46
60 使使稿第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

60

第二章

王安石「明妃曲」考(上)

――その文學史的意義と歴代の批判――

はじめに

時は淸朝の文化爛熟期第四代乾隆皇帝の末期(乾隆五六年〔一七九一〕)曹雪芹の八回本

『石頭記』に傳高鶚の增補部分が加えられ一二回本『紅樓夢』が初めて世に問われた

全編のすみずみにわたる緻密で周到な文章構成力もさることながら賈寶玉林黛玉薛寶釵

等主要な登場人物に託して詠ぜられる數々の詩歌や彼らの口を借りて語られる詩評の言辭

に作者の豐かな文學的素養と確かな文化的背景とを實感する讀者も少なくあるまい第六四

回にもそうした詩歌をめぐる小氣味よいやりとりが記されており次のような一節が作中人

物の一人薛寶釵の口を借りて語られている

做詩不論何題只要善翻古人之意若要隨人脚踪走去縱使字句精工已落第二義

究竟算不得好詩卽如前人所咏昭君之詩甚多有悲挽昭君的有怨恨延壽的又有譏

漢帝不能使畫工圖貌賢臣而畫美人的紛紛不一後來王荊公復有「意態由來畫不成

當時枉殺毛延壽」永叔有「耳目所見尚如此萬里安能制夷狄」二詩倶能各出己見

不與人同helliphellip

(一九五七年一月人民文學出版社『紅樓夢』)

詩を作るにはどんな題で作るにしても何より古人の趣向を上手にくつがえすことが大切ですね人の

足跡について行くだけならばたとえどんなに字句が巧みでももはや第二義に落ちてしまって結局よい詩

とは申せませんたとえば昔の人の詠んだ王昭君の詩は隨分澤山あって昭君を悲しみ弔ったものもあれ

ば毛延壽を怨んだものもありまた漢帝が畫工に賢臣の顏を描かせないで美人を描かせたことを譏った

ものもあるというふうで種々雜多ですところがその後王荊公は「意態は由來畫き成さず當時枉殺

す毛延壽」とやり歐陽永叔はまた「耳目の見る所尚お此の如し萬里安んぞ能く夷狄を制せん」とや

って二つの詩はそれぞれ前人に見られなかった自分獨特の見解を打ち出していますhelliphellip

(松枝茂夫譯岩波文庫『紅樓夢』七一五二頁)

――王昭君を詠じた詩の中で王安石と歐陽脩の兩者による作が「己見」を出している點で

秀でているという右文で薛寶釵が引いた王安石の詩句こそは本稿で取り上げる二首の「明

妃曲」其一の第七第八の兩句であり歐陽脩のそれがその和篇「再和明妃曲」の第九一

句である

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

61

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

もちろん右文は壯大な構想に立つこの長編小説にあっては取るに足らないほんの細やか

な插話の一部分にすぎないさらにまた虛構の上に立っての發言ということを考慮すればこ

の薛寶釵の言葉に作者曹雪芹の眞意がどれ程投影されているかも大いに疑問符のつくところで

あるしかしそういう懸念を差し引いても淸に至る歴代の昭君詩の中から『紅樓夢』の

作者が歐陽脩と竝んでとくに王安石のこの詩の着想を評價した點は王安石「明妃曲」の享受

史上十分に注目に値するなぜならば〈紅學〉という專門研究領域がすでに確立し多數

の〈紅迷〉なるマニアックな愛讀者が現に存在する事實に證明されるように近現代の中國に

おいてこの小説に對する關心と評價は一樣に極めて高いものであったからである『紅樓夢』

を通じてこの詩を初めて知り知らず知らずの中に『紅樓夢』に導かれてこの詩の妙味に氣が

ついた讀者も必ずや多數いたに違いない

時は同じく淸の中葉一二回本『紅樓夢』の刊行に後れること僅か一年餘(嘉慶九年〔一

八四〕)亡國の臣としばしば痛罵された同郷の先達の汚名を晴らすため蔡上翔は八八歳と

いう高齢をものともせず勞作『王荊公年譜考略』二五卷『雜錄』二卷を完成させたその

中で彼は南宋初め以來非難の絕えることなかった「明妃曲」其一末尾の「人生失意無南北」

の句および其二の第九句「漢恩自淺胡自深」について特に千數百字と筆墨を費やして王安

石を辨護し六世紀餘にわたって受けた王安石の屈辱を雪がんとしている

蔡上翔のこの書は約一世紀の後今世紀初頭近代政治思想の旗手梁啓超(一八七三―一九

二九)の筆で評傳『王荊公』となって生まれ變わった梁啓超の顯彰を經てやがて王安石の

史的重要性が公認されるとかつては一樣に惡法と見なされた新法が劃期的な先進的改革とし

て學術界の注目を集めるようになりそれがそのまま今日の王安石評價へと直結している蔡

上翔は百年の後に知己を得彼の助力によって悲願を達成したのだといえよう

ここに掲げた淸朝中葉の二つの書は一方が虛構の領域の産物であり他方は實證の世界の

それであってむろん兩者の間に直接の連關はないだが奇妙なことに淸末民國初の大きな

時代の潮流に揉まれ人々の價値觀が否應なく大きく移ろったその時に兩者はほぼ時を同じ

くして一躍脚光を浴び社會の表舞臺へと引き上げられた誨淫譏世の書というレッテルを貼

られしばしば禁書の憂き目に遭った『紅樓夢』をその藝術的價値という側面から最高級に

評價し後の〈紅學〉へと續く道を切り開いたのは王國維(一八七七―一九二七)である蔡

上翔の年譜については前述したように新しい時代を切り開き文藝界を變革に導いた梁啓超

によってそれがなされたこうして民國以後の文史研究の領域にあって文學における『紅

樓夢』史學における王安石――その基礎資料としての蔡上翔の年譜――が最もホットな研究

對象の一つとなる必然性が造り出された

そしてもともと水と油のように異質で何のつながりもなかったはずの二つの書が今日の

中國における王安石の「明妃曲」ということを考える時ひそかに固く手を結びそれぞれ全

く別の側面からこの詩を讀者に大きく接近させる重要な役割を果たしたと私には感じられる

讀書人必讀の書という地位を得た『紅樓夢』によってこの詩が――たとえそれが斷片的な形

62

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

であるにせよ――現代の讀者の目に觸れる機會は格段に增大したであろう『紅樓夢』は主に

感性の領域で讀者に訴えかけ記憶の奥處にこの詩句を留める役割を果たしたと考えられる

また王安石=偉大なる古代の革命家という評價を生み出すのに一役買った蔡上翔の書も

變革に燃える近現代中國の人々にはやはり必攜の書といえる存在であったに違いない蔡上

翔の書は主に悟性の領域で讀者に訴えかけこの詩に對するより一層の理解と關心を高める

役割を果たしたであろう

ここに私が贅言を弄した理由はむろんもっぱら現代中國の讀書界おいて王安石「明妃曲」

に一定の注目が集まったそのメカニズムを紹介するためだけではないこの二つの著作が

同時にまたこの詩に關する幾つかの根本的な問題を改めてわれわれに投げかけているからに

他ならない

すなわち第一に膨大な量を誇る王昭君文學特にその詩歌の系譜の中でこの詩のもつ意

義と位置が果たして實際に如何なるものであるのかという問題があるこの點は虛構と

いう緩衝を取り除いても『紅樓夢』の薛寶釵の指摘がなお有効であるか否かという疑問點に

關連して浮上してこよう

第二に「人生失意無南北」や「漢恩自淺胡自深」の句をどう解釋すべきかという問題が内

包されているこれは蔡上翔の辨護が果たして當を得ているか否かという疑問より派生する

問題である

本章ではつづく~の三節において主に第一の問題點について論述する第二の問題

に關してはにおいて關連する諸問題と併せて考察したい第二の問題に關連してなぜ

王安石は後世批判の對象とされることが十分豫想されながらことさらに「漢恩自淺胡自深」

というような微妙な表現を用いたのかつまり「明妃曲」製作の意圖という問題が生じてこよ

うそしてまた當時の同時代の著名文人たちは何故そうした問題を含む王安石の「明妃曲」

にこぞって唱和したのかという問題も同時に生じてこようそのような同時代的な一連の諸

問題については第三章において論じる第二第三章は前掲二つの書が明に暗に提起する

問題を端緒として上の如き一連の問題に關して私見を述べるものである

王安石「明妃曲」

本節では王安石の二首の「明妃曲」を

詩題と詩型

王昭君の故事

王安石「明妃

(1)

(2)

(3)

曲」二首注釋の三項に分けて分析する以下にまず王安石「明妃曲」の原文を掲げる

其一

其二

明妃初出漢宮時

明妃初嫁與胡兒

1

1

涙濕春風鬢脚垂

氈車百兩皆胡姫

2

2

63

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

低徊顧影無顔色

含情欲説獨無處

3

3

尚得君主不自持」

傳與琵琶心自知」

4

4

歸來却怪丹青手

黄金捍撥春風手

5

5

入眼平生幾曾有

彈看飛鴻勸胡酒

6

6

意態由來畫不成

漢宮侍女暗垂涙

7

7

當時枉殺毛延壽」

沙上行人却回首」

8

8

一去心知更不歸

漢恩自淺胡自深

9

9

可憐着盡漢宮衣

人生樂在相知心

10

10

寄聲欲問塞南事

可憐青冢已蕪沒

11

11

只有年年鴻鴈飛」

尚有哀絃留至今

12

12

家人萬里傳消息

13

好在氈城莫相憶

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

15

人生失意無南北

16

詹大和系全集本『臨川文集』では卷四龍舒系全集本『王文公文集』では卷四李壁注『王

荊文公詩箋注』では卷六に載せる右に掲載した詩の字句は中華書局香港分局刊の校點本『臨

川先生文集』(一九七一年八月詹大和系全集本)による各テキスト間の顯著な文字の異同は一

箇所のみで「其一」第

句下三字「幾曾有」を龍舒系全集および李壁注系のテキストは「未

6

曾有」に作るしかし全體の詩意を理解する上では大きな差異は生じまい

詩題と詩型

詩題の「明妃」は――前漢の元帝(劉奭在位

四九―

三三)に仕えた宮

(1)

BC

BC

女――王昭君(名は嬙〔一に牆に作る〕)のこと西晉の石崇(二四九―三)が「王明君辭并序」

を作った際晉の文帝(司馬昭武帝炎の父)の諱を避け「昭君」を「明君」と稱して以來

それが詩歌の中で王昭君の一種の別稱になりやがてまた「明妃」とも呼ばれるようになった

盛唐の李白(七一―六二)の「王昭君」其一「漢家秦地月流影照明妃」や儲光羲(七七

―六前後)の詩題「明妃曲四首」等が「明妃」の早期の用例に屬するであろう

王安石「明妃曲」は其一が計

句其二が計

句からなる七言古體の長編である押韻は

16

12

二首ともに四句ごとの換韻格そして題に「明妃曲」とあり樂府系の作品であることが明

示されているしかし郭茂倩『樂府詩集』には

王昭君を題材とする樂府が計

首收錄さ

53

れているが「明妃曲」という題の樂府は收錄されていない

前述のように盛唐の儲光羲に「明妃曲四首」(『全唐詩』卷一三九)があるが『樂府詩集』

では其三(「日暮驚沙亂雪飛~」)一首のみを收錄し樂府題は「王昭君」に作る(卷二九相和歌

辭四吟歎曲)儲光羲の「明妃曲四首」は何れも七言絕句でありさらに『樂府詩集』の分類

64

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

を加味すればこの「明妃曲」は唐代に散見する七言絕句體の「王昭君」あるいは「昭君怨」

と題する樂府と同系統の作例と判斷できるしたがって王安石の「明妃曲」に直接つながっ

ているとは考えられない結論を述べれば王安石「明妃曲」は歌行體の七言古詩と見なすの

が妥當であろう

王昭君の故事

ここで王安石「明妃曲」の解釋を圓滑に行なうため王昭君を詠ずる

(2)歴代詩歌(樂府)のもととなった故事(本事)をごく簡略に整理しておきたい王昭君悲話を題

材とする詩歌は西晉の石崇を嚆矢として六朝期より明淸に到るまで連綿と製作され續けてい

る詩歌の領域のみならず唐宋以降たとえば「昭君出塞圖」のように繪畫のモチーフとも

なったまた元の馬致遠がこの故事をもとに元曲「漢宮秋」をつくりあげたことは周知の通

りである現在も京劇をはじめ中國各地の傳統劇で王昭君を題材とする演目が演ぜられること

もあると聞くこのように王昭君説話は時代とジャンルの垣根を越え中國の文學藝術の

各分野で最も幅廣くかつまた最も根强く受け入れられた説話の一つであったといってよい

さて王昭君に關する最も早い記載は①『漢書』で卷九の元帝紀と卷九四下の匈奴傳下に

言及箇所があるこの後②傳後漢蔡邕撰『琴操』(卷下)③傳東晉葛洪撰『西京雜記』

(卷二)④『後漢書』南匈奴傳(卷八九)において取り上げられ(劉宋劉義慶『世説新語』賢媛

篇にも③を簡略にリライトした記事が載せられている)これら後漢から六朝に及ぶ早期の記述が

後世の夥しい數に上る關連作品の淵源となっている

初出文獻の①『漢書』が本來ならば後の王昭君説話および詩歌の原型となるべきところであ

るがここに記錄された事實は

(ⅰ)竟寧元年(

三三)に匈奴の呼韓邪單于が來朝しその求めに應じて後宮の昭君を

BC

單于に賜い匈奴王妃(閼氏)としたこと

(ⅱ)呼韓邪單于に嫁ぎ一男をもうけた昭君が呼韓邪亡き後次代の單于で義子でもある

復株絫若鞮單于と再婚し二女を生んだこと

の主に二點で極めて簡略な記述であるばかりか全くの客觀的叙述に撤しておりいわゆる

昭君悲話の生ずる餘地はほとんどない歴代の昭君詩の本事と考えられるのは初出の『漢書』

ではなくむしろ②と③の兩者であろう

②『琴操』は『漢書』に比べ叙述が格段に詳細であり『漢書』には存在しない新たな

プロットが相當插入されており悲劇の歴史人物としての王昭君の個性が前面に顯れ出てい

る記載は單于に嫁ぐまでを描く前段と嫁いで以後の生活を描く後段に分けられる

まず前段は『漢書』の(ⅰ)を基礎としつつも單于の入朝という形ではなくその使者

が登場するという設定に變化しているさらに一昭君が後宮に入る經緯二單于が漢

の女性を欲していると使者が元帝に傳える條三元帝がその申し出を受け宮女に向って希望

65

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

者を募り一向に寵愛を得られない昭君が自ら元帝の前に進み出て匈奴に赴くことを願い出る

條四元帝が昭君の美貌を見て單于に賜うのを大いに後悔するが匈奴に對する信用を失うの

を恐れて昭君を賜うことを決める條等大雜把に勘定しても四ヶ所が新たに加筆されている

後段では鬱々として樂しまない昭君がその思いを詩(「怨曠思惟歌」)に詠じたことが語ら

れ末尾に昭君の死(自殺)にまつわるプロットが加筆されているそしてこの末尾の昭君の

死(自殺)のプロットこそが後の昭君哀歌の重要な構成要素の一つとなっている――匈奴

の習俗では父の亡き後母を妻とした昭君は父の位を繼いだわが子に漢族として生きてゆ

くのか匈奴として生きてゆくのかを問うわが子は匈奴として生きてゆきたいと答えるそ

れを聞き昭君は失望し服毒自殺を遂げる昭君の亡骸は厚く埋葬され青草の生えぬ匈奴の

地にあってひとり昭君の塚の周圍のみ草が青々と茂っている――というのが『琴操』の末尾

の大旨である

元來『漢書』には王昭君の死(自殺)についての記述はなかっただが『琴操』では『漢

書』(ⅱ)の記載を改竄し昭君の再婚の相手を義子から實子へと置き換えることによって

自殺の積極的な動機を創り出し昭君の悲劇性を强調したわけである

③『西京雜記』ではもっぱら匈奴に赴く以前の昭君が語られ『漢書』の(ⅰ)に相當す

る部分の悲劇化が行なわれている――元帝の後宮には宮女が多く元帝は畫工に宮女の肖像

畫を描かせその繪に基づいて寵愛を賜う宮女を選んでいた一方宮女は元帝の寵愛を得る

ため少しでも自分を美しく描いてもらおうと畫工に賄賂を贈ったがひとり昭君はそれを

潔しとせずして賄賂を贈らなかったそのため日頃元帝の寵愛を得ないばかりか單于の

王妃に選ばれてしまった昭君が匈奴に赴くという段になって元帝はわが目で昭君を目にし

その美貌と立ち居振る舞いとに心を奪われるが昭君の氏素性を單于に通知した後で時すでに

遲くやむなく昭君を單于に賜った後元帝は畫工が賄賂をもらって繪圖に手心を加え巨

萬の富を蓄えていたことを知り毛延壽をはじめ宮廷畫工を處刑した――というのが③の物

語である

前述のように『琴操』においてすでにこの部分にも相當潤色が加えられ小説的虛構が

創りあげられていただが『琴操』においては昭君が單于のもとに行く直接の原因が彼女

自身の願望によると記され行動的な獨立不羈の女性として昭君の性格づけをおこなっている

當人のあずかり知らぬところで運命に翻弄され哀しい結末を迎えるという設定が悲劇の一つ

の典型と假定するならば『琴操』のこの部分は物語の悲劇化という側面からいえば著しくマ

イナスポイントとなる少なくともこれを悲劇と見なすことはためらわれよう『西京雜記』

では『琴操』のこの部分を抹消し代わりに畫圖の逸話を插入して悲劇を完成させている

④は史書という性格からか①を基本的に踏襲し②が部分的に附加されているのみであ

る①と比較した場合明らかな加筆部分は昭君自らが欲して單于に嫁いだこと義子と再婚

するに及んで昭君が元帝の子成帝に歸國を求める書を上ったが成帝はこれを許可せず

義子と再婚したことの二點である

66

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

以上四種の文獻の間にはさまざまな異同が含まれるが歴代詩歌のなかで歌われる昭君の

像は②と③によって强調された悲劇の歴史人物としての二つの像であるすなわち一つが匈

奴の習俗を受け入れることを肯ぜず自殺し夷狄の地に眠る薄幸の女性としての昭君像他の

一つが賄賂を贈らなかったがため繪師に姿を醜く描かれ單于の王妃に選ばれ匈奴に赴かざる

を得なかった悲運に弄ばれる女性としての昭君像であるこの中歴代昭君詩における言及

頻度という點からいえば後者が壓倒的に高い

王安石「明妃曲」二首注解

さてそれでは本題の王安石「明妃曲」に戻り前述の點

(3)をも踏まえつつ評釋を試みたい詩語レベルでの先行作品との繼承關係を明らかにするため

なるべく關連の先行作品に言及した

【Ⅰ-

ⅰ】

明妃初出漢宮時

明妃

初めて漢宮を出でし時

1

涙濕春風鬢脚垂

春風に濕ひて

鬢脚

垂る

2

低徊顧影無顔色

低徊して

影を顧み

顔色

無きも

3

尚得君主不自持

尚ほ君主の自ら持せざるを得たり

4

明妃が漢の宮殿を出発したその時涙は美しいかんばせを濡らし春風に吹かれ

てまげ髪はほつれ垂れさがっていた

うつむきながらたちもとおりしきりに姿を気にしはするが顔はやつれてかつ

ての輝きは失せているそれでもその美しさに皇帝はじっと平靜を保てぬほど

第一段は王昭君が漢の宮殿を出て匈奴にいざ向わんとする時の情景を描寫する

句〈漢宮〉は〈明妃〉同樣唐に入って以後昭君詩において常用されるようになっ

1

た詩語唐詩においては〈胡地〉との對で用いられることが多いたとえば初唐の沈佺期

の「王昭君」嫁來胡地惡不竝漢宮時(嫁ぎ來れば胡地惡しく漢宮の時に

せず)〔中華書局排

たぐひ

印本『全唐詩』巻九六第四册一三四頁〕や開元年間の人顧朝陽の「昭君怨」影銷胡地月

衣盡漢宮香(影は銷ゆ胡地の月衣は盡く漢宮の香)〔『全唐詩』巻一二四第四册一二三二頁〕や李白

の「王昭君」其二今日漢宮人明朝胡地妾(今日漢宮の人明朝胡地の妾)〔上海古籍出版社『李

白集校注』巻四二九八頁〕の句がある

句の「春風」は文字通り春風の意と杜甫が王昭君の郷里の村(昭君村)を詠じた時

2

に用いた「春風面」の意(美貌)とを兼ねていよう杜甫の詩は「詠懷古跡五首」其三その

頸聯に畫圖省識春風面環珮空歸夜月魂(畫圖に省ぼ識る春風の面環珮

空しく歸る

夜月の魂)〔中

華書局『杜詩詳注』卷一七〕とある

句の「低徊顧影」は『後漢書』南匈奴傳の表現を踏まえる『後漢書』では元帝が

3

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 2: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

61

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

もちろん右文は壯大な構想に立つこの長編小説にあっては取るに足らないほんの細やか

な插話の一部分にすぎないさらにまた虛構の上に立っての發言ということを考慮すればこ

の薛寶釵の言葉に作者曹雪芹の眞意がどれ程投影されているかも大いに疑問符のつくところで

あるしかしそういう懸念を差し引いても淸に至る歴代の昭君詩の中から『紅樓夢』の

作者が歐陽脩と竝んでとくに王安石のこの詩の着想を評價した點は王安石「明妃曲」の享受

史上十分に注目に値するなぜならば〈紅學〉という專門研究領域がすでに確立し多數

の〈紅迷〉なるマニアックな愛讀者が現に存在する事實に證明されるように近現代の中國に

おいてこの小説に對する關心と評價は一樣に極めて高いものであったからである『紅樓夢』

を通じてこの詩を初めて知り知らず知らずの中に『紅樓夢』に導かれてこの詩の妙味に氣が

ついた讀者も必ずや多數いたに違いない

時は同じく淸の中葉一二回本『紅樓夢』の刊行に後れること僅か一年餘(嘉慶九年〔一

八四〕)亡國の臣としばしば痛罵された同郷の先達の汚名を晴らすため蔡上翔は八八歳と

いう高齢をものともせず勞作『王荊公年譜考略』二五卷『雜錄』二卷を完成させたその

中で彼は南宋初め以來非難の絕えることなかった「明妃曲」其一末尾の「人生失意無南北」

の句および其二の第九句「漢恩自淺胡自深」について特に千數百字と筆墨を費やして王安

石を辨護し六世紀餘にわたって受けた王安石の屈辱を雪がんとしている

蔡上翔のこの書は約一世紀の後今世紀初頭近代政治思想の旗手梁啓超(一八七三―一九

二九)の筆で評傳『王荊公』となって生まれ變わった梁啓超の顯彰を經てやがて王安石の

史的重要性が公認されるとかつては一樣に惡法と見なされた新法が劃期的な先進的改革とし

て學術界の注目を集めるようになりそれがそのまま今日の王安石評價へと直結している蔡

上翔は百年の後に知己を得彼の助力によって悲願を達成したのだといえよう

ここに掲げた淸朝中葉の二つの書は一方が虛構の領域の産物であり他方は實證の世界の

それであってむろん兩者の間に直接の連關はないだが奇妙なことに淸末民國初の大きな

時代の潮流に揉まれ人々の價値觀が否應なく大きく移ろったその時に兩者はほぼ時を同じ

くして一躍脚光を浴び社會の表舞臺へと引き上げられた誨淫譏世の書というレッテルを貼

られしばしば禁書の憂き目に遭った『紅樓夢』をその藝術的價値という側面から最高級に

評價し後の〈紅學〉へと續く道を切り開いたのは王國維(一八七七―一九二七)である蔡

上翔の年譜については前述したように新しい時代を切り開き文藝界を變革に導いた梁啓超

によってそれがなされたこうして民國以後の文史研究の領域にあって文學における『紅

樓夢』史學における王安石――その基礎資料としての蔡上翔の年譜――が最もホットな研究

對象の一つとなる必然性が造り出された

そしてもともと水と油のように異質で何のつながりもなかったはずの二つの書が今日の

中國における王安石の「明妃曲」ということを考える時ひそかに固く手を結びそれぞれ全

く別の側面からこの詩を讀者に大きく接近させる重要な役割を果たしたと私には感じられる

讀書人必讀の書という地位を得た『紅樓夢』によってこの詩が――たとえそれが斷片的な形

62

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

であるにせよ――現代の讀者の目に觸れる機會は格段に增大したであろう『紅樓夢』は主に

感性の領域で讀者に訴えかけ記憶の奥處にこの詩句を留める役割を果たしたと考えられる

また王安石=偉大なる古代の革命家という評價を生み出すのに一役買った蔡上翔の書も

變革に燃える近現代中國の人々にはやはり必攜の書といえる存在であったに違いない蔡上

翔の書は主に悟性の領域で讀者に訴えかけこの詩に對するより一層の理解と關心を高める

役割を果たしたであろう

ここに私が贅言を弄した理由はむろんもっぱら現代中國の讀書界おいて王安石「明妃曲」

に一定の注目が集まったそのメカニズムを紹介するためだけではないこの二つの著作が

同時にまたこの詩に關する幾つかの根本的な問題を改めてわれわれに投げかけているからに

他ならない

すなわち第一に膨大な量を誇る王昭君文學特にその詩歌の系譜の中でこの詩のもつ意

義と位置が果たして實際に如何なるものであるのかという問題があるこの點は虛構と

いう緩衝を取り除いても『紅樓夢』の薛寶釵の指摘がなお有効であるか否かという疑問點に

關連して浮上してこよう

第二に「人生失意無南北」や「漢恩自淺胡自深」の句をどう解釋すべきかという問題が内

包されているこれは蔡上翔の辨護が果たして當を得ているか否かという疑問より派生する

問題である

本章ではつづく~の三節において主に第一の問題點について論述する第二の問題

に關してはにおいて關連する諸問題と併せて考察したい第二の問題に關連してなぜ

王安石は後世批判の對象とされることが十分豫想されながらことさらに「漢恩自淺胡自深」

というような微妙な表現を用いたのかつまり「明妃曲」製作の意圖という問題が生じてこよ

うそしてまた當時の同時代の著名文人たちは何故そうした問題を含む王安石の「明妃曲」

にこぞって唱和したのかという問題も同時に生じてこようそのような同時代的な一連の諸

問題については第三章において論じる第二第三章は前掲二つの書が明に暗に提起する

問題を端緒として上の如き一連の問題に關して私見を述べるものである

王安石「明妃曲」

本節では王安石の二首の「明妃曲」を

詩題と詩型

王昭君の故事

王安石「明妃

(1)

