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明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page71 2011/09/20 18:25
71
法律論叢 第八四巻 第一号(二〇一一・九)
【論 説】法
倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的
個別主義の問題性(一)
――ラファエル・フェルバーの見解をめぐって――増
田 豊
目 次
プロローグ
一 サールの制度的事実の理論と事実の規範負荷性
二 フェルバーのメタ倫理学的制度主義
三 フェルバーの規範倫理学的構想とメタ制度としての普遍化原則(以上本号)
四 最小道徳と人権の哲学
五 ラディカルな道徳的個別主義の問題性
エピローグ
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――法 律 論 叢―― 72
プロローグ
「法の定義はありあまるほどある。しかるに法が道徳と比較される場合、この比較の第二項(つまり道徳)の内容
はだれでも知っているものと、はじめからきめてかかっているようである。・・・法律家の頭は法について考え
るのに精一杯で、法が結びつけられたり区別されたりしているところのもの(つまり道徳)まで手がまわりかね
ているようである。」
ロン・L・フラー『法の道徳性(1) 』
「法的共同体の誕生が見られるのは、(民法と区別した意味での)刑法においてである。それゆえ、最初の大きい
『正義の前進』、つまり最初の『人権の実定化の前進』が生じたのは近代ではないし、はたまたヘレニズムやキリ
スト教の時代をまつまでもない。そうではなく、刑法が(多少とも外形的に)成立して、その制裁によって身体
と生命、名誉、財産といった基本的自由が保護されるようになったときである。」
ヘッフェ『政治的正義(2) 』
「法は、個人の生活利益を保護するために存在するのであって、個人に礼儀正しい『立居振舞い』を教えるもので
はない。」
平野龍一『刑法総論Ⅰ(3) 』
法(刑法)と道徳との関係をどのように理解するか、あるいは理解すべきであるかという、法倫理学における基本
的問題について論究する場合に、〈法とは何か〉という問題を検討する以前に、〈そもそも道徳とは何か〉という問題、
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73 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
すなわち道徳の本性に関する理論的な問題について探究することが何よりも肝要であろう。というのも、道徳なるも
のは、宗教に由来しその教義が経典の中に示されているようなものは別として、通常、制定法のように成文化されて
おらず、法の概念以上に多義的で捉えどころのない様相を呈しているからである。
このような問題意識から、わたくしは、まずは「道徳的実在論」(m
oralischerRealism
us
)に関わる基本的問題につ
いてすでに包括的な検討を加えた(4) 。その結果、次のことが明らかになった。すなわち、道徳的事実/性質の実在性を
認める道徳的実在論といっても、そうした事実/性質の本籍をどこに求めるかという論点をめぐって、「非自然主義」、
「還元的自然主義」、「非還元的自然主義」など、種々の立場があり、またこの実在論は、道徳的/規範的判断について
も真偽(真理値)を帰属し得るとして「認知主義」(K
ognitivismus
)の立場に依拠することになるが、道徳的事実/
性質の実在性を否定する「道徳的反実在論」(m
oralischerAnti-Realism
us
)あるいは「道徳的構成主義」(m
oralischer
Konstruktivismus
)の見地からも、表出主義/情動主義の見解のように道徳的判断には真理値を帰属できないとする
「非認知主義」(N
on-Kognitivismus
)の立場に至ることは必然的なものではない、ということが明らかになったのであ
る。さらに、道徳的実在論といっても、道徳的事実/性質あるいはその実在性あるいは現実性をどのように捉えるか
によって、構成主義の立場と両立し得るような見解も存在し得る、ということも明白になった。
以上のような検討結果を踏まえて、相互主観的に構成・構築された事実/現実という視点から道徳の問題について
改めて探究し、議論を続行することが必要であると思われる。こうした問題について考察する際に、論究すべき議論
として、さしあたり「制度的事実」に関するジョン・R・サールの見解が重要であろう。というのも、「なまの事実」
ではなく、人間によって構築された事実としての「制度的事実」という枠組みから、道徳の本性の問題についてアプ
ローチする視点が、そこに示されているように思われるからである。
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――法 律 論 叢―― 74
次に、このような問題関心からすると、ラファエル・フェルバーによって主張されている道徳の「制度主義理論」
が、何よりも興味深いものとしてわたくしの構想を組み立ててゆく際に浮上してくる。これは、サールの制度的事実
の理論に依拠しつつ展開されたものであるが、わたくしのこれまでの理論的方向性にも対応しており、検討すべき重
要な理論である、と考えるに至った。というのも、フェルバーの「道徳的制度主義」(m
oralischerInstitu
tionalismus
)
は、まさに相互主観的に構成・構築された制度/現実として道徳を捉える見解に依拠しているからである。したがっ
て、本稿では、フェルバーの道徳的制度主義をめぐる種々の論点が主題的に探究されることになる。
また、そうした主題との関連で、普遍道徳(相互文化的道徳)としての、いわゆる人権の〈規範的〉身分に関わる道
徳哲学的論点などについても若干の検討を加えたいと思っている(5) 。というのも、人権論は、まさに法と道徳とを接合
する議論となり得るからである。
最後に、近時、とりわけ英語圏において主として道徳的実在論者あるいはネオ・アリストテレス主義者(ダンシー、
マクノートン、マクダウェルら)によって主張されている(ラディカルな)「道徳的個別主義」(m
oralparticu
larism,
moralischerPartikularismus
)の問題性についても考察を加えることにする。この論点は、一般的な道徳規範あるいは
道徳原理の個別事例への「適用/応用」(A
pplikation
)に関わる問題を扱うものであるが、ラディカルな個別主義者は、
道徳論において個別事例の特殊性を重視するアリストテレスの倫理学とりわけ「フロネーシス」(p
hronesis
)や「アイス
テーシス」(aisthesis
)についての議論をめぐる、その基本的主張を先鋭化し、「原理なき道徳」を主張するものである(6) 。
しかし、そうした主張に問題点がないか否か、道徳論において「一般的な規範あるいは原理」(普遍)と「個別事例」
(特殊)との関係をどのように理解すべきであるかといった問題についても、慎重に検討する必要があると思われる。
以上、本稿における論究の対象は多くの論点に及びすぎるという面もないではないが、それらの諸論点が相互に関
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連し合っているため、そのことはやむを得ないものであろう。ともあれ、本稿の目標は、法(刑法)と道徳の問題に
関する、わたくし自身の構想を展開するための理論的方向性を提示するという点に限定されている。
注(1)
Lon
L.Fuller,
TheMoralityofLaw,1964,pp.3–4.
ロン・L・フラー(稲垣良典訳)『法と道徳』(一九六八年)一頁参
照。フラーは、法を成り立たせる「法内在的な道徳」として、明確性の原則、効力不遡及の原則(罪刑法定主義に通ずる原理)
や不可能を命じる法の禁止(責任主義に通ずる原理)など八つの原理を主題的に取り上げている。要するに、これは、法の支
配あるいは法治国家の原理を実定法内在的な道徳的原理(法倫理学的原理)として理解するものである。L
on
L.Fuller,
ibid.,
pp.33–94.
ロン・L・フラー・前掲書四二頁以下を参照。もっとも、実定法に「内在する原理」(法)と「内在すべき原理」(道
徳)とを区別し得るように思われる。これは、法と道徳との関係をどのように理解するかという問題である。ともあれ、罪刑法
定主義(憲法三一条)や責任主義(憲法一三条)といった道徳的原理も、わが国の刑法では実定法内在的法原理として妥当して
いる、と考えられる。なお、フラーの見解に対する批判的所見について、M
ahlm
ann,RechtsphilosophieundRechtstheorie,
2010,S.159.
を参照。
(2)
Hoffe,Politisch
eGerech
tigkeit,1987,S.464.
ヘッフェ(北尾宏之他訳)『政治的正義』(一九九四年)四八五頁参照。
(3)
平野龍一『刑法総論Ⅰ』(一九七二年)五一頁。平野は、「礼儀正しい立居振舞い」といった、いわば「エチケット」を社会倫理
ないしは道徳と考えているようである。平野が主張するように、確かに法は礼儀正しい立居振舞いを教えるようなものではない
し、そうあってはならないであろう。しかしながら、礼儀正しさやエチケットは、そもそも道徳ではない。平野は、礼儀正しさ
やエチケットをはじめから道徳ときめてかかっているように思われる。例えばカントは、「礼儀正しさ」(H
oflichkeit
)を、「ダ
イエット」(D
iat
)、「倹約」(S
parsamkeit
)、「自制」(Z
uruckhaltung
)とともに、道徳の命法(定言命法)ではなく、非道徳的
/仮言的な「手段的賢慮、実用的思慮、怜悧」(K
lugheit
)あるいは熟練(G
eschicklichkeit
)の命法/忠告の問題である、と主
張している。K
ant,GrundlegungzurMetaphysikderSitten
(SuhrkampTaschenbuch),1974,[BA47,48],S.48.
カント
(平田俊博訳)『人倫の形而上学の基礎づけ』(二〇〇〇年)五〇頁参照。なお、「クルークハイト」は、本来、ギリシア語の「フロ
ネーシス」あるいはラテン語の「プルーデンティア」の独訳語であるが、カントの場合には、アリストテレスのフロネーシスとは
異なり、道徳的なものではなく、手段的な知識、つまり「幸福な状態の促進に役立つ手段に関する実用的な知識」を意味するに
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――法 律 論 叢―― 76
とどまっている。ドイツ語の現代用語例としては、この意味がむしろ一般的なものとなっている。V
gl.
Bra
ndt,Klugheitbei
Kant,in:Kerstin
g(Hrsg.),Klugheit,2005,98ff.;
Hoffe(Hrsg.),Aristo
teles-Lexikon,2005,S.451ff.;
ders.,
Aristo
teles,
3.Aufl.,2006,S.205ff.;
ders.,
(Hrsg.),LexionderEthik,7.Aufl.,2008,S.160ff.;
U.W
olf,Aristo
teles’
�Nikomatisch
e
Ethik
Æ,2.Aufl.,2007,S.146ff.
