32
新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野) 2013 年度 卒業論文概要 谷口 弘幸 『あしたのジョー』と戦後東京 .............................. 1 松尾 美華 フランスにおける日本のサブカルチャー受容 ―Dessin animé Japonais(デッサンアニメ・ジャポネ)の受容 形態の構造と生成― ......................................... 2 山崎 綾夏 韓国ファッション誌論 ....................................... 3 阿部 佐和子 WICKED 論 ................................................... 4 池田 かすみ 広告におけるインターテクスチュアリティ ..................... 5 石塚 未聖 1920 年代~1940 年代ディズニー映画における音楽の機能 ......... 6 出塚 望里 女児向けアニメーションにおける表現の自由 ................... 7 石見 芽里 現代日本メディアにおける女性の言葉遣い ..................... 8 加藤 美沙希 よしもとばなな論 ........................................... 9 川村 絢乃 Web 漫画という媒体について ................................... 10 木亦 穂高 イメージ広告の記号論的研究 ................................. 11 後藤 彩 新海誠作品における風景 ..................................... 12 佐藤 ちはや ゆるキャラ論 ............................................... 13 佐藤 夏樹 アメリカ映画における黒人差別問題 ........................... 14 佐藤 里紗 「サブカル系女子」の SNS における自己表現 ................... 15 高野 真行 日本の公共広告における表現とメッセージ ..................... 16 高橋 美帆 現代の女性写真家の作品における被写体と撮影空間 ............. 17 高原 美希 『トイ・ストーリー』シリーズを中心としたディズニー/ ピクサー映画分析 ........................................... 18 永井 静 ヘッドレスヒロイン ―『デュラララ!!』の世界に登場する顔の無い美少女― ....... 19 平岡 真緒 京都の地域イメージ ―森見登美彦作品の分析― ................................... 20

新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

  • Upload
    others

  • View
    37

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

新潟大学人文学部・人文学科

メディア・表現文化学プログラム

(表現文化論分野)

