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『一畑電気鉄道百年史』 編纂準備から発刊まで 元社史編纂委員長 影山弓子さんに聞く (聞き手:帝国データバンク史料館館長 高津 隆) 1912(明治45)年創立の一畑軽便鉄道株式会社は、14(大正3)年、出雲今市(現・電鉄出雲市)と雲州 平田間で運行を開始。25(大正14)年、一畑電気鉄道株式会社に社名を変更し、現在は鉄道事業やバス・ タクシーなどの交通機関、観光・宿泊、百貨店、建設など15社からなる一畑グループの事業持株会社と して、島根県東部を中心に幅広く事業を行っている。 2012(平成24)年、創立100年を迎え、記念事業のひとつとして『一畑電気鉄道百年史』を発行。昨年、 一般財団法人日本経営史研究所の第 21 回優秀会社史賞を受賞した。社史編纂委員長だった影山弓子さ ん(現、介護事業部次長)に編纂の準備から刊行に至る一部始終をお聞きした。 創立100周年記念事業で『社史」を作る 経営企画部門が担当することに ◆まず、社史の編纂をすることになったきっかけ、 そして影山さんがその担当になった経緯からお聞きします。 一畑電鉄は一畑軽鉄が前身で、1912(明治45)年に設立、2012(平成24)年4月6日に100周年を迎えました。 そこで、一畑グループ全体で100 周年事業をやることとなり、事務局が経営企画課に置かれた際、当時、課長代理 をしていた私も、事務局メンバーのひとりとなりました。社史編纂の企画を立案するようにという指示を受けたの は、創業100年を迎える2 年前、2010 年のことでした。 ◆かなり急な話だったようですね。 100 周年の話はずっと以前からあって、上司と 100 周年を意識した話をしていた記憶はありますが、具体的に 組織として記念事業を執り行う100 周年事業実行委員会と事務局ができたのは、2010(平成22)年10月。社史編 纂については同年 4 月から先行して進めていましたが、100 周年まであと 2 年しかありませんでした。社史編纂 に関して会社から特段の指示はなかったので、まずは自分たちでプランを考えて提案しました。弊社の歴史は郷土 の産業史の一部でもあるという認識から資料性の高いもの、それから社員が手軽に読めて一畑グループの歴史に 対する理解が深まり、愛社精神やグループ意識の醸成につながるものができればいいな、といった感じで進めてい きました。 当初、私たちは、きちんとした本格的な正史版を作った上で、それから社員に読んでもらうための普及版を作り、 さらに同時進行でウェブ版を制作するという、3種類の社史を考えていました。しかも貴重な映像などを収録した DVDも制作し、添付する計画でした。しかし、そうした考えは全く無謀なことでした。全てをたった2年間で制作 できるという認識は、相当に甘いということがすぐに分かりました。とにかく2年後の創立記念日に普及版を配本 しなくてはならなかったので、結果的にそれを優先して作ることになったのです。 ◆影山さんが所属していた経営企画課は、どのような業務を担当するのですか? 一畑電鉄ならびに一畑グループの中・長期経営計画の策定、取締役会や各種グループ会議の運営、新規事業の立 案などをはじめ、広報業務も含まれていました。グループ会社或いはグループ全体に係わる業務の多い部署です。 社内報制作は、原稿執筆や写真撮影は別のところでやっていますが、最終的な編集責任は経営企画課が負っていま す。したがって、100周年記念事業を経営企画課が担当するのは自然なことでした。 −1−

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Page 1: 『一畑電気鉄道百年史』 - tdb-muse.jp¸€畑電気鉄道百年史.pdf · まず、社史の編纂をすることになったきっかけ、 そして影山さんがその担当になった経緯からお聞きします。

『一畑電気鉄道百年史』編纂準備から発刊まで元社史編纂委員長 影山弓子さんに聞く

(聞き手:帝国データバンク史料館館長 高津 隆)

