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127 Ichiro Inokuchi and ManchuriaNorio TAMURA Ichiro Inokuchi19011957was a journalist of the Osaka Jiji Shimpo and a pioneer of the journalism researcher of the Tokyo Imperial University during the pre-war. Moreover he is known to be the writer of “Biography of SHIMPEI GOTO”. In 1932 Ja- pan had created a phony nation called “Manchuria” in the region of Northeast China. In 1937 “Manchuria National Foundation University” was established in Changchun, Liaoning Province. Sometimes in 1943 Inokuchi started his new assignment as a pro- fessor of the University to teach Public Relations which was a new curriculum to this school. 論 文 建国大学時代の井口一郎 新聞学から弘報論へ田 村 紀 雄 序 本論の範囲 井口一郎は,1943 年(昭和 18 年),「満洲」 の首都・新京市に生まれた建国大学に着任,こ こで敗戦をむかえ占領してきたソ連軍の野蛮な 略奪等で辛酸をなめる。本稿では,建国大学に 教職の仕事をえた井口の時代,建国大学とは社 会科学者にとって何であったのか,その開学の 理念と日本人学者を惹きつけた「王道楽土」と, 汎アジア主義,現実の教育と日本人学生,日本 人以外の学生の意識や抵抗感,そしてソ連軍の 突然の侵入と閉学,教職員,学生たちのその後 の苛酷な運命について解明したい。苦難の戦後 を新京,すなわち長春でかいくぐったのち,や がて帰国し戦後の新しい生活にはいるのだが, 井口はじめ関係者の生き様は一様ではなかっ 1ここでは,本論で使われるいくつかの用語に ついて,まず暫定的に説明しておきたい。「満 洲」の用語法は,いうまでもなく,日本(の軍 部が中心になって)が,1932 年,現在の中国

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

― 127 ―

 

 

Ichiro Inokuchi and “ Manchuria”

Norio TAMURA

Ichiro Inokuchi(1901~1957)was a journalist of the Osaka Jiji Shimpo and a pioneer

of the journalism researcher of the Tokyo Imperial University during the pre-war.

Moreover he is known to be the writer of “Biography of SHIMPEI GOTO”. In 1932 Ja-

pan had created a phony nation called “Manchuria” in the region of Northeast China.

In 1937 “Manchuria National Foundation University” was established in Changchun,

Liaoning Province. Sometimes in 1943 Inokuchi started his new assignment as a pro-

fessor of the University to teach Public Relations which was a new curriculum to this

school.

