34
183 はじめに 滇越鉄道はベトナムのハイフォンと中国・雲南省の昆明を結ぶ総延長 848km の鉄道である。フランス資本によって建設されたこの鉄道は、帝国 主義の時代に列強が競い合った中国での利権獲得の成果として捉えられ、 フランスの中国への勢力拡大の具体例として理解されている。1910 年に全 通したこの鉄道は、ベトナムと中国を結ぶ国際鉄道であり、また内陸に位 置する雲南省をベトナムの外港ハイフォンへと結ぶ外港~後背地間の鉄道 でもあった。しかし、全通から30年後の1940年に日本による援蒋ルート 遮断の目的でこの鉄道は中越国境で遮断され、第 2 次世界大戦後の 1955 年 に直通運行が再開されたものの、1978 年に中越関係の悪化で再び遮断され るというように、その後は国際関係に翻弄され続けた鉄道でもあった[柿 崎 2010: 187, 334]。その後1996年に直通運行を再開したが、2004年から中 国国内の旅客列車の運行は廃止され、現在は貨物のみ国際輸送を継続して いる。 この滇越鉄道を主眼として扱った研究については、篠永と武内の研究が その代表である。前者はフランス帝国主義の中国進出という文脈からの政 治史的な研究であり、フランスによる中国進出のための鉄道計画が浮上し てから滇越鉄道が開通するまでの経緯を解明している[篠永 1992]。一方、 後者はやや異色のベトナムにおけるナショナリズムの発生と滇越鉄道の関 係を扱ったもので、滇越鉄道の従業員として雇用されて中国国内に居住し ていたベトナム人がベトナム国民党のナショナリズム運動に重要な役割を 果たしたことを明らかにしている[武内 2010]。他にも中国やベトナムの 滇越鉄道の経済的役割  1910 ~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ 柿 崎 一 郎 横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送 量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

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Page 1: 滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送 量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

183

はじめに

 滇越鉄道はベトナムのハイフォンと中国・雲南省の昆明を結ぶ総延長

848kmの鉄道である。フランス資本によって建設されたこの鉄道は、帝国

主義の時代に列強が競い合った中国での利権獲得の成果として捉えられ、

フランスの中国への勢力拡大の具体例として理解されている。1910年に全

通したこの鉄道は、ベトナムと中国を結ぶ国際鉄道であり、また内陸に位

置する雲南省をベトナムの外港ハイフォンへと結ぶ外港~後背地間の鉄道

でもあった。しかし、全通から30年後の1940年に日本による援蒋ルート

遮断の目的でこの鉄道は中越国境で遮断され、第2次世界大戦後の1955年

に直通運行が再開されたものの、1978年に中越関係の悪化で再び遮断され

るというように、その後は国際関係に翻弄され続けた鉄道でもあった[柿

崎 2010: 187, 334]。その後1996年に直通運行を再開したが、2004年から中

国国内の旅客列車の運行は廃止され、現在は貨物のみ国際輸送を継続して

いる。

 この滇越鉄道を主眼として扱った研究については、篠永と武内の研究が

その代表である。前者はフランス帝国主義の中国進出という文脈からの政

治史的な研究であり、フランスによる中国進出のための鉄道計画が浮上し

てから滇越鉄道が開通するまでの経緯を解明している[篠永 1992]。一方、

後者はやや異色のベトナムにおけるナショナリズムの発生と滇越鉄道の関

係を扱ったもので、滇越鉄道の従業員として雇用されて中国国内に居住し

ていたベトナム人がベトナム国民党のナショナリズム運動に重要な役割を

果たしたことを明らかにしている[武内 2010]。他にも中国やベトナムの

滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年─貨物輸送統計の分析─

柿 崎 一 郎

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

Page 2: 滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送 量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

184

滇越鉄道の路線図(1930年代)図1

雲南府(昆明)

可保村宜良

狗街子徐家渡禄丰村

糯租西洱渓

西扯邑巡検司

小龍潭

大塔大庄

阿迷州(開遠)

雲南省

南盤江

碧色寨芷村

百色箇碧石鉄道 蒙自

箇旧

蛮耗

ラオカイ

紅河

河口

滇越鉄道

イェンバイ

ベトナム

ヴィエッチヴィンイェン

タップミエウ

ハノイ

ドンアン

ラックダオカムザンハイズオン

ハイフォン

ナチャム ドンダン

南寧

西江

広西省

出所:筆者作成

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

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185

鉄道史の一環で滇越鉄道が扱われている研究例も存在するが、それらの多

くは前者と同じく政治史的な側面から取り扱っており、例えばベトナムの

鉄道史を概説したドーリングも同様の視点から滇越鉄道の建設史を概説し

ている[Doling 2012]。

 一方で、滇越鉄道を経済史的側面から扱った研究は、これまで存在して

いない。とくに、この鉄道が商品流通面でどのような役割を果たしたのか

について、これを主眼として扱った研究は存在しない。確かに、篠永は滇

越鉄道の経済的意義は限定されており、従来の商品流通をほとんど変化さ

せず、フランスの利益にはならなかったと最後に結論付けている[篠永

1992: 48-49]1。また、雲南史を扱った石島も、滇越鉄道の開通が雲南から

の錫の輸出を増大させ、近代的な商品の流入が伝統産業に影響を与えたと

その経済的役割について言及している[石島 2004: 57-62]。しかしながら、

実際に滇越鉄道が何をどの程度輸送したのか、また中越間のいわゆる外

港~後背地間の輸送が滇越鉄道における貨物輸送の中でどの程度重要性を

持っていたのかについては、これまで明らかにされていない。

 このため、本論では滇越鉄道営業報告(Rapport Commercial de la

Ligne Haiphong-Yunnan-Fou: RCLHY) 及 び 仏 印 統 計 年 鑑(Annuaire

Statistique de l’Indochine: ASI)に記載されている貨物輸送統計を用いて、

滇越鉄道における貨物輸送の状況を分析し、この鉄道の経済的役割を検討

することを目的とする2。以下、1で滇越鉄道の貨物輸送状況の概観を把握

し、2で区間別に主要輸送品目の輸送状況を分析し、3でそこから判明する

滇越鉄道の経済的役割を明らかにする。

1.滇越鉄道の貨物輸送

(1)貨物輸送量の変遷

 滇越鉄道の貨物輸送量に関する統計は、雲南府までの全線が開通した

1910年から得られる。この滇越鉄道の貨物輸送量と仏印鉄道全体の貨物輸

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

Page 4: 滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送 量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

186

送量を比較したものが、図2となる。これを見ると、滇越鉄道の貨物輸送

量は全通後漸増し、1910年代末には20万トンに近づいていることが分か

る。全通した1910年の輸送量は7.2万トンに過ぎなかったが、1919年には

17.6万トンまで増加していた。その後1920年代前半の輸送量は断片的にし

か判別しないが、1925年には33.6万トンに達していることから、1920年代

前半も増加傾向が続いたものと思われる。その後世界恐慌の発生する1929

年までは30万トン程度で推移しており、世界恐慌前のピークは1925年の

仏印鉄道と滇越鉄道の貨物輸送量の推移(1907~1941年)(単位:千トン)図2

19071909

19111913

19151917

19191921

19231925

19271929

19311933

19351937

19391941

2,000

1,800

1,600

1,400

1,200

1,000

800

600

400

200

0

仏印全体滇越鉄道

出所:仏印全体:ASI (1939-40): 272-273, 301、滇越鉄道:1910年:RCLHY (1911): 572-587、1911~12年:RCLHY (1912): 592-607、1913~14年:RCLHY (1914): 386-395, 719-720、1915~16年:RCLHY (1916): 334-350、1917~19年:RCLHY (1919): 70-87、1922年:ASI(1913-22): 134、1925年:BEIR(1927/5): 510-511、1926~27年:BEIR (1928/4): 381-382、1928年:BEI(1932): 290A、1929年:ASI(1923-29): 178、1930年:ASI(1930-31): 125、1931年:ASI(1930-31): 125、1933年:ASI(1932-33): 151、1934年:ASI(1934-36): 120、1935年:ASI(1934-36): 119、1936年:ASI(1936-37): 117、1937~38年:ASI(1937-38): 120、1939~40年:ASI(1939-40): 110より筆者作成。

