15
揺曳する〈 自我〉 志賀直哉「クローディアスの日 .佐 ウルトラコエゴイズム 〈絶対的な自我〉ということにしろく志賀的リア 〈 1> リズム〉といわれるものにしろ、すべて 自己の〈 肉 体〉やく生理〉を凝視し、それをそれとして信じき もう十年以上も前、初期志賀直哉についての覚え書を る、という自覚を待って始め 書いたことがあった( 「 生の自然」麗・6『 稿』第W号) 。 のだと思うのである。 広津和郎や小林秀雄を始めとする多くの評者達の言う志 と結論づけた。 賀文学の自己絶対性について、それを前提として認めつ 「 剃刀」への言及においては、三種の つ、志賀自身が自己の本体であるその肉体や本能を凝っ への過程を検討し、「 作者は感想を消 と見つめ、人間存在の基底としてのく生理〉を「生の自 苦闘のすえ、定稿においてようやく芳三郎の 然」として肯定していこうとした様子を把えようとした を衝動そのものとして、深く内側に 入りこむ」こ ものであった。そこにおいて私は初期志賀文学の様相を 能となったとし、又、一 見客観小説のように見えなが 「 剃刀」の成立過程を中心に、「 鳥尾の病気」「 濁った頭」 殺害者芳三郎のみならず殺された客の若い男も、 等にも言及しつつ、 志賀の自画像に他ならず、神経症的な自己嫌悪の 中にあっ

揺曳する〈自我〉...揺曳する〈自我〉 志一賀直哉「クローディアスの日記」など一 藤.佐 雄・ 義 ウルトラコエゴイズム 〈絶対的な自我〉ということにしろく志賀的リア

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Page 1: 揺曳する〈自我〉...揺曳する〈自我〉 志一賀直哉「クローディアスの日記」など一 藤.佐 雄・ 義 ウルトラコエゴイズム 〈絶対的な自我〉ということにしろく志賀的リア

〈自

我〉

志賀直哉

「ク

ローデ

ィアスの日記」など一

.佐

・義

ウル

トラ

コエゴイ

〈絶対的な自我〉ということ

にし

く志賀的

リア

〈1>

リズム〉といわれるものにしろ、

すべて自己の

〈肉

体〉や

く生理〉を凝視し、それを

それとして信じき

う十年以上も前、初期志賀直哉についての覚え書を

る、という自覚を待

って始め

て成立するところのも

書いたことがあ

った

(「生の自然」麗

・6

『稿』第W号)。

のだと思うのである。

広津和郎や小林秀雄を始めとする多くの評者達の言う志

と結論づけた。

賀文

学の自己絶対性について、それを前提として認め

「剃刀」

への言及においては、三種

の未定稿から定稿

つ、

志賀自身が自己の本体であるその肉体や本能を凝

への過程を検討し、「作者は感想を消し、談義を消し、

と見

つめ、人間存在の基底としての

く生理〉を

「生の自

苦闘のすえ、定稿においてようやく芳

三郎

の内面の衝動

然」

として肯定していこうとした様子を把えようとした

を衝動そのものとして、深く内側

に入

りこむ」

ことが可

ものであ

った。そこにおいて私は初期志賀文学の様相を

能とな

ったとし、又、

一見客観小説のように見えながら、

「剃

刀」の成立過程を中心に、「鳥尾の病気」「濁

った頭」

殺害者芳三郎のみならず殺された客の若

い男も、当時の

等にも言及し

つつ、

志賀の自画像に他ならず、神経症的な自己嫌悪の中にあっ

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て、

自己放棄

に陥ることなく逆に自己凝視の視座を確立

ふ事を絶

へず忘れないやうにして書かねばならぬ」とい

していった様相を把えようとした。そのような作家のあ

う記述がある。自己嫌悪と混乱に傾きがちな生の中にあっ

り様

は、

一見

ユーモラスな小説であるかにも見える

「鳥

て、絶対的な力として人間の存在を揺

り動かす

〈性欲の

の病気」

にも受け継がれ

る。

は池内輝雄氏

の論

力〉をめぐ

っての、決然たる自覚がそ

こに窺える。

(「志賀直哉初期の問題1

『鳥尾の病気』の意味するも

「萢の犯罪」と

「剃刀」との関連性の強さに

ついては、

の」

・10

『日本近代文学』第17集)を受容しつつ、鳥

作品内容の類似性から見

て当然とすべきだが、私の視点

尾の敗北

〈意味〉を

〈思想〉ではなく、己の

〈生理〉

から言えば

「〈生の自然〉から

く生の理念〉

へ」と

いう

への敗北と把え、生の自然の前に

〈思想〉が圧倒された

ことになる。この点

についても、私は既に同題で私なり

姿を描

いた作品、と読もうと試みた。又、志賀の

〈生の

の読みを提示したことがある

(京都教

育大学

『国文学会

自然〉

の認識

の契機のひと

つには千代事件やその後の放

誌』第17号、麗

・12)。この作品のサワリは

〈本読

の生

蕩生活があり、それらと内村鑑三のモラルとの確執を背

活〉について萢の希求が語られる部分

にあり、それ故裁

 は  

景と

して書かれた作品が

「濁

った頭」である。それは性

判官も萢を無罪とする、というのが大方の読みであろう。

の暗

い力を、狂者

の朦朧としてしかも濃密な想念として

しかしそれは犯行の前晩

に考えた理屈や思いこみでしか

.

