15
芥川龍之介作 11 ピエ Y T プィ作「江戸の舞踏会」 (門、お切とこ S 氏。)との比較 ll 西 古住 泊三 芥川竜之介の短篇小説「舞踏会」がフランス近代作家ピエ 50 門司 OFOHH )の日本紀行「日木の 秋」 Qakv 遺言及旬、患なさミ)中の一篇「江戸の舞踏会」(匂 既に明らかな所だが、之に就いては斯道の専門家吉田精一氏 照〉 o 夙に和漢洋の文学に通じ、若くして博識の誉高かった芥川が、 めたことは現在周知のことで、最近彼の文学作品が我国の比較文 L ある所以 だが、前記「舞踏会」は彼が西欧文学に材を仰いだ幾つかの作品のう ところで芥川に「舞踏会」の原型を提供したこのロティの「江戸の舞踏会 軍将校として我国を訪札たロティが、偶々日本政府から招待の光栄に浴した の精細な美しい筆で叙述したものであって、この作家のいはゆる異国趣味にもとづ ロ一アィ 多い彼の作品中特に注目される程の価値あるものとも思はれぬが、 程達日本人にとっては、この作品は彼の他の 芥川竜之介作「舞踏会」考証 四五

芥川龍之介作一ー舞踏会」考議...芥川龍之介作一ー舞踏会」考議 11 ピエ Y -T プィ作「江戸の舞踏会」 (門、お切とこ S 氏。)との比較

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芥川龍之介作一ー舞踏会」考議

1

1ピエ

Y-

Tプィ作「江戸の舞踏会」

(門、お切とこ

S氏。)との比較

ll

西

古住

泊三

芥川竜之介の短篇小説「舞踏会」がフランス近代作家ピエル・(

50門司OFOHH)の日本紀行「日木の

秋」

Qakv遺言及旬、患なさミ)中の一篇「江戸の舞踏会」(匂ミル同町、号)に取材した作品であることは、今日

既に明らかな所だが、之に就いては斯道の専門家吉田精一氏の興味ある研究がある(同氏著「芥川竜之介」参

照〉o

夙に和漢洋の文学に通じ、若くして博識の誉高かった芥川が、東西の文学資料に屡々その作品の題材を求

めたことは現在周知のことで、最近彼の文学作品が我国の比較文学研究者たちの興味と注目をひきつLある所以

だが、前記「舞踏会」は彼が西欧文学に材を仰いだ幾つかの作品のうちの一つに外ならない。

ところで芥川に「舞踏会」の原型を提供したこのロティの「江戸の舞踏会」は、明治初年(明治十九年頃〉海

軍将校として我国を訪札たロティが、偶々日本政府から招待の光栄に浴したかの鹿鳴館の外交舞踏会を、彼一一流

の精細な美しい筆で叙述したものであって、この作家のいはゆる異国趣味にもとづく日本印象記といふ以外、数

ロ一アィ

多い彼の作品中特に注目される程の価値あるものとも思はれぬが、

程達日本人にとっては、この作品は彼の他の

芥川竜之介作「舞踏会」考証

四五

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四六

日本見聞記等と同じく、必しも一一顧の興味に値しないものではない。いひかへれば私共現代の日本人には、もは

や回顧の域を脱して、想像に訴へるより外なき日本文化史上の一時期lーーかの鹿鳴館時代といはれる明治の開佑

期を活写した一風俗画が、計ら,ずもロティの妙筆によって、こ与に私共に提供されてゐるからである。作者自身

も次の様な一言葉でこの「江戸の舞踏会」を結んでゐる。

「驚くほど変佑の迅いこの国(日本〉に於て、幾年か経った後、彼らの進化の一時代が此処に書残されてゐるの

を日本人が見出した時、また一八八六年の佳節を迎へ、睦仁天皇の天長を視して、菊花匂ふ鹿鳴館に挙行せられ

た舞踏会が何んなものであったかを彼等が読返した時、日本人自身でさへもおそらく興味律々たるものがあるだ