(2)

(3)

曲」二首注釋の三項に分けて分析する以下にまず王安石「明妃曲」の原文を掲げる

其一

其二

明妃初出漢宮時

明妃初嫁與胡兒

1

1

涙濕春風鬢脚垂

氈車百兩皆胡姫

2

2

63

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

低徊顧影無顔色

含情欲説獨無處

3

3

尚得君主不自持」

傳與琵琶心自知」

4

4

歸來却怪丹青手

黄金捍撥春風手

5

5

入眼平生幾曾有

彈看飛鴻勸胡酒

6

6

意態由來畫不成

漢宮侍女暗垂涙

7

7

當時枉殺毛延壽」

沙上行人却回首」

8

8

一去心知更不歸

漢恩自淺胡自深

9

9

可憐着盡漢宮衣

人生樂在相知心

10

10

寄聲欲問塞南事

可憐青冢已蕪沒

11

11

只有年年鴻鴈飛」

尚有哀絃留至今

12

12

家人萬里傳消息

13

好在氈城莫相憶

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

15

人生失意無南北

16

詹大和系全集本『臨川文集』では卷四龍舒系全集本『王文公文集』では卷四李壁注『王

荊文公詩箋注』では卷六に載せる右に掲載した詩の字句は中華書局香港分局刊の校點本『臨

川先生文集』(一九七一年八月詹大和系全集本)による各テキスト間の顯著な文字の異同は一

箇所のみで「其一」第

句下三字「幾曾有」を龍舒系全集および李壁注系のテキストは「未

6

曾有」に作るしかし全體の詩意を理解する上では大きな差異は生じまい

詩題と詩型

詩題の「明妃」は――前漢の元帝(劉奭在位

四九―

三三)に仕えた宮

(1)

BC

BC

女――王昭君(名は嬙〔一に牆に作る〕)のこと西晉の石崇(二四九―三)が「王明君辭并序」

を作った際晉の文帝(司馬昭武帝炎の父)の諱を避け「昭君」を「明君」と稱して以來

それが詩歌の中で王昭君の一種の別稱になりやがてまた「明妃」とも呼ばれるようになった

盛唐の李白(七一―六二)の「王昭君」其一「漢家秦地月流影照明妃」や儲光羲(七七

―六前後)の詩題「明妃曲四首」等が「明妃」の早期の用例に屬するであろう

王安石「明妃曲」は其一が計

句其二が計

句からなる七言古體の長編である押韻は

16

12

二首ともに四句ごとの換韻格そして題に「明妃曲」とあり樂府系の作品であることが明

示されているしかし郭茂倩『樂府詩集』には

王昭君を題材とする樂府が計

首收錄さ

53

れているが「明妃曲」という題の樂府は收錄されていない

前述のように盛唐の儲光羲に「明妃曲四首」(『全唐詩』卷一三九)があるが『樂府詩集』

では其三(「日暮驚沙亂雪飛~」)一首のみを收錄し樂府題は「王昭君」に作る(卷二九相和歌

辭四吟歎曲)儲光羲の「明妃曲四首」は何れも七言絕句でありさらに『樂府詩集』の分類

64

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

を加味すればこの「明妃曲」は唐代に散見する七言絕句體の「王昭君」あるいは「昭君怨」

と題する樂府と同系統の作例と判斷できるしたがって王安石の「明妃曲」に直接つながっ

ているとは考えられない結論を述べれば王安石「明妃曲」は歌行體の七言古詩と見なすの

が妥當であろう

王昭君の故事

ここで王安石「明妃曲」の解釋を圓滑に行なうため王昭君を詠ずる

(2)歴代詩歌(樂府)のもととなった故事(本事)をごく簡略に整理しておきたい王昭君悲話を題

材とする詩歌は西晉の石崇を嚆矢として六朝期より明淸に到るまで連綿と製作され續けてい

る詩歌の領域のみならず唐宋以降たとえば「昭君出塞圖」のように繪畫のモチーフとも

なったまた元の馬致遠がこの故事をもとに元曲「漢宮秋」をつくりあげたことは周知の通

りである現在も京劇をはじめ中國各地の傳統劇で王昭君を題材とする演目が演ぜられること

もあると聞くこのように王昭君説話は時代とジャンルの垣根を越え中國の文學藝術の

各分野で最も幅廣くかつまた最も根强く受け入れられた説話の一つであったといってよい

さて王昭君に關する最も早い記載は①『漢書』で卷九の元帝紀と卷九四下の匈奴傳下に

言及箇所があるこの後②傳後漢蔡邕撰『琴操』(卷下)③傳東晉葛洪撰『西京雜記』

(卷二)④『後漢書』南匈奴傳(卷八九)において取り上げられ(劉宋劉義慶『世説新語』賢媛

篇にも③を簡略にリライトした記事が載せられている)これら後漢から六朝に及ぶ早期の記述が

後世の夥しい數に上る關連作品の淵源となっている

初出文獻の①『漢書』が本來ならば後の王昭君説話および詩歌の原型となるべきところであ

るがここに記錄された事實は

(ⅰ)竟寧元年(

三三)に匈奴の呼韓邪單于が來朝しその求めに應じて後宮の昭君を

BC

單于に賜い匈奴王妃(閼氏)としたこと

(ⅱ)呼韓邪單于に嫁ぎ一男をもうけた昭君が呼韓邪亡き後次代の單于で義子でもある

復株絫若鞮單于と再婚し二女を生んだこと

の主に二點で極めて簡略な記述であるばかりか全くの客觀的叙述に撤しておりいわゆる

昭君悲話の生ずる餘地はほとんどない歴代の昭君詩の本事と考えられるのは初出の『漢書』

ではなくむしろ②と③の兩者であろう

②『琴操』は『漢書』に比べ叙述が格段に詳細であり『漢書』には存在しない新たな

プロットが相當插入されており悲劇の歴史人物としての王昭君の個性が前面に顯れ出てい

る記載は單于に嫁ぐまでを描く前段と嫁いで以後の生活を描く後段に分けられる

まず前段は『漢書』の(ⅰ)を基礎としつつも單于の入朝という形ではなくその使者

が登場するという設定に變化しているさらに一昭君が後宮に入る經緯二單于が漢

の女性を欲していると使者が元帝に傳える條三元帝がその申し出を受け宮女に向って希望

65

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

者を募り一向に寵愛を得られない昭君が自ら元帝の前に進み出て匈奴に赴くことを願い出る

條四元帝が昭君の美貌を見て單于に賜うのを大いに後悔するが匈奴に對する信用を失うの

を恐れて昭君を賜うことを決める條等大雜把に勘定しても四ヶ所が新たに加筆されている

後段では鬱々として樂しまない昭君がその思いを詩(「怨曠思惟歌」)に詠じたことが語ら

れ末尾に昭君の死(自殺)にまつわるプロットが加筆されているそしてこの末尾の昭君の

死(自殺)のプロットこそが後の昭君哀歌の重要な構成要素の一つとなっている――匈奴

の習俗では父の亡き後母を妻とした昭君は父の位を繼いだわが子に漢族として生きてゆ

くのか匈奴として生きてゆくのかを問うわが子は匈奴として生きてゆきたいと答えるそ

れを聞き昭君は失望し服毒自殺を遂げる昭君の亡骸は厚く埋葬され青草の生えぬ匈奴の

地にあってひとり昭君の塚の周圍のみ草が青々と茂っている――というのが『琴操』の末尾

の大旨である

元來『漢書』には王昭君の死(自殺)についての記述はなかっただが『琴操』では『漢

書』(ⅱ)の記載を改竄し昭君の再婚の相手を義子から實子へと置き換えることによって

自殺の積極的な動機を創り出し昭君の悲劇性を强調したわけである

③『西京雜記』ではもっぱら匈奴に赴く以前の昭君が語られ『漢書』の(ⅰ)に相當す

る部分の悲劇化が行なわれている――元帝の後宮には宮女が多く元帝は畫工に宮女の肖像

畫を描かせその繪に基づいて寵愛を賜う宮女を選んでいた一方宮女は元帝の寵愛を得る

ため少しでも自分を美しく描いてもらおうと畫工に賄賂を贈ったがひとり昭君はそれを

潔しとせずして賄賂を贈らなかったそのため日頃元帝の寵愛を得ないばかりか單于の

王妃に選ばれてしまった昭君が匈奴に赴くという段になって元帝はわが目で昭君を目にし

その美貌と立ち居振る舞いとに心を奪われるが昭君の氏素性を單于に通知した後で時すでに

遲くやむなく昭君を單于に賜った後元帝は畫工が賄賂をもらって繪圖に手心を加え巨

萬の富を蓄えていたことを知り毛延壽をはじめ宮廷畫工を處刑した――というのが③の物

語である

前述のように『琴操』においてすでにこの部分にも相當潤色が加えられ小説的虛構が

創りあげられていただが『琴操』においては昭君が單于のもとに行く直接の原因が彼女

自身の願望によると記され行動的な獨立不羈の女性として昭君の性格づけをおこなっている

當人のあずかり知らぬところで運命に翻弄され哀しい結末を迎えるという設定が悲劇の一つ

の典型と假定するならば『琴操』のこの部分は物語の悲劇化という側面からいえば著しくマ

イナスポイントとなる少なくともこれを悲劇と見なすことはためらわれよう『西京雜記』

では『琴操』のこの部分を抹消し代わりに畫圖の逸話を插入して悲劇を完成させている

④は史書という性格からか①を基本的に踏襲し②が部分的に附加されているのみであ

る①と比較した場合明らかな加筆部分は昭君自らが欲して單于に嫁いだこと義子と再婚

するに及んで昭君が元帝の子成帝に歸國を求める書を上ったが成帝はこれを許可せず

義子と再婚したことの二點である

66

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

以上四種の文獻の間にはさまざまな異同が含まれるが歴代詩歌のなかで歌われる昭君の

像は②と③によって强調された悲劇の歴史人物としての二つの像であるすなわち一つが匈

奴の習俗を受け入れることを肯ぜず自殺し夷狄の地に眠る薄幸の女性としての昭君像他の

一つが賄賂を贈らなかったがため繪師に姿を醜く描かれ單于の王妃に選ばれ匈奴に赴かざる

を得なかった悲運に弄ばれる女性としての昭君像であるこの中歴代昭君詩における言及

頻度という點からいえば後者が壓倒的に高い

王安石「明妃曲」二首注解

さてそれでは本題の王安石「明妃曲」に戻り前述の點

(3)をも踏まえつつ評釋を試みたい詩語レベルでの先行作品との繼承關係を明らかにするため

なるべく關連の先行作品に言及した

【Ⅰ-

ⅰ】

明妃初出漢宮時

明妃

初めて漢宮を出でし時

1

涙濕春風鬢脚垂

春風に濕ひて

鬢脚

垂る

2

低徊顧影無顔色

低徊して

影を顧み

顔色

無きも

3

尚得君主不自持

尚ほ君主の自ら持せざるを得たり

4

明妃が漢の宮殿を出発したその時涙は美しいかんばせを濡らし春風に吹かれ

てまげ髪はほつれ垂れさがっていた

うつむきながらたちもとおりしきりに姿を気にしはするが顔はやつれてかつ

ての輝きは失せているそれでもその美しさに皇帝はじっと平靜を保てぬほど

第一段は王昭君が漢の宮殿を出て匈奴にいざ向わんとする時の情景を描寫する

句〈漢宮〉は〈明妃〉同樣唐に入って以後昭君詩において常用されるようになっ

1

た詩語唐詩においては〈胡地〉との對で用いられることが多いたとえば初唐の沈佺期

の「王昭君」嫁來胡地惡不竝漢宮時(嫁ぎ來れば胡地惡しく漢宮の時に

せず)〔中華書局排

たぐひ

印本『全唐詩』巻九六第四册一三四頁〕や開元年間の人顧朝陽の「昭君怨」影銷胡地月

衣盡漢宮香(影は銷ゆ胡地の月衣は盡く漢宮の香)〔『全唐詩』巻一二四第四册一二三二頁〕や李白

の「王昭君」其二今日漢宮人明朝胡地妾(今日漢宮の人明朝胡地の妾)〔上海古籍出版社『李

白集校注』巻四二九八頁〕の句がある

句の「春風」は文字通り春風の意と杜甫が王昭君の郷里の村(昭君村)を詠じた時

2

に用いた「春風面」の意(美貌)とを兼ねていよう杜甫の詩は「詠懷古跡五首」其三その

頸聯に畫圖省識春風面環珮空歸夜月魂(畫圖に省ぼ識る春風の面環珮

空しく歸る

夜月の魂)〔中

華書局『杜詩詳注』卷一七〕とある

句の「低徊顧影」は『後漢書』南匈奴傳の表現を踏まえる『後漢書』では元帝が

3

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 3: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

62

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

であるにせよ――現代の讀者の目に觸れる機會は格段に增大したであろう『紅樓夢』は主に

感性の領域で讀者に訴えかけ記憶の奥處にこの詩句を留める役割を果たしたと考えられる

また王安石=偉大なる古代の革命家という評價を生み出すのに一役買った蔡上翔の書も

變革に燃える近現代中國の人々にはやはり必攜の書といえる存在であったに違いない蔡上

翔の書は主に悟性の領域で讀者に訴えかけこの詩に對するより一層の理解と關心を高める

役割を果たしたであろう

ここに私が贅言を弄した理由はむろんもっぱら現代中國の讀書界おいて王安石「明妃曲」

に一定の注目が集まったそのメカニズムを紹介するためだけではないこの二つの著作が

同時にまたこの詩に關する幾つかの根本的な問題を改めてわれわれに投げかけているからに

他ならない

すなわち第一に膨大な量を誇る王昭君文學特にその詩歌の系譜の中でこの詩のもつ意

義と位置が果たして實際に如何なるものであるのかという問題があるこの點は虛構と

いう緩衝を取り除いても『紅樓夢』の薛寶釵の指摘がなお有効であるか否かという疑問點に

關連して浮上してこよう

第二に「人生失意無南北」や「漢恩自淺胡自深」の句をどう解釋すべきかという問題が内

包されているこれは蔡上翔の辨護が果たして當を得ているか否かという疑問より派生する

問題である

本章ではつづく~の三節において主に第一の問題點について論述する第二の問題

に關してはにおいて關連する諸問題と併せて考察したい第二の問題に關連してなぜ

王安石は後世批判の對象とされることが十分豫想されながらことさらに「漢恩自淺胡自深」

というような微妙な表現を用いたのかつまり「明妃曲」製作の意圖という問題が生じてこよ

うそしてまた當時の同時代の著名文人たちは何故そうした問題を含む王安石の「明妃曲」

にこぞって唱和したのかという問題も同時に生じてこようそのような同時代的な一連の諸

問題については第三章において論じる第二第三章は前掲二つの書が明に暗に提起する

問題を端緒として上の如き一連の問題に關して私見を述べるものである

王安石「明妃曲」

本節では王安石の二首の「明妃曲」を

詩題と詩型

王昭君の故事

王安石「明妃

(1)

(2)

(3)

曲」二首注釋の三項に分けて分析する以下にまず王安石「明妃曲」の原文を掲げる

其一

其二

明妃初出漢宮時

明妃初嫁與胡兒

1

1

涙濕春風鬢脚垂

氈車百兩皆胡姫

2

2

63

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

低徊顧影無顔色

含情欲説獨無處

3

3

尚得君主不自持」

傳與琵琶心自知」

4

4

歸來却怪丹青手

黄金捍撥春風手

5

5

入眼平生幾曾有

彈看飛鴻勸胡酒

6

6

意態由來畫不成

漢宮侍女暗垂涙

7

7

當時枉殺毛延壽」

沙上行人却回首」

8

8

一去心知更不歸

漢恩自淺胡自深

9

9

可憐着盡漢宮衣

人生樂在相知心

10

10

寄聲欲問塞南事

可憐青冢已蕪沒

11

11

只有年年鴻鴈飛」

尚有哀絃留至今

12

12

家人萬里傳消息

13

好在氈城莫相憶

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

15

人生失意無南北

16

詹大和系全集本『臨川文集』では卷四龍舒系全集本『王文公文集』では卷四李壁注『王

荊文公詩箋注』では卷六に載せる右に掲載した詩の字句は中華書局香港分局刊の校點本『臨

川先生文集』(一九七一年八月詹大和系全集本)による各テキスト間の顯著な文字の異同は一

箇所のみで「其一」第

句下三字「幾曾有」を龍舒系全集および李壁注系のテキストは「未

6

曾有」に作るしかし全體の詩意を理解する上では大きな差異は生じまい

詩題と詩型

詩題の「明妃」は――前漢の元帝(劉奭在位

四九―

三三)に仕えた宮

(1)

BC

BC

女――王昭君(名は嬙〔一に牆に作る〕)のこと西晉の石崇(二四九―三)が「王明君辭并序」

を作った際晉の文帝(司馬昭武帝炎の父)の諱を避け「昭君」を「明君」と稱して以來

それが詩歌の中で王昭君の一種の別稱になりやがてまた「明妃」とも呼ばれるようになった

盛唐の李白(七一―六二)の「王昭君」其一「漢家秦地月流影照明妃」や儲光羲(七七

―六前後)の詩題「明妃曲四首」等が「明妃」の早期の用例に屬するであろう

王安石「明妃曲」は其一が計

句其二が計

句からなる七言古體の長編である押韻は

16

12

二首ともに四句ごとの換韻格そして題に「明妃曲」とあり樂府系の作品であることが明

示されているしかし郭茂倩『樂府詩集』には

王昭君を題材とする樂府が計

首收錄さ

53

れているが「明妃曲」という題の樂府は收錄されていない

前述のように盛唐の儲光羲に「明妃曲四首」(『全唐詩』卷一三九)があるが『樂府詩集』

では其三(「日暮驚沙亂雪飛~」)一首のみを收錄し樂府題は「王昭君」に作る(卷二九相和歌

辭四吟歎曲)儲光羲の「明妃曲四首」は何れも七言絕句でありさらに『樂府詩集』の分類

64

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

を加味すればこの「明妃曲」は唐代に散見する七言絕句體の「王昭君」あるいは「昭君怨」

と題する樂府と同系統の作例と判斷できるしたがって王安石の「明妃曲」に直接つながっ

ているとは考えられない結論を述べれば王安石「明妃曲」は歌行體の七言古詩と見なすの

が妥當であろう

王昭君の故事

ここで王安石「明妃曲」の解釋を圓滑に行なうため王昭君を詠ずる

(2)歴代詩歌(樂府)のもととなった故事(本事)をごく簡略に整理しておきたい王昭君悲話を題

材とする詩歌は西晉の石崇を嚆矢として六朝期より明淸に到るまで連綿と製作され續けてい

る詩歌の領域のみならず唐宋以降たとえば「昭君出塞圖」のように繪畫のモチーフとも

なったまた元の馬致遠がこの故事をもとに元曲「漢宮秋」をつくりあげたことは周知の通

りである現在も京劇をはじめ中國各地の傳統劇で王昭君を題材とする演目が演ぜられること

もあると聞くこのように王昭君説話は時代とジャンルの垣根を越え中國の文學藝術の

各分野で最も幅廣くかつまた最も根强く受け入れられた説話の一つであったといってよい

さて王昭君に關する最も早い記載は①『漢書』で卷九の元帝紀と卷九四下の匈奴傳下に

言及箇所があるこの後②傳後漢蔡邕撰『琴操』(卷下)③傳東晉葛洪撰『西京雜記』

(卷二)④『後漢書』南匈奴傳(卷八九)において取り上げられ(劉宋劉義慶『世説新語』賢媛

篇にも③を簡略にリライトした記事が載せられている)これら後漢から六朝に及ぶ早期の記述が

後世の夥しい數に上る關連作品の淵源となっている

初出文獻の①『漢書』が本來ならば後の王昭君説話および詩歌の原型となるべきところであ

るがここに記錄された事實は

(ⅰ)竟寧元年(

三三)に匈奴の呼韓邪單于が來朝しその求めに應じて後宮の昭君を

BC

單于に賜い匈奴王妃(閼氏)としたこと

(ⅱ)呼韓邪單于に嫁ぎ一男をもうけた昭君が呼韓邪亡き後次代の單于で義子でもある

復株絫若鞮單于と再婚し二女を生んだこと

の主に二點で極めて簡略な記述であるばかりか全くの客觀的叙述に撤しておりいわゆる

昭君悲話の生ずる餘地はほとんどない歴代の昭君詩の本事と考えられるのは初出の『漢書』

ではなくむしろ②と③の兩者であろう

②『琴操』は『漢書』に比べ叙述が格段に詳細であり『漢書』には存在しない新たな

プロットが相當插入されており悲劇の歴史人物としての王昭君の個性が前面に顯れ出てい

る記載は單于に嫁ぐまでを描く前段と嫁いで以後の生活を描く後段に分けられる

まず前段は『漢書』の(ⅰ)を基礎としつつも單于の入朝という形ではなくその使者

が登場するという設定に變化しているさらに一昭君が後宮に入る經緯二單于が漢

の女性を欲していると使者が元帝に傳える條三元帝がその申し出を受け宮女に向って希望

65

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

者を募り一向に寵愛を得られない昭君が自ら元帝の前に進み出て匈奴に赴くことを願い出る

條四元帝が昭君の美貌を見て單于に賜うのを大いに後悔するが匈奴に對する信用を失うの

を恐れて昭君を賜うことを決める條等大雜把に勘定しても四ヶ所が新たに加筆されている

後段では鬱々として樂しまない昭君がその思いを詩(「怨曠思惟歌」)に詠じたことが語ら

れ末尾に昭君の死(自殺)にまつわるプロットが加筆されているそしてこの末尾の昭君の

死(自殺)のプロットこそが後の昭君哀歌の重要な構成要素の一つとなっている――匈奴

の習俗では父の亡き後母を妻とした昭君は父の位を繼いだわが子に漢族として生きてゆ

くのか匈奴として生きてゆくのかを問うわが子は匈奴として生きてゆきたいと答えるそ

れを聞き昭君は失望し服毒自殺を遂げる昭君の亡骸は厚く埋葬され青草の生えぬ匈奴の

地にあってひとり昭君の塚の周圍のみ草が青々と茂っている――というのが『琴操』の末尾

の大旨である

元來『漢書』には王昭君の死(自殺)についての記述はなかっただが『琴操』では『漢

書』(ⅱ)の記載を改竄し昭君の再婚の相手を義子から實子へと置き換えることによって

自殺の積極的な動機を創り出し昭君の悲劇性を强調したわけである

③『西京雜記』ではもっぱら匈奴に赴く以前の昭君が語られ『漢書』の(ⅰ)に相當す

る部分の悲劇化が行なわれている――元帝の後宮には宮女が多く元帝は畫工に宮女の肖像

畫を描かせその繪に基づいて寵愛を賜う宮女を選んでいた一方宮女は元帝の寵愛を得る

ため少しでも自分を美しく描いてもらおうと畫工に賄賂を贈ったがひとり昭君はそれを

潔しとせずして賄賂を贈らなかったそのため日頃元帝の寵愛を得ないばかりか單于の

王妃に選ばれてしまった昭君が匈奴に赴くという段になって元帝はわが目で昭君を目にし

その美貌と立ち居振る舞いとに心を奪われるが昭君の氏素性を單于に通知した後で時すでに

遲くやむなく昭君を單于に賜った後元帝は畫工が賄賂をもらって繪圖に手心を加え巨

萬の富を蓄えていたことを知り毛延壽をはじめ宮廷畫工を處刑した――というのが③の物

語である

前述のように『琴操』においてすでにこの部分にも相當潤色が加えられ小説的虛構が

創りあげられていただが『琴操』においては昭君が單于のもとに行く直接の原因が彼女

自身の願望によると記され行動的な獨立不羈の女性として昭君の性格づけをおこなっている

當人のあずかり知らぬところで運命に翻弄され哀しい結末を迎えるという設定が悲劇の一つ

の典型と假定するならば『琴操』のこの部分は物語の悲劇化という側面からいえば著しくマ

イナスポイントとなる少なくともこれを悲劇と見なすことはためらわれよう『西京雜記』

では『琴操』のこの部分を抹消し代わりに畫圖の逸話を插入して悲劇を完成させている

④は史書という性格からか①を基本的に踏襲し②が部分的に附加されているのみであ

る①と比較した場合明らかな加筆部分は昭君自らが欲して單于に嫁いだこと義子と再婚

するに及んで昭君が元帝の子成帝に歸國を求める書を上ったが成帝はこれを許可せず

義子と再婚したことの二點である

66

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

以上四種の文獻の間にはさまざまな異同が含まれるが歴代詩歌のなかで歌われる昭君の

像は②と③によって强調された悲劇の歴史人物としての二つの像であるすなわち一つが匈

奴の習俗を受け入れることを肯ぜず自殺し夷狄の地に眠る薄幸の女性としての昭君像他の

一つが賄賂を贈らなかったがため繪師に姿を醜く描かれ單于の王妃に選ばれ匈奴に赴かざる

を得なかった悲運に弄ばれる女性としての昭君像であるこの中歴代昭君詩における言及

頻度という點からいえば後者が壓倒的に高い

王安石「明妃曲」二首注解

さてそれでは本題の王安石「明妃曲」に戻り前述の點

(3)をも踏まえつつ評釋を試みたい詩語レベルでの先行作品との繼承關係を明らかにするため

なるべく關連の先行作品に言及した

【Ⅰ-

ⅰ】

明妃初出漢宮時

明妃

初めて漢宮を出でし時

1

涙濕春風鬢脚垂

春風に濕ひて

鬢脚

垂る

2

低徊顧影無顔色

低徊して

影を顧み

顔色

無きも

3

尚得君主不自持

尚ほ君主の自ら持せざるを得たり

4

明妃が漢の宮殿を出発したその時涙は美しいかんばせを濡らし春風に吹かれ

てまげ髪はほつれ垂れさがっていた

うつむきながらたちもとおりしきりに姿を気にしはするが顔はやつれてかつ

ての輝きは失せているそれでもその美しさに皇帝はじっと平靜を保てぬほど

第一段は王昭君が漢の宮殿を出て匈奴にいざ向わんとする時の情景を描寫する

句〈漢宮〉は〈明妃〉同樣唐に入って以後昭君詩において常用されるようになっ

1

た詩語唐詩においては〈胡地〉との對で用いられることが多いたとえば初唐の沈佺期

の「王昭君」嫁來胡地惡不竝漢宮時(嫁ぎ來れば胡地惡しく漢宮の時に

せず)〔中華書局排

たぐひ

印本『全唐詩』巻九六第四册一三四頁〕や開元年間の人顧朝陽の「昭君怨」影銷胡地月

衣盡漢宮香(影は銷ゆ胡地の月衣は盡く漢宮の香)〔『全唐詩』巻一二四第四册一二三二頁〕や李白

の「王昭君」其二今日漢宮人明朝胡地妾(今日漢宮の人明朝胡地の妾)〔上海古籍出版社『李

白集校注』巻四二九八頁〕の句がある

句の「春風」は文字通り春風の意と杜甫が王昭君の郷里の村(昭君村)を詠じた時

2

に用いた「春風面」の意(美貌)とを兼ねていよう杜甫の詩は「詠懷古跡五首」其三その

頸聯に畫圖省識春風面環珮空歸夜月魂(畫圖に省ぼ識る春風の面環珮

空しく歸る

夜月の魂)〔中

華書局『杜詩詳注』卷一七〕とある

句の「低徊顧影」は『後漢書』南匈奴傳の表現を踏まえる『後漢書』では元帝が

3

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 4: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

