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仏法は聴聞に極まる
仏教の生きる意味を現代へ
通信コース[初級]22
この通信コースは、2600年前、仏教に解き明かされた本当の生きる意味を、半年で
体系的に理解するための講座です。このコースを終了した時、あなたは現代の誰より
も深い人生観が身についたことに気づくでしょう。
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通信コース 22
仏法は聴聞に極まる
いよいよ、誰もが知りたかったであろう、
「どうすれば生きる目的が果たせるのか」
という内容です。
しかし、今までの内容がきちんと理解されているかどうかで、
この内容が分かるかどうかも決まってしまいます。
よくよく内容を理解して頂きたいと思います。
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どうすれば生きる目的を果たせるのか
私たちは、何のために生まれ、苦しい人生、生きているのでしょうか。
誰しも幸福を求めて生きています。
しかし、一時的な幸福では心から満足できませんので、
変わらない幸福を求めています。
生きる目的は、生きている時に死の大問題を解決し、
「摂取不捨の利益」になることです。
では、どうすれば、死の大問題を解決できるのでしょうか。
仏教ときくと、山にこもって、滝に打たれたり、
座禅を組んだり、修行をするイメージがあります。
しかしそうではありません。
「仏法は聴聞に極まる」
といわれます。
生きる目的を達成する一番の近道は、
「仏法は聴聞に極まる」
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聞いて聞いて聞き抜く一つで、
生きる目的を達成し、摂取不捨の利益になれるのです。
「なんだ聞くだけか」
と思うかも知れませんが、
それも違います。
聞くといっても色々あります。
聴聞とは?
「聴聞」の
「聴」という字は、
耳へんですので、耳が外側についています。
それに対して
「聞」という字は、耳が中に入っています。
このように、「聴」と「聞」では、聞き方が違うのです。
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「聴」とは、ただ耳から聞いて、頭で合点しているような
聴き方をいいます。
1+1=2、
2+2=4と聴いて、
「ああそうか分かる」
と納得し、理解しているのを
「聴」といいます。
ところが、私たちは、頭で理解したはずなのに、
全然分かっていないことがあります。
例えば、
「人間は100%死ななければならない
しかも、いつ死ぬかわからない」
と言われると、
「それは、そうだ。
そんなことは小さい頃から分かっている」
とみんな頭では理解しているのですが、
ところが、明日も死なない、今日も死なないと思っている心もあります。
はじめは気づかないかもしれませんが、
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仏教を聞いていくと、腹底にあるような感じますので、
「下の心」といわれます。
それに対して、頭で理解している心を
上の方、頭にあるように感じますので、
「上の心」といいます。
「上の心」では、分かったと理解していても、
全然分かっていない心がもう一つあるんです。
必ず死ななければならないんですよと言われると、
上の心では、分かる分かると、納得するのですが、
「では明日死ぬと思えるか」
といわれると、
「さすがに明日は死なないだろう」
死ぬとは思えません。
しかし「明日死なない」という心は、
明日になったらまた、
「明日死なない」
と思いますので、永久に死なないと思っている心です。
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ちょうど、背中から光をあてられて
前にできたかげをふもうとしているようなもので、
どこまでいっても陰にはおいつかず、踏むことができません。
ちょうどそのように
「明日死なない」と思っている心は
どこまで行っても
「明日死なない」と思っていますので
永遠に死なないと思っている心です。
そんな頭では理解しているのに、
どうしても受け入れることができない心が
見えてきます。
この「下の心」は、たとえるならドタ牛のようなものです。
牛が寝ているとハエがたかっても動きません。
全然感じないのです。
このドタ牛に、何枚も何枚も毛布をかけて、
毛布をかぶって寝ているようなものです。
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ただでさえ感じないのに、毛布をかけて、
その上からハエがとまっても、
ますます何も感じません。
そのように、
「上の心」が分かるのは比較的簡単なのですが、
問題は
「下の心」です。
仏法は、この「下の心」に聞かさなければなりません。
この「下の心」が「はい」と聞いたのを
「聴聞」の「聞」というのです。
「聞即信の一念」
といわれて、
下の心が仏法を「聞」と聞いた一念、
無明の闇が破れて聞いたところが大安心、
本当の幸福に救われるという時が来ます。
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この信の一念を突破したことを
