政策について検討する必要

がある。不平等問題を解消するために、配分的正義というテーマは中国にとって重要な現

実的意義を有している。

第 2 に、リベラルな平等主義の基本的方針は、単なる自由のみの保障から一定の平等の

保障をも含めたものへと拡張していく。その変化に関連して、中国では平等についてのプ

707 「国家による自由」とは一般に、国家が介入することにより国民が得られる自由ないし権利

のことをいう。「国家からの自由」と対にして用いられることもある。一般に自由権を意味す

る「国家からの自由」に対し、国家による自由は、社会権を意味する。自由権は、基本的人権

の 1 つであり、国家から制約・強制されずに自由に物事を考え、行動できる権利である。「国

家からの自由」とも言われる。自由権は、精神的自由(内面的自由と外面的な精神活動の自由)、

経済活動の自由、身体の自由に大別できる。バーリンは消極的自由と積極的自由を区別した上

で、積極的自由の観点に対して批判的態度を示した。詳しく参照、Berlin, I., 1969, ‘Two Concepts of Liberty’, in I. Berlin, Four Essays on Liberty, Oxford U.P. New ed. 2002, pp. 121-2.

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レモダン問題とポストモダン問題が同時進行しているといえよう708。プレモダンの問題は、

社会的身分709・門地・出身等の付与された観念に基づく身分制度・人格差別である。つま

り、中国では単なる経済成長を求める「経済中心主義」によって、様々な社会的問題が経

済的問題として一括りにされているが、民族・地域・性別・世代間などの「配分的正義」、

あるいは「経済的平等」で解消できない社会的差別問題がまだ残っている。欧米では、「国

民は等しく自由を保障されなければならない」と説かれ、このことは、国家の近代化にと

もなって憲法にも謳われた。このように西欧やアメリカにおいてはまず「自由の平等」が

要請され、そのために中世以来の身分制度が解体された。上述のとおり、中国でも清朝の

滅亡を以てあからさまな身分制度は消滅したが、社会的身分・門地に基づく差別は戸籍制

度によって維持されており、また、「幹部と民衆」という身分的区別が社会的資源の配分に

強い影響を与えており、それが社会的格差にまで直結しているのである。樋口陽一の説く

ように、フランス革命による「近代化」の意義が、中世の伝統的な身分制度を解体してそ

の国に暮らす個々人全てを「国民」に一元化し、国家を構成する主体として等しい地位を

保障したことにあるならば710、中華人民共和国の建国後、形式的には憲法において全て人々

が「人民」とされたものの、実質的には「官僚」や「党員」といった身分が法制度として

設けられ維持されてきた中国は、未だに「近代化」を迎えていないということになる。ま

708 この動向は既に長谷川晃から指摘されている。彼は日本社会における正義原理の受容の視点

から、規範伝統の現代社会の受容について次のように述べた。「第 1 に、『法の支配』の内

容は夜警国家から福祉国家、そして福祉社会へという変化の中で、特に自由の保障から一定の

平等の保障へと展開しており、またその方向はイギリスからアメリカやフランスへ、そこから

ドイツや日本へ、またアジアやアフリカへといった幾つかの経路で分岐していると言えよう。

この点は第 2 に、現代日本における『法の支配』の意義の問題につながる。プレモダンとポ

ストモダンとが同時進行している日本において、モダンな『法の支配』がいかにしてよき社会

変革を促すことができるかは大きな問題である。」長谷川晃「『法の支配』という規範伝統

——1 つの素描」法哲学年報 2005 年 18-29 頁。 709 社会的身分とは一般に人が社会において占めている地位のことを指すが、禁止されるところ

の社会的身分に基づく差別について、日本の憲法学説では基本的に 3 つの見解が示されてい

る。1 つは、出生等の、自己の意思では変えられない社会的地位(宮沢俊義『憲法Ⅲ〔新版〕』

(有斐閣, 2001)284 頁)。もう 1 つは、社会において後天的に占める地位で一定の社会的評

価を伴うもの(田畑忍「法の下の平等」公法研究 18 号(1957)13 頁)。最後に、たとえば

年齢のように、広く社会においてある程度継続的に占めている地位(佐藤功『ポケット註釈全

書 憲法(上)』(有斐閣, 新版, 1983)113 頁)である。 710 樋口陽一『国法学人権原論〔補訂〕』(有斐閣, 2007)7-24, 43-70 頁。同『憲法〔第 3 版〕』

