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1 婿婿婿婿婿婿

古事記―――妻問時代の女性生活fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/takamureitue/kojiki.pdf · 2018-09-14 · 1 古事記―――妻問時代の女性生活 する問題提起日本婚姻史に関

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古事記―――妻問時代の女性生活 日本婚姻史に関

する問題提起

高群逸枝

招婿婚と問題提起

私にあたえられた課題は、婚姻を中心として、古事記時代の女性生活をみることである。

この時代の婚姻の基本的なものは、招婿婚(母系婚=対偶婚)で、さらにこまかにいえば、その招

婿婚のなかでの妻問婚の段階にあたる。

そこで、妻問婚とは何かということから、一応みなければなるまいが、そのまえに、それと関連す

るものとして、日本の婚姻史の問題点についてのべておきたい。

日本の婚姻史は、母系婚である招婿婚と、父系婚である嫁取婚とに、だいたい二大別される。招婿

婚は、まえにいった妻問婚(通い=夫婦別居)と、その次にくる婿取婚(妻方に同居)からなってお

り、原始共同体(母系氏族共同体)ないしその原理を残存した氏族崩壊過程に照応する婚姻形態であ

り、嫁取婚(夫方に同居)は室町期以後のもので(もちろん萌芽的な形態や現象はそれ以前にみられ

るが)、家父長家族にともなう婚姻形態である。

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ところが、ヨーロッパ大陸諸国―――たとえばギリシャやローマの婚姻史や、アジア大陸諸国―――

たとえば中国やインドなどのそれと比較するとき、ふしぎにおもわれることは、それらの国では、古

代開始前後=国家成立前後(日本でいえばちょうど古事記時代)に、すでに家父長制の嫁取婚となっ

ており、したがって、そこでは女性は祭祀権も、財産権も、恋愛の自由もなくしていて(乱倫はあり

うるが)、その地位は奴隷化されてしまっている。たとえばギリシャの英雄時代などをみればわかろ

う。そののち、ヨーロッパでは、封建期になると夫権単婚制に進み、女性の地位も、古代の家父長権

の奴隷状態からやや解放されて、相互相続制や、管理共通制などとよばれるような夫婦財産制なども、

あいついで生まれ、夫本位の夫婦一体主義=

夫婦不離主義のキリスト教的男女観や、いわゆる女性尊

敬の騎士道的伝統なども、この期から芽生えた。ついで資本主義段階では、これに照応した夫婦同権

の自主的寄合婚が生まれる。アジア大陸諸国ではやや事情がちがい、古代から近代まで、家父長制の

嫁取婚で一貫しているが、これはいわゆるアジア的様式などとの関連において、考えるべきものでも

あろうか。

これらにたいして、日本ではどうかというと、たしかに日本でもアジア的家父長制的様式を示し

てはいるが、もっとそれに東南アジアや、太平洋諸島的な原始性が加味されているのである。

日本では、前記のように、古代天皇制=奴隷制社会といわれる大化前後からの時期に、それとくい

ちがって、遠くからの原始婚が、崩壊しながらもつづいており、その時期の女性の地位は、祭祀権に

おいても、財産権においても、恋愛の自由においても、他の大陸諸国にはみられない原始的な高さを

もつている。ところが、封建期といわれる室町頃から、ようやく家父長制の嫁取婚が成熟し、それ

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と同時に、女性の地位も、いっせいに奴隷化してくる。祭祀権(たとえば庶氏ではお袋の、中央では

いつきのみや

斎宮や女使などの)も、財産権も、恋愛の自由もなくなり(これに反比例して売淫制が表面化して

くる)、「三界に家なし」とか「腹は借り物」とかいう女性抹殺のことばなども、すべてこの期に生ま

れ、または普遍化する。そして、いまわれわれがみている資本主義時代にも、この前代的な嫁取婚が

依然としてつづいており、それに応じて、女性の地位も依然として低く、とくに、農村の嫁の地位な

どは、こんにちでも家畜に比せられているくらいであるし、都市の女工員の地位も、資本主義以前の

「買われた」家内奴隷の域を出ない面もあるといわれる。資本主義に照応する自主婚型は、一部の浮

動層のうえにみられる程度である。これらのことは、日本資本主義の半封建的性格というような説

との関連においてのみ理解さるべきものではなかろうか。とすれは、室町以前にみられた原始婚は、

日本古代社会の半原始性の標示ではなかろうか。

古事記時代の妻問婚は、こうした特異な日本婚姻史の初頭に位置するものであるが、いずれにし

ても、それがヨーロッパとも、アジア大陸ともちがった、日本の前古代における特殊事情をものがた

るものであろうことはうたがわれない。

すなわち、大化前代からのこの母系婚体制から、室町以後の父系婚体制への進化過程の第一歩が、

これからみようとする古事記時代の妻問婚のなかに、父系母所制というような形でふみだされ、大化

以後において、ますます父系が母系を克服していって、室町期における父系体制のまったき確立とな

るのであって、とくにこのことは、従来実証を欠くとされた対偶婚家族から家父長婚家族への発展過

程を、具体的に実証するものとしての重大な意義をもつものであると私は確信する。この意味から

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いえば、日本婚姻史における特殊性は、じつは単なる特殊性ではなくて、世界の婚姻史に欠けている

空間―――母系婚から父系婚への空間―――を埋める実証性をもったものとみてよい。

私がこれから書くことは、あたえられた課題への回答であることはいうまでもないが、それと同

時に、右のような日本婚姻史をめぐる問題提起をも含むものとしたい。

しかし、短い稿では、委曲をつくしえないから、興味をもたれる読者は、私の既著『招婿婚の研究』

『母系制の研究』『女性の歴史』(上・中)『女性史学に立つ』等を、参照していただけたらとねがって

おく。

原始共同体の婚姻形態

招婿婚をともなった目本の原始共同体は、農耕経済に基礎づけられたもので、そこにはウカラ、ヤ

カラとよぶ血縁集団の存在がかんがえられる。それらは総括して、ハラカラ(同母族)ともいったら

しい。それ以前の、採集経済段階の移動血縁群ないし共同体の存在については、考古学的に、あるい

は招婿婚集団の祖型として、類推される程度であつて、たしかなことはわからない。

婚姻史の初頭に、こうした原始婚集団をおき、ひいて家父長婚家族、夫権単婚家族、同権単婚家族

等を、社会構成の進化のなかに、継次的にとらえていく進化主義的方法論は、十九世紀に、主として

モルガン、エンゲルスによってうちたてられ、その後反動期に入り、こんにちにおよんでいるが、私

は日本婚姻史の実証的研究によって、進化主義的方法論の妥当性を信ずるにいたった。

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群の婚姻で問題になるのは乱婚であるが、これは、孤立的な原始集団の族内婚の段階らしく、旧・

中石器時代頃の移動群の原始的事情としては、ありそうなことであるとおもう。『古事記』仲哀条の

大祓執行の記事のなかに、「上通下通婚(オヤコタワケ)の罪」とあり、「大祓祝詞」に、「母と子とお

かせる罪」とあるのは、母子間の性交を禁じた原始法の一規定らしい。これがただちに、乱婚の事実

をかたるものかどうかはべつとして、素朴な法観念の時代におけるこういう規定の存在に注意したい。

乱婚時代は、母子婚禁止から、世代別婚に進んだらしい。つまり、母子が禁婚されると、母は母の

世代、子は子の世代だけに、婚姻の範囲が制限されるのである。

そこには、事実上、兄弟姉妹婚が展開する(原始の兄弟姉妹は、こんにちのそれをも含めて、もっ

とひろく、同世代の年齢層を意味したであろう。また、母の幼弟妹をも母の世代とみなすような後

代的識別もなかったであろう)。夫婦を意味すると同時に兄弟姉妹を意味する「イモセ」という古語、

主として『古事記』・『日本書紀』『万葉集』等にみえているこの古語は、こうした世代別婚からの遺

語とかんがえることもできよう。

兄弟姉妹婚が、乱婚の重要な一つであることは、否定されないが、それが存在したことは、『古事

記』・『日本書紀』『万葉集』等で実証される。それは同父異母の兄妹婚を通例としたが、唐の律令法

等では同父の兄妹婚は、同母異母をとわず、絞首刑に処せられたらしい。その唐制を継受したわが律

令法では戸婚律が喪失していて不明であるが、たぶん不問に付されたらしい。

というのは、律令起草者の不比等でさえ、同父異母妹の五百重夫人と結婚して、京家の始祖である

麻呂を生んでいるのである。その不比等の子房前も、異母妹の片野と結婚して、魚名を生んでおり、

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知太政官事一品穂積皇子と異母姉但馬皇女、同皇女と異母弟の太政大臣高市皇子、弓削皇子と異母妹

