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使 姿 稿 161

鳥 れ と れ ど 先 の 野 が 使 は 現 喰 て し 様 食 多 …harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u/file/12098...報 告 さ れ て い る。し か し 、 現 在

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はじめに

一般に不吉な鳥と言われることの多いカラスが、神の

使者と考えられ、飛来することを人々に期待される神事

がある。民俗学で言う﹁御鳥喰神事

�������

﹂は、祭祀において

野生の鳥に供饌をし、神意を伺うことを目的とする。そ

の多くは、カラスに供饌をするため、﹁鳥喰

����

神事﹂や

﹁先食

����

﹂、﹁烏勧請

��������﹂、﹁

烏呼

����

び﹂、﹁烏よばり﹂、﹁烏の口﹂な

ど様々な名称を持つ。行為そのものは全国各地で確認さ

れており、神社の儀礼から家や集落で行われる年中行事

として報告されている。しかし、現在カラスが実際に現

れて執行されている例は減少しており、恐らく多くの御

鳥喰神事は元来の姿ではなくなっていると思われる。

現段階で、御鳥喰神事は多くの儀礼の中で古式の儀礼

と位置づけられている点からも、この神事の研究は、日

本の民俗を考察する一つの足がかりになると考える。ま

た、複雑な文化圏である瀬戸内海地域を考察する上でも、

その分布や特徴を明確にすることは重要な作業である。

瀬戸内海には、御鳥喰神事研究で注目されてきた宮島の

嚴島神社があり、同県の備後地方にあたる尾道市因島に

も御鳥喰神事を確認することができる。このことからも、

瀬戸内海地域の文化を考察する上で、御鳥喰神事はふさ

わしい研究対象と思われる。

本稿では、広島県における御鳥喰神事研究として、安

芸国宮島の嚴島神社をはじめ、伝承上深い関わりを持つ

大頭神社に注目する。また、備後地方の事例として、尾

道市因島に位置する二社の御鳥喰神事を報告する。今後、

全国的な規模で御鳥喰神事の研究を進めるためにも、ま

ずは瀬戸内海における事例から、その伝承の過程を考察

-161-

瀬戸内海における御鳥喰神事

栢 木 希 望

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する。

一、御鳥喰神事の研究史

烏と共に行う儀礼に初めて注目したのは、一八八六年

の出口米吉︵1︶である。その後、半世紀近く経った一九

四〇年に、柳田國男が﹁烏勧請の事﹂、﹁初鳥のことなど﹂︵2︶

で年中行事の一つとして御鳥喰神事に触れ、改めて注目

されるようになった。柳田は嚴島神社などの神社や家の

事例から、現れる烏をミサキ烏と呼び、﹁神々の代表者﹂

と位置づけた。以降、御鳥喰神事については年中行事、

特に稲作行事の一端として、数多くの事例が報告されて

きた︵3︶。

そして、御鳥喰神事研究において大きく影響を与えた

のが大林太良︵4︶である。大林は全国一六〇件もの事例

に加え、朝鮮・中国・東南アジアなど広範囲の事例を採

集した上で、全国に分布する御鳥喰神事の中でも、烏を

勧請する形式を最も古い形とし、水稲耕作文化に属する

儀礼と位置づけた。そして、烏勧請の背後にある神観念

は山の神としての烏で、女性の天神に遡る可能性と穂落

神伝承との一致を指摘した。

その後も幾つかの事例が報告されたが︵5︶、大林の水稲

耕作文化説に対して、新谷尚紀は﹁日本の御鳥喰習俗に

は単に水稲耕作文化的な色彩のみならず、山の生業を中

心とした非水稲耕作文化的な色彩が濃厚にみられる﹂と

指摘し、改めて御鳥喰神事を五項目︵鳥の意味づけ・伝

承者・時期・方法・目的︶から分析し、その特徴を四項

目に分類した︵6︶。以下は、それをまとめたものである。

︽組織︾

・神社︵西日本︶

・家ごとの年中行事︵東日本︶

︽行事︾

・正月行事︵東北から関東︶

山入り行事︵東北地方︶

鍬入れ行事︵関東地方︶

山入りと鍬入れ双方︵中間地帯である東北南部から

関東北部︶

・二月と十二月のコト八日、春秋の精進ゴト、キギツケ

餅︵東北地方、中四国地方︶

・春の田植えや秋の収穫︵九州地方︶

・葬送儀礼

︽行事内における御鳥喰神事の目的︾

・山入り︵厄除けの意味や吉凶を占う。山への領域侵犯を

行う時に最初に行われる儀礼。山の神への贈与を中心

とした儀礼で、烏は山ノ神の使者と考えられている。︶

・鍬入れ︵田畑の三カ所に早稲中稲晩稲と見立てた供饌

-162-

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を置き、豊作を占う形が多く、山入りの儀礼構成とも対

応する。大地に対する領域侵犯を行うことに対する儀

礼で、烏は田の神の使者として人々に受け入れられる。︶

・コト八日・精進ゴト、キギツケ餅︵厄払いの意味合い

で、神の使者とする観念はあまり見受けられない︶

︽方法︾

・供饌の種類︵米を素材とするもの︶

・与え方︵積極的に呼ぶ、置いたり吊したりして待つ︶

・目的︵厄災除け、吉凶占い、作占い、浄穢︶

・烏の象徴︵神の使い、烏︶

御鳥喰神事の目的はあくまでも食べることを前提とし

ていることから、吉凶占いや浄穢確認、作占いなどの意

味づけは二次的なものと新谷は位置づけている。つまり、

御鳥喰神事の本来の目的は、占いではなく厄災除けにあ

るとしており、この新谷の指摘は大林の指摘と共に現在

の御鳥喰神事研究における土台となっている。

一方、年中行事としての研究では、ミサキ信仰との関

係を三浦秀宥と田中眞治が指摘し、特に田中は三浦の報

告︵7︶を踏まえ、大林・新谷両氏の仮説に対し、祭祀組

織を考慮する必要性から、形態上の分類だけで御鳥喰神

事を解決することは困難であるとした。つまり、御鳥喰

神事は﹁如何なる生業体系とも習合する可能性﹂がある

としたのである︵8︶。

近年では、田中宣一が御鳥喰神事を雑神の祀りと共に

考察しており︵9︶、御鳥喰神事は主神とは異なる神々への

行為と位置づけた。また、その起源については、限られ

た神社に伝承される理由からも、各神社の歴史と共に考

察する必要があり、死者の枕元に供える﹁枕団子﹂にお

ける烏勧請も、本来の目的は餓鬼や無縁のようなものに

与える行為であったと推測している。

このように、御鳥喰神事における研究は、いずれも多

くの事例報告に支えられており、今後の調査報告からも

新たな展開が予想される。そこで、改めて古い形の神事

を伝える嚴島神社の事例を確認した上で、関連する神社

