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― 1 ― 外国語教育 ―理論と実践― 第42号 平成28年 3 月31日発行 <論 文> 第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit knowledge)と暗示的知識(Implicit knowledge) <要 旨> 本稿の目的は,第二言語習得過程における2種類の言語知識について神経言語学 から考察することにある。第二言語知識には,明示的知識と暗示的知識の2種類の 知識があるが (1) ,言語習得にとってより重要なのは,無意識的に脳に保存されている 暗示的知識とされている。その明示的知識や暗示的知識とは,どのような知識であ り、それが人間の脳内にどのように保存されているのかを説明し,その暗示的知識 の獲得には一般的に理解されている海馬ではなく大脳基底核が関与していることを 提案する。また,陳述記憶としての「意味記憶」と非陳述記憶としての「手続き記 憶」を「学習」と「習得」として二項対立的に捉える SLA モデルを検証し,第二 言語習得メカニズムに関係する大脳基底核の働きについて考察する。 <キーワード> 明示的知識,暗示的知識,海馬,大脳基底核,自動化 1.は じ め に 本稿では,学習と記憶の関係は最近の脳科学研究により認知的事実として知られているが, 認知心理学における記憶システムの中心的役割をもつ海馬(hippocampus),そして,SLA理論 における陳述記憶(declarative memory)と手続き記憶(procedural memory)に焦点をあてて まずは論じていきたい。 最近の脳科学技術の進歩により,PET(陽電子放射断層撮影法)やfMRI(機能脳磁気音響機器) などの最新機器を利用して,第二言語学習者の脳内局在と活性化の度合を把握することが可能 になってきている。とくに,最近は第二言語習得と記憶の関係についての実証研究が盛んにな

第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit ......第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit knowledge)と暗示的知識(Implicit

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Page 1: 第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit ......第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit knowledge)と暗示的知識(Implicit

― 1 ―

外国語教育 ―理論と実践― 第42号

平成28年 3 月31日発行

<論 文>

第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit knowledge)と暗示的知識(Implicit knowledge)

吉 川 敏 博

 <要 旨>

 本稿の目的は,第二言語習得過程における2種類の言語知識について神経言語学

から考察することにある。第二言語知識には,明示的知識と暗示的知識の2種類の

知識があるが( 1 )

,言語習得にとってより重要なのは,無意識的に脳に保存されている

暗示的知識とされている。その明示的知識や暗示的知識とは,どのような知識であ

り、それが人間の脳内にどのように保存されているのかを説明し,その暗示的知識

の獲得には一般的に理解されている海馬ではなく大脳基底核が関与していることを

提案する。また,陳述記憶としての「意味記憶」と非陳述記憶としての「手続き記

憶」を「学習」と「習得」として二項対立的に捉える SLA モデルを検証し,第二

言語習得メカニズムに関係する大脳基底核の働きについて考察する。

 <キーワード>

 明示的知識,暗示的知識,海馬,大脳基底核,自動化

1.は じ め に

 本稿では,学習と記憶の関係は最近の脳科学研究により認知的事実として知られているが,

認知心理学における記憶システムの中心的役割をもつ海馬(hippocampus),そして,SLA 理論

における陳述記憶(declarative memory)と手続き記憶(procedural memory)に焦点をあてて

まずは論じていきたい。

 最近の脳科学技術の進歩により,PET(陽電子放射断層撮影法)や fMRI(機能脳磁気音響機器)

などの最新機器を利用して,第二言語学習者の脳内局在と活性化の度合を把握することが可能

になってきている。とくに,最近は第二言語習得と記憶の関係についての実証研究が盛んにな

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― 2 ― 外 国 語 教 育

され,脳と言語学習との関係で言えば,脳に入力された言語情報は,海馬を介して大脳皮質の

側頭葉(temporal lobe)に送られ、そこで保持される(stored)。これが脳における言語資料の

インプット(input)からインテイク(intake)までの基本的プロセスである。(2)

 脳の約8割を占める大脳は,本能的な情動を司る「大脳辺縁系(limbic system)」と、人間の

認知と行動をコントロールする「大脳皮質(cerebral cortex)」からなる。大脳辺縁系には「海

馬(hippocampus)」「扁桃核(amygdala)」「側坐核(nucleus accumbens)」などがあり、好き、

嫌いの感情、記憶の生成、食欲、性欲などを担っている。人間の学習と関係する記憶の座とし

て位置づけられている海馬は,一時的な記憶装置であり,大脳皮質から送られてくる学習記憶

を一旦整理した後,再び大脳皮質に送り返す働きをする。扁桃核は主に喜怒哀楽に関係する部

位であり,側坐核は,「やる気の脳」とも言われ、扁桃核や海馬と協調しながら物事の判断を行う。

 このような「大脳皮質」は,人間の感覚,思考,判断をコントロールする「前頭葉(frontal

lobe)」、運動をコントロールする「頭頂葉(parietal lobe)」,視覚からの情報を処理する「後頭

葉(occipital lobe)」,そして,知識を保存する「側頭葉」の4つの脳葉(lobes)からなる。言

語学習に重要な役割をはたすのは前頭葉と側頭葉であり,言語中枢 (ブローカ野,ウエルニッケ

野)(3)