「信心獲得」とか、
「信心決定」」といいます。
よくよく聞いていくと、
「聞即信の一念」
にハッキリします。
ではそこまでどう進めばいいのでしょうか。
まず「聴聞」の「聴」ですが
仏法を分かった分かったと納得して聞いていることを言います。
「聴」がなければ「聞」はありません。
昔、四国の庄松同行といわれる
仏法を喜んでいた人が、
合点行かずば合点行くまで聞きなされ、聞けば合点の行く教え
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と言いました。
「合点」とは、納得ということです。
「合点行かずば合点行くまで聞きなされ」とは、
納得いかなかったら、納得いくまでききなさい。
「聞けば合点の行く教え」とは、
仏法は、聞けば納得のいく教えなんですよ、
ということです。
庄松は、大変頭が悪かったということで有名で
数を数えると8までしか数えられませんでした。
お金を数えても、八文までしか数えられなかったので、
「八文」とあだ名されていたそうです。
昔は義務教育もなかったためか、
蓮如上人の御文章を読む時も逆さまにして読んでいたと言われ、
字の縦横も分かりませんでした。
字の縦横も分からず、数も数えられない
庄松ですが、
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「合点行かずば合点行くまで聞きなされ、聞けば合点の行く教え」
仏法聞けば、納得できるのだと言っています。
「もし理解できないことがあれば、よく尋ねて、聞いてごらんなさい。
仏法の教えの内容は、理路整然としていますから
どんな人でも納得できます」
と庄松が言っているんですね。
また逆に、よく合点した人は、
その内容をどんな人にでも話すことができますので
もし、人に話しているうちに話せなくなってしまったら、
まだよく合点はできていなかったということです。
説明できないということは、
分かっていない何かがあるということです。
まずは「上の心」でよく聴いて、納得するのが大事です。
ところが、納得したのが、信心決定ではありません。
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これを、庄松は、
といっています。
「信」とは、信心獲得、信心決定の「信」で、
死の大問題を解決し、摂取不捨の利益にあずかったことです。
このような聴という聞き方はいくらでもできますが、
このような聞き方をいくら重ねていても助からないということです。
では聴聞とはどんなことかというと蓮如上人はこう教えられています。
聴聞とはどんなことか分かっているか
「聴聞ということは、なにと意得られて候やらん」
あなたは聴聞をどのように心得ていますか?
合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点のゆく教え。
合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの。
聴聞ということは、なにと意得こころえ
られて候やらん。
ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。
そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、
信得候わぬはきかぬにてあるべく候。
信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり。
(蓮如上人「一宗心得之事」)
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「ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候」
ただ聞いてさえおればいいのではありませんよ。
なぜならば、
「千万の事を耳にきき候とも信得候わぬはきかぬにてあるべく候。
信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり。」
いくら耳に千座万座の法話をきいても、
それでは聴のきき方だから助からない。
この合点から先は「上の心」が分かっても、
「下の心」が分かっていないので
「下の心」に聞かせるのです。
仏法はこの「下の心」
聞かない心であり、
真実を聞いてもはねつける心に
聞かせなければならないということです
水で石を穿つ
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これを蓮如上人は水で石を穿つと教えられました。
「至りて堅きは石なり」とは、
非常に堅いものは石である。
「至りて軟かなるは水なり」とは、
非常に軟いものが水である。
ところが、「水よく石を穿つ」
その非常に軟い水が、非常に堅い石に穴をあけることがある。
「心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」
とは、「心源」とは、心の源で、初心ということです。
至りて堅きは石なり、至りて軟かなるは水なり、水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」
といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり。 (御一代記聞書)