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

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187

33.6万トンとなっている。

 そして、世界恐慌の影響で輸送量は25万トン程度まで減少したのち、

1930年代後半から再び増加傾向に転じている。とくに1937年からの増加

は顕著であり、この年から1939年にかけて輸送量が32.1万トンから54.3万

トンへと急増していることが分かる。全体的な傾向としては、1910年代か

ら1920年代にかけて輸送量が漸増して年平均10万トン程度から30万程度

へと3倍ほど増加し、世界恐慌によって1930年代前半に25万トン程度に減

少したのち、1930年代後半に急増して50万トンに達していた。

 これを仏印鉄道全体の輸送量の変化と比較すると、滇越鉄道のほうが輸

送量の変化が少なかったことが確認できる。1910年代の仏印鉄道全体の輸

送量は年による変動が激しいが、滇越鉄道のほうはその変化が少なくなっ

ている。その後、1920年代前半の増加率は仏印鉄道全体のほうが高く、世

界恐慌の影響による減少率は仏印鉄道全体のほうが顕著に表れている。世

界恐慌前後の輸送量の減少率を比較すると、滇越鉄道での減少率は30%弱

であったのに対し、仏印鉄道全体の減少率は44%に達していた3。そして、

1930年代後半の急増も仏印鉄道全体のほうが大きく、1935年から1938年

の間で輸送量は2倍以上増加していた4。

 ただし、仏印鉄道全体の数値は、路線網の拡大による影響も受けている

ため、滇越鉄道の増加率と単純に比較することはできない。仏印の鉄道総

延長は1910年の1,770kmから1940年には3,350kmへと約倍増しているこ

とから、路線長の変化を加味すればこの間の実質的な輸送量の増加率は半

分となる5。すなわち、仏印全体で見ると貨物輸送量は1910年の57.6万ト

ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送

量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

鉄道はこの間に路線長の変化はなかったことから、全体的には滇越鉄道の

輸送量の増加率のほうが高かったと言えよう。

 

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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188

(2)区間別の輸送状況

 次いで、滇越鉄道の区間別の輸送量を確認してみよう。表1は滇越鉄道

の貨物輸送量を区間別に分類したものである。ハイフォンはハイフォン港

のことを指し、ハイフォン着の場合はそのまま国外へ輸出される物資を、

ハイフォン発の場合は外国から輸入された物資を意味すると考えられる。

すなわち、ハイフォン発着の貨物輸送が外港~後背地間の輸送となる。一

方、トンキン~雲南間の輸送はベトナム~中国間の相互輸送を意味してお

り、輸送される貨物は輸入品でなく土着の産物であると考えられる。なお、

ハイフォン~トンキン間の輸送については1930年以前のデータが存在せ

ず、それまではトンキン内に含まれていたものと推測される。

 これを見ると、滇越鉄道の開通当初からハイフォン発着の輸送よりも、

トンキン内、雲南内といった局地的な輸送のほうが輸送量が多かったこと

が分かる。1910年代には雲南内の輸送量が大きく増加し、当初の2万トン

滇越鉄道の区間別輸送量(1910~1940年) (単位:トン)表1

19101911191219131914191519161917191819191925192619271928192919301931193219331934193519361937193819391940

23,00119,55020,43419,26117,42519,46422,67724,76930,962N.A.N.A.

4,5074,72711,82531,12327,46513,60641,32732,98538,774N.A.N.A.

8,9517,24513,25414,05413,46411,80011,31510,99614,73315,19726,40026,40026,40031,20025,20029,33923,39524,69424,70327,48030,32832,32733,40251,670N.A.N.A.

7,0288,56110,0559,9559,18112,08111,57819,71912,48811,68812,0007,2008,40010,8009,6009,4249,7219,63410,6449,96310,54012,53013,35615,518N.A.N.A.

2,6422,0132,89511,20416,0042,6352,1931,8072,3883,46337,20014,4003,6004,8009,6001,8601,2931,12916,5384,0612,3842,4743,6269,702N.A.N.A.

3792494036474021204681,8787232,4299603,0001,4401,4409609531,0097844355521,2202,7002,0562,536N.A.N.A.

34,68037,85453,28328,93936,56945,18239,37529,39438,66062,724114,00097,200130,800144,000146,40081,32553,40137,85232,29126,88834,84941,69559,55089,581100,424152,976

18,34923,61437,61239,18140,03943,76959,27661,52285,81780,164138,000128,400135,600132,000129,600130,524131,349117,685122,876120,051127,379135,187139,459139,883

N.A.N.A.

72,02979,536117,502103,980115,659115,587124,205125,316154,809175,665328,560276,600306,240324,240321,360280,933244,445224,037257,871233,885239,770290,917309,203378,626543,200459,200

RCLHY(1911):572-587RCLHY(1912):592-607RCLHY(1912):592-607RCLHY(1914):386-395,719-720RCLHY(1914):386-395,719-720RCLHY(1916):334-350RCLHY(1916):334-350RCLHY(1919):70-87RCLHY(1919):70-87RCLHY(1919):70-87BEI(1932):292A-293ABEI(1932):292A-293ABEI(1932):292A-293ABEI(1932):292A-293ABEI(1932):292A-293AASI(1930-31):175ASI(1931-32):185ASI(1932-33):230ASI(1932-33):229ASI(1934-36):192-193ASI(1934-36):190-191ASI(1936-37):179-180ASI(1937-38):190-191ASI(1937-38):188-189ASI(1939-40):182-183ASI(1939-40):182-183

ハイフォン→トンキン

トンキン→ハイフォン

ハイフォン→雲南

雲南→ハイフォン

トンキン→雲南

雲南→トンキン トンキン内 雲南内 計 出  所

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

Page 7: 滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送 量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

189

程度から8万トンへと急増しているのが分かる。トンキン内の輸送はやや

変動が激しいが、それでも3万トンから6万トンの間でほぼ推移していた

ことが分かる。この局地的な輸送は1920年代後半にはそれぞれ10万トン

を超えるレベルに達しており、雲南内については世界恐慌の影響もほとん

ど見られない。トンキン内については世界恐慌後に輸送量が大きく減った

かのように見えるが、上述したように1930年以降はハイフォン発着の輸送

が別に計上されているためであり、これを含めば減少率は低下する。

 一方、ハイフォン発着の輸送については、ハイフォンから雲南への輸送

は1910年代の約1万トンから1920年代後半には2 ~ 3万トンに増加したも

のの、局地輸送ほどの大幅な増加は見られない。雲南からハイフォンへの

輸送もこの間一貫して1万トン程度で推移しており、変化は極めて少ない。

トンキン~ハイフォン間の輸送については、トンキンからハイフォンへの

輸送が1930年代に増加しているものの、ハイフォン発の輸送はそれほど顕

著な変化は見られない。

 また、トンキン~雲南間の輸送がそれほど活発とは言えないことも分か

る。トンキンから雲南へは3回ほど輸送量が急増している個所があるが、

それ以外は1万トン以下の輸送量が続いている。雲南からトンキンへの輸

送は1910年代には1,000トンにも満たない年が圧倒的に多く、1920年代後

半以降も多くて3,000トンのレベルであった。すなわち、ベトナム~中国

間の輸送はハイフォン発着の海外~中国間の輸送よりもはるかに少なかっ

たのである。

 滇越鉄道における局地輸送の比重の高さは、図3を見れば明らかである。

これを見ると、局地輸送であるトンキン内、雲南内の輸送が占める割合が

圧倒的に高く、両者合わせると1910年代には70 ~ 80%、1920年代後半以

降で80 ~ 85%を維持していることが分かる。1910年代には雲南内の比率

が徐々に拡大して40 ~ 50%に達するのに対し、トンキン内の比率が漸減

して20 ~ 30%まで低下している。1920年代後半以降は双方の比率はほぼ

安定し、雲南内が40 ~ 50%、トンキン内が30 ~ 40%で推移している。こ

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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190

れに対して、ハイフォン/トンキン~雲南間の輸送が占める比率は20 ~

30%で推移し、1910年代には30%を超える時期もあったものの、1925年

以降はほとんどの年で20%以下となっている。

 このように、滇越鉄道の貨物輸送は、ハイフォン~雲南/トンキン間と

いった外港~後背地間の輸送よりも、トンキン内、雲南内の局地的な輸送

が主流であったことが分かる。

(3)品目別の輸送状況

 最後に、滇越鉄道の品目別の輸送量の推移を考察してみる。表2は品目

別の輸送量をまとめたものである。区分は1930年代後半の区分を基準とし

ており、それ以前については該当する品目を筆者が分類し直している。そ

れでも、品目の変更は何度も行われたようであり、これがその他の輸送量

仏印鉄道と滇越鉄道の貨物輸送量の推移(1907~1941年)(単位:%)図3

1910191119121913191419151916191719181919

19251926192719281929193019311932193319341935193619371938

100%

90%

80%

70%

60%

50%

40%

30%

20%

10%

0%

雲南内トンキン内雲南→トンキン雲南→ハイフォントンキン→雲南ハイフォン→雲南

注:ハイフォン~トンキン間の輸送量はトンキン内輸送に含めてある。出所:表1に同じ、より筆者作成

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

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191

の増減に大きく影響している。例えば、1911年までは繊維製品の大半がそ

の他に区分されていたため、繊維製品の輸送量が1912年に急増する結果と

なり、他方で1912年の工業製品の輸送は大半がその他に分類されたことか

ら、同年のその他の輸送量が1万トンも増加している。同じように1932 ~

1933年にも品目の変更が行われたようであり、ここを境にその他の輸送量

が激減し、繊維製品と工業製品の輸送量が急増している。

 この点をふまえて表2を見ると、輸送量の最も多いのは農産物・食品で

あり、次いで石炭・木炭となっていることが分かる。農産物・食品の輸送

量は1912年以降常に5万トンを越えており、世界恐慌前にほぼ10万トンに

達した後一時減少し、1930年代後半に10万トンを超えるレベルに達した

ことが分かる。一方、石炭・木炭は全通直後の輸送量はそれほど多くはな

かったが、1910年代末から輸送量が増加し、1920年代末には8万トンに達

していたことが分かる。世界恐慌の影響も少なく、1930年代前半には農産

物・食品を上回る輸送量を維持していた。

 1910年代の時点では鉱産物、林産物、繊維製品の輸送量もそれぞれ1万

トン程度に達していたが、いずれも1930年代に入っても輸送量はそれほど

滇越鉄道の輸送品目(1910~1938年) (単位:トン)表2

191019111912191319141915191619171918191919221929193019311932193319341935193619371938注:工業製品は、薬品・化学製品、金属製品、機械を含む。

N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.