らうよ(ロティ作「江戸の舞踏会」〉察する処芥川もこのロティの印象記を一読して、少なからぬ興味を覚えた

yスタルヂ

i

読者の一人であったに相違ない。そしてゆくりなくもありし日本の鹿嶋館時代への郷愁を陵られ、一篇の創作

に託して、この活々とした開化の風俗絵巻を伝へておかうとの想ひに駆られたものとも想像されるのである。芥

川の考古癖又は回顧趣味が屡々日本の開佑風景に向けられたことは、「開化の殺人」「開花の良人」等彼が残した

一連の小説からも充分に窺はれる処であって、私共はこれらの所謂「開作もの」!問題の「舞踏会」も勿論この中

に入るが

lが、「王朝もの」(「羅生門」「鼻」など)「切支丹もの」(「奉教人の死」「邪宗門」など)「近世もの」(戯

作三味」「世之介の話」等)及「現代もの」(「秋」「玄鶴山一房」など)等と並んで、芥川の作品系列中一つの重要

な地位を占めてゐるのを見るであらう。この点彼も一種の歴史小説家といへるかも知れない。

きてロティ作「江戸の舞踏会」が一元より小説ではなくて、偶々作者が見聞の機会を得た鹿鳴館の舞踏会の印象

を書き巌ったものであることは、既に前述の通りだが、そこには作者ロティのいかにも作家らしい率直な、時に

は皮肉な観察が閃めいてをり、之が自ら彼の日本及日本人への批判ともなり菰刺ともなってゐる点、私達には特

に興味が深いのである。ところで先づ彼が入手した日本外務省からの舞踏招待状の写しを官頭に掲げたこの印象

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記は、横誤から新橋へ、更に新橋駅から鹿鳴館への道筋、菊花香る舞踏会場の光景、江戸の町の夜景、更に会場

に群がる日本人男女の姿特に日本女性の姿態等様々の場面と人物とを、舞踏の進行と共に次々に展開せしめ、こ

の作者独特の軽妙多彩な筆致を以て、手にとる如く克明に描き出してゐる。中でも作者の興味の中心は、彼の踊

りの拍手をつとめた一人、さる日本の高殻工兵将校の令壌に向けられてゐる観があり、彼は好奇と好意の粗半ば

する眼で、この開仙の美少女を仔細に眺めてゐるのだが、さすがに仏関西人らしい観察の鋭さと皮肉を忘れては

ゐない。いひかへればこの日本娘に対する彼の態度には何ら浪漫的な所はない口

かくて芥川がその小説「舞踏会」で明子と名付けてゐるだ、引に公は、いふまでもなくこの令嬢に外ならず、華

やかな鹿鳴館舞踏場を背景に、彼女とフランス軍海士官ヂュリア

ν・グィオ

l(ロティ)との交渉を中心に話の

筋が進められてゐるのも、けだし極めて自然だが、こLで注目すベぎはロティを語り明子を描く芥川の筆には、

この作家一流の平素の皮肉や悪意は殆んどその影をひそめてゐることである。即ち令嬢明子はあくまで淑やかで、

あどけなく冷倒で美しい開化の大和撫子であり、他方楓爽たる海軍士官ロティは人生への淡い倦怠を抱きながら、

花火の閃きにも似た束の間の美と幻を追ひ求める浪漫主義者である。この点芥川の「舞踏会」はロティのそれと

は全く調子を異にしてゐる。一万より之は之で一向差支へないのであるが・::。さて前置が意外に長くなってし長

ったが、私の目的が右の芥川の「舞踏会」(小説)とピエル・ロティ作「江戸の舞踏会」(印象記)との比較考証

アダアテ

具体的にいへば芥川がどの様にロティの印象記を鶴案したか、この二作を対照しつ

L、

にあるのは元よりだが、

その換骨脱胎の跡をこれから出来るだけ詳らかに辿ってみたいと思ふ。因みに右二作を読比べて先づ感ずるのは、

要するに芥川が如何に換骨脱胎の妙を極めてゐるかといふことである。

芥川竜之介作「舞踏会」考証

四七

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..