 1912(明治 45)年創立の一畑軽便鉄道株式会社は、14(大正 3)年、出雲今市(現・電鉄出雲市)と雲州平田間で運行を開始。25(大正 14)年、一畑電気鉄道株式会社に社名を変更し、現在は鉄道事業やバス・タクシーなどの交通機関、観光・宿泊、百貨店、建設など 15 社からなる一畑グループの事業持株会社として、島根県東部を中心に幅広く事業を行っている。 2012(平成 24)年、創立 100 年を迎え、記念事業のひとつとして『一畑電気鉄道百年史』を発行。昨年、一般財団法人日本経営史研究所の第 21 回優秀会社史賞を受賞した。社史編纂委員長だった影山弓子さん(現、介護事業部次長)に編纂の準備から刊行に至る一部始終をお聞きした。

創立 100 周年記念事業で『社史」を作る 経営企画部門が担当することに◆まず、社史の編纂をすることになったきっかけ、 そして影山さんがその担当になった経緯からお聞きします。 一畑電鉄は一畑軽鉄が前身で、1912(明治 45)年に設立、2012(平成 24)年 4 月 6 日に 100 周年を迎えました。そこで、一畑グループ全体で 100 周年事業をやることとなり、事務局が経営企画課に置かれた際、当時、課長代理をしていた私も、事務局メンバーのひとりとなりました。社史編纂の企画を立案するようにという指示を受けたのは、創業 100 年を迎える 2 年前、2010 年のことでした。

◆かなり急な話だったようですね。 100 周年の話はずっと以前からあって、上司と 100 周年を意識した話をしていた記憶はありますが、具体的に組織として記念事業を執り行う 100 周年事業実行委員会と事務局ができたのは、2010(平成 22)年 10 月。社史編纂については同年 4 月から先行して進めていましたが、100 周年まであと 2 年しかありませんでした。社史編纂に関して会社から特段の指示はなかったので、まずは自分たちでプランを考えて提案しました。弊社の歴史は郷土の産業史の一部でもあるという認識から資料性の高いもの、それから社員が手軽に読めて一畑グループの歴史に対する理解が深まり、愛社精神やグループ意識の醸成につながるものができればいいな、といった感じで進めていきました。 当初、私たちは、きちんとした本格的な正史版を作った上で、それから社員に読んでもらうための普及版を作り、さらに同時進行でウェブ版を制作するという、3 種類の社史を考えていました。しかも貴重な映像などを収録したDVDも制作し、添付する計画でした。しかし、そうした考えは全く無謀なことでした。全てをたった 2 年間で制作できるという認識は、相当に甘いということがすぐに分かりました。とにかく 2 年後の創立記念日に普及版を配本しなくてはならなかったので、結果的にそれを優先して作ることになったのです。

◆影山さんが所属していた経営企画課は、どのような業務を担当するのですか? 一畑電鉄ならびに一畑グループの中・長期経営計画の策定、取締役会や各種グループ会議の運営、新規事業の立案などをはじめ、広報業務も含まれていました。グループ会社或いはグループ全体に係わる業務の多い部署です。社内報制作は、原稿執筆や写真撮影は別のところでやっていますが、最終的な編集責任は経営企画課が負っています。したがって、100 周年記念事業を経営企画課が担当するのは自然なことでした。

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◆影山さんご自身の周年記念事業での役割を教えて下さい。  100 周年事業は社史だけではなく、例えばグループ経営理念の制定、電車の無料運行、グループ各社による一斉の謝恩フェア「オール一畑謝恩ツーデイズ」の開催、或いはチャイルドシートの寄贈など 100 周年を冠とする様々な事業プランがあって、そのひとつに社史の刊行がありました。私はそれら事業のなかのひとつである社史編纂委員長という役割を担いました。最初は 100 周年事業全体をサポートする事務局のメンバーも兼任していたのですが、途中から社史づくりの専任となりました。