もっとも、実践理性の三つの課題領域(実用的領域、倫理的領域、道徳的領域)を区分するハ
バーマスの場合には、カントの「クルークハイト」は、ハバーマスの意味における「道徳的なもの」つまり「正義」には関わら
ないが、単に彼の言う「実用的なもの」つまり「目的合理的技術」にのみ関わるものではなく、「倫理的なもの」、つまり「よき
生」(善)あるいは私的な幸福の問題に関わっており、その限りで「よき生」に対応するアリストテレスの「フロネーシス」に重
なり合う、ということになるであろう。V
gl.
Haberm
as,Vompragmatisch
en,ethischenundmoralisch
enGebrauchder
praktisch
enVernunft,in:Diskurseth
ik,PhilosophischeTexte,Bd.3,2009,360ff.
これらの点については後述する。また
フランケナも、エチケットは「道徳範疇外の人生指針」である、と指摘している。フランケナ(飯田亘之他訳)『道徳についての
思考』(一九九五年)四七頁を参照。そしてノベルト・ヘルスターも、『道徳とは何か』と題する著書において、エチケットを道
徳と区別している。V
gl.
Hoerster,
WasistMoral?,2008,S.9.
さらに言えば、生命、身体、自由、名誉、財産などの「個人の
基本的な生活利益」すなわち「普遍道徳的利益」を、国家が(刑)法を通じて〈法益として〉保護すべきであるのは、まさにそ
れが「普遍道徳」(メタ道徳)の要請に基づいているからであろう。いずれにせよ、〈そもそも道徳とは何か〉という基本的問題
を提起することなく、平野は、道徳の肝心な核心部分(核心道徳/最小道徳)を完全に見落としてしまっている、といえよう。
(4)
増田「法倫理学と道徳的実在論」法律論叢八二巻四・五合併号(二〇一〇年)三九九頁以下、同「法倫理学と道徳的実在論
(続)」八二巻六号(二〇一〇年)一頁以下を参照。
(5)
いわゆる人権が〈道徳的〉権利(m
oralisch
eRechte
)なのか(例えばトゥーゲントハット)、それとも〈法的〉権利(ju
ridische
Rechte
)なのか(例えばハバーマス)、という点については、とりわけドイツ語圏では「人権の哲学」という観点から論争的問
題になっている。それは、まず〈道徳的〉権利という概念が、ドイツ語では「法」も「権利」も》R
echt
《であるため、そもそも
「カテゴリー・ミステイク」ではないかという問題があるからである。さらに、法と道徳との関係をどう捉えるかという基本的
問題にも関連してくる。〈法として実定化されていない〉人権と〈基本権としての〉人権との区別について、例えば、G
.Bru
ne,
MenschenrechteundMenschenrechtseth
os,2006,S.53ff.
を参照。さらに、J
.-P.Bru
ne,MoralundRecht,2010,S.63ff.
も参照。これらの論点については、後で取り上げ、検討する。
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(6)
(ラディカルな)個別主義をめぐる、倫理学におけるこの議論は、法理論では法律による拘束の原則があるため問題状況の
違いがあるけれども、法理論において概念法学的法適用論に対抗して展開された自由法運動に対応するような方向性を示す
ものとなっており、法学研究者にとっても興味深いものである。Vgl.
Gesa
ng,PartikularismusinRechtundMoral,in:
Gesang/Schalike(Hrsg.),DiegroßenKontroversen
derRechtsphilosophie,2011,S.135ff.
一 サールの制度的事実の理論と事実の規範負荷性
「この〈べきである〉あるいは〈べきでない〉は、断言のある新しい関係を表現している。・・・いかにしてこの新
しい関係がそれとは全く異なる(〈である〉とか〈でない〉という)他の関係から導出できるかについて、観察・
解明し、理由を示すことが必要である。というのも、その理由を示すことなど全く想像もできないからである。」
ヒューム『人性論(1) 』
「人間の生活世界(L
ebenswelt
)も、動物の環境世界(U
mwelt
)と類似する仕方で人間の感覚によってアクセスし
得る知覚記号から構成されているのである。」
ハンス・ゲオルク・ガダマー『真理と方法(2) 』
メタ倫理学における実在論/認知主義(客観主義)と反実在論/表出主義/情動主義(主観主義)との対立を解消
し、道徳的構成主義の立場と認知主義的見解とを両立させる「第三の途」を模索するわたくしにとって、ラファエル・
フェルバーの「メタ倫理学的制度主義」(m
etaethischerInstitu
tionalism
us
)と称される構想は、検討に値するものであ
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――法 律 論 叢―― 78
る。このフェルバーの構想は、J・R・サールによって展開された「制度的事実の理論」を前提にしており、ここで
はサールの見解についてもまずは論究しておくことが肝要であろう。
さて、サールの議論において重要な前提となるのは、「なまの事実」(b
rutefacts
)と「制度的事実」(in
stitutional
facts
)とが区別されている点である。「なまの事実」というのは、その事実あるいはそれに関する知識が物理的事実に
(さらには二元論であれば心理的事実にも)還元し得るようなものに関わっており(3) 、経験的な観察を通じて捉えられる
ものであって、それゆえ自然科学のモデルに対応し得るようなものである。これに対して、「制度的事実」というの
は、人間によって作られたもの、すなわち「人間の制度」の存在を前提としており、「なまの事実」のように物理的事
実あるいは心理的事実には還元し得ないものである。サールによれば(4) 、例えば、〈太陽が地球から九千三百万マイル離
れたところに存在する〉というような「なまの事実」と〈クリントンは大統領である〉というような「制度的事実」と
を区別することが重要であるということになる(なお、クリントンが大統領であるというのは、サールの著書『社会
的現実の構成』が出版された当時の話である。)。さらに言えば、「なまの事実」は、いかなる人間の制度からも独立し
て存在するものであるが、むろんわれわれがこの事実について言明するためには、言語という制度を必要としている。
もっとも、サールの見解では、「なまの事実」自体は、言語からも、また他の制度からも全く独立して存在しているの
である。これに対して、「制度的事実」は、人間の制度の内部においてのみ存在するものである。
そこで、例えば太郎と花子による一定の行動(両者の合意と婚姻届の提出)が婚姻という事実を構成するのは、「婚
姻という制度」が存在するからであるということになる。
また、明早戦においてグラウンド内での選手の一定の行動が早大に対する明大の二五対五の勝利という事実をもた
らすのも、「ラグビーという制度」が存在するからである。ちなみに、サッカーの選手がラグビーの選手のようにボー
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ルを手にもって走る場合に、そうした行為が反則行為となるのは、サッカーというゲームにおける「制度的事実」に
は、ラグビーというゲームにおける「制度的事実」とは規範的に全く異なる意味が帰属することになるからである。
さらに、いまわたくしが一万円札を所持しているという事実も、「貨幣制度」の存在を前提にしている場合にだけ説
明することができるのであって、さもなければ、わたくしは単に紙一枚をもっているにすぎないことになるであろう。
もっとも、「なまの事実」は「制度的事実」に対して〈論理的に優位にある〉といえよう。というのも、最後の事例に
関連させて言えば、紙という「なまの事実」があって、はじめて紙幣が存在することになるからである(5) 。
以上のような意味における「制度」は、サールによれば、さらに「構成的規則」(con
stitutiverules
)の体系として特
徴づけられている。サールは、規則について「統制的規則」(reg
ulativerules
)と「構成的規則」という二種のものを区
別する。前者は、例えばエチケットの規則のように、既存の行動形態をそれから独立して統制するものであるのに対
して、後者は、各種のゲームの規則のように新たな行動を創造したり、定義したりするものである、と説明している。
別様に表現するならば、「統制的規則」は、この規則と独立して存在する活動を規制しているにすぎないのに対し
て、「構成的規則」は、その成立自体がこの規則に依存する活動に関わっているのである。さらに言えば、「統制的規
則」の場合には、「Xをせよ」とか「YならばXをせよ」というように命令文の形式をとる点に、特徴があるが、「構
成的規則」の場合には、「CというコンテクストのもとではXをYとみなす」というような形式によって表現されるこ
とが多いという点に、その特徴が認められる。そして、「制度的事実」なるものは、まさにこうした「構成的規則」あ
るいはそうした規則の体系に基づくことによってはじめて説明されるのである。それゆえ、すべての制度の基礎には、
〈CというコンテクストにおいてYをXとみなす〉という「構成的規則」が存在する、ということになる。
このような前提を踏まえて、サールは、次のような用例を挙げて、さらに「存在」(事実)から「当為」(規範)を導
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――法 律 論 叢―― 80
く議論について検討を加える(6) 。
① 「スミスさん、あなたに五ドル払うことを私はこの言葉において約束します」という言葉をジョーンズが発した。
② ジョーンズは、スミスに対して五ドル払うことを約束した。
③ ジョーンズは、スミスに五ドル払う義務を自分に課した(引き受けた)。
④ ジョーンズには、スミスに五ドル払う義務がある。
⑤ ジョーンズは、スミスに五ドル払うべきである。
この一連の陳述においては、後者が前者の論理的な帰結となっているのではない。しかし、それらの関係は偶然的
なものではない。①の引用文の言葉を発することは、約束という行為を遂行すること(②)になる。③では、約束を
することによって義務を引き受けることが導かれ、その結果として、④で義務が生じる。⑤では、特段の事情がない
限り、スミスに五ドル払うべきであるということが導き出されることになる。
こうした用例において、約束という「制度的事実」は「構成的規則」の体系に支えられており、この「構成的規則」
の体系には義務が含まれているのである。したがって、〈純然たる〉事実から〈純然たる〉当為が論理的に引き出され
ているわけではない。「制度的事実」は規範的なものを含んでおり、いわば「規範負荷的な事実」であるといってもよ
いであろう。だとすれば、そうした帰結は、純然たる存在(事実)から純然たる当為(規範)の論理的な導出を禁止
する「ヒュームの原則」と抵触するものではないであろう。すなわち、「制度的事実」を内容とする発話においては、
当該制度の「構成的規則」が発動されることになるのである。
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このことは、さらに「言語行為」の機能、とりわけ「発語内行為」(illocutionaryact
)の機能を考慮することによっ