四八

二つの「舞踏会」の比較考証

(一)「明治十九年十一月三日(一八八六年)の夜であった。当時十七才だった||l

家の令嬢明子は、頭の禿げた父親

と一絡に今夜の舞踏会が催さるべき鹿鳴館の階段を上って行った。明るい瓦斯の光に照された、帽佃の広い階段の両側には

殆んど人工官狙い大輸の菊川り花がコ歪の離を造ってゐたo

菊は一番奥のがうす紅、中程のが濃い黄色、一番前のがまっ白

な花びらを流蘇の如く乱してゐるのであった」(芥川「舞踏会」)。

以上はいふまでもなく芥川の「舞踏会」の書出しの一節である。芥川の才筆はさすがに、開佑日本の豪華版|

菊花燦欄たる鹿鳴館の情景を簡明鮮麗に描き出し、この小説にふさはしい華やかな雰囲気を極めて効果的に浮び

上らせてゐるが、これがロティ作「江戸の舞踏会」の次の一節によったものであることは明らかである。

「瓦斯灯のι燃えてゐる玄関には襟飾をきちんと締め、恩間服を着込んだ侍僕達が恭々しく立働いてゐたが、彼らの黄色い小

さな道化た顔には殆んど股がなかった。(中略〉客間は二階にあって、日本菊で造られた三重の垣根に飾られた大階段の

上にあった。だがこの垣根は我国(フラジス)の花壇の観念とは凡そ縁どほいものだった。垣根は夫々自と賓とメラ色の

菊花で作られてゐた。壁を覆ったパラ色の垣根の菊はまるで樹の様に丈が高く、花も太陽のように大ぎかった。それより

一つ手前の黄色の垣はそれほど高くはないが、花の総はさらに大き心、まるで大型の金釦の如く輝くばかりに咲誇ってゐ

た。最後の白い垣は一番低いが、雪をあざむく純白な毛房のリボジの様に、さながら階段に沿って植えられた花垣といっ

た越があった」(ロテイ作「江戸の舞踏会」)0

芥川は前記に続けて「さうしてその菊の寵の尽きるあたり、階段の上の舞踏室からはもう陽気な管粒楽の音が

抑へ難い(傍点筆者)幸福の吐息の様に休みなく溢れて来るのであった」(芥川)と書き、前述の華麗な情景描

写にいはば仕上げを施してゐるが、このくだりは恐らくロティの左の如き叙述を換品目したものであらう。

4ル

「仏蘭西式と独逸式とのこつの申分ない交響楽が部屋の隅々に隠れてゐて、我々の有名な小致劇から抜粋したカドPル舞

曲の抑へ切れない(傍点筆者以様な音楽を奏してゐた」0

(ロテイ)

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さて令嬢明子が父親と共に会館の階段を上って舞踏会場に入ってゆくと、「二階の舞踏室の入口には、半

