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. 現代韓国の風水説 野崎充彦 一.はじめに バルセロナオリンピックにおける韓国勢の活躍は記憶に新しいところで あ るが、なかで、も圧巻は、森下選手とのデッドヒートの末に劇的な勝利をおさ めた、男子マラソンの黄永酢選手であろう。 1936 年のベルリンオリンピ ック では孫基禎 (1912-- )選手が優勝したものの、植民地統治下にあ ったため 日章旗をつけて走らねばならず、ニュースを報 じた東亜日報は孫選手の胸の 日の丸を(恰も 、 1910 年に石川啄木が地図上の朝鮮をくろぐろと塗りつぶし たように)消した写真を掲載し、朝鮮総督府によって無期停止処分を受けた。 この、謂わゆる日章旗抹消事件は、いまだに韓国人の脳裏に鮮明に焼きつい ており 、黄選手が優勝した瞬間、韓国人アナウンサーが 156 年間の恨がいま 晴れました J と叫んだというのも宣なるかな、なのである。 貧しい海女(あま)の子として生まれた黄選手は一夜にして民族的英雄と なり、国家より与えられる終身年金は勿論のこと 、園内の有名企業や資産家 たちからも功労金の授与が相次いだのであるが、その中に一つ風変わりなも のがあった。黄選手の祖父が眠る墓所(江原道三砂郡〉の地主が、マラソン 優勝に気を良くし、墓所および周辺の林野百坪を寄贈したというのである 。 法務士(軍法会議の裁判官に任命された軍法務官)を努める千白星 (53) が、「黄選手のお爺さんの墓所が明堂であったからこそ金メダルをとれたの ではないか。また、こ れからも黄選手が成長しようとするなら明堂の陰徳が より一層必要になると思い、こ の土地を寄贈することにした」というのであ る。(朝鮮日報 92.8.12) この明堂とは、本稿で取り上げる風水地理信仰にいう吉地を指すものなの であるが、では、そ の風水とは何か? E EEA f

現代韓国の風水説 - Osaka City Universitydlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0440101.pdf · あるが(これを龍脈という)、河川などの地形に影響され、散ったり集まっ

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.

現代韓国の風水説

野崎充彦

一.はじめに

バルセロナオリンピックにおける韓国勢の活躍は記憶に新しいところであ

るが、なかで、も圧巻は、森下選手とのデッドヒートの末に劇的な勝利をおさ

めた、男子マラソンの黄永酢選手であろう。 1936年のベルリンオリンピ ック

では孫基禎 (1912-- )選手が優勝したものの、植民地統治下にあ ったため

日章旗をつけて走らねばならず、ニュースを報 じた東亜日報は孫選手の胸の

日の丸を(恰も、1910年に石川啄木が地図上の朝鮮をくろぐろと塗りつぶし

たように)消した写真を掲載し、朝鮮総督府によって無期停止処分を受けた。

この、謂わゆる日章旗抹消事件は、いまだに韓国人の脳裏に鮮明に焼きつい

ており、黄選手が優勝した瞬間、韓国人アナウンサーが 156年間の恨がいま

晴れましたJと叫んだというのも宣なるかな、なのである。

貧しい海女(あま)の子として生まれた黄選手は一夜にして民族的英雄と

なり、国家より与えられる終身年金は勿論のこと、園内の有名企業や資産家

たちからも功労金の授与が相次いだのであるが、その中に一つ風変わりなも

のがあった。黄選手の祖父が眠る墓所(江原道三砂郡〉の地主が、マラソン

優勝に気を良くし、墓所および周辺の林野百坪を寄贈したというのである。

法務士(軍法会議の裁判官に任命された軍法務官)を努める千白星 (53)氏

が、「黄選手のお爺さんの墓所が明堂であったからこそ金メダルをとれたの

ではないか。また、これからも黄選手が成長しようとするなら明堂の陰徳が

より一層必要になると思い、こ の土地を寄贈することにした」というのであ

る。(朝鮮日報 92.8.12)。

この明堂とは、本稿で取り上げる風水地理信仰にいう吉地を指すものなの

であるが、では、その風水とは何か?

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-2ー

ニ.風水地理信仰について

風ノk地坪.信仰とは、極めて単純にいうならば、大地の中を流れる「気」

(一極の生命エネルギー)の集まるところを明堂(吉地〉とし、そこに生者

や死省が住まうこと(前者は陽宅、後者は陰宅と呼ばれる)によって人間界

の幸福を得ょうとする、古代中国に発祥した民俗信仰である。

風水という用語は、普の郭撲 (276'"-324)の『葬経Jに初めて見えるとさ

れる。

終に円く、気は風に乗ずれば散じ、ノkに界せらるれば止まる。古人はこれ

をして散ぜしめず、 これを行かして止まること有らしむる。故にこれを風水

という。j瓜ノkの法はノkを得るを上となし、j員を蔵するを次とす。 (1 )

つまり 、大地を流れる 「気」の脈は通常、山の起状に従って移動するので

あるが(これを龍脈という)、河川などの地形に影響され、 散 ったり集まっ

たりする。そこで¥この 「気」 がうまく衆散する(蔵風得水)地をさがし求

め、それを明堂として重んじるのである。明堂の典型的なものを挙げれば、

凶 1のようなものになる。 (2)(図 1)

1IJ1 /~

nnm益穴(削穴)

l人jγ;.ftU 外仁JJ}e.

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[ f火11] そこに見られる風水川知の細々しい説明は省略するが (3)、要するに、r:f:l

f : I~J の rt! f俗山から能脈を通じて流れてくる 「い」を河川のラインで_.s..l1ニめ、

I!?出 ・ 1'11)(: ・ ~・筏 ・ ぷ此の内側lに比定された LI .I (あるいは.丘陵)によって保

つことのできるよ山を!リj設とムい、そのような地に正城や住宅 ・必地などを投

( 2 )

可.

4・4・・一、--...