手探りでスタートした編纂事業 社内報『淡交』が大いに役立つ◆影山さんはそれまでに会社史やメディアの編集経験があったのですか? あるいは歴史が専門だったなど、社史づくりのバックボーンについて教えて下さい。 特にお話しするような経験はありません。もちろん経営企画課にいたので、他社様から寄贈された社史がたくさんあり、それを見る機会はありましたが、一畑グループ自体の社史もそれまで作ったことはなく、私自身、社史そのものについての知識や経験は皆無でした。 私は学卒後、松江市立図書館に数年勤務し、その後、新聞社でアルバイトをしたのち、この会社に入りました。新聞社にいた時は、写真の焼きつけが主な仕事で、後はちょっとした釣り情報をまとめるぐらいでした。ですから社史づくりの大変さも全く分かっていませんでした。

◆100 年史のような分厚い歴史をまとめようとするとき、監修者として大学の先生や大手印刷会社の社史担当  部門のサポートを受けるケースは珍しくありません。一畑百年史の編纂では、影山さんご自身は格別の経験 がなかったのに、企画から取材、編集まで、その進行のほとんどをひとりでされました。経営史や経済史あるいは 鉄道研究とか、いろんな専門家がいます。 そういう先生方に入ってもらって、一緒にやることは考えなかったのでしょうか? 最初は、地域の鉄道史など学術的な部分などはきちんと専門の先生に見ていただくのが一番良いと思っていたのですが、なによりも時間的な余裕がなかったのです。とにかく作るのが最優先になっている状況で、そこまではコーディネートできませんでした。そのために当社がどのように 1 世紀を歩んできたのかということを、社内の人間によって、社内の資料を用いて、まずは第一段階として作らせていただいたというところです。今後、110 周年、120 周年とか、次に編纂する機会があったら、そのときは専門の先生に監修していただき、さらに客観性を担保しながら、学術的評価にも耐えうるものを作らなければいけないと思っています。

◆最初に制作した「普及版」は、どのような内容で、どのように編集されましたか? 100年の歴史を詳しく網羅するのではなく、一畑電鉄とグループ会社の主な出来事を34話にまとめ、一畑グループの成り立ちを大筋で理解していただけるような編集に努めました。1話ごとのエピソードで編成しています。ベースになっているのは『淡交』という一畑グループの社内報に連載されていた林元常務の寄稿です。「一畑グループの歴史」と題し、鉄道、乗合バスといったように事業別にその経緯が紹介されていました。おかげで 1987(昭和 62)年頃までのグループ全体の歴史について大きな流れやポイントをつかむことができました。ただ、詳細な部分については、特に大正時代から昭和戦前期がそうでしたが、分からないところが多く、まさに歴史をひも解く感じでした。 一畑グループ全体の時代区分としては、現会長の大谷が社長就任時に「交通事業を拡大した第一の時代、多角化の戦略をとった第二の時代、これからはグループ全体の経営資源を最大限に活用する第三の時代である」といった方針を示しました。普及版も正史版もそうですが、明示されたこの大まかなくくりを踏まえて、社内報の連載などを整理、加えるかたちで構成したといった具合です。

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社内報『淡交』、100 年史編纂に大いに役立った。

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かつての情景、目の前によみがえる 古い議事録から伝わる会議の臨場感◆影山さんは、『淡交』に連載されていた林元常務と、面識があったのですか? 接点がない方へのヒヤリングは、うまく話を引き出せなかったり、遠慮が働いたりします。 林元常務は役員の OB で、百年史を編纂した時にはもうお亡くなりになっていましたが、私が入社したときには監査役でした。もともと林監査役は、企画部門を中心に歩いてこられたので、弊社の歴史や昔の経緯をよくご存じで、生き字引みたいな方でした。私も企画部門の在籍が長く、広報的な業務も担当していたので、昔のことについての問い合わせがあると、その都度、林監査役の所へ聞きに行って、いろいろ教えていただき、とてもお世話になりました。

