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− − 連載の第4回ではいよいよ、ユーラシア・アフ リカだけでなく文字通り地球規模での世界史(グ ローバル・ヒストリー)が開幕を告げ、それをし だいに支配してゆくところの「近代世界システム」 が出現した、大航海時代をあつかう。『タペスト リー』28〜35ページの大きな地図を広げながら お読みいただきたい。大航海時代の具体的な経過 はよく知られているので、今回は経過のおさらい よりも、この時代を理解する視角や注意点などに 重点をおいて解説したい。 大航海時代と近代世界システムの成立 最初の問題は、ヨーロッパの内部発展と世界進 出の関係をどう理解するかである。 近代科学は一般に、物質界なら原子、人間社会 なら個人など「それ以上分けられない最小の単位」 がまず存在し、それが結びついて物質や社会がで きあがる、という順番でものを考えてきた。とこ ろが原子をどんどん分解して素粒子の世界に入っ ていったら、最後に「強い力」「弱い力」「電磁 気力」「重力」の「4つの力」という物質ではな いものが残り、「最小の物質がまず存在する」と いう観念は崩れてしまった。社会科学でも同様に、 最初に「個」があって次に集団が成立するのでな く、「個」は他者との「関係」や「力」の中でし か成立しないことが認識されてきた。 世界(国際社会)を考える際に、原子や個人に 当たる最小単位として考えられてきたのが、国家 と民族である。世界システム論や、そのヒントと なったブローデルの「地中海世界」論は、そこを 変えようとした。つまり、ある「世界」の構造や 状況こそ独立変数であると考え、その中での個々 の国家や集団の動きをむしろ従属変数ととらえる のである。西欧の近代化とりわけ資本主義化は、 どれかの国の内部発展が周辺に波及しておこった のではない。それは世界進出の結果として出現し たところの、西欧を中心(中核)としラテン = メリカや東欧を周辺(辺境)とする大規模な分業 システムつまり「ヨーロッパ世界経済」(=近代 世界システム)がもたらした出来事だった。では その世界進出はなぜ起こったか。それは、14世 紀以来の危機を領土拡大によって乗り切ろうとす る(別に近代的でない)ヨーロッパ世界全体の動 きが、いろいろな偶然が重なって成功したものと 理解される。 ただし、現代ラテン = アメリカやアフリカの出 口のない悲惨さを説明するために考案された「従 属理論」を下敷きにしているため、ウオーラー ステインの理論では、いったん「周辺」にされた 地域は一方的に低開発化するしかない。その点が、 結局第三世界の発展可能性を否定しヨーロッパの 優位を強調する新手のヨーロッパ中心史観だとい う批判にさらされる。「中心」と「周辺」の関係 がもつ可変性にも注意すべきだろう。 ヨーロッパ人の限界とアジア史 第二の問題は、16〜17世紀ヨーロッパの世界進 出を19世紀以降の世界支配と直結して、「進んだ ヨーロッパ諸国が着々と植民地を広げた」などと 理解してはいけないことである。 ヨーロッパ人はもともと生活水準が低いために (!)ハングリー精神があり、しかも相互の戦争 のために銃砲など軍事力を発展させ、その力で征 服したラテン = アメリカで悪逆非道な搾取をした。 貧しく野蛮で戦争だけ強く掠奪を繰り返す、遊牧 民などよりはるかに恐ろしい集団が、ヨーロッパ 人だった。ところがアジアでは、ごく一部を除け ば進出先に強力な国家が存在したため、そんなや 連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第4回 大航海時代とその帰結 大阪大学教授 桃 木 至 朗

大航海時代とその帰結 - 帝国書院...り方は通用しない。 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

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Page 1: 大航海時代とその帰結 - 帝国書院...り方は通用しない。 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

− � −

 連載の第4回ではいよいよ、ユーラシア・アフ

リカだけでなく文字通り地球規模での世界史(グ

ローバル・ヒストリー)が開幕を告げ、それをし

だいに支配してゆくところの「近代世界システム」

が出現した、大航海時代をあつかう。『タペスト

リー』28〜35ページの大きな地図を広げながら

お読みいただきたい。大航海時代の具体的な経過

はよく知られているので、今回は経過のおさらい

よりも、この時代を理解する視角や注意点などに

重点をおいて解説したい。

大航海時代と近代世界システムの成立 最初の問題は、ヨーロッパの内部発展と世界進

出の関係をどう理解するかである。

 近代科学は一般に、物質界なら原子、人間社会

なら個人など「それ以上分けられない最小の単位」

がまず存在し、それが結びついて物質や社会がで

きあがる、という順番でものを考えてきた。とこ

ろが原子をどんどん分解して素粒子の世界に入っ

ていったら、最後に「強い力」「弱い力」「電磁

気力」「重力」の「4つの力」という物質ではな

いものが残り、「最小の物質がまず存在する」と

いう観念は崩れてしまった。社会科学でも同様に、

最初に「個」があって次に集団が成立するのでな

く、「個」は他者との「関係」や「力」の中でし

か成立しないことが認識されてきた。

 世界(国際社会)を考える際に、原子や個人に

当たる最小単位として考えられてきたのが、国家

と民族である。世界システム論や、そのヒントと

なったブローデルの「地中海世界」論は、そこを

変えようとした。つまり、ある「世界」の構造や

状況こそ独立変数であると考え、その中での個々

の国家や集団の動きをむしろ従属変数ととらえる

のである。西欧の近代化とりわけ資本主義化は、

どれかの国の内部発展が周辺に波及しておこった

のではない。それは世界進出の結果として出現し

たところの、西欧を中心(中核)としラテン= ア

メリカや東欧を周辺(辺境)とする大規模な分業

システムつまり「ヨーロッパ世界経済」(=近代

世界システム)がもたらした出来事だった。では

その世界進出はなぜ起こったか。それは、14世

紀以来の危機を領土拡大によって乗り切ろうとす

る(別に近代的でない)ヨーロッパ世界全体の動

きが、いろいろな偶然が重なって成功したものと

理解される。

 ただし、現代ラテン = アメリカやアフリカの出

口のない悲惨さを説明するために考案された「従

属理論」を下敷きにしているため、ウオーラー

ステインの理論では、いったん「周辺」にされた

地域は一方的に低開発化するしかない。その点が、

結局第三世界の発展可能性を否定しヨーロッパの

優位を強調する新手のヨーロッパ中心史観だとい

う批判にさらされる。「中心」と「周辺」の関係

がもつ可変性にも注意すべきだろう。

ヨーロッパ人の限界とアジア史第二の問題は、16〜17世紀ヨーロッパの世界進

出を19世紀以降の世界支配と直結して、「進んだ

ヨーロッパ諸国が着々と植民地を広げた」などと

理解してはいけないことである。

 ヨーロッパ人はもともと生活水準が低いために

(!)ハングリー精神があり、しかも相互の戦争

のために銃砲など軍事力を発展させ、その力で征

服したラテン = アメリカで悪逆非道な搾取をした。

貧しく野蛮で戦争だけ強く掠奪を繰り返す、遊牧

民などよりはるかに恐ろしい集団が、ヨーロッパ

人だった。ところがアジアでは、ごく一部を除け

ば進出先に強力な国家が存在したため、そんなや

連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第4回

大航海時代とその帰結

  大阪大学教授 桃 木 至 朗

Page 2: 大航海時代とその帰結 - 帝国書院...り方は通用しない。 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

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り方は通用しない。

 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海

上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

現以前から存在した(モンゴル時代の評価は議論

があるが、15世紀は間違いない)。ヨーロッパ人

はその豊かさに引き寄せられて参入したものであ

る。ヨーロッパ人の参入で貿易はますます活性化

したが、主役はあくまで中国人・日本人商人やム

スリム商人などアジアの人々だった。ヨーロッパ

人が来なければ「自給自足経済」のアジアに大航

海時代は来なかったなどと考えるのは、話になら

ない誤解だ。

 なお、ウオーラーステインのいう「世界」は元

来、前近代の「世界帝国」なども含む「地域世界」

のことであり、のちに全世界を支配する「近代世

界システム」も、当初は西欧・東欧とラテン = アメ

リカ以外の諸地域を―活発な貿易関係はあって

も―含まなかったと、正しく理解している。

 もっとも、ウオーラーステインが、近代世界シ

ステム以外(以前)には、ひとつの世界帝国の範

囲を超えた分業構造(世界経済)が安定的に存続

することはなかったと主張した点は、近現代を扱

う研究者にありがちな、前近代を近代と無縁の低

レベルな時代と決めつける態度だといわざるをえ

ない。実際、近代世界システムほど緊密ではない

にせよ、超国家的な相互依存・分業システムは歴

史上でしばしば出現したのであり、とくにモンゴ

ル時代以降には、前回紹介したアブー = ルゴドの

「13世紀世界システム」とか、近世の東・東南ア

ジア貿易圏のように高度に発達するものも現れた。

 さて、これだけだと、よくある「ヨーロッパ中

心史観に反発するあまり、その裏返しの無理なア

ジア優越史観を絶叫する」パターンに終わる。大

航海時代以降のヨーロッパ人が急速な進歩を遂げ

たことは認めねばならない。まず重商主義だ。重

商主義はアジアでは、軍事的に困難だしコストも

大きい無理な征服戦争などせず、可能な拠点は占

拠するが基本は商売におく、商売のためなら日光

東照宮参拝や朝貢国扱いなどの屈辱もいとわず徐

徐に勢力を拡大する、という合理的な路線をとっ

た。その代表が「近代世界システム最初の覇権国

家」ともいわれるオランダであり、その東インド

会社であった(明治以来のイギリス中心史観を捨

て、17世紀にはオランダがイギリスよりはるか

に強大で進んでいた事実を正視すべきである)。

 もう1点、アジア社会を大きく変えるメキシコ

銀と「新大陸」原産の作物、それに梅毒などの病

気を、ヨーロッパ人が持ち込んだ点も忘れてはな

らない。近代世界システムからはまだ自立してい

たとはいえ、大航海時代のアジアはヨーロッパ人

の活動を通じて、グローバルな世界史には組み込

まれていたのである。

アメリカからの貴金属

アジアからの香料

バルト海からの穀物

309.4 136.8 87.5

 西ヨーロッパの輸入(1600年)(年平均トン)〈『朝日百科世界の歴 史67商品と物価』〉

丁子

ナツメグ香木  

こしょう

1510~ポルトガルの拠点

ポルトガル人砲兵により強大化。

種子島でポルトガル人より鉄砲伝来。

1557~ポルトガルの拠点

1571~スペインの拠点

アルタン=ハン時代のタタルの最大勢力範囲

1518~1656ポルトガル領

1513 バルボア太平洋に到達

1519~21アステカ滅亡

1545年 スペイン人が発見。多量の銀がヨーロッパにもたらされる。

1532~33インカ滅亡

1511~1641ポルトガル領

トルデシリャス条約境界線

サラゴサ条約による境界線

0°60° 30°

30°

90°

90°

120°

150°

150°

60° 90°

90°

30°

30°

120° 150°

150°

60°

30°

30°

30°

30°

60°

60°60°120°120°

西

ピシシミ

カリブ海

黒 海

チャド湖

イ  ン ド 洋川

ガンジス川

川ンコメ

ナイル

ーェジ

ゴコン

マゼラン海峡

フランス

イギリス

サカテカス銀山(1546発見)

フロリダ半島

サンサルバドル島

キューバ

ポトシ銀山(1545発見)

喜望峰

マダガスカル島

チベット

カシュガル

女真

シ   ベ   リ   ア

モルッカ諸島

フィリピン諸島

モルッカ諸島

アゾレス諸島

ベニン王国

コンゴ王国

ソンガイ王国

ヴェルデ岬諸島

オスマン帝国

ロシア帝国

ムガル帝国

サファヴィー朝

タタル(韃靼)

朝鮮 日本

大越

トゥングー朝

ロンドン神聖ローマ帝国

(1494年

(1493年

(1529年)

教皇子午線

ペルー副王領

ブラジル

ヌエバエスパーニャ副王領

スペインポルトガル

フランス

イギリス

スウェーデン

アユタヤ朝フィリピン諸島

ブハラ=ハン国

ヒヴァ=ハン国

ソコトラ

サントメフェルナンドポー

アルギン島

カナリア諸島 西インド諸島

マデイラ諸島

ブラジルへ

タスマニア島

アスンシオン

クスコ

ラパス

ブエノスアイレスサンティアゴ

ペルナンプーゴ

サンルイ

バイアリマ

キト

ボゴタ

パナマカラカス

カルタヘナ

サントドミンゴトルヒーヨアカプルコ

メキシコ

グアテマラ

ベラクルス

メリダハバナ

ソファラ

ザンジバルモンバサ

マリンディ

モガディシュ

トンブクトゥ

アルジェ チュニス

トリポリ

マドリードセビーリャリスボン

パリ

ジェノヴァ

ヴェネツィア

アントウェルペン

ウィーン

ワルシャワアムステルダム

モスクワ

イスタンブル

キエフ

カイロ ホルムズ

アデン

マッサワ

ジッダ メッカ

バスラ イスファハーン

アレッポ

デリーラサ

カーブル

ビシュバリク

ディウ

ゴア

カリカット

コロンボ アチェ

マラッカ

パタニブルネイ

マニラ

マカオ

西安

寧波

福州

安土

広州

平戸南京

北京

開原フフホト

アストラハン

カザン

トボリスクチュメニ

モザンビーク

マスカット

コーチン

サントメ

モルディブ

バンテン ドゥマク

ディリ

テルナテティドーレ

スールー

サンミゲル

ジョホール

ルアンダ

サンジョルジェ

カシュウ

セウタ

A B

B

C

C

D

D

E

E

F

F

G

G

H

H

I

I

J

J

K

K

L

L

1

1

2

2

33

44

55

ポルトガル領   拠点都市  島スペイン領    拠点都市  島イスラーム拠点都市   島モルッカ諸島へ向かうポルトガルの航路ポルトガルの奴隷貿易モルッカ諸島へ向かうムスリム商人のおもな航路スペインの護送船団の航路ヨーロッパ沿岸のおもな航路海禁解除後の中国商人の海上貿易ポルトガルの砂糖栽培地オスマン帝国とヨーロッパ勢力の海戦ドレークのスペイン船襲撃地オスマン帝国に服する海賊のおもな出没地

アルタン=ハン,チベット仏教指導者にダライ=ラマの称号を贈る。モンゴル一帯にチベット仏教広がる。

トルデシリャス条約1494ポルトガルとスペインが,ローマ教皇の仲介でとりきめた,世界の支配権を二分する条約。

教皇子午線1493コロンブスのアメリカ大陸発見後,教皇が提示したスペインとポルトガルの支配領域の境界線。しかしポルトガルは不服。

サラゴサ条約1529スペインとポルトガルの条約。スペインがモルッカ諸島をポルトガルに売却。

ポタラ宮殿

16世紀ころの世界16世紀ころの世界

最新世界史図世説タペストリー 五訂版 p.30〜31

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17世紀の危機とそれぞれの18世紀 ヨーロッパが近代に入るのに対し、アジア諸国