(創文社, 2007)27-43 頁。

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386

た、居住・移動の自由や職業選択の自由といった観点から見ても、中国の人民は、等しく

自由を享受しているとは言い難い。例えば、「農民工」という差別的身分概念は合理的であ

るとよく言われる。中国社会における「戸籍制度」は今なお存在しており、それによって

人間の平等性の条件が妨げられている。中国における社会的(階層)構造として表れた身

分社会を打破するためには、等しい自由や平等概念を以て再び中国社会を啓蒙することが

必要である。このように中国では、「法の下の平等」という形での自由権の保障が未だに実

現されていない。鄧小平の説いた先富論は、条件付きの結果の平等を実現することのみを

重視しており、人々が等しく自由を享受すべきことの重要性を看過していた。そのため、

結果の平等の実現に向けた方途を誤り、こうした競争の結果の勝者と敗者という差別的な

問題が制度的に固定化されてしまったともいえる。

その一方、ポストモダンの問題として、民族・言語・宗教信仰等に関する社会構成員の

背景的文化の多元性の重要視が指摘されている。そこでは、人間の外的側面としてのペル

ソナのみならず、内的人格をも陶冶する必要性が説かれる。「正」の諸原理と矛盾しない生

活様式と調和する「多様な善」の平等を追求するために、我々は社会制度編成においてど

のような政治文化を持つべきか、しかもそれによってどのように機能的に働きかけるべき

かという点については、まだ十分に議論されていない。これは、文化的背景の差異による

差別に苦しむ人の人権侵害問題として、人の身分(status)の差異それ自体ではなく、社会

関係の中で自らの生きる「意味」が承認されず偏見の烙印を押され、更には「意味」その

ものを剥奪されるその痛みと密接に関係している。こういった社会的差別問題にまで平等

論の領域を拡大することが要請されている711。この為我々は配分的正義を重視しながらも、

ロールズの言うところのリベラルな政治文化とそれを支える公共理性に注意を払う必要が

ある。そこに、再認による主体的コミットメントによって、正義感覚を生み出す契機が含

まれる。ロールズはこうした「市民的不服従」・「正義感覚」の視座から、再認は多数決ル

ールの限界を補完する機能を持つものとして、正義に適う民主的な社会体制の不可欠な構

成的契機であると考える。コミュニティのマジョリティに対してマイノリティが「再認」

を通じて正義感覚の覚醒を促すうちに、アイデンティティと社会的価値を保持するその感

覚が他者によって尊重されるとともに、政治社会の基本的秩序を成すものとしての対等な

711 遠藤比呂通『不平等の謎——憲法のテオリアとプラクシス』(法律文化社, 2010)173 頁参

照。

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387

配慮という規範的期待が重要視されるようになる。ロールズは具体的な「再認の方途」を

示さないが、私は公共理性・リベラルな政治文化・正義感覚および再認というロールズ正

義論の拡張的解釈基盤から「主体的関与」の原理とそのアプローチを提示し、同時進行し

ているプレモダンとポストモダンとの平等問題(社会的格差と構造的差別)に対して積極

的示唆を与えたい。

第 3 に、中国において問われる「社会安定」論と、ロールズの「秩序ある社会」論との

関係について説明しておきたい。ロールズの考案した正義理論によれば、秩序だった社会

を統制しうるのは正義の諸原理であり、社会構成員は、それらの原理を受容する過程にお

いて公正な配分と対等な配慮という目標を常に意識しながら、達成か未達成かを正義感覚

を通じて判断した上で、不断の公正化へと着実に進んでいく。つまり、社会秩序の形成は

上から下への管理運営によって為されるものでなく、下から上への、市民同士の支え合い

による結果なのである。そしてロールズは今日の民主化が下からの民主化として特徴付け

られると考えるが、これは中国において民主化をなす為の基本的方途をどう選択すべきか

