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『摩訶止観』病患境研究 ─「中薬」考─ 渡 邊 幸 江 はじめに 天台大師智 (以下「智 」)講説られる中薬、生薬方剤 1 わせても、僅二十類たないそのため、智 がこれら以外薬物未熟 なのかとえば、『摩訶止観』めとする文献には、薬産出法 種々服薬法 2 かれており、中医学古典医学書 3 医師されているつまり臨床有無にしても、智 中薬種類性質、運 用法五蔵との関係等する理論的知識については、既ていただろうと われるそしてこの推測からみれば、智 らの豊富薬識から二十種程中薬のみを選択講説いたということになるそうであればこ れら中薬には、何らかの共通した特徴があるはずでありその特徴意図結果であるとえられる本稿目的、智 いる中薬からその選別意図検討することにあ そこでこれら検討先立、智 「薬」観、中薬する見識したいそれは、薬選別薬観顕現でありその見識なくて 多大からの選別困難とするからであるここでは、第一章薬観とし『摩訶止観』検討、第二章 には中薬ける見識として、第一項神農げた。紙面関係 から今回考察以上となるがこれらの考察からどのような結果となるか 興味深第一章 智 の薬観 『摩訶止観』に見る薬 『摩訶止観』られる薬物解釈、世間いて除滅する ように、諸惑という仏法という法薬いる見解であり、『摩訶止観』全 駒澤大學佛 學部論集 第 40 號  21 12 (93) ─ 472 ─

摩訶止観 病患境の研究 考─repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30077/rbb040...『摩訶止観』病患境の研究 「中薬」考 渡 邊 幸 江 はじめに 天台大師智

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『摩訶止観』病患境の研究 ─「中薬」考─

渡 邊 幸 江

はじめに

 天台大師智 (以下「智 」)の講説に見られる中薬は、生薬と方剤 1を合

わせても、僅か二十類に満たない。そのため、智 がこれら以外の薬物に未熟

なのかと言えば、『摩訶止観』を始めとする智 の文献の中には、薬の産出法

や種々の服薬法 2が説かれており、中医学の古典医学書 3や古の医師の名も記

載されている。つまり臨床の有無は別にしても、智 が中薬の種類や性質、運

用法や五蔵との関係等に関する理論的知識については、既に得ていただろうと

思われる。そして、この推測から鑑みれば、智 は自らの豊富な薬識の中から、

二十種程の中薬のみを選択し講説に用いたということになる。そうであればこ

れら中薬には、何らかの共通した特徴があるはずであり、その特徴は智 の選

別の意図の結果であると考えられる。

 本稿の目的は、智 の用いる中薬から、その選別の意図を検討することにあ

る。そこで、これら検討に先立ち、智 の「薬」観と、中薬に関する見識を確

認したい。それは、薬の選別が智 の薬観に依る顕現であり、その見識なくて

は多大な薬からの選別を困難とするからである。

 ここでは、第一章を智 の薬観とし『摩訶止観』に見る薬を検討し、第二章

には智 の中薬に於ける見識として、第一項に神農を取り上げた。紙面の関係

から今回の考察は以上となるが、これらの考察から、どのような結果となるか

興味深い。

第一章 智 の薬観

『摩訶止観』に見る薬

 『摩訶止観』に見られる薬物の解釈は、世間に於いて病の除滅に薬を服する

ように、諸惑という病に仏法という法薬を用いる見解であり、『摩訶止観』全

駒澤大學佛 學部論集 第 40號  成 21年 12月 (93)

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『摩訶止観』病患境の研究(渡邊)(94)

編を通じ、仏法即薬の比喩として述べられている。

① 巻第五、破法遍を明かす三種のうち、仮から空に入る破法遍の空観で、法

と薬は相応の関係である。二料簡得失者。問。如此止觀隨逐諸見有何得失。

答。當四句料簡。一故惑不除新惑又生。二故惑除新惑又生。三故惑不除新惑不生。

四故惑除新惑不生。一譬如服藥故病不差藥更成病。二所治病差而藥作病。三病雖不

差藥不成妨。四故病既差藥亦隨歇。前二種是外道得失相。後二種是佛弟子得失相。4

 上記を整理すれば、下記の対応関係となる。一故惑不除新惑又生 =  一如服藥故病不差藥更成病  

前二種是外道得失相二故惑除新惑又生  =  二所治病差而藥作病

三故惑不除新惑不生 =  三病雖不差藥不成妨      後二種是佛弟子得失四故惑除新惑不生  =  四故病既差藥亦隨歇。

止観が諸見を随逐するのにはどのような得と失があるのかという問いに、智は四種の考えを示し、その一々を服薬に譬えている。一、古い惑が除かれず → その上、新しい惑がまた生ずる。

