9
日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 は、宇和島市の西方約四0粁の海上に、細長 い姿態を横たえてひっそりと浮かんでいる。 面積五・四八平方キロ、人口約一五00人。 元来、日振は「火振」であって、神武東征の際、 島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し たという伝説がある。また天慶・承平の乱の 友が根拠地とした海賊の島として知ら れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が 話題を集めた。 哲三 ・三 々む 咋年の夏、私は同志社女子中高の卒業 生六名と共にこの島に渡る機会をもっ た。彼女たち(高田伸子・同志社大学文 学部、堀江祥子・同上、植山ユリ.同 上、端美和子・同上、中川幸子・早稲田 大学教育学部、住井聖子・京都大学輩部) は現在大学四回生、大学も専攻もさまざまだ が、女子中学あるいは高校在学中、地歴クラ ブのメンバーだったいわぱ地歴クラブ0Gで ある女十中当ナ、高校生という立場に制約さ れて在校中残念ながら僻地の地域研究を意図 しても不可能であった。それがいま、学生々 C 活最後の夏を懸案の地域研究で飾ろうと熱心 な旧部員が集って来た。顧問であった私とし ても 戸ばしい限りであったし、張切らざるを えず、耗々検討の結呆、対象地域に日振叩を 選んだのである。その豊かな伝説と歴史の中 にエキゾチックな興味を覚えた故でもある それ以上に私九ちの知らない 島の人々 .)、 0 月ヒ皇. 振島 日月j毎 宇手所毎 日振島___、_、、 2km 八幡;兵 38 宇手口島 瀬戸内

話題を集めた。 藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら 日 …...日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 話題を集めた。れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が藤磊友が根拠地とした海賊の島として知らたという伝説がある。また天慶・承平の乱の島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し元来、日振は「火振」であって、神武東征の際

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Page 1: 話題を集めた。 藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら 日 …...日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 話題を集めた。れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が藤磊友が根拠地とした海賊の島として知らたという伝説がある。また天慶・承平の乱の島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し元来、日振は「火振」であって、神武東征の際

日振島の印象

日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島

は、宇和島市の西方約四0粁の海上に、細長

い姿態を横たえてひっそりと浮かんでいる。

面積五・四八平方キロ、人口約一五00人。

元来、日振は「火振」であって、神武東征の際、

島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し

たという伝説がある。また天慶・承平の乱の

藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら

れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が

話題を集めた。

哲三

・三

々む

咋年の夏、私は同志社女子中高の卒業

生六名と共にこの島に渡る機会をもっ

た。彼女たち(高田伸子・同志社大学文

学部、堀江祥子・同上、植山ユリ.同

上、端美和子・同上、中川幸子・早稲田

大学教育学部、住井聖子・京都大学輩部)

は現在大学四回生、大学も専攻もさまざまだ

が、女子中学あるいは高校在学中、地歴クラ

ブのメンバーだったいわぱ地歴クラブ0Gで

ある女十中当ナ、高校生という立場に制約さ

れて在校中残念ながら僻地の地域研究を意図

しても不可能であった。それがいま、学生々

C

各呈

活最後の夏を懸案の地域研究で飾ろうと熱心

な旧部員が集って来た。顧問であった私とし

ても盡戸ばしい限りであったし、張切らざるを

えず、耗々検討の結呆、対象地域に日振叩を

選んだのである。その豊かな伝説と歴史の中

にエキゾチックな興味を覚えた故でもある

それ以上に私九ちの知らない籬島の人々

.)、

0

月ヒ皇.

振島

日月j毎

宇手所毎

日振島___、_、、

2km

八幡;兵

38

宇手口島

瀬戸内

Page 2: 話題を集めた。 藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら 日 …...日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 話題を集めた。れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が藤磊友が根拠地とした海賊の島として知らたという伝説がある。また天慶・承平の乱の島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し元来、日振は「火振」であって、神武東征の際