2013 年度 卒業論文概要

谷口 弘幸 『あしたのジョー』と戦後東京 .............................. 1

松尾 美華 フランスにおける日本のサブカルチャー受容

―Dessin animé Japonais(デッサンアニメ・ジャポネ)の受容

形態の構造と生成― ......................................... 2

山崎 綾夏 韓国ファッション誌論 ....................................... 3

阿部 佐和子 WICKED 論 ................................................... 4

池田 かすみ 広告におけるインターテクスチュアリティ ..................... 5

石塚 未聖 1920年代~1940年代ディズニー映画における音楽の機能 ......... 6

出塚 望里 女児向けアニメーションにおける表現の自由 ................... 7

石見 芽里 現代日本メディアにおける女性の言葉遣い ..................... 8

加藤 美沙希 よしもとばなな論 ........................................... 9

川村 絢乃 Web漫画という媒体について ................................... 10

木亦 穂高 イメージ広告の記号論的研究 ................................. 11

後藤 彩 新海誠作品における風景 ..................................... 12

佐藤 ちはや ゆるキャラ論 ............................................... 13

佐藤 夏樹 アメリカ映画における黒人差別問題 ........................... 14

佐藤 里紗 「サブカル系女子」の SNSにおける自己表現 ................... 15

高野 真行 日本の公共広告における表現とメッセージ ..................... 16

高橋 美帆 現代の女性写真家の作品における被写体と撮影空間 ............. 17

高原 美希 『トイ・ストーリー』シリーズを中心としたディズニー/

ピクサー映画分析 ........................................... 18

永井 静 ヘッドレスヒロイン

―『デュラララ!!』の世界に登場する顔の無い美少女― ....... 19

平岡 真緒 京都の地域イメージ

―森見登美彦作品の分析― ................................... 20

Page 2: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

藤田 里佳 シットコムから見る韓国

~『ハイキックを中心に』~ ................................. 21

古川 有希 橋本紡論 ................................................... 22

松田 香澄 井上ひさし論 ............................................... 23

山田 玲央奈 ファッション雑誌から見る個性 ............................... 24

伊藤 樹里 桜庭一樹論 ................................................. 25

伊藤 拓生 小説とノベルゲームの差異

-村上龍原作『五分後の世界』を中心に- ..................... 26

亀倉 佑美 日韓アイドル比較論

~プロモーションの観点から~ ............................... 27

引田 翔子 『ことりっぷ』から考える「女子旅」 ......................... 28

本間 陽大 ゆるキャラ論

~ゆるキャラの台頭と氾濫~ ................................. 29

吉田 美緒 カワイイ文化研究 ........................................... 30

Page 3: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

1

『あしたのジョー』と戦後東京

谷口 弘幸

講談社『週刊少年マガジン』より 1967 年、漫画『あしたのジョー』の連載は開始され

る。本論文ではこの物語が東京の中でも、とりわけ異質な場所「山谷」を中心に描いてい

ることや登場人物、時代を手がかりとし、主人公である矢吹丈が抱えた孤独について考察

している。また物語内にある「泪橋を逆にわたる」というテーマにも焦点を当て、一匹狼

矢吹丈は泪橋を逆にわたることに成功したのかについても言及することを目的としている。

第一章では『あしたのジョー』が原作者である梶原一騎と、漫画家ちばてつやの二人が

手掛けた作品ということに注目し、梶原の原作が持つ骨太な設定をちばが幾つもの創作や

原作には登場しないキャラクターを加えることによって、梶原的でもちば的でもない『あ

したのジョー』が構成されていることを確認した。

第二章では『あしたのジョー』のあらすじを説明した後、物語の舞台である戦後山谷に

は、経済成長を続ける日本を影で支えた労働者の姿と、歴史的に続く不遇が存在していた

ことを指摘し、山谷が日本の最下層の場所であるからこそ、悲しい境遇を抱えた矢吹が昇

り詰めていく過程はより読者に説得性があるとした。また物語の「泪橋を逆にわたる」と

いうテーマが生まれたのもこの山谷であり、終始作品内に山谷は影響を与え続けている。

第三章ではそれぞれの登場人物について言及している。主人公の矢吹丈は梶原作品に多

く見られる孤児という辛い過去を背負い生き、一人孤独と闘いながら成長を続けていく人

物である。そんな彼をトレーナーである丹下段平が親代わりとして愛情を注ぎ、これ以外

の人物も矢吹のもつ孤独に接触を試みている。しかし矢吹の生まれながらにしての孤独と、

自らの手でライバル力石徹を殺めてしまった悲しみは誰によっても解決するには至らず、

この同じ境遇を味わう者の存在がいないことが、矢吹の心に深く根を張る孤独に結びつい

ていると考察した。

第四章では戦争を経験した昭和という時代に『あしたのジョー』が連載されたことに着

眼し、戦争という抑圧された環境が戦後のスポーツブームや、中でも格闘技の隆盛に影響

したとしている。その格闘技には必殺技なるものも編み出され、『あしたのジョー』にも

多くの必殺技が登場している。ここでは矢吹の試合内容について考え、矢吹が繰り出して

いた必殺技が「泪橋を逆にわたる」をそのまま体現した闘い方であると仮定し、矢吹がそ

の闘い方を封印したことによって、矢吹自らが泪橋を逆にわたることを拒否したと論じた。

歴史的に暗い影をもった山谷で、生まれつきに逆境を背負った矢吹は世界チャンピオン

に挑戦するまでの実力を手に入れ、名声を得ている。だがその栄誉は彼に携わった人物た

ちに託し、矢吹自身はライバルの死と向かい合いながら孤独に闘い続けている。国民が自

由に生きることが許され、若者であれば青春を謳歌していたであろう時代の中で、燃え尽

きることによって孤独から脱することこそ矢吹が望んだものとし、本論文の締めとした。

Page 4: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

2

フランスにおける日本のサブカルチャー受容

―Dessin animé Japonais(デッサンアニメ・ジャポネ)の受容形態の構造と生成―

松尾 美華

フランスでは 1970 年代初頭に日本アニメがテレビで放送され、『UFO ロボグレンダイ

ザー(仏題:Goldorak)』(1978)は当時の大人気作品となった。フランスは世界の中でも日

本のアニメが紹介されたもっとも古い国であり、日本のコンテンツ人気が最初に高まった

国である。フランスでは日本製アニメが安価だったために、フランスのテレビ局がアニメ

を大量購入、放映し、大衆に広まったとされている。このテレビ局による大量放送によっ

て日本製アニメがフランスで人気を得たのだろうか。本稿では、定説では語られていない

不足点を明らかにし、新しい視点からフランスでの日本アニメ受容を考察することを目的

とした。

第 1 章では、これまでの定説をふり返り、特定の対象を繰り返し経験するだけでその対

象に対する好感度、愛着、選好性などが増大する効果「単純呈示効果」では説明がつかな

いことを示した。

第 2 章では、フランスで起こった日本アニメ批判を説明するために価格や量以外につい

ても目を向けた。日本とフランスでの人気アニメ作品を比較考察したところ、フランスで

放送された日本アニメはフランス人の価値観に相応しくないものが排除されていたのだと

思われた。また、フランスで人気を得られなかった日本アニメについても考察を加えた。

これらは文化や倫理観の差異などの理由からフランス文化に馴染めなかった作品であった。

第 3 章では、第 2 章での考察を受けて、フランスで人気の日本アニメには特定のジャン

ル(アクション、SF、アドベンチャー)が含まれていることを明らかにした。これらのジ

ャンルが好まれるのは、フランスの SF 小説の歴史やハリウッド映画の流入による影響が

あった。

第 4 章ではさらにフランスの文化的背景からの考察を加えた。フランスで日本アニメ批

判が起こった後、日本の漫画がフランスに流入した。日本漫画の流入によって日本アニメ

の人気が維持できたことを述べ、その後の日本アニメ再人気につながることを示した。ま

た、日本漫画の流入の際には、フランス語圏の「マンガ」=バンドデシネ(BD)がフラン

ス文化に根付いており日本の漫画が受容されやすかったこと、BDなどのフランスの文化

にはすでに日本アニメを受け入れる下地が存在していたことを述べた。以上のフランスの

文化的背景が存在していたからこそ、フランスでは日本アニメが受け入れられたのだと言

える。

さらに近年、フランスでは日本文化の受容だけではなくフランス側による文化的融合も

起こっている。このような日本とフランスのハイブリッド、クレオール化現象は、日々深

化・拡張しており、新たな文化を創造し続けているのである。

Page 5: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

3

韓国ファッション誌論

山崎 綾夏

ファッション誌は流行を生み出す装置、ファッションの教科書として有効なメディアで

ある。特に女性向けのファッション誌の種類は多く、日本の街には雑誌からそのまま抜け

出してきたかのような女の子が溢れている。一方、韓国はファッション誌と現実の間にズ

レがある。ファッション誌とリアルの関係はコンテンツの違いに一因があると仮定し、本

稿では日韓のファッション誌を比較、考察することで、韓国ファッション誌の特徴を探る

とともに、この仮定を証明しようと試みた。

第 1 章ではファッション誌の定義づけとファッション誌に見られる社会的機能について

検討した。その中でも「教育機能」は読者がファッション誌を実生活の参考にする「お手

本機能」を含んでいることを指摘した。

第 2 章では韓国女性雑誌の歴史について述べた。1906 年、『가뎡잡지』 (家庭雑誌)の創

刊とともに、韓国女性誌の歴史が始まった。1965 年に創刊された『주부생활』(主婦生活)

