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18世紀以前のパリ外国宣教会と ベトナム北部宣教 東京大学大学院 / 総合文化研究科地域文化研究科 / 博士課程 牧野 元紀 ― 修道会系宣教団体および現地政権との関係を中心に ― 富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金 小林フェローシップ 2007 年度研究助成論文

小林基金 F 118 牧野元紀 - Fuji Xerox...ロードは同僚の宣教師ピエール・マルケスPierre Marquezとともにコーチシナへ追放処分となった。鄭氏のトンキン軍と対峙する阮氏のコーチシナ軍のなかにイエズス会と結びつくポルトガル人兵士が

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  • 18世紀以前のパリ外国宣教会と ベトナム北部宣教

    東京大学大学院 / 総合文化研究科地域文化研究科 / 博士課程

    牧野 元紀

    ― 修道会系宣教団体および現地政権との関係を中心に ―

    富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金

    小林フェローシップ 2007 年度研究助成論文

  • 謝 辞

    本論文を作成するにあたり、東京大学の古田元夫先生、学習院大学の武内房司先生、パリ第7大学

    のアラン・フォレスト先生より直接の御指導を受ける機会を得ました。また、筆者の現在の勤務先で

    ある国立公文書館アジア歴史資料センターでは石井米雄センター長から貴重な御意見を賜りました。

    本論文に関する海外での資料調査は富士ゼロックス小林節太郎記念基金の助成を得てはじめて遂行

    が可能となりました。記念基金の関係各位には大変お世話になりました。ここに記して謝意を表した

    いと思います。

    2008年10月31日

    牧野 元紀

  • 目 次

    ページ

    まえがき ................................................................................ 1

    第1章: トンキン宣教の黎明―「新たな日本」の誕生 ......................................... 2

    第1節: 布教の始まり ................................................................... 2

    第2節: イエズス会による宣教の進展とパリ外国宣教会(MEP)の設立 ........................ 2

    第3節: MEP宣教師のベトナム到来 ........................................................ 3

    第4節: MEPによる現地人聖職者の掌握と養成 .............................................. 4

    第5節: 極東宣教におけるMEPの優越 ...................................................... 5

    第2章: 修道会団体との関係 ............................................................... 6

    第1節: ドミニコ会の到来と東西代牧区の分立 ............................................. 6

    第2節: イエズス会の反発 ............................................................... 6

    第3節: 典礼問題 ....................................................................... 7

    第4節: イエズス会の解散とMEPの教勢拡大 ................................................ 7

    第3章: 現地政権との関係 ................................................................. 9

    第1節: ナムディンとゲアン ............................................................. 9

    第2節: 18世紀前半:鄭氏政権のキリスト教弾圧 .......................................... 10

    第3節: 18世紀中葉:弾圧の弛緩と教勢の拡大 ............................................ 10

    第4節: 18世紀後半:鄭森の弾圧とゲアン鎮守の保護 ...................................... 11

    第5節: 鄭氏の滅亡と西山の勃興 ........................................................ 11

    あとがき ............................................................................... 13

    註 ..................................................................................... 14

    参考文献 ............................................................................... 21

  • ― 1 ―

    まえがき

    本論文では17世紀から18世紀にかけてのベトナム北部におけるキリスト教宣教の歴史を通観する。

    かつてトンキンと呼称された同地域のキリスト教コミュニティの動態を持続と変化に注目しながら長

    期的視点から観測することにより、19世紀前半を主な分析対象とする筆者の博士論文における諸議論

    の起点とする1)。

    16世紀から17世紀にかけてのベトナム北部ではイエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会、アウグ

    スチノ会など様々な修道会系団体が布教活動を展開した。こうした修道会系の宣教師の多くは当時の

    極東海域で「海禁」下におかれた日本や中国から追われた者たちであった。彼らにとって「新開地」

    となったベトナムは早くから重要な布教拠点と位置づけられた。

    これに対して「パリ外国宣教会Société des Missions Étrangères de Paris(略称MEP)」が誕生し、その活動を本格化させるのは17世紀後半から18世紀にかけてのことである。後発の宣教団体であるMEP

