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佛教大学大学院紀要 第26号(1998年3月) 脱楽観主義 工 マ ス ンの 「運命」一 〔抄録〕 アメ リカの思想家 ラルフ ・ウォル ドー ・エマス ンの 「運命」 とい うエ ッセイ を通 し て,運 命 と自由意志 との関係 について論 じている。まず 「運命」の内容 を吟味 し,エ マ ス ンの運 命 と自 由意 志 に関 す る考 え を明 らか に して い る。 そ もそ もエ マ ス ン とい う 思 想 家 に は 強 い唯 心 論 的傾 向 が あ り.,彼に とっ て価 値 あ る もの は全 て 内 な る世 界 の も のであった。その思想的傾向が頂点に達したのが,い わば自己信頼 という楽観主義思 想 で あ る とす れ ば,そ れ とは全 く逆 の 視 点 を主 張 す る のが 「運命」 とい うエ ッセイの 特 徴 で あ る 。 この論 文 は,エ マ ス ンの 自己 信 頼 的 楽観 主義 と運 命 的悲 観 主 義 が どの よ う に関 係 しあ っ て い る の か を論 じ てい る。 「運 命 」 の 結 論 部 分 で エ マ ス ンは 「二重意 識 」 とい う考 え 方 を提 示 して,こ の 二 元 的 対 立 を統 合 して い る の で あ るが,そ の 考 え 方の持つ心理学的な意味合いにも言及 している。 キ ー ワー ド 運 命,自 由 意 志,自 己 信 頼,二 重 意 識,報 ア メ リ カの 思 想 家 エ マ ス ン(RalphWaldoEmerson)の 中心思想 は何 と言 って も自己信頼 と い う考 え 方 で あ ろ う。 エ マ ス ンが 自己 信 頼 を唱 え た の は ま だ工9世紀 の こ とで はあ った が,そ の 自己信 頼 とい う考 え方 は世 俗 的 な フ ィル ター をか け られ,自 らの信 念 は必 ず 実 現 す るは ず だ と い う楽観 思想 と して,現 在 もア メ リカ文 化 に息 づ い て い る と言 っ て い い。 た だ,も と も とエ マ ス ンが そ の考 え を表現 した 当時 は,非 常 に宗 教 的 な土 台 に基づ い た考 え方 で あ っ た。 そ も そ もエ マ ス ン とい う思 想 家 に は 強 い 唯 心 論 的 傾 向 が あ っ た 。 彼 の 代 表 作 『自然』 (Nature)か ら もよ く分 か る こ とで あ るが,彼 は し ば しば 自然 とい う もの を精 神 の影 と して 捉 え た。 つ ま り心 の 世 界 が 実 質 的 な 世界 で あ り,自 然 とい う外 部 の 世 界 は あ くまで そ の精 神 の世 一79一 /

脱楽観主義 - Bukkyo u · 厂自己信頼」における自 己信頼という彼の信念はこの考え方に発するものであった。エマスンにはもともと強い唯心論

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佛教大学大学 院紀要 第26号(1998年3月)

脱楽観主義

一 工 マス ンの 「運 命」一

持 留 浩 二

〔抄録〕

アメリカの思想家ラルフ ・ウォル ドー ・エマスンの 「運命」というエ ッセイを通 し

て,運 命 と自由意志 との関係 について論じている。まず 「運命」の内容を吟味し,エ

マスンの運命 と自由意志に関する考 えを明らかにしている。そもそもエマスンという

思想家には強い唯心論的傾向があ り.,彼にとって価値あるものは全て内なる世界のも

のであった。その思想的傾向が頂点に達したのが,い わば自己信頼 という楽観主義思

想であるとすれば,そ れとは全 く逆の視点を主張するのが 「運命」 というエッセイの

特徴である。この論文は,エ マスンの自己信頼的楽観主義 と運命的悲観主義がどのよ

うに関係 しあっているのかを論じている。「運命」の結論部分でエマスンは 「二重意

識」という考え方を提示 して,こ の二元的対立を統合しているのであるが,そ の考え

方の持つ心理学的な意味合いにも言及 している。

キ ー ワー ド 運 命,自 由意 志,自 己 信 頼,二 重 意 識,報 償

アメリカの思想家エマスン(RalphWaldoEmerson)の 中心思想は何 と言って も自己信頼 と

いう考え方であろう。エマスンが自己信頼を唱えたのはまだ工9世紀のことではあったが,そ の

自己信頼 という考え方は世俗的なフィルターをかけられ,自 らの信念は必ず実現するはずだと

いう楽観思想 として,現 在 もアメリカ文化に息づいていると言っていい。ただ,も ともとエマ

スンがその考 えを表現 した当時は,非 常に宗教的な土台に基づいた考え方であった。

そ もそ もエマス ンとい う思想家 には強 い唯心論 的傾向が あった。彼 の代表作 『自然』

(Nature)か らもよく分かることであるが,彼 はしばしば自然 というものを精神の影 として捉

えた。つまり心の世界が実質的な世界であり,自 然 という外部の世界はあ くまでその精神の世

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脱楽観主義(持 留)

界の反映で しかなかったのである。エマスンの関心は常に内へ向かっており,価 値あるものは

全て内なる世界のものであった。その思想的傾向が頂点に達したのが,い わば自己信頼という

考え方である。実際 「自己信頼」 というエ ッセイの中には外的世界が持つ実質的な力が問題に

されることはほとんどなかった。

そんなエマスンが 「運命」("Fate")の 中で自己信頼的楽観主義とは全 く逆の視点 を持 ちは

じめるのである。それまでは内なる世界の影で しかなかった外部の世界は実質的な力を持ちは

じめる。それと共に,世 界 というものが自由意志だけではどうにもならないものとなり,運 命

を肯定す ることなしには説明で きないものとなってしまった。それは,そ れまでの楽観主義だ

けではもうどうにも対処できない ということを意味 していた。事実,「 運命」の,特 に前半に

は今 まで見られなかったような悲観主義的な描写が随所に見 られる。ではこの二つの相反する

傾向をどのように捉えればいいのだろうか。自己信頼的楽観主義 と運命的悲観主義はどのよう

に関係 しあっているのであろうか。

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「状況 とは自然のことだ。自然 とは,人 間に可能なもののことであるが,不 可能なものも多