についてのヒントを与えてくれる可能性もあるといえよう。

転換期にある中国は、自由で民主的な政治の要求や、市場経済の発展とそれにともなう

社会的格差・構造的差別といった現実に直面し、改革せざるを得ない。「発展」・「改革」と

「安定」の関係は、中国の政治−法制度や政策を検討する際に回避できない問題である。な

ぜなら、発展途上国である中国は経済の発展を目指すことを考えなければならない。それ

は社会進歩・福祉改善を支える物質的保証である。経済的成長のために、発展目標と相容

れない既存の制度や政策を変革する必要がある。改革は発展の動力となる。そして、社会

的環境の安定がなければ、不断の改革と発展は実現できない。つまり安定は改革と発展の

前提なのである。「発展」・「改革」と「安定」の関係は、目標・動力と前提と位置づけられ

る。しかし中国社会の現実に目を向けてみれば、経済的領域では計画経済体制から市場経

済体系へと改革し、市場経済を大胆に押し進めながらも、政治的領域では安定性の強調に

よって政治体制改革が阻止され、警察国家体制の傾向が強まり、指導される民主主義や社

会主義体制の堅持を図ろうとしているように見える。政治体制改革と経済体制改革は同時

に行われておらず、「発展」・「改革」と「安定」の三者関係は尻取り遊びのようになった。

事実、中国においては社会不安定化の要因として所得格差の問題が最も重要だと考えられ

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388

ている712。安定論故に政治体制改革が停滞するという問題は、秩序ある社会を対象として考

えられたロールズ正義理論から、どのような理論的な示唆を得ることができるかを探究す

ることは、ロールズ正義理論を研究する目的の一つである。

もちろん、ロールズの正義理論は立憲民主制という前提の下で組み立てられているのだ

から、中国の社会事情にこの理論をそのまま実践的に適用することはできないかもしれな

い。しかし、そのままの形で中国の社会政策として直接に実施されないとしても、その理

論を導く原理的思考及び社会制度の編成方法から見たロールズの正義理論には幾つかの拡

張・実践可能性がある。その理論的条件の解明と新しい拡張解釈の方法の検討が、中国の

政治哲学と法哲学の理論発展に意義深い示唆を与えることだろう。

第3款 残された課題

最後に、これまでの検討結果を踏まえて、中国社会における「格差と差別」問題の背後

にある諸要因を析出した上で、中国社会の現実問題と現代正義理論の接点を整理し、ロー

ルズ正義論の拡張解釈から「中国の政治-法制度全体がいかに構造的変容するべきか、さ

らに社会制度の要ともいうべき法律制度をいかに拡充するべきか」という次のステップへ

の示唆を引き出そうと試みる。これによって、中国社会の抱える今後の重要な課題を浮き

彫りにし、中国法の変革対しても非常に大きな成長のチャンスを与える示唆を得ることが

できるであろう。

このような中で中国が「正義」をどのように考えていくか、政治-法制度や政策におい

て正義をどのように位置づけるかということは法制変容を考える上で根本的な課題である

と言える。しかしながら、中国においてこのような深刻な法意識に根ざした形で現代正義

論を検討する学術的な研究は近年散見されつつあるものの、本格的な研究の端緒として評

価できる試みはこれまで無かったと言えよう。

本論文による研究成果は、中国の政治-法制度や政策とロールズの正義理論との接点を

整理・見直し、主体的正義論が可能となるよう正義感覚を拡張していくことによって、規

範的期待から見た中国法の変容の可能性も見出すとともに、それが抱える課題に対する今

後の研究への方向性を定めるものである。残された課題を示す前に、中国の政治・社会哲

学とロールズ正義理論との間にはどのような接点があるのかを概観しておきたい。

712 三浦有史「中国の「和諧」はどこまで進んだか」環太平洋ビジネス情報 9巻 35号 18頁(2009)。

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第 1 に、中国の政治哲学や政治文化の基本的特徴については、上述の通り、「白猫であ