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~ . . •

1.- •

-ー

現代韓国の風水説 ー 3-

ければ福を得ることができるというのである。 村越風景的に言えば、背後に

は市めの山か北風から村を守ように立ち、左右には穏やかな山や丘陵がうず

くまるように村をつつんで前面には静かに轡曲する川が流れる、ちょうど

iNJ (1.一山 村を抱いて流るJCi江村J)と、社前か詠じたような情長を思い

うかへればよいだろうか。一言で・ぶうならば i1r山臨水Jということになろ

つけ。

風水のもうーつの特徴は、その矧物感応信仰である。風水においては、万

物は r~\J の日行政なのであるから 、 物の形状はそれを形成する「気」の作用

に従うとされる。;逆に立えば、そこを流れる「以」かどのような属性を持っ

ているかは、その物の形から判断できるのである。そこで、明堂とけされる

地の形状を凡て、臥地形とかl(~J~tU杉とか、 あるいは仙人舞袖形や将軍大坐形

とかいったおめでたいネーミングか胞され、それに関連する福を女受するこ

とのできる古i由として給付けかなされるのであるか、その種類は大変多く 、

バラエティに日む。

l:V J附においては、こ の風ノ1<t,-仰jは速く 竺llil時代から流布していたとさ

れω、日腿 ・李i;VJ時代には|ヌi識(予-rX) と払ひついて[司政に深刻な影響を

勺・えたことはよく知られている。 ミJZ域 ・開城 ・ソウルといった古の E城の地

はすべて例外なく 、風水晶によって定められていたのである。このことは単

fよる伝説や13・い伝えなどではなく 、『高麗史Jゃ r朝鮮王朝完全求』といった

El~1家の,,1:.火の膨大な必にのぼる ii:や 171 ドたちの風ノ'1<nfiû議の記述に確必で・きる

n災であり CI天|みに、 q:J悶では"1E.火における風ノkの言己主はさほと多くはない)

た、 j告代 どE陵や有力な士大夫たちの墓所の始ど全てが風ノkをJr:jI,@:して造

ヨ札た (6)ことからも、その最5mlの深さ大きさが理解できるであろう。

r.,'1iJiにあげた首選手の!リJ'J.定説地*目的のエピ ソードも、こ のような朝鮮の風

ノkの伝統上にあることは近うまでもなし、。本稿は現代に生きる隙々な風水説

の仰i撤を通じ・:、伝統的な風水必との呉.同や現代斡l誌における意義を考察し

ようとするものである。

三.風水鋭の諸相

以ドの立において

であるが、その前に

圃水脈と風水

現代将凶における見られる風水説を取り上げていくの

ーπの準備のために参照した主な資料を紹介しておく 。

1986年 対l..<J出版む:

守方はカトリックの神父。林神父の活動については後に詳しくふれる。

(3)

-・4jM4のlリ12U 金L定年 1989{.1: 来年:社

締結~1l:1 報の記者が女性週刊誌に述載して反響を呼んだものを刊行しに

の。村tJ.I智n凶の『朝鮮の風水』や前記の『水脈と風水Jのほか、記

i計らしく 「街の風水税」を丹念に取りあげている。

• 11 純国風ïl< ~I,忍泡!史研究』 zp.aF日 1991年 目釦社

90"V:に鹿北大学に拠出された博士学位論文を出版したもの、著者は58

f12生まれの地IIH学者。風水の体系的研究容としては84年に出た

氏の 『斡[習の風水思想t~ に続くもの。 巻末に付された 1 1'9項 この口

る風水師にたいする質問事項グ

• u斡(~引のj長\ïJ<J 'l主襟U~ .1992年 東学ネァ

rj:J火経済新聞に 「新風水地問紀行」 として述駿されたものo '"の

'1< flilj として活脱する側鎖線氏 (79~f::よりソウルで・風水研究h .で

m数学会を主俄)に随行して全閣を巡った記縁。 プロの こよ

ar~*1IIな風氷解釈が売り物。

これらをμても、現代純国における風水への関心が生半可なものでな lいこと

が分かろう。 これらの他、融者の蹄続する靭昨日報に

~n も迎q引 jりする。

現代韓国の風水説 -5

江をはでくらせながら夕日に染まってなかなかの壮観を呈するのであるが、こ

の島はソウル市の中心から見ると、太陽や月の沈む西方に当たるため吉なら

ずという。尤も、汝牟 (o~ .9.l )を如意 (o~ .9.l )とが音通なのをかけ、何事も

意のままになる所とみて、政治家にとってはむしろ吉とする見方もある 7)0

-韓国釘数の国立大学として知られるソウル大学は、その激しい学生迎勤

を嫌った朴正照前大統領によって、 75年にソウル市南郊の冠岳山の山裾に移

転させられたといわれる。冠岳山はその峨峨たる山容から、古来より風水に

おいては火の山(火星形)とされる悪山で、そのため市内の景福宮では火災

が絶えず、それを鎮めるために水壷を山のあちこちに埋め、またノk獣で、ある

ヘッテ(獅子に似た一角獣 善悪を判断するノJを持つという怨像との動物)

の像を崇福宮の正門である光化門に置いて版勝〈魔除け)を図ったという釘

名な風水説話で、知られる (8)0 現在、全羅道の光州市にフランチャイズを持

つプロ野球チームのヘッテ ・タイガースのヘッテとはこの水獣のことである

が、あるいは80年の光州事件のような争乱が再発しないよう、密かに脱みを

きかしているのかも知れない。

それはともかく 、 このような悪山のふもとに将来国家を担わんとする病気

に満ちた青年を集めることは決して好ましいことではないというのである。

筆者自身も75年に移転直後のソウル大を訪ねたことがあるが、冬のはじめで

もあり、丙北の風の吹きすさぶキャンパスは荒涼としていて一層寒さが身に

や心みたことをおぼえている (9)0

上にみた風水説に共通なことは、いずれも宗教界 ・政界などの社会状削に

絡んだものであるということである。そこには韓国社会の現状に対する強い

批判意識があるのだか、これはまた、古来よ り政治と係わることの多かった

朝鮮風水の伝統で、もあろう。それをより端的に示すのが、次にみる政治家に

関する風水説である。

政治家にまつわる風水説には陰宅風水(墓所)に関するものが多し、。つま

り祖先の墓がこれこれだったのでチ孫にしかじかの結果をもたらしたという

ものである。

・安潜善四代大統領(政権期間60.8-"62. 3)の先管(先祖の幕)は「瑞龍

上天J形の明堂(忠清南道牙山郡所在)として知られているが、これには典

型的ともいうべき風水説話が伝えられているので一瞥しておこう。

( 5 )