紀皇女等、これらは律令発布頃、枢機にあったひとびとの乱婚実例である。

さかのぼって『古事記』・『日本書紀』の大化前代の記事をみるなら、江戸の儒者たちが、畜生時代

といってひんしゅくしたように、それほどにこの種の例は多く、しかもそれを普通のこととみなし

ている事情がうかがわれる。ただし、『古事記』によれば、同母兄妹の軽太子と軽皇女のそれのみは、

国をあげての非難にさらされ、流刑に処せられたとみえている。これは当時の社会構成が、実質的に

は母系段階にあったからで、その以前にさかのぼったら、あるいはこの種の同母兄妹婚も、同父兄妹

婚とおなじように、ゆるされていたのかもしれない。したがって、乱婚段階の存在はかならずしも否

定されない。

群は、その時代をさかのぼるにしたがい、動物の世界に近接していたのであり、自然律に左右され

ることが多かった。そこでは、性交は生殖と不離の関係にあった。われわれは、多くの動物におい

て、交尾期のあることを、日常見聞しているが、人間も、この例からもれはしない。生殖のカギをに

ぎるものは女性である。女性に周期率的の性衝動があり、男性がこの衝動に反応を示すのである。

反自然の婚姻制のために、一般の家婦が冷感症となってしまった後代では、職業的娼婦のみに、性

衝動の擬制がゆるされている。「性」としての男性が、その種職業女性の乱婚性に誘惑されやすいの

は、いちめん原始婚への郷愁からきているともいえるであろう。

群の社会では、女性の生理が中心となって、自然的に交接期が直感されたろう。そして、群が神を

祭るようになると、定期的な神前乱婚へと整理されたであろう。

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神祭りは集団の共食=共産性と共婚性に起源するという。いまなお未開地域にみられる定期的な

神前乱婚には、これらの諸原理のむすびつきがうかがわれる。古代中国の廟婚伝説なども、共産集団

の群婚状態を示すものらしく、とくに興味をひくのは、廟婚以外の婚姻を「野合」といって排斥した

という点である。神前定期婚や、それを足がかりとした結合だけが、正婚とされたのであろう。

わが国にも、神前乱婚の風習は、各地にのこっている。古典にみえる歌垣・カガヒも、この類で

あろう。『古事記』下巻に、

へぐり

平群氏のシビという族長が、ヲケ王という青年と、歌垣に立って、女を

争ったことがみえている。『日本書紀』では、武烈天皇が、女の要求でツバイチの歌垣に出て、正式

の婚約を結ぼうとしたところへ、女と関係のあったシビが、横あいから出てきて、歌合戦によって、

先占の事実を天皇に知らせたことになっている。

この伝説の示す歌垣は、神前群婚の場でもあり、同時に神前婚約の場でもあったらしい。『常陸風

土記』にも、ツクバ山のカガヒが、単に人妻にわれもまじわり、わが妻に人も接するというような群

婚だけのものではなく、未婚者のあいだでは、男が女にツマドヒノモノ(婚約のしるし=結婚のかた

め)を手わたすことがみえている。ここには、神前群婚―神前婚約―個別妻問婚の経路がうかがわれ

る。このうち神前群婚の段階までは前にみてきたが、いつか個別的愛着へと進み、神前婚約後に男が

女の部落へ妻問いをする段階となるのであろう。この段階は、族内群婚の次の段階である族外群婚

(プナルア式)の末期頃からはじまるものらしい。

族内群婚については批判が多いが、族外群婚のプナルア式の存在は、未開地域などでも実証される

という。それは甲群の男女と乙群の男女とが、集団的に夫婦として観念されていて(自群の男女同士

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は禁婚)、祭りの広場なり、随時の場所なりで、定期的または不定期的に、公開群婚なり、衝動的性交

なりをするものらしい。そして、この族外群婚の段階から、必然に夫婦の集団的別居―――夫的集団と

妻的集団との別居―――がはじまるので、子供はとうぜん妻方集団で生まれて育つこととなり、ここに

母系血統もみえはじめるのである。トーテム制の起源は、こうした族外集団婚にあるらしいともいう。

しかし、族外婚という観念は、原始的段階では、むしろ族内婚の延長であり、通婚圏=同族圏の拡

大である意味をもっていたとおもう。なぜなら群では、共食、共婚、共祭を連帯的にかんがえ、それ

によって血縁的親近関係=同族関係が認識されていたからである。つまり、食を分け合うことや、性

を分け合うことや、同一の神を祭り合うことが、血縁共同体の主体的条件であったのである。だか

ら、族外群婚の段階でも、共婚範囲の拡大は、必然に共祭範囲の拡大となり、共食の儀式化を付帯し

て、そこに新同族圏が観念されることとなったのである。

このような観念は、かなり後までうけつがれたが、後には通婚圏や祭祀圏の拡大を手段化し、擬制

同族圏を設定する「国つくり」「氏つくり」等の部族連合方式や、オヤコ式奴隷制(子部=部民)の

方式なども、共同体の変質過程で案出されることになる。『日本書紀』の神代巻では、離婚がウカラ

ハナレ(同族関係の断絶)とされ、離婚した双方の集団でウカラマケジ(別族としてたたかおう)の

言挙げがなされているが、これらの意味も、通婚による同族化が、後代の姻戚関係などとは、比較に

ならない、原始的共婚的観念を裏づけたものであることにおいて理解されるであろう。

プナルア婚段階―――それはかならずしもモルガン式図式のようなものだけとはかぎるまい。それ

は族外への共婚原理(集団婚原理)の延長の段階であるとかんがえるべきである。

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だから、プナルア婚の形態は、ひじょうに多様であったろう。末期になると、個別婚への要求がつ

よまり、関係群以外の男女の恋愛などもみられるようになる。けれども、共婚性の伝統は容易にはほ

ろびず、こういう個別式にも、すぐにこの伝統がねばりつく。たとえば、甲男と乙女が通婚関係にお

かれると、その関係は必至的に相互の兄弟姉妹(年齢層)に連帯的に波及する。そこで当事者たち

は、混乱状態におちいりながらも、この自然発生的な、半ば無秩序な、連帯的性生活をつづけるであ

ろう。こうして関係群も自然発生的に拡大される。それは経済ブロックの拡大でもある。

そのうちに、婚姻方式が整理されてきて、多数の群ないし共同体を集中した神前群婚(

うたがき

歌垣)がも

たれるようになり、その神前群婚から、神前婚約をへて、男が女の部落へと正式に妻問いする段階に

移っていく。すると、必然的に、男と妻問い先の妻の姉妹との関係、一夫と連帯的多妻との関係へと

偏向する事情がおこる。これは妻問形態からの自然的な偏向であり、この場合妻たちは、各姉妹の夫

たちと多夫的に関係する。その夫たち同士は、兄弟であることもあろうが、他人である場合も多い。

郭沫若の説によれば、中国の亜という文字はこの段階のプナルア式の象形であろうという。原始

中国では亜は婿同士の意味であり、正夫にたいする副夫の意味でもあったらしい。

この亜的関係は、亜の仲間のにくみあいを結果して均衡がやぶれ、有力者によって全姉妹が独占

されたりする(その背後には、有力群と弱小群の不均衡もかんがえられる)。後にみるが、『古事記』・

『日本書紀』には、この独占型のプナルア群婚が多い。中国の春秋時代に盛行した廃制というものも、

形の上からみれば、まさにこの型のようである。

中国では、一国または一姓の女が出嫁するばあい、同国または同姓の数女が嫁に随行する。そし

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て嫁入り先では副妻となってそのまま嫁と生涯を共にする習慣があり、これを媵という。陳顧遠は、