れ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)」という

「白猫黒猫論」、或いは「石に触りながら川を渡る(規範理論上の正当性をものともせず

に、実際的にやってみながら、その考え方と方法の妥当性を検討するということである)」

という「摸着石頭過河論」などといった政治的指導思想が示すように、あるべき理想を追

求するよりも、むしろ現実に即して制度や政策を設定しようとする立場を重視する現実主

義的性格と、論理的思考や演繹的理論よりもむしろ社会的実践や政治的経験を重視する経

験主義的性格とが一体化している。これは「経験論的現実主義」と呼ばれるものである。

ロールズ正義理論は、カント的構成主義を通して多元的現実と直面することにより実証主

義を受け入れるリベラルな正義構想として、規範的政治理論と実証的政治理論との両立、

合理論と経験論との調和を可能とする傾向がある。彼自分が述べたように、「疑いなく両者

(合理主義と経験論——筆者)とも十分な妥当性があり、無理のないやり方でこの 2 つの

考えを統合しようと試みることは好ましいと思われる(TJ, 403-4/604-5 頁)」。

第 2 に、ロールズの政治的正義構想における市民教育は、立憲民主的な社会生活とその

運営の基礎になるものという観点を超え、現実の人生をよいものにすることを目的とし、

秩序や社会的正義にその価値を見出すという極めて人間中心的なものである。その意味で、

ロールズの正義理論は中国社会の伝統思想および政治理念と密接に関連し、極めて高い親

和性を持っていることを明らかにした。中国は伝統的に、政治哲学においても教育に重点

を置いて政治文化的環境の整備を行ってきた。「建国君民,教学為先」「化民成俗,其必由

学」(国を建て民に君たるに、教学を先と為す。/『礼記』学記)。つまり、君子として民

衆を教化化育しその風俗習俗を完全なものとするには、庶民や百姓にもある程度の教育が

不可欠である。政治は教育に奉仕する為に存在しているのである

第 3 に、胡錦濤指導部は共産党創立 82 周年を記念して行った演説で、「民の楽しみを楽

しむ者は、民も亦其の楽しみを楽しむ。民の憂いを憂うる者は、民も亦其の憂いを憂う」

との『孟子』の中の言葉を引用し、「人心が従うか背くかは、1 つの政党、1 つの政権の盛

衰を決める根本的な要因である」と訴えた。このような発想にたつ政治スタイルを、胡錦

濤流に一語に集約したものが、「以人為本(人をもって本となす)」という言葉であると

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390

見ていいだろう713。国家・社会・集団・組織といった場において制度や政策等を制定・執行・

遵守・改正する諸理由を、個人的な場における情動的要素も含めた人と人の関係から生じ

る現実的志向に還元しようとするという意味で、中国古代以来の「以人為本」の政治哲学

は、主体的関与によるロールズ正義理論の拡張解釈との親和性が高いと言えるだろう。

これまでの検討結果を要約すると、公共理性・リベラルな政治文化・正義感覚および再

認というロールズ正義論の拡張的解釈基盤から中国の政治哲学と現代正義理論の接点を整

理し、ロールズ正義論の拡張解釈から中国社会における格差問題と差別問題解決への示唆

を引き出すと共に、拡張解釈の方法論的枠組の活用は正義に対する相対主義的な価値主張

を克服するための有益な共通基盤となるであろうとの結論に到達できる見込みが得られた

が、これはまだ理論上の通用可能性の指摘に留まり、具体的にどのような問題をいかに克

服・強化すべきかを把握する必要があるということになる。正義理論の受容と拡張という

問題は、極めて多くの側面から分析される必要がある。その意味においては、本論文はそ

の中でも僅かな内容しか検討することしかできなかった。また、まだ積み残している問題

や詰めるべき点も残されている。例えば、正義の理論受容と拡張の背景を明らかにするた

めに、中国とアメリカの政治-法体制比較が必要とされるであろう。本論文では、歴史や

伝統、政治制度や政治文化といったレベルで各国を比較することや国民の政治意識・法律

観念の相違の分析することは十分に行うことができなかった。また、公共理性とそれに支

えられる政治文化の形成の為の市民教育や権利観念の改善に関する有効な政策を探ってい

くことも必要であろう。

正義の理論を「正義感覚を記述するもの」として理解する限り、正義原理の受容を実現

するためには正義感覚の量的豊饒と質的充実が必要であるという指摘が為されている。し

かし、「感覚」と訳される英語には数多くの単語がある。例えば、感情や感覚の強度を示す

意味からみれば、一般的強度での sense や feeling がある。一方、強烈な感情を表すのであ

れば emotion や fever や enthusiasm といった語もある。また、理性との関係で考えれば、

理性的判断を圧倒しがちな passion や主観的な感情を表す feeling がある一方、理性的な思

考による感情を表す sentiment もある。その他、感情の内容に応じた多くの語がある。例

えば「喜び」「哀しみ」「苦痛」「怒り」「嫉妬」「嫌悪」「軽蔑」「恐怖」「罪」「恥」「興味」「興

713 21 世紀中国総研「以人為本」

http://www.21ccs.jp/china_watching/KeyWord_FUJINO/Key_word_01.html, 最終訪問 2013年 2 月 28 日。

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奮」「驚き」等である。それぞれの感情の機能や役割の解明は正義原理の受容と正義感覚の