-6 -

戸大統領の何代か前の芦某は議政府(李朝時代の最高政策決定期間)の要

職を務めたほどの人物であったが、党争により落郷(都落ち)、片田舎で善

政を施して人々の信望をあつめていた。戸は間もなく亡くなり、一家は没落

したが、そのチ患はよく父の教えを守って暮らしていた。ある目、市場から

の帰り道、路傍で病いに符しむ乞食僧を助けて、しばらくの間世話をしてやっ

た。やがて、元気にな った乞食僧は別れの日に、お礼として明堂の地の所在

を教えた。それは、かの壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)のときの名将李舜臣将

軍の墓所の裏手にあたる地であった。

旅の乞食僧をもてなし、返礼として明宅金の地を授けられる型の説話は朝鮮

に多し1。車天格 (1556---1615)の『五山説林J巻五の李成桂が旅の僧(実は

無学大師)から明堂を得る話の他、李朝後期の漢文説話集 r育郎野談J巻ー

の「占占地魚遊石函J(10や舌きり雀の類話として知られる『興夫伝Jをノマン

ソリ化した『朴打令Jなど、同様のモチーフを持つものは多い (11)0 これら

には、 156麗の太祖王建が風水僧道説から新しい王都の地を授けられたとしづ、

『高麗史』巻頭の有名な記述が影を溶としていよう。

]1)普善はイギリスのエ ジンパラ大卒。 上海で、独立運動に参加、解放後朝鮮

に帰ってソウル市長を経、 60年の同月革命後に大統領に就任するものの、朴

正照らの軍事クーデタを許し、軍事独裁政権の長期化を招いた。 79年の朴大

統領暗殺事件後は全斗燥政権に協ノJ的な姿勢をとり、一応安定した地位を占

めている。波乱の多いl純国政治家のrtJては、その地{立の高さを思えば、まず

ます無難に切り抜けてきたほうであろう。上にみた、 P氏の明堂説話は、そ

れも先符の余沢だということを語ろうとするものだろうか。

・朴正照大統領を暗殺した金戟 r..t~J央情報部長の父親の法は、 「飛龍1:大J形の明常であ った。 このような飛禽煩を名に持つ形付には、電電のあるイi材建築物なとは避けねはならないのであるが、金載長か↑tj報部長に出世してか

ら立派な:墓石等を設けたため、それから何か七日後にあの事件が起きたので

ある。

飛禽矧砲のBJj堂lこイ!材類の施設を設けると不吉とするのはよくよミわれる n

例えば、全斗娩ト一代大統領の父付の制「鳳嵐抱卵J形なので、基の造h文後、全大統領は一躍tH"立することかできたのであるか、会t推なぞi築物をiむい

たために(鳳鳳か卵の:域れるのを恐れるので)チ係は繁栄しないのだと m

というのもその一つである。

以 t、凡てきた風ノk説の多くれ、ゃ、令てかというべきか)は、勿論、結

( 6)

4

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-7-現代韓国のj瓜Jj(ri.見

果論に過きなし、。これこれの閃果によってしかじかの所応か生まれるという

のか、風ノ1<f~の}基本構造で、ある以上、 それは吋然の帰結であろう 。 11212 なこ

とは、それが結果諭かどうかということではなく 、風水説によって{口jが話ら

れようとしているのかである。人心の赴くところ、ま た風水説も付-き従うの

であるから。

(二)依rr脈AAの行JJ

斡|羽に関学:終験のある人ならは、 j長lJJ<に関心があると併とに|対わらす

j支や二度は必すよIにするのかこの断脈必話である 〉断脈説話とはし 1かなる

のか?

かの721名高き朝鮮総督府か、納民地統治ドにある~月鮮人民の Jx抗を恐れ、

「将IHIll陣形jだとか「飛龍好大形 たとかいうような、J_(族の指導的人材

か1.1.,まれそうなりl常の気脈を断つため、大きな3火山を地rlJ深くfrち込んたり

わざと道路を(、fA したりして、風ノ1<(ドJJI~JJ~ を!火!ったというものである。ソ ウ

ルあたりで市者がよく聞かされたのは、;ifトiii仇'のf)ijlUIを巡るように総門If:fの

建物があるのは、{-,任E山から流れ*る気脈を断つためだとか、j半j11.1に'r:t)J鮮tll'

社をt没けたのもソウルを威川:せんがためであるというものであった。

この断脈説話には原型がある。李朝i時代のJt:手ノIなー1:大人-て・あるイド京焼 (1690

~1765 ) の者に『択型誌J という昔物があるか、これは上人;犬にとってのよ!N

惣的な住府のi也を求めるためにλかれたもので、 三-1..'年にわたるヂ:f11~倹 rl 身

の放浪'1-.,?;と風ノ1<r前か反映された史色の地DH訟である。この f与の52尚道筋の

芸山のrfrにこういう言百がd己されている。

普~LI.Hi . . . .. .もっとも清明穎秀、般に諺・に IIく、朝鮮の人J.、1'-ばは制作jに

あり 、倣陶の人J'、jモ(まは一普(:;法1.11)にありと。故にIflより文ツ:の卜多し。

ョ~:h.,<のとき、大将(rl:1悶の将軍)のここを過くるあり、術-1:、外i司の多Jな

るを忌み、 兵卒をして邑後の脈を断たしめ、 煉炭もてこれに灸 L 、 I~lつ人;鉄

柱を押しむiく これより人J致結してj;11で・す.。

一読して分かるように、先に述へた日帝ドの断脈必話と始ど同[災flllなので

ある。そこで私は、この種の断脈説話というのは「択型誌』の焼きltiしにす

ぎないと,むっていた。ところが、総督府による断脈行為を証明する物ぷか允

見されたというのである。

85'tド3)=125日に或る山岳会か、ソウル近郊の北漢IIJF'l:EfiのJYIJてから

帝が打ち込んだという長さ40cm 係25cmの鉄什22本を比つけ出した。はじめ

( 7 )

-ET--

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-8-

この鉄;J:について、測:[11のための三角点標示であるとか、単なる方位;箆F-

あるとかいう説も唱えられたが、いずれも不規則に打ち込まれた鉄住の|説明

には適せずとして退けられた。しかも、描民地時代に鉄柱を打ち込lむ日本ノ

たちを見たという 、80才の老婆や、1943年に関紙(両阻の

として知られる)の俗岳に鉄住を打つ作業!こ、容官として従事したこと

るという元管-官二人の「紅人」まで現れ、日帝断脈説はl殆lど確定的なものと

されるに主ったのである ω 。

このことを知って、私は断脈説話に似たもう一つの誌を恩い|出した。

(911:1:)の12YJに台1113を訪れ、現地の著名な風水師で・め 6隙腎僻肢に

己ちらに築内してもらいながら話を聞く

仰の何者や尚州方而!こ行ったとき、日本による植民地B

がJ.I,¥ノ]衝突した牡丹社事件があり 、鎮圧後、日本人が原住民を

にwてたという(:.]t't鞭と俗称 lされる塔を見た。

ちも

b 必‘

• 'U派を抑えて台湾 もぐのが目的であるというの

lリlであった川。

政・陀とJilllノkr;、手段は災なるが、どちらもその目的はfriJじ

についてどのよウに考・えればよいだろうか? 一つは、何らかの

したもので、他民地統治政策として目的怠滋的かつ組織的に汀

1:1本帝国主義に対する反日感情の摩み出

ー、ー ,~

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たと-剛.