の厳しい生活の実撃この日需かめたかた

からである。また関西学院大学の大曇二先

生(同志社大〕需師)がかつての女学校鞄

在職の宜みから同村して下さったのも心強か

つたし、現地との」父渉は宇羽島東高の山瓜先

生と宇和島公器長の八代氏が引受けて下さ

つナ

^^^の^^な日^^,めった^中^局^^^

仲間倫がよみがえり、親仞な地元の人々の

恊力に支えられ、ささやかながら突に楽しく

有益な研究旅hを了えることができ九。その

成果の程は学生諸裂の発表にまつことにして

ここでは、島の印象を綴りながら島の抱える

ニ、三の製について考えてみたい。

日振島明海部落

円振島には冉銘、明海、襲晶の三つの部落

かあるか、能森落の沖Aに沖ノ島と呼ばれ

る小さ釜人島がある屯大旅行研究会「島

の旅」にも冉かれていたが、海はあくまで"U

く澄みきって、貝穀の砕け九Πい砂が一●ま

ぱゆいぱかりに敷きつめられた浜辺には、ス

総念物の浜木糾か艘かに吼れ咲くーーとい

つ女勝地だ。だが巾央の小商い丘霊りつ

めると,,パ'刃らしい殉測綱か狩てられて、テラ

'U即の^劇左治っている。

昭和二四奨刀二00、ラジオは台瓜の怯

近を仏玉後金をーす急れありと辨ル'

していた。しかし地元の加帥六ちは刷陶どき

に製斗したム.風は典いと、内ら黒いヰ,Nん

で卯粂にも紗々と加沈したのである。一只女中、

2

佐田岬肯誕沖孫諾の船団は猛烈な台

風に襲われて、陪夜の聖は無惨な簸場と

化し九。このとき海の一欝と消えた日振の漁

-0六名、一殊の主柱と頼む働き手を失

師は

うて全島は悲效のどん底に九たき込まれ九。

デラ後家という悲しい貢茶ささやかれたの

がこの事件のあとである。流失漁船四七隻。

被害総頴は一・二儲に逹し、戸数祭四0

0戸の寒村日振にとユ'神的にも経済的に

もまさに快滅的な打讐あ九。

この災器↑投の原側は台風姑縦姦祝し

^^^し・^^;W^^^F^^^^^^^^^

^ら^よう^^棡^^^ま^^ⅥU^^^^

人一人の名聖」たどってゅく叩に、このよう

な危険ズ」、Hしてまで印渙せざるをUなか九

貧しい沿岸汝柴臣きる屶たちの八.下Π条牛が

胸に迫って、どぅしようもないⅨ竺る川心い

に卵られ九ことだった。

,トヨ・瀏^^^^"^^勺^ⅡΠ^、わ口.、民'^^^^

な",であり、今でも島のほとんどの象織

朶に関係している。一小釣や磯建網の小漁楽

も力なり溺充光力何といっても日振黒業

3

39

Page 3: 話題を集めた。 藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら 日 …...日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 話題を集めた。れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が藤磊友が根拠地とした海賊の島として知らたという伝説がある。また天慶・承平の乱の島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し元来、日振は「火振」であって、神武東征の際