の神事と近隣地域の事例に基づき、瀬戸内海における御

鳥喰神事の考察を試みる。

二、嚴島神社の事例 ︱御島廻式における御鳥喰神事︱

嚴島神社は、広島県廿日市市宮島に位置し、一四〇

〇年以上前の推古元年︵五九三年︶創建とされ、社殿は

平清盛による建立と伝えられている。祭神は市杵島

�����

姫命、

田心

���

姫命、湍津

���

姫命の宗像三女神︵10︶で、﹃日本後紀﹄の

﹁伊都岐島神﹂が初出とされる︵11︶。

ここでの御鳥喰神事は、現在でもカラスの視認を必要

とする貴重な事例である。神事は、﹁御島廻式﹂︵

12︶とい

-163-

瀬戸内海における御鳥喰神事

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う祭祀の中で執行される。船で宮島を廻る途中にいくつ

かの拝所を参拝し、その中の一社で御鳥喰神事が行われ

る。執行役の神職﹁御師

﹂は、雅楽を奉納する神職﹁伶

人﹂と共に、御師船と言われる注連縄が張られた特別な

船に乗船し、参拝者は客船に乗って巡拝する︵13︶。島を廻

る際、参拝する拝所の内、特に杉之浦

�����

・鷹之巣浦

������

腰細浦

������

・青海苔浦

������

・山白浜

������

・州屋浦

����

・御床浦

�����

の七社を七

浦︵14︶と称し、ここでの参拝は禊�

��を

意味する。この禊が

果たされたか否かを占うために、養父崎

����

神社で行われる

のが御鳥喰神事で、ここで成功すれば最終的に嚴島神社

への参拝が許されるという祭祀である。

御鳥喰神事の際に飛来するカラスは﹁神鴉

����

﹂と言われ、

雌雄二羽で神事を執行することが伝えられている。供饌

は、団子を八つ︵現在は六つ︶載せた﹁粢�

��﹂

と言われる

木の板を百メートルほど沖の海上に浮かべ、笛を吹くこ

とにより、二羽のカラスが現れる。団子を全て啄むと、

﹁御鳥喰が上がった﹂とし、船内で直会の御神酒を拝戴

し、晴れて嚴島神社への参拝が可能となる。かつては神

事が成功しなければ、前の拝所に戻って禊をやり直して

いたが、現在は一つでも啄めば成功とされている。嚴島

神社における御鳥喰神事の目的は、参拝者の穢れが祓わ

れたか否かを神に伺うことである。現在、御島廻式の執

行日は、講社大祭︵15︶である毎年五月十五日に必ず執行

され、三月から十一月の期間で船の航行に支障がない限

りは執行されている。

ところで、この御島廻式と式中に行われる御鳥喰神事

は、これまでにも多くの研究者によって注目され、その

由来についても以下の二説が推測されている。

一つ目は、御島廻式で浦々を廻り禊ぎを行った後に参

拝する形が本来の参拝方法で、それが祭りとして現在に

伝わったとする正式参拝説である。宮島は島そのものが

神であると考えられ、鎌倉時代まで島民がいなかったと

伝えられている︵16︶。この禁足地時代︵17︶には、島の浦々

にある遙拝所で参拝して禊祓をした後、本宮の嚴島神社

に参拝していたとされている。その遙拝所であった場所

が現在の七浦で、御島廻式はかつての参拝方法を今に伝

えている祭祀であるとするのである︵18︶。

二つ目は、御島廻式は祭神の市杵島姫命鎮座伝承の故

事をなぞった祭祀とする説である︵19︶。嚴島神社の鎭座を

伝える﹁嚴島本地﹂や﹁嚴島縁起﹂は、現在三十数冊の

写本が確認され、諸所に異同も見られるが、多くは三部

から構成されている。しかし、この祭祀については、嚴

島神社所蔵﹃伊都岐嶋皇太神御鎮座記﹄︵

20︶にのみ確認で

き、その内容をまとめると以下の通りである。

嚴島神社初代神官である佐伯鞍職が部下と共に遊漁

をしていると、西方から紅の帆を揚げた船が来た。

-164-

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その船に乗っていた姫神が島に住みたいと言った。

それを快く受け入れた鞍職は、朝廷から社殿造営の

許しを得て、島を巡ることになった。改めて嚴島大

神に鎮座の場所を伺ったところ、市岐嶋姫命が高天

原から連れてきた烏が案内をするだろうと言った。

島を廻り、禊をしたが、烏はなかなか現れなかった

ので、粢団子を供え祈祷をすると、山から一双の烏

が現れ団子を咥えて飛んで行った。その後を追って

進み、烏が見えなくなった浜に社殿を建てることと

なった。

野坂元定元宮司は、この嚴島神社の鎭座伝承を再現し

たのが御島廻式で、浦々を廻り禊ぎを行うのは、この御

鳥喰神事を成功させるためであると解説される︵21︶。つま

り、御島廻式が卜占ではなく、祓いの行為として伝えら

れていることが分かる︵22︶。

また、新谷はこの﹃御鎮座記﹄の内容を前半と後半に

分けた上で、前半は仏教色が排除された上に平家一門の

影響も見られず記紀神話との付会が目立つとした。そし

て、後半は﹃厳島道芝記﹄、﹁野坂将監

記﹂、﹃長

門本平家物語﹄、﹃源平盛衰記﹄などと共通点が多く、平

家一門の信仰や本地垂迹の思想が濃厚に見られるという

特徴を指摘した。すなわち、記紀神話との付会や歴史的

脚色を取り除いた構成要素を持つのが、嚴島神社の御鳥

喰神事であると位置づけているのである︵23︶。

そして、改めて現代の御島廻式を見ると、過去の参拝

方法が縁起にもとづく形で再現されていることが明らか

であると同時に、その中で行われる御鳥喰神事は嚴島神

社固有の伝承と考えることができるのである。

三、大頭神社の事例 ︱﹁四鳥の別れ﹂と﹁烏喰祭﹂︱

大頭神社は、廿日市市大野に位置し、嚴島神社の摂社

とされた時代もある。祭神は国常立命、大山祇命、嚴島

神社初代神官である佐伯鞍職の三柱と伝えられている。

推古天皇一一年︵六〇三︶に現在の大野町第五区集会所

︵桑原︶に建立されたと伝えられ、周囲には田園が広が

り、海岸近くであったことが文献によって確認できる︵24︶。

そして、一九一三年に遷宮が行われ、現在の鎭座地境内

には﹃妹背

���

の滝﹄と称される滝があり、往来が絶えない

名所となっている。

大頭神社における御鳥喰神事は、この遷宮以降、境内

の山中で毎朝執行されている︵図①︶。本殿で祝詞奏上

と供饌の修祓が行われると、境内の山中に位置する﹁神

鴉の祠﹂に赴き、その手前にある鳥喰石

������

に供饌︵丸い握

飯を五つ︶が行われる︵図②︶が、カラスの飛来につい

ては確認されていない。

従五位下大宮

棚守佐伯房顕

-165-

瀬戸内海における御鳥喰神事

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大頭神社を記す文献には祭神など多くの異同も認めら