などを格納している重要な部位である。

 こうした脳に保存された言語の中には,不思議なことに意識を要することなく口をついて出

る母語もあれば,外国語のように意識してモニタリングを使用しなければ出てこないものもあ

る(Krashen, 1982)。認知心理学では,母語と外国語の違いは,非陳述記憶(non-declarative

memory)と陳述記憶の差に起因しているとされている。

 しかし,陳述記憶の中でも教室環境で学ぶ外国語は「意味記憶(semantic memory)」とし

て,また、自然環境で獲得する母語は非陳述記憶の「手続き記憶」となって脳に保存されており,

そもそも記憶の種類が異なるのである。本稿では,Ullman(2001, 2004)の DP モデル(Declarative/

Procedural model)を参考に記憶に関する考察から始める( 4 )

 SLA 研究では,陳述記憶もしくは明示的記憶は「学習」であり,手続き記憶は「習得」と

位置づけられている。最近の学問的関心は「学習(learning)」は「習得(acquisition)」に結

びつくのか,あるいは,両者は相互作用の関係にあるのかに集まっている。そこで神経言語学

(neurolinguistics)はどのような見解に立つのか。「学習」した知識が「習得」知識にはたして

変わりえるのか,もし移行が可能だとすると,その条件は何か。そうした問題について第二言

語習得における脳の関わりについて論じていく。

2.第二言語習得にはたす脳

2.1 海馬と記憶

 記憶の司令塔とされているのが海馬である( 5 )

。それは脳の中でも古皮質と呼ばれその歴史は古

い。タツノオトシゴのような形をしているところから日本語では海馬と呼ばれ,大きさは直径 1

cm,長さ 10cm ほどで,側頭葉の裏側に左右一対ある。

 海馬が人間の記憶生成に関係していることが分かったのは,てんかん患者 HM の研究よる(W.

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― 3 ―第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit knowledge)と暗示的知識(Implicit knowledge)

B. Scoville & Brenda Milner,1957)。組み立てライン工の HM は,自転車事故により,てんか

んの痙攣症状で苦しんでいたが,1953 年にてんかん部位であった海馬を含む内側側頭葉の摘出

手術を行った。その結果、症状は無くなったが,新しいことを全く覚えることができなくなる「順

行健忘」症状が出た。手術の前には記憶障害を示さなかったことから,内側側頭葉の切除が記

憶障害の原因であると考えられた。この症例から,内側側頭葉は,意味やエピソードについて

の長期記憶を形成するための主要な部位であることが分かった。しかし,不思議なことに HM

は,過去の出来事は思い出すことができたことから,失ったのは短期記憶を長期記憶に変換す

る能力ではないか,とされた。ここで重要なことは,長期記憶の中でも「手続き記憶」には障

害を受けていなかったという点と,海馬とその周辺の側頭葉を摘出しても言語障害を受けるこ

とがなかったという2つの事実である。すなわち,「手続き記憶」は陳述記憶と違って,海馬や

側頭葉が損傷しても喪失しないということを示している。その結果、海馬とその周りの側頭葉は、

陳述記憶である「意味記憶」と「エピソード記憶」には関係しているが,「手続き記憶」にはほ

とんど関与していないと考えられる。海馬が関わる記憶が喪失したにも関わらず,ほぼ正常な

言語能力は保持されていた事実から発語や理解,あるいは語彙・文法に関する処理は,内側側

頭葉の働きとは別のところで行われている可能性がある(Corkin, 2002)。

 脳機能の一つである記憶とは神経回路の形成に他ならず,ニューロン(脳神経細胞)が,電

線のように長い突起(樹状突起)を互いに接続させることで組み立てられている。視覚,聴覚,

味覚、嗅覚、触覚など知覚情報は、大脳皮質から海馬へ入り、海馬の歯状回(dentate gyrus)

から、アンモン角(cornu ammonis)の CA 3野,CA 1野へと流れる形で一周する中でスキー

マごとに分類がなされてから海馬支脚(subiculum)を経て再び大脳皮質へと戻る。情報が神経

回路を経由して伝達されるとは,海馬を一周する間に形成された神経回路をドパミンなどの神

経伝達物質がイオン電流となって流れることを指す。海馬で仕分けされた言語情報は,神経回

路を通過してその受け皿である大脳皮質の側頭葉へと送られ,そこに保存される。このように

脳にはニューロンと呼ばれる神経細胞がぎっしり詰まっていて,記憶の本体はこのニューロン

によるネットワーク(neural network)そのものの中にある。

 したがって,海馬自体は記憶の保存場所ではなく保存先への橋渡し的役割を演じていること

になる。さらに,海馬は記憶の固定化,つまり必要な情報を長期記憶に変換する役割を果たし

ていることも分かってきている。私たちが過去の出来事を思い出せるのは,スキーマ別に大脳

皮質に固定保存されている情報を取り出せるからである。したがって,想起行為とは,大脳皮

質の保存情報を取り出し再生していくプロセスと言える。

2.2 記憶とその分類

 認知心理学においては、記憶は短期記憶(short-term memory)と長期記憶(long-term

memory)に分類され研究がなされてきた。カナダの心理学者 Tulving(1972)は、人間の記憶

は階層的な積み重ねからできていると考え,階層の底辺には手続き記憶があり,その上に意味

記憶,短期記憶,エピソード記憶(episodic memory)などが順次積み上げられて,記憶の全

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体像が構築されるとした。短期記憶は約 20 秒で無くなるが,(6)