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「初心忘るべからず」という言葉もあります。
最初に「よしやるぞ」と思った初心を忘れずに、
「徹しなば」とは、
完徹すればということです。
「菩提の覚道何事か成ぜざらん」とは、
できないことがあろうか。
「といえる古き詞あり」
という古いことわざがある。
「いかに不信なりとも」とは、
まだ信心決定していなくても
「聴聞を心に入れて申さば」とは
真剣に聴聞すれば。
「心に入れて」とは真剣にということです。
真剣に聴聞すれば、
「御慈悲にて候間、信を獲べきなり」
信心獲得できるんだ。
信心決定できるんだ。
だから、
「只仏法は聴聞に極まることなり」
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「仏法は聴聞に極まる」
と教えられています。
これは何をたとえられたのかというと
「石」は「下の心」
「水」は聴聞の「聴」です。
そのやわらかい水が、かたい石に穴をあける、
生きる目的を果たすことができる。
信心獲得のことです。
水で石を穿つ時大切な、2つのこと
ところが、ここで、水が石に穴をあける時、
大切なことが2つあります。
1同じところに
2重ねて重ねて
水があたっているということです。
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いくら続けてあたっていても、
同じ所ではなく、いつもばらばらな所にあたっていたら、
穴はあきません。
また、同じところにあたったとしても、
短期間に一気にあたって
例えば一瞬、華厳の滝のようにだーっとあたって
すぐやめてしまったら、やはり石に穴はあきません。
1同じところに
2重ねて重ねて
あたることによって
やわらかい水で、かたい石に、穴があくのです。
これはどういうことかというと
聴聞をする時に、
1同じ事を、
2重ねて重ねて
聞きなさい、ということです。
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「その話この間聞いた、違う話が聞きたい」
というのは、まだ、合点していないということで、
知識欲でもっと色々聞きたいと思います。
ところが、仏法が分かってくると、
「下の心」が見えてきて、
この聞かない心に聞かせたい
と思うようになります。
同じことを聞きたくなってくるのです。
そして重ねて重ねて
同じ事を聞いて行くと、
やがて、必ず、石に穴があく時がやってくるのだ
ということです。
では、どんな気持ちで聴聞すればいいのか
では、どんな気持ちで聴聞すればいいのでしょうか。
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お釈迦様はこのように教えられています。
「設い大火有りて」とは、
たとえば、大きな火があって、ということです。
どれ位大きいかというと、
「三千大千世界」とは大宇宙のことなので、
大宇宙に充満する程大きな火です。
つまり、大宇宙が火の海原になっても、ということです。
そして、
「かならず、まさにこれを過ぎてこの経法をきけ」
必ずその火の海原を突破して聞きなさい
そういう気持ちで聴聞しなさい
と、お釈迦様は説かれています。
親鸞聖人は、これを受け、
設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、
要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽し
(大無量寿経)
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これも、「大千世界」とは大宇宙のことです。
「みてらん火をもすぎゆきて」とは、
大宇宙に満てらん火をも過ぎゆきてということで、
大宇宙が火の海原になっても、そこを突き抜けて聞け
ということです。
「仏の御名」とは、仏教のことなので、
仏の御名というのは仏教のことなので、
仏教を聞きなさい。
「ながく不退にかなうなり」とは
「不退」とは、永遠に退かない、
かわらない、摂取不捨の利益にあずかるのだ。
変わらない、不滅の幸福になれるのだ。
大宇宙を突破する気持ちで仏法を聞きなさい。
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり (浄土和讃)
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火中突破の聞法をしなさい
必ず不滅の幸せに輝くのだと
教えられています。
蓮如上人も、同じようにこう教えられています。
火の中をかき分けて仏法は聞きなさい。
そして分かりやすく、
火の中をかき分けて聞くということは、
雨風雪は問題ではないということだと教えられています。
「今日は雨が降っているからやめておこう」とか
「風がふいているからやめておこう」とか
「雪が降っているからやめておこう」とか
というのは問題外だ、火の中かき分けて聞きなさい
と蓮如上人も言われています。
このような、お釈迦様をはじめ、
火の中を 分けても法は 聞くべきに
雨風雪は もののかずかは (蓮如上人)
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仏教を正しく伝えられている方々は、
口をそろえて、
「火の海をかき分けて仏法を聞きなさい」