           ⇒ これは古い病が治らないのに 

           → 薬が更に病を生じさせてしまうようなものである

二、古い惑は除かれているが → 新しい惑がまた生ずる。

              ⇒ これは治す病は治しているが 

              → 薬が病を作るような物である

三、古い惑が除かれず → 新しい惑が生じない。

            ⇒ これは病は治ってはいないとはいっても

→ 薬が治癒を妨げるものにはなっていないようなものである

四、古い惑は除かれ → 新しい惑は生じない。

          ⇒ これは古い病が既に治り 

          → 薬もまた必要がなくなるようなものである

前の二種は、新しい惑の発起に薬が障となると説かれ、それは止観を学んで

も愛瞋に執するから外道と同じだという。愛處生愛瞋處生瞋。若學止觀墮如此者。同彼外道也。5

また、後の二種は仏弟子に於ける得失の相である。その三については貪瞋が

─ 471 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊) (95)

まだ除かれてはいないが、見の性相は破されているので方便道中の人であり、三佛弟子修此止觀爲方便道。深識見愛無明因縁。介爾心起即知三假。止觀隨逐破

性破相。雖復貪瞋尚在而見著已虚。六十二等被伏不起。是名故惑不除而新惑不生。

是爲方便道中人也。6

四については、見が虚妄であると空ずるので、豁然として真を発し理を見る

ことができる。それ故に古い病は永遠に除かれ新しい病も起こらない。これ

は見諦に入り聖人であるという。四若能如此三假四觀逐念檢責。體達虚妄性相倶空。豁然發眞即得見理。非唯故病

永除新病不發。是爲入見諦道成聖人云云。7

上述の主意は、止観を学ぶ者の階梯の違いを的確に捉えることにある。智

はこれを薬と治法に譬え、止観を修めても用いられ方を誤れば(薬も病症に

合った服薬でなければそれが障りとなり新たな病を生む)惑を生じさせると

説くのである。

② 巻第六、仮に入る観を明かす段にも、法と薬の相応関係が示される。三明入假觀者。即爲三。一知病。二識藥。三授藥。8

仮に入る観を明らかにするには、まず一に病を知る事。これは幾重にも重な

る見思の惑相を知る事と同義となっている9。二に薬を知る事。これには三

種があり、一に世間の法薬、二に出世間の法薬、三に出世間の最上の法薬で

ある。一世間法藥。二出世間法藥。三出世間上上法藥。10

世間の法薬は究極の治癒ではなく、凡夫が有漏の修禅をしても、その心行は

壊れた器から漏れるようであり、悲想を生じても再び退し還ってしまう。さ

ながら世間の医者が治療を施しても、また病が生じてしまうようであるとい

う。然世法藥非畢竟治。屈歩移足雖垂盡三有。當復退還。故云。凡夫雖修有漏禪。其

心行穿如漏器。雖生非想當復退還。如雨彩衣其色駮脱。世醫雖差差復還生。此之

謂也。11

また、出世間の法薬では道を薬に譬える。又如諸經中。或一道爲藥如一行三昧。如佛告比丘他物莫取。一切法皆是他物。於

一切法不受成羅漢。如前所明單複諸見皆悉不受。

      或二道爲藥定愛智策。二輪平等。

─ 470 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊)(96)

      或三法爲藥謂戒定慧。

      或四法爲藥謂四念處。

      或五法爲藥謂五力。

      或六法謂六念。

      七覺。八正道。九想。十智。

如是等増數明道。乃至八萬四千不可稱數。或衆多一法。乃至無量一法。

不可説一法。或衆多十法。無量十法。不可説十法。是一一法有種種名。

種種相。種種治。出假菩薩皆須識知。爲衆生故集衆法藥。12

一一の法には種々の名、相、治法があるが、仮に出る菩薩はこれらをすべて知

らなければならない。その理由は、衆生のために多くの法薬を集めるために他

ならないからである。

 また、出世間の最上の法薬は、止観の一法を薬に譬えれば、一法は一実諦、

二法は止観、三法は止観と随道の戒、四法は四念処、五法は五根、六法は六念

処、七法は七覚、八法は八正道、九法は九想、十法は十智に相応し、法に種々

の相があるように、治にも種々の治がある。それは衆生の為のゆえに多くの法

薬を求め集めるのであると説き、智 は仏法を法薬と捉える。又知出世上上法藥。

約止觀一法爲藥者。謂一實諦。無明心與法性合則有一切病相。觀此法性尚無法性。

何況無明及一切法。

或二法爲藥即是止觀。體達心性虚妄休息。

或三法爲藥即是止觀。及隨道戒任運防護。又三三昧。從假入空名空三昧。亦不見

空相名無相三昧。生死業息名無作三昧。

或四法爲藥謂四念處。諸見皆依色。此色非汚穢非不汚穢。受諸見思非苦非樂。諸

見想行非我非無我。諸見思心尚非心。豈是常無常。

或五法爲藥即是五根。修止觀時無疑。名信根。常念止觀不念餘事即念根。止觀不

息即精進根。一心在定即定根。四句體達無性故即慧根。五根増長名爲五力。

或六法爲藥謂六念處。以止觀覺見思惑即是佛法界。不破法身名念佛。常憶持止觀

不分別止觀一異相。名念法。止觀理和是無爲相。故名念僧。止觀有隨道戒。

名念戒。止觀即第一義。名念天。止觀捨見思惑。名念捨。

或七法爲藥者。止是除捨定三覺分。觀是擇喜精進覺分。念通兩處。

或八法爲藥。四句破假名正見。動發正見名思惟。依此修行名正業。説此止觀名正語。

不以邪諂養身爲正命。不離不忘名正念。止名正定。無間念名精進。

─ 469 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊) (97)

或九法爲藥者。謂四見是汚穢五陰。五陰變壞名色變想。乃至九云云。

或十法爲藥即十智。見思兩假是集苦智。止觀是道智。二十五有不生是滅智。知三

界皆爾是比智。以世間名字故説即世智。知他衆生亦然是他心智。知諸法差別

是等智。知苦集盡名盡智。無漏之慧名無生智。當知止觀爲益衆生隨根増減。

既得爲十。

亦得爲恒河沙佛法也。13

そしてその際、智 は『神農本草経』を引き、一病には一薬で足りているが、

大医は全ての薬に通じるべきであるという見解を示す。   欲治一病一藥即足。欲爲大醫遍須諸藥。14

それは大医であろうと欲すれば、全て諸薬に精通していなければならないか

らである。二乗は惑を治するのに一法で足りるが、菩薩は惑を滅し悟りへ導

くという大誓願ゆえに、すべての薬、いわゆる法を知らなければならないと

いう。皆審識之。欲治一病一藥即足。欲爲大醫遍須諸藥。二乘治惑一法即足。菩薩大誓

須一切知。15

ここでいう大誓願について、続く三蔵教の菩薩が初心に於いて、化に入る相

を述べる段には、上根の人が初発心した時は、一切衆生を救うために誓って

仏になろうと願うのであるが、それは煩悩を断じるような悟りを求めること

ではないと説いている。つまり、自分だけが空を知るのではあるが、一切衆

生を見捨てるようなことはないのである。それ故、全ての薬や病を知ること

が勤めて重要なのである。上根初發心時。爲度一切誓求作佛。因聞他説心已明解深識眞理。爲度他故不求斷證。

心又一轉我應度他。不應不度當勤分別一切藥病。何以故。五事重故。如人將兒過險

自既安隱。那得擲兒。雖自知空而不棄捨。是爲初心即能入假不待至二僧祇也。16

 次に、三として病に応じた薬の授け方であるが、これは気根に即した化導

を意味する。

もしも衆生の気根が出世間のものでなく、根性が薄弱で深い教化に耐えられ

ない時は、ただ世間の薬を授けるという。既知苦集之病。又識道滅之藥。若衆生無出世機。根性薄弱不堪深化。但授世藥。17

また出世間の薬を授けるのには十種の因縁がある。これは衆生の気根が同じで

ないように病も異なる。その病に従うので薬を授けるのもまた異なると述べ、

気根を下根・中根・上根・上上根に於ける違いを詳細に説いている。18

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『摩訶止観』病患境の研究(渡邊)(98)