発揮に重要な影響を与えると考えられる。感覚概念の解明は、本論文に残された大きな課

題である。そこに残された最大の課題は、経験論的現実主義で経済発展という大きな結果

を達成した中国が積極的に正義へ原理的にコミットメントする可能性についての、経済的

な力と国情論にも目を向けた理論的研究である。中国にとっては、この研究の意義は、正

義を道具論的意味としてではなく、社会統治の根本原理として重視・容認し、正義に反す

る相対主義的な価値主張を自覚的に排除し、できる限り正義をより良い人間秩序を構築す

る基準として普遍に正当化していくことにある。しかし、現実主義と経験論に基づいた「改

革開放」路線を採用した中国にとって、急速な経済発展や膨大な人口という国情のうちに、

正義の観念を政治-法制度の最高指針及び自らの規範的期待として受容していくことは決

して容易なことではない。しかし、正義の受容の条件を国情や相対主義的価値主張から分

離して究明することは、人間存在の本質や自由の意義、社会の本来的な意図などを解明す

る実現可能性を高める有効な方法論ではないかと思う。それらについては今後の課題とし

たい。

小 括

第 6 章では正義への主体的関与(コミットメント)のあり方という課題に正面から取り

組み、ロールズ正義理論の拡張解釈をするために用いられた「関与(コミットメント)」と

いう概念を妥当化してくれるものとは何かという問題を中心に検討した。その上で、間主

体的関与の実践的条件とそれに期待される人間像を提示し、ロールズ正義理論の拡張解釈

から、序章で提示した中国社会の現実(社会的格差と構造的差別)への示唆を引き出し、

更に、残された課題を明らかにした。その結果、社会的正義への主体的関与を通じて、「公

正な配分」から「対等な配慮」、そして「自由の平等」へ漸次的に移行するということが明

らかになった。

第1節では、社会規範における規範感覚の位置づけを明らかにした。「紙の上の法」と「行

動における法」という二分法の視座によって看過された重要な第 3 点である「潜在意識に

おける法」は、新しい問題を提起するものとして、その意義と役割を明らかにした。正義

感覚を共有する人間行動が法の生成・維持・発展とそれぞれに応じた人間の再認・肯定・

批判に重要な意味を持つことを明らかにした。そして、正義感覚から見た多元重層の価値

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体系が過去においても現在においても未来においても矛盾対立性を有しながらも、市民的