と、聞法の心構えを教えられています。
求法太子物語
これを教えられたお釈迦様のお話に、
「求法太子」の物語があります。
私たちが仏法を求めていくと、様々な障害や困難がやってきます。
それらをいかに乗り越えて求めていけばよいのか、
その心構えを教えられた、お釈迦様の過去世の物語です。
遠い遠い昔のことでした。
バラナという国に、ボンマダッタという慈悲深い王様がありました。
国民はみな、平和で安らかな生活を送っていました。
王様には、「求法」という名の一人の太子がありました。
求法太子は大変聡明で、
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成人するにつれ、
その名の通り、真実を求める心が非常に強い太子でした。
「どこかに真実の法を教える人はおられないか」
と、四方八方訪ねまわりましたが、真実の法を説く人にはあえず、
太子の心は日々、悶々と悩みに沈んでいきました。
そんなある日、
城門の前に、見慣れない一人の修行者が現れたのです。
「私は、尊い真実の法を悟った。
誰か、この法を聞きたい者はいないか」
修行者は、城に向かって大きな声で叫びました。
いち早くそれを聞きつけた太子は喜んで城を飛び出し、
その修行者を丁重に城の中へ招き入れ、
真実の法を求めたのです。
修行者は、求法太子に、おごそかに告げました。
「真実の法を聞くことは、決して容易なことではない
あなたは一体、どれほどの覚悟をもって
この法を聞こうとせられているのか」
求法太子は、
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「仰せのとおり、真実の法を得ることは
極めて難しいことだとは、よくよく存じております。
もし真実の法を聞かせて頂くことができれば、
妻子も財産も、地位も名誉も、
あなたの望まれるものは何なりと惜しみは致しません。
どうか私に、真実の法をお聞かせください。」
というと、
「私はごらんの通りの修行者、あなたの妻子や財産に用事はない。
私の知りたいのはただ一つ、
素直に私の指示に従うかどうか、あなたの決心だけだ」
「もちろん、あなたの仰せのとおりにいたします
どうか私に、真実の教えをお聞かせください」
「ではそこに深さ10丈の穴を掘らせ、
その中に、まきを積ませるのだ
そしてそのまきに火をつけさせよ」
太子は臣下の者に命じて、
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修行者の指示どおりの準備をさせると、
何ごとかと、場内の人々が集まってきました。
太子の妻や子供、両親の国王夫妻、
大臣たちまでもが周囲をとりまき、心配そうに見つめます。
やがて、地獄を思わせる紅蓮の炎が、火坑一面に燃え狂う、
その時でした。
「太子よ、その火坑に飛び込め!」
「!!」
無謀な指示に、太子は一瞬たじろぎます。
見守っていた両親や妻、大臣たちも驚愕します。
「あっ、あなた!何をするの!やめて!」
「太子、馬鹿なことをするな」
一同は太子に取りすがって無謀をいさめました。
国王が、
「おい、太子をそそのかすのもいい加減にしろ!
早くここを立ち去れ!」
と言うと、修行者は、
「私が太子に強要したことではない、太子自らが求めてきたのだ。
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指示に従わなければ私は帰るだけだ」
と立ち去ろうとします。
ところが太子は、
「お待ち下さい修行者様。
必ずあなたのおっしゃる通りに致します。
どうか、どうか今しばらく」
しかし、国王も妻も大臣たちも
絶対許すことはできないことでした。
国王は言います。
「太子よお前は乱心したのか。
なぜこのような無茶をして、
そんなに親を苦しめるのか、やめてくれ」
妻は、太子にとりすがって泣き叫びました。
「あなた!あなたは私や子供をかわいいとは思われないのですか。
あなたなしでは、私は生きてはいけません。
どうか、どうか思いとどまって!ねえ!あなた!」
群臣たちも、かわるがわる哀願します。
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「太子様、どうか国民のことも考えてください。
みんな太子さまに大きな期待を持っております。
どうかそのような自殺的行為はおやめください」
しかし太子の真実を求める心は、
ますます強く燃え上がるばかりでした。
「みんなよく聞いてくれ。私は、果てしなく遠い過去から今日まで、
数え切れない生死を繰り返してきた。
しかも、いずれの時も、
欲のために死に、
怒りのために死に、
愚痴のために、命を捨ててきた。
かつて真実のために命を捨てたことは一度もなかった。
そのために今日まで苦しみ続け、
1日として安らかな時はなかったのだ。
しかし、今私は、真実のために命を捨てる機会をえたのだ。
またそのチャンスを捨てよと言われるのか……。
今度こそ、今度こそ、
真実の法のために死なせて欲しいのだ」
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諭すように、哀願するように
求法太子は訴えられたのでした。
それまで、太子にとりすがっていた人たちは
真実を求めるすさまじい太子の気概に圧倒され、
思わず手がゆるんだ、その時、
太子はバッと火坑の中に身を投げたのです。
「あ!」
すると、たちまち紅蓮の火坑が静かな池となり、
光輝く蓮の花が開き、
