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Hitotsubashi University Repository Title � : Author(s) �, Citation �, 31: 31-49 Issue Date 1994-12-25 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/8916 Right

立法者という奇蹟 : ルソーにおける言説の権威の問 …...31 立法者という奇蹟 ルソーにおける言説の権威の問題 増 田 真 r社会契約論』第二巻第七章は「立法者について」と題され,前半部は立法者の役割

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Hitotsubashi University Repository

Title 立法者という奇蹟 : ルソーにおける言説の権威の問題

Author(s) 増田, 真

Citation 言語文化, 31: 31-49

Issue Date 1994-12-25

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/8916

Right

Page 2: 立法者という奇蹟 : ルソーにおける言説の権威の問 …...31 立法者という奇蹟 ルソーにおける言説の権威の問題 増 田 真 r社会契約論』第二巻第七章は「立法者について」と題され,前半部は立法者の役割

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立法者という奇蹟

ルソーにおける言説の権威の問題

増 田  真

 r社会契約論』第二巻第七章は「立法者について」と題され,前半部は立法者の役割

と,その責務に要求される特質やその立場の特殊性を考察している。ルソーはそこで,

立法者は共同体の一員であってはならず,またいかなる権力をももってはならない,

という条件をつけて,立法者という特異な人物の必要性を,立法という作業に伴う困

難によって説明しているω。その前の章で述べられているように,民衆は常に共同体

にとっての善を欲しているが,それを的確に見極めることができるとはかぎらない(2)。

 しかし,そのほかにもう一つの困難が挙げられており,それがこの章の後半部で論

じられている,いかにして立法者の意見を民衆に理解させるか,という問題である。

 大衆に対してその言葉ではなく自分の言葉で語りかけようとする賢者は大衆に理

解されえないだろう。ところが,民衆の言葉では表現できない考えは無数にある。

あまりにも広汎な見通しやあまりにも遠い対象はともに民衆の知力を超えている。

各個人は自分の個人的な利害に関わる統治案以外は評価しないので,良い法が伴う

絶えざる不自由から引き出すべき利益を見出すのは難しい(3)。

 ここでのルソーの見解は民衆の知力に対してかなり懐疑的な見方に基づいているが,

続くくだりでは,この問題は正に原因と結果が逆転するジレンマとして論じられてい

る。

 生まれたばかりの国民が政治の健全な方針を評価し,国家理性の基本的な規則に

従うには,結果が原因となり,制度の成果となるべき社会的精神が制度の創設をつ

かさどり,人々が法ができる以前から,法によってなるべきものでなければならな

いだろう(4)。

そしてルソーによれば,このような困難の解決のために過去の立法者たちは宗教的

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な権威を利用してきたという。

 それ故この章の前半に劣らず,後半部分についても,多くの疑問が生じる。なぜ

r社会契約論』の文脈で宗教の介入が必要なのか,ルソーは一体神政政治を容認してい

るのか,などといった問いである。そしてさらに,「立法者の高遭な精神はその使命を

証明すぺき真の奇蹟である」(5)という一文に,読者は驚かずにはいられない。という

のは,ルソーの著作をある程度読んだ読者ならば,ルソーが奇蹟に関してかなり否定

的な態度を示しているのを知っており,この文章とルソーの他の著作で展開されてい

る宗教思想との整合性に疑間をもたざるをえないはずである。そして,それ以上に,

法を論ずべきところでなぜ奇蹟が問題となるのか,という疑問も浮かんでくるにちが

いない。そこで,本稿ではルソーにおける立法者の問題のすべての側面に触れるので

はなく,この章の後半で問題となっている立法者と宗教の関連,特に奇蹟に関する記

述に焦点を当てて論じてみたい。こ・の点を考察することは,ルソーにおける立法者像

の一端を明らかにするだけではなく,ルソーにおける権威の根拠の問題や法の概念へ

の手掛かりともなるはずである。

1立法者とぺてん師

 まず問題の整理のために,少し長くなるが先に引用した文が含まれる,この章の終

わり近くの段落を読み直してみよう。

 大衆の知力を超えるこの崇高な理性は,人間の知恵によって動かされない者たち

を神の権威によって導くために,立法者がその理性の決定を神々の口から告げるも

のである。しかし,神々に語らせたり,神々の預言者と称して信じられることは誰

にでもできることではない。立法者の高遙な精神は彼の使命を証明すぺき真の奇蹟

である。だれでも,石板を彫ったり,神託を買収したり,ある神と密かに意を通じ

ているように見せかけたり,耳もとにささやくように鳥を飼いならしたり,民衆を

だますためのほかの粗野な方法を見つけることはできる。それしかできない者はも

しかしたら狂人の一団を集めることさえできるだろうが,その者は決して一つの帝

国を築くことはないだろうし,そのばかげた仕業はやがて彼とともに滅ぴるだろう。

空虚な幻惑は一時的な結びつきを作るが,それを持続的なものにするのは英知しか

ない。なおも存続するユダヤの律法や,十世紀も前から世界の半分を支配するイス

マエルの息子の法は,今日なお,その法を説いた偉人たちを告げている。そして傲

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慢な哲学と盲目的な党派心が彼らを幸運なぺてん師としか見なさないのに対して,