1る。

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に l応dあうる 、 ~*1 ド';j:の巡m1i限に安ifi されてい

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て流れ111ている気脈を111Jえつけ、EJ

; (1M 0 1芸術山に発した気脈が、':vJ山に.iillなり 、そこから泌ra"n且つ

4)~ Jlil:!;J Ul,j(

のS<lJU~が~l11j じているという i吋'jJl

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3本に向

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現代韓国の風水説 --9ー

(三)_神父の風水

ダウジングと呼ばれる水脈探知の方法がある。東京都の水道向て実際に使

われているという話をどこかで聞いたことがあるが、針金のような俸の二Xに分かれた方を持ち、地面の上を静かに移動すれは、地下で水道11・か倣裂し

ている場所にちたると、棒が微妙に反応 し、水漏れの箇所を発Jt!.で、きるのだ

そうである。円唾のような話ではあるが、科学的な恨拠もあるという。と い

うのは地球の電力はどこでも一定というわけではなく 、地質によってかなり

変化する らしく 、 例えば、 地球を周回する人 r街起も常に fõ] じ高さを JI~んて

いるのではなく 、山岳地帯を飛ぶときと大洋 kを飛ぶときとではそのIfJ度か

異なるという。とすれば、人工衛星は地球を夕、ウシンクしながら飛んでいる

とても言えようか。角や触角を持つ動物や昆虫か水のありかを知ることかで

きる のも、同じ理屈だそうである。

ここに紹介する林応取神父は、我々がいう ところのこのダウシングを行う

のである。 まず、林神父の経歴を見ておこう。

林神父は1923年、今は北朝鮮(朝鮮民主々義人民共和悶)に属する災海道

の生まれ。1937年頃、通っていた神学校の朝鮮人神父が懐中時計でソk脈を探

し出すのを r]のあたりにしたのがきっかけで、n分ても始めるよ うになった

という。凶みに、この朝鮮人神父は懐中時計を雫 らして水脈を求めるノJ)去を

フラ ンス人神父から学んだという。丙洋では、先ほどから述べているタウ シ

ングはかなり占くから知られているようで、行を打ちつけて水を出したモー

ゼの杖もこ の類だとされ 〈弘法大師空海にも類話あ り)、中世以来、数多く

の文献にu己録され、ゲーテの 『ファウ スト』第三部にも見えるもので、ベ ト

ナム戦争では地出探知にも活用されたという ω。 フランス人神父が伝えた

というのも、おそらくその流れを汲むものであろう。

以後、林神父はrl分なりの方法を工夫し(神父円身は糸に垂らしたおもり

を使川している)、水脈探しに励み、噂を伝え聞いて水脈探しを頼みに米た

人々のために、版うことなく出かけては 「神板、のおも りJを垂らして歩くよ

うにな った。1978年の干魅の際には、農業用ノkのために二百二十筒所余りの

水脈を傑しj;11したという 17)。その他、聖堂のための地下水は勿論、江華民

の{五燈、予のような仏寺や慶州国立博物館、それに建国大 ・徳、成交子大 ・刺伝!

大 ・カトリック大といった大学や馬山や釜山の工業団地とい った様々な施設

のためにノk脈探しを実行してきている。なかで、も印象深いのは、北朝約と の

国境付近の前線に駐屯する陸軍8276隊のため、1979年に行った高地における

( 9 )

現代韓国の風水説 - 11 -

水捌け句よい地なら、祖先の亡骸は順調に美しい骨となり、子孫に幸福をも

たらすと信じられているからである。中国では、墓所予定地の地質を見るた

めに、予め豚の骨を埋めてその変わり具合を調べもしたと伝えられる (問。

従って、埋葬後、棺の中の遺体に樹木の恨が絡みついたり、7.Kに浸かってい

たり、甚だしくは蛇の巣になっていたりというような不手際をすれば、 T孫

には直ちに恐るべき災厄が降りかかるとされ、このような事態は何としても

避けねばならなし、。中国や李朝時代の上大夫の冠婚葬祭の典擦として作竜さ

れた『朱子家礼Jの間喪 ・奔喪 ・治喪の条には程子らの説をヲ|いて、事細か

な注意事項がある。林神父の墓地風水への傾斜は、無論、このような歴史的

文化的背景の上にあるものではあるが、それにしてもクリスチャンは祭紀

(伝統的な儒教式の祖先崇拝儀礼)にも参加しない人も珍しくないほど、宗

教的厳格性のある韓国で、林神父のような活動が教会組織内でどのような日

で見られているのか、気になるところではある。

ともかく 、林神父は「経験的に」風水は信ずべきものと主張し、火葬を激

しく非難する。火葬は、このうえもない祖先に対する暴挙であり、インドは

それゆえに貧しく 、日本はそれゆえに原爆の災禍を招しーたのであるともいう。

原爆云々のくだりは「世界で唯一の被爆国J(唯一の民族ではない)のiえな

らずとも、些か首肯しがたいものがあるが、林神父はそう主張してやまない

のである。

(四〉建築家 朴時翼氏の明堂実験

今まで見てきた現代韓国の風水の例は、「不合理ゆえに我信ずJといった

感が強く 、どうも批判精神に乏しいのではなし、かと思われたかもしれない。

突のところ、j弧ノkは韓国で、も屡々多方面からの批判を浴びている。風水批判

は、古くは高麗や李朝初期の遷都問題をめぐる議論の巾でもあったし、李朝

中期以降にはと大夫たちの墓地獲得のための度を越えた山林の占有によって

耕作地が侵害されたり 、山訴とよばれる墓地に関する訴訟が頻発するに至っ

たため、実学者たちの風水批判が起きてもいるお}。翻って現代でも似た状

況が発生しており、墓地の国土に占める割合は 1%にも及び、毎年汝矢島の

1.5倍にあたる土地が墓地に変わっているという (21)0 これに対し、政附は火

葬を焚励したり、基当面積100坪以 上の石築物で過度に装飾した墓を「栄華

基」として問題視したりしているが、実効性には乏しいようだ。

さて、ここで紹介する朴時翼氏は風水への怨築学的批判jから出発して、滋

.