描いた作品であるが、「ミダラでない強

い性欲を持ちた

ない。萢の犯罪の焦点は、舞台上

で妻

と眼をあわせた暗

い」(日記、明44

・1

・26)と思いつつ、現実はその発動

の口述にしかないと、私は考えるのである。その点につ

を許

さない、そこに焦りを伴

った緊迫感が生じていたの

いて私は、

が当時の志賀

の現況であり、全集第九巻

『未定稿編』に

っきりしているのは萢

の行為

がただ彼

〈生

はそういう現状を反映した作品群が渦巻いている。「濁っ

理〉につき動かされてのものだと

いう

一点だけであ

た頭」はそれらをめぐ

っての志賀の鋭く長い軌跡の、と

る。そして作者はそれゆえにこそ萢を肯定するのだ。

もかくも

の中じきり的作品なのである。明治44年2月1

,

萢が裁判長に対して語る

く私

にはもうどんな場合に

日付

日記に

「『濁

った頭』を書く時は

『性欲の力』

とい

も自白といふ事はなくな

ったと思

へたVという難解

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な言辞は右のように考えることによってはじめて解

しうる、のではないか。

ここにあるのは人間存在の基

〈2>

底に働く

<生理〉を見据える作家の眼であり、更に

それを理念にまで化し、その地点で己を律しようと

「クローディアスの日記」は作者29歳

の秋、大正元年

する志賀直哉

〈覚悟〉

である。

九月、『白樺』

に発表された。同年2月

19日、文芸協会

と評したが、・それは今も変りはない。快活なのは萢の

「ハムレット」を観劇、3月9日に迫遙訳

「ハムレッ

みではない。裁判官も又その立場らしくなく

<何かしれ

ト」を読むなどし、日記によればその後すぐ、3月14日

ぬ興奮〉の中に呼び込まれている。高らかな理念

の歌な

に筋を書き上げ、この後

一旦離れ、6月3日書き直しに

のである。

かかり

(「もう

一度、

一ト月程して書き直せば中々い、

々と旧説を繰り返してしま

ったが、しかし私は、そ

になるかも知れない」とある)、8月

23日に完成し

れら

によ

って初期志賀文学の実体を総て領略しえたと思

いる。

この間7月29日に

「大津順吉」が完成され、8月

991

ているわけではない。

一方では自我を

〈生の理念〉にま

24日夜、徹夜して、5月から懸案の

「正義派」を書きあ

で昂揚させ

つつ、

一方では絶対的自我

への懐疑と対自的

ている。創作意欲が異常に昂揚していた時期の作品な

対他的調和

への志向も作動していた。昂揚する自我と同

のである。

時に内省的な自己凝視

への視点を、初期作品の中に様々

動機に

ついては、他の作品同様

「創作余談」で簡潔に

な形

で窺うことができる。そういう揺れも含めて初期志

っている。そこには、①土肥春曙の

ハムレットが軽薄

賀文学がある。それを全面的に検討する用意は今はない

で、却

って宋磁鉄笛

のク

ローディアスに好意を持

った。

けれど、ここでは

「ク

ローディアスの日記」

を中心に

②クローディアスによる兄王殺しの証拠は

「客観的に

「正義派」や

「出来事」など、初期志賀文学の

一面をめ

つも存在してない」、という二点が挙げられている。

って、私自身必ずしも判然としないものに鍬を入れて

りわけ後者については3月9日付の読後感にも、

ってみたい。

あの悲劇の根本は客観的にはマルデ存在し得ない

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といふ発見が非常に愉快だ

った。若し自分の

「クロ

主題そのものではなかろう。

ーディアス」が弘く読まれるやうになれば

「ハムレッ

作者自身

「あのクローディアスは心

理から言えば全く

ト」といふ悲劇は存在出来なくなると思

った。

自分自身です」(「『ク

ローディアスの日記』に就いて」)