63

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

低徊顧影無顔色

含情欲説獨無處

3

3

尚得君主不自持」

傳與琵琶心自知」

4

4

歸來却怪丹青手

黄金捍撥春風手

5

5

入眼平生幾曾有

彈看飛鴻勸胡酒

6

6

意態由來畫不成

漢宮侍女暗垂涙

7

7

當時枉殺毛延壽」

沙上行人却回首」

8

8

一去心知更不歸

漢恩自淺胡自深

9

9

可憐着盡漢宮衣

人生樂在相知心

10

10

寄聲欲問塞南事

可憐青冢已蕪沒

11

11

只有年年鴻鴈飛」

尚有哀絃留至今

12

12

家人萬里傳消息

13

好在氈城莫相憶

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

15

人生失意無南北

16

詹大和系全集本『臨川文集』では卷四龍舒系全集本『王文公文集』では卷四李壁注『王

荊文公詩箋注』では卷六に載せる右に掲載した詩の字句は中華書局香港分局刊の校點本『臨

川先生文集』(一九七一年八月詹大和系全集本)による各テキスト間の顯著な文字の異同は一

箇所のみで「其一」第

句下三字「幾曾有」を龍舒系全集および李壁注系のテキストは「未

6

曾有」に作るしかし全體の詩意を理解する上では大きな差異は生じまい

詩題と詩型

詩題の「明妃」は――前漢の元帝(劉奭在位

四九―

三三)に仕えた宮

(1)

BC

BC

女――王昭君(名は嬙〔一に牆に作る〕)のこと西晉の石崇(二四九―三)が「王明君辭并序」

を作った際晉の文帝(司馬昭武帝炎の父)の諱を避け「昭君」を「明君」と稱して以來

それが詩歌の中で王昭君の一種の別稱になりやがてまた「明妃」とも呼ばれるようになった

盛唐の李白(七一―六二)の「王昭君」其一「漢家秦地月流影照明妃」や儲光羲(七七

―六前後)の詩題「明妃曲四首」等が「明妃」の早期の用例に屬するであろう

王安石「明妃曲」は其一が計

句其二が計

句からなる七言古體の長編である押韻は

16

12

二首ともに四句ごとの換韻格そして題に「明妃曲」とあり樂府系の作品であることが明

示されているしかし郭茂倩『樂府詩集』には

王昭君を題材とする樂府が計

首收錄さ

53

れているが「明妃曲」という題の樂府は收錄されていない

前述のように盛唐の儲光羲に「明妃曲四首」(『全唐詩』卷一三九)があるが『樂府詩集』

では其三(「日暮驚沙亂雪飛~」)一首のみを收錄し樂府題は「王昭君」に作る(卷二九相和歌

辭四吟歎曲)儲光羲の「明妃曲四首」は何れも七言絕句でありさらに『樂府詩集』の分類

64

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

を加味すればこの「明妃曲」は唐代に散見する七言絕句體の「王昭君」あるいは「昭君怨」

と題する樂府と同系統の作例と判斷できるしたがって王安石の「明妃曲」に直接つながっ

ているとは考えられない結論を述べれば王安石「明妃曲」は歌行體の七言古詩と見なすの

が妥當であろう

王昭君の故事

ここで王安石「明妃曲」の解釋を圓滑に行なうため王昭君を詠ずる

(2)歴代詩歌(樂府)のもととなった故事(本事)をごく簡略に整理しておきたい王昭君悲話を題

材とする詩歌は西晉の石崇を嚆矢として六朝期より明淸に到るまで連綿と製作され續けてい

る詩歌の領域のみならず唐宋以降たとえば「昭君出塞圖」のように繪畫のモチーフとも

なったまた元の馬致遠がこの故事をもとに元曲「漢宮秋」をつくりあげたことは周知の通

りである現在も京劇をはじめ中國各地の傳統劇で王昭君を題材とする演目が演ぜられること

もあると聞くこのように王昭君説話は時代とジャンルの垣根を越え中國の文學藝術の

各分野で最も幅廣くかつまた最も根强く受け入れられた説話の一つであったといってよい

さて王昭君に關する最も早い記載は①『漢書』で卷九の元帝紀と卷九四下の匈奴傳下に

言及箇所があるこの後②傳後漢蔡邕撰『琴操』(卷下)③傳東晉葛洪撰『西京雜記』

(卷二)④『後漢書』南匈奴傳(卷八九)において取り上げられ(劉宋劉義慶『世説新語』賢媛

篇にも③を簡略にリライトした記事が載せられている)これら後漢から六朝に及ぶ早期の記述が

後世の夥しい數に上る關連作品の淵源となっている

初出文獻の①『漢書』が本來ならば後の王昭君説話および詩歌の原型となるべきところであ

るがここに記錄された事實は

(ⅰ)竟寧元年(

三三)に匈奴の呼韓邪單于が來朝しその求めに應じて後宮の昭君を

BC

單于に賜い匈奴王妃(閼氏)としたこと

(ⅱ)呼韓邪單于に嫁ぎ一男をもうけた昭君が呼韓邪亡き後次代の單于で義子でもある

復株絫若鞮單于と再婚し二女を生んだこと

の主に二點で極めて簡略な記述であるばかりか全くの客觀的叙述に撤しておりいわゆる

昭君悲話の生ずる餘地はほとんどない歴代の昭君詩の本事と考えられるのは初出の『漢書』

ではなくむしろ②と③の兩者であろう

②『琴操』は『漢書』に比べ叙述が格段に詳細であり『漢書』には存在しない新たな

プロットが相當插入されており悲劇の歴史人物としての王昭君の個性が前面に顯れ出てい

る記載は單于に嫁ぐまでを描く前段と嫁いで以後の生活を描く後段に分けられる

まず前段は『漢書』の(ⅰ)を基礎としつつも單于の入朝という形ではなくその使者

が登場するという設定に變化しているさらに一昭君が後宮に入る經緯二單于が漢

の女性を欲していると使者が元帝に傳える條三元帝がその申し出を受け宮女に向って希望

65

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

者を募り一向に寵愛を得られない昭君が自ら元帝の前に進み出て匈奴に赴くことを願い出る

條四元帝が昭君の美貌を見て單于に賜うのを大いに後悔するが匈奴に對する信用を失うの

を恐れて昭君を賜うことを決める條等大雜把に勘定しても四ヶ所が新たに加筆されている

後段では鬱々として樂しまない昭君がその思いを詩(「怨曠思惟歌」)に詠じたことが語ら

れ末尾に昭君の死(自殺)にまつわるプロットが加筆されているそしてこの末尾の昭君の

死(自殺)のプロットこそが後の昭君哀歌の重要な構成要素の一つとなっている――匈奴

の習俗では父の亡き後母を妻とした昭君は父の位を繼いだわが子に漢族として生きてゆ

くのか匈奴として生きてゆくのかを問うわが子は匈奴として生きてゆきたいと答えるそ

れを聞き昭君は失望し服毒自殺を遂げる昭君の亡骸は厚く埋葬され青草の生えぬ匈奴の

地にあってひとり昭君の塚の周圍のみ草が青々と茂っている――というのが『琴操』の末尾

の大旨である

元來『漢書』には王昭君の死(自殺)についての記述はなかっただが『琴操』では『漢

書』(ⅱ)の記載を改竄し昭君の再婚の相手を義子から實子へと置き換えることによって

自殺の積極的な動機を創り出し昭君の悲劇性を强調したわけである

③『西京雜記』ではもっぱら匈奴に赴く以前の昭君が語られ『漢書』の(ⅰ)に相當す

る部分の悲劇化が行なわれている――元帝の後宮には宮女が多く元帝は畫工に宮女の肖像

畫を描かせその繪に基づいて寵愛を賜う宮女を選んでいた一方宮女は元帝の寵愛を得る

ため少しでも自分を美しく描いてもらおうと畫工に賄賂を贈ったがひとり昭君はそれを

潔しとせずして賄賂を贈らなかったそのため日頃元帝の寵愛を得ないばかりか單于の

王妃に選ばれてしまった昭君が匈奴に赴くという段になって元帝はわが目で昭君を目にし

その美貌と立ち居振る舞いとに心を奪われるが昭君の氏素性を單于に通知した後で時すでに

遲くやむなく昭君を單于に賜った後元帝は畫工が賄賂をもらって繪圖に手心を加え巨

萬の富を蓄えていたことを知り毛延壽をはじめ宮廷畫工を處刑した――というのが③の物

語である

前述のように『琴操』においてすでにこの部分にも相當潤色が加えられ小説的虛構が

創りあげられていただが『琴操』においては昭君が單于のもとに行く直接の原因が彼女

自身の願望によると記され行動的な獨立不羈の女性として昭君の性格づけをおこなっている

當人のあずかり知らぬところで運命に翻弄され哀しい結末を迎えるという設定が悲劇の一つ

の典型と假定するならば『琴操』のこの部分は物語の悲劇化という側面からいえば著しくマ

イナスポイントとなる少なくともこれを悲劇と見なすことはためらわれよう『西京雜記』

では『琴操』のこの部分を抹消し代わりに畫圖の逸話を插入して悲劇を完成させている

④は史書という性格からか①を基本的に踏襲し②が部分的に附加されているのみであ

る①と比較した場合明らかな加筆部分は昭君自らが欲して單于に嫁いだこと義子と再婚

するに及んで昭君が元帝の子成帝に歸國を求める書を上ったが成帝はこれを許可せず

義子と再婚したことの二點である

66

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

以上四種の文獻の間にはさまざまな異同が含まれるが歴代詩歌のなかで歌われる昭君の

像は②と③によって强調された悲劇の歴史人物としての二つの像であるすなわち一つが匈

奴の習俗を受け入れることを肯ぜず自殺し夷狄の地に眠る薄幸の女性としての昭君像他の

一つが賄賂を贈らなかったがため繪師に姿を醜く描かれ單于の王妃に選ばれ匈奴に赴かざる

を得なかった悲運に弄ばれる女性としての昭君像であるこの中歴代昭君詩における言及

頻度という點からいえば後者が壓倒的に高い

王安石「明妃曲」二首注解

さてそれでは本題の王安石「明妃曲」に戻り前述の點

(3)をも踏まえつつ評釋を試みたい詩語レベルでの先行作品との繼承關係を明らかにするため

なるべく關連の先行作品に言及した

【Ⅰ-

ⅰ】

明妃初出漢宮時

明妃

初めて漢宮を出でし時

1

涙濕春風鬢脚垂

春風に濕ひて

鬢脚

垂る

2

低徊顧影無顔色

低徊して

影を顧み

顔色

無きも

3

尚得君主不自持

尚ほ君主の自ら持せざるを得たり

4

明妃が漢の宮殿を出発したその時涙は美しいかんばせを濡らし春風に吹かれ

てまげ髪はほつれ垂れさがっていた

うつむきながらたちもとおりしきりに姿を気にしはするが顔はやつれてかつ

ての輝きは失せているそれでもその美しさに皇帝はじっと平靜を保てぬほど

第一段は王昭君が漢の宮殿を出て匈奴にいざ向わんとする時の情景を描寫する

句〈漢宮〉は〈明妃〉同樣唐に入って以後昭君詩において常用されるようになっ

1

た詩語唐詩においては〈胡地〉との對で用いられることが多いたとえば初唐の沈佺期

の「王昭君」嫁來胡地惡不竝漢宮時(嫁ぎ來れば胡地惡しく漢宮の時に

せず)〔中華書局排

たぐひ

印本『全唐詩』巻九六第四册一三四頁〕や開元年間の人顧朝陽の「昭君怨」影銷胡地月

衣盡漢宮香(影は銷ゆ胡地の月衣は盡く漢宮の香)〔『全唐詩』巻一二四第四册一二三二頁〕や李白

の「王昭君」其二今日漢宮人明朝胡地妾(今日漢宮の人明朝胡地の妾)〔上海古籍出版社『李

白集校注』巻四二九八頁〕の句がある

句の「春風」は文字通り春風の意と杜甫が王昭君の郷里の村(昭君村)を詠じた時

2

に用いた「春風面」の意(美貌)とを兼ねていよう杜甫の詩は「詠懷古跡五首」其三その

頸聯に畫圖省識春風面環珮空歸夜月魂(畫圖に省ぼ識る春風の面環珮

空しく歸る

夜月の魂)〔中

華書局『杜詩詳注』卷一七〕とある

句の「低徊顧影」は『後漢書』南匈奴傳の表現を踏まえる『後漢書』では元帝が

3

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 5: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

64

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

を加味すればこの「明妃曲」は唐代に散見する七言絕句體の「王昭君」あるいは「昭君怨」

と題する樂府と同系統の作例と判斷できるしたがって王安石の「明妃曲」に直接つながっ

ているとは考えられない結論を述べれば王安石「明妃曲」は歌行體の七言古詩と見なすの

が妥當であろう

王昭君の故事

ここで王安石「明妃曲」の解釋を圓滑に行なうため王昭君を詠ずる

(2)歴代詩歌(樂府)のもととなった故事(本事)をごく簡略に整理しておきたい王昭君悲話を題

材とする詩歌は西晉の石崇を嚆矢として六朝期より明淸に到るまで連綿と製作され續けてい

る詩歌の領域のみならず唐宋以降たとえば「昭君出塞圖」のように繪畫のモチーフとも

なったまた元の馬致遠がこの故事をもとに元曲「漢宮秋」をつくりあげたことは周知の通

りである現在も京劇をはじめ中國各地の傳統劇で王昭君を題材とする演目が演ぜられること

もあると聞くこのように王昭君説話は時代とジャンルの垣根を越え中國の文學藝術の

各分野で最も幅廣くかつまた最も根强く受け入れられた説話の一つであったといってよい

さて王昭君に關する最も早い記載は①『漢書』で卷九の元帝紀と卷九四下の匈奴傳下に

言及箇所があるこの後②傳後漢蔡邕撰『琴操』(卷下)③傳東晉葛洪撰『西京雜記』

(卷二)④『後漢書』南匈奴傳(卷八九)において取り上げられ(劉宋劉義慶『世説新語』賢媛

篇にも③を簡略にリライトした記事が載せられている)これら後漢から六朝に及ぶ早期の記述が

後世の夥しい數に上る關連作品の淵源となっている

初出文獻の①『漢書』が本來ならば後の王昭君説話および詩歌の原型となるべきところであ

るがここに記錄された事實は

(ⅰ)竟寧元年(

三三)に匈奴の呼韓邪單于が來朝しその求めに應じて後宮の昭君を

BC

單于に賜い匈奴王妃(閼氏)としたこと

(ⅱ)呼韓邪單于に嫁ぎ一男をもうけた昭君が呼韓邪亡き後次代の單于で義子でもある

復株絫若鞮單于と再婚し二女を生んだこと

の主に二點で極めて簡略な記述であるばかりか全くの客觀的叙述に撤しておりいわゆる

昭君悲話の生ずる餘地はほとんどない歴代の昭君詩の本事と考えられるのは初出の『漢書』

ではなくむしろ②と③の兩者であろう

②『琴操』は『漢書』に比べ叙述が格段に詳細であり『漢書』には存在しない新たな

プロットが相當插入されており悲劇の歴史人物としての王昭君の個性が前面に顯れ出てい

る記載は單于に嫁ぐまでを描く前段と嫁いで以後の生活を描く後段に分けられる

まず前段は『漢書』の(ⅰ)を基礎としつつも單于の入朝という形ではなくその使者

が登場するという設定に變化しているさらに一昭君が後宮に入る經緯二單于が漢

の女性を欲していると使者が元帝に傳える條三元帝がその申し出を受け宮女に向って希望

65

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

者を募り一向に寵愛を得られない昭君が自ら元帝の前に進み出て匈奴に赴くことを願い出る

條四元帝が昭君の美貌を見て單于に賜うのを大いに後悔するが匈奴に對する信用を失うの

を恐れて昭君を賜うことを決める條等大雜把に勘定しても四ヶ所が新たに加筆されている

後段では鬱々として樂しまない昭君がその思いを詩(「怨曠思惟歌」)に詠じたことが語ら

れ末尾に昭君の死(自殺)にまつわるプロットが加筆されているそしてこの末尾の昭君の

死(自殺)のプロットこそが後の昭君哀歌の重要な構成要素の一つとなっている――匈奴

の習俗では父の亡き後母を妻とした昭君は父の位を繼いだわが子に漢族として生きてゆ

くのか匈奴として生きてゆくのかを問うわが子は匈奴として生きてゆきたいと答えるそ

れを聞き昭君は失望し服毒自殺を遂げる昭君の亡骸は厚く埋葬され青草の生えぬ匈奴の

地にあってひとり昭君の塚の周圍のみ草が青々と茂っている――というのが『琴操』の末尾

の大旨である

元來『漢書』には王昭君の死(自殺)についての記述はなかっただが『琴操』では『漢

書』(ⅱ)の記載を改竄し昭君の再婚の相手を義子から實子へと置き換えることによって

自殺の積極的な動機を創り出し昭君の悲劇性を强調したわけである

③『西京雜記』ではもっぱら匈奴に赴く以前の昭君が語られ『漢書』の(ⅰ)に相當す

る部分の悲劇化が行なわれている――元帝の後宮には宮女が多く元帝は畫工に宮女の肖像

畫を描かせその繪に基づいて寵愛を賜う宮女を選んでいた一方宮女は元帝の寵愛を得る

ため少しでも自分を美しく描いてもらおうと畫工に賄賂を贈ったがひとり昭君はそれを

潔しとせずして賄賂を贈らなかったそのため日頃元帝の寵愛を得ないばかりか單于の

王妃に選ばれてしまった昭君が匈奴に赴くという段になって元帝はわが目で昭君を目にし

その美貌と立ち居振る舞いとに心を奪われるが昭君の氏素性を單于に通知した後で時すでに

遲くやむなく昭君を單于に賜った後元帝は畫工が賄賂をもらって繪圖に手心を加え巨

萬の富を蓄えていたことを知り毛延壽をはじめ宮廷畫工を處刑した――というのが③の物

語である

前述のように『琴操』においてすでにこの部分にも相當潤色が加えられ小説的虛構が

創りあげられていただが『琴操』においては昭君が單于のもとに行く直接の原因が彼女

自身の願望によると記され行動的な獨立不羈の女性として昭君の性格づけをおこなっている

當人のあずかり知らぬところで運命に翻弄され哀しい結末を迎えるという設定が悲劇の一つ

の典型と假定するならば『琴操』のこの部分は物語の悲劇化という側面からいえば著しくマ

イナスポイントとなる少なくともこれを悲劇と見なすことはためらわれよう『西京雜記』

では『琴操』のこの部分を抹消し代わりに畫圖の逸話を插入して悲劇を完成させている

④は史書という性格からか①を基本的に踏襲し②が部分的に附加されているのみであ

る①と比較した場合明らかな加筆部分は昭君自らが欲して單于に嫁いだこと義子と再婚

するに及んで昭君が元帝の子成帝に歸國を求める書を上ったが成帝はこれを許可せず

義子と再婚したことの二點である

66

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

以上四種の文獻の間にはさまざまな異同が含まれるが歴代詩歌のなかで歌われる昭君の

像は②と③によって强調された悲劇の歴史人物としての二つの像であるすなわち一つが匈

奴の習俗を受け入れることを肯ぜず自殺し夷狄の地に眠る薄幸の女性としての昭君像他の

一つが賄賂を贈らなかったがため繪師に姿を醜く描かれ單于の王妃に選ばれ匈奴に赴かざる

を得なかった悲運に弄ばれる女性としての昭君像であるこの中歴代昭君詩における言及

頻度という點からいえば後者が壓倒的に高い

王安石「明妃曲」二首注解

さてそれでは本題の王安石「明妃曲」に戻り前述の點

(3)をも踏まえつつ評釋を試みたい詩語レベルでの先行作品との繼承關係を明らかにするため

なるべく關連の先行作品に言及した

【Ⅰ-

ⅰ】

明妃初出漢宮時

明妃

初めて漢宮を出でし時

1

涙濕春風鬢脚垂

春風に濕ひて

鬢脚

垂る

2

低徊顧影無顔色

低徊して

影を顧み

顔色

無きも

3

尚得君主不自持

尚ほ君主の自ら持せざるを得たり

4

明妃が漢の宮殿を出発したその時涙は美しいかんばせを濡らし春風に吹かれ

てまげ髪はほつれ垂れさがっていた

うつむきながらたちもとおりしきりに姿を気にしはするが顔はやつれてかつ

ての輝きは失せているそれでもその美しさに皇帝はじっと平靜を保てぬほど

第一段は王昭君が漢の宮殿を出て匈奴にいざ向わんとする時の情景を描寫する

句〈漢宮〉は〈明妃〉同樣唐に入って以後昭君詩において常用されるようになっ

1

た詩語唐詩においては〈胡地〉との對で用いられることが多いたとえば初唐の沈佺期

の「王昭君」嫁來胡地惡不竝漢宮時(嫁ぎ來れば胡地惡しく漢宮の時に

せず)〔中華書局排

たぐひ

印本『全唐詩』巻九六第四册一三四頁〕や開元年間の人顧朝陽の「昭君怨」影銷胡地月

衣盡漢宮香(影は銷ゆ胡地の月衣は盡く漢宮の香)〔『全唐詩』巻一二四第四册一二三二頁〕や李白

の「王昭君」其二今日漢宮人明朝胡地妾(今日漢宮の人明朝胡地の妾)〔上海古籍出版社『李

白集校注』巻四二九八頁〕の句がある

句の「春風」は文字通り春風の意と杜甫が王昭君の郷里の村(昭君村)を詠じた時

2

に用いた「春風面」の意(美貌)とを兼ねていよう杜甫の詩は「詠懷古跡五首」其三その

頸聯に畫圖省識春風面環珮空歸夜月魂(畫圖に省ぼ識る春風の面環珮

空しく歸る

夜月の魂)〔中

華書局『杜詩詳注』卷一七〕とある

句の「低徊顧影」は『後漢書』南匈奴傳の表現を踏まえる『後漢書』では元帝が

3

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 6: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