人間の記憶に大切な長期記憶には

「意味記憶」と「エピソード記憶」があり,それぞれは独立した記憶システムであるとした。彼

によれば「意味記憶」は知識に関する記憶であり,事象の知識や定義によって構成されるため,

何かきっかけがないと思い出せない陳述記憶である。また,「エピソード記憶」も,出来事を自

分の経験として思い出す記憶であることから陳述記憶とした(Tulving, 1972)。その意味では両

方とも海馬を経由して大脳皮質に保存されていく記憶として位置づけることができる。

 さらに長期記憶を陳述記憶と非陳述記憶のように2つに分類したのがアメリカの心理学者

Cohen & Squire(1980)や Squire(1987)である( 7 )

。彼らは,陳述記憶は,言葉によって記述する

ことができる事実に関する what- 記憶であり,Tulving の「エピソード記憶」や「意味記憶」が

それに当たるとした。そして,非陳述記憶は,運動や技能など一連の手続きに関する how- 記憶

であり,それを「手続き記憶」と呼んだ(Squire, 2004)。

図 1 記憶分類モデル(Squire のモデルを改変)

 上記の分類のように陳述記憶の「意味記憶」と「エピソード記憶」は、明示的に大脳皮質に

保存される。非陳述記憶の「手続き記憶」と、先行する事柄が後続する事柄に影響を与える「プ

ライミング(priming)」、それにパブロフの条件付けなどは暗示的あるいは潜在的な記憶であり、

大脳皮質の裏にある大脳基底核内の線条体(striatum)や小脳でつくられていることが確認され

ている(Squire, 2004)。

2.3 明示的・暗示的知識と大脳基底核

 記憶に関する暗示的知識と明示的知識の違いは,獲得された知識がどのような記憶として脳

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に保存されているかの違いでもある。それでは2種類の記憶(「陳述記憶」と「手続き記憶」)は,

具体的にどのように異なるのかについて脳科学研究成果を踏まえて考察する。

 海馬経由の陳述記憶である明示的知識は,スキーマ別に大脳皮質の神経細胞に保存されるこ

とはすでに述べた。私たちが教室で学習した外国語知識もほとんどはここの前頭葉と側頭葉に

ある言語中枢に保存されている。これらは,脳の中でも進化が比較的新しい大脳皮質の一部で

もあり,保存された知識を取り出すには,繰返し意識的に取り出す行為が求められ,かつ時間

がかかる。

 それに対して,非陳述記憶である暗示的知識は ‘ 自動化 ’ されているため自由に,かつすばや

く取り出すことが可能である。その意味で母語は暗示的知識であると言える。この暗示的「手

続き記憶」は,側頭葉の陳述記憶と異なり,比較的古い脳の部分である大脳基底核を経由して

大脳皮質に保存されることが分かってきた(Lee, 2004)。この人間の情動を司る大脳基底核には、

大脳皮質と視床(thalamus),脳幹(brain stem)などを結びつけている神経核が集まっている

部位であり、後述するが言語習得にとって大変重要な役割を担っている( 8 )

 大脳基底核が言語習得に深く関わっていることを主張する根拠を、大脳基底核が損傷を負っ

た結果,失語症を患ったケースに見ることができる(Fabbro & Asher, 1999)。大脳基底核損傷

から起こる失語症患者は,しばしば語彙や文法に誤りのある文を発することが多いという事実

がある。

 言語処理にはたす大脳基底核の役割も無視できない。それは大脳基底核には記憶の自動化を

可能にさせる性質がある。流暢に外国語が話せることは,それがどれだけ自由にかつ自動的な

知識になっているかという自動化レベルと関係している。そのことからもこの部位が第二言語

(L2)言語処理に関係しているのではないかと想像できる。

 さらに言語処理の関係から言えば,大脳基底核の性質としてチャンクごとに学習項目を

繰り返し覚えるチャンキングメカニズム(chunking mechanism)がある(Graybiel, 1998)。

Chunking とは,大脳皮質に入ってきた情報が大脳基底核に送られると,そこで仕分けすること

を指す。Graybiel によれば,大脳皮質と大脳基底核の線条体(striatum)が協調して覚えた発

音,単語,熟語,挨拶表現,文法などをコミュニケーションの場で流暢に話せる学習者は,大

脳基底核のこのメカニズムを活性化して使用しているのだと言う。こうした大脳基底核が言語

習得に深く関与していることをさらに裏付ける研究結果が 2006 年に報告された(Crinton et al,

2006)。バイリンガルの脳の働きに関してロンドン大学と京都大学研究チームの研究報告による

と,英語が達者なドイツ人と日本人にそれぞれの母語と英語による簡単な課題を与えて脳の活

動を fMRI で調べたところ,いずれも大脳基底核にある左脳尾状核(left caudate nucleus)が活

発に活動していることが確認されたと言う( 9 )