これを後代の蓄妾制ではなく、まさにブナルア群婚からの遺制であるといっている。ただ、中国のそ

れは、嫁取婚に伴っているが、これに比較すると、わが「記・紀」のそれは、妻問婚段階にあるので、

おなじ遺制でも、はるかに原始的であり、プナルア段階そのものに、直接接続している姿がみられる。

景行天皇は、美濃の八坂族の弟姫を妻問い、妻問い先で、その姉の八坂入姫にもあい、数子を生ん

だ。その数子は、そのまま母方で成長し、その関係地域で即位したり、またその地域で豪族となって、

大部民を支配したりした。

同天皇は、また吉備族のイナビの大

いらつめ

郎女を妻問い(『播磨風土記』には、その地に妻屋を建てたこ

とがみえる)、妻問い先で、その妹イナビの若

いらつめ

郎女にもあい、その二人に数子を生んだ。長子の大ウ

スは、美濃の国造族の兄姫・弟姫の姉妹に婿住みし、その地方に子孫をのこした。

応神天皇は、尾張族の高木入姫・中姫・弟姫に妻問いし、十三子を生んだが、『旧事紀』によると、

尾張の国造尾綱根が養育したという。

同天皇は、尾張族や近江族を妻問い、各地に子孫をのこしたが、山城の宇治族をも問うて、その族

の宮主矢河枝姫にあい、宇治のワキイラツコや矢田皇女、メトリ皇女を生んだ。そして、その妻問い

先で、妻の妹オオナベ

いらつめ

郎女にもあい、これには宇治のワキイラツメを生んだ。ワキイラツコとワキイ

ラツメのつづきがらでは、母方では従兄妹、父方では兄妹にあたる。ワキイラツコは、太子としてそ

の地に宇治の宮をいとなんだが、ワキイラツメとともに、その地の宇治部の複式族長でもあったら

しい。

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このように、わが『古事記』・『日本書紀』や『風土記』や『旧事紀』等にみえる連帯式一夫多妻の

群婚遺制は、群婚段階のすぐ次にくる妻問婚段階のなかで描かれており、この方式は大化前後まで変

わらないのである。

われわれは、群婚の段階で、婚姻が族の内部でおこなわれる乱婚形態のものと、それに継起する族

外プナルア形態との二つの婚姻形態をみたが、すでに後者では次の招婿婚段階の形態である妻問個

別式が芽生えかけていることをも知った。妻問個別式は、はじめにみたように、農耕経済に基礎づけ

られた段階の原始共同体の婚姻形態である(いうまでもなく、原始共同体は、採集経済時代のそれと、

農耕経済時代のそれとにわけられる)。

前一・二世紀頃から、水田稲作が移入され、考古学的にいえば、すなわち弥生文化期に入るという。

学者のなかには、この期にいちはやく共同体の崩壊と、家父長制の拾頭を見るものもあるらしいが、

婚姻形態からみれば、なかなかそうはいかない。

集団が前提となって土地に関係し、そこに土地共有をおこすのは、わが国では、むしろ弥生期に

入ってからではなかろうか。そうとすれば、母系氏族による原始共同体の完成も、この段階でしか考

えられない。それ以前の採集経済本位の時代などには、プナルア群婚でさえも、全過程を終わってい

たとまでは考えられない。末期の連帯式妻問形態などは、弥生期に入って後に熟したらしくさえ想

像される。

採集、牧畜、農耕の順序をもつとされる大陸的社会等では、女性は牧畜の段階ですでに蹴落とされ

て、家事奴隷化しつつあり、それと併存して発達する農耕段階の内がわには、いちはやく家父長制の

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芽生えが含まれている。わが国では、それとちがって、牧畜の段階がなく、当初の水田経営は、主と

して女性が関係したかとさえおもわれる。つまり、男性は、狩猟や

ぎょろう

漁撈や戦争から足がぬけず、そ

こで女性が原始的な畑づくり(畑づくりといっても、粟、麦、稗、大豆、瓜など、こうした主要な食

物栽培は、弥生期に入ってからというから、それ以前の畑づくりは、菜圃程度のものか)の伝統から、

田づくりをも継受したのではなかろうか。『古事記』にもみられるように、五穀や稲づくりの神が女

神であり、田植、稲刈、米つき等、稲づくりの全工程が、奈良頃までも伝統的に女性の仕事と観念さ

れている事実をおもっても、原始水田の経営や労働と女性とは切り離せない。

東南アジアの原始的水田社会等では、こんにちでも、男が主として

ぎょろう

漁撈や狩猟に従事するのにた

いして、女が田づくりを受け持っており、そのためでもあろうか、いまでも、母系制や女性祭祀を存

しているところもあるという。

たとえば、労働省婦人少年局の一九五三年発行の『世界の婦人たち』に、インドネシアの婦人運動

家トエマン・ゴエン女史の報告がのせてあるが、この婦人は、中部スマトラのナン・カバウ地方の人

で、その地方では、いまも招婿婚(ここでは妻問の次の婿取形態)がおこなわれ、母系制も存続して

いるといい、ここのデッサ(村)の婦人たちは、水田稲作の主要な働き手であり、男たちは助手にす

ぎないという。

日本では、大陸の影響もあって、その発展の側面に、つねに早熟性を示しているので、一口にはい

えないが、それにしても、弥生期までは、私のかんがえでは純妻問婚=純母系婚の時代であったとお

もう。

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妻問婚は、いくどもいうように、招婿婚という母系婚のなかでの初期の純母系の婚姻形態であって、

男女両者の身柄は各自の共同体に属しており、一方が他の一方へ身柄を移すことはない。プナルア

式族外群婚では、夫的集団と妻的集団との集団的別居がみられたが、ここでの妻問婚の別居は個別式

別居であり、その各自の背後に各自の共同体があって、各自が恣意的に共同体を離脱して、夫婦だけ

の生活組織をつくることを拒否しているような段階である。というよりも、夫婦だけの生活組織と

いうような矮小単位では、まだとてもやっていけない時代なのである。夫婦別居の妻問式通い婚は、

つまりこうした原始共同体段階の婚姻形態である。

日本でいうと、妻方の共同体に、妻屋が設けられてあり、夫はそこへ通い、あるいは客として滞在

することもある。したがって、子供は妻方で生まれて育ち、妻方の氏族名を相続し(後に氏族の別働

体として部ができるが、部も一般に氏族原理のままなので、部名の相続方式も氏族名のそれとおなじ

い)、その共伺体の一員となる。

共同体の構造は、大屋(母屋)と妻屋でできていたろう。こういう形―――後代では、ホンヤとマキ、

ナカヤとクルワというような形―――は、古くからの日本式集落体の型ではないかとおもう(もっと

も、この型は、妻屋群が発達し、それに対応して大屋の祭治性も強まってくる大化前後の時代に、い

よいよはっきりしてくるようにおもわれる)。神話の植林=建築の神に大屋ツ姫・大屋ツ彦、妻ツ姫

があるのはおもしろい。これによると、姫と彦が複式で大屋をあらわし、妻ツ姫の妻屋と対している。

つまり、大屋と妻屋群でなる原始集落の象徴化ではなかろうか。

大屋は主として複式族長の姫彦(オヤたち)の詰所で、祭壇があり、妻屋には族員が住んで婚姻生

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活や家族生活をいとなんだ。朝廷を公(大屋)といい、民家を里といい、朝廷では婚姻や育児をはば

かる俗がかなり後代までみられたのも、わが原始の集落体の反映ではなかろうか。

妻屋は、『万葉集』の時代には、「枕つく妻屋」などと人麻呂の歌にもあるように、妻と幼児単位の

小家族の小屋となっているが、これは末期のことで、元来妻屋の妻は、妻折れ笠の妻のように、端と

いう意味であり、妻屋は端の小屋であったのだから、大屋以外のすべての小屋の総称であったろう。

共同婚舎、共同産屋、そして育児も共同であり、一人の女性が、かならずしも一夫ではなく多夫を

も通わせることが原則であった時代には、人麻呂的妻屋の概念はなりたたない。これがなりたつよ

うになっていくところには、父系観念の成熟がともなう。末期になると、「フセ屋たて妻問しけむ」

とあるように、男が女の屋敷内に、自分の手で妻屋をたてて、妻子を独占する形態が芽生えてくる。

スサノオが妻の稲田部落に妻子用の小屋をたてて、妻方の族長に命じて管理させたというような形

態は、ごく末期の、共同体変質期の形態である(しかし、妻屋だけは男がたてても、その妻子の生活

は、依然妻方の族に依存しているので、共同体の母系氏族原理はかわらない。これが父系母所制の段

階である)。

妻問別居式は、古墳期頃に右のような変質段階の共同体に基礎づけられて変質し、大化を画期と

して崩壊期に入るが、奈良頃までは、なお半壊れの共同体の上で息づいている。だから、ツマドヒと

いう婚姻語も『万葉集』まではみえる。その後はみえない。

ついでにいうと、平安から鎌倉にかけては、物語、歌謡、記録、文書等、あらゆる史料に、ムコト

リとか、その類語的婚姻語がみえており、室町からヨメトリ(ヨメイリ)の語がみえはじめる。婚姻

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語のこうした推移は、そのまま日本婚姻史の時代区分を示すものといってよい。このうちムコトリ