65

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

者を募り一向に寵愛を得られない昭君が自ら元帝の前に進み出て匈奴に赴くことを願い出る

條四元帝が昭君の美貌を見て單于に賜うのを大いに後悔するが匈奴に對する信用を失うの

を恐れて昭君を賜うことを決める條等大雜把に勘定しても四ヶ所が新たに加筆されている

後段では鬱々として樂しまない昭君がその思いを詩(「怨曠思惟歌」)に詠じたことが語ら

れ末尾に昭君の死(自殺)にまつわるプロットが加筆されているそしてこの末尾の昭君の

死(自殺)のプロットこそが後の昭君哀歌の重要な構成要素の一つとなっている――匈奴

の習俗では父の亡き後母を妻とした昭君は父の位を繼いだわが子に漢族として生きてゆ

くのか匈奴として生きてゆくのかを問うわが子は匈奴として生きてゆきたいと答えるそ

れを聞き昭君は失望し服毒自殺を遂げる昭君の亡骸は厚く埋葬され青草の生えぬ匈奴の

地にあってひとり昭君の塚の周圍のみ草が青々と茂っている――というのが『琴操』の末尾

の大旨である

元來『漢書』には王昭君の死(自殺)についての記述はなかっただが『琴操』では『漢

書』(ⅱ)の記載を改竄し昭君の再婚の相手を義子から實子へと置き換えることによって

自殺の積極的な動機を創り出し昭君の悲劇性を强調したわけである

③『西京雜記』ではもっぱら匈奴に赴く以前の昭君が語られ『漢書』の(ⅰ)に相當す

る部分の悲劇化が行なわれている――元帝の後宮には宮女が多く元帝は畫工に宮女の肖像

畫を描かせその繪に基づいて寵愛を賜う宮女を選んでいた一方宮女は元帝の寵愛を得る

ため少しでも自分を美しく描いてもらおうと畫工に賄賂を贈ったがひとり昭君はそれを

潔しとせずして賄賂を贈らなかったそのため日頃元帝の寵愛を得ないばかりか單于の

王妃に選ばれてしまった昭君が匈奴に赴くという段になって元帝はわが目で昭君を目にし

その美貌と立ち居振る舞いとに心を奪われるが昭君の氏素性を單于に通知した後で時すでに

遲くやむなく昭君を單于に賜った後元帝は畫工が賄賂をもらって繪圖に手心を加え巨

萬の富を蓄えていたことを知り毛延壽をはじめ宮廷畫工を處刑した――というのが③の物

語である

前述のように『琴操』においてすでにこの部分にも相當潤色が加えられ小説的虛構が

創りあげられていただが『琴操』においては昭君が單于のもとに行く直接の原因が彼女

自身の願望によると記され行動的な獨立不羈の女性として昭君の性格づけをおこなっている

當人のあずかり知らぬところで運命に翻弄され哀しい結末を迎えるという設定が悲劇の一つ

の典型と假定するならば『琴操』のこの部分は物語の悲劇化という側面からいえば著しくマ

イナスポイントとなる少なくともこれを悲劇と見なすことはためらわれよう『西京雜記』

では『琴操』のこの部分を抹消し代わりに畫圖の逸話を插入して悲劇を完成させている

④は史書という性格からか①を基本的に踏襲し②が部分的に附加されているのみであ

る①と比較した場合明らかな加筆部分は昭君自らが欲して單于に嫁いだこと義子と再婚

するに及んで昭君が元帝の子成帝に歸國を求める書を上ったが成帝はこれを許可せず

義子と再婚したことの二點である

66

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

以上四種の文獻の間にはさまざまな異同が含まれるが歴代詩歌のなかで歌われる昭君の

像は②と③によって强調された悲劇の歴史人物としての二つの像であるすなわち一つが匈

奴の習俗を受け入れることを肯ぜず自殺し夷狄の地に眠る薄幸の女性としての昭君像他の

一つが賄賂を贈らなかったがため繪師に姿を醜く描かれ單于の王妃に選ばれ匈奴に赴かざる

を得なかった悲運に弄ばれる女性としての昭君像であるこの中歴代昭君詩における言及

頻度という點からいえば後者が壓倒的に高い

王安石「明妃曲」二首注解

さてそれでは本題の王安石「明妃曲」に戻り前述の點

(3)をも踏まえつつ評釋を試みたい詩語レベルでの先行作品との繼承關係を明らかにするため

なるべく關連の先行作品に言及した

【Ⅰ-

ⅰ】

明妃初出漢宮時

明妃

初めて漢宮を出でし時

1

涙濕春風鬢脚垂

春風に濕ひて

鬢脚

垂る

2

低徊顧影無顔色

低徊して

影を顧み

顔色

無きも

3

尚得君主不自持

尚ほ君主の自ら持せざるを得たり

4

明妃が漢の宮殿を出発したその時涙は美しいかんばせを濡らし春風に吹かれ

てまげ髪はほつれ垂れさがっていた

うつむきながらたちもとおりしきりに姿を気にしはするが顔はやつれてかつ

ての輝きは失せているそれでもその美しさに皇帝はじっと平靜を保てぬほど

第一段は王昭君が漢の宮殿を出て匈奴にいざ向わんとする時の情景を描寫する

句〈漢宮〉は〈明妃〉同樣唐に入って以後昭君詩において常用されるようになっ

1

た詩語唐詩においては〈胡地〉との對で用いられることが多いたとえば初唐の沈佺期

の「王昭君」嫁來胡地惡不竝漢宮時(嫁ぎ來れば胡地惡しく漢宮の時に

せず)〔中華書局排

たぐひ

印本『全唐詩』巻九六第四册一三四頁〕や開元年間の人顧朝陽の「昭君怨」影銷胡地月

衣盡漢宮香(影は銷ゆ胡地の月衣は盡く漢宮の香)〔『全唐詩』巻一二四第四册一二三二頁〕や李白

の「王昭君」其二今日漢宮人明朝胡地妾(今日漢宮の人明朝胡地の妾)〔上海古籍出版社『李

白集校注』巻四二九八頁〕の句がある

句の「春風」は文字通り春風の意と杜甫が王昭君の郷里の村(昭君村)を詠じた時

2

に用いた「春風面」の意(美貌)とを兼ねていよう杜甫の詩は「詠懷古跡五首」其三その

頸聯に畫圖省識春風面環珮空歸夜月魂(畫圖に省ぼ識る春風の面環珮

空しく歸る

夜月の魂)〔中

華書局『杜詩詳注』卷一七〕とある

句の「低徊顧影」は『後漢書』南匈奴傳の表現を踏まえる『後漢書』では元帝が

3

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 7: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

66

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

以上四種の文獻の間にはさまざまな異同が含まれるが歴代詩歌のなかで歌われる昭君の

像は②と③によって强調された悲劇の歴史人物としての二つの像であるすなわち一つが匈

奴の習俗を受け入れることを肯ぜず自殺し夷狄の地に眠る薄幸の女性としての昭君像他の

一つが賄賂を贈らなかったがため繪師に姿を醜く描かれ單于の王妃に選ばれ匈奴に赴かざる

を得なかった悲運に弄ばれる女性としての昭君像であるこの中歴代昭君詩における言及

頻度という點からいえば後者が壓倒的に高い

王安石「明妃曲」二首注解

さてそれでは本題の王安石「明妃曲」に戻り前述の點

(3)をも踏まえつつ評釋を試みたい詩語レベルでの先行作品との繼承關係を明らかにするため

なるべく關連の先行作品に言及した

【Ⅰ-

ⅰ】

明妃初出漢宮時

明妃

初めて漢宮を出でし時

1

涙濕春風鬢脚垂

春風に濕ひて

鬢脚

垂る

2

低徊顧影無顔色

低徊して

影を顧み

顔色

無きも

3

尚得君主不自持

尚ほ君主の自ら持せざるを得たり

4

明妃が漢の宮殿を出発したその時涙は美しいかんばせを濡らし春風に吹かれ

てまげ髪はほつれ垂れさがっていた

うつむきながらたちもとおりしきりに姿を気にしはするが顔はやつれてかつ

ての輝きは失せているそれでもその美しさに皇帝はじっと平靜を保てぬほど

第一段は王昭君が漢の宮殿を出て匈奴にいざ向わんとする時の情景を描寫する

句〈漢宮〉は〈明妃〉同樣唐に入って以後昭君詩において常用されるようになっ

1

た詩語唐詩においては〈胡地〉との對で用いられることが多いたとえば初唐の沈佺期

の「王昭君」嫁來胡地惡不竝漢宮時(嫁ぎ來れば胡地惡しく漢宮の時に

せず)〔中華書局排

たぐひ

印本『全唐詩』巻九六第四册一三四頁〕や開元年間の人顧朝陽の「昭君怨」影銷胡地月

衣盡漢宮香(影は銷ゆ胡地の月衣は盡く漢宮の香)〔『全唐詩』巻一二四第四册一二三二頁〕や李白

の「王昭君」其二今日漢宮人明朝胡地妾(今日漢宮の人明朝胡地の妾)〔上海古籍出版社『李

白集校注』巻四二九八頁〕の句がある

句の「春風」は文字通り春風の意と杜甫が王昭君の郷里の村(昭君村)を詠じた時

2

に用いた「春風面」の意(美貌)とを兼ねていよう杜甫の詩は「詠懷古跡五首」其三その

頸聯に畫圖省識春風面環珮空歸夜月魂(畫圖に省ぼ識る春風の面環珮

空しく歸る

夜月の魂)〔中

華書局『杜詩詳注』卷一七〕とある

句の「低徊顧影」は『後漢書』南匈奴傳の表現を踏まえる『後漢書』では元帝が

3

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 8: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

67

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

單于に賜う宮女を召し出した時の情景を記して昭君豐容靚飾光明漢宮顧景裴回竦動

左右(昭君

豐容靚飾して漢宮に光明あり景を顧み裴回すれば左右を竦動せしむ)という「顧影」

=「顧景」は一般に誇らしげな樣子を形容し(

年修訂本『辭源』では「自顧其影有自矜自負之

87

意」と説く)『後漢書』南匈奴傳の用例もその意であるがここでは「低徊」とあるから負

的なイメージを伴っていよう第

句は昭君を見送る元帝の心情をいうもはや「無顔色」

4

の昭君であってもそれを手放す元帝には惜しくてたまらず「不自持」=平靜を裝えぬほど

の美貌であったとうたい第二段へとつなげている

【Ⅰ-

ⅱ】

歸來却怪丹青手

歸り來りて

却って怪しむ

丹青手

5

入眼平生幾曾有

入眼

平生

幾たびか曾て有らん

6

意態由來畫不成

意態

由來

畫きて成らざるに

7

當時枉殺毛延壽

當時

枉げて殺せり

毛延壽

8

皇帝は歸って来ると画工を咎めたてた日頃あれほど美しい女性はまったく

目にしたことがなかったと

しかし心の中や雰囲気などはもともと絵には描けないものそれでも当時

皇帝はむやみに毛延寿を殺してしまった

第二段は前述③『西京雜記』の故事を踏まえ昭君を見送り宮廷に戻った元帝が昭君を

醜く描いた繪師(毛延壽)を咎め處刑したことを批判した條歴代昭君詩では六朝梁の王

淑英の妻劉氏(劉孝綽の妹)の「昭君怨」や同じく梁の女流詩人沈滿願の「王昭君嘆」其一

がこの故事を踏まえた早期の作例であろう〔王淑英妻〕丹青失舊儀匣玉成秋草(丹青

舊儀を失し匣玉

秋草と成る)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕〔沈滿願〕早信丹青巧重

貨洛陽師千金買蟬鬢百萬冩蛾眉(早に丹青の巧みなるを信ずれば重く洛陽の師に貨せしならん

千金もて蟬鬢を買ひ百万もて蛾眉を寫さしめん)〔『先秦漢魏晉南北朝詩』梁詩卷二八〕

句「怪」は責め咎めるの意「丹青」は繪畫の顔料轉じて繪畫を指し「丹青手」

5

で畫工繪師の意第

句「入眼」は目にする見るの意これを「氣に入る」の意ととり

6

「(けれども)目がねにかなったのはこれまでひとりもなかったのだ」と譯出する説がある(一

九六二年五月岩波書店中國詩人選集二集4淸水茂『王安石』)がここでは採らず元帝が繪師を

咎め立てたそのことばとして解釋した「幾曾」は「何曾」「何嘗」に同じく反語の副詞で

「これまでまったくhelliphellipなかった」の意異文の「未曾」も同義である第

句の「枉殺」は

8

無實の人を殺すこと王安石は元帝の行爲をことの本末を轉倒し人をむりやり無實の罪に

陷れたと解釋する

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 9: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

68

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

【Ⅰ-

ⅲ】

一去心知更不歸

一たび去りて

心に知る

更び歸らざるを

9

可憐着盡漢宮衣

憐れむべし

漢宮の衣を着盡くしたり

10

寄聲欲問塞南事

聲を寄せ

塞南の事を問はんと欲するも

11

只有年年鴻鴈飛

只だ

年年

鴻鴈の飛ぶ有るのみ

12

明妃は一度立ち去れば二度と歸ってはこないことを心に承知していた何と哀

れなことか澤山のきらびやかな漢宮の衣裳もすっかり着盡くしてしまった

便りを寄せ南の漢のことを尋ねようと思うがくる年もくる年もただ雁やお

おとりが飛んでくるばかり

第三段(第9~

句)はひとり夷狄の地にあって國を想い便りを待ち侘びる昭君を描く

12

第9句は李白の「王昭君」其一の一上玉關道天涯去不歸漢月還從東海出明妃西

嫁無來日(一たび上る玉關の道天涯

去りて歸らず漢月

還た東海より出づるも明妃

西に嫁して來

る日無し)〔上海古籍出版社『李白集校注』巻四二九八頁〕の句を意識しよう

句は匈奴の地に居住して久しく持って行った着物も全て着古してしまったという

10

意味であろう音信途絕えた今祖國を想う唯一のよすが漢宮の衣服でさえ何年もの間日

がな一日袖を通したためすっかり色褪せ昔の記憶同ようにはかないものとなってしまった

それゆえ「可憐」なのだと解釋したい胡服に改めず漢の服を身につけ常に祖國を想いつ

づけていたことを間接的に述べた句であると解釋できようこの句はあるいは前出の顧朝陽

「昭君怨」の衣盡漢宮香を換骨奪胎したものか

句は『漢書』蘇武傳の故事に基づくことば詩の中で「鴻雁」はしばしば手紙を運ぶ

12

使者として描かれる杜甫の「寄高三十五詹事」詩(『杜詩詳注』卷六)の天上多鴻雁池

中足鯉魚(天上

鴻雁

多く池中

鯉魚

足る)の用例はその代表的なものである歴代の昭君詩に

もしばしば(鴻)雁は描かれているが

傳統的な手法(手紙を運ぶ使者としての描寫)の他

(a)

年に一度南に飛んで歸れる自由の象徴として描くものも系統的に見られるそれぞれ代

(b)

表的な用例を以下に掲げる

寄信秦樓下因書秋雁歸(『樂府詩集』卷二九作者未詳「王昭君」)

(a)願假飛鴻翼乘之以遐征飛鴻不我顧佇立以屏營(石崇「王明君辭并序」『先秦漢魏晉南

(b)北朝詩』晉詩卷四)既事轉蓬遠心隨雁路絕(鮑照「王昭君」『先秦漢魏晉南北朝詩』宋詩卷七)

鴻飛漸南陸馬首倦西征(王褒「明君詞」『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷一)願逐三秋雁

年年一度歸(盧照鄰「昭君怨」『全唐詩』卷四二)

【Ⅰ-

ⅳ】

家人萬里傳消息

家人

萬里

消息を傳へり

13

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 10: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

69

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

好在氈城莫相憶

氈城に好在なりや

相ひ憶ふこと莫かれ

14

君不見咫尺長門閉阿嬌

見ずや

咫尺の長門

阿嬌を閉ざすを

15

人生失意無南北

人生の失意

南北

無し

16

家の者が万里遙か彼方から手紙を寄越してきた夷狄の国で元気にくらしていま

すかこちらは無事です心配は無用と

君も知っていよう寵愛を失いほんの目と鼻の先長門宮に閉じこめられた阿

嬌の話を人生の失意に北も南もないのだ

第四段(第

句)は家族が昭君に宛てた便りの中身を記し前漢武帝と陳皇后(阿嬌)

13

16

の逸話を引いて昭君の失意を慰めるという構成である

句「好在」は安否を問う言葉張相の『詩詞曲語辭匯釋』卷六に見える「氈城」の氈

14

は毛織物もうせん遊牧民族はもうせんの帳を四方に張りめぐらした中にもうせんの天幕

を張って生活するのでこういう

句は司馬相如「長門の賦」の序(『文選』卷一六所收)に見える故事に基づく「阿嬌」

15

は前漢武帝の陳皇后のことこの呼稱は『樂府詩集』に引く『漢武帝故事』に見える(卷四二

相和歌辭一七「長門怨」の解題)司馬相如「長門の賦」の序に孝武皇帝陳皇后時得幸頗

妬別在長門愁悶悲思(孝武皇帝の陳皇后時に幸を得たるも頗る妬めば別かたれて長門に在り

愁悶悲思す)とある

續いて「其二」を解釋する「其一」は場面設定を漢宮出發の時と匈奴における日々

とに分けて詠ずるが「其二」は漢宮を出て匈奴に向い匈奴の疆域に入った頃の昭君にス

ポットを當てる

【Ⅱ-

ⅰ】

明妃初嫁與胡兒

明妃

初めて嫁して

胡兒に與へしとき

1

氈車百兩皆胡姫

氈車

百兩

皆な胡姫なり

2

含情欲説獨無處

情を含んで説げんと欲するも

獨り處無く

3

傳與琵琶心自知

琵琶に傳與して

心に自ら知る

4

明妃がえびすの男に嫁いでいった時迎えの馬車百輛はどれももうせんの幌に覆

われ中にいるのは皆えびすの娘たちだった

胸の思いを誰かに告げようと思ってもことばも通ぜずそれもかなわぬこと

人知れず胸の中にしまって琵琶の音色に思いを托すのだった

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 11: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

70

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「其二」の第一段はおそらく昭君の一行が匈奴の疆域に入り匈奴の都からやってきた迎

えの行列と合流する前後の情景を描いたものだろう

第1句「胡兒」は(北方)異民族の蔑稱ここでは呼韓邪單于を指す第

句「氈車」は

2

もうせんの幌で覆われた馬車嫁入り際出迎えの車が「百兩」來るというのは『詩經』に

基づく召南の「鵲巣」に之子于歸百兩御之(之の子

于き歸がば百兩もて之を御へん)

とつ

むか

とある

句琵琶を奏でる昭君という形象は『漢書』を始め前掲四種の記載には存在せず石

4

崇「王明君辭并序」によって附加されたものであるその序に昔公主嫁烏孫令琵琶馬上

作樂以慰其道路之思其送明君亦必爾也(昔

公主烏孫に嫁ぎ琵琶をして馬上に楽を作さしめ

以て其の道路の思ひを慰む其の明君を送るも亦た必ず爾るなり)とある「昔公主嫁烏孫」とは

漢の武帝が江都王劉建の娘細君を公主とし西域烏孫國の王昆莫(一作昆彌)に嫁がせ

たことを指すその時公主の心を和ませるため琵琶を演奏したことは西晉の傅玄(二一七―七八)

「琵琶の賦」(中華書局『全上古三代秦漢三國六朝文』全晉文卷四五)にも見える石崇は昭君が匈

奴に向う際にもきっと烏孫公主の場合同樣樂工が伴としてつき從い琵琶を演奏したに違いな

いというしたがって石崇の段階でも昭君自らが琵琶を奏でたと斷定しているわけではな

いが後世これが混用された琵琶は西域から中國に傳來した樂器ふつう馬上で奏でるも

のであった西域の國へ嫁ぐ烏孫公主と西來の樂器がまず結びつき石崇によって昭君と琵琶

が結びつけられその延長として昭君自らが琵琶を演奏するという形象が生まれたのだと推察

される

南朝陳の後主「昭君怨」(『先秦漢魏晉南北朝詩』陳詩卷四)に只餘馬上曲(只だ餘す馬上の

曲)の句があり(前出北周王褒「明君詞」にもこの句は見える)「馬上」を琵琶の緣語として解

釋すればこれがその比較的早期の用例と見なすことができる唐詩で昭君と琵琶を結びつ

けて歌うものに次のような用例がある

千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論(前出杜甫「詠懷古跡五首」其三)

琵琶弦中苦調多蕭蕭羌笛聲相和(劉長卿「王昭君歌」中華書局『全唐詩』卷一五一)

馬上琵琶行萬里漢宮長有隔生春(李商隱「王昭君」中華書局『李商隱詩歌集解』第四册)

なお宋代の繪畫にすでに琵琶を抱く昭君像が一般的に描かれていたことは宋の王楙『野

客叢書』卷一「明妃琵琶事」の條に見える

【Ⅱ-

ⅱ】

黄金捍撥春風手

黄金の捍撥

春風の手

5

彈看飛鴻勸胡酒

彈じて飛鴻を看

胡酒を勸む

6

漢宮侍女暗垂涙

漢宮の侍女

暗かに涙を垂れ

7

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 12: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

71

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

沙上行人却回首

沙上の行人

却って首を回らす

8

春風のような繊細な手で黄金の撥をあやつり琵琶を奏でながら天空を行くお

おとりを眺め夫にえびすの酒を勸める

伴の漢宮の侍女たちはそっと涙をながし砂漠を行く旅人は哀しい琵琶の調べに

振り返る

第二段は第

句を承けて琵琶を奏でる昭君を描く第

句「黄金捍撥」とは撥の先に金

4

5

をはめて撥を飾り同時に撥が傷むのを防いだもの「春風」は前述のように杜甫の詩を

踏まえた用法であろう

句「彈看飛鴻」は嵆康(二二四―六三)の「贈兄秀才入軍十八首」其一四目送歸鴻

6

手揮五絃(目は歸鴻を送り手は五絃〔=琴〕を揮ふ)の句(『先秦漢魏晉南北朝詩』魏詩卷九)に基づ

こうまた第

句昭君が「胡酒を勸」めた相手は宮女を引きつれ昭君を迎えに來た單于

6

であろう琵琶を奏で單于に酒を勸めつつも心は天空を南へと飛んでゆくおおとりに誘

われるまま自ずと祖國へと馳せ歸るのである北宋秦觀(一四九―一一)の「調笑令

十首并詩」(中華書局刊『全宋詞』第一册四六四頁)其一「王昭君」では詩に顧影低徊泣路隅

helliphellip目送征鴻入雲去(影を顧み低徊して路隅に泣くhelliphellip目は征鴻の雲に入り去くを送る)詞に未

央宮殿知何處目斷征鴻南去(未央宮殿

知るや何れの處なるやを目は斷ゆ

征鴻の南のかた去るを)

とあり多分に王安石のこの詩を意識したものであろう

【Ⅱ-

ⅲ】

漢恩自淺胡自深

漢恩は自から淺く

胡は自から深し

9

人生樂在相知心

人生の楽しみは心を相ひ知るに在り

10

可憐青冢已蕪沒

憐れむべし

青冢

已に蕪沒するも

11

尚有哀絃留至今

尚ほ哀絃の留めて今に至る有るを

12

なるほど漢の君はまことに冷たいえびすの君は情に厚いだが人生の楽しみ

は人と互いに心を通じ合えるということにこそある

哀れ明妃の塚はいまでは草に埋もれすっかり荒れ果てていまなお伝わるのは

彼女が奏でた哀しい弦の曲だけである

第三段は

の二句で理を説き――昭君の當時の哀感漂う情景を描く――前の八句の

9

10

流れをひとまずくい止め最終二句で時空を現在に引き戻し餘情をのこしつつ一篇を結んで

いる

句「漢恩自淺胡自深」は宋の當時から議論紛々の表現でありさまざまな解釋と憶測

9

を許容する表現である後世のこの句にまつわる論議については第五節に讓る周嘯天氏は

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 13: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

72

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

第9句の二つの「自」字を「誠然(たしかになるほど~ではあるが)」または「盡管(~であるけ

れども)」の意ととり「胡と漢の恩寵の間にはなるほど淺深の別はあるけれども心通わな

いという點では同一である漢が寡恩であるからといってわたしはその上どうして胡人の恩

に心ひかれようそれゆえ漢の宮殿にあっても悲しく胡人に嫁いでも悲しいのである」(一

九八九年五月四川文藝出版社『百家唐宋詩新話』五八頁)と説いているなお白居易に自

是君恩薄如紙不須一向恨丹青(自から是れ君恩

薄きこと紙の如し須ひざれ一向に丹青を恨むを)

の句があり(上海古籍出版社『白居易集箋校』卷一六「昭君怨」)王安石はこれを繼承發展させこ

の句を作ったものと思われる

句「青冢」は前掲②『琴操』に淵源をもつ表現前出の李白「王昭君」其一に生

11

乏黄金枉圖畫死留青冢使人嗟(生きては黄金に乏しくして枉げて圖畫せられ死しては青冢を留めて

人をして嗟かしむ)とあるまた杜甫の「詠懷古跡五首」其三にも一去紫臺連朔漠獨留

青冢向黄昏(一たび紫臺を去りて朔漠に連なり獨り青冢を留めて黄昏に向かふ)の句があり白居易

には「青塚」と題する詩もある(『白居易集箋校』卷二)

句「哀絃留至今」も『琴操』に淵源をもつ表現王昭君が作ったとされる琴曲「怨曠

12

思惟歌」を指していう前出の劉長卿「王昭君歌」の可憐一曲傳樂府能使千秋傷綺羅(憐

れむべし一曲

樂府に傳はり能く千秋をして綺羅を傷ましむるを)の句に相通ずる發想であろうま

た歐陽脩の和篇ではより集中的に王昭君と琵琶およびその歌について詠じている(第六節參照)

また「哀絃」の語も庾信の「王昭君」において用いられている別曲眞多恨哀絃須更

張(別曲

眞に恨み多く哀絃

須らく更に張るべし)(『先秦漢魏晉南北朝詩』北周詩卷二)

以上が王安石「明妃曲」二首の評釋である次節ではこの評釋に基づき先行作品とこ

の作品の間の異同について論じたい

先行作品との異同

詩語レベルの異同

本節では前節での分析を踏まえ王安石「明妃曲」と先行作品の間

(1)における異同を整理するまず王安石「明妃曲」と先行作品との〈同〉の部分についてこ

の點についてはすでに前節において個別に記したが特に措辭のレベルで先行作品中に用い

られた詩語が隨所にちりばめられているもう一度改めて整理して提示すれば以下の樣であ

〔其一〕

「明妃」helliphellip李白「王昭君」其一

(a)「漢宮」helliphellip沈佺期「王昭君」梁獻「王昭君」一聞陽鳥至思絕漢宮春(『全唐詩』

(b)

卷一九)李白「王昭君」其二顧朝陽「昭君怨」等

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 14: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

73

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

「春風」helliphellip杜甫「詠懷古跡」其三

(c)「顧影低徊」helliphellip『後漢書』南匈奴傳

(d)「丹青」(「毛延壽」)helliphellip『西京雜記』王淑英妻「昭君怨」沈滿願「王昭君

(e)

嘆」李商隱「王昭君」等

「一去~不歸」helliphellip李白「王昭君」其一中唐楊凌「明妃怨」漢國明妃去不還

(f)