    はいかなる契機でベトナム北部での宣教事業に取りかかり、いかにして主導権を握るようになったの

    であろうか。その布教活動を進める上で、既存の修道会系組織との関係や現地の政治権力との関係は

    いかなるものであったのか。布教の主な対象となったトンキンの住民層や各地域にはどのような特徴

    がみられるのか等々の問題を包括的にとりあげてみたい。

    本論文におけるパリ外国宣教会の活動については1990年代の同会所蔵文書の一般公開後に歴史研究

    者としてはじめて本格的に一次資料を用いたアラン・フォレストAlain Forestの浩瀚な著書に大きく

    依拠している2)。また、アドリアン・ローネイAdrien Launayをはじめとする前世紀の教会史家による

    諸文献も必要に応じて参照する。他方、イエズス会の活動については同会文書を用いた五野井隆史の

    研究に負うところが大きい3)。

    ベトナムのキリスト教史研究において日仏の専門家による先行研究は一般に精度が高く、たしかな

    蓄積がある。しかし、ほぼ同一の地域と時期を扱いながらも、分析対象とする宣教団体が異なるため

    に立論にあたっての使用史料や参考文献には重なりがほとんどみられない。そのために議論の連続性

    や地域史の問題設定からすると、未解決の課題が少なからず積み残されている。

    日仏を中心にこれまで蓄積されてきたベトナム北部のキリスト教史研究における諸成果を総括し、

    政治史や経済史を中心とする従来のベトナム前近代史研究に接続する作業をとおして、ベトナム北部

    のキリスト教コミュニティの歩みを広く地域社会史のなかに位置づけることも本論文の眼目のひとつ

    である。

  • ― 2 ―

    第1章: トンキン宣教の黎明―「新たな日本」の誕生

    第1節: 布教の始まり

    ベトナムにキリスト教が最初に伝わったのはいわゆる大航海時代の16世紀前半とみられるが、その

    詳細は未だ明らかでない。ポルトガル船やスペイン船の来航にともなって、フランシスコ会やアウグ

    スチノ会などの托鉢修道会系の宣教師が紅河デルタ一帯で個々に伝道を開始したようである4)。

    17世紀に入ると、ベトナム宣教を主導したのはイエズス会である。この時期、日本で禁教政策の打

    撃を被った同会は極東海域における新たな宣教先を探し求めていた5)。ベトナムには朱印船交易などを

    とおしてキリスト教徒の日本人が多数居住していたこと、1611年にトンキン・コーチシナ・ラオス・カ

    ンボジアの各地がイエズス会「日本管区」にそれぞれ編入されたことを機に、ベトナムは「新たな日

    本」としての重要な位置づけを与えられるようになった6)。

    第2節: イエズス会による宣教の進展とパリ外国宣教会(MEP)の設立

    アレクサンドル・ド・ロードAlexandre de Rhodes(1583―1660年)はベトナムのキリスト教史上、

    最もその名の知られる宣教師の一人である。南仏アヴィニョンのユダヤ系スペイン人の家系に生まれ7)、

    言語の習得に抜きん出た才能を発揮したといわれる。

    1612年、ローマでイエズス会に入会した後、1623年、極東での同会の拠点であったマカオに到着し

    た。当初は日本へ派遣される予定であったが、徳川政権の「禁教」政策のため渡航を断念せざるを得

    ず、1625年、他5人のイエズス会士とともにコーチシナへ派遣されることとなった8)。以後、1645年ま

    でのおよそ20年間、マカオとベトナムの間をしばしば往来し、現地語を駆使しながら宣教活動を精力

    的に進めた。

    ド・ロードがトンキンで布教を始めたのは1627年である。当初は現地を治める黎朝鄭氏政権の権力

    層に対して時計やガラス器などの貴重品を贈呈して歓心を買うことで接近を図った。権力者からの保

    護を得てトンキンの王都タンロンThang Long(現在のハノイ)では教会と司祭館の建設が認められ王

    族関係者17人が洗礼を受けるなど初年度だけで1200人、翌年度には2000人、3年目には3500人の新規改

    宗者が現れた9)。

    しかし、イエズス会は鄭氏と対立したコーチシナの阮氏にも同時に接近を図っていたため、反乱勢

    力との関わりを疑われる事態がたびたび生じた。1628年末、禁教令がついに発布され、翌年3月にド・

    ロードは同僚の宣教師ピエール・マルケスPierre Marquezとともにコーチシナへ追放処分となった。

    鄭氏のトンキン軍と対峙する阮氏のコーチシナ軍のなかにイエズス会と結びつくポルトガル人兵士が

    参戦していたのが確認されたためであった10)。

    トンキンではヨーロッパ人宣教師がしばらく不在となったが、その間カテキスタなど現地人布教者

    の活躍が広くみられ、宣教事業は途切れることなく進展した11)。禁教令が相次いで発布されたにもか

    かわらず、改宗者の数は増加の一途をたどり、1639年には信者数が82500人に達したとされる12)。

    ド・ロードはまもなくトンキンに戻り、各地で布教活動を再開した。しかし、1645年、処刑猶予の

    付いた国外退去勧告を受けてベトナムを最終的に離れることとなった13)。自身の20年にわたる宣教経

    験とカテキスタの活躍をふり返り、弾圧下ベトナムでの宣教事業を成功させるには現地人聖職者の養

    成が必須であり、その実現には既存の修道会系組織とは異なる教皇直属の宣教組織が必要であるとの

  • ― 3 ―

    考えを抱くようになった。

    1649年、ヴァチカンに到着すると、ただちに教皇インノケンティウスInnocentius 10世をはじめ、

    有力枢機卿らと面会し、ベトナムにおける宣教事業への全面的支援を求めた14)。1622年に布教聖省

    Congregatio de Propaganda Fideが設立されたこともあり、ヴァチカンでの海外宣教に対する関心は

    高かった。しかし、「布教保護権padroado」を盾に宣教事業を独占するポルトガルやスペインとの軋轢

    を招く懸念がもたれ、結局表立った支援を得られなかった。1652年、ド・ロードは母国フランスから

    の支援を獲得することに方針を変更し一路パリへ向かう15)。

    彼の訴えははたしてパリの聖職者たちの間で広く受けいれられた。1653年、若手聖職者たちの集ま

    りである「友好協会Association d’Amis」や宣教事業にかねてより関心を示していた「聖体会Compagnie

    du Saint-Sacrement」などと関係を築くことができた16)。こうした組織のネットワークをつうじて宰

    相リシュリューRichelieuの姪にあたるエギロンAiguilon公妃をはじめ多くの宮廷や教会の関係者か

    ら物心両面にわたる支援を得ることに成功した。ベトナムへ派遣するための代牧司教と在俗司祭の任

    命を行うための具体的組織づくりも始まり、聖体会ではフランソワ・パリュFrançois Palluなどの有能な若手司祭を見出した17)。

    第3節: MEP宣教師のベトナム到来

    友好協会や聖体会の働きかけが功を奏し、1659年7月29日、教皇アレクサンドルAlexandre 7世は勅

    書を発し、パリュを「トンキン代牧司教」に、ピエール・ランベール・ド・ラモットPierre Lambert de

    la Motteを「コーチシナ代牧司教」にそれぞれ任命した18)。これにあわせて、ルイ14世、マザランMazarin

    宰相、エギロン公妃などの政府や王室関係者が多額の寄付を施し19)、フランス・カトリックの海外宣

    教事業はようやく端緒についた20)。

    1663年7月、ルイ14世の勅許を得てパリ外国宣教会が正式に発足する。パリ市のセーヌ左岸、バック

    通りRue du Bacの124番地にあったバビロンBabylone司教の邸宅を譲り受け、これをセミネールと定め

    て本拠とした21)。また、同会が布教聖省の管轄におかれることもこのとき正式に決められた22)。

    1660年にはランベール・ド・ラ・モット司教、ブルジュBourge、デディエDeydierの三人の宣教師が

    23)、1662年にはパリュ司教がそれぞれベトナムに向けて出発した。当時、東アジアでは徳川政権や清

    朝の海禁政策のあおりをうけて海港都市マカオの衰退はますます顕著であった。東シナ海から南シナ

    海にかけての海域では人や物の移動が困難となり、新たな宣教師の派遣も滞った。そのうえ、トンキ

    ンでは禁教令の発布が続き宣教師の追放も相次いだために、1663年末の時点でヨーロッパ人宣教師は

    イエズス会士のわずか1人を数えるのみであった24)。

    1664年1月末、パリュはシャムの都アユタヤに到着した。シャムは当時の極東海域で外国人が安全に

    足を踏み入れることのできる数少ない地域であった。彼はここで任地のトンキンが厳しい弾圧下にあ

    ること、イエズス会の残存勢力がいまだ無視できない規模であることを知り、態勢を立て直すために

    ヨーロッパへ一旦帰還することとなった。翌年、ヴァチカンではトンキンがイエズス会から完全に独

    立を果たせるようロビー活動を行い、教皇とルイ14世からそれぞれMEPへの支持を取りつけることに成

    功した25)。

    1665年末、アユタヤのMEP大神学校にトンキンから一通の書簡が届く。トンキンでは迫害が止んでお

    り、ヨーロッパ人宣教師の一刻も早い到来が望まれている旨を記すトンキン人カテキスタからの報告

  • ― 4 ―

    であった。アユタヤ在留のMEP宣教師の間で直ちに相談がもたれ、ベトナム語とポルトガル語に流暢な

    デディエがMEP初の宣教師としてトンキンに派遣されることが決まった。

    デディエはバンコクから中国籍の商船に乗り、1666年7月30日、紅河の河口付近に到着した。そこか

    らタンロンまではコーチシナ人のイエズス会カテキスタでアレクサンドル・ド・ロードに25年間仕え

    たことのあるラファエル・ド・ロードRaphaël de Rhodesの助けを借りた。タンロンでは鄭氏政権と商業的に強いつながりをもつ日本人のポール・ダ・アバダPaul d’Abadaとの接触も試みた26)。MEPはト