14,38132,8366,1794,7454,280N.A.N.A.4,6548,19012,601

41,84744,77860,51752,59964,23867,39366,97763,82180,98984,83265,40097,81256,45660,79059,05592,21983,46474,267104,593104,144119,979

2,1844,6326,4236,8517,8657,4039,43812,18119,99731,41259,30082,91281,26179,23572,12678,63173,04279,54884,32683,98576,002

5,8297,3898,7499,8798,52911,2689,18912,7268,4118,52810,20012,1537,3017,5868,4229,2598,4409,33710,99211,57813,312

1,5143,8678,4999,6169,2736,2748,3699,77614,45016,2268,2009,6354,7529,8876,1226,6438,0017,90110,06110,88814,739

6039354492,2522,2382,5636,8146,9854,4338,5478,50012,78112,3869,8637,1916,9125,4735,1294,0866,99820,497

1,3531,4132,5693,7304,0674,8123,0142,3133,0854,9576,60015,81715,00312,34913,08512,64915,56019,19622,39627,42040,801

4183498991,2511,4051,2892,0441,9551,9943,4042,4103,4452,5612,5221,6042,3022,4802,7603,3884,1895,045

1,0328909,40911,53812,67910,41111,4579,73511,1848,80514,2003,2024,5093,1252,37914,53716,63016,98117,59718,72720,953

9,6319,43619,5722,0531,3451,1532,7796293,4591,41035,00068,72557,30946,92645,34725,1334,7226,9468,2198,02914,050

9,6319,43619,5722,0531,3451,1532,7796293,4591,41035,00068,72557,30946,92645,34725,1334,7226,9468,2198,02914,050

RCLHY(1911):572-587RCLHY(1912):592-607RCLHY(1912):592-607RCLHY(1914):386-395,719-720RCLHY(1914):386-395,719-720RCLHY(1916):334-350RCLHY(1916):334-350RCLHY(1919):70-87RCLHY(1919):70-87RCLHY(1919):70-87ASI(1913-22):189ASI(1923-29):257ASI(1930-31):175ASI(1931-32):185ASI(1932-33):230ASI(1932-33):229ASI(1934-36):192-193ASI(1934-36):190-191ASI(1936-37):179-180ASI(1937-38):190-191ASI(1937-38):188-189

石炭・木炭

石油・植物油

獣皮・肥料

繊維製品

工業製品

農産物・食品家畜 鉱産物 林産物 建築

資材 その他 出  所

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

Page 10: 滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送 量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

192

増加しておらず、繊維製品が最終的に2万トンに達した以外は大きな変化

は見られない。一方、石油・植物油と工業製品については1910年代に比べ

て1930年代の輸送量が大きく増加しており、石油・植物油は1910年代に

は5,000トン以下であったのが、1930年代には世界恐慌の影響を受けた時

期でも1万トン以上を維持し、1938年には4万トンに達している。上述の

ように品目の区分の変更の影響もあって、工業製品は1930年代前半までの

輸送量は決して多いとは言えないが、1930年代後半にやはり輸送量が急増

し、1938年には同じく4万トンを超えていた。

 この間の品目別の比率の変化は、図4から理解されよう。大きな変化は

農産物・食品の比率の低下と石炭・木炭の比率の上昇である。前者の比率

は1910年代の50%以上から1930年代には30%程度に低下したのに対し、

後者の比率は同じ時期に10%程度から30%程度へと増加した。そして、

滇越鉄道の輸送品目比率(1910~1938年) (単位:%)図4

1910

100%

90%

80%

70%

60%

50%

40%

30%

20%

10%

0%

その他

工業製品

繊維製品

獣皮・肥料

石油・植物油

建築資材

林産物

鉱産物

石炭・木炭

農産物食品

家畜

出所:表2に同じ、より筆者作成191119121913191419151916191719181919

1922

1929193019311932193319341935193619371938

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

Page 11: 滇越鉄道の経済的役割 1910~1940年 ─貨物輸送統計の分析─ンから1940年の173万トンまで3倍増加しているが、路線長あたりの輸送 量に換算すると、その増加率は1.5倍と半減することになる。他方で滇越

193

1930年代末期には石油・植物油や工業製品の輸送量の増加が反映され、ど

ちらも10%程度の比率に上昇したことが分かる。全体としては、いわゆる

一次産品の輸送比率が高く、鉱産物や林産物を加えれば一次産品が全体の

70 ~ 80%を占めていたことになる。

 

2.区間別の主要輸送品目

(1)ハイフォン発着

 本節では、区間別の主要輸送品

目の輸送状況を分析する。最初

に、ハイフォン発着の輸送を取り

上げてみる。表3はハイフォン発

雲南着の主要輸送品目をまとめた

ものである。これを見ると、1910

年代には繊維製品の輸送量が圧倒

的に多くなっており、1930年代

にも依然として繊維製品が最大の

輸送品目であることが分かる。次

いで石油・植物油の輸送量が多く、

1910年代後半に一時2,000トンを

下回ったものの、1930年代には5,000トン前後で推移していた。工業製品

は1930年代後半に輸送量が多くなっており、1938年には繊維製品を上回っ

ていた。

 これらの品目の雲南での主要な到着駅は、碧色寨と雲南府であった。図5

は1910年代のハイフォンとハノイから雲南に到着した綿糸の量を示したも

のであり、碧色寨と雲南府の到着量が最も多くなっていることが分かる6 。

後述するように碧色寨は雲南省内の沿線で最大の都市である蒙自と雲南最

大の錫鉱山がある箇旧の最寄駅であった。それでも、この期間内に碧色寨

ハイフォン発雲南着の主要輸送品目(1910~1938年)(単位:トン)

表3

1910191119121913191419151916191719181919193019311932193319341935193619371938注:工業製品は、薬品・化学製品、金属製品、機械を含む。出所:表2に同じ、より筆者作成

3801,0971,2321,0069029271,4361,7651,6331,4009031,4982,9222,8423,0512,7182,595

1,3531,4132,5693,5213,6744,0842,0971,6381,8203,8635,0244,5233,9304,3064,1666,2836,6967,96014,352

7,8676,9776,4955,1456,5636,1715,7306,0491,8041,162658

11,72513,68013,34212,97813,24815,136

7,5985,8324002,3822,0631,5651,7532,2132,8202,9701,9901,7481,3172,7255,9376,6068,3788,76316,636

2,03878

472,927550

18,88814,56217,8864,4497751,2551,2247132,951

8,9517,24513,25414,05513,46411,80011,31510,99614,73315,19729,33923,39524,69424,70327,48030,32832,32733,40251,670

農産物・食料

石油・植物油 その他繊維製品 計工業製品

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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194

の到着量が大きく減少し、反対に雲南府の到着量が大きく増加しているこ

とが分かる7。その後も同じ傾向が続いたようであり、1937年の繊維製品

の到着量は碧色寨が2,400トンであったのに対し、雲南府は1万1,938トン

に達していた[鉄道省 1942]。図6の石油到着量も同様の傾向を示してお

ハイフォンからの石油到着量の推移(1913~1919年)(単位:トン)図61,600

1,400

1,200

1,000

800

600

400

200

0

河口碧色寨阿迷州 渓宣良雲南府その他

1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919

注:1915年分より到着量には再発送分も含む。出所:表2に同じ、より筆者作成

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

ハイフォン・ハノイからの綿糸到着量の推移(1913~1919年)(単位:トン)図56,000

5,000

4,000

3,000

2,000

1,000

0

河口碧色寨阿迷州 渓宣良雲南府

1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919

注:到着量には再発送分も含む。出所:表2に同じ、より筆者作成

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195

り、当初は碧色寨の到着量のほう

が多かったが、一旦到着量が大き

く減少した後、1919年には雲南府

の到着量のほうが多くなっていた。

石油・植物油についてはその後も

碧色寨の到着量は多くなっており、

1937年には碧色寨の到着量が4,990

トンと雲南府の3,606トンを上回っ

ていた[Ibid.]。

 次に、ハイフォン発トンキン着

の輸送については、石油・植物油

が最も多くなっていた。表4のよう

に、1930年代の輸送を見る限り石

油・植物油の輸送量が最も多くなっ

ており、1938年には2万トンに達

していた。雲南とは異なり、繊維

製品の輸送量は少なくなっている。

農産物・食料の輸送量には目立っ

た変化はないが、工業製品は着実

に増加していた、ただし、その他

の数値が1934年に大きく減少して

いるが、その内訳は判別しない。

 一方、雲南発ハイフォン着の輸送については、輸送量の変化は少なかっ

た。表5を見ると、この間の輸送は常に金属・鉱石が最も多くなっており、

とくに1930年代には金属・鉱石の比率が圧倒的に高くなっていた。具体

的な貨物は箇旧で産出された錫であり、そもそも滇越鉄道が想定した最も

重要な輸送品目であった。その量はほぼ1万トン程度で推移しており、世

界恐慌の影響で若干輸送量が減った時期があるものの、大きな変化は見ら

ハイフォン発トンキン着の主要輸送品目(1930~1938年)(単位:トン)