と記されている

(これは今日では常識だろうが、当時

と語る通り、長短併せて士

八日間に渉る記述でクローディ

の日本

の状況としてはどうであ

ったろうか、いかにも若

アスに託したものは、感情

・理性

・生

理、そして想像力

の到りであろう)。

を巡

って揺れ動く作家自身の姿の軌跡

そのものであると

「創作余談」の多くがそうであるように、表層的な動

私は考える。あるいはその軌跡を通し

ての自己の内的世

機と作品の主題との間には大きな懸隔があるように私に

界の崩落と言い換えた方が正確かも知

れない。

は思

われる。

ここから窺えるのはクローディアスへのあ

クローディアスはまず他者

(とりわけ

ハムレット)や

る近接感といった程度

のものであろう。

その点について

状況の理解者として出発する。、ハムレ

ットの

く或不快V

最も現実的な読みを提示しているのが宮越勉氏である。

に同情もし得る

〈柔かい心持〉の所有者として

(第

一日)。

「作中最も志賀の創意にかかる」第十四日の兄殺しの想

彼は

「外界の事情に気分を支配される」自分を正確に認

像、正確

に言えば、兄の夢

の中

で兄殺しをしょうとして

識し、その上で状況を

「よく処理」しょうとする。

ハム

いるのは自分だという想像

に注目し、「濁

った頭」関連

レットの

〈低級な悪意〉に対しても、

「二人の間

では愛

資料を引きながら、ク

ローディアス、兄王、王妃をそれ

よりも今は理解だ」と考え続けている。不自然な愛より

それ直哉、直温、義母浩と

「置き換えて読むことができ」、

も理解が大切なのであり、そこから自

ら湧き上

ってくる

そういう形での

「父殺しの想念が微妙な形で澄めいてい

愛を待とうとしているのである

(第二

日)。

酒宴

におけ

た」

とする

(「志賀直哉

尾道行前後の生活と文字」

る無礼に対してもクローディアスは

「それも、気分

の云

・3

『文芸研究』第43号)。自ら語らなか

った動機

はせる言葉として自分は許さねばならぬ」と自らを規制

中にはこのような想念も潜められていた、という氏の所

し、誤解を解く

「いい機会を待たう」

とする。不快

に傾

説に私も同意する。だがこれも動機

の痕跡ではあっても、

く自らの心を懸命に押さえ込もうとし

ている

(第三日)。

Page 5: 揺曳する〈自我〉...揺曳する〈自我〉 志一賀直哉「クローディアスの日記」など一 藤.佐 雄・ 義 ウルトラコエゴイズム 〈絶対的な自我〉ということにしろく志賀的リア

第四日の記述に至

ってようやく

<不快な心持〉、不眠、

クローディアスは結婚に対しての自衿

を失

ってはいな

「頭を悪くしたのかも知れぬ」という懸念等、神経を衰

い。しかし

「自分は自分の力を正確に計

る事を誤

ってゐ

弱させられたク

ローディアスの内面が吐露され、自らの

た」という、自らの

く弱占◇

を意識する。そしてハムレッ

中に押さえ込もうとしていた生理が顕現し始めてくる。

トの

く低級〉な姿勢に対しては

「何処

までも戦はねばな

彼は何ものかに呪誼されているという想念を生み出し、

らぬ」と決意する。理解から耐えること

へ、そして諦あ

く光

り物〉すら感じている。しかし尚クローディアスは、

へと傾斜し

つつ戦いへの決意に至る、そういうクローディ

〈仕事〉によ

ってその想念を彿試しようとする。クロー

アスの心理の流れがみごとに構成され

ており、そこに志

ディアスは耐え続けている。

賀の作家としての確かな成熟があると思

われるのだが、

五日からはオフィリアの問題が浮上してくる。物解

ここでの問題は、自ら思う

〈弱点〉とは何かについてで

りのよい大人ポ

ロー

ニヤスに対しクローディアスは冷静

あろう。クローディアスは

「安直で慣習的な良心」の裏

に批判的

であり、

ハムレットにも尚理解を求めようとす

切りと、自ら注する。戦いとは

ハムレ

ットに対するそれ

る。

あくまでも理性的であろうとし、善良な妻の

「平和

であると共に自ら

へのそれと読むべき

であろう。つまり、

な女

らしい性質」を家の調子

へと拡げようとするクロー

気分に支配されて自己

の意志を見失う

こと

への怖れであ

ディアスの責任意識を作家は描きこんでいる。しかしそ

り、自ら支配

できず他者に釣り込まれ

ていってしまう自

の理性は生理と対峙し危機に瀕し始めていく。

ハムレッ

らの

く気分〉

への戦いなのだと。様々な形で言い尽され

ウルトラ

コエゴイズ

トへの不快感、それを彼特有の眼の持

〈毒〉とまで感

てきた志賀直哉の

〈絶対的自我〉なるものも、決して確

じている。妻の

〈後悔〉にも苦しみ、それに対し

「自分

信には至

っていなか

ったことを軽視したまま、志賀直哉

 

はロバこれ

った情

い出

て諦

り仕

の自

固定

てし

った。

ロー

ィア

い」

(傍

点付

加)

と考

には

調

スも

く気

を冷

に見

いる

る。

〈理

れ動

つ、

ローデ

スは

ハム

〈諦

への

(第

日)。

理解

る。

の中

「静

かな

気高

い顔

つき

Page 6: 揺曳する〈自我〉...揺曳する〈自我〉 志一賀直哉「クローディアスの日記」など一 藤.佐 雄・ 義 ウルトラコエゴイズム 〈絶対的な自我〉ということにしろく志賀的リア