    ンキン到来の当初からこのようにイエズス会の現地人聖職者・信者がもつ既存のネットワークを活用

    することによって教勢の浸透を図ったといえる。

    第4節: MEPによる現地人聖職者の掌握と養成

    同年10月11日から15日にかけて、デディエとイエズス会所属のカテキスタたちとの間で会談がもた

    れた。そこでは信仰生活共同体をつくるにあたって、フランス人とトンキン人の別なく、共有財産制

    度を設けて各自の動産・不動産の所有目録を提出することが義務付けられた。これが後に「神の家

    Maison de Dieu」として発展を遂げる自立的信仰生活共同体の起源である27)。このときデディエのも

    とには8人のベテランのカテキスタと15人ほどの見習いのカテキスタが集結した28)。

    デディエの指導の下でイエズス会出身のカテキスタたちが中心となった宣教活動は順調に進展した。

    たとえば、一品のベテランカテキスタのマルタン・マットMartin Matはトンキンの南部を占めるゲア

    ンNghe AnとボーチンBo Chinhの二地方で二品のカテキスタとともに布教を続けた結果、一年後の1667

    年末には3000人の新規改宗者を得ており、デディエ自身も総勢で7080人の受洗者があったことを報告

    している29)。

    また、司祭を目指すベテランのカテキスタを対象に神学を中心とする専門教育が施される一方、見

    習いのカテキスタを対象にヨーロッパ系言語、とくにラテン語を集中的に教える教育カリキュラムが

    始まった。これまでイエズス会では現地人に対するポルトガル語やラテン語、アルファベットの習得

    に関する教育が禁止されていたこともあり30)、MEPによるこうした試みは画期的であった。

    1668年2月、デディエはベテランカテキスタのブノワ・ヒエンBenoît Hiênとジャン・フエJean Hue

    を司祭に叙階させるため、大神学校のあるアユタヤへ渡航させた31)。6月15日、ランベール・ド・ラ・

    モット司教の手によって彼らはトンキン人初の司祭に叙任された32)。

    宣教事業の一層の進展を促すため、MEP本部は現地人司祭のさらなる叙階が必要であることを認識し、

    アユタヤのランベール・ド・ラ・モット司教を直接トンキンに派遣することを決定した。当時、黎朝

    鄭氏政権は禁教・海禁政策をとっていたが33)、西定王(位1657―1682年)こと鄭柞はフランスなどヨー

    ロッパ諸国との交易に強い関心を示していた。1669年7月、アユタヤを出発したランベール・ド・ラ・

    モット司教が宣教師のブルジュ、ブシャールBouchardを伴って、8月30日に紅河の河口に到着したとの

    知らせを受けると、西定王はキリスト教に対する迫害を取りやめるよう命令を下した34)。

    1670年1月、フランスとの交易開始の祝賀行事に出席する船員たちに上陸が許可されたことに乗じて、

    司教はマルタン・マットらベテランのカテキスタ7名を召集し、次々と司祭に聖別することに成功した

    35)。あわせて中堅のカテキスタのうち10人を下級聖品ordre mineurに、20人を剃髪者tonsureにそれぞ

    れ叙階した36)。

    翌2月14日にはトンキン代牧区の総意を諮る「教区会議synode」が開催され、ランベール・ド・ラ・

  • ― 5 ―

    モット司教のもとにデディエ、ブルジュ、ブシャールBouchardのフランス人宣教師3人、トンキン人司

    祭9人が集まり、今後の布教方針が確認された。また、共有財産制度の代牧区のもとで9つの「管区

    district」を下部単位として設置し、教区会議を毎年開催することが正式に取り決められた37)。ここ

    に旧イエズス会所属の者を中心に現地人聖職者の多くがMEPに所属する流れが方向づけられた。

    第5節: 極東宣教におけるMEPの優越

    一方、ヨーロッパに戻ったパリュは代牧司教としてトンキンを再び訪れることはかなわなかったが、

    MEPの極東における宣教事業の展開に向けてロビー活動を積極的に行った。フランスでは1672年1月2日、

    ルイ14世治下の財務総監であったコルベールColbertに対して、東インド会社設立計画の一環としてト

    ンキンに商館を設置するよう建議した38)。当時、東アジアから東南アジアの海域で商業的覇権を確立

    していた新教国のオランダやイギリスに対抗しつつ、ポルトガルやスペインに代わるカトリック勢力

    の新たな保護国として、フランスの指導的地位を高めさせることがその主な目的であった。

    ヴァチカンでも教皇庁の要人に働きかけた結果、1678年7月17日、極東宣教を6つの大教区(北中国6

    地方、南中国9地方、トンキン、ラオス、コーチシナ、日本)に分割する教勅が出されることとなった

    39)。これを受けて、パリュがトンキンおよびトンキン隣接の中国諸地方の、ランベール・ド・ラ・モッ

    トがコーチシナおよび南北中国諸地方の宣教団の代表にそれぞれ選出されることが決まり、これらす

    べての地域が布教聖省から支持を得たMEPの布教管轄におかれることが正式に取り決められた。古来、

    ヨーロッパのカトリック世界においては「教会の長女fille aînée de l’eglise」とも形容されるフランスであるが、極東宣教事業においてもその主役に躍り出ることとなったのである。

  • ― 6 ―

    第2章: 修道会団体との関係

    第1節: ドミニコ会の到来と東西代牧区の分立

    MEPは教皇庁からトンキン宣教においての他宣教団に対する優越を認められたものの、現地で実際に

    宣教活動にあたる聖職者の絶対数が不足していた。パリュはそれを補うため、フィリピンに拠点をお

    くスペイン系ドミニコ会マニラ管区に対してトンキン宣教への人員の派遣を要請した。1676年、ブ

    シャールらの周旋でマニラからドミニコ会士のジャン・ド・ラ・サント・クロワJean de la Sainte-Croix

    とピエール・ダ・アロナPierre d'Arjonaがトンキンに到来し、1678年にはデニス・モラレスDenis

    Moralèsが合流した40)。 1679年に紅河デルタのナムディンNam Dinh地方の東側とハイズオンHai Duong地方をドミニコ会の主

    管轄とすることがMEPとの間で取り決められ41)、その後はドミニコ会士がフィリピン経由で続々とトン

    キンに到来することとなった42)。MEPはトンキンの各地で対立を続けるイエズス会の残存勢力を牽制す

    るため、この間はドミニコ会との協調関係を維持することに努めた43)。

    1700年、ドミニコ会士のレッツォーリLezzoliが東トンキン代牧司教として正式に叙任された。以後、

    紅河を挟んで西側の地域が「西トンキン代牧区Vicariat Apostolique du Tonkin Occidental」として

    MEPの管轄に、東側の地域が「東トンキン代牧区Vicariat Apostolique du Tonkin Oriental」として

    ドミニコ会の管轄におかれることとなった44)。

    ドミニコ会による宣教師派遣はその後も継続し、1730年代には新たに5人が到着した45)。しかし、東

    トンキン代牧区にはアウグスチノ会やイエズス会など他の修道会組織に属する宣教師もそれまで多数

    入っており、各々が競合関係にあったため46)、ドミニコ会が単独で優位を占めるには至らなかった。

    18世紀前半をつうじて、MEPは各修道会の活動を東トンキン代牧区に封じ込めることで、自身が管轄す

    る西トンキン代牧区の地固めを図ったともいえる47)。

    1759年、教皇庁がアウグスチノ会宣教師を召還する決定を下し、ドミニコ会のジャック・ヘルナン

    デスJacques Hernandezを東トンキン代牧司教に任命したことにより、東トンキン代牧区における修道

    会間の対立は解消へと向かった。1765年、最後のアウグスチノ会士、アドリアン・ア・サンタ・テク

    ラAdrien a Santa theclaが死去し、同会の管轄がすべてドミニコ会に委ねられたことを受けて48)、東

    トンキン代牧区でのドミニコ会の独占的地位は代牧区設置から半世紀あまりを経て確立した。

    第2節: イエズス会の反発

    17世紀後半から18世紀前半をつうじて西トンキン代牧区の各地ではイエズス会に属する現地人聖職

    者と信者の一部に「新参」のMEPに対する根強い反発を示す者がおり、帰順はなかなか進まなかった。

    1671年3月にはイエズス会系信者がMEPの現地人司祭ジャン・フエとフィリップ・ニャンを投獄した

    うえで官憲に告発する事件が発生したほか49)、1687年にはイエズス会士タシャールTachardが配下のカ

    テキスタ、ドゥニ・リ・タインDenis Ly Thanhに「トンキンの“信者”からの書簡」と「トンキンの

    “カテキスタ”からの請願」を作成させ、トンキン宣教におけるイエズス会復帰の必要性をヨーロッ

    パの聖職界に訴えている50)。

    このタシャールの請願は当時ガリカニズムをめぐってルイ14世と対立を深めていた教皇インノケン

    ティウスInnocentius 11世の受け入れるところとなり、1689年1月7日、イエズス会のトンキンへの復

  • ― 7 ―

    帰が正式に宣言されることとなった。1693年初、マカオからイエズス会士のエマニュエル・ブラヴォ

    Emmanuel Bravo、スタニスラ・マシャドStanislas Machado、イグナス・マルタンIgnace Martinの3人

    がトンキンに来着し、インノケンティウス11世の教勅とポルトガルの支持するマカオ司教の完全な影

    響下におかれ、MEPの権威に対して公然と挑戦的態度を示したという51)。

    第3節: 典礼問題

    1693年3月、トンキンに隣接する中国東南部ではパリュの後継者で福建の代牧司教に任じられた宣教

    師メグロMaigrotが代牧区内のイエズス会信者の間で広く実践されていた祖先祭祀などの儀礼を「異

    端」と処断し、教皇庁に異議を申し立てた52)。極東におけるイエズス会のこうした適応主義的な布教

    方針に対してはドミニコ会やフランシスコ会などがさきに抗議を行っており、同様に後発で教勢の拡

    大を目指したMEPもイエズス会に対する非難を強めた格好である。これに対してイエズス会士やその中

    国人の信者らもヴァチカンに請願書を提出するなど両者の間では激しい論争が行われた。いわゆる典

    礼問題の発生である。

    1696年10月、教皇インノケンティウス12世は勅書を発し、トンキンがイエズス会のマカオ教区から

    独立していることをあらためて宣言することにより、論争が隣国に拡大しないよう腐心した53)。この

    結果、トンキンにおいて典礼問題は中国ほどに深刻化しなかったが、MEPの宣教師たちはイエズス会士

    が宣教先で秘跡の授与をあまりに安易に行う点を批判した54)。

    1715年、教皇クレメンスClemence 11世はイエズス会の立場を否定する回勅『エクス・イラ・ディエ

    Ex Illa Die』を発し55)、後継の教皇インノケンティウス13世もイエズス会士の中国への入国禁止と聖

    職者のイエズス会組織への新規入会を禁止する処置をとった。しかし、トンキンではこの間もMEPとイ

    エズス会が互いを無視するかたちで宣教活動を継続し、両者の勢力はしばらく拮抗した56)。

    1742年、教皇ベネディクトゥスBenedictus 14世がイエズス会の適応主義をあらためて糾弾し、他の

    宣教団との対立に終止符を打つための大勅書『エクス・クオ・シングラリEx Quo Singulari』を発し

    た。これを境に極東ではMEPの宣教師派遣が拡大したのに対し57)、イエズス会の宣教師派遣は著しく縮

    小した。18世紀中頃にはトンキンでもゲアンなどの一部地域を除いて58)、MEPの教勢がイエズス会のそ

    れを明らかに凌駕するようになった。

    第4節: イエズス会の解散とMEPの教勢拡大

    1759年、ポルトガルでは啓蒙主義的専制を進めるポンバルPombal侯爵が前年に発生した国王ジョゼ

    José1世暗殺未遂事件の首謀者としてイエズス会を弾劾し、同会のすべての宣教師を国外追放処分とした。これを受けて、1762年にマカオ在住のイエズス会士も全員が当局に拘束された。翌1763年にはト