れているが、この神事に関しては、およそ以下の内容が

記録されている。

かつては、旧暦九月二十八日の例祭に嚴島神社の神職

が渡海した上で、大頭神社の神事の中で神楽が奉納され

た後に行われており︵25︶、祭の際に飛来するカラスは、宮

島の神鴉

����

の親子四羽であると考えられていたと伝えられ

ている︵26︶。

特に、嚴島神社所蔵﹃伊都岐嶋皇太神御鎭座記﹄と、

江戸末期に松原直房宮司が記された大頭神社所蔵﹃大頭

神社縁起書﹄︵一八四三年︶には、例祭後に親鳥は熊野

へ帰り、子は翌年に執行される宮島の御島廻式を継承す

ることが記されている。そのため、この神事は別名﹁四

鳥の別れ﹂と称されていた。﹃大頭神社縁起書﹄からは、

この土地を鴉が別れることに由来して﹁別鴉郷

������

﹂と称し

ていたことが確認できる。熊野との関係は、﹃伊都岐嶋

皇太神御鎮座記﹄における大頭神社の項目にも見られ、

神鴉が途絶えた場合は熊野の八咫烏神社へ迎えに行くと

記す。また、大正末に神祇院調査が行われ、昭和初期に

まとめられた﹃官国弊社特殊神事調﹄を底本とする﹃官

国弊社特殊神事総覧﹄︵一九七八年︶には、﹁東に帰る﹂

という記述のみを確認することができる。

そして、大頭神社では﹁四鳥の別れ﹂の他にも、﹁鳥�

喰祭

����

﹂と称する二通りの御鳥喰神事が執行されていた。

一つは節句などの際に行われるもので、もう一つは雨乞

いや虫送りという祈願祭で行われていたことが、﹃大頭

神社縁起書﹄から確認することができる。同書は、節句

などの際に行われる定期的な鳥喰祭を年中行事の一つと

して、以下の通りに記録している。なお、日にちはすべ

て旧暦である。

正月 元旦    鳥喰御上リ被成御膳ハ鏡餅半御

供祝餅御餅火初尾餅散米御水鳥

喰ノ御幣

御膳数廿二膳

二日    右同断

-166-

図①:

神鴉を祀る祠

図②:

烏喰石と供饌

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三日    同

二月初午御供祭  鳥喰御上リ被成御菓子芋柿御水

散米鳥喰ノ御幣

三月三日御供祭  鳥喰御上リ被成御桃花御菓子ニ

菱并芋柿御水散米

五月五日御供祭  鳥喰御上リ被成御幣菖蒲并小麦

ノ棕枇杷芋柿御水散米

九月初九日御供祭 鳥喰御上リ成サレ御幣菊花御菓

子ニ芋柿御水散米

廿六日御供祭 鳥喰御上リ成サレ御幣御菓子ニ

芋柿御水散米

十月初寅疫神祭  鳥喰御上リ被成御幣散米御菓子

ニ芋柿御水

十一月初申    御供鳥喰前ニ同断︵27︶

以上のように、正月には餅や、芋・柿といった果物、

また季節に応じて桃・菖蒲・菊などの花も供えられ、頻

繁に行われていたようである。大頭神社の神事は、嚴島

神社と関わる伝承の中で頻繁に執行され、人々にとって

も身近な神事であったことがわかる。そして、その由来

やカラスの役割を詳細に伝える神事には、熊野の地と宮

島を結びつける伝承も含まれているのである。このよう

な点に注目しながら、安芸とは距離を置く備後の事例を、

新たな調査結果から以下に示しておくこととする。

四、因島の事例 ︱熊箇原八幡神社と重井八幡神社︱

1、熊箇原八幡神社の事例

︱秋の祭における八重子祭︱

熊箇原八幡神社は、尾道市因島中庄町に位置し、祭神

は八幡神︵28︶と熊野十二神︵29︶、勧請は仁和三年︵八八七

年︶と伝えられている。この地に熊野の神が祀られた経

緯は、景行天皇の子孫五十河彦命︵井川彦命︶の子、井

川小那加麿が弘仁元年︵八一〇年︶に熊野大権現を隠島

神として祀り、仁和三年に八幡神が相殿に祀られたと伝

えられるが、詳細については不明である︵30︶。

熊箇原八幡神社の祭祀は、年間を通じてその年の当舎︵31︶

が中心となり執行されている。当舎の役割の中で最も重

要な行事が秋季大祭で、この大祭に向けて御鳥喰神事が

執行されているが、一々の役割については、先代の井川

美夫宮司によりまとめられた﹃氏神八幡宮当帳﹄︵

32︶に詳

しい説明があり、現在もこの記述を元に祭祀の準備が進

められている。なお、秋季大祭の流れについてはすでに

まとめられたものもあるが、本稿では改めて当舎と御鳥

喰神事との関わりから確認しておく︵33︶。

-167-

瀬戸内海における御鳥喰神事

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まず、当舎を清める祭祀としめ縄作りを、大祭一ヶ月

前の九月に行う。そして旧暦の十月九日の大祭に先立ち、

祭神を招く神事の﹁御葉気祭

�����

﹂と﹁八重子祭﹂を執行す

る。御葉気祭は当舎の庭で行われ、竹と松で作られた依

り代に祭神の八幡神を迎える。当舎の庭には祭壇が設け

られ、しめ縄を張り神聖な空間が作られる。その次に行

われる八重子祭が中庄の御鳥喰神事︵34︶で、この時に祭

神の熊野十二神を迎える。八重子祭は因島と向島の間に

位置する八重子島︵35︶で行われ、干潮の際は徒歩で大浜

集落を行き来することが可能である。

神を迎えると、旧暦十月十四日に御渡り行事と前夜祭、

十五日に大祭が執行される。無事大祭が終了すると共に、

当舎の役割も果たされたことになり、次の当舎区への引

き継ぎを当渡しの祭典で行う。そして、最後に当舎の家

にある御葉気を神棚に移し替える﹁御葉気上げ祭典﹂が

行われ、秋季大祭は終了となる。

ところで、かつては一日で終わっていた八重子祭が、

現在では二日間に分けて行われる。ここで、改めて現在

の八重子祭の流れを確認すると、以下の通りである。ま

ず、御鳥喰神事は時間等の関係により、祭の前日の干潮

時に宮司と当人、総代や重役数名が八重子島へ赴く。八

重子島に上陸すると、竹やしめ縄で臨時の祭壇を用意し、

供饌︵塩、米、重餅、いりこ、酒︶を藁船︵図④⑤⑥⑦︶

に乗せて因島側に位置する拝み岩に供える。藁船は熊箇

原八幡神社に向けて、祭壇前では祓詞、大祓詞の奏上、

八重子島の祝詞の奏上、最後に御神酒拝戴で神事は終了

となる。かつて行われていた直会や﹁一の祭﹂とする八

重子祭の神事は、﹃当帳﹄に記されている次第とほぼ同

様の流れで、現在はこの翌日に対岸の大浜側から八重子

-168-

『氏神八幡宮当帳』秋季大祭式次第

九月十五日 

当舎浄め祭

九月丗日  

しめおろし

十月九日  

おはけ祭

      

路次石前で祭り

      

八重子祭

十月十四日 

御渡り祭典執行

      

御渡り行事

      

安鎮祭

      

前夜祭

十月十五日 

大祭

      

湯釜祭

      

当渡しの祭典

      

おはけ上げ祭典

      