島の髪を貯へた主人役の伯爵が、胸聞に幾つかの勲章を帯びて、ル4・十五世式の装ひを撮らした年上の伯爵夫人

と一緒に大様に客を迎へてゐた。」〈芥川)倫明子はこの「権高な伯爵夫人の顔立に一点下品な気がある」のを感

じたと、芥一川は意味ありげな言葉を加へてゐる。

ところがピエル・ロティに依れば、会場では四人の日本人1

男一人と三人の女性!が招容の接待を勤めてゐた

サロ〉

と記されてゐる。即ち「階段の上では四人の人が

l主人役なのであらう!客聞に這入って来る客を、にこやかに

迎へてゐた。いくつかの授章を飾った白襟飾の紳士

l政府の大官らしいーには、私は殆んど注意を払はなかっ

たo」だが彼の傍に控へた三人の女性には、ロティは「いち早く好奇の眼を注いだ。その最初の婦人はたしかに

あの伯爵夫人にちがひない」(ロティ〉。

、芥川による前記の伯爵及同夫人のモデルは恐らく右の二人と見て好いやうだが、倫この伯爵夫人にはロティは

並ならぬ興味を抱き彼女のことを次の様に語ってゐる。

「先刻こL

へ来る汽車の中で、私はこの貴夫人の身の上話を聞かされた。何でも元は「芸妓」でφ

めったのが、大臣の椅子

を覗ふ一外交官に白羽の矢を立て、首尾よく令夫人に納まるのに成功し、今日江戸を代表して、会式の外国使節等を歓待

する役呂を仰せつかってゐるといふ噂である」(ロテイ)。

彼女は「あでやかで、優美な顔立といひ、肩までとどく長手袋といひ、非の打ち所なき髪形といひ、天晴れ押

エトナシト・斤ルブ=ュ

l

しも押されぬ貴婦人」(ロティ)の貫禄を示してをり、「巴旦流行の化粧を見事に身につけた驚くべき玉の輿」(ロ

ティ)であった。

(-一)先にこの伯爵夫人を評して「権高な中にも下品な」といふ芥川の形容は、恐らく彼女の前身|花柳界出刀素姓

に対する含みを持たせたものであらうか。倫芥川に依れば彼女は「ルイ十五式世の装ひをこらしてゐる」様だが、

ロティによるとル

f十五世風の佑粧をしてゐるのは、実は彼女ではなくて、彼女と共に客を迎へてゐたもう二人

芥川竜之介作「舞踏会」考証

四九

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五。マ

Iて

の女性中の一人で、「天皇陛下の儀典長官に嫁いでゐる、さる古い家柄の華族生れの若妻「ありません』侯爵夫人」

であって

4黒玉の如き黒髪を今冬流行の王冠雷に高々とゆひ上げ、天鷲紋様の光を帯びた瞳を輝かせた、さなが

ら仔猫の逸品とでもいひたげな姿、象牙色の薄絹をまとひ、ルイ十五世風の佑粧をこらして」(ロティ)をり、

(傍ぷ筆者)前述の伯爵夫人に次いで、当夜の舞踏会に於て、.ロティに驚具の眼を見張らせた日本女性の一人であ

る。蓋し芥川は伯爵夫人にこ、の「あり・ませんL

侯爵夫人の佑粧を施したものと考へられる。

z

p

きて女主人公の明子が愈k登場するのだが、芥川によれば彼女は芳紀正に十七才の濃刺たる開花の美少

女でその風姿は次の様に描かれてゐる。「初々しいパラ色の舞踏服、品よく頚にがけた水色のリボン、それから

濃い髪に匂ってゐるたった一輪のばらの花!実際その夜の明子の姿は(中略)開化の日本の少女の美を遺憾なく

兵へてゐたのであった」(芥川〉o

彼女のモデルはいふまでもなくロテイに依って措かれた次の少女であらう。

「私と踊った相手の中で一番可愛らしいのは、ポシパドゥル風の花模様をあしらった、メラ色の服をまとうた小柄の少女ー

さる武熱赫々たる工兵士官の令嬢ださうだが、「みよごにち」嬢か「からかもこ」嬢かその名はよく覚えてゐないーであっ

た。やっと十五才位であらう、まだほんのねんねで、嬉々として踊り廻ってゐたが、そのあどけなさの裡にも一式ひ知れぬ

気品の高さを百六へ、もっと恰好に釣合がとれてゐたら、また一,寸説明し難いが、化粧が更に行届いてゐたら、彼女は太当

に美しく見えたことであらう。」(ロティ〉。

かくて明子が精羅の装ひをこらして控への聞に姿を現はすと、間もなく見知らぬ仏蘭西の海軍士官が何処から

ともなく現れて、「丁寧な日本風の会釈をして、異様なアクサンを帯びた日本語で」(芥川)彼女に舞踊を申込む。

いはずと知れたヂエリアン・グィオ

lハロティ)である。この辺の所芥川の筆では如何にも劇的に浪漫的に書か

ロティの印象記では明か趣を異にしてゐる。参考までに引用してみると、

(一-一)

れてゐるが、

「ひどく態惑な日本の役人が、国を挙げて我々を歓待し、数名の踊りの相手及びその親戚やお友達に私達を招き合せた。

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(中略)これらの「ありますか」又は「こんにちは」諸嬢は白、ば白色、青と色とり人\な装ひを凝らしてゐたがその顔

付は皆同じに見えた。(中略〉彼女等はそれん\象牙色か真珠色の手帳を持ってゐて、ザル押ノだのボグカだのマヅルカだ

のL舞踏への申込みをするため、私は鹿爪らしくその手帳に名前を】記入したものだった」(ロティ)