    ンキンでイエズス会「日本管区」の上長就任を巡って8人の会士のうち5人が名乗りを上げるという異

    例の事態が生じる59)。1764年、イエズス会はフランスでも国外追放の処分を受け、ヨーロッパにおけ

    る勢力基盤をほぼ完全に失った。

    1773年、教皇クレメンス14世の勅書『ドミヌス・アク・レデンプトールDominus ac Redemptor』に

    より、イエズス会の解散はついに確定した。1786年5月20日、布教聖省はイエズス会の解散を受けて、

    あらためてトンキンをMEPとドミニコ会の管轄に、コーチシナをMEPの管轄とする決定を正式に下した

    60)。

  • ― 8 ―

    西トンキン代牧区では1770年代末頃までにMEP宣教師とイエズス会宣教師との間の対立はほぼ解消

    された。両者は必要に応じて互いの「クレティアンテchrétienté(カトリック信者の集落)」を訪問しあう協調関係に移行した61)。1789年、イエズス会士のオルタOrtaとカルネイロCarneiroがナムディン

    のイエズス会系クレティアンテをMEPに移譲する決定を下し、4万人を超える同会信者がMEPの傘下に組

    み入れられたのはその象徴である62)。1802年、代牧区内で最後のイエズス会士であったカルネイロが

    老衰で死去したことで、およそ2世紀に及んだイエズス会によるトンキン宣教はここに幕を閉じた63)。

  • ― 9 ―

    第3章: 現地政権との関係

    第1節: ナムディンとゲアン

    17世紀後半以降、MEPが宣教活動を進めるなかで西トンキン代牧区を構成するベトナム北部から北中

    部にかけての地域においてキリスト教勢力と現地の政治権力はいかなる関係にあったのだろうか。さ

    きほど述べたように、MEPは代牧区の主要な地域を各管区として下位分割したが64)、その中核となった

    のは以下のナムディンとゲアンの二つの地域である。本章ではこの二地域に分析の焦点をしぼって教

    会勢力と現地政権との関係を明らかにしたい。

    ナムディンにはケヴィンKe Vinhあるいは、ヴィンチVinh Triと呼ばれた大規模なクレティアンテが

    存在した。歴代のMEP代牧司教が居住し、長年にわたって代牧区全体を掌握する宣教活動の中心として

    機能した集落である。ここでは現地人聖職者養成の要となるコレージュcollègeとセミネールséminaireが常に複数の宣教師によって運営されていた。ケヴィンは信者のみから構成される「純粋クレティアンテchrétienté pure」であったが、ナムディンを中心とした紅河デルタ一般の諸地域では非信者との混住からなる「混合クレティアンテchrétienté mixte」のほうが多数を占めた。住民の生業においては信者と非信者との間に目立った相違はなく、大部分が稲作を中心とする農業に従事した。

    一方、ゲアンにも宣教活動の中心が置かれ、通常は協働司教coadjuteurや総代理provicaireなど代

    牧区のなかで代牧司教に次ぐクラスの宣教師が管轄した。その中心となるクレティアンテのチャンデ

    ンTran Denにはケヴィンに比べて小規模ではあったが、コレージュも常置されていた65)。桜井由躬雄

    の指摘にもあるように、ゲアン地方は元来、稲作には向かない自然条件に置かれていたため66)、紅河

    デルタに比べると農業従事者の割合は低かった67)。住民の多くは農業を行いながらも綿や塩、魚醤や

    藤蔓などの商品作物を生産し、紅河デルタの各地へ運んで交易を行うことで生計を立てた68)。沿海部

    では中小の河川が流れ込む入り江も多く、それらが天然の良港として機能したことから漁業も盛んで

    あり、漁民の間にはキリスト教を信仰する者が多くみられた69)。ゲアンにおける住民の生業とは農業、

    商業、漁業のうちそれぞれを兼業するか、三者が結合した形態であった70)。

    男性に限ると、ゲアンは隣接するタインホアThanh Hoa地方とならんで兵士として徴発される者が紅

    河デルタの諸地方に比べて多い。その精鋭こそが鄭氏政権の軍事力を支えた「清乂優兵」である71)。

    彼らは漁民や商人など「移動」を日常とする者たちと同様、頻発する社会不安のなかで常に生命の危

    険にさらされていた。また、彼らの残された家族(女性・子供・老人)も不安定な生活環境下にあっ

    た。フォレスト氏はこうした「イティネランitinérant」の人々が権威型で安定志向の儒教ではなく、儒教から「異端」とされたキリスト教や仏教あるいは在地の民間信仰に傾いたことを指摘する。ゲア

    ンでは18世紀以降に始まる儒教復興の流れに沿う儒者によるエリート村落の形成とほぼ同時並行して

    キリスト教徒のみからなる村落(純粋クレティアンテ)の形成が紅河デルタの地域に比して進んだと

    考えられる72)。

    鄭氏政権のキリスト教弾圧下、ナムディンとゲアンのこの二つの宣教の中心地は互いに双方の避難

    場所として機能した。しかし、弾圧を受ける頻度が高く、被害も大きかったのはいつもナムディンで

    あった。ナムディンは首都のタンロンに近く、MEPだけでなくドミニコ会の東トンキン代牧区も活動の

    拠点としていたからである。それに対して、ゲアンは中央から地理的に離れ、半ば独立した行政・司

    法権を有する地方長官の「鎮守gouverneur」が中央とは異なる施策をしばしば行った73)。その背景に

  • ― 10 ―

    は鄭氏と対立するコーチシナの阮氏の領域と隣接しており、精鋭軍団の輩出地であったというこの地

    方特有の政治的・軍事的事情があった。

    紅河デルタでキリスト教に対する広域的弾圧が行なわれている間、ゲアンでは鎮守をはじめ高官が

    教会勢力をすすんで庇護した。彼らは精鋭軍団のなかに数多く含まれるキリスト者の兵士とその家族

    の支持を獲得することで中央の介入を受けない軍事基盤の保有を図った74)。教会側でもゲアン地方独

    自のこうした政治社会の状況を把握しながら同地での教勢を伸ばしたことがうかがえる。

    第2節: 18世紀前半:鄭氏政権のキリスト教弾圧

    1709年、黎朝では鄭棡が鄭氏政権第6代の安都王(位1709―1729年)として即位した。政権内の主要

    勢力はこれを境にキリスト教に非寛容な若手の儒家官人層に移ったという。1712年、禁教令が発布さ

    れ、キリスト教は「ポルトガルの宗教」との名指しを受けて根絶が明言された。棄教を拒否した者に

    は顔面に「学道花郎」の刺字を施されたうえ多額の罰金が課されることとなり、各地の地方官にはヨー

    ロッパ人宣教師の捕縛が命じられた75)。

    当時、トンキンで布教活動を行っていたMEP宣教師3人は迫害を逃れるため、1713年1月21日に紅河下

    流の貿易港フォーヒエンPho Hienを出航した。3人のうち、ド・ブルジュは30日にシャムに到着、ベロ

    Bélot司教とギザンGuisainはトンキン湾上で小船に乗り換えてから、2月3日にタインホア地方のクレティアンテに再潜入した76)。1713年から10年間、ベロ司教はゲアン地方のチャンデンで避難生活を送

    りながら同地での教勢拡大に努めた。鎮守から格別の保護を受け、支障なく宣教活動を継続すること

    ができたという77)。

    1721年9月、東トンキン代牧区でも大規模な弾圧が行われた。ドミニコ会、イエズス会の教会施設が

    相次いで破壊され、300人の信者が捕縛されたという78)。同年12月、あらたにトンキン全土で禁教令が

    公布され、キリスト教徒を告発した者に5アルパンarpentsの土地あるいは10万ドンdongが賞与として

    与えられることが定められた79)。翌1722年9月にはイエズス会士のフランソワ=マリ・ボカレリ

    François-Marie Bocharelliと現地人司祭のジャンJeanが中国国境付近で捕縛され80)、ボカレリは翌1723年10月11日に斬首刑に処された。記録に残るトンキン布教史上初のヨーロッパ人宣教師の殉教者

    である81)。

    続く第7代の鄭杠(威南王、位1729-40年)治世においてもキリスト教への弾圧は止まず、1737年1

    月12日、さきに密入国を図って拘禁中であったイエズス会士4人(バルテレミ・アルヴァレスBarthélémy Alvarez、エマニュエル・ダブルEmmanuel d'Abreu,、ジャン=ガスパル・クラトJean-Gaspard Crato、