馬駄絃管向陰山(『全唐詩』卷二九一)

「鴻鴈」helliphellip石崇「明君辭」鮑照「王昭君」盧照鄰「昭君怨」等

(g)「氈城」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」毛裘易羅綺氈帳代金屏(『先秦漢魏晉南北朝詩』

(h)

隋詩卷四)令狐楚「王昭君」錦車天外去毳幕雪中開(『全唐詩』卷三三

四)

〔其二〕

「琵琶」helliphellip石崇「明君辭」序杜甫「詠懷古跡」其三劉長卿「王昭君歌」

(i)

李商隱「王昭君」

「漢恩」helliphellip隋薛道衡「昭君辭」專由妾薄命誤使君恩輕梁獻「王昭君」

(j)

君恩不可再妾命在和親白居易「昭君怨」

「青冢」helliphellip『琴操』李白「王昭君」其一杜甫「詠懷古跡」其三

(k)「哀絃」helliphellip庾信「王昭君」

(l)

(a)

(b)

(c)

(g)

(h)

以上のように二首ともに平均して八つ前後の昭君詩における常用語が使用されている前

節で區分した各四句の段落ごとに詩語の分散をみても各段落いずれもほぼ平均して二~三の

常用詩語が用いられており全編にまんべんなく傳統的詩語がちりばめられている二首とも

に詩語レベルでみると過去の王昭君詩においてつくり出され長期にわたって繼承された

傳統的イメージに大きく依據していると判斷できる

詩句レベルの異同

次に詩句レベルの表現に目を轉ずると歴代の昭君詩の詩句に王安

(2)石のアレンジが加わったいわゆる〈翻案〉の例が幾つか認められるまず第一に「其一」

句(「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」)「一」において引用した『紅樓夢』の一節が

7

8

すでにこの點を指摘している從來の昭君詩では昭君が匈奴に嫁がざるを得なくなったのを『西

京雜記』の故事に基づき繪師の毛延壽の罪として描くものが多いその代表的なものに以下の

ような詩句がある

毛君眞可戮不肯冩昭君(隋侯夫人「自遣」『先秦漢魏晉南北朝詩』隋詩卷七)

薄命由驕虜無情是畫師(沈佺期「王昭君」『全唐詩』卷九六)

何乃明妃命獨懸畫工手丹青一詿誤白黒相紛糾遂使君眼中西施作嫫母(白居

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 15: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

74

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

易「青塚」『白居易集箋校』卷二)

一方王安石の詩ではまずいかに巧みに描こうとも繪畫では人の内面までは表現し盡くせ

ないと規定した上でにも拘らず繪圖によって宮女を選ぶという愚行を犯しなおかつ毛延壽

に罪を歸して〈枉殺〉した元帝を批判しているもっとも宋以前王安石「明妃曲」同樣

元帝を批判した詩がなかったわけではないたとえば(前出)白居易「昭君怨」の後半四句

見疏從道迷圖畫

疏んじて

ままに道ふ

圖畫に迷へりと

ほしい

知屈那教配虜庭

屈するを知り

那ぞ虜庭に配せしむる

自是君恩薄如紙

自から是れ

君恩

薄きこと紙の如くんば

不須一向恨丹青

須ひざれ

一向

丹青を恨むを

はその端的な例であろうだが白居易の詩は昭君がつらい思いをしているのを知りながら

(知屈)あえて匈奴に嫁がせた元帝を薄情(君恩薄如紙)と詠じ主に情の部分に訴えてその

非を説く一方王安石が非難するのは繪畫によって人を選んだという元帝の愚行であり

根本にあるのはあくまでも第7句の理の部分である前掲從來型の昭君詩と比較すると白居

易の「昭君怨」はすでに〈翻案〉の作例と見なし得るものだが王安石の「明妃曲」はそれを

さらに一歩進めひとつの理を導入することで元帝の愚かさを際立たせているなお第

句7

は北宋邢居實「明妃引」の天上天仙骨格別人間畫工畫不得(天上の天仙

骨格

別なれ

ば人間の畫工

畫き得ず)の句に影響を與えていよう(一九八三年六月上海古籍出版社排印本『宋

詩紀事』卷三四)

第二は「其一」末尾の二句「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」である悲哀を基

調とし餘情をのこしつつ一篇を結ぶ從來型に對しこの末尾の二句では理を説き昭君を慰め

るという形態をとるまた陳皇后と武帝の故事を引き合いに出したという點も新しい試みで

あるただこれも先の例同樣宋以前に先行の類例が存在する理を説き昭君を慰めるとい

う形態の先行例としては中唐王叡の「解昭君怨」がある(『全唐詩』卷五五)

莫怨工人醜畫身

怨むこと莫かれ

工人の醜く身を畫きしを

莫嫌明主遣和親

嫌ふこと莫かれ

明主の和親に遣はせしを

當時若不嫁胡虜

當時

若し胡虜に嫁がずんば

祗是宮中一舞人

祗だ是れ

宮中の一舞人なるのみ

後半二句もし匈奴に嫁がなければ許多いる宮中の踊り子の一人に過ぎなかったのだからと

慰め「昭君の怨みを解」いているまた後宮の女性を引き合いに出す先行例としては晩

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 16: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

75

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

唐張蠙の「青塚」がある(『全唐詩』卷七二)

傾國可能勝效國

傾國

能く效國に勝るべけんや

無勞冥寞更思回

勞する無かれ

冥寞にて

さらに回るを思ふを

太眞雖是承恩死

太眞

是れ恩を承けて死すと雖も

祗作飛塵向馬嵬

祗だ飛塵と作りて

馬嵬に向るのみ

右の詩は昭君を楊貴妃と對比しつつ詠ずる第一句「傾國」は楊貴妃を「效國」は昭君

を指す「效國」の「效」は「獻」と同義自らの命を國に捧げるの意「冥寞」は黄泉の國

を指すであろう後半楊貴妃は玄宗の寵愛を受けて死んだがいまは塵と化して馬嵬の地を

飛びめぐるだけと詠じいまなお異國の地に憤墓(青塚)をのこす王昭君と對比している

王安石の詩も基本的にこの二首の着想と同一線上にあるものだが生前の王昭君に説いて

聞かせるという設定を用いたことでまず――死後の昭君の靈魂を慰めるという設定の――張

蠙の作例とは異なっている王安石はこの設定を生かすため生前の昭君が知っている可能性

の高い當時より數十年ばかり昔の武帝の故事を引き合いに出し作品としての合理性を高め

ているそして一篇を結ぶにあたって「人生失意無南北」という普遍的道理を持ち出すこと

によってこの詩を詠ずる意圖が單に王昭君の悲運を悲しむばかりではないことを言外に匂わ

せ作品に廣がりを生み出している王叡の詩があくまでも王昭君の身の上をうたうというこ

とに終始したのとこの點が明らかに異なろう

第三は「其二」第

句(「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」)「漢恩~」の句がおそら

9

10

く白居易「昭君怨」の「自是君恩薄如紙」に基づくであろうことはすでに前節評釋の部分で

記したしかし兩者の間で著しく違う點は王安石が異民族との對比の中で「漢恩」を「淺」

と表現したことである宋以前の昭君詩の中で昭君が夷狄に嫁ぐにいたる經緯に對し多少

なりとも批判的言辭を含む作品にあってその罪科を毛延壽に歸するものが系統的に存在した

ことは前に述べた通りであるその點白居易の詩は明確に君(元帝)を批判するという點

において傳統的作例とは一線を畫す白居易が諷諭詩を詩の第一義と考えた作者であり新

樂府運動の推進者であったことまた新樂府作品の一つ「胡旋女」では實際に同じ王朝の先

君である玄宗を暗に批判していること等々を思えばこの「昭君怨」における元帝批判は白

居易詩の中にあっては決して驚くに足らぬものであるがひとたびこれを昭君詩の系譜の中で

とらえ直せば相當踏み込んだ批判であるといってよい少なくとも白居易以前明確に元

帝の非を説いた作例は管見の及ぶ範圍では存在しない

そして王安石はさらに一歩踏み込み漢民族對異民族という構圖の中で元帝の冷薄な樣

を際立たせ新味を生み出したしかしこの「斬新」な着想ゆえに王安石が多くの代價を

拂ったことは次節で述べる通りである

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 17: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

76

北宋末呂本中(一八四―一一四五)に「明妃」詩(一九九一年一一月黄山書社安徽古籍叢書

『東莱詩詞集』詩集卷二)があり明らかに王安石のこの部分の影響を受けたとおぼしき箇所が

ある北宋後~末期におけるこの詩の影響を考える上で呂本中の作例は前掲秦觀の作例(前

節「其二」第

句評釋部分參照)邢居實の「明妃引」とともに重要であろう全十八句の中末

6

尾の六句を以下に掲げる

人生在相合

人生

相ひ合ふに在り

不論胡與秦

論ぜず

胡と秦と

但取眼前好

但だ取れ

眼前の好しきを

莫言長苦辛

言ふ莫かれ

長く苦辛すと

君看輕薄兒

看よ

輕薄の兒

何殊胡地人

何ぞ殊ならん

胡地の人に

場面設定の異同

つづいて作品の舞臺設定の側面から王安石の二首をみてみると「其

(3)一」は漢宮出發時と匈奴における日々の二つの場面から構成され「其二」は――「其一」の

二つの場面の間を埋める――出塞後の場面をもっぱら描き二首は相互補完の關係にあるそ

れぞれの場面は歴代の昭君詩で傳統的に取り上げられたものであるが細部にわたって吟味す

ると前述した幾つかの新しい部分を除いてもなお場面設定の面で先行作品には見られない

王安石の獨創が含まれていることに氣がつこう

まず「其一」においては家人の手紙が記される點これはおそらく末尾の二句を導き出

すためのものだが作品に臨場感を增す効果をもたらしている

「其二」においては歴代昭君詩において最も頻繁にうたわれる局面を用いながらいざ匈

奴の彊域に足を踏み入れんとする狀況(出塞)ではなく匈奴の彊域に足を踏み入れた後を描

くという點が新しい從來型の昭君出塞詩はほとんど全て作者の視點が漢の彊域にあり昭

君の出塞を背後から見送るという形で描寫するこの詩では同じく漢~胡という世界が一變

する局面に着目しながら昭君の悲哀が極點に達すると豫想される出塞の樣子は全く描かず

國境を越えた後の昭君に焦點を當てる昭君の悲哀の極點がクローズアップされた結果從

來の詩において出塞の場面が好まれ製作され續けたと推測されるのに對し王安石の詩は同樣

に悲哀をテーマとして場面を設定しつつもむしろピークを越えてより冷靜な心境の中での昭

君の索漠とした悲哀を描くことを主目的として場面選定がなされたように考えられるむろん

その背後に先行作品において描かれていない場面を描くことで昭君詩の傳統に新味を加え

んとする王安石の積極的な意志が働いていたことは想像に難くない

異同の意味すること

以上詩語rarr詩句rarr場面設定という三つの側面から王安石「明妃

(4)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 18: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

77

曲」と先行の昭君詩との異同を整理したそのそれぞれについて言えることは基本的に傳統

を繼承しながら隨所に王安石の獨創がちりばめられているということであろう傳統の繼

承と展開という問題に關しとくに樂府(古樂府擬古樂府)との關連の中で論じた次の松浦

友久氏の指摘はこの詩を考える上でも大いに參考になる

漢魏六朝という長い實作の歴史をへて唐代における古樂府(擬古樂府)系作品はそ

れぞれの樂府題ごとに一定のイメージが形成されているのが普通である作者たちにおけ

る樂府實作への關心は自己の個別的主體的なパトスをなまのまま表出するのではなく

むしろ逆に(擬古的手法に撤しつつ)それを當該樂府題の共通イメージに即して客體化し

より集約された典型的イメージに作りあげて再提示するというところにあったと考えて

よい

右の指摘は唐代詩人にとって樂府製作の最大の關心事が傳統の繼承(擬古)という點

にこそあったことを述べているもちろんこの指摘は唐代における古樂府(擬古樂府)系作

品について言ったものであり北宋における歌行體の作品である王安石「明妃曲」には直接

そのまま適用はできないしかし王安石の「明妃曲」の場合

杜甫岑參等盛唐の詩人

によって盛んに歌われ始めた樂府舊題を用いない歌行(「兵車行」「古柏行」「飲中八仙歌」等helliphellip)

が古樂府(擬古樂府)系作品に先行類似作品を全く持たないのとも明らかに異なっている

この詩は形式的には古樂府(擬古樂府)系作品とは認められないものの前述の通り西晉石

崇以來の長い昭君樂府の傳統の影響下にあり實質的には盛唐以來の歌行よりもずっと擬古樂

府系作品に近い内容を持っているその意味において王安石が「明妃曲」を詠ずるにあたっ

て十分に先行作品に注意を拂い夥しい傳統的詩語を運用した理由が前掲の指摘によって

容易に納得されるわけである

そして同時に王安石の「明妃曲」製作の關心がもっぱら「當該樂府題の共通イメージに

卽して客體化しより集約された典型的イメージに作りあげて再提示する」という點にだけあ

ったわけではないことも翻案の諸例等によって容易に知られる後世多くの批判を卷き起こ

したがこの翻案の諸例の存在こそが長くまたぶ厚い王昭君詩歌の傳統にあって王安石の

詩を際立った地位に高めている果たして後世のこれ程までの過剰反應を豫測していたか否か

は別として讀者の注意を引くべく王安石がこれら翻案の詩句を意識的意欲的に用いたであろ

うことはほぼ間違いない王安石が王昭君を詠ずるにあたって古樂府(擬古樂府)の形式

を採らずに歌行形式を用いた理由はやはりこの翻案部分の存在と大きく關わっていよう王

安石は樂府の傳統的歌いぶりに撤することに飽き足らずそれゆえ個性をより前面に出しやす

い歌行という樣式を採用したのだと考えられる本節で整理した王安石「明妃曲」と先行作

品との異同は〈樂府舊題を用いた歌行〉というこの詩の形式そのものの中に端的に表現さ

れているといっても過言ではないだろう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 19: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

78

「明妃曲」の文學史的價値

本章の冒頭において示した第一のこの詩の(文學的)評價の問題に關してここで略述し

ておきたい南宋の初め以來今日に至るまで王安石のこの詩はおりおりに取り上げられこ

の詩の評價をめぐってさまざまな議論が繰り返されてきたその大雜把な評價の歴史を記せば

南宋以來淸の初期まで總じて芳しくなく淸の中期以降淸末までは不評が趨勢を占める中

一定の評價を與えるものも間々出現し近現代では總じて好評價が與えられているこうした

評價の變遷の過程を丹念に檢討してゆくと歴代評者の注意はもっぱら前掲翻案の詩句の上に

注がれており論點は主として以下の二點に集中していることに氣がつくのである

まず第一が次節においても重點的に論ずるが「漢恩自淺胡自深」等の句が儒教的倫理と

抵觸するか否かという論點である解釋次第ではこの詩句が〈君larrrarr臣〉關係という對内

的秩序の問題に抵觸するに止まらず〈漢larrrarr胡〉という對外的民族間秩序の問題をも孕んで

おり社會的にそのような問題が表面化した時代にあって特にこの詩は痛烈な批判の對象と

なった皇都の南遷という屈辱的記憶がまだ生々しい南宋の初期にこの詩句に異議を差し挾

む士大夫がいたのもある意味で誠にもっともな理由があったと考えられるこの議論に火を

つけたのは南宋初の朝臣范沖(一六七―一一四一)でその詳細は次節に讓るここでは

おそらくその范沖にやや先行すると豫想される朱弁『風月堂詩話』の文を以下に掲げる

太學生雖以治經答義爲能其間甚有可與言詩者一日同舎生誦介甫「明妃曲」

至「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」「君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」

詠其語稱工有木抱一者艴然不悦曰「詩可以興可以怨雖以諷刺爲主然不失

其正者乃可貴也若如此詩用意則李陵偸生異域不爲犯名教漢武誅其家爲濫刑矣

當介甫賦詩時温國文正公見而惡之爲別賦二篇其詞嚴其義正蓋矯其失也諸

君曷不取而讀之乎」衆雖心服其論而莫敢有和之者(卷下一九八八年七月中華書局校

點本)

朱弁が太學に入ったのは『宋史』の傳(卷三七三)によれば靖康の變(一一二六年)以前の

ことである(次節の

參照)からすでに北宋の末には范沖同樣の批判があったことが知られ

(1)

るこの種の議論における爭點は「名教」を「犯」しているか否かという問題であり儒教

倫理が金科玉條として効力を最大限に發揮した淸末までこの點におけるこの詩のマイナス評

價は原理的に變化しようもなかったと考えられるだが

儒教の覊絆力が弱化希薄化し

統一戰線の名の下に民族主義打破が聲高に叫ばれた

近現代の中國では〈君―臣〉〈漢―胡〉

という從來不可侵であった二つの傳統的禁忌から解き放たれ評價の逆轉が起こっている

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 20: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

79

現代の「胡と漢という分け隔てを打破し大民族の傳統的偏見を一掃したhelliphellip封建時代に

あってはまことに珍しい(打破胡漢畛域之分掃除大民族的傳統偏見helliphellip在封建時代是十分難得的)」

や「これこそ我が國の封建時代にあって革新精神を具えた政治家王安石の度量と識見に富

む表現なのだ(這正是王安石作爲我國封建時代具有革新精神的政治家膽識的表現)」というような言葉に

代表される南宋以降のものと正反對の贊美は實はこうした社會通念の變化の上に成り立って

いるといってよい

第二の論點は翻案という技巧を如何に評價するかという問題に關連してのものである以

下にその代表的なものを掲げる

古今詩人詠王昭君多矣王介甫云「意態由來畫不成當時枉殺毛延壽」歐陽永叔

(a)云「耳目所及尚如此萬里安能制夷狄」白樂天云「愁苦辛勤顦顇盡如今却似畫

圖中」後有詩云「自是君恩薄於紙不須一向恨丹青」李義山云「毛延壽畫欲通神

忍爲黄金不爲人」意各不同而皆有議論非若石季倫駱賓王輩徒序事而已也(南

宋葛立方『韻語陽秋』卷一九中華書局校點本『歴代詩話』所收)

詩人詠昭君者多矣大篇短章率叙其離愁別恨而已惟樂天云「漢使却回憑寄語

(b)黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」不言怨恨而惓惓舊主高過

人遠甚其與「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」者異矣(明瞿佑『歸田詩話』卷上

中華書局校點本『歴代詩話續編』所收)

王介甫「明妃曲」二篇詩猶可觀然意在翻案如「家人萬里傳消息好在氈城莫

(c)相憶君不見咫尺長門閉阿嬌人生失意無南北」其後篇益甚故遭人彈射不已hellip

hellip大都詩貴入情不須立異後人欲求勝古人遂愈不如古矣(淸賀裳『載酒園詩話』卷

一「翻案」上海古籍出版社『淸詩話續編』所收)

-

古來咏明妃者石崇詩「我本漢家子將適單于庭」「昔爲匣中玉今爲糞上英」

(d)

1語太村俗惟唐人(李白)「今日漢宮人明朝胡地妾」二句不着議論而意味無窮

最爲錄唱其次則杜少陵「千載琵琶作胡語分明怨恨曲中論」同此意味也又次則白

香山「漢使却回憑寄語黄金何日贖蛾眉君王若問妾顔色莫道不如宮裏時」就本

事設想亦極淸雋其餘皆説和親之功謂因此而息戎騎之窺伺helliphellip王荊公詩「意態

由來畫不成當時枉殺毛延壽」此但謂其色之美非畫工所能形容意亦自新(淸

趙翼『甌北詩話』卷一一「明妃詩」『淸詩話續編』所收)

-

荊公專好與人立異其性然也helliphellip可見其處處別出意見不與人同也helliphellip咏明

(d)

2妃句「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」則更悖理之甚推此類也不見用於本朝

便可遠投外國曾自命爲大臣者而出此語乎helliphellip此較有筆力然亦可見爭難鬭險

務欲勝人處(淸趙翼『甌北詩話』卷一一「王荊公詩」『淸詩話續編』所收)

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 21: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

80

五つの文の中

-

は第一の論點とも密接に關係しておりさしあたって純粋に文學

(b)

(d)

2

的見地からコメントしているのは

-

の三者である

は抒情重視の立場

(a)

(c)

(d)

1

(a)

(c)

から翻案における主知的かつ作爲的な作詩姿勢を嫌ったものである「詩言志」「詩緣情」

という言に代表される詩經以來の傳統的詩歌觀に基づくものと言えよう

一方この中で唯一好意的な評價をしているのが

-

『甌北詩話』の一文である著者

(d)

1

の趙翼(一七二七―一八一四)は袁枚(一七一六―九七)との厚い親交で知られその詩歌觀に

も大きな影響を受けている袁枚の詩歌觀の要點は作品に作者個人の「性靈」が眞に表現さ

れているか否かという點にありその「性靈」を十分に表現し盡くすための手段としてさま

ざまな技巧や學問をも重視するその著『隨園詩話』には「詩は翻案を貴ぶ」と明記されて

おり(卷二第五則)趙翼のこのコメントも袁枚のこうした詩歌觀と無關係ではないだろう

明以來祖述すべき規範を唐詩(さらに初盛唐と中晩唐に細分される)とするか宋詩とするか

という唐宋優劣論を中心として擬古か反擬古かの侃々諤々たる議論が展開され明末淸初に

おいてそれが隆盛を極めた

賀裳『載酒園詩話』は淸初錢謙益(一五八二―一六七五)を

(c)

領袖とする虞山詩派の詩歌觀を代表した著作の一つでありまさしくそうした侃々諤々の議論

が闘わされていた頃明七子や竟陵派の攻撃を始めとして彼の主張を展開したものであるそ

して前掲の批判にすでに顯れ出ているように賀裳は盛唐詩を宗とし宋詩を輕視した詩人であ

ったこの後王士禎(一六三四―一七一一)の「神韻説」や沈德潛(一六七三―一七六九)の「格

調説」が一世を風靡したことは周知の通りである

こうした規範論爭は正しく過去の一定時期の作品に絕對的價値を認めようとする動きに外

ならないが一方においてこの間の價値觀の變轉はむしろ逆にそれぞれの價値の相對化を促

進する効果をもたらしたように感じられる明の七子の「詩必盛唐」のアンチテーゼとも

いうべき盛唐詩が全て絕對に是というわけでもなく宋詩が全て絕對に非というわけでもな

いというある種の平衡感覺が規範論爭のあけくれの末袁枚の時代には自然と養われつつ

あったのだと考えられる本章の冒頭で掲げた『紅樓夢』は袁枚と同時代に誕生した小説であ

り『紅樓夢』の指摘もこうした時代的平衡感覺を反映して生まれたのだと推察される

このように第二の論點も密接に文壇の動靜と關わっておりひいては詩經以來の傳統的

詩歌觀とも大いに關係していたただ第一の論點と異なりはや淸代の半ばに擁護論が出來し

たのはひとつにはことが文學の技術論に屬するものであって第一の論點のように文學の領

域を飛び越えて體制批判にまで繋がる危險が存在しなかったからだと判斷できる袁枚同樣

翻案是認の立場に立つと豫想されながら趙翼が「意態由來畫不成」の句には一定の評價を與

えつつ(

-

)「漢恩自淺胡自深」の句には痛烈な批判を加える(

-

)という相矛盾する

(d)

1

(d)

2

態度をとったのはおそらくこういう理由によるものであろう

さて今日的にこの詩の文學的評價を考える場合第一の論點はとりあえず除外して考え

てよいであろうのこる第二の論點こそが決定的な意味を有しているそして第二の論點を考

察する際「翻案」という技法そのものの特質を改めて檢討しておく必要がある

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 22: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

81

先行の專論に依據して「翻案」の特質を一言で示せば「反常合道」つまり世俗の定論や

定説に反對しそれを覆して新説を立てそれでいて道理に合致していることである「反常」

と「合道」の兩者の間ではむろん前者が「翻案」のより本質的特質を言い表わしていようよ

ってこの技法がより効果的に機能するためには前提としてある程度すでに定説定論が確

立している必要があるその點他國の古典文學に比して中國古典詩歌は悠久の歴史を持ち

錄固な傳統重視の精神に支えらており中國古典詩歌にはすでに「翻案」という技法が有効に

機能する好條件が總じて十分に具わっていたと一般的に考えられるだがその中で「翻案」

がどの題材にも例外なく頻用されたわけではないある限られた分野で特に頻用されたことが

從來指摘されているそれは題材的に時代を超えて繼承しやすくかつまた一定の定説を確

立するのに容易な明確な事實と輪郭を持った領域

詠史詠物等の分野である

そして王昭君詩歌と詠史のジャンルとは不卽不離の關係にあるその意味においてこ

の系譜の詩歌に「翻案」が導入された必然性は明らかであろうまた王昭君詩歌はまず樂府

の領域で生まれ歌い繼がれてきたものであった樂府系の作品にあって傳統的イメージの

繼承という點が不可缺の要素であることは先に述べた詩歌における傳統的イメージとはま

さしく詩歌のイメージ領域の定論定説と言うに等しいしたがって王昭君詩歌は題材的

特質のみならず樣式的特質からもまた「翻案」が導入されやすい條件が十二分に具備して

いたことになる

かくして昭君詩の系譜において中唐以降「翻案」は實際にしばしば運用されこの系

譜の詩歌に新鮮味と彩りを加えてきた昭君詩の系譜にあって「翻案」はさながら傳統の

繼承と展開との間のテコの如き役割を果たしている今それを全て否定しそれを含む詩を

抹消してしまったならば中唐以降の昭君詩は實に退屈な内容に變じていたに違いないした

がってこの系譜の詩歌における實態に卽して考えればこの技法の持つ意義は非常に大きい

そして王安石の「明妃曲」は白居易の作例に續いて結果的に翻案のもつ功罪を喧傳する

役割を果たしたそれは同時代的に多數の唱和詩を生み後世紛々たる議論を引き起こした事

實にすでに證明されていようこのような事實を踏まえて言うならば今日の中國における前

掲の如き過度の贊美を加える必要はないまでもこの詩に文學史的に特筆する價値があること

はやはり認めるべきであろう

昭君詩の系譜において盛唐の李白杜甫が主として表現の面で中唐の白居易が着想の面

で新展開をもたらしたとみる考えは妥當であろう二首の「明妃曲」にちりばめられた詩語や

その着想を考慮すると王安石は唐詩における突出した三者の存在を十分に意識していたこと

が容易に知られるそして全體の八割前後の句に傳統を踏まえた表現を配置しのこり二割

に翻案の句を配置するという配分に唐の三者の作品がそれぞれ個別に表現していた新展開を

何れもバランスよく自己の詩の中に取り込まんとする王安石の意欲を讀み取ることができる

各表現に着目すれば確かに翻案の句に特に强いインパクトがあることは否めないが一篇

全體を眺めやるとのこる八割の詩句が適度にその突出を緩和し哀感と説理の間のバランス

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 23: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