までが招婿婚であり、したがって、その存続の基底には、なんらかの形での原始共同体的原理の残存

が観察されねばならない。

モルガンがみたイロクォイ族や、台湾のアミ族や、前にみたスマトラのナン・カバウ族などの母系

族での招婿婚は、すでに婿取婚になっている。婿取婚は妻問婚が別居の通い式であるのにたいして、

通い先の妻方に夫が住みついて夫婦同居(まだ対偶婚の段階なので結合の度は弱いが)への第一歩を

踏み出した形態のものである。日本では、この段階で、妻家からの婿への労働力や経済力要請となる

が、逆に婿側からは妻家奪取となる事情等もみられる。中央貴族の源・平・藤・橘などが、地方の豪

族に好んで婿とられ、そのことを通じて子孫を植えつけたのもこの方式であるし、また庶民では、庄

園の有力百姓が、国衙領などに婿住みして子供を生むと、子供の代からその国衙領を庄園領内にとり

こんだりすることなどもありうる。

こうして婿取婚も、漸次変質していって、次の段階で、ぎゃくに女を夫家へ嫁取り釘づける家父長

婚形態へと推転するのである。

原始共同体における婚姻の諸形態は、あらまし以上のとおりであるが、これらを発展段階史的に

みるための資料は、あるいは日本だけにしかないのではなかろうか。未開地域の報告等のなかにも、

もちろん妻問式も婿取式もみえるが、史料としては、その大部分が断片的、孤立的なものであるのは、

そういうものの性質上、やむをえないことであろう。

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古事記に見えた妻問婚と父系母所制

『古事記』の婚姻例を一瞥して、すぐ気がつくことは、婿と妻族との親近関係である。これに反

して、嫁と夫族とのそれは、ほとんど一つもみられない。この現象は、単に『古事記』にかぎったこ

とでなく、他の古典がまたすべてそうなのである。これはひじょうに大きな意味をもっているので

あって、妻問婚時代―――ひいて全招婿婚時代の姿を、期せずして語っているものである。

大国主が根の国に妻問いしたとき、そこにはスセリ姫と、その父スサノオがいた。まずスセリ姫

が出迎え、許諾の目くばせをして、婚交をおわった後、家に入って父に告げると、父のスサノオが出

てきて、これは葦原のシコオという男だといい、よび入れて蛇室に寝かしたり、ムカデや蜂の室に入

れたりして、婿を試みるのを女が助けるという話が『古事記』にみえているが、ちょうど逆の説話が、

室町時代の『天稚彦物語』にみえている。女が男をもとめて天国に行くと、男の父がいて、飼牛の世

話や、穀運び等の重労働を課して嫁を試みるのを男が助けるというのである。前者では婿と妻族と

の関係=招婿婚があらわされ、後者では嫁と夫族との関係=嫁取婚が示されている。

そこで思うのであるが、もし後者の説話を、『古事記』に記したとしたら、おそらくは古事記時代

の読者には、それはエキゾチックな異国の説話にすぎないのではなかろうか。『古事記』にのってい

る具体的記事を伴った婚姻例(主して結婚のいとぐちのわかるもの)をあげると、

⑴ イザナギ=イザナミ

⑵ スサノオ=稲田姫(出雲のスガの稲田族)

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⑶ 大国主=八上姫(因幡の八上族)

⑷ 大国主=スセリ姫(根の国)

⑸ 大国主=ヌナカワ姫(越のヌナカワ族)

⑹ 天若日子=下照姫(出雲族)

⑺ ニニギ=吾田ツ姫(南九州の山ツミ吾田族)

⑻ ホホデミ=豊玉姫(北九州?の海ツミ豊玉族)

⑼ ニギハヤヒ=トミヤ姫(大和のトミ族)

⑽ 三輪神=セヤダタラ姫(三輪神話)

⑾ 神武=イスケヨリ姫(大和の三輪族)

⑿ 三輪神=活玉依姫(三輪神話)

⒀ 垂仁=丹波の兄姫・弟姫(丹波族)

⒁ ホムチワケ=ヒナガ姫(出雲国造族?)

⒂ 大ウス=美濃の兄姫・弟姫(美濃国造族)

⒃ ヤマトタケル=ミヤス姫(尾張国造族)

⒄ 応神=宮主矢河枝姫(山城の宇治族)

⒅ 応神

仁徳=髪長姫(日向国造族)

⒆ ヒボコ=ヒメコソ(出石神話)

⒇ 春山霞オトコ=出石オトメ(出石神話)

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21 仁徳=石ノ姫(葛城族、嫉妬説話)

22 仁徳=八田若郎女(母系宇治族)

23 仁徳=黒姫(吉備国造族)

24 ハヤブサワケ=メトリ王(母系宇治族)

25 軽太子=軽大郎女(同母兄妹婚)

26 雄略=若日下王(河内の日下、母系日向族)

27 シビ=大魚(大和のウダ族)

28 雄略=オト姫(大和の春日族)

他に、多くの系譜的記載や、垂仁=サホ姫、仲哀=神功等、婚姻中の例若干があるが、それらには

結婚成立をめぐる具体的記事がない。なお石ノ姫や大魚の例も厳密にいえばそうであるが、特殊説

話として掲げておく。

右の約三十例は、主として族長層の例であり、純妻問期(純母系社会)における基本的矛盾によっ

て推転した段階―――後にいう父系母所制段階―――を示すものである。時期でいうと、古墳期以後大

化前後にいたる妻問末期を反映した婚姻例であるとおもう。

純妻問期(純母系社会)における基本的矛盾は、各共同体間の経済力の不均衡、共同体内の族長

(とくに彦とよぶ男酋)と族員の対立にあったとおもわれるが、とくに前者では、有力共同体と弱小

共同体との間に、征服被征服的意味をもった擬制同族化同盟がもたれ、それがひいて「氏姓時代」と

よばれるヤマト大部族連合時代を結果したものらしい。

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この段階の征服被征服は、前にもいったように、わが国では共同体の破壊とはならず、それを温存

した擬制同族化の形でなされた。それが何ゆえであったかは、べつに究明されねばならない。私は

婚姻制の推移からみて、そうした観察をよぎなくされたのである。

有力共同体が弱小共同体を征服して、それを擬制同族化する方式には、武力も伴うが、それと同時

に、征平をコトムケ(言向け)、服属をマツロフ(祭る)というように、被征服者の共同体を破壊せ

ずに存続したまま、自己側の祭祀圏にくみいれる方式や、通婚圏(前にみたように原始社会では通

婚圏は同族圏であった)を、だいたんに拡大する方式―――つまり、『古事記』・『日本書紀』『風土記』

等の大国主、景行、ヤマトタケル、応神等の妻問諸説話などに反映しているように、大族の族長等の、

うちみる島のさきざき、かき見る磯のさきおちぬ遠近の同族異族にたいする妻問婚によって、さかん

に父系観念を育成し、各妻方に生まれた子を中心に、その一族を

いもづる

芋蔓式に擬制同族化し、あるいは同

盟氏族に、あるいは部民にする方式―――がとられたのである。

大化以前には、いわゆる同色婚等はなく、帰化人たると、部民たるを問わない自由婚の習慣があっ

たが(大化以後もこの伝統に圧倒された)、この習慣も、右の征服政策と通ずるもので、したがって、

とくに族長層に、その主動性がみられた。これに対して、平の族員同士の間では、むしろまだつよく

群婚さえのこっていた。

こうして、征服者側も被征服者側も、貫徹した革命的な展開をとりえないで、原始共同体(母系氏

族制)の原型を、歪めはしたが持ちつづけて、大化におよんだ。すなわち妻問婚の大化前後までの存

続の理由も、妻問婚の場としての共同体の、右の意味での存続の点にもとめられるのである。

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妻問婚の婚主は、第一次的には当事者たる男女なので、妻問の男は、まず直接女にたいして求婚す