主体性の自覚の深まりによる広範な関与能力の育成を通して社会の規範的な統御への志向

にまで規範意識を高めることができるというが明らかになった。

第 2 節では、主体的関与の実践的諸条件を明らかにした。4W1H という区別を活用す

ることにより、「自己-他者」の関係性についての間主体的関与論をより明確に理解するこ

とを試みた。まず、関与の主体(who)と内容(what)についてまとめ、それから更に、

正義感覚を媒体にした情動的認識を通して、恒常的かつ広範な関与的状況を時空間の枠組

み(when & where)を認識・規定した。換言すれば、正義感覚を媒体にした情動的な認識

は、社会的・文化的時空の枠組みに常に組み込まれている。最後に、社会的正義を理解す

るために、間主体的関与論の必要性(why)と可能性(how)についての概要説明をし、間

主体的関与論が市民社会の正義を求めることを強調した。実践的諸条件は社会正義の理念

の実現に積極的に関与している。公正さや正義との関係において主体的関与は、自由で平

等というそれぞれの個人の本来のあり方が尊重・承認されるような行動指針を提供し、そ

れによって様々な背景的文化の中にいる個人のあり方の多様性から生じる「等しい配慮」

や「承認の理由」を明らかにし、人々の自由の平等を達成するための主体的・心情的要素

を市民社会の構成員として積極的に重視・発揮すべきだという実践的示唆を与えることが

できる。そこで、積極的に主体的関与を行い主体性を発揮すべきだという要請の本質は、

様々な背景的文化において具体的な人間像にかかわるのである。

第3節では、正義感覚の衝突の深層にある原因は、自らの正義感覚を社会全体に適応さ

せたときに生じる問題にあることが明らかとなった。市民の対立や分裂の回避、感覚秩序

の維持と安定の確保および社会発展の促進を図るためには、常に強い人間像の想定による

べきではないのであるとし、リベラルな平等の観点からみた人間社会のあるべき姿を考え

ながら、主体的関与に期待される人間像を整理して提案した。そこでは、志向されるべき

ものとしての平等の同一性と異質性の統合を通じ、想像力・感受力・理解力・包容力を備

える豊かな人間性を育成することに主眼を置き、生命の尊厳や人間尊重、健全な価値観や

適正な倫理観などの基盤となる正義感覚を養い、それを基盤とした自由民主主義的社会に

おける法規範やルールの意義やそれらを遵守する社会的行為を解明しつつ総合的に理解し、

主体的に判断し、適切に行動し、責任をもつことができるような実践的な人間態度の基礎

を育てることが重要であると考えた。

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第4節では、ロールズの正義理論においては、こうした健全な人間である限り、その実