論 文

建国大学時代の井口一郎 ― 新聞学から弘報論へ ― 

田 村 紀 雄

序 本論の範囲

 井口一郎は,1943年(昭和 18年),「満洲」

の首都・新京市に生まれた建国大学に着任,こ

こで敗戦をむかえ占領してきたソ連軍の野蛮な

略奪等で辛酸をなめる。本稿では,建国大学に

教職の仕事をえた井口の時代,建国大学とは社

会科学者にとって何であったのか,その開学の

理念と日本人学者を惹きつけた「王道楽土」と,

汎アジア主義,現実の教育と日本人学生,日本

人以外の学生の意識や抵抗感,そしてソ連軍の

突然の侵入と閉学,教職員,学生たちのその後

の苛酷な運命について解明したい。苦難の戦後

を新京,すなわち長春でかいくぐったのち,や

がて帰国し戦後の新しい生活にはいるのだが,

井口はじめ関係者の生き様は一様ではなかっ

た1)。

 ここでは,本論で使われるいくつかの用語に

ついて,まず暫定的に説明しておきたい。「満

洲」の用語法は,いうまでもなく,日本(の軍

部が中心になって)が,1932年,現在の中国

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建国大学時代の井口一郎

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東北部に創作,1945年,日本の敗戦とともに

胡散霧消した「満洲国」のことである。満洲の

語源は諸説あるが,発音としては,満洲語の

「マンジュ」の漢字音訳表記とされる2)。また,

民族名では,女真族の流れだが,清朝成立後,

乾隆帝勅撰の一書「満洲源流考」によって公文

化されたとされる3)。しかし,満洲でいう「満

人」とは,用語の狭い意味での少数民族「満

族」を指してなく,広義に満洲に住んでいた中

国人ということで,「満族」は,溥儀など旧清

朝の一部の官僚などの流れをくむごく少数のも

のと,満族の集団的に居住する鳳城,青龍,密

雲などの県出身の「満人」に限られていた4)。

清朝自体がもともと少数異民族である「満族」

の支配する王朝であってみれば無理からぬはな

しである。したがって満洲で通用していた「満

人」という用語には注意が必要である。また満

洲国の版図は,河北やモンゴールの一部もふく

むなど,相当に歴史的また政治的,意図的であ

る5)。

 重要なことだが中国でいう民族とは,中国の

営為的イデオロギーに規定されており,時代と

歴史の制約をうけている。その民族数も各民族

の人口も自然増,社会増,文化増によって変動

している。中国における民族の人口変動はこの

文化増に負うところが大きい。社会全体では人

口の変動はないが社会増,文化増ではそのカテ

ゴリーの人口は変化する6)。

 現代中国では「偽満洲」としているが,本論

文では,歴史的用語として,たんに満洲とする。

その満洲国の首都,新京(長春)に,満洲国立

大学として「建国大学」が創設され,おおくの

日本人が研究者,職員,学生として海を渡った。

その,ひとりが井口一郎であった。

 本論では,その建国大学へのあゆみ,日本の

知識人の満洲志向,軍国主義への迎合の過程に

踏みこんで考えたい。建国大学は,満洲国立大

学ではあったが,その成立の後押しは,満鉄

(南満洲鉄道株式会社)であり,日本軍(関東

軍)や軍部であった。いうまでもなく,満鉄も

満洲も,日本の海外侵略の装置の一環であった

が,日本国内の経済的困難,土地なき農民,鬱

積した知識層には,「王道楽土」にも映った。

また,王道楽土にみせかける宣伝,位置づけす

るイデオローグが存在し,その存在を醸成した

思想的土壌もあった。満洲の諸民族のあいだに

も長年抗争を続けてきた対立,闘争に終止符を

うつものとして迎え入れた背景もあったろう。

それでは,「王道楽土」とは,いったいなんだ

ったのか,そして本当に「王道楽土」であった

のだろうか。

 王道楽土,すなわち英明な君主のもと仁徳に

よる政道により人々が安心して生活できる国家,

を意味した。民主的な合意,手順,内容をもつ

ユートピア(烏託邦)とは異質である。現世楽

園7),順天安眠,五族協和の満洲国が溥儀を皇

帝とし,その官僚機関が直隷下にあってみれば,

はじめからユートピアでもなんでもなかった。

しかも,王道楽土思想を醸成した日本の軍部,

官僚,学者,企業家には,海外への鬱積感のは

け口を求める「汎アジア主義」にとって格好な

思想であった。この海外への鬱積感の風穴の動

きは明治以来,平成の時代にまでこびり付いて

いる思想的残土である。平成の時代における

「東アジア共同体」思想の発芽にもこの残土の

臭いがあり,吟味が不可欠である。

 「希望としての満洲移民,動員としての満洲

移民」8)あるいは,その双方で,100万という

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

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単位の日本人が極めて短期間に玄界灘の荒波を

こえた。井口一郎も,多分希望をもって船に乗

ったひとりであったろう。「移民」という用語

にも注意が必要である。明治以来,「北海道移

民」を別として数多くの日本人が海を越えたが,

その社会的,政治的条件は同一ではない9)。国

家や社会を横切る横断的社会移動はいつの時代

にも発生するが基本的に「労働移民」(Migra-

tion Worker)が多数である。問題は移民を受

け入れるホスト社会がどのような対応をとるの

か,である。移民とホスト社会の間で,軋轢,

摩擦,抗争のない例は少ないが,その点「満洲

移民」は世界の移民史のなかで最悪の事例とし

て記憶されるであろう。

1.満州建国とジャーナリズム

 井口のなかの満洲認識は,大阪の『大阪時事

新報』時代にはぐくまれた,と考えたい。井口

が,昭和 6年から 8年まで 2年間働いた大阪時

代は,まさしく,国策,熱病,ユートピアとし

て語られる満洲であった。「満洲移民」「移住」

「赴任」も,東日本よりも深層で地滑りしてい

た。京都帝大,神戸高商その他出身の知識層の

流れも大きく,また,勤務先の『大阪時事新

報』の記事にも溢れていた。同紙は,1905年

(明治 38年)3月,東京の『時事新報』の大阪

進出のための拠点として創刊された堂々たる

「大新聞」であった。慶応義塾の卒業生が,大

阪でも台頭してきたのを知って,日露戦争の機

会をとらえての発刊である。旅順・奉天戦にせ

よ,海戦にせよいうまでもなく,大阪のほうが

東京より,前線に近かった。

 『大阪時事新報』は,福沢諭吉の後光のもと,

また,福沢諭吉の次男,捨次郎が父の死後,設

立して社長に就き,大阪での影響力の拡大を図

ったものの『朝日新聞』『毎日新聞』の伝統を

もつ二大新聞にはさまって苦戦はしいられてい

たが,『時事新報』のバックアップでそれなり

の評価はえていた。『大阪時事新報』には,平

井太郎(江戸川乱歩),難波英夫,片岡鉄平,

貴司山治,小林登美枝らが新聞記者時代をおく

ったように,知識人からもあてにされてい