 ここまでの議論をまとめると,母語(L1)と外国語(L2)では,保存される大脳皮質の領域

が異なるということである。HM などの摘出手術の症例から判断して,L2 情報は,海馬経由で

大脳皮質に「意味記憶」として、L1 情報は大脳基底核経由でこれまた大脳皮質に「手続き記憶」

としてそれぞれ保存されていくと言えよう。すなわち、L1 と L2 では経由ルートが異なるとこ

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ろから当然神経回路にも違いが生じる。したがって母語である L1 と外国語である L2 は,別々

の神経回路を持ち,それが前者は手続き記憶となり,後者は意味記憶となって大脳皮質に同居

していることを示唆している(10)

 この2種類の言語知識としての記憶が同居していることは何を意味するのだろうか。SLA 研

究で議論になっている「学習」と「習得」という二項対立的に位置づけられている言語獲得プ

ロセスについて以下考察していく。

2.4 明示的 / 暗示的学習と知識

 認知心理学に基づく SLA 研究では,学習者の言語知識(音韻・形態・統語規則)が明示的知

識(explicit knowledge)と暗示的知識(implicit knowledge)に区別されている。SLA 研究者

の関心は,この2種類の知識を二項対立的に捉え,明示的学習 / 暗示的学習,明示的知識 / 暗

示的知識を明らかにした上で,教室現場における明示的教育 / 暗示的教育のあり方をどうすべ

きか,そして,明示的知識と暗示的知識は相互に作用するとするインターフェース(interface)

論を展開し,SLA モデルを提示するところにある。

 まず,明示的学習と暗示的学習について,R. Ellis(2009)は,明示的学習とは意図的な意

識が働いている認知的な学習プロセスであるのに対し,暗示的学習は意図的ではなく,無意

識的な学習プロセスと説明する。この意識 / 無意識をどう定義するのか議論の余地はあるが,

Schmidt(1994, 2001)は,両者の違いをメタ言語的意識としている。SLA 研究における明示的

学習 / 暗示的学習の区別は,認知心理学に沿ったものであり(11)

,明示的知識とは文法をはじめ言

語規則について「知っている」知識,すなわち学習者が言語について分析や説明ができる顕在

的な知識のことを指す。一方,暗示的知識とは,学習者の持つ知識が意識的なものではなく,

むしろ直感的(intuitive)であり,それを説明できないものの文法判断ができる潜在的知識であ

るとする。例えば,英語には,pet, pen, rose の複数形である pets, pens, roses の屈折接辞 -s は,

それぞれ[ s ],[ z ],[ iz ]と発音される音韻規則が存在する。母語話者は,その規則を説

明できないが,正しく発音できる。そのような知識を暗示的知識とする。一方,英語学習者は、

その規則を教室で学んでいてできる。そのような知識を明示的知識と呼ぶ。

 つぎに明示的知識と暗示的知識の違いは,日本語の連濁にも見いだせる。例えば,「日本(に

ほん)」と「髪(かみ)」の複合語「日本髪」は、「にほんかみ」ではなく「にほんがみ」と濁る

ことを日本語母語話者は直感的に知っている。しかも誰から教わったわけでもなく無意識的に

知っている。しかし,外国語として学ぶ日本語学習者は,その連濁ルールを教室で明示的に教

わらないかぎり分からない。換言すれば,明示的知識は,学習し,意識しないと思い出せない

知識であり,暗示的知識は,ルールがいつの間にか頭に入っていて意識しなくても自然に出て

くる知識である。無意識レベルにある母語は暗示的言語知識であり,意識レベルに位置づいて

いる外国語は明示的言語知識と言える

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― 7 ―第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit knowledge)と暗示的知識(Implicit knowledge)