0

尤もロティの印象記では、この少し先の処で、ロティが日本古来の宮廷服をまとった女性に舞踏を申込み、体

よく断はられるといふ面白い場面があるのだが、芥川の前記の趣向は或ひはこの舞踏申込の部分と多少関係があ

るかも知れない。

(四)やがて「明子は仏蘭西海軍士官と『美しく青きダニュ

1プ』のずアルスを踊ってゐたL

(芥川)が、

はロティの「私たちが一緒・に踊ったワルツの「美しく青きダニ?l

プ』が終ると云々」(ロテイ)から取ったも

のであらう。かくて明子はロティの巧みなり

lドで踊りながら、時々彼が彼女の耳元に噴くフランス語の優しい

お世辞に寸恥しさうな微笑を酬い」(芥川〉てゐた。所で芥川は小説の始めの方で、明子が「夙に舞踏と仏蘭西

誌の教育をうけてゐた」と伏訴を張ってゐるが、之はいふまでもなく芥川の小説的作為であって、事実は西洋舞

踏の教育を受けてはゐたらうが、彼女は遺憾乍ら仏蘭西語の方は解し得ない。ロティの印象記ではこの辺を次の

「彼女は私のいふことを実によく理解した(但し日本語l筆者註)o

そして私の間違ひだらけの「でござります」の連発

を可愛らしい微笑で訂正してくれた」(傍点筆者)(ロティ)0

レアリテ

開佑時代の日本乙女と七ては、この方がむしろ真実に近かったかも知れない。併しロティによれば開化の日本

女性必しも仏蘭西語を解しなか‘ったわけではなく、先きに触れたロティの舞踏申込の場面には、彼と堂々フラン れ

ス諾で応待する聴明な一人の日本女性が姿を現はしてゐる。

なほ細かい点をいふと、芥川は明子を評して「この仔猫の様な令嬢」と形容してゐるが「この仔猫一広々」の言

芥川竜之介作「舞踏会」考証

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葉は、

の一つは前述の

必しも明

「子イ子、 に猫、闘のし逸て品ど」は

でなあいりが

ロティがこの印象記で二個所ばかりで用ひてゐる所のものである(そ

他は日本の娘さん歩}措いて「道砧た仔猫みたいに小柄な」といふ一例で

ある)0

さてこの間芥川は次のやうな舞踏室の描写を数果的に挿入してゐるが、

写から取ったものであらう。次に右の二つの文章を並一〈てみると、

「彼らが踊ってゐる舞踏室の周囲(中略)には皇室の御紋章を染め抜いた紫縮緬の慢幕や爪を張った蒼竜が身をうねらせ

てゐる支郊の国旗の下には、花瓶々々の菊の花が、或は軽快な銀色を、或は陰うつな金色を、人波の聞に散らつかせて

ゐた」(芥川)。

「壁上には白い大きな菊花を象どった天皇家の紋を描いた紫のちピみや、怖ろしげな竜を函いた黄色もしくは青色の支那

国旗が張られてゐた」(ロティ)0

なほ菊を活けた花瓶については、

ゐるだけである。

之は勿論後にかLげるロティの実景描

ロティは右とは別の処で、簡単に「巨大な菊を盛上げた花瓶云々」と描いて

かくて海軍士官ロティは共に踊りを重ねる裡に、澗手の令嬢明子に次第に興味を唆られてゆく。そして

彼女を眺める彼の微笑を合んだ眼差には、ある疑問が往来するようだつたと芥川は書いてゐる。即ち

「こんな美しい令嬢もやはり紙と竹の家の中に、人形の如く住んでゐるのであらうか。さう・して細い金属の箸で青い花の

描いてある手のひら程の茶碗から米粒をはさんで食べてゐるのであらうか」(芥川)。

エキゾチヅク

この一節はロティの彼女に対して抱いた次の様な異国的な感概を、芥川が印象記から殆んどそのまL利用した

ものである。

ヨルセ

「だが彼女も間もなく宅に帰れば、障子をはめた何処かの家で、世間並の日本婦人らしく、この窮屈な胞衣などは逸早く

脱ぎ棄て、鶴や何かの烏を描いた衣服に着換へて畳に坐り、神道或は仏教のお祈りを上げてから、箸を使って米の飯を食

(五)

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べるのであらう」(ロティ〉。

所で芥川によれば開佑の女性に相応はしい新教育を受けたこの令嬢は、

滑らかな床の上にとらせ」ながら身も軽々と人波の聞を踊り歩いたことになってゐるが、

ロティを相手に「華蓉なバ一フ色の靴を、

ロティによると開化の

装ひこそ一応身につけてはゐるが、実をいへばダンスの方はさう易々とマスター出来てゐたわけではない。次の

様なロティの一節を読めばそれは明らかだが!この辺明か興味のある処だが|此処に私達はロティの作家らしい

卒直な観察を見るのである。

「私の踊り相手となった日本娘たちは皆間違ひなく踊りはした。だがそれは習ひおぼえたものであるのがよく分るのでら

イエシヤプイ

1プ

る。まるで操人形みたいに踊るのでそこには何ら個人的自然性はない。だから偶々調子が分らなくなって来ると、踊

りを止めさせて、叉始めからやり直さねばならぬ。自分からは決して調子を取戻すことは出来ないので、恐らくは間違っ

たま与で踊りつどけてゐることだらう。だがこのことは私共の音楽と律動と、彼らのそれとの相還を考れば了解に難くな

いことだ」(ロテイ)。

とまれ当時の速成的欧佑日本の一面が、

ゆくりなくも此処に正体を顕してゐるのも一興である。

やがてワルスを踊りポルカをすませマヅルカを終った明子は、青年士宮ロティと腕を組み、菊花に飾ら

れた階段を下りて、揚々と階下食堂に姿を現はす。その食堂の描写は芥川の小説でも又ロティの印象記に於ても、

恐らく最も鮮かで豪審な印象を与へる個所であらう。次にこの両者の場面を並べて引用してみると、

「銀や硝子の食器類に蔽はれた幾つかの食卓が或は肉と松露の山を盛り上げたり、或はサジドウキ

γチとアイスグリlム

との塔を塗立てたり、或は、ざくろと無花果の一一一角塔を築いたりしてゐた。殊に菊の花が埋め残した部屋の一方の壁上には

巧みな人工の葡萄蔓が青々と絡みついてゐる美しい金色の格子があった。さうしてその葡萄の奨の聞には、蜂の巣の様な

葡萄の一房一が累々と紫に下ってゐた」(芥川)0

「食卓は銀色器だの高い硝子だの或は松露や肉の料理や鮭の類、

(大)