は原色グラビアの導入と雑誌の大型化を図り、その後の女性誌界に大きな影響を与えた。

1990 年代には海外のライセンスファッション誌が導入され始め、主婦向けであった女性フ

ァッション誌の読者が低年齢化した。最後にこのような海外誌の導入は韓国国内雑誌にお

ける独自コンテンツ開発能力の低下を招く恐れがあるとまとめた。

第 3 章からは韓国女性ファッション誌『CeCi』と日本女性ファッション誌『non・no』

『CanCam』との誌面比較を行った。雑誌の構成要素から非言語要素の「レイアウト」と

言語要素の「コピー」を選び、誌面に見られる「お手本機能」を分析した。『CeCi』はど

ちらの要素においても情報量が少なくシンプルであり、文字情報よりイメージを優先して

いた。『CeCi』が見せる手本は一方的で読者と距離がある。つまり、読者が積極的に情報

を活用しにくい誌面構成とコンテンツだといえる。

第 4 章では『CeCi』に登場するモデルを分析し、彼女たちが読者の「お手本」になり得

る存在なのか考察した。『CeCi』で採用されているのは専属モデルや読者モデルではなく、

読者と離れた位置に存在するモデルであった。したがって、彼女たちが読者に伝える情報

は現実的な等身大のものではなく、「お手本」として機能し得ない。

韓国女性ファッション誌が持つ「お手本機能」を探るため、『CeCi』のコーディネート

記事とモデルについて分析した。その結果、日本のファッション誌に比べ、どちらも読者

と距離を生むコンテンツで構成されていることが明らかになった。この読者と雑誌の関係

が「お手本」の効果を妨げ、韓国人のファッションスタイルと雑誌にズレを生じさせる一

因であると結論付けた。

Page 6: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

4

WICKED 論

阿部 佐和子

ブロードウェイのミュージカル『ウィキッド』は 2003 年に初演を迎えて以来、チケッ

トの入手が困難なミュージカルと言われる大ヒットとなり、日本でも 2007 年から劇団四

季による公演が行われている。ストーリーは『オズの魔法使い』の裏話として構成され、

西の悪い魔女エルファバと南の良い魔女グリンダの知られざる友情が描かれている。

力強く人々の心を惹きつける『ウィキッド』の世界の中で、主人公の「西の悪い魔女」

エルファバはとても印象的な存在である。なぜなら原作の『オズの魔法使い』での悪役の

一面的な要素しか持たない「西の悪い魔女」とは全く異なるからである。

第1章では、ミュージカル『ウィキッド』でのエルファバは、原作本の「視点ががらっ

と変わり魔女の立場から物語が展開していく」という点と、ミュージカルというジャンル

に合わせて作られたという点が融合されてできていることを述べた。

第2章ではミュージカル『ウィキッド』までの系譜と題し、ライマン・フランク・ボー

ム『オズの魔法使い』(1900)、映画『オズの魔法使い』(1939)、グレゴリー・マグワイア

『ウィキッド』(1995)、ミュージカル『ウィキッド』(2003)の4作品を紹介し、それぞれ

の特徴を述べた。

第3章では「西の悪い魔女」エルファバの魔女像と題し、『オズの魔法使い』の世界観

からの逆転と、ミュージカルというジャンルとエルファバの結びつきの、2つの大きな観

点に分けて、『ウィキッド』におけるエルファバの描かれ方を説明した。

まず『オズの魔法使い』の世界観からの逆転の項目では、『オズの魔法使い』における

「西の悪い魔女」の描かれ方を具体的に述べ、『ウィキッド』の原作者が主人公をエルフ

ァバにした要因と考えられることについて説明し、この物語に存在する価値観を覆す様々

な仕掛けについて考察した。

次にミュージカルというジャンルとエルファバの結びつきの項目では、それ自体が外に

エネルギーを発散するような明るさを持っているミュージカルというジャンルに魔女の悲

劇である『ウィキッド』のストーリーを溶け込ませるための工夫を、舞台の華やかさ、ユ

ーモア、曲調の3つの要素に分け、具体的に作品と照らし合わせて分析・詳述した。また、

ミュージカル『ウィキッド』の物語に見られる「愛」、「友情」、「善と悪」、「差別」という

4つの大きなテーマについても説明し、ミュージカル独自の脚本も加えられていることを

述べた。

終章では結論として、エルファバは、どのような物事も角度や切り口によって全く異な

って見えるということを象徴する魔女像であり、また、ミュージカルという明るいステー

ジに対応したキャラクターでありつつ、奥深い内面を持つため、観る人の心をつかみ、共

感させる魔女像であると述べた。

Page 7: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

5

広告におけるインターテクスチュアリティ

池田 かすみ

私たち受け手は、広告を見る時、無意識的にであれ自らが持つ外部知識や現実世界の価

値体系を参照してその意味を解釈している。つまり、広告は単独で意味を持って存在して

いるのではなく、他のテクストとそれに対する受け手の知識を前提として存在しているの

である。しかし、広告の中には、そのように他のジャンルのテクストを参照することにと

どまらず、「広告」というテクストタイプを参照し、いわば自己言及するものも存在する。

本稿では、そういった自己言及的な表現が見られる広告に特に焦点を当て、その構造と登

場の背景を探ることで、広告におけるテクスト間の関係性―インターテクスチュアリティ

の特性を明らかにすることを目的とした。

第一章では、まず導入としてテクストについての定義を示した。そして、広告が他のテ