を見、揺れ動く自らの心を恥じ、「自分

は彼

の勝れた才

学〉による裏切りとは何か。少しく解

りにくいが、自己

能と得がたい.人格とをまだまだ愛してみる。どうにして

の主体性を貫けず、〈気分〉というあやふやなものによっ

も早く理解し合はねばならぬ」と。クローディアスは、

て転変してしまう自己の弱さの謂

に他

ならないのではな

他者

への理解を再度取り戻そうとする柔かな心と、自己

かろうか。ク

ローディアスは大人

の理性を意識的に保と

の主体性を貫こうとする強い精神との間を大きく揺れ動

うとするが、〈気分〉一

潜在する

ハムレ

ット

への生理

き、

その狭間にあ

って、対自対他の関係を調和させよう

的悪感情1

がそれを裏切

って

「貴様

の空想にかなふや

とあがいている。調和

への志向はある。ただそれを現実

うな表情」が顕在化してしまう。

ハム

レットという

〈外

化さ

せていくような、向日的な思案も想像力も作動して

界の事情〉、それが

「乃公の行く処、

何所

へでも持ち伏

いかない。いわば理念と実生活上の不均衡に懊悩し続け

せをしてみる。乃公の心はそれを見

つめながら進んでし

ている

(第七日)。

まふ。そしてそれ

へ陥

って了ふのだ」

と、自らを苦苦し

 

はその不均衡

にも耐え続けてきたのだが、それが太

く見

つあざるを得ない。

20

きく破れるのが、

ハムレットの演じて見せた

〈愚かしい

第八日の日記は耐え続けるクローデ

ィアスの心内のド

悲劇〉を見た時であ

った。第八日の記述は作中最大の転

ラマを微細に描き、耐えることの極点

に立たされたその

換点

である。

この日の記述

にあ

って、

ハムレット

への

心情を濃密に描き出している。その極

点の中から、自己

〈彼

〉という呼称も

〈貴様〉という悪罵

へと急転する。

の奥深く潜んでいた本然の感情に忠実に生きようとする、

芝居

の中でハムレットがクローディアスに向けた盗み見、

そういう戦

いの決意が生まれてくる。

その目的を直覚的に感じと

ってしまった時、「乃公の心

強い力で浮ばうく

とする物を或る力で水の中途

に潜

る安

が同

に乃

に沈

てみ

い、

い努

は、

りを

った

のだ

と、

ロー

スは

てゐ

い。

乃公

はも

う腹

の底

から

貴様

を憎

む一.