亦爾。故前用世法而授與之云云。又授出世藥者。十種因縁所成衆生根性不同則是

病異。隨其病故授藥亦異。謂下中上上上。19

この気根について、智 は多くの薬効には相違があるとして華佗や扁鵲と

いった古の聖医 20の名を挙げ、それら聖医が時に合った処方を立てるのは、

土地や人の違いを観じた結果である。それと同様に仏の教えを聞く者には機

根の違いがあると述べ、その後、上根に於ける違いを詳細に説いていく。諸病苦痛種種不同。諸藥方治種種不同。華他扁鵲觀時觀藥更立於方。所以者何。

郷土有南北人有 健。食有鹹淡藥有濃淡。諸佛加威豁然鑒朗。21

③ 『摩訶止観』巻第十、三蔵教の四種の教えを説く際に、薬が治を目的とす

ることに譬え、仏法の四門に入る真意が明示される。受賜拜職從四門入。何暇盤停諍計好醜。知門是通途不須諍計。如藥爲治病不應分

別。22

智 は、四門に入るのにどの門が良いかなどと詮議する暇はなく、門は通過

する途中のものと知り、門の詮議を計るべきではないと説き、譬えれば、薬

が病を治する事を目的とし、分別を目的とするのではないと述べる。仏法を

享受する畢竟の真意は分別に於いて計れるものではないことを、薬の目的に

譬えるのである。

考察

 上記考察から、仏法は智 にとって万病の治薬と同義として捉えられている。

智 は衆生の機根を薬の個々の性格に喩え、修行の階梯を薬の処方の違いに相

応させる。ここには、仏法と治薬が同義として扱われ、相補的役割を得て述べ

られる。

 また、衆生の種々の惑障は多大な病種と同等であるとして、その除滅を智

は服薬に譬える。その際、一薬が究極の処方には違いないが、その為に他の要

因を回避することはなく、大医はすべての薬に通じるべきであるとの見解を示

す。つまり、薬が病の治癒を究極の目的とするように、衆生者が仏法を得るた

めには、分別を超えた不惜身命の態度こそ究極の真意となるのであると説くの

である。

 このような『摩訶止観』全編に於ける法と薬の譬えからは、薬は法薬 23に昇

─ 467 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊) (99)

華し、智 は仏のみが大医王であり、仏法は仏から授与された唯一の治薬なの

である。それは、智 自身が法薬を服し、法味は空であると知るからこそ、衆

生にはその機根に即した処方を教化すると解釈したい。ここで智 は大医であ

りながら、菩薩行に赴く者であろうとするのではないだろうか。

第二章 智 の中薬に於ける見識

 智 の講説には、中国に現存する最古の本草学書である『神農』、いわゆる『神

農本草経』の記載があり、また三皇や古の聖医と称される扁鵲、華佗の名も見

られる。本章では上記文献から、智 の中薬に於ける見識を考察する。資料の

煩雑を避けるために、各一節毎に連番を打つこととする。

 第一節 神農

第一項 『摩訶止観』考

① 『摩訶止観』には三ヶ所「神農」に関する説示がある。① 當知止觀爲益衆生。 隨根増減。既得爲十。亦得爲恒河沙佛法也。譬如神農甞

草立方。或一藥二藥乃至十藥爲方。衆多藥爲方。爲病立方。非無因縁。24

② 復次神農本方用治後人未必併益。華他扁鵲觀時觀藥更立於方。所以者何。郷

土有南北人有 健。食有鹹淡藥有濃淡。病有輕重。依本方治不能效益。隨時

製立仍得。25

③ 如野巫唯解一術。方救一人獲一脯 。何須學神農本草耶。欲爲大醫遍覽衆治

廣療諸疾轉脈轉精數用數驗。恩救博也。26

 ①には、止観が衆生を益するためには、その機根に随って増減させ十種の

教えを説くという。それは無量の仏法を得るものであり、譬えるなら神農が

身を挺し草を舐めて薬を知ろうとする行為は病の為であり、他の理由にある

のではないと述べる。これは神農が自らの身体を犠牲にし、多くの薬を甞め

処方を立てたという所業と、仏法を修する真意が同義であると捉え、智 の

仏法帰依に於ける真意を知るものである。

 ②には、神農が用いた本来の処方を用いて、後世の人を治療しようとして

もまだ十分な効果を得ることなく、後に華佗や扁鵲がさらに処方を立てたと

いう。その逸話を、智 は土地や人体の健全、食味の濃淡が違うように薬に

も濃淡があり、病も軽重があるから根本の処方で効果が得られない時は、そ

─ 466 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊)(100)

の時々に応じた処方を立てることを説き、修行者の気根を無視した教化は、

修行者の益に遠いことを述べるのである。

 ③は、衆生教化を誤る譬えとして、神農の所業が説かれる。③については

第三項の⑩に記すこととする。

第二項 中国古典資料考

 中国古典を資料に、神農を検討する。

② 神農が草を舐めて医薬を求めた件は、漢の劉安によって編まれた『淮南子』

「修務訓」に次の記載が見られる。時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀。(中略)嘗百草之滋味、水泉之甘苦、

令民知所避就。當此之時、一日而遇七十毒。

神農は百草の滋味や水泉の甘苦を舐めて、民に避けるべきものと採るべきも

のの区別を教えた。まさにこの時、神農は一日に七十種もの毒に中ったとい

う。27

③ 司馬遷の『史記』にも、同様の記述がある。28

木為耜。揉木為耒。耒耨之用。以教万人。始教耕。故号神農氏。於是作 祭。

以赭鞭鞭草木。始甞百草。始有医薬。

ここには、神農が木を切り鋤を作り、木をたわめて鋤の柄を作り、鋤鍬の使

い方を人に学ばせ、始めて耕作の法を教えたことから、号を神農氏と称した

事。また人々は耕作を知り、歳末に収穫感謝の祭りを行ったとある。神農は

その他にも赤い鞭で草木をたたき、百草を甞めて、始めて医薬を発見したと

いう。

④ 晋の皇甫謐の著した『帝王世紀』には次の記載を見る。炎帝神農氏。(中略)賞味草水(木)。宣薬療疾。救夭傷人命。百姓日用。而不知。29

神農氏は草木を賞味して、薬を行き渡らせ病を治療し、早死にする人や傷を

負った人の命を救ったという。だが多くの民はそれらの医薬を用いても、神

農の意義を知らなかった。

このように神農に関わる記述は多く確認でき 30、その殆どが自らの身を呈し

て草を賞味し、人々に用いられる薬物を教え、その命を救ったというもので

─ 465 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊) (101)

ある。

第三項 仏籍考

⑤ 智 の父起祖氏が文武に通じる博学の徒であることは、『天台智者大師別

伝』、『高僧伝』等から知られ、家隨南出寓居江漢。因止荊州之華容縣。父起祖學通經傳談吐絶倫。而武策運籌偏

多勇決。梁湘東王蕭繹之荊州。列爲賓客。31

智 がこのような生家の環境の中で、少時より四書五行を始めとする諸古典

を習得した事は想像に難くなく、古代の伝説とはいえ、神農が自らの身を挺

し病苦の治薬を求めんとした行為も、智 の思想形成の上に影響を及ぼす要

因となっているのではないかと想像する。

⑥ 『法華文句』の記載には、皆菩薩所爲。鑿井造舟神農甞藥雲蔭日照利益衆生。32

皆、菩薩の為す所と述べた後に、智 は具体的に井戸を鑿ち船を造り、神農

が薬を舐め、雲が影を作り日が照るように衆生を利益することを挙げて、こ

れらが菩薩の所業であると指摘している。ここで神農は衆生利益を以て菩薩

と解され、命を掛けた神農の治薬への壮絶な努力は、衆生を普く教化せんと

する智 の一心と重なりを見せている。

 