た10)。特異な小説,甲賀三郎「妖魔の哄笑」

が連載されたのも,ほぼ井口が編集部にいた昭

和 6年秋から半年である。

 なによりも,『大阪時事新報』が,井口を招

いたのは,満洲事変である。満洲事変では,大

阪の新聞は激しい号外合戦でしられるように,

その速報と読者の興味をひきたてるべく,多大

の人員と経費を投じた。『大阪時事新報』は,

朝日,毎日にかなり差をつけられていたとはい

え,手を拱いているわけにゆかなかったのであ

る。もともと,大阪の産業は綿織物に代表され

る朝鮮半島や大陸との三品交易が大きな比重を

しめていた。

 とくに,日露戦争以降,大連,羅津,釜山経

由の大阪商船の通運,大阪資本の大陸進出,移

住が活発になり,大阪の各新聞社の重要な取材

先となった。この報道合戦,朝日,毎日両紙の

覇権確立で終わった。井口がこの報道合戦で新

しい人間関係,満洲の情報,大陸への関心をえ

たことは,間違いない。この時期の『大阪時事

新報』の紙面の大半が失われているので,井口

がどのような記事を書いていたかは,まだ詳ら

かでない。神戸大学図書館等に残存する同紙の

クリッピングをみると,昭和 7年 3月,成立し

たばかりの「満洲国」への関西地方からの移

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建国大学時代の井口一郎

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住・移民計画や実施の記事があふれている。た

とえば,天理教による移民計画が「関東軍移民

部」から許可され,「関東軍および同移民部,

ハルビン特務機関,第○団司令部,ハルビン憲

兵隊」等の支援で,ハルビン郊外の国営移民地

の一部約 1000町歩の分譲になった,と伝え

る11)。

 日本の交易が欧米列強の圧迫で進路が閉ざさ

れ,産業が大陸を向いていただけでなく,土地

のすくない農民も,また知識層にも,一途のひ

かりが大陸にあるかのように映ったのである。

 皮肉なことに,井口を招いてまで,大阪の報

道戦争に参入した『大阪時事新報』は,結果と

して,これら二大新聞の狭間につきおとされ,

京阪神の『京都日日新聞』『神戸新聞』とくん

でいた三社トラストにますます依存することに

なる。激しい報道合戦は,満洲事変で航空機を

飛ばし,伝送写真システムを導入し,新しい高

速輪転印刷機を購入するという巨大な投資にせ

まられ,『大阪時事新報』は,その負担に耐え

られなかったのだ。なによりも,専売店制度の

強固化に莫大な費用を求められ,それについて

行くことができなかった12)。井口が病を得た

こともかさなり,『大阪時事新報』での二年間

の記者生活に区切りをつけ東京へかえってきた

のも,この時期である。

 一方,『大阪時事新報』自体も,「時事」より

遅れること,17年後に創刊された前田久吉の

旬刊『南大阪新聞』,のちの『夕刊大阪新聞』

に吸収されるように 1942年 7月合併されてゆ

く。大阪の西成区で新聞販売店の経営から発っ

て新聞を創刊しただけあって,前田は新聞読者

の獲得,拡張では敏腕を発揮,先発の『時事』

を呑み込んだ。戦時下の新聞統合の荒療治の波

をかぶったのである。現在の『サンケイ新聞』

の系統とかんがえられている。

 満洲の建国時,日本のジャーナリストはどの

ように振舞ったであろうか。

2.満洲へ,満洲へ

 満洲には,「満洲国」設立以前から日本人は

存在していた。それは,いずれの国の場合と同

様,やや冒険好きの商人,ひとやまあてようと

いう若者,それらに寄生した怪しげなゴロツキ,

その道具にされた婬売婦の一群,そんな集団の

パイオニアだったろう。日清,日露の戦争でこ

の動向は確かなものになった。一例が,塚瀬進

が,指摘したように13),日露戦争終結時の奉

天の日本人は,50人から,1年後には 1500人

に急増した。その内訳は,日本兵相手の料理店,

遊技場,雑貨店のほかは,「酌婦」303人,「芸

妓」68人,他の都市も似たり寄ったりだった。

日本が満鉄を接収し,その付属地に日本人町が

形成されてきても,この傾向がなくなったわけ

ではない。国策や社命で渡満した,「普通」の

日本人が増えたことは確かだろうが,前記のい

かがわしい日本人が皆無になったわけではない。

これも,すべての国の移民,移住,植民地展開

につきものの社会病理ではある。

 「満州国」の社会体制の整備のなかで,帝大

などのエリート層,技術者,開拓農民の大群が

押しかけることになる。井口はこのどのグルー

プにも入れ難いが,あえて分類すれば「帝大出

のエリート層」ということもできるが,満洲国

政府や満鉄の官僚とはちがっていた。あえて,

比較すれば,満鉄調査部の研究者と同様な思想

的挫折,生活苦,「王道楽土」への淡い夢,研

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

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究生活の維持,という点で似通っていたといえ

る。「満鉄は“国家”そのもの」14)と草柳大蔵

をしていわしめた巨大企業の頭脳にあたる部分

が調査部であった。その 40年間に生産したレ

ポートは,実に 6200件に達した。

 資金の潤沢さ,資料やネットワークの豊富さ

にもまして研究スタッフの量質のずばぬけた優

秀さは,日本国内の大学も足元にも及ばなかっ

た。戦後,古巣の九州帝大に引き揚げてきた具

島兼三郎をして,九大の貧弱さを嘆かせたとい

うほどである。

 満鉄が満洲国の背骨なら,満鉄調査部は満鉄

の頭脳であった。満鉄の初代総裁後藤新平は,

日露戦争後の日本の大陸観を背景に満州地方を

中心に大陸の実質を認識する調査活動を重視し

た。小林英夫がいうように「日露戦争の結果満

鉄沿線は日本の領有圏に入ったとはいえ,中国

東北はなお列強の争奪地であった。調査・情報

網を張り巡らし,国際情報をいち早く捕捉する

ことなくしては満鉄の安定的運営は不可能だっ

た」(『満鉄調査部の軌跡 1907―1945』,2006

年)し,日本の支配に服従しない“匪賊・馬

賊”跳梁の情報蒐集は急がれていた15)。

 満鉄調査部は 1907年に大連本社のなかに組

織されて以来,名称,組織,機構,人事はたび

たび変更されたが,その情報蒐集という目的を

達成するために,一貫して拡充された。スタッ

フの交替や拡充のなかで,軍部ののぞまない各

種の“不純分子”も吸収していったこともあり,

1930年代の後半には,“左翼的”とみられた日

本国内での「転向者」の研究者も採用されてき

た。とくに,軍部を刺激したのは,具島,伊藤

武雄,中西功,尾崎秀実らが参加して完成した

「支那抗戦力調査」(1939年)や,「日満支イン

フレーション調査」(1940年)などであり,こ

れらの調査事業に端を発して 1942年から翌年

にかけて,関東軍憲兵隊により「満鉄調査部事

件」として知られる弾圧がおこなわれる。

 建国大学正門(出典:満洲国通信社)