る。それを女の背後にある女側の共同体が承認または否認する。この意味では、根本的婚主は共同

体であるといえる。共同体の代表者たる族長の意向が顧慮されるのは、このゆえである。

ニニギと吾田ツ姫(サクヤ姫)の例をみよう。そこでは型のとおり、まずニニギが吾田ツ姫に求婚

すると、吾田ツ姫が「

あ僕はえ

もう白

さじ。あが父大山津見ぞ

もう白

さむ」と答える。従来の学者たちは、ここ

に父権制下の婚姻例や家父長制をみたのであり、ひいて『古事記』に見えた女性のなかでの、もっと

も典型的な淑女を、この吾田ツ姫にみたのであった。

しかし、そういうはやまった判断のまえに、まず二つのことが考えられねばなるまい。第一に、こ

の婚姻例では、婿方の家父長が嫁方の家父長にたいして、媒介者を通じて求婚するというような方式

―――つまり、家父長婚方式がみられず、当人同士の直接的な交渉(これにはスセリ姫のばあいのよう

に、許諾や性交も伴いうる)が前提となっていること。第二に、根本的婚主(婚姻生活の主宰者)が

男側でなく、女側であること。この二つのことは、この婚姻が父権制下の婚姻―――つまり、婚姻の男

家支配制ではなくて、女家支配の母系型婚姻であることを、じゅうぶんに示しているとおもう。

古代中国の、納采、問名、納吉、納徴、請期、親迎からなる婚姻の六礼などをみると、そのどれを

とっても、男家の家長からの発動でないものはない。このばあい、女家は終始従属的立場におかれて

いる。また、当事者同士の交渉などはもってのほかで、すべて婚姻は男家の家父長と女家の家父長と

の取引によって決せられる。このようなのが父権制下の婚姻である。

ニニギと吾田ツ姫のばあいで、父権的にみえるのは、女の「父」の出現であるが、ただし、『日本

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書紀』では、「妾はこれ、天神、大山祇神を娶りて生める児なり」とあって、大山ツミは父ではなく、

母であることになっている。

『古事記』で父なのが、『日本書紀』で母となっている例はまだある。スサノオと稲田姫の条に、稲

田族の族長とおもわれる稲田宮主スガノ八ツ耳というのが、その婚姻の管理者であることがみえる

が、この管理者を『古事記』では、女の父で別名アシナツチという者となっており、『日本書紀』で

は、アシナツチ・テナツチの二人の老男女(複式族長か)の総称を稲田宮主とあり、『日本書紀』一

書では、稲田宮主スサノ八ツ耳というのは稲田姫の母だとある。

『古事記』で父とあるのが、他では母方の伯父らしい例もある。景行と吉備族のイナビ(イナミ)

姫の例がそれで、『古事記』では、女の父を吉備ツ彦とあるが、『播磨風土記』では、あるとき中央か

らワニ氏のヒコナテという役人が吉備の国に下ってきたとき、吉備彦・吉備姫の両人が出迎えたが、

その吉備姫をヒコナテが妻問うて、イナビ姫を生んだことになっている。だからイナビ姫の父はヒ

コナテであって、吉備彦ではない。たぶん吉備彦は母の兄で、母とともに吉備族の複式族長であろう。

もっとも、こういう男の族長のことを、一般族員がチまたはチチとよぶことはありうる。『古事記』

の応神条に、吉野の

くす

国主たちが、ヤマトの大族長たる応神をたたえて、「まろがチ」(われらのチチ)

と歌つたのがみえる。それにチチという語が、家族語となるのは、主として大化以後で、それまでは

父はカゾ(外来者?)とのみいわれていたらしいのであって、チやチチは、共同体の上級年齢層、ひ

いて男の族長や長老の呼び名であったらしい。ハやハハも同じで、上級年齢層の女たちをいい、実母

のことはとくにイロハ(親母)と呼びわけたのである。ついでにいうとイロチという呼称はない。

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また『古事記』で父とされているのが、別族であるらしいこともある。応神と山城の宇治族の宮主

矢河枝姫との婚姻例では、婚主として出てくるのは父と記され、その父は、ワニ氏のヒフレオミとさ

れているが(『日本書紀』も同じ)、ワニ氏のヒフレというのは、『古事記』・『日本書紀』の歴代にみえ

るワニ氏の族長称らしく、この族が大和の春日地方を本居としていることは、かくれもないことであ

る。けれども、その娘という宮主矢河枝姫は、応神の歌にも、「木幡の道であったお嬢さん」とある

ように、宇治の木幡へんに住んでいるらしく、その生んだ子に宇治のワキイラツコ、その妹の生んだ

子に宇治のワキイラツメがあり、『諸陵式』にはワキイラツコの宇治の墓というのもあるし、矢河枝

姫の族が山城の宇治族であろうことはうたがわれない。それに『旧事紀』によると、この姫はワニ氏

の女ではなく、物部氏の女で、物部印葉連の姉にあたるなどと記されている。そして『新撰姓氏録』

に、ワキイラツコとイラツメの名代であろうとされる宇治部、宇治部連、宇治宿禰等がみえるが、と

もに物部氏であると記されているのは、右の『旧事紀』の伝えを裏がきしているかのようである。こ

の山城の宇治氏は、郡司大小領として、平安期にかけての多くの文献にもみえる。とにかくワキイラ

ツコの母族が、この山城宇治の国造族であったろうことはまちがいない気がする。しかし、ワニ氏が

父系であったろうことも、うなずけそうである。イラツコの同母妹の八田皇女の矢田郷は、大和の春

日一帯の地域に属するらしく、父方への寄居でもあろうか。しかし、その名代として『新撰姓氏録』

に矢田部があるが、これは宇治部とおなじく、物部族であると記されている。

このように、父が母であったり、父が後代の実父の意味でなく母方の伯父らしかったり、父系の本

居が別の所にあったりして、まことにまぎらわしいが、それというのも、父系母所時代(系譜的には

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かなり父系が熟しているのに子の身柄はなお母族の共同体に釘づけられている段階=原始共同体の

変質化した段階)の必至的な複雑性からきたものであろう。

この父系母所制は、『古事記』時代の妻問婚段階で、もっとも注意すべきありかたの族態であり、そ

れは前の項にも景行、応神等の妻問い先の子孫についてのべたとおりで、その他、前掲婚姻例に伴う

諸子孫を追求してみても、この事情はよくわかるとおもう。

系観念にしても、『新撰姓氏録』における

はやと

隼人族のように、父系的には神別に属しながら、母族的

には蛮族として遇せられるといったようなことも、この段階で多くみられる。このばあい、父系は観

念的存在で、母族に生活の裏づけと、長い伝統の重みとがある。

天皇とても例外ではなく、宣長が『古事記伝』でみているように、歴代皇居と母族との関係には、

密接なものがあったらしく、「朕は蘇我氏の出身だ」という推古帝のようなかんがえかたも、その時

代では当然であったのである。その推古の皇居も蘇我氏に依存していた。

『古事記』には、系譜的記載が多いが、それは一見完全な父系系譜である。しかし、これを他の補

助資料とあわせて、組織的に研究してみると、いまいった父系母所制に由来している多くの奇異な記

法をみいだすであろう。

たとえば、『新撰姓氏録』冒頭の息長真人氏(近江族)は、応神天皇の衛となっているが、近江の

息長族は、応神以前からの大族で、応神は、この族の息長マワカ中ツ姫に妻問いして、フタマタ王を

生んだ、このフタマタ王が息長族のなかにいて息長公や息長真人の先祖となったというわけである。

だから息長氏の祖を応神天皇とするのは、中途からの招婿出自であって、はじめに先祖があり、その

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後に子孫たる氏族が生まれるというような正常な方式のものではこれはなく、氏族が先行し、その中

