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風早へ 久萬山へ 第3部 189 ( 西 ) 姿 ( ) )

風早へ 久萬山へ 第3部 な ど す 月 る そ に 健 そ の に が の 大 か … · 姪 た ち の 面 倒 を 見 た ら し い 。 そ ん な 不 運 続 き の

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風早へ 久萬山へ 第3部

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「河原・田中家」の人々と一枚の秘蔵写真

改めて「改正原戸籍」をつぶさに検証してみる。なにが見える

のだろうか。

明治四五年、新しく戸主に「田中岩吉」(明治二二年生まれ)

が据えられる。それまでの戸主「サカヱ」(明治二五年生まれ)

が成人し、菊間の瓦職人だった「渡部岩吉」を養子に迎えたこと

によるのだろう。父、嘉蔵の死は四歳の時。「カヨ」と「トクヨ」

の小さな妹が二人いた。実母の「チヨ」は父の死を待っていたか

のように、同じ村の「田中権七」のもとへ走り、除籍されている。

その年、祖父の利平が逝く。天保五年生まれの祖母、カメだけは

健在だった。

未成年の戸主に「チヨ」の兄・栄吉が後見人につく。が、実際

には嘉蔵の妹「ツル」が出戻って幼い姪たちの面倒を見たらしい。

そんな不運続きの「河原・田中家」にやっと平穏が訪れたのであ

る。

岩吉・サカヱの間には、すぐに長男、清一が誕生するが三ヶ

月で夭逝する。大正二年、長女のヤス子が生まれる。あとで詳述

するが、この子が長じて、ちよ美さんの長兄の妻となるのだが、

どうやら田中家の跡取りとなるはずの男の子に、なかなか恵まれ

なかったようである。

大正一〇(一九二一)年、三男の菊夫、誕生。次男の馨は二歳

になる前に、早逝しているので、菊夫が一家の中でどういう育て

られ方をしたか、容易に想像がつく。次女・キシエ(大正七年生

まれ、旧正岡村波田の宮地家に嫁ぐ)、三女・アキ子(

大正一二年

生まれ、八反地西原家に嫁ぐ)

、五男、和雄(昭和二年生まれ)

が加わって、賑やかな一家となる。

■ちよ美さんの独白……私が嫁入りした前後のこと

ちよ美さんが、古びた一枚の写真を用意してくれていた。なん

と昭和一〇年代後半に撮ったと思われる、家族揃っての記念写真

である。「煙草小賣所」の鑑札と水甕、ガラス戸棚の上に並ぶ二

つの瓶壺は、売り物の煙草を入れているに違いなかった。真ん中

の、細面で黒の羽織姿で立っているのがこの家の主人か。孫らし

い幼女を膝に置いた初老の婦人は?

「あ、これは!?」

思わず、声が出た。

「ここ(

河原・田中家)

ですね。いやぁ、こんな貴重な写真がある

なんて!」

「そうです。ここのです。主人(菊夫氏のこと)

が二〇歳で戦地

に行っている時、慰問袋の中に入れるため、家族全員の写真を送

ったんですね。右上の丸い写真が主人ですよ」

「あなた様は?」

「あたしはまだ、ここに嫁いできておりませんから」

ちよ美さんが菊夫氏と結婚したのは、復員した昭和二一年のこ

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とだった。

戦地にいる菊夫さんに送られた「田中ファミリー」の貴重な写真。

女性たちの面差しのなんと似ていることか。

細面で彫りの深い顔立ちの、黒い羽織姿が岩吉さんで、その前

でお河童頭の女児を膝に載せているのがサカヱさんだった。左端

のすらりとした長身の娘さんが三女のアキ子、右端の少年が五男

の和雄さん、だと説明したところで、声が弾む。

「あ、いました、いました。これがツルのおばさん」

サカヱさんの隣にいる老婦人を指さす。そして岩吉さんを挟む

ようにして、長女のヤス子さんとその夫が立っている。二人の子

供を妻の実家に連れてきた、というわけだった。

「わたしの一番上の兄ですよ。東長戸の門屋士寿雄です」

この秘蔵の写真を前にして、サカヱさんは河原に嫁入りしてき

た前後を思い出す。

「家の前の街道はふた抱えもある松並木がずっとつづいて、ここ

から粟井橋にかけては上り坂になっていましたね」

ちよ美さんの独白……。

「ここと、東長戸の実家とは親戚付き合いが深くって、ここの叔

母たち(ツル、カヨ、トクヨ)が来たら、わたしの家が居やすい

からといって一〇日間くらい泊まって行ったのを憶えています。

そのうちに、跡取りの兄のもとに河原のヤス子さんが嫁いできた

んですよ」

太平洋戦争が終熄する。菊夫さんが無事帰還。当然、嫁取り問

題が浮かび上がる。白羽の矢が東長戸門屋家の四女、ちよ美さん

に立つ。福角の憲一さんのいう「替え縁」が、これだった。

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「その話があったとき、わたしには約束した人がいました。それ