急転する大きなドラマを記す。そして無心でいようと試

-

腹の底から憎む事が出来る一。

みようとすればするほど自由を失

っていく。

〈安価な文

クローディアスの理性と感情、あるいは対自対他

への

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調和

の志

〈生

って

(「仕

にす

(第

)。

公自

の神

でが

の顔

の筋

の微

ロー

の決

意志

証す

に第

一日、

)、

の表

日、

記述

は極

て短

い。

ハム

ット

〈病

時、

ロー

ィア

スが

誕生

てく

る。

「もう

理解

いふ

やうな

悠長

な事

を待

〈生

の自

然〉

に生

ロー

ィア

の戦

い」

理解

を放

いう

〈荒

って

いく

であ

の決

る第

一日

の記

述、

エリ

の狂

〈上

うば

で、

り行

って、

の人

〈或

「考

」〉

ハム

ット

への批

は手

い。

ロー

「も

う自

って揮

の中

に逡

い。

に対

る決

る自信

い第

ーズ

〈愚

の自

に立

って

「真

へす

る事

の邪

〈禍

いず

く仕

の間

に真

って来

るも

ロー

スに逡

い。

032

だ」

う言

ハム

ット

に向

であ

ると

の決

は結

にお

ても

一度

に、

ロー

ス自

の生

の表

でも

ろう

う形

で反

る。

「其

に何

し合

って、

に解

る機

の死

に対

「心

い」

く自

う」

余裕

て来

(第

日)。

く立

ステ

ィケ

ン〉、

ロー

ニヤ

ス刺

って、

}転

ットが

みな

らず

ロー

ス自

て消

いく

にな

る。

〈天

の配

って

の中

に自

くジ

ステ

ィケ

ン〉

を破

し、

の遺

に対

やり

に、

るも

のが

ると

う、

や難

記述

で第

の記

ドを

こめ

で攻

させ

は始

る。

の感

の自

の自

に絶

信頼

ハム

ット

に対

ロー

「本

り、

いか

る不

い。

の気

ひ」

「正

はな

い」

ロー

ィア

スの中

にあ

って、

の自

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対的

に信頼を寄せ、それによって自己を安定化させうる

この

一節に

ついて、本多秋五氏は

「作者

の関心は

「自

ような確固としたものではなか

ったというようなことで

身の自由な心」

の恐ろしさに向か

っているように思える」

あろうか。感情の自然を

一方では絶対視しょうとし

つつ、

(『志賀直哉』田)と評し、高橋英夫氏

「クローディア

その自然を妨げようとするものが自らの中に内在すると

スを苦しめているものの正体は、想像する自由と想像す

いう、こういう所に内村門下で育んでいた規範的なもの

る不自由がほとんど同じも

のだという両義性

である」

がまだ強く尾を曳いているように思われる。感情の自然

(『志賀直哉-

近代と神話

』)と論

じ、荒井均氏も

は対

外界

・対他者の関係において、それを相対化する糸

「クローディアス

(志賀)が本当に恐れ

たのは

「他者」

口を発見し得ない限り破綻を来たさずにはおかない。

に自己の無実を認めさせ得ないことではなく、自己自身

の感情の自然についてクローディアスは思念を更

でどうにもすることのできない想像力

の問題」(『志賀直

紡いでいく。志賀直哉論において縷縷引用される有名な

哉論』)であるとしている。

部分

である。

て肯

いうる評言であるが、更

に付

け加えるならば

心は自由である。想ふといふ事に束縛は出来ない。

「想ふ」ことと

「為す」ことの

一体性をめぐ

って、クロー

それは愉快な事では確になか

った。然しそれをどう

ディアス即ち志賀直哉の、依然として根強い倫理意識が

する事も出来ないではないか。自分は自分の心の自

作用し続けている点であろう。〈理解V

によ

って対他関

由を独り楽しむ事がよくある。又同時にそれが為

の調和を企ろうとするクローディアスの志向は既に破

苦しめられる事もあるのだ。其意味

では自分

にと

綻してしま

っていたが、ここでは対他関係ならぬ対自関

て自分の心程に不自由なものはないのである。実際

における調和の崩壊が語られている

のであり、自己絶

今の自分には、自分を殺さうと考

へてるる彼よりも、

対化を想像性の次元にまで拡げようとした時に、倫理意

どうにもならない自身の自由な心の方が恐ろしい。

の障害に衝突して、出逢わねばならなか

った苦しみを

自分に於ては

「想ふ」といふ事と

「為す」といふ事

回盲ディアスの内面に託し

つつ、志賀直哉は吐露して

とには、殆ど境はない。

いるのである。そのような意味で、須藤松雄氏の

「自我

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貫徹

の生が崩壊に瀕した状態をクローディアスの心情と

に引いた宮越氏

の論はその魅力と裏腹

一面に傾き過ぎ

てこの作品に導入したも

のと思われる」

(『志賀直哉

ている感も否めない)、戦いへと向か

ったク

ローディア

その自然の展開一

』)という評言は、まさしく正

スの志向は

「自分には近頃何となく弱々しい心が起る」

鵠を得たものと言うべきであろう。

(第15日)、その

「弱い心を圧

へてロハ凝

つと眼をねむ

って

「秋の月のある寒い晩」、自分と妻との関係を疑う兄と

みなければならない」(第16日)と混迷

の中

に沈んでい

の狩場

の宿

での

一夜、ク

ローディアスは兄の魔され声の

くことによって終末を

つけられねばならなか

った。わざ

中で

〈心の自由〉に苦しあられ、殆ど自己喪失の状況に

わざと

「日記はここで断れてみる」と注

つけ加えなけ

陥り、金縛りに遭

ってしま

った。その記憶がクローディ

ればならなか

ったのは、粉本とは全く無

縁に描くべきは

アスを苦しめる。兄王の夢

の中

「その咽を絞めてみる

描いたからと単純に見ることもできようが、中途半端

ものは自分に相違な

い」という想像、単に

「自分の恐ろ

終らざるを得なか

った、自己絶対化の行方を見定め得な

しい形相」のみならず、自分

「その心持」までも輪郭

い作者の弁疏と見ることもできよう。

052

をく

っきりと浮かびあがらせてしま

った記憶、「暗

い中

に大きく開いた眼にはロバ想像

の場面だけが映

ってみる。

〈3>

それから眼も頭も転ずる事が出来なか

ったのである」。

その記憶が今現在、クローディアスを苦しある。「想ふ」

に不器用なまま、線状的に私なりの

「クローディア

ことと

「為す」ことの

一致という、クローディアス的、

スの日記」の読みを提示してきたが、結局語りたいこと

志賀直哉的心性の中にあ

って、兄王殺しは事実

ではなく

は、初期志賀文学にあ

って、自我は

一方

では貫徹に向か

とも事実と全く差異はないのである。

い、それを私

の言葉で言えば

く生理V

の次元にまで垂鉛

結局

「クローディアスの日記」は、想像力に病んだ男

をおろし徹底させ

つつ、対他ならぬ対自意識においては、

の心

の軌跡であ

った。クローディアスの戦

いは対他的な

中途半端

で弱弱しいものに終らざるを得なか

ったという

ものばかりでなく、対自的なものでもあ

ったのだが

(先

こと

である。しかしそれは作家自身

く弱さVと同義で

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はな

いことも注記しておかなければならないだろう。

然的に心理的記述を要求するが、

この作品においては捕

まり、〈猪武者〉的

一方向

に突進するのではなく、

写に徹して、〈正義派〉の工夫の様子を

浮かび上らせて

うしがちな自我をふり返りつづ、客観的な自己凝視の眠

いる。

この興奮が変容していくのが

く下〉の内容となる。

を保有し続けていたということである。言い方を換えれ

〈下〉は三人の工夫の警察での審問、

そこを出

ての町

ば、昂揚する自我が

「崩壊に瀕した状態」を、必ずしも

歩き、更に牛鍋屋での女中相手

のやりとりを経、人力車

危機としてばかりではなく、それをそれとして冷静に見

の場面

で終結させられている。町歩きをし

つつ三人の

 

 