間で先祖があみだされたというような筆法のものなのである。

息長氏は大族なので、その共同体のなかに、応神の子孫のみではなく、ヤマトタケルの子孫や、開

化皇子ヒコマシの子孫など、数多くの異系を含んでいるが、そのように父系出自はそれぞれちがうが、

氏族名は母系を相続して、そのどれもが、息長氏をなのっているのである。『古事記』にみえる春日

族、カツラギ族(スガ、ソガ)など、大族はすべて息長族とおなじく、いくつかのちがった出自を包

容している。それは、それらの族中に、各方面から妻問いにきて、子孫をのこしたことを物語ってい

る。もっとも、卑族からの妻問いの場合は、その系は黙殺される。

大族のみではない。部つくりのさかんな時代なので、帰化族や部民も、固有の出自の上に、招婿

出自を加えており、それによって皇別神別化している族も多い。田辺史氏は帰化出自の族であるが、

上毛野氏の妻問いをうけたらしく、『新撰姓氏録』では二派にわかれており、一派は固有の帰化出自、

他は崇神天皇の裔だと記してある。そして大化後には、氏族制が崩壊し、氏族名の変更が容易となっ

たので、『

しょくにほんぎ

続日本紀』によると田辺をすてて上毛野公となり、上毛野朝臣ともなっている。

部民の皇別神別化も多い。私の調査によると、皇別神別の部民は、『新撰姓氏録』だけでも五十八

氏がみえ、その他、子、人のような卑姓の皇別神別出自もみえるが、これは畿内の少数者にかぎられ

た記録なので、全国的には無数であったろうとおもう。奥羽の大部民である丈部や君子部の類で、後

に阿倍朝臣や毛野朝臣などにかわったのも多い。

大化以後の文献には、母氏についた氏姓を父氏のそれに変えたいという申請も多く、その類と推

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定される賜姓記事が、私の調査では、二百五十九を数えるのである。これら父系母所制の時代を反映

する各種の系譜事情については、拙著『母系制の研究』を参照せられたい。

妻問婚末期の父系母所制は、その社会の基本的矛盾としての大族と小族、族長と族員、とくにデス

ポット化しつつある層と部民共同体との対立の激化によって収拾しがたい混乱におちいったが、『孝

徳紀』に、「父子の氏姓がちがい、兄弟の出自が異なり、夫婦が別居しているなど、一家五分六割で、

争競の訴訟が国にみち朝にみち、ついに天下がおさまらなくなり、争乱いよいよ烈しさを加えるよう

になったので、その解決策として、部民制を廃止して、公民制にかえることにした」とあるような氏

姓紛争も、その一つのあらわれであったろうとおもう。

部民制を廃止するということは、原始共同体の原理を破壊するということである。なぜなら、部

民制は、共同体原理のワクのなかで成立していたオヤコ式奴隷制であったからで、このワクがあるか

ぎり、同一共同体の者は、父系はちがっても同一氏族名(同一部名)に釘づけられていなければなら

なかったし、それをまた、部民制がおしかためていたわけである。

大化後は部民制廃止=公民の実質的部民化という方式によって、変質段階にあった原始共同体=

父系母所制が崩壊し、ひいて共同体を場としていた末期妻問婚も、この大化を画期として原理的には

終わったのである。姫

彦制について

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原始時代は、主として女性祭祀の時代である。この段階での祭祀は、前にもいったように原始共

同体と不離のもので、だから後代のように職業的神官によるものでなく、共同体の共同祭祀であり、

母系社会では一族の族母がこれにあたる。

ついでにいうと、古代ローマや中国等では、二千数百年前(あるいはもっと遠い以前)に、すでに

男性祭祀がみられたというが(家父長制祭祀から男性祭祀となる)、日本では、伊勢のい

つきのみや

斎宮、賀茂の

斎院、春日の斎女、八幡の

ねぎ

禰宜、それに八十島使や女使、内侍所の内侍等、古代期の国家機関にも、

女性祭祀がつよくのこり、これを排除する一つの力として仏教が移入されたが、その仏教も、開幕当

初は、尼僧によることを、むしろ適当としたらしくもあり、あらゆる大寺や国寺も、僧尼両寺の併置

を必要とした。

庶民のあいだでは、女性祭祀は一そう根づよく、氏々名々の小社が、長者家や大屋のお袋たちに

よって祭られ、室町前後の宮座の男性祭祀がこれにかわるまで、この原始的氏神(たぶんに母子神や

姫彦神祭祀を含む)祭祀は、綿々と存続した。農山漁村をしらべれば、いまも若干の遺制はみいださ

れよう。

『後法興院記』によると、近衛家等でも、歴代の嫡女が、「御霊所」または「奥御所」とよばれて、

同家の祀に奉社しているのがみられる。平安から室町への各家の「女房」制も、中国などの侍女制と

は、その性質を異にしており、女性祭祀の変形であるし、三月三日の

ひな雛

まつりも、よくみると女児に

神祭りを習わせた行事であった。

こうした女性祭祀は、日本女性の性格のうえに一種の神性―――清さ、明るさ、大らかさを培ったの

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ではなかろうか。それに、大化前代の原始共同体の神祭りには、「神がかり」とよばれる技術が移入

されており、それが共同体運営の指針となつていたので、それらをめぐつて、わが女性たちの性格に

は一種のみがきがかけられ、血縁愛の社会化といったような大きさもあった。

『古事記』時代の女性、たとえば愛児のために産屋を焼いたり、田制を定めたりしたサクヤ姫や、

人間の不信を怒って海路を断ちきった豊玉姫や、その他いろいろな御祖たち(イザナミ、アマテラ

ス、ヒメコソ、大国主や春山霞オトコの御祖たちなど)にみられる愛から生まれた大きな知恵や、ヌ

ナカワ姫の恋の答歌における明るい社交性や、

あめなるや、おとたなぼたのうながせる、たまのみすまる、みすまるの……み谷ふたわたらす、

あじしき高彦根

云々と、花のような演技でその兄高彦根の急場を救った下照姫の勇気など、これらは原始女性の強健

さのうえに、女性祭祀の太陽性的文化が加わってできた性格のあらわれでもあろう。

原始の女性祭祀は、こんにちでも、外海の孤島などにはあるいは多少はのこっているかもしれない。

とくに沖縄諸島などには、近い頃まで、そのままの姿がみられた。

沖縄の女性は、容姿もすぐれてうつくしく、心も鏡のように明るいという。また、肉身愛がつよ

く、旅に出る男たちのまわりには、彼女らの

せいれい

生霊がつきまとって、その平安を守るという「オナリ

神」(生き神)の信仰などもあるという。

原始日本の姫彦制祭治形態も、近い頃まで沖縄でみられたものにおなじい。沖縄のそれについて

は、拙著『女性の歴史』(上)にくわしく紹介してあるので、それを参照されたい。ここには、輪郭

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だけ書いてみよう。

沖縄の村は、明治頃まで土地共有の割替制であったが、

ネーガンダ

根神田という特定の田地だけは、

ネドコロ

根所の渡

領とされていた。根所というのは、村の大屋のことで、この大屋の嫡女を

ネーガン

根神といい、氏神の祭主で

あり、共同体における姫的女酋である。これにたいして、女酋の兄弟の一人をたててネ

ンチュー

根人といい、こ

れは彦的男酋で、実務の指導者である。沖縄の共同体ではこのように根神と根人とで姫彦の複式族

長制を形づくつていた。このことは、佐喜真興英『女人政治考』にもくわしい。

ついでにいうと、複式族長制は、南洋や古代中国の西境にもみられたらしい。イロクォイ族では、

軍部に複式がみられたという。『古事記』・『日本書紀』に、エシキ・オトシキ、エウカシ・オトウカ

シ、エクマ・オトクマなどの兄弟の軍酋がみえるのもこの類であろう。男女による複式は、クワガシ

ラとナベガシラのような分業的なものもあり、女が祭祀、男が実務というような沖縄や原始日本のよ

うな祭治制における複式もある。

沖縄では根の共同体に前記のネーガンとネンチュー、共同体の連合体であるグスクにノロとアジ、

グスクの連合体である三山(首里の三つの岳)に大アムシラレ(大きな母治者)と男酋、さらにそれ

らの大連合体としての中央にキコエ大君と王があって、沖縄の全祭治圏が、こうした複式姫彦制に

よって運営されていたのである。

神歌オモロは、このような雄大な祭治社会の所産であって、キコエ大君の徳性や、勇敢なノロたち

の出陣などが謳歌されている。わがアマテラスの徳性や、息長タラシ姫の出陣伝説なども、これにあ

たろう。

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姫彦は族員の男女、主として姉弟、兄妹のコンビでなりたつ。物部氏の石上神宮伝説に、イカガシ

コメとその弟イカガシコオとが、最初の祭司であったと記されている類である(『旧事紀』)。

『古事記』・『日本書紀』をみると、数多くの兄妹のなかに、とくに一対の対称、たとえば景行の子

女で美濃族のイホキイリ姫とその兄イホキイリヒコ、前にみた宇治のワキイラツメとその兄ワキイ

ラツコのような例がたくさんあるが、こういう記事は注意されねばならない。

神武の東遷伝説に、豊の国の宇佐で、宇佐ツ姫と宇佐ツ彦(宇佐国造の祖)の二人が出迎えたとあ

るが、その時宇佐ツ姫は中臣種子の妻となって、子どもを生んだ。その子どもを宇佐ツ臣というとあ

る。これをみても、この二人が夫婦でなく、一族の代表者たる複式族長であることがわかろう。前

にみた『播磨風土記』の吉備族の吉備姫・吉備彦も夫婦ではなく、一族の代表者として、ヤマトから

くだった役人ヒコナテを、二人で出迎えている。姫彦が二人で客を迎えたり、領土内を巡行してい

る記事は、さがせばいくらでも出てこよう。『景行紀』の阿蘇ツ姫と阿蘇ツ彦もそうであるが、これ

らを後人が、ただちに夫婦であると断ずるのは誤っている。もっとも姫彦制末期には、夫婦の姫彦

が出てくるので、いちがいにはいえないが、しかし、それは主としてヤマト朝廷のばあいで、民間で

は、兄妹姫彦や長者と族女の姫彦方式が、依然として存続する。また、ヤマト朝廷の場合でも、夫婦

は内実のことで、やはり異母の兄妹か、同族の男女であることが表面的には唯一の条件とされている

のである。

わが姫彦制は、沖縄とおなじように、氏神の森や、大屋の祭壇を中心に、共同体運営の役目をもっ

て開始された。国造の祭治も姫彦式であった。『古事記』・『日本書紀』『風土記』には、たとえば紀の

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国造荒河トベ、因幡国造アラサカ姫、播磨国造石坂姫等がみえるが、これは国造における姫であろう。

姫といっても、後代のミコの類ではなく、族長であるから、沖縄の根神が耕地の割替等をも主宰する

ように、開墾の指導をしたり、国境を定めたり、戦争をしたりするものが『風土記』等でもみられる。

この種の女酋は、九州へんの特殊事情だと、従来の学者たちはいったが、そうでなく、丹波や播磨の

ような原始日本での一等地にもみられ、『倭姫命世記』によると伊勢にも多い。これらは主として国

造や氏の上の姫彦制による現象であろう。この俗は、大化以後も遺制として存在したらしく、たとえ

ば諸国の旧国造族から朝廷に采女を出すが、その采女が任をおえて帰国するとき、それぞれの国の国

造に補せられることが『続日本紀』等にみられる。

伴造もそうで、たとえば酒の伴では、酒ミズメと酒ミズコの複式がみられた。鍛冶や石工の祖に

女名がみられたりするのも姫であろう。子代や名代、ひいて各氏の子部や名部等、オヤコ式部民制は、

もと族長層が共同体の斎倉をわ

たくし

私したことから案出されたものらしく、したがって、ここでも祭治制が

設定される。たとえば、日下部の大部民が、クサカ姫(若日下)とクサカ彦(大日下)の兄妹の複式

を奉じて、その母族の日向族のなかに建てられたように、ここにも姫彦がみられる。ワキイラツメ・

イラツコの宇治部、イホキイリ姫・イリ彦の五百木部もそうであろう。

ヤマト大連合政府でも有名なヒミコとその弟(『魏志』)のように姫彦祭治がみえているが、古墳期

頃―――いわゆる五王時代に入ると、沖縄のそれとはちがった変質姫彦制が登場する。

ヤマトの部族大連合は、私のかんがえでは、各共同体の族長たちが、各自のカマド(または炉)の

火を持ちより、それを合わせて永遠に燃え立つ

たいまつ

炬火を観念したトヨノアカリをめぐってなりたって

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いたとおもうが、この聖火は連合の象徴であり、その代々の護持者をアマツヒツギといった。そのア

マツヒツギのうち、聖火に直接奉仕したのはヤマト姫で、それを助けたのがヤマト彦(ヤマト根子)

であった。この二人はタラシ姫・タラシ彦ともいったらしい。のちに聖火は日像―――鏡に象徴され

た。キコエ大君が、火の神の転化した日の神に仕えたように、ヤマト姫も日の神に仕えた。日と母祖

(大ヒルメ)とが結合された。ここに、日祭りの意識がつよまったが、これは農作の発達や、族長の

世襲化(ヒツギや日の子としての)とも関連するものらしい。

アマツヒツギ(天火の番人)は、ヒミコの頃までは、選挙制であったらしいが、いつの頃からか世

襲化した。また、廻り祭り式から、神社祭祀に固定した。伝説によると、その頃ヤマト姫が日像を護

持して、彦と別れて伊勢に移った。ヤマトの姫彦が分離した。しかし、ヤマトには、模造の日像と擬

制姫がおかれる。擬制姫をキサキ(日前)といった。従来の姫彦は、兄妹、従兄妹、姨甥、まれには

母子、父娘であったらしいが、ここにきて、キサキは内実においては彦の配偶者となった。しかし、

あくまでキサキ(日前)であることが本質であるから父系の近親などのなかから姫彦がえらばれた。

父系であれば婚姻ができたから。

ヤマトにおける擬制姫と彦との地位はかつての姫彦的純母系祭治制から逆転した。彦は擬制姫の

上位に位置したし、族長相続も父系化した。いわゆる父系母所制の時代となった。

前にもみたように、彦は各地に妻問いし、各地に子等を生んだ。子等はとうぜん母所で育った。ヒ

ツギノミコ(太子)が一人でなく、同時に数人みられることは、この母所制の時代における各母族の

要求によるものであろう。

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彦の妻が完全にキサキとして、宮中の大屋に彦と同居したのは、仁徳頃からのようである(とは

いっても、釘付け同居ではなく、自族を本居とし、子等は自族で生み育て、死ねば自族の墓地に葬ら

れる。この招婿婚的原則は大化以後も引きつづきみられる。それは平安頃の物語や記録にもくわし

い。家父長制の夫方同居とはちがう)。それまでは、ヤマトタケルの母のイナビ姫も、イホキイリヒ

コの母の八坂姫も、イナビや八坂にいて、自族の姫であったらしい。ワキイラツコの母も、宮主と記

されている。宮主とは姫のことである。ヤマトタケルの妻をミヤスというのもおなじい。キサキ伝

説で典型的なのは、息長タラシ姫であるが、しかし、この伝説にも同伴のことはみえるが、同居の徴

証はない。

仁徳のキサキ石ノ姫にいたって同居が実現したことは、嫉妬説話でうかがわれる。この頃ヤマト

の祭治制は、つよく集権化され、各地の国造の娘たちも、采女(童女=祭女)として宮中に入り、キ

サキにひきいられて、大部族連合体の共同祭祀の形態をととのえたが、これらの祭女たちも、キサキ

の配偶者化と同時に、天皇の妾となった。

仁徳のキサキ石ノ姫が、吉備の黒姫を嫉んで、陸から追い下したことは、『古事記』にくわしい。石

ノ姫の歌に、

衣こそ二重もよき小夜床をならべる君は畏きろかも

二妻に床をならべさせる君は恐ろしいというのであろう。八田皇女のことでは、キサキがトヨノ

アカリの柏葉を採りに(トヨノアカリでは氏々名々の男女の会食をキサキが主宰する)熊野の岬に

行ったとき、船でうわさをきいて怒り、そのまま難波の大津を通りぬけ、一気に淀川をのぼり、山城

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の筒木の宮に入って、その宮で逝去したと『日本書紀』にはみえる。

キサキの段階では、もうヒミコほどの霊力はなかったが、それにしても、人民の女性祭祀への信仰

はまだつよかった。神功の伝説は、それを示している。後に斉明天皇が、年齢すでに三十歳の太子中

ノ大兄もあるのに、わざわざ復位して、シラギ征討の軍をひきいて出陣したのも、おなじ信仰の要請

からであったろう。

キサキは擬制の姫ではあったが、やはり彦とともに、祭治制での複式族長であったので、彦が死ぬ

と、のこったキサキが当座的にか、または第一次的順位において、族長権を行使したらしい。欽明の

『即位前紀』に、「宣化崩時、欽明群臣に令して、余は幼年、識浅く、政治にくらい。山田皇后は百政

に通じていられる。よろしく山田皇后に就くべきだ。云々」とある。このとき山田皇后=先々代の

安閑皇后(仁賢女)がひきつづき姫位にあって、か

しこどころ

賢所を司祭していたのであろう。当然国政に対して

も責任があったのである。

こうした姫的族長で、後の記者によつて、天皇と書かれているものもある。

いきなが

息長タラシ姫天皇はい

うまでもないが、ツヌサシの宮に天の下知らしし飯豊青天皇もそうである。喜田貞吉のヤマト姫=

中皇命(中ツスメラミコト)説もきくべきであろう。

七世紀から、古代天皇制国家がはじまったが、この男権国家の冒頭に、奇異なことに、女帝推古を

はじめ、奈良朝にかけて八女帝が

いしゅう

蝟集している。それはその期間の男帝八(弘文をのぞく)と同数で

ある。弘文を入れるならば、その前に推された天智のキサキ(舒明の孫)ヤマト姫をも考えねばなら

ないので、そうすれば、やはり同数である。これは男女帝の交立を物語る現象といえよう。そしてこ

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れは、ヤマト大連合政府の祭治制がほろび、従来の複式族長制が、天皇制政治国家の一君主方式へと