2.5 記憶と明示的(学習)/ 暗示的(習得)知識

 L2 学習で獲得される知識のほとんどは,陳述記憶の「意味記憶」に属する。一般的に日本に

おける外国語学習は,語彙学習や文法学習が中心であり,そうした知識は個人的な経験が付与

されない形で脳に保存されている。個別の断片的な「意味記憶」の保存は、脳の経済性に反す

る記憶方法であると言われ(Collins & Quillian, 1969),そのため,忘れないように繰返し使用し

ない限り,それを記憶するシナプス結合は時間の経過とともに弱まり,最終的には忘却される

ことになる。池谷(2001)によれば人間の発達過程においては,10 歳までの記憶は,「エピソー

ド記憶」が優勢であるが,そこを境に,「意味記憶」の生成や保存は困難になると言う。すなわ

ちこの陳述記憶は,あくまで意識的な脳内活動を通じて獲得されてものであり,必要に応じて

意識的に取り出すことができるが,もはや不必要と脳が判断すれば,記憶から喪失する。したがっ

て,第二言語知識は,海馬からスキーマ(歴史的事実,学習した知識,人名など)ごとに脳内

に蓄積され保存されていくため,それは意識して努力しない限りは取り出せない記憶となる。

 それでは,とくに意識しなくてもいつでも取り出せる状態で脳内に保存されている非陳述知

識(自転車、車の運転,楽器演奏,スポーツ運動など)としての「手続き記憶」はどのような

性質を持っているのであろうか。随意運動に関係するスキルなどのそれは,一度覚えてしまえば,

簡単に忘れることのない記憶であり,必要に応じていつでも自動的に取り出せるものでもある。

こうした「手続き記憶」には小脳が関与しているとされてきたが,言語習得に関して言えば,

小脳以外の大脳基底核(basal ganglia)がより大きな役割をはたしていることが最近の脳科学研

究から分かってきた。

 SLA の視点から言えば,母語のように無意識的に獲得していく暗示的知識が「習得」であり,

L2 のように教室環境で明示的に得ていく意識的な知識が「学習」であるとするならば、「習得」

は手続き記憶であり,「学習」は意味記憶として,それぞれ違う神経回路を形成して脳に納めら

れていることを意味する。バイリンガルの研究からもこのことを裏付ける結果が報告されてい

る(Dehaene et al., 1997; Kim et al., 1997)。彼らの研究では,L2 を臨界期後に「学習」した被

験者と早期バイリンガルの発話状態を fMRI 画像で調べたところ両者では異なるブローカ野周

辺が活動していることが分かった。しかし,生まれた時から2言語で育った均衡バイリンガル

(balanced bilingual)は,L1 も L2 も同じ領域が活性化したと言う。この研究結果から判断する

限り,L1 と臨界期後の L2 では言語処理部位が異なることを示している。

3.明示的/暗示的知識に基づく第二言語習得モデル

3.1 「学習」と「習得」の相互作用

 SLA 研究において最初に明示的知識と暗示的知識を区別したのが Krashen(1981,1982,

1985)であった。彼は,前者を「学習(learning)」,後者を「習得(acquisition)」とし、両者

は独立した知識であり,結びつくことはないとした。Tulving は,記憶の分類の中で,「学習」

は陳述記憶としての明示的知識であり「習得」は非陳述記憶としての暗示的知識であると二つ

を区別した。しかし,Bialystok は,両者が相互に影響し合って学習が習得に変換するという

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― 8 ― 外 国 語 教 育

Krashen とは反対の「インターフェース(interface theory)」理論を展開した。この明示的知識

である「学習」が暗示的知識の「習得」に変換されるか否かついては、(1)変換されない,(2)

変換される,(3)部分的に変換される,とする3つのインターフェースの考え方が存在する。

 インターフェースを否定する研究者は,明示的知識と暗示的知識はそもそも異なるメカニズ

ムが働き,両者の知識はそれぞれ異なる場所に保存されるのだと主張する(Krashen, 1981)。

そして,その知識へのアクセスは,前者が統制された(controlled)プロセスを経るのに対して,

後者は自動化された(automatic)プロセスを経るとし,その違いを指摘する。したがって,異

なる性質をもつ明示的知識が暗示的知識へ移行することはありえないし,また,その逆も起こ

り得ないと言う。こうした主張から判断すると,教室環境で「意味記憶」として学習された語

彙や文法規則は,「手続き記憶」には移行しないと理論上なる(12)

 強いインターフェースがあるとする研究者は,暗示的知識が明示的知識に変換されるだけで

なく,明示的知識も暗示的知識に移行するとしている。しかし,それが可能になるには単なる

機械的な反復練習ではなく実際のコミュニケーションの場での練習を繰り返すという条件が付

く。実際に体験することにより「学習」知識を「エピソード記憶」に変換させる想起記憶への

アクセスを高める狙いがあるのかも知れない。この立場を最初に表明したのが Sharwood Smith

(1981)であり,その後,Dekeyser(1998, 2007)がその立場を支持した。

 そして,弱いインターフェースの存在を認める研究者の立場は,明示的知識が暗示的知識

に移行するのは全ての明示的知識ではなく部分的に限定されるとしている。Bialystok(1978)

は,Interface Model を提唱し,Krashen 同様に明示的知識と暗示的知識の2つは第二言語習得

プロセスにおいて異なる働きを持つことを示唆はしているが,他の立場と異なる点は言語形式

の反復練習により明示的知識は暗示的知識に移行が可能であるという立場をとっている。例え

ば,バーバル・コミュニケーション(verbal communication)を目的として反復練習を繰り返

し行うことによって手続き記憶としてのスキルが習得され,学習した文法規則は意味記憶とし

て保持されるが,暗示的知識から推論(inferencing)することにより手続き記憶に変換される

とする(Bialystok, 1978)。Bialystok は後に,習得知識を明示的・暗示的知識という二項対立モ

デルから両者を連続体(continuum)と捉えるモデルも紹介している。Pienemann(1989)も

Bialystok のように,練習すれば変換が可能であるとの立場であるが,変換も第二言語の発達順

序(L2 developmental sequences)に応じた項目についてのみ可能だとする learnability(学習

しやすさ)の視点からの条件をつけている(13)

。それに対して Schmidt(1990)の「気づき仮説(Noticing

Hypothesis)」(14)

を支持する N. Ellis(1994)は、明示的知識は暗示的知識移行に寄与するが,学習

項目が学習者に明確に示され,それに学習者が ‘ 気づく ’(notice)場合にのみ変換が起こるとす

る。つまり明示的学習と暗示的学習は両方が平行して行われる必要があると言う。この立場を

支持する研究者は R. Ellis(1993, 1994)であり,McLaughlin である。McLaughlin(1987)は明

示的 / 暗示的という二項対立モデルではなく、controlled/automatic という設定モデルを提示し,

controlled された知識は練習によって自動化へと移行が可能だとする。ただ,明示的な知識が暗

示的な知識になる基準は学習項目の難易度にも関係するとして,全ての知識が暗示的知識に変

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― 9 ―第二言語習得(SLA)における明示的知識(Explicit knowledge)と暗示的知識(Implicit knowledge)