は大航海時代以降も中世のままにとどまり、近代

化に乗り遅れた、という考えが以前はよく聞かれ

た。しかし最近では、①国・地域ごとにバラバラ

な発展でなく、大航海時代以降はグローバルな動

きそのものを時代区分の基準と見る、②ヨーロッ

パだけが発展していたのでなく、他の地域も独自

の成熟・発展を遂げていたことに着目する、とい

う2つの理由から、15、16世紀以降の世界(論

者によってはモンゴル時代以降)をまとめて「近

世」(英語ではEarly Modern=初期近代)と呼

ぶことが一般化してきた。工業化や国民国家など

で特徴づけられる「狭義の近代」には至っていな

いが、その準備が進んだ時代というわけである。

 この、世界史の一段階としての「近世」は、通

常2つの時期に区分される。前半は要するに大航

海時代で、海上貿易と銀流通が牽引車となって世

界的な好況が続いた時代である。しかし1620年

代以後、景気はしだいに後退する。銀資源の枯渇

と採掘コストの上昇、世界的な銀価格の平準化な

どで、日本やメキシコの銀をよそに運べば必ずも

うかる、という時代は終わり、むしろ銀の過剰流

動性がもたらす通貨価値の混乱が各地で顕在化す

る。地球が寒冷化したため、長年の好況と人口増

で乱開発が進み森林が破壊されていたツケがあ

ちこちで出てきた。景気後退と環境危機のなかで、

ヨーロッパでも明清後退期の中国でも、戦乱が数

十年間続いた。ヨーロッパ史でいう「17世紀の

危機」である。危機的状況とまではいかなかった

西アジア、南アジアでも、オスマン、ムガルなど

の帝国は、17世紀後半から地方社会の支持を失

ってゆく。海上貿易は世界的に衰退し、大航海時

代は終わる。各地域世界同士の結びつきが弱まっ

た状況で、17世紀末から近世後期が始まった。

 17世紀の危機そのものは、比較的短期間で収

拾され、18世紀に入ると多くの地域で経済成長

が再開する。だが、その後の世界の構図は危機の

前とは大きく違ってくる。

 西欧諸国と近代世界システムは、またもや拡大

によって危機を乗り切った。貴金属の獲得や商業

利潤に重点を置くこれまでのやり方に加えて、陸

上の植民地を開発し、そこで綿織物やコーヒー、茶、

砂糖などの輸出商品を強制的に生産させる方法が

発達した。その最大の場とされたアメリカ大陸・

カリブ海地域、「大西洋三角貿易」でそこに結び

つけられたアフリカは、どちらも「近代の闇」を

象徴する地域と化してゆく。その犠牲の上に得ら

れた富の蓄積を背景として、やがてヨーロッパで

は産業革命や市民革命が実現する。

 東アジアでは、共通して貿易や出入国の統制が

強まった。その中で中国は、帝国の仕組みを変え

ないまま安定を取り戻し、人口増加と華僑ネット

ワークの拡大が進む。日本は鎖国のもとで独自の

市場経済や技術発展を実現し、幕末の開港後の急

速な近代化の土台ができてゆく。一方、貿易衰退

などで一時的にせよ活力を失ったインド洋、東南

アジア島嶼部のような地域は、18世紀にズルズ

ルと植民地化が進み、近代世界システムの「周辺」

とされてゆく。東南アジア島嶼部の場合は、華僑

ネットワークと両方に従属する。経済面でこれら

と同様の「周辺化」が進んだ中東イスラーム世界

では、イスラームの信仰を純粋化してこれに対抗

しようというワッハーブ派などの運動が始まる。

 つまり、それぞれの地域・国における17世紀

の危機の影響とその後の展開は、現代史の構図を

はっきり予告しているのだ。紙数の都合でふれな

かったが、近代人が各地の「伝統文化」「伝統社会」

と見なしたものの多くが、この時代に出現したり

確立したものだという点とあわせ、近世後期の重

要さを強調しておきたい。

綿花綿織物

コーヒーコーヒー

中国

アラビアインド

イギリスイギリス北米13植民地

ブラジル

中国

アラビアインド

あこがれのアジア物産

奴隷制プランテーションの生産物本国工場での生産が進んだもの

イギリスイギリス北米13植民地

ブラジル

陶磁器

陶磁器

コーヒー

コーヒー

コーヒー

コーヒー

綿花

綿織物

綿織物

①コーヒーの輸入元

 1722~24年

 1772~74年

②茶の輸入元(茶は国産化できなかったので、赤字が続いた。      )

 1722~24年

 1772~74年

③綿織物の西アフリカ・アメリカ向け輸出内わけ

 1722~24年

 1772~74年

④綿花の輸入元

1699~1701年

 1772~74年

436アメリカ

848東インド

123東インド

東インド

インド産キャラコ

116東インド

191国産綿織物国産綿織物

60インド産キャラコ

126

注)東インド =東アジア・東南アジアとインド洋に接する全地域  アメリカ=北アメリカ、英領および外国領西インド諸島、スペイン領       アメリカ、西アフリカ

オスマン帝国 アメリカ

43オスマン帝国アメリカ

〈『近代国際経済総覧』〉

p.212

18世紀の大西洋経済~アジア物産の国産化~  18世紀イギリスの貿易(単位1000ポンド)

ヨーロッパ人は,憧れのアジア物産を自らのものとするため,農産物は新大陸で,加工品は本国での生産を試みた。インド綿織物に憧れるイギリスは,綿花を北米でつくり,初期の粗悪な製品はアフリカに売り,ついに工場制綿織物産業を育て上げていく。

あこが

そ あく

p.164

「タペストリー 五訂版」p.34

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サファヴィー朝とムガル帝国

 イスラームはその登場で世界史を大きく変え、

その後も自己変化しながら、世界の変化と深く関

わってきた。そのような流れにあって、近世から

現代に至る中でとりわけ大きな意味を持っている

のは、16世紀であるように思われる。西暦1501年

は、イスラーム暦(太陰暦)でいえば907年にあ

たっており、ムハンマドが最初のイスラーム国家

を樹立してから9世紀たった頃である。

 すでに、イスラーム世界はウマイヤ朝、アッバ

ース朝の主要な版図であった西アジア・北アフリ

カから、アフリカ大陸では南進し、東へは南アジ

ア、東南アジアへも地歩を進めていた。イランは

その中央部にあたるが、ここにサファヴィー朝が

1501年に成立した。

 王朝の名前は、神秘主義教団の1つである「サ

ファヴィー教団」に由来する(教団名は彼らの祖

先である教団創設者の名から)。教主のイスマー

イールは自分に従うトルコ系遊牧部族の力によっ

て、白羊朝(アクコユンル)の都タブリーズを奪

い、新しい王朝を樹立した。教団の思想ははじめ、

イスラームとして非正統的な要素もかなり混入し

たものであったが、王朝となった後は、すでに確

立されていた12イマーム・シーア派を正式の教義

として採用するようになった。

 今日のイラン、西隣のアゼルバイジャンは、12

イマーム・シーア派の国として知られている。シ

ーア派自体はイスラーム初期に起源を持つため、

印象としては、もっと古い時代からこのあたりに

広がっていたように感じられる。とくに、アッバ

ース朝の成立時にホラーサーン地方(現イラン東

部)などのシーア派が活躍したため、その印象が

強い。しかし、実際にはサファヴィー朝となるま

でのイランは、ハンバル学派などスンナ派の勢力

の方が強かった。サファヴィー朝は、この地域を

シーア派化するために、わざわざ他地域からシー

ア派の法学者を呼び寄せるなどの努力をした。

 16世紀末には首都を南方のイスファハーンに移

した。この町はセルジューク朝時代にも栄えたが、

サファヴィー朝時代にはさらに大きく拡張され、

人口は50万人に達した。この都の栄華は、「イス

ファハーンは世界の半分」として知られた。「半分」

とは、世界の富の半分が集まっているの意味とも

されるが、その繁栄ぶりが偲ばれるであろう。サ

ファヴィー朝の作った新市街とそれまでの旧市街

の間に「王の広場」が作られ、今日でも壮麗なイ

スラーム建築が訪れる者の目を奪う。

 時代を同じくして、このシーア派の帝国の東西

には、スンナ派の帝国が立ち上がった。東側に登

場したのは、1526年に北インドに樹立されたムガ

ル帝国である。「ムガル」は「モンゴル」が訛っ

た語であるが、地元の側がモンゴル人の王朝と誤

解した名称が定着したものである。王朝を開いた

バーブルは、1世紀前に中央アジアからイラン、

アフガニスタンを支配した覇者ティムールの子孫

であった。そのティムール自身はチンギス家の女

性と結婚していたから、ムガル朝も、かつてのモ

ンゴル帝国と全く無縁ではない。

 この帝国も、16〜17世紀に繁栄を誇り、北イン

ドは大きな経済発展を遂げた。その栄華を今日に

伝えるものは、何といっても、第5代皇帝シャー

=ジャハーンが愛后のために建設したタージ=マハ

ルであろう。これは墓廟を中心として、庭園、モ

スク、迎賓館などが並ぶ複合建築で、日本人が「イ

スラーム建築」と聞くと真っ先に、その白い壮麗

な姿を思い浮かべる。ちなみに、ムスリム(イス

ラーム教徒)の中には、イスラーム建築の代表が

墓廟とされることに不満をいう人もいる。イスラ

ームの教えでは、墓を飾りたてることを嫌う傾向

京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで

イスラーム帝国の鼎立とイスラーム法学者の活躍第4回

Page 5: 大航海時代とその帰結 - 帝国書院...り方は通用しない。 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

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があるので、その不満もわからないではない。し

かし、幾何学的な均整美を持つタージ=マハルが

イスラーム建築の粋であることは疑いを入れない

であろう。

 ムガル帝国はスンナ派、とくにハナフィー法学

派を公式の学派とした。しかし、自らスンナ派の

領袖を名乗ったわけではなく、中東の覇者となっ

たオスマン朝をその盟主としてたてる道を選んだ。

オスマン朝は16世紀初め、シリアやエジプトを征

服し、さらにアラビア半島の「2聖都の守護者」

となって、イスラーム世界の最大の帝国となった。

ここに、3つの帝国が並び立つ時代が生まれた。

「イスラーム帝国の鼎立」と呼んでいるのは、そ

のことである。

オスマン朝

 ところで、オスマン朝の成立は1299年であり、

16世紀に生まれた新しい王朝ではない、という疑

問を抱いた読者もいらっしゃるかもしれない。そ

の通りである。成立の古い順からいえばオスマン

朝が先であり、サファヴィー朝、ムガル朝の話か

ら始めるのは手順がおかしいように見えるかもし

れない。オスマン朝を後にしたのには、2つ理由

がある。1つは、今回のテーマは転換期としての

16世紀であり、オスマン朝の始まりから話を始め

たのではそこに行き着かない、ということ。もう

1つは、より重要な点であるが、「3帝国の鼎立」

という形の一部としてのオスマン朝は16世紀に確

立した、という点である。

 イスラーム世界の歴史を考えるとき、13世紀末

に生まれたばかりのオスマン朝はまだ主人公では

ない。それもそのはず、この王朝は当時のイスラ

ーム世界の辺境(あるいは、拡大の最前線)であ

るアナトリアで生まれた。当時は、13世紀半ばに

アッバース朝がモンゴル軍の襲来で滅びた後、カ

イロが政治・経済・文化においてイスラーム世界

の中心であった。王朝としては、アイユーブ朝、

マムルーク朝が栄え、イスラームの聖地たる2聖

都もその保護下にあった。また、アッバース朝カ

リフの子孫もカイロで庇護され、「カリフ」と名

乗りながら宮廷の貴顕の1人として暮らしていた。

 しかし、オスマン朝は1453年にコンスタンチノ

ープル(今日のイスタンブル)を征服し、ビザン

ツ帝国を滅ぼしたため、一気に勢威があがった。

コンスタンチノープル攻略は、ウマイヤ朝もアッ

バース朝も志しながら手が届かなかった「夢」で

あったから、それを達成したオスマン朝がイスラ

ーム的な正統性を手にしたのは当然でもあった。

ただし、版図の位置からいっても、この時点では

ビザンツ帝国の後継者としての色彩も強い。それ

が、世紀後にアラブ地域に進撃し、1517年にシリ

アを、次いでエジプトを支配下に収めた。2聖都

の保護者ともなり、名実ともに、中心部における

イスラーム王朝としての地位を固めたのであった。

 後に(19世紀になってから)、エジプトを征服

したセリム1世がアッバース朝カリフから「カリ

フ位」を譲り受けた、という伝説が流布されるよ

うになった。それゆえにオスマン朝スルターンは

イスラーム世界の頂点に立つカリフでもある、と

いう物語が喧伝された。しかし、これは西洋列強

に対して劣勢になっていたオスマン朝が、自分の

正統性を補強し、イスラーム世界の支持を集める

ために広めた物語と考えられる。16世紀において

は、オスマン朝は誰にも負けない覇権を有してお

り、宗教的には、マムルーク朝滅亡とともに名目

的な「アッバース朝カリフ」がいなくなる中で、

最強の称号ともいえる「2聖都の守護者」を名乗

り得た。これ以上の何が必要であったであろうか。

王権者と法学者

 時はすでに、カリフの称号が何かを意味する時

代ではなくなっていた。カイロにおけるアッバー

ス朝カリフは、イスラーム世界の統一の象徴とい

うよりも、マムルーク朝スルターンの正統性を補

強する貴人に過ぎなかった。アッバース朝は最盛

期において、当時のイスラーム世界の大半を支配

下においていたし、その後も、各地の独立王朝が

その権威を認める形で名目的な権威を長らく保っ

ていた。しかし、アッバース朝が滅びた13世紀半

ば以降は、王朝や政治権力という点では多極化を

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迎えた。多くの王朝の版図、あるいは2つの王朝

の版図の間で誰の権力も及ばない地域などが混在

してイスラーム世界が作られるようになったので

ある。そのような中で、多様な地域が「イスラー

ム」という共通性を持っていたのは、具体的には

イスラーム法が広がったからであり、イスラーム

法の担い手としての法学者たちが地位を確立し、

その社会的機能を浸透させていったからであった。

 法学者たちは、王朝がイスラーム法を守るなら

ば、権力者たちを認め、支持するという立場を取

った。これに対して、王権者の側でも、法学者を

保護し、彼らのアドバイスを求めることで、イス

ラーム的な正統性を確保する政策を取った。とく

に、オスマン朝の場合、初期には体制を支える官

僚・書記が不足していたため、法学者たちから人

材を供給することになった。15世紀以降は、バル

カン半島の征服地などから少年を徴用し、官僚・

軍人を育てる制度(デヴシルメ制)も生まれたが、

法学者を体制の擁護者や裁判官として重用する仕

組みも発展した。たとえば、15世紀後半から、法

学者の最高位として「シェイヒュル・イスラーム

(イスラームの長老)」の称号が用いられ、彼の発

するファトワー(法学見解)が重視されるように

なった。

 ただし、オスマン朝において法学者が体制に組

み込まれたのに比べると、サファヴィー朝とシー

ア派法学者の関係は、もう少し緊張感が高い。た

とえば、法学者を統括する役職として「サドル」

という称号があり、サファヴィー朝の宮廷のサド

ルは強大な権限を持ったが、かといってサドルが

シーア派の教義や法学を支配できたわけではない。

シーア派の場合は、預言者ムハンマドの系譜を引

くイマームこそが正統な統治者、という考え方を

強く持っている。12イマーム・シーア派は、その

名の通り12人のイマームを認めるが、10世紀に最

後の12番目のイマームが不在(教義上は「隠れた

状態」)になってからは、誰がその代理を務める

かという問題が生じた。サファヴィー朝がシーア

派を公式に採用したため、このような世俗権力を

是認する傾向も生じたが、その一方で法学者こそ

がイマームの代理人たるべき、という主張も続け

られた。

 実際問題として、シーア派は世俗権力を是認す

るか否かで揺れ続け、20世紀に入ると、1925年に

成立したパフラヴィー朝を最初は是認していたの

に、ついには深刻な対立関係に至った。1979年に

は、法学者が率いる革命勢力はイランの王政を倒

すに至った。これと比べると、オスマン朝でもム

ガル朝でも、あるいは他の王朝でも、スンナ派の

場合は、王権者と法学者の関係はより協調的であ

ることが多い。

 いずれにしても、サファヴィー朝も含めて、3

帝国の鼎立時代とはおおまかにいって、王権者と

法学者の協力なり同盟関係がイスラーム世界のあ

り方を特徴づけた時期であった。11世紀以降に広

まった学院(マドラサ)制度によって、法学者た

ちが弟子を育て、自分たちの再生産を行うことが

社会的に保証されるようになったが、それがさら

に発展を遂げたのであった。

 法学者たちは法学派を形成し、自分たちの知識・

知見・体験を伝承する。法学者と一般信徒を結ぶ

ネットワークが作られ、それがそれぞれの地域の

法学派を強化する。一般信徒の支持は法学派が生

き延び、発展するために不可欠であるが、さらに、

公式の学派として王朝の保護が得られると、その

基盤が強化される。今日の中東や南アジアでハナ

フィー法学派が優勢であるのはオスマン朝、ムガ

ル朝のゆえであるし、イランやアゼルバイジャン

が12イマーム・シーア派となったのは、サファヴ

ィー朝のゆえであろう。その意味でも、近世の帝

国の鼎立は、現代につながる大きな意味を持って

いる。

 ちなみに、昨今のニュースで、スンナ派とシー

ア派の対立というようなニュースを聞くことが多

いが、3帝国の時代には宗派共存がふつうであっ

た。公式学派をもうけて、宗教について王朝が管

理している以上、やたらに対立が生じたわけでは

ない。今、私たちが耳にしているような紛争は、

むしろ19世紀以降の物語に属する。次回は、その

ことも合わせて考えてみたい。

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はじめに

 本県では、工業科や商業科などの高校において

地歴A科目を2つ、普通科の高校ではAとB、も

しくはB科目を2つ履修するのが一般的である。

県下の世界史A担当教員にどのような授業を行っ

ているかを伺ったところ、内容では、教科書全内

容の網羅的学習、近現代史のみの学習、第二次世

界大戦後のみの学習というもの、また東アジア中

心、ヨーロッパ中心の学習など、様々な回答が返

ってきた。しかし、私自身は前近代史不要論には

反対である。近現代史のみの場合、どうしてもヨ

ーロッパ優越史観に陥りやすいからだ。さて、指

導上の悩みでは、生徒の世界史学習への無関心、

地理・歴史の基礎学力不足、指導者が世界史専門

でない場合の指導力不足、教科書内容すべてを網

羅することの時間的不足、前近代史を身近に感じ

てもらうことへの苦労、などがあった。世界史A

学習の指導に悩んでいる様子がわかる。

 その悩みのうち最も大きいのは、世界史A前近

代史の内容精選と授業構成についてではないだろ

うか。世界史Bの政治史を単純化したものがA科

目というのではない。精選の規準をきいてみると、

現代史につながる内容であること、生徒が興味関

心を持ちそうな内容であること、「平和」「人権」

に関する内容であること、異文化理解に役立つ内

容であることといったように様々であった。現行

の学習指導要領では、近現代を16世紀以降とし、

「近現代史に授業時数を多く配当」とある。標準

単位数が2であるため、年間授業時数を70時間と

して、前近代史授業時間は3割程度、つまり約20

時間と考えたい。約20時間で扱う前近代史の内容

は何か。どのような視点で精選し、指導計画をた

てればよいか、これが本稿の目的である。

歴史の面白さと歴史学習で育てたい学力

 歴史学習の醍醐味は、新しい知識を知る喜びだ

けでなく、人々の生々しい足跡に感動し、いろい

ろの事象が影響しあって事が起き、社会が変化し

ている面白さにある。私たち歴史教員が味わった

喜びを、生徒にも味わってもらいたいと思う。

 では、高校の歴史学習を通して生徒に身につけ

てほしい学力とは何であろうか。それは、「日本

人としての歴史教養」と「歴史的思考力」である

と私は考える。「歴史教養」をいかにわかりやす

く理解させ、「歴史的思考力」をいかに育てるか

が歴史教員に求められている。しかし、「歴史教養」

はさておき、「歴史的思考力」とは一体どういう

ものであろうか。それを整理しておきたい。

歴史的思考力とは

 一般に思考力とは、事象を的確に把握し、分析

し、その意義を理解し、今日の問題に応用する能

力とされる。では、「歴史的思考力」とは具体的

にはどのような力であろうか、次にあげてみたい。

①時間や空間の認識力。100年前という感覚や50

年間という時間の把握、東西南北や遠近の位置

関係などが認識できることである。

②時代の社会構造把握力。その地域・時代の生産

力(経済力)をどこが握っており、どういう階

層が社会を動かしているかという構造がわかる

ことなどである。

③背景や因果関係の認識力。どうしてそうなった

かという原因を考察できることである。

④共通点や相違点の比較認識力。たとえば、中世

西欧と東欧との比較や、農耕社会と遊牧社会の

違いを発見するなどである。

⑤変化の認識力。発展しているとか衰退している

とかといった社会の変化がわかることなどであ

世界史A 再考 指導計画立案のコツ

楽しく力になる授業をめざして−世界史A前近代史の指導計画− 香川県立高等学校教諭

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る。

⑥交流による影響の認識力。経済・文化の交流に

よる各地域の社会変化がわかることである。

⑦多面的な見方や考察力。一方的なものの見方に

よる誤った判断防止のために必要な、思考力の

中でもとくに重要と思われる力である。

⑧批判力。矛盾や嘘はないか、科学的に推論でき

る力である。

⑨総合的把握力や特性把握力。細部の違いにこだ

わらず、大きな視野で把握認識する力である。

⑩歴史小法則の発見力。その時代その地域に通用

する法則というものがあり、それを発見する力

である。

⑪資料読み取り力。資料やグラフから何がわかる

かを正確に読み取る力である。

 歴史的思考力とは、以上のような学力をいうの

であろうか。

考える場を設ける授業

 私がめざしている世界史授業は、生徒が静かに

板書事項をノートに写し、テスト前にそれを覚え

させるだけの授業ではなく、生徒が考え、生徒か

らの質問の出る授業である。それには、時間中、

生徒に考える場面を保障しなければならない。「な

ぜなのか」などを考えさせる場である。こうした

訓練の積み重ねの結果、しだいに生徒たちは、歴

史学習が今を生きるための勉強であること、生身

の人間の足跡であることに気づき、学習を楽しむ

ことができるようになると考えている。ただし、

これは短期間に養成できる学力ではなく、指導者

に工夫と忍耐が求められる。教員の中には、学習

困難校では思考なんて絶対に無理といいきる教員

もいるが、工夫しだいでどの生徒にも「考えさせ

ること」はできると私は思う。

 「考えさせる」発問は、「なぜか」「背景は何」

といった高度な質問からではなく、答えやすいも

のから始めたい。「君だったらどう思う」「どちら

がすごいと思う」「前によく似たものがなかった

か」「向こうの立場だったらどう」などがよい。

また、たとえ的確な回答でなくとも、否定するこ

となく生徒に自由に発言させたい。

 思考力を育てる他の方策として、定期考査前の

質問メモ提出も有効である。「授業でわからなか

ったこと」「授業で感じたこと」「なぜと思うこと」

などを記載させ回収し、後、QアンドAの形のプ

リントを生徒に配布している。生徒が考える機会

や学習意欲向上につながる他、私自身の指導の反

省に役立っている。しっかり理解させたつもりな

のに、実はそうでなかったことがわかるからであ

る。

 定期考査問題でも工夫したい。ペーパーテスト

は、観点の「知識・理解力」を評価するのに適し

ているが、「歴史的思考力」をみる出題も十分可

能である。ここでは私が出題した世界史B中国宋

代の問題を例としてあげてみたい。例①「宋代、

周辺遊牧民国家は軍事力で中国を圧倒していたが、

やがて彼ら独自の文字を作り出すに至った。その

文字の字体からみて、遊牧民国家のリーダーたち

が中国文明をどう見ていたか、推測してあなたの

考えを述べよ。」例②「ゲルマン民族移動の4〜

5世紀に、中国でも北方遊牧民が華北に侵入し五

胡十六国時代を迎えている。ヨーロッパとアジア

で共通する原因は何か。気候の面から推測してみ

よ。」これらは、想像させたり推測させて思考力

をみる問題である。

世界史A前近現代史の扱い方

 世界史Aの前近代史の内容は、「諸地域世界と

交流圏」である。学習指導要領ではその部分の配

慮事項を、「諸地域世界の特質を構造的視野から

把握」「個々の地域を通史的に扱わない」「東アジ

ア世界では日本を位置づける」としている。単な

るB科目簡易版ではないのだ。解説ではさらに、

「世界史への興味・関心の育成」「歴史的思考法に

なじませる」「近現代史理解に必要な基礎知識の

学習」「内容の徹底した精選、集約化、重点化」「政

治的事件の羅列にならない」「諸地域世界の特質

の構造的理解」「細かな事象や高度な機構に深入

りしない」「諸地域世界の歴史の相互比較・意義

の多角的考察」「日本の世界史的位置づけ」「地理

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的条件との関連留意」「前近代部分の時間配当の

工夫」などを留意事項としてあげている。

 さて、前近代史指導の要点を、私は次のように

考える。

①2単位授業の場合、前近代史時間数は21時間

(東アジア4時間、南アジア2時間、東南アジ

ア1時間、イスラーム世界4時間、ヨーロッパ

5時間、アメリカ・アフリカ・太平洋地域3時

間、ユーラシアの交流圏2時間)

②1時間での小単元完結授業

③1時間を貫くおもな課題設定(MQ)

④毎時間、モノ・ビデオ・図版・資料の使用

⑤対話型展開で思考場面の設定

⑥毎時間の世界地図教室掲示

⑦内容の精選

そして精選の規準は、

○諸地域世界を通史でなく特質で押さえる

○日本史との関連事項を入れる

の2点と考えている。そのためにも、諸地域世界

が(今日的視点から)どのような意義・特色を持

っている地域であるかの把握が重要となる。

学習指導案例

 例として、「東アジアの中央集権制」「朝鮮史」

の2時間分の学習指導案の単元目標と指導過程を

提示したい。

○東アジア世界の中央集権制指導案(2時間)

《単元》東アジア世界(全4時間)

《単元目標》東アジア世界とは、中国を中心にモ

ンゴル高原・朝鮮半島・日本列島・インドシナ東

北部の地域である。この地域は、漢民族の「漢字」

「儒学」「漢訳仏教」「中央集権制」といった文化

や制度を共有する地域であり、このキーを適切な

教材を使って理解させる。また、我が国が中国か

らどのような影響を受け、文明を展開させてきた

のかについて考察させる。

《単元構成》「漢字・儒学・道教」(1時間)、「中

央集権制」(2時間、本時はその1時間目)、「朝

鮮史」(1時間)

《本時目標》始皇帝の政治を通して、東アジアの

歴史的政治スタイルである中央集権制のしくみを、

地方分権制と比較して考察させる。

《指導過程》

MQ:「歴史上、東アジアの政治体制には中央集

権制がなじみ深い。中央集権と地方分権の違

いは何?」

Q:「次の2型は、どちらが中央集権でどちらが

地方分権か。」

Q:「あなたが皇帝なら、どちらを望む? あな

たが豪族なら、どちらを望む?」

A:「皇帝なら、上の中央集権を、豪族なら、下

の地方分権。」

<秦の始皇帝の中央集権制…以後の中国王朝政治

のモデル>

①秦の始皇帝   ※VTR「始皇帝(18分)」

 前221中国統一… 法家の思想家、李斯を使って

中央集権化

ア 中央政府の任命する長官を地方へ派遣(郡県制)

し、上意下達の政治(官僚制)

イ農民反乱防止のため、武器没収(刀狩り)

ウ思想統制で政府批判を弾圧(焚書坑儒)

エ文字・貨幣・度量衡の統一

 ※ 文字…篆書の字体、貨幣…半両銭(※実物回

覧)、ものさし・ます・はかり

オ領土の拡大… 北方の匈奴民族を攻撃、「万里の

長城」修築

Q:「シン=CHINという語からうまれた英語は

何?」

A:「CHINA。ヨーロッパは秦のような中央集権

中央政府(皇帝・貴族・官僚)

支配

庶民 庶民庶民 庶民

支配

豪族豪族 豪族

中央政府(皇帝・貴族・官僚)

庶民 庶民庶民 庶民

対立

豪族豪族 豪族

支配

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国家を中国と考えた。」

Q:「肖像画をみて、始皇帝をどう思うか。」

A:「(怖そう、堂々としている…)(後に描かれ

る場合、描いた時期のその人物への評価によっ

て、英雄にも悪人にも描かれる)」

Q:「君は始皇帝のような容赦ない君主をすごい

と思うか、悪者と思うか。」

A:「評価は様々だが、中国をひとつにまとめた

点は、今日、良いように評価されている。」

Q:「秦は農民反乱(陳勝・呉広の乱)で、建国

15年後の前206年に滅亡した。なぜ農民は反乱

を起こしたのか。」

A:「追いつめられた農民は殺されるのを覚悟で

反乱を起こした。中央集権化に伴う急激で厳格

な政治改革が原因。」

○東アジア世界の朝鮮史指導案(1時間)

《本時目標》朝鮮が、中国の影響を受けた東アジ

ア地域の一国であることを把握させるとともに、

日本との関係を理解させる。近年の日本との不幸

な関係だけでなく、古代からの友好的交流につい

て理解させる。朝鮮の文化を重点的に扱う。

《指導過程》<朝鮮の文化>

MQ:「『冬のソナタ』『チャングムの誓い』の朝

鮮はどのような社会か? 中国や日本との歴

史的関係は?」

 ※VTR「TV『チャングムの誓い』」(2分)

Q:「2分間のVTRを見て、朝鮮のイメージなど、

気づいたこと。その他、知ってること。」

A:「(儒教思想、忍耐、情熱、一族の団結、一所

懸命、キムチ、チマチョゴリ、…)ここでいう

『朝鮮』とは、韓国と北朝鮮を合わせた地域。」

①思想・価値観…儒教、仏教

 ・親(母=オモニ)や目上を大切にする

 ・一族の団結・秩序維持

②文字…漢字→仮名として15Cハングル(訓民正

音)作成

 ※VTR「ハングル講座」(2分)

 ※韓国紙幣(15C世宗)

Q:「正式でない仮名をつくった理由は何。」

A:「漢字だけではすべての朝鮮語を筆記できな

いから。庶民への文化普及にも役立った。」

③磁器

 ※磁器実物(白磁・青磁)

Q:「土器・陶器・磁器の違いは?」

Q:「磁器の故郷は?」

A:「英語のchinaとは磁器。つまり中国。中国か

らの磁器が朝鮮でさらに進化した。」

Q:「日本の有田焼はどうしてうまれたのか。」

A:「16C末、豊臣秀吉の朝鮮侵略で陶工を連行。」

 ※VTR「韓国ドラマ『壬辰倭乱・丁酉倭乱』」

  (5分)(文禄の役・慶長の役)

 ※韓国紙幣(500ウォン)

Q:「日本軍を打ち破った李舜臣は、秀吉にとっ

ては賊、では朝鮮では何?」

A:「(見方はその立場で違う)」

Q:「今日の朝鮮文化はどのようにつくられたか。」

A:「朝鮮独自文化+中国文化。」

<日本との関係史>

5・6C  大陸文化の日本への流入(漢字、織物、

養蚕、儒教、仏教等)

7C 中国(隋)と抗争、日本と抗争

13C モンゴル軍に従って北九州へ(元寇)

 ※近代以降

16C 豊臣秀吉の朝鮮侵略

17C 朝鮮通信使 ※VTR「朝鮮通信使」(10分)

20C 日本が併合→独立→2つの朝鮮

さいごに

 生徒が世界史の授業を楽しみにしてくれること、

そして学力がつくことを、これからも指導の目標

としたい。

「明解新世界史A 新訂版」p.10秦の始皇帝と兵馬俑坑

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はじめに

 今まで東南アジアは、近代以前、インドの「辺

境」、中国の「辺境」、「海の道」の中継点として

取り扱われ、近代以降、欧米の植民地として扱わ

れることが多かった。この観点では東南アジアは

常に受け身であり、東南アジア自体の歴史はボロ

ブドゥール、アンコール=ワット、パガンなどの

歴史遺跡に付随する歴史のような感があった。

 近年、東南アジア研究がすすみ、東南アジアの

モノは歴史を通じて世界中の人々を引きつけてき

たこと、15世紀以降の「交易の時代」(The Age

of Commerce A.リード)にあっては、見方によ

っては世界の中心であったことが明らかになって

きた。そういう意味では、アメリカ大陸の銀を手

に入れたヨーロッパ人が「交易の時代」に入って

きたことによって「大航海時代」となった。教科

書的にはあまり紹介されていない東南アジアを中

心にして授業をするとき、まず東南アジアのモノ

の持つ意味を考えながら授業を進めることが望ま

しかろう。もちろん前提として、現在の東南アジ

ア地域の最低限の知識を白地図などを使って生徒

に確認させてから授業に入ることは必要である。

香辛料(胡椒、クローブ、ナツメグ、シナモン)を使った授業

 1498年ヴァスコ=ダ=ガマが、カリカットに到達

したときにその地の支配者が彼の来航の目的を問

うたとき、彼は「キリスト教と香辛料」と答えた

という。当時のヨーロッパ人にとって香辛料は富

と権力の象徴であり、下記のように使用されてい

た。

 「宴会は日中いっぱい続く。太陽がしずみはじ

めると、酒をそそぐ係が、スパイスの辛みのきい

たワインのコブレットとウエハースのはいった皿

をだす。パン係は、スパイス類をまるごと砂糖漬

けにしたものをもった盆を、各テーブルに置く。」

(『人類学者のクッキングブック』ジェシカ=クーパー 平凡社)

 この引用を生徒に紹介した後、「君たちに最高

のもてなしをしてあげよう」と言って、市販の胡

椒、クローブ、ナツメグ、シナモンを回す。生徒

に自由に直接香辛料を手に取らせる。そして、な

んでこんなものに価値があったのかを考えさせる。

次に、胡椒・クローブ・ナツメグ・シナモンの原

産地、南インド・ジャワ・モルッカ諸島・セイロ

ンを「最新世界史図説タペストリー(五訂版)」

p.30〜31でその場所を確認させた後、p.118でその

自然の形態も見させる。

 そしてこの香辛料の原産地、とりわけクローブ

(丁字)、ナツメグの原産地モルッカ諸島が「大航

海時代」のゴールであったこと、そこをめざして

東回りからここをめざしたポルトガルと西回りで

ここをめざしたスペインの動きを生徒に理解させ

る。次に、このモルッカ諸島、ジャワ、セイロン

を押さえたオランダが17世紀の覇権国家になって

いくこと、つまり16世紀の世界商品である香辛料

を押さえたオランダが覇権国家になっていくこと

をタペストリー p.164〜165「近代世界システム」

モノを中心として東南アジア史を教える

神奈川県立外語短期大学付属高等学校 石 橋 功

世界中を楽しく教えるコツ 身近な切り口から入る授業展開例

アメリカからの貴金属

アジアからの香料

バルト海からの穀物

309.4 136.8 87.5

 西ヨーロッパの輸入(1600年)(年平均トン)〈『朝日百科世界の歴 史67商品と物価』〉

こしょう

丁子

ナツメグ香木   ナ

1510~ポルトガルの拠点

ポルトガル人砲兵により強大化。

種子島でポルトガル人より鉄砲伝来。

1557~ポルトガルの拠点

1571~スペインの拠点

アルタン=ハン時代のタタルの最大勢力範囲

1518~1656ポルトガル領

1513 バルボア太平洋に到達

1519~21アステカ滅亡

1545年 スペイン人が発見。多量の銀がヨーロッパにもたらされる。

1532~33インカ滅亡

1511~1641ポルトガル領

トルデシリャス条約境界線

サラゴサ条約による境界線

0°60° 30°

30°

90°

90°

120°150°

150°

60° 90°

90°

30°

30°

120° 150°

150°

60°

30°

30°

30°

30°

60°

60°60°120°120°

西

ピシシミ

カリブ海

黒 海

チャド湖

イ  ン ド 洋川

ガンジス川

川ンコメ

ナイル

ーェジ

ゴコン

マゼラン海峡

フランス

イギリス

サカテカス銀山(1546発見)

フロリダ半島

サンサルバドル島

キューバ

ポトシ銀山(1545発見)

喜望峰

マダガスカル島

チベット

カシュガル

女真

シ   ベ   リ   ア

モルッカ諸島

フィリピン諸島

モルッカ諸島

アゾレス諸島

ベニン王国

コンゴ王国

ソンガイ王国

ヴェルデ岬諸島

オスマン帝国

ロシア帝国

ムガル帝国

サファヴィー朝

タタル(韃靼)

朝鮮 日本

大越

トゥングー朝

ロンドン神聖ローマ帝国

(1494年

(1493年

(1529年)

教皇子午線

ペルー副王領

ブラジル

ヌエバエスパーニャ副王領

スペインポルトガル

フランス

イギリス

スウェーデン

アユタヤ朝フィリピン諸島

ブハラ=ハン国

ヒヴァ=ハン国

ソコトラ

サントメフェルナンドポー

アルギン島

カナリア諸島 西インド諸島

マデイラ諸島

ブラジルへ

タスマニア島

アスンシオン

クスコ

ラパス

ブエノスアイレスサンティアゴ

ペルナンプーゴ

サンルイ

バイアリマ

キト

ボゴタ

パナマカラカス

カルタヘナ

サントドミンゴトルヒーヨアカプルコ

メキシコ

グアテマラ

ベラクルス

メリダハバナ

ソファラ

ザンジバルモンバサ

マリンディ

モガディシュ

トンブクトゥ

アルジェ チュニス

トリポリ

マドリードセビーリャリスボン

パリ

ジェノヴァ

ヴェネツィア

アントウェルペン

ウィーン

ワルシャワアムステルダム

モスクワ

イスタンブル

キエフ

カイロ ホルムズ

アデン

マッサワ

ジッダ メッカ

バスラ イスファハーン

アレッポ

デリーラサ

カーブル

ビシュバリク

ディウ

ゴア

カリカット

コロンボ アチェ

マラッカ

パタニブルネイ

マニラ

マカオ

西安

寧波

福州

安土

広州

平戸南京

北京

開原フフホト

アストラハン

カザン

トボリスクチュメニ

モザンビーク

マスカット

コーチン

サントメ

モルディブ

バンテン ドゥマク

ディリ

テルナテティドーレ

スールー

サンミゲル

ジョホール

ルアンダ

サンジョルジェ

カシュウ

セウタ

A B

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C

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I

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J

J

K

K

L

L

1

1

2

2

33

44

55

ポルトガル領   拠点都市  島スペイン領    拠点都市  島イスラーム拠点都市   島モルッカ諸島へ向かうポルトガルの航路ポルトガルの奴隷貿易モルッカ諸島へ向かうムスリム商人のおもな航路スペインの護送船団の航路ヨーロッパ沿岸のおもな航路海禁解除後の中国商人の海上貿易ポルトガルの砂糖栽培地オスマン帝国とヨーロッパ勢力の海戦ドレークのスペイン船襲撃地オスマン帝国に服する海賊のおもな出没地

アルタン=ハン,チベット仏教指導者にダライ=ラマの称号を贈る。モンゴル一帯にチベット仏教広がる。

トルデシリャス条約1494ポルトガルとスペインが,ローマ教皇の仲介でとりきめた,世界の支配権を二分する条約。

教皇子午線1493コロンブスのアメリカ大陸発見後,教皇が提示したスペインとポルトガルの支配領域の境界線。しかしポルトガルは不服。

サラゴサ条約1529スペインとポルトガルの条約。スペインがモルッカ諸島をポルトガルに売却。

      17世紀にラサに造営された,ダライ=ラマの居宮。ポタラ宮殿

16世紀ころの世界16世紀ころの世界

タペストリー p.30〜31

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を見ながら理解させる。17世紀以降、香辛料の価

格が没落し、世界商品の地位をコーヒー、砂糖、

キャラコに譲るとオランダは衰退していくことも

押さえておく必要がある。

 この授業で大切なことは、オランダもスペイン

もポルトガルもバタビヤ等拠点の都市を支配した

が、その地域を面としては支配していなかったこ

とである。

沈香を使った授業

 まず沈香に火をつけてその香りを生徒に紹介す

る。だいたいの生徒はお線香の匂いと反応する。

ときどき生理的に嫌いという生徒がいるが、その

ときには沈香を焚くことを中止する必要にせまら

れる。

 次に沈香の原産地の場所をタペストリー p.119

「海の道とは」で確認する。そして、p.118でこの

場所をめざして後漢が南下していることにも留意

させる。

 沈香とは読んで字のごとく水に沈む香木であり、

東アジアの中国文化圏では高級品は伽羅として珍

重されていた。中国が朝貢貿易の主要な品として

この沈香を使っていたようであり、中国皇帝の権

力を増強させる働きがあった品であった。ゆえに

そのために後漢はヴェトナムに進出して日南郡を

置いた。ヨーロッパでは香辛料が富と権力の象徴

であったように東アジアでは沈香がその象徴であ

った。日本で最も有名な沈香は蘭奢待といい正倉

院に存在する。この蘭奢待は天皇権力を象徴する

ものであり、この権力に近づき得た足利義政、織

田信長がこの蘭奢待を切り取りその香りを知った

といわれている。そのことが本能寺の変の遠因に

もなったともいう。

 沈香を求めたのは中国人だけではなかった。日

南郡に166年大秦国王安敦の使いとするギリシア

商人が来航している。ギリシア商人は中国に来航

したのではなく、ヴェトナムに来航したことに

我々は留意する必要があろう。沈香は世界の商人

をヴェトナムに集めたのである。

 沈香と同じような商品として蘇木がある。蘇木

は原産地がアユタヤであり、アユタヤから独占的

に蘇木を輸入できた琉球が15世紀以降、明との貿

易で独占的立場に立ちマラッカと並んで「交易の

時代」に繁栄した根拠となった。蘇木も沈香同様、

その重要性を確認しておく必要があろう。

白檀を使った授業

 白檀の扇子を生徒に回して、その香りを確認さ

せてから授業にはいる。

 白檀は沈香、蘇木同様、中国で珍重されたが、

それ以上にインドでの需要が大きかった。ヒンド

ゥー教徒は白檀をペースト状にしたものを信仰の

証として額に塗る。さらに白檀の小片は、大麦や

ゴマとともに供儀の際に燃やされる。その香りは

邪悪な霊をよせつけず、まわりを浄化すると信じ

られてきた。その関係で、インド貿易を考えた場

合、白檀を手に入れることは東南アジア貿易の覇

権を握るといってもいい過ぎではなかった。白檀

の原産地はティモール島であった。

 17世紀このティモールを植民地化しようとした

ヨーロッパの国がポルトガルとオランダであった。

両国はティモールをめぐって激しく争ったが最後

は、この地を二等分することにした。西ティモー

中 国

ミャンマー

ラオス

タイ

ヴェトナム

カンボジア

フィリピン

ブルネイ

イ  ン  ド  ネ  シ  ア

シンガポール

マレーシア

赤文字東ティモール

沈香

先史時代のおもな遺跡

後漢の範囲

林邑の影響範囲

林邑の中心地域

扶南の影響範囲

扶南の中心地域

おもな交易ルート(1~10世紀)

香辛料の産地

胡椒こしょう

りんゆう

ふ なん

ナツメグシナモンクローヴ(丁子)

その他の香料・香木の産地

揚 州

荊 州

益 州

後 漢中 国

石 山

李家山永昌

昆明

番禺(南海)(南越国)交 州

ドンダウ

交趾

九真

ゴームン

ベイタノウ

フングエンミャンマー

台湾

シュリークシェートラ(プローム)

ラオス

バンチェンノンノクタ

スピリット洞穴

タイサイヨクバンカオ

タコラ

日南→林邑

オケオ

ヴェトナム

チャキェウ

ニャチャン

サーフィン

林邑(チャンパー)

現在の海岸線

カンボジア

扶 南ふ なん

サムロンセン貝塚ヴィヤーダブラ(バプノム)

カラナイ洞窟

フィリピンパラワン島タボン洞穴群

ブルネイニア洞窟

北マルク諸島

ハルマヘラ島

バチャン島

モルッカ(マルク)諸島アンボン島バンダ諸島

ティモール島

スラウェシ島

ジャワ島

イ  ン  ド  ネ  シ  ア

プラワンガン

トリニール

ヤヴァドゥウィーパ(耶婆提)タルマ

スンガイジャオン

シンガポール

スヴァルナブーミマレーシアグアチャ

クタイ

0 500km白檀

沈香

沈香

赤文字は現在の国名

パレンバン

ペカロンガン

ちょう じドンソン

万家覇大波那

頓孫とんそん

長江

セレベス海

海ジ ャ ワ

ムシ川ムシ川

ア エ

ヤワディ

ダマン海川

マ ラ ッ カ 海 峡

メコン川メコン川

川ン

ンタ

イル

川ン

ンタ

イル

スンダ海峡

東ティモール

ピュー

ルソン島

ミンダナオ島

スマトラ島

ニューギニア島

ルソン島

ミンダナオ島

スマトラ島カリマンタン

(ボルネオ)島カリマンタン

(ボルネオ)島

ニューギニア島

後漢時代の交州の中心地。交州刺史がおかれた。

交易の中心地。ローマ金貨・漢鏡・仏像・ヒンドゥー教神像が出土。

1891年ジャワ原人の骨が発見された。

ドンソン(東山)文化

17世紀末までナツメグの唯一の産地

モルッカ諸島現在インドネシア(  マルク州  )

タペストリー p.118

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ルはオランダが領有し、東ティモールはポルトガ

ルが領有した。その後、西ティモールでは他のオ

ランダ領東インド同様イスラーム化がすすんだが、

東ティモールではキリスト教化が進んだ。

 1945年オランダ領東インドがインドネシアとし

て独立すると、西ティモールはインドネシア領と

なった。しかし東ティモールは、1974年までポル

トガル領であった。1976年インドネシアが東ティ

モールを併合すると、これに反発する独立運動が

発生した。東ティモールは2002年独立を達成した。

この混乱のプロセスで日本の自衛隊がPKO活動

を展開している。

 白檀の原産地であったということがこの島の運

命を決めた。白檀を手に入れようとしてこの地を

訪れた招かれざる人々が、この地に最大の不幸を

もたらしたのである。

東南アジアのモノの持つ意味

 東南アジアのモノ、具体的に、胡椒、クローブ

ナツメグ、沈香、蘇木、白檀を取り上げたわけで

あるが、基本的に現在の我々にとってはどうでも

よいものばかりである。現在、沈香、白檀、蘇木

が高級品だとしてもそれは一部好事家のためのも

のであり、一般的でない。この価値観で見るなら

東南アジアは世界の重要な地域ではない。

 しかし世界史を学習すると東南アジアのモノが

世界商品であった時代が長いことに気づく。それ

はインドの綿製品と中国の絹製品と同じである。

その観点で考えるなら、東南アジアをインド、中

国と並んで世界史の中心的な場所に位置づけなけ

ればならない。そのときに、我々は「陸中心の歴

史」から「海中心の歴史」に発想を転換しなけれ

ばならない。東南アジアの国家は多くが「港市国

家」であり、海で有機的な結合を持った地域であ

った。内陸部は大河で結ばれていて基本的に島嶼

部と同じ構図を持っていた。海を他と切り離すも

のと見た場合、日本は島国で他と切り離されてき

たということになる。しかし、現在ではこの見方

を取るのではなく、鎖国といわれた時代にあって

も日本は海を通じて他国と結ばれていたことが明

らかになってきた。基本的に海で囲まれた東南ア

ジアはそのモノの存在とともに、世界と海でつな

がっていたわけである。このことは19世紀以降、

欧米の植民地と化して以降、砂糖、コーヒー等の

プランテーション作物を作っていったときも基本

構造は同じであった。

おわりに

 東南アジアというと何か開発途上国であり、日

本に比べて貧しいというイメージを持ち、そのス

タンスで授業をやってしまうおそれがある。一昨

年、タイを訪問したが、バンコクの高速道路を走

っていると自分が東京にいるのか、バンコクにい

るのかわからなくなるような情景がそこには広が

っていた。タイ米の輸出など現在では、微々たる

もので、タイは完全な工業立国がなされている。

シンガポールを先頭にして東南アジアはASEA

Nとして発展してきた。しかし、東南アジアは近

代化して豊かになったというより、昔から一定豊

かであったことは押さえる必要があろう。日本か

ら「からゆきさん」が戦前行っていたことからも

わかるように日本より戦前は豊かであった。また

最貧国といわれるミャンマーを訪問したとき、貧

しいけれど飢えている感じはなかった。そういっ

た意味でも、東南アジアは根源的に一定の豊かさ

を持ち、しかも世界の商人を歴史的に集めた香料、

香木が東南アジアを一層豊かにした。しかし、そ

の豊かさがあったから欧米列強がこの地をねらっ

たのだ。

 モノを中心に東南アジアを教える試みを紹介し

たが、現在のモノと違う価値を持つモノをどう生

徒に理解させるかがポイントになってくる。富と

権力の象徴のモノは現在もあることに気づかせる。

たとえばブランド品などの存在の意味に気づかせ

ることも教育的なことでないだろうか。

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 高校の地歴・公民科各科目ひいては中学校社会

科についてもいえることであるが、その内容が生

徒に魅力あるものとしてうつらないような気がし

てならない。その原因はいろいろあるが次の2点

から考えて見たい。

1 大学での研究のエッセンスを中等教育の場に

 持ち込もうとする場合、研究と教育の場におけ

 る授業の立脚点の違いに気づかれていないこと。

2 現代的諸課題を授業で取り上げる方法論の開

 拓がいまだ不十分な結果、課題意識が第二次世

 界大戦直後のそれから抜け出せていないこと。

 話を単純化するために、筆者の専門領域である

高校世界史を例にとって論ずるが、問題の本質は

高校政経などの他の科目、あるいは中学校社会科

においても同じであり、世界史を例に書かれてい

る内容はそちらにおいても十分応用できるもので

ある。

1  大学と中等教育における歴史叙述の立脚点の違い

 中等教育の教科書の内容は究極的には大学等で

の学問の最新成果を取り入れ、それを発達段階に

応じてやさしく噛み砕いて語っていく方式が取ら

れている。当然、授業の進め方もそれを踏襲した

ものになるわけだが、その際、源流たる大学での

研究に携わる者と、下流たる中・高での授業を受

ける者の意識の相違を充分わきまえておかないと

中・高での授業はうまくいかない。それは、それ

ぞれの領域での知的関心のある・なしの問題であ

る。

 大学の研究室で歴史研究に携わる方々は、いわ

ば最初から歴史が好きでそれに興味・関心を持つ

方々である。そこでは、なぜ歴史を学ばねばなら

ないか、歴史を学ぶことが何の役に立つのかは、

当面の差し迫った問いにはならない。好きなこと

に没頭するとき、人はそれをしなければならない

理由を普通問わぬものである。しかし、高校にお

ける歴史教育の場は違う。歴史に対し初めから無

条件に興味・関心を持つ生徒は恐らく5%に満た

ないであろう。相手が興味・関心を持たないこと

を教えようとするとき、教師は必ずなぜこれを学

ばねばならないかを表明しなければならない。歴

史を学ぶことはなぜ必要か、それは何の役に立つ

のかを生徒の生活実感にできるだけ即した形で、

プラグマティックに語る必要に迫られている。こ

の種のプラグマティズムの必要性こそ研究の場と

教育の場の大きな違いである。研究と教育は歴史

に向き合う者の態度として異なる立脚点に立つも

のであり、だから課題意識とそれから出発する歴

史叙述も当然根本的に違うはずである。

 従来からの専門的歴史学の最先端の成果をやさ

しく解説するという形は、専門的な学者の問いか

け方=その課題意識をそのまま歴史教育の場に持

ち込み、何となくそれが普遍的なものであると思

い込んで教えることとなり、教育の場におけるプ

ラグマティックな歴史に対する問いかけ方の必要

性とは乖離しやすい。

2  第二次世界大戦直後の課題意識からの脱却

 かつて第二次世界大戦が終わったとき、人びと

には、軍部ファシズムというものがなぜ現れ、日

本の民主主義はなぜ簡単に崩れてしまったのか、

それを究明し二度とこのような過ちを繰り返さな

いようにしなければならない、という考え方が時

代思想の底流にあった。これらをベースとして学

校教育においても歴史学習の内容と方法論が作ら

今後の世界史(地歴・公民、社会科)教育のあり方について

江戸川大学非常勤講師 福 田 靖

<投稿のページ>

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れてきた。世界史は民主主義の生成を軸として、

古代から現代に至る歴史プロセスを大河のような

流れとして語ること、その形態は、政治・経済・

社会史の発展段階論的体系的知識の注入であった。

 歴史の授業が時間切れで第二次世界大戦までし

か語られないことが多かった理由は、全体主義の

台頭の理由とそれに対する民主主義勢力の勝利を

語れば目的は達したという無意識の思いこみの所

産ではなかったか。このような課題意識に依って

立ってきたからこそ、戦後史をどう語るかの方法

論開発がなおざりにされてきたのではなかったか。

 第二次世界大戦が終わってから半世紀以上たっ

た今、われわれの主たる課題意識は当時と同じで

あろうはずはなく、確かにあらかたの歴史担当教

員は60年前のような課題意識はとうに克服してい

ると思ってはいる。しかし、地球温暖化や地域紛

争などのグローバルな課題、ソ連の崩壊と冷戦後

の世界、イスラーム原理主義などの今日的課題に

関する歴史教育の方法論開発がいまだ全く不十分

であるが故に、実際の授業の内容・方法論の基軸

はつまるところ、第二次世界大戦終了時の課題意

識の枠組みをいまだ超えることができていないの

が現実ではないか。

3  新しい歴史教育の方法論への一試案

 先に述べた歴史教育の場におけるプラグマティ

ズムの必要性の観点に立つとき、歴史教育は課題

意識=問いかけの仕方を、学問の最先端の紹介で

も、60年前の課題でもない、もっと我々の身近な

生活実感に立脚したものに再構築しなければなら

ない。

 このようなことを踏まえてこれからの歴史の授

業はどうあらねばならないか。言うは易く行うは

難しであるが、一つの試論として以下のようなア

プローチの仕方を提示してみたい。

① 歴史との対話の仕方を例示する授業

② 歴史との対話の素材を提供する授業

 ①については、あるテーマを設定して実際に歴

史に問いかける作業をする。これに授業時数の

1/4程度を確保する。

 たとえば、

 a 人々はどのように環境を壊し、あるいは保

全してきたのか

 b 今日なぜ多くの地域で内戦が起き、人びと

は殺し合っているのか

 c 「民主主義」は、果たして世界で同じよう

に実現されてきたのか

a、b、cともに扱い方は非常に難しいが以下の

ような形は不可能であろうか。

aについて

 古代メソポタミアにおける森(レバノン杉)の

伐採をギルガメシュ神話を例に、ローマ時代にお

ける森林破壊を公衆浴場等で消費される大量の木

材などを例に、18〜19世紀のアメリカの森の減少

を木造軍艦の建造などを例に、中国の清時代の森

の消滅を出稼ぎ労働者に食べさせるトウモロコシ

栽培などを例に扱い、環境破壊が決して近現代に

のみ起こる現象ではないことを理解させる。また、

16世紀に始まるロンドンの大気汚染、19世紀パリ

の都市改造を例に、都市における劣悪環境がどの

ように起こるか、都市再生のために何が必要かを

探る。

参考文献

「森と文明」(ジョン=パ−リン:晶文社1994)、「森と緑の

中国史」(上田 信:岩波書店1999)、「技術発達史とエネル

ギ・環境汚染の歴史」(門脇重道:山海堂1990)、「パリの

聖月曜日」(喜安 朗:平凡社1982)、「フランス第二帝政下

のパリ都市改造」(松井道昭:日本経済評論社1997)など

bについて

 地域紛争を欧米の植民地主義の負の遺産の観点

のみからではなく、部族社会、宗教・宗派、市民

社会の未成熟等の観点からも扱う。

 たとえば部族間抗争の視点からイスラーム世界

を見てみる。ヒジュラなどを例にイスラーム教が

部族間抗争の調停に一定の役割を果たしたこと、

「聖戦」概念とベドウィンの略奪習慣の関係など

に目を向けさせる。

 イスラーム原理主義を語る際にも、第1次ワッ

ハーブ王国の成立と崩壊よりも、西欧列国からの

圧力の狭間で、部族間抗争を克服することに苦闘

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しつつサウジアラビアを建国したイブン=サウー

ドの姿にもっと説明の時間を割く。

 あるいは、第二次世界大戦後のザイール(コン

ゴ)やリベリア、シェラレオネの内戦を取り上げ、

部族間抗争に絡む、日本人には理解しがたい戦争

の動機と悲惨が世界にたくさんあることを取り上

げる。

参考文献

「イスラームのロジック」(中田 考:講談社選書メチエ

229 2001)、「砂漠の豹イブン・サウド」(ブノア=メシャ

ン:筑摩書房ノンフィクション全集13 1974)、「データベ

ース戦争の研究Ⅰ、Ⅱ」(三野正洋,深川孝行,波津博明:

光人社1999)、 「戦争を知るための平和学入門」(高柳先男:

筑摩書房2000)など

cについて

 民主主義を世界史上西ヨーロッパ型文明の国の

特殊な政治形態と捉える視点から扱う。

 権力の恣意的行使を抑制するいかなる手段を持

つかを、古代ローマにおける皇帝暗殺の例、元老

院が皇帝選出機関として機能したことなどを挙げ

て、たどってみる。

 また、中世ヨーロッパでは封建諸侯の割拠の上

に、王権を制限することが身分制議会としてシス

テム化されていくが、中国では民衆蜂起に乗った

地方政治勢力による権力奪取が繰り返されてきた

こと、その構図は近代中国史においても変わらな

いことを示す。そのために、まず、中国史を民衆

反乱と王朝交代に絞って概観する。また、「文化

大革命」などを例に中国の民主主義制度と権力闘

争の関係を概観する。

参考文献

「ローマ人の物語 Ⅶ」(塩野七生:新潮社1998)、「毛沢東

秘録」(産経新聞「毛沢東秘録」取材班1999)など

 ②については自分の生きるうえで歴史に問いか

ける必要が生じたときに、それに役立ちそうな素

材を知識として提供していく。これに授業時数の

3/4程度を確保する。

 その際、その素材は、1話完結方式の叙述とし、

素材相互を体系的に関連づけることは、原則とし

てあえて求めない。いわば事象研究の積み上げと

しての歴史である。

 ②の素材の提供の基準は「今」、「ここ」、「私」、

そして「異文化理解」である。

 「今」とは、現代の問題と密接な関係を持つ歴

史知識(ex. パレスチナやアラブ、バルカンや旧

ソビエト内少数民族に関するそれなど)、

 「ここ」とは、日本と関係の深い歴史知識(ex.

フィリピン、オーストラリア、アメリカ西海岸地

域・ペルー等、環太平洋地域のそれなど)、

 「私」とは、自ら意識されるされないにかかわ

らず自分のものの考え方に大きく影響を与えてい

る伝統的な発想に関わる歴史知識(ex.輪廻とか

儒教思想、近代西洋合理主義など)である。

 「異文化理解」とは、国際化時代の我々にとって、

世界各地域の人々の多様な風土と生活様式(宗教

など)と関連させていろいろなことが考えられる

素材を取り上げる。(ex. ヨーロッパ人にとって

の北欧神話やローランの歌など、インド・東南ア

ジア人にとってのマハーバーラタ、ラーマーヤナ

など)

 これらを基準として、それに合わない知識は大

胆に精選する。

 最後に、このような歴史の扱い方は、受験対応

に不向きである。今日の受験の世界は、まだまだ

従来の古い枠組みから抜け出してはいない。ただ

し、現実問題として受験対応が必要というのなら

ば、厳しいことになるが、授業プリントの作り方

に工夫を凝らし、新しい取り扱い方の中に受験知

識をぎりぎりどう網羅していくのかが問われるこ

とになろう(受験知識については項目名だけ並べ

ておき、あとは必要に応じ生徒が自分で調べるな

ど)。新しい発想がその新鮮さを失う事態も予想

されるが、それでもこのような世界史が今日の高

校における歴史教育に一石を投ずることは間違い

ない。また、これにより大学での専門的研究にも

影響を与えられるものなら、それは学校教育から

の大学の専門的研究に対する問題提起にもなる。

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はじめに

 前号に引き続き、東南アジア・海域世界につい

ての授業案の後半(13世紀以降)についてを扱う。

従来の授業であれば、16世紀以降の西欧の進出(ウ

エスタン・インパクト)以来、主体は西欧となっ

てしまい、一気に植民地化の歴史をたどったかの

ような授業になっていた。ナショナリズム運動や

植民地化への抵抗は19世紀の後半から始まるが、

近代世界システム論下の「中核」国たる西欧列国

やアメリカに押しつぶされていくさまばかりが描

かれてきたように思う。これは東南アジアに限ら

ず、「周辺」国と位置づけされる他のアジア地域

やアフリカ地域でも同様であろう。本稿では東南

アジア地域の「そうではない、そればかりではな

い部分」を取りあげ、海域世界の中で「主体的」

な活動をした姿や、実は東アジアとの密接な接触・

交易がしたたかに行われていた事実についてを浮

き彫りにした授業案をここに提案したい。

1.13〜15世紀の東南アジア世界

 タペストリー p.25「13世紀ころの世界」の地図

を使い、13世紀ころより東南アジアが大陸部は

大きな変動が起こる、という大まかな把握をさせ

た後、タペストリーの地図を見ながらの説明に入

る。大陸部では北の元(大元ウルス)の侵入に促さ

れ南下したタイ人によるスコータイ朝・ついでア

ユタヤ朝が出現、モン人・クメール人の勢力を圧

倒していく。ついで、タペストリー p.29「15世紀

ころの世界」地図を使い、アユタヤ朝の攻撃によ

りカンボジアがアンコールを放棄し、メコン川流

域に中心を移した。この大陸部の民族・国家興亡

の激動の中、タイ人・ビルマ人の活動を通じてス

リランカから伝わった上座仏教が「ようやく」浸透

してくる。それに従い、従来のヒンドゥー教や大乗

仏教が後退したこともおさえる。ここで上座仏教

のイメージづくりをさせるため、タイ・バンコク

のワット・プラケオ寺院で撮影してきた写真を回

覧させる。独特の袈裟を着た僧侶らの群像である。

 一方、諸島部については10世紀からジャワ島

の中心が東部へ移ったことを説明し、タペストリ

ーのp.21・23・25・27を開かせ、クディリ朝・シン

ガサリ王国が米・香辛料の輸出で栄え、そして14

世紀にマジャパヒト王国がジャワを中心にインド

ネシア全域を影響下においた流れを追う。ポイン

トとしては大陸部では旧来のヒンドゥー教・大乗

仏教が後退したのに対して、諸島部ではヒンドゥ

ー教が土着の信仰と結びつき定着する。ここでは、

タペストリー活用の授業案

東南アジア史・海域世界の展開(その2)

兵庫県立東灘高等学校 矢 部 正 明

タペ

ストリーを使って

バンコク「ワット・プラケオの僧侶たち」

バリ島ウブドゥ村「レゴンダンス」

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タペストリー p.122にあるジャワの影絵芝居の写

真を見せる他、自分で撮影してきたジャワ島(ジ

ョクジャカルタ)やバリ島(ウブドゥ村)の『マ

ハーバーラタ』を上演する影絵芝居(ワヤン = ク

リ)やバリ舞踊の写真を見せたり、時間に余裕が

あればCDでバリのガムラン音楽を聞かせたりし

て、西洋の洗練とはまた違った、インドネシアの

独特な芸術の昇華を感じ取らせたい。現地で購入

してきたワヤン = クリの人形など、手にとってふ

れることができるものも用意しようと考えている。

 14世紀末より海域アジアの交易ネットワーク

の中継貿易拠点として急成長してきたマラッカ王

国については、タペストリー p.29の「15世紀こ

ろの世界」「日本と東アジア海域」の両地図を参

照させながら以下の説明をしていく。

 明・永楽帝の命で遠征にでた鄭和の船団の補給

基地となったマラッカ王国は明に朝貢し、その権

威を背景に大いに繁栄した。しかし、明の対外消

極策への再転換で、交易の中心を西方へシフトし

香辛料輸出に力を入れるようになる。そして綿布

をもたらすインド商人との交渉が盛んになったこ

とから、彼らから

イスラームを受容

することになる。

 また、タペスト

リー p.121東南ア

ジ ア の 変 遷 C の

「大交易時代‘マ

ラッカ(ムラカ)’

の繁栄(15世紀)」

の地図を示し、マラッカには海域アジア全般の産

物が集散し、西はインドを経てエジプトのマムル

ーク朝やオスマン朝から、東はチャンパー・琉球・

中国の商人が集まったことを説明する。この海域

アジア全域に渡るマラッカ王国の商業ネットワー

ク、すなわちイスラーム = ネットワークを通じた

香辛料輸出を通じて、イスラームが東南アジア諸

島部各地に広がったことを強調する。ここでの注

意点は、マラッカ王国は建国当初からのイスラー

ム国ではなく、15世紀半ばになって「途中から」

イスラーム化したことである。また、海域世界へ

のイスラームの拡大によりマジャパヒト王国が衰

退し、ヒンドゥー教・仏教の文化はバリ島を除い

て(バリ・ヒンドゥーという独特の文化が現在も

継承されていることは有名)諸島部より姿を消し

たのである。

2.16世紀の東南アジア海域世界  ―香辛料交易の隆盛

 まず、タペストリー p.31の「16世紀ころの世

界」の地図を開かせよう。これまでの地図との違

いに気づかせたいことは、アメリカ大陸が入りま

さに世界全域が歴史の視野に入ってきたことであ

る。つまり東南アジア史を展望するにあたっても、

地球規模で歴史環境を見つめる必要があることを

示唆したい。そして、従来のような西欧中心の「世

界の一体化」の中のアジアというステレオタイプ

の見方からの脱却した見方を示したい。16世紀

以降の東南アジア史では、西欧の進出の実態とイ

スラーム = ネットワークとの関係、華僑の活動な

ど東アジア世界との関係についてクローズアップ

したいと思う。

 1511年にポルトガルがマラッカを占領し香辛

料諸島(マルクあるいはモルッカ諸島)に船隊を

派遣し各地に拠点を築いたことは重要だが、イス

ラーム世界の動向との連動を以下のように説明し

たい。マムルーク朝の衰えとともにイスラーム =

ネットワークは衰えたが、オスマン帝国がインド

洋への関心を高め、東南アジア島嶼部でもジョホ

ール・アチェなどのイスラム諸王国が勢力をのば

アッバース朝滅亡 1258 フラグ(フレグ)ひきいるモンゴル軍に滅ぼされる。カリフ死亡。

アイユーブ朝のマムルークが政権奪取して建国。

タイ人の王朝。上座仏教を導入。

香辛料の栽培・輸出で発展。

東南アジアイスラーム受容の中心。スマトラ島の語源。

シュリーヴィジャヤ(三仏斉)と同一もしくはその一部と推測される港市国家連合。

ゴール朝のマムルークがデリーで独立。

13世紀に再興,繁栄。宝石を商う大国として元とイスラームの史書に記される。

1279年,南海の小島で南宋皇帝死亡。

ハイドゥ(カイドゥ)の乱 1266~1301オゴタイ家のハイドゥ,策略でチャガタイ家を傘下に入れたのち,東方三王家と呼応するなど元に断続的に反抗。

モンゴル高原統一 1206テムジン,高原の諸勢力を統合し,大モンゴル国と称す。

アイン=ジャールートの戦い 1260マムルーク朝,モンゴル軍を破り,その西進を阻む。カリフの一族を保護下に。

西

洋地

ナイル

シア湾

カスピ海

ア  ラ  ビ  ア  海

イ  ン  ド  洋

アラル海アム川

シル川

黄 海

インダス川

ガンジス川

バイカル湖

長江

黒竜江

ベ ン ガ ル 湾

ブルッヘ(ブリュージュ)

コルドバグラナダ

タンジール

マラケシュ フェズチュニス

トリポリ

バルカ

トンブクトゥ

ガオジェンネ

エグモルトジェノヴァ

ミラノ

ベルゲン

ハンブルク(ブリュージュ)ブルッヘ

ヴェネツィアヴェネツィア

ザラ

ラグーザローマ

アレッポモスル

パレルモ

アレクサンドリア

ジッダ

ダミエッタイェルサレム

アンティオキア

アッコン(アッコ)アッコン(アッコ)

メディナ

クサイル

アスワン

キフト

アイザーブ

カアリクカ

ゼイラ

メッカ

モカ

アデン

シフル

ライスート

モガディシオ

マスカットダイブル

ナディヤ

チャウルデーヴァギリ

カンベイ

ノヴゴロド

ウラジーミル

スモレンスク

キエフ

リガ

ターナ

カッファ

ニケーア トレビゾンド

アラムート

レイ

バスラ シーラーズ

シーラーフ

ホルムズ

ケルマーン

イスファハーン

ニシャープルメルヴ

ヘラート

ウルゲンチ

カンダハル

バルフ

ガズナ

カーブル

ラホール

ヴァラナシ

アラハバード

ヴェーンギー

アグラ

ペグー

ラサ

ホータン

ビシュバリクベゼクリクトゥルファン 沙州

粛州

カラコルム

甘州 涼州興慶

大同

太原 膠州こうしゅう

河南

襄陽

鄂州

集慶

成都 重慶江陵

竜興天臨

大理中慶 厂山圭

広州

泉州

福州

慶元(寧波)杭州(臨安)

雷州昇竜

ケダー パタニ

サムドラ

ジャンビ

タンブラリンガ

テナッセリム

ラムリ

博多

鎌倉

ブルネイ

パレンバン

ヌルカン

カリカット

カーヤル

マドゥライタンジョール

カーンチー

パガン

ヴィジャヤ

アユタヤ

ブルガル

ブハラ

ベラサグン

サマルカンドカシュガル

ヤルカンド

(長沙)

奉元(京兆府)

ジェンド

オトラル

(新)サライ

(旧)サライ

タブリーズ

クイロン

コッテ

バーミヤーン

リューベク

リスボン トレド

パリ

オーフェン

クラクフ

リューベク

カイロバグダード

デリー

アルマリク

エミール

スコータイ

アンコール

シンガサリ

開城(開京)京都

上都

大都大都

ロンドン

コンスタンティノーブル

アラビア

アナトリア

エジプト

アッサム

ホラズムアゼルバイジャン

グジャラート

シチリア

スマトラ

ジャワ

三嶼

オイラト王家

女真

ウイグル王家

チベット(サキャ派)

東方三王家

クレタ島

ソコトラ島

ブルカン山

さんしょ

ウラル山

脈 カザフ草原(キプチャク草原)

マラヤ 山 脈

アルタイ山脈

セイロン島 モルッカ諸島

モンゴル高原

天山山脈

0°60°

60° 120°60°

30°

60° 120°

30°

15゜

15゜

45゜

45゜

15゜

15゜

30゜

30゜

75゜

75゜

90゜

90゜

105゜

105゜

135゜

135゜

150゜

150゜

15゜

15゜

30゜

30゜

45゜

45゜

1 12

2

3

3

4

5

4

5

65

A

A

B

B

C

C

D

D

E

E

F

F

G

G

H

H

I

I

J

J

K

K

L

L

M

おもな陸上交通路おもな河川交通路

元の侵入タペストリー p.25

   ヴァスコ

=ダ=ガマ

の航路

(リスボン発アフリカ南端経由)

15世紀後半から分裂し弱体化。

元崩壊後,永楽帝,ついでオイラトにおされる。ダヤン=ハンのもとで勢力強大となる。

土木の変 1449明の正統帝(英宗),オイラトの捕虜となる。

インド洋交易で活躍。

仏教文化が栄えていたが、徐々にイスラーム化。

チャンパーを圧迫して大規模な南進。

レコンキスタ(国土回復運動)完了1492スペイン,ナスル朝首都グラナダを陥落さす。

ビザンツ帝国滅亡 1453オスマン軍により陥落。コンスタンティノープルは,イスタンブルと呼ばれるようになる。

モスクワ大公国独立 1480イヴァン3世,キプチャク=ハン国から独立。ツァーリ(皇帝)を名乗り,ビザンツ帝国の後継者を自称。

タイ人王朝。アンコールを占領。

マラッカの台頭明との関係を背景に海峡地帯の支配拡大。イスラーム受容により、インド洋方面との関係も強化。

コンスタンティノープル

オスマン帝国

ジェノヴァ

ヴェネツィア

モスクワ大公国

マラッカ

マラッカ王国

モルッカ(香料)諸島

ナイル川

ユーフラテス川

ヴォルガ川

シル川

アム川

ガン ジス川

エーヤワディー川

メコン川

黒 竜江

バイカル湖

青海湖

イルティシュ川

インダス川

黒   海

ペルシア湾

カスピ海

アラル海

ア ラ ビ ア 海

ベンガル湾

黄河

黄海

東シナ海

南シナ海

西

イ  ン  ド  洋

ア ルタイ山脈

モンゴル高原

バルカン半島

ヒマ ラ ヤ 山 脈

キプロス島クレタ島

ソコトラ島

ウイグル

チベット(ゲルク派)

ラージプート

モルッカ(香料)諸島

ヒジャーズ

アラビア オマーン

セイロン島

ハドラマウト

ボルネオ

シベリア

エチオピア

アフガニスタン

1250~1517

1299~1922

1438~155215C~1598

1243~1502

1228~1574

1370~1507 1206~1526

1451~1526

1336~1649

1293~1527?

1368~1644

1351~1767

1428~1527

1392~1910

ジェノヴァ

ミラノ

ハンブルク

ストックホルム

ベルゲン

リューベクスモレンスク

リガ

キエフ

チュニス

トリポリ

セウタマディラ

アルギン

ヴェルデ岬

ビサウ

フェズ

サンタクルス

パロスザグレス

マラケシュ

アレクサンドリア

トンブクトゥ

ガオ

カアリ

アレッポ

ジッダ

アスワン

アイザーブ

サワーキン

ゼイラ

メッカ

メディナ

バグダード

バスラ

イスファハーン

レイ

タブリーズ

カッファ

ウラジーミル

ブルサデルベント

ティフリス

ターナベオグラード

サライ

マッサワ

アデン

ザファール

ライスート

シフル

ウルゲンチ

ブハラ

ニシャープルメルヴ

シーラーズ

シーラーフ

 ホルムズ

マスカット

カーブル

バルフ

ペシャーワル

カンダハル

ガズナ

カシュガルヤルカンド

ホータン

アンディジャーン

オトラル

ベラサグン クチャ沙州

ビシュバリク

カラコルム

トゥルファンハミイリ

ヌルカン

甘州

カンベイ

アラハバードダイブル

コーチン

クイロン

コロンボ

ヴァラナシ

アグラ

アヴァルアンプラバン

トゥングー

サムドラ

シンガプラ

旧港(パレンバン)トゥバン

ブルネイ

ケダー

ディウ

ゴア

チャウル

ダウラターバード

ナディヤ

グルバルカ ヴェーンギー

タンジョール

パンドゥランガ

ヴィジャヤアンコール

泉州長沙

江陵

開原

福州

寧波

博多

坊津

 昇竜

広州雲南桂林

貴陽

南昌

武昌 杭州

成都

京兆府

開封

済南寧夏

固原

大同薊州

宣府

遼東

太原

粛州

モンバサ

ザンジバル

マリンディ

ブラワ

モガディシオ

チェンマイ

コンスタンツ

楡林

ダマスクス

ノヴゴロド

襄陽

タンブラリンガ

テナッセリム

パタニ

ナポリ

ワルシャワ

アストラハン

プノンペン

リスボントレドグラナダ

ロンドン

パリ

オーフェン(ブダ)

クラクフ

ローマ

カイロ

コンスタンティノープル

モスクワ

サマルカンド

シビル

アルダビール

デリー

アーメダバード

ヴィジャヤナガル

ラサ

マジャパヒト

アユタヤ

ペグー

南京応天府

漢城(漢陽)京都

首里

北京順天府

ブルガル

ウィーン

ヘラート

エディルネ

ヴェネツィア

マラッカ

カリカット

イングランド王国デンマーク

神聖ローマ帝国フランス王国

ポルトガル王国スペイン王国

ナスル朝ナポリ王国

マリ王国

ハンガリー王国

リトアニア=ポーランド

オスマン帝国ハフス朝

ワッタース朝

スイス

教皇領

マムルーク朝

モスクワ大公国

ウズベク

モグーリスタン

カザン=ハン国

キプチャク=ハン国

アストラハン=ハン国

サファヴィー教団領

ティムール帝国 デリー=スルタン朝

シビル=ハン国

ヴィジャヤナガル王国

バフマニー朝

マラッカ王国

マジャパヒト王国

チャンパー

アユタヤ朝

(室町時代)日本

朝鮮

大越(黎朝)レ

(ロディー朝)

ザイヤーン朝

オイラト

タタル(北元)建州女真

海西女真

野人女真

スウェーデン

ノルウェー

クリム=ハン国

白羊朝

黒羊朝

ソンガイ王国

カンボジア

ヴェネツィア共和国

グジャラート

琉球王国

(瓦剌)

0°60°

60° 120° 60°

30°

60° 120°

30°

15゜

15゜

45゜

45゜

15゜

15゜

30゜

30゜

75゜

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90゜

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105゜

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135゜

135゜

150゜

150゜

15゜

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45゜

1 1

22

3 3

44

5

6

5

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A

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B

B

C

C

D

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E

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F

F

G

G

H

H

I

I

J

J

K

K

L

L

M

おもな陸上交通路おもな河川交通路

マラッカ王国タペストリー p.29

マラッカを中心とする交易ルート

アユタヤ朝

アヴァ朝

ペグー朝

カンボジア

マラッカ王国(ムラカ)

黎朝

マジャパヒト王国

アヴァ

ペグー

トゥングー ランサン

スコータイ

雲南

昇竜(ハノイ)広州

ホイアンマニラ

カンボジア

アチェサムドラ

パレンバン

マジャパヒトパジャジャラン

ブルネイマラッカ

アユタヤプノンペン

アンコール

ジョホール

ジャンビ

スマランマカッサル

テルナテ

アンボイナ

マジャパヒト王国大越国(黎朝)アユタヤ朝カンボジアマラッカ王国

最大勢力範囲

チャンパー

ヴィジャヤ

ジャワ島

バリ島

スマトラ島

ティモール島

スラウェシ島

ミンダナオ島

カリマンタン島(ボルネオ)

マラッカの繁栄タペストリー p.121

Page 19: 大航海時代とその帰結 - 帝国書院...り方は通用しない。 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

− �� − − �� −

し、ポルトガル人に対抗した。しかもポルトガル

は人口も少なく、軍事・経済面でアジア諸国に対

して強いわけではなく、経費のかさむ香辛料貿易

を行うことよりムスリムの交易活動を容認したた

め、イスラーム = ネットワークはすぐに活気を取

り戻した。

 フィリピンでは16世紀後半、フェリペ2世の

スペインが北部・マニラを拠点として進出し、メ

キシコ銀など「新大陸」からの銀を中国との貿易

に用いたが、南部ではスペイン支配に対してムス

リムの激しい抵抗が続き(モロ戦争)、現在もな

おミンダナオ島を中心にモロ人(イスラーム教徒)

の分離独立運動が継続している事実にもふれたい。

 ここで生徒の興味を喚起するためには、実物資

料に限ると思う。香辛料諸島の香辛料とは、ニク

ズク(ナツメグ)やクローヴ(丁子)、シナモン

などである。粉末になったものではなく、ホール

(乾燥させた形態のわかるもの)を用意して、ち

ょっと味見をさせてみるのもよいだろう。また、

どのような料理に使用するものか紹介するとより

身近な感じになるのではないだろうか。たとえば、

ニクズクの甘い香りと刺激のある味がひき肉料理

などに合い、ハンバーグには欠かせないスパイス

であることを紹介したらよいであろう。

3.17〜18世紀の東南アジア世界・諸島部  ―海洋アジア交易の変化

 17世紀は、西欧各国が体制再編し海外進出を

強化した。しかし、17世紀の前半は「17世紀の

危機」、すなわち飢饉・革命・大きな国際紛争の

時代となり、そのなかで海運王国となったオラン

ダひとりが繁栄したことが大きく東南アジアに影

響を与えるのである。東南アジア諸島部における

オランダの進出、そして香辛料貿易で優位に立っ

たことについて説明する前に背景として理解させ

たいことだ。そこでタペストリー p.32〜33の「17

世紀ころの世界」地図を使いオランダの来航と進

出について理解させたい。人口が少なく、拠点に

人員を送るのがやっとであったポルトガルを圧倒

的な力で抑え、1619年からジャワ島西部のバタ

ヴィアを拠点とし、1623年のアンボイナ事件で

イギリス人を排除したことを地図上で確認させた

い。そして、17世紀前半はオランダが東南アジ

ア諸島部でいかに台頭したかについて、タペスト

リー p.33の「オランダ東インド会社の台頭」と

いうグラフを用いて西欧勢力のアジア貿易に従事

した船舶数から理解させる。さらには、地図中の

オランダの活動を示すオレンジ色の線をたどらせ、

南インド・スリランカへの進出や、バタヴィアを

拠点として台湾から日本の長崎まで交易を伸ばし

たことを説明する。

 もう一つ忘れてはならないのが華僑の動向であ

る。明の海禁政策下でも徐々にわたってきた中国

人たちは着実に各地に拠点を築き、後に東南アジ

ア交易圏の重要な担い手となるのである。そのこ

とはやはりタペストリー p.33の地図中で、赤い

線で示された鄭芝龍(鄭成功の父)ら福建商人の活

動ルートをたどり、東南アジアの大陸部から諸島

部にかけて拠点を築いていることを確認させたい。

 17世紀後半になると、一転して東南アジア交

易は不振に陥る。ヨーロッパにおける香辛料需要

の減退、徳川幕府による鎖国政策・孤立政策の定

着による貿易縮小、中国の明清交代期の動乱など

が原因で、東南アジアでも大陸部より対外貿易に

依存度の高い諸島部は弱体化するのである。その

結果、オランダのライバルであったジャワ島のバ

ンテンやマタラムといったイスラーム国家が衰退

し、オランダによる諸島部支配の拡大へと進んで

いくのである。以上のように、ヨーロッパ勢・イ

スラーム勢・そして華僑といった各勢力の角逐の

中で海域アジア交易が変容した姿を立体的に理解

1581~900

10

20

30

40

50

60

70船舶数

1591~1600 1601~10 1611~20 1621~30年

オランダ

フランス

イギリスポルトガル

オランダ3204

その他1705

ハンザ同盟332

オランダ30%

フランス25

スペイン・その他

5

ジェノヴァ22

イギリス・ドイツ 18 外国船に握られる

 スペイン領の貿易

 (1690年代のアメ リカからカディス港 への商品持込割合)

 オランダ東インド会社の台頭

(アジアからヨーロッパへの 貿易に従事した船舶数)

0° 60° 120°60°

120°

0° 60° 120°60°120°

0° 0°

30°30°

60°60°

30°

30°

30°

30°

90°

90°

150°

150°

90°

90°

30°

30°

150°

150°

A B

B

C

C

D

D

E

E

F

F

G

G

H

H

I

I

J

J

K

K

L

L

1

1

2

2

33

44

55

ヨーロッパ諸国のライバルが排除され,日本への生糸輸出で巨利を得る。

アンボイナ事件1623 イギリス人を排除し,香料諸島を掌握。

1619~オランダのアジア貿易の中心拠点。

インド商人に,オランダ発行の免許状購入を強制。

1628年,オランダ西インド会社艦隊,スペイン銀船隊をまるごと拿捕。

奴隷輸出基地

奴隷購入取引地

ジュンガルの最大勢力範囲

バタヴィア

ハドソン湾

西

洋ドンイ

モーリシャスイル・ド・ブルボン

セントヘレナ

サントメ

ゴレ島

アルギン島

バルバドス

グアドループマルティニク

アンティグアジャマイカ

カナリア諸島

タスマニア島

サルフの戦い

オランダ領ケープ植民地

ポトシ

スペイン銀船隊

マニラ・ガレオン船(毎年1往復)

スペイン銀船隊

バレンツの探検

ムガル皇帝の財宝船隊

 バルト海に入る 船舶の平均数 (1594~1603)

ブラジルへ

スペイン領へ密輸出

カリブ海砂糖植民地へ

オランダ領ブラジルへ

ニューネザーランド

ニューイングランド

ニューファンドランド(1614~64)

メキシコ

アカプルコ

サントドミンゴ

クスコ

ラパス

ベレン

バイア

ケープタウン

ザンジバルモンバサマリンディ

モガディシュ

エルミナ

アデンゴア

ディウ

カリカット

コロンボ

デリー

イスタンブル

カイロ

モスクワ

リスボン

イスファハーン

北京江戸

西安 南京

寧波

厦門広州

長崎

マカオ

マニラ

マラッカ

クイロン

アチェ ブルネイ

アンボイナ(アンボン)

ワルシャワ

ベオグラード

キエフパリ

ロンドンベルリン

マドリード

トリポリ

チュニス

アルジェ

ホルムズ

ボゴタ

カラカス

グアテマラ

モントリオール

マスカットスーラットボンベイ

コーチン

マスリパタム

マドラスポンディシェリ

シャンデルナゴル

モザンビーク

ソファラ

ベンゲラ

ジョホール

バタヴィア

マタラム

マカッサル

ディリ

サンボアンガ

ゼーランディア

カイエンヌ

ニューアムステルダムジェームズタウン

オルバニ

サンルイ

ミシリマキナック

アスンシオン

レシフェ

キト

カルタヘナポルトベロ

  グアダラハラ

ベラクルス

ハバナ

ヌーヴェルオルレアン

プリマス

ケベック

カディス

ウィーン

アレッポ

バスラ

ジッダメッカ

カーブル

カンベイ

トボリスク

イルクーツク

クーロン

クラスノヤルスクネルチンスク

ヤクーツクオホーツク

ルアンダ

アムステルダム

タスマンの探検

ナイアガラ

デトロワ(デトロイト)

(セントルイス)

(ニューオーリンズ)

トゥルファン

バンテン

テルナテ

チベット

ホシュート

トルグート(カルムイク)

カシュガル(回部)

ハルハ

マダガスカル

チャハルフランス

イギリス

フィリピン(スペイン領)

コーチシナ

大越

朝鮮

後金(清)

日本

ムガル帝国

オスマン帝国

ロシア帝国

ブラジル

ペルー副王領

英領北米植民地サファヴィー朝

ブハラ=ハン国

ヒヴァ=ハン国

アユタヤ朝

トゥングー朝

スウェーデン プロイセン

ポーランド

ベニン王国

デンマーク=ノルウェー連合王国

フランス

スペインポルトガル

仏領ルイジアナ

ヌエバエスパーニャ副王領

イギリス

オランダ

ジュンガル

トンキン

奴隷輸出基地

スペイン領イエズス会伝道区イギリス領拠点都市  島  海賊・密貿易根拠地オランダ領拠点都市  島  海賊・密貿易根拠地フランス領拠点都市  島  海賊・密貿易根拠地ポルトガル領拠点都市イスラーム勢力拠点都市オランダの奴隷貿易ポルトガルの奴隷貿易オランダ東インド会社の貿易網オランダのバルト海貿易路スペインの護送船団の航路 芝竜など福建商人の交易路   オランダの進出に   かかわる事項

てい し りゅう

〈グラフ類は東大出版会『近代国際経済総覧』より〉

17世紀ころの世界 タペストリー p.32〜33

Page 20: 大航海時代とその帰結 - 帝国書院...り方は通用しない。 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

− �0 − − �� −

させたい。

 またこれは大陸部でも同様だが、18世紀まで

に東南アジアに進出してきた西欧勢力(ポルトガ

ルを筆頭にオランダ・イギリスそしてインドシナ

支配に乗り出してくるフランスの各国)は、実は

いずれも人口の1%にも満たず、影響力は薄かっ

たのが実情で、「ウェスタン・インパクト」という

東南アジアを圧倒したような印象を与える言葉と

実像が違ったということはしっかり理解させたい。

4.16〜18世紀の東南アジア世界・大陸部  ―国民国家の基礎形成期

 大陸部では、この時期に現在のベトナム・タイ

・ビルマ(ミャンマー)といった国民国家の領域

と民族統合の基礎が形成された。このことはタペ

スリー p.35の「18

世紀ころの世界」

地図の大越・シャ

ム・ビルマの領域

を確認させたい。

そして華僑の進出

都市を示す赤い■

マークに注目させ、

大陸部の3国は華

僑を利用したり、協力をえて国家形成へ向かった

こと、一方で華僑はこれらの国家を拠点に交易で

発展したことを説明する。

 ベトナム北部(大越国)では、復活して名目上

の支配をしていた黎朝の実権を握る鄭氏と、ベト

ナム中南部に独自政権を立てた阮氏の対立から南

北分裂した。そして南の阮氏はメコンデルタ領土

を拡大していく。18世紀後半に西山(タイソン)

の反乱を経て、1802年には阮氏の子孫・阮福映

が南北を統一して越南(ベトナム)が建国された。

阮朝建国に際しては、フランス人宣教師・ピニョ

ーの援助ということが、ベトナム植民地化の端緒

として大きく取り上げられてきたが、この時点で

はフランスがインドシナの本格的な植民地化に乗

り出すには至らず、ナポレオン3世によるベトナ

ム派兵、仏越戦争が始まる19世紀後半までは王

国の独自性が維持されたことを説明する。

 ビルマでは、ビルマ人のトゥングー朝が沿岸の

モン人を用いベンガル湾交易に乗り出し、シャム

のアユタヤ朝と戦い、一時は今日のタイやラオス

の大半を支配する大国になった。

 一時トゥングー朝に支配を許したシャムのアユ

タヤ朝は、17世紀になると反撃して優勢に立つと、

日本・ペルシア・フランスなど広域な交易で繁栄

した。このときアユタヤの日本人町をつくった山

田長政のエピソードを紹介したい。

 ビルマでは18世紀半ばにコンバウン朝がたち、

シャムに攻め込んでアユタヤ朝が滅ぼされたが、

華僑とタイ人の混血であるタークシン王が現・バ

ンコクのトンブリを中心に建国するとビルマ勢力

を撃退した。ついで成立したラタナコーシン(バ

ンコク)朝は、ビルマ・ベトナムと相争い、勢力

を拮抗させながら、華僑を利用した中国貿易(清

朝)で栄えた。

 18世紀における東南アジアの中国移民につい

ては詳細な説明をしたいところである。当時、清

朝下の中国は、急激な人口増加に食料生産が追い

つかず、華南を中心に大量の中国人が東南アジア

に流出した。その人々が大陸部の3国、諸島部に

定着し、華僑(住んでいる国の国籍をとらない中

国人)や華人(移住先の国籍を取得した中国人)

となったのである。とくにラタナコーシン朝のシ

ャムでは、貿易面で活躍する華人らに官位を与え

優遇したため、大きな華人社会が形成され現在に

至るのである。

 現在の華人社会を紹介する例として、撮影して

きたバンコクのチャイナタウンの中心であるヤワ

ラー通りの写真を見せようと思う。タイ文字と漢

モン=

ボリバルの活動

サン=

ルティンの活動(〜 )1822

~1825)

1699~1702年

1722~ 24年

1772~ 74年

0 2000

輸入額輸出額

4000千ポンド

1107851

16791745

47695148

1699~1702年

1722~ 24年

1772~ 74年

0 1000

輸入額輸出額

2000千ポンド

756136

966112

1929780

 成長をつづける大西洋貿易(イギリスの対アメリカ・西アフリカの貿易収支) 易

 赤字の累積するアジア貿易(イギリス東インド会社の貿易収支)

るいせき

0° 60° 120°60°120°

0° 60° 120°60°120°

0° 0°

30°30°

60°60°

30°

30°

30°

30°

90°

90°

150°

150°

90°

90°

30°

30°

150°

150°

30°

30°

A B

B

C

C

D

D

E

E

F

F

G

G

H

H

I

I

J

J

K

K

L

L

1

1

2

2

33

44

55

南米独立運動家シモン=ボリバルの出身地

イギリスとの自由貿易を求める。本国の統制に不満高まる。

インド産綿織物「キャラコ」の語源。

スペイン継承戦争(1701ー13)後,イギリス南海会社,スペイン領への奴隷貿易権(アシエント)獲得。

本国経済がイギリスに圧倒され,金の多くがイギリスに流出。

1703年にイギリスと通商条約(メスエン条約)を結び,イギリスに経済的に従属。

ジェンキンズの耳の戦争(1738ー48)イギリスの密輸船長,スペインの官憲に耳をそがれた,との証言より戦争に。オーストリア継承戦争(1740ー48)と合流。

ジャコバイトの反乱(1745)フランスの支援でジェームズ2世の子孫がスコットランドで反乱。

プラッシーの戦い(1757)イギリスは,フランスと在地領主の連合軍に勝利し,その後,ベンガル地方などを植民地化。

イギリス,茶の輸入で赤字続く。

フレンチ=インディアン戦争ヨーロッパで七年戦争(1756ー63)が行われていたころ,イギリスとフランスの北米での争いは激戦をくり広げ,イギリスが勝利した。

ボタニー湾

西

イ   ン   ド   洋

ハドソン湾

タスマニア島

←奴隷

砂糖・綿花・

染料 →

綿織物・武器・雑貨↓

←キャラコ・藍

←キャラコ・藍

セントヘレナ

アセンション

バルバドス

グアドループマルティニク

アンティグアジャマイカ

ミナス=ジェライス

グアナファト

ミノルカ

アゾレス諸島

カナリア諸島

マデイラ諸島

茶↓ス

ワヒリ文化諸都市

毛皮・魚↓たばこ・綿花→

↑金・皮革

サンティアゴ

メンドーサ コルドバ

ブエノスアイレス

サンパウロリオデジャネイロ

ニューヨーク

モントリオール

メキシコアカプルコ

サントドミンゴ

パナマ

ラパス

スクレ

ベレン

バイア

レシフェ

グアダラハラ

マナオス

カラカス

ボゴタ

グアヤキル

リマ

グアテマラ

キト

カルタヘナ

アンゴストゥーラ

ポルトベロ

ベラクルス

バハマ

ニューオーリンズ

セントルイス

デトロイト

ケベック

ボストンプリマス

フィラデルフィアリッチモンド

ロンドン

パリナント

リスボン マドリード

リヴァプールアムステルダム

ベルリン

エルミナ

アデン

モガディシュ

ザンジバルモンバサマリンディ

メッカ

ホルムズ

バスラ

バグダッド

カイロ

イスタンブル

アレッポ

ワルシャワ

サンクトペテルブルク

モスクワ

ウィーン

トボリスク

オムスク イルクーツククラスノヤルスク

カシュガル

ウルムチ

ネルチンスク

キャフタ

ヤクーツクオホーツク

北京山海関

カーブル

デリー

ディウ

ゴア

ボンベイ

クイロン

カリカット

コロンボ

カルカッタ

アチェ

マラッカペナン

バンコク

サイゴン

バタヴィア

パレンバン

バンテン

マカオ昇竜

広州

マニラ

ブルネイ

南京

寧波

ケープタウン

西安

江戸

長崎

キエフ

トリポリ

ケープコースト

フォートジェームス

サンルイゴレ

コロニア・デ・サクラメント

ジブラルタル

モザンビーク

ソファラ

ベンゲラ

マドラスポンディシェリ

(シドニー)ポートジャクソン

テヘラン

マギンダナオ

13植民地

オイラト諸集団 ハルハ

ニザーム

チベット

ベンガル

フィリピン(スペイン領)