クストとの関係の中で意味を構築しているという点で、クリステヴァの提唱するインター

テクスチュアリティ概念が広告表現においても適用できるとした。そして、本稿で特に注

目する、広告における自己言及的なインターテクスチュアリティについて、難波(2010)の

論を紹介した。

第二章では、広告分析にあたり、記号論的視点から検証することの意義を述べた後、広

告における表現形態を記号論的観点から分析したロラン・バルト、ジュディス・ウィリア

ムスンの二人の研究を紹介し、その課題を指摘した。

第三章では、自己言及的な広告は、個別の要素のみならず、自身のジャンルや語りをも

含めて参照するという点において「物語」を参照する広告と本質的には同じであるという

理由から、石田(2003)の「CM のメタ物語的二重化」の論を紹介し、二重構造の観点で分

析を行っていくと方向付けした。

第四章では、まず、既存の物語を参照する広告に注目し、それは個別の物語の内容を参

照する面と、「物語」というジャンルそのものを参照する面の二つの面を持つことを事例

と照らし合わせて確認した。その後、その観点を応用し「広告」というジャンルに自己言

及している広告を分析し、類型ごとにまとめた。

第五章では、分析を踏まえ、「広告」というジャンルに自己言及する広告を 80 年代に現

れた「メタ広告」と重ね合わせ、それが登場した背景を広告表現の変遷から探った。そし

て、広告の自己言及的な表現の登場は、差異化の限界、つまり広告の表現の飽和がもたら

した事態であるとまとめた。

第六章では、改めて広告の意味作用を振り返り、広告におけるインターテクスチュアリ

ティの二面性と、広告の目的である「メッセージの伝達」における前提となる知識の必要

性をまとめた。本稿では、外部知識の参照という観点から広告を分析したが、自己言及的

な広告の構造を分析することは、メディアの接触が日常世界に埋没する中で、それらの演

出に距離を置き、「広告」を冷ややかに見つめる受け手の姿を掴み取ることにもつながっ

た。

Page 8: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

6

1920 年代~1940 年代ディズニー映画における音楽の機能

石塚 未聖

ディズニー映画は、1910 年代以降に発声映画の原型が確立し始めた当初から、音響演出

の技術的また芸術的発展を先導してきた。それまで劇場内でのピアノ伴奏などにより無声

映画にバックグラウンドミュージックが付けられることはあったものの、ディズニー社が

可能にした映像と音響の完全な同期は、アニメーション映画を人々の視聴覚に訴える斬新

な娯楽形式として飛躍させた。ディズニー社における音響演出の発展は段階的で、1920 年

代、1930 年代の短編映画と、1937 年以降の長編映画とでは明確な差異が見受けられ、特

に音楽の変化が顕著である。ディズニー映画の音楽は、ラジオや CD といった音楽媒体や

コンサートなどを介し今日まで独立した人気を得てきたが、映画表現の一構成要素として

の役割を看過されてはならない。本論では、1940 年代初めに制作されるプロパガンダ映画

以前の初期作品を取りあげ、ディズニー映画における音楽表現の機能を明らかにした。

第一章では、「ミッキーマウス」シリーズと「シリー・シンフォニー」シリーズから複数

の作品を取り上げ、短編映画において模索された基本的な音響効果を考察した。アンダー

スコアとして場面の雰囲気を明確化する音楽や、滑稽なギャグを強調する効果音は、それ

までヴォードヴィルなどに見られた一過性の見せ物としての側面を色濃く残したものであ

る。一方で、物語を展開する記号としての作用や写実的な描写といった新たな語り口も認

められる。また音と音源を同時に捉えるという映画体験が観客に一種の快感をもたらすこ

とを述べた上で、当時スタジオで考案されたバー・シートを用いた音響と映像を同期させ

る方法を参照し、両者が制作の段階から一つのものと捉えられていたことを確認した。

第二章では、『白雪姫』(1937)、『ピノキオ』(1940)、『ダンボ』(1941)、『バンビ』

(1942)を取り上げ、物語映画(長編映画)における音響効果を考察した。描画や脚本の

進歩と同様に音響演出も複雑化し、音楽は背景音楽と挿入歌に区別される。雰囲気の醸成、

時空間の制御、感情の伝達といった音響演出の三大効果を様々な具体例と共に示し、アニ

メーション映画が実写映画と同様の表現を担い得ることを明示した。

第三章では、これまでに考察してきた効果が“感情”を介して観客に認知されていたこ

とを明らかにし、人の精神的領域に訴求力を発揮する音楽と、写実的な描画の相補作用に

より、ディズニー映画独自の非人間の登場人物が信じ得る存在となることを論じた。さら

に、『ファンタジア』(1940)では、音響を記録した痕跡であるサウンドトラックさえ感情

を持つ存在として登場する。その後、『バンビ』に示される通り、音響と映像を極限まで

協働させ感情を生み出す手法が、物語映画に織り込まれていった。

このように、ディズニー映画は高度な音響演出を培うと同時に、アニメーション映画特

有の表現を確立させた。音楽は画面上にあるはずのない感情や雰囲気を編み出し、映画に

信憑性を与えることで、観客の共感を呼ぶことに成功している。しかし、観客はその演出

効果の仕掛けを認識することなく、音楽に備わる娯楽性そのものを楽しむのである。

Page 9: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

7

女児向けアニメーションにおける表現の自由

出塚 望里