でも兄と姉が叔母たちと一緒になって熱心に説くんです。河原に

行ってご先祖さんを守ってくれ、と。まあ、それほどにいうんだ

ったら、わたしの身体は姉にあげますから、いいようにしてくだ

さい、いうて……あれから、もう五〇年は過ぎたんですねえ。こ

ないだ、銀婚式を迎えたことだし……。お百姓も主人と二人で、

1町からはじめて、苺の温床栽培やらで表彰されるほどになりま

したが」

それも二人の代で終わりです、という。息子の亮二さんが違う

職業についたからだという。だからといって落胆している様子で

はない。それもそのはず、界隈きってモダーンな建物と評判のこ

こを設計したのが「一級建築士」の亮二さんだと知れば……。

「それでも」と、そばで菊夫氏が付言する。「あっしの家は代々、

河原の獅子舞を大事にしてきて、いまもあっしが保存会の会長を

務め、実質は弟の和雄が仕切ってきたのを、これからは亮二がや

ってくれる、いうとります」

「その田中家の血は、ちゃんと継いでくれとりますので安心です」

ちよ美さんはそういいながら、手元の獅子舞のスナップを見せて

くれる。この秋の祭りで獅子舞を奉納するので、よかったら、北

条まで足をはこんでくれれば嬉しいですよ、と。

話が一段落したところで、田中家のお墓に案内してもらうこと

とした。祖父、父が一刻も早く、行って欲しいと望んでいるに違

いなかった。

銀婚式記念写真

獅子頭の中が菊夫氏

獅子舞にユーモアの風を吹

き込む「オヤジ」役

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【参考資料】

河原・田中家系図

家紋

五三桐

吉右ヱ門を初代とすると、その五代目に菊夫・ちよ美さん、高橋憲一さんとぼくが同列

に並ぶ

河原田中一族の「鎮魂のプラザ」

線香の入った箱を左手に携えて、ちよ美さんがグイグイ前を行

く。七五歳とは思えない確かな足取りだった。田中家の庭を横切

り、勝手口を出ると、そこは表の街道から海へ向かう小路になっ

ていた。

田中家の裏にまわる感じで、さらに左に入ると、そこが大きな

墓地の集合体になっていた。

「こちらにありましたか。お家のすぐ裏になりますね」

「そうです。お彼岸が来たら、風に運ばれて線香の匂いが家まで

流れて来よります」

最初に「田中家之墓」と大書された、比較的、新しい墓石が目

に飛び込んできたが、ちよ美さんは素通りする。ちらっと「田中

栄吉」の文字が目に映った。見覚えがある。

「こちらは、サカヱさんの後見人でしたね」

「あなた、ようご存じですね。重吉さんの妹、ツルのオバアサン

がこちら」

鳥が翼を拡げているような細長い墓域だった。たっぷりと葉を

繁らせた枝を広げて、柿の木に似た巨木が真ん中を仕切ってた。

一度、ここに来た記憶がある。最初に渡部家を訪ねた後、吸い寄

せられようにして曾祖父・渡部長五郎の墓の前にぼくは立ってい

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た。あのときは反対側から入ったのか。巨木(

のちに《チシャの

木》と呼ばれるのを知る)

の向こうに、見覚えのある渡部家の墓

標群が見える。

ちよ美さんの足が止まった。五三桐の家紋。そうか、それは田

中家の家紋だったのか。西明神の正岡家が剣片喰(

かたばみ)