チャハル

回部

スリナム

カーナティック

イギリス

フランス

朝鮮清

日本

ムガル帝国シクアウド王国

マラータ同盟

ロ シ ア 帝 国

イギリス

フランス

スペインポルトガル

オランダ

プロイセン

スウェーデン

デンマーク=ノルウェー連合王国

ヒヴァ=ハン国 ブハラ=

ハン国

ラージプート

ビルマ

シャム

カナダ

ペルー

ブラジル

ヌエバエスパーニャ副王領

ヌエバグラナダ副王領

リオデラプラタ副王領

アフシャール朝

アシャンティ王国

ベニン王国

ダホメ王国

コーカンド=ハン国

ドゥッラーニー朝オスマン帝国

大越

副王領

1763年パリ条約後の領土イギリス領拠点都市  島  密輸貿易港スペイン領   オランダ領   拠点都市  島フランス領   拠点都市  島ポルトガル領   拠点都市  島プロイセン領オーストリア領

1776年に独立宣言する13植民地イギリスの大西洋三角貿易ルートその他のイギリスの貿易ルートイギリスの対フランス・スペイン戦争華僑の進出都市

18世紀ころの世界タペストリー p.35

バンコク「チャイナタウン・ヤワラー通り」

華僑の進出都市

Page 21: 大航海時代とその帰結 - 帝国書院...り方は通用しない。 そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出

− �0 − − �� −

字で書かれた看板がひしめいているさまは壮観で

ある。そして、華人のタイ社会への影響力につい

て、タイ王国と華人社会のつながり(現国王・プ

ミポンの母后が中国系の人であるとか、昨年失脚

したタークシン元首相も中国系であったなど)を

説明するとさらによくわかるであろう。

 一方、ビルマのトゥングー朝ではポルトガル人

傭兵を従え対外発展し、シャム・アユタヤ朝では、

ポルトガルやオランダが中国貿易やベンガル交易

のため宮廷に接近したが、アユタヤ朝はうまく制

御して国交を開いた。西欧の侵略を受けていると

いうイメージとは逆に、したたかにうまく利用し

たというのが実情である。

5.その後の東南アジア世界   ―おわりに代えて

 本稿のおわりとして、その後の東南アジア世界

の「ゆくえ」を生徒たちに語るところでしめくく

りたい。19世紀以降、西欧による植民地化が本

格化することについてである。

 タペストリー p.35にある「赤字の累積するア

ジア貿易」(イギリス東インド会社の貿易収支)

のグラフを見せよう。イギリスの貿易赤字の主原

因となった中国との茶貿易を筆頭に、18世紀は

アジア貿易の輸入超過が西欧各国に累積していた。

西欧各国のアジア貿易における輸入超過が東南ア

ジア植民地化強化の大きな原因の一つなのである。

 19世紀以降の西欧による東南アジアの植民地

化を概観しておこう。

 諸島部では、現インドネシア地域を支配下に置

いたオランダは、1830年に強制栽培制度を導入し、

植民地への収奪を強化した。イギリスはインド覇

権を確立後、中国貿易にのりだし、東南アジアに

中継地を求めた。その結果、海峡植民地を形成し

ていく。19世紀末には、米西戦争の結果、フィ

リピンの支配権はアメリカへと移動する。それに

従い、民族主義運動はスペインからアメリカへと

向けられていく。

 大陸部諸国は、中国貿易の通路と自由貿易を求

める欧米列強国に開港を迫られる。ビルマはイギ

リスとの3度にわたるビルマ戦争に敗れ、英領イ

ンド帝国の一部に組み入れられていく。19世紀

後半には、フランスが徐々にベトナムを攻め、南

部を直轄領、中部・北部を保護領とした。さらに

清仏戦争に勝利し清朝よりベトナムの宗主権を放

棄させ、カンボジア・ラオスもあわせ19世紀末

にはフランス領インドシナ連邦を形成した。一方、

ラタナコーシン朝のシャム(タイ)は、不平等条

約を結んで開国したが、英仏の緩衝地帯として、

巧みな外交、ラーマ5世による近代化改革もあり

独立を維持した。

 そして最後に、西欧列強国の植民地となった東

南アジア世界は、18世紀までの歩んできた歴史

の違い、国家形成の形態の差が19世紀末から始

まるナショナリズム運動のあり方に、大陸部と諸

島部で大きな違いが出てくることについて次のよ

うに述べて授業を終えることにしたい。大陸部で

は、18世紀までにベトナム・ビルマ・シャムなど

民族国家が形成されたことから、英仏による植民

地化に対抗するナショナリズム運動が「民族国家

の形成=かつての王国の復活」という意味合いを

持った。言語や民族的にもほぼ国民国家を形成す

る準備が整っていたのである。それに対して18

世紀以来、オランダの支配が強くなった現・イン

ドネシア地域は、港市国家連合の盟主が緩やかな

支配を行ってきたところであり、多民族で複数宗

教が混在し、使用言語も数多く、統合された国家

形成の歴史がなかった。つまり「民族国家」とい

う概念がほぼない状態から、「インドネシア語」

という統一言語の作成、民族や宗教の違いという

壁を乗り越える努力を行うところからナショナリ

ズム運動を展開しなければならなかったのである。

《参考文献》『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗著 世界史リブレット12 山川出版社 1996年)

『世界の歴史』13東南アジアの伝統と発展(石澤良昭・生田 滋著 中央公論社1998年)帝国書院『新編高等世界史B』(新訂版) 本稿の執筆にあたり、大阪大学の桃木至朗教授から多大なご助言をいただいた。末尾ながら感謝の意を表したい。また、筆者が参加した大阪大学全国高等学校歴史教育研究会の成果を取り入れたこともここに記しておく。

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− �� − − �� −

昆明の街並み

 雲南は、中国の地図で見ると、西南の片隅にあ

り、タイ、ビルマと隣接している。とはいえ、省

の政府がある昆明の街は、堂々としているととも

に、中国の一般的な大都会と共通してビルが並ぶ

風景であり、必ずしも辺境の都市などという印象

を与えるものではない。かつては、西南中国に多

い木造、瓦屋根の家屋が見られたはずだが、現在

では、都市開発が進んでしまっている。

 それでも、昆明は特色のある観光都市である。

とくに、市街にも近い滇てん

池ち

は風光明媚な名所であ

り、市民に憩いの場所を提供している。雲南の料

理は、四川ともつながりがあるが、「麻辣」つまり、

山椒と唐辛子の辛さを基調とするものが多い。米

でつくった麺状の「米線」も有名である。たまた

ま、あるところで、食事をいただいたところ、「牛

肝菌」の炒めというものがでてきた。「牛肝」は

文字通り「レバー」であり、「菌」はキノコを意

味する。もしかすると思って尋ねてみると「フラ

ンス人は、たいへん好きで、これを輸出している」

とのこと。やはりトリュフに違いない。この高級

食材を大胆に油で炒めてしまうのには驚いた。

 さて、雲南は、日中戦争の時期にも、国民党の

支配下にあった地域である。中央政府が四川省の

重慶にあるなか、隣の省にある昆明も重要な役割

を果たすことになった。

 とくに、戦争中、知識人が多く逃避してきたこ

とは注目される。北京大学・清華大学・南開大学

という北京・天津の有名大学は日本軍の侵攻から

逃れて疎開してくると、昆明に西南連合大学を作

った。

 当時、内陸に孤立した国民政府への物質的援助

ルートとしては、日本軍のヴェトナム駐留ののち、

英領ビルマから雲南にぬける道路が注目されてい

た。日本軍は、ビルマからインパール方面に侵攻

しただけでなく、雲南への攻撃も行っていたので

あり、国防上でも、要地を占めることになった。

 このように中国にとって肝要な土地としての雲

南ではあるが、しかし、実のところ、古代から中

国の一部であったわけではない。

雲南の歴史

 雲南省の地からは、銅鼓という特徴的な遺物が

発見されている。これは、名前の通り、青銅で作

られた鼓のようなものであり、鼓でいえば手でう

つ面に相当する部分には、鳥人や船など各種の文

様が鋳込まれている。銅鼓はヴェトナムでは国の

象徴のような扱いを受けているだけではなく、タ

イの内陸部でも出土しており、いってみれば、雲南、

ヴェトナム、タイをむすぶ三角地帯に分布する。

 中国の博物館では、銅鼓は少数民族の遺物とし

て展示されていることがあるが、殷・周の青銅器

の名品に比べれば、あまり大きな扱いとはならな

い。いずれにしても、銅鼓が東南アジアらしい出

土品であることは確かなのであり、雲南は、今日

でいう東南アジア大陸部と共通した文化の地であ

ったことを示す。

 思えば、巨視的には殷・周の青銅器文明の流れ

をくむといえる日本の銅鐸などを、ことさら日本

固有であることを強調する議論もあるが、銅鼓の

位置づけを、それと比較してみることも興味ぶか

い。

 雲南を本拠とする王朝としては、8世紀には南

詔が、10世紀には大理が興った。これらの国家

の民族構成の詳細は、わかりにくいが、少なくと

も人口のほとんどは、漢人ではなく、現在の雲南

の少数民族を構成している人々の祖先だったとい

ってよいだろう。いずれの国も、仏教文化の影響

を強く受けていた。

中国史の奥の細道

東京大学文学部助教授 吉澤 誠一郎

多様な顔をもつ雲南

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 13世紀にモンゴル帝国が強盛を誇るなかで、

モンケ・ハンから中国方面への経略をまかされた

クビライが、大理を征服した。こうして雲南はモ

ンゴルの支配下に入ったが、そののち明朝や清朝

も雲南の支配を引き継ぐことになった。こうして、

雲南は、中国の一部となってゆくのである。しか

し、民族文化の独自性は、ずっと残ることになる。

古都としての大理

 大理は、細長い湖のほとりに開けた都市である。

かつての大理王朝の都にあたる。ここは、中国で

も有数の観光地である。大理古城という古い市街

地には、土産物屋がならぶ。古い市街といっても、

厳密にいえば、本当に昔からの建物はあまりない

かもしれない。古い感じを出すために新しく建て

られたものも少なくない。

 現在の中国では、観光産業の発展がいちじるし

い。1980年代ならば中国国内を比較的自由に旅

行しお金を使う存在として外国人の比重が高かっ

たかもしれないが、現在では、やはり圧倒的に中

国人観光客が多い。

 ただし、大理は、中国の普通の観光地と異なり、

英語を話す食堂なども多く、この地が外国人観光

客を長く受け入れてきた「伝統」のようなものを

感じる。世界には、貧乏旅行者が集まりやすい観

光地がいくつもあり、それはかつてヒッピー文化

と結びついてきた。雲南で大きな問題となる麻薬

も、ここで関係してくる。たしかに、雲南は気候

が温暖であり、そのような旅行者のたまり場とな

る条件を備えていたともいえる。今日の大理のも

つ独特の雰囲気は、この背景と不可分だろう。

 大理の辺りには、かつて大理国を形成していた

人々の子孫にほぼあたるペー(白)族が多く住ん

でいる。その文化伝統は、重要な観光資源である。

外国人にしろ、中国の別の土地からの観光客であ

ろうと、エキゾティズムの感覚を満足させること

ができるのである。

 土産物として、特色ある布など民族工芸品が売

られているが、これも、単純に昔ながらのエスニ

ック文化とみることはできない。なるべく売れそ

うな商品を開発するなかで、伝統工芸品も進化し

てきたのは当然だろう。民族衣装を着た人々によ

る工芸品の売り込みは激しく、ときどき辟易する。

巍山にて

 大理から少し車でいったところに、巍ぎ

山ざん

という

地区がある。ここは、イスラームを信仰する回族

が多く住むところである。

 かつて、19世紀なかばの雲南には、杜文秀と

いう人物を中心とした政権が成立し、イギリスと

交渉をもつなどして清朝からの自立を図った。ス

ルタンと号した杜文秀もムスリムである。

 雲南には、おそらく13世紀のモンゴル時代に

多くのムスリムが移住し、現在の回族はその子孫

であるとみなされている。明朝が雲南を征服する

とき捕らえられて宦官となった鄭和もムスリムで

あり、永楽帝の信頼を受けて活躍した。

 杜文秀の蜂起にまつわる伝承のある丘の上には、

ちょっと曲がりくねった木がいっぽん立っていた。

そこから、巍山の様子を見渡すと、美しい稲田の

なかに瓦屋根の集落が点在している。目をひくの

は、モスクである。

 ここまでは、観光客は来ない。土産物の売り込

みもない。のびのびした気持ちで、巍山の風光を

楽しむことができた。

巍山の風光  杜文秀にまつわる伝承のある丘よりのぞむ。中央にはモスクが見える。

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− �� −

 「東洋のマンチェスター」は、産業の隆盛を誇

った大阪の代名詞であった。しかし、19世紀後半

から綿糸綿布生産の拡大と東アジアの市場獲得を

巡ってマンチェスターと並存しあるいは競合した

のは、大阪の他にインドのボンベイ、中国の上海

であった。「東洋三都のマンチェスター」をたど

ってみる。

 7つの島からなるボンベイ(現在のムンバイ)

が埋め立てによって地続きとなり、綿紡績業と貿

易の中心地として発展したのは19世紀後半である。

1854年、アジアで最初に機械制生産による綿糸紡

績を始めたボンベイは、すでに1903年には143の

綿紡績工場、13万人の工場労働者を擁した。また

人口増加も著しく、1872年には64万4000人、1901

年には81万1000人、そして1931年には126万8000

人と急増した。

 インド綿糸綿布生産と輸出は、国際的な経済変

動、国内の政治状況、世界大戦の影響を受けて変

動を繰り返した。澤田貴之氏の詳細な研究(『ア

ジア綿業史論』八朔社、2003)によれば、1870年

代後半から、ボンベイの綿糸綿布生産はインドの

国内向けから海外向けに転換し、とりわけ対中綿

糸輸出量は74/75〜78/79年平均の1080万ポンドか

ら1904/05〜08/09年平均の2億4800万ポンドに増

大し、全輸出量の90%を超えた。ただ、ランカシ

ャー産綿糸のインド向け輸出も減少したわけでは

なく、同時期の1870年から1904年の間に、対印輸

出は2億2000万ポンド、全輸出量平均の19%を占

めていた。

 ボンベイ産綿糸の対中輸出は1906年の2億8200

万ポンドをピークに急減し、1910年代以降は再び

内需に重点を置くようになった。その背景には、

日中の綿業資本の台頭、インドの対外輸出に有利

な銀本位制から金本位為替制への転換の他に、国

産品奨励をうたったスワデーシ運動の影響もあっ

たと考えられる。

 第一次世界大戦後には再び対外輸出が伸び、

1914〜20年の間に輸出綿布量は1億3000万ヤード

から2億3900万ヤードに増加した。しかし、それ

も一時的なブームにすぎず、その後ボンベイ綿業

は停滞した(前掲書)。

 ボンベイがインド綿業最大の拠点となった要因

は、交易立地、輸送手段、労働力確保という好条

件にあった。17世紀末から交易の拠点がボンベイ

にシフトするまでは、近接の港市スーラトが古来

アラビア海交易の中心として栄え、綿糸綿布輸出

を行っていたのである。

 1853年ボンベイ−ターナ間に開通したインド最

初の鉄道は、1872年にはボンベイ−アーメダーバ

ード、ボンベイ−カルカッタ、ボンベイ−マドラ

ス間に拡延した。鉄道網の整備によって、後背地

で生産される綿花の大量輸送とスーラト、プーナ、

さらにはシンド、ベンガル地方など遠隔地からの

工場労働者の徴募が可能となった。

 また、1869年のスエズ運河の開通によって、ヨ

ーロッパ−インド−中国を結ぶ一大海運ネットワ

ークを形成したP&O汽船会社、それに対抗して

1885年に国策会社として設立された日本郵船は激

しく競合しつつ、ボンベイ−日本−中国(香港)

を結ぶ運輸手段として、原綿・綿糸・綿布の大量

輸送に貢献した。

「東洋のマンチェスター」をたどる ①

インドのマンチェスター

ボンベイ

追手門学院大学教授 重松伸司

当時のボンベイ