しめ上げ祭典

平成の式次第

九月第一日曜日 

当舎清祓祭、直会

九月第二日曜日 

しめ縄降ろし(神社)

九月第三日曜日 

しめ始め祭(当舎)

        

しめ清祓祭、直会

九月第四日曜日 

しめ張り

十月第一土曜日 

八重子鳥食祭

十月第一日曜日 

御葉気祭

        

路次石神事

        

八重子祭

十月第二土曜日 

秋季大祭

        (出立祭、神幸祭、

        

安鎭祭、夜殿祭)

十月第二日曜日 

秋季大祭

        (出立祭、大祭、

        

湯釜神事、直会、

        当舎渡祭、御葉気揚げ)

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島に向かって執行されるのである。

八重子島は、熊箇原八幡神社にとって本殿に相当する

場所とも考えられ、島には巨大なしめ縄と幣が飾られて

いる。八重子祭は、八重子島から中庄の入江を通り現在

地に鎭座したという伝説を逆にたどる構成となってい

る。そのため、翌日改めて大浜で執行される八重子祭

﹁一の祭﹂へ向かう途中、改めて八重子島から氏神が島

へ上陸した徳永地区で、﹁路地石神事﹂が執行される。

この祭祀は、当舎が八重子島に神々を迎えに行くこと

を目的としており、そのために御鳥喰神事が行われてい

る。御鳥喰神事をしなければ、秋季大祭を始めることが

できないとも言われているのは、秋季大祭におけるこの

神事の重要性を物語っていると言えよう。熊箇原八幡神

社における御鳥喰神事は、神社の由来を伝承すると共に

熊野の神々を迎えに行くという点から、烏神事と熊野信

仰の結びつきを示唆する重要な事例と言えよう。

ところで、この中庄の近くで、同じように御鳥喰神事

が﹁一の祭﹂として執行されながらも、異なる意味を持

つ事例がある。瀬戸内海における新たな事例として以下

に報告する。

2、重井八幡神社の場合 ︱御門祭における一の祭︱

重井八幡神社は、創建年が未詳とされる一方、﹃因島

市史﹄︵

36︶には寛正二年︵一四六一︶六月三日に大疫

����

神社

-169-

瀬戸内海における御鳥喰神事

図③:平成二十三年度光水

区供饌

図④:

平成二十四年度西浦区供饌

図⑤:

供饌の中身

図⑥:

八重子祭の御烏喰神事

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へ勧請、再興されたと記され、また﹃広島県神社誌﹄︵

37︶

では、神宮皇后三韓征伐の帰途において海神を祀ったこ

とに由来すると記されており、伝承においても不明な点

が多い。

重井八幡神社の御鳥喰神事については、在地の資料を

含め、従来の研究史においては未報告の事例である。今

回、改めて神事に関わる調査を行ったところ、神社側で

はトリ﹁鳥﹂ではなくカラス﹁烏﹂の文字で﹁御烏喰神

事﹂と表記されており、﹁オトクイアゲ﹂と呼ばれてい

ることが分かった。以下、平成二十五年度の調査に基づ

く内容を示しておく。

ここでの御烏喰神事は、毎年十月十二日に行われてい

たが、現在は十月の第二土曜日か日曜日の朝九時から午

前中に執行されており、秋祭の御門祭

�����

における﹁一の祭﹂

という重要な神事に位置づけられている。重井地区では、

東西にそれぞれ当家が配置されて祭が執行されていた

が、現在は当屋制度が廃止され、御烏喰神事も総代五名

と宮司により執行されている。

﹁一の祭﹂として行われる御烏喰神事は、早朝に神社

︵かつては当家︶から行列を組んで重井東港の波止場に

向かっていた。港に到着すると、御幣を付けた﹁ろんじ﹂

︵漢字不明︶と呼ばれる木箱の中に供饌を入れ、総代長

が頭の上に載せて運ぶ。この供饌は、甘酒︵現在は保命

酒の粕︶、赤飯、黒豆、以上三種類とされている。

港に着くと、葉を付けた状態の二本の竹に注連縄を括

りつけ、その間に長さ四十五センチメートル程の竹三本

を三脚台のように組み合わせる。その内一本の竹先に、

萩三本、附子

三本を榊と共に括りつけ、この榊が神籬

����

とな

る。そして、図⑦のような供饌が神籬の下に供えられる。

供饌と神籬の準備

が整うと、修祓、

降神

����

の儀、御烏喰神

事の祝詞奏上、昇神

�����

の儀、直合

����

を行う。

その後、三日間ほど

そのままにするが、

烏が食べるか否かの

確認は行われない。

この神事の烏は八幡

神の化身で、神籬に

降りてくるのは瀬織

津姫命であると伝え

られている。そして、

この後に執行される秋祭﹁御門祭﹂でも、御烏喰神事と

同様に、二本の竹に注連縄を括りつける。かつては当家

の庭に設置されていたが、現在は神社境内に設置され、

-170-

赤飯

甘酒

黒豆

赤飯

甘酒

黒豆

赤飯

甘酒

黒豆

図⑦:

九枚の半紙にそれぞれ一握

りの供饌を三つずつ供える。

縦一列に右から甘酒、赤飯、

黒豆を置く

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二本の竹に神籬を括りつける。神籬に降りてくる神は櫛

石窓神と豊石窓神で、門の神と言われる二柱である。

重井八幡神社で執行される御烏喰神事は、神の化身で

あるカラスだけでなく、瀬織津姫命という神も招く。こ

の神は﹁大祓祝詞﹂にも確認でき、人々の罪穢れを黄泉

国に流す河へと誘う神である︵38︶。この神事はあくまでも

秋祭の安全祈願であるが、瀬織津姫命を降ろすという点

からは、明らかに禊の役割を担っている。安全に祭祀を

執行するため事前に禊を行い、その際に招くのが、神の

化身である烏と考えられるのである。

この神社における御烏喰神事は、中庄地区と同様に御

祭神を招く他、禊ぎの要素も含まれている。これは宮島

の嚴島神社で執行される御鳥喰神事にも含まれる要素

で、願主の禊ぎが遂げられているか否かを確認するため

とされている。しかし、禊ぎとしての意味は近隣の中庄

地区の神事においては認められない。このように、島内

においても伝承の違いが生じている点は大変興味深く、

御鳥喰神事の事例を個々の神社ごとに考察する必要性に

も気づかされるのである。

しかし、清め祓う際に現れる烏と、祖先神を迎える際

の烏という違いはあるが、因島において共通しているの

は海に面している点である。それは嚴島神社の場合も同

様であり、烏は神の使者、あるいは神として現れる。す

なわち、この地域における烏は海を漂う神を導くための

存在であり、御鳥喰神事は例祭の無事を神に願った上で

確約を得るために執行されているのである。

おわりに

本稿では、瀬戸内海に浮かぶ宮島と因島の事例を調査

に基づき取り上げてきたが、現在でも実際に烏の飛来の

確認までが神事に含まれているのは、嚴島神社だけであ

った。これに対し、大頭神社や因島では飛来の確認の有

無によらず、神事自体は大切に継続されていることが分

かった。

そして、広島県の両端に位置する島の御鳥喰神事から、

熊野信仰との関係を示唆する伝承を確認することができ

た。嚴島神社と大頭神社では、神事に現れる烏が熊野へ

去って行くと伝えられ、因島の熊箇原八幡神社の御鳥喰

神事は、熊野十二神を迎える行為であると伝えられてい

る。同島の重井八幡神社では、熊野信仰に関わる伝承の

確認はできなかったが、厄災除けの要素が強いことから

は、嚴島神社に見るような御鳥喰神事の基本的要素が濃

厚な神事であると考えられる。

熊野における烏伝承は、記紀内において神武天皇を熊

野から大和へ導く八咫烏として描かれている。そして、熊

野三山における烏は神使とされている。本稿で取り上げ

-171-

瀬戸内海における御鳥喰神事

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た嚴島神社は、縁起が成立したと考えられる中世から熊

野信仰とのつながりが強固であった︵

39︶。そして、因島は熊

野神を祖先神とする集団が熊箇原八幡神社を建立したと

伝えられる場所でもあり、神事の目的とその意味からも、

熊野にゆかりの場所であることが分かった。なお、因島に

おける御鳥喰神事は田熊八幡神社にも確認できる︵

40︶。

瀬戸内海の御鳥喰神事には、熊野信仰を支えた修験者

達の影響が伺える。ただ、重井八幡神社のように、熊野

信仰の要素が認められない事例も確認できる点からは、

熊野修験者達が瀬戸内海地方に進出する以前より御鳥喰

神事が存在していたことも推測できる。つまり、家や集

落の年中行事として存在していた行為が、熊野修験者に

より寺社の縁起と結びつけられ、本格的な寺社の儀礼と

して伝承されてきたことが推測できるのである。

現時点において、御鳥喰神事に関する最古の記録とさ

れる多賀大社の先食神事や、烏喰

�����の

儀︵烏祭とも︶の記

録を詳細に残す熱田神宮の神事、そして、四国・高知県

香南市に位置する若一王子宮にも、熊野との関係を色濃

く伝える御鳥喰神事が残っていることを確認している

が、調査も含めて今後の課題としておく。

本稿で示した瀬戸内海地域の特徴をさらに明確にする

ためにも、熊野信仰の中心地、紀伊半島における御鳥喰

神事の調査が必要となってくる。そして、改めて神社以

外で行われる事例にも注目した上で、全国的な規模で御

鳥喰神事を考察したいと考えている。

注︵1︶出口米吉﹁烏崇拝の遺習﹂﹃東京人類學會雑誌二五八号﹄

一八八六年、東京人類學會発行。出口は、谷川士淸著の

﹃和訓栞﹄を引用して御鳥喰神事を紹介した。﹃和訓栞﹄は

江戸時代後期︵一七七七年~一八八七年刊行︶に刊行され

た辞典で、﹁尾張の熱田安藝の嚴島伯耆の大山に靈鵶ありて

神供を取去る事あり唐山の洞庭湖にもあり杜詩に迎橈鵶舞

と作れり入蜀記にも見ゆ﹂とある。

︵2︶﹃定本柳田國男集第二十二巻﹄一九六二年、筑摩書房、初版

は一九四〇年一一月に﹃野鳥雑記﹄所収で甲鳥書林より刊行。

︵3︶年中行事における御鳥喰神事に注目した論には、倉田一郎

﹃農と民俗学﹄︵﹃民俗民芸双書﹄三十九所収、一九四四年、光

明社発行︶、涌水敏子﹃烏のことなど﹄︵﹃民間伝承﹄十六巻11

号所収、一九五二年、光明社発行︶、酒井卯作﹃稲の祭﹄︵﹃民俗

民芸双書﹄十三所収、一九五八年、岩崎書店発行︶がある。ま

た、郷田洋文は﹁年中行事の地域性と社会性﹂︵﹃覆刻日本民俗

学大系第七巻・生活と民俗Ⅱ﹄所収、一九五九年、平凡社︶で、

稲作行事において田神の去来と同時に烏やカッパの往来伝

承がいつくか確認できる点を踏まえ、﹁本来まったく異なっ

た契機によって成立した伝承か、機能的分化による伝承か﹂

-172-

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は不明としているが、﹁田の神去来信仰が存在しない村落で

の伝承として見るとき、両者はもともと同じ信仰に発生した

もの﹂と推測した。つまり、田の神去来と烏の往来は同様の

信仰の元に発生した伝承とする。また、鹿児島県加世田市の

事例として烏が山神、田神のミサキとされている点から烏が

両者の関連を結びつけていると解している。しかし、田の神

去来伝承とカッパや烏往来伝承が伴わない場合も存在し、不

明点が残るものとした。

︵4︶﹁烏勧請︱東亜、東南アジアにおける穂落神話に対応する

農耕儀礼︱﹂︵﹃東洋文化研究所紀要 四〇﹄、一九六六年発

行。後に﹃稲作の神話﹄一九七三年、弘文堂︶に所収。大

林は御鳥喰神事を穂落神話の結果とし、穀物をもたらした

鳥の功績に報いるために初穂を与えていたもので、はじめ

は単なる慣行にすぎなかったとした。その後に収穫儀礼と

して固定し、更に﹁新年の世界更新と再創造による予祝と

いう高文化的世界像の影響﹂により﹁新年の農耕予祝儀礼﹂

として発達した儀礼であるとし、初めて御鳥喰神事の起源

にまで言及された。また、御鳥喰神事の発展には二系統あ

るとし、一つは儀礼化が進み、独立した鳥喰神事が発達し

ていったとし、もう一つは穂落神話との結び付きが弱まり、

昔話化していったとされた。

︵5︶橋本鉄男﹁近江の烏勧請﹂︵﹃日本文化史論叢:

柴田実先

生古稀記念﹄所収、一九七六年刊行。後に﹃近畿民俗叢書

十 藁綱論﹄一九九四年、初芝文庫より再刊︶、嶋田忠一

﹁秋田県の御鳥喰習俗Ⅰ

︱県北地方を中心に︱﹂︵﹃秋田県

立博物館研究報告﹄第10号所収、一九八五年、秋田県立博

物館発行︶による報告がある。

︵6︶新谷尚紀﹁人と烏のフォークロア︱民俗世界の時間と構

造︱﹂︵﹃国立民俗博物館研究報告﹄第15集所収、一九八七

年、国立歴史民俗博物館発行。後に、﹃神々の原像 祭祀の

小宇宙﹄所収、二〇〇〇年、吉川弘文館︶。そこでは、御鳥

喰神事の各側面における変化形の対応とその分布を調査し、

御鳥喰習俗の諸類型の共通部分から、御鳥喰儀礼の基本形

は﹁方法や目的は行事の目的によって変化する﹂という点

であると述べた。

︵7︶三浦秀宥﹁ミサキ信仰﹂︵﹃美作の民俗﹄所収、和歌森太郎

編、一九六三年、吉川弘文館︶において、烏が当屋行事の

中で重要な役割を示すことを指摘し、御鳥喰神事がミサキ

信仰との関わりを示す重要な行事であると位置づけた。

︵8︶田中眞治﹁岡山県の御鳥喰の事例 ︱とくに玉野市碁石

の場合︱﹂︵﹃日本民俗学﹄67号所収、一九八三年、日本民

俗学会発行︶。田中は、地域ごとで様々な要素が添加され、

意味が変化することで今日に残る多様な姿となり、それを

支える祭祀組織も同様に変化していったと推測し、御鳥喰

神事の執行組織を以下の四つに分類した。

①各家型︵特定の集団等にかかわりなく全体レベルにか

-173-

瀬戸内海における御鳥喰神事

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かわる祝福を受け取る。︶

②小祠

����

型︵同族集団や親族集団等の特定の集団かかわる

祝福を受ける。︶

③神社小祠併存型︵神の存在が飛来ではなく常に滞在し

ているものとして位置づけられてくると、氏子集団と

して祭祀を執り行うようになる。︶

④神社型︵祭祀として神社の中に位置づけ、講が組織さ

れた場合、祝福は信仰集団各メンバーへ等質に各々予

祝が下るものと意識される︶

田中は﹁神社祭祀を執行する側での持つ意味が重視されてい

る﹂とし、﹁御鳥喰習俗がむしろミサキ信仰との対応において

発言する重要な行事である﹂とした。また、烏が古代信仰の

中で﹁ミサキ神として祖先の化現となされたこと﹂と﹁後に

流入してくる稲作文化と習合﹂して今日様々な信仰の様式が

できあがり、その中の一つに御鳥喰神事があるとした。

︵9︶田中宣一﹃祀りを乞う神々﹄︵二〇〇五年、吉川弘文館発

行︶参照。田中は、烏へ餅・団子を供えそれらが受納され

ることを、その後の祭︵または儀礼や死者の行方など︶の

前提条件としている事例から、主神に先立つ雑神のための

祭とした。

︵10︶宗像三女神は福岡県宗像市田島に位置する宗像大社の御

祭神で、﹁市杵島姫命﹂が安芸に遷座した伝説が、﹃伊都岐

島﹄︵一九七六年初版、一九九五年改訂、嚴島神社社務所︶

に紹介されている。

︵11︶﹃日本後紀﹄巻二一・弘仁二︵八一一︶年の条参照。

︵12︶御島廻式には本式と略式の形がする。本式は唯本式や古

式とも称され、現在では執行がほぼ不可能とされている。

略式は手こぎの小早船ではなくエンジンを使用し、時間短

縮が可能となった時期からの御島廻式のことを指し、一九

六〇年前後から始まったとされる。御師と伶人の報告書に

よると、昭和二十八年︵一九五三︶のものに﹁エンジンの

調子不良﹂という記事が見られ、これ以前からエンジンを

使用していたことが確認できる。本式について、野坂元定

元宮司は﹁嚴島神社の神事と芸能﹂で﹁唯本式﹂とし、新

谷尚紀が前掲注︵6︶同書の中でまとめた略式の式次第も

ある。なお、近年では木谷昌光が﹁嚴島の特殊神事につい

て︱神衣献上式・御島廻式・管弦祭︱﹂︵﹃芸備地方史研究﹄

二〇七・二〇八所収、一九九七年、芸備地方史研究会︶で、

初めて略式と本式の相違点を指摘した。

︵13︶この他、神饌や昼食を乗せた台所船という船がある。か

つての客船は、小早船に願主︵参拝者︶・亭主代・唄水主

が乗船していたものを指した。亭主代は、願主が宿泊した

宿の亭主で、御島廻式の申し込みに関する手続きを行う世

話役を指す。唄水主は、船を漕ぎながら名所や御島廻式の

説明する役で、船の発着時には舟唄を歌った。島唄の内容

や由来を書いた宮島歴史民俗博物館蔵﹃御島廻船唄﹄︵昭和

-174-

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六年奥付︶が現存するが、節等は現在不明である。

︵14︶七浦の各神社における御祭神は、それぞれ住吉三神と海

神三神を交互に祀り、御床浦神社のみ、嚴島神社の御祭神

である市杵嶋姫命を祀っている。七浦神社の初出は一六六

三年に黒川道祐が編集・刊行し、嚴島神社に所蔵される

﹃芸備国郡志﹄︵﹃宮島町史﹄資料編・地誌紀行Ⅰ所収、一九

九二年、宮島町︶である。記された社名は現存する七社と

は異なる上に異同も見えるが、江戸時代から参拝場所は変

わることなく継承されている。他にも左記の五社での遙拝

または参拝が行われている。

①長浜神社︵祭神は興津彦命・興津姫命。式中の最初に

船上から遙拝。︶

②包ヶ浦神社︵祭神は塩土翁、東端巨石に鎭座。御鳥喰

神事執行、朝餉と言われる餅を投げるが、カラスの確

認はされない。︶

③御山神社︵嚴島神社の奥宮。船内から遙拝。︶

④養父崎神社︵祭神は神鴉。御鳥喰神事執行。︶

⑤大元神社︵祭神は国常立命・大山祇神、島内最古。上

陸して参拝。︶

︵15︶講社大祭は講の仲間全員が参加して参詣することで、講

とは同一の信仰をもつ人々の集団のこと。

︵16︶前掲注(

10︶同書参照。

︵17︶後藤陽一・松岡久人﹁嚴島の歴史﹂︵﹃秘宝嚴島﹄一九六

七年、講談社︶参照。

︵18︶禁足地時代について、谷富夫は﹃瀬戸内の海人文化﹄︵﹃海

と列島文化﹄第九巻﹁第二章 瀬戸内の信仰と芸能﹂、一九九

一年、小学館︶で、島内で弥生時代の土器が発見されたこ

とを根拠とし、佐伯氏が祭祀権を得た後に御鳥喰神事が形

成されたとする一方で、古墳時代以前には人が居たとも推

測している。また、禁足地時代を踏まえた御島廻式の形成

については、現嚴島神社の権禰宜、齋木勝彦氏が、海上神

としての要素が嚴島神社に輸入されてから全島を御神体と

する信仰が成立し、後に元来周囲の人々が習慣として行っ

ていた御鳥喰神事を取り入れたのではないかと考察した。