据えようとする眼も共存していたということである。

工夫は、正義を貫いた英雄として

「愉快な興奮が互

の心

「ク

ローディアスの日記」とほぼ同時

に進行し、

その

に通ひ合

ってみるのを感じた」。しかし夜

の町、彼らを

完成

の翌日徹夜して書きあげたという

「正義派」(『朱樂』

とり巻く世界は、普段と何ら変らない。興奮が極めてい

大1

・9)は、そのような眼の保有者によ

って作られた

くばかりか

「報はれない不満」が心中

に浸入してくる。

短編小説だと私は考える。

こういう形で作者は彼らと彼らをとりまく世界との

〈空々

この作品は上下二節より成

っており、上は三段に分節

しい〉関係を的確に把えている。

つま

り、作者は興奮よ

化されている。作品は永代橋付近の電車事故の場面から

りも興奮の行方に関心を向けている。

始まる。女の児の表情、若い母親

の姿、いずれも志賀り

この興奮からいち早く覚めたのは瘤

のない若

い男

であ

アリズムと呼ばれる簡素

で正確な表現でそれらが描き出

る。〈正義〉

への興奮は

一時

のものに過ぎず、それによっ

されている。第二段

の叙述は事故後の監督と運転手との

〈食ひはぐれもん〉に陥らねばなら

ぬ辛

い現実が

一方

対話

で進行していくが、中心は、

で待ち受けている。むろんそれは他の二人

の工夫も解

工夫は或興奮と努力とを以

って、人だかりの視線

てはいるのだが、彼らはその現実を受

け入れることに我

から来る圧迫に堪

へて、却

って寧ろ悪意のある微笑

慢がならないのである。それ故二人は、牛鍋屋でフレー

をさ

へ浮べて其の顔を高く人前にさらして居た。

ムアップして興奮の再現を試みる。しかし

〈空

々し〉さ

いう結びの部分にあるだろう。日記という形式は必

の陥穽はここにも待ち受けている。女

中や客達の関心は

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単なる好奇心に過ぎず、現実は牢固として.いて変容する

知的見晴らしの勝

った小説である。(略、「大津順吉」

はずはないのである。酒によ

って不満は

一時的に解消さ

稿了後の

佐藤注)気配も見当たらない。これは

れたかに見えるが、結局三人は人々から取り残され、興

これで大人びた作品である。

奮は絶望的

に孤立して行方を失うしかない。

と評しておられる。「知的見晴らしの勝

った小説」だ

こうして二人は絶望的な気分のまま、遊廓

へと向かう

いうのは、まさしくその通りだと思う。

ただ、

〈大

人力車

に乗り込むのだが、それが永代橋を渡

った事故現

人〉びた

く純客観小説〉かというと、問題は残るのでは

場を

った時

に、二人の澗に

一寸したすれ違いが生じる。

なかろうか。形式的に見れば確かにそ

の通り

〈純客観〉

ケコミに立ち上りそうにして

「一寸降してくれ」と畷泣

的なのだが、(純客観小説とは何かという面倒な問題も

き続

ける年かさの男に対し、瘤のある若

い男は、「もう

あるのだが)、

工夫達

の興奮とその反動反極とし

ての

いいやい!もういいやい!」「いけねえいけねえ」

と叱

〈空々し〉さは、作者自身の心持ちそ

のものと読むべき

つけるように制する。制せられた年かさの男はおとな

であり、それ以外

ではないように思われる。「正義派」

しくそれに従う。事故現場における二人の男の反応のし

という表題がアイ

ロニーをこめたそれ

であるのは当然だ

かたは異な

っているのだが、感情はぴ

ったりとひと

つの

が、そのアイ

ロニーは自身にむけたそれ以外ではありえ

ものにな

っているのである。作品結末部における年かさ

ない。「クローディアスの日記」と様相

は大分異にする

の男

の涙、その意味を熟知する瘤のある若い男の対応、

と言

っても、昂揚する自我の窮りある

いは自省のモチー

ここには、自分達の興奮が外界といささかなりとも関係

フを、私はここに見るのである。

つまり、

一方で

「剃刀」

性を持たないことを知

ってしま

った人間、自己と外界と

から

「萢の犯罪」

に至る小説を書き、

自我を

〈生理〉的

があまりにもかけ離れた

〈空々し〉さを体験させられて

次元にまで拡大して主張しようとし

つつ、そういう自我

 は  

しま

った人間の哀しみが描かれていると読むべきだろう。

への自省の端緒をもこの作品

で見せ

つつあるのである。

この作品をめぐ

って本多秋五氏は前記著書で、

そう言う観点からするならば、今は細述する準備はな

純客観小説である。志賀直哉の作品には珍しく、

いが、同時進行していたもうひと

つの大きな作品、「大

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ポンド

津順吉」の結末部、〈九膀の鉄亜鈴〉を叩き

つけ

つつ、

をはじめとして、たびたび志賀は社会的素材を小説化し

階下

にいる書生が、

てきたのだが、「社会悪や不平等に対し

、感情

は正確敏

真夜中寝てみる直ぐ上

の天井に今

のえらい音を聞

感に反応する。しかしその感情自体は殆ど対他関係の中

いて闇の中にム

ックリ起き上

った様子を想

ひ浮べて

で考察されず、従

って他者や他者によ

って構成される社

了ふと、私には堪

へられない可笑しさがこみ上げて

会など目に入るよすがもない」(拙論

「大正期文芸思潮

来て独りクスリく

笑はずにはみられなか

った。

の研究」麗

・3

『明大人文研紀要』第

31冊)

のであり、

いう部分も、興奮し

つつ余裕をも

ってその自分を顧

『十

一月三日午後の事』に即して言えば、「結果として軍

みるという構図で成り立

っており、「正義派」と良く似

隊の非人間性が発き出されようと、発き出す主体はあく

た心的状態で書かれたことを窺わせる。初期志賀

の自我

までも自己の感性そのものであり、その領域内

でのみ事

神話を否定するわけではないが、自我

のあり様を冷静

件はある。(略)事実を描写する作者

の生動する眼、そ

つめようとする複眼をも、志賀直哉は同時に育んでい

の眼の所有者としての作者の興奮昂揚と落潮、それ自体

たのであり、その経緯をと

ってやが

て、本多氏

の言う

がこの作品のテーマではないか」(同)

と私は考えてい

く無私の眼〉も生まれてくると思うのである。

る。ことのついでに補足して言えば、

その興奮の落潮

再言すれば、「ク

ロ」ディアスの日記」と同様に、「正

伴うある寂蓼感を

〈神の無慈悲〉とき

っぱりと言

っての

義派」の工夫達の感情の軌跡は、志賀自身

のそれであ

けることができたのは

「濠端の住まひ」(大14)であり、

たと

いうことである。従

って荒井均氏が、当時

の志賀が

そこに志賀直哉の心境小説が確立されたと思う。

「より広

〈社会〉を見たい、知りたいと考えるのは当

論旨がやや反れてしま

ったが、私は荒井氏の論稿

に翼

然であろう」とし、「漠然とした社会に対する」〈憤慨〉

和感を覚え

つつ、しかしひと

つの示唆をも与えられた。

の中

にあ

ったとするこの作品の読み方

(前記著書)

に、

つまり

「同じ年に描いた」(事実は翌年執筆)「出来事」

私は異和感を覚えずにはいられない。中

・後期において

「正義派」との対比を、氏が簡略な

がらスケ

ッチして

  ヨ 

「十

一月三日午後の事」(大8)、「小僧の神様」(大9)

いる点である。この作品から氏は、志賀が対社会

におい

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て調

和的

であ

こと、

スト

であ

ると

のギ

ラギ

ラと

自我

の匂

いは

 

『白樺』的並呈思の作家であることを論じておられる。

・後期の作品と見まがうような調子が展開する。中年

「出来事」は出来事のあ

った日

(大2

・7

・26)の翌々

の小役人にしろ若者

にしろ、

ここには人々の善意が溢れ

日に書き出し、約半月後の八月十五日、書きあげたその

ている。幸運にじ

っとしていられず独言を語る中年の小

夜、

「城の崎にて」に書かれた事故

に遭

った。

因縁

つき

役人を

く私Vは、

.の小

説である。

の快い興奮を寄せるにはそれ

は少し内容の充実

「七月末の風の少しもない暑い午後」、市電

の車中は八

しない言葉だ

った。彼はも

っと云

ひたいらしかった。

九人

の乗客と

一匹の白い蝶を乗せたまま、す

べてが

くダ

然し自分でも満足出来るやうな詞

は出なかった。

ル〉

「半睡の状態でぐ

ったりとしてみる」。

そういう

と観

ている。明らかに

〈私〉は彼に好意を示している。

中で

「正義派」同様の事故が起るのだが、子供は奇跡的

〈言葉〉という観念が

〈興奮〉に追い

ついていかないそ

に救われ、〈私〉は

くほ

っ〉と安堵する。作者

はわざわ

の善良さに。事件に対しほとんど自己を放棄して動き回

ざ括弧を

つけ.て

「此ほっとした心持は遙

に多く主我的な

ている若者に対する感情も同様である。事件

の処理に決

喜び

であ

ったやうに思ふ。然し私には此心持は後でも却

着が

ついた時、

て愉快に思

へた」と注を打

っている。対他的ではなく、

若者が

一寸顔を上げた時向ひあひの私と視線があ

自然

に浮かび上

ってくる対自的な喜びの方が

〈愉快〉だ

.・た。「往生々々」と云

って若者

は笑

った。先刻

の気

ということは、見方をかえればこの時期、志賀が主我的

の立

ったやうな恐ろしい表情は全

く消えて善良な気

な自

への疑問に苦しんでいたことを証しだてていると

持のいい、生きく

とした顔

つき

にな

って居た。

読む

のは、「クローディアスの日記」や

「正義派」

の文

と、〈私〉は彼

に全面的

に好意を寄せ

ている。〈私〉も

の中にこの作品を位置づけようとする私説にふ強引に

人人のひとりとして、興奮しつつ、作

品の前面に出るこ

引き

つけた読みに過ぎよヶか。

.