い。我々には二つのものが与えられている 一 状況 と生命だ。かつて我々は積極的な力が全ての

であると思っていた。今では,消 極的な力,つ まり状況が,残 りの半分だと分かっている」。

ここでは運命 というものを 「状況」と言い換え,さ らに 「自然」 と言い換えている。さらに運

命 と自由意志 を,消 極的な力 と積極的な力の二つに言い換えて,そ のどちらもが真実であると

断言 している。ここで述べられている考え方が 「運命」 というエッセイにおける問題提起であ

ると言える。これは,エ マスンの代表作 「自己信頼」("Self-Reliance")か らはかなり変化の見

られる考え方である。「自己信頼」ではエマスンは次のように主張 していたのである。厂神聖な

事実を簡潔に宣言することによって,侵 入 して くる人間や本や制度等 を驚かしてやろう。侵入

者たちに靴を脱ぐよう命 じてやるのだ,こ の中には神がいるのだから。我々の素朴さに彼 らを

裁かせ,自 らの法則への我々の従順さに,我 々の生まれながらの豊かさと比べると自然や運命くふ

がいかに貧 しいかを証明させるのだ」。

エマスンという思想家は楽観主義的思想家と言われている。そして,そ の大 きな理由の一つ

が,神 は自己の中にこそ存在するという彼の唯心論的考え方である。厂自己信頼」における自

己信頼 という彼の信念はこの考え方に発するものであった。エマスンにはもともと強い唯心論

的傾向があったが,そ の傾向が頂点に達 したとき,自 己信頼という楽観思想が生 まれたのであ

る。つまり,自 己の内なる世界が全てであるというのだから,外 的世界の醜悪な事実などは全

く無視すればよいわけであ り,こ の立場に立つ限り,外 的世界などは単なる心の世界を反映す

る鏡でしかないのである。それは奴隷制に対するエマスンの考え方を例 にとってみるとわか り

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佛 教 大 学 大 学 院 紀 要 第26号(・ ・;年3月)

や す い 。 後 に エ マ ス ン は 奴 隷 制 に 対 し て か な り深 刻 な 考 え に と ら わ れ て い く こ と に な る の で あ

る が,「 自 己 信 頼 」 を 書 い て い た 頃 は そ れ ほ ど深 刻 で は な か っ た こ とが そ の 一 節 か ら窺 え る 。

IfanangrybigotassumesthisbountifulcauseofAbolition,andcomestomewithhislast

newsfromBarbadoes,whyshouldInotsaytohim,"Golovethyinfant;lovethywood-

chopper;begood-naturedandmodest;havethatgrace;andnevervarnishyourhard,

uncharitableambitionwiththisincredibletendernessforblackfolkathousandmilesoff.

Thyloveafarisspiteathome."Roughandgracelesswouldbesuchgreeting,buttruthis

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handsomerthantheaffectationoflove.

こ の よ う に,エ マ ス ン は 奴 隷 制 と い う 社 会 の 悪 し き シ ス テ ム の 問 題 さ え も個 人 の 心 の 問 題 へ

と 還 元 し て し ま っ て い る 。 た し か に こ の よ う な 考 え 方 も 一 つ の 対 処 の 仕 方 と し て あ り得 な い こ

と も な い が,問 題 は 現 実 世 界 や 悪 と い う も の に 対 す る 認 識 が 十 分 で な い と こ ろ に あ る 。 こ の 引

用 箇 所 か ら は,エ マ ス ン が そ の よ う な 巨 悪 の シ ス テ ム さ え も個 人 の 心 の 世 界 の 影 と して しか 捉

え て い な い こ と は 明 白 で あ り,現 実 世 界 や 悪 とい う も の に対 す る そ の よ う な 希 薄 な 認 識 こ そ に

問 題 は あ る の で あ る 。

し か し,「 運 命 」 に お い て,エ マ ス ン は そ の よ う な 現 実 世 界 や 悪 に 対 し て 新 た な 認 識 に 至 っ

て い る わ け で あ る 。 「運 命 」 の 中 で,エ マ ス ン は 運 命 と 自 由 意 志 との 関 係 を 次 の よ う に 述 べ る 。

「も し運 命 を 受 け 入 れ な け れ ば な ら な い と し て も,我 々 は,自 由,個 の 価 値,義 務 の 荘 厳 さ,

くの

品性の力 も同じように認めずに入 られない。こちらも真実であるが,あ ちらも真実なのだ」。

「自己信頼」では,唯 心論的姿勢から,む しろ自由というものを絶対視 していたエマスンが,

ここでは運命と自由とを同等のものとして捉えている。

運命に関して,「運命」の中で彼はこう語っている。「前の世代の我が国のカルヴィニス トた

ちも(運 命を重んじるスパルタ人,ト ルコ人,ア ラブ人,ペ ルシャ人,ヒ ンズー人 と)同 じよ

うな威厳をそなえていた。彼 らは宇宙の重みが彼 らを彼らがいる位置に固定 してしまっている

のだと感 じていた。彼らに一体何が出来るというのか?賢 い人々は,話 し合ってみても投票

してみてもどうにもならないものがあること,世 界を縛っている革ひもやベル トが存在するこくロ

とを感 じている」。ここでエマスンは運命を肯定すると共に,ア メリカ創成期の人々が深 く影

響 されていたカルヴァン的ピューリタニズムには運命 というものを正しく捉える要素があった

ことを指摘 している。 しか し,エ マスンの時代 におけるユニテリアニズムの社会においては運

命に対する認識が どんどん希薄になってきていることが批判されている。ここから,エ マスン

の超絶主義思想には,ユ ニテリアニズムからピューリタニズムへの反動とも言える面があるこ

とが分かる。

アメリカ創成期の宗教事情に関して言えば,そ の全般的空気 はピューリタニズム的であっ

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脱 楽観 主義(持 留)