その中に、満面の笑みをたたえた太子がにっこり座っていた
と言われます。
修行者は、実は、太子の求道心を試そうとした帝釈天でした。
「善いかな、善いかな、その覚悟あってこそ
真実を聞き開くことができたのだ」
帝釈天は、太子の求道心をほめたたえた
と、経典には説かれています。
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このように、果てしない過去から、今日まで、
欲のために死に、
怒りのために死に、
愚痴のために命を捨ててきたのは
決して求法太子だけではありません。
毎日、新聞にとりあげられる事件は、
金や財産、名誉のために命を捨てる人、
一時の怒りのために命を投げ出す人、
意地や我慢で死ぬ人、
ねたみそねみ、うらみの愚痴に殺される人、
どれもみな、果てしない遠い過去から繰り返してきた、
私たちのすがたではないでしょうか。
しかも、求めても求めても限りのない欲に、
心から満足できたということはなく、
欲が妨げられては、怒り狂って、苦しみ
ねたみ、そねみに迷って悩み、
心から安心できたことは、一時もありません。
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このまま命終われば、
苦しみから苦しみ、闇から闇への綱渡りで、
人間ほど悲劇的な生き物は
ないのではないでしょうか。
生まれがたい人間に生まれた
聞きがたい仏法を聞けた今、
人生の目的を果たさねば、いつ果たすというのか。
永遠のチャンスは今しかない。
勝負は今ですよ。決して後悔のないように。
とお釈迦様は教えられています。
人身受け難し今已に受く。
仏法聞き難し今已に聞く。
この身今生に向って度せずんば、
さらにいずれの生に向ってか、
この身を度せん。(釈尊)
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まとめ
生きる目的達成の、一番の近道は
「仏法は聴聞に極まる」の一本道です。
「聴聞」の
「聴」は上の心で聴く
「聞」は下の心で聞くということです。
八文と言われていた庄松は、
合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点のゆく教え。
と言っています。
蓮如上人はこう教えられています。
「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ」
極めてやわらかい水がきわめて堅い石に穴をあける。
その時、大切なことは2つです。
同じ所に重ねて重ねてあたること
同じことを重ねて重ねて聴聞するのが大事だということです。
その聞法の心構えを
親鸞聖人はこう教えられています。
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大宇宙が火の海原になっても、そこを突破して仏教を聞きなさい。
必ず永遠に変わらない、不滅の幸せになれるのだ。
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり (浄土和讃)
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覚えましょう
至いた
りて堅かた
きは石いし
なり、至いた
りて軟やわら
かなるは水みず
なり、水みず
よく石いし
を穿うが
つ。
「心源しんげん
もし徹てっ
しなば、菩提ぼ だ い
の覚道何事かくどうなにごと
か成じょう
ぜざらん」
といえる古ふる
き詞ことば
あり。
いかに不信ふ し ん
なりとも、聴聞ちょうもん
を心こころ
に入い
れて申も う
さば、
御慈悲お じ ひ
にて候 間そうろうあいだ
、信しん
を獲う
べきなり。
只仏法ただぶっぽう
は聴聞ちょうもん
に極きわ
まることなり。 (御ご
一代いちだい
記き
聞書ききがき
)
聴聞ちょうもん
ということは、なにと意得こころえ
られて候そうろう
やらん。
ただ耳みみ
にききたるばかりは、聴聞ちょうもん
にてはなく候そうろう
。
そのゆえは、千万せんまん
の事こ と
を耳みみ
にきき候そうろう
とも、
信しん
得え
候そうら
わぬはきかぬにてあるべく候そうろう
。
信しん
をえ候そうら
わずは、報土ほ う ど
往生おうじょう
はかなうまじく候そうろう
なり。
設たと
い大火た い か
有あ
りて三千大千世界さんぜんだいせんせかい
に充満じゅうまん
せんに、
要かなら
ず当まさ
にこれを過す
ぎてこの経法きょうぼう
を聞き
き、歓喜信楽かんきしんぎょう
し、受持読誦じ ゅ じ ど く じ ゅ
し、
如説にょせつ
に修行しゅぎょう
すべし。
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人身じんしん
受う
け難がた
し今已いますで
に受う
く。
仏法ぶっぽう
聞き
き難がた
し今已いますで
に聞き
く。
この身み
今生こんじょう
に向むか
って度ど
せずんば、
さらにいずれの生しょう
に向むか
ってか、
この身み
を度ど
せん。
たとい大千世界だいせんせかい
に
みてらん火ひ
をもすぎゆきて
仏ほとけ
の御名み な
をきくひとは
ながく不退ふ た い
にかなうなり (浄土和讃じ ょ う ど わ さ ん
)
火ひ
の中なか
を 分わ
けても法のり
は 聞き
くべきに
雨風雪あめかぜゆき
は もののかずかは (蓮如上人れんにょしょうにん
)