換されるわけではないとしている。つまり明示的に学習された文法項目も,練習によって「手

続き記憶」に書き換えられる項目と,そうでないものがあると言う。

 大石(2006)は,この点の言語処理形態についての実験結果をもとに,「学習」と「習得」は

移行するのではないかと以下のような意見を述べている(15)

 左脳の活性状態に着目したとき,習熟度が高くなるにしたがい,意識的処理状態から無

意識的処理状態に移行していくのではないかということである。もし意識的処理状態から

無意識的状態に移行していくのであれば,「習得」から得られた潜在知識と「学習」から

得られた顕在的知識は,同一の知識に成り得ないとする「習得 - 学習仮説」は否定され….(中

略)「習得」と「学習」は、両極を行ったりきたりすると考える中間言語の可変性を肯定

することになる。

 以上,SLA 理論の代表的モデルを検証したが,陳述記憶が「手続き記憶」に完全に書き換え

られるとする研究は少ない。意味記憶として学習された文法知識は,文法を意識せずに意味の

伝達に重きをおいた言語使用練習を繰り返さない限り,完全な自動化は困難であると言えよう。

 本稿では暗示的知識が本当の意味で習得であり,学習により獲得された明示的知識は習得に

直結しないという極端なモデルより2つの知識を結びつけるというインターフェース論を脳科

学の立場から支持する。

 上記の立場と似ているが少し異なる立場を主張しているのが Anderson(1976,1980,1983)

である。彼は,SLA 研究に影響を与えている研究者の一人であるが,脳内の個々の処理モジュー

ルによって認識を生み出すプロセスを説明しようとする。その最も重要な前提は,人間の知識

が2つの根源的な種類に分けられるとしている。その2つとは,「陳述記憶」と「手続き記憶」

である。その前提から思考の適応制御と呼ぶ ACT(Adaptive Control of Thought)モデルを提

示しスキルの習得プロセスを説明している。湯舟(2007)の説明によればスキルの習得は,最

初に「陳述的知識」として学習された知識が,3つの段階を経て自動化され,「手続き記憶」に

書き換えられるとする。第1段階が「陳述的段階」すなわちルールをよく考えながら用いる段

階であり,学習された内容が陳述的知識(意味記憶)として記憶される段階。第2段階は「連

合の段階」でありルールを反復練習する段階とし,反復練習を通して一連の手続きとしてスキー

マを形成する段階としている。そして第3段階が「自動的段階」であり,ルールを無意識的に

用いる段階,すなわち「自動化」の段階である。一連の「手続き記憶」が完全に自動化した段

階だとしている。したがって,学習者が誤りを犯すのは第2段階だとする。第一言語の習得は

第3段階まで到達するが,外国語学習の場合は,中間言語として第2段階までにしか到達しな

いとする。第二言語習得においては,母語話者に近いレベルに到達することは可能であっても

完全な自動化は難しいと Anderson は捉えていて Bialystok や R. Ellis とは少し違う立場をとっ

ている。

 このように SLA モデルは多種多様であり,「意味記憶 / 手続き記憶」といった枠組みで二項

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― 10 ― 外 国 語 教 育

対立的に習得プロセスを説明していくには無理があるように思える。このように多様なモデル

が存在する理由は,認知心理学者の陳述記憶と非陳述記憶,その分類による意味記憶と手続き

記憶や明示的知識に対する暗示的知識の違いが明確でないことにある。

 脳科学から検証した研究には,Baddeley(1986)のように SLA に短期記憶であるワーキング

メモリー(作業記憶)が関与しているとする立場もある。確かにワーキングメモリーは,人の

認知活動を実行していく上で必要な情報を,能動的・意識的に保持するとともに,言語理解,学習,

推論する認知活動のために情報を一時的に蓄え操作するシステムではある。しかし,それは長

期記憶に蓄えられている情報を取り出すという重要な働きは持つものの,あくまでこの記憶容

量が少ないワーキングメモリーは作業記憶であり,言語習得に必要な長期的な記憶となる可塑

性はない。長期記憶と成り得ないワーキングメモリーと言語習得とを関係づける妥当性には無

理があると言えよう。

 以上,明確に提示しきれていない SLA 研究者による意味記憶から手続き記憶への変換モデル

ではあるが,脳科学研究成果に基づくモデルをここに提示する。

3.2 神経言語学からの第二言語習得モデル

 脳科学では人間の記憶や知識は基本的にニューロンのシナプス結合という形で回路を形成し

脳内に保存されていくとしている。したがって,L2 学習者が,繰り返して発音や文法を学習す

ることにより,明示的言語知識のニューロンが反復の度合いに応じて強化されていくとする。

これには脳の特質である「可塑性」が関与している点をとくに強調したい。可塑性とは臨機応

変に能力が変わりえる性質のことである。例えば自転車に乗れない人が,何度も繰り返して練

習すると乗れるようになる現象がそれである。自転車に乗れない時は,脳の中に自転車に乗る

ための神経回路が形成されていないのであり,神経回路が作られていなければ手足を含め体が

動かないため乗れない。しかし,何度も練習することによって回路が作られると乗れるように

なるのである。このように必要に応じて機能が変化する性質のことを「脳の可塑性(cortical

plasticity)」と呼ぶ。

 したがって,脳のもつ可塑性という視点から外国語としての第二言語習得を考えると,当初

は「意味記憶」として海馬を介して側頭葉に保存されていた言語規則が反復学習を繰り返すこ

とにより,大脳基底核に刺激を与え,その陳述的な「意味記憶」がそこで起こるシナプス結合

により神経回路が再編成され,「手続き記憶」に変換されていくと仮定できる。さらに陳述記憶

に関わる海馬は脳の構造上大脳基底核と繋がっており,お互いに影響し合っているため,海馬

経由の「学習」と大脳基底核経由の「習得」という二つの相異なる記憶は,脳の可塑性プロセ

スを経て「学習」が「習得」に変換されていくのだとも言える。インターフェース論に必要な

明示的記憶(学習)と暗示的記憶(習得)の相互作用を図式化すると以下のようになる。

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図2「学習」・「習得」の相互作用

 この図式のように両者が相互に影響し合い,反復練習を繰り返すことにより「学習」が「習得」

に変換された記憶は「手続き記憶」として長く大脳皮質に保持され,かつ固定化される。「手続

き記憶」のこの特徴的性質のためか一度身についたエラー(誤り)や中間言語に現れる ‘ 化石化 ’

(fossilization)を修正するのが困難であるとされている(Selinker, 1972)。これは第二言語学習

のみならずスポーツ技能や楽器演奏についても言えることを私たちは体験から知っている。

 無意識的処理を行う母語については最初から大脳皮質に蓄えられるが,言語習得の臨界期の

幼少期であれば海馬を経由せず大脳基底核経由で「手続き記憶」として固定化されると考えら

れる(16)

。しかし、それでは臨界期を過ぎて学ぶ外国語の場合は,なぜ母語と同じように大脳基底

核ループを利用しないのか。どちらのループを選択するのかを決定させる要因は何か。それは

脳機能の lateralization(一側化)(17)