真の政治家は彼らの作った制度のうちの,持続的な制度をつかさどる偉大で力強い

天才に感嘆するのである(6)。

 一読してわかる通り,この段落は明快な二項対立に基づいて展開されている。すな

わち,神の使者と称して民衆をだますぺてん師と,英知を説く真の立法者という対立

である。そしてその所業の結果も,ぺてん師に惑わされてできた一過性の集団と,立

法者によって打ち立てられた永続的な法というふうに,対照的に述べられている。し

かし,この段落では詳細に論じられてないものの,この二項対立による論理の中で,

ぺてん師と真の立法者とを判別する基準が当然問題となる。換言すれば,真の立法者

としての権威は何を根拠としているのか,そして民衆はいかにしてそれを見分けるこ

とができるのか,ということである。

 まず立法者とぺてん師という,一見不可解な取り合わせから考察しよう。そもそも,

立法者を論ずる文章の中にモーぜやマホメットが登場すること自体が,現代のわれわ

れにとってはかなり奇異な印象を与えるが,そのように教祖や預言者を立法者として

扱うことはルソーの時代においてはごく普通の二とであった。もちろん,君主として

国家の法を制定する者,あるいは民主制国家における国民,というふうに,より近代

的な意味で立法者という語が使われることはあった。しかし当時は,この語の用法は

かなり広く,神話上の人物や歴史上の建国者なども含んでいた。たとえば,モンテス

キューは『法の精神』において仏陀をインド人の立法者と形容しているし(7),孔子も

立法者と見なされていた。『トレヴーの辞典』のr立法者」という項目には,モーゼを

はじめ,テセウス,ミノス,ソ・ン,など三十余りの立法者が挙げられている(8)。そし

て教会にとっては,キリストも立法者にほかならなかった〔9)。

 しかし,立法者とされる人物に対する評価,特にそれが神の使者であるかどうか,

という点については,立場によってかなり見解が分かれるところであった。もちろん,

教会にとってモーゼやキリストは単なる立法者である以上に,正真正銘の神の使者で

あることはいうまでもないが,逆にマホメットは不当に神の名をかたるぺてん師であ

った(ゆ。それに対して,フィロゾフたちにとっては,教祖や神の名をかたる立法者は

モーゼであれ,マホメットであれ,総じてぺてん師であった。このような見解はこの

世紀固有のものではなく,もちろん前世紀の自由思想から受け継がれたものである。

特にr三人の山師論』は十七世紀から十八世紀にかけての地下文書の中でもよく読ま

れたものとして知られているが,そこではモーゼ,キリスト,マホメットの三人がぺ

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てん師と断定されている(m。しかも,このように教祖たちをぺてん師と見なす説は当

時かなり流布していた形跡があり,『三人の山師論』とは直接関係のない文脈でもこの

説が登場することがある。たとえぱ,ヴォルテールの『風俗試論』では,神の使者と

自称する立法者は「ぺてん師」と形容されているし,マホメットについても,その語

は使われていないものの,やはり人々をだまして教祖となったいきさつが述べられて

いる(12》。ヴォルテールにおいてこのような批判を免れている古代の教祖は孔子だけ

であるが,ヴォルテールによる中国文明の礼讃は逆に立法老,宗教,ぺてんといった

事柄が密接に関連し,一つの問題と見なされていたことを窺わせる。

 皇帝たちや裁判所の宗教はかつてぺてんによって名誉を傷つけられたこともなく,

教権と帝権の闘争によって乱されたことも(……)なかった。中国人たちが世界中

のあらゆる国民に勝っているのは特にこの点においてなのである。

 われわれがコンフユスィウスとよんでいる彼らの孔子は,新たな教理も,新たな

祭儀も発明しなかった。彼は神の霊感を受けたふりも,預言老のふりもしなかった。

彼は古い法を教える賢明な裁判官であった(B)。

 このような文脈で攻撃の対象となっているのはもちろん民衆をあざむいて世俗権力

を握った聖職者たちであるが,ヴォルテールによれば,中国の古代史にはそのような

越権行為は記録されていない。

 〔中国人たちは〕,その歴史にはかつて法に影響を及ぼしたいかなる聖職者集団も

記述されていないという点で特にほかの諸国民とは異なる。彼らは,人々を導くた

めにだます必要があった野蛮な時代までさかのぼらない(14)。

 このように,教祖や聖職者をぺてん師と断定する論法は啓蒙思想の重要なテーマの

一つである反教権闘争における常套句であり,世紀末のサドやコンドルセの作品にも

見られるものである(151。r社会契約論』第二編第七章における立法者とぺてん師の対

立もこの問題と深く結びついているが,ルソーはこの点についてどのような態度を取

ったのであろうか。確かに,r社会契約論』のこの一節では奇蹟や神託に対する批判が

見られるが,それは必ずしもルソーがほかのフィ・ゾフたちと同じ立場を取ったこと

を意味するわけではない(i6)。問題の一節にはr傲慢な哲学(……)は彼らのうちに幸

運なぺてん師しか見出さない」という記述があるが,この「傲慢な哲学」はもちろん

一般的な意味での哲学ではなく,フィ・ゾフたちの反宗教的,反キリスト教的な思想

と解釈されるべきであろう。そうすれば,ルソーのこの文が自由思想からフィ・ゾフ

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へと至る思想的伝統に対する反論を含んでいることが理解される。では次に,ルソー

はフィ・ゾフたちとは逆に,過去の立法者や教祖たちを神の使者として認めているの

だろうか。もちろん,問題はそれほど簡単ではなく,ルソーの宗教論,特に奇蹟や啓

示に関する議論に立ち戻らなければならない。この問題は,r社会契約論』においては

この章にしか見られないものの,『エミール』のほかに,パリ大司教に対する反論書で

ある『クリストフ・ド・ボーモンヘの手紙』や,ジュネーヴの牧師たちに対する反論

として書かれた『山からの手紙』などではかなり丹念に論じられており,そこでは正

に証言や権威が議論の中心となっている〔17)。

2権威の条件

 奇蹟を否定し,そのことによって啓示を否定したとしてルソーを非難するジュネー

ヴの牧師たちに対して,ノレソーはr山からの手紙』の第三書簡の中で,奇蹟はキリス

ト教において不可欠な要素ではないことを証明しようとしている。ルソーはまず,神

の使者の証拠,すなわちその権威の根拠,となりうるものを三種類挙げている。第一

は「教義の性質」であり,それは「その有用性,その美しさ,その神聖さ,その真理

性,その深さ,そして人々に至高の知恵の教えと至高の善良さの掟を告げうるそのほ

かのあらゆる性質である。」(181第二の証拠は使者たちの人格であり,「彼らの神聖さ,

誠実さ,公正さ,彼らの清らかで汚れなき品行,人間の情念とは無縁の美徳」(19)であ

る。そして第三の証拠は奇蹟であり,それはr神の力の発現であり,その発現を受け

る人の意志によって介入し,自然の運行を変えることができる。」(20)しかしながら,

ルソーはこの三種類の証拠をそのまま認めているわけではなく,それぞれの長所と短

所を検討している。第一の証拠である教義の性質は,「もっとも確実」であるが,同時

にr見極めるのがもっとも難しいもの」でもある。第二の証拠である使者たちの人格

は,公正な人々に訴えるものであるが,「ぺてん師が善人を欺くのは驚くべきことでは

ない」。そして,第三の証拠である奇蹟については,それが「もっとも際立っていて,

もっとも明瞭なもの」であるとしながらも,両義的であるという欠点があることを指

摘している(21)。

 まず第一に,奇蹟は奇蹟として認められなければならないが,ルソーは,たとえ多

数の証言が集まっても,人間の証言は奇蹟の証明とはなりえないと主張する。この考

えは,rエミール』第四巻のrサヴォア人助任司祭の信仰告白」の後半部分の,啓示宗

教の批判的検討の文脈においても見られる。

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 なんですと!また人間の証言ですか。さらにほかの人間が報告したことを私に報