.

.

となく、

つつましく善意の風景の中

に溶け込んでいるか

品の後半部分には、読者を圧倒するような、初期志

のようである。電車の車中という、本

来人人が個別的な

Page 14: 揺曳する〈自我〉...揺曳する〈自我〉 志一賀直哉「クローディアスの日記」など一 藤.佐 雄・ 義 ウルトラコエゴイズム 〈絶対的な自我〉ということにしろく志賀的リア

存在

であるしかない空間の中で、〈私〉も含めて人人は、

な作品と見るべきであるように思われる。

結合レ連帯しうる存在として肥えられている。

小林秀雄の

「志賀直哉論」(「思想」

昭4

・12)

「の

「氏

しかしこの作品を他者との結合や連帯を核にして読む

は思索と行動の隙間を意識しない。(略)

かかる資質

こと

は、的を得ていないのではなかろうか。人人

の善意

って懐疑は愚劣

であり悔恨も愚劣である」という評言

の結合というより、ひとつの事件が

〈ダ

ル〉な気分を抜

に始ま

って以来、例えば羽仁信五の

「統

一された自我に

けきらせていくという方にアクセントがあり、〈へうき

対する極めて強靭な全的な肯定であり、その上に立

った

ん者〉の白い蝶の印象的な点綴がそれを浮かび上らせて

自己の実感に対する全幅の信頼が背後

にある」(「志賀直

いるように思われる。〈私〉は人人

の中

に埋もれている

哉」昭18

・9

『近代日本文学研究

.大正文学作家論上』)

のであるが、先に引いた

〈主我的な喜び〉という注や、

という風に続く批評は、今日も尚生き続けていると思わ

結末部の

「私

の心も今は快

い興奮を楽しんで居る」とい

れるが、結局は

〈愚劣〉であると結論

されるとしても、

一行

にこそ、作品執筆のモティーフがあるように思う。

その結論は

〈懐疑〉する自己、〈悔恨〉する自己を深く

〈他人

の自由と自分の自由〉

(日記、明45

・3

・12)が

凝視することから生まれてきたものであり、無前提

摩擦

を起してばかりだ

ったからこそ、瞬時の調和的な世

「自我に対する極めて強靭な全的の肯定

」があ

ったわけ

界が嬉しか

った。それだけのものであり、あるいはそれ

ではなか

った。

ほど貴重な時間でもあ

ったのである。

「クローディアスの日記」の記述者は、自己に確信的

ここでは父や友人間との対立を始めとする実生活上の

であるどころか、対他関係においてよろけがちであり、

軋礫

の問題は棚上げしておくとして、当時の志賀直哉は、

対自意識

においても、〈統

一された自我〉から遠く隔たっ

自己絶対化を激しく押し進める

一方で、そういう自己の

ている。

一方では

「剃刀」から

「萢の犯罪」

へと続く、

あり様を綿密に凝視する、そういう生の中にあ

った。

志賀の自我神話を産み出した作品の系譜があり、そこで

の小品は、そこから調和

への方向性をも

った、ささやか

く自身の自由な心〉が、例え反社会的であ

ったとして

なあ

るものが生まれてくることを予感させる、そのよう

も、それが

く生の自然〉である限り高

らかに歌

いあげら

Page 15: 揺曳する〈自我〉...揺曳する〈自我〉 志一賀直哉「クローディアスの日記」など一 藤.佐 雄・ 義 ウルトラコエゴイズム 〈絶対的な自我〉ということにしろく志賀的リア

いる

一方

〈自

の自

妥当

であろう」

とし、作品

の全面的読み換えを求めたも

脅え、あ・いは

く空々・〉い虚無に担えられがちな作。叩

焔雌

の犯罪』訟.Lがある

の系

いる

の間

にあ

って、

双方

(2)

「正義派」

結末部

、車

夫と

の対話

の後、

二人

「掃

にお

て、

調

一瞬

てき

た喜

たやうな大通

りは静

まりか

へって、昼間よりも広

々と見

ともあ・た。「出来事」はそのよ甚

作品だ・思毫

郎猷罐

加撃

解酬

〈自我〉をめぐ.て揺れ孕

作家の姿を、私はスケ・

(3)と

紙戦

飢鑓詔

チし

てみたか

ったのだが、はたして所期通りの論にな

日本現代文学

志賀直哉』町・5)。

ているかどうか、甚だ心もとない。草稿類に目を向けて

いな

いのみならず、肝心の

「大津順吉」にすら殆ど言及

しえ

ていない。「大津順吉」は全体的

には自我

の歌

では

112

っても、作者は

一方では

「痴情に狂

った猪武者」

(父

による順吉批判)としての自己を客観化しようともして

おり、「主我的な自己の意識の奥

に、無私の眼があ

って、

そこ

へ意識を振り向ければ、眼はぱ

っちりと見開いてい

る」

という本多秋五氏の名評

(前記著書)を受け

つつ、

私の

「大津順吉」論をこの小論に組み込んで行きたか

たのだが、今は再論を期すしかない。

注(1)

「苑

の犯罪」

の舞台を

「予審段階

の取調

室と

のが