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第三章 玄奘三蔵訳の般若心経を読み解く 摩訶 般若 波羅蜜多 心経 大いなる 智慧 彼岸に到る 心の経 サンスクリット原典では題名は最後にあり、心経の「心」hdaya はあるが、「経」sūtra 語は無い。 (以下サンスクリット原典は「梵典」と、また玄奘訳心経は「漢典」と記す) 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。 観自在菩薩が深い智慧波羅蜜を修行されておられた時、五蘊は皆空性と照見されて、一切の 苦厄を度(すく)われた。 般若波羅蜜多:六波羅蜜という修行六徳目の最後の段階である智慧波羅蜜 を云う。他に布 施・持戒・忍辱・精進・禅定という五つの波羅蜜がある。 五蘊:世界を構成する一切法の範疇である三科の第一、色受想行識を云う。 三科は他に十二処と十八界がある。 玄奘訳では「五蘊皆空」となっているところ、 梵典では「自性は空 svabhāvaśūnyān」となっている。自性がからっぽ(=無自性)といっ ているが、五蘊が皆からっぽとは訳されてはいない。 梵典 1-a 深い般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じていた観自在菩薩が見ぬいた。 「五つの構成要素(五蘊)が存在する。それらは自体(自性)が空である」と見ぬいた のである。(この時の空は空っぽ=そこには何も無いという意味である) 現代語訳では五蘊皆空もまた「実体のないこと(=無自性)」と訳されていて、「五蘊は皆空」 が「自性は空」と同じ意味に為ってしまう。これは般若心経を読んだだけでは理解できない ことであって、その理由を知るためには大乗仏教の、それも中観派の「縁起説」の理解が必 要となる。 中観派の縁起とは「相依性」として捉えられている。 「相依性」とは 相互に。他方に依存しあってあること とされる。 「自性がある」ということは「他と相依することはない」ことを意味する。 ゆえに「相依する」ものは「無自性」でなければならない。 「一切のものが縁起せるが故に空である」と云われ、縁起、無自性、空は 同義とされるとき、「空性」は無自性の意味を包摂することは前述した。

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第三章 玄奘三蔵訳の般若心経を読み解く

摩訶 般若 波羅蜜多 心経

大いなる 智慧 彼岸に到る 心の経

サンスクリット原典では題名は最後にあり、心経の「心」hṛdaya はあるが、「経」sūtra の

語は無い。

(以下サンスクリット原典は「梵典」と、また玄奘訳心経は「漢典」と記す)

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

観自在菩薩が深い智慧波羅蜜を修行されておられた時、五蘊は皆空性と照見されて、一切の

苦厄を度(すく)われた。

般若波羅蜜多:六波羅蜜という修行六徳目の最後の段階である智慧波羅蜜 を云う。他に布

施・持戒・忍辱・精進・禅定という五つの波羅蜜がある。

五蘊:世界を構成する一切法の範疇である三科の第一、色受想行識を云う。

三科は他に十二処と十八界がある。

玄奘訳では「五蘊皆空」となっているところ、

梵典では「自性は空 svabhāvaśūnyān」となっている。自性がからっぽ(=無自性)といっ

ているが、五蘊が皆からっぽとは訳されてはいない。

梵典 1-a

深い般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じていた観自在菩薩が見ぬいた。

「五つの構成要素(五蘊)が存在する。それらは自体(自性)が空である」と見ぬいた

のである。(この時の空は空っぽ=そこには何も無いという意味である)

現代語訳では五蘊皆空もまた「実体のないこと(=無自性)」と訳されていて、「五蘊は皆空」

が「自性は空」と同じ意味に為ってしまう。これは般若心経を読んだだけでは理解できない

ことであって、その理由を知るためには大乗仏教の、それも中観派の「縁起説」の理解が必

要となる。

中観派の縁起とは「相依性」として捉えられている。

「相依性」とは 相互に。他方に依存しあってあること とされる。

「自性がある」ということは「他と相依することはない」ことを意味する。

ゆえに「相依する」ものは「無自性」でなければならない。

「一切のものが縁起せるが故に空である」と云われ、縁起、無自性、空は

同義とされるとき、「空性」は無自性の意味を包摂することは前述した。

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徳利が空(カラ)だというときは酒がないことを意味することに似ている。依って 漢典で