⑦ 『四教義』に、智 は神農等を古の聖医と称している。

 聖医が薬を造る理由は病を治する為であり、その目的の為に諸方を集めた

のである。ところが末代の凡医は神農等を真似て薬物の配合を調節し増減さ

せてはいるが、その真意を汲んでいるわけではなく、臨床的にも病症に従っ

た薬方ではないので病を治することがないと明言する。譬如神農編鵲華他皆古之聖醫。所造藥對治世撰集諸經方。當時所治無往不差。今

人依用未必皆愈。而即末代凡醫。雖約古方出意増損。隨病授藥少有不差。若深解

此喩通經説法。33

この智 の批判が何を意味するのかといえば、法に即した教導こそが衆生の

病を治することとなる。その法は智 の真意に於いては、下根に自らを置き、

その気根を把握したものではないだろうか。つまり下根を範疇に置く智 が、

一薬で衆生全ての病を治するとは想像されず、全ての治法を知ることが重要

─ 464 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊)(102)

と思われるのである。

⑧ その聖医については、前述した『摩訶止観』の上記③に記されるように、

その扱いは衆生教化が主意なのである。如野巫唯解一術。方救一人獲一脯 。何須學神農本草耶。欲爲大醫遍覽衆治廣療

諸疾轉脈轉精數用數驗。恩救博也。34

智 は、市井にある巫がただ一つの術を理解するだけで僅かな人を救い、そ

れによって僅かな脯 いわゆる謝礼を得ているが、これらの者はどうして神

農の本草学を学ぼうとしないのだろうと判じ、大道に入らず小益で満足する

修行に対し、大医であろうと願う者は、全ての治療法に通じ、広くあらゆる

疾患を治療し、脈や精を変化させ、それらを種々用いたり経験していて、恵

みも救済も広いものがあると説き、神農の本草処方の義を引いて批判を加え

ている。

 神農はここに大医と称され、その処方及び治法の記載も詳細である。「恩

救博也」に至っては、菩薩の救済に値する。つまり智 は衆生一人一人の病

に応じた大医として、自ら諸法に通じる者とならんことを説くのではないだ

ろうか。

 この智 の大医観は、『輔行』に神農は仏、華佗等は仮を出離している菩

薩であると記されることからも理解できる。神農如佛。華他等如出假菩薩。依經造論名爲作方。35

第四項 考察

 ⑧までに神農の記載を、中国古典資料や仏典から検出した。中国古典に於い

ては神農の諸行に重点が置かれ、方や智 はその諸行の真意、いわゆる神農が

身を挺し民衆の病を治癒せんが為に薬草探索に奔走を重ね、薬物の最適な使用

方法を編み出した神農の自らの身体を省みない真意を我が物とする。それは、

衆生利益を目的とし、衆生の機に応じた教化に等しいものと解釈される。ここ

には智 独自の解釈があり、神農が命を賭けて編み出した薬は、智 の不惜身

命の化導と同義と捉えられるのである。

─ 463 ─

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊) (103)

結果考察

 第一章、薬観の考察から、智 は衆生の機根と薬の性を相応させ、薬は法薬、

法は仏から授与された唯一の治薬であるという見解が知られた。

 第二章、中薬の見識では、『摩訶止観』に見られる神農を取り上げ、考察を

試みた。智 は神農が身を挺し民衆の病を治癒する真意を、衆生の機に応じた

教化と捉え、衆生を利益するものとしていた。これは、智 自らが不惜身命の

信を教導することによると思われる。

終わりに

 智 が用いる中薬が、上記考察から知られる薬観とその見識から選別された

ものであるなら、数少ない中薬は、そのどれもが仏法そのものの顕現である。

そして、その説示は中薬を法薬と捉える智 の信から、我々にもたらされる。

我々がこの智 の指示を、今後どのように紡いでいくのか。更に検討を続ける

所存である。

1) 生薬は動物、植物、鉱物をあまり加工しないで薬品としたものをいう。一般には漢方薬として用いられる薬を生薬と称する。方剤は数種の生薬を治法目的によって合わせたものをいう。(神戸中医学研究会編著『中医臨床のための中薬学』1993年、医歯薬出版。同編著『中医臨床のための方剤学』1992年)参照。

2) 『摩訶止観』巻八中に薬と病を対応させ、病患境においても服薬等の説示を見ることから、智 の薬に於ける関心は薬本来の性を得ていたと想像する。(T46p0104b19、p0109b26)