なの

に、なぜ同じ家紋でないのか腑に落ちなかったが、これで判った。

右手に二〇体ばかりの古い墓石が肩を寄せ合っている。ちよ美

さんが線香に火を点けた。やっぱりここが、わが血族のねむる奥

津城だったのだ。線香をあげ、手を合わす。今、やっと、祖父や

田中邸2階ベランダから田中家墓所を臨む

「ご先祖」さまの許へ先導するちよ美さん

父に成り代わってご挨拶できる。衝き上げてくる想いがあった。

プチプチとなにかが溶けていく……。

「粟井村河原六番戸」時代からの、いや、ずっとその前から、こ

こに眠る「ご先祖様」の墓石二〇体ほどが、一つに固まっていた。

左から順に年代が新しいに違いない。すでに左の列は石が崩れは

じめたのか、と思ったが、どうやらその時代は自然石のままに墓

石としたらしい。刻まれたはずの碑銘も、いまは読めない。

嘉蔵さんや利平さんのお墓がどれだろうか。この時期、ちよ美

さんも把握してなかった。二人で、もっとも新しそうな墓の見当

をつけて、右端の海側に移動した。

「明治三十二年」「田中利平」と判読できた

わが家の「五三桐」はここに始まっていた

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祖父・重吉の父「利平」の墓。明治三二年歿

五歳年上の兄「嘉蔵」は明治三〇年歿

高祖父「吉右ヱ門」は「文久3年歿」

父・徳一との写真を祖父の墓に。(

あ、これは利平さんじゃない!?」

ちよ美さんの指さす墓石に駆け寄る。光の加減で「利」の字が

浮かび上がる。そして「明治三十二年」と没年が読み取れる。間

違いない。わが曾祖父のもとへ、たどり着いたのだ。ちよ美さん

が、さらに右隣りに並ぶ墓石の左下を覗きこむと、歓声に似た喜

びの声を挙げる。

「嘉蔵さんじゃ。まぁ、親子で仲良く並んで……これからは、一

人、一人、モノをいいながらお詣りできます。ありがとうござい

ます」

よく見ると、「嘉造」となっている。ちょっと寂しい。本来な

ら、後に遺した伴侶の名前が寄り添っているはずが、「嘉造」こ

と嘉蔵さんの墓にはそれがなかった。

「利平墓」の左隣り。目を凝らすと「吉右ヱ門」と読める。利平

さんの父親である。

三代が肩を寄せ合っている鎮魂の霊域。持参したわが父との唯

一、一緒に映っている写真を「利平墓」に立てかけた。

「よかったね、オヤジ。あんた、ここへ来たかったんやろ?」

そよ風が鎮魂の墓域を流れた。父の顔が、あの幼い日の記憶を

飴玉でもしゃぶるように語ってくれたときのものと重なってい

た。

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旅の終わり

「風早の光る海」に向って……

二〇〇〇年六月一〇日、午前七時五〇分。五日間にわたる風早

郷、そして久万山をゆく旅が終わろうとしている。

目の前を、朝の光を浴びて斎灘が静かに輝いている。渚を叩い

てから、遠慮気味に海に戻ってゆく波の音だけが、あたりを賑わ

せている。午前八時の約束で田中邸に伺う約束だった。それまで

の短い時間を使って朝の海と対面していた。恐らく、幼かった父

が遊んだ海がここだろう。砂浜も松林もいまは消えてしまったの

に、なぜかぼくにはそれが見えるのだ。右手に鹿島が浮かんでい

る。さらに目を右に移す。逆光の中の黒いシルエットは高縄の

山々だ。

前夜、九時過ぎに、やっと久万・西明神の正岡家から門田旅館

に帰り着くと、ちよ美さんからの「電話がほしい」という伝言が

入っていた。

さっそく電話を入れると、「ガラス板に焼き付けた嘉蔵・ツル

兄妹の写真が出てきたが、どうする?」と。

すぐにでも飛んでいきたかったが、時間を考えて、明朝八時に

伺います、と返事してしまう。なんと朝が待ち遠しかったことか。

約束の時間きっかりに、田中家の玄関へ回った。ちよ美さんも

待ち受けていて、すぐに真綿に包んだガラス板とカラフルな端布

粟井川が斎灘に注ぐ河口に立つ…向かいは興居島

かつては砂浜だった渚…鹿島の島影

ツル(

明治2年=

1869生まれ)9歳年下の妹

ガラス板に焼き付けられた「嘉蔵」

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をつないでくるんだ合わせ貝殻を、お守り代わりにどうぞ、と手