と関係があるのか,または全く別の隠された機能が存在するの

か。そうした疑問には臨界期 と言語習得における言語処理プロセスを解明しない限り謎であり,

今後の脳科学からの研究成果が待たれるところである。

4.明示的学習と暗示的学習

 脳神経言語学の研究からも明示的知識は暗示的知識に移行できるとする仮説を紹介した(Lee,

2004)。そして,R. Ellis らは,教師が明示的知識の大切さを認識した上で,徐々に時間をかけて

暗示的知識に変換させることが大切であり,可能であると言う。

 明示的に外国語を教えるとは,対象言語の特定項目に焦点を合わせた教え方をする。その目

的は、学習者に学習項目を十分に意識させた形で覚えさせるところにある。そのため当然ながら,

教室では,しっかりと学習項目が明記され,かつ解釈中心の学習形態をとることとなる。その

際には,文法用語も必然的に多用されていく。反対に暗示的学習指導は、学習項目は明示されず,

内容把握に重点がおかれる意味解釈中心の指導がされるが必要に応じて学習項目を明確にする

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― 12 ― 外 国 語 教 育

こともある。

 外国語教育で大切なのは,暗示的知識と明示的知識の区別をしっかりした指導をすることで

ある。文法規則を理解し,単語や暗記や機械的ドリルをするだけでは,外国語を使いこなす能

力は身につかない。とくに、教師は,どのように教室の授業の中で暗示的学習を提供できるのか,

逆にどのようにして教師は授業の中で,明示的学習を提供できるのか,外国語学習において明

示的学習や知識は,どのような役割を持つのか。そして,暗示的,明示的な外国語授業を実施

することが可能になるこの二つがバランスよく組まれたカリキュラムとはどのような内容のも

のなのか。そうした意味では,課題解決型(Task-based)カリキュラムが,教室という学習環

境では最良の方法かも知れない(R. Ellis, 2009)。

5.結び

 SLA 研究には,UG 理論に基づく習得論,また,コネクショニズムからの習得論など多用で

あるが,本稿では,脳神経科学の観点より SLA で最近議論されている明示的知識と暗示的知識

の違いについて考察した。

 この2種類の知識を区別するには,脳にどのような神経回路が形成されるのかを明確にする

必要がある。明示的知識は陳述記憶の「意味記憶」として,暗示的知識は非陳述記憶の「手続

き記憶」として大脳皮質に保存されるが、母語(手続き記憶)に関係する知識は大脳基底核を

中心とした経由で、外国語(陳述記憶)は海馬中心の経由による神経回路を形成した大脳皮質

に保存されていると仮定した。とくに大脳基底核が言語習得に大きく貢献していることを HM

の症例や最近のバイリンガル研究を引き合いに出して論じた。

 外国語学習で常に話題になるのは,なぜ外国語はネイティブのようなレベルに達しえないの

かという点である。Krashen の「習得 - 学習仮説」(Learning-acquisition hypothesis)や臨界期

仮説(Critical period hypothesis)も当然ながら登場してくるが,学習した外国語が反復練習や

留学によって飛躍的に向上する例は多い。そうした現実から SLA 研究者は,教室で学習して

得た外国語の知識は,母語のように自動化され,無意識的に利用できるものであろうか,とい

う課題に取り組んでいる。すなわち「学習」は「習得」に移行するのか否かである。本稿でも,

そのいくつかを取り上げて考察したが,実証研究では明確な答えは出てきていない。しかし,

大脳基底核が自動化を促進させる性質をもっており,語学力の高い学習者は,流暢に話せるこ

とができる。すなわち,外国語知識がある意味で自動的に口から出せるという事実から考えると,

大脳基底核が自動化(automaticity)に関与している可能性がある。とすれば,「学習」と「習

得」には相互作用があるという説の妥当性がうまれる。この点について,ほとんどの SLA 研究

者は,程度の差はあるにしても相互作用していることを認めている。それを当初は否定してい

た Krashen さえもがその可能性を今は否定していない。脳科学からも流暢に外国語を喋る学習

者は,L1 も L2 もほぼ同じ大脳皮質領域が活動するが,レベルの低い学習者は L1 と L2 では違

う領域が活動しているとの興味ある実験結果も報告されている(Perani et al., 1996)。

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 そうした認識に立って外国語教育を考えるならば,教室環境で学んだ明示的知識をいかにし

て自然的環境で習得する母語のように暗示的知識に変換していくことができるだろうか,と

いう点に外国語教育に携わる私たちの関心は移る。その具体的な方法については R. Ellis や N.

Ellis などの提案は参考になるであろう。

 いずれにしても、本稿の目的は脳神経学からの言語習得のメカニズムを明確にすることであ

り,これまであまり取り上げられることのなかった脳科学の視点からなぜ L1(母語)と L2(外

国語)の習得は異なるのかについて論じた。今後は,大脳皮質と大脳基底核の言語習得におけ

る役割の違いと,そこに絡む臨界期(18)

について研究していきたい

注(1)明示的知識 / 暗示的知識は,研究領域や研究者によって顕在的知識 / 潜在的知識としているが,本稿

では第二言語習得研究で主に使用されている前者の用語を使用している。(2)Corder (1967) は、言語習得プロセスにおいてインプット(input)された言語資料が内在化されること

をインテイク(intake)とした。(3)ブロードマン(Brodmann)脳地図ではブローカ野が 44,45 でありウエルニッケ野は 22 としている。(4)Ullman は,手続き知識と陳述知識はことなる脳神経システムを持ち,第一言語(L 1)は前頭葉のブロー

カ野と大脳基底核が,しかし,第二言語(L2)はブローカ野と側頭葉が活動しているとしている。その他,Paradis の研究も参考になる。

(5)海馬には,約 1000 万個の神経細胞があると推定されており,脳全体に占める割合が非常に高い。(6)Miller(1956)は、短期記憶で保持できる情報は約 20 秒間であり,マジカルナンバーとされている7±2

までの情報しか保持できないとしている。(7)アメリカの心理学者 Squire は,長期記憶を言語やイメージで表現できるかどうかで陳述記憶と非陳述

記憶に 2 分した。前者には Tulving のいうエピソード記憶と意味記憶が,後者には手続き記憶,プライミング,条件づけ(conditioning)などが含まれる。

(8)大脳基底核は,被殻と尾状核からなる線条体,視床,淡蒼球,黒質などから構成されている。(9)2006 年9月6日発行の米国科学雑誌『サイエンス』。(10)fMRI のイメージング画像によるバイリンガル研究論文では、 L1 と L 2ともにブローカ野や大脳基底

核がスパインを起こすとの報告がなされている。(11)Reber(1993)と Reber et al(1991)が代表的論文。(12)Krashen(1989)は,その後,立場を変え,規則は初め意識的に「学習」されるが反復練習により徐々

に自動化されるとそれまでの考えを変更した。(13)学習者は自分のステージと,その下のステージに属する文法項目,および自分より一つ上のステージ

の文法項目を習うことが可能である。しかし,自分のステージより二つ上のステージの文法項目を習うことはできない。つまり,特定のステージに属する文法項目を習得するために,下のステージの文法項目を習得していなければならない。このように,言語習得の発達段階に見られる文法項目は,その下の発達段階の文法習得を前提にしている。

(14)第二言語学習に大切なのは学習者が学習項目に ‘ 気づく ’ ことであるとする仮説。Schmidt(1990)は、気づいたものが SLA においてインテイクになると主張する。

(15)大石(2006)p. 141。(16)海馬の出現は3歳頃と言われており,したがって言語発達が始まる2歳前後にはまだ海馬が十分に

発達していないため,言語情報は直接に大脳基底核に送られ,そこで処理されたものが大脳皮質に保存されると考えられる。

(17)一側化とは脳の右半球と左半球で機能が分かれること(脳機能の局在化)を指し,2歳を過ぎるとその固定化が始まり思春期前後(12 歳)までにそれが確立されるとされる。

(18)Birdsong(2006),Johnson & Newport(1989),Lenneberg(1967)などがその代表的論文。

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