、、,J唱EEA

EEA

〆t

、、

-12-

には風水のj芳になってしまった例である。

本卜時翼氏の風水との出会いは、建築 tとして設計事務所に勤務していた時

に始まる。漢陽大の建築工学科を卒業後、設計事務所に就職、住宅の建設な

どを手掛けていた。ある円のこと、 くどいほど事細かな設計変更を求める施

主が、'夫は風JJくを盲信していることを知って反発。風水説を論破せんかため

に猛然、と風水の勉強を始めた。『周易Jなと、東洋哲学と風水説との関わり

からはじまり、風水師に随行して行った、三年間にわたる現地調査に基つい

た風ノ1<lFJJ論の分析、および、現代建築理論への適用方法の研究にと進み、遂に

はその成果を「風水地問説発生背景・に関する分析研究 建築への合理的適用

のために」と題する博 i:諭文 (1987年 高麗大学大学院)にまとめるに至っ

たのである。

j政ノkfjki;のために研究を始めた朴時契氏ではあったか、次第に風水を肯定

的に比るようになり 、今度は逆に 「科学的に」風水説を証明せんと、殺人事

件なと新聞マスコミに約介された凶意事件の現場や関連する場所を自ら訪才l、

事件発'1:.のJIDtJ}<的要肉の分析に努めるようになった。建築士らしく 、家の構

造-や敷地のノj向など、これこれが風水 kから見て凶のために事件か起きたと

するもので、端から見ればどう考えても結果論のこじつけに過ぎないように

思えるのではあるが、本人は至って大点[fri目で、事件当事者の居宅にあがっ

てlUj血irlrf

(にも 「風ノkを倹分に米たJと告げでは蹴りだされたりしている。

かくの虫11き風水修行を続けるなか、朴"与典氏は明25:実験なるものを思いつ

いた。1979作、師と仰く風J}<師か旬j笠の地であると太鼓判をおした、多くの

日後やらミのあることで知られる京税道合弁rfJjの某11J地二千坪を購入。陰宅と

l~bJ '1:;は 1 ,~本的には |司・ じだと L 、 マノ1火 (IIJJ設の rJ l心地)に住めば必ずや何らか

の以き変化か起きるだろうと期待、火ぐら生活を開始したのである。先に陰

℃胤ノkに'コいて述へた際、 J111詐された*1:1先のf!?を通 してiリJ ~?,:に流れ 木 之、いつ耐を子孫が立受できるとする r r口J~l lt!.~Lt, Jという考え方かあるといったか、

朴時刻氏のこのlリj蛍災験は、制うなれは、feJ分の'1:.ける・iまをr!f]設内において

制のejJ:受を求める fiiU以内{JIIlJ ~~感応 l をJI:l ったとム之ょうか。

1/, 11与、小卜11与~氏は、 36 .J'"。職均での(1: ~JJをおえると 、 f~P:とで装備を備えるやーIIIJ女に flリ12Uに蹴けつけ、一夜を過こ Lては史認知jまた職樹に向かうと

いう1:1々 があい、た。途1:11、火くらにj泣いていた泌13やラジオが硲慨にあうと

い 3 た災舶にも は:卿われたか、 j~~ける ι となく 'k験はl続けられた。ある I:J ¥-7')

ljU:j, rお1j i j {よ先令に包Illl 占 ~' t 'Cいる。手をip:げ'clf¥-cヰ〈;し、 !とAE!l!Qる弐ピー

e

、B

,、,l

,E‘、

現代韓国の風/]<説 ー 13-

カーの戸に目覚めるや、直ちに雪察に辿frされてしまった。北朝鮮から似人

したスハイと間違われたのである。 {uJかと誤解は解けたものの、iリ:12古文句会は

この一什て頓陀してしまい、その後、この I1りj常」の地は与える政治家に3わfr

として譲られることになった。「明堂Jのお峰か、その政治家は!交市なる政

愛にも失脚することなく 、政治活動を続けてい るとのこと。京fjjfJ、出l/kJ山HI1

の l'lVぷIt't:Jを尖dJJ:しようとする試みは!点以Jせす、発11=.背;誌の n5~UJ J に のみに

停まってしまったことを朴時翼氏は伐念、がっているという m 。

こ の旬j~1t実験の期末は、 本ト時翼氏の何人的諮闘というイメージのせいか

残念、なからスラ ッフスチックな印象しかりえないようであるか、規悦か人き

くなるにつれ、事は俄かに真実味を増してくる 次配jては、そのような例を

見てみよう。

(五)桜子村 ・国立墓地 その他の風ノ1<it築物

.以付、I

全経辺脳川tn~の JKf'J は75軒r lJ35軒に38系Ilの双 fがI:I~ まれたという 、 11J.料て

も稀に凡る双子多j定の村として矢[Jられている。その秘密を解明せんと、カト

リック大の研究チームが調査を行った。まず初めに、飲みJkか関係している

のではないかと考えられたが、同一のjf:}iを使用する付近の村には、桜子村

のような引象は全くないため、 飲料水原!大1d5~は退けられた。次に 、 追仏のよ

うな先天性の変|刈があるのではないかと推定、近隣の村落に住むIIIl縁 (jのif;跡調査を行ったところ、一組の双子も見いたすことができず、これも何辻'さ

れた。そこで登場したのか、かの風水説である。

そもそも、この村に双子が生まれ始めたのは円二十年ほど前からだそうで、

以米、1'1-_まれたといえば双子jと言われるほど、双子の出産が相次いだ。

ところで、村には 一つの伝説があった。 それは、村の点ノら-に見える双胎山

(または双的11.1)のもたらす精気のため、この村に多くの双子か生まれるよ

うになコたというものである。そこで、出ハ朴教授ぐ叩寺 会北大地開学科)

は風水の形f討論から説明できるはすだと、現地調査を開始した 3 その結果、

この村は風水i由民の定穴法(名穴の位置を決めるノjj去)によ って村の{立川か

定められており 、75軒の家のんi,:lJを坐111j論(万位に関する術法)によって分

析してみると、その内の35軒すなわち双子を山庄した家庭は全て台所の人lそlfIj

かー定であり 、洗濯場所やゴミ 箱の位慢など、主婦たちが家事のために働く

場所の}j{立が--致 していることが判明 したという。つまり、同一のノ':irwJから

(13)

現代緯国の風水説 - 15-

館は、風水でいう金鶏展麹形を生かした住築物として知られるか、消州、IrlYの

市庁舎もこれと発想を同じくするものである。と ころで、現代の風水位築物

として最も有名なものは、華僑とユダヤ資本の経営する香港上海ビルてあろ

う。イギリスの建築家NormanFosterの設計による地ヒ47階地ド 4階の紐

近代的なこのビルは、その壁面や内部に様々な風水呪術的な装l宵を備えた一

種の 「風水要塞」で、その設計には香港の風水師自柏齢の意見が反映されて

おり、付近に立つ中国銀行と風水戦争を展開Iわであるという お)0 治州、11Uの

市庁舎が、香港上海銀行のように、風水呪術的な装置を備えている のか、必

るいは単なるファ ッシ ョンにすぎないのかは定かでなし 1。一度、 i育.接n忘れ

立地決定や設計施工の経緯などを確認したいと思っている。

その他、風水建築物として有名なものに、全斗燥前大統領の肝煎りてjtiら

れた独立記念館がある。 この記念館が位置する忠清南道天原郡木川市黒城山

の一幕は、古くから「五龍争珠之地」として知られる明堂であった 〕日IJち、

高麗の太担王建がその13年 (930)8刀に、天ド統治の願いをこめてt没附した

天安都将府はまさにこの地にあ ったのである 咽)。黒城山を主山とし、案山

は頭を雫れ、長川と木川の両河川は庄(iから抱くがごと く流れ来て代流する、

紛うことなき明堂の地に立っこの独立記念館の特徴は、その建物配円にある。

関2に見えるように、全体的には黒城山に婦を向けた一匹の亀と魚のエイと

いうこつの動物の姿を模しであり、主山につき山た蕗積峰(亀の先端部分)

には 「追慕の培J、亀の胸の辺りには独也記念館の中心ともいえる r-rnJ胞の

家Jや七つの展ぷ館 ・円形劇場など、そして菱形をしたエイの部分には射市

場か佳てられている。(図 2)

(15)

-16

①~旦~刈剖①叫2匂§汽j

③畢iJ~ ~ ③♀号制吾-t!⑤叫倉創ε1⑥倉会 ~Ei①令号~2⑥ ~Il &-1芭/~~ 包畢剖③~i 2 ~AlèI/2q包~Hさ⑬碍 J~AI~/創刊副匂苔@~t ~ ~AlèI/J ・ I~g~Olts 包AI召/号制包習~~ ~f6 忍AI~I百人I~平-&0刈1~AlèI /t,II2l'll号a@~剖号営⑬3・I0附.