告する人間。神と私の間に何と多くの人間がいるのでしょう(22》。

 驚異的なできごとを信ずるに足るものにするには何人の目撃証人が必要か,一体

だれが言いうるでしょうか。あなたの教義を証明するはずの奇蹟が,それ自体証明

される必要があるのなら,何の役に立つのですか(23)。

 ルソーによれば,人間の証言は超自然的な現象の証拠にはなりえず,通常ありえな

い事象を人間による証拠によって確認しようとすることは粗雑な誰弁にすぎない(24》。

その上,奇蹟はその定義上,超自然的な現象であることが証明されなけれぱならない

が,そのためには,自然の法則ばかりか科学の進歩をも知り尽くしていなければなら

ない(25)。さらに,奇蹟の真偽を判断しなけれぱならない。ルソーはr旧約聖書』から

モーゼとファラオの魔術師たちの挿話などを引用しつつ,預言者以外の人間にも同じ

ような超自然的な現象を作り出すことが可能であること,それ故奇蹟はそれ自体では

何も証明しえないと主張する(26〕。つまり,奇蹟は教義の正しさを証明するどころか,

真の奇蹟であることの証明には教義によらなければならないという悪循環に陥ってし

まう。rもし教義が立証されているのなら,奇蹟は不要ですし,(……)もし教義が立

証されていなければ,教義は何も証明できません。」(27)換言すれば,奇蹟はある言説

に超越的真理としての権威を与えるはずのものでありながら,逆にその言説自体によ

ってしか証明されえない。

 このように,奇蹟は神の使者であることの絶対的な証拠とはなりえず,それ故,宗

教の本質的な要素と見なされえない。それでは,先に挙げた三種類の証拠のうちの残

りの二つのいずれがルソーにとって神の使者の証拠となりうるのだろうか。ドゥラテ

の解釈〔28)によれば,ルソーは啓示の三つの証拠のうち,第一のもの,すなわち教義し

か認めていないという。確かに,ルソーは使者の人格という第二の証拠にも欠点があ

り,そして教義がもっとも確実であると言っているが,注意深く読めば,ルソーがこ

の証拠についても重大な欠点を指摘していることがわかる。それは,教義の正しさは

すべての人に理解できるわけではない,という点である。

〔この性質は〕見出すのがもっとも難しいものです。それを感じるには,教養があ

り,熟考することのできる賢明な人にしか適さない探究や思考や学識や議論を必要

とします(鋤。

もし道徳の基礎がこのように教義の正しさのみにあるとすれぱ,道徳や正しい信仰

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は一部の知的エリートに限られたものになってしまい,それは明らかにルソーの思想