82

を保つことに成功している儒教倫理に照らしての是々非々を除けば「明妃曲」におけるこ

の形式は傳統の繼承と展開という難問に對して王安石が出したひとつの模範回答と見なすこ

とができる

「漢恩自淺胡自深」

―歴代批判の系譜―

前節において王安石「明妃曲」と從前の王昭君詩歌との異同を論じさらに「翻案」とい

う表現手法に關連して該詩の評價の問題を略述した本節では該詩に含まれる「翻案」句の

中特に「其二」第九句「漢恩自淺胡自深」および「其一」末句「人生失意無南北」を再度取

り上げ改めてこの兩句に内包された問題點を提示して問題の所在を明らかにしたいまず

最初にこの兩句に對する後世の批判の系譜を素描しておく後世の批判は宋代におきた批

判を基礎としてそれを敷衍發展させる形で行なわれているそこで本節ではまず

宋代に

(1)

おける批判の實態を槪觀し續いてこれら宋代の批判に對し最初に本格的全面的な反論を試み

淸代中期の蔡上翔の言説を紹介し然る後さらにその蔡上翔の言説に修正を加えた

近現

(2)

(3)

代の學者の解釋を整理する前節においてすでに主として文學的側面から當該句に言及した

ものを掲載したが以下に記すのは主として思想的側面から當該句に言及するものである

宋代の批判

當該翻案句に關し最初に批判的言辭を展開したのは管見の及ぶ範圍では

(1)王回(字深父一二三―六五)である南宋李壁『王荊文公詩箋注』卷六「明妃曲」其一の

注に黄庭堅(一四五―一一五)の跋文が引用されており次のようにいう

荊公作此篇可與李翰林王右丞竝驅爭先矣往歳道出潁陰得見王深父先生最

承教愛因語及荊公此詩庭堅以爲詞意深盡無遺恨矣深父獨曰「不然孔子曰

『夷狄之有君不如諸夏之亡也』『人生失意無南北』非是」庭堅曰「先生發此德

言可謂極忠孝矣然孔子欲居九夷曰『君子居之何陋之有』恐王先生未爲失也」

明日深父見舅氏李公擇曰「黄生宜擇明師畏友與居年甚少而持論知古血脈未

可量」

王回は福州侯官(福建省閩侯)の人(ただし一族は王回の代にはすでに潁州汝陰〔安徽省阜陽〕に

移居していた)嘉祐二年(一五七)に三五歳で進士科に及第した後衛眞縣主簿(河南省鹿邑縣

東)に任命されたが着任して一年たたぬ中に上官と意見が合わず病と稱し官を辭して潁

州に退隱しそのまま治平二年(一六五)に死去するまで再び官に就くことはなかった『宋

史』卷四三二「儒林二」に傳がある

文は父を失った黄庭堅が舅(母の兄弟)の李常(字公擇一二七―九)の許に身を寄

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 24: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

83

せ李常に就きしたがって學問を積んでいた嘉祐四~七年(一五九~六二黄庭堅一五~一八歳)

の四年間における一齣を回想したものであろう時に王回はすでに官を辭して潁州に退隱し

ていた王安石「明妃曲」は通説では嘉祐四年の作品である(第三章

「製作時期の再檢

(1)

討」の項參照)文は通行の黄庭堅の別集(四部叢刊『豫章黄先生文集』)には見えないが假に

眞を傳えたものだとするならばこの跋文はまさに王安石「明妃曲」が公表されて間もない頃

のこの詩に對する士大夫の反應の一端を物語っていることになるしかも王安石が新法を

提唱し官界全體に黨派的發言がはびこる以前の王安石に對し政治的にまだ比較的ニュートラ

ルな時代の議論であるから一層傾聽に値する

「詞意

深盡にして遺恨無し」と本詩を手放しで絕贊する青年黄庭堅に對し王回は『論

語』(八佾篇)の孔子の言葉を引いて「人生失意無南北」の句を批判した一方黄庭堅はす

でに在野の隱士として一かどの名聲を集めていた二歳以上も年長の王回の批判に動ずるこ

となくやはり『論語』(子罕篇)の孔子の言葉を引いて卽座にそれに反駁した冒頭李白

王維に比肩し得ると絕贊するように黄庭堅は後年も青年期と變わらず本詩を最大級に評價

していた樣である

ところで前掲の文だけから判斷すると批判の主王回は當時思想的に王安石と全く相

容れない存在であったかのように錯覺されるこのため現代の解説書の中には王回を王安

石の敵對者であるかの如く記すものまで存在するしかし事實はむしろ全くの正反對で王

回は紛れもなく當時の王安石にとって數少ない知己の一人であった

文の對談を嘉祐六年前後のことと想定すると兩者はそのおよそ一五年前二十代半ば(王

回は王安石の二歳年少)にはすでに知り合い肝膽相照らす仲となっている王安石の遊記の中

で最も人口に膾炙した「遊褒禅山記」は三十代前半の彼らの交友の有樣を知る恰好のよすが

でもあるまた嘉祐年間の前半にはこの兩者にさらに曾鞏と汝陰の處士常秩(一一九

―七七字夷甫)とが加わって前漢末揚雄の人物評價をめぐり書簡上相當熱のこもった

眞摯な議論が闘わされているこの前後王安石が王回に寄せた複數の書簡からは兩者がそ

れぞれ相手を切磋琢磨し合う友として認知し互いに敬意を抱きこそすれ感情的わだかまり

は兩者の間に全く介在していなかったであろうことを窺い知ることができる王安石王回が

ともに力説した「朋友の道」が二人の交際の間では誠に理想的な形で實践されていた樣であ

る何よりもそれを傍證するのが治平二年(一六五)に享年四三で死去した王回を悼んで

王安石が認めた祭文であろうその中で王安石は亡き母がかつて王回のことを最良の友とし

て推賞していたことを回憶しつつ「嗚呼

天よ既に吾が母を喪ぼし又た吾が友を奪へり

卽ちには死せずと雖も吾

何ぞ能く久しからんや胸を摶ちて一に慟き心

摧け

朽ち

なげ

泣涕して文を爲せり(嗚呼天乎既喪吾母又奪吾友雖不卽死吾何能久摶胸一慟心摧志朽泣涕

爲文)」と友を失った悲痛の心情を吐露している(『臨川先生文集』卷八六「祭王回深甫文」)母

の死と竝べてその死を悼んだところに王安石における王回の存在が如何に大きかったかを讀

み取れよう

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 25: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

84

再び文に戻る右で述べた王回と王安石の交遊關係を踏まえると文は當時王安石に

對し好意もしくは敬意を抱く二人の理解者が交わした對談であったと改めて位置づけること

ができるしかしこのように王安石にとって有利な條件下の議論にあってさえすでにとう

てい埋めることのできない評價の溝が生じていたことは十分注意されてよい兩者の差異は

該詩を純粋に文學表現の枠組の中でとらえるかそれとも名分論を中心に据え儒教倫理に照ら

して解釋するかという解釋上のスタンスの相異に起因している李白と王維を持ち出しま

た「詞意深盡」と述べていることからも明白なように黄庭堅は本詩を歴代の樂府歌行作品の

系譜の中に置いて鑑賞し文學的見地から王安石の表現力を評價した一方王回は表現の

背後に流れる思想を問題視した

この王回と黄庭堅の對話ではもっぱら「其一」末句のみが取り上げられ議論の爭點は北

の夷狄と南の中國の文化的優劣という點にあるしたがって『論語』子罕篇の孔子の言葉を

持ち出した黄庭堅の反論にも一定の効力があっただが假にこの時「其一」のみならず

「其二」「漢恩自淺胡自深」の句も同時に議論の對象とされていたとしたらどうであろうか

むろんこの句を如何に解釋するかということによっても左右されるがここではひとまず南宋

~淸初の該句に負的評價を下した評者の解釋を參考としたいその場合王回の批判はこのま

ま全く手を加えずともなお十分に有効であるが君臣關係が中心の爭點となるだけに黄庭堅

の反論はこのままでは成立し得なくなるであろう

前述の通りの議論はそもそも王安石に對し異議を唱えるということを目的として行なわ

れたものではなかったと判斷できるので結果的に評價の對立はさほど鮮明にされてはいない

だがこの時假に二首全體が議論の對象とされていたならば自ずと兩者の間の溝は一層深ま

り對立の度合いも一層鮮明になっていたと推察される

兩者の議論の中にすでに潛在的に存在していたこのような評價の溝は結局この後何らそれ

を埋めようとする試みのなされぬまま次代に持ち越されたしかも次代ではそれが一層深く

大きく廣がり益々埋め難い溝越え難い深淵となって顯在化して現れ出ているのである

に續くのは北宋末の太學の狀況を傳えた朱弁『風月堂詩話』の一節である(本章

に引用)朱弁(―一一四四)が太學に在籍した時期はおそらく北宋末徽宗の崇寧年間(一

一二―六)のことと推定され文も自ずとその時期のことを記したと考えられる王安

石の卒年からはおよそ二十年が「明妃曲」公表の年からは約

年がすでに經過している北

35

宋徽宗の崇寧年間といえば全國各地に元祐黨籍碑が立てられ舊法黨人の學術文學全般を

禁止する勅令の出された時代であるそれに反して王安石に對する評價は正に絕頂にあった

崇寧三年(一一四)六月王安石が孔子廟に配享された一事によってもそれは容易に理解さ

れよう文の文脈はこうした時代背景を踏まえた上で讀まれることが期待されている

このような時代的氣運の中にありなおかつ朝政の意向が最も濃厚に反映される官僚養成機

關太學の中にあって王安石の翻案句に敢然と異論を唱える者がいたことを文は傳えて

いる木抱一なるその太學生はもし該句の思想を認めたならば前漢の李陵が匈奴に降伏し

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 26: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

85

單于の娘と婚姻を結んだことも「名教」を犯したことにならず武帝が李陵の一族を誅殺した

ことがむしろ非情から出た「濫刑(過度の刑罰)」ということになると批判したしかし當時

の太學生はみな心で同意しつつも時代が時代であったから一人として表立ってこれに贊同

する者はいなかった――衆雖心服其論莫敢有和之者という

しかしこの二十年後金の南攻に宋朝が南遷を餘儀なくされやがて北宋末の朝政に對す

る批判が表面化するにつれ新法の創案者である王安石への非難も高まった次の南宋初期の

文では該句への批判はより先鋭化している

范沖對高宗嘗云「臣嘗於言語文字之間得安石之心然不敢與人言且如詩人多

作「明妃曲」以失身胡虜爲无窮之恨讀之者至於悲愴感傷安石爲「明妃曲」則曰

「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」然則劉豫不是罪過漢恩淺而虜恩深也今之

背君父之恩投拜而爲盗賊者皆合於安石之意此所謂壞天下人心術孟子曰「无

父无君是禽獸也」以胡虜有恩而遂忘君父非禽獸而何公語意固非然詩人務

一時爲新奇求出前人所未道而不知其言之失也然范公傅致亦深矣

文は李壁注に引かれた話である(「公語~」以下は李壁のコメント)范沖(字元長一六七

―一一四一)は元祐の朝臣范祖禹(字淳夫一四一―九八)の長子で紹聖元年(一九四)の

進士高宗によって神宗哲宗兩朝の實錄の重修に抜擢され「王安石が法度を變ずるの非蔡

京が國を誤まるの罪を極言」した(『宋史』卷四三五「儒林五」)范沖は紹興六年(一一三六)

正月に『神宗實錄』を續いて紹興八年(一一三八)九月に『哲宗實錄』の重修を完成させた

またこの後侍讀を兼ね高宗の命により『春秋左氏傳』を講義したが高宗はつねに彼を稱

贊したという(『宋史』卷四三五)文はおそらく范沖が侍讀を兼ねていた頃の逸話であろう

范沖は己れが元來王安石の言説の理解者であると前置きした上で「漢恩自淺胡自深」の

句に對して痛烈な批判を展開している文中の劉豫は建炎二年(一一二八)十二月濟南府(山

東省濟南)

知事在任中に金の南攻を受け降伏しさらに宋朝を裏切って敵國金に内通しその

結果建炎四年(一一三)に金の傀儡國家齊の皇帝に卽位した人物であるしかも劉豫は

紹興七年(一一三七)まで金の對宋戰線の最前線に立って宋軍と戰い同時に宋人を自國に招

致して南宋王朝内部の切り崩しを畫策した范沖は該句の思想を容認すれば劉豫のこの賣

國行爲も正當化されると批判するまた敵に寢返り掠奪を働く輩はまさしく王安石の詩

句の思想と合致しゆえに該句こそは「天下の人心を壞す術」だと痛罵するそして極めつ

けは『孟子』(「滕文公下」)の言葉を引いて「胡虜に恩有るを以て而して遂に君父を忘るる

は禽獸に非ずして何ぞや」と吐き棄てた

この激烈な批判に對し注釋者の李壁(字季章號雁湖居士一一五九―一二二二)は基本的

に王安石の非を追認しつつも人の言わないことを言おうと努力し新奇の表現を求めるのが詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 27: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

86

人の性であるとして王安石を部分的に辨護し范沖の解釋は餘りに强引なこじつけ――傅致亦

深矣と結んでいる『王荊文公詩箋注』の刊行は南宋寧宗の嘉定七年(一二一四)前後のこ

とであるから李壁のこのコメントも南宋も半ばを過ぎたこの當時のものと判斷される范沖

の發言からはさらに

年餘の歳月が流れている

70

helliphellip其詠昭君曰「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」推此言也苟心不相知臣

可以叛其君妻可以棄其夫乎其視白樂天「黄金何日贖娥眉」之句眞天淵懸絕也

文は羅大經『鶴林玉露』乙編卷四「荊公議論」の中の一節である(一九八三年八月中華

書局唐宋史料筆記叢刊本)『鶴林玉露』甲~丙編にはそれぞれ羅大經の自序があり甲編の成

書が南宋理宗の淳祐八年(一二四八)乙編の成書が淳祐一一年(一二五一)であることがわか

るしたがって羅大經のこの發言も自ずとこの三~四年間のものとなろう時は南宋滅

亡のおよそ三十年前金朝が蒙古に滅ぼされてすでに二十年近くが經過している理宗卽位以

後ことに淳祐年間に入ってからは蒙古軍の局地的南侵が繰り返され文の前後はおそら

く日增しに蒙古への脅威が高まっていた時期と推察される

しかし羅大經は木抱一や范沖とは異なり對異民族との關係でこの詩句をとらえよ

うとはしていない「該句の意味を推しひろめてゆくとかりに心が通じ合わなければ臣下

が主君に背いても妻が夫を棄てても一向に構わぬということになるではないか」という風に

あくまでも對内的儒教倫理の範疇で論じている羅大經は『鶴林玉露』乙編の別の條(卷三「去

婦詞」)でも該句に言及し該句は「理に悖り道を傷ること甚だし」と述べているそして

文學の領域に立ち返り表現の卓抜さと道義的内容とのバランスのとれた白居易の詩句を稱贊

する

以上四種の文獻に登場する六人の士大夫を改めて簡潔に時代順に整理し直すと①該詩

公表當時の王回と黄庭堅rarr(約

年)rarr北宋末の太學生木抱一rarr(約

年)rarr南宋初期

35

35

の范沖rarr(約

年)rarr④南宋中葉の李壁rarr(約

年)rarr⑤南宋晩期の羅大經というようにな

70

35

る①

は前述の通り王安石が新法を斷行する以前のものであるから最も黨派性の希薄な

最もニュートラルな狀況下の發言と考えてよい②は新舊兩黨の政爭の熾烈な時代新法黨

人による舊法黨人への言論彈壓が最も激しかった時代である③は朝廷が南に逐われて間も

ない頃であり國境附近では實際に戰いが繰り返されていた常時異民族の脅威にさらされ

否が應もなく民族の結束が求められた時代でもある④と⑤は③同ようにまず異民族の脅威

がありその對處の方法として和平か交戰かという外交政策上の闘爭が繰り廣げられさらに

それに王學か道學(程朱の學)かという思想上の闘爭が加わった時代であった

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 28: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

87

③~⑤は國土の北半分を奪われるという非常事態の中にあり「漢恩自淺胡自深人生樂在

相知心」や「人生失意無南北」という詩句を最早純粋に文學表現としてのみ鑑賞する冷靜さ

が士大夫社會全體に失われていた時代とも推察される④の李壁が注釋者という本來王安

石文學を推賞擁護すべき立場にありながら該句に部分的辨護しか試みなかったのはこうい

う時代背景に配慮しかつまた自らも注釋者という立場を超え民族的アイデンティティーに立

ち返っての結果であろう

⑤羅大經の發言は道學者としての彼の側面が鮮明に表れ出ている對外關係に言及してな

いのは羅大經の經歴(地方の州縣の屬官止まりで中央の官職に就いた形跡がない)とその人となり

に關係があるように思われるつまり外交を論ずる立場にないものが背伸びして聲高に天下

國家を論ずるよりも地に足のついた身の丈の議論の方を選んだということだろう何れにせ

よ發言の背後に道學の勝利という時代背景が浮かび上がってくる

このように①北宋後期~⑤南宋晩期まで約二世紀の間王安石「明妃曲」はつねに「今」

という時代のフィルターを通して解釋が試みられそれぞれの時代背景の中で道義に基づいた

是々非々が論じられているだがこの一連の批判において何れにも共通して缺けている視點

は作者王安石自身の表現意圖が一體那邊にあったかという基本的な問いかけである李壁

の發言を除くと他の全ての評者がこの點を全く考察することなく獨自の解釋に基づき直接

各自の意見を披瀝しているこの姿勢は明淸代に至ってもほとんど變化することなく踏襲

されている(明瞿佑『歸田詩話』卷上淸王士禎『池北偶談』卷一淸趙翼『甌北詩話』卷一一等)

初めて本格的にこの問題を問い返したのは王安石の死後すでに七世紀餘が經過した淸代中葉

の蔡上翔であった

蔡上翔の解釋(反論Ⅰ)

蔡上翔は『王荊公年譜考略』卷七の中で

所掲の五人の評者

(2)

(1)

に對し(の朱弁『風月詩話』には言及せず)王安石自身の表現意圖という點からそれぞれ個

別に反論しているまず「其一」「人生失意無南北」句に關する王回と黄庭堅の議論に對

しては以下のように反論を展開している

予謂此詩本意明妃在氈城北也阿嬌在長門南也「寄聲欲問塞南事祗有年

年鴻雁飛」則設爲明妃欲問之辭也「家人萬里傳消息好在氈城莫相憶」則設爲家

人傳答聊相慰藉之辭也若曰「爾之相憶」徒以遠在氈城不免失意耳獨不見漢家

宮中咫尺長門亦有失意之人乎此則詩人哀怨之情長言嗟歎之旨止此矣若如深

父魯直牽引『論語』別求南北義例要皆非詩本意也

反論の要點は末尾の部分に表れ出ている王回と黄庭堅はそれぞれ『論語』を援引して

この作品の外部に「南北義例」を求めたがこのような解釋の姿勢はともに王安石の表現意

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 29: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

88

圖を汲んでいないという「人生失意無南北」句における王安石の表現意圖はもっぱら明

妃の失意を慰めることにあり「詩人哀怨之情」の發露であり「長言嗟歎之旨」に基づいた

ものであって他意はないと蔡上翔は斷じている

「其二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」句に對する南宋期の一連の批判に對しては

總論各論を用意して反論を試みているまず總論として漢恩の「恩」の字義を取り上げて

いる蔡上翔はこの「恩」の字を「愛幸」=愛寵の意と定義づけし「君恩」「恩澤」等

天子がひろく臣下や民衆に施す惠みいつくしみの義と區別したその上で明妃が數年間後

宮にあって漢の元帝の寵愛を全く得られず匈奴に嫁いで單于の寵愛を得たのは紛れもない史

實であるから「漢恩~」の句は史實に則り理に適っていると主張するまた蔡上翔はこ

の二句を第八句にいう「行人」の發した言葉と解釋し明言こそしないがこれが作者の考え

を直接披瀝したものではなく作中人物に託して明妃を慰めるために設定した言葉であると

している

蔡上翔はこの總論を踏まえて范沖李壁羅大經に對して個別に反論するまず范沖

に對しては范沖が『孟子』を引用したのと同ように『孟子』を引いて自説を補强しつつ反

論する蔡上翔は『孟子』「梁惠王上」に「今

恩は以て禽獸に及ぶに足る」とあるのを引

愛禽獸猶可言恩則恩之及於人與人臣之愛恩於君自有輕重大小之不同彼嘵嘵

者何未之察也

「禽獸をいつくしむ場合でさえ〈恩〉といえるのであるから恩愛が人民に及ぶという場合

の〈恩〉と臣下が君に寵愛されるという場合の〈恩〉とでは自ずから輕重大小の違いがある

それをどうして聲を荒げて論評するあの輩(=范沖)には理解できないのだ」と非難している

さらに蔡上翔は范沖がこれ程までに激昂した理由としてその父范祖禹に關連する私怨を

指摘したつまり范祖禹は元祐年間に『神宗實錄』修撰に參與し王安石の罪科を悉く記し

たため王安石の娘婿蔡卞の憎むところとなり嶺南に流謫され化州(廣東省化州)にて

客死した范沖は神宗と哲宗の實錄を重修し(朱墨史)そこで父同樣再び王安石の非を極論し

たがこの詩についても同ように父子二代に渉る宿怨を晴らすべく言葉を極めたのだとする

李壁については「詩人

一時に新奇を爲すを務め前人の未だ道はざる所を出だすを求む」

という條を問題視する蔡上翔は「其二」の各表現には「新奇」を追い求めた部分は一つも

ないと主張する冒頭四句は明妃の心中が怨みという狀況を超え失意の極にあったことを

いい酒を勸めつつ目で天かける鴻を追うというのは明妃の心が胡にはなく漢にあることを端

的に述べており從來の昭君詩の意境と何ら變わらないことを主張するそして第七八句

琵琶の音色に侍女が涙を流し道ゆく旅人が振り返るという表現も石崇「王明君辭」の「僕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 30: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

89

御涕流離轅馬悲且鳴」と全く同じであり末尾の二句も李白(「王昭君」其一)や杜甫(「詠懷

古跡五首」其三)と違いはない(

參照)と强調する問題の「漢恩~」二句については旅

(3)

人の慰めの言葉であって其一「好在氈城莫相憶」(家人の慰めの言葉)と同じ趣旨であると

する蔡上翔の意を汲めば其一「好在氈城莫相憶」句に對し歴代評者は何も異論を唱えてい

ない以上この二句に對しても同樣の態度で接するべきだということであろうか

最後に羅大經については白居易「王昭君二首」其二「黄金何日贖蛾眉」句を絕贊したこ

とを批判する一度夷狄に嫁がせた宮女をただその美貌のゆえに金で買い戻すなどという發

想は兒戲に等しいといいそれを絕贊する羅大經の見識を疑っている

羅大經は「明妃曲」に言及する前王安石の七絕「宰嚭」(『臨川先生文集』卷三四)を取り上

げ「但願君王誅宰嚭不愁宮裏有西施(但だ願はくは君王の宰嚭を誅せんことを宮裏に西施有るを

愁へざれ)」とあるのを妲己(殷紂王の妃)褒姒(周幽王の妃)楊貴妃の例を擧げ非難して

いるまた范蠡が西施を連れ去ったのは越が將來美女によって滅亡することのないよう禍

根を取り除いたのだとし後宮に美女西施がいることなど取るに足らないと詠じた王安石の

識見が范蠡に遠く及ばないことを述べている

この批判に對して蔡上翔はもし羅大經が絕贊する白居易の詩句の通り黄金で王昭君を買

い戻し再び後宮に置くようなことがあったならばそれこそ妲己褒姒楊貴妃と同じ結末を

招き漢王朝に益々大きな禍をのこしたことになるではないかと反論している

以上が蔡上翔の反論の要點である蔡上翔の主張は著者王安石の表現意圖を考慮したと

いう點において歴代の評論とは一線を畫し獨自性を有しているだが王安石を辨護する

ことに急な餘り論理の破綻をきたしている部分も少なくないたとえばそれは李壁への反

論部分に最も顯著に表れ出ているこの部分の爭點は王安石が前人の言わない新奇の表現を

追求したか否かということにあるしかも最大の問題は李壁注の文脈からいって「漢

恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句であったはずである蔡上翔は他の十句については

傳統的イメージを踏襲していることを證明してみせたが肝心のこの二句については王安石

自身の詩句(「明妃曲」其一)を引いただけで先行例には言及していないしたがって結果的

に全く反論が成立していないことになる

また羅大經への反論部分でも前の自説と相矛盾する態度の議論を展開している蔡上翔

は王回と黄庭堅の議論を斷章取義として斥け一篇における作者の構想を無視し數句を單獨

に取り上げ論ずることの危險性を示してみせた「漢恩~」の二句についてもこれを「行人」

が發した言葉とみなし直ちに王安石自身の思想に結びつけようとする歴代の評者の姿勢を非

難しているしかしその一方で白居易の詩句に對しては彼が非難した歴代評者と全く同

樣の過ちを犯している白居易の「黄金何日贖蛾眉」句は絕句の承句に當り前後關係から明

らかに王昭君自身の發したことばという設定であることが理解されるつまり作中人物に語

らせるという點において蔡上翔が主張する王安石「明妃曲」の翻案句と全く同樣の設定であ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 31: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