の「五蘊皆空」は、五蘊は皆空っぽではなく、五蘊は皆無自性の意味である。

ゆえに「五蘊皆空性」と読みかえる必要がある。

玄奘は「自性は空 svabhāvaśūnyān」を「空性」という抽象名詞の一つの属性として、「空」

の一文字に封じたと捉えられる。さらに

「色即是空性」の 5文字より「色即是空」の 4文字のほうが韻をふみ、詩的になる。

どうして玄奘が「自性」という言葉を訳さなかったのか。これも問題です。

ほかの漢訳者たちの中には訳している人もいるのです。

「自性空」を法月は「五蘊自性皆空」と訳していますし、・・・

般若心経の新しい読み方 立川武蔵 p120

梵典には「度一切苦厄」に当たる一節は無い。黒崎氏によれば

『もしもこの文言が本当に付け加わっていたとすれば、それは、観自在菩薩は自分自身の

「一切の苦厄」を取り除いた、という事を言っているのであって、我々の苦厄を取り除いた、

という事を言っているのではない、ということになる』と解説されている。

黒崎 宏 理性の限界内の『般若心経』p15

しかし、観自在菩薩は世の人々の願いを観じて、その苦悩を救済する菩薩であって、自分自

身の「一切の苦厄」を取りのぞくことを行じている菩薩ではない。大乗仏教において衆生の

苦厄を救済する絶対的な菩薩として信仰されている。梵語の論理では説明がつかない。

漢文では度(すくフ)と訓読される。この一文こそ利他を行ずる観自在菩薩の真価であると

の説に肯首せざるを得ない。梵語の論理と漢文の論理との相違は明白である。

舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。

舎利子よ、色は空性と異ならず、空性は色と異ならず、色即ちこれ空性、空性即ちこれ色で

あり、受想行識もまたかくの如くである。

舎利子は智慧第一といわれる仏弟子。

梵典は「空性 śūnyatā,」となっている。玄奘の漢訳ではすべて「空」となっているが、

抽象化されて「空性」を意味する。

「受想行識亦復如是」とされているので、ここの文節は

五蘊不異空性・空性不異五蘊・五蘊即是空性・空性即是五蘊 と読み替えることができる。

五蘊は空性と異ならず、空性は五蘊と異ならず、・・・となる。

五蘊と空性の関係が説かれている。五蘊と空性が表裏の関係、あるいは円融している表現で

ある。法としての「五蘊」については前述した。

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涅槃経において、釈尊がのこした言葉は、

『諸行無常、汝等「法」を持して精進せよ』といわれている。

仏教で法は宝である。「縁起の法」とともに、五蘊は「人間の分析」のありかたとして、極

めて重要な「法」である。仏教の根本教理である三法印の一つ

「諸法無(非)我」も五蘊という法を基に説かれている。

仏教では、認識の成立要件として、六入(六根)、十二処、十八界というまとめ方がされる

が、・・・ 宮元啓一 「インド哲学七つの難問 第四問」

これも「五蘊のうちの識蘊」がなければ認識そのものがなりたたない。

梵典 1-aにおいても

深い般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じていた観自在菩薩が見ぬいた。

「五つの構成要素(五蘊)が存在する・・・」となっている。

五蘊は無自性ではあるが、存在は認められているのである。

五蘊は三科(蘊・処・界)の第一位におかれる。

それゆえ仏法の認識論として、「五蘊は認識の始まり」であり、「五蘊即是空性」の「空性」

とは「もの・ことの起点」と解釈し得る。

五蘊不異空性・空性不異五蘊・五蘊即是空性・空性即是五蘊は

五蘊は(認識の)の起点に異ならず、(認識の)の起点は五蘊と異ならず、

五蘊は即是(認識の)の起点であり、(認識の)の起点は即是五蘊である

と読むことになる。

ここで、「空性」は

認識の「起点」であり、「五蘊という法(ダルマ)の始まる処」である。

言い換えると、五蘊という法は空という場に在り、「法は空の相」となり、次章、「舎利子 是

諸法空相 不生不滅・不垢不浄・不増不減」へとつづく。

「空」とはすべての出発点である・・・ここに「空」がたんなる「ゼロ」でも「無」で

もないどころか、すべての出発点であることが見事に示されています。

般若心経入門 松原泰道 p152

「空」にはもろもろのものの存在や言語活動を否定するという側面と、その否定の結果

として新しい自己がよみがえるという側面との二面が存するのである。

空の思想史 立川武蔵 p6

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あらゆる事象を建設し成立させる空観・・・空観はしばしば誤解されるようにあらゆる

事象を否定したり、空虚なものであるとみなして無視するものでなくて、実はあらゆる

事象を建設し成立させるものである。 龍樹 仲村 元 p238

誰もいないお堂は「空きや」である。比丘や比丘尼が入って、お堂は僧伽と呼ばれる。同様

に「空いている場」に五蘊・十二処・十八界が入って「三科」と呼ばれても不都合は生じな

いだろう。

「五蘊という法(ダルマ)」あっての「空性(=場としての空)」、「空性」あっての「五蘊」

とはまさに相依であり、これは縁起に他ならない。前述の文節で説かれた「相依性=無自性

=実体がないこと」とも矛盾はない。

前述「空と空性」参照

空性が五蘊の場であろうことに示唆を与えてくれるのが、道元禅師の正法眼蔵である。摩訶

般若波羅蜜の巻には次のように記されている。

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色・受・想・行・識

なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空な

り、空即是色なり。色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。

色で五蘊が代表されている。

色と空性とが分ち難いものであると同時に、色は色、空性は空性に分けられている。そのう

えで すべての現象=色(百草・万象)が成立することが説かれている。色(百草、万象)

は空いていない場には存在しない。海に雨が降っても、川の流れは生じない。

「空性」は 色(百草、万象=実相)の「場」である。

色(法)は「場としての空」にあるもの、「空相」であると同時に「実相」であること、「諸

法実相」が説かれていると思われる。 写経のすすめ 岸本磯一 p37

「一切衆生、悉有仏性」を「一切の衆生は悉く仏性を有す」ではなく、

「一切(百草、万象)が衆生」であり、

「悉有(一切の衆生を包摂している)の場としての空は仏性」とよむ

ことにも符号する。 正法眼蔵 仏性の巻

例えば『般若心経』には「色即是空、空即是色」という有名な表現がある。これはこの経典

がインドで編纂された当時は、「色即是空」とは「色つまり、色や形のあるものは無常のも

のであるゆえに執着するな」ということを意味したであろう。しかし、中国や日本では『般

若心経』のかの表現は、「色や形のあるままにもろもろのものは真実である」、すなわち「諸

法実相」という意味であると解釈されることが多くなった。

空の思想史 立川武蔵 p6

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舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、

舎利子よ 是の諸法は空相にして、生ぜず滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、

前文で「空性」は認識の「起点」であると解して、法(五蘊)は空という場に在るもの、

「諸法は空相」である、と読み解いたのであるが、

梵語では、是の諸法は空相にしての「空相にして」の個所は

śūnyatālakṣaṇāで、 śūnyatā-(f.)「空性]、

lakṣaṇā-(adj.)「~の特性をもつ」

直訳すれば、(諸法は)“空性を特性としている”となる。

その特性が六不(不生不滅・不垢不浄・不増不減)である。

これは空性が「起点」であることと矛盾しない。起点であって、これから生じてくるのか、

消滅してしまうのか、あるいは垢となるか浄となるかは不明なのであって、まだ分別はでき

ないところにある。摂氏で0℃ は水が個体となるか液体となるかの分岐点である=不個

(体)不液(体)である。

六不の意味は多くの解説書で述べられているが、ここでは仏教的な解釈ではなく「言語の使

われ方=意味」といった観点から「空性」を考察する。

六不は対義語のどちらも否定している。これは三つの対義語に限ったことではなく、すべて

の対義語に当てはめられる。

これはあながち六不に局ったことではなく、いくつ「不があってもよいわけ

です。八不、十不、十二不という語が、お経に出ておりますが、いま『心経』

は、この「六不」によって、一切の「不」を代表させているのであります。

般若心経講義 高神覚昇 p69

「不」のついた語は、ここでは六つありますが、六つだけが問題で

ないのです。思いつくかぎりの概念をすべて並べ、そのことごとくに「不」

を付けよ、というのが、この節の趣旨です。

般若心経とは何か 宮元啓一 p112

漢文では対義語がすべて否定されている。ということは、明でもなく暗でもない。右でもな

く左でもない。有でもなく、無とも判断することができないということである。分別できな

い、言葉では語り得ないこと を意味する。

あるいは分別「左右・上下」の両端を離れた「まん中」を示すものと理解するしかない。

龍樹 仲村 元 p254

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空性という言葉が「分別できない、言葉では語り得ないこと」を意味することは、

無分別智である般若波羅蜜(多)から「悟りの境地」へとリンクされることを示唆する。

空を体得するためには言葉の無となった境地にいかなければならないのある。

空の思想史 立川武蔵 p4

もろもろのもの(あるいは色)は迷いの世界に属し、空は悟りに他ならいからである。

空の思想史 立川武蔵 p154

空性とは、ことばを離れた直観の世界の本質である。

空の論理〈中観〉 梶山雄一・上山春平 76

その現実はことばによって捕らえられないもの、ことばの虚構を否定するものである、

という意味で最高の真実である。・・・最高の真実が空性といわれる点にある。

空の論理〈中観〉 梶山雄一・上山春平 154

対義語を凡て否定し、分別できない、言葉では語られない、言葉を離れた最高の真実は有無

の極端の二辺を離れた中道へと連なる。

非有非無の中道は空と同義であるとされる。 龍樹 仲村 元 p262

以後の文段に於いて「空性」は言葉では語り得ない「般若波羅蜜(多)」

または「悟り」、あるいは「中道」の意味を持つことになる。

「不生不滅」「不増不減」を生滅・増減の否定と読み取ると、「生滅の無い、増減の無い、

絶対不変なもの=自性」と理解されることにもなり、無自性空と相反する結果をもたら

すことにつながる。

漢詩としての「本歌取り」:

八不を本歌とみて六不を読めば「諸法空相は中論頌を参照しなさい」と読み取れる。中

論頌には大乗仏教の空の思想の体系が記されている。

他方梵語では 不垢不浄は

amalāvimalā は,a + mala + a + vi + malā である。前半の amala は,a-(pref.)「否

定」+ mala-(adj.)「汚れている」。後半の avimalā は,a-(pref.)「否定」+ vi-(pref.)「分

離・反対」 + malā「汚れている」

直訳は「汚れていることもなく、汚れを離れていることもない」となる

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「垢」の対義語である「浄」の言葉はない。漢文では対義語を否定しているといえるが、サ

ンスクリット語では、「否定の否定」のままでとどまっている。「否定の否定」は「肯定」で

はない ニュアンスである。

梵語と漢字の表現の違いは次の文段にもでてくる。

漢典では「無無明 亦 無無明尽」の部位である。

梵典では na vidyā(無し 明) nāvidyā(無し 無明)となっている。

対義語が共に否定されている。

na vidyā は,na(adv.)「否定」+ vidyā-(f.sg.N.)「知識(明)」で、

合わせて「知識(明)が無いこと「=迷いや煩悩がある状態」となる。

しかしこの部分は漢典にはない。

nāvidyā は na(adv.)「否定」+ a-(pref.)「否定」+ vidyā で,

nāvidyā- 意味は「知識(明)が無いことは無い」

この部分が漢典の「無無明」に該当する。

na vidyākṣayo は,na(adv.) は否定を表し,vidyākṣayo は,vidyā-(f.)「知識」+ kṣaya-(m.)

「滅 亡」「喪失」の格限定複合語で,漢訳文なら「無明尽=知 識(明)が尽きること

は無い」というところだが,ここは漢訳にはない。

nāvidyākṣayo は,na(adv.)「否定」+ a-(pref.)「否定」+ vidyā-(f.)「知識」+ kṣaya-(m.)

「喪失」の格限定複合語で,意味は「迷や煩悩(=無明)が喪失する(=尽きる)ことは無

い」。 ここが「無無明尽」に相当する。

「明が尽きること」は「無明」となることであり、「無明が尽きること」は「明」とな

ること と推量できる。梵典では同義が反復されている。

十二縁起の否定文としては、「無老死亦無老死尽」とあわせて、漢典の方がすっきりし

てわかりやすい。

漢文で対語を否定するには「無」のほかに「不・非」などがある。しかし梵語での否定表現

と比べると微妙な違いがある。漢文では対義語の否定が明確あるのに対し、梵語の「否定の

否定」はあくまで、その後も弁証が続くことを予想させる余韻がある。

梵語原典と仏教漢文での経典解釈の相違はこの「否定表現の相違」に起因するであろうと考

察する。

是故空中、無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。

これ故に空中には色無く無受想行識無く、眼耳鼻舌身意無く色声香味触法なし。

無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽。乃至、無老死、亦無老死尽。

眼界無く乃至意識界無く、無明無く、亦無明尽くること無く、乃至老死なく

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亦老死尽くること無し。

無苦集滅道、無智亦無得。

苦集滅道なく、智無く亦得無し。

前文節で空性の特質は言葉では語り得ないことが説かれた。

是故空性中:是故に、空性という最高の真実(悟り)の立場は言葉が超越され、プラパンチ

ャの止滅した場である。

五蘊・十八界も、十二縁起・四聖諦も言葉で語られているが、最高の真実は言葉に依って知

ることも、得ることもできない。

空性(=最高の真実)においては色なく、受なく、想なく、行なく、識もなく、

眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなく、

眼界から意識界に至るまでもない。

無明もなく、また無明の尽きることもない。ないし老も死もなく、

老と死の尽きることもない。

苦も集も滅も道もなく、智もなく、得もない。

「般若心経・金剛般若経 中村 元・紀野一義」p013 で、

「是故空中」を「実体がないという立場においては」と訳されている。

これは空が「場」であることを示していると考えられる。

漢詩としての「掛詞」:

漢典での「是故空中」を「これ故に空性は中道」と一旦句点して読み、さらにもう一度「是

故空中無色・・・・」と続けても空性の意味は損なわれない。このときには「是故空中」は

掛詞になる。

般若心経を漢文で読むときは本歌取りや掛詞といった詩的な世界に入ることも可能で

あるが、漢典での「是故空中」は梵典で、

tasmāc Chāriputra śūnyatāyāṃ

それ故 舎利子 空性においては

と訳されていて、中道に当たる言葉はない。

十二縁起 ①無明、②行、③識、④名色、⑤六入、⑥触、⑦受、⑧愛、

⑨取、⑩有、⑪生、⑫老死

苦集滅道 四聖諦:初転法輪で仏陀が説いた教え。

迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理。苦諦・集諦・滅諦・道諦

(苦集滅道)。世はすべて苦であること、その苦の因は煩悩であること、その煩悩を滅する

こと、八正道の実践・修行が煩悩を滅した理想の涅槃に至る手段であるという教え。

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以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、

得る所無きを以っての故に菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るがゆえに、心に罣礙なく、罣礙

無きが故に

無有恐怖。遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。

恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想をと遠く離れ、涅槃を究竟す。

三世諸仏依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。

三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たり。

悟りを言葉に依って知ることも、得ることもできない。(言葉では悟りを)

得る所は無であるが故(悟りを得るには般若波羅蜜の修行をおいて他にない、故に)

菩提薩埵は般若波羅蜜多の修行に依って

恐怖をなくし、誤った想いから遠く離れ、煩悩のきえた安らかな境地を究めた。

過去から未来までの諸々の仏たちも般若波羅蜜多の修行に依って最高の理想的な悟りを得

たのである。

罣礙 妨げ遮る

顛倒夢想 逆さまな夢の如き思い

涅槃 煩悩が消えた安らぎ

究竟 究めつくす

三世諸仏 過去から未来までの諸々の仏たち

阿耨多羅三藐三菩提 最高の理想的な悟り=無上正等覚」

大乗仏教では、大乗の悟りは般若波羅蜜多に依っての悟りであり、これこそ「無上正等覚」

であるとしている。二乗(声聞・縁覚)の悟りをも認めはするが一段ひくい悟りとしている。

弘法大師 「般若心経秘鍵」 大綱序

夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして,即ち近し。真如、外に非ず、身を棄てて、何んか

求めん。迷悟我に在れば、発心すれば、即ち到る。明暗、他に非ざれば、信修すれば、

忽ちに証す。

道元禅師 「正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜の巻 第二章

而今一苾蒭の竊作念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり。この

正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり、いはゆる戒定慧乃至度有情類等なり。

これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

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真言宗でも曹洞宗でも般若心経はたいへん多く読誦される経典である。その理由の一

つが上述した宗祖の言葉なのではなかろうか?

仏法に発心し、信修し、諸法を敬礼する。言葉に依ってのあれこれではなく、

仏の智慧である般若波羅蜜多に依って悟り得、涅槃を究め、無上正等覚に到る。

出家して仏道を極めるための宣揚が、般若心経にはまことに端的に説かれていると感

歎する。

「以無所得故」

これは前の「無智亦無得」に付けても読めるし、後に付けても読める。後に付けた方がわかりやす

かろう。 金岡照光 仏教漢文の読み方(復刊) p201

法隆寺梵本には対応する原文がないが、東寺勧智院の澄仁本や・・・tasmād aprāptitvād (それ故

に 得ること無し=無得)・・・明らかに後の文章に附けている。

しかし、この語は法隆寺梵本に従って、無い方が分かり易い。

般若心経・金剛般若経 仲村元・紀野一義 p031

「無智亦無得」の「無得」が何ゆえに「以無所得故」と「無所得」になっているのか?

「得」も「所得」も同じ意味で、「得ることがない」と受け取るなら、玄奘訳は楽しめない。ただの

漢訳である。

インドの論理では「空性」とは「無の場がある」ことである。

「無所得」とは「無が所得する」、「無が所を得ること」であり、「無の場である」こと

であると読み解き、以て「(言葉の)無の場=言葉では得ることが無い」故に・・・

と読むことも可である。

故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪。

能除一切苦、真実不虚故、説般若波羅蜜多呪。

故に般若波羅蜜多はこれ大神呪であり、これ大明呪であり、これ無上呪であり、

これ無等等呪であると知られる。

能く一切の苦を除き、真実にして虚ならず故に、般若波羅蜜多の呪を説く。

故に般若波羅蜜多は大いなる真言であることが知られる。能く一切の苦を除き

真実であり、虚ならず故に、般若波羅蜜多の真言を説く。

即説呪曰、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。

即ち呪を説いて曰く、行きたるもの(般若波羅蜜多)よ。行きたるものよ。

彼岸に行きたるものよ。彼岸に行き着いたものよ。悟りよ。幸いあれ と。

般若波羅蜜心経

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第四章 心経の概説

般若心経は大般若経 600 巻の心髄を説いた経である。大乗仏教の中心思想である空の思想

が書かれている。心経は呪文である。経の意味内容は不可得であるが、読経し、写経するこ

とによって霊験あらたかな功徳がある。小乗仏教を否定した経典だ。等々、さらに小学生用

の宇宙科学的な説明から、老荘の思想かとまがうものまで、様々な解説書(まともな解釈か

ら、たんなる感想文まで)がある。しかしなぜ多くの宗派が心経を読誦するのかを具体的に

解説したものはあまりないようである。

般若波羅蜜多心経の書き下し文(金岡照光 仏教漢文の読み方より)

1-a 観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊は皆な空なりと照見し、

一切の苦厄を度う。

1-b 舎利子よ。色は空にことならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空、

空は即ちこれ色なり。受・想・行・識も亦たかくのごとし。

2-a 舎利子よ。是の諸法は空相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、

増さず減らず、

2-b 是の故に空中には色無く、受・想・行・識無なく、

眼・耳・鼻・舌・身・意無く、色・声・香・味・触・法無し。

眼界無く、乃至意識界無し。無明無く、亦無明の尽くること無し。乃至老死無く亦

老死の尽くること無し。苦・集・滅・道無く、智無く亦得無し。

3-a 得るところ無きを以ての故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、

心に罣礙無く、罣礙無きが故に、恐怖有ることなし。

顛倒せる一切の夢想を遠く離れ、涅槃を究竟す。

3-b 三世の諸仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、

阿耨多羅三藐三菩提を得たり。

4-a 故に知る般若波羅蜜多は是大神呪なり、是大明呪なり、是無上呪なり、

是無等等呪なりと。

能く一切の苦を除き、真実虚ならざるが故に、般若波羅蜜多の呪を説く。

4-b すなわち呪を説いて曰く

羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。

般若波羅蜜多心経

サンスクリット・小本 般若心経の和訳

般若心経の新しい読み方 立川武蔵 p098

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全知者に礼

1-a 深い般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じていた観自在菩薩が見抜いた。

「五つの構成要素(五蘊)が存在する。それらは自体(自性)が空である」と見ぬいた

のである。

1-b 〔観自在菩薩がシャーリプトラ(舎利子)にいう。〕「この世では、シャーリプトラよ、

色(いろ・かたちあるもの)は空性であり、空性は色である。

色は空性に異ならない、空性は色に異ならない。

色であるものは空性であり、空性であるものは色である。

受(感受)、想(初期観念)、行(精神的慣性)、識(認識)も同様である と。

2-a 〔観自在菩薩が続ける〕「この世では、シャーリプトラよ、すべてのもの(法)は空性

を特質としている。

それらは生ずることなく、滅することなく、垢のついたものでもなく、浄なるものでも

なく、不足なのでもなく、満ちているでもない。

2-b それゆえに、シャーリプトラよ、空性においては色なく、受なく、想なく、行なく、

識もなく、 眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなく、

眼界から意識界に至るまでもない。無明もなく、また無明の尽きることもない。

ないし老も死もなく、老と死の尽きることもない。

苦も集も滅も道もなく、智もなく、得もない。

3-a それゆえに、得がないゆえに、また菩薩の般若波羅蜜多に依るがゆえに、心を覆われ

ることがない。

心を覆うものが無いゆえに、恐れがなく、顛倒した心を離れて涅槃に入っている。

3-b 三世(過去・現在・未来)のすべての仏たちは般若波羅蜜多に依って無上の正しい悟

りを得られた。

4-a それゆえに知るべきである。般若波羅蜜多の大いなる真言は、大いなる知の真言、

無上の真言、比すべきものなき真言で、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りでな

いゆえに真実の言葉である。

般若波羅蜜多を意味する真言が説かれている。すなわち、

4-b 行きたるもの(般若波羅蜜多)よ。行きたるものよ。彼岸に行きたるものよ。彼岸に