とは相いれない。彼にとって,民衆は「筋の通った推論や地道で確実な観察ができず,

あらゆることにおいて感覚にとらわれている」(30)が,普遍的であろうとする宗教や道

徳は,いかなる人間にとっても明白な正しさを備えていなければならない。

 万人が信じなければならない啓示を神が人間に与えるのなら,神はその啓示を万

人にとって有効で,その証拠を採用するべき人たちの見方と同じく多様な証拠に基

づかせなければなりません。

 正しく簡単なものに思われるこの理屈に基づいて,神はその使者に,偉大であれ

卑小であれ,賢明であれ愚かであれ,学識があろうと無知であろうと,全ての人に

その使命を認識可能にするいくつかの性質を与えた,とされたのです(31)。

 ある宗教が唯一の真理を標榜するのなら,自明な証拠に基づいていなければならな

い,というのは自由思想における常套的な論点であるが,これは正にrサヴォア人助

任司祭の信仰告白」の後半で展開されている書物や証言の権威に対する批判と同じ趣

旨である。

 いかなる人もが知らなければならないことが書物の中にしまいこまれていて,そ

の書物やそれを理解できる人を分かる知力のない人が,意図しない無知という理由

で罰せられるなどとは決して思えません(321。

 しかも,そのような知的エリートにしか理解しえない論拠を啓示や神の使者の証拠

とすることは,人間的な権威への服従を要求することであり,これまでたどってきた

ルソーの論旨にも反する。ドゥラテはおそらく,ルソーを反合理主義の思想家と見な

す伝統的なルソー批判に反論しようとするあまり,必要以上にルソーを合理主義者に

してしまったのであろう。確かにルソーはr理性の権威」(33)に従うことを強調してい

るが,それは「人間の権威」(34)に対置されているのであり,ルソーが教義の性質を神

の使者の唯一の証拠と見なしていることを意味するわけではない。このように見れぱ,

ルソーにとって信頼に値する証拠は奇蹟でも教義自体でもなく,使者の人格しかない

ことがわかる。

3立法者の声

しかし,ここにも難点がある。使者が道徳的に特に優れた人物であるとしても,そ

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 38 言語文化 Vol.31

れはどのように見分けることができるのだろうか。この問題は,人の道徳的資質を直

観的に見抜くことができるというルソーの信念や,人の表情や顔立ちに対する彼の興

味と関連づけることもできよう。それは彼の自伝作品において頻繁に現れるテーマで

もあり,特に人物の表情や外見に対する関心が扱われている部分などとも結びついて

いる。典型的で有名な例は,『ルソー,ジャン=ジャックを裁く一対話一』の中で

描かれている,善良さと透明性の支配する空想上の世界である。

 このように大変特殊な性質をもっている人たちは必然的に普通の人たちとは違う

仕方で自分の気持ちを表すに違いありません。このように変わった仕方で変化を受

けた魂をもって,気持ちや考えの表現においてそのような変化の痕跡をもたずには

いられません。この痕跡は,このようなありかたをまったく考えられない人たちの

気づかないものですが,そのありかたを知り,自らその影響を受けている人たちは,

その痕跡に気づかずにはいられません。それは,事情に通じた人たちが互いに認め

合う特徴的なしるしであり,かくも知られることが少なく,使われることはもっと

少ないこのしるしに多大な価値を与えるのは,このしるしは真似ることができず,

それを真似る人の心から出ていない時は,そのしるしを見分けることのできるここ

ろにも達しない,ということです。しかし,そのしるしは心に達するや否や,人は

間違えることはなく,それは感じられるとすぐに本当のものになるのです(35》。

 ここでのrしるし」は,もちろん言語や標識などの制度的な記号ではないし,身振

りや言葉の抑揚でさえなく,かなり漠然とした意味で使われており,具体的にどのよ

うに知覚されうるのかも記されていない。しかも,その特徴は逆説的でさえある。と

いうのは,このrしるし」はr表現」でありながら,心という深層でしか機能しない。

さらに,それは一義的であり,瞬時に理解され,誤解の余地がなく,うそに利用され

ることもない。

 この空想上の世界には立法者も宗教論争も登場しないが,r啓示に関する寓意的断

片』などのキリスト像との類縁性が見られる。この『寓意的断片』におけるキリスト

はまず,その比類なき人格を示す容貌によって人目を引き,その印象は一時的で表面

的な知覚にとどまらず,見る人の内面に否応なく達するものである。

 彼の顔立ちは何かしら崇高なものがあり,そこでは純真さが偉大さと結びつき,

人に知られたいかなる気持ちのうちにもその源がないような,激しく甘美な感動に

浸らずには,彼を見ることはできなかった(36)。

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 しかし,このr寓意的断片』におけるキリストは何よりも,その言葉によって人を

引きつける人物として描かれている。

 彼を常に尊敬するには彼を一度聞くだけで充分であった。その源が彼のうちにあ

ったので,真理を説くのは彼にとって何の苦労もないことだということが感じられ

た{37)。

 その真理は「魂を満たす優しい口調で」(38)述べられ,理解されるというよりも,思

考を必要とすることなく,すぐさま感得されるものとして書かれている。さらに,こ

こでも内面性のテーマが重要な役割を果たしており,真理は書物のような外的な要素

によらずに,双方にとって何の知的努力もなく伝えられるようである。

 ルソーにおける立法者像を考察する上で,このように神の使者に関する議論やキリ

スト像を援用するのは場違いなことと思われるかも知れないが,傑出した人格の持ち

主がその声や雄弁によって特徴づけられていることはルソーの作品ではほかにも見ら

れる。立法者についても,『社会契約論』の「ジュネーヴ草稿」の当該箇所では,立法

者の超人的な雄弁が明確に強調されている。

 しかし神々に語らせたり,神々の預言者と称して信じられることはだれにでもで

きることではない。神々の名において言われる事柄の偉大さは,超人的な雄弁と断

固とした態度によって支えられなけれぱならない。熱狂の炎が知恵の深さと美徳の

堅固さに結びつかなけれぱならない(鋤。

 このくだりがなぜr社会契約論』の最終稿から削除されたのか不明であるが,立法

者と雄弁が結びつけられているのはここだけではない。r言語起源論』第十一章では,

音楽的で力強い南方の言語こそ預言者や立法者の使うべき言語であるとされている。

 フランス語,英語,ドイツ語は互いに助け合い,冷静に議論し合う人たち,ある

いは腹を立てたおこりっぽい人たちの私的な言語である。しかし,神聖な奥義をも

たらす神々の使者たち,諸国民に法を与える賢者たち,民衆を率いる首領たちはア

ラビア語かペルシャ語を話さなければならない〔40}。

 この少し先のくだりでも,ルソーはマホメットの例を引いて,預言者の超人的な雄

弁の力を強調している。

少しアラビア語が読めるからといって,コーランを拾い読みしながら微笑む者で

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40 言語文化 Vo1.31

も,あの雄弁で律動的な言語で,そして心より先に耳を魅惑する,響きが良く説得

力のある声をもって,そして熱狂の抑揚でその教えに力を与えつつ,マホメットが

自らコーランを説くのを聞いたなら,次のように叫んで地にひれ伏したであろう。

「神に遣わされた偉大な預言者よ,われわれを栄光に,殉教に導きたまえ。われわれ

は,勝利するか,それともあなたのために死ぬかを望む。」(41)

 このようにルソーの作品中で声や雄弁によって特徴づけられている人物は立法者や

預言者だけではない。たとえば,『新エロイーズ』の中でも,そのヒロイン,ジュリー

の甘美な声に言及されている。ジュリーの恋人サン=プルーが彼女の声の美しさを歌

いあげるのは当然としても,それだけではなく,ジュリーの声もやはり彼女の精神的

道徳的資質の現れとしてとらえられている。

 私が彼〔ヴォルマール〕と議論しようとした時,私は自分の使いうるすべての論

拠がすでにジュリーによってむなしく使い果たされてしまっていることが分かりま

した。そして私の無味乾燥な口調は,あの心からの雄弁と彼女の口から流れるあの

甘美な確信には遠く及ばないことが分かりました(42)。

 ここでは,ジュリーとその夫ヴォルマールとの間の宗教上の意見の対立や,無神論

者である夫を改心させようとするジュリーの苦心がサン=プルーによって述べられて

いるが,ジュリーの声の説得力がその内面性と結ぴつけられている点もキリスト像に

おける声の役割との共通点として挙げられる。また,『エミール』においては,思春期

に達したエミールも高貴な感情による真摯な雄弁を備えるようになる。

 彼〔エミール〕の話しぶりは抑揚と,時おり激しさをもつようになった。彼を導

く高貴な感情は彼に力強さと高揚を与えている。人類への優しい愛情に満ちて,彼

は話しながら彼の魂の動きを伝える。彼の寛大な率直さは何かしら,他の人たちの

狡猜な雄弁よりも魅惑的なところがある。というよりも,彼だけが本当に雄弁なの

である,というのは,彼を聞く人たちに伝えるためには,彼が感じていることを示

しさえすれば良いのだから(43)。

 ここでもまた,内面の感情を表す抑揚が真の雄弁とされており,しかも真理は声に

よって直接表現され,感得されうるものとされている。

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立法者という奇蹟 41

4 人間の使命としての社会形成

 ルソーの作品において,このように特定の人物の声や雄弁が強調される理由は,ル

ソーの言語論における声の位置によって理解されうる。ルソーは『言語起源論』や

『音楽辞典』などにおいてその言語論を展開しているが,それは彼の人間論と不可分の

ものであり,同時代の百科全書派の言語論と多くの類似点をもっているものの,重要

な点で百科全書派のものとは対照的な理論である・百科全書派が身振りや叫びを分節

言語以前の原始的な言語と見なしたのに対して,ルソーは声や歌を言語の起源として

想定している。しかも,百科全書派が原始的な言語を,人間における動物的,肉体的

な欲求の表現としたのに対して,ルソーによれば,言語は人間の「精神的な欲求」,す

なわち人間の社会性や道徳性の源泉となる愛他的な衝動の発露である。ルソーにとっ

ては,人間の道徳性こそ人間の自然=本性であり,言語の起源も社会の存立基盤もそ

の自然=本性以外にはありえない。そ胞故,ルソーの人間論においては,肉体的欲求

を超えた対人的な感情は社会的存在としての人間に固有の感情であるのと同様に,音

声言語は社会的存在としての人間に固有の表現方法である(翰。さきほど引用したく

だりが『エミール』第四編の比較的初めの部分,すなわちエミールが子供から思春期

へと移っていく時期に置かれているのも偶然ではない。ルソーの人間論においては,

感情を表現する言語は対人関係の成立を前提としており,エミールの発達段階の中で

は,思春期以前はあくまでも感情が個人レヴェルの欲求にとどまり,他者に対する愛

憎は考慮されていない。つまり,感情を抑揚によって表し,そのことによって雄弁と

なる言語は,人間が社会的存在となり,他者に対する好悪の感情をもつようになって

はじめて獲得されるものである。そしてこれまで見てきたような,道徳的な真理や話

者の人格上の資質が声によって伝えられるというルソーの立場はそのような言語論と

不可分であることは言うまでもない。その思想は『新エロイーズ』の中の,子供の教

育に関する,サン=プルーからエドワード卿への長い手紙においても見られる。

 自分たちにいつも退屈している無為の人たちは,彼らを楽しませる術に多大な価

値を与えようとしており,まるで礼儀作法は,無駄な贈り物をするのと同様に,空

疎な言葉を述べることでしかないようです。しかし人間の社会はもっと高貴な目的

をもっており,その真の楽しみはもっと内容のあるものです。真理の器官,唯一人

間にふさわしい器官,その使用が人間を動物から隔てる唯一の器官は,動物たちが

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42言語文化 Vol.31

叫ぴを利用するよりも下等な利用の仕方のために人間に与えられたのではありませ

ん。人間は,何も言うこともないのに話す時,動物よりも下に自分を堕落させるの

であり,人間はその気晴らしにおいてさえも人間でなければなりません(45)。

 この軽薄な雑談の批判はルソーによる社交界批判の一部であるが,ここでは言語論

や,社会は人間の教化というr高貴な目的」のためにあるというルソーの基本的な社

会観も披涯されており,言語も人間特有の能力である以上,それにふさわしい仕方で

使用されるべきだ,という主張である。

 しかしそのように言語の起源が人間の道徳性にあると想定することは,人間にとっ

て社会生活が必然であると断言することにほかならない。ルソーが『人間不平等起源

論』において,いかなる社会的関係もない自然状態を想定し,それを人間にとっての

自然なありかたである,と主張していることを思うと,かなり奇異なことのように思

われるかも知れない。確かに,『人間不平等起源論』では,人間がどのようにして自然

状態から脱出したのかわからないし,それは起こらないこともありえた「不幸な偶然」

によるものである,とされている。しかし,『エミール』では明確に,「人間には社交

的である,あるいは社交的になるようにできている」と書かれており,社会生活を営

むことが人間にとって必然であるかのような印象を受ける。確かにルソーはこの二つ

の側面がどのように関連しているのかを説明していないが,この二つの立場はルソー

における人間の自然=本性の二面性,すなわち起源としての自然と目的論的な意味で

の自然,に対応する。しかも,人間を社交的な存在と断定しているこのくだりと同じ

段落で,人間の社交的な性質と,その道徳的能力,特に良心が不可分のものとされて

いる。

 しかし,疑いえないように,人間が本性上社交的なものであるならば,あるいは

社交的になるようにできているならば,人間は,その種に関連した,別の生得的な

感情によってのみ社交的となりえます。というのは,肉体的な欲求のみを考慮すれ

ば,それは人間を互いに近づけるのではなく,拡散させるはずだからです。ところ

で,良心の衝動が生まれるのは,自分自身と同胞とのこの二重の関係によって形成

される精神的な体系によってです(⑥。

 ここでは,生存に不可欠な肉体的欲求は社会的結合の要因ではなく,逆に人間を孤

立化させる力とされ,良心の源泉となる感情が社会を形成する能力として人間に本来

備わっているものとされている。このくだりでの「生得的」という表現はその能力が

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               立法者という奇蹟               43

生まれつき存在しているという意味ではなく,むしろr潜在的」なものであるという

意味に解釈すべきであるが(47),いずれにせよ,ルソーは社会生活を可能にする能力が

人間の本性の一部であり,社会生活が人間にとって必然的なものであることを認めて

いる。それはまた,道徳や宗教の基本的な観念の普遍性を信じ,「自然宗教」の支持者

としてのルソーの立場とも一致する。

 神の最高の観念は理性のみによって得られるのです。自然の光景を見なさい,そ

して内なる声を聞きなさい。神はすべてをわれわれの目,われわれの良心,われわ

れの悟性に語ったではないですか。その人間たちはそれ以上何を言うことがあるで

しょうか。人間たちの啓示は神に人間の情念を与えることによって神の品位を落と

しているのです(481。

 諸国民が神に語らせようと思いついて以来,各国民は自分の流儀で神に語らせよ

うとして,自分たちの気に入ることを語らせたのです。もし人々が,神が人間の心

に言うことしか聞かなかったら,地上には一つの宗教しかなかったでしょう(49)。

 ルソーの言葉をそのまま使って言えぱ,神の言葉は万人にとって自明なものでなけ

ればならず,神の意図が現れるとすれぱ,それは人間にとって普遍的な社会性や道徳

的能力以外の形ではありえない。逆に,多くの証言や権威を必要とする奇蹟や不可解

な教義はその条件に該当せず,神の意志の表現と見なすことはできない。ルソーの神

は被造物の秩序を乱すことも歴史に介入することもなく,神の意志は人間性それ自体

に込められている。その点ではグゥイェのように,ルソーにとって,自然と恩寵の対

立はなく,人間の自然二本性こそが恩寵であるということもできるだろう(50)。

 それでは,r聖書』,特にr福音書』で語られている奇蹟はルソーにとって何なのだ

ろうか。ルソーはキリスト教徒としての信仰は棄てて』・ないと主張しているし,『福

音書』に対して敬意を表明している(51》が,キリストの奇蹟については,新旧両教会の

教義とはかなり異なる解釈を提示している。ルソーによれば,キリストの行為は神の

使者としての証拠でもなく,信仰を強いる奇蹟でもなく,単に善行であった。

 それ〔キリストの奇蹟〕は単に善意と慈悲と慈愛の行為であり,彼は友人や彼を

信じていた者のためにそれを行っていたのです。そして本当に彼にふさわしく,彼

の証言となると彼が言っていた慈悲の行為はそのような行為でした。その行為は人

を驚かそうという意志よりも善い行いをする能力を表しており,奇蹟というよりも

美徳でした(52)。

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 44 言語文化 Vo1,31

 ルソーにとっては,キリストの権威もその並外れた人格に由来するのであり,その

特性が何によるのか,キリストが本当に神の使者であるかどうかについては,ルソー

は断定を避けており(53),かなりあいまいな態度を保っている。その反面,ルソーはこ

こでも明確な断定はしていないものの,キリストに立法者のような役割を与えている。

 彼〔キリスト〕の高貴な計画はその国民を復興することであり,その国民を再ぴ

自由で,自由であるにふさわしい国民にすることでした,というのはそれから始め

なければならなかったからです。(……)さらに,キリストは彼の計画を実行するこ

との不可能性がわかって初めて,彼の頭の中でその計画を拡大し,自分でその国民

において変革を行うことができなかったので,彼の弟子たちによって世界において

変革を行おうとしたのです(54)。

 この引用部分の前後にも,やはりキリストの「高適な精神」という表現とともに,

奇蹟を否定する記述が見られ,本稿の冒頭で引用したr社会契約論』第二編第七章と

の類似性を感じさせる。ルソーにとって,キリストは同胞の徳性を高めることによっ

て国民の復興をめざした立法者という側面をもっている。

 こ.のように見れぱ,キリストが本当に神の使者であるかどうか,あるいはキリスト

の行為は奇蹟であるかどうか,という問題は無意味なものであったといえよう。ルソ

ーは,r福音書』やそこに記されたキリストの言動に「神聖なもの」を感じると認めな

がらも,キリストを「神の使者」と形容したことはない。奇蹟の真偽という問題があ

りえない以上,『社会契約論』のいう「真の奇蹟」もありえないはずであるが,だから

こそルソーは逆に,神の意志は法や社会的結合の基盤となる人間性以外の形では表れ

えないこと,そしてそれ以外の奇蹟などありえないことを強調している。立法者が奇

蹟であるのはその登場が神の介入によるからではなく,逆に人間性の最良の部分を体

現しているからであり,決してr超越性の降臨」(55)などではない。そして,立法者は

そのように民衆の真情を理解するとともに,人間の本性に適した法を与えたからこそ,

持続的な制度を確立しえたのである。ルソーにとっては,法と道徳の基盤である人間

の本性が,音声言語の起源であるとともに,権威の根拠なのである。ルソーが偉大な

立法者として挙げている人物は,r社会契約論』に登場するモーゼとマホメットのほか

に,リュクルゴス,ヌマ,ソロン〔56)であるが,それらはいずれも,単なる立法者であ

る以上に,ある国民の始祖であり,いわぱ人間の社交性(社会形成能力)に制度的な

形を与えた者ということもできる。

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立法者という奇蹟 45

5人間性の表象としての法

 ルソーにとって,立法者はぺてん師でもなく,また神の使者でもなく,この点で,

彼の立場はフィロゾフたちのものとも,教会のものとも異なっており,やはり『社会

契約論』の末尾で展開されている市民宗教論に通ずるものと解釈されるぺきであろう。

ルソーの市民宗教には無神論者に対する反論という側面があることはいうまでもない

が,立法者に関する記述も,社会における宗教の必要性を強調するという共通点が認

められる。(rジュネーヴ草稿」において立法者に関する章が市民宗教に関する章と同

じ紙の表側に書かれていたのも単なる偶然ではなく,そのような関連を示唆するもの

と見るべきかも知れない。)ただ,ルソーにとって宗教は不可解な教義の寄せ集めなど

ではなく,あくまでも道徳のための手段にすぎない働。その是非は別として,有神論

者ルソーにとって宗教なしではいかなる道徳もいかなる政治制度もありえなかった。

同様に,政治においても宗教は法や制度の一部として従属的な意味しかもたず,ルソ

ーの立法者像も,神政政治の容認ではなく,むしろ宗教の世俗化と解釈されるべきで

あり,r社会契約論』第二編第七章の最後の短い段落に見られるウォーバートン批判も

そのような文脈に属するものである。

 また,この問題はルソーにおける法の概念の二面性とも関連している(58》。ルソーに

とっての法はまず,r社会契約論』第二編第六章で定義されている通り,一般意志の表

現であり,主権者である共同体の構成員の主体的な意志表示である。しかし他方では,

ルソーの法の概念は道徳律,あるいは宗教的な戒律という意味に近い用法も見られる。

たとえば本稿の対象となっている『社会契約論』第二編第七章の末尾近くでも,偉大

な立法者による持続的な制度の例として「ユダヤの律法」やイスラム教の戒律が挙げ

られている。もちろん,「法」という語に道徳的宗教的な意味を与えることは当時では

普通のことであり,むしろ『社会契約論』第二編第六章のような定義はルソーの独創

なのであるが,この二面性はまた,ルソー自身の定義通りであれば一共同体内に限定

されたものであるはずの法が,実は普遍的な側面をもつものであることをも意味する。

異なる宗教がこのように同列に並べてあるのは奇異に映るが,ルソーにとってはすべ

ての宗教は,その多様性にもかかわらず,基本的な善悪の観念や義務については普遍

的な核心を共有しており,個別の宗教を分け隔てる儀式上の差異は副次的な問題にす

ぎない。

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46 言語文化 VoL31

 宗教の儀式を宗教と決して混同しないようにしよう。神が求める信仰は心の信仰

であり,それは誠実であれば常に一様なのです。(……)神は精神において,そして

真理において崇拝されることを欲しています。この義務はすべての宗教,すぺての

国,すべての人間のものです(59)。

 ルソーはすべての宗教を人間にとって有益なものと認めており(60),この時代ではま

れな,マホメットやイスラム教に対する肯定的な態度もそのような立場によるところ

が大きい。それは,道徳的な観念については民族や宗教の違いを超える普遍性を認め

るルソーの道徳観とも一致する(聞。それ故,立法者に関する『社会契約論』の記述

は,少なくとも宗教との関連については,未来への具体的な提言というより,過去の

教祖と立法者たちを正当化し弁護することを目的とした文章と解釈すべきであるよう

に思われる。

 立法者の存在理由もこの二面性と無関係ではない。法が単に共同体の総意の表現で

あるなら,外部の第三者の介入は不要であろうが,法が一つの共同体を超える普遍性

や道徳性を備えていなければならないとすれば,共同体の構成員の利害を超越する見

識が要求されるというふうに理解される。立法者の役割が教育者のそれとよく比較さ

れるのもそのためであるが,同じ理由でルソー自身が「立法者について」という章で

提起した第二の問題すなわちいかにして共同体の構成員を説得するか,という問題

はかえって際立ってくる。すなわち,法が単に共同体の自発的な意志表示ではないな

ら,その法を受け入れさせるための権威や説得力が問題になる。しかも,ルソーは立

法者にとっての手段として権力も認めず,もちろん神の名をかたって民衆をだますこ

とも認めていない以上,より普遍的で明白な権威を求め,それが立法者のなみはずれ

た人格やそれを表す雄弁であると考えられる。ルソーのそのような思想は,神託,預

言,聖典,教義などの批判に見られるような,権威の批判という前世紀からの思想的

伝統を継承しつつ,新たな権威を模索する試みとも理解できる。ルソーにとって,人

間の本性に適した法を与える立法者のr高遭な精神」だけが,万人に受け入れ可能な

権威であるとともに,主権者を構成する住民の主体性と道徳律の規範性を両立させる

ことができ,「力によらずに導き,説得することなく納得させる」(62)ことができる権

威なのである(63)。

・王

、、’

1.Z)㍑Co漉艇so磁」,1.II,ch.7,6d.R.Derathe,dans(勘錫召s60窺汐僻θs,t.III,Gallimard,

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立法者という奇蹟 47

 Bibliothequede la P16iade,1964,p.382.以下,特にことわりのない限り,ルソーの作品

 はこの版から引用し,巻号をたとえば0.C,IIIというふうに記す。なお,訳文は筆者によ

 るが,既存の邦訳を参照した場合もある。

2. 1扉4.,1.II,ch.6,α C.III,p.380.

3. 」r扉4.,1.II,ch.7,α C.III,p.383,

4. 五〇〇.6髭.

5. 1わ∫4.,1.II,ch.7,0.C.III,p.384.

6, 1δ♂ゴ,,1.II,ch,7,0 C.III,p.383-384.

7,Montesquieu,1)¢」ア助魏4εs’oガ5,1.XIV,ch.5,6d.R.Derath6,Gamier,t.1.1973,p,

 251.(野田良之他訳,岩波文庫,中巻,p.36)

8.ρガ6”o%ηα舵4θ丁名吻o郷,t.V,1771,p。466.

9.たとえぱルソーの『クリストフ・一ド・ボーモンヘの手紙』に引用されているボーモンの

 文章に見られる。0.C.IV,p.1001.もっとも,この表現は立場の違いを超えて広く使用さ

 れていた。Cf.Voltaire,丁勉∫だsκ7」α渉oJ6昭%6θ,6d.R.Pomeau,Gamier-Flammarion,

 1989,p.105.

10,P癖∫oηηα舵4θ丁名吻o郷,art.“Imposteur”,t.V,1771,p.100.

11.『三人の山師論』については,下記の文献が詳しい。赤木昭三,『フランス近代の反宗教

 思想』,岩波書店,1993,第二部第三章,およぴ,A.McKenna,、0召、Pαs6α♂δy6伽吻=」ε

 名δ」召4θs」R8ηs6(ヌs‘!6伽o‘zJ dαns J’hお!oか646sガ4勿s8n翻61670α1734,dans S餓4∫6s o%

 VbJ如伽6αn4’h6E碧海∫6召%≠h Cεπ‘%勿ソ,t.277,1990,p.635sq.

12。Voltaire,Essα’sκ7」εs卿α翅駕,Introduction,6d.R.Pomeau,t.1,Gamier,1963,p.192.

 なお,ヴォルテールは『三人の山師論』に言及しつつ,それが当時ではすでに見つからな

 い本であると書いているが,この地下文書の普及ぶりから見て,その記述がヴォルテール

 の真意であるかどうか疑わしい。

13. 五δ∫4.,p.69.

14. 1δゴ4.,p.67、

15.たとえぱ,Sade,LαP毎!osoρh彪4α郷」θδo%‘!oか,dans(Eκ%6s60卿ρ」2渉6ε,t.III,

 Pauvert,1986,p.482,p.493-4941Condorcet,Es‘7漉認6‘!ンκη孟α配6‘zκhゑs’o万g麗646sρ名ogγ禽

 4ε」’御痂h彫規α劾,6d.A.Pons,Gamier-Flammarion,1988,p.95.