    ヴィンセント・ド・クンハVincent de Cunha)がタンロンで斬首刑に処されている82)。

    第3節: 18世紀中葉:弾圧の弛緩と教勢の拡大

    18世紀中葉以降、中央の鄭氏政権の統制が瓦解しはじめると地方では反乱や飢饉が頻発するところ

    となり、社会不安がたちまち増大した。しかし、第8代の鄭楹(明都王、位1740―67年)の治世下では

    目立ったキリスト教弾圧が行われなかった83)。この明都王の政権内にはキリスト者がいたことがその

    要因の一つであったと考えられる。1740年に王の6番目の弟の夫人が信者として臨終の際に終油の秘蹟

    を受けた。これを機に夫の王子や他の兄弟、王の叔父にあたる人物も次々と洗礼を受けるに至ったと

    の記録がある84)。

  • ― 11 ―

    この第6王子の支援を受けて85)、西トンキン代牧区はネエNéez代牧司教の主導で教勢の拡大が図られた86)。具体的にはコレージュがナムディンのケヴィンに一校、ゲアンのケドンKe Donとチャンデンに

    それぞれ一校ずつ新設され、いずれも現地人聖職者数の増大に貢献したという87)。ちょうどこの頃、

    シャムではアユタヤ朝が滅亡したため(1767年)、アユタヤの大神学校への留学生派遣の慣例は取りや

    めとなり、以後はナムディンやゲアンのコレージュが現地人聖職者養成の要となった。代牧区内の信

    者数も1763年から1766年の間にイエズス会の信者を含めて全体で12万人に上っており、全人口の4~5%

    を占めたと推計される88)。

    第4節: 18世紀後半:鄭森の弾圧とゲアン鎮守の保護

    しかし、明都王が死去すると鄭氏政権の対キリスト教政策は再び弾圧へと傾いた。1776年1月、第9

    代の靖都王(位1767―1782年)こと鄭森は厳しい内容をもつ禁教令を発布する。すべての教会関連施

    設の撤去が命じられ、ヨーロッパ人宣教師、現地人司祭、カテキスタに対してそれぞれ懸賞金がかけ

    られた。また、修道女や一般信者に対しても非キリスト教徒と識別するために刺字を強制することが

    命じられた89)。

    しかし、ゲアンではキリスト教への弾圧がやはりほとんど実行されなかった。鄭氏政権内の有力武

    官であった黄素履(黄廷宝)がゲアン鎮守として管内のキリスト教勢力を一貫して庇護したためであ

    る90)。さらに、黄素履が中央に戻ってからも後任の鎮守がキリスト教に好意的に対応した。母親が臨

    終前に洗礼を受けたため葬礼がこの鎮守臨席の下で盛大に執り行われることが企画されたほか、管内

    の非信者がしばしば金品の収奪を目的として信者に対して行った訴追のすべてを却下したという91)。

    第5節: 鄭氏の滅亡と西山の勃興

    靖都王による治世の晩年、政権内では皇位継承をめぐって長子の鄭楷派と末子の鄭檊派が対立を深

    めた92)。檊の後継人であり宮廷内で実権を握る黄素履は1780年11月に楷派に属する阮儷などの高官が

    檊派掃討に動いた機会をつかみ、逆に彼らを捕縛することに成功した。しかし、敵対勢力を大量に粛

    清し独裁的政権運営を行ったために世論の反発を招いたという93)。

    1782年10月に靖都王が死去すると、翌月にタンロンでは楷派に属する禁軍の兵士たちが一斉に蜂起

    した。「驕兵の乱」として知られるこの反乱の主体となったのは鄭氏政権の軍事基盤を支えた清乂優兵

    であった。彼らは世論の後押しを受けて敵対する黄素履ら檊派の高官を暗殺し、檊を廃位して新王の

    楷を瑞南王として即位させることによりクーデタを成功に導いた94)。

    この間、清乂兵の専横による社会秩序の乱れはあったものの、楷の新政権はキリスト教に概して好

    意的であった95)。新政権を運営する実力者には清乂兵士の支持を必要とする者、キリスト者あるいは

    キリスト教シンパの者が少なからずいたようである96)。

    一方、乱から逃れ、西山阮氏の下に身を寄せたゲアン出身の有力豪族に阮有整がいる。彼は主君の

    黄素履の仇討を果たすため97)、西山の長兄である阮文岳に従ってトンキン攻略の先鋒を務めた。1785

    年来、トンキンは全域で一年以上にわたる不作と獣疫に苦しんでおり98)、住民の生活は飢餓のために

    疲弊の極みにあった。阮有整と阮文岳の弟である阮文恵のトンキン遠征は速やかに遂行された。1786

    年7月20日、タンロンはさしたる抵抗もなく陥落し、瑞南王は自害して果てた99)。

    阮文恵は黎朝顕宗(位1740―1786年)の息女である玉欣公主を娶り、帝の死後、直ちに昭統帝(位

  • ― 12 ―

    1786―1789年)を即位させることで黎朝の復興を型どおりに完了し、トンキンを後にした100)。ところ

    が、9月に再びトンキンの鄭氏支持勢力が新たな鄭主を擁して反旗を翻したため、ゲアンに控えていた

    阮有整は阮文恵の命令を受けてトンキンを再遠征する。阮有整は1787年2月にタンロンに入城し、鄭氏

    の王城を焼払った後、数多の仏寺を取り壊した。

    「コーチシナ人の暴政」を引き入れたとしてトンキンの旧来の支配階層の反発を買った阮有整であ

    るが、キリスト教には好意的姿勢を示したという。前年のタンロン陥落以降に多くの清乂兵が旗下に

    投降し自身の新たな支持基盤となったこと101)、そして本人が他ならぬゲアン地方の出身であったこと

    が対キリスト教政策に少なからず影響を与えたものと考えられる。阮有整は7月までに紅河デルタ各地

    の鄭氏支持勢力を掃討し102)、西山勢力に対する独立傾向を次第に強めた。

    一方、この時期に阮文恵は兄の阮文岳との間に生じたコーチシナでの勢力争いのため身動きがとれ

    なかった。やがて、三兄弟の間での勢力分布が定まると、阮文恵は北進を開始した。1788年1月、ゲア

    ンで兵士を徴発し、武文仕を将軍としてトンキン攻略をただちに命じた。この頃のトンキンは全土で

    飢餓や赤痢などの被害がひきつづき深刻であった。遠征はほとんど抵抗を受けることなく成功し、阮

    有整は捕縛後に斬首された103)。トンキンの暫定統治を任された武文仕であるが、彼もまた反旗を翻す。

    阮文恵は5月にタンロンに到着し、武文仕を処刑した後、今度は腹心の武将である呉文楚にトンキンの

    管理を委ねて本拠地の冨春(フエ)へ帰還した。

    11月、清に亡命中であった昭統帝が乾隆帝に援軍を要請し、ここに西山討伐の旗が掲げられた。20

    万の清軍がトンキンに進駐し、タンロンはあえなく落城した。しかし、阮文恵は清軍のナムディン以

    南への侵攻を防ぎ、タインホア・ゲアンの両地方を死守することに成功した。12月22日、彼は光中帝

    として即位し、新王朝を開くことで自軍の士気を高めた。続く26日にはゲアンでの徴兵を実施し、対

    清反抗を本格化する。

    一方、紅河デルタでの兵糧の確保が出来ず、戦闘意欲に欠ける清の遠征軍はゲアンで増強された光

    中帝軍と北方の呉文楚軍に挟撃され壊滅的な被害を受けた。1789年1月、清軍はついにトンキンから撤

    退した。同年末、光中帝は北京からの使者をタンロンに迎え入れ王としての認証を受けることで、清

    朝からの干渉を免れ、国内での政治運営に専心する環境を整えた104)。

    以上、18世紀末における鄭氏政権下での黄素履による実権掌握から「驕兵の乱」、ゲアン出身の有力

    豪族である阮有整の暫定統治、阮文恵(光中帝)の対清勝利と西山朝成立に至る過程をみてきたが、

    この時期は前代に比べて政権によるキリスト教への弾圧がほとんど確認されない。戦乱という特殊な

    条件下で生じる放火や略奪などの被害105)、疫病や飢饉の慢性的被害106)は宣教師の書簡報告中にもしば

    しば悲惨さをもって語られるが、これらはひとりキリスト教徒のみならず、トンキンの住民にひとし

    く降りかかったとみてよい。この時期、キリスト教に対しては権力の中枢から直接的庇護ないし不干

    渉の姿勢が一貫しており、前代に比べるとキリスト教勢力は宗教活動の自由を享受したといえる。

    また、トンキンで生じた政変はすべてゲアンでの兵力拡充を伴っていることも注目される。権力者

    たちの間にみられたゲアン出身の精鋭兵士を自身の勢力に取り込む一連の動きと、彼らのキリスト教

    勢力に対する保護あるいは不干渉の姿勢について、ここに一定の相関が認められることを指摘してお

    く必要がある。

  • ― 13 ―

    あとがき

    16世紀からはじまるベトナム北部でのキリスト教宣教事業においてはじめに勢力をもったのはイエ

    ズス会などの修道会系団体であり、17世紀中葉に設立された後発のパリ外国宣教会(MEP)が現地で一

    定の教勢を有するようになったのはイエズス会勢力が典礼問題のあおりを受けて衰微する18世紀半ば

    を過ぎてからのことであった。MEPはローマ教皇直属の宣教団としての正統性を得て、フランス本国か

    らの多少の政治的・経済的支援を受けながら次第に勢力の拡大を図った。

    現地での布教活動の進展の鍵となったのは現地人聖職者の存在である。元々イエズス会に属したカ

    テキスタたちを掌握し、現地人司祭として叙階することで、代牧区からクレティアンテに至るまで、

    信者個々に対する管理の網の目を張り巡らせることが可能となった。現地人聖職者と信者の組織化に

    おいて、修道会とは異なる「在俗のséculier」宣教団体として宣教活動をスタートしたMEPの特性がうまく機能したといえる。

    現地の政治権力はおしなべてキリスト教弾圧政策を進めたが、政権内にはキリスト教勢力を保護す

    る者が常に少なからずいた。18世紀以降、ベトナム北部におけるMEPの宣教活動の中心は比較的多くの

    信者が居住したナムディン地方とゲアン地方におかれた。紅河デルタに位置するナムディンが首都タ

    ンロンに近いことから弾圧被害を頻繁に受けたのに対して、中央から離れたゲアンでは鎮守とよばれ

    る地方長官がキリスト教勢力をしばしば保護するという特異な傾向がみられた。18世紀以前のベトナ

    ム北部における重点的な布教対象地域に生じたこの二極構造こそが、その後19世紀以降のさらなる弾

    圧下でのMEPの宣教活動にフレキシビリティを与えることになったと考えられる。

  • ― 14 ―

    1) 『前植民地期ベトナム北部におけるキリスト教コミュニティの形成と変容:1788~1847年、パリ

    外国宣教会西トンキン代牧区を中心に』(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻・博士

    学位請求論文)

    2) Forest Alain, Les Missionnaires Français au Tonkin et au Siam (XVIIe-XVIIIe siècles) Analyse comparée d'un relatif succès et d'un total échec, Livre I, II, III., Harmattan, Paris, 1998.

    3) 五野井隆史「イエズス会日本管区によるトンキン布教の始まり」『史学』60巻4号、慶応義塾大学、

    1991年。同「イエズス会非会員のコングレガサンと階層化‐日本の同宿とトンキンのカテキスタ

    の関わり」『史学雑誌』103編3号、史学会、1994年。同「16・17世紀ヴェトナムにおけるキリスト

    教布教について」『英知大学キリスト教文化研究所紀要』22、英知大学キリスト教文化研究所、2007

    年。

    4) ファン・ファット・フオンPhan Phat Huonによると、黎朝荘宗の元和元年(1533年)に出された

    禁教令に宣教師イニクInikuの名が見え、ナムディンNam Dinh近辺で布教活動を行っていたことが

    確認されるという(Phan Phat Huon, Viet Nam Giao Su. Quyen I (1533-1933),Cuu The Tung Thu,

    Saigon, 1965, pp.35-36)。したがって、ベトナム北部で布教が始まったのは1533年以前と推定す

    ることができる。

    5) 1614年1月27日、日本では徳川幕府による宣教師追放令が出されると、イエズス会宣教師の多くは

    同会の拠点が置かれたマカオに集合した(Maybon Charles, Histoire Moderne du Pays d'Annam,

    1592-1820, Typographie Plon-Nourrit, Paris, 1919, p.29)。

    6) 岩生成一『南洋日本町の研究』、岩波書店、2007年、63~74頁。Forest, op.cit., Livre II Histoire

    du Tonkin, pp.127-128. 1615年1月18日、コーチシナのツーランTourane(現ダナンDa Nang)に

    イタリアのナポリ出身のイエズス会士フランチェスコ・ブゾミFrancesco Busomiとポルトガル人

    ディエゴ・カルヴァリョDiego Carvalhoが中国から到着した。それから間もなく両名はポルトガ

    ル船の渡航地で日本人町があったフェイホFai-fo(現ホイアンHoi An)に移った。ブゾミは1639

    年まで同地に滞在し、コーチシナ宣教の基礎を築いた。カルヴアリョは翌年に日本へ渡航し、1624

    年に殉教した。以後10年間、コーチシナでは約20人のイエズス会士が活躍し、うち5人は日本人で

    あったという(Maybon, op.cit., p.30)。

    7) バンガート・ウィリアム『イエズス会の歴史』、上智大学中世思想研究所監修、原書房、2004年

    (Bangert William, A History of the Society of Jesus Second Edition: Revised and Updated.

    The Institute of Jesuit Sources, St. Louis 1986)、309頁。

    8) Maybon, op.cit., p.32. このときコーチシナに一緒に派遣されたイエズス会士のうち1人は日本

    人であり、漢字の知識に秀でた人物であった。この時期ベトナムで活躍したイエズス会の日本人

    聖職者には、古賀ジュリオ・ピアンニGiulio Pianiや(五野井前掲「イエズス会日本管区によるト

    ンキン布教の始まり」、92頁)、斉藤パウロPaolo Saitoらがいた(同「イエズス会非会員のコング

    レガサンと階層化」54-55頁)。

    9) Forest, op.cit.II, p.125., Launay Adrien, Les Missionnaires Français au Tonkin, Librarie Delhomme et Briguet, Paris, 1900, pp.4-5.

  • ― 15 ―

    10) Forest, op.cit.II, p.125., Launay, op.cit., p.6.

    11) これに関して、五野井氏は宣教師から後事を託されたカテキスタたちの働きに着目し、彼らが日

    本宣教にみられた「同宿」の組織に倣い、自立した信仰生活共同体を形成することで、現地での

    宣教活動の持続的発展に大きく貢献したことを明らかにした。1631年だけで新たに3340人の改宗

    者が生まれたという(五野井、前掲論文「イエズス会非会員のコングレガサンと階層化」を参照)。

    12) Forest, op.cit.II, p.126.

    13) 1647年、トンキンにはイエズス会士が7人いた(Forest, op.cit.II, p.126)。

    14) この間1651年、自身で編纂したカテキスムが布教聖省により「ラテン語―ベトナム語(クオック

    グーQuoc Ngu)版」で出版された(Lê Nicole Dominique, Les Missions-Étrangères et la Penetration Française au Viet-Nam, Paris, Mouton, 1975, pp.86-87)。

    15) Maybon, op.cit., pp.33-35.

    16) 聖体会の具体的活動については、坂野正則・山本妙子「17世紀パリにおける篤信家ネットワーク

    の編成:聖体会と貴顕信心会を中心に」(クリオの会編『クリオ』21号、2007年)を参照のこと。

    17) その後、ド・ロードはペルシア宣教を任されることとなり、1660年、イスファハンで生涯を閉じ

    た。生前に残したその多くの著作がベトナム事情をヨーロッパに伝えるのに大きな貢献を果たし

    たことはつとに指摘される(Maybon, op.cit., pp.35-36, Forest, op.cit. I, p.50)。

    18) 他にFrançois de Laval Montmorency(カナダ代牧司教)、Ignace Cotolendi(南京代牧司教および中国東部諸地方・満洲・朝鮮の管理者、渡航中インドにて死亡)の2名が同時に任命された。

    19) Forest, op.cit.I, p.54, p.64.

    20) 聖体会会員から12万リーヴルlivresの資金が提供された(Marin C, Archive des Missions

    étrangères de Paris études et documents tomeIX: le role des Missionnaires Français en Cochinchine aux XVIIe et XVIIIe siècles. Paris, Eglises d'Asie, 1999, p.35)。

    21) Forest, op.cit.I, p.71, Launay, op.cit., p.24.

    22) Guennous Jean, Missions Étragères de Paris, Librairie Arthème Fayard, 1986, p.215. 23) Forest, op.cit.I, p.69.

    24) Forest, op.cit.II, p.125. 1658年までにトンキンでは信者が10万人を数えたが(バンガート、

    前掲書、309頁)、1659年にはキリスト教徒の関与が疑われる反乱が起きたことから、イエズス会

    士6人が国外に追放処分となった(Forest, op.cit.II, p.126, Maybon, op.cit., p.39)。また、

    1663年11月12日にも黎朝の教化條例発布に伴いキリスト教への排斥措置がとられ、トンキン在住

    のイエズス会士3人が追放される事件が起こった(Forest, op.cit.II., p.126)。

    25) Maybon, op.cit., pp.47-48. 翌1666年、ランベール・ド・ラ・モット、パリュの両司教によっ

    てアユタヤに大神学校が開設され、以後1765年のビルマの侵攻によるアユタヤの破壊まで、同校

    は現地人聖職者養成のための施設として維持された(Launay, op.cit., p.38)。

    26) Forest, op.cit.II, pp.131-133. Adabaなる人名が日本人名の「和田」を指すとすれば、この人

    物は日本人貿易商の和田理左衛門がその関係者である可能性がある。デディエがイエズス会から

    の紹介状をもたないことから、彼のデディエに対する態度は冷淡であったという。

  • ― 16 ―

    27) 詳細については拙稿、「パリ外国宣教会西トンキン代牧区における「神の家」(Maison de Dieu)」、

    『アジア地域文化研究』第1号、東京大学大学院総合文化研究科アジア地域文化研究会、2005年

    を参照。

    28) Forest, op.cit.II, pp.136-138, Launay, op.cit.,pp.11-12, Marillier André. Nos Père dans la Foi,Textes. Paris. Eglise d’Asie. 1995, pp.1-7.

    29) Launay, op.cit., p.16.

    30) Forest, op.cit.II. p.139, Launay, op.cit, pp.2-3.

    31) Marillier, op.cit, p.31.

    32) Forest, op.cit.II. pp.140-141.

    33) 1669年6月14日、廷臣たちの意見(日本に倣ったキリスト教弾圧の推進策)を受け容れ、教会の破

    壊、信者の集会を禁じるキリスト教禁令がだされた。7月13日には、外国船の入港をフォーヒエン

    Phô Hiênのみに限ることが決定された(Forest, op.cit.II, pp.143-144)。 34) Forest, op.cit.II, p.144, Launay, op.cit., pp.19-21.

    35) 他はアントワーヌ・ヴァン・ホックAntoine Van Hoc、フィリップ・ニャンPhilippe Nhan、シモ

    ン・キエンSimon Kien、ジャック・ヴァン・チュJacques Van Chu、レオン・トゥLeon Thu、ヴィッ

    ト・チVite Triである。

    36) Forest, op.cit.II, p.145, Launay, op.cit., pp.21-22.

    37) Marillier, op.cit. pp.35-40. なお、この教区会議の議事録は1673年12月23日、教皇クレメンス

    Clément X世により認可を得ている(Launay, op.cit., p.22)。 38) Launay, op.cit., p.28, Taboulet Georges, La Geste Française en Indochine. Histoire par les

    textes de la France en Indochine des origines à 1914., Adrien Maisonneuve, Paris, 1955-1956, pp.82-83.

    39) Maybon, op.cit., p.49.

    40) Forest, op.cit.II, p.154, Marillier, op.cit.,p.39.

    41) Forest, op.cit.II, pp.154-155. 1680年12月、アロナとモラレスは鄭氏政権の官憲に拘束され、

    1681年初頭にバタヴィア船でオランダへ送還された。

    42) 1693年から96年の間、新たに4人のドミニコ会士が到来した。トマス・デ・クリチアティThomas de

    Curichiati、アントワヌ・ベリアインAntoine Beriayn、ピエール・ア・サンタ・テレジアPierre

    a Santa Teresia、フォランソワ・ロペスFrançois Lopezである。 43) Forest, op.cit.II, p.167.

    44) Forest, op.cit.II, pp.157-158, Launay, op.cit.,p.33.

    45) Forest, op.cit.II, p.193.

    46) 1730年時点ではドミニコ会5人、イエズス会3人、アウグスチノ会4人が確認される(Forest,

    op.cit.II, p.211)。

    47) Forest, op.cit.II, p.176.

    48) Forest, op.cit.II, pp.211-212.

  • ― 17 ―

    49) Forest, op.cit.II, p.153. 同年、デディエとブルジュも告発を受け、学生らとともに同様に逮

    捕、投獄されている。鄭氏政権の高官には死罪として厳しい処断を望む者もいたが、鄭柞の命令

    により実刑は免れた。先に釈放されたブルジュが保釈金を支払い、デディエもまもなく釈放され

    た(Launay, op.cit., pp.25-27)。

    50) Guennous, op.cit., p.223. 報告ではトンキン全体でキリスト教徒が30万人おり、そのうちイエ

    ズス会所属は2万人とされた。

    51) Forest, op.cit.II, p.164-165. これに先立つ1692年1月、フランス出身のイエズス会士、アブラ

    アム・ル・ロワイエAbraham Le Royerとユーゴ・パレゴHugo Paregaultがトンキンに到来してい

    る。この二人はイエズス会本部による任命ではなかったため、MEPと協調的であったとされる

    (Forest, op.cit.II, p.163)。

    52) Guennous, op.cit., p.225.

    53) トンキンには1698年に届いた(Forest, op.cit.II, p.165)。

    54) Forest, op.cit.II, p.174. 1666年、デディエは告解について通常一晩で10~15人を受付けるの

    がやっとなのに、イエズス会は一晩で150~200人を処理していると非難する(Forest, ibid,

    p.139)。

    55) 翌年トンキンに到着した(Forest, op.cit.II, p.194)。

    56) MEPの管轄する西トンキン代牧区は1707年に7つの管区districtに分割され、1725年にはさらに10

    個の管区に分割、さらに1750~1766年には21から22の管区を数えるほどに規模を拡大した(Forest,

    op.cit.III, p.120)。フォレストの調査によると1740~1755年の間、トンキンには14人のイエズ

    ス会士が新たに入りこみ、13人のトンキン人司祭がイエズス会士の下で誕生している。また、1766

    年までにトンキンではソンタイSon Tayを中心としてナムディンのあるソンナムSon Namからゲア

    ンにいたるまで、15人のイエズス会士が居住したという(Forest, op.cit.III, p.206)。

    57) Guennous, op.cit., pp.227-229. 1731年、マカオにMEPの管財所(procure)が設置され、以後中国

    とトンキンとの往来が容易となったことも宣教師の派遣数増大につながった(Forest,

    op.cit.III, pp.92-93)。

    58) ゲアンでは1760年代までMEPとイエズス会のそれぞれに属する信者の数が同じくらいであったと

    いう(AME 687 fo 347)。

    59) Forest, op.cit.II, p.208.

    60) Maybon, op.cit., p.143, Launay Adrien, Histoire G énérale de la Société des Missions Étrangères de Paris. Tome II, Les, Indes Savantes, Paris, 2003, p.102.

    61) 1784年、MEP管轄下の信者数は8万人、トンキン全土では35万人ほどに上ったとの推計がなされる

    (Forest, op.cit.II, pp.226-227)。

    62) Forest, op.cit.II, pp.226-227.

    63) 1809年1月3日、MEP西トンキン代牧区のロンジェLonger代牧司教がカルネイロの遺体を新たに建て

    られたばかりの教会に移葬し、教区民から感謝されたとの記録が残る(Nouvelles Lettres

    Edifiantes, Tome 8eme, p.279)。

  • ― 18 ―

    64) 1707年には7管区に分割されていた(Forest,op.cit,III, p.120)。時代が下るにつれて管区は増

    大する。

    65) 1683年にサラントSarranteがゲアンのチャンデンに派遣され、当地にコレージュを設置したのを

    嚆矢とする。Forest, op.cit.II, pp.157-160.

    66) 桜井由躬雄『ベトナム村落の形成』創文社、1987年、265‐266頁。

    67) 桃木至朗は国際交易の十字路としてのゲアンなど北中部地方の歴史的重要性をとくに指摘してい

    る(桃木至朗「ベトナム北部・北中部における港市の位置」歴史学研究会編『港町と海域世界』、

    青木書店、2005年)。

    68) AME(Archives des Missions Étrangères de Paris:パリ外国宣教会文書)Tome 710 folio 24.1. 69) APF(Annales de la Propagation de la Foi)Tome 3, p.461, Forest, op.cit. III, pp.92-93.

    70) AME 697 fo 982. 18世紀末、トンキンに居留した宣教師ラングロワLangloisの報告によれば、ゲ

    アンを除く他の地方では商人が兼業をすることは稀で、1年中、舟の上で食料品を売りまわったと

    いう。

    71) 清乂優兵についての主な研究としては、藤原利一郎「黎末史の一考察-鄭氏治下の政情について」

    (『東南アジア史の研究』、法藏館、1986年)、八尾隆生「ヴェトナム黎朝初期の清化集団について」

    (『東洋史研究』46-4、1988年)、Dang Phuong Nghi, Les institutions publiques du Viêt-Nam au XVIIIe siècle, École Française d’Extrême-Orient, Paris, 1969., pp.122-130などを参照。

    72) Forest, op.cit. III, p.353. 純粋クレティアンテでは、混合クレティアンテでしばしばみられ

    た儀礼の実践をめぐっての非信者との対立はほとんど生じることなく、住み分けがほぼなされて

    いた。ゲアンにおける儒者あるいはキリスト者によるこうした村落形成の特殊な伝統は19世紀後

    半以降も官界と教界双方にゲアン出身の知識人が多数輩出されることからもうかがい知ることが

    できる。

    73) Forest, op.cit., II, p.38. 桃木によると交易拠点として重視されたゲアンには11世紀の李朝

    統治期よりすでに皇族や皇帝側近が長官として派遣されていた(桃木前掲論文、193-194頁)。

    74) Forest, op.cit. III, pp.149-150, pp.183-184, p.343.

    75) Forest, op.cit.II, p.180, III, p.333., Launay, op.cit., p. 35.

    76) Forest, op.cit.II, pp.181-182, Launay, op.cit., p.36.

    77) Forest, op.cit.II, p.184.

    78) Forest, op.cit.II, p.185.

    79) Forest, op.cit.II, p.185, III, p.333.

    80) Forest, op.cit.II, pp.185-186.

    81) Forest, op.cit.II, p.186, III, p.331.

    82) Forest, op.cit.II, p.186.

    83) 1745年1月22日、ドミニコ会士のフランソワ・ジル・ド・フェデリシュFrançois-Gil de Fédérichとマティウ・アロンソ・レジニアナMatthieu-Alonso Lezinianaがタンロンで斬首刑となったが、

    フォレストは中央権力が弱体化したこの時期、禁教令はすでに死文化していたとする(Forest,

    op.cit.II,p.200)。

  • ― 19 ―

    84) Launay, op.cit., pp.41-42.

    85) AME 700 fo 773.

    86) 1715年にマドラスからトンキンに到着し、1739年11月22日、東トンキン代牧のイレール・ア・ヘ

    スHilaire a Jesuにより聖別叙階され、セオマニCéomanie司教となった(Forest, op.cit.II, p.187)。

    87) Forest, op.cit.II, pp.190-193.

    88) Forest, op.cit.II, pp.213-214.

    89) AME 690 fo 838, 841-842.

    90) 1779年、彼がタンロンに戻り、政権内で実権を握るようになると鎮守を兼ねたナムディンでもキ

    リスト教への弾圧は終息した(AME 700 fo 1018-1020, Forest, op.cit. II, pp.217-218)。

    91) AME 700 fo 1016-1017.

    92) この黎朝末鄭氏政権内の政争については藤原利一郎『東南アジア史の研究』(法蔵館、1986年)541

    ~569頁が詳しい。

    93) Forest, op.cit. II, p.108.

    94) 『大南寔録正編』第一紀巻一、21b.(慶應義塾大学言語文化研究所、1963年)

    95) AME 700 fo 1134-1135, Forest, op.cit. II, p.108.

    96) 例えば1784年、ゲアンでは宣教師ル・ブルトンLe Bretonが瑞南王の義弟の保護を受け、自宅で歓

    待を受けている(AME 691 fo 450, 532, 547, AME 700 fo 1185, fo 1257)。

    97) 『大南寔録正編』第一紀巻一、22a.

    98) AME 700 fo 1257, AME 691 fo 653-654, fo 691.

    99) AME 700 fo 1307-1308, AME 691 fo 814-815, fo 896, Forest, op.cit. II, p.111.

    100) 『大南寔録正編』第一紀巻二、20b-21a.

    101) AME 691 fo 898-899, fo 790-792, fo 900.

    102) AME 691 fo 793-795, fo 901-902, Forest, op.cit, II, pp.116-117, p.279, Maybon, op.cit.,

    p.296.

    103) 『大南寔録正編』第一紀巻三、8b-9a.

    104) 西山政権の清との戦争、その後の平和交渉については、山本達郎編『ベトナム中国関係史-曲氏

    の台頭から清仏戦争まで』(山川出版社、1975年)所収論文、鈴木中正「第七章黎朝後期の清との

    関係(1682―1804年)」を参照のこと。なお、夫馬進は乾隆帝が出兵を急いだ理由として自身の80

    歳の誕生祝賀に安南国王を参列させたかったためという個人的事情を挙げる(「明清中国による対

    朝鮮外交の鏡としての対ベトナム外交:冊封問題と「門罪の師」を中心に」紀平英作編『グロー

    バル化時代の人文学:対話と寛容の知を求めて(下)共生への問い』、京都大学学術出版会、2007

    年)。

    105) 1788年4月、ゲアンのケーディンKe DinhとチャンヌアTrang Nuaの宗教施設がコーチシナの軍隊に

    よって略奪を受けている(Forest, op.cit. II, p.279)。また、1789年1月にはケヴィンの施設が

    焼払われている(Ibid., pp.281-282)。

  • ― 20 ―

    106) 1786年4月から5月にかけてトンキンでは餓死者が4万人に上ったとされる。Forest, op.cit.II,

    p.98. 1789年末から1790年初頭にかけて紅河デルタではペスト被害が、ゲアンでは暴風雨被害が

    確認される(Nouvelles Lettres Édifiantes, Tome 8, p.350)。

  • ― 21 ―

    参考文献

    【一次資料】

    ・ AME:Archives des Missions Étrangères de Paris(パリ外国宣教会文書館文書) ・ APF:Annales de la Propagation de la Foi(『信仰普及協会年報』)

    ・ 『大南寔録正編』(慶應義塾大学言語文化研究所発行、1963年)

    【二次資料】

    (日本語文献)

    ・ 岩生成一『南洋日本町の研究』、岩波書店、2007年

    ・ 五野井隆史「イエズス会日本管区によるトンキン布教の始まり」『史学』60巻4号、慶応義塾大学、

    1991年

    ・ 同「イエズス会非会員のコングレガサンと階層化‐日本の同宿とトンキンのカテキスタの関わ

    り」『史学雑誌』103編3号、史学会、1994年

    ・ 同「16・17世紀ヴェトナムにおけるキリスト教布教について」『英知大学キリスト教文化研究所

    紀要』22、英知大学キリスト教文化研究所、2007年

    ・ 桜井由躬雄『ベトナム村落の形成』創文社、1987年

    ・ バンガート・ウィリアム『イエズス会の歴史』、上智大学中世思想研究所監修、原書房、2004年

    ・ 藤原利一郎「黎末史の一考察-鄭氏治下の政情について」『東南アジア史の研究』、法藏館、1986

    ・ 桃木至朗「ベトナム北部・北中部における港市の位置」歴史学研究会編『港町と海域世界』、青

    木書店、2005年

    ・ 八尾隆生「ヴェトナム黎朝初期の清化集団について」『東洋史研究』46-4、1988年

    ・ 山本達郎編『ベトナム中国関係史-曲氏の台頭から清仏戦争まで』、山川出版社、1975年

    (フランス語・ベトナム語文献)

    ・ Dang Phuong Nghi, Les institutions publiques du Viêt-Nam au XVIIIe siècle, École Française d’Extrême-Orient, Paris, 1969

    ・ Forest Alain, Les Missionnaires Français au Tonkin et au Siam (XVIIe-XVIIIe siècles) Analyse comparée d'un relatif succès et d'un total échec, Livre I, II, III, Harmattan, Paris, 1998

    ・ Guennous Jean, Missions Étragères de Paris, Librairie Arthème Fayard, 1986 ・ Launay Adrien, Les Missionnaires Français au Tonkin, Librarie Delhomme et Briguet, Paris,

    1900

    ・ Launay Adrien, Histoire G.énérale de la Société des Missions Étrangères de Paris. Tome II, Les Indes Savantes, Paris, 2003

    ・ Maybon Charles, Histoire Moderne du Pays d'Annam, 1592-1820, Typographie Plon-Nourrit,

    Paris, 1919

  • ― 22 ―

    ・ Marillier André, Nos Père dans la Foi,Textes, Paris, Eglise d’Asie, 1995 ・ Phan Phat Huon, Viet Nam Giao Su, Quyen I (1533-1933),Cuu The Tung Thu, Saigon, 1965

    ・ Taboulet Georges, La Geste Française en Indochine. Histoire par les textes de la France

    en Indochine des origines à 1914., Adrien Maisonneuve, Paris, 1955-1956

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    18世紀以前のパリ外国宣教会とベトナム北部宣教

    2009年3月 第1版第1刷発行 非売品