0月刊剖副

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⑬智子吾@干号~q剖@月刊~~問。§岳~q剖。骨S寄金~~叫剖⑪叫芭畏。~公司 λ問包@‘宅U~ q剖。月刊割目

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[ I文]2 ]

M近ては、 ソウルオリンピックのj握手村がやはり風水の佐官官包 ・ 右 f~JLf(.をJむ識した池辺i物として矢()られる。 j握手村はオリンピックの後、 一般li3jけのづ

ンションとしてン℃り IHされたそうだが、そのネ ームヴァリ lユウのみならず、

風水上のlifJ山としても人気を11予んだことであろう。

(.16)

現代韓国の風水説 - 17-

以上、見てきたのは村落や墓地・ 建物における風水であったが、今度はそ

れが更に大規模になった例、すなわち現代都市計画における風水を見てみよ

0

・っ

三.新しい風水

・ r鶏龍市」風水都市計画

郡部移転によって急増した人口を受容するために、都市計画に着手 してい

た忠清南道は、1990年八月に都市計画案を確定したのであるが、その案には

風水地理思想が大胆に取り入れられており、一躍話題を集めた。朝鮮日報の

報じるところによれば (1990.8.5)、問題の新都市とは、忠清南道論山郡の

新都安一帯に予定されている鶏龍市(仮称)である。その計画によれば、新

都市全体を一羽の金鶏が鶏龍山の主山で、ある天皇山に向かつて飛ぶ金鶏飛朔

形とみなし、金鶏の胴や尾にあたる所には既存の住居地や高速道路を、心臓

の部位は駿損を避けるために公園などの緑地にし、首や胸は産業用地に、自

には文化施設を、そして金鶏のとさかの部分は行政中心地にと、それぞれ決

定したというのである。(図 3)

ス|芸人I~人間|割合J召呈d戸一、、

創:~人|到2討会~~豆

・苅き企~ (ê1PJ~)

-rF1 {白人間)

実.)~合:会~~刃(三包日)

創el早字{:坦ÃJ豆さ刃匂 (~企白白平j

S喜~1121 : フ!さ手フ閃~j]全呈呈.ヨミ~~~ (平河|司)

[図 3]

(17)

-18-

計両決定においては、風水師や風水に一家言をもっ住民の意見が反映され

た。開発釦当官の緯基善氏 (35)によれば、「一次基本計画を立てたのち、

昨年 4J]から風水家と地域住民の意見を聞いたが、不思議なことに当初の構

悠!と殆ど一致し、風水説を取り入れるのに何の困難も無かった。むしろ、時

には風ノk説の助けを併りて最終決定を下したこもとあった」そうである。

実は、この風水的新都市計画はこれが初めてではなく 、以前に発表された

大川市の行政首都建設計画のなかにも類似の計画があった(場所的にも重な

る)。その計画書では、「韓国的都市の素地として、本計画では、風水地理説

に山米する我が国特有の都邑立地伝統を、都市の基本構造へ受容する。.•

いわゆる風水地理説は、迷信に近い間隔なものではなく、現代において脚光

を浴ひている環境適応概念に相応するものであるJと高らかに宣言、風水を

正而切って肯定している ω 。また、「人聞は建物を建てるとき、一般的生活

の必要に応じて建てるか、こ の建物は地仁に新たな一個の‘陽'を形成するの

である。新たな建物による陰陽の変化により、建物外部の自然の中に新しい

巡動が起きる」とも5-っている。「静Jとしての地理に 「動Jとしての龍脈

を絡めることによって生命エネルギーの活性化を求めるというのは、風水地

問tj見の法ノド的なコンセブトではあるか、建造物による陰陽の変化という考え

ノjは、泌く高麗時代にもその例を見ることかできる。 filJち

涼んで按ずるに、辺説密記(風ノk地理の秘書)に日く、稀山なれば高楼

をなし、多山なれば平J~をなすと 。 I.l I多きは陽、山橋れなるは陰、 高機は陽、、ltjdは陰たり。孜かrfilはI.ll多し。J7し尚昆を作れば必ず、公債を招く。放に太

1.n以米、 l俳だ!州内その},{をたiくせざるのみならず、民家にをるまで悉く持こ

れを然ずと (32)0

2fjわゆる!日1+Jの然として知られるものであるか、その伝統が現代にも引き続

けていることか何われる。

この行政首都υ|・i由iでも、先ほどの新郎安と同隊、ili山の }j向に行政r'>(を

|ネmiには欧米地域、そ L て~111には文化以来i施設かそれぞれ配E.されていた

らしし、。人川の行政行X1S",-n1ijはキi!;川、 17ちil'lえになってしまったが、新都々

のほうは91作!立よ り15))のfl民を受谷する、く 、diiL;交に治手されるという o

ii!11生後の「約百い ITJ で、またいかなる風ノ1<ri~か生成されてい〈のか、 興味f夜いJころである。

-l'lfbj{の似る治議山泌

火山:険fXr受(谷山人;γ) ,よ、浴剤iぎ12山のj山坊をI~J出から-<:はなく海かも比

(.18)

.

-

現代韓国の風水説 - 19-

れば、貝水地理上、九徳嶺の高遠見山は主山、牛岩半島は左青龍、松島半島

は右白虎であり、釜山港の入口に位置する影島は、いわゆる歓喜をもたらす

案山として、その断面が恰も鯨の姿に似る。それ故、釜山は自鯨帰浦形の

海洋時代最高の明堂であると前提 し、21世紀の太平洋時代を迎え、釜山の都

市空間にこのような象徴性を付与することが必要であると主張した ω 。

風水の形局名に突然、鯨が出てくるのは、少 し奇異に映る。確かに、日常

語のなかには大酒飲みのことを「酒鯨J( 合平己~)と呼んだり 、立派な邸宅

を 「鯨の背のような瓦葺きの家J ( JL211号若会 71 斗~ ) というような表現

があるし、70年代には 「鯨取りJ(JL211 斗喰)としづ、実力派歌手の孫張

植が歌ってヒ ットし、今では青春歌謡の定番とな っている歌もあ り、木浦や

釜山のような沿海地方では鯨肉を食べもする所か ら、鯨に対する文化的親近

感はあろう。しかし、この 「白鯨帰浦」の形局というのは朝鮮の伝統的な風

水解釈にはない形局判断であると恩われる。

風水地理理想、は古代中国に発し、「葬経」や「青鳥経J1人子須知J1雪心

賦」といった古典的風水経典をテクストに形局判断をくだすため、その形局

名には「金鶏抱卵形」とか 「仙人舞袖形J1臥牛形」というように、共通な

ものが多いが、やはり 、地域的特性といったものがあるようである。 例えば、

香港新界区の漢族の族譜には、代々 の祖先の墓の風水判断が記されてお り、

そこには 「獅子渡強」と命名されているものが見えるし 側、台湾の新竹県

には 「猪肝吊胆形」や「編媛形」という名の形局名が見えるが 側 、それら

はいずれも朝鮮における風水判断で、は用いられないも のである ω 。風水の

形局名も地域ゃあるいは時代の影響を免れ難いものなのかも知れない。

ところで、釜山港を 「白鯨帰浦形」 とした呉教授の言葉のなかにあ った

121世紀の太平洋時代云々」という文言には、単なる民族文化的特性とは異

なる、政治経済的な志向があることを見落としてな らないだろう 。「筆者の

見解でも、このような生活空間に対する形市上学的意味賦与は、その地域の

居住者たちに実存空間意識を函養せしめ、究極的には郷土愛を発揮するよう

に働きかけるJ(37)と李夢日氏は言 うが、では、その 「生活空間Jが朝鮮半島

全体に拡大された場合を見てみよう。

-世界の明堂韓半島

周知のように、李朝末期から近代にかけ、風水思想は様々な新興宗教に吸

収されていった。それらの新興宗教はいずれも各々の団体の総本部のあると

ころを世界の中心と見倣す傾向があるが、それらの代表的なものの一つであ

(19)

-20ー

る甑山教の場合、それは母岳山(全羅北道金堤郡所在、ソウル近郊の母岳山

ではない)てあった。韓国新興宗教の特性の一つにその「択地思想」が挙げ

られる 制末世的な世に出現する救世主を迎え、新たな王国が建設される

「約束の地」かあるとするもので、それには風水思想の影響が大きいことは

ぶうまでもなし、。

このような緯国の新興宗教における、総本山を世界の中心と見倣す考え方

と風水思想の総合の結果、緯半島(朝鮮半島のこと 韓国ではこの呼称を用

いている)全体をi世界の明堂とする 「世界の明堂 韓半島J説が生まれるの

も主鋭当然のことかも知れない。凶4は現代緯国の甑山教信徒金漢国民が描

いたものであるか、朝鮮半島を中心(明堂)にし、日本を内音龍、中国およ

びインドネシアミド砧を内 [~J虎、南北アメ リカ大略を外資能、 西アジアおよ 'アフリカ入院を外白虎、そしてオーストラリアを築山に比定するという、壮

大きわまりないものである。(凶4)

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-MでもしばしばDlj:11してきた『川町!肱』 ο11.1,]¥

JI へ r~が|却を i111 いぐ北へ!日となす。渡!こ~t~ l"・こ巳に向かい、 iffiにI,_i]かt、

現代韓国の風水説 - 21 -

て開直す。中国に挟揖するの状あり。故に菅より中国に宏、JI国たり。且つ下型

の水、百里の野なし。故に巨人を正せず……

と、至って事大主義的で控えめなのを見れば、その間の民族意識の激変ぶり

が分かろうというものだ。このような拡大志向が生まれる地盤には、斡悶の

多くの新興宗教が共通に持つ後天関闘思想があると思われる。後天開嗣思惣

とは何か? 端的に言 うならば、一種のメシア思想で、新しい教えによ って

開闘した後天の世には、全ての人間が聖なる存在となる地上天間が到来する

というものである。19世紀の半ば頃、催済愚によって農民の聞に急速に広め

られた東学がその代表的なものであるが、この後天開関思想も、李E朝の終

末と鄭氏による新王朝の勃興を予言した風水的図識の書 『鄭鑑録Jが多大な

影響を与えていると言われる。大統領選を目前に控えた韓国で、国民党の鄭

周永氏をこの 『鄭鑑録Jとかけて取り沙汰するのをみても、その影響の恨強

さが知れよう。

以上のような主張が生まれる背景には、日本をはじめとする帝閏主義列強

の侵略や値民地か らの解放も束の問、朝鮮戦}争のあとの南北分断というよう

な社会状況があったことは言うまでもなし、。聞くところによれば、近頃、マ

スコミを賑わしている統一教会には、やがて韓国が世界の中心とな り、緯|母

語が世界の公用語になるという主張があるそうだが、朝鮮の新興宗教の伝統

から言えば、極く正統的な主張なのかもしれない。

釜山白鯨帰浦説といい、世界の明堂 韓半島説といい、強烈な民族意識に

彩られていることは容易に見てとれよう。そして、それは次のような風水説

をも生むのである。

-統一朝鮮の新首都案

或る意味で、韓国人にとって風水地理理想とはどれ程の重みを持つのかを

最もよく示す人物が佳昌酢教授(44)である。催教授といえば、1984年に出版

された『韓国の風水思想Jで、地理学的な方法によって朝鮮の風水研究に新

たな時代を沼来し、 90年にも現代韓国の風水を具体的に検討した書~ r良い地

とは何処を云うのかJを出したことでも知られる、気鋭の地理学者であった。

「あった」と過去形で云うのは、今年はじめ、この佳教授が「最近、研究能

力に限界を感じるようになり、地理調査を通じて、大地の気と脈を探る力を

補充するために」、ソウル大学に辞表を提出してしまったからである ω。 こ

ういう研究態度を、ひょっとして「ポスト モダンJと呼ぶのかどうかは知ら

ないが、私などには白から鱗が落ちるほど衝撃的で、朝鮮における風水思惣

(21)

ηJU

の浸透ぶりを改めて教えられた思いかした次第てある。

それはともかく、この崖教授が南北朝鮮が統ーした場合、新たな首都には

との地が良いのかを風水地理的に検討した結果を発表している。「風水思想

から見た統一緯半島の首郎立地選定J(1989. 6. 30.国土研究11)がそれであ

る。そこでは平壊 ・開域 ・ソウルあるいは公州なと、古来より都の地と目さ

れてきた土地を再検討し、結論として、開城の地を統一朝鮮の最適地とした。

ところが、先ほと引用した箆教授の辞任を伝える新聞記事では、「最近、純

一後の首都は京畿道破州都交河面が適しているという論文を発表、注目を E

めている」という一文があった。破州都も開械ももともと京畿道に属するの

で、地域的にはさしたる追いはなし、。おそら¥、89年の論文で・関域が歴代の

者f5のqJでは段も新首都にふさわしいとした後、更に細かな風水的吟味を加え

て場所を特定したものであろうと思われる。

新首都iiS定の風I}<的桜拠もさることながら、寵教授という久杓|自体!こ関心

が引かれてならなし、。機会を見つけ次第

ている。

四、おわりに

って話を向いたいものだと悶つ

以J.、長々と見てきたように、現代峨国における風水i也理思想、は古い

に結づくものではあるか、次々に新たな展開制を生み出していることも|明ら

かになったことと思う。!;列島下と云えば(語教というイメージがあるが、lJU岳信

仰やj風水税、それに シャーマニズムといったl¥.li丸、血肉と化した甚kgutの

l二に仏救や(信教が受?容されたのであって、決してその逆なのではない。lN.r1",(

iι、その一例jをさ長・げておこう。

91 (r:1=-、ソウルの成均的人35には付下取が続発した。れほ暴行

の数日Iljと学生の録プJZjJ(tl:) ゃに';~,U~ 聞のill断、金t~列:齢礼耶件(デモ 11]に亡くなった女学生の都儀を学内で行おうとしたl掌45側とM:'I*:同事ふ、ν 唱

'る学内には久れないとする

け¥巡JlJIJI]から人ることで決むした入それに九式 f"1I ~耶件

?~.IE. ,~人,、jE させ、 21!耶らが;逮捕された)などかえ

さに、人予輪以のあいだに、これら-

diii!鉱工tJJのために断ってしまったか |らで 、.

学の111!念、占ずる成J布市{人ごそし、 kうな品川的な行為qf

人、jtslIJを、とうとうJtlJし切ってしま勺たといよ

_.、、.

2

現代緯[jt]のJjt71<;説 -23

この一件などは、民俗信仰の根強さを小す好例とぶえよう。

大地を流れるお脈の如く、朝鮮の風水はHを史の山脈を貫いてとどまること

なく流れ続けている。その生命力は今日、些かの以えも見せてはいないので

ある

;主

( 1) r券経』気感篇 なお、テキストは『地flH大令JI(台湾 止に|法111版社)

のものを参照した。

( 2) t凶刈は、 I中:1わiド1野ヌλこ代子著 『龍の住むランドスケ一フプ。J(1991 悩止氏℃UJi出i江!P.161のもの。 この図は本村、'J山智JI順U順E凶iの r~将刺jJ魚鮮魚鮮下の j風量鼠{ノ水1<~ (1931 弱朝j魚鮮1平i総附(付ω:子ηfη )

P.lげ7の明2堂芝凶をもとにしたものでで.あるか、こ ちらの方-が兇やすいので

引用することにした。

( 3 )関心のある向きには、同月鮮の風水1P.13-.,20に26項目にわたる風水

用dの簡便な解説かあるので、参照されたい。

( 4 )朝鮮の上人;犬の住居における風水忠似の関わりについては、IIHIll'ム:1ヒ占「背1.11臨水してすまうこと一一仇仰宇米純をめぐってJ(r I本住築

学会研究冶文報告集第409り 1990. 3)を参照。

( 5 )例えは、 798年のことを心す新羅初Jj (俊州)崇福寺碑文 (r朝灯全石

総覧』上P.120所収)は、朝鮮における風ノk説の流布を明確に小すも

のであるし 、 『三悶遣事J の脱解王(在f~i:57-.,79)の宅地争いの説話

なども風水説を反映したものであろう。

( 6) r韓同民俗総合凋査報告書』墓地風水篇 (1989 文化公報部 )参照。

( 7 )金瑛彬 『純国地名の神秘JP.117 (1989 知識姥業社)ただし、 これ

らは風水からの判断ではない。

( 8) r)弱朝切朝机JJ除,魚灯魚( 9 ) 以 |上仏二入、 四つの風ノぷk説は r7水k脈とj風豆民lレノ水1<て叫J(σP.16ω0-" 164 ) と 『特緯倒!:r凶去刈lのI明リ別J1設主J

(P .172 )に見える。

(10)これは「長崎の魚石」として日本にも伝わる話。原話は唐代以降、仁1:1

国に流布する明人採宝請である。拙稿 ii胡人採宝護の:朝鮮的展開」

(朝鮮学報 121輯)参照。

(11)これらの他、仁lポ文芸における風水説話については、養中卓『斡国文

学と風ノk説JP.127-.,137 (1988 巨IXfJ:)を参照、。

(12)これらの政治家に関する風水説は『斡国の明常JP.186-"191および

P .121に比える。

(23)

-24ー

(13)これらの他にも日帝時代の断脈行為に関する例は多い。 それについ一

は r斡国風水思惣研究JP.193--197を参昭、。

(14)三浦岡雄「台湾に恨強い風水術J(1992. 3. 9 中国新聞)でもこ

について言及されている。

(15) rj韓国の明堂JP.289

(16) rアフラカタプラ奇術の世界』前川道介 P.229 (1991 白水社〉

(17) r水脈と風水JP.93

(18) r~J前 P.39

(19) r中国の風水思想Jデ ・ホロート P.122 (牧尾良海訳 1986 第一

,!?房)

(20) Ui l昌俳「朝鮮後期笑学者たちの風ふ思想J(r韓国文(tJ11 1991. 12)

zjm また『朝鮮の祭柁相続法J(昭和14年 朝色李総督府)の第二

台度第三項滋地制限 にもさ算報j時代の風水批判についての詳し

い紹介がある。

(21) r新 ・斡{31Jの風水 P.26

(22)刊誌閣のi別立JP.92--99

(23)間前P.2/~5 '-..249

P.265'--268 (19i7 問、i;:)

(25) rJ.lr凶拠地勝覧』巻十広治州古跡腕楠の 包

(26)刊む122BJIi:胞の

(27) r!;yJ鮮の凪 ト P.287

(28) k~hjÎj P. 7GB

(29)jili山降 二 「香港上海側行風 トLJ.分 、f テク vs風・

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(80) r尚00史附益;;i』巻ー

(81) r榔凶のiり:J1;tJ,P.272 '-.27Jt

(:~2) rir~阻止~J @三八 lJむ烈33三412七月丙q:1

(:~3) I:~II際新11t1 ,l98B. 11. 2/1. (fi綿附風水引:也研究JP.214より 15(11)

Ihl全|同風水(IJf~~ ・J?会論 (199 11. ,U.6 144J式部立に -jりに

(:35) rrHil/K伝奇~ \"'~il r.雨下m P.97 (白

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現代韓国の風水説 -25

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