践性がいっそう充実・強化されていくことが予想されていることに言及した。主体的関与

の法解釈を巡って能動的・実践的・政治的主体は自ら積極的に社会へと働きかけることに

よって、感情的要素の欠落した、理性だけに依拠して市民像といった合理主義の、いわば、

「固い」理解に、実践上共感的反応を伴う情動情緒的効果から見た市民像といった経験論

のいわば「柔軟性」を統合しようとすることにより、平等で自由な市民から、自律する市

民を経て、能動的正義感にあふれる市民に至るのであり、その点に着目した法の解釈基準

を更に展開していく必要があろう。この必要性と展開の方向性を、非嫡出子の処遇を巡る

法的思考の在り方を通じて説明した。

第5節では、これまでの検討結果を踏まえ、公共理性・リベラルな政治文化・正義感覚

および再認というロールズ正義論の拡張的解釈基盤から中国の政治哲学と現代正義理論の

接点を整理し、ロールズ正義論の拡張解釈から中国社会における格差問題と差別問題への

示唆を引き出すとともに、拡張解釈の方法論的枠組の活用は正義に対する相対主義的な価

値主張を克服するための有益な共通基盤となるだろうという結論に至るであろうことが明

らかとなったが、現時点においては理論上の通用可能性だけの指摘をするに留め、具体的

にはどのような問題をいかに克服・強化すべきかを把握する必要があるかを示した。残さ

れた課題としては、例えば、正義理論の受容と拡張の背景については、中米の政治-法体

制比較に関しては、国の歴史や伝統、政治制度や政治文化といったレベルでの両国比較や

国民の政治意識・法律観念の相違の観点からの分析についてはまだ不十分である。また、

公共理性とそれに支えられる政治文化の形成については、市民教育や権利観念の改善の面

での有効な政策を探っていくことも必要と考えられる。そして、正義の理論は正義感覚を

記述するものとして理解される限り、主体的関与が現実的に機能するには、正義感覚の量

的豊饒と質的充実が必要と指摘されるが、その点は本論文に残される大きな課題となろう。

そこにおける残された最大の課題は、経験論的現実主義で経済発展の巨大な成績を取得し

た中国が積極的に正義へ原理主義的コミットメントする可能性であり、経済的な力と国情

論に深く関わる無視できない理論的研究であると指摘した。

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結 語

ロールズの正義理論は、公正な正義を確立するためのシステムと、そのシステムが機能

するために必要な人々の条件という2つの要素によって構成されている。このようなロー

ルズの正義理論には、政治哲学と哲学的人間学が含まれているといってよい。しかし、政

治哲学の中で諸目標が設定されても、哲学的人間学という基盤を整備しないかぎり、実際

に正義論における理論構築から制度確立、そして諸目的の実現に至ることは困難であろう。

なぜなら、ロールズの正義理論の出発点と帰結点は、自由で平等な市民像という前提にあ

るからである。正義の理論は自由で平等な市民のためのものであり、理論の目的は自由で

平等な市民の諸権利を制度確立の形を通じて保障して実現することにある。そして、この

理論は善の構想と正義感覚という 2 つの道徳的能力を有する、自由で平等な市民にしか理

解・適用できない。この哲学的人間学の基盤を解明するという意味において、本論文では、

おもに後者、すなわち哲学的人間学としての正義理論を概観した。そこで説かれていたの

は、自由で平等な市民という人間像であった。ロールズの想定する人々とは、他の市民か

らみても理に適っており、かつ合理的に思考する能力を有する、自由で平等な人々である。

このような人々は、正義感覚をとおして理に適った目的を識別することができ、公正な社

会的協働に関与できる。このような人々によって構成される政治的共同体では、秩序と安

定が確立される。

ロールズは、基本的には格差を是正しなければならない理由の解明を試みてきたわけだ

が、一連の正義理論において、「格差より差別、無視が問題」であると指摘したことは、正

鵠を射ている。差別されること、存在を無視されることは、格差以上に恐ろしいものであ

る。人々は、一般的に、自己と関係のない相手、自己に影響しない制度について理解しよ

うはしない。また、政治的共同体の制度編成に関与したいと思っていたとしても、制度編

成に対する自己の関与の影響力を過小に評価して傍観するのみである。社会的正義との関

わりを回避しようとする心的態度について、ロールズの正義理論は、格差の問題のみにと

どまらず、社会的差別、蔑視、無視の問題をも理論的射程に含めている。そのため、ロー

ルズの正義理論は、哲学的人間学ともいうべき特徴を有することになる。ロールズは、人々

の主体的関与に着目することにより、正義理論の射程を拡張させ、多角的な再認をとおし

て、人々の規範意識と社会において確立されている規範とが錯綜し、融合しうる環境を確

立することにより、正義理論の効果的な実践が可能だと説く。

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本論文では、上記の内容を確認するために、従来からの通説的なロールズ理解に修正を

迫った。ロールズにとって何がより根本的な問題なのかを解明するために、この作業は不

可欠であった。「理性」、「正義感覚」および「再認」という概念の再検討は、ロールズの正

義理論を解明するための有力な手がかりとなった。序章では、転換期にある中国社会の現

実から、政治・経済・文化等の多分野において「格差」問題がますます顕在化しているこ

と、政治文化と社会構造に根ざした「差別」問題も深刻化していることを指摘し、ロール

ズの正義理論を手かがりとして、中国の事情に即した現代正義論を研究する必要性、そし

てロールズ研究の意義を論じた。

第1章ではロールズの正義理論を再考するため、その理論的背景を整理した。ロールズ

によれば、立憲民主主義における政治的決定が公正といいうるための条件には「配分的正

義」および「平等の要請」が含まれるが、更に、宗教的道徳的要素を「背景的文化」とし

て政治から放逐し、政治と文化を区別する必要がある。もっとも、このことは、背景的文

化の自由を保障するために重要なのであって、異なる背景的文化を有する人々の共生可能

な社会に必要な「正義の諸原理」の一つとして数えられる。差別に苦しむ人々にとって、

社会的経済的地位の格差是正だけでなく、文化的差異に由来する蔑視の排除等も重要であ

る。これを可能とするには、人々の多様な価値観、生き方の基盤である背景的文化を相互

に承認することによってコミュニケーションを改善する必要がある。

第2章では、ロールズの正義理論における理性概念の変容、すなわち『正義論』におけ

る公共性と『政治的リベラリズム』における公共的理性の差異について、社会的協働に関

する実践理性である「合理性」と「道理性」、さらに「公共的政治文化」概念の分析をと

おして検討した。ロールズの正義理論は、社会的決定の合理性と民主主義の両立を図るも

のであり、理性の正当性と公共性によって構成されている。政治的課題は、憲法的価値お

よび正義概念を人々の政治的価値に訴えることにより解決されるべきであり、政治的価値

は、それぞれの政治的立場の直接的主張ではなく公共的理性によって決定されねばならな

い。もっとも、正義の諸原理を人々の自由、平等および共生を可能にするためのプロセス

として捉えるならば、文化に由来する政治的立場の相違を公共的討議の場に持ちこむこと

も可能となる。

第3章では「公共的文化」と「背景的文化」の区別をした上で、公共的理性に支えられ

たリベラルな政治文化をめぐる議論を検討した。ロールズの正義理論には「文化への原理」

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として拡張する可能性が認められる。リベラルな政治文化論における中心的な課題とは、