女児向けアニメーションは、低年齢層を対象とするため、保護者の期待に適合する倫理

的で健全なコンテンツであることが求められ、それゆえその表現は自主規制によって制限

される。この自主規制は、一見コンテンツの健全性と引き換えに表現の幅を狭めるものの

ように思われる。しかし、実際に女児向けアニメーションの金字塔として人気を博し、以

降の作品に多大な影響を与えた『美少女戦士セーラームーン』シリーズ(1992-1997)を

見てみると、その表現はけして乏しいものではなく、むしろ極めて自由でラディカルであ

る。本論文では、女児向けアニメーションというコンテンツにおいて、強固な自主規制か

ら、クィア性すら孕むラディカルで自由な表現が逆説的にも生まれえることを指摘し、製

作者の意図から乖離したかにみえる表象が肯定するものを明らかにすることを目的とした。

第1章では、女児向けアニメーションの定義を確認し、自主規制による表現の変化の例

としてヘイズ・コードによる『ベティ・ブープ』シリーズ(1932-1939)の変質をあげた

後、厳格な自主規制に基づいて制作された女児向けアニメーション『ふたりはプリキュア』

(2004‐2005)の表現を分析した。自主規制は単に表現を制限するだけでなく、代替表現

を開花させ、性的スペクタクルとして消費されがちな少女が、欲望する視線から離脱する

事を促し得たことを明らかにした。

第 2 章では、『美少女戦士セーラームーン』の変身シーンと戦闘描写に注目した。『プリ

キュア』に比べ過度にエロティックで暴力的な表現は、少女の身体を性的スペクタクルと

して描き出す。しかし、その一方でパワーとしての「美」を肯定することで、男性化した

女性とは異なる「戦う女性」という規範となる新しい女性像を女児らに提示したことを論

じた。

第 3 章では、『セーラームーン』における同性愛、異性装、性転換といった要素をもっ

たキャラクターを取り上げ、クィア性の表象に焦点を当て分析を行った。彼らの逸脱は、

その背景の説明や葛藤の描写なしに描かれ許容される。それゆえ彼らのクィア性に問題提

起は見出し難く、単にキャラクターの描き分けのための記号でしかないようにも思える。

しかし、このある種乱雑と言っていいようなクィア性の描写が、「お転婆」や「男勝り」

なキャラクターがなぜそのような性質を持つのかという説明を必要とせず、ただ自然に

「お転婆」や「男勝り」であるのと同様に、彼らのクィア性もまた彼らにとっての自然で

あることを示し、規範からの逸脱を葛藤なしに許容・承認するのである。

以上のことから、時に過激さを伴う自由な表現が、『セーラームーン』を規範となる新

たなモデルを提示するとともに、その規範を逸脱した存在をも排除せず許容する、多様性

の肯定の物語たらしめていると結論付けた。

Page 10: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

8

現代日本メディアにおける女性の言葉遣い

石見 芽里

「僕は大丈夫だ」「私は大丈夫よ」のように、日本語には男女差が存在する。近年、特

に若年層の男女の間で言葉遣いの中性化が進み、言語の男女差がなくなりつつあると言わ

れているが、小説や漫画といったメディアの世界では依然として女性語が使用されており、

現実とメディアの言葉遣いに大きな差が生じている。本論文では、なぜこのような差が生

じているかについて現実とメディアの二方向から分析し、メディアにおける女性語のあり

方について論じた。

第 1 章では、本論文における女性語の定義を定め、女性語成立の歴史についてまとめた。

現代の女性語は、明治時代に女子学生の間で流行った「てよだわ言葉」が女子学生を表す

言葉遣いとして小説に用いられたことがきっかけで浸透し、戦中期に国民意識を高めるた

め女性語が日本語の伝統として扱われるようになったことで、女性の規範として定着した

ものであることがわかった。

第 2 章では、現代における現実の男女の言葉遣いが実際に中性化しているかについて、

四つの先行研究のアンケート調査結果をもとに分析した。その結果、若年層の女性は「だ

わ」「のよ」といった女性文末詞をほとんど使うことがなく、それらの言葉を使うことに

対し「わざとらしい」「非現実社会の女性登場人物のようだ」と思っていることが明らか

になった。一方で、若いころは女性語を用いていなかった女性も、加齢による考え方の変

化、結婚・出産等での家庭での役割や環境の変化により女性語を用いるようになる「こと

ばの加齢変化」の可能性も示唆された。

第 3 章では、メディアにおける女性語の使われ方に、女性のほぼ全員に女性語を使わせ

る場合と、様々な言葉遣いを用いる女性の中に女性語を使っている登場人物がいる場合と

があることを指摘し、それを「共通語としての女性語」と「キャラ付けのための女性語」

とに分け、それぞれ論じた。「共通語としての女性語」の項では女性語が使われる原因は、

作者が幼少期に触れた女性語を使うメディアによって植えつけられた「フィクションの世

界では女性は女性語を話す」という認識にあることがわかった。「キャラ付けのための女

性語」の項では女性語を話す女性を、母親のような女性、しっかり者・クールな女性、攻

撃的な女性、セクシー・老練な女性、高貴なライバル的存在の五つに分類し、登場人物の

女性らしさの表現として女性語が使われるという女性語の新しいあり方について論じた。

以上の分析により、我々は現実の女性の言葉遣いとメディアの女性の言葉遣いを別物と

して見ており、メディアにおいて女性語は物語への集中や特定の登場人物の人間性の把握

を促すために使われることがあると結論付けた。