◆林常務が会社の歴史を社内報に書いておられ、その記事が百年史を構成する際のベースになったということ ですね。そして『淡交』以外の資料にも積極的にアプローチして、多くの情報を集められました。 面白いものがありましたか? 『淡交』は 1961(昭和 36)年から発刊され、とても内容が豊富で、詳しく書かれていました。77(昭和 52)年に一旦休刊するまで、その情報量は膨大でした。『淡交』が創刊されたのは、創業から約 50 年が経過したころです。これに加えて創業期の株主総会と取締役会の議事録のほか、営業報告書が残っていたことは大変幸運でした。本当に昔の方はきちんと記録を残しておられました。古い議事録は決定事項のみをさらっと書いてあるのではなく、それに至った経緯なども詳しく書いてありました。しかも、特に株主総会の議事録がそうですが、会議の臨場感が伝わってくる書き方で記録されていました。議事録を読んでいると、その会議を目の前で見ているような、疑似体験のようなことを感じました。大谷彌吉社長が、大変な情熱を注いで経営や事業に取り組まれていたことは、私も何度か聞いたことがあったのですが、実際に議事録を読むと本当にそのことがよく分かりました。作家の塩野七生さんが「ローマ人の物語」を書かれるときに、カエサルなど当時の人たちと対話をしているようだといったインタビュー記事を読んだことがありますが、こういう感じなのかなと思いました。 ただ史料的価値の高さとは裏腹に、実際の取締役会議事録は、毛筆にくずし字でしたので、読むのに大変苦労しました。さらに社内資料だけでは分かりにくいこともあり、そういう時は図書館へ行って調べました。基本的にはまず社内の議事録で、それで分からないところは営業報告書で、さらに図書館で調べるという流れでした。

◆そういう丁寧な作業で年表ができていき、やがてその当時の事情、背景も分かってくるわけですね。 年表も丹念に作られていますが、特に意識されたことはありますか? 弊社は島根県初の鉄道会社であり、バスや百貨店など地域の社会基盤に関わる事業を中心に展開してきましたので、やはり弊社の歴史は郷土史の一部でもあるという認識は持っていました。そのために弊社が着手した事業そのものはもちろんですが、合併や買収で統合した企業についても統合前までの重要な史実を盛り込み、或いはその事業に関わる当時の出来事なども整理し、郷土資料としての側面も充実できればいいなという気持ちは当初から持っておりました。結果的にそれが例えば地域の交通史の一端を紡ぐことになったのかもしれません。

◆今回の優秀会社史賞の審査委員長を務められた宮本又郎大阪大学名誉教授は、『一畑百年史』は学者が読んでも、 地域・地方の交通史・鉄道史について非常に参考になるとおっしゃっていました。それだけの内容のものを専 門の先生の方の力を借りることなく作られたというのは、とても素晴らしいことです。 その分、資料収集に大変なご苦労があったことが分かります。 ありがとうございます。本当に、公開資料を使って、何とかまとめることができたという感じです。資料を集めるにあたっては、特に地元の図書館の皆さまには大変お世話になりました。それと、有価証券報告書には貴重なデータが数多く記載してあるのですが、弊社には過去のものが全部そろっておらず、欠けている部分を埋めるためにインターネットで探したところ、神戸大学経済経営研究所附属企業資料総合センターにあることが分かりました。そこで、現地に行って 2 日間くらいかけて、それをコピーしました。そこの研究所には、多種多様な社史がありまして、拝見させてもらって、こういうまとめ方があるのだなぁ、ということも勉強させていただきました。

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◆図書館の司書の方にもかなり協力してもらったとか。 さまざまなお願いもしましたし、自分が松江市立図書館の郷土資料室で仕事をしていたこともあり、どこをどのように探せばいいのかといったこともある程度わかっていました。もちろん司書の方にも本当にお世話になりました。例えば、山陰のレジャー史や交通史とか、そういった内容ならこういう本がありますよと薦めていただき、親身になって資料を探してくださいました。やはり島根県立図書館は、本当に資料の厚みが凄かったです。郷土関係の文献は多いですし、確か県立図書館は図書館としての歴史も古く、全国的にも最初の公共図書館の一つだったと思います。