90

るにも拘らず蔡上翔はこの一句のみを單獨に取り上げ歴代評者が「漢恩~」二句に浴び

せかけたのと同質の批判を展開した一方で歴代評者の斷章取義を批判しておきながら一

方で斷章取義によって歴代評者を批判するというように批評の基本姿勢に一貫性が保たれて

いない

以上のように蔡上翔によって初めて本格的に作者王安石の立場に立った批評が展開さ

れたがその結果北宋以來の評價の溝が少しでも埋まったかといえば答えは否であろう

たとえば次のコメントが暗示するようにhelliphellip

もしかりに范沖が生き返ったならばけっして蔡上翔の反論に承服できないであろう

范沖はきっとこういうに違いない「よしんば〈恩〉の字を愛幸の意と解釋したところで

相變わらず〈漢淺胡深〉であって中國を差しおき夷狄を第一に考えていることに變わり

はないだから王安石は相變わらず〈禽獸〉なのだ」と

假使范沖再生決不能心服他會説儘管就把「恩」字釋爲愛幸依然是漢淺胡深未免外中夏而内夷

狄王安石依然是「禽獣」

しかし北宋以來の斷章取義的批判に對し反論を展開するにあたりその適否はひとまず措

くとして蔡上翔が何よりも作品内部に着目し主として作品構成の分析を通じてより合理的

な解釋を追求したことは近現代の解釋に明確な方向性を示したと言うことができる

近現代の解釋(反論Ⅱ)

近現代の學者の中で最も初期にこの翻案句に言及したのは朱

(3)自淸(一八九八―一九四八)である彼は歴代評者の中もっぱら王回と范沖の批判にのみ言及

しあくまでも文學作品として本詩をとらえるという立場に撤して兩者の批判を斷章取義と

結論づけている個々の解釋では槪ね蔡上翔の意見をそのまま踏襲しているたとえば「其

二」「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」の二句について朱自淸は「けっして明妃の不平の

言葉ではなくまた王安石自身の議論でもなくすでにある人が言っているようにただ〈沙

上行人〉が獨り言を言ったに過ぎないのだ(這決不是明妃的嘀咕也不是王安石自己的議論已有人

説過只是沙上行人自言自語罷了)」と述べているその名こそ明記されてはいないが朱自淸が

蔡上翔の主張を積極的に支持していることがこれによって理解されよう

朱自淸に續いて本詩を論じたのは郭沫若(一八九二―一九七八)である郭沫若も文中しば

しば蔡上翔に言及し實際にその解釋を土臺にして自説を展開しているまず「其一」につ

いては蔡上翔~朱自淸同樣王回(黄庭堅)の斷章取義的批判を非難するそして末句「人

生失意無南北」は家人のことばとする朱自淸と同一の立場を採り該句の意義を以下のように

説明する

「人生失意無南北」が家人に託して昭君を慰め勵ました言葉であることはむろん言う

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 32: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

91

までもないしかしながら王昭君の家人は秭歸の一般庶民であるからこの句はむしろ

庶民の統治階層に對する怨みの心理を隱さず言い表しているということができる娘が

徴集され後宮に入ることは庶民にとって榮譽と感じるどころかむしろ非常な災難であ

り政略として夷狄に嫁がされることと同じなのだ「南」は南の中國全體を指すわけで

はなく統治者の宮廷を指し「北」は北の匈奴全域を指すわけではなく匈奴の酋長單

于を指すのであるこれら統治階級が女性を蹂躙し人民を蹂躙する際には實際東西南

北の別はないしたがってこの句の中に民間の心理に對する王安石の理解の度合いを

まさに見て取ることができるまたこれこそが王安石の精神すなわち人民に同情し兼

併者をいち早く除こうとする精神であるといえよう

「人生失意無南北」是託爲慰勉之辭固不用説然王昭君的家人是秭歸的老百姓這句話倒可以説是

表示透了老百姓對于統治階層的怨恨心理女兒被徴入宮在老百姓并不以爲榮耀無寧是慘禍與和番

相等的「南」并不是説南部的整個中國而是指的是統治者的宮廷「北」也并不是指北部的整個匈奴而

是指匈奴的酋長單于這些統治階級蹂躙女性蹂躙人民實在是無分東西南北的這兒正可以看出王安

石對于民間心理的瞭解程度也可以説就是王安石的精神同情人民而摧除兼併者的精神

「其二」については主として范沖の非難に對し反論を展開している郭沫若の獨自性が

最も顯著に表れ出ているのは「其二」「漢恩自淺胡自深」句の「自」の字をめぐる以下の如

き主張であろう

私の考えでは范沖李雁湖(李壁)蔡上翔およびその他の人々は王安石に同情

したものも王安石を非難したものも何れもこの王安石の二句の眞意を理解していない

彼らの缺点は二つの〈自〉の字を理解していないことであるこれは〈自己〉の自であ

って〈自然〉の自ではないつまり「漢恩自淺胡自深」は「恩が淺かろうと深かろう

とそれは人樣の勝手であって私の關知するところではない私が求めるものはただ自分

の心を理解してくれる人それだけなのだ」という意味であるこの句は王昭君の心中深く

に入り込んで彼女の獨立した人格を見事に喝破しかつまた彼女の心中には恩愛の深淺の

問題など存在しなかったのみならず胡や漢といった地域的差別も存在しなかったと見

なしているのである彼女は胡や漢もしくは深淺といった問題には少しも意に介してい

なかったさらに一歩進めて言えば漢恩が淺くとも私は怨みもしないし胡恩が深くと

も私はそれに心ひかれたりはしないということであってこれは相變わらず漢に厚く胡

に薄い心境を述べたものであるこれこそは正しく最も王昭君に同情的な考え方であり

どう轉んでも賣国思想とやらにはこじつけられないものであるよって范沖が〈傅致〉

=強引にこじつけたことは火を見るより明らかである惜しむらくは彼のこじつけが決

して李壁の言うように〈深〉ではなくただただ淺はかで取るに足らぬものに過ぎなかっ

たことだ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 33: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

92

照我看來范沖李雁湖(李壁)蔡上翔以及其他的人無論他們是同情王安石也好誹謗王安石也

好他們都沒有懂得王安石那兩句詩的深意大家的毛病是沒有懂得那兩個「自」字那是自己的「自」

而不是自然的「自」「漢恩自淺胡自深」是説淺就淺他的深就深他的我都不管我祇要求的是知心的

人這是深入了王昭君的心中而道破了她自己的獨立的人格認爲她的心中不僅無恩愛的淺深而且無

地域的胡漢她對于胡漢與深淺是絲毫也沒有措意的更進一歩説便是漢恩淺吧我也不怨胡恩

深吧我也不戀這依然是厚于漢而薄于胡的心境這眞是最同情于王昭君的一種想法那裏牽扯得上什麼

漢奸思想來呢范沖的「傅致」自然毫無疑問可惜他并不「深」而祇是淺屑無賴而已

郭沫若は「漢恩自淺胡自深」における「自」を「(私に關係なく漢と胡)彼ら自身が勝手に」

という方向で解釋しそれに基づき最終的にこの句を南宋以來のものとは正反對に漢を

懷う表現と結論づけているのである

郭沫若同樣「自」の字義に着目した人に今人周嘯天と徐仁甫の兩氏がいる周氏は郭

沫若の説を引用した後で二つの「自」が〈虛字〉として用いられた可能性が高いという點か

ら郭沫若説(「自」=「自己」説)を斥け「誠然」「盡然」の釋義を採るべきことを主張して

いるおそらくは郭説における訓と解釋の間の飛躍を嫌いより安定した訓詁を求めた結果

導き出された説であろう一方徐氏も「自」=「雖」「縦」説を展開している兩氏の異同

は極めて微細なもので本質的には同一といってよい兩氏ともに二つの「自」を讓歩の語

と見なしている點において共通するその差異はこの句のコンテキストを確定條件(たしか

に~ではあるが)ととらえるか假定條件(たとえ~でも)ととらえるかの分析上の違いに由來して

いる

訓詁のレベルで言うとこの釋義に言及したものに呉昌瑩『經詞衍釋』楊樹達『詞詮』

裴學海『古書虛字集釋』(以上一九九二年一月黒龍江人民出版社『虛詞詁林』所收二一八頁以下)

や『辭源』(一九八四年修訂版商務印書館)『漢語大字典』(一九八八年一二月四川湖北辭書出版社

第五册)等があり常見の訓詁ではないが主として中國の辭書類の中に系統的に見出すこと

ができる(西田太一郎『漢文の語法』〔一九八年一二月角川書店角川小辭典二頁〕では「いへ

ども」の訓を当てている)

二つの「自」については訓と解釋が無理なく結びつくという理由により筆者も周徐兩

氏の釋義を支持したいさらに兩者の中では周氏の解釋がよりコンテキストに適合している

ように思われる周氏は前掲の釋義を提示した後根據として王安石の七絕「賈生」(『臨川先

生文集』卷三二)を擧げている

一時謀議略施行

一時の謀議

略ぼ施行さる

誰道君王薄賈生

誰か道ふ

君王

賈生に薄しと

爵位自高言盡廢

爵位

自から高く〔高しと

も〕言

盡く廢さるるは

いへど

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 34: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

93

古來何啻萬公卿

古來

何ぞ啻だ萬公卿のみならん

「賈生」は前漢の賈誼のこと若くして文帝に抜擢され信任を得て太中大夫となり國内

の重要な諸問題に對し獻策してそのほとんどが採用され施行されたその功により文帝より

公卿の位を與えるべき提案がなされたが却って大臣の讒言に遭って左遷され三三歳の若さ

で死んだ歴代の文學作品において賈誼は屈原を繼ぐ存在と位置づけられ類稀なる才を持

ちながら不遇の中に悲憤の生涯を終えた〈騒人〉として傳統的に歌い繼がれてきただが王

安石は「公卿の爵位こそ與えられなかったが一時その獻策が採用されたのであるから賈

誼は臣下として厚く遇されたというべきであるいくら位が高くても意見が全く用いられなか

った公卿は古來優に一萬の數をこえるだろうから」と詠じこの詩でも傳統的歌いぶりを覆

して詩を作っている

周氏は右の詩の内容が「明妃曲」の思想に通底することを指摘し同類の歌いぶりの詩に

「自」が使用されている(ただし周氏は「言盡廢」を「言自廢」に作り「明妃曲」同樣一句内に「自」

が二度使用されている類似性を説くが王安石の別集各本では何れも「言盡廢」に作りこの點には疑問が

のこる)ことを自説の裏づけとしている

また周氏は「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」を「沙上行人」の言葉とする蔡上翔~

朱自淸説に對しても疑義を挾んでいるより嚴密に言えば朱自淸説を發展させた程千帆の説

に對し批判を展開している程千帆氏は「略論王安石的詩」の中で「漢恩~」の二句を「沙

上行人」の言葉と規定した上でさらにこの「行人」が漢人ではなく胡人であると斷定してい

るその根據は直前の「漢宮侍女暗垂涙沙上行人却回首」の二句にあるすなわち「〈沙

上行人〉は〈漢宮侍女〉と對でありしかも公然と胡恩が深く漢恩が淺いという道理で昭君を

諫めているのであるから彼は明らかに胡人である(沙上行人是和漢宮侍女相對而且他又公然以胡

恩深而漢恩淺的道理勸説昭君顯見得是個胡人)」という程氏の解釋のように「漢恩~」二句の發

話者を「行人」=胡人と見なせばまず虛構という緩衝が生まれその上に發言者が儒教倫理

の埒外に置かれることになり作者王安石は歴代の非難から二重の防御壁で守られること

になるわけであるこの程千帆説およびその基礎となった蔡上翔~朱自淸説に對して周氏は

冷靜に次のように分析している

〈沙上行人〉と〈漢宮侍女〉とは竝列の關係ともみなすことができるものでありどう

して胡を漢に對にしたのだといえるのであろうかしかも〈漢恩自淺〉の語が行人のこ

とばであるか否かも問題でありこれが〈行人〉=〈胡人〉の確たる證據となり得るはず

がないまた〈却回首〉の三字が振り返って昭君に語りかけたのかどうかも疑わしい

詩にはすでに「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」と描寫されているので昭君を送る隊

列がすでに胡の境域に入り漢側の外交特使たちは歸途に就こうとしていることは明らか

であるだから漢宮の侍女たちが涙を流し旅人が振り返るという描寫があるのだ詩

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 35: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

94

中〈胡人〉〈胡姫〉〈胡酒〉といった表現が多用されていながらひとり〈沙上行人〉に

は〈胡〉の字が加えられていないことによってそれがむしろ紛れもなく漢人であること

を知ることができようしたがって以上を總合するとこの説はやはり穩當とは言えな

い「

沙上行人」與「漢宮侍女」也可是并立關係何以見得就是以胡對漢且「漢恩自淺」二語是否爲行

人所語也成問題豈能構成「胡人」之確據「却回首」三字是否就是回首與昭君語也値得懷疑因爲詩

已寫到「黄金捍撥春風手彈看飛鴻勸胡酒」分明是送行儀仗已進胡界漢方送行的外交人員就要回去了

故有漢宮侍女垂涙行人回首的描寫詩中多用「胡人」「胡姫」「胡酒」字面獨于「沙上行人」不注「胡」

字其乃漢人可知總之這種講法仍是于意未安

この説は正鵠を射ているといってよいであろうちなみに郭沫若は蔡上翔~朱自淸説を採

っていない

以上近現代の批評を彼らが歴代の議論を一體どのように繼承しそれを發展させたのかと

いう點を中心にしてより具體的内容に卽して紹介した槪ねどの評者も南宋~淸代の斷章

取義的批判に反論を加え結果的に王安石サイドに立った議論を展開している點で共通する

しかし細部にわたって檢討してみると批評のスタンスに明確な相違が認められる續いて

以下各論者の批評のスタンスという點に立ち返って改めて近現代の批評を歴代批評の系譜

の上に位置づけてみたい

歴代批評のスタンスと問題點

蔡上翔をも含め近現代の批評を整理すると主として次の

(4)A~Cの如き三類に分類できるように思われる

文學作品における虛構性を積極的に認めあくまでも文學の範疇で翻案句の存在を説明

しようとする立場彼らは字義や全篇の構想等の分析を通じて翻案句が決して儒教倫理

に抵觸しないことを力説しかつまた作者と作品との間に緩衝のあることを證明して個

々の作品表現と作者の思想とを直ぐ樣結びつけようとする歴代の批判に反對する立場を堅

持している〔蔡上翔朱自淸程千帆等〕

翻案句の中に革新性を見出し儒教社會のタブーに挑んだものと位置づける立場A同

樣歴代の批判に反論を展開しはするが翻案句に一部儒教倫理に抵觸する部分のあるこ

とを暗に認めむしろそれ故にこそ本詩に先進性革新的價値があることを强調する〔

郭沫若(「其一」に對する分析)魯歌(前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」)楊磊(一九八四年

五月黒龍江人民出版社『宋詩欣賞』)等〕

ただし魯歌楊磊兩氏は歴代の批判に言及していな

字義の分析を中心として歴代批判の長所短所を取捨しその上でより整合的合理的な解

釋を導き出そうとする立場〔郭沫若(「其二」に對する分析)周嘯天等〕

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 36: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

95

右三類の中ことに前の二類は何れも前提としてまず本詩に負的評價を下した北宋以來の

批判を强く意識しているむしろ彼ら近現代の評者をして反論の筆を執らしむるに到った

最大にして直接の動機が正しくそうした歴代の酷評の存在に他ならなかったといった方が

より實態に卽しているかもしれないしたがって彼らにとって歴代の酷評こそは各々が

考え得る最も有効かつ合理的な方法を驅使して論破せねばならない明確な標的であったそし

てその結果採用されたのがABの論法ということになろう

Aは文學的レトリックにおける虛構性という點を終始一貫して唱える些か穿った見方を

すればもし作品=作者の思想を忠實に映し出す鏡という立場を些かでも容認すると歴代

酷評の牙城を切り崩せないばかりか一層それを助長しかねないという危機感がその頑なな

姿勢の背後に働いていたようにさえ感じられる一方で「明妃曲」の虛構性を斷固として主張

し一方で白居易「王昭君」の虛構性を完全に無視した蔡上翔の姿勢にとりわけそうした焦

燥感が如實に表れ出ているさすがに近代西歐文學理論の薫陶を受けた朱自淸は「この短

文を書いた目的は詩中の明妃や作者の王安石を弁護するということにあるわけではなくも

っぱら詩を解釈する方法を説明することにありこの二首の詩(「明妃曲」)を借りて例とした

までである(今寫此短文意不在給詩中的明妃及作者王安石辯護只在説明讀詩解詩的方法藉着這兩首詩

作個例子罷了)」と述べ評論としての客觀性を保持しようと努めているだが前掲周氏の指

摘によってすでに明らかなように彼が主張した本詩の構成(虛構性)に關する分析の中には

蔡上翔の説を無批判に踏襲した根據薄弱なものも含まれており結果的に蔡上翔の説を大きく

踏み出してはいない目的が假に異なっていても文章の主旨は蔡上翔の説と同一であるとい

ってよい

つまりA類のスタンスは歴代の批判の基づいたものとは相異なる詩歌觀を持ち出しそ

れを固持することによって反論を展開したのだと言えよう

そもそも淸朝中期の蔡上翔が先鞭をつけた事實によって明らかなようにの詩歌觀はむろ

んもっぱら西歐においてのみ効力を發揮したものではなく中國においても古くから存在して

いたたとえば樂府歌行系作品の實作および解釋の歴史の上で虛構がとりわけ重要な要素

となっていたことは最早説明を要しまいしかし――『詩經』の解釋に代表される――美刺諷

諭を主軸にした讀詩の姿勢や――「詩言志」という言葉に代表される――儒教的詩歌觀が

槪ね支配的であった淸以前の社會にあってはかりに虛構性の强い作品であったとしてもそ

こにより積極的に作者の影を見出そうとする詩歌解釋の傳統が根强く存在していたこともま

た紛れもない事實であるとりわけ時政と微妙に關わる表現に對してはそれが一段と强まる

という傾向を容易に見出すことができようしたがって本詩についても郭沫若が指摘したよ

うにイデオロギーに全く抵觸しないと判斷されない限り如何に本詩に虛構性が認められて

も酷評を下した歴代評者はそれを理由に攻撃の矛先を收めはしなかったであろう

つまりA類の立場は文學における虛構性を積極的に評價し是認する近現代という時空間

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 37: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

96

においては有効であっても王安石の當時もしくは北宋~淸の時代にあってはむしろ傳統

という厚い壁に阻まれて實効性に乏しい論法に變ずる可能性が極めて高い

郭沫若の論はいまBに分類したが嚴密に言えば「其一」「其二」二首の間にもスタンスの

相異が存在しているB類の特徴が如實に表れ出ているのは「其一」に對する解釋において

である

さて郭沫若もA同樣文學的レトリックを積極的に容認するがそのレトリックに託され

た作者自身の精神までも否定し去ろうとはしていないその意味において郭沫若は北宋以來

の批判とほぼ同じ土俵に立って本詩を論評していることになろうその上で郭沫若は舊來の

批判と全く好對照な評價を下しているのであるこの差異は一見してわかる通り雙方の立

脚するイデオロギーの相違に起因している一言で言うならば郭沫若はマルキシズムの文學

觀に則り舊來の儒教的名分論に立脚する批判を論斷しているわけである

しかしこの反論もまたイデオロギーの轉換という不可逆の歴史性に根ざしており近現代

という座標軸において始めて意味を持つ議論であるといえよう儒教~マルキシズムというほ

ど劇的轉換ではないが羅大經が道學=名分思想の勝利した時代に王學=功利(實利)思

想を一方的に論斷した方法と軌を一にしている

A(朱自淸)とB(郭沫若)はもとより本詩のもつ現代的意味を論ずることに主たる目的

がありその限りにおいてはともにそれ相應の啓蒙的役割を果たしたといえるであろうだ

が兩者は本詩の翻案句がなにゆえ宋~明~淸とかくも長きにわたって非難され續けたかとい

う重要な視點を缺いているまたそのような非難を支え受け入れた時代的特性を全く眼中

に置いていない(あるいはことさらに無視している)

王朝の轉變を經てなお同質の非難が繼承された要因として政治家王安石に對する後世の

負的評價が一役買っていることも十分考えられるがもっぱらこの點ばかりにその原因を歸す

こともできまいそれはそうした負的評價とは無關係の北宋の頃すでに王回や木抱一の批

判が出現していた事實によって容易に證明されよう何れにせよ自明なことは王安石が生き

た時代は朱自淸や郭沫若の時代よりも共通のイデオロギーに支えられているという點にお

いて遙かに北宋~淸の歴代評者が生きた各時代の特性に近いという事實であるならば一

連の非難を招いたより根源的な原因をひたすら歴代評者の側に求めるよりはむしろ王安石

「明妃曲」の翻案句それ自體の中に求めるのが當時の時代的特性を踏まえたより現實的なス

タンスといえるのではなかろうか

筆者の立場をここで明示すれば解釋次元ではCの立場によって導き出された結果が最も妥

當であると考えるしかし本論の最終的目的は本詩のより整合的合理的な解釋を求める

ことにあるわけではないしたがって今一度當時の讀者の立場を想定して翻案句と歴代

の批判とを結びつけてみたい

まず注意すべきは歴代評者に問題とされた箇所が一つの例外もなく翻案句でありそれぞ

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 38: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

97

れが一篇の末尾に配置されている點である前節でも槪觀したように翻案は歴史的定論を發

想の轉換によって覆す技法であり作者の着想の才が最も端的に表れ出る部分であるといって

よいそれだけに一篇の出來榮えを左右し讀者の目を最も引きつけるしかも本篇では

問題の翻案句が何れも末尾のクライマックスに配置され全篇の詩意がこの翻案句に收斂され

る構造に作られているしたがって二重の意味において翻案句に讀者の注意が向けられる

わけである

さらに一層注意すべきはかくて讀者の注意が引きつけられた上で翻案句において展開さ

れたのが「人生失意無南北」「人生樂在相知心」というように抽象的で普遍性をもつ〈理〉

であったという點である個別の具體的事象ではなく一定の普遍性を有する〈理〉である

がゆえに自ずと作品一篇における獨立性も高まろうかりに翻案という要素を取り拂っても

他の各表現が槪ね王昭君にまつわる具體的な形象を描寫したものだけにこれらは十分に際立

って目に映るさらに翻案句であるという事實によってこの點はより强調されることにな

る再

びここで翻案の條件を思い浮べてみたい本章で記したように必要條件としての「反

常」と十分條件としての「合道」とがより完全な翻案には要求されるその場合「反常」

の要件は比較的客觀的に判斷を下しやすいが十分條件としての「合道」の判定はもっぱら讀

者の内面に委ねられることになるここに翻案句なかんずく説理の翻案句が作品世界を離

脱して單獨に鑑賞され讀者の恣意の介入を誘引する可能性が多分に内包されているのである

これを要するに當該句が各々一篇のクライマックスに配されしかも説理の翻案句である

ことによってそれがいかに虛構のヴェールを纏っていようともあるいはまた斷章取義との

謗りを被ろうともすでに王安石「明妃曲」の構造の中に當時の讀者をして單獨の論評に驅

り立てるだけの十分な理由が存在していたと認めざるを得ないここで本詩の構造が誘う

ままにこれら翻案句が單獨に鑑賞された場合を想定してみよう「其二」「漢恩自淺胡自深」

句を例に取れば當時の讀者がかりに周嘯天説のようにこの句を讓歩文構造と解釋していたと

してもやはり異民族との對比の中できっぱり「漢恩自淺」と文字によって記された事實は

當時の儒教イデオロギーの尺度からすれば確實に違和感をもたらすものであったに違いない

それゆえ該句に「不合道」という判定を下す讀者がいたとしてもその科をもっぱら彼らの

側に歸することもできないのである

ではなぜ王安石はこのような表現を用いる必要があったのだろうか蔡上翔や朱自淸の説

も一つの見識には違いないがこれまで論じてきた内容を踏まえる時これら翻案句がただ單

にレトリックの追求の末自己の表現力を誇示する目的のためだけに生み出されたものだと單

純に判斷を下すことも筆者にはためらわれるそこで再び時空を十一世紀王安石の時代

に引き戻し次章において彼がなにゆえ二首の「明妃曲」を詠じ(製作の契機)なにゆえこ

のような翻案句を用いたのかそしてまたこの表現に彼が一體何を託そうとしたのか(表現意

圖)といった一連の問題について論じてみたい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 39: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

98

第二章

【注】

梁啓超の『王荊公』は淸水茂氏によれば一九八年の著である(一九六二年五月岩波書店

中國詩人選集二集4『王安石』卷頭解説)筆者所見のテキストは一九五六年九月臺湾中華書

局排印本奥附に「中華民國二十五年四月初版」とあり遲くとも一九三六年には上梓刊行され

ていたことがわかるその「例言」に「屬稿時所資之參考書不下百種其材最富者爲金谿蔡元鳳

先生之王荊公年譜先生名上翔乾嘉間人學問之博贍文章之淵懿皆近世所罕見helliphellip成書

時年已八十有八蓋畢生精力瘁於是矣其書流傳極少而其人亦不見稱於竝世士大夫殆不求

聞達之君子耶爰誌數語以諗史官」とある

王國維は一九四年『紅樓夢評論』を發表したこの前後王國維はカントニーチェショ

ーペンハウアーの書を愛讀しておりこの書も特にショーペンハウアー思想の影響下執筆された

と從來指摘されている(一九八六年一一月中國大百科全書出版社『中國大百科全書中國文學

Ⅱ』參照)