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建国大学時代の井口一郎

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 事件では,満鉄調査部職員を中心に 70名ち

かい日本人が逮捕されたが,この中には,具島

のほか石堂清倫,伊藤武雄,田中久一,野々村

一雄,堀江邑一,西雅雄,鈴江言一,和田耕作

らが含まれている。敗戦までにかれらのうち 5

名が獄死,他も刑罰をうけた。弾圧により,満

鉄調査部はちからを削がれることになる。皮肉

にも,井口一郎が建国大学に赴任するのは,こ

の弾圧事件の最中のことであった。

 建国大学の位置づけは微妙である。満鉄調査

部とことなり,企業内の機関ではなく満洲国立

大学である。調査よりも,研究や教育がしごと

であり,満洲国の将来を担う人材の育成が主眼

であった。キャンパスも,満鉄調査部が本社の

ある大連が中心(東京,北京などに出先機関は

あった)であるのに対し,満洲国の首都・新京

(長春),それも中央官庁街に隣接して建設され

た。とはいえ,建国大学も満鉄のなりわいと深

く結び付いていた。

 建国大学は 1937年,満洲国国務院の決定に

もとづき 8月 5日,大学令が公布されてスター

トした。満州にはすでに,工科大学や医科大学

は開校していたが,満洲国の高級官僚を独自に

養成するはじめての総合大学で学長は形式的に

は国務総理大臣(満人)が就いたが,教学の実

権をにぎる副学長は日本人(初代,作田荘一京

都帝大教授)であった。作田は中国人学生の大

量検挙事件の責任をとり 1942年 6月に辞任し

ていたので,井口が赴任した時には,第 2代の

尾高亀蔵(第 19師団長,第 3軍団司令官の経

歴をもつ軍人)であった。

 「満洲国」の社会体制の整備のなかで,帝大

などのエリート層,技術者,開拓農民の大群が

押しかけることになる。このプロセスで,帝大

出のエリートが満鉄などを支配したことは疑い

ないが,徐々に,関西の人材が一角を占めてく

る。塚瀬も,1930年の職制改革時,本社 12部

の次長のうち,4部で神戸高商の出身者がしめ

たことがある,と指摘している。このほか,関

西の大学,高校の卒業生,企業家,浪人,さら

には農村からも満洲にむかう。

 建国大学の設立時にも,教員,職員,学生の

なかから関西出身者を多数探し出すことができ

る。これは,後述したい。

 満鉄なしには,まず満洲を語れないが,その

満鉄も,後藤新平なしには紐解けない。日露戦

争後,日本の大陸進出の足がかりとして大連に

満鉄(南満洲鉄道会社)が設立され,その初代

総裁に就任した後藤新平は,鉄道のほか新聞,

印刷,教育,文化事業に当初からつよい関心を

しめしていた。満洲の代表的な日本語新聞であ

る『満洲日日新聞』(以下『満日』と略称)は,

統合,改題,発行地の移動,社主の交代と複雑

な経過をたどっているが,満鉄が終始,大きな

影響と支援を与えてきたことにはかわりない。

1911年には,満鉄は正々堂々と,『満日』に出

資している。当初の『満洲日日新聞』は,1907

年,大連で「満鉄機関紙」16)として創刊されて

いる。のち事実上の子会社として 100%の持ち

株率となった。また満鉄は,その他奉天,ハル

ピンなどに次々と資本出資の新聞社を創刊する

が,満洲国の首都となる新京(のちの長春)の

『大新京日報』に資本参加するのは,1934年に

なってからである。これは,満洲成立までは,

満鉄の沿線がここまでであったことによるもの

と思われる。

 満鉄のもうひとつの大きな文教事業が建国大

学であった。満洲での井口一郎の役割は『満

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

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日』では,はっきりしないが,建国大学では専

任教員として働くことになる。井口の履歴書で

は,薦任 1等 3級俸とある。俸給は月数百円,

そのうえ官舎があり,日本での待遇とは較べも

のにならない。やがて簡任官に昇任している。

3.建国大学教授・井口一郎

 井口が建国大学の専任教員に単身赴着任する

のは,1943年(昭和 18年)2月である。家族

を呼び寄せるまでは,南嶺のホテルから通勤し

た。新学期に間に合わせるためであるが,東京

帝国大学新聞研究所研究員,上智大学講師,太

平洋協会調査局員の仕事をそれぞれ辞任しての

赴任である。日本はすでに太平洋戦争に突入し,

1943年春といえば日本軍は,ニューギニア,

ガダルカナルの前線で敗退し,玉砕や撤退が相

次いでいた最中である。戦況は暗雲垂れ込めて

いた。この時期にあえて満洲へわたるのはかな

りの賭けであった。建国大学へ赴くについては,

かっての後藤新平伝記のひきや太平洋協会の繫

がりがあったことは想像にかたくない。

 宮沢恵理子によると,井口の就職には,東京

帝大の南原繁,神川彦松の推薦があったという。

南原は法学部,新聞研究所の恩師であった。神

川は,日本を離れるまで属していた「太平洋協

会」の幹部である。また,建国大学にはすでに,

知己のある瀧川政次郎や,四高時代の恩師(哲

学担当)四宮兼之のふたりがいた。四宮は,戦

後ソ連兵により官舎を追われ,至聖大路の集合

官舎に転居,不幸にも,その冬,ここで急死し

たという。くわえて,東京帝大・新人会の会員

だった大間知篤三もいた。大間知は 3.15事件

で検挙され,治安維持法違反で服役もしてい

る17)。

 建国大学では,あれほど望んでいた学問の道,

それも井口が得意とするコミュニケーション論

の担当の正教授のポストであった。担当科目は,

「政治制度論,国際政治論,弘報論,新聞政策

論」,現在風にいえば「コミュニケーション論」

であった。俸給も研究環境も,望んでいたよい

待遇である。

 満洲国立建国大学は,1937年 7月,関東軍

の辻政信の肝いりで創立準備の会合がもたれ,

満洲国国務院の建国大学令によって新京の地に

産声をあげた18)。いかに,満洲国政府や日本

人関係者が,この大学に期待したか,その立地

ひとつとってもうなずける。キャンパスは,満

鉄の新京駅の南方,大同大街の先,およそ 10

キロ隔てた「南湖」周辺にとった。

 宮沢恵理子は次のようにキャンパス設計のエ

ピソードを書いている。

 「65万坪の敷地の西南の角に『歓喜嶺』とよ

ばれる丘があり,ここは満洲国経緯度の原点で

あった。ここからは人造湖である南湖を隔てて

新京市街を一望することができた。」「辻政信は

5万分の一の地図を広げ,建国大学用地として

決定した場所の上に自分の拳骨を置き,その形

をとってその場所を実測したところ 65万坪で

あったという伝説」19)が残っているとされる。

その後も,キャンパスの周辺には,建国庿が建

ち,大同学院,新京医大などの文教施設や,国

務院などの政府公館,公務員宿舎がならぶ国家

の中枢を形成していた。筆者(田村)も,1980

年代にこの地を調査したが,南湖には,高級公

務員向けの「招待所」南湖賓館が建ち,建国大

学跡には,長春大学,中国科学院長春分院,長

春光机学院,長春郵電学院などの先端教育機関

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建国大学時代の井口一郎

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が生まれ,新京工業大学は吉林工業大学へ,満

洲国の政府機関は,吉林省政府の各機関に生ま

れ変わっていたが,満洲国を産み落とした辻政

信らの都市建設のマスタープランはそのまま生

かされていたのである。

 建国大学は,新生,満洲国の幹部を養成する

ことを目的にしたのには,違いないが,なによ

