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縄文人の世界観
-自然との共生、アイヌ文化の源流を求めて-
大 島 直 行 伊達市噴火湾文化研究所長
札幌医科大学客員教授 前日本考古学協会理事 日本人類学会評議員
道立アイヌ民族文化研究センター運営委員 医学博士
2011
伊達市噴火湾文化研究所
縄文人の世界観 ─自然との共生、アイヌ文化の源流を求めて─
3. 社会的な拡大はあったか Ⅰ. 縄文文化とは 1.日本の基層文化としての「縄文」 Ⅲ.縄文文化の行方は─アイヌ文
化の源流を探る─ 2.日本の基層集団としての「縄文人」
Ⅱ.縄文文化の特質は 1. 「縄文人」のゆくえ
1. 技術的な革新はあったのか 2. 「ものづくり」伝統のゆくえ
2. 生産力は増大したか 3. 「自然観」のゆくえ
Ⅰ.縄文文化とは
1) 日本の基層文化としての「縄文」
縄文文化は現在の日本列島のすみずみにまで拡がっていたことが認められています。
北は北海道から、南は沖縄本島まで、西は対馬つ し ま
、東は八丈島までです。
さて、日本列島の文化を考えるとき、多くの人はこの文化の基礎になったのは弥生文
化だと考えます。日本の文化の大きな特質が稲作農耕にあると思うからでしょう。それ
は一面では正しいのですが、しかし弥生文化が日本の文化の基礎をなしているとすると、
北海道や沖縄のように弥生文化の根付かなかった地域はどうなるのでしょう。
北海道と沖縄は、縄文文化に含めて良いと考えられる文化の発達した地域です。とこ
ろが、この文化が1万年もの長きにわたって繰り広げられた後、実は、北海道と沖縄は
本土(本州、四国、九州)とは異なった歴史の歩を始めます。そうです、「続ぞ く
縄文文化」
と「貝塚時代後期文化」です。いずれの地域も縄文時代以来の伝統的な狩猟・漁撈ぎょろう
・採
集の文化を続けるのです。このような事実が明らかになると、日本列島の文化は、決し
て弥生文化だけが基盤となっているのではなく、縄文文化もまた重要な基盤をなしてい
ると言えることが理解されてきます。
日本列島の文化は多様です。北海道にはアイヌ文化があり、本渡には大陸からの渡来
文化の大きな影響を受けた本土文化があります。また、沖縄には南国独特の琉球文化が
あります。然し、見逃してはならないのは、それぞれ地域色の強いこの3つの文化も、
もとをたどれば、いずれも「縄文文化」に行き着くということです。つまり、現代日本
1
列島の文化の基盤は縄文文化にあると考えられるのです。このことは、哲学者の梅原猛
先生が主張して注目されました。
2) 日本の基層集団としての「縄文人」
そしてこうした3つの文化を担う人々は、本土和人わ じ ん
、アイヌ人、琉球りゅうきゅう
人というよう
に、それぞれ異なった集団(民族)です。しかし、ここでも大切なのは、これらの異な
った人々も、もともとは、本土の、あるいは北海道の、さらには沖縄の縄文人であった
のです。本土の縄文人は、大陸からの渡来人との混血により縄文人の顔かたちを大きく
変え、弥生人、古墳人になり、中世・近世を経て現代の本土和人となったのです。
一方、北海道と沖縄の縄文人はこうした渡来人の遺伝子をほとんど受けずに、アイ
ヌ人、琉球人として現代に縄文人の顔かたちの多くを伝えたのです。このことは、埴原は に は ら
和郎氏など多くの人類学者が主張したところです。特に、山口敏先生と百々ど ど
幸雄先生は
北海道の人の成り立ちを「縄文からアイヌへ」という流れがスムーズにたどれることを
明らかにしました。
■本土・北海道・沖縄の歴史年表
本 州 年代(西暦) 北 海 道 沖 縄
旧石器時代 (旧石器時代) 旧石器時代 BC 20,000
草創期 BC 11,000 草創そうそう
期 早期 BC 6,000 早期
前期 BC 4,000 前期
中期 BC 3,000 中期 縄文時代 縄文時代 貝塚時代前期
後期 BC 2,000 後期
晩期 BC 1,000 晩期
弥生時代 0
続ぞく
縄文時代 オホーツク文化期
古墳時代 500 貝塚時代後期
奈良・平安時代 擦さつ
文もん
時代
1,200
鎌倉時代
1,300 中世 グスク時代
室町時代 アイヌ文化期
1,600
江戸時代 近世 首里時代
2
Ⅱ.縄文文化の特質は─精神世界の拡大にある─
私たちは、ついこの間まで、縄文社会は原始的な遅れた社会であると考えてきました。
しかし、1960 年代からオーストラリアなどで行われた文化人類学者の調査によって
それは訂正を余儀よ ぎ
なくされたわけです。多くの考古学者が考えていた「原始的」な「未
開の社会」は、実は物質的にも精神的にもきわめて豊かな社会であることが明らかにな
ってきたのです。
ところが最近になって、日本ではいくつかの発掘調査の成果が、こうした文化人類学
的な「豊かな世界」を過大に解釈し、技術的な大きな発展に支えられた高度な文明社会
であるなどの誤った解釈を加えだしました。縄文文化の本質は、文化人類学の教えによ
れば、物質文化の発展ではなく精神文化の発展にこそあるとされたのに、一体どうした
ことでしょうか。縄文文化の本質が本当はどこにあるのか、狩猟採集社会という視点か
ら改めて考えてみる必要があります。つまり、青森県の三内丸山さんないまるやま
遺跡や富山県の桜 町さくらまち
遺
跡、そして鹿児島県の上野原う え の は ら
遺跡などで言われているように、果たして縄文文化の本質
は、「きわめて高度な技術力」にあるのだろうかということです。
土器づくりや石器づくりから、また竪穴たてあな
住居の構造や貝塚のつくられ方から読みとる
ことができるのは、決して技術力だけなのではなく、土器づくりのきまりや竪穴住居の
つくり方には、合理性だけでは説明できない「きわめて豊かな精神性」が見え隠れして
いることに気付くのです。現代人からみると、ムダな努力や小林達雄先生の得意な言い
回しであります「腹の足しにならないこと」がけっこうやられているのです。しかし、
それは見方を変えれば、狩猟採集社会の生活基盤である「自然」の恵みに感謝を込めて
繰り広げられた「儀礼や祭祀」に費やされた大きなエネルギーであり、そこにこそ縄文
文化の本質があるのではないかと思うのです。
山梨県津金つ か ね
御所前ご し ょ ま え
遺跡(4000 年前) 富山県井口遺跡(3500 年前)『縄文人の生活と文化』1988 年より
図 1 縄文土器にみる豊かな精神性
3
筑波大学の西田正規先生が主張しますように、縄文の社会は、1)技術的な革新や、
2)生産力の増大や、3)社会の拡大といったことに大きなエネルギーが使われた形跡
はなく、むしろこうしたことに使われるエネルギーは抑制されて、「精神世界を拡大す
ること」にこそ大きなエネルギーが使われていたのではないかと考えます。それは、さ
まざまな自然現象の恐怖から逃れ、自然から生きてゆくために必要なだけの「恵めぐみ
」を
頂戴するために費やされたエネルギーだったのです。科学的に自然を理解できなかった
時代に、「自然と折り合いをつける」唯一の方法が呪 術じゅじゅつ
的(神仏や精霊の力を借りて
災いから逃れること)に生きることだったのです。アイヌ文化とのつながりを考える時、
こうした縄文社会の特質はとても大切です。もし縄文文化の本質が物質文化の発展にあ
ったとしたら、おそらくアイヌ文化は生まれていなかったでしょう。
Ⅲ.縄文文化の行方は─アイヌ文化の源流を探る─
1) 「縄文人」のゆくえ
先にも述べましたように、今から 2300 年前、本州の縄文人は九州を中心に大陸か
らやってきた渡来人と ら い じ ん
との混血により顔つき体つきを変えてゆきます。同時に経済も文化
も、狩猟採集から稲作農耕へと変わっていったのです。金属加工や機織はたおり
の技術ももたら
されました。しかし、北海道の縄文人は、渡来人の影響をほとんど受けなかったのです。
社会も、縄文時代以来の伝統的な狩猟採集の社会が続いたのです。だから続縄文ぞくじょうもん
文化
と呼ぶのです。この文化を担った続縄文人、擦文人、中世・近世のアイヌ人は、縄文人
がほとんどその形質けいしつ
を変えずに伝え続けた人々です。もちろん現代のアイヌの人々もま
た縄文人の直系の子孫し そ ん
なのです。
北海道の人の成り立ちの研究をライフワークとします東北大学の百々幸雄先生は、
「おそらく今後 100 年研究がくりかえされたとしても、もはやこの事実は覆されない
だろう」とおっしゃっています。
2) 「ものづくり」伝統のゆくえ
縄文時代以来の「ものづくり」の伝統をアイヌ文化の中に見出すのは、実はそれほど
容易ではありません。と言うのも、縄文時代以来のものづくりの伝統は擦さつ
文もん
時代(1200
年前)ころになるとだんだん本土ほ ん ど
文化の影響によって変わってゆくからです。土器は、
何とか縄文伝統の文様を描きつづけますが、いわゆる「縄目な わ め
」はなくなり、やがて陶磁器と う じ き
や鉄なべに変わります。石器はほとんど使われなくなり、ヤジリや石オノは鉄製に変わ
ってゆきます。住居も本土のカマド付きの家に変わります。ただし、おもしろいことに、
北海道ではまだ本土のように本格的な農耕になっていませんから、カマドでお米を炊た
い
てたべることはなかったはずです。しかし、どういうわけかカマドが付いているのです。
4
私は、これは実用的なカマドではなく、本土の生活様式を「文化」として、その形だけ
を取り入れているんだと思っています。
実は、こうした本土の文化を取り入れる伝統は擦文時代に始まったことではありませ
ん。縄文時代から続いているのです。ヒスイに始まり、南海産の貝の腕輪、アスファル
ト、サメの歯のペンダント、イノシシの牙のアクセサリーなどがそうでした。イノシシ
などは、もちろん北海道には棲す
んでいないのに、これに感謝する儀礼までが行われてい
たようです。続縄文時代や擦文時代になってもこの伝統は続き、その延長上に、中世や
近世のアイヌ時代の「和製品」導入があるのです。太刀た ち
や刀、小太刀、漆うるし
製品、ガラ
ス玉、煙管キ セ ル
、金銀細工などです。
図 2 アイヌ文化期の和製品
5
ところが興味深いのは、アイヌの人々が決して日常の生活様式を本土と同じにするた
めにこれらを取り入れているわけではないと考えられることです。太刀や刀は本土では
戦いくさ
の道具ですが、アイヌの人々にとっては「宝物」としてあるのです。漆器し っ き
もそうで
す。ツキもシントコも日常の生活道具ではなく、北海道では「宝物」として珍重された
のです。
もちろん小刀やカマ、ナタなどが石器にとって代わり、実用品として使われたことも
事実です。土器が陶磁器と う じ き
や鉄なべに変わったことも事実です。
しかし、大切なのは、本土ほ ん ど
製品(和製品わ せ い ひ ん
)の多くは、アイヌの人々が先祖伝来の伝統
的な儀礼や祭祀さ い し
をつかさどるための道具として受け容れられたと言うことです。そのこ
とは、とりも直さず、中世・近世のアイヌ文化が、依然、自然に対する畏敬い け い
(畏おそ
れ、敬うやま
うこと)と感謝に大きなエネルギーを費やす縄文時代以来の狩猟採集社会であることを
物語っているのです。物質文化といった面からは、一見すると縄文伝統が失われ、農耕
文化に変わってしまったように見えますが、実は精神文化の面では何にも変わっていな
い、つまり縄文の精神文化が脈々と生き続けていることが感じ取れるのです。このこと
は大切です。
3) 「自然観」のゆくえ─「物送り」思想の起源とその系譜─
縄文人の信仰は、さまざまに解釈されてきました。特に、土偶ど ぐ う
は「地母じ ぼ
神しん
信
仰」と関連付けられて、多産や安産のための信仰を物語るものとされてきまし
た。また、石せき
棒ぼう
や石せき
刀とう
や、さまざまな玉類なども何かを祈る儀式に使われた道
具と考えられてきたのです。このように、遺物を通して縄文の信仰は考察され
てきたのですが、一方で、遺跡からも縄文の信仰が解釈されてきました。その
代表が、いわゆる「環状列かんじょうれっ
石せき
=ストーンサークル」でしょう。秋田県の大湯お お ゆ
環
状列石、北海道小樽の忍路おしょろ
環状列石など全国各地に広く認められます。
貝塚から出土した人の乳歯
海獣の犬歯で作られた釣針
図 3 縄文時代の物送り場 北海道泊村茶津貝塚(4000 年前) 『北海道文化財研究所調査報告集第 5 集 茶津貝塚』. 1990 より
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ところで、こうした石を並べた遺構は、たしかに宗教的な雰囲気を漂わせては
いますが、具体的に縄文人の信仰心を読み取ることができるかというと、そう
容易た や す
いことではありません。そうした中で、ある遺跡に対して実に明快な解釈
を加えた学者がいました。それは北海道大学の河野広道博士でした。
河野博士は、昭和10年に『貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ』と題する論
文を発表し、それまで言われていたように、貝塚が単なる「ゴミ捨て場」では
なく、しばしば見つかる人骨に着目することで、これが、アイヌ民族の「物送
り場」と同じ性格を持った場所であると考えたのです。実に卓見でありました。
泊村の茶津ち ゃ つ
貝塚や礼文島の浜中2遺跡などのように、かなり具体的に物送り場
的な性格が読み取れる注目すべき貝塚遺跡も調査されだしました。もちろん続
縄文時代や擦文時代の貝塚もまた物送り場的ですし、近世の貝塚からはそうし
た性格を強く読み取ることができます。千歳市の美々8遺跡の「灰送り場」は実
に見事な「物送り場」でした。
一方、小樽市の忍路土場ど ば
遺跡(縄文後期)は、ドングリなどの「水さらし場
=アク抜き場」と考えられているようですが、私には「物送り場」にしか見え
ません。さらに最近になって、こうした物送りの儀礼は、貝塚だけではなくさ
まざまな場所で行われていたことがわかってきました。三内丸山遺跡など東日
本の広い地域で発見されだした縄文文化の「盛土も り ど
遺構」はその一つです。また、
伊達市の北黄金き た こ が ね
貝塚で発見された5,000年前の「水場み ず ば
遺構」も、おそらく「物
送り場」のひとつと考えて良いでしょう。さらに、私は最近、縄文時代の火災
に遭あ
った住居が北海道にのみ多いことに気付き、それがアイヌ民族の「家送り
=チセウフイカ」や「仮小屋送り=カソマンテ」につながる儀礼的な行為では
ないかと問題提起をしました。アイヌ民族の伝統的な「物送り」思想は、おそ
らく縄文時代からのものだと考えて間違いないでしょう。
青森県三内丸山遺跡(4000 年前)
北海道南茅部町大船遺跡(4000 年前)
図 4 盛土遺構も物送り場だった (『アサヒグラフ〔別冊〕三内丸山遺跡と北の縄文
世界』1997年より)
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図 5 北黄金貝塚の水場の物送り場
お葬式の後に家を焼く
(『蝦夷島奇観』より)
仮小屋送りのようす
(昭和 34 年頃藤本英夫氏撮影)
図 6 家送り、仮小屋送りのようす
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アイヌ文化の源流をたどることができ
るのは遺跡だけからではありません。遺
物からもたどることが出来そうです。北
黄金貝塚や薄盛りし遺跡の鹿角やクジ
ラの骨で作られた「スプーン状の祭祀道
具」はおそらく「イクパスィ」の原型だ
と思います。アイヌ民族のクマやフクロ
ウなど動物に対する信仰心はおそらく
縄文時代から悠久の時を経て培われて
きたに違いありません。石製ナイフの先
に付けられた「ツマミ」はおそらく、ワ
シ・タカや、シマフクロウがデザインさ
れているのでしょう。
結局、縄文人は、自然からの恵で生き
てゆくという「方針」を一万年間にわた
ってとりつづけるわけです。この1万年
間の彼らの最大の関心事は、自然とどう
折り合いをつけてゆくかということで
した。自然に手をかけ過ぎてはいけない
ことは、もちろん狩猟採集で生きてゆく
社会においては重要な「おきて」でありました。この「おきて」を守るために
は、おそらく多くの「タブー=禁忌き ん き
」をつくり出したでしょうし、生活を律す
るための「儀礼」も多かったことでしょう。自然からいただき物をするごとの
感謝の「お祭り=祭祀」も欠かさなかったはずです。つまり、縄文社会は一言
で言いますと「おまじない社会」であったように思います。祭祀や儀礼に使わ
れてきたエネルギーはたいへんなものだったことを感じます。決して、物質的
に豊かな社会ではなかったし、そのことを望まない社会であったのです。望ん
だのは、自然との共生を果たすための「精神的な豊かさ」を得ることだったの
ではないでしょうか。
最後にまとめますと、縄文人がその社会を1万年間にもわたって維持し続けた
のは、おそらく次の三つの哲学(世界観)を持ちつづけたからではないかと思
います。
1) 資源を捕(採)り過ぎない経済観
2) 自然を神として畏敬い け い
し、共存する自然観
3) 決して争わない社会観
もちろん、こうした世界観(思想、哲学)が、現代のアイヌ民族の人々にし
っかりと受け継がれていることは言うまでもありません。
図7 スプーン形の祭祀さ い し
道具
伊達市有珠モシリ遺跡(2000年前)
伊達市北黄金貝塚(5500年前)
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