の巾心は征年のイワシ盟網から転換した中

刑イワシ碇網漁柴だ。これは網船を叩心に灯

船、述搬沿など1六t七隻力船団を組み紗

四0人の網fにょって操業するかなり規模の

大きい漁法だが、漁場は狭い宇和海凶に限ら

れている。

地ルの漁業研究家隈雄孝氏続網一統の

年"叢獲商を平均一八00万円とみて、網

f 一人辻りの年岡収人を一八ーニ五万円(役

にょって差がある)と推定し、その低収入の

火態を明らかにしているが、この場介泌獲商

の分配法にょり問題があるようだ。つまり固

定給の保栗全く無く、総水揚栗ら雑賓を

峻引き、残纈を網兀と網fで折Υするという

腔代的な完全歩合製器の収入を茗しく

不安定にしていることである。だがこの点を

吹一'しようとしても、宇和海のイワシ資源が

昭和二0年頃を暁に激減し、大誓制にょっ

て他に漁場を求めない限り、裂絶対:里の増

大が期待されない現状では、漁民の鴛を保

'するに足る実質的な固定給鎧の採用は困

撃あり、下手をすれば網経営そのものを破

綻に導く恐れがある。結局告件の低い旋網

漁業は魅力的な職場となりえず、裂高誠少

と労働力の不足から次誇整理され、昭和二

四上、ず、."四、器一、豐二の計九紕か

△'で憾,路一、能登、計四統に減少してい

る。こうしてかつて窯をうたわれた日振島

のイワシ漁.、、もさびれる一方である。

多くの漁家築細ながら二ーニ灰程度の耕

地を所有し、漁業の片手闇に農業左似んでぃ

る。だが平野といってほとんどない島のこと

だから、南予地力一般の例にもれず、海岸力

ら山頂ま一、急斜血の山肌をぎっしり刻んで段

々畑が開かれている。峡(は主として知女十

の仕事だが、とにかくたいへんな労働である。

畑にはさつまいもと麦が杣えられて来九。水

田は全くみられない。

ところで段畑耕作の重労働に耐えて、いも

と麦を作り続けて来たのは、自給食松倫保

として大き怠味があった。しかし配給制度

の突施と戦後の食生活の向上にょってぃも、

麦を常食とするⅢ帯がほとんど消失した裂

瞥って商品作物として、積極的驫熔するに

は労が大きい割合にあまりに収益が低いとい

わねばならない。そこで南予の他地方で成功

4

しているもっと成長性の局い柑橘やフルーツ

ハツシ,ンの導人が代<劉企凶されるのであ

るが、防風林の育成すら園塑Cあるという厳

しい呉条件1夏の台風、冬の季飾風が激し

く吹きすさぷーに制約されて成功の見込みが

薄い。こ

うして島では農業は次嫡に見捨てられる

器にあり、労働力の流出が茗し輪果、騰

梨松は増加する一方だ。企耕地の漸、明

海部落のどときは突にし割までが、喜千の茂

るままに放Ⅲされている。瑞政岫代から轡々

として築き上げられて来た紙伝来のいわぱ

品民の汗と涙の皙脚である段々灯が、雑チの

下にNまり荒廃してゅく釜をみると、時代

の波の激しさを改めて例、羅させられる。

漁業は不振、農業も見込み薄となれぱ、あ

とはお定まりの出稼ぎに頼らざるをえない。

この Wでは一、二男ぱかりでなく一球の主人

までが阪神その他へ長捌出稼ぎにゆくことが

普通の状態になっている。とくに頼るべき旋

網の最後の一統が昭和二七年に倒れ九明海部

落では全戸出稼ぎの村といってょいほど盛ん

5

Page 4: 話題を集めた。 藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら 日 …...日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 話題を集めた。れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が藤磊友が根拠地とした海賊の島として知らたという伝説がある。また天慶・承平の乱の島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し元来、日振は「火振」であって、神武東征の際

であり、かれらの仕送りによって残された家

族の乍活が成立っている。中讐業生もこの

ような現状から島に残るものは一1二0。程度

ほとんど厶京が阪神その他へ就職してゅく、

したがって島の人口は減る一方で、昭和二五

年の二、二0一人が三八年には一四六八人に

減少した。挙家籬村が目立ち始めた現在、こ

の傾向は今後ますます激化する一方だろう。

考えてみればこのような状態は日振島に限

つ九ことではなく、全国の他の雄島の多くに

共通することである。憂成長政策の地域的

な歪みは窕展する都市域と需する僻地との

地域較差を容赦なく拡大する一方である。

島産業の振興はもちろん積極的に考えられな

ければならないし、日振島で上珠姦の試

みが進められているが、一次産業以外に頼る

べき可能性のない現状では自ら限界がある。

昔から高い人口圧に悩驫けて来た島に、現

在地すべり的な人口流出が起っているのもや

むをえな絡果といえよう。島の親たちも子

供に漁業や農業を継がせて島に残ることをも

はや期待していない。淋しいことには違いな

6

いがそこは明るく割切っていた。

だが出てゅく者はとにかく島に残る人たち

のキ活は果して守られようとしているだろう

か。鳥に終日砥気が灯るようになっ九のは私

たちが島に着いたちょうどその頃だっ九。そ

れまでは自家発爪による朝晩限られた短い時

闇の送惜で、テレビを楽しむことも冷蔵庫の

剤も思うに任せなかっ九のである。酢島振

興法の乏しい資金にょって車の通る道路がい

まやっと着工中である。△,でも島には一台の

自動車もないのである。そして何よりも悲し

ことはここもまた医者の無い村だった。繁

い栄の陰に忘れられ、取残された島1やはり地

方政治の貧困と、政治における愛情の欠除の

阻を考えざるをえなかっ九。島外に去って

ゆく若者九ちにももっと良い条件の就職はで

きないだろうか。御多分に洩れず集団就職者

の中には転々と職業を換え、都会の託お渦

中に転落してゅく者が多いのである。積極的

な就職先の開拓、これが島に課された最大の

使命であろう。

や抽象的な地域開発論などけし飛んでしまう

ほど明るい健康的な楽天性がそこにはあっ

九。戸別調査に廻っ九女十学生諸君が、女性

の激しい労働に熊たりしながら、一番感銘

を受けたのもまさにその卓あった。そして

何よりも嬉しかうたのは島の人たちの素朴な

親切だった。とくに一人の病人が出たとき、

自室を枇してまで暖かく介抱して下さった

診療所(医者はいない)の年老いた看欝さ

んの親切を忘れることができない。その他実

に多くの方々から親切な御世話にあずかっ

た。いちいちの名前を上げることは差控えさ

せて頂くが心から御礼を申し上げたい。物質

的に恵まれぬ速い遥かな島で人の心の温かさ

を知ったこと、これが今度の嫁行の最大の収

獲だっ九かもしれない。

最後に伺志社人として感激し九のはここに

も古い刷志社の先残翻され、後誰の私九

ちを暖かく歓迎して下さったことがある。日

振中学校の池部先生、喜路の古谷氏にはとく

にお謡になっ九。「地の塩」として政治に

教職に地味倉動驫けられる両氏の御健闘

を心から祈りたい。

だが島の人たちの表曾実は非常に明るか

つ六のである。私たちの都会的なひ弱な感傷

(女子中高教論・社会)

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斜軸"U"ⅡIUU"""ⅡU"""Ⅱ"""""ⅡUⅡ"U"""""""""Ⅱ""""""11"""Ⅱ酌""Ⅱι酌NⅡⅡⅡⅡ""""Ⅱ11""""""""""ⅡⅡⅡ"Ⅱ""肌Ⅱ""""Ⅱ"""ⅡⅡⅡⅡ""Ⅱ"ⅡN"舶

平民' 1,に生さ大人々

新島先生生誕記念講演要旨

新島先生生鞭記念誰演会」は新島先生の生誕122周年にあたる、きる4月13日

毎日新聞京都支局ホールで開かれた。愈法・政治学研究会の主雑によるもので

溝師に山室民子・田畑忍・住谷悦治の三氏を迎えて行われたが、学生・市民ら

約300名の熱心な聴衆がつめかけ北。以下はその講演の要旨である。

■1""11Ⅱ""1111昨""""Ⅱ""11"耻""1111Ⅱ"1'"Ⅱ1111「11'11"111111111111Ⅱ"Ⅱ1111"ⅡM"1111"11闘"ⅡIU"1111↓111"11"11闘""1ι111111"Ⅱ11"1Ⅱ1111""1」111111昨t「昨"11111Ⅱ111「昨"11111111■

42

山室軍平と廃娼運動

日本の法律は、明治五年以来、人身売買を

禁じているのに、娼妓は前借金という名の身

代金で、貸座敷業者という名の奴撃買人の

手に売られ、烹を強制され九。廃業して更

生したくても、楼主と三業組合長との同孫

印が無くては警察で受け付けない。自分らの

利益に反することに捺印すろ楼主や三籍合

長のあろうはずがなく、そのため幾は泣き

寝入りに商売を継続するか、さもなければ不

義理倫金に首が回らなくなった男でも見出

し、心中の名の下に一緒に自殺するよりほか

に道が無かっ九。救世軍は娼妓が金銭貨借の

関係にかかわらず、いつでも烹を廃止すべ

きことを主張して起っ九。

まず機関紙「ときのこえ」を特誓て世論

を喚起し、張に廃業を勧告すると同時に、

他方では慾を求め鄭人たちの九め婦人救

済所(後に婦人ホームと改称)を開設し九。

明治三十三年八月のことである。救世軍人は

その「ときのこえ」を持って遊廓に行き配布

した。矢吹大尉が引率して吉原に行うた一隊

は暴徒に襲われて負傷し、警察隊の出動で騒

ぎ姦まっ九。それから閻もなく、山室軍平

奪記長官デユースと洲崎に一娼妓を救済に

行き、再び暴力団の大襲撃に会った。新聞は

筆を揃えてこれら暴件を報道したが、中で

も毎日新聞は島田三郎、木下尚江らが、論説

に雑報と廃娼問題を取り上げ、救世軍のため

義損金まで募集した。その中に娼妓の遊廓か

ら逃亡してくる者、需をもって救済を依頼

してくる者らが日々増加した。当局もこの事

態を放リすることができず、伺年十月、内務

省はそれまで各府県でまちまちに行なわれて

いた取締を改め、新しく全国共通の媚妓取締

室民子

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規則を発布し、娼妓は自由の憙により廃業

し得べきこと、これを妨害する者はそれぞれ

厳重に処分せられるべきこと等を規定した。

救世軍のこの問題に対する主張が認められ九

のであっ九。

それからしぱらくの間は全国を通じて始妓

の自由廃美梳行した。その結果、明治三十二

年、全国に聖万二千二百七十四人い九娼妓

が、運動の起った三十三年を中にして、翌三

十四年には計四万百九十五人となり、一万二

千余人の減少を見た。東京だけでも三十二年

には六千八百七十一人いた娼妓が、三十四年

には五千百五十八人となり、約二割五分の減

少を見た。世問では「巷説救世軍」という訥

談や救世軍廓之今様」という演劇が行なわれ、

「東雲のストライキ」という流行歌が歌われ

て、廃娼の慧が一般に流布した。

しかし、公妃制度の根城は堅く、その全廃

は容易ではなかった。山室軍平は、瓣会、

基瞥教婦人矯風会等の同志らとも協力してこ

の問題のため闘い続け九。その閻、年々、幾

百という婦人たちが泥水稼業から足を洗っ

た遅延していたが、穫、占領下でょうや

く公娼制度に終止符がうたれ六。公始という

目前の月的は一応果し奈だが、麝は公娼

のみならず、私娼と彼らに関連あるすべての

罪悪の絶滅黒味しており、運動はま磊け

られねばならない。

わが国のフロテスタントの大多数の窪が

士族出身であるのに対し山系平(一八七二

一九四0年)は平民の出である。同志社で新

?島先生始め多くの師友の感化や奨励を受け、

のち救世軍に投じ、同軍における伝道・奉仕の

一端として、廃捌器を行なったのである。

(元救世雛総務部長)

安部磯雄と山川均の

安部磯雄先生(一八六五年1一九四九年)

は、新島先生の教念接に受けてその理穩

生きた大詣である。明治十八年に黒社を

卒業して同土讐,瓢鞭をとり、次いで岡山教

会の牧師となり、のち米国に留学した。米国

留学中にべラミーの空器社会主義の著脊 平

和思想田

『ルッキングバックワード』を読ん一点動

し、帰国後早稲田の教授(朋治三十二年)と

なり、かたわらユニテリアン恊会(のちに社

会主義協含をつくっ磊演と文雛による啓

業活動を行なった。また明治二十四怨に排・

木下・幸徳らの諸氏とともに社会民主烹つ

くったが即日解散となり、三十九年には日本

山室軍平

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社会党の組織に参画した。しかし四十三年の

幸徳事件以後は政治的活動を離れるほかはな

く、禁泗廃姻等の廓清運動と学生野球の育成

につとめた。のち、いわゆる大正デモクラシ

ーの波に乘じて政治活動を再開する機会を得

た。すなわち大正十三年より昭和十五年にい

たるまで、常に無産政党研の一方の旗頭と

して活躍したが、戦前戦後社会大衆党の反動

化した暗黒時代には、また隠遁の牛活に甘ん

じ戦後のデモクラシー開花に当って遂に再び

起ち得ずして逝去した。

安部先生の平和鴛の特色は、無抵抗無軍

備の中立非戦主義にある。それは、スィスの

永山中立をモデルとするもので、すでにその

社会民主党の綱領中に非軍備政策をかかげ、

当面の方策としては徹底的な軍備縮小を説い

ていた「平和が人道であるならぱ、平和を

世界昇',言して、それがために一国が亡びて

も鷲ではないかと主張するほどであっ

た。そうした主器、「キリストは平和の化

身であり四福符に溢るるものは平和思想で

ある」とする信念と、社会主義の実現なくし

て平和の実現は不可能である、という確信の

筋金がとおっていることは明らかだ。この平

和思想が、キリスト教主義と社会主義に立脚

するものであることは、まことに明らかで

ある。彼のそのような不断の努力は、新島先

生から、「'系さんノ、よくやってくれまし

たね。」といって褒めていただきたいためで、

何の野心もないと一言っていた。彼のクラス〆

ートの村井知至・岸本能武太も彼とともに社

会運動を行なった先輩である。

本年の二月四日はちょうど安部先生の生誕

百年に相当する二

山川均(一八八0年1一九五八年)先生が

黒社で学んだのは、明治二十八年から三十

年にかけてであるから、明治二十三年に逝去

され九新島先生を知っていない事は当然だ。

しかしその頃の恩社には新島先生のイメー

ジが残うており、先生は新島門下で平和主義

に徹し六柏木義円や浮田和民の教を受け、キ

リスト教的人道主誰影讐れ、ま九徳黒

峯と民友社出版の諸蓄にょって纂され教

育され九。したがって、文部省の命令で教育

勅重教えるようになった新学制と森田久万

人の勅語教育に反撥して、あっさり途叩退学

をして東京に赴いた。この放浪叩に、東京政

治学校倫演に列し、ま九内村竺影粋を

受けて、そのキリスト教思澤尖鋭化し九。

のみならず、同志社時代に読んでいた民友社

版の現代の社会主義』(力ーペンター)な

どで、すでに漠然とした社会主義愚を持つ

ようになっていた。しかし本格的なその勉強

は、明治二十三年に篇不敬事件で牢獄に投

ぜられた三年半の間に、アダム.スミス、リ

カード、マーシャルらの経済学書から始め

て、マルクスの『資本論を読破することに

よってなされた。のち四十一年にも数回入獄

公口せて二年数力月)、更に昭和十六年に入獄

(七年半)し九ので、その幣告は評十三

年弱に及んでおり、生涯の六分の一を獄中で

すごしたわけである。その猛勉強をし九牢獄

安部磯雄

44

Page 8: 話題を集めた。 藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら 日 …...日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 話題を集めた。れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が藤磊友が根拠地とした海賊の島として知らたという伝説がある。また天慶・承平の乱の島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し元来、日振は「火振」であって、神武東征の際

は、彼にとってはまさに「大学」であったと

言えよう。

その稔生活は右の朔間を除いて、明治四

十年に始り昭和三十三年に及んでぃる。蓄

だけでも戦前に六十冊弱、嬰に二十冊弱を

数える。その県産政党運動と労働組合運動

に終始し、社会党から人民戦線器に移行し、

戦後は社会党を支持し、ま九批判した。その

平和論と平和運動は特に戦後になって展開さ

れ九。もちろん最初から平和主義者であうた

彼の戦争批判と人民戦線的平和の主器、昭

和十四・五・六年に行なわれているが、その

ために投ぜられた牢獄から解放された昭和二

十年には早速、戦争貞任者を追及している。

更に系磯雄・内村竺らの謂した平和主

義が、笈喜重郎を媒介として結実した日本

国憲法の制定にさいして、憲法支持の態度を

明らかにし、平和革命論者になった。そして

昭和二十六年の様条約以降は、特に平和態

法の擁護・非武装K世中立の必要を強調する

ようになっ九。その往年の人民戦線土義の主

張が、戦後の反動期に平和憲法凱"を叩心と

し矣同鼎必要論の形をとるにいたっ六の

である。このような主張の大小の論文を彼は

その晩年響きつづけ九のである。

その中軸となっているのが、すなわち昭和

二十七年に出版された口本の再軍備』一巻

である。

これを要するに安部磯雄の平和思想は、日

木国憲法第九条をつくる一つの基盤となった

ものであり、山川均の平和鸞様この第九条

吉野作造の

民本主義と同志社

の永久平和主義を擁護する孫と衡をもっ

て主張されたのである。安部・山川両先生の

このような平和田類を、そのニユアンスの相

異にもかかわらず、同志社のキリスト教と新

島粘神から学んだ徹底したヒユーマニズムに

よろものである、とすることは自然と一言えよ

、つ0

わが国のデモクラシー陪黨の系譜として高

く評価さるべき文献は三つぁります。その第

一は、明治二十五年の酒井雄三郎の『排仙学

論という卓見で、これは都筑蝶六博士の

『民政論』を題撃したもので、相手の理論を

一畢しつつ、自らの郵剪」展開したものとし

て当直擧の一つの傑作であります(あたか

もエンゲルスの『反デユーリング論』のごと

L)第二はわが国の政治学の硫立者の一人、

小野塚喜平次博士の明治二十一年政治学大

(法学部教授・愈法)