16.アルブヴァクスはルソーの立場を同時代のフィ・ゾフたちのものと同じものと断定して

 いる。Rousseau,加Co窺履so‘観,introduction,notes et commentaire de Maurice

 Halbwachs,Aubier-Montaigne,1976,p.193-194.

17,『社会契約論』における立法者の権威と『山からの手紙』における奇蹟の問題の関連性は

 次の論文でも指摘されている。L.Strauss,“L’intention de Rousseau”,dans T.Todorov

 (pr6sent6par),Pεηs6θ46ノ~oz雄sθαz‘,Seui1,“Points”,1984,P.89.

18.L6‘舵s60魏6s4召如形oηホ昭麗,Troisieme Iettre,0.C.III,p.727-728,

19. 1ゐガ4.,p.728.

20. 五わガ4.,p.728-729.

21. Lo6.6露.

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 48 言語文化 Vo1,31

22.E”z〃¢,1.IV,0。C.IV,p。610.

23.乃躍.,p.612.Cf.L観7θδβ6側規o瓢0.C.IV,p.986-991.

24.L碗㎎s66痂εs4θ佐卿oπ彪gη6,Troisi色me lettre,(》C.III,p.737.

25. ノゐガ4.,p.737-743.

26. ノゐガ4.,p.746.

27.乃歪4.,P.747.

28.R.Derath6,LθR碑oη薇s彫646西αη一海og3‘εs Roκss召側,P.,1948,r6imp.Slatkine,1979,

 p.54-55,n.5.邦訳,R.ドゥラテ,『ルソーの合理主義』田中治男訳,木鐸社,1979,p.85

 -86,注47。

29.L8♂舵s60漉εε46佐η20η如g鰐,Troisi色me lettre,0.C.III,p.728.

30.乃ガ4.,P.729.

31. 1δガ4.,p.727.

32.E窺∬θ,1,IV,0.C.IV,p,620。

33. 五δ歪4.,P.607.L6”■2s667露εs oZε如郷on惚n8,Seconde lettre,0.C.III,P.719.

34.乃躍.,Premiさre lettre,0.C.III,p.70L

35. Ro欝sθα%ブz69θ4(ヲ/θ‘z兜一ノ46(1z4εs。五)たzJo9%θ⑤ 0.C.1,P.672.

36.F㍑ガon o%〃oπ6側α〃瑠oガ翼召s%7」σ形∂6♂α拒oπ,σC.IV,p.1053.

37. 1δげ4.,p.1054.

38, 1δガ4.,p.1053.

39. 五)z¢Coη朗ヒπso6如」 (P7召ηz∫ク名θ∂ε7sガoπ),1.II,ch.2,α 0.III,P.317,

40.醜s‘zl s%7」ンo蕗8初g4召s Jαηg麗s,ch.11,6d.Ch.Porset,Nizet,1970,p.135.

41. 1房4.,p.137.

42.九漉o%如ハb初召〃6μ6Jo魏,V-5,0.C、II,p.594.

43、E窺吻,L IV,0,C.IV,p.547.

44,この点については以下の拙稿で論じたのでここでは繰り返さない。「ルソーにおける言

 語の起源と人間の本性一『人間不平等起源論』と『言語起源論』一」,『仏語仏文学研究』

 (東京大学仏語仏文学研究会)第七号,1991,p.3-23,および“Musique et soci6t6-An-

 thropologie et th60rie musicale chez Jean-Jacques Rousseau一”,E伽4召s46彪鴛8・κ6θ’

 あ材6ηπκ名6〃8箆9α奮(~s (Soci6t6japonaise de langue et litt6rature frangaises),No.60,

 1992,p.57-69.

45.九漉o祝彪No吻θ〃6∬6Jo醜,V-3,0。C.II,p.576-577。

46,E窺〃6,1.IV,0.C.IV,p.600.

47.Cf.J.Derrida,1)召彪G瓶窺耀‘oJog毎,Minuit,1967,p.263.

48.Eηz吻,L IV,0.C.IV,p.607.

49. 1わズ4.,p.608.

50.H.Gouhier,L6sル鯵読如’10ηs”z6吻hlys殉%8s4θノ2αn一ノ40g鰐s1~o%ss6α%,Vrin,1970,p.44

 sq.Cf.μ距θoμ彪八石o卿6〃ε∬6Jo魏,VI-7,0.C.II,p.683。

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立法者という奇蹟 49

51,E砺Jo,L IV,(λC,IV,p.625-626;加孟舵s66癬θs4θ」α窺oπ姥・nε,Premiere lettre,0,

 C。III,p.698-699。

52,L6‘舵s66漉θs4θ」α吻o知㎏ηθ,TroisiOme lettre,0.C.III,p。735.

53。E駕舵,L IV,0。0.IV,p.626.

54.Lettre a M.de Franquieres,(λC.IV,p.1146.

55.P。Burgelin,LσP毎Josのh彪4ε」厩麟6%oθ飽∫ヲ1.1~o寓ss6伽,Vrin,1973,p.562,

56.Cons躍働罐oηss%7!εgoκ∂θ吻伽θ窺46PoJogn己αC.III,p.956;この点については次

 の研究がある。B。Baczko,“Moise,16gislateur”,S.Harvey et al.(ed.),1~6吻瓶sαZsげ

 1~o欝s召側.S伽伽s勉飾η07φR∠4,五確h,Manchester,Manchester University Press,

 1980,p.111-130.

57,L6云舵s66漉2s46如翅o%‘昭ηθ,Premi◎re lettre,αC.III,p.700-701.

58,この点については機会を改めて論じたい。

59.Eη2吻,L IV,0.0.IV,p.608.

60. 1扉ゴ.,P.627.

61。 1δ’4.,p.597-598.

62. Z》κCoη翻αごsooたzJ,1.II,ch.7,0 C.III,P.383.

63。もちろん,本論はルソーのテクストのごく一部の解釈の試みであり,その批評でもなけ

 れば,ルソーの弁護でもない。たとえば,人の人格はそれほど明白に判断されうるのか,

 道徳律はルソーのいうように自明で普遍的であるか,などの問題や宗教上の問題について

 は同意できない部分も多いが,その点はここでは論じないことにする。ある思想家の理解

 のためには,賛同できない論点もできるだけ正確に理解する姿勢が不可欠であることは言

 うまでもない。