行き着いたものよ。悟りよ。幸いあれ と。

以上で『般若波羅蜜多の心』を終わる。

「般若心経」を1~4に分け、起・承・転・結 で読み解く

1)「起」は 五蘊という法に関して説く

1-a 五蘊は自性に関しては空っぽ、すなわち無自性と説かれている。

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これは、ほとんどの解説書と同様である。

1-b 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。

五蘊の一つ一つについて意味を求めるのではなく、「受想行識亦復如是」

となっているのだから、五蘊全体と空性についての関係であると読み解き、「五蘊即是

空性」とは、五蘊は(自性が)空っぽということではなく、

五蘊は一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一、いいかえれば

起点としての空性に在る と解釈する。空と空性を参照

五蘊(ごうん)とは、仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)

の中の第一。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%98%8A

「仏はわれに蘊・処・界の法を説きたまえり」増谷文雄 阿含経点➀ p079

2)「承」は 悟りについて説く

2-a 諸法は空性を特質とする と説かれている。対義語が否定されている。

対義語がすべて否定されて、分別が成り立たなくなる。ことばでは語れないこと、

「無分別智=悟り」とリンクすること示唆する。

2-b 「悟りそのもの」は言葉では語り得ない。「悟りの智慧(空性)」に依って

語られたものが「仏の教え」であり「法」である。

(ニュートンの脳内そのものをいくら探しても、神経細胞は顕微鏡で探し出せるが、

「万有引力の数式」は見いだせない)

「悟り」は言葉に依って、智となることも、得ることもない。

空性とは、ことばを離れた直観の世界の本質である。

空の論理〈中観〉 梶山雄一・上山春平 76

その現実はことばによって捕らえられないもの、ことばの虚構を否定 するものであ

る、という意味で最高の真実である。・・・・・最高の真実が空性といわれる点にある。

空の論理〈中観〉 梶山雄一・上山春平 154

3)「転」は 般若波羅蜜多の功徳について説く

3-a (悟り)はことばでは得ることが出来ないが、般若波羅蜜多に依って涅槃が得られる。

3-b 三世(過去・現在・未来)のすべての仏たちは般若波羅蜜多に依って

無上の正しい悟りを得られた と説かれる。

4、「結」は 般若波羅蜜多への賛歌を謳う

4-a 故に般若波羅蜜多はすべての苦しみを鎮めるものであり、真実の言葉、真言である

と説かれる。

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4-b 真言を称えて曰く, 羯 諦ぎゃてい

、羯 諦ぎゃてい

、波は

羅ら

羯ぎゃ

諦てい

、波羅僧羯諦はらそうぎゃてい

、菩提薩婆訶ぼ じ そ わ か

「般若心経」は「空性」について、「法」や「悟り」との関係も説いてはいるが、主題は、

「般若波羅蜜多の功徳への称賛と、般若波羅蜜多に帰依することへの宣揚」を説いている経

典であると想察する。

大乗仏教は在家の仏教であり、誰でも仏になれる易行道である。その大乗経典である般若心

経が在家信者への説法で、「仏の法も、教えもからっぽで、悟りなんか知ることも得ること

もできない。そんなものに執着するな」と説いている、などとはとても考えられない。

「般若波羅蜜多への称賛と、般若波羅蜜多に帰依することへの宣揚」であるなら、

大乗仏教である日本仏教の「多くの宗派が般若心経を読誦する」ことに納得できるだろう。

当たり前の話ですけれども、『般若心経』は般若波羅蜜多心〔経〕と題名にあるように、

般若波羅蜜多という道を説いているのです。・・・『心経』は「空」を主眼として説いて

いる経典ではないと思うのです。 般若心経の新しい読み方 立川武蔵 p108