3) 『摩訶止観』には「皇帝秘法」の語があり、中医学古典医学書『黄帝内経』を指す。また内容は中医学の基礎理論である相生、相克が正確に述べられ、このことから智が中医学理論に見識を有すると推察するのである。「如皇帝祕法云。天地二氣交合各有五行。金木水火土如循環。故金化而水生。水流而木榮。木動而火明。火炎而土貞。此則相生。火得水而滅光。水遇土而不行。土値木而腫瘡。木遭金而折傷。此則相剋也」(T46p0108b19)。

4) T46p0069b1

5) T46p0069b16

6) T46p0069b17

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『摩訶止観』病患境の研究(渡邊)(104)

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7) T46p0069b22

8) T46p0076a19

9) 病を知ることは見思惑という数多くの病を知ることであるという。「知病者知見思病。知見根本知起見因縁。知起見久近知見惑重數」(T46p0076a20)

10) T46p0077a20

11) T46p0077b18

12) T46p0077b26

13) T46p0077c11

14) T46p0078a26

15) T46p0078a25

16) T46p0079a26

17) T46p0078b29

18) 世間の薬の次に、出世間の薬を授けるにも気根の違いに応じた授け方があるとして、智 は下根、中根、上根、上上根の四種を説く(T46p 0078c11参照)。智 が説く四種の気根は下中上根の上に上上根を挙げている。上上根とは上根をさらに三種に分けた最上位の気根を指す。その際、智 は下中上根にも各々三種ずつある気根を配さない。この件について『四教義』に次の記載がある。ここには『大涅槃経』の三種の気根を挙げ、なぜ四種というのかの問いに、仏の教えは縁に従うので不定であると述べている。「有因縁故亦可得説者。即是用四悉檀。説心因縁所生之四句。赴四種根性十二因縁法所成衆生而説也。四種根性者。一者下根。二者中根。三者上根。四者上上根。赴此四種根性故因此教觀無礙而起。普利益衆生得成信法兩行之益。此即若聖説法。若聖默然之義也。問曰。大涅槃經云。根有三種。一者下根二者中根三者上根。爲中根人於波羅奈三轉小法輪。爲上根人於拘尸那城轉大法輪。若爲下根人如來終不爲轉法輪。今何得言有四種根性。爲下根人説三藏教耶。答曰諸佛教門隨縁不定。或説一根。或説二根。或説三根。或説四根。或言爲下根者説。或言不爲下根者説。言爲下根者説者。如法華經三草。二木禀澤皆得増長。言不爲下根者説者。説即如引涅槃經文也。」(T46p0724a16)

19) T46p0078c08

20) 『四教義』(T46p0723b13参照)。「譬如神農編鵲華他皆古之聖醫」21) T46p0078b02

22) T46p0036c29

23) 「觀心者。三毒等分是内病也。數息不淨慈心因縁是法藥。宜聞法藥得悟者。信行人病差也。作觀研心得悟者。法行人病差也」(T46p0081c22)

24) T46p0078a13

25) T46p0078b17

26) T46p0101c07

27) 傳維康著、川井正久編訳『中国医学の歴史』p14、東洋学術出版社、2003年

『摩訶止観』病患境の研究(渡邊) (105)

28) 『史記』「補三皇本紀」(『史記』吉田賢抗著、明治書院、1986年)29) 『帝王世紀』皇甫謐撰、芸文印書館印行。 30) 漢の陸買の著『新語』には「神農以為。行蟲走獣。難以養民。乃求可食之物。嘗百草之実。察酸苦之味。教民食五穀」の記載があり、神農は這う虫や走る獣によって人々を養うのは難しいと考え、その後、食べられる物を求めて、多くの実を甞め、酸味や苦味を観察して、人々に五穀を食べる事を教えたと記される。この神農が多くの実を甞めたという記述からは、植物性の薬物が神農により発見されたことが推察できる。また、宋の劉恕の著した『通鑑外紀』にも、「神農以為人。(中略)五穀與以助果実而食之。又嘗百草酸鹹之味。察水泉之甘苦。令民知所避就。当此之時。一日而遇七十毒」の記載がある。

31) T50p0191a24

32) T34p0145c15

33) T46p0723b13

34) T46p0101c06

35) T46p0343b19

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