綱』(上・下)で、朋治三十四年より東京大学で

デモクラシーを衆民主義と呼びその政徐論

的根拠を明らかにしています。酒井雄三郎は

デモクラシーを平民主義と呼んで徳纂崇の

藹を踏襲しています。塑一は大正五年一月、

吉楳造博士が「中央公論」に発表した『戀

政の本義を襲て其有終の美を済すの途(道

にあらず)を論す』で博士は、デモクラシー

を民本主義と呼んでいます。当時の社会的事

情は、先生の「民至義鼓吹時代の回瓢」と

悦治

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Page 9: 話題を集めた。 藤磊友が根拠地とした海賊の島として知ら 日 …...日振島の印象 日振島。美しい魅惑的な名前をもつこの島 話題を集めた。れ、戦後はネズミの硲的発生とその横行が藤磊友が根拠地とした海賊の島として知らたという伝説がある。また天慶・承平の乱の島民が暗夜に火を振って天皇の航海を案内し元来、日振は「火振」であって、神武東征の際

いう一文に詳細に残れてあります。これら

三論文は現代になおこの壽がつらなって生

きていると信じます。

吉野博士は当時「民衆は指導者に依て教育

され、指導者は民衆に依て鍛練される」こと

を説き「多数の支持協賛に依て生まれる輿論

に道徳的価値煮められる」としてデモクラ

シーの本藷鼓吹し、その張を六力条挙げ

ています(「回融」参照)。先生のこの愚

と活動の意図は、先生にょると、すでに一九

0四年(明治三十七年、先生二十七歳の時)

ヨーロッハ留学中ヨーロッハの近代思墾達

\ノ

観し、牧野英一、佐々木惣一の三名と、帰国

後、デモクラシー思想を日本に植えつけるこ

とを"つたことにはじまるのでありますが、

先生の特質は、キリスト教主義をもって貫か

れていることで、その点は黒社出身の安部

磯雄先生の社会主義慧と同墜あります。

新島先生の遺言の中には、喜先生の民本

主義に相通ずる愚、ことに、平等に人間尊

重、機械官僚主義への反対、一方的教育でな

く、その本性にしたがって順導する等々同志

社教育の精神と相通ずるものがあります。

先生は海老名弾正先生の本郷教会の教会員

であり、先生が大正九年に同志社総長として

赴任されたとき、よき教授を送るから、とて

先生を力づけたといわれます。中島重、今中

次麿、石田秀

B

波多野鼎、林要河野密

氏らは吉野先生の推挽であったときいていま

す。かくて先生は黒社アカデミズムの形成

への陰の力であったと思われますし、私への

手紙1それはこの会場に展覧してあり、田

巾惣五郎著「吉野作造」の口絵写真にも出てお

りますが、大工原銀太郎総長が九大総長から

同志社総長に移るさいは、吉野先生が、大工原

氏の顧問格として、いろいろ謬に与ってい

ると習いてあり、大工無長が交代に際して、

進歩的教授マルクス主義教授を誠首するの暴

挙なきょう警告を与えているのであります。

吉野先生は、その人生的態度として、馨

にいうところの「右の手に為した善きことを

左の手に知らせるな」ということを篠に行

つた人で、いまも鴛としてある一つをここ

で朋らかにします。それは大正八年の「足尾

銅山抗夫のストライキ」のさい、愛弟子の大

日本総同盟の抗夫組合長麻生久が、そのスト

ライキ指導に当って労資膏着益に陥ったさ

ひそかに栃木県警察部長をしていたやは

)、

しり愛弟孟場軍蔵(後に警視総監になっえ)

をして、労資仲裁に活動せしめて、さしもの

大争議の解決に導いたのですが、そのことを

麻生久は死に至るまで知らず、自分の功績の

どとく考えていたのでありますし、先生も死

に至るまで口をつぐんでいました。そうした

善きことを、わたしらの知らないいくたびか

果して、ついに他言しなかったのでありま

す。わたくしも友人・先輩についてこのほか

なお二、三知っております。同志社教育につ

いても、海老名・大工原両総長への助言や、

愛弟子の教授たちにも忠言したことであろう

し、同志社のある騒動のときも先生は大変心

を労して何か善きことをなさったらしいので

ありました。

(同志社総長)

吉野作造

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