ても論証することができるように思われる。つまり、言語行為というものは、語用論的文脈を全く度外視した純然た
る〈意味論的〉意味あるいは純然たる〈記述的〉意味のみを必ずしも伝達するのではない。この点について若干の用
例を挙げて説明しよう。
例えば、教師が、教室に入ってきてある椅子に座ろうとした生徒に対して、「その椅子は壊れている」と発話したよ
うな場合には、その教師は、〈その椅子が壊れている〉という事実を単純に確認しているのではない。当該文脈におい
て教師は、生徒に対して、〈壊れているので、その椅子には座らないように〉と注意を促しているのであり、そうした
発話には〈指令的/規範的〉意味がおのずと含まれているのである。
また、寒い冬の日に子供部屋に入ってきた母親が、その子どもに対して「窓が開いているわよ」と言うのは、〈その
部屋の窓が開いている〉という事実についてただ単に確認しているのではない。当該状況下における母親の声の出し
方や意図という語用論的要素を考慮に入れるならば、〈寒いから窓を閉めなさい〉という〈指令的/規範的〉意味が、
そうした発話には含まれているのである。あるいは、往来の激しい車道を子供が突然横断しようとしたところ、母親
が「危ない!」と叫ぶのも、単に危険な状況の存在について語っているのではなく、その発話には〈横断しないよう
に〉ということを促す〈指令的/規範的〉意味が含まれている、といえよう。
これらの用例においても、単なる純粋な事実の確認/記述から指令という当為が導き出されているのではない。当
該語用論的文脈を丸ごと取り込んで考慮するならば、そうした事実は論理的に純化された「裸の事実」なのではなく、
〈指令的/規範的〉意味が混入した「規範負荷的事実」であるということになるであろう。というのも、一定の文脈で
「記述的表現」を使用する場合に、そこには(われわれの言語共同体においては)「指令的意味」(統制的規則)が負荷
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――法 律 論 叢―― 82
されることになるという「構成的規則」あるいは「コンヴェンション」が存在しているからである。それゆえ、こう
して事実(規範負荷的事実)に関する発話から、規範(当為、指令)を導出することは、当該事実にまさに規範が負荷
されている限りにおいて、決して「ヒュームの法則」に反するようなことにはならないのである。
同様のことは、別稿においてわたくしがこれまでにもしばしば指摘してきたように(7) 、刑法各則の「刑罰法規」から
「行動規範」と「制裁規範」とを導出する場合にも妥当するであろう。例えば刑法一九九条には「人を殺した者は、死
刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」と規定されているが、この場合に人を殺すという事実から死刑等の刑
罰が科されることになるという事実が単に記述されているだけではないのである。当該文脈において語用論的要素を
考慮に入れて判断するならば、そこでは前段において殺人行為の禁止を内容とする「行動規範」(統制的規則)が市民
に対して発令され、後段において殺人という事実に対して制裁の発動を促す「制裁規範」(統制的規則)が裁判官等
の国家機関に対して発令される、ということになるのである(8) 。というのも、このような「・・・した者は、・・に処す
る。」という事実もまさに「規範負荷的な制度的事実」にほかならないからである。そこでは、立法者は「規範と制裁」
という制度に関わる「構成的規則」をまさに利用して発話しているのである。それゆえ、この場合にも「ヒュームの
法則」に反することなく「規範負荷的な制度的事実」から「当為(規範)」が導出されることになるのである。
また、刑法典には、行動の義務づけに関わる「禁止」や「命令」だけではなく、行動の「推奨」という語用論的意味
をもつ規定もある。例えば、刑法二二八条の二(解放による刑の減軽規定)には、二二五条の二または二二七条二項
もしくは四項の罪を犯した者が、公訴提起前に被拐取者を安全な場所に解放したときには、その刑を減軽するとの規
定(必要的減軽事由)が置かれているが、これは、行為者に被拐取者の解放を義務づけているのではなく、刑の減軽
というポジティヴなサンクション(褒賞)を提示することを通じて、被拐取者の解放を行為者に「推奨」するという
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83 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
「言語行為」をまさに遂行していることになるのである。また、自首・首服の任意的減軽事由を規定した四二条一項、
同条二項、自首の必要的減免事由を規定した二二八条の三、自白の任意的減免事由を規定した一七〇条および一七三
条、それに中止行為の必要的減免事由を規定した四三条但し書きなどの場合にも、同様に自首・首服・自白・中止を
行為者に対して「推奨」する「言語行為」が示されている。さらに、三六条(正当防衛)においては、防衛者に対して
防衛行為の「許容」という言語行為が提示されているのである。
ところで、「なまの事実」(自然的事実)と「制度的事実」との違いを認めつつ、それらがともに生物学的根拠をもつ
ものであるという点についてここで確認しておこう。すなわち、「なまの事実」あるいは自然的事実といっても、われ
われ生物が外界の中から一定の事実を分節化して捉える場合には、生物としての認識装置を使って、われわれにとっ
て重要なもの、意味のあるものを取り出し、構成して認識している、と考えることもできるであろう。
例えば〈構成主義的な〉「環境世界論」を唱えた、ドイツの独創的な生物学者ヤコプ・フォン・ユクスキュルも(9) 、「素
朴な人間中心主義」(n
aiveAnthropozentrik
)の克服を志向しつつ、マチルデ・ヘルデの次のような発見に言及してい
る。例えばミツバチは、二つの形、すなわち開いた形と閉じた形とを区別することができ、また放射線状の形や多角
形を認知することができるが、それは、ミツバチが、蜜を出しているほころびた花を見つけ出すためである。そこで
は、ミツバチ(の生存)にとって意味のある事実を、ミツバチが進化の過程で獲得した認識装置によって構成し、分
節化して捉えている、と考えることができるであろう。
ハンス・ゲオルク・ガダマーも(10) 、本章の冒頭に引用したように、フォン・ユクスキュルの洞察に言及して「人間の
生活世界も、動物の環境世界と類似する仕方で人間の感覚によってアクセスし得る知覚記号から構成されているので
ある。」と述べるとともに、「生物学的宇宙」(b
iologischesUniversum
)はいわば「環境構成」(U
mstilisieru
ng
)を通じ
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page84 2011/09/20 18:25
――法 律 論 叢―― 84
て「物理学的宇宙」(p
hysikalisch
esUniversum
)から獲得されるのであって、後者の宇宙を間接的に前提としており、
このことは人間の生活世界にも首尾一貫して妥当する、と指摘している。さらに「物理学の世界」(W
eltderPhysik
)
については、それがあたかも「真なる、即自的に存在する世界」(wahre,ansichseien
deWelt
)であるかのような外観
が生じるが、これが本当に「即自的存在の世界」(W
eltdesAnsichseins
)であるのか、だとすると物理学の対象は絶
対的な対象であるということになってしまうけれども、そうした絶対的な対象というような概念は全く「木製の鉄」
(holzern
esEisen
)すなわち形容矛盾になってしまうのではないか、との疑問を呈している。そしてガダマーは、物理
学も生物学も、「生きもの(L
ebewesen
)としての人間(研究者)」による営みである以上、科学として全く踏み越える
ことができない、同様な「存在論的地平」(ontologischerHorizont
)をもっている、と指摘するのである。
そうすると、「包括的な生物学的自然主義」の見地からは、「なまの事実」も「制度的事実」も認識論レヴェルにおい
て〈生きものとしての人間によって構成された〉事実であるという点では違いがなく、それゆえ単純なディコトミー
は素朴すぎるものであり、そうした事実の区別は相対的なものにすぎない、ということになってしまうかもしれない。
もっとも、〈意味のレヴェルあるいは地平に違いがある〉ということは指摘できるであろう。つまり、「制度的事実」に
おいては社会的・文化的意味(第二の自然の意味)のレヴェルあるいは地平が問題となっている、といってよいであ
ろう(11) 。
注(1)
Hum
e,ATreatiseofHumanNature,2003,[Book3,Part1,Sec.1]p.334.
ヒューム(大槻春彦訳)『人性論(四)』(一九
五二年)三三頁以下参照。
(2)
Gadam
er,WahrheitundMethode,3.Aufl.,1972,S.427.
(3)
Sea
rle,Speech
Acts1969,pp.50ff.
サール(坂本百大/土屋俊訳)『言語行為』(一九八六年)八七頁以下を参照。「統制
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page85 2011/09/20 18:25
85 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
的規則」と「構成的規則」との区別および「なまの事実」と「制度的事実」との区別について、増田『語用論的意味理論と法
解釈方法論』(二〇〇八年)三四八頁以下を参照。なお、ローマン・ハーメルは、サールの制度的事実の理論と「規範的予期」
(normativeErwartung
)の制度化を唱えるルーマン理論とを比較し、相互の関係性を指摘したうえで、人間の共同体の機能化
にとって不可欠な前提として制度的事実あるいは一般的行動予期を捉えている。V
gl.
Ham
el,StrafenalsSprechakt,2009,
S.87f.
ハーメルは、同書において刑罰(処罰)を言語行為として捉える見解を主張しているが、そうした見解をわたくしもす
でに主張していた。増田「刑事責任―自由意志論と刑罰論の視点からのアプローチー」『社会のなかの刑事司法と犯罪者』(二
〇〇七年)三四七頁以下を参照。
(4)
Sea
rle,TheConstructionofSocialReality,
1995,p.27.
ちなみに、二〇一〇年に出版された近著では、制度的事実の例
として、〈バラク・オバマは合衆国の大統領である〉という事実が挙げられている。S
eeSea
rle,MakingtheSocialWorld,
2010,p.10.
また、他の著書では、〈私は合衆国の一市民である〉といった例が挙げられている。S
earle,Mind,Languageand
Society,
1999,p.123.
(5)
See
Sea
rle(1995),ibid.,pp.34–35.
(6)
Sea
rle(1969),ibid.,pp.175ff.
サール・前掲邦訳三一一頁以下を参照。「存在」から「当為」への導出の問題に関わるサー
ルの議論に関しては、近時、ヤニア・マリア・ゲルトナーも、包括的な批判的検討を加えている。G
artn
er,IstdasSollen
ableitb
arauseinemSein?,2010,S.44ff.,56ff.,97ff.