Page 11: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

9

よしもとばなな論

加藤 美沙希

よしもとばななは 1987 年『キッチン』でデビューし、現在まで多くの作品を生み出し

続けている作家である。また『キッチン』をはじめ諸作品は世界 30 数カ国で翻訳、出版

もされ、現在まで読み継がれるベストセラー小説となっており、このことからもよしもと

は現代を代表する作家の一人と言えるだろう。よしもとはデビュー以来、作品の中で身近

な者の死など「喪失」の経験から主人公が傷ついた心を回復させていく過程を繰り返し書

いてきた。また、この過程を書くことが作品のテーマとなっている。そして、作品に特徴

的なのはこの過程に夢や幽霊などの異世界的な要素が生じることである。これらの要素は

作品中どのような意味を持つのか、論文ではこの点に焦点を当てて論じた。

第 1 章では、よしもとの物語が通過儀礼をテーマにもつ〈昔話〉的な物語であると指摘

する大塚英志の先行研究について触れた。大塚は主人公が物語の中で繰り返す〈移動〉に

着目し、それに伴う物理的距離が主人公の心理状態をそのまま反映している点を〈昔話〉

的な特徴の一つとして挙げ、さらに主人公がクライマックスで行う大きな移動を〈昔話〉

的な〈死者の救出〉というモチーフであると指摘しているが、本論ではこの点について疑

問を呈した。

第 2 章では、作品のはじまりに設定される「喪失」の役割について『哀しい予感』の分

析を通し、「喪失」が作品中に書かれる同性愛や疑似家族など様々な問題の根底に存在す

るものではないかと推測した。また、心理療法家河合隼雄との対談からよしもとの作品の

読者が悩みを抱えた幅広い年齢の人々であることと照らし合わせ、「喪失」を乗り越えて

行く主人公の姿を書くことで、読者にとっても心理治療的な効果をもつのではないかと考

えた。

第 3 章、第 4 章ではそれぞれ異世界的な要素に着目し作品を分析することで、よしもと

の作品においてそれらの要素が果たす役割を、ユング心理学を参考にしながら考察した。

よしもとの作品では主人公は「喪失」を経験し、心が不安定な状態にあるが、表面的には

それを表わさない。そのため、主人公が心の奥底へと抑圧してきたものが、ある時共時性

を伴って夢や幽霊などのように主人公へと認識できるかたちとなって生じてくる。つまり、

よしもとの作品における異世界的な要素は主人公の心の中から出現してきたものであり、

主人公を自分の抑圧してきた感情に向き合わせるためのものであると言える。

よしもとの作品では異世界的な要素が主人公の心の回復の過程で重要な役割を果たすが、

それは突然生じた非日常な現象などではなく、あくまでも日常において主人公の心の反映

として現れ、自分の心と向き合う機会を与える役割を果たす。主人公はこのことにより、

回復のきっかけを得るが、これは日常の身体的な行為に支えられている。このことからも

よしもとの作品は決して異世界への境界を超えるような〈昔話〉などではない。主人公が

日常を生きる中でいかに立ち直っていくのか、その心理的な過程を丁寧に書いたものであ

り、主人公の立ち直っていく姿の力強さが読者を惹きつけ、支持されるのではないか。

Page 12: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

10

Web 漫画という媒体について

川村 絢乃

Web 漫画とは、インターネット上で公開される漫画のことを指す。インターネットの普

及に伴って 2000 年代に登場した。漫画というメディアは基本的に紙媒体であるため、

Web を媒体とする Web 漫画は、まだ歴史が浅いということもあり、単なる「漫画の例外」

として捉えられやすい。加えて、紙媒体の漫画に関する論考が非常に多く存在するのに対

し、Web 漫画に関する考察は不十分である。本論文では、その Web 漫画に焦点を当て、

とくに漫画の表現という観点から、Web 漫画が持つ可能性について考察した。

第一章では、Web 漫画の特性を明らかにするため、Web 漫画と紙漫画との比較を試みた。

印刷に関する竹内オサムの先行研究と、本という形態に対する泉信行の研究が明らかにし

ているように、紙漫画の表現方法は印刷や本などによる制約のなかで確立してきた。他方、

Web 漫画は紙の束縛を受けることがないが、Web という媒体から新たに制約を受ける。そ

こで、レイアウトや読者の視線などの観点から Web 漫画の特性を見ていった。

第二章では、代表的な二つの Web 漫画の作品分析を行った。まず、作品内に GIF アニ

メーションを使用した場面があるという点から、ONE の『ワンパンマン』を取り上げた。

その場面は決して派手なアクションシーンを狙ったものではない。彼は GIF アニメーショ

ンを先端的な技術として最大限に活用することをあえて避け、あくまでも問題の GIF アニ

メーションが漫画の表現の一つに過ぎないことを強調している。また、同作品はプロの漫

画家である村田雄介によってリメイクされているため、とくに作画の面から、両者の比較

を行った。次に、読者が縦スクロールで読むことに注目しているという点から、HERO の

『堀さんと宮村くん』を取り上げた。そして、彼女は縦に 1 コマずつ漫画を並べて表示す

る形式を採用することで、読者の視野に一度に入る情報量を減少させ、1 コマ 1 コマに集

中させようとしているのではないかと考察した。

終章では、Web 漫画の利点と欠点を挙げた。Web 漫画の利点は、読者の読み方に作者の

意図を反映させやすいことであり、欠点は、紙漫画に比べて読者の自由を制限するおそれ