なお王國維の學問を當時の社會の現錄を踏まえて位置づけたものに增田渉「王國維につい

て」(一九六七年七月岩波書店『中國文學史研究』二二三頁)がある增田氏は梁啓超が「五

四」運動以後の文學に著しい影響を及ぼしたのに對し「一般に與えた影響力という點からいえ

ば彼(王國維)の仕事は極めて限られた狭い範圍にとどまりまた當時としては殆んど反應ら

しいものの興る兆候すら見ることもなかった」と記し王國維の學術的活動が當時にあっては孤

立した存在であり特に周圍にその影響が波及しなかったことを述べておられるしかしそれ

がたとえ間接的な影響力しかもたなかったとしても『紅樓夢』を西洋の先進的思潮によって再評

價した『紅樓夢評論』は新しい〈紅學〉の先驅をなすものと位置づけられるであろうまた新

時代の〈紅學〉を直接リードした胡適や兪平伯の筆を刺激し鼓舞したであろうことは論をまた

ない解放後の〈紅學〉を回顧した一文胡小偉「紅學三十年討論述要」(一九八七年四月齊魯

書社『建國以來古代文學問題討論擧要』所收)でも〈新紅學〉の先驅的著書として冒頭にこの

書が擧げられている

蔡上翔の『王荊公年譜考略』が初めて活字化され公刊されたのは大西陽子編「王安石文學研究

目錄」(一九九三年三月宋代詩文研究會『橄欖』第五號)によれば一九三年のことである(燕

京大學國學研究所校訂)さらに一九五九年には中華書局上海編輯所が再びこれを刊行しその

同版のものが一九七三年以降上海人民出版社より增刷出版されている

梁啓超の著作は多岐にわたりそのそれぞれが民國初の社會の各分野で啓蒙的な役割を果たし

たこの『王荊公』は彼の豐富な著作の中の歴史研究における成果である梁啓超の仕事が「五

四」以降の人々に多大なる影響を及ぼしたことは增田渉「梁啓超について」(前掲書一四二

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 40: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

99

頁)に詳しい

民國の頃比較的早期に「明妃曲」に注目した人に朱自淸(一八九八―一九四八)と郭沫若(一

八九二―一九七八)がいる朱自淸は一九三六年一一月『世界日報』に「王安石《明妃曲》」と

いう文章を發表し(一九八一年七月上海古籍出版社朱自淸古典文學專集之一『朱自淸古典文

學論文集』下册所收)郭沫若は一九四六年『評論報』に「王安石的《明妃曲》」という文章を

發表している(一九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷『天地玄黄』所收)

兩者はともに蔡上翔の『王荊公年譜考略』を引用し「人生失意無南北」と「漢恩自淺胡自深」の

句について獨自の解釋を提示しているまた兩者は周知の通り一流の作家でもあり青少年

期に『紅樓夢』を讀んでいたことはほとんど疑いようもない兩文は『紅樓夢』には言及しない

が兩者がその薫陶をうけていた可能性は十分にある

なお朱自淸は一九四三年昆明(西南聯合大學)にて『臨川詩鈔』を編しこの詩を選入し

て比較的詳細な注釋を施している(前掲朱自淸古典文學專集之四『宋五家詩鈔』所收)また

郭沫若には「王安石」という評傳もあり(前掲『沫若文集』第一二卷『歴史人物』所收)その

後記(一九四七年七月三日)に「研究王荊公有蔡上翔的『王荊公年譜考略』是很好一部書我

在此特別推薦」と記し當時郭沫若が蔡上翔の書に大きな價値を見出していたことが知られる

なお郭沫若は「王昭君」という劇本も著しており(一九二四年二月『創造』季刊第二卷第二期)

この方面から「明妃曲」へのアプローチもあったであろう

近年中國で發刊された王安石詩選の類の大部分がこの詩を選入することはもとよりこの詩は

王安石の作品の中で一般の文學關係雜誌等で取り上げられた回數の最も多い作品のひとつである

特に一九八年代以降は毎年一本は「明妃曲」に關係する文章が發表されている詳細は注

所載の大西陽子編「王安石文學研究目錄」を參照

『臨川先生文集』(一九七一年八月中華書局香港分局)卷四一一二頁『王文公文集』(一

九七四年四月上海人民出版社)卷四下册四七二頁ただし卷四の末尾に掲載され題

下に「續入」と注記がある事實からみると元來この系統のテキストの祖本がこの作品を收めず

重版の際補編された可能性もある『王荊文公詩箋註』(一九五八年一一月中華書局上海編

輯所)卷六六六頁

『漢書』は「王牆字昭君」とし『後漢書』は「昭君字嬙」とする(『資治通鑑』は『漢書』を

踏襲する〔卷二九漢紀二一〕)なお昭君の出身地に關しては『漢書』に記述なく『後漢書』

は「南郡人」と記し注に「前書曰『南郡秭歸人』」という唐宋詩人(たとえば杜甫白居

易蘇軾蘇轍等)に「昭君村」を詠じた詩が散見するがこれらはみな『後漢書』の注にいう

秭歸を指している秭歸は今の湖北省秭歸縣三峽の一西陵峽の入口にあるこの町のやや下

流に香溪という溪谷が注ぎ香溪に沿って遡った所(興山縣)にいまもなお昭君故里と傳え

られる地がある香溪の名も昭君にちなむというただし『琴操』では昭君を齊の人とし『後

漢書』の注と異なる

李白の詩は『李白集校注』卷四(一九八年七月上海古籍出版社)儲光羲の詩は『全唐詩』

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 41: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

100

卷一三九

『樂府詩集』では①卷二九相和歌辭四吟歎曲の部分に石崇以下計

名の詩人の

首が

34

45

②卷五九琴曲歌辭三の部分に王昭君以下計

名の詩人の

首が收錄されている

7

8

歌行と樂府(古樂府擬古樂府)との差異については松浦友久「樂府新樂府歌行論

表現機

能の異同を中心に

」を參照(一九八六年四月大修館書店『中國詩歌原論』三二一頁以下)

近年中國で歴代の王昭君詩歌

首を收錄する『歴代歌詠昭君詩詞選注』が出版されている(一

216

九八二年一月長江文藝出版社)本稿でもこの書に多くの學恩を蒙った附錄「歴代歌詠昭君詩

詞存目」には六朝より近代に至る歴代詩歌の篇目が記され非常に有用であるこれと本篇とを併

せ見ることにより六朝より近代に至るまでいかに多量の昭君詩詞が詠まれたかが容易に窺い知

られる

明楊慎『畫品』卷一には劉子元(未詳)の言が引用され唐の閻立本(~六七三)が「昭

君圖」を描いたことが記されている(新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收一九六頁)これ

53

により唐の初めにはすでに王昭君を題材とする繪畫が描かれていたことを知ることができる宋

以降昭君圖の題畫詩がしばしば作られるようになり元明以降その傾向がより强まることは

前掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』の目錄存目を一覧すれば容易に知られるまた南宋王楙の『野

客叢書』卷一(一九八七年七月中華書局學術筆記叢刊)には「明妃琵琶事」と題する一文

があり「今人畫明妃出塞圖作馬上愁容自彈琵琶」と記され南宋の頃すでに王昭君「出塞圖」

が繪畫の題材として定着し繪畫の對象としての典型的王昭君像(愁に沈みつつ馬上で琵琶を奏

でる)も完成していたことを知ることができる

馬致遠「漢宮秋」は明臧晉叔『元曲選』所收(一九五八年一月中華書局排印本第一册)

正式には「破幽夢孤鴈漢宮秋雜劇」というまた『京劇劇目辭典』(一九八九年六月中國戲劇

出版社)には「雙鳳奇緣」「漢明妃」「王昭君」「昭君出塞」等數種の劇目が紹介されているま

た唐代には「王昭君變文」があり(項楚『敦煌變文選注(增訂本)』所收〔二六年四月中

華書局上編二四八頁〕)淸代には『昭君和番雙鳳奇緣傳』という白話章回小説もある(一九九

五年四月雙笛國際事務有限公司中國歴代禁毀小説海内外珍藏秘本小説集粹第三輯所收)

①『漢書』元帝紀helliphellip中華書局校點本二九七頁匈奴傳下helliphellip中華書局校點本三八七

頁②『琴操』helliphellip新文豐出版公司『叢書集成新編』

所收七二三頁③『西京雜記』helliphellip一

53

九八五年一月中華書局古小説叢刊本九頁④『後漢書』南匈奴傳helliphellip中華書局校點本二

九四一頁なお『世説新語』は一九八四年四月中華書局中國古典文學基本叢書所收『世説

新語校箋』卷下「賢媛第十九」三六三頁

すでに南宋の頃王楙はこの間の異同に疑義をはさみ『後漢書』の記事が最も史實に近かったの

であろうと斷じている(『野客叢書』卷八「明妃事」)

宋代の翻案詩をテーマとした專著に張高評『宋詩之傳承與開拓以翻案詩禽言詩詩中有畫

詩爲例』(一九九年三月文史哲出版社文史哲學集成二二四)があり本論でも多くの學恩を

蒙った

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 42: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

101

白居易「昭君怨」の第五第六句は次のようなAB二種の別解がある

見ること疎にして從道く圖畫に迷へりと知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

いふなら

つまびらか

九二九年二月國民文庫刊行會續國譯漢文大成文學部第十卷佐久節『白樂天詩集』第二卷

六五六頁)

見ること疎なるは從へ圖畫に迷へりと道ふも知ること

ならば那ぞ虜庭に配せしめん(一

たと

つまびらか

九八八年七月明治書院新釋漢文大系第

卷岡村繁『白氏文集』三四五頁)

99

Aの根據は明らかにされていないBでは「從道」に「たとえhelliphellipと言っても當時の俗語」と

いう語釋「見疎知屈」に「疎は疎遠屈は窮める」という語釋が附されている

『宋詩紀事』では邢居實十七歳の作とする『韻語陽秋』卷十九(中華書局校點本『歴代詩話』)

にも詩句が引用されている邢居實(一六八―八七)字は惇夫蘇軾黄庭堅等と交遊があっ

白居易「胡旋女」は『白居易集校箋』卷三「諷諭三」に收錄されている

「胡旋女」では次のようにうたう「helliphellip天寶季年時欲變臣妾人人學圓轉中有太眞外祿山

二人最道能胡旋梨花園中册作妃金鷄障下養爲兒禄山胡旋迷君眼兵過黄河疑未反貴妃胡

旋惑君心死棄馬嵬念更深從茲地軸天維轉五十年來制不禁胡旋女莫空舞數唱此歌悟明

主」

白居易の「昭君怨」は花房英樹『白氏文集の批判的研究』(一九七四年七月朋友書店再版)

「繋年表」によれば元和十二年(八一七)四六歳江州司馬の任に在る時の作周知の通り

白居易の江州司馬時代は彼の詩風が諷諭から閑適へと變化した時代であったしかし諷諭詩

を第一義とする詩論が展開された「與元九書」が認められたのはこのわずか二年前元和十年

のことであり觀念的に諷諭詩に對する關心までも一氣に薄れたとは考えにくいこの「昭君怨」

は時政を批判したものではないがそこに展開された鋭い批判精神は一連の新樂府等諷諭詩の

延長線上にあるといってよい

元帝個人を批判するのではなくより一般化して宮女を和親の道具として使った漢朝の政策を

批判した作品は系統的に存在するたとえば「漢道方全盛朝廷足武臣何須薄命女辛苦事

和親」(初唐東方虬「昭君怨三首」其一『全唐詩』卷一)や「漢家青史上計拙是和親

社稷依明主安危托婦人helliphellip」(中唐戎昱「詠史(一作和蕃)」『全唐詩』卷二七)や「不用

牽心恨畫工帝家無策及邊戎helliphellip」(晩唐徐夤「明妃」『全唐詩』卷七一一)等がある

注所掲『中國詩歌原論』所收「唐代詩歌の評價基準について」(一九頁)また松浦氏には

「『樂府詩』と『本歌取り』

詩的發想の繼承と展開(二)」という關連の文章もある(一九九二年

一二月大修館書店月刊『しにか』九八頁)

詩話筆記類でこの詩に言及するものは南宋helliphellip①朱弁『風月堂詩話』卷下(本節引用)②葛

立方『韻語陽秋』卷一九③羅大經『鶴林玉露』卷四「荊公議論」(一九八三年八月中華書局唐

宋史料筆記叢刊本)明helliphellip④瞿佑『歸田詩話』卷上淸helliphellip⑤周容『春酒堂詩話』(上海古

籍出版社『淸詩話續編』所收)⑥賀裳『載酒園詩話』卷一⑦趙翼『甌北詩話』卷一一二則

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 43: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

102

⑧洪亮吉『北江詩話』卷四第二二則(一九八三年七月人民文學出版社校點本)⑨方東樹『昭

昧詹言』卷十二(一九六一年一月人民文學出版社校點本)等うち①②③④⑥

⑦-

は負的評價を下す

2

注所掲『歴代歌詠昭君詩詞選注』「前言」また呉小如『詩詞札叢』(一九八八年九月北京

出版社)に「宋人咏昭君詩」と題する短文がありその中で王安石「明妃曲」を次のように絕贊

している

最近重印的《歴代詩歌選》第三册選有王安石著名的《明妃曲》的第一首選編這首詩很

有道理的因爲在歴代吟咏昭君的詩中這首詩堪稱出類抜萃第一首結尾處冩道「君不見咫

尺長門閉阿嬌人生失意無南北」第二首又説「漢恩自淺胡自深人生樂在相知心」表面

上好象是説由于封建皇帝識別不出什麼是眞善美和假惡醜才導致象王昭君這樣才貌雙全的女

子遺恨終身實際是借美女隱喩堪爲朝廷柱石的賢才之不受重用這在北宋當時是切中時弊的

(一四四頁)

呉宏一『淸代詩學初探』(一九八六年一月臺湾學生書局中國文學研究叢刊修訂本)第七章「性

靈説」(二一五頁以下)または黄保眞ほか『中國文學理論史』4(一九八七年一二月北京出版

社)第三章第六節(五一二頁以下)參照

呉宏一『淸代詩學初探』第三章第二節(一二九頁以下)『中國文學理論史』第一章第四節(七八

頁以下)參照

詳細は呉宏一『淸代詩學初探』第五章(一六七頁以下)『中國文學理論史』第三章第三節(四

一頁以下)參照王士禎は王維孟浩然韋應物等唐代自然詠の名家を主たる規範として

仰いだが自ら五言古詩と七言古詩の佳作を選んだ『古詩箋』の七言部分では七言詩の發生が

すでに詩經より遠く離れているという考えから古えぶりを詠う詩に限らず宋元の詩も採錄し

ているその「七言詩歌行鈔」卷八には王安石の「明妃曲」其一も收錄されている(一九八

年五月上海古籍出版社排印本下册八二五頁)

呉宏一『淸代詩學初探』第六章(一九七頁以下)『中國文學理論史』第三章第四節(四四三頁以

下)參照

注所掲書上篇第一章「緒論」(一三頁)參照張氏は錢鍾書『管錐篇』における翻案語の

分類(第二册四六三頁『老子』王弼注七十八章の「正言若反」に對するコメント)を引いて

それを歸納してこのような一語で表現している

注所掲書上篇第三章「宋詩翻案表現之層面」(三六頁)參照

南宋黄膀『黄山谷年譜』(學海出版社明刊影印本)卷一「嘉祐四年己亥」の條に「先生是

歳以後游學淮南」(黄庭堅一五歳)とある淮南とは揚州のこと當時舅の李常が揚州の

官(未詳)に就いており父亡き後黄庭堅が彼の許に身を寄せたことも注記されているまた

「嘉祐八年壬辰」の條には「先生是歳以郷貢進士入京」(黄庭堅一九歳)とあるのでこの

前年の秋(郷試は一般に省試の前年の秋に實施される)には李常の許を離れたものと考えられ

るちなみに黄庭堅はこの時洪州(江西省南昌市)の郷試にて得解し省試では落第してい

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 44: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

103

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

る黄

庭堅と舅李常の關係等については張秉權『黄山谷的交游及作品』(一九七八年中文大學

出版社)一二頁以下に詳しい

『宋詩鑑賞辭典』所收の鑑賞文(一九八七年一二月上海辭書出版社二三一頁)王回が「人生

失意~」句を非難した理由を「王回本是反對王安石變法的人以政治偏見論詩自難公允」と説

明しているが明らかに事實誤認に基づいた説である王安石と王回の交友については本章でも

論じたしかも本詩はそもそも王安石が新法を提唱する十年前の作品であり王回は王安石が

新法を唱える以前に他界している

李德身『王安石詩文繋年』(一九八七年九月陜西人民教育出版社)によれば兩者が知合ったの

は慶暦六年(一四六)王安石が大理評事の任に在って都開封に滯在した時である(四二

頁)時に王安石二六歳王回二四歳

中華書局香港分局本『臨川先生文集』卷八三八六八頁兩者が褒禅山(安徽省含山縣の北)に

遊んだのは至和元年(一五三)七月のことである王安石三四歳王回三二歳

主として王莽の新朝樹立の時における揚雄の出處を巡っての議論である王回と常秩は別集が

散逸して傳わらないため兩者の具體的な發言内容を知ることはできないただし王安石と曾

鞏の書簡からそれを跡づけることができる王安石の發言は『臨川先生文集』卷七二「答王深父

書」其一(嘉祐二年)および「答龔深父書」(龔深父=龔原に宛てた書簡であるが中心の話題

は王回の處世についてである)に曾鞏は中華書局校點本『曾鞏集』卷十六「與王深父書」(嘉祐

五年)等に見ることができるちなみに曾鞏を除く三者が揚雄を積極的に評價し曾鞏はそれ

に否定的な立場をとっている

また三者の中でも王安石が議論のイニシアチブを握っており王回と常秩が結果的にそれ

に同調したという形跡を認めることができる常秩は王回亡き後も王安石と交際を續け煕

寧年間に王安石が新法を施行した時在野から抜擢されて直集賢院管幹國子監兼直舎人院

に任命された『宋史』本傳に傳がある(卷三二九中華書局校點本第

册一五九五頁)

30

『宋史』「儒林傳」には王回の「告友」なる遺文が掲載されておりその文において『中庸』に

所謂〈五つの達道〉(君臣父子夫婦兄弟朋友)との關連で〈朋友の道〉を論じている

その末尾で「嗚呼今の時に處りて古の道を望むは難し姑らく其の肯へて吾が過ちを告げ

而して其の過ちを聞くを樂しむ者を求めて之と友たらん(嗚呼處今之時望古之道難矣姑

求其肯告吾過而樂聞其過者與之友乎)」と述べている(中華書局校點本第

册一二八四四頁)

37

王安石はたとえば「與孫莘老書」(嘉祐三年)において「今の世人の相識未だ切磋琢磨す

ること古の朋友の如き者有るを見ず蓋し能く善言を受くる者少なし幸ひにして其の人に人を

善くするの意有るとも而れども與に游ぶ者

猶ほ以て陽はりにして信ならずと爲す此の風

いつ

甚だ患ふべし(今世人相識未見有切磋琢磨如古之朋友者蓋能受善言者少幸而其人有善人之

意而與游者猶以爲陽不信也此風甚可患helliphellip)」(『臨川先生文集』卷七六八三頁)と〈古

之朋友〉の道を力説しているまた「與王深父書」其一では「自與足下別日思規箴切劘之補

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 45: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

104

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

甚於飢渇足下有所聞輒以告我近世朋友豈有如足下者乎helliphellip」と自らを「規箴」=諌め

戒め「切劘」=互いに励まし合う友すなわち〈朋友の道〉を實践し得る友として王回のことを

述べている(『臨川先生文集』卷七十二七六九頁)

朱弁の傳記については『宋史』卷三四三に傳があるが朱熹(一一三―一二)の「奉使直

秘閣朱公行狀」(四部叢刊初編本『朱文公文集』卷九八)が最も詳細であるしかしその北宋の

頃の經歴については何れも記述が粗略で太學内舎生に補された時期についても明記されていな

いしかし朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」や朱弁自身の發言によってそのおおよその時期を比

定することはできる

朱熹「奉使直祕閣朱公行狀」によれば二十歳になって以後開封に上り太學に入學した「内

舎生に補せらる」とのみ記されているので外舎から内舎に上がることはできたがさらに上舎

には昇級できなかったのであろうそして太學在籍の前後に晁説之(一五九―一一二九)に知

り合いその兄の娘を娶り新鄭に居住したその後靖康の變で金軍によって南(淮甸=淮河

の南揚州附近か)に逐われたこの間「益厭薄擧子事遂不復有仕進意」とあるように太學

生に補されはしたものの結局省試に應ずることなく在野の人として過ごしたものと思われる

朱弁『曲洧舊聞』卷三「予在太學」で始まる一文に「後二十年間居洧上所與吾游者皆洛許故

族大家子弟helliphellip」という條が含まれており(『叢書集成新編』

)この語によって洧上=新鄭

86

に居住した時間が二十年であることがわかるしたがって靖康の變(一一二六)から逆算する

とその二十年前は崇寧五年(一一六)となり太學在籍の時期も自ずとこの前後の數年間と

なるちなみに錢鍾書は朱弁の生年を一八五年としている(『宋詩選注』一三八頁ただしそ

の基づく所は未詳)

『宋史』卷一九「徽宗本紀一」參照

近藤一成「『洛蜀黨議』と哲宗實錄―『宋史』黨爭記事初探―」(一九八四年三月早稲田大學出

版部『中國正史の基礎的研究』所收)「一神宗哲宗兩實錄と正史」(三一六頁以下)に詳しい

『宋史』卷四七五「叛臣上」に傳があるまた宋人(撰人不詳)の『劉豫事蹟』もある(『叢

書集成新編』一三一七頁)

李壁『王荊文公詩箋注』の卷頭に嘉定七年(一二一四)十一月の魏了翁(一一七八―一二三七)

の序がある

羅大經の經歴については中華書局刊唐宋史料筆記叢刊本『鶴林玉露』附錄一王瑞來「羅大

經生平事跡考」(一九八三年八月同書三五頁以下)に詳しい羅大經の政治家王安石に對す

る評價は他の平均的南宋士人同樣相當手嚴しい『鶴林玉露』甲編卷三には「二罪人」と題

する一文がありその中で次のように酷評している「國家一統之業其合而遂裂者王安石之罪

也其裂而不復合者秦檜之罪也helliphellip」(四九頁)

なお道學は〈慶元の禁〉と呼ばれる寧宗の時代の彈壓を經た後理宗によって完全に名譽復活

を果たした淳祐元年(一二四一)理宗は周敦頤以下朱熹に至る道學の功績者を孔子廟に從祀

する旨の勅令を發しているこの勅令によって道學=朱子學は歴史上初めて國家公認の地位を

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている

Page 46: 第二章王安石「明妃曲」考(上)61 第二章王安石「明妃曲」考(上) も ち ろ ん 右 文 は 、 壯 大 な 構 想 に 立 つ こ の 長 編 小 説

105

第二章 王安石「明妃曲」考(上)

得た

本章で言及したもの以外に南宋期では胡仔『苕溪漁隱叢話後集』卷二三に「明妃曲」にコメ

ントした箇所がある(「六一居士」人民文學出版社校點本一六七頁)胡仔は王安石に和した

歐陽脩の「明妃曲」を引用した後「余觀介甫『明妃曲』二首辭格超逸誠不下永叔不可遺也」

と稱贊し二首全部を掲載している

胡仔『苕溪漁隱叢話後集』には孝宗の乾道三年(一一六七)の胡仔の自序がありこのコメ

ントもこの前後のものと判斷できる范沖の發言からは約三十年が經過している本稿で述べ

たように北宋末から南宋末までの間王安石「明妃曲」は槪ね負的評價を與えられることが多

かったが胡仔のこのコメントはその例外である評價のスタンスは基本的に黄庭堅のそれと同

じといってよいであろう

蔡上翔はこの他に范季隨の名を擧げている范季隨には『陵陽室中語』という詩話があるが

完本は傳わらない『説郛』(涵芬樓百卷本卷四三宛委山堂百二十卷本卷二七一九八八年一

月上海古籍出版社『説郛三種』所收)に節錄されており以下のようにある「又云明妃曲古今

人所作多矣今人多稱王介甫者白樂天只四句含不盡之意helliphellip」范季隨は南宋の人で江西詩

派の韓駒(―一一三五)に詩を學び『陵陽室中語』はその詩學を傳えるものである

郭沫若「王安石的《明妃曲》」(初出一九四六年一二月上海『評論報』旬刊第八號のち一

九六一年一月人民文學出版社『沫若文集』第一三卷所收『郭沫若全集』では文學編第二十

卷〔一九九二年三月〕所收)

「王安石《明妃曲》」(初出一九三六年一一月二日『(北平)世界日報』のち一九八一年

七月上海古籍出版社『朱自淸古典文學論文集』〔朱自淸古典文學專集之一〕四二九頁所收)

注參照

傅庚生傅光編『百家唐宋詩新話』(一九八九年五月四川文藝出版社五七頁)所收

郭沫若の説を辭書類によって跡づけてみると「空自」(蒋紹愚『唐詩語言研究』〔一九九年五

月中州古籍出版社四四頁〕にいうところの副詞と連綴して用いられる「自」の一例)に相

當するかと思われる盧潤祥『唐宋詩詞常用語詞典』(一九九一年一月湖南出版社)では「徒

然白白地」の釋義を擧げ用例として王安石「賈生」を引用している(九八頁)

大西陽子編「王安石文學研究目錄」(『橄欖』第五號)によれば『光明日報』文學遺産一四四期(一

九五七年二月一七日)の初出というのち程千帆『儉腹抄』(一九九八年六月上海文藝出版社

學苑英華三一四頁)に再錄されている