サシドキッチや氷菓子などで覆はれてゐたが、五式の堂

芥川竜之介作一舞踏会」考証

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五回

々たる巴皇の舞踏会にも劣らず、何から何まで豊富を極めてゐた。米国産や日本産の果物が、優雅な箆にピラミ?ド型に

積み重ねられて居り、シャVJ

ベジ酒にも最上等口聞の商標がついてゐた。食堂にしつらへられた絡子垣には、見事な葡萄の

笑を重した1

八ヱの葡萄菱の枝葉が、装飾的にこんもりと絡ませてあり、いかにも日本的な酒落気が偲ばれるo」(ロティ)

以上二つを読比べてみると、芥川がロティの与へた材料を殆んどそのまL、而も極めて殻果的に生かしてゐる

ことが窺はれるのだが、先に引用した冒頭の菊花装飾の場面と共応、いかにも開化日本の盛典

l豪華な鹿鳴館の

舞踏風景を物位仰せしめるのに役立ってゐる。蓋し芥川は乏しいV

材料或は体験を手懸りに、豊富な想像力を駆使し

て文学の世界を展開してゆく型の小説家ではない。むしろ多様な資料(神話伝説碑出品等)を自在に消化して、海

然たる結構にまとめ上げてゆく技巧の妙味を本領とする作家であらう。問題の「舞踏会」もこうした種類の作品’

の一つにほかならないが、少なくともこの場合、芥川はロティからあり余る程の材料を与へられてゐる。

さて踊り疲れた身を食堂に休めた明子は、ロティの勧めるま与に彼と共に「ア

4スクリームの些を取っ

た」(芥川)が、この一節はロティの「手袋ですっかり包!んだ指先を器用に動かし乍ら、彼女は邑でアイスクリ

ームを食べることも出来た」(ロティ)によるものと思はれる。さらに芥川は此処で、令嬢明子に九ゆる機智と

勇気を振ってロティと左の様な会話を喋べらせてゐる。少し長いが!この部分は芥川の創作なのでーその大体を

次に紹介してみると、黒いびろうどの胸に赤い椿の花を着けた独乙人らしい若い二人の婦人を見送りながら(因

に外国婦人はロティの印象記には殆んど姿を出してゐない〉明子は流暢な仏蘭語でロティに話しかける。

明子「西洋の女の方は木当にお美しうございますこと。」

ロティ「日本の女の方も美しいです。殊にあなたなぞは・::。」

駒子「そんなことはございませんわ。」

ロティ「いえ、お世辞ではありません。そのまL直ぐに巴里の舞踏会引も出られます。さ5したら皆んなが驚くでせう

0

7

ットウの絵の中のお婚さまの様ですから。L

(七)

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所で右の中の最後の「ヲγ

ト才の絵云々」といふ一言葉、だが、之はロティの「ワットオの絵にあるやうな、葡萄

持りは風流の極致である」(之は先広挙げた食堂描写についムく最後の部分であるが)から思ひついたものではな

からうか。さてヲγ

トウを知らぬ明子は、途切れさうになる会話を何とか繋ぎ止めようと、必死の努力で話題に

すがるlll

明子「私も巴皇の舞踏会に参って見たうございますわ。」

ロティ「いえ、巴塁の舞踏会も全くこれと同じことですo」

かう答へ乍らロティは、皮肉な微笑を浮べて附加へる。「巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じことで

す」

以上のにあげた一連の対話が芥川の創作であるのは前述の通りだが、才人作家芥川にしてはその調子が明か陳

腐にすぎる憾みがないではない。然しロティの印象記ではこの主人公二人の会話は更に月並と貧しさを極めてゐ

る。「私の腕にすがったこの小柄な田舎強はひどく月並のこと例へば「涼しい夕方ですこと』とか「明日は好い

お天気でせう」とかいふ挨拶を『ご、ざります」口調で私に晴いた」(ロティ)

0

尤もお互ひに充分言葉も通ぜぬ二人であれば、之も無理からぬといふ感じはするが。

一時間許りの後、舞踏会も漸く終りに近く、明子はロティの導くまLに、舞踏室を出て露台に符む。芥

川はこの辺を次の様に描いてゐる。

「欄干一つ隔てた露台の向ふには広い庭園を壊めた針葉樹がひっそりと伎を交し合って、その補に点々と鬼灯提灯の灯を

透かしてゐた。(中路)すぐ後の舞踏場ではやはりレlスや花の波が十六菊を染め抜いた紫縮緬の幕(傍点筆者)の下に休

みない動揺を続けえゐた」(芥川)。

以上はロティの次の如き叙景と関係があるであらう。

「(露台に)並んだ人々の頭の向ふには(中路)庭園が姿を現した。

(八)