表4

193019311932193319341935193619371938注:工業製品は、薬品・化学製品、金属製品、機械を含む。出所:表2に同じ、より筆者作成

2,6892,2842,4622,7842,1982,3462,0422,3482,543

7,7415,9887,3026,7999,42710,72513,31715,91420,161

1,492897550473307253645887936

1,7161,7361,0681,0303,6633,9614,4754,6984,643

9,3638,6459,0528,1751,8302,1792,1989222,679

23,00119,55020,43419,26117,42519,46422,67724,76930,962

石油・植物油

繊維製品

工業製品

農産物・食料 その他 計

雲南発ハイフォン着の主要輸送品目(1910~1938年)(単位:トン)

表5

1910191119121913191419151916191719181919193019311932193319341935193619371938出所:表2に同じ、より筆者作成

1,1471,1288901,1571,1771,3172,4106,5933,2651,192372406375307318304193304370

5,8297,3898,7498,3847,66710,4118,43912,3328,1538,4256,7216,8587,7998,6108,0878,87510,12910,25110,042

29191502922733016876798391,5491,1911,0223447378316301,4441,9691,989

23252661226452421152233621,1401,4351,1169907277317648323,117

7,0288,56110,0559,9559,18112,08111,57819,71912,48011,5289,4249,7219,63410,6449,96310,54012,53013,35615,518

金属・鉱石

獣皮・肥料

農産物・食料 その他 計

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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196

れない。この錫が雲南からハイフォンへ

の輸送の大半を占めていることから、錫

以外には雲南から海外へ輸出されるめぼ

しい産物はほとんどなかったことにな

る。それでも、1910年代には農産物・食

料の輸送も1,000トン程度存在し、とくに

1917年には6,500トンもの輸送が見らえ

るが、これはヨーロッパ向けのインゲン

豆の輸出が急増したためであった8。

 トンキン発ハイフォン着の輸送については、表6のように1930年代に大

きな変化が見られた。それは農産物・食品の輸送量の急増である。表のよ

うに、1931年までは輸送量はすべて合わせても5,000トンにも満たなかっ

たが、その後輸送量が急増して1936年には4万トンを超えるに至ってお

り、その主因は農産物・食品の急増であった。この輸送は実際にはトウモ

ロコシの輸送であり、フランス向けの輸出が急増したことに対応したもの

であった9。トウモロコシは1932年から1937年まで米に次ぐ輸出額を誇り、

サイゴンからの輸出が大半を占めたものの、ハイフォンからの輸出も存在

した[Robequain 1944: 311]。1938年のハイフォンからの輸出量は約10万

トンであったことから、その3分の1が鉄道で運ばれてきたものであった

ことになる10。

(2)トンキン~雲南間

 トンキン~雲南間の輸送は滇越鉄道の貨物輸送の中でも最も少ないもの

であったが、トンキン発雲南着の輸送には特定の年に輸送量が急増すると

いう大きな特徴が見られた。表7を見ると、1913 ~ 1914年と1933年に輸

送量が急増し、それぞれ1万トンを超えていることが分かる。この要因は、

農産物・食料輸送の急増にあった。この表から分かるように、トンキンか

ら雲南へ運ばれる農産物・食料は通常500トンを上回ることがないが、こ

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

トンキン発ハイフォン着の主要輸送品目

(1930~1938年)(単位:トン)

表6

193019311932193319341935193619371938出所:表2に同じ、より筆者作成

9741,5299,65729,17925,28911,56638,94629,65734,754

1013--

1,1991,3251,6371,5201,659

3,5233,1852,1681,9449777157441,8082,361

4,5074,72711,82531,12327,46513,60641,32732,98538,774

農産物・食料 その他林産品 計

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197

の2回の時期に輸送量が急増してい

ることが分かる。この2回の輸送は

いずれも米の輸送であり、おそらく

は雲南での一時的な米不足の発生の

ために米輸送が発生したものと思わ

れる。後述する図8から明らかなよ

うに、雲南内の米輸送量は1914年

に大きく落ち込んでおり、とくに碧

色寨の米到着量の落ち込みが顕著で

あった。このため、トンキンからの

米輸送が発生して、米不足の解消に

貢献したものと思われる。1933年

にも米の輸送が急増していることか

ら、やはり同様の不作が発生したも

のと思われる11。

 米の輸送が存在しない時期にはト

ンキンから雲南への輸送量は少ない

が、1910年代には繊維製品の輸送が

若干存在した。これは前述した綿糸

の輸送であり、ハイフォン発の綿糸

とともにトンキン発の綿糸も雲南に

供給されていた。ただし、この綿糸

輸送は1930年代に入るとほぼ消滅し

たことから、トンキン産の綿糸が雲南へ供給されていた期間はそう長くな

かったものと思われる。なお、1930年代後半には建築資材の輸送量が急増

し、1938年には6,000トンを記録しているが、これはセメントの輸送であっ

た。ハイフォン発雲南着の輸送も1938年に急増していたが、これらの輸送

は援蒋物資であったものと推測される。

トンキン発雲南着の主要輸送品目(1910~1938年)(単位:トン)

表7

1910191119121913191419151916191719181919193019311932193319341935193619371938出所:表2に同じ、より筆者作成

---

8,83612,7642892723274161,5861825336

14,7781,993307129127205

41059839620313017212425129649114261455964551,0659951,7026,057

1,0328901,5421,4782,5031,7471,2487941,03176110134

13426818052197102

1,2005259566876074375494417916251,5261,1661,0441,0301,3458321,2981,6003,338

2,6422,0132,89411,20416,0042,6452,1931,8132,5343,4631,8601,2931,12916,5384,0612,3842,4743,6269,702

農産物・食料 その他繊維製品建築資材 計

雲南発トンキン着の主要輸送品目(1910~1938年)(単位:トン)

表8

1910191119121913191419151916191719181919193019311932193319341935193619371938出所:表2に同じ、より筆者作成

---54141501831,8095492,0813122193103478891,894700512

---346186

1782048----316-1235340

21411820515612717128204669252181620

165131198911164795411063029169787581171873137931,3151,664

3792494036474021204681,8787232,4299531,0097794355521,2202,7002,0562,536

農産物・食料

獣皮・肥料

金属・鉱石 その他 計

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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198

 一方、雲南発トンキン着の輸送は、一貫して少ない状況が続いていた。

表8のように、1910年代には末期に2回ほど増加している以外は1,000トン

を下回っており、1930年代も後半に2,000トンを超えた以外は少ない状態

が続いていた。品目別に見ると、1910年代には初期に獣皮・肥料が若干存

在した以外は農産物・食品が中心であり、この時期にはインゲン豆、ジャ

ガイモ、大豆が中心であった。1930年代には果物・野菜や干魚の輸送が増

加した時期もあるが、全体的に見て輸送量は少なかった。なお、1930年代

にはその他の輸送量が相対的に多くなっているが、その内容については判

別しない。

(3)トンキン内

 トンキン内の輸送については、これまでの区間に比べて輸送される品目

が多様であった。表9のようにトンキン内の輸送品目は多く、とくに1930

年代には輸送品目の多様化が進み、それぞれの輸送量も増加していること

が分かる。1910年代は米の輸送量が圧倒的に多く、米が最大の輸送品目で

あることが分かるが、1930年代には米以外の輸送量が増加し、米の輸送比

トンキン内の主要輸送品目(1910~1940年) (単位:トン)表9

191019111912191319141915191619171918191919301931193219331934193519361937193819391940注:工業製品は、薬品・化学製品、金属製品、機械を含む。出所:表2に同じ、より筆者作成

N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.N.A.

31,2585,7464,6654,265

N.A.N.A.

2,7486,070

10,5377,5957,767

16,53719,89734,0579,211

15,49630,61021,73114,58824,61542,12516,71921,12110,64410,3459,711

13,47312,22713,16114,34813,84925,246

12,6009,1605,144

10,68012,1135,8372,1971,250

5711,0271,325

94316241859195

1,1822,4172,464

8231,576

2,0492,9762,4233,9743,9323,2073,8122,9935,7595,2767,4686,2076,5885,6285,0206,3928,119

13,17216,29618,20913,240

N.A.N.A.N.A.

----

199308

1,3441,549

823449533549

1,4001,8011,8061,9144,5619,832

N.A.N.A.N.A.836505957

1,6201,1541,3541,506

5771,1231,080

573918755857

1,0322,7093,2363,388

N.A.N.A.N.A.