移る過渡期に、一挙に姫を廃しえず、姫彦交立の一期間をもつべくよぎなくされた事実を、示してい

るとおもう。

すなわち、原始時代の姫彦制の伝統は、変質に変質を重ねて、この古代天皇制国家冒頭の女帝列立

の現象において、終焉の姿を示したのであろう。これと前後して、神前奉仕のことも、キサキから内

侍にうつり、皇后は多く皇族でなくなり(従来のキサキの第一条件は天皇と同族つまり皇族であるこ

とにあった)、文字どおり天皇の配偶専門となって祭祀者の実をうしない、かくて奈良期を最後とし

て、この姫彦制伝統をひく女帝的現象も消滅した。

妻問多妻婚の問題性

『古事記』にみえる多妻は、主として妻問多妻であり、族長層による雄大な遠方異族婚が多い。ニ

ニギの挺身的妻問の対象は、国ツ神と記されている

はやと

隼人族の娘であったし、ホホギミのそれは、ワニ

の化身とされる漁民部落の女酋であった。大国主にあっては、『日本書紀』や『風土記』とあわせて

みると、いわゆる「打ち見る島のさきざき、かき見る磯のさきおちず」というように、その妻問いの

対象も件数も無限大であって、妻方にある子等の総数は、百八十一とされている。それはいうまでも

なく、景行の七十余子などとともに、子等の実数ではなくて、子等によって標示される妻方部族の象

徴化であろう。いずれにしても、妻問婚による通婚圏=擬制同族圏の拡大化を示す神話伝説であるこ

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とはまちがいない。

この種の通婚政策=擬制同族化政策が、父系観念の育成に役立ったことや、また逆に父系観念を

足場としてのみそれらが可能であったことについては前にも述べたとおりである。だから、大族長

たちは妻問い先の妻方の共同体のなかに宮殿と称する妻屋を建てて妻子をこめておく。そして、そ

うした形で自己の系=父系を、その妻屋の子らのなかに浸透させ、背後の妻族にも及ぼす。原始共同

体の変質化は、そうした父系的妻屋に胎生したのである。

スサノオの「八雲たつ」の歌や、妻の親たちを妻屋のオビトに任じたというような神話には、大族

の族長が小族の妻方を、妻問婚を利用して服属させている姿がうかがわれる。

夫による妻屋独占のこういう段階で、スセリ姫の「吾はもよ女にしあれば」の語が生まれるわけで

ある。くりかえしていえば、有力共同体が弱小共同体を擬制同族化の線で征服するばあい、その擬制

同族化は、妻問婚の所生への父系的把握によって可能なのである。

そして父系は女性の貞操の独占なしには成立しないので妻屋の独占となり、さらに妻自身の貞操

観を制圧することが必至的条件ともなるのである。かくて父系社会はその萌芽期から女性の性の自

由―――ひいてその他のあらゆる自由を拘束せねぼならない宿命をもって発足する。吾田ツ姫(サク

ヤ姫)が一夜ではらんだというのでニニギが疑ったという『古事記』の神話は、この父系的宿命の初

歩的段階の反映である。

しかし、妻問段階では、まだ妻子の生活の根拠は、妻方母方の共同体にあるのであって夫や父には

扶養の義務がない。大国主が越のヌナカワ女酋や、筑紫の宗像女神や、因幡の八上姫を妻としたばあ

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い、それらの独立的妻問多妻群は、夫に依存する後代の蓄妾群とは、根本的に性質を異にしている。

そこには、仲哀への

じんぐう

神功の平等な、あるいは優秀な立場での協力や、仁徳への石ノ姫の明朗なつよい

愛と、その当然の権利の主張とがありうる。

また妻間多妻婚は、群婚(多妻多夫)からの偏向たる多妻形態と妻間婚との併合した婚姻形態であ

るから、その反面には、妻の多夫への自由も存続しており、スサノオも、大国主も、仁徳も、妻のそ

ういう自由にたいして、死刑をもって君臨するような権力は、まだなかなかもちえない。そういう絶

対的権力は、室町以後の家父長制社会によって、はじめて実現する。

族長層の妻問多妻婚にたいして、平の族員や部民たちは、まだ群婚から対偶婚(妻問式)への過渡

期に停滞していたらしい。山場や市場での歌垣行事は、これらのひとびとによって、支えられていた

のであろう。いずれにしても、こうした群婚事情や、それからの個別的対偶婚への動きが、主として

この時期の庶民層のなかで、具体的にとらえられることは、日本婚姻史上に重大な意義をもつもの

といえる。『孝徳紀』に、独身の女が結婚するとき、つぐないの物品を出させて

ふつじょ

祓除させる記事がみ

えるが、ここには群婚意識がまだつよく、そこから脱け出て個別的対偶婚に移る男女にたいし、一

定のし

ょくざい

贖罪を課している事情がうかがわれる。こういう群婚的抑圧のなかから、つよく個別婚へとこ

ころざす男女両者には、その純愛を強化する自主的誓い合いが必要であった。ここに男女の「紐結

び」(占め合い)の俗が生まれた。この俗の上限はわからないが、下限は奈良頃までを範囲とするも

ので、『万葉集』には、この俗をめぐる歌が多くみられる。この俗は族長層にも若干は遺っているよ

うで、『古事記』ではサホ姫の条にみられる。しかし、族長層は、階級的意志としての妻問多妻へと、

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自己の俗を急速に庶民から引き離しつつあった。

妻問多妻は、主として古墳期頃以後の父系母所制や、原始共同体の変質過程に照応する族長層の婚

姻形態であった。それはいくどもいうように、父系=父権が、その冒頭に、母系婚たる妻問婚や、さ

らにそれ以前の群婚からの偏向形態たる多妻形態を利用することによって、自己の勢力の拡大化を

はかる意味のものであり、また階級分裂の危機(前にいった氏姓の紛乱などもそのあらわれの一つ)

を乗り越えて、大族長のデスポット化が行なわれていく事情の婚姻形態への反映でもあった(デス

ポット制は、全国民の擬制同族化の上にそびえる)。

私は、この古事記時代の族長層による妻間多妻婚期を、後の室町末の戦国時代における政略婚の

それとともに、日本婚姻史における二大政略婚期であるとみている。前者は、父系=父権がその萌芽

期に母系婚を利用しての政略婚であり、後者は、父系=父権がその完成期に父系婚たる嫁取婚によっ

て行なった政略婚である。

『古事記』に見えた婚姻は妻問婚であり、そしてそれは主体的には族長層による妻問多妻婚であっ

たといえる。つまり『古事記』という文献には、こうして族長婚姻のみが謳歌的に書きとめられてい

るという結論になる。したがって、それに伴ってみえている女性生活も、意識的には、そういう動き

に協力した従順なものとして書かれていることはあらそわれないが、史眼によってみれば、その底に

は、そういう動きに抗する力としての女性生活や、または自己の原始的威力をあらゆる形に誇示して

いる面もみえる。それはこの稿の随所でうかがわれよう。

付記 私はこの稿と同時に、『国文学解釈と鑑賞』特集「万葉人の生活・社会・言語」(昭和三十

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一年十月号)に、「婚姻―――母系制の問題―――」をかいたが、それはこの稿を補うものを若

干ふくんでいる。もし併読していただけたらさいわいである。

(一九五六年)

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•「古事記―――妻問時代の女性生活」(『高群逸枝全集』第七巻「評論集・恋愛創生」、理論社、一

九六九年九月、第二刷)所収。

読みやすさのために新仮名遣いによる振り仮名を付加した。

•PDF

化にはL AT

EX2ε

でタイプセッティングを行い、d

vipdfm

x

を使用した。

科学の古典文献の電子図書館「科学図書館」

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/scilib.html

「科学図書館」に新しく収録した文献の案内 「科学図書館掲示板」

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