︵19︶松前健は、神話を象徴的に行為で示した儀礼を﹁神話先

行説﹂︵﹃松前健著作集﹄第五巻﹁日本神話原論﹂参照︶と

解説した。説話と祭祀の関係性については、儀礼から説話

神話が誕生する﹁儀礼先行説﹂もまた存在する。その場合、

神話によって儀礼が複雑化し、新しい要素を加えることも

あると説いた。

︵20︶﹃伊都岐島皇太神御鎮座記﹄三巻︵﹃神道大系﹄神社編四

〇﹁嚴島﹂所収、一九八七年、財団法人神道大系編纂会出

版︶参照。嚴島神社所蔵で、近世中期の宝暦年間︵一七五

一~六四︶の頃にまとめられたか。全三巻で﹃神道大系﹄

に所収されているのは、第一巻︵神書・旧史に解説を加え

たもの︶の一部と、第二・三巻︵嚴島神社の御鎮座の次第︶

-175-

瀬戸内海における御鳥喰神事

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の全文で著者は未詳。これについて、前掲注︵6︶同書で

新谷は、実見した同書の表紙には﹁瀧戸政吉寄贈﹂と記さ

れており、同人物が親本を書写した可能性と後日の注記を

推定している。なお、この人物は大正期に嚴島神社の神職

であったと推定される。

︵21︶嚴島神社の野坂元定元宮司﹁嚴島神社の神事と芸能﹂

︵﹃嚴島民俗資料緊急調査﹄所収、一九七二年、広島県教育

委員会︶参照。また、御島廻式を﹁御島巡りの禊﹂とも称

されている。

︵22︶前掲注︵6︶同書参照。

︵23︶前掲注︵6︶同書で新谷は、嚴島神社の御島廻式を﹁信

仰的活力を再生し続ける原初回帰の儀礼﹂で、御鳥喰神事

を﹁人間の領域から神の領域へと入っていく、いわば領域

侵犯に際しての人間の側からの贈答儀礼﹂とした。

︵24︶岡田清編﹃芸州嚴島図会﹄︵一八三七年成立、﹃宮島町史﹄

資料編・地誌紀行Ⅰ所収、一九九二年、宮島町︶は、国立

公文書館内閣文庫蔵本の版本で宮島歴史民俗博物館にも所

蔵されている。一〇巻一〇冊。一九七五年に﹃芸州嚴島名

所図会︵全二巻︶﹄日本資料刊行会発行・アリス館牧新社出

版された。

︵25︶文献別による式次第と烏の伝承については、補注︻表①︼

としてまとめた。

︵26︶江戸時代の神職である松原直房宮司によるもので大頭神

社所に所蔵される。奥書は以下の通りである。

大頭神社縁起古往傳来之看實記、拙き

愚か筆を省みず書冩して納之

當社神主松原直房謹書

天保十四年癸卯歳也大養堂蔵書

同書には、烏の伝承について以下のように記されている。

又名を別鴉の郷という。此の故は、宮島山の神烏この里

に来たり、年々社辺の樹木に巣をくい子かえして、雌雄

のからす嚴島山に帰る事、おぼろげならぬ深き故あり。

︵略︶此の時雌雄子四烏の神烏来りて神供を上り、二羽

の親烏は紀州熊野社に帰るという事、昔時より伝来せり。

故に此の神事を四鳥の別れ子別れの神事という。諺にも

四鳥の別れ烏跡といえり。依りて此の里を別鴉郷という

事此の神事より始まれり。毎年霜月の初申二申の神事に

は神烏必ず二羽来たり、神供を上る事神妙不思議の事、

諸人目のあたり拝せり、信心胆に銘ず。

︵27︶年中行事の冒頭部分には、﹁古文書年中行事ノ条二云﹂、

末尾には﹁元禄丁丑十年七月六日、神官・松原新右衛門

判﹂とあり、ここでは例祭の日にちが二十八日だけではな

く、二十六日から行われているとしている。これは現在で

も夜頃の祭、つまり前夜祭が行われている点から、それを

詳しく記したものと考えられる。

︵28︶八幡神は譽田別尊︵応神天皇︶、息長帯比賣命︵神功皇后︶、

-176-

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瀬戸内海における御鳥喰神事

多紀理毘賣命、多岐津毘賣命、市寸島姫命、以上五柱の神。

宇佐八幡宮を発祥として奈良時代から中央に進出し、平安

時代後期に清和源氏の氏神となり全国に広がった神。

︵29︶熊野十二神は、伊邪那美大神、伊邪那岐大神、家津美御

子大神、天照皇大神忍穂耳命、邇邇芸命、彦穂々出見命、

鵜葺草葺不合命軻遇突智命、埴山姫命、弥都波能賣命、和

久産巣日命、以上十二柱の神。紀州熊野三山を本拠地とす

る熊野神の総称である。

︵30︶青木茂編﹃因島市史﹄︵一九六八年、因島市史編集委員会

発行︶、八七五頁参照。

︵31︶頭屋、当屋とも表記。神社の祭りや行事で神事や行事の

世話役、あるいはその家を指し、これに当たる人を頭人

︵当人︶と呼ぶ。因島中庄の当舎は、町の十二区が一年毎に

入れ替わるため﹁一年神主﹂とも呼ばれ、秋季大祭は当舎

が最後に行う最も重要な神事とされている。本稿では、平

成二十三~二十五年度の内容を参考とし、地区ごとに表記

される漢字に準じた表記としている。一般的なものを指す

場合は、﹁当屋﹂とした。

︵32︶文章末には﹁昭和四拾年九月、宮司 従五位 井川美夫

判﹂が確認できる。この当帳は当舎となった家の床の間に、

重ね餅を三つ供えて一年間保管される。

︵33︶藤井佐美﹁尾道市因島中庄町の秋祭を歩く︱平成二十三

年度の神事より︱﹂︵﹃尾道文学談話会会報﹄第三号所収、

二〇一二年十二月、尾道市立大学日本文学科発行︶

︵34︶ここでは、御鳥喰神事を﹁八重子鳥食祭﹂、﹁海神祭﹂、

﹁八重子祭一の祭﹂とも呼ぶ。これは、諸事情により現在の

八重子祭が二日に分けられたことに起因すると考える。

︵35︶因島の大浜に位置する小島。

︵36︶前掲注︵30︶同書、八八〇頁参照。

︵37︶﹃広島県神社誌﹄︵一九九四年、広島県神社庁︶参照。

︵38︶﹃古事記祝詞﹄︵﹃日本古典文学大系﹄第一巻、一九五八年、

岩波書店、﹁六月晦大祓﹂︶

遺��

る罪はあらじと祓�

へたまひ清めたまふ事を、高山

����

短山

����

の末�

�より、さくなだりに落ちたぎつ速川

����

の瀬�

に坐�

瀬織

���

つひめといふ神、大海の原に持ち出でなむ。

︵39︶前掲注︵17︶同書には、﹃平家物語﹄巻二の﹁卒塔婆流﹂

や巻三の﹁大塔建立﹂が、熊野修験たちのもとで作り上げ

られたことと、﹁嚴島縁起﹂︵嚴島本地とも︶が熊野本地と

酷似する点から、中世の宮島における弥山が修験や聖の道

場として開発された可能性についての指摘がある。

︵40︶前掲注︵30︶同書、八六四頁参照。

付記調

査にご協力頂いた嚴島神社、大頭神社、熊箇原八幡神社、

重井八幡神社の関係者の方々、そして因島の方々に心より感謝

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補注