1,6501,9502,3296,5656,4203,1337,1687,1205,5813,8534,0044,0743,5252,6444,349

12,53421,17319,030

N.A.N.A.N.A.103144130111100264482945752570260463621592

1,0531,7842,9985,591

N.A.N.A.N.A.396520470718248256225339348568449289

1,2532,1452,7473,4793,5553,203

N.A.N.A.N.A.

1,5921,4571,1831,6361,7131,7482,1102,0621,635

983764

3,2563,7534,5107,393

13,77512,59950,420

3,4945,821

11,659497452459985729652

1,46111,9639,1228,2905,0522,0173,5824,8706,3509,741

11,82613,683

34,68037,85453,28328,93936,56945,18239,37529,39438,66062,72481,32553,40137,85232,29126,88834,84941,69559,55089,581

100,424152,976

トウモロコシ

石炭・木炭

石油・植物油

繊維製品

工業製品

その他農産物・食料家畜 林産物 建築

資材 その他 計米

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199

率は明らかに低下している。米の輸送量は1910年代には最大で4万トンに

達しているが、1930年代には1万~ 2万トン程度で推移しており、1910年

代のほうが輸送量は多くなっていた。

 この米の輸送については、1910年代には外港であるハイフォン着の輸送

よりもハノイ着の輸送のほうが中心であった。図7はトンキン内の米輸送

の主要駅の発着状況を示したものである。これを見ると発駅はハノイ近郊

の紅河デルタが中心になっていることが分かる。ハノイを中心に東はハイ

ズオン、西はヴィンイェンまでの範囲が含まれており、おおむねハノイか

トンキン内の主要駅米発着量の推移(1910~1919年)

発 送

(単位:トン)図712,000

10,000

8,000

6,000

4,000

2,000

0

ハイズオンカムザンラックダオハノイハノイ(連絡)ドンアンタップミエウヴィンイェン

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919

到 着25,000

20,000

15,000

10,000

5,000

0

ハイフォンハイズンハノイ

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1919

出所:表2に同じ、より筆者作成

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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200

ら50km圏内の駅が発駅となっていたことが分かる12。1913年から翌年に

かけての発送量が大きく減少しているのは、上述した雲南への輸送が発生

したためと思われる。とくに発送量が突出した駅はないが、1919年になる

とそれまで発送が非常に少なかったハノイの発送量が大きく増加し、第1

位になっている点が注目される。

 一方、到着ではハノイの到着量が圧倒的に多くなっていたことが分かる。

ハイフォンも1913年まではハノイとほぼ同じ軌跡を描くが、その後低迷し

たのちに、1919年に急増して1.5万トンに達していることが分かる。この

年にはハノイ発の発送量が急増していたことから、ハノイからハイフォン

への米輸送が発生したことが想定される。仏印は米の主要な輸出国であっ

たが、その輸出はメコンデルタを擁するサイゴンからが圧倒的に多くなっ

ており、ハイフォンは主要な米輸出港ではなかった。このため、滇越鉄道

による米輸送も、輸出港ハイフォンへの輸送よりもむしろ沿線の最大消費

地であるハノイへの輸送が中心であり、しかも輸送量自体も最大で4万ト

ン程度と多くはなかったのである。

 米以外の輸送品目については、1910年代前半にはトウモロコシの輸送

量が1万トン程度と多くなっていた点が注目されるが、1915年以降は減少

し、1930年代に入っても低迷が続いていた。その他の農産物・食品の輸送

量は着実に増加しており、1930年代後半には1万トンを超えていた。内訳

は1940年の時点ではアルコール飲料が5,422トンと最も多くなっており、

次いでコーヒー・茶の2,436トン、塩の2,221トンなどとなっていた[ASI

(1939-40): 182]。建築資材や工業製品の輸送量も1930年代後半に急増し

ており、工業製品は1940年には5万トンを記録するまでに急増していた。

これらの輸送が急増しているのも、やはり援蒋物資の増加によるものと思

われる。

(4)雲南内

 最後に、雲南内の輸送について分析を進める。表10は雲南内の主要輸送

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201

品目の輸送量を示したも

のである。これを見ると、

雲南内では1910年代に

は当初米の輸送量がもっ

とも多くなっていたが、

石炭と林産品の輸送量が

その後増加しており、最

後には木炭の輸送量も急

増していることが分か

る。その後、1930年代に

は石炭の輸送量が圧倒的

に多くなり、木炭がそれに追随しており、米の輸送量は1万~ 2万トン程

度と相対的にその比率が低下していることが分かる。先の図4で石炭・木

炭の比率が1930年代に増加したことを確認したが、その主要な要因はこの

雲南内での輸送量の増加にあったことになる。

 雲南内の輸送については、1910年代の主要品目の主要駅別発着量が把握

できるために、以下米、石炭、木材の3品目について輸送状況の詳細を確

認してみよう。図8は米の発着量を表したものである。これを見ると、雲

南における米の発送の中心地は宜良であることが分かる。宜良は南盤江流

域に位置する町であり、南盤江沿いでは最大の盆地(壩子)が広がってい

た13。このため、この駅からの発送が最も多くなっていた。なお、1914年

には大庄、阿迷州、徐家渡からの発送が皆無となっており、やはりこの年

に不作が発生したことが確認できる。一方、到着では碧色寨の到着量が最

多となっており、1914年に急減したのちに1918年には1.8万トンと過去最

高を記録している。その後の推移は分からないが、1937年の時点で農産物

の到着量について碧色寨が2万1,985トン、雲南府が4,296トンという数値

が得られることから[鉄道省 1942]、この後も碧色寨の米の到着量は最多

であったものと推測できる。

雲南内の主要輸送品目(1910~1938年)(単位:トン)表10

1910191119121913191419151916191719181919193019311932193319341935193619371938出所:表2に同じ、より筆者作成

7,9908,4898,8027,7274,40412,84217,15319,63120,98111,97015,51715,74416,10213,04813,42914,62211,28617,99524,413

1,1352,3625,3166,1897,9785,9098,0047,13410,4779,6044,7755,8616,1087,7467,0206,5396,2115,3616,314

3897663,5053,6745,0016,32610,3138,56912,9208,2064,7715,2205,9996,17814,62014,89219,31316,18415,165

2,1744,5666,4236,7147,6557,0738,83511,37810,11812,88553,97250,43649,92861,32428,82837,21870,86370,31464,159

---1372103306036049,50316,96325,46427,59421,28816,33643,27240,77110,97811,4179,077

1,4543,8448,4338,7318,7685,3176,7498,62213,09614,7203,8178,4044,9555,9965,2075,3277,3718,2149,420

N.A.N.A.N.A.2,6413,0603,0492,9282,5224,1671,7708586955971,7302,0411,9141,7521,5891,272

5,2073,5875,1333,3682,9632,9234,6912,8624,5554,04621,35017,39512,70810,5185,6286,0967,4138,38510,063

18,34923,61437,61239,18140,03943,76959,27661,32285,81780,164130,524131,349117,685122,876120,045127,379135,187139,459139,883

繊維製品

その他農産物・食料 林産物 その他石炭 木炭 計米 塩

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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202

 次の図9は石炭の発着量を示したものである。石炭の発送地は碧色寨近

郊の大庄と大塔、および宜良と雲南府の間に位置する可保村の3 ヵ所が中

心となっており、初期は大塔と可保村の発送量が同じ程度となっているが、

1910年代後半には可保村の発送量が大幅に増加していることが分かる。一

方、到着では同じく碧色寨が中心となっており、1919年には5,000トンを

超えて雲南府との差は大きく拡大している。碧色寨に到着した石炭は箇旧

の錫鉱の精錬用の燃料として利用されており、1910年代末から輸送が急増

した木炭も同様であった。1937年の時点でも碧色寨の石炭・木炭の到着量

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

雲南内の主要駅米発着量の推移(1910~1919年)

発 送

(単位:トン)図810,000

9,000

8,000

7,000

6,000

5,000

4,000

3,000

2,000

1,000

0

大庄阿迷州 渓徐家渡狗街子宣良可保村

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1919

到 着20,000

18,000

16,000

14,000

12,000

10,000

8,000

6,000

4,000

2,000

0

碧色寨大庄阿迷州徐家渡雲南府

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919

出所:表2に同じ、より筆者作成

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203

は5万8,320トンとなっており[Ibid.]、この年の滇越鉄道の石炭・木炭輸

送量計8万3,985トンのうちの69%を占めていた。なお、この年の可保村

の石炭・木炭発送量は2万1,497トンであったが、より碧色寨に近い小龍潭

からの発送量のほうが3万2,580トンと多くなっていた[Ibid.]。

 最後に、木材の発着量を図10から考察してみる。発送は巡検司が最も多

くなっており、1916年以降に糯租からの発送も増加して1919年にはどち

らも4,000トン程度で並んでいる。これらの発送駅は雲南省内での米どこ

ろであった宜良より南の南盤江沿いの区間に位置し、宜良とは異なり狭い

雲南内の主要駅石炭発着量の推移(1910~1919年)