があることである。また、Web 漫画の社会的な利点は、さまざまな人が漫画の「作者」に

なることを多面的に容易にしたことにあると述べた。

以上の分析から、Web 漫画は多くの可能性を秘めたメディアであるが、作者たちは漫画

の範疇を超えない程度に Web という媒体を効果的に活用する方法を模索するべきであり、

また、読者たちはそれに協力する必要があると結論付けた。

Page 13: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

11

イメージ広告の記号論的研究

木亦 穂高

本論文では、個別的な商品のイメージを用いない「企業イメージ広告」を論文の対象と

し、商品イメージが使われないことによって、企業広告の意味生成にどのような影響をも

たらすのかを記号論的な事例分析を通して検証した。

第一章では、本論の中での「イメージ広告」を「個別的な商品イメージを用いられてい

ない企業イメージ広告」と定義付けるとともに、その成り立ち、変遷についても触れた。

近年、企業広告は増加傾向にあるが、その中でもイメージ広告は一定の割合で制作されて

おり、その要因を明らかにすることを本論の狙いとした。

第二章では、記号論の成り立ち、そしてその後ロラン・バルトによって一般学としてシ

ステム化された「コノテーションの図式」について言及した。記号の学の流れはソシュー

ルとパースによって生み出され、共に現代の記号論、そして 20 世紀以降の知の革命を支

える重要な相互関係を果たしている。ソシュールの「言語」学を社会一般に応用できる学

問として、「記号論」を確立させたのがロラン・バルトであり、彼の提唱した「コノテー

ションの図式」は今もなお記号論的な広告アプローチの根底を支えている。

第三章では、先行研究であるジュディス・ウィリアムスンの「広告の記号論」を紹介し、

その課題を指摘した。広告の意味生成過程とその背景にあるイデオロギーを批判する本書

は、多数の広告事例が取り扱われ、広告の記号論の根幹を網羅した文献ではあるが、個別

的な商品を掲載しない「イメージ広告」の分析がなされていない点、商品の購買促進を前

提とした広告が主で企業広告に関する記述が見られない点から、次章以降の事例分析では

同書の補填、また、より多面的な広告の意味生成の側面に注目し、進めることとした。

第四章では、実際の広告事例を分類分けし、記号論的な観点から分析を行った。分析の

結果、イメージ広告の意味生成における特徴としては、商品以外の記号を強調する点、企

業広告の本質を貫くために世界観を保持する点、また、受け手の解釈の余地が広いために、

広告と向き合わせることで企業理解を深めさせる点の三つが挙げられた。

第五章では、第四章では包括できなかった新たなイメージ広告の側面として、ベネトン

の広告キャンペーンとティーザー広告と呼ばれるじらしの手法を取り上げた。広告事例の

分析により、これらは強いインパクトや、興味深いテーマ、じらしの手法といったアプロ

ーチを通して、受け手により能動的な行動を促進させることが分かった。近年のSNS等

の手軽な情報発信・共有はこうした流れを一層加速させ、イメージ広告の新たな側面を浮

き彫りにさせていると言える。

第六章では、第四章と第五章の広告事例の分析を受けて、本論での結論を明らかにした。

第四章で示した三つの側面に加えて、第五章で見たようにイメージ広告には消費者に解釈

を委ねることで議論を巻き起こし、受け手が自ら広告を展開させていく側面もある。そし

て、それこそがイメージ広告が制作される所以とし、これを本論の結論とした。

Page 14: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

12

新海誠作品における風景

後藤 彩

新海誠(1973 年-)は、2002 年に自主制作映画『ほしのこえ』を公開したことで知られ

るアニメーション作家・映画監督である。彼の作品は、キャラクターやストーリーよりも

背景美術の美麗さに注目される点が特徴的であり、観客は独特の色彩と演出、そしてディ

テールの細かさに圧倒される。一般的にアニメーションはキャラクターが主体であり、背

景はキャラクターの位置情報を伝達するものであるのに対し、新海作品では背景にキャラ

クターが溶け込み、色彩が一体化している。本論文では、新海の劇場アニメーション作品

の背景美術を分析することで、彼独自の描写方法を明らかにし、アニメーションで風景を

描く意味を考察した。

第 1 章では、アニメーターの勤労状況や経済面での実情を把握したうえで、新海の映像

制作体制とそれによって作品に見られる作家性について追究した。業界内では低賃金によ

って長時間労働を強いられる過酷な労働状態と、優秀なアニメーターを育成する環境が不

十分であるといった問題が絶えない。こうした状況下で新海はあらゆる分野の実力者をメ

インスタッフとして起用し、少数精鋭による作品制作の体制を構築することで、監督自身

が各作業工程のスタッフに細かい指示をすることを可能にした。その結果、作品には彼の

作家性が色濃く表れている。先行研究の主張を参考にし、背景美術でメロドラマを語りな

がらもキャラクターの表情や動作が次第に強調されてきていることを述べた。

第 2 章では、作品のカットと実写の比較を通して、実際の風景をどのように描いている

のか明らかにした。新海作品の背景美術は、主にロケハンによって得た数千枚の写真を下

敷きにする方法と、監督や美術スタッフたちが用意した美術資料を参考にする方法で描か

れる。ただ単に写実的な絵を描くのではなく、描き手の主観を取り入れて、場面の温度差

や雰囲気などをさまざまな色彩で表現することが新海の拘りであり、そうすることで観客