(7)
増田・前掲書(二〇〇八年)四五頁、同『規範論による責任刑法の再構築』(二〇〇九年)三四六頁以下、六二三頁以下など
を参照。
(8)
ドイツ刑法二一一条(謀殺罪)の規定に関連して「統制的規則」と「構成的規則」との関係について論ずるクリストフ・メー
ラーズの指摘も参照。V
gl.
Mollers,
RegelimRecht:SechsFragen,in:Iorio(Hrsg.),Regel,Norm,Gesetz,
2010,323ff.
(9)
フォン・ユクスキュル(日高敏隆他訳)『生物から見た世界』(一九七三年)一九八頁。フォン・ユクスキュルによると、主体
が知覚するすべての物がその「知覚世界」(M
erkwelt
)となり、主体が行う作用のすべてが「作用世界」となり、「知覚世界」
と「作用世界」(W
irkwelt
)が共同で一つのまとまりのある統一体、つまり「環境世界」(U
mwelt
)を作り上げる。その結果、
新しい性質が付加され、意味が付与・獲得されることになるのである。同書・九頁、八三頁を参照。
(10)
Vgl.
Gadam
er,a.a.O.,S.427f.
動物の環境世界が人間にも転用できるかについては、むろん議論の余地もあるが、ガダマー
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page86 2011/09/20 18:25
――法 律 論 叢―― 86
は、「人間の生活世界」を「すべての生きものの生活世界」(L
ebenwelten
allesLebendigen
)の中にあるものとして捉えている。
(11)
ゲルトナーは、制度的事実の本性について進化論的認識論の考察にも論及し、さらに制度的事実も(人間にとっての)自然
的事実ではないか、という論点についても検討を加えている。V
gl.
Gartn
er,a.a.O,S.232ff.,337ff.
この論点は、包括的な生
物学的自然主義の見地からは重要であると思われる。
二 フェルバーのメタ倫理学的制度主義
「ソクラテス・・
さて、そもそも発話するということもまた、ある種の行為ではないだろうか。ヘルモゲネス・・
は
い、そのとおりです。」
プラトン『クラテュロス(1) 』
スイス(ルッツェルン大学教授)の古典哲学者ラファエル・フェルバーは、メタ倫理学における「認知主義」(K
ognitivismus
)
と「情動主義」(E
motivismus
)との対立を克服する第三の立場として、「道徳的制度主義」の構想を展開している(2) 。以
下では、フェルバーの基本的主張を参照し、これに批判的検討を加えつつ、「第三の途」を追求してみたいと思う。
さて、フェルバーの構想は、すでに指摘したように、「言語行為論」とともに事実の概念の意味についても新たな見
方を展開するサールの見解に、とりわけ依拠するものである。その言語行為論のアプローチ自体は、J・L・オース
ティンやJ・R・サールらによって展開されるよりもずっと以前に、すでにプラトンが、本章の冒頭にも引用したよ
うに、その言語哲学に関する著作『クラテュロス』において、ソクラテスに「さて、そもそも発話するということも
また、ある種の行為ではないだろうか。」と言わせた点に、その構想の萌芽を見出すことができるであろう。つまり、
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page87 2011/09/20 18:25
87 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
そこでは、発話において発話者が単に述べなければならないと思っていることを言うだけでは、その発話(言語行為)
は失敗に帰することにもなりかねず、物事に関する発話の本性に適った用法や適った手段を用いる場合に初めて、そ
の発話(言語行為)は成功するに至る、といった趣旨のことが、ソクラテスとヘルモゲネスとの一連の対話を通じて
語られているのである。これはまさに「言語行為論」の発想につながるものである、と思われる。
ともあれ、この言語行為論では、語用論的見地に立って発話するということが一定の社会的文脈においては種々の
機能を担う行為であるとする洞察に依拠して、言語と結びつく行為の特殊なタイプが考察されることになる。さらに
前述したように、サールによれば、言語行為には、〈社会的規則としての「構成的規則」に依拠して「制度化された事
実」を構成する〉という機能も認められることになる。
例えば、一郎が売主に対して一定の商品を購入すると発話すれば、このことによって一郎は契約法(民法)の規制
に関わることになり、一定の契約を確定することになるのである。あるいは、太郎が次郎から金銭を借り入れること
を発話し、次郎がこれに応ずれば、〈一定の期限内に借りた金額の返済行為を遂行することを内容とする〉「約束」あ
るいは「契約」を規定する構成的規則に関わることになるのである。
要するに、このような売買などの約束(契約)に関わる行為は、一定の言語共同体の内部で妥当している一定の規
則を前提にする態度として解釈されることになるのである。これと同様のことが、道徳的行為あるいは道徳的判断に
ついても妥当することになるのであろうか。もしもそうだとすると、こうした見地からは、道徳は制度的事実の特殊
事例として理解されることになるであろう。フェルバーも、こうした問題関心から、道徳の本性について検討を加え
ている。
フェルバーによれば、道徳の本性に関わる「認知主義」と「情動主義」(非認知主義)に関しては、それぞれ次のよ
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page88 2011/09/20 18:25
――法 律 論 叢―― 88
うな難点がある(3) 、と指摘される。すなわち、(実在論的な)認知主義は、道徳的発話の記述的な性格を正面から認める
ことになるが、それが「推奨」や「非難」の契機となることを説明できないことになる。さらに、この立場では、その
認知性/客観性の故に道徳的判断を普遍化し得るとしても、そこから〈規範を導出し得るか〉、〈行為指導的性格を導
き出し得るか〉という問題が提出されることになる。これに対して、情動主義の立場では、道徳的判断が情動的・情
緒的なものであり、道徳的発話が情動的な言語行為であるとすると、そこから規範を導出することができるとしても、
そうした〈道徳的判断を普遍化し得るか〉という問題が生じることになるのである。
そこで、両説のこうした問題点を解消するため、フェルバーは(4) 、「道徳的事実」の存在を肯定しつつ、それは〈制度
的な〉本性を有する事実すなわち制度的事実である、との主張を展開する。この制度的事実は、「共同体Gの文脈にお
いてXはYとみなされる」とする「構成的規則」を通じて成立することになる。つまり、構成的規則は、一定の言語
共同体Gの文脈においてXをYとして構成するための意味理論的規則であり、したがって制度的事実はこの構成的規
則に対応する意味をもつことになるのである。その際に、規範的意味や道徳的意味が事実に付与される場合には、当
該制度的事実は規範的事実あるいは道徳的事実となり得るのである。
こうして、例えば〈出血している人に包帯を巻いて止血してあげることは善いことであり、止血せずにその人を放置
することは善いことではない〉とか、〈民族殲滅は道徳的に間違っている〉とか、〈飢餓に苦しんでいる人々に食料を
与えるのは善いことである〉というような道徳的な基本的命題も同様の構造を有しており、したがってそこでは「制
度的事実」の記述が問題になっている、ということになる。
こうした見解によれば、(実在論的な)認知主義者が想定しているのとは異なり、道徳的事実は、物理的世界であ
れ、目に見えない形而上学的世界であれ、本来的に存在している客観的な事実といったものではない、ということに
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89 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
なるのである。また、記述的な情動主義者の見解とは異なり(5) 、それは単なる主観的な心理的事実でもない。むしろ道
徳的事実は存在するけれども、それは制度的なものである、ということになる。こうしてフェルバーによれば、道徳
は、単に客観的なものでも主観的なものでもなく、その本性に従うならば、社会的なもの、すなわち〈人間によって
構成された制度〉である、ということになるのである。
そこで、例えば「殺人の禁止」というような道徳的制度も、私個人がこれを具体的に承認しているか否かにかかわ
らず存在しており、その限りにおいてそれは主観的なものではなく客観的なものである、といえよう。つまり、社会
制度としての道徳は、フェルバーによれば、私自身が求める要請に必ずしも対応しているわけではない。その背後に
は、私個人の願望ではなく他者の願望が想定されるため、道徳は、他者の利益になるような行動も私に対して客観的
に要請するのである。
もっとも、一定の道徳的制度は、それがある言語共同体において構成されたものである限りでは、当該言語共同体
を超えて実在しているという、強い意味においては客観的なものではないのである。むしろ、そうした制度は〈相互
主観的〉という意味においてのみ客観的なものである、といえよう。その際、「相互主観性の範囲」についても注意を
払うことが肝要である。
つまり、制度は、多くの人びとの間で妥当しているけれども、一定の道徳が個々の文化共同体の内部においてのみ相
互主観的に妥当しているのであれば、それはローカルな「個別道徳」ということになるであろう。これに対して、い
わゆる人権のような基本的な規範、すなわち「全人類の共同体」において相互主観的に妥当している基本的な規範の
場合であれば、それは「相互文化的道徳」という意味において「普遍道徳」(メタ道徳)ということになるであろう。
例えば、一定の動物(例えば鯨、イルカ、豚、牛)の肉を食料とすることは、ある文化(集団)では禁止され、他の
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――法 律 論 叢―― 90
文化(集団)では許容されている。これに対して、殺人の禁止、傷害の禁止という基本的な道徳規範(最小道徳)は、
正当防衛や緊急避難のような合理的な例外があるにせよ、人類共同体という全共同体において相互文化的に普遍化可
能なものとして誰に対しても妥当している。
同様に、ドイツ基本法一条一項の「人間の尊厳は不可侵である」という原理もまた、制度的事実であり、抽象的意
味における類としての人間(人類)の尊厳に基づく不可侵性が保障されている。そして、このような制度的事実から
〈人間の尊厳は侵害されてはならない〉という「規範」が導出される。そこでは「である」という表現が「すべきであ
る」という規範的機能をもつことになる。しかし、フェルバーによれば(6) 、制度的事実としての道徳的事実にすでに規
範が含まれている限りにおいて、そうした帰結は、〈存在から当為は導出されない〉とする「ヒュームの法則」に違反
するようなことはないのである。
なお、フェルバーによれば、「道徳的感情」なるものも(7) 、決して単に主観的なものではなく、通常、適切に社会化さ
れており、そこに「構成的規則」が内在化され、したがって言語共同体あるいは社会の願望ともなるのである。それ
ゆえ、われわれは、例えばいわれのない殺人、人種差別、拷問などに対しても「嫌悪感」を覚えるのである。われわ
れは、そのようにして教育され、他者に対してもそのように教育してきたからである。社会が一旦そのような制度的
事実を定着させると、われわれは、これを記述した命題を通じて殺人、人種差別、拷問などは〈非難に値する〉もの
である、と認識できることになるのである。
しかし、フェルバーによれば、この場合にも、われわれは、「本来的に実在する事実そのもの」を認識しているので
はなく、〈人間によって作られた〉「制度的事実」を認識しているという点が重要である、ということになる。このよ
うな意味において、「道徳的感情」は、通常、単に主観的なものではないのである。だが、道徳的認識も、厳密な意味
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91 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
においては客観的なものでもない。フェルバーによれば、道徳的な「情動」も「認知」も、むしろ共同体や社会の制
度的な枠組みの中に接合されており、その枠組みは主観的であるとともに客観的なものでもある。つまり、そうした
枠組みは、〈相互主観的〉であり、私自身の現実的な承認とは無関係に存在している限りにおいて、客観的なものなの
である。そして、それは、規範をそこから導出し得る「構成的規則」を通じて成立したものである限りにおいて、主
観的なものである、ということになる。もっとも、道徳という制度は、時間をかけて強く凝固しているため、客観的
な所与のような外観を獲得し、人間の社会的な起源が忘れ去られてしまっているほど深く根付いてしまったのである。
しかし、このような客観性の外観は、とりわけ基本的な道徳規範が、一般的に承認され、一定程度実効的であるため
には、必要でさえある、ということになるのである。
フェルバーは、以上のような制度主義理論に依拠して、情動主義と認知主義とをいわば総合する方向で道徳の本性
を理解しようとするのである。要するに、フェルバーによれば、一方で、「情動主義」の基本的主張は制度主義の構想
の中に組み込まれることになる。そこでは、道徳的感情や情動は、道徳に関わる構成的規則の内在化の結果として客
観的に理解され、したがって単に主観的な願望の動因ではなく、社会的な要請の表現としても捉えられることになる
のである(8) 。他方で、認知主義の基本的主張も、制度主義の構想の中に取り入れられることになる。すなわち、道徳的判
断は、それが共同体あるいは社会において相互主観的に確立された制度的事実と一致する場合には、〈真なる〉ものと
みなされることになるのである。もっとも、このようなフェルバーの構想については、次の点が問題となるであろう。
① フェルバーの制度主義理論においては、「道徳的事実」は存在し、道徳的判断は「真理値」(真偽)を帰属し得
る事実主張である、ということが認められているが(9) 、そうした見解は、道徳的実在論なのであろうか、それとも
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――法 律 論 叢―― 92
道徳的反実在論なのであろうか。
② 一定の共同体の内部においてのみ妥当している道徳(個別道徳)と類としての人間(全人類)の共同体に妥当
している道徳(普遍道徳)との関係について、どのように捉えるのか。とりわけ、法制化された個別道徳が普遍
道徳と衝突するような場合に、どのような問題解決が望ましいか。
③ 道徳的制度主義は、道徳的な妥当要求の構造を言語、行為、社会制度と関係させて〈経験的に〉説明すること
ができるが、道徳的な妥当要求そのものをどのようにして〈規範的に〉根拠づけることができるのか。
まず、①の点についてフェルバー自身は(10) 、道徳的判断は、客観的なものではあるが、人間の意識や言語から独立する
「実在」(rea
leExisten
z
)をもつことになる「外在的実在論」(ex
ternerRealism
us
)の意味において客観的に妥当して
いるのではなく、「内在的実在論」(internerRealism
us
)の枠組みにおける「意味的存在」をもつ限りにおいて客観的
なものである、と指摘している(11) 。つまり、これは、一定の言語的制度内における実在論であり、「内在的な道徳的実在
論」(in
ternermoralisch
erRealism
us
)あるいは「制度的な道徳的実在論」(in
stitutioneller
moralisch
erRealism
us
)で
あるということになる。もっとも、このような実在論は、道徳的事実を「自然的世界」や「形而上学的世界」におけ
る実在として捉える伝統的な強い実在論とは異なっており、むしろ人間によって構成される制度的事実の意味的存在
を問題としている限りにおいて、わたくしの見方からすると、「道徳的構成主義」の一つのヴァージョンとして理解す
る方が適切であるように思われる。さらにフェルバー自身も(12) 、「メタ倫理学的制度主義」は、内側から見れば「(制度
的)実在論」(in
stitutioneller
Realism
us
)であるが、外側から見れば制度的相互主観主義という意味において「(制度
的)観念論」(in
stitutioneller
Idealism
us
)である、と指摘しているが、それに加えて端的に「制度が道徳的世界を構成
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93 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
する」とも述べているのである。
次に、②の問題点は、道徳のレヴェルの問題に関わるものとなる。一定の共同体において妥当している個別道徳に
対して、いわゆる人権のようなメタ道徳あるいは普遍道徳が規範的には優位することになるであろう。もっとも、個
別道徳が法制化されているような場合には、まさに法と道徳との関係についての実証主義対非実証主義の問題に立ち
入らなければならないであろう。これは、いわゆる「ラートブルッフ公式」に関わる問題となるであろう。ラートブ
ルッフは、「実定的な法規と正義との矛盾が〈不正な法〉であるその法規に正義が取って代わらざるを得ない〈程度に
耐え難い〉ものとなっている」場合には、当該法規は妥当しないことになる(13) 、と主張した。
もっとも、現代のリベラルな立憲国家においては、普遍道徳あるいは相互文化的道徳としての、いわゆる「人権」
(Menschenrechte
)が憲法に「基本権」(G
rundrechte
)として実定化されているため、その限りにおいては実定法秩序
内の問題すなわち「法秩序の統一」の問題として基本権の優位という方向で事案が解決されることになるであろう。
例えば、いわゆる「ニュールンベルク法」のような人種差別を内容とする法律が仮に制定されたとしても、憲法に平
等権が「基本権」として制定され、実定化されている以上、「法規に反した法発見」(R
echtsfindungcontralegem
)と
いう「合憲的・体系的解釈」を通じて、そうした法規の適用を阻止することもできるであろう(14) 。
さらに、③の問題点は、②の問題点にも関わってくる。しかしながら、フェルバーのメタ倫理学的制度主義の射程
は、道徳のメタ倫理学的な構造分析に限定されており、道徳の妥当要求の根拠づけに関する問題は、新たに設定され
なければならない規範倫理学の問題領域に帰属することになるのである。この点については、次章で取り上げ、検討
したい。
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page94 2011/09/20 18:25
――法 律 論 叢―― 94
注(1)
Pla
ton(Ubersetzt
vonF.Schleierm
acher/H.Muller/F.Muller),
Kratylos,[387b],in:UrsulaWolf(Hrsg.),Platon,
Samtlich
eWerke,Bd.3,1994,S.20.
ここでは独訳本から邦訳した。独訳テキストは以下のとおりである。》S
okrates:
Istnun
nichtauchdasRedeneineHandlung?Hermogenes:Ja.
《なお、水木宗明のギリシア語からの邦訳では「行為」の部分が
「作用」になってしまっている。水土宗明訳『クラテュロス』(一九七四年)一六頁を参照。しかし、内容的にも、そこで論述
されているのは、まさに「言語行為論」である。この点について、フェルバーの指摘も参照。V
gl.
Ferber,
Philosophische
Grundbegriffe1,8.Aufl.,2008,33.
また、アリストテレスの『レートリケー』(弁論術)も、今日「語用論」(S
prachpragmatik
)
と呼ばれる分野に関わる業績である。V
gl.
Hoffe,Aristo
teles,S.63.
増田『語用論的意味理論と法解釈方法論』(二〇〇八年)
二一五頁以下を参照。
(2)
Vgl.
Ferber
(2008),a.a.O.,S.160ff.;
ders.,
Moralisch
eUrteile
alsBeschreibungeninstitu
tioneller
Tatsachen.Unter-
wegszureinerneueren
Theoriemoralisch
erUrteile,
ARSP(79)1993,S.372ff.
スイスの哲学者ラファエル・フェルバー
は、古典学者とりわけプラトン研究者として活躍している。主著には、プラトンの「善のイデア」を考察した、D
ers.,Platos
IdeedesGuten,2.Aufl.,1989.
や、D
ers.,WarumhatPlatondie
《ungeschriebeneLehre
》nichtgeschrieben?
などが
あり、プラトンの著作の独訳も手掛けている。また、エレア派(パルメニデス、ゼノン)についての研究などもある。なお、グ
ンツェリン・シュミット・ネールも、フェルバーの「メタ倫理学的制度主義」の構想を取り上げ、これを認知主義と情動主義の
対立を克服する理論として位置づけ、検討を加えている。V
gl.
Noerr,
GeschichtederEthik,2006,S.143ff.
(3)
Vgl.
Ferber
(2008),a.a.O.,S.162ff.,167ff.
(4)
Vgl.
Ferber
(2008),a.a.O.,S.172ff.
(5)
フェルバーは、〈記述的な〉情動主義(b
eschreibenderEmotivismus
)と〈表出的な〉情動主義(ex
pressiv
erEmotivismus
)
とを区別している。前者は、例えば「Xは善である」といった道徳的言明は認知内容をもたず、われわれの主観的な感情を単
に記述するだけのものであり、その際、感情だけが現実的なものである、とする見解である。ヒュームの立場はこのような意
味における情動主義である、とされる。これに対して、後者は、道徳的言明は感情を記述するものではなく、まさに感情を表
出するものである、とする見解である。例えばエアーの立場は、この意味における情動主義である、とされる。V
gl.
Ferber
(2008),a.a.O.S.167ff.
なお、近時、脳科学、神経科学の成果に依拠した「脳神経科学的情動主義」といった見解が、ハーバー
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page95 2011/09/20 18:25
95 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
ド大学のジョーシア・D・グリーンらによって展開されている。そこでは、fMRIを使用して被験者の道徳ジレンマに対す
るニューロンの反応を調査し、そこから理性よりも情動や感情が大きな役割を果たしているとの結論を導き出し、カント的な
実践理性といったものは、具体的な道徳的判断には実際には影響を与えず、事後的な合理化のために用いられている、といっ
た主張が展開されることになる。S
eeJosh
ua
D.G
reene,TheSecret
JokeofKant’sSoul,in:MoralPsychology,Volum
3,2008,pp.35–79.
しかし、こうした主張が正しいか否かについては、立ち入った慎重な検討が必要であろう。
(6)
Vgl.
Ferber
(2008),a.a.O.,S.174f.
もっとも、基本法一条一項二文では、「これを尊重し、保護することは、すべての国家
権力の義務である」と規定されている。なお、人間の尊厳から人権が基礎づけられるかについては争われている。例えばディー
ター・ビルンバッハーは、人権は人間の「基本的欲求や基本的利益」から基礎づけられるのであって、しかも人間に近い関係にあ
る動物にもこうした権利は与えられることになる、と主張する。B
irnba
cher,KanndieMenschenwurdedieMenschenrechte
begrunden?,in:DiegroßenKontroversen
derRechtsphilosophie,S.77ff.
これに対して、ヨルン・ミューラーは、道徳的存
在としての人格の概念に結びつけて、「人間の尊厳」から人権を基礎づけるというカント的伝統を維持する。J
.M
uler,Men-
schenwurdealsFundamentderMenschenrechte:Einebegrundungstheoriretisch
eSkizze,
in:DiegroßenKontroversen
derRechtsphilosophie,S.99ff.
また、「尊厳」を動物(や植物)にまで拡大すると、その意味が希薄化し、尊厳条項は「中身のない
言葉」、「空虚な公式」になってしまうのではないかという論点について、H
oerster,HabenTiereeineWurde?.Grundfragen
derTiereth
ik,2004,S.33ff.
を参照。
(7)
Vgl.
Ferber
(2008),a.a.O.,S.173f.
(8)
Vgl.
Ferber
(2008),a.a.O.,S.178f.
(9)
Vgl.
Ferber
(1993),a.a.O.,S.378.
(10)
Vgl.
Ferber
(1993),a.a.O.,S.379.
(11)
「内在的実在論」、「外在的実在論」などの概念については、増田『刑事手続における事実認定の推論構造と真実発見』(二〇
〇四年)四九四頁以下、五五八頁以下を参照。
(12)
Vgl.
Ferber
(1993),a.a.O.,S.380.
(13)
Vgl.
Radbru
ch,Gesetzlich
esUnrechtundubergesetzlich
esRecht(1946),2002,S.11.
(14)
「法規に反する法発見」の概念については、増田・前掲書(注1)一二五頁以下を参照。
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――法 律 論 叢―― 96
三 フェルバーの規範倫理学的構想とメタ制度としての普遍化原則
「〈善とはあらゆるものが目指すもの〉と明言されたのは適切である。しかしながら、目指されるさまざまな目的の
間には明らかに一定の差異が認められる。」
アリストテレス『ニコマコス倫理学(1) 』
「ナザレのイエスの黄金律に、私たちは功利性の倫理の完全な精神を読み取る。人にしてもらいたいと思うことを
人にしなさいというのと、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいというのは、功利主義道徳の理想的極致で
ある。」
J・S・ミル「功利主義(2) 」
「確かにカントの〈定言命法〉は、人権のようにすべての人に分け隔てなく関わり、平等の理念を含意しているとい
うことはそのとおりである。だが、この定言命法が実際に理性の概念から導出されるということについては、私
としては疑念を抱かざるを得ない。」
エルンスト・トゥーゲントハット「法と道徳における平等の起源(3) 」
道徳に関する基本的問題について考察する際に、「普遍化原則」(V
erallgemeinerungsregel
)を論究の対象としないわ
けにはゆかないであろう。論究に値する普遍化原則としては、何よりもカントの「定言命法」(ka
tegorischerImperativ
)
があり、また現代ではハバーマスらによって展開されているディスクルス理論を通じて対話的に構造化されたヴァー
ジョンもある(4) 。ここでは以下に、フェルバーの規範倫理学に関する基本的な構想を主題的に取り上げ、これを批判的
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page97 2011/09/20 18:25
97 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
に考察することを通じて、「普遍化原則」の問題について若干の検討を加えることにしたい。
∏ 道徳的善の概念
〈道徳とは何か〉ということについて考える場合に、何よりも問題となるのは、「〈よい〉ということ」とりわけ道
徳的な善の概念であろう。人種差別をしないことや、困っている人を助けることは、少なくとも直観的な理解を前提
とすれば道徳的に善いことである。古典的な定義によれば、「善とはあらゆるものが目指すものである」(アリストテ
レス)。もっとも、ムーアが善なるものを定義することはできないと指摘したように、道徳的善の概念をより具体的に
定義することは容易なことではない(5) 。しかし、これを善という言葉の典型的な使用事例や機能事例から考察して明晰
化する試みは無駄ではないであろう。
さて、フェルバーによれば(6) 、善の概念が「行為指導的な機能」をもつとすれば、〈なぜわれわれ人間は善なる行為を
すべきなのか〉ということについて熟考することが重要である、ということになる。その際、命じられた行為の原因、
とりわけ内的な作用因としての動機について考えるだけでは十分ではない。つまり、善き行為をした場合の褒賞の期
待や、悪しき行為をした場合の懲罰の恐れも動機となり得る。そして、われわれ人間は、通常、懲罰を受けるよりも、
褒賞を受けることを望む。その際、道徳的な行為に対しては常に褒賞が与えられ、不道徳な行為に対しては懲罰が加
えられるならば、道徳的な行為は、われわれにとって「自己の利益になる行為」ということになるであろう。自己の利
益を合理的に追求する行為は、手段としての巧妙さの意味において「賢い」(k
lug
)ものだと称される。褒賞を受ける
行為はこの意味において「賢い」ものであり、懲罰を科せられる行為はこの意味において「賢い」ものではない。し
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――法 律 論 叢―― 98
かし、単なる手段としての目的合理性(戦略的合理性)や自己の私的な幸福を追求するための「手段的賢慮、実用的
思慮、怜悧」(K
lugheit
)の実践が道徳的に善いことを意味するのであろうか。善なる行為は、ときとして報いられな
いどころか、食い物にされ、場合によっては善行者自身に懲罰を加える原因になることさえある。逆に、悪しき行為
が称賛を浴びるようなこともよくあることである。
それゆえ、〈なぜわれわれは善なる行為をすべきであるか〉という基本的問いに対して、〈それが自己の利益に適っ
ているからである〉というように答えることはできないであろう。そこでは自己利益のような「原因」ではなく、な
ぜ道徳的行為をすべきであるかという規範的な「理由」が求められているのである。もっとも、社会的制度としての
道徳は、社会的サンクションを有する制度である。というのも、それがなければ道徳制度は十分な「実効性」を維持
できなくなるからである。しかしながら、褒賞や懲罰に認められるような道徳の作用因は、道徳の「規範的な妥当根
拠」ではない。つまり、肯定的なもの(褒賞)であれ、否定的なもの(懲罰)であれ、社会的サンクションがわれわれ
の道徳的行為の「動機」になるとしても、だからといって、そのことはわれわれがなぜ道徳的に振る舞うべきである
かということについての規範的な「理由」にはならないのである。道徳制度は、社会化の過程でわれわれに深く内在
化しているため、われわれが道徳的な行為に関して報われず、不道徳な行為に関して罰せられなくとも、道徳制度は
われわれに道徳的な行為を要求するのである。
こうした見地からフェルバーによれば、「道徳という制度は、自己利益というモーターがとっくに止められている場
合でも、さらに進行する大型汽船に似ている。すなわち、われわれが褒賞を期待しない場合にのみ、われわれは、本来
的な意味において道徳的に行為している、と考えるであろう。」ということになる(7) 。そして、善の概念的説明は、なぜ
褒賞がなくともわれわれが道徳的であるべきであるか、あるいは道徳的に行為すべきであるかということに対する理
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99 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
由を提示しようとするものである。そのような理由は、間接的には原因にもなり得るし、われわれの行為を導き得る
ものでもある。「道徳の理由」は、われわれがこれを自己のものとして受け入れ、これによってわれわれの行為が決定
される場合にはさらに「原因」にもなるのである。ともあれ、こうして「道徳の規範的理由」を探求することが、道
徳の規範倫理学にとって重要な課題となるであろう。
π 功利主義
プラトン研究者のフェルバーは、〈道徳的な善悪とは何か〉という問題にアプローチする際に、褒賞や懲罰の問題か
ら考察するのではなく、プラトンの一般的な意味におけるよいもの/わるいものに関する次のような言説を論究の出
発点にする(8) 。つまり、「滅ぼしたり損なったりするものは、すべてわるいものであり、保全し益するものは、よいもの
だということだ」というテーゼである(9) 。
プラトンは、そこにおいて「それ自体よいもの」と「目的の手段としてよいもの」とを区別せずに、単に〈すべての
よいものは保全し、有益なものであり、わるいものは破壊し、破滅させるものである〉と主張するのである。そうす
ると、道徳的見地からも、善は保全し益するものであり、悪は滅ぼしたり損なったりするということになる。端的に
言えば、道徳的善は「有益なもの」であるのに対し、道徳的悪は「有害なもの」であるということになるであろう。
そこで、フェルバーによれば(10) 、例えば出血している人を放置するのは、その人を害するから道徳的に誤っており、包
帯で止血してあげるのは、その人にとって有益であるから、道徳的に善い、ということになる。また、民族殲滅行為
は、民族の滅亡をもたらすため、道徳的に間違っており、飢餓に苦しんでいる人々に食料を供給してあげるのは、生
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――法 律 論 叢―― 100
命の保全となるため、道徳的に善い、ということになるのである。
こうして「善は人の生存を促進し、悪は人の生存を阻害する」と定義するならば、道徳の理由は道徳外の価値、す
なわち有益性や生存促進性という点にあり、したがって生存を促進する制度的事実は道徳的に正しく、有害で生存を
脅かす制度的事実は道徳的に不正であるということになる。
もっとも、われわれ人間はただ生存したいのではなく、幸福に生きたいのである。そこで、この〈「幸福な生」とは
何か〉ということが問題になるであろう。通常、「幸福な生」は快(快適、快楽)であり、「不幸な生」は苦痛に満ちて
いる、と考えられている。そうすると、道徳は「幸福な生」あるいは「快適な生」を導き、不道徳は「不幸な生」ある
いは「苦痛に満ちた生」を導くものであるということになるであろう。このような見解は、古代から主張されてきた
「幸福主義」(E
udamonismus
)や「快楽主義」(H
edonismus
)と呼ばれるものであり、その延長線上にあるのが「功利
主義」(U
tilitarismus
)である。
道徳の基礎に功利性あるいは最大幸福を想定する功利主義によれば、一定の行為は幸福を促進する傾向をもつ限りで
善いものとなり、この幸福は快適さ(快楽)であり、苦痛の不存在として理解される。先の例で言うと、出血している人
を包帯で止血してあげる行為は、それが快適さ(快楽)を促進し、苦痛を和らげる限りにおいて道徳的に正当であり、善
であるということになる。また、功利主義としては、個別の行為を基準にする「行為功利主義」(H
andlungsutilitarism
us
)
のほかに、一定の「規則」を基準とする「規則功利主義」(R
egelutilitarism
us
)も主張される。例えば、「殺人の禁止」
という「統制的規則」は、それが幸福や快楽を惹き起す場合には道徳的に正当であり、善であるということになる。
さらに、このような規則功利主義は、規則として一定の「構成的規則」が問題となっている場合、したがって「制
度的事実」に関しても主張し得るものであろう。そこで、例えば「人間の尊厳は不可侵である」という制度的事実は
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101 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
道徳的に正当であるが、その理由は、功利主義によれば、そうした制度的事実が幸福、快楽、利益、効用をもたらす
からである、ということになるであろう。
その際、功利主義は私自身にとって有益なものが善であると主張するのではなく、むしろ他者の利益も考慮に入れ
るのである。ベンサムの格言によると、「すべての人が一人として数えられ、誰も一人以上として数えられない」ので
ある(11) 。要するに、誰の基礎利益も同じである、ということになる。こうした前提からは、人を人種や性別によって差
別するのは、道徳的に不正であるということも基礎づけられている。ともあれ、そこでは「最大多数の最大幸福」と
いう公式、すなわち最大多数の人の幸福、快楽、利益、効用を最大化することが善である、ということになる。
このような功利主義の道徳理論に関して、フェルバーは、幸福、快楽、利益、効用といった一般的なものを具体的に
理解しようとする場合に問題が生じる(12) 、と指摘する。例えば、ひどくのどの渇きを感じている者は、一杯の水を欲し
がり、飢えに苦しんでいる者は、一片のパンを欲しがる。凍えている者は厚手のコートを欲しがり、住居をもたない
者は頭上に屋根を欲しがる。薄暗い刑務所に座している者は日光と自由を欲しがる。孤独な者は人を恋しく思い、多
くの人に囲まれている者は一人きりになりたいと思う。そこでフェルバーは、功利主義の公理に対して次のような批
判を提起する。つまり、その公理は、人々が直接望んでいることを言明しないために、その限りにおいてのみ明白な
ように見えるだけであって、その皮をむいて芯を取り出せば、それは、ほとんど何も述べていないか、または全く何
も述べていないかのいずれかである、と指摘するのである。功利主義の公理は、結局「望ましいものを望む」と言っ
ているだけであり、経験を通じて反証し得るようなものではない。それゆえ、功利主義の公理を経験的な仮説として
定式化すると、それは誤りになってしまう、ということになる。
さらに、そもそも最大多数の幸福、快楽、利益、効用が善なのであろうか。善とは〈あらゆるものが目指すもの、し
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――法 律 論 叢―― 102
たがって誰もが目指すものである〉とする古典的定義は、道徳的善と非道徳的よさとを区別しない。幸福、快楽、利
益、効用は「よいもの」であるとしても、それは常に道徳的善であるというわけではない。というのも、例えば、殺
人の幇助を通じて、不道徳なものとみなされる幸福(快楽、利益、効用)を他者(殺人の正犯者)にもたらすこともで
きるからである。また、自己の幸福が他者の不幸に基づいているような場合にも、そうした幸福は道徳的には善とは
ならない。さらに、幸福は人それぞれ異なったものを意味し得るものであり、客観的に定義することは困難でもある(13) 。
フェルバーによれば(14) 、「道徳的善」は、色や音のように外的経験を通じて知覚されるようなものではなく、また快苦
のように内的経験を通じて直接的に知覚できるようなものでもない。それは、「構成的規則」によって確定される「意
味理論的な存在」であり、共同体の制度的事実の中に入り込んでいるものである、ということになる。こうして、フェ
ルバーの見解では、道徳的善は、幸福主義的、快楽主義的、功利主義的な意味には尽くされない次元をもつことにな
るのである。逆な言い方をすれば、幸福主義、快楽主義、功利主義の決定的な誤りは、道徳的次元をそれ自体の中に
含んではいない、幸福、快楽、利益、効用という道徳的善とは異なる概念によって道徳的善の概念を説明しようとし
た点にある、ということになる。
∫ 普遍化原則
〈道徳とは何か〉という問題について答えを提出しようとするならば、先にも指摘したように、基本的な道徳規範に
共通する性格についてさしあたり考察することが適切であろう。例えば殺人の禁止、人種差別の禁止、拷問の禁止な
どの基本的な道徳規範に共通する性格として、われわれは、何よりもそうした規範が誰に対しても妥当するという意
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103 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
味において普遍化可能である、ということを指摘することができる。この「普遍化可能性」をメタレヴェルにおいて
テストする「普遍化原則」の代表例としては、例えば、イエスが山上の垂訓において「君が何事でも他者からして欲
しいと望むことは、他者にもそのとおりにせよ」(新約聖書マタイによる福音書第七章第一二節)と命じた「黄金律」
(dieGoldeneRegel,thegoldenrule
)を挙げることができるであろう。この黄金律には、山上の垂訓における定式のよ
うな肯定形のヴァージョンもあるが、「君が他者にして欲しくないと思うことを、他者にしてはならない」というよう
な否定形のヴァージョンもある。
フェルバーは、この黄金律が「仮言命法」として捉えられるにもかかわらず、あえてその否定形のヴァージョンと結
びつけてカントの「定言命法」を再構成しようとするのである。もっとも、当のカント自身は、この否定形のヴァー
ジョンについても、その仮言的構造を見抜いていたため、痛烈な非難を浴びせるとともに、黄金律そのものを明確に
拒絶したのである(15) 。
カントにとっては、道徳的善は幸福ではなく、むろん最大多数の最大幸福でもない。カントによれば、普遍化原則
である定言命法に適うような行為が道徳的に善であるということになる。カントは、この定言命法を『人倫の形而上
学の基礎づけ』の中で種々の仕方で表現しているが、その真髄は次のような定式の中に認められる。
「君がそれを通じて欲することができると同時に、まさにそれが普遍的法則となるような格率にのみ従って行為せ
よ(16) 」
これが〈定言的〉と称されるのは、仮言的なものとは異なり、そうした定式にはいかなる条件も付されていないと
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page104 2011/09/20 18:25
――法 律 論 叢―― 104
いう意味において無条件的/絶対的なものだからである。つまり、それは、幸福、快楽、利益、効用などを得るため
といった条件に結びつけられていないのである。ともあれ、カントによれば、行為は、〈仮にすべての人が採用したと
しても、矛盾や困難が生じるようなことはない〉という意味において普遍化可能な マキシーメ
格率 に従って遂行される場合にの
み、道徳的に善である、ということになるのである。
この格率とは主観的な行動指針のことであるが、フェルバーにあっては、他者の誰もがして欲しくないと思うこと
を欲することなく、誰もが一定の行動指針を自己のものとして受け入れることができる場合にのみ、行為は普遍化可
能なものとなるのである。こうして〈誰もが自己のものとして受け入れることができるような〉主観的指針は、相互
主観的なものとなり、定言命法は相互主観的に妥当する格率に従って行為することを命じることになるのである。
フェルバーは(17) 、このような普遍化可能性の原則を制度的事実についても適用し、他者のすべてが自己のものとして
受け入れることができるような制度的事実のみが道徳的に妥当し得るものである、とする主張を展開する。とりわけ
基本的な道徳規範の場合には、普遍化可能であるということが、その妥当性を理由づけるものとなっている。例えば、
重傷を負って出血している人を止血したり、餓死しそうな人に食料を与えて救済したりするのは道徳的に善であり、
人種差別行為や民族殲滅行為は道徳的に悪であるというような制度的事実も、明らかに普遍化可能である。というの
も、この普遍化原則によると、私が明らかに欲することができないことを、他者にしてはならないからである。
つまり、私は、自分が重傷を負って出血した場合や餓死しそうになっている場合に、他者に放置されたくないし、私
は、他者によって殺されたくないし、不合理な理由で他者から差別されたくない。だとすれば、私は、同様に他者に
対してもそのように振る舞ってはならないのである。殺人や不合理な差別が道徳的に不正であるのは、このように殺
人の禁止や差別の禁止が普遍化可能だからである。そこで、もし仮に例えば「殺人の許容」が普遍化可能であるとす
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105 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
れば、私が他者を殺害してよいだけではなく、他者も私を殺してよいことになってしまう。同様に、人種や性別によ
る「差別の許容」が普遍化可能であるとすると、私が他者を差別してよいだけではなく、他者も私を差別してよいこ
とになってしまうであろう。だとすると、私は、私が本来欲していない(望んでいない)ことを欲する(望む)とい
う(意志の)矛盾に陥ってしまうのである。
ともあれ、このような普遍化原則に基づいて道徳的な善悪あるいは正邪を基礎づける〈義務論的〉見解の功績は、幸
福主義、快楽主義、功利主義の立場とは異なり、道徳と幸福(快楽、利益、効用)との間に概念的な結びつきを認めな
い点にある。もっとも、カントの定言命法の定式に対しても種々の批判がないわけではない。
フェルバーは(18) 、そうした批判を考慮しつつ、普遍化原則を道徳性の基準として適用するにあたって、道徳というも
のを社会的な道徳として捉える限りにおいて、〈「他者の生活利益」(L
ebensinteressen
anderer
Menschen
)に直接的あ
るいは間接的に関わるような行為だけが道徳的に重要である〉とする内容的な予備基準あるいは事前了解が必要であ
る、と提案する。このような提案は、他者の生活利益にとって有益な結果あるいは有害な結果をも考慮する限りにお
いて、功利主義的な見解を考慮に入れることになる。このような意味において理解される普遍化原則は、私の生活利
益のみを重視するのではなく、私の生活利益をすべての他者の生活利益と対等に扱う限りにおいて、他者の生活利益
にも配慮することになるのである。
こうしてフェルバーによれば(19) 、いわゆる定言命法は、原理的にすべての人間の生活利益を道徳の条件とするという
意味において「仮言命法」となるのであって、いわば〈普遍的な〉仮言命法(allgem
einerhypothetisch
erImperativ
)
である、ということになる。その限りにおいて、J・S・ミルとカントによる道徳の根拠づけの試みは、異なってい
るにもかかわらず、その目標設定の点では見解が一致している、とされる。ミル自身も(20) 、「カントの原理に何らかの意
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――法 律 論 叢―― 106
味をもたせるには、次のような意味が与えられなければならない。すなわち、私たちはすべての理性的存在が採用す
るであろう規則と〈それらの存在の集合的利益への便益〉を勘案して自らの行為を決定しなければならない。」と述べ
ている。そこで、フェルバーによれば、「功利主義」と「義務論」の立場の前提と目標は、外見ほど相互に異なるもの
ではなく、「双方の立場は、私にとってだけでなくすべての他者にとっても有用な結果を目的としている」ということ
になるのである(21) 。
とはいえ、フェルバーによれば(22) 、道徳の義務論的根拠づけが、功利主義的根拠づけに対して優先される。というの
も、道徳的善の概念自体は、必ずしも幸福、快楽、利益と結びつけられておらず、道徳的な構成的規則に対応する制
度的事実は、一定の意志すなわち人間の共同体の意志を前提にしているからである、ということになる。以上の議論
を踏まえて、フェルバーは、普遍化原則を次のように定式化する。
「他者の生活利益に関わるものであって、各人がおよそ望まないことを望むことなく、原則的に誰もが自己のもの
として受け入れることができるような、そういう制度的事実は、道徳的に正当もしくは善である。これに対して、
他者の生活利益に関わるものであって、各人がおよそ望まないことを望まざるを得ないことになってしまうため
に、誰もが必ずしも自己のものとして受け入れることができないような、そういう制度的事実は、道徳的に不正
もしくは悪である(23) 。」
その際、「他者の生活利益」として狭義のものと広義のものとが区別される。前者は殺傷を被らない安全な生活、後
者は自由かつ平等で幸福な生活に関わるものとして理解される。そこで、例えば殺人の禁止は、生命そのものの安全
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107 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
という他者の生活利益に関わっており、誰もがこの禁止を自己のものとして受容し得るため、道徳的に正当なものと
なるのである。また、人種差別や性差別の禁止は、自由で平等な生活という意味での他者の生活利益に関わっており、
同様に誰もがこの禁止を自己のものとして受容し得るため、道徳的に正当なものとなるのである。なお、そこにおい
て〈他者の〉生活利益あるいは他者性が強調されているが、自己(太郎)というものは、その他者(次郎という自己)
から見れば、常に他者(次郎の他者)なのであって、このように〈規範化された〉「自己の他者性」さらには「相互性」
(Reziprozita
t
)という観点は、このような普遍化原則の前提になっている、と考えるべきであろう。
ところで、以上の議論においてフェルバーが、いわゆる定言命法も一種の仮言命法として捉え直そうとしている点
については、わたくしの見地からすると、若干議論の余地があるように思われる。カントは(24) 、「行為がただ〈別のもの
のために〉手段としてのみ善いのだとするなら、その場合、命法は仮言的である。だが、行為がそれ自体で善いと表
象されるなら、したがって行為が、それ自体が理性に適合している意志において必然的であり、意志の原理であると
表象されるなら、その場合、命法は定言的である。」と言っている。この点について具体例(具体的な規範)を挙げて
考えてみよう。
例えば、「殺人の禁止」は、他者の生命という生活利益を保護する手段としての意味を有するため、このような行動
規範は〈仮言的だ〉と言いたくなるであろう。確かに、殺人の禁止が、〈制裁を科されたくないならば、他者を殺害す
るな〉と定式化されるような場合はもちろん、例えば徴兵制を実施するため(兵士を確保するため)とか、国民から
税を徴収するためとか、労働者を確保するためとか、というような〈外在的な〉目的の手段として投入されるような
場合にも、それは、一定の意味において〈仮言的な〉ものでもあるといえよう。しかしながら、「生命」という基本的
な生活利益は、殺人という行為が人の生命侵害を志向する行為であるため、そもそも生命の保護は殺人禁止の〈内在
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page108 2011/09/20 18:25
――法 律 論 叢―― 108
的な〉目的にほかならない。つまり、その際、生命の保護と殺人の禁止とは一体化している。より一般的に言えば、
他者の生活利益は道徳規範の根拠であり、それらは一体のものであると考えられる(25) 。したがって、〈外在的な〉目的を
考慮せず、生命侵害を志向する殺人行為自体を端的に禁止するような場合には、これを〈定言的な〉ものと称してよ
いのではないかと思われる。ともあれ、道徳規範の〈内在的な〉目的として他者の生活利益を考慮する点については、
フェルバーの見解に賛同し得るであろう。
いずれにせよ、ここでは主題化されないが、普遍化原則の適用に当たっては、相互主観的合理性/コミュニケーショ
ン的合理性を確保するために「 ディアロギッシュ
対話的 に構成された手続モデル」が必要とされるであろう(26) 。
注(1)
アリストテレス(朴一功訳)『ニコマコス倫理学』(二〇〇二年)﹇1
094a
﹈四頁参照。V
gl.
Aristo
teles,(Ubersetzt
vonUrsula
Wolf),Nikomatisch
eEthik,2006,[1094a],S.43.
(2)
J.S.M
ill,Utilita
rianism,in:Ryan(ed.),J.S.MillandJerem
yBentham.Utilita
rianismandOtherEssays,1987,
p.288.
J・S・ミル(川名雄一郎/山本圭一郎訳)『功利主義論集』(二〇一〇年)二七九頁参照。
(3)
Tugen
dhat,DerUrsprungderGleich
heitinRechtundMoral,in:AnthopologiestattMetaphysik,2.Aufl.,2010,
S.141.
(4)
Vgl.
Haberm
as,Moralbewußtsein
undkommunikativesHandeln,1983,S.67ff.
ハーバマス(三島憲一他訳)『道徳意識
とコミュニケーション行為』(一九九一年)九六頁以下を参照。ハバーマスの普遍化原則については、増田『規範論による責任
刑法の再構築』(二〇〇九年)六四七頁以下を参照。
(5)
ムーアの見解については、増田「法倫理学と道徳的実在論」法律論叢八二巻四・五合併号四二五頁以下を参照。
(6)
Vgl.
Ferber,
PhilosophischeGrundbegriffe1,S.179ff.
(7)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.181.
(8)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.182.
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page109 2011/09/20 18:25
109 ――法倫理学における道徳的制度主義の構想と道徳的個別主義の問題性(一)――
(9)
プラトン(藤沢令夫訳)『国家(下)』(一九七九年)﹇6
08e
﹈三四一頁参照。V
gl.
Pla
ton(Ubersetzt
vonF.Schleierm
acher),
Politeia
,[608e],in:UrsulaWolf(Hrsg.),Platon,Samtlich
eWerke,Bd.2.,1994,S.522.
(10)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.182.
(11)
ベンサムの格言については、J
.S.M
ill,ibid.p.336.
J・S・ミル・前掲邦訳三四二頁を参照。
(12)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.188.
(13)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.190.
(14)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.190.ff.
(15)
Kant,GrundlegungzurMetaphysikderSitten
(SuhrkampTaschenbuch),[BA68,69],S.62.
カント(平田俊博訳)『人
倫の形而上学の基礎づけ』(二〇〇〇年)六七頁を参照。
(16)
Kant,a.a.O.,[BA52],S.51.
カント・前掲邦訳五三―五四頁を参照。
(17)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.193f.
(18)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.196f.
(19)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.198f.
(20)
イエスの山上の垂訓の中に、したがって「黄金律」の中に、功利主義の精神、功利主義道徳の理想的極致を読み取っている
J・S・ミルによれば、何が正しい行為かを決める功利主義の基準としての幸福とは、まず、行為者自身の幸福ではなく、関係
者すべての幸福である。次に、自分自身の幸福か他者の幸福かを選ぶときは、利害関係にない善意ある観察者のように厳密に
公平であることを当事者に要求する、ということになる。J
.S.M
ill,ibid.p.288.
J・S・ミル・前掲邦訳二七九頁を参照。
(21)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.199.
(22)
Vgl.
Ferber,
a.a.O.,S.199f.
(23)
この場合に、(道徳的)「正」(d
ermoralisch
Richtigen
)あるいは「正義」と(倫理的)「善」(d
erethisch
Guten
)とを
区別すべきであるかという問題もあるが、その点についてフェルバーは議論をしていない。この問題については、F
orst,Das
RechtaufRechtfertig
ung,2007,S.100ff.
増田・前掲論文(注5)三九九頁以下などを参照。
(24)
Kant,a.a.O.,[BA40],S.43.
カント・前掲邦訳四四頁を参照。
(25)
ノベルト・ヘルスターは、すべての個人に帰属される利益の中に道徳的根拠を見出している。それゆえ、例えば「人を殺し
明治大学 法律論叢 84巻 1号:責了 tex/masuda-841.tex page110 2011/09/20 18:25
――法 律 論 叢―― 110
てはならない」という規範も、相互主観的に根拠づけられるのである。V
gl.
Hoerster,
EthikundInteresse,
2003,S.162ff.;
さらに、道徳と利益の関係性について、vo
nG
rundherr,
MoralausInteresse,
2007.
も参照。
(26)
この点については、増田・前掲書(注4)六四七頁以下を参照。