半ばっき果てた歓楽の名残のように。そして遥か彼

芥川竜之介作「舞踏会」考証

五五

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五六

方には、暗い夜の閣が幾つかの赤い提灯を点々と光らせてゐる江戸の郊外が、大きく広がってゐた。空中には相変ら、ず天

皇家の紋を強いた慢幕と白菊の紋章を散らした紫の縮み(傍点筆者〉がはためいてゐた。私達の背後には天然のしかし作

りものL様な菊の花に飾られた客聞が望まれたが、そこでは大勢の男の制服と派手な明るい女の衣服の群が、カドリ

J

ル舞

曲の合聞なのであらう、列を作つb

たまtA

ぢっと並んで動かなかった。」(ロティ)

前者が後者の換骨脱胎であることは元よりだが、何れ劣らぬ美しい印象的な描写である。併し前の風景・(界

川)が動いてゐるのに、後の風景(ロティ〉は静止してゐる、つまり音楽的と絵画的といったような趣の違ひが

ある。そ

Lてこの先についムく芥川の「露台の上からも絶えず賑やかな話戸や失戸が夜気を揺ってゐた。まして暗い

針葉樹の底に美しい花ルム川勝か時には、殆んどんか、hhかわふい岳山骨が一同のロから演わたこともあった」

(芥川)の一節も同じくロティの次の描写からの換骨脱胎といへるだらう。(傍点筆者)

「庭園の向ふ側、噴水の彼方で花火が打上げられ、思ひがけなくも閣の中をこの鹿鳴館の周囲に群がり集ってゐた白木民

衆の姿を照らし出した。彼等は奇妙な叫声にも似た歓声を上げた」(ロティ〉0

(傍点筆者〉

明子は自分に腕を貸したまL、露台に黙然と悼んで、ぢっと花火の跡を見送ってゐるロ一アイの顔をそっ

と見上げ乍ら、最後の言葉を噴やさかける1

1

「お国のことを思ってゐらっしゃるのでせう。」

併しロティは無一吉田の微笑で彼女の言葉を否定する。そして明子の再度の聞に対して静かに聞返す

li「何だか

当てLごらんなさい。」

す’るとこの時、露台に集った人々の聞には、再び風のようなざわめきが起った。

llこの後を、この「舞踏会」

の結末を、芥川は歓楽の後幕を象徴するかの如き、美しい次の様な文章で結んでゐる。

「明子と海軍将校とは一式ひ合はしたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧してゐる夜昼の方へ限をやった。英処には丁度

赤と青との花火が、蜘除手に閣を弾きながら、将に消えようとする所であった。朗子には何故かその花火が殆んど悲しい

九」ノ

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気を起させる程それ程美しく患はれた。」(芥川〉

ヴィ

この時、ロティは重々しい口調で最後の一言葉を睦いた’1l「私は花火のことを考へてゐたのです。我々の生の

様な花火のことを。」(芥川〉花火の火花に人生を見たてたピェル・ロティの哀傷とも昧嘆ともつかぬ右の一言葉が、

芥川の此の小説の結末に、ある種の効果的な余韻を与へてゐることは事実である。

とまれ真実のロティは、少なくとも印象記に窺はれるロティの面影は、

ティはこの叩象記「江戸の舞踏会」を次の様な感想で結んでゐる。

「此の「こんにちは」嬢l或は「からかもこ」嬢かも知れないが!の腕を、私はいさLか親愛の情を込めて、一寸強く小

脇に抱きしめた。と、私の脳中には、何かしら滑稽な、また子供じみた考へが一ばい涌さ上って来て、凡ゆる種類の言葉’

