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士別屯田覚え書 河野民雄 編集 平成 19 年 2 月刊行

士別屯田覚え書tonden.org/report_files/shibetu_oboe.pdf昭和43年2月8日聴取 弥右ヱ門さんは叔父のところで書生をやっていて何の不自由もなかったので、北

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士別屯田覚え書

河野民雄 編集

平成 19 年 2 月刊行

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屯田兵木村才次郎さんに聞く

木村さんは何度も座談会などで思い出を語っている。以下に記すのは河野が木村宅

で聞いた話の中から、活字化されていないが貴重と思われる話を拾い上げた。ただし、

話の信憑性に疑問のあるものには?を付した。

昭和39年6月5日聴取

☆士別へ入ることは山形出発時から知っており、兵屋も指定され山形で鍵をもらっ

て来た。?

☆屯田兵 100 名中、60 人くらいは文字が読めず、兵屋の番号や銃の番号すら算用数

字で分からない人がいた。いろんな国から集まったので言葉が通じず、まるで外国に

でも来たみたいで不自由であった。そこで、文字と言葉と測量技術を覚えるため、夜

に事業場で 2 年ほど勉強した。文字で言うとかな文字を覚えたら甲、乙、丙の三段階

評定で、乙をくれるといったあんばいで、2年くらいで手紙を書けるようになった。言

葉では共通語を覚えるため、ゴハンはメシと言え、人に向かってはキミと言えなどと

習った。

☆兵隊の訓練は朝 5 時から夜は 6 時頃まで日曜を除き連日やった。やらないのは器

械体操だけで、教練はすべてやった。各自の兵屋には軍服 2 着、背嚢、銃などを保管

してあるので、班長が軍服や銃の手入れを検査し、これをきちんとやらなければ絞ら

れた。高官が士別に来ると官給品を家の前に並べ検閲を受けた。士別は水が良かった

ので高官は皆士別に泊まり、その度に検査を受けた。

☆官給の米は規則では 2 等米が支給されることになっていたらしいが、実際には 3

等米か等外米のような悪いものが給与されるので、最初は我慢していたが抗議すると

良くなった。

☆明治 37 年現役解除後も幹部は 2年くらい残務整理に残り、訓練は継続された。

最初、駅逓は大通り西 1丁目高島床屋のところにあった。?

昭和 39 年 9 月 4 日聴取

☆屯田兵のうち下士になったのは、専門学校出身者や、内地で兵役の経験のある者

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が任命され、日露戦争前は山畑弁次郎、宇井熊太郎、松田繁次、近藤勝之助、菊地平

三郎らがなった。

☆規則では訓練は日曜日は休みであったが、中隊の成績競争のためほとんど、休日

返上であった。

昭和 41 年 3 月 14 日聴取

☆水田を始めるに当たって中隊から禁止されるようなことはなかった。灌漑溝が出

来ても稲を作るものは5~6戸しかなかった。早くから大掛かりに米を作ったのは神

社下の 10 番の木村さんであった。才次郎さん宅で米を作り始めたのは開道 50 周年の

頃で、木村さんから米作りを教えてもらった。

☆士別に入ったとき、今の九丁目(警察署のあたり)の所にアーチが出来ていて、

大内さんらが手製の日の丸で迎えてくれて嬉しかった。

☆兵屋に入るとイタドリやウドが生えていて、若い女性は胸一杯で涙にくれたが、

72 歳の祖母は涙ひとつ見せず、「お前たち開拓に来たのだから覚悟はしているはずだ」

と叱りつけ、涙ひとつ見せずに門柱から家までの間のササを刈り始めました。(この部

分フジさん談)

☆来た年は連日の雨で、水害のため扶助米が運べず、米倉も開けてくれなかったの

で 3日間ほど食わない日が続いた。

☆日露戦争当時は病気の人を除いて全て応召した。働き手が兵隊にとられたときは

心細かった。夫に手紙を書きたい一心で文字を練習した。ちょっとしたことを書くの

に巻紙を 1丈も使って、2日も 3日もかかって書いた。夫は変な手紙で恥ずかしくて

便所の中で読んだ。(フジさん談)

屯田兵家族木村弥右ヱ門さんに聞く

木村才次郎さんの弟弥右ヱ門さんは、14 歳で屯田兵家族として士別へやって来た。3

年後兄の元を離れ名寄の鉄道に勤務することになったが、当時のことに詳しい。弥右

ヱ門さんには3度話を伺った。3回目の取材の話はほとんど活字化されているので、「士

別屯田史話」に漏れているような話や記録に残したい話を取り上げた。

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昭和 43 年 2 月 8 日聴取

☆弥右ヱ門さんは叔父のところで書生をやっていて何の不自由もなかったので、北

海道へ行くのがいやだった。天皇の離宮のできる所だと聞かされた。徒歩で士別に入

った。剣淵川の観月橋の所には数戸の家があった。

☆大通り東側の 1丁目から3丁目までは中隊の公共用地であるため、1丁目西側に商

店街が出来た。1丁目の神社通り沿いの大通りから鉄道線路までの間に最初の店が出

来た。大通側から河村商店、ヤマト雑貨店、中山呉服店と並んでいた。1丁目の大通

り西側には河村商店裏側に寺木さん(?)、元の平間精米所のあたりに古着の尾張屋、

城宝商店のあたりに神田宿屋、その隣に北村という小さな駄菓子屋があった。

停車場通りには明治 33 年頃にたくさん家が建ちました。宿屋だけでも 10 数軒ありま

した。両国屋は鉄道開通のときからあり、丸越や角イなども最初は停車場通りにあり

ました。宿屋では1丁目の神田や4丁目の元富樫病院の所にあった石橋旅館も古い。

☆矢口駅逓は最初天塩川堤防の右手にあった。当時国道は真っ直ぐで土手の所が行

き止まりで、そこに5、6軒の家があった。2年くらいして矢口さんは南大通(?)

の角へ移った。矢口さんは南大通の山側に牧場を持っていた。

☆中士別と神社で争ったのは、山畑弁次郎さんが役場に出ていたときでした。村社

のことで奥野小四郎ともめて、兵村が殴りこみをかけて豚などを殺したのです。(?)

菅原太吉が小野幾太を殴ったのは神社より先だね。誓誠組が幅を利かして、揃いの

ハッピ着てね、桜田(佐吉)のオヤジが大将で、五十嵐(初次)さんなんかも入って

いました。分村のときは穏やかに行ったのでなかったかな。

☆寺田医院の道路寄りの角に大きな倉庫があり、その裏手に中隊長官舎があり、さ

らに裏に2戸長屋の将校官舎がありました。道路の南側に3軒くらいの棟割長屋が3

棟ほどありました。中隊本部は道路から 15 間くらい奥で、神田宿屋(現城宝商店)の

筋向かいでした。本部の隣は軍医の官舎だったように思います。今の上西さんのあた

りで、道路に面して横に長かった。(?)

倉庫から本部の間はかなり離れておりました。倉庫は大きいもの一つでした。寺田

医院は倉庫を取り壊した跡で、どこかの兵屋を使い、本部の跡へは中西さんが来て病

院をやりました。

☆来た年は雨が降りました。17 日か 8 日にソバ蒔きやったのですが、赤毛布かぶっ

たのやら菅笠やゴザ着たのやら、写真に撮っておきたかったですね。

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☆7 反 5 畝の第一給与地ですら、家族の弱い家は開きそこなったのです。佐藤栄治さ

んなんか残ったんですよ。農業の心得のある人が少ないし、阿部喜一さんなんかは父

親と息子 3人の男ばかりの世帯だった。

☆士別屯田で士族出身は宇井熊太郎、松崎貞吉、七田太市ら4名しかいなかった。(も

う1名は高田亀太郎であったことが最近分かった=河野)

☆日露戦争が終わってまとまったお金をもらってから、7~8割は動いた。東 10 戸

で残ったのは粟野の弟、木村、東 20 戸では菊田、佐藤喜作、久光、大通りではうちに

桜井さんの弟、五十嵐、阿部喜一、水村、菅原、阿部今朝治、橋本さんだね。現役が

終わるとすぐに国に帰ったのは田中谷五郎、古城康蔵、松田重吉、柳本賢十郎さんら

です。もともと土着する気などなかったのです。

☆灌漑溝が出来た当時、櫻井さんの裏手の線路より西に中隊で試験田を造りました

が、長続きせず畑に戻されました。木村伊助(10 番)はずっとやってました。

☆名寄までの道路は函館のマルモが請け負って、その事務所が停車場通りの松田病

院のあたりにありました。ところが悪いことばかりするので第一小隊の連中だと思い

ますが、押しかけていって銃剣で脅して追い出してしまいました。警察でもどうにも

ならなかったようです。

☆久光さんのあたりから木村の家の裏手にかけて小川があり、サケが一晩で 4本も 5

本も取れました。

☆乃木さんが士別を訪れたのは明治 35 年のことでした。神社の上まで上がって視察

しました。乃木さんは当時陸軍大臣でした。(?)

侍従武官が来たこともありました。名寄の小林さんは学校の小使をやっていて、接

待したんですよ。

☆寺で早いのは萩原病院の所にあった禅寺、西 1 条4丁目の谷幼稚園の所にあった

お西も古い。鍛冶屋では佐藤寅治の兄が兵村の北の踏切を渡ったあたりでやったのや、

櫻井さんのあたりで鈴木国治がやったのが古い。市街地では大通り西 4 丁目の森川菓

子屋のあたりでやった松川が古い。

昭和 44 年 4 月 9 日聴取

☆士別に入ったとき大内さんらがアーチを作って迎えてくれた場所は、中隊本部ま

でよほどあったから停車場通りか、南大通でなかったか。

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☆停車場通りの道路は一番悪かった。びっしり割り板など敷いてあった。南大通よ

り先も悪かった。雨が降ったらずぶずぶ抜かったものです。1丁目から元の役場のあっ

た 3 丁目の志村さんのあたりも悪かった。10 戸の神社通りも悪くて亜麻会社が出来て

排水を掘ってから良くなったんですよ。

侍従武官や児玉源太郎が来たのはぼくが士別にいて、神社が山の上に上がったとき

だから明治 35 年なはずです。児玉さんは陸軍大臣だったはずで、フランスの公使とか

も一緒に来ました。このとき小学校の小使の小林啓三郎君らが接待しました。

野津さんが来たのは記憶にないね。ぼくが士別を出たあとでないですか。

☆班長は最初中隊の幹部の職業軍人がやりました。1班が川村さん、2班は忘れた

な、3班が佐野軍曹、4班は若い人でした。屯田兵から班長を出したのはずっと後で、

屯田が入って1年くらい経ってから上等兵候補を 18 人くらい選び、その内から 10 名

が上等兵になったのです。内地の兵役経験者の宇井熊太郎、菊地平三郎、赤松平次兵

衛、近藤勝之助、奥山重太郎さんらが選ばれ、この人らが最初班の助手として教育に

当たり、そのうち旭川に第 7師団が出来て幹部が転勤した後班長になりました。1班が

赤松、2班が近藤、3班が宇井(?)、4班が菊地さんでした。

松田繁次さんは給与軍曹でした。(?)内地では宇井さんが軍曹、松田が上等兵、近藤、

赤松は1等兵、菊池は上等兵だったはずです。

上等兵候補の中で学力のある人が下士になりました。中学出は山畑弁次郎、佐藤栄

次さん、美濃屋さんも学のある人でした。軍曹になったのは班長になった人や、山畑、

桐林平太郎、松崎貞吉、水井孝太郎さんらです。宇井さんは偉くていばったものです。

☆ 唐箕と臼は4戸に1個当たりました。現役が終わるとき木村と新谷と山畑さん

の家族が品行方正ということで、大隊まで行って表彰を受けました。

☆ 佐藤栄次さんは働き手が少なく1給地も開きそこね、青木さんとこは男手が多

いので開墾が早かった。

☆ 兵隊の兄としてきた人は皆分家しました。屯田家族の三羽烏は粥川の兄さん、

渡辺の親父渡辺喜一、久光の兄貴祥一、この3人は何をさせても利口でした。菊田の

兄さん、菊地、斉藤の兄貴もやり手でした。

☆ 扶助や塩采料をもらったのは3年間なはずです。

☆ 日露戦争後若くてばりばりしてるというので梨沢さんが兵村部会長をやりまし

た。記念碑が出来た当時財産のことでもめて、北1丁目の今の浮橋さんの所にあった

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事務所の金庫を開けずじまいでした。公有財産や1丁目から3丁目の東側を売った金

を分けるのでもめたのです。

☆奥野農場襲撃事件は2級町村になって村会ができたときでなかったかな。中士別

の奥野さんがこちらの知らないうちに中士別9線の神社を村社に申請したんです。山

畑さんが役場に出ていた当時で、申請書を道庁に出さず握りつぶしたのを、中士別の

連中が怒ったんです。菅原さんが誓誠組をつくって押しかけて豚などを殺したんです。

税金のことで小野さんをぶん殴ったのに関連して起こったんです。(?)

☆兵村で村芝居が盛んだった。4班の人が熱心で寺尾の爺さんが座長格で、延清さん

が浄瑠璃やりました。現役中はめいめいの家やマッチ工場の倉庫で、現役が明けてか

らは中隊の倉庫でもやりました。五十嵐、宮城島さんらは名優でした。士別祭りは 7

月 1日とするか、15 日にするかで意見が割れた。

屯田兵家族及川(梨沢)勝恵さんに聞く

昭和 44 年 2 月 25 日聴取

☆来た当時の家族状況

私は梨沢の家族として来ました。私らは後の組で入地しました。家は宮城県で農家

をやっておりました。両親と子供たち 5人の 7人家族でした。兵隊の兄環は数え 17 歳

で、本当は満17歳でなくてはいけなかったのですが、戸籍をごまかして来たようです。

進が 12 歳、私は 8歳、北町の泉が 5歳、その下に妹がおりました。久と満はこちらへ

来てから生まれました。

☆入った当時の様子

ビバガラスから船に乗りました。今のお不動さんの下は底がないなどと言われ、ア

イヌが長い棹でつっついて見せましたが、底まで届かなかったようです。観月橋のあ

たりには人家があり、運航社とかいう川舟業者がいました。私の家は大通りの 56 番で

すが、向かいの家が見えませんでした。1丁目の角に河村商店、その並びに呉服屋と酒

屋がありました。元平間精米所のあたりに尾張屋古着屋がありましたが、多分日露戦

争頃開店したのでは。? 尾張屋産婆さんは近藤さんの妹です。神田宿屋は屯田と同

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時くらいでないですか。寺田さんの向かいに北村という飲食店がありました。あれは

2、3 年後かな。北村の北の今の吉方さんあたりに安藤という雑貨屋がありました。

☆小学校について

学校は雪がチラホラする 10 月 18 日開校です。私は本来なら 1 年に上がってなけれ

ばならなかったのですが、こちらで1年になりました。翌年すぐ 2 年でした。最初は

神社通り側に 2学級の学校があり、その後大通りに移りました。

着物に下駄ばき姿でした。冬はわらぐつです。男の子でも天長節とか紀元節でもない

とかすりの着物は着ませんでした。女の子はたもとの着物に海老茶の袴に白足袋です。

1 年のときは石板を持って行きました。3年の頃にオルガンがあった記憶があります。

兄が日露戦争に行ったので、子守をさせられたりしてとうとう卒業せずじまいでした。

☆ 偉い人の来士

乃木さんがおいでになったのは記憶にないですね。児玉大将が来られたのははっき

り記憶してます。日露戦争まえだから 36 年頃でしょうか。偉い人が来るたびに私ら小

学生は停車場へ送り迎えしました。あのときは学校までこられました。秋のことで白

足袋はいて行ったんですが寒くて泣きました。あのときは明治天皇のご名代というこ

とでしたが、偉い方が来ると第 7 師団長がついてお出でて、その都度兵隊や家族が整

列して出迎えたものです。

☆ ハッカについて

サミエル事件当時うちの兄がハッカの組合長をやっていて、あまり安く買い叩くの

で裁判になったのです。裁判が始まったのは大正 2年頃ですね。勝訴して 1組 12 円

50 銭になって大喜びでした。そのときうちでは、天塩川の中島に広いハッカ畑を持

ち大仕掛けにハッカをやりました。

☆ 駅逓について

最初国道は真っ直ぐに長谷川さんの前を突っ切っていました。駅逓はその川淵にあ

って、後に停車場通り角に移ったんです。今の高校から墓地にかけて矢口牧場でした。

☆ 丸モ撃退事件

兵隊 20 名ほどが出たようです。明治 34、5 年の頃でないですか。今の藤屋旅館のと

ころに「華の屋」という料理屋があって函館の丸モ組の宗谷線の親分だったのです。

博打などをやるので中隊で退去命令を何度も出しても立ち退かないので、銃剣つきつ

けて追い出したらしいです。

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☆ 冬季間の列車

汽車が時々立ち往生して部落の人たちが雪はねしましたね。一冬に何度もありまし

た。ポーッ、ポーッと汽笛の音がすると、そら汽車が止まったと皆スコップ持ってで

かけたものでした。

屯田兵家族青木(山崎)むめさんに聞く

昭和 44 年 3 月 2 日青木宅で聴取

☆来た当時の山崎家の家族構成

屯田兵山崎の家族として来ました。両親と兵隊と私と妹の 5人家族で、私は 19 歳

でした。家は2班の学校の並びでした。こちらへ来てから青木に嫁に行きました。

今は 88 歳です。

☆ 来た当時の青木家の家族構成

両親と男 4人、妹一人の 7人家族でした。

☆ 入植の経過

出身は和歌山で最初の組で入植しました。神戸で船に乗って小樽に着いたのは 11 日目

でした。小樽で3,4泊しました。旭川まで台車にテントを張ったのに乗って来ました。

私は剣淵からは歩き、母は舟でした。履物は表つきの下駄で、大曲からこちらはイタ

ドリなどが両側からかぶさるような道でした。来た日は暑い日でのどが渇いて中隊本

部(後の中西医院)の裏手にあった井戸で水を飲んだのを記憶してます。

☆ 2班の井戸

水が悪くてお茶のような色でした。私らは東 20 戸へ行く四つ角の元鈴木顕蔵さんの斜

め向かいまで汲みに行きました

☆ 女性の作業着

私らは最初モンペを知りませんでした。着物にキャハン姿ですからね。虫に食われま

した。山形や福島の人がモンペをはいているのを見て、こんな便利なものあるのかと

思い作ってもらいました。

☆ 兵屋の様子

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天井の無い家ですから寒かったですよ。ムシロやゴザを吊って寒さをしのぎました。

家に炉があって 100 番の人はこれで焼けたんです。士別に家が無いので剣淵へ移りま

した。剣淵が当たらなくて良かったです。水は悪いし、宅地も狭かったですからね。

ストーブなどしばらく無かったが、家では父が土間にヘッツイを造ってくれました。

明かりはカンテラです。

☆ 開墾の状況

嫁に来た青木の家は男ばかり 4 人もいたので、一番最初に宅地を拓いて畑を起こす機

械をもらいました。日露戦争当時 3給地まで拓いた人はほとんどいなかった。

兵隊さんは何も家の手伝いなどしなかった。両親と私らで拓きました。

☆ササの実豊作

35 年のことだと思うがささの実がたくさん採れました。剣淵川の向こうが特によく採

れました。

☆日露戦争当時の生活

働き手がいなくて困りました。金になるものが採れないんです。エンバク 100 俵くら

い売ったことがありました。

☆魚について

魚は川魚を食べました。青木は男手が多かったから、アキアジなんかひと朝で 4匹も 5

匹も取りました。そのうちにやかましくなってきました。カジカなんかミミズで釣る

と面白いくらい取れました。

☆ 風呂と井戸

風呂は 10 戸に一つ井戸のそばにありました。東 10 戸は青木と中山さんの境にありま

した。

☆ 産婆

高橋丹十郎さんのばあさんや近藤さんのばあさんがやりました。

☆ 熊について

市街に熊が出たという話は聞かないね。今の養老院のあたりに出た話しは聞いたこと

がある。

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屯田兵関係者座談会

昭和 40 年 3 月 31 日、屯田兵とその家族が公民館に集まって昔を語った。ただ、残

念なのは折角の機会なのに、当時の生活の具体的なことに余り触れられていない。そ

こで、数少ない記録しておきたい話だけ抄録することにする。

司会 入られた当時の苦労話を

木村フジ 何でこんなところへ来たのかと思いました。伐木して物を蒔くのに苦労し

ました。国が恋しくて便所の前に立って 3 日も泣いたことがありました。鳥であった

ら飛んで帰りたいと思いましたが、国の方角が分からなくてね。

司会 故郷の便りはいつ頃から来るようになりましたか。

木村才次郎 内地から1か月以上もかかったね。下士官が持ってきてくれました。

司会 33 年のお祭りの写真を見ると旗が揚ってますが?

木村才次郎 中隊からくれたのです。旗ざおはめいめいで木を切ったりしてやりま

した。

司会 病気のときはどうしましたか

木村才次郎 軍医が往診してくれました。来た年に富山の置き薬屋が来ました。

お産は近藤さんや高橋さんの婆さんがやりました。軍医も婦人科の方もやりました。

司会 最初に焼けた家は

桜田(?) 清水喜助の家が焼けたんです。喜助はうちのお袋の兄です。うちのお袋

の実家だったのです。

司会 女の人の夜なべは

木村フジ コタツの上に豆ランプ上げて、針仕事です。男の人なんか銃の掃除くらい

です。ワラが無いので俵を買うのが競争でした。スゲでぞうりを作ったものでした。

司会 子育てで苦労したことは

木村フジ 着るものですね。親が内地から持ってきた 2,3 枚の着物をつぶしたんで

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すよ。お乳が出ない人などほとんどいなかったです。良く働いたからね。何ぼ働いて

もよく出たね。

司会 給与地はどうやって分けましたか

木村才次郎 遠藤曹長がやってくれたんです。2給地は 10 戸ずつで籤引きで分けま

した。3給地は早く拓いた者にいいとこ与えたんですよ。

司会 1給地は

木村才次郎 兵屋番号は山形で聞いてきました。(?)

伊与木島次 こちらへ来て籤を引いて、中隊から鍵をもらいました。

橋本静 私もこちらへ来てから中隊事務所でもらいました、私らは 13 日に入ったの

で木村さんとは違うのかな。

士別よもやま話座談会

昭和 43 年 9 月 16 日、「士別よもやま話」取材のため開かれた。出席者は屯田兵家族

の小林啓三郎さん、木村弥右ヱ門さん、深沢さん、小西さんらであるが、発言者の氏

名を特定しにくいので、記録に残しておきたい発言のみを取り上げた。

☆ 小学校

32 年の秋に開校になりました。全員を 1 年生にぶちこみました。先生の所へアキアジ

や何かを持っていけば飛び級で上に上げてくれました。まともに 1 年からやって卒業

したのは私なんだ。(深沢)

☆駅逓

今の長谷川さんの前に駅逓がありました。33 年ころ出来て 1 年半くらいで停車場通り

の角に移りました。そして10年くらいでその建物を郵便局に売ったんでなかったかな。

☆ 盆踊り

日露戦争で戦死者がでたが、その遺族の家の前で慰安のためにやったのが始まりです。

福島県の人が多くて会津盆歌で踊りました。(深沢)

☆ 最初の商店街

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最初の店は河村さんで、その隣がヤマト、さらに山中中西呉服店がありました。大通

りは今の城宝さんのあたりに神田宿屋、その4,5 軒こちらに北村という飲食店、北村

の1軒こちらが安藤雑貨店でした。

☆ 渡船場

大内渡船が一番早い。舟を二隻くらい持ってました。鉄道がついてからは渡船だけで

は食っていけないので、鉄橋番と兼任しました。当時は渡船賃 2 銭でした。松田繁次

さんは屯田が明けた明治 40 年ころから元の観月橋のところでやりました。元の九十九

橋のところは菅原渡船で、大正に入ってからです。中央橋のところは原渡船で、余り

交通が頻繁なので棒杭に板をのせた木の橋でやったそうです。馬が5銭、大人2銭、

子供1銭くらいでした。水が出ると板をはずしたらしいです。大正2年に橋が出来た

とき原さんは反対したらしいです。

昔の士別を語る座談会

昭和 44 年 3 月 1 日、公民館で開催。出席者小野寺安兵衛、桜田、藤原留吉、金井満寿

雄、及川彊、矢萩の諸氏。発言者を特定しにくいができるだけ氏名を記す。

☆日露戦争当時について

残された家族は骨を折ったようです。人手のないうちでは叔父だの姪だのを呼び寄

せたらしいね。(桜田)

37 年丁度日露戦争のとき私は入学しました。戦争に行った兵隊は 38 年の秋から帰り

始めました。明治 39 年頃から人が兵村から離れ始めました。士別からは第 2の士別建

設とか言って中川へたくさん移りました。土地が余りよくなかったからですね。(小野

寺)

☆班と班長

屯田の班長というのは、伍長や軍曹あたりから選ばれ、各班の中間、中間にいまし

た。

4班は西 20 戸の菊地平三郎さん、3班は松田繁次さんでした。(小野寺)

3班の班長松田繁次は陸軍の富山学校をやめてきたものだから威張っていました。

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現役中に些細なことで水村清之助を死ぬほどひっぱたいたものだから、現役が終わっ

て水田の分派を引いたとき、部落中が説得しても敵討ちに意地悪して通さないと息巻

いた。(及川)

☆屯田の名物男は

菅原太吉でしょう。(桜田)

酒豪は五十嵐初次、高橋丹十郎でないかな。家族では久光元吉の兄祥一、あれは酒

に酔って汽車で手首より先をやられてしまった。(及川)

久光祥一、渡辺喜一、美濃屋は三傑といわれた人です。(矢萩)

☆奥野農場襲撃事件

分村するときで、上士別側は境界線を今の神社裏の東2号線にすると言い張ったん

です。このままでは神社まで上士別に持って行かれる。採決すると負けるから奥野が

出てこられないようにぶん殴ってしまえということだったようです。ホークだのヤチ

ダモの先に5寸釘のトゲを付けたり、熊手を持って押しかけたのです。(?)(矢萩)

☆冬季間の鉄道

最初のうち列車は日に2,3回でした。冬はスコップで 10 尺くらいに掘割にして除

雪したね。冬は汽車が止まって炊き出ししたこともありました。除雪に出ると1日 25

銭か 30 銭の出面賃でした。(桜田)

大正 10 年か 11 年に兵村の青年会で学校の屋根の雪下ろしをやっていたら、学校の

前で汽車が止まってしまい、除雪を手伝ったら喜ばれて表彰状をもらいました。(矢萩)

☆兵村のママ子殺し事件

西 20 戸の某家では連れ子をした後妻を迎えたが、兵隊である主人が日露戦争で出征

中、先妻の子供を虐待し死に至らしめた。クルミくらいの小さいおにぎりしか与えな

かったとか、焼き火箸をあてたとか近所では噂された。そのとき、検視に来た軍医に

袖の下を包みもみ消しをはかろうとしたが、軍医はもちろん拒否した。

しかし、屯田兵が始まって以来一度も凶悪犯罪を出していないのに、最後の屯田兵

でこんな事件が起こってはまずいと思った軍医は、目をつぶって単なる死亡で済ませ

ようとした。しかし、噂を聞きつけた北海タイムスの支局長が密告し、ついに警察沙

汰になって遺体が掘り返され事件が明るみに出たといわれる。後にこの事件は村芝居

などで取り上げられ、その度に某家主人は心を痛め何がしかの金を包んで、中止を懇

願したと言う。(及川)

Page 15: 士別屯田覚え書tonden.org/report_files/shibetu_oboe.pdf昭和43年2月8日聴取 弥右ヱ門さんは叔父のところで書生をやっていて何の不自由もなかったので、北

☆村芝居

延清さん、寺尾のじいさん、志村安民さん、弟の義春、宮城島さんらは当時の名優で

した。屯田の倉庫でやったものです。某家ママ子殺しとか寺子屋の段とかを演じまし

た。

☆スキー

私のうちにレルヒが持ってきたというスキーの金具があります。父は大正 5,6 年こ

ろ旭川でレルヒの講習を受け、レルヒも士別へ来たそうです。いわゆる一本杖のスキ

ーで金具はアルパインです。(金井)

スキーが始めて士別に来たのは明治 44 年です。大田八太郎という先生が乗って見せ

ました。この先生軍隊で覚えたらしいのです。ストックなしで歩きました。(小野寺)

あとがきと残された問題

この冊子は、士別市郷土研究会が過去にテープに記録してあった屯田兵関係者の話

と、私が単独でインタビューして聞かせていただいた話を活字に起こしたものである。

テープはかなり古くなり聞き取りにくい部分も多かったし、発言者を特定できない場

合もあった。当然のことながら話が重複していたり、既に「士別屯田史話」に紹介し

たものも多かった。そこで、ここでは拙著からもれたり、書いたけれど内容が不十分

で記録に残しておきたい話を中心に取り上げた。

いろんな人の話をお聞きしても食い違いが多くて、事実を確定できないことがいく

つもあった。それらを紹介すると共に「士別屯田史話」の補足、訂正を以下に記す。

☆ 最初の給与地(兵屋)の決定

木村才次郎さんは、兵屋番号は山形出発当時からら知っていたと幾度か発言して

いる。しかし、ほとんどの人は士別で籤を引いたと述べている。木村さんは富樫曹

長と親しかったということなので、あるいは特別だったのかも知れない。

☆ 各班の班長

これも、各人の発言がほぼ一致するが食い違いもある。

☆ 菅原太吉の上士別勢殴打事件

これは明治 40 年頃の課税問題が原因なのは、ほぼ間違いが無い。残念なのは菅原太

Page 16: 士別屯田覚え書tonden.org/report_files/shibetu_oboe.pdf昭和43年2月8日聴取 弥右ヱ門さんは叔父のところで書生をやっていて何の不自由もなかったので、北

吉配下の誓誠組の子分が分からないことであったが、桜田氏が親分格であったこと、

五十嵐氏が組員のひとりであったことが分かった。多分、組員には宮城県出身の人が

多かったはずだ。

☆ 奥野農場襲撃事件

上士別との分村にからむ事件だという説と、神社を巡るもめごとだと言う説があっ

て確定できない。筆者は神社問題ではなかったかと推測している。

☆ 矢口駅逓の場所

最初は天塩川畔にあり、後に停車場通り角(現京屋商店)に移ったのが正しいようだ。

☆士別神社の祭典の日取りについて

屯田兵の間では入地した7月 1日と入隊式をやった15日どちらにするかでちょっと

した意見の違いがあった。それ以上に、この日程に不満だったのは、市街地の商人た

ちであった。農家の収入の少ないこの時期より、秋の方が良いと丸武の西條武平氏な

どは不満あったという。(河村米三郎氏談)

☆剣淵より士別の方が将来性あり

河村米三郎氏は大隊本部がある剣淵の将来を見越して、剣淵に商店を開業するつも

りであった。ところが屯田の幹部から士別の方が良いと聞かされ、結局士別に店を構

えた。つまり、剣淵には気の毒であるが屯田兵幹部は士別の優位性を当初から認識し

ていたわけである。(河村氏談)

☆洪水のため扶助米の配給が途絶えて大騒ぎになり、営倉に入れられてもいいから

菅原太吉が米蔵を破ると息巻いた事件は、木村才次郎さんの記憶では士別に来たばか

りの明治 32 年のお盆頃の話しのようだ。

☆「士別屯田史話」に明治天皇のご名代として侍従武官と児玉源太郎が士別に来た

ことを書いたが、侍従武官の名前を渡辺正太郎としたのは多分間違いで、渡辺錠太

郎が正しいように思う。渡辺錠太郎は後に教育総監になり、2・26 事件で反乱軍に殺

されている。

平成 19 年2月 河 野 民 雄