発 送

(単位:トン)図95,000

4,500

4,000

3,500

3,000

2,500

2,000

1,500

1,000

500

0

大庄大塔可保村

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1919

到 着6,000

5,000

4,000

3,000

2,000

1,000

0

芷村碧色寨雲南府

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919

出所:表2に同じ、より筆者作成

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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204

谷間を川と鉄道が並行する区間であった。このため、両岸の山から伐採さ

れてきた丸太が鉄道で発送されていたものと思われる。一方、到着駅はや

はり碧色寨が圧倒的に多くなっていたが、1916年以降は雲南府への輸送が

急増し、1919年には双方の到着量がほぼ同じレベルに達していたことが分

かる。この雲南府への木材輸送の増加は、雲南府での建築ラッシュによる

ものと説明されていた[RCLHY(1919): 94]。雲南府への木材は距離的に

近い糯租と禄丰村からの発送が中心となっており、糯租からの発送の増加

は雲南府での需要の増加によるものであった14。なお、林産品の輸送量は

横浜市立大学論叢人文科学系列 2013:Vol.65 No.1

雲南内の主要駅木材発着量の推移(1910~1919年) (単位:トン)図107,000

6,000

5,000

4,000

3,000

2,000

1,000

0

阿迷州巡検司西扯邑西洱糯租禄丰村

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919

1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919

到 着8,000

7,000

6,000

5,000

4,000

3,000

2,000

1,000

0

発 送

碧色寨大庄阿迷州雲南府

出所:表2に同じ、より筆者作成

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205

1930年代には1910年代よりも若干少ないレベルで推移しており、1937年

には雲南内の総輸送量8,214トンのうち、阿迷州(開遠)発が5,393トンと

最多となっており、到着は碧色寨が5,902トン、雲南府が1,601トンとなっ

ていた[鉄道省 1942]。このため、1910年代に木材の発送で活況を呈した

各駅は、資源の枯渇で木材の発送を減少させたものと思われ、雲南府での

需要の急増も一時的なものであったことが推測される。

 このように、雲南内の輸送は碧色寨着の輸送が中心であったことが分か

り、省都の昆明向けの輸送よりも蒙自、箇旧向けの輸送が中心であったこ

とが特筆される。

3.滇越鉄道の経済的役割

(1)輸送ルートの変化

 これまで滇越鉄道における貨物輸送の詳細を分析してきたが、これをふ

まえて滇越鉄道の経済的役割を考察すると、輸送ルートの変化、限定的な

外港~後背地間輸送、緊急時の物資輸送、そして箇旧の錫産業の育成とい

う4つの点が浮かび上がってくる。

 最初の輸送ルートの変化であるが、これは鉄道の開通による輸送条件の

改善、すなわち輸送時間や輸送費用の短縮によるものである。山地に位置

する雲南省は、河川の上流部に位置して水運の便が極めて悪かったことか

ら、省内や他地域との往来は陸路に依存しなければならなかった。伝統的

な輸送手段は、馬を利用した隊商である「馬幇」と人が荷物を担ぐ「背

夫」であり、陸上輸送が輸送の中心を占めていた[石島 2004 : 21]。外界

との連絡も、河川航行が可能な地点までは陸路で行う必要があり、沿岸部

への主要なルートは、陸路で北上して四川省の宜賓から長江経由で上海に

至るルート、東進して広西省の百色から西河経由で広東や香港に至るルー

ト、そして南下して紅河経由でハイフォンを目指す3つのルートが存在し

た[Ibid. : 23-22]15。

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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206

 箇旧の錫についても、主にこれらの3つのルートを用いて外界に運ばれ

ていた。当初は四川経由の長江ルートが主要な輸送ルートであったが、19

世紀後半になると広西経由の西河ルートが用いられるようになったという

[武内 2003 : 6]。ところが、太平天国の乱やその後の天地会系諸反乱によっ

て広西ルートの治安が悪化し、1870年代以降は代替ルートとして紅河経由

のルートが用いられるようになった[Ibid.]。治安面の問題以外にも、紅

河経由のルートは陸路に依存する区間が短いという利点もあり、輸送費用

の低減にもつながった。図1のように、箇旧から東に向かって百色まで陸

路に依存するよりも、南下して蛮耗で紅河に到達したほうが陸上輸送の距

離ははるかに短かった。このため、錫2,500斤を箇旧から上海まで輸送す

る際に、西河経由の場合は270両5銭の費用がかかるのに対し、紅河経由

の場合は155両3銭余であったという[Ibid.]。

 この紅河ルートに関心を持ったのが、インドシナ半島で植民地の拡大を

模索していたフランスであった。フランスは1884年にトンキンを併合して

ベトナム全土を植民地化すると、清朝との戦争に勝利した上で清朝の主張

するベトナムの宗主権を放棄させた。その上で、雲南との間の貿易を拡大

するために、清朝に対して海関(税関)の設置を要求し、その結果1887年

に蒙自に、1895年に思茅への海関の設置を実現させた[石島 2004: 19]16。

さらに、フランスは清朝に関税の引き下げを承諾させ、1889年には蒙自が

貿易都市として開放された[Ibid.]。これによって蒙自経由の貿易は大き

く拡大し、雲南省の対外連絡ルートとしての紅河ルートの重要性をさらに

高めることになった。そして、最終的にフランスはこの紅河ルートにそっ

て鉄道を敷設する権利を獲得し、1910年に滇越鉄道のハイフォン~雲南府

間の全線を開通させたのであった。

 鉄道の開通による輸送条件の改善は、非常に大きかった。従来の陸路で

は、昆明から宜賓まで出るのにも20日以上かかっていたが、滇越鉄道経由

でハイフォンから汽船に乗り換えれば、香港まで6 ~ 7日、上海でも9日

で到達することができた[Ibid.: 57]。滇越鉄道は雲南省に初めて到達した

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鉄道であり、事実上この地に初めて到達した近代的交通手段であった。こ

のため、雲南の海の玄関口はハイフォンに一本化され、中国国内の各地へ

向かう際も一旦滇越鉄道で仏印に入り、海路で再び中国に戻るルートが一

般的となったのである。この点で、滇越鉄道は典型的な外港~後背地間鉄

道としての機能を担うことになった。

(2)限定的な外港~後背地間輸送

 しかしながら、実際に開通した滇越鉄道の輸送状況を見ると、外港~後

背地間輸送がそれほど活発ではなかったことが明らかとなった。先の図3

で確認したように、ハイフォン~雲南間の輸送量は滇越鉄道全体の貨物輸

送量の中でも1 ~ 2割程度を占めるに過ぎず、滇越鉄道の輸送の中心はト

ンキン内、雲南内といった局地的な輸送であった。フランスが滇越鉄道を

建設した背景には、雲南省への政治的影響力を高めるとともに、沿線の豊

富な鉱物資源を開発し、経済的にも利益を得ようとの思惑が存在していた

[篠永 1992: 38-43]。にもかかわらず、滇越鉄道の外港~後背地間輸送の拡

大への役割は、それほど大きいものではなかった。

 確かに、滇越鉄道の開通は雲南省の住民の経済生活に大きな変化をもた

らした。例えば、鉄道の開通で外国製の綿糸(洋糸)が大量に輸入される

ようになると、土着の手で紡いだ土糸は用いられなくなった[石島 2004:

21]。上述のようにハイフォンから雲南に入った貨物の中で、綿糸は最も

重要な品目であった。ただし、雲南の場合は輸入した洋糸を紡いで綿布を

生産する作業は相変わらず現地で行われており、綿布や既製服の輸入は限

定されていた17。また、ハイフォンから雲南への主要な輸送品目には石油・

植物油も存在したが、ここに含まれていた灯油がランプ用の油として雲南

各地に広まることで、雲南の搾油用作物の栽培と搾油業が衰退していった

[Ibid.]。外国からの安価な商品が流入することで、従来雲南市場で用いら

れてきた伝統工業製品が代替され、衰退していったのである。

 それにしても、滇越鉄道の外港~後背地間輸送量は、他の外港~後背地

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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間の鉄道と比較しても少ないと言わざるを得ない。例えば、タイの首都バ

ンコクと周縁部にあたる北部と東北部を結ぶ北線と東北線と比較してみよ

う。1935年の北線でのバンコク~北部間の輸送量は下り(バンコク発)が

3.5万トン、上り(北部発)が11万トンと豚7.5万であり、東北線でのバン

コク~東北部間の輸送量は下りが5万トン、上りが37万トンと豚9万頭で

あった[柿崎 2000: 289, 300]。これに対し、1935年の滇越鉄道の外港~後

背地間の輸送量は、ハイフォン~雲南間に限定すると下り(ハイフォン発)

3万トン、上り(雲南発)1万トンとなり、ハイフォン~トンキン間を含

めても下り5万トン、上り4万トンでしかなかった。もちろん、山がちな

雲南と、山に囲まれながらもより広い盆地を有するタイ北部、あるいは平

原が広がる東北部では地理的条件も異なり、産出される産物も異なること

から、この差をもって滇越鉄道の外港~後背地間輸送を促進する役割が低

かったと単純に結論付けることはできない。それでも、同じ外港~後背地

間を結ぶ鉄道でありながらも、滇越鉄道のほうが外港~後背地間輸送に貢

献していないのは紛れもない事実である。

 このような滇越鉄道による外港~後背地間輸送の少なさは、滇越鉄道の

主要な外港~後背地間輸送である錫輸送量を見ても明らかである。雲南か

らの錫輸出量は、鉄道開通前の1904 ~ 1909年には年平均で4,008トンで

あったが、鉄道開通後の1910 ~ 1915年の平均は7,066トンであった[武内

2003: 17]。これは76%の増加ではあるが、タイの東北線の場合、鉄道開通

前のバンコク~東北部間の貨物の往来は年間に片道240トン程度でしかな

かった[柿崎 2000: 72]。錫の場合は付加価値が高いため、輸送費が高く

ても鉄道開通前から相当量の輸送がなされていたことから、鉄道による輸

送条件の改善効果が限定されていたのである。さらに、箇旧での錫生産も

伝統的な鉱山業者(爐主)による独占状態が続き、フランス資本の参入を

妨げていた18。これによって近代的な精錬技術の導入も遅れ、鉄道開通後

の錫生産の拡大もそれほど大きなものとはならなかったのである19。

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(3)緊急時の物資輸送

 外港~後背地間輸送がそれほど活発ではなかった滇越鉄道ではあるが、

緊急時の物資輸送という面では非常に重要な役割を果たしていた。それは

雲南での不作時におけるトンキンからの米輸送と、援蒋物資輸送が典型例

であった。

 雲南での米不足の際にトンキンの米が滇越鉄道で輸送されていたのは、

トンキン~雲南間の輸送統計から判明したことであった。平時においてト

ンキンから雲南への貨物輸送はほとんど存在しなかったが、1914年と1933

年に1万トンを超える輸送が突発的に発生していたことが確認された。こ

れが米輸送の発生によるものであったことは上述した通りであり、雲南で

の米不足がその主要な要因であった。実際に、1914年の雲南での米輸送

量は少なく、最大の米の到着地であった碧色寨の米到着量も大幅に減少し

ていた。このような緊急時の米の輸送は鉄道の開通によって初めて可能と

なったものであり、1914年の不作が滇越鉄道による緊急時の輸送の最初

の事例であったものと思われる。同様の事例はタイでも確認されており、

1920年の不作時にはバンコクから東北部と北部へ向けて大量の精米が発送

されていた[柿崎 2000: 228-232]20。

 また、1937年に日中戦争が始まると、中国への支援物資が滇越鉄道経由

でも輸送されるようになり、滇越鉄道の輸送量の拡大に大きく貢献した。

表1のように1938年にはハイフォン発雲南着の輸送量が前年より2万トン

弱増加して5万トンに達しており、トンキン発雲南着の輸送量も同年に1

万トン近くまで急増していた。1939年以降の雲南発着の輸送量は得られ

ないが、この表のトンキン内の輸送量を見ても、1937年の約6万トンから

1940年には15万トンと大幅な増加を見せていた21。これらの輸送が援蒋物

資輸送の輸送であったことは疑いないものであり、日中戦争という緊急事

態によって滇越鉄道の外港~後背地間鉄道としての機能が大幅に高められ

たのである。

 しかしながら、ようやく活発になった滇越鉄道による外港~後背地間輸

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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送も、日本軍による援蒋ルート遮断の圧力によってすぐに途絶えてしまっ

た。日本側は1937年からフランスに対して援蒋ルートの遮断を要請し始め

ていたが、フランスは雲南と広西への援蒋物資の輸送を容認していた[立

川 2000: 29-38]。ところが、1939年に第2次世界大戦が始まると日本軍は

広西経由の援蒋物資輸送を遮断するために11月に広西に進軍し、12月に

は雲南省内の滇越鉄道の爆撃も行った[Ibid.: 39-41]。滇越鉄道は一旦復旧

したものの、フランス本国がドイツに対して休戦したのちに、日本側は仏

印政庁に更なる圧力をかけ、翌年7月に滇越鉄道の国際輸送を中止し、国

境付近の線路も撤去されてしまった[Ibid.: 47-66]。これによって、日本軍

の仏印経由の援蒋ルートの遮断はその目的を達成し、滇越鉄道はトンキン

と雲南の2つの路線に分断され、国際鉄道としての機能を失ったのである。

(4)箇旧の錫産業の育成

 上述したように本来外港~後背地間鉄道として機能するはずであった滇

越鉄道ではあるが、実際には外港~後背地間輸送の機能よりも、トンキン

内、雲南内といった局地的な輸送の機能のほうが高かった。そして、図3

で見たように雲南内の輸送が占める比率が最も高くなっており、実際に主

要な輸送品目の輸送状況を見ると、碧色寨着の輸送が最も多くなっていた

ことが確認された。碧色寨は蒙自や箇旧の玄関口であることから、この碧

色寨着の輸送は、実質的には蒙自と箇旧向けの輸送であった。

 開業当初から碧色寨は蒙自や箇旧の玄関口として機能していたが、蒙自

の町までは10km以上も離れており、箇旧の錫は馬で運んでこなければな

らなかった。このため、箇旧や蒙自の商人らは碧色寨と箇旧を結ぶ鉄道建

設を計画し、箇碧鉄路公司を設立して鉄道建設を推進した。山間部に位置

する箇旧まで登っていく鉄道の建設は難航したが、1921年に全通した[武

内 2003: 21]22。これによって、箇旧の錫も鉄道でハイフォンまで輸送でき

るようになり、滇越鉄道で到着した箇旧向けの貨物も鉄道で箇旧まで運び

上げられるようになった。しかし、この鉄道は軌間600㎜の特殊狭軌を用

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いたことから、軌間1,000㎜の滇越鉄道との車両の直通はできず、碧色寨

での積み替えが必要であった。

 箇旧の錫業の発展が、碧色寨を発着する貨物輸送の拡大を促進し、碧色

寨発着の貨物が実質的に滇越鉄道の主要な顧客となっていた。碧色寨から

発送される貨物は錫以外にめぼしいものはなかったが、碧色寨には箇旧

で消費される様々な物資が到着していた。箇旧の採掘・精錬労働者の数は

1918年の時点で約15万人と見積もられており[武内 2003: 18]、彼らが消

費するための食料が必要であった。図8で見たように、雲南内の米輸送は

ほとんどが碧色寨着の輸送となっており、雲南の米が不足する際にはトン

キンからの米も到着していた。また、数多くの労働者の存在は食のみなら

ず衣や住の需要も生み出し、衣服の原料となる綿糸や住居の材料となる木

材も碧色寨に多数到着していた。彼らが家で使用するランプの灯油も、ハ

イフォンから鉄道で運ばれてきたものである。このような箇旧の錫鉱山で

働く労働者の存在が、碧色寨着の輸送需要を創出した要因の1つであった。

 そして、錫の精錬時に必要な燃料も、やはり滇越鉄道が運んできたもの

であった。伝統的な土法精錬においては木炭が燃料として用いられており、

1870年代には箇旧周辺では既に大量の木炭が生産されたために禿山化して

いたという[Ibid.: 22]。このため、箇旧で消費される木炭は徐々に遠方か

ら確保せざるを得なくなり、滇越鉄道沿線も箇旧向けの木炭生産に参入す

るようになったものと思われる。また、銀務公司のヨーロッパ式精錬所で

は石炭を燃料にしていたことから、滇越鉄道は石炭の供給にも重要な役割

を果たすことになった。石炭の輸送量は1910年代には1万トン程度であっ

たが、近代的な精錬所の増加に伴って1930年代には最大で7万トンほどに

達し、その大半が碧色寨に到着していた23。この錫精錬のための燃料輸送

も、滇越鉄道の輸送需要を生み出したもう1つの要因であった。

 このように、滇越鉄道の貨物輸送需要は主に箇旧の錫鉱山が生み出した

ものであり、この鉄道の最も重要な役割は箇旧の錫産業の育成にあったと

言えよう。この役割は滇越鉄道の全通直後の1910年代にとくに顕著であ

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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り、それは第1次世界大戦後に錫価格が暴落することで終焉した箇旧の錫

産業の黄金時代と一致していた24。そして、世界恐慌による停滞を経て、

今度は日中戦争の発生によって外港~後背地間輸送の重要性が1930年代

後半に急激に高まったが、すぐに日本による援蒋ルート遮断の圧力によっ

て、ようやく活発化した外港~後背地間輸送も頓挫してしまったのである。

おわりに

 本論は滇越鉄道の貨物輸送状況を分析し、その経済的役割を検討するこ

とを目的とした。この鉄道はベトナムの外港ハイフォンと中国・雲南省の

省都である昆明を結ぶ国際鉄道であり、外港~後背地間輸送を担う鉄道で

あった。1910年に全線が開通してからは輸送量が順調に増加し、世界恐慌

による影響もそれほど大きくは受けず、1930年代後半に輸送量が急増し、

最終的には全通直後の年10万トンから50万トンへと増加した。しかし、

区間別の貨物輸送量を比較すると、外港~後背地間の輸送となるハイフォ

ン~雲南間の輸送が全体に占める割合は高くはなく、トンキン内、雲南内

といった局地輸送が中心であった。輸送品目は当初は農産物・食品が最も

多かったが、1930.年代には石炭・木炭の比率が増加していった。

 区間別の輸送を見ると、ハイフォン発着の輸送ではハイフォンから雲南

へは綿糸や石油が、雲南からハイフォンへは錫が輸送の中心であり、1930

年代にはトンキンからハイフォンへのトウモロコシ輸送が増加した。トン

キン~雲南間では、トンキンから雲南へ時折米が大量に運ばれる以外は輸

送が少なかった。一方、トンキン内では米を中心とする農産物の輸送が多

く、雲南内では米、石炭、木材などの輸送が見られ、その多くが箇旧や蒙

自の玄関口となる碧色寨向けの輸送であった。

 このような滇越鉄道による貨物輸送を分析した結果、この鉄道の経済的

役割として、輸送ルートの変化、限定的な外港~後背地間輸送、緊急時の

物資輸送、そして箇旧の錫産業の育成の4つの点が確認された。滇越鉄道

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の開通までは雲南と外界を結ぶルートには長江、西江経由のルートも存在

したが、鉄道開通後は紅河ルートが輸送条件の点で圧倒的に有利となった。

外港~後背地間の輸送については、鉄道開通による大幅な輸送量の増加は

見られなかったが、雲南の米不足の際のトンキンからの米輸送や、日中

戦争時の援蒋物資の輸送といった緊急時の物資輸送という機能は確認され

た。そして、最大の役割は雲南最大の錫の産地であった箇旧の錫産業の育

成という点に見出すことができ、箇旧の錫産業が滇越鉄道の主要な輸送需

要の源となっていたことが理解された。

 今後の課題としては、滇越鉄道の開通による外港~後背地間輸送の変化

を貿易統計を使って把握することが挙げられる。既に石島も中国側の統計

を用いて蒙自海関の貿易額の変化を明らかにしているが[石島 2004: 59]、

フランス側の統計を使ってもより詳細に品目別の変化を探ることが可能で

ある。これによって、滇越鉄道の経済的役割をさらに詳細に証明すること

ができるものと思われる。

滇越鉄道の経済的役割 1910 ~ 1940 年─貨物輸送統計の分析─

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篠永は、滇越鉄道の開通以前から雲南の貿易はアヘンと錫を輸出し綿糸を輸入する状況であり、アヘン以外は香港で取引されることから主にイギリス製の綿糸が雲南に流入していたとし、鉄道開通後もその傾向は変わらず、フランス製品の雲南市場の獲得は困難であったと述べている[篠永 1992: 48-49]。滇越鉄道営業報告は『仏印経済論集(Bulletin Economique de l’Indochine: BEI)』に掲載されていたもので、1910年版から1919年版までが利用可能であり、滇越鉄道内の区間別の品目別輸送量や、主要品目の主要駅別発着量の統計が得られる。また仏印統計年鑑は1913-1922年版から1939-1940年版までが利用可能であり、前者ほど詳細な統計は得られないものの、区間別の品目別輸送量は把握可能である。仏印鉄道全体の輸送量の減少率が高かった主要な要因は、ハノイとサイゴンを結ぶ縦貫線の輸送量が世界恐慌前の約60万トンから恐慌後の30万トン弱へと大幅に減少したためであった。この1930年代後半の急増の主要な要因も、縦貫線の輸送量の増加であり、この間に30万トン弱から60万トンへと倍増し、世界恐慌前のレベルに回復した。なお、この急増の背景には、1936年に縦貫線がようやく全通したことが挙げられよう。また、この時期にはハノイと広西側の中越国境を結ぶナチャム線の輸送量も約10万トンから30万トンを超えるまでに増加しており、仏印全体の輸送量急増の要因の1つであった。この間の仏印の鉄道網の拡大については、Lien Hiep Duong Sat Viet Nam [1994] pp. 28-39、Doling [2012] pp. 49-69を参照。          滇越鉄道の開通後にハイフォン発のみならずトンキン発の綿糸の輸送も発生したようであり、RCLHYでは駅別の綿糸到着量の統計にハイフォン発とトンキン発の綿糸を合わせた数値を記載していた。表7からも分かるように、トンキン発雲南着の繊維製品の量は1910年代には1,000 ~ 2,500トンであった。実際には碧色寨の到着量は図5よりも多くなるが、一旦碧色寨に到着した綿糸が再び鉄道で碧色寨より先の小駅に輸送される事例が少なからずあったと思われ、このような再発送分を加味した到着量もRCLHYに記載されていた。すなわち、再発送分を含むと、碧色寨の到着量は減少し、それ以外の駅に到着量が増加することになる。ヨーロッパ向け輸出需要の拡大によって、インゲン豆の輸送量は1915年の537トンから1917年には4,892トンに増加し、これが農産物・食料の輸送量を急増させた最大の要因であった[RCLHY (1917): 664, 669]。仏印でのトウモロコシ栽培は主に自給用に細々と行われてきたが、1910年代からフランス向けの輸出が増加してきた。フランス向けのトウモロコシはアルゼンチンやアメリカからの輸入が主流であったが、世界恐慌後の1932年にブロック経済圏を設けたことで仏印産のトウモロコシの需要が高まり、輸出が増加した[Robequain 1944: 311]。1938年の仏印からのトウモロコシ輸出量は計55.6万トンであり、うち40万

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トン以上がサイゴンから輸出され、ハイフォンからの輸出分が約10万トンであった[Robequain 1944: 311]。ただし、この年には雲南内の米輸送量に顕著な現象は見られない。ハイズオンはハノイから57㎞、ヴィンイェンはハノイから54㎞の地点に位置する。雲南省には山に囲まれたが多数存在し、壩子とそれを取り囲む産地単位に自給自足の小型地域社会を構成していた[石島 2004: 7-8]。1919年の糯租からの木材発送量は計4,066トンであり、うち3,856トンが雲南府向けであった。一方、巡検司からの発送は計4,282トンであり、うち3,707トンが碧色寨着となっていた[RCLHY (1919): 94]。百色から陸路で広西省の海の玄関口である北海に至るルートも存在した。思茅は雲南省南部の都市であり、ラオス国境へのルート上に位置した。例えば、1919年のハイフォン発雲南着の繊維製品の輸送量は計6,049トンであったが、このうち綿糸が5,577トンと全体の92%を占め、綿布は340トンしか存在しなかった[RCLHY (1919): 70]。フランスは雲南の鉱業開発を目論み、最終的にイギリスと手を組んで清朝との合弁で雲南隆興公司を1902年に設立し、箇旧での新鉱山の開発を進めようとした。しかし、箇旧の鉱山労働者や雲南府の紳士や商人の反発によって頓挫してしまった。詳しくは、武内[2003] pp. 7-15を参照。雲南側でも箇旧錫務公司を1909年に設立してヨーロッパ式の錫精錬所の建設を目指したが、錫鉱の入手が容易ではなく、生産が軌道に乗るようになったのは1920年代に入ってからのことであった[武内 2003: 16-17]。タイにおける米輸送は基本的に内陸部からバンコクに向けて行われていたが、精米所の立地の都合からか1910年代には年平均で1,000 ~ 2,000トンの精米がバンコクから発送されていた。しかし、1920/21年には過去最大の2万トンもの精米が発送されており、うち1万トンが東北線に、残りが北線沿線に輸送されていた[柿崎 2000: 230-231]。次に述べるように滇越鉄道は1939年末に日本軍の爆撃を受け、1940年7月をもってトンキン~雲南間の輸送を中止することから、トンキン内の輸送の中にも実際には援蒋物資が少なからず存在していたはずである。また、ハノイから広西国境のドンダン、ナチャムに至るナチャム線でも援蒋物資輸送が行われており、この線の輸送量は1937年の16万トンから1939年には36.5万トンと2倍以上も増加していた[ASI(1939-40): 110]。ナチャム線に輸送する際もハイフォン~ハノイ間は滇越鉄道を通過することになり、滇越鉄道の輸送統計にその輸送量は含まれていたはずである。なお、この鉄道の鶏街から石屏に至る路線も1936年までに開通し、箇碧石鉄道と呼ばれるようになった。なお、王[2010]では箇碧鉄路公司は当初から箇碧石鉄路公司であり、石屏方面へのルート上に位置する建水や石屏の商人らも設立発起人に加わっていたとしている[王 2010: 56-59]。箇旧の精錬技術は低く、外国へ輸出する際には香港で再製錬を行う必要があった。このため、新たに半官半民の煉錫公司が設立され、新たな工場を建

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設して1931年から直接外国に輸出できる水準の錫を生産できるようになった[武内 2003: 22-23]。1919年から香港の錫相場が3分の2に落ち込み、箇旧の爐主は大きな打撃を受けた[武内 2003: 22]。その後、精錬の純度を上げるために土法精錬からの脱却が図られ、1930年代に再び錫産業は復活することになった。

参考資料

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