りも「五族協和」(日,満,鮮,蒙,露)をめ

ざし,それぞれから入学者を選考し,よくいう

「同じ釜の飯」20)をたべ,起居をともにした。

教員も日本人だけでなく,各「民族」出身の学

者を採用し,配置した。しかし,日本人学生,

教員は満洲国の将来を担うことが求められなが

ら,国籍は日本人のままとか,教員・職員の賃

金などの待遇に格差を設けるなど,矛盾をはら

んでいた。

 だから,第 1期生 150人のうち,実際に卒業

したのは,約 3分の 2であったり,大学側を震

撼させた赤化事件で,多数の学生が逮捕される

など,波乱含みのスタートであった。満洲を産

み落とした関東軍の将校のなかには,満洲に骨

を埋めるなら,日本人も日本の国籍を離脱し,

満洲国籍を取得すべきだ,という考えもあった

ようだが,日本人にはてんで受け入れられるも

のでなかった。

 こういう話がある。

 夏休みに,日本へ帰省する余裕のない日本人

学生をひきつれて「満洲蒙古の旅」が計画され

たことがある21)。

 満洲には,日本人のほか歴史的経過で,朝鮮

人,蒙古人,満洲人,ロシア人,漢族,その他

多数の少数民族が暮らしている複雑な民族構成

をもっていた。とくに蒙古人は,内モンゴール,

中国の長城以南(清朝や当時の中華民国),ソ

連(外モンゴール,ロシア),満洲と異なる国

や地域に住み,分断統治され「統一モンゴー

ル」をめざす運動にも直面していた。満洲には,

約 100万のモンゴール民族が住み,大半は興安

嶺以西に生活していたため,満洲国は,新たに

興安四省を設置したほどだ。

 建国大学の学生(日本人,蒙古人,台湾出身

者)を二人の教員が自腹で,この蒙古人の居住

地へ「実体験」に引率したのである。ここで使

う「人」は出身のエスニシテイや地域で,蒙古

人も「外モンゴール」という国家を意味してな

い。そこで,学生の見たものは,「五族協和」

とはほど遠い,住民の「反日,反満」意識であ

った。公立学校に日章旗が掲揚され,天照大神

を神体とする神殿が造営され,毎朝,現地の蒙

古系少年に神社参拝をさせるというマンガ演出

に,建国大学生にすら違和感をあたえた。

 井口が新京以外の地に足をのばして,地政学

や太平洋協会で学んだ多様なエスニシテイの社

会を実感したかどうか,判らないが,すくなく

とも大学には,教職員,学生とも日本の国内で

は体験できないマルチ・カルチュラルなコミュ

ニテイはあった。

 後藤新平は,台湾統治以来,植民地経営に独

自の思想をもっていた。それは,「植民地統治

の方策は生物学的原則に基づき,地文学的考察

に照らし,過去と未来を推究」22)するという思

潮だった。地文学(Physiography)にとって,

満洲は格好の研究フィールドだったに違いない。

「未知」の山地,河川,自然,人々,気候,文

化と日本人研究者といわず垂涎の空間であった。

まさしく井口が携わってきた地政学的理論の脈

絡であり,地政学では測り知れない深淵である。

満鉄も建国大学も,後藤の考えにもとづき,調

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

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査部門を設け,農村調査や実地踏査を励行した。

今日,夥しい満洲の調査報告書が遺留している

理由である。

 現代の中国の社会学者が「満鉄の遺した貴重

な遺産」として,この満鉄調査部の報告書を大

いに活用している。

 さて,建国大学の教育,研究組織や教員構成

はどうなっているか。

4.建国大学の教育と研究

 建国大学はその創立理念のように「五族協

和」の名のもとに,幾つかの主要民族,すなわ

ち日,満,蒙古,朝鮮,ロシアの民族グループ

から選抜された 150人の一期生からスタートし

た。この場合の「民族」グループという用語法

も詮議しなければならない問題が多い。中国や

満洲における「民族」とはなにを指すのか,例

えば日本人,満洲国に国籍,父祖の地と,何ら

関係なく,地域的「移動」したにすぎない。仮

に満洲で出生した二世が増えたとしても,「満

洲国民」というカテゴリーがあったわけでもな

い。「民族」や「エスニック集団」を形成する

うえで重要な側面である帰属意識を問えば,疑

いなく「日本人」と答えたであろう23)。「満洲

国人」であるわけではない。満洲における,日

本人の覇権思想,優位意識はかねがね強調され

てきたが,建国大学においても,正課の授業や

日用語が「満洲語(中国語)」でなく日本語で

あったことをどう解釈すればよいのであろうか。

 ヨーロッパの多くの宗主国と海外の植民地の

学校にみられる関係である。

 建国大学の学生構成は,日本の中国(さらに

はアジア)侵略の戦略・政策に沿って,また,

選抜もそれぞれの民族グループごとに実施され

た。細部は失われているが,建国大学への入試

で「満人之部,蒙人之部」の片鱗が残されてい

るのを,京都ノートルダム大学のグループが発

掘した貴重な報告がある24)。

 この発掘資料は満洲の満洲医科大学,奉天農

業大学などの入試資料の問題集である。「日本

語問題」をみると,日文の満語訳,満語の日文

訳の課題がある。ところが,ここでいう満語と

いうのは,ツングース(通古斯)語族系の満洲

族の言語や文字のことではない。漢族と同様の

中国語である。ここにも,満洲族の国家と言い

ながら矛盾をもっている。各大学の入試のなか

で,建国大学(満人の部)と満洲医科大学だけ

が,日本語の長文 2題を課しているのは,基礎

学力がある,すなわち受験者の出身階層がエリ

ートに属していたからかもしれない。

 よく知られているように戦後の日中の懸け橋

となった孫平化(国交回復前,LT貿易の中国

側の東京連絡処の初代首席代表)は,満洲に生

れ,奉天の高級中学のトップで卒業して建国大

学を受験,合格している(実際には入学せず,

満洲国経済部に奉職した)。孫のケースのよう

に学生の出身階層は高いものがあった。

 入学後の学生は,「五族協和」の精神で,教

室も,寮生活も,学外での活動もすべて共同で

あり,日本語を中心に組み立てられていた。ま

た,その学修生活についてゆくだけの日本語力

があった。寮生活は,1組 25人(したがって 6

組)に編成され,各民族グループがほぼ均等に

配分された,「塾」とよばれる雑居生活で文字

とおり「同じ釜の飯」を分けあった。寝室は床

の上に一斉に横にならべられ,兵舎をおもわせ

た。河田宏『満洲建国大学物語』によると,満

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建国大学時代の井口一郎

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洲にある 16の医,工などの高等教育機関のう

ち建国大学だけが,将来の満洲国の高級官僚・

エリートを養成する東京帝国大学に匹敵する位

置づけがつねに強調されたという25)。

 岡村敬二の前掲の研究によれば,この試験問

題集にある各学校の受験者数と合格者数の一覧

では,建国大学が,志願者数 7023人,受験者

数 1350人,合格者数 150人と,志願者の 46.8

倍とずばぬけて高い。参考のために示せば,満

洲国成立以前から日本の租借地・関東洲の大学

として水準の高かった大連工科大学(予科)が

14.7倍の競争であったから,いかに建国大学の

競争が激しかったかがわかる。この試験問題集

は,1938年(満洲国の年度で康徳 5年)のも

のであるから,第 1回入学試験である。

 第 1期生でいえば,「日本人 65人,中国(漢

族)59人,朝鮮人 11人,台湾人 13人,蒙古

人 7人,白系ロシア人 5人という構成だっ

た」26)とされる。この数字では,満洲族出身の

学生は中国人とどういう関係にあるかは不明だ