◆そういった資料をいろいろな所から集めてくると、今度はそれを読み解いて、ひとつのストーリーに結びつけていく作業があると思うのですが、それを影山さんひとりでやるとなると、なかなか難しかったのではないですか? 確かに大変ではありましたが、ひとりでやることによって、後からここがこういう意味だったと分かることも多く、全体像が把握しやすいので、そこはメリットだったと思います。多くの人数で進める方法はよく分かりません、ひとりで通してやるメリットはそういうところにあるのかなと思います。 ただ、ひとりでやると自分だけの解釈になるので、客観性が保てるかという点では怖いですね。100 年の歴史を自分の主観でまとめてしまったようで、一応、頑張って整理はしてみましたが、その点はちょっと怖いと言えば今でも怖いです。

OB社員の話は、情報の宝箱 記録に残し、次の時代に伝える◆OB の方に、いろいろなお話を聞かれたとうかがいました。 そうですね、何十人もの OB にインタビューしました。鉄道会社では、軍事輸送など戦争と無縁ではない時代もあり、その当時を知っている方に話をお聞きしたこともあります。それで取材して 1 年ほど後になり、追加でお聞きしたいことが出てきて、改めてご連絡すると、すでに入院されており、しばらくして亡くなられました。これは辛かったですね。 現場勤務の方ですと会社全体の事は分かりませんし、創業当時の経営層の方は、100 年史編纂のころには、全くおられません。もう少し早い時期、例えば 80 周年史を編纂できていれば…、また違った展開になったかもしれません。創業当時の方々から直接話を聞いていた OB も数多く健在だったのではないかと思います。

◆OB 取材をするときは、かなり事前準備をされたともお聞きしています。 入社や経歴は全部記録が残っていますので、それを事前に調べてからお話を伺って、メモをきちんと整理をして一緒に残しています。取材にあたってはその方の経歴や当時の様子をできるだけ事前に調べていかないと、お話をうまく引き出せないし、理解もできないと思っていました。それでも話を聞いている時は分かったつもりでも、後で整理してみると、実はよく分かっていなかった、ということもありました。

◆OB を取材されて、どんな印象を受けましたか? やはり OB の方の力は大きいですね。今回伺った話は記録として残しておかないといけないと実感しました。今回、優秀会社史賞の表彰式に出席させていただいた時、どちらかの企業の方が「前回作った時に OB のお話をいろいろと残していて、それが今回、とても役に立った。その時は生々しくて使えなかったけれども、時が経って使えるようになった」とおっしゃっていました。それは私の実感でもあります。実際に私が OB の方から伺った話の中には、とても生々しくて、ちょっと今は使えないな、ということもありました。

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『創立総会・株主総会決議録』(明治 45 年)

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◆それ以外に何かご苦労されたことやエピソードみたいなものはありますか? やはり財務諸表のデータです。このデータをまとめるのが、本当に予想の 100 倍、1,000 倍くらい、きつかったですね。同じ科目なのに時代によって名称が変わっていることもあるので、それらをどうまとめていくか。結局、時代を 3 つか 4 つくらいに区分してまとめたのですが、整合性を保ちながら整理するのが、ものすごく大変でした。数字を入力していくのは、別のスタッフが行ったのですが、運輸統計なども含め、全ての数字を入力するだけで 1年ほどかかっています。 100 年と言っても、100 回記録して終わるということではありません。ご存じのとおり昔は 1 年に 2 回株主総会をやっているので、実際は 165 期です。そのデータをまとめるのと、上期と下期がそれぞれ一期ずつですから、一年通期と比較するためには、さらにそれを合算して 1 年分にしなければいけない。運輸データも時代によって単位が異なっています。そういった数字的なことを整理する作業が、予想以上にものすごく大変でした。