た。 初 期 の ニ ュ ー イ ング ラ ン ドで 支 配 的 で あ った ピュ ー リタ ニズ ム の 中 に も脈 々 と息 づ い てい

た プ ロ テス タ ンテ ィズ ム に は,人 間 を否 定 的 に捉 え る傾 向 が あ り,人 間 の持 つ 宗 教 性 に楽 観 的

で あ っ たエ マ ス ン とは,そ の点 で 相 容 れ ない 部 分 が あ っ た と言 え る。 宗 教 改 革 の 後,西 洋 にお

い て,プ ロ テ ス タ ンテ ィズ ム の否 定 的 な人 間 観 は 人 々 の 問 に 人 間へ の不 信 を生 じさせ た。 エ マ

ス ンが 生 きて い た19世 紀 ア メ リカの ニ ュー イ ン グ ラ ン ドで は,ま だ そ う い っ た厳 格 な プ ロ テス

タ ンテ ィズ ム は厳 然 と生 きて い たの で あ る。

しか し,ア メ リカ に お い て,こ の よ う な カル ヴ ァ ン的 ピュ ー リタ ニ ズ ム に は何 も否 定 的 な価

値 ば か りが 含 まれ て い た わ け で は ない 。 この ピ ュー リ タニ ズ ム に は宗 教 的情 熱 と もい うべ き も

の,も?と 具 体 的 に言 え ば,ド イ ッの 神 学 者,宗 教 哲 学 者 ル ドル フ ・オ ッ トー(RudolfOtto)

の 言 う 厂ヌ ミ ノ ー ゼ(dasNumin6se,聖 な る もの)」 と い う概 念 に よ り言 い表 され て い る も の

が 内 に含 ま れ て い た と考 え られ る。 オ ッ トー は そ れ を,「 宗 教 の 領 域 だ け に現 れ て くる特 異 な

価 値 判 断」 と し,概 念 的把 握 が 全 く不 可 能 で あ るが ゆ え に 「言 い 得 な い も の」,「述 べ 難 い もくの

の 」 と し,そ の 諸 要 素 と し て,「 戦 慄 す べ き 」,「 優 越 」,「 力 あ る も の 」,「 秘 義 」,「 魅 す る も

の 」,「 巨 怪 な る も の 」,「 神 聖 」,「 崇 高 な る も の 」,と い っ た も の を 挙 げ て い る 。 オ ッ トー も言

う よ う に,そ れ は 宗 教 の 根 幹 を な し て い て,宗 教 に は 本 質 的 な も の で あ る 。 エ マ ス ンが 様 々 な

エ ッ セ イ の 中 で し ば し ば 言 及 す る 「道 徳 感 情 」 と は,オ ッ トー の 言 う 「ヌ ミ ノ ー ゼ 」 の よ う な

もの で は な い か と 考 え ら れ る 。 エ マ ス ン は 「道 徳 感 情 」 こ そ が 宗 教 に お け る 最 も 本 質 的 な も の

だ と言 っ て い る 。

Thissentimentisdivineanddeifying.Itisthebeatitudeofman.Itmakeshim

illimitable.Throughit,thesoulfirstknowsitself.Itcorrectsthecapitalmistakeofthe

infantman,whoseekstobegreatbyfollowingthegreat,andhopestoderiveadvantages

fromanother,‐byshowingthefountainofallgoodtobeinhimself,andthathe,equally(7)

witheveryman,isaninletintothedeepsofReason.

しか し,エ マ ス ン にあ っ て,ピ ュ ー リタ ニズ ム に欠 けて い た もの も また あ っ た の で あ る。 そ

れ は ア メ リ カの 宗 教 にお け る も う一 方 の大 きな柱 で あ るユ ニ テ リア ニ ズ ム が持 っ て い た もの,

つ ま り人 間 へ の価 値 を積 極 的 に認 め る こ とや,そ れ に伴 う楽 天 的 人 間観 で あ る 。

19世 紀 の ニ ュー イ ン グ ラ ン ドで著 し く隆盛 を誇 っ てい たユ ニ テ リ アニ ズ ム は,エ ドワ ー ズ の

ニ ュー イ ン グ ラ ン ド神 学 に反対 した もの で,ア メ リカ の キ リス ト教 が 啓 蒙 主 義 的 合 理 主義 に対

応 した 一 つ の 形 で あ る。 ユ ニ テ リア ニ ズ ム とは,キ リス ト教 の基 本 教 義 で あ る三位 一体 に反 対

して,神 の 単 一 性 を主 張 す る立 場 で あ る 。 当 然子 な る神 キ リス トとい う理 解 も否 定 され,三 位

一 体 論 とか キ リス ト論 が 持 って い た 論 理 的 緊 張 が失 わ れ る ば か りか,原 罪 や 福 音 主 義 的 要 素 も

否 定 され,キ リス ト教 は人 間主 義 的,博 愛 主 義 的 に な る 。ユ ニ テ リア ニ ズ ム は,神 か ら人 間へ

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佛教大学大学院紀要 第26号(1998年3月)

の価値の転換,あ るいは楽天的人間観 という点においてエマスンの考え方に近いものがあった

ように思われる。人間の理性に重 きを置 き,科 学的価値を認めたユニテリアニズムは,そ れま

での神学における多 くの論理的矛盾を解消できたものの,逆 に宗教色を薄くしてしまった。科

学的論理性を重ん じるユニテリアニズムは,哲 学的論争には適 しているかもしれないが,宗 教

的情熱 という宗教の命のようなもの 一 オットーの 「ヌミノーゼ」 一 には欠けてしまったわ

けである。

以上のように,エ マスン思想にはユニテリアニズムの楽観主義とピューリタニズムの深い宗

教性が共存 していると考えられるのである。エマスンの 「運命」における楽観主義のかげ りに

は,彼 のピューリタン的な要素が次第に濃 く表れてきていることが関わっていると考えるべ き

であろう。

自由意志のみに重きを置いていたエマスンが,運 命 という全 く相反するものを認めなければ

ならなくなった変化には,彼 の自然観 世界観の変化が関わっているように思われる。エマス

ンは自然について 「運命」の中で次のように言っている。「しかし自然は感傷家ではない 一

我々を甘やかしたり大事にした りはしない。世界は荒々しく,男 や女を溺死させてもちっとも

気兼ねしないこと,そ れ どころかあなたの船を一粒のち りのように呑み込んでしまうことをゆ

我々は理解 しなければならない」。さらに同じような主張を,同 じく 「運命」の中で繰 り返 し

ている。「神の意志はその目的のために,手 荒で,乱 暴で,予 測できない手段を選ぶ。それゆ

え,そ の巨大で雑多な手段を上飾 りしようが,そ の怖ろしい恩恵者を神学部学生の着るようなくゆ

清潔なシャッと白い襟飾 りでおめか ししようが何ち役に立ちはしないのだ」。 これはこのエッ

セイに特徴的な描写であり,絶 対悪の認識 とでもいうべ きものである。言うまでもな く,こ れ

は以前のような悪は善の欠如であるという考えとは正反対の考え方である。以前の 「神学部講

演」の中でのような 「善は実在だ。悪は欠乏に過ぎず,絶 対的なものではない。例えば寒さの

ようなものであ り,寒 さというのは熱を欠いたものなのだ。全ての悪はどれもこれも死あるい

は非実在なのである。善意は絶対的で,実 在である。善意を多 く持てば持つほど,そ の人は太ロゆ

きな生命力を持っていることになる」 といった認識 と比べると,そ の違いは明白である。

これは,も っとさかのぼると,旧 約聖書における 『ヨブ記』的なテーマである。神の意志と

いうものを想定するならば,そ れは人間の理解 を遥かに超えたものと考えなければならないゆ

そして,そ の神の意志は時に人間の意志に反するのである。神の意志なるものが人間の意志 と

相反することがない限 りは,自 己信頼 という楽観思想で十分事足 りるであろう。だがそういう

理想的な状況ばかりが続 くわけもなく,世 の中には厳然 と悪 とい うものが存在する。そうなる

と,も はや自己信頼 という楽観思想だけでは対処できなくなる。エマスンもそのことに気づ

き,よ り大きな思想的統合を完成する必要を感じたのであろう。 自由意志とは自分にとって:コ

ントロール可能な部分であ り,運 命 とは自分にとってコントロール不可能な部分なのであゐ

が,エ マスンはそのコントロール不可能 な部分を認めざるをえなくなったのである。

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脱楽観主義(持 留)

厳然 と存在する運命というものは,明 らかに自由という概念と相反するものであるだけに,

両者の和解 というのは実に魅力的であると共に困難極 まるものとなる。エマス ンも言 うよう

に,「運命 というこの山を持ち上げ,こ の血統の専制 と自由とを和解 させることは詩的な試み

である。そのためにヒンズー人は,『運命 とは前世でなされた行為に他ならない』 と言ったの

で あ 毘」。 エ マ ス ンが こ こで,こ の 運 命 と自 由 との和 解 を 「詩 的 な試 み 」 と言 って い る こ とに

注 目 した い 。 ま さ に これ こ そが エ マ ス ン思 想 の頂 点 と言 っ て もい い 大 事 業 で あ り,こ れ こ そ が

エ マ ス ン の野 心 的 な思 想 の試 み で あ った の で あ り,こ の 「運 命 」 とい うエ ッセ イ で 追 求 され て

い る問 題 な の で あ る。

こ の変 化 は彼 の楽 観 主 義 に も多 大 な変化 を与 え た と考 え られ る。 か つ て は楽 観 主 義 に大 き く

偏 重 して い た エ マ ス ンの考 え方 に も悲 観 的 な見 方 が見 られ る よ うに な っ て くる。

Wecannottriflewiththisreality,thiscropping-outinourplantedgardensofthecore

oftheworld.Nopictureoflifecanhaveanyveracitythatdoesnotadmittheodiousfacts.

Aman'spowerishoopedinbyanecessitywhich,bymanyexperiments,hetoucheson

血オ

everysideuntilhelearnsitsarc.

「人 間 の 能 力 は必 然 性 とい うた がが は め られ てい る」 とい う言葉 は あ る意 味 で 衝 撃 的 だ 。 な

ぜ な ら,人 間の 能 力 の 無 限性 を訴 え て きた のが エ マ ス ンだ とい う印象 が余 りに も強 いか らで あ

る。 「自己 信 頼 」 にお い て もエ マ ス ンは,個 人 は無 限 の可 能 性 を持 っ て い る と訴 え て い た 。 だ

か ら,己 の 心 の 中 に こそ神 が存 在 し,そ の 「内 な る神 」 と自分 との 内 的 な 関係 さえ理 想 的 な形

で保 って い れ ばそ れ で い い の だ と主張 して い た はず で あ っ た。 に もか か わ らず,こ の 「運 命 」

で は,現 実 世 界 や 周 辺 の状 況 を運命,つ ま り もう一 方 の真 実,と して個 人 の 自由 と同等 の 価 値

を付 与 しよ う と して い るの で あ る 。 こ こ に は,も はや 以 前 の よ う な唯 心論 的傾 向 はす っか り影

を潜 め て し ま って い る。 「人 間 の 能力 に は必 然 性 と い う た が が は め られ て お り,人 間 は多 くの

試 み を重 ね る こ とに よ っ てそ の あ らゆ る側 面 に触 れ て ゆ き,最 後 に はそ の弧 全 体 が分 か る よ う

にな る」 とい うの は,も はや 個 人 の 能力 の無 限性 の主 張 な どで は全 くな く,有 限性 を声 高 に宣

告 して い る にす ぎな い。 そ して そ の有 限性 こそ が 運 命 なの で あ る。 「自然全 体 に働 い てい る こ

の 要素,我 々が 一 般 に運 命 と呼 んで い る もの は,我 々 に は制 限 と して 知 られ て い る。我 々 を制

ゆお

限するもの全てを我々は運命 と呼ぶ」とエマスンは言う。

II

もしこの主張 まででこのエッセイが終わるならば,そ の主張は運命の肯定であると断言でき

るであろう。しかし,そ う簡単に済まないのがエマスンなのである。今まで運命の価値 をひた

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佛 教 大 学 大 学 院 紀 要 第26号(1998年3月)

す ら 説 い て き た エ マ 琴 ン は,次 に そ の 主 張 を 自 由 意 志 の 方 へ と 向 け る 。 つ ま り,今 度 は 全 く逆

の 主 張 を は じ め る わ け で あ る 。

ForthoughFateisimmense,soisPower,whichistheotherfactinthedualworld,

immense.IfFatefollowsandlimitsPower,PowerattendsandantagonizesFate.Wemust

respectFateasnaturalhistory,butthereismorethannaturalhistory.Forwhoandwhat

isthiscriticismthatpriesintothematter?Manisnotorderofnature,sackandsack,

bellyandmembers,linkinachain,noranyignominiousbaggage;butastupendous

antagonism,adraggingtogetherofthepolesoftheUniverse.Hebetrayshisrelationto

whatisbelowhim,...Butthelightningwhichexplodesandfashionsplanets,makerof

planetsandsuns,isinhim.Ononesideelementalorder,sandstoneandgranite,rock-

ledges,peat-bog,forest,seaandshore;andontheotherpartthought,thespiritwhich

composesanddecomposesnature,‐heretheyare,sidebyside,godanddevil,mindand

matter,kingandconspirator,beltandspasm,ridingpeacefullytogetherintheeyeand

brainofeveryman.

Norcanheblinkthefreewill.Tohazardthecontradiction,‐freedomisnecessary.

IfyoupleasetoplantyourselfonthesideofFate,andsay,Fateisall;thenwesay,apart

ofFateisthefreedomofman.Foreverwellsuptheimpulseofchoosingandactinginthe

α如

soul.IntellectannulsFate.Sofarasamanthinks,heisfree.

運 命 と 活 力 の 二 つ は 二 元 的 に 同 じ価 値 を 持 っ て い る と,こ こ で エ マ ス ン は 主 張 す る 。 さ ら

に,人 間 を,「 自 然 の 秩 序 に属 さ な い 」,「 堂 々 た る 対 抗 存 在 」 と し て 今 ま で の 運 命 偏 重 の 論 に

反 動 的 な 主 張 を 加 え て い る 。 さ ら に,人 間 の う ち に は 惑 星 や 恒 星 の 作 り手 が 宿 っ て い る こ と,

自然 の 理 法 と霊,神 と 悪 魔 精 神 と物 質,が 宿 っ て い る の だ とい う 唯 心 論 的 な 主 張 が あ ら わ れ

て き て い る 。 続 い て 自 由 と運 命 と の 関 係 が 述 べ ら れ て い る が,「 運 命 の 一 部 が 人 間 の 自 由 」 と

い う考 え 方 は ま だ 理 解 で き る 。 つ ま り,運 命 が 少 し ば か り の 自 由 の 余 地 を 許 し て い る と い う こ

と で あ る 。 し か し な が ら,続 く 「人 間 は 考 え る 限 り 自 由 な の だ 」 と い う 主 張 は 一 見 明 ら か に 以

前 の 論 に 反 対 の 考 え 方 で あ る 。 こ の 描 写 は こ の よ う に 考 え る べ き な の で は な い だ ろ う か 。 つ ま

り,こ れ は 人 間 の 正 し い 態 度 の あ り方 を 問 題 に し て い る の で あ る 。 世 界 を支 配 し て い る の は 明

ら か に 運 命 で あ る が,人 間 の 側 と して は そ の よ う な 運 命 に 妥 協 して 自 由 意 志 を 持 と う と し な い

の は 正 し くな い 。 つ ま り,世 界 に お け る 真 実 が ど う で あ れ,人 間 に と っ て は 自 由 意 志 を 信 じ て'

生 き て い く こ と が 正 し い の だ と い う,人 間 の と る べ き態 度 の こ と を 言 っ て い る の で は な い だ ろ

う か 。 運 命 の 側 か ら見 れ ば 自 由 な ど あ り得 な い,つ ま り 自 由 さ え も運 命 の 一 部 と い う こ と に な

る 。 そ う で な け れ ば 運 命 や 必 然 と い う も の は 肯 定 で き な い 。 逆 に 対 抗 存 在 で あ る 人 間 の 側 か ら

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脱楽観主義(持 留)

見れば,自 由という前提は是非必要となる。なぜなら自由意志というものがなければ,全 てを

必然的な運命のみが決定するということになり,二 元的問題にはなりえないのである。このよ

うな問題は論理的に決着のつ く性質の問題ではなく,考 えれば考えるほど複雑で逆説的になっ

てい くだけである。さらにエマスンは次のように言い,運 命に立ち向かうことこそ大切なのだ

と強調する。「運命 を決する勇気を教えることが運命の一番の役割なのである。海上での火災,

友人の家でのコレラ,自 分の家に押 し入った強盗,あ るいは自分の義務の行方にどんな危険が

待ち受 けていたとして も,運 命の天使に守られていることを心得て正面か ら立ち向かいたま

毘」。不退転の勇気を教えることこそ運命の最上の用途だとはどういうことなのだろうか。ふ

つ うに考えると,こ れは全 く逆の論理である。運命 というものが必然 として機能 し,自 由さえ

も運命の一部であるならば,人 間は勇気など持てるのだろうか。ここで,運 命と自由意志の複

雑で逆説的な展開が頂点に達 したように思われる。さらに,つ づいて 「というのも,も し運命.

がそれほど広 く行 き渡っているなら,人 間もまたその一部であり,運 命に運命をもって相対すなめ

ることが出来るからだ」 と指摘 しているのであるが,こ れはいったいどういうことなのであろ

うか。おそらく運命に運命をもって相対するとは,つ まり運命の世界を支配 している報償の法

則 をうまく利用するというぐらいの意味だろうと思われるが,明 らかに有効な論理とは言えな

い。それに気づいたのか,エ マスンもす ぐに,「 しかし,運 命に運命で対抗することは,た だくユオ

逃げるだけで守るだけのことに過 ぎない」 と言って,自 ら 「運命に運命で対抗する」 というこ

との無意味さを指摘する。それは結局は運命に身を任すということでしかなく,そ れは個人の

主体性 とはかけ離れた態度でしかないのである。

このあた りになってくると,運 命 と自由意志をめ ぐる論理はかな り緊迫し,混 乱 してくるの

であるが,先 程の引用箇所には注目すべ き描写が含 まれている。「しかし惑星を爆破 した り形

作った りする稲妻,惑 星や恒星の作 り手は人間の内に宿っている。一方では自然の理法,砂 岩

や花崗岩,岩 棚,泥 炭地,森,海,そ して岸辺があり,も う一方には思想が,自 然 を構成 した

り解体 した りする精神がある。それらは全てここに並んでいる。神 と悪魔 精神 と物質,王 と

陰謀者,ベ ル トと発作が,あ らゆる人間の眼と頭の中で共に静かに駆けている」という描写な

のであるが,こ れは一見彼の唯心論的傾向を意味 しているかのような印象を与える。 しか し,

ここでエマスンが主張 していることは,惑 星を爆破 したり形作ったりする稲妻,惑 星や恒星の

作 り手,つ まりこれらは運命を操る神のなせる技なのであるが,こ ういった運命を操る神 とい

うものが人間の心の中に宿っているのだという主張なのである。ここで注目すべ きは,心 とい

うものの性質が変化 していることである。エマスンは,自 由意志のみならず,運 命的なものを

心の一部分 として捉えようとしているのである。エマスンは以前からも自由意志のみを心全体

として捉えていたわけではなかった。「自己信頼」からも分かるが,神 という要素 も心の一部

分として認めていたのである。しかしその場合,神 の意志と人間の意志 との間には深刻な断絶

はあまり見出されはしなかった。自己信頼 という考え方が楽観主義思想だと言われるのはこの

:・

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佛教大学大学院紀要 第26号(1998年3月)

ためである。「運命」における変化 とは,こ の心における神の部分の性質の変化である。この

エ ッセイの中で幾度とな くエマスンが言うように,運 命 というものをエマス ンは自由意志に対

立するものとして捉えている。そして前に述べたように,そ こでは絶対悪というものさえ認識

されてお り,神 の意志と人間の意志 との間にはある程度深刻な断絶が見られるのである。この

引用箇所に見られる考えは,そ のような自由意志 とは深刻な断絶状態になり得る運命 というも

のさえも,自 己の心の中の世界の一部分 として認めてしまうものなのである。

さらにつづいて同 じような考えをエマスンは述べる。「よく言われているように,大 気の上

層部には,そ の高さまで上昇 して くる全ての微塵を運んでゆく常に西へと向かう気流があるの

かどうか私には分からないが,魂 がある一定の明晰な知覚に到達すると,利 己主義を超えた認ロタ

識 と動機を受け入れることは確かだ」。「利己主義を超えた認識 と動機」というのは非常に興味

深い。これはユング心理学で言えば,普 遍的無意識のレベルということになるのであろう。心

理学によると,我 々の意識というのは極めて限られた心の表層でしかない。その意識下には,

それと比べると余 りに巨大な無意識という領域が横たわっている。そ して,こ の無意識は意識

のよりどころであり,意 識に対 して多大な影響を与えている。ユング(CarlGustavJung)は,

この無意識を集合的なもの,つ まり人類に普遍的なものだと考えた。ユング心理学において,

人間にとって最 も重要な目的というのはこの普遍的無意識の働 きを知ることにあり,そ こには

非常に宗教的,神 話的な事象が関わって くる。エマスンにはしばしばこのようなユ ング的な心

の捉え方が見 られる。先程の引用箇所もこのようなユング的な視点から見ることが出来るだろ

う。つまり,意 識が心に関する認識を深めてゆ くと,必 然的に無意識に突 き当たり,そ れは集

合的なものであり,宗 教的,神 話的なものであると解することが出来るのである。エマスンに

言わせると,こ れは 「道徳感情」であ り,神 と大きく関わっでいるものということになる。

続 く主張にもやはり同じような考え方が見られる。「全ての偉大な力 とい うのは現実的で基

本的だ。強い意志 というのは作れるものではない。1ポ ンドの重さと釣 り合 うためには1ボ ンなウ

ドが必要だ。意志に力が現れるためには,そ れは普遍的な力に基づいていなければならない」。

普遍的な力に基づ く偉大な意志 とは,一 つ前の引用の中に出て きた普遍的無意識レベルの意志

ということになるのであろう。それは 「強い意志 というのは作れるものではない」という言葉

からもよく分かる。無意識は意識の自由になるものではなく,自 律的な存在だからである。ま

た,「全ての偉大な力 というのは現実的で基本的だ」 という言葉 も注 目すべきものだ。エマス

ンはたしかに問題の解決に際 して常に現実に耐えうるだけの力を求める。現実世界や悪という

ものに対する認識の変化にも,彼 のこの傾向が関わっていると考えられる。それらが厳然とそ

こにあるがために,そ れらをあえて無視することなど彼には出来なかったのであろう。

さらに,運 命と自由意志 という二律背反の葛藤は次のような主張 を招 くことになる。「生命セゆ

は,そ の周囲で,自 らの意志により,そ して超自然的な意志により活動する」。ここでエマス

ンはようやく,二 律背反への決着をつける方法を提示する。つまり世界は二つの分裂 した意志

一87一

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脱 楽観 主 義(持 留)

に よ っ て 動 か さ れ て い る とい う 決 着 で あ る 。 こ れ に よ り,な ぜ 真 理 が 逆 説 的 に な ら ざ る を え な

い か とい う 問 題 に も答 え を 与 え る こ とが 出 来 る だ ろ う 。 つ ま り二 つ の 分 裂 し た 意 志 が 関 わ っ て

い る の だ か ら,そ の 融 合 し た もの は 逆 説 的 に な ら ざ る を え な い と い う こ と に な る 。 そ こ に は 二

重 意 識 の 考 え 方 が 出 て い る 。 意 志 の 分 裂 を 仮 定 す る こ と に よ り,二 元 的 対 立 を 超 え よ う と試 み

る の で あ る 。

Hethinkshisfatealien,becausethecopulaishidden.Butthesoulcontainstheeventthat

shallbefallit;fortheeventisonlytheactualizationofitsthoughts,andwhatweprayto

ourselvesforisalwaysgranted.Theeventistheprintofyourform.Itfitsyoulikeyour

skin.Whateachdoesispropertohim.Eventsarethechildrenofhisbodyandmind.

WelearnthatthesoulofFateisthesoulofus,...

エ マ ス ン は こ こ で も運 命 を 人 間 の 心 の 中 に 持 っ て き て い る 。 つ ま り,先 程 の と こ ろ で 「己 の

意 志 と超 自 然 的 な 意 志 」 と い う二 つ の 意 志 の 説 明 を して い た が,時 に相 反 す る 二 つ の 意 志 は 両

方 と も 自 ら の 心 の 中 に発 し て い る と い う こ と に な る 。 こ れ は 人 間 の 心 と い う も の の 分 裂 に 他 な

ら ず,こ れ を 最 も 良 く表 現 し た も の が,先 程 も言 及 した よ う に,心 理 学 に お け る 意 識 と無 意 識

と い う 考 え 方 に他 な ら な い 。 エ マ ス ン も こ の 区 別 を 自 ら気 づ い て い た の か,「 自 己 信 頼 」 の 中

で,「 人 は 皆,自 分 の 心 の 意 図 的 な 行 為 と無 意 識 の 知 覚 を 区 別 し て い て,無 意 識 の 知 覚 に 対 し

て 全 面 的 な 信 頼 を 置 く こ とが 必 要 だ と分 か っ て い る 」 と言 っ て い る 。 心 理 学 の 考 え 方 に よ れ

ば,人 間 の 心 に は 意 識 と無 意 識 と い う二 つ の レベ ル が あ り,こ の 二 つ は 必 ず し も 同 じ方 向 を 向

い て い る わ け で は な く,む し ろ 対 立 し て い る こ と が 多 い 。 フ ロ イ ト(SigmundFreud)は 無 意

識 の 働 き を 願 望 充 足 だ と結 論 し,ユ ン グ は 補 償(compensation)だ と 主 張 し た の で あ る が,エ

マ ス ン も 世 界 に お け る 万 物 の 法 則 を報 償(compensation)と い う名 で 呼 ん だ 。

次 の 引 用 箇 所 に は,エ マ ス ンが 「運 命 」 の 中 で 取 り組 ん だ 問 題 に対 す る 彼 の 結 論 が 示 さ れ て

い る 。

Onekey,onesolutiontothemysteriesofhumancondition,onesolutiontotheoldknots

offate,freedom,andforeknowledge,exits;thepropounding,namely,ofthedouble

consciousness.Amanmustridealternatelyonthehorsesofhisprivateandhispublic

nature,astheequestriansinthecircusthrowthemselvesnimblyfromhorsetohorse,or

plantonefootonthebackoftheother.Sowhenamanisthevictimofhisfate,has

sciaticainhisloinsandcrampinhismind;aclub-footandaclubinhiswit;asourface

andaselfishtemper;astrutinhisgaitandaconceitinhisaffection;orisgroundto

powderbytheviceofhisrace;‐heistorallyonhisrelationtotheUniverse,whichhis

..

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佛教大学大学院紀要 第26号(1998年3月)

ruinbenefits.Leavingthedaemonwhosuffers,heistotakesideswiththeDeitywho

securesuniversalbenefitbyhispain.

こ こ には エ マ ス ンが今 まで に苦 しん で 葛 藤 して きた 二律 背 反へ の答 え が書 か れ て い る。 心 の

中 に,人 間 の側,神 の側 とい う二 つ の 領 域 を設 定 す る こ とに よ り,運 命 と自 由意 志 とい う二律

背 反 の 問題 に決着 をつ け て い るの で あ る。 彼 は こ こで 唯 心 論 的 立場 に い る わ け だ か ら,こ こで

彼 が 言 って い る 「私 的 な本 性 」 と 「公 的 な本 性 」 との 両 方 は 彼 の 心 の 中 に存 在 して い る と考 え

て 間違 い ない 。 つ ま り心 の分 裂 を彼 は一 つ の解 決 と した の で あ る。 心 理 学 的 に言 う と,こ れ ら

は,意 識 と,ユ ング 心 理 学 で 言 う普 遍 的無 意識 とい う こ とに な る だ ろ う。 さ らに,「 苦 しみ悩

む悪 魔 には 背 を 向 け,自 分 の 苦 痛 に よっ て普 遍 的 な利 益 を確 保 して くれ る神 の側 に 立 つ べ き

だ」 とい う言 葉 は,公 と私 と を分 け て,公 の利 益 に よ っ て生 きる べ きだ,つ ま りそ れ こ そが 私

に真 の 利 益 を も た らす もの な の だ とい う決 意 を意 味 して い る。 これ は深 い 宗教 的洞 察 だ と言 っ

て い いQ

ユ ング は 『ア イ オ ー ン』(A伽)の 中 で次 の よ うに言 っ て い る

意 識 が だ ん だ ん と進 化 し分 化 して ゆ く と,そ の行 き着 く先 は,否 で も応 で も しか た な く矛

盾 対 立 を認 め な け れ ば な ら ない とい う こ とで あ る。 そ して意 識 の進 化 ・分 化 が 意 味す る の

は,他 で もな い,自 我 の磔刑 で あ る。 す なわ ち統 合 で きな い対 立 物 の 問 に 自我 は 宙 吊 りさ

れ て 悶 え苦 しむ の で あ る。 む ろん そ れ は,自 我 の全 面 的 な抹 殺 で は ない 。 か りにそ うだ っ

た な らば,意 識 の 中枢 部 が 壊 滅 して しま う こ と にな り,そ ん な こ とにで もなれ ば 完全 な無

意識 状 態 が招 来 され か ね ない 。 自我 の相 対 的 な破 棄 が 関連 して くる の は,解 決 不 可 能 な 義

務 の衝 突 に際 して最 高 の最 終 的 決 定 を下 す 場 合 だ け で あ る 。他 の言 い方 をす れ ば,つ ま り

こ うで あ る。 そ ん な場 合 に は,自 我 は じっ と耐 え る傍 観 者 とな っ て 自 らは決 定 を下 さず,

決 定 に服 す るの で あ る 一 無 条 件 降伏 で 。 そ の最 終 決 定 を下 す の は,人 間 の創 造 的精 神 でゆ

あ り,誰 にもその広がりが測 り知れない人間の高さと広大さである。

ユ ングが言うように,「運命」 と 「自由意志」というエマスンの葛藤の行方は,結 局は一つ

の点にたどり着 く以外にあ り得ない。それが二律背反であり矛盾である以上,現 実的な解決を

望むならば,そ の矛盾対立を認めるしか方法はないということになる。それは論理を重んじる

意識にとっては耐えられないことかも知れないが,そ れが現実であれば,や むを得ない結果で

あ り,意 識 には無意識に判断をゆだねるしかすべはのこされていないのである。ユングによる

と意識と無意識は相補的な関係にある。つまり意識が判断を下しかねた場合は,そ れを補うべ

き立場にいる無意識がその判断を下す役割を担うことになる。エマスンも,結 局はそのような

方向に解決を求めたのであろう。彼はそのような意識 と無意識との相補的な機能,彼 の言う報

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脱 楽観 主義(持 留)

償 とい う機 能 に全 て を ゆ だね た の で あ る。 そ れ は次 の引 用 箇 所 か ら も よ く分 か る。

Tooffsetthedragoftemperamentandrace,whichpullsdown,learnthislesson,

namely,thatbythecunningco-presenceoftwoelements,whichisthroughoutnature,

whateverlamesorparalyzesyoudrawsinwithitthedivinity,insomeform,torepay.A

goodintentionclothesitselfwithsuddenpower.Whenagodwishestoride,anychipor㈱

pebblewillbudandshootoutwingedfeetandservehimforahorse.

こ れ は 報 償 の 法 則 に よる楽 観 主 義 を 述 べ た もの で あ る。 自 己信 頼 の時 の 楽観 主 義 とは 異 な

り,自 己 の力 へ の信 頼 とい う よ り も報 償 の 法 則 へ の信 頼 とい う性 質 の もの に な って い る。 これ

は 明 らか に 自己信 頼 の補 正 で あ ろ う。 以 前 の 自己信 頼 とい う楽観 主 義 は唯 心 論 的 信 念 に基 づ い

た もの で あ っ た が,今 度 は,報 償 とい う よ り全 体 的 な法則 へ の信 頼 に基 づ い た もの に変 化 した

の で あ る。 「運 命 」 の 前 半 で 厂消 極 的 な力 」 の た め に楽観 主 義 を失 い か け た か の よ うに 思 われ

た エ マ ス ンが,「 公 的 な本 性 」 と 「私 的 な本 性 」 とい う二 つ の要 素 の うち,一 方 が悪 で あ っ た

と して も,も う一 方 が反 動 的 に善 と な っ て姿 を現 す は ず だ とい う楽観 主 義 を再 び確 立 した の だ

と言 え る 。

結 び

こ こで も う一渡 「運 命」 を最 初 か ら振 り返 っ てみ たい 。 まず,前 半 で エ マ ス ンは繰 り返 し運

命 を肯 定 す る。 そ こに は,彼 の世 界 観 の変 化,具 体 的 に は現 実 世界 や悪 に対 す る認 識 の 変 化 が

大 き く関 わ って い た 。 そ の主 張 は 自 由意 志 の 力 に偏 重 して い た 以前 の 主 張 とは対 照 的 な もので

あ った 。 当 然 彼 の 楽 観 主義 は影 を薄 く し,逆 に悲 観 的 な もの の見 方 が 支 配 的 に な っ て くる 。 し

か し,後 半 に入 る と論 調 は 一変 し,今 度 は 自 由意 志 を肯 定 しは じめ る の で あ る。 こ れ は前 半 の

主 張 とは 明 らか に矛 盾 す る考 え で あ る た め,エ マス ン は この 二 つ の異 な る主 張 を何 とか 統 合 す

る方 法 を見 つ けだ そ う とす る 。 そ の結 果 行 き着 い た答 えが 二 重 意識 とい う概 念 で あ っ た。 これ

は,人 間 の 心 は 「私 的 な本性 」 と 「公 的 な本 性 」 か らな って い る とい う考 え方 で あ り,自 由意

志 は 「私 的 な本 性 」 に,運 命 は 「公 的 な本 性 」 に あ た る。 ユ ン グ心 理 学 で言 え ば,前 者 は 自我

意 識 に,後 者 は 普 遍 的 無 意 識 に あ た る。 しか も,「 運 命 」 に お い て エ マ ス ンが 提 起 した 新 た な

こ の二 者 の関 係 は,人 間 の 心 には神 が宿 っ て い る とい う以 前 の よ う な楽観 主 義 的 関係 ば か りで

は な く,人 間の 意 志 と神 の 意 志 の 断 絶 とい う深 刻 な 関係 を も含 んで い る。 そ して この二 つ の本

性 は互 い を報 償 す る関 係 にあ る 。 こ こで エ マ ス ンは報 償 の法 則 に対 す る新 た な楽観 主 義 を持 ち

は じめ るの で あ る。

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佛 教 大 学 大 学 院 紀 要 第26号(1998年3月)

(1)RalphWaldoEmerson,"Fate,"TheCompleteWorksofRalphWaldoEmerson,2nded.,Vol.3,Centenary

Edition(TheRiversidePress,1903,NewYork:AMS,1979)14-15.

(2)RalphWaldoEmerson,"Self-Reliance,"TheCompleteWorksofRalphWaldoEmerson,2nded.,Vol.2,

CentenaryEdition(TheRiversidePress,1903,NewYork:AMS,1979)71.

(3)Emerson,"Self-Reliance,"51.

(4)Emerson,"Fate,"4.

(5)Emerson,"Fate,"5.

(6)ル ド ル フ ・オ ッ トー 著,山 谷 省 吾 訳,『 聖 な る もの 』(岩 波 書 店,1995)14.

(7)Emerson,"AnAddress,"TheCompleteWorksofRalphWaldoEmerson,2nded.,Vol.1,Centenary

Edition(TheRiversidePress,1903,NewYork:AMS,1979)125.

(8)Emerson,"Fate,"6.

(9)Emerson,"Fate,"8.

(10)Emerson,"AnAddress,"124.

(11)Emerson,"Fate,"12.

(12)Emerson,"Fate,"19-20.

(13)Emerson,"Fate,"20.

(1㊥Emerson,"Fate,"22-23.

(1勾Emerson,"Fate,"24.

(16)Emerson,"Fate,"24.

(17)Emerson,"Fate,"25.

(18)Emerson,"Fate,"27.

(19)Emerson,"Fate,",28.

(20)Emerson,"Fate,"38.

(21)Emerson,"Fate,"40.

(22)Emerson,"Self-Reliance,"65.

㈲Emerson,"Fate,"47.

図C・G・ ユ ン グ 著,野 田 倬 訳,『 ア イ オ ー ン』(人 文 書 院,1990)63-64.

②句Emerson,"Fate,"47-48.

(も ち ど め こ う じ 文 学 研 究 科 英 米 文 学 専 攻 博 士 後 期 課 程)

1997年10月16日 受 理

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