を使って、この思ひを一度に彼女に話しかけ度い思ひに駆られた。するとその瞬間、世界全体が急に小さくなり、圧縮さ

れ、単一化し、ひどく道化た姿に一変してしまった様な気がしたのである」(ロティ〉。

右の一節はこの印象記で作者が自分の心理を語った、恐らく唯一の個所であると思はれるのだが、新興日本の

前途をことほぐ開作の盛事鹿鳴館の祭典を、終始冷やかな好奇の眼で眺めながら、一幕の喜劇の如(断酎而J

して

ゐるロティの面白が自ら窺はれるのである。一見より芥川の「舞踏会」がロ一アィの真実の面影を伝へてゐないこと

は、今夏くり返すまでもないが、仮りに芥川が真実のロティを小説に措かうとした所で、この様なロティの姿を

充分な客観性を以て、作中に躍動せしめることは、恐らく至難の業であったらう。勿論私はこのようなことを芥

川に求める心算はないが、唯私としては、ロティのこの特色ある印象記の提供するむしろ豊富な材料を利用しな

がら、芥川が彼には珍らしい、感傷的な、いはど少女小説まがひの作品をしか作り得なかった点に、明か不満と

失望を禁じ得ないまでどある。

この様な浪漫的なものではない。倫ロ

乍併芥川の意図が、おそらく二人の主人公ロティと令嬢明子とにまつはる見果てぬ夢にも似た甘美な詩情を歌

ふことにあったとしたら、この「舞踏会」はともか会も手際よくまとめられた小品として、一応成功したものと

芥川竜之介作「舞踏会」考証

五七

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五人

一広へるかも知れない。いやつれ多彩な彼の文学作品を彩どる一輪の美しい花にはちがひないが、数多い彼の小説中

果して之が傑作と評価し得るかどうかにっていては、なほ議論の余地があるだらう。要するに私は、仏国近代作

家ピェル・ロティの印象記「江戸の舞踏会」を、芥川がその小説「舞踏会」にどの様に換骨脱給したかを究めな

がら、、穿々、この才

λ作家芥川の小説構成の手の裡を、いさLかなりとも窺ってみたいといふ興味から、以上甚だ

退屈な比較考証を敢て試みたものであることを一一吉田断っておきたい。

右の「舞踏会」(芥川)は大正八年十二月に書かれ、翌大正九年一月号の新潮.誌上に発表せられた。

した吉田精一氏の研究によれば、この頃芥川が九州地方に旅し、かつてのロティ来遊の地長崎を訪れたことなど

が恐らく機捧となって、この小説が生れたのであらうとのことだが、芥川が常々ピエル・ロティに興味を持ち、

「江戸の舞踏会」は勿論、彼の他に作品にも!恐らくは英語を通じて|相当広く限を通しでゐたらしいことは、

恐らく疑ひ得ない処で、このことは芥川がロティの死に際しで述べてゐる次の様な感想からも時々窺ひうるよう

に思はれる。

「ピエル・戸ティが死んださうである(中路)。小泉八雲一人を除けば、兎に角ロティは不二山や椿やベベ・ニ?ポシを

着た女と、最も因縁の深い西洋人である(中略)。ロティは豪い作家ではない。向時代の作家と比べた所が、余り背の高

い方ではなささうである。ロティは新しい感覚描写を与へた。しかし新しい人生の見方や新しい道徳は与へなかった。勿

論これは芸術家たるロティには致命傷でも何でもないに違ひない。(中略〉。文官ティはこの数年間仏蘭西文壇の「人物」

だったにせよ、仏蘭西文壇の「カ」ではなかった。だから彼の死も実際的には格別影響を及ぼさないであらう。(中略)

ロティの強いた日本はヘルシの描いた日本よりも真を伝へない画図かも知れない。しかじ兎に角好菌図たることは異論を

許さない事実である(中略)。我々は其処にロティに対する白木の感謝を捧げたいと思ふ(後略ど(大正十二年六月「ピ

エル・ロティの死」より)。

さて先述

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果して芥川のいふ如くピェル・ロティが「豪くない作家」かどうか、凡そ作家の偉さといふものはさう簡単に

決定できる問題ではないので、こLではかうした義論には触れないでおく。とまれ其の日本旅行記を始めとし、

「お菊さん」(ミミ国♀

§hH3SSSや「お梅さんの晩年」(

hhNH5.5S司、抽選

ma同母ミミ問、ミミ)などで、

我国に因繰浅からぬピェル・ロ一アィに、芥川も一種の親しみを抱いてゐた女人の一人であったことは事実だが、

右に挙げた彼の感想に窺はれる限りでは、ロティに対する芥川の理解は必しも深くはないようで、従って彼はロ

ティの女学からは実はそれほど大きな影響を受けてゐなかったと見るのが至当であらうo換言すると彼のロティ

ヂイレフタLト

への興味は、いはば好事家のそれであって、問題の「舞踏会」も要するにこの好事癖の所産に外ならないと

もいへょうo

因みにロティの「江戸の舞踏会」(門主凶主命吋句、き)は我邦では早くも明治二十五年三月三八

九二年〉鶴訳されてをり(「婦女雑誌」上「江戸の舞踏会」眼花道人訳(謹一者)私の知る限り多分これが彼の作

品の日本に於ける最初の鶴訳であらうo

命ピェル・ロティの我国への醗訳紹介、叉彼の作品と日本文学との関係

交渉などに就いては、何れ又の機会に詮索考証してみたいと思ふ。(昭二七・二一)

〔備考〕ピェルロティは「江戸の舞踏会」の末尾に断り書を附し、卦一品障りがあるので、作中人物の名前は特に秘した旨を・

記してゐる。従って「こんにちは」「ありません」等々の日本女性をはじめ、作中の諸人物が何れも実在の人々であった

ことは、恐らく疑のない所だが、別にモデルを探す興味もないので、敢て詮索しなかった。

芥川竜之介作「舞踏会」考証

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