が,この中に入っているものと考えられる。建

国大学は,1945年 8月,ソ連軍の突然の侵略

と,それに続く日本のポツダム宣言受諾による

敗戦で崩壊するまで 8期,1397人の学生が在

籍した。

 在籍生の一人に社会学者・中久郎(なか・ひ

さお)がいた。デュルケーム研究で知られる中

は,最後の第 8期生,わずか半年でソ連参戦で

閉学,約 1年半,長春に国共内戦のなかを生き

抜く。この期間については,井口も同様で,後

述する。中は戦後京都大学にもどり,関西地方

の社会学者の育成に貢献するが,多くの研究業

績にまざって,この建国大学に関する論文があ

る。中は,建国大学のカリキュラムの特徴を

「前期の教育において語学を含む学科とともに

武術,軍事,農事の各訓練が格別重視され,午

後は専ら,それらの訓練に当てられた」27)とい

う。学生への軍事訓練といえば,日本国内でも

程度の差はあれ,中学・高等小学校から課せら

れていたが,建国大学ではとくに重視された。

またこれも日本国内同様に農事も課せられたが,

建国大学ではスタッフや学生数に比較して不相

応な 62万坪というキャンパス内での農耕に勤

しむことになった。

 建国大学が農業・農事に傾倒していたことは,

日本国内の事情を映していたわけではない。興

味深いものがある。日本国内でも国民学校(小

学校)から上級の各学校に農業・農事を課して

いたが,これは食糧増産のためであって,食糧

難のために校庭はじめ,空き地という空き地を

耕してしまったのだ。しかし建国大学では,日

本の農民の満洲「移民」など,農にたいするユ

ートピア思想もあり,石原莞爾,辻政信らの思

想への共鳴も見逃せない。そのひとりに藤田松

二がいる。京都帝大で農業経済学を学び,建国

大学に助教授としてやってきたが,中久郎にい

わせれば「容貌魁偉な野人の風あり,農本主義

による塾教育と農業訓練に対し大きな抱負があ

った」,自身も学生の先頭にたって畑に鍬を打

ち込んでいた。そればかりか,祝日には日の丸

の掲揚を許さず,満洲国旗のみの掲揚を指示し

た。石原や辻がことあるごとに,建国大学の教

職員や学生の前で「君たちは満洲国民になれ」

と国籍さえ移籍することを説いたというように,

「王道楽土」への信奉があったようである。

 藤田にかぎらず,建国大学の教員には京都帝

大の関係者が多い。副総長が作田荘一が京大経

済学部教授在任のまま兼務したせいもあり,京

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

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大出が多数だ。教員の出身校を調べた宮沢恵理

子によると28),1941年度の「日本人教職員一

覧」にある 191人(うち教授 35,助教授 42,

講師 11)のうち,京都帝大 40,東京帝大 26,

その他ごくわずか,教育学関係で広島文理科大,

心理学で東北帝大などで,圧倒的に京都帝大が

多い。しかし,これは旧帝大学閥の地政学的勢

力範囲からいうと特別に驚くことではないかも

しれない。むしろ「京都帝大が満洲に賭けた」

という言い方が適当かもしれない。

 ただし,敗戦後の生き方では,京都帝大出の

研究者にも多少のぶれがある。作田の神通力が

失われたことにもよる。内海義夫は経済学者で

はあるが,農学部で当初,農林問題に取り組ん

だ。農学部助手,東亜研究所嘱託をえて,建国

大学へ就職したのは 1944年,敗戦の前年であ

る。それでも,北安省で「北満の農村」という

報告書をまとめている。戦後は「労働時間の研

究」という新分野で博士号をとり,ソヴィエト

労働問題などマルクス主義の隙間にも研究の方

向を手がけている29)。

 経済学で京都帝大が多いのは,作田副総長の

ルートであるのに対し,東洋史で東京帝大が目

立つのは,建国大学名誉教授に平泉澄・東京帝

大国史学科教授が任じられていたことによる。

また,藤田のような農学者 6人のうち,4人が

京都帝大出身だと宮沢は調査している。井口一

郎は,まだ着任していなかったが広義には東京

帝大のグループにカウントさたであろう。閉学

後の身の振り方も教職員,学生とも京都帝大の

水脈のなかになりわいを求めたものが多かった

ことも自然である。

 中久郎によると,大学の教育システムは,日

本の大学のように講座・座学に必ずしも重点は

なく,「塾」とよばれる教師と学生が一体とな

った「松下村塾」にも重なるイメージだったと

のべている。各塾には,教員がひとりずつ配置

され,民族グループに関係なく上級生から指導

学生がつけられ起居をともにしたという。なに

やら日本軍隊の内務班制度を思わせるが,戦時

下であることから学生にそれほどの抵抗感はな

かったようだ。井口一郎もキャンパスからやや

離れた官舎に住み,学生がいつも訪ねてきたと

いうから,この制度のなかで生活していたよう

である30)。

 ただ,井口はもともと病弱であり,建国大学

の卒業式とおもわれる全員の記念写真でも,中

耳炎で包帯をまいた姿で写っており,軍隊式の

日常生活に必ずしも同調できたわけではなさそ

うだ。

 授業の日課は,中によると,6時,太鼓の合

図とともに起床,室内の掃除,整頓,塾舎前に

整列,点呼,駆け足運動,食堂で全員朝食,午

前は学科の講義,午後は武道,(柔道,剣道,

合気道)の稽古,軍事訓練,農事訓練,野外へ

の行進などの身体訓練にあてられた。ことに,

武道には大学も特別の思いがあり,早稲田大学

出身で早稲田の教授も務めた富木謙治郎を教授

に招いている。富木は講道館柔道 8段,植芝流

の合気道 8段という猛者で,自らも合気乱取法

を創案してその普及に努力している。のちに日

本合気道協会初代会長も歴任している。

 塾とよぶ一種の軍隊の内務班的な空間で相当

徹底的に武道の訓練を課したところが,日本国

内の大学と相違するところだった。

 これに対して学科のほうは熱心に行われたも

のの試験制度がなかったため,大きな印象は残

っていない,と中も述べている。中がそのご社

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建国大学時代の井口一郎

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会学者として仕事をしたためか,社会学につい

ての思いでが記されている。

 「創設期の委員のなかに,例えば社会学は不

必要であり,国家学で足りると考えるものがあ

ったそうであるが,その国家学にしても,作田

副総長の担当したそれは,自己の国家観を開陳

し,道義的国家論を精神訓話として講じるとこ

ろに,その特徴があった。それは,満州や日本

の国家の現実を世界的な比較史観点から科学的

に認識し,批判的考察を加えるものとは決して

いえなかった」31)

 この「社会学批判」は興味深い。マルクス主

義の側も,史的唯物論があれば社会学は不要で

あるという,認識が一部にあった。スターリン

主義下のソ連や,改革開放以前の中国,それに

日本のマルクス主義者のあいだにも,こうした

認識は存在したのである。この「左右」双方か

らの社会学観は,いずれも非科学的で,「精神

訓話」的とかたずけるのは,たやすいが,それ

が,書物や学校を支配した時代であった。

 当時,建国大学で社会学を担当した江藤則義

助教授は,「民族協和の理念と,現実の極端な

ギャップを現実の政治,経済,社会の面で強く

見せつけられ」たり,「幾度か,現実に根ざす

満(漢)系学生の現実批判」32)に出くわして困

惑している。江藤は,戦後,京都にかえり同志

社大学の社会学科の建設に貢献し,研究業績の

面でも,「全体社会を対象とする社会学の樹立

のために」33)と見解をのべている。この「全体

社会」論は,敗戦直後の社会学(とくに関西)

の一種の流行で,社会学がヨーロッパ流の哲学

から分離し独自の学問体系にかたまってゆく上

でのプロセスではあったが,建国大学での「精

神訓話」的な国家論を清算するためにも不可欠

な作業であったのかもしれない。

 江藤はまた社会主義国と西側の制度,社会を

比較する論文など,建国大学の体験を生かす研

究にもおよんでいる。

5.コミュニケーション学の教育

 さて,井口が赴任した 1943年は,すでに第

1期生とは,卒業で直接関係なかったようだが,

学科の同僚にもなかなかの人材もいた。江藤も

そのひとりだろう。森信三も愛知県の知多半島

にうまれ京都帝国大学哲学科卒業と前後して建

国大学に 6年間教鞭をとっている。戦後,教育

関係の大学に着任し,多数の教育関連の著書,

論文を発表した。森の教育哲学は,「人生に 2

度なし」という信条から,東西の世界観の切り

口を追及するなど独自の思想を広めた。とくに,

自身の体験から青年層につよく訴えるものがあ

ったとされる。建国大学時代に敗戦を迎え,ソ

連軍に連行,シベリアへ強制労働キャンプ送り

になる寸前,建国大学生だった白系ロシア人に

救われたという。建国大学に在籍したロシア系

の学生が,侵入してきたロシア軍によりその後

の運命が過酷だったことを考えるとこの救出は

稀有の機会だったといえる。

 森の教員生活は必ずしも洋洋,波にのってと

いうわけでなかったかもしれないが,建国大学

の 6年間をはさんだ時代の荒波がその学問の土

台に独自の学風をうみつけたことは疑いない。

学問の方法論とは別に,国家論,民族論,デユ

ーイ批判,独自の道徳・倫理観など,満洲での

生活が影を落としているといえる。

 井口一郎はどのようなポストであったのだろ

うか。井口の自筆の経歴書では,「国際政治」

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

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「新聞政策」が学部の担当授業となっているが,

別の資料34)では,「弘報論」も担当した。この

科目のもつ意味は大きい。建国大学が井口を満

洲に迎えた深い背景をにおわせる。

 満洲では,1936年に「満洲弘報協会」を設

立した。単なる PRの団体ではない。

 満洲弘報協会は,「政府は新聞,通信その他

弘報事業の健全なる発展」を期して満洲国の勅

令をもって設立された。その仕事は「国論の強

化拡充を計り,必然的政策として国内言論の統

制を実行」することだとしている。協会の資産

は,満洲国政府が巨額な全額出損の独自の法人

組織で,「在満各種新聞の整理工作」を実施す

ることだった。この新聞の統合整理は日本国内

における「同盟通信社」(1936年)の発足と期

を一にするもので,新聞整理の歩調は満洲のほ

うが早かった。日本国内では,「日本新聞連盟」

(1940年)によって新聞の言論報道統制,編

集・経営への干渉,新聞用紙その他資材の割り

当て配給が実現してゆくが,満洲のほうが速度

がはるかに急だった。

 弘報協会設立当初は日本語では『大新京日

報』(のちの『満洲新聞』,新京)など 4社,満

文(漢字)では『盛京時報』(奉天)など 2紙,

朝鮮語の『満蒙日報』(後,満鮮日報』),それ

に英文のマンチュリア・デイリーニュースの 8

社であったが次第に増加した。協会は,買収,

廃刊,統合などの方策によって整理をすすめた

のである。その主動輪になったのが「満洲国通

信社」(「国通」)である。

 「国通」は日本の「電通」「聯合」の 2社の権

益を統合・継承してうまれた強力な国家通信社

であった。そのちからによって,「弘報協会」

も,言論統制もすすめられた。

 このように,満洲における「弘報」論は,井

口にとりまさしく,東京帝大の新聞研究所で研

究してきたドイツの新聞・言論統制そのもので

あった。もっとも,「満鉄弘報課」という役職

があり,そこではアメリカ流の PR業務を実施

しているので,「弘報」論はコミュニケーショ

ンまたはマス・コミュニケーションの骨格を意

味していたかもしれない満洲の現実から吟味が

必要だろう。それも,井口の得意の守備範囲で

あったが,巻末で検討しておく。それはまた,

日本にいる間に身をもって体験した新聞社の統

廃合の政策問題であった。井口が記者生活をお

くった『大阪時事新聞』も『大阪新聞』に吸収

され,おおくの記者が職を失うことになった。

井口の退職がこの新聞統廃合と直接関係あるか

どうかはまだ分からない。そして満州で活躍す

る新聞人のなかにはいかに知人が多かったこと

か。 

 なによりも,井口が赴任したときはすでに転

出していたが,弘報協会を指導した辻政信は石

川県出身の同年代,明治 35年生まれである。

(井口は 34年生まれ)ジャーナリスト出身の教

員もいた。一例が橘撲である。早くから中国大

陸に渡り,『遼東新聞』『満洲評論』などを経営,

独自のアジア論を展開,その王道論は石原莞爾

に影響をあたえたとされる。橘は「満鉄赤化事

件」の責めを負ったり,病弱であったため井口

とは深い関係はなかったかもしれないが,先輩

ジャーナリストとして脳裏にあったろう。井口

より若いジャーナリストとしては,『中外商業

新報』の記者であった天沢不二郎がいた。

 井口は着任の 1年後,大学院にあたる建国大

学研究院の総合研究部副部長に昇格しており,

かれが望んだ研究生活がスタートすることにな

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る。

 さて「弘報」論を当時の文書から検討してお

く35)。

 井口が大学で担当した「弘報論」について一

言ふれておきたい。近年,組織体から外部への

情報提供について,広報,公報,宣伝,扇動,

PR,パブリシテイ,IRなどおおくの概念が形

成され,それぞれの性格,意味,機能等につい

て議論されてきている。それでは,建国大学の

「弘報論」にはどのような特徴があるのであろ

うか。

 当時の満洲国での文書をひもといてみたい。

 満洲国の中央行政機構には,総務庁の下に官

房,企画處,主計處などとならんで,弘報處が

おかれていた。その管掌事項として「弘報機関

の監理,宣伝の連絡統制,情報を蒐集整備」な

どをあげている。とくに,新聞,通信,放送,

映画等のメデイアの指導,動員,教育に力点を

おいているように,たんなる情報提供のような

スポークスマン的な役割でなく,「情報局」の

仕事であった。ここでも,弘報處長・武藤富雄,

地方處長・菅太郎と東大法学部卒のいずれも治

安畑をあるいてきた官僚を配置し,言論人では

なかった。

 弘報處に対応する「民間」の機関が満洲弘報

協会で「国論の強化拡充を計る必然的政策とし

て国内言論の統制」を実行したのである。建国

大学の「弘報論」もこの脈絡のなかで理解する

必要がある。

注        1)この論文では,ふたつの文化,「国家」,時代,体制を縦断しているため用語法について定義しておきたい。まず漢字表現,時代縦断の間

に日中,ともに文字改革がなんどか実施された。このため,中国では繁体字から簡体字へいくどかののプロセスを経て移行した。また日本も略字化がすすんだ。したがって「満洲」の 場 合,「洲」に 統 一 し た。「州」と「洲」では意味が異なるからであるが,固有名詞,人名など特別の場合をのぞき,現代の日本語をつかう。また,地名は歴史的用語として新京とするも,現代の長春も表示し,読者の理解に資した。年号は特別の場合を除いて西暦とする。本論の主題である「建国大学」も「建國大學」だが,現代の用語で統一する。