渡してくれた。ちよ美さんの手作りだという。

ガラス板の反転は、東京に帰ってからになるだろう。一刻も早

く見たかったが、生憎、この日は京都駅に隣接した外資系のホテ

ルで、中学時代の同窓会がある。松山空港から大阪・伊丹空港に

飛び、さらに京都に向かわなければならない。それに出席してか

ら、新幹線の最終で東京に戻るスケジュールになっていた。

翌日、一一〇年ほど前にガラス板に焼き込まれた「嘉蔵とツル

兄妹」と対面した。松山か北条の、然るべき写真屋で撮影したも

のと思われる。

なぜ、そう推定できるのか。正岡子規がその少年時代、一八八

三(明治一六)年に、松山中学の友人と撮影したものを、ある事

情から取材しているうちに、その何枚かにお目に掛かっているか

らである。保存の程度は違っていても、同時代のものと、ピンと

来た。「少年子規が三坂峠に挑む・余滴」を参照されたい。

あとは、ふたりの年齢。明治二年生まれのツルが適齢期を迎え

た一八歳くらいとしても、明治二〇(一八八七)年だから、いい

線だろう。

すると、万延元(一八六〇)年うまれの嘉蔵は二七歳か。

家督を継いで一家を支える壮年の覇気に、いささか欠ける恨み

はあるが、まだ嘉蔵は独身だったようだ。

それにしても、似ている。間違いなく、わが父を含めて、伯父

や従兄弟たち、と。

それにしても、と重ねて思った。なぜ、このとき、祖父の重吉

(嘉蔵の五歳年下)は一緒にいないのか、と。この時代に記念写

真を撮るということは、そんなに簡単なことだったとは思えない。

結構な値段がしたに違いない。そして、写真をきちんと撮るだけ

の、相応の理由づけがあるはずだ。たとえば、ツルが嫁入りする

のを記念するとか。ツルが黒のよそ行き用を着ているのが、妙に

気になるのだが。この兄妹と、真ん中の重吉とは、交流が失われ

た事情でもあったのか、とか……。

想いは、いろいろと広がっていく。その時代の「河原・田中家」

が透けて見えるこの写真。

そこからの新しいストーリーを追って、このあと、第四部に取

り組むとしよう。

■田中夫妻への手紙

五日間の風早・久万滞在中、DVカメラを可能な限り、回し

た。それを編集したVHSテープを大急ぎで仕上げて、田中菊

夫・ちよ美夫妻に届けどけることで、感謝の気持ちを表すつもり

だった。

以下は、それに添えた二〇〇〇(平成一二)年六月一

七日付けの書簡である。

そちらから東京へ戻りまして、あっという間に一週間が経って

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しまいました。

取り急ぎ、VTRだけ纏めましたので、お手元へお届けします。

器械の調子がよくなく、雑音が耳障りでしょうが、お許しくださ

い。お逢いできて、本当に嬉しゅうございました。

どんな事情で、正岡重吉・クラの夫婦が、幼い子らの手を引い

て、粟井の里の久保から北九州・筑豊へ渡ったのか、特定できま

せんでしたが、それは多分、大正初期の出来事のようです。米騒

動で松山地方が大揺れだった時代でした。それから八十余年が経

って、末裔の一人が、河原の田中家と、渡部家をそれぞれお訪ね

できたわけです。有り難うございました。わが父・徳一(重吉の

三男)がポツリポツリと語ってくれた望郷の想いが、今になって

私を動かしたのでありましょう。

まず、なぜ正岡家に養子として久万山へ送り込まれたのか。養

子先の正岡家を割り出し、お訪ねすることはできました。どんな

事情にせよ、簡単に両養子とするような先祖さまではなかったか

ら、これからはどうぞ親戚付き合いを願います、と先方からおっ

しゃっていただき、とても大きなお土産を頂戴した気分でした。

続いて祖母方の「渡部家」はアイコさんと美枝さんにお逢いで

きました。そして、福角の高橋憲一さんとお目に掛かって、現在

の田中家の状況を伺い、やっとおふたりのもとへ辿り着くことが

できました。

ちよ美さまからお預かりした「田中嘉蔵」さんのガラス板を拡

大してその容貌を知り、あっと声を出してしまいました。父・徳

一とも似通ったものが体全体から伝わってまいりましたが、それ

よりも、伯父・順吉一家の何人かが、まったく瓜二つなのです。

あれは、勇という名の従兄だった。そう記憶していて、昨夜(一

六日)の良枝(八幡在住の従姉)との会話でも意見が一致しまし

た。ツルさんの映像はとても鮮明でした。

田中家については、残念ながら、祖父の祖父に当たる吉右ヱ門

さんから古い時代に遡ることができていません。これからの課題

になりました。

すっかり、今回の旅で、ぼくも「北条・河原」

の出身者の気分です。そのためにも、もっとそちらへ足を伸ばさ

ねば、と心がしきりと騒いでなりません。頂いた貝殻のマスコッ

トはとても可愛いく、大事にバッグにしのばせています。

また、

お便りします。どうぞ、いつまでもお元気で、願います。

次の風早訪問は、その年の秋祭りさなかの一〇月になったが、

それは稿を改めて、書き起こしたい。やっと風早郷の扉を叩いた

に過ぎない。ましてや、正岡氏を追ってはじまった「伊予中世史」

へのアプローチも、序論にふれたに過ぎない。手がかりだけは、

この旅の中から、いくつかを得ていた。また一歩、新しい道に踏

み出すとするか。

(第三部

完)