歴史的事実とその取捨選択の葛藤 書きづらいことも記録として残す勇気◆会社の歴史を紐解いていく過程で、例えば事故とか、戦時中の軍との関係と か、外へ出しづらいものもあったと思います。 確かに書きづらかったことはありました。昔、不正事件が起こり、その責任をとって当時の大谷彌吉社長が辞表を提出したことがあったのです。それをどう扱うか、迷ったのですけれども、もう 100 年近くも前のことですし、そのことを機に組織や規程を見直し、改革を行う契機にもなったわけで、これは社史に入れるほうが大事だと思って書きました。

◆そういった微妙な内容の是非も含めて、社内でオーソライズをされたと思 うのですが、どのようなプロセスで承認されたのですか? 役員の皆さんに、全て見ていただいています。原稿がほぼ全部できた状態で、見てください、読んでくださいという形で提出しました。そこで指摘を受けた点を修正し、また確認していただくことを繰り返しました。 ただ、内心はもっと多くのこと、今回の社史で取り上げている 3 倍くらいのこと、例えば、人事制度や労務管理の変遷、或いは労使関係についてももっと書く必要があると思っていました。しかし、時間的に余裕がなかったというのが実情です。もっと時間があれば、もう少し深く掘り下げて、どう扱うかということを含めて、しっかり検討できたはずです。

◆全面的に書き直さなければいけない、削除したり、構成をガラッと変えないといけないという指摘はなかったわ けですね。 ありがたいことに、たくさんのご指摘を頂戴しましたが、「これはやめておきなさい」とか、そういう厳しい指示はありませんでした。皆さんが読み込んで下さって、同じことがここに出ており、重複しているので整理したらどうだろうか、というレベルです。 事業をやめた理由など、あまり触れたくないであろう箇所も一部にはありましたが、全体の構成をガラッと変えるという指摘はありませんでした。 ただひとつ、昭和 20 年代終わりのころから 30 年代に松江市営バスと競合していた時期がありました。私としては、既刊の松江市交通局の『松江市営バスの 70 年史』を参考資料として読んでいて、当時はどこのバス会社も似たような状況だったと思うのですが、当社の見解とは異なっていたので、そこはきちんとして記しておかないといけないのではないかと思いました。そういうつもりだったのですが、「まあそこまで書かなくてもいいのでは」といった話はありました。

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影山弓子さん『一畑電気鉄道 100 年史」

社史編纂委員長(当時)

一畑電鉄百年史の充実した「資料編」

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「優秀会社史賞」を受賞 地域の皆さまと刻んだ 100 年の歩み◆ご苦労されながらも、2016 年 2 月についに『100 年史』が完成しました。企画が立ち上がったのが 2010 年です から、並行して普及版とウェブ版も作りながら、結局、6 年あまりかかったことになります。編纂事業が完了した 時の感想、感慨をお聞かせください。 途中で体調を崩したこともあり、なんとか完了できたという、やれやれという思いと、他方では「本当にこれでよかったのかな」ということでした。それまで弊社には 100 年の歴史がありながら、50 年、80 年といった節目における社史が全くありませんでした。初めて私がまとめたことになるのですが、それだけに私の主観が絶対に入っているので、本当にこのまま出していいのだろうか。素人が作ったものですから、学術的な評価に耐えられるのか、このままで大丈夫だろうか、そんな思いをずっと引きずっており、今も心のどこかにそれがあります。

◆かなりの量の文章を書かれていますけど、書くことについては、広報の仕事も経験されておられたから抵抗感は なかったと思いますが。  苦手ということではないのですが、書くことについての抵抗感はありました。この言葉でいいのだろうか、とかずいぶん悩みましたし、逐次、辞書で調べながら、この表現が適切かどうか調べながらやっていました。 やはり伝わるように書かないといけないので、それは常にプレッシャーでした。1 回書いてから、もう一度見直して書き改め、これで大丈夫だろうかとか。それを何回も何回も繰り返しました。また、社内に文章にとても長けた方がおられたので、その方にチェックしてもらったりしました。

◆完成した普及版と正史版は、それぞれどのような配布や使われ方をされたのですか? 100 年事業の目的のひとつがグループ意識を高めるということだったので、普及版は社員に配るということが基本でした。グループ社員は当時 1,600 名ぐらいで、あとはグループの主な取引先様とか OB に配布しました。 正史版は、資料性の高いものをつくろうというコンセプトでしたから、地元の図書館に寄贈することが基本です。地元の主要な図書館のほかには、国立国会図書館、東京大学の経済学図書館、社史の収集で有名な神奈川県立川崎図書館などにお贈りさせていただきました。

◆今回の優秀会社史賞を受賞されたことについて。もちろん様々な点で高く評価されたのですが、特に資料編がす  ごく充実していると思いました。地域の企業で限られた戦力でよくぞここまで…という気がしました。 ありがとうございます。資料編も 2 人で作業したのですが、1 人が数字をまとめながら打ち込み、またできたものをもう 1 回読み合わせするという作業を繰り返しました。会計上のことは私自身も分からない部分があり、まとめるのが非常に大変でした。 そして営業データも面倒な作業でした。ひとつ例を上げると、今はキロメートル表記ですが、昔はマイル表記でした。運輸統計も 1930(昭和 5)年までマイルを使っています。当時は列車走行マイル、機関車走行マイルといったように、全てマイルです。これはどうしたらいいのか、どう整理していけばいいのか、ずいぶんと悩みました。 他の鉄道会社の社史を調べてみると、1 マイルは何キロメートルと換算して作っているところもあったのですが、当社はマイルでまとめられる時期はこれでまとめて、キロメートルは別の表にしました。手荷物輸送量も 1930(昭和 5)年まで「斤」。下手に換算するよりも、当時の資料どおり出したほうがいいだろうと判断したのですが、時代とともに変遷する、これらを統計資料としてまとめていくことは意外と大変でした。

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戦時中に本社前で撮影した集合写真

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◆資料編以外で、事実関係を確認することにすごく時間がかかった、あるいは面倒な作業を強いられたということ はありますか? 戦前のバスの章です。バス事業は 1930(昭和 5)年ぐらいから着手し、35 年(昭和 10)に本格的に展開し始めたのですが、その時に小さいバス会社を数多く買収していますので、そのルーツを辿るのがひと苦労でした。もうひとつは戦時中に国の指導でバス会社が合併しているので、そこをひも解くこと。この 2 つを調べることがなかなか大変でした。 バスには「貸切」と「乗合」があり、そして大型と小型があるため、大型の一部は残して小型部門は合併したというケースもありました。それは当時の国の指導でしたが、そのあたりを解明していくのにずいぶんと時間がかかったとように思います。幸運にも本社には運輸省に出した記録、申請書などの関係資料が残っていましたので、それを調べながら作業を進めていきました。

◆優秀会社史を受賞されたとき、社内の反応はいかがでしたか? おかげさまで会長、社長をはじめ多くの皆様にとても喜んでいただきました。社内表彰もいただいて本当にありがたく思っています。でも、社史が完成したのは、社内外の皆さまのおかげなのです。 実は私、途中で社史をつくるのをやめたらどうか、と言ったことがありました。私自身の体調をこともあり、完成には大変な時間がかかるし、ほかにも優先すべきことがあるから、やめたほうがいいのではないかと。でもその時、役員の方から「時間がかかっても良いから完成するまでやり遂げるようにと」と言われました。 皆さまのお言葉や励ましがなかったらこの社史は完成しませんでした。私はあくまでも黒子であって、受賞したのは会社です。一畑グループの皆さま、OB の皆さまにも、資料を提供していただいたり、様々な事をご教示いただきました。島根県立図書館の司書の方にも大変お世話になりました。そして何よりも会社が 100 年続いているというのは、地域の皆さまのご愛顧ご支援があってのこと。100 年という長い歴史をまとめることができたのも、100 年を刻んだ地域の皆さまのおかげでもあると感じています。

(完)

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『一畑電気鉄道百年史』

貴重な映像などを収録した DVD