2)中見立夫「歴史のなかの“満洲”像」『満洲とは何だったのか』2004年,藤原書店,14

ページ3)『満族大事典』1990年,遼寧大学出版社,

794ページ4)これらは新中国成立後,「満族自治県」等に再編されており,中国の東北を中心に各所にあるが流動的である。

5)満洲,満洲国などいずれも歴史的用語であり,山室信一が『キメラ ― 満洲国の肖像 ― 』(増補版,2004年,中公新書)320―324ページのなかで,日本における諸説を整理している。江戸時代以降,女真人(ジョルチュン)その他のこの地域に住む先住民族との交流,知識を通じて形成されてきたことばのようである。

6)「民族」の概念等については本論の主題でないので,これ以上立ち入らないが,「文化増」についての理論的な言及は,田村紀雄・白水繁彦共編著『米国初期の日本語新聞』1986

年,勁草書房等を参照のこと。7)満洲国も「現世楽園」「凡そ新国家領土内に在りて居住する者は皆,種族の岐視,尊卑の分別なし」「長久に居住を願う者もまた平等の待遇を享くる」と宣伝した。日本国内では考えられない思想であった。

8)富永孝子「“実験場”にされた『満洲』の天

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東京経済大学 人文自然科学論集 第 127 号

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国と地獄」前掲『満洲とは何であったのか』455ページ

9)「移民」については,多くの拙著でふれている。以下,その事例。

  『海外の日本語メデイア』2008年,世界思想社。『エスニック・ジャーナリズム』2003年,柏書房,本書は東京経済大学の出版助成金で上梓された,著者の博士論文。『カナダに漂着した日本人』2002年,芙蓉書房出版。『海外へユートピアを求めて』(編著)1989年,社会評論社。

10)これらの作家のうち,難波,貴司,小林らすくなからぬ人達が,その後プロレタリア文学など,左翼作家として活動するのは興味深い。

11)『大阪時事新報』1934年 1月 31日,インターネット検索データ

12)『地方別 日本新聞史』昭和 31年,日本新聞協会,308―309頁

13)塚瀬進著『満洲の日本人』2004年,吉川弘文館,14ページ

14)草柳大蔵『実録 満鉄調査部・上』昭和 54

年,朝日新聞社,13ページ15)日本人が“馬賊,匪賊”とかたづけていた武装集団には,犯罪的な集団もいたが,多くは土地を喪失したりした農民であった。馬賊がわからの文献はすくないが,王魁喜,朱建華他著,志賀勝訳『満洲近現代史』1988年,現代企画室,はこの反抗側からの書物である。訳者の志賀もいうように,本書は満洲における「中華民族」が漢族中心であり,ホジョン(ナナイ),オロチョン,エベンキといった「漁撈・狩猟経済なのだから下位にランクされる。つまり『中華民族』とは,漢人を頂点とした垂直的な序列型体型にほかならない」(316ページ)と指摘している。本書では,反抗・抵抗集団に間島等での朝鮮人武装闘争の記述はみられるが,満洲の先住民族たる少数民族が抜け落ちている。現代中国の体制的,思想的なアキレス腱である。

16)李相哲『満州における日本人経営新聞の歴

史』2000年,凱風社,82ページ17)宮沢恵理子『建国大学と民族協和』1997年,原書房,297―302ページ

18)河田宏『満洲建国大学物語』2002年,原書房,35ページ

19)宮沢恵理子『建国大学と民族協和』1997年,風間書房,84ページ

20)「同じ釜の飯」という表現をする関係者が多いが,食事の内容は日本人が米飯を食していたとき,満人は高粱だったという話も伝えられている。

21)河田宏,前掲書,153ページ22)西宮紘「後藤新平の満洲経略」前掲『満洲とは何だったのか』229ページ

23)前掲,田村紀雄著『海外の日本語メデイア』のなかで,日本語,とりわけ日本人・日系人(日本人を祖先とする二世,三世)の概念はその所有するアイデンテイテイの重さを詳述した。

24)岡村敬二「戦前期中国東北部刊行日本語資料の書誌学的研究」京都ノートルダム女子大学人間文化学科ホームページ

25)河田宏『満洲建国大学物語』前掲,102ページ

26)中久郎「『民族協和』の理想 ― 『満洲国』建国大学の実験 ― 」戦時下日本社会研究会著『戦時下の日本:昭和前期の歴史社会学』1992年,行路社,83ページ,建国大学のカリキュラムなど教育関係の記録はすくないので,中久郎の戦後の大学教師としての眼からみたこの論文は貴重である。

27)同上28)宮沢恵理子『建国大学と民族協和』1987年,風間書房,101ページ。本書は建国大学を最も包括的に研究したものである。

29)内海義夫は桃山学院大学に後年勤務したおり,筆者は交流があった。

30)井口一郎の遺族からの聞き書き。建国大学の官舎で少年時を過した長男をはじめ遺族からは多くの聞き書きで協力を得た。

Page 16: 建国大学時代の井口一郎 - repository.tku.ac.jp€¦ · 覇権確立で終わった。井口がこの報道合戦で新 しい人間関係,満洲の情報,大陸への関心をえ

建国大学時代の井口一郎

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31)中久郎,前掲書,93ページ32)江藤則義『運命の転換』1979年,三優社,

116ページ33)江藤「社会学の全体的総合的対象としての全体社会(Community-the whole integral object

of sociology)」『人文学』1951年 1月,同志社大学人文学会,1ページ

34)『満洲紳士録』4版,1943年 11月,東京満蒙資料協会(復刻版)によると,井口は弘報論も担当したとある。弘報論が Public Rela-

tionsのようなものを意味しているとすれば,日本国内には少ない講義課目であるが,満洲には「満洲弘報協会」(理事長・森田久満洲国通信社=略称「国通」)が設立されていた。この関連で考察する必要がある。国通にいた職員の相当数が戦後,旧同盟通信社系の企業(例えば共同通信社)に移籍している。

35)近年,「広報」に関する研究の整理がすすんでいる。たとえば,渾金沢聡広・佐藤卓巳共編『広報・広告・プロパガンダ』2003年,ミネルヴァ書房