※表①は、大頭神社の﹁四鳥の別れ﹂を記す文献資料の比較である。式次第・烏の伝承については直接本文引用をおこない、熊野につ

いて記載がある場合は○印で示した。なお、以下の書誌情報において前掲の注で示した点については割愛した。

○﹃芸備国郡誌﹄前掲注︵14︶に同じ。向陽林子の序と凡例によれば、執筆は風土記の編纂方法とは異なる中国の﹁大明一統志﹂に準

じている。嚴島の地理・神社・祭神・神事・宝物・寺院等についてまとめられた内容としては初めてで、嚴島は安芸国祠廟門の条で

取り上げられている。市島謙吉編輯﹃続々群書類従第九﹄国書刊行会︵一九〇六年発行︶にも収められているが、今回は嚴島神社所

蔵の写本を掲載する﹃宮島町史﹄を参考にした。本稿では原文を引用した。

○﹃嚴島道芝記﹄︵﹃宮島町史﹄資料編・地誌紀行Ⅰ所収、一九九二年、宮島町︶。一六九七年に小島常也によりまとめられた内容で、全

七巻で構成される。﹁道芝﹂とは、旅する道・往来する道という意味で、﹁参詣にくる人々の案内﹂を意図したものと考えられる。江

戸期の嚴島神社を位置づける資料。一九七一年に﹃嚴島道芝記全﹄︵福田幸太郎記念事業出版︶が刊行されている。

○﹃伊都岐島皇太神御鎮座記﹄全三巻、前掲注︵20︶に同じ。

○﹃中国名所図会﹄︵﹃宮島町史﹄資料編・地誌紀行Ⅰ所収、一九九二年、宮島町︶。秋里籬島編纂で、巻四途中までの未完本。嚴島は巻三・

四に書かれている。記述は﹃嚴島道芝記﹄に酷似しており、地名の誤記も見える。図の写実性は低く、嚴島を多方面から書いている。

○﹃芸藩通志﹄一八二五年︵﹃宮島町史﹄資料編・地誌紀行Ⅰ所収、一九九二年、宮島町︶。頼杏坪編纂で全一五九巻のうち、巻一三~

三二までの内容が嚴島関連記事。一九一五年に広島図書館主岡田俊太郎によって、全巻五冊本として出版された。

○﹃芸州嚴島図会﹄前掲注︵24︶に同じ。

○﹃大頭神社縁起書﹄前掲注︵26︶に同じ。

○﹃嚴島誌﹄︵一九一〇年、﹃明治後期産業発達史資料﹄第六六五巻 第一二期 経済・社会一班篇 金港堂書籍発行︶。重田定一により

文字を中心とした案内書で、﹃道芝記﹄や﹃嚴島図会﹄と共に読むことを促す内容である。復刻版が﹃明治後期産業発達史資料﹄に所

収されている。

○﹃官国弊社特殊神事総覧﹄︵神祇院編、一九七八年、国書刊行会︶。旧題は﹃官国弊社特殊神事調﹄。一九二四年以降の神祇院調査に基

き、一九三八年にまとめられた﹃官国弊社特殊神事調﹄を底本とする。

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瀬戸内海における御鳥喰神事

書名

芸備国郡志成立

一六六三年執行日

式次第

烏の伝承

熊野

一六六三年

厳島道芝記

伊都岐嶋皇

太神後鎮座

記中国名所図

会芸藩通志

一七〇二年

一七五一〜

六四年か

一八〇四〜

一七年か

一八二五年

廿八日

季秋

十八日(マ

マ)

九月廿八日

厳嶋社家中渡海なり。大野の社人舩塲まで、

上卿を迎に出る。儀式古例として尊敬尋常

ならず。社家へ雜餉す、七五三の饗應恒例

也。神前に魚鳥の高もりを奉る。楽人出仕、

楽あり。にんちやうの舞あり。(略)神前

にて御供奉る時、五烏にとくひ奉る也。神

前より半町余、まへなる御田の中なり。儀

式嶋廻の御供のごとし。

大野濱大頭神宮前饗神烏永在鎭座之故實、

乃置是瓊機大御饌於大頭神前御田而為神事

焉、

いつくしま社家中渡海なり。大野の社人、

舩塲まで上卿をむかひ出る。儀式古例にて

尊敬することつねならず。社家へ雜餉す。

七五三饗應恒例、神前に魚鳥を大高もりに

たてまつり、楽人出てにんちやう舞一曲

(略)神前にて儀式して、又そのゝち半丁

ばかりまへなる御田の中にて儀式。

榊舞、求子を舞ふ。

かく有て今日此御祭に親からす、雌雄此所

へ渡りて、供御をあげたまふ。此供御あげ

てより親烏ハ行方しれず。子烏一双相続し

て、翌日よりハ御島廻に子烏一つがひ出た

まふ。神秘微妙筆に及ふも恐し。(略)厳

嶋の御山よりハ大野まで一里余の海を隔た

るに、必ずこゝに飛来り親烏御名残の供御

をあけ給ふ事、竒瑞をまのあたりに拝ミ奉

る。五烏例年の相続かくのごとし。

かく有今日、此例祭に親からす雌雄、この

所へわたりて神供あげたまふ。此供御あけ

てより、親からすハ行かたしれず。子一双

相續して、翌日より嶋めぐりに子烏一双出

る。神秘微妙、筆にあらハすもかたしけな

し。(略)いつくしまの御山よりハ、大野

まで壱里餘の海を隔て、かならずこゝにと

びきたり、親烏御名残の供御をおげたまふ

事、奇瑞を目のあたりに拝ミ奉る。五烏、

例年相續かくのごとし。

親鴉一雙出て、供御をあげ、即日行方しら

ずなりて、其翌日よりハ、子鴉一雙のミ、

養父崎の、とぐひに出る。この事、古より、

年○たがふことなきハ、衆の知るところな

り。

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芸州厳島図

会大頭神社縁

起書

厳島誌

官国弊社特

殊神事総覧

一八四二年

一八四三年

一九一〇年

一九七八年

九月廿八日

九月廿六よ

り八日迄

陰暦九月二

十八日

現今陽暦十

月二十八日

当社の祠官、鳥居の傍に食を供し神楽を奏

すれバ、神鴉一双とび来り神供をあくるな

り。〈厳島の祠官ことくく渡海し神供を奉

る。その式ミな古風を存せり。榊舞・求子

の楽を奏ず。〉

此の日厳島社官残らず来たり神務に舞楽を

奏す、此の時当社の神主松原姓烏喰居執行

舊は右神事に當社より神職出張して行ひし

が、今は大頭神社々掌の手によりて行はれ、

當社と關關係なし。

そもくこの神鴉といふは、弥山の条に記す

ごとく、(略)然るにこの廿八日に至て、

親烏一双来りて鳥喰をあげ、終りて行方し

らず。その翌日より子鴉一双のミ養父崎の

鳥喰に出づ。いにしへより一年もたがふこ

となし。且厳島より大野まで一里余の海を

隔たるに、この日の此刻をかならすたかへ

ずして飛来るも霊奇にあらずや。

此の神鴉厳島島廻の神供を上り、当社にお

いて年中祭りの度、鼓を打つ音を聞きて来

たり、御祭事之神供を上り厳島山に帰る事

神妙也。

親鴉は一里餘を距つる陸岸、大野村の大頭

神社に赴き、ここに鳥食を為して後、飛行

してまた還らずといふ。(略)彼の一雙の

鴉は所謂、御山の神鴉

四鴉別離の烏喰を受け親烏は東に飛来りて

還らず、子鴉は御山に止りて此の神事に預

る。

︱かやき・のぞみ 日本文学研究科 修士課程二年生︱