「政治的アイデンティティとしての市民」と「文化的アイデンティティとしての市民」と

の間にある問題、すなわち、文化をめぐる問題において、政治文化としての価値観の中立

性や公正性をどのように確立すればよいか——あるいはそうしたことはそもそも可能なの

か、ということである。この課題の検討をとおして、政治文化の内的把握である人間の主

体性に着目し、ロールズの正義理論を拡張する起点を正義感覚に求めた。

第4章では、道徳的能力を指示する「正義感覚」を主体論の観点から再検討した。政治

的共同体を構成している人々には正義感覚が備わっているからこそ、そこにおいて秩序が

確立される。正義感覚とは、正義の諸原理が社会秩序に受容されるプロセス、あるいは社

会における人々の自由な活動の限界に関わるものである。そして、正義の諸原理に適う社

会秩序の形成には、実践における人々の素朴な正義感覚・道徳的情操が重要である。正義

感覚は、包括的言説の受容可能性と共に公共的理性の変容可能性にも関連している。受容

可能性は、人々が自然的態度から社会的実践に移行する際にその態度が社会に与える悪影

響を抑制する制動装置としての機能を、変容可能性は、旧態依然とした社会制度の変革を

意欲させる増幅装置としての機能を果たす。本論文ではこの変容可能性に着目し、能動的

主体性を有する人々の「正義感覚」を再検討することにより、正義感覚が文化的環境にも

依拠していることを明らかにした。

第5章では公共的理性が背景的文化の異なる人々の包括的言説を受容するためには人々

の「再認」が必要であることを確認した。ロールズの「再認」概念は、H.L.A.ハートの「承

認のルール」を参考とした「法的承認」のことである。社会制度の不備は承認の欠如に由

来し、承認の有無をめぐる人々の争いを惹起する。異なる文化的背景を有する他者の包括

的言説を公共的理性においてどのように扱うべきか、という現実的な文化問題についての

正義理論には主体的関与の原理が含まれる。主体的関与においては、理性的コミットメン

ト、モラルコミットメント、そして戦略的コミットメントが重視される。この原理により

自由で平等な人々は、自然本性によって実感する正義感覚から、人々の共通感覚を通して

各自の正義感覚を正義の諸原理と一体化することにより、自由で平等な主体として正義感

覚と正義原理を認識し、受容できるようになるのである。

第6章ではロールズの正義理論の拡張可能性について、「拡張」の意義に留意しつつ結

論をまとめた。ロールズは論理的思考における妥当性だけでなく実践的な妥当性をも重視

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する。したがってロールズの正義理論は、論理的合理性だけでなく実践的かつ能動的な正

義感覚を含む総合的な見地から理解される必要がある。正義の意義は、論理的に定式化さ

れた規範枠組のみによるのではなく、柔軟性を有する正義感覚をも含めたものとして広範

に理解されるべきである。このような視点から主体的関与の原理を整理し、ロールズの正

義理論には「文化問題」に関する原理が包含されることを再確認した。

また、主体的関与による体系的コミットメントにともない、ロールズの拡張解釈の核心

に迫った。すなわち、ロールズ正義理論の再構成を試みるとともに、その再構成モデル、

つまり主体的関与という理論を実証的に検討するための具体的な適用例および今後の参考

となるものについて検討した。主体性論の見地から、ロールズが正義理論で示した諸概念

の相互の関係性を解明することは、ロールズ正義理論の理解に極めて重要な役割を果たし、

新たな関係を発見することによって、ロールズ正義理論の理解を深化させる結論を導き出

すことができた。ロールズの正義理論の拡張および実践に向けた新たな理解とは、拡大解

釈によってロールズ正義理論自体を発展させるよりも、むしろ解釈上新たな意義を取りこ

むことによって、正義理論に関する体系的安定性と具体的妥当性を調和させるものである

と考えられる。このような拡張解釈、あるいは実践可能な解釈によって、ロールズ正義理

論は、幅広い分野に適用できるようになる。主に「格差社会」における配分的不正義問題

を議論の中心として考えられたロールズ正義理論は、例えばその配分に関する問題から「排

除社会」における承認問題について、また、富と資源の配分に関する政治制度についての

理論から社会構成員のパーソナリティおよび帰属意識、共通のアイデンティティ感覚を土

台にした政治文化についての理論といったように、その範囲や内容を更に発展、拡張でき

るものであった。上記の諸領域における平等の要請は、配分的正義を通して社会的・経済

的格差を是正するだけでなく、経済・政治・地域・階級・出身・人種・民族・性別・宗教・

信条等の違いを含む広い意味での文化的差異に対して、社会的経済的格差の是正の他にも、

文化の違いによる差別を排除し、差別・軽視・蔑視・抑圧されてきた人々の存在、人々そ

れぞれの価値観・あり方・生き方を理解ないし再認することからコミュニケーション改善

を行い、積極的な主体的関与によりよい人間関係を構築することによって、多様な人々に

受容されうる社会制度を編成することが可能になるのである。