は作品を観て風景の美しさに気付き、実際に舞台を訪れて初めて作中に描かれていた風景

との違いを実感する。

第 3 章では、新海作品と他作品の背景美術やキャラクターについて対比することで、作

品におけるキャラクターの重要性を明らかにした。比較対象には劇場アニメーション『図

書館戦争 革命のつばさ』を取り上げ、本作ではキャラクターの個性がストーリーを盛り

上げるうえで重要な要素になっていると指摘した。そして作品をプロモーションするため

には、キャラクターや物語に関連した商品が販売されるのに対し、新海はキャラクターに

必要以上の設定を加えず、美術資料や映像制作過程を観客に提示し、映像と紙面の二段階

で背景美術に込められたキャラクターの個性や風景の美しさ、監督の意図を表している。

新海作品の背景美術は、描き手の主観やキャラクターの心情を加えた色彩表現と演出が、

実写では表すことのできない風景をアニメーションで表現していると結論づけた。

Page 15: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

13

ゆるキャラ論

佐藤 ちはや

「ゆるキャラ」とは地域振興のために利用される着ぐるみマスコットのことである。エ

ッセイストみうらじゅんによって名づけられ、一躍ブーム化した。本論文ではこのゆるキ

ャラという存在と、その背景にある現代社会との関わりを考察することを目的とした。

まず 1 章では、そもそも「ゆるキャラ」とはどんなものかを明確にし、総数や歴史とい

った基本情報を確認し、その上で従来までの商業キャラクターとの差異・特徴を整理した。

次に 2 章では、これまで行われてきた日本人とキャラクター愛好に関する研究、中でも

他の論文に多く引用されていた 2000 年前後のバンダイキャラクター研究所の調査結果に

ついて整理した。同研究所は「日本人がキャラクター好きなのは『キャラクターが無言で

自分のことを見守ってくれる』あるいは『対人間と違い煩わしいコミュニケーションが必

要ない』からである」という結論を出していたが、ゆるキャラとその消費者の関係にはこ

の結論は当てはまらず、ここでゆるキャラそのものが商業キャラクターと違ったあり方、

働きをするのでは、という疑問を投げかけ、以後 3 章以降の考察へ移る準備とした。

ゆるキャラと従来キャラクターとの大きな違いについて、「身体」「コミュニケーション」

「地域性」の 3 点がポイントになると考え、第三章ではまず、身体性について考察した。

ゆるキャラの「ゆるい」外見的特徴から入り、そのゆるさを「かわいい」と感じる原理に

ついてまとめた。次に「かわいい」を生み出すと推察される「着ぐるみ」の肉体について、

「同期」の持つ「リアルな身体の力」を例に挙げながら、キャラクターと消費者や消費者

同士を強く結びつけることができる「いまここにある身体の力」の重要性を主張した。

第四章では、2つ目の「コミュニケーション」の実態について考察した。まず SNS で

行われるなりきりコミュニケーションを例に、これまでの商業キャラクターとは違って積

極的なコミュニケーションがとられていることを述べた。またもう一つのコミュニケーシ

ョンの在り方として、「応援」のコミュニケーションについて言及した。ゆるキャラ同様

「応援」のコミュニケーションが見られるアイドルとの比較考察をし、安西信一の言葉を

引用しながら、ゆるキャラが「ヴァーチャル」な要素と「リアル」な要素を複合した「ハ

イブリット」的存在であり、架空の存在ながら人間に近い形で受け入れられているという

ことをまとめた。

第五章の「地域性」の部分では、一度ゆるキャラ自身から離れ、ゆるキャラが受け入れ

られている現代社会の変化を考察した。1つ目に情報化によって文化の中央集権が崩壊し

「情報論的リージョナリズム」現象が起こっていること、2つ目は国家政策としての「地

域」と「文化」の複合による双方の振興活動が行われていること、ゆるキャラブームの背

景にこの 2 つの社会の流れがあるのでは、ということを指摘した。

以上のことから、ゆるキャラ自身にあった「ハイブリット性」という特殊性と、社会の

流れの合致がゆるキャラ文化確立に深くかかわっていると結論付けた。

Page 16: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

14

アメリカ映画における黒人差別問題

佐藤 夏樹

アメリカ合衆国は、多くの移民によって成立する世界有数の移民国家・多民族国家であ

る。現在では「超大国」と呼ばれるまでになり、世界中から移民を受け入れる自由と平等の

国、というイメージが存在する一方で、今の姿になるまでには複雑な人種・民族間の摩擦

など幾多の紆余曲折があった。そのうちの最たるものが白人による黒人に対する人種差別

問題であり、アフリカ系アメリカ人=黒人が長らく奴隷として白人から酷使・抑圧されて

いたという暗い歴史があることは周知のとおりである。本論文は、こうした黒人差別の歴

史がアメリカで作られた映画にどのように反映しているかを探ろうとするものである。

第 1 章では、南北戦争前後の時代を背景とした『国民の創生』を取り上げ、作中のどの

箇所がどのように差別的であるのかを分析した。この映画は 1915 年、つまり第一次世界

大戦が始まってまもなく公開されたが、20 世紀初頭で公民権運動がまだ影も形もなかった

時代でもあり、内容があからさまに差別的であるとして問題となった作品でもある。

作中で KKK があたかも正義に位置する組織であるように描かれている点、ナレーショ

ン字幕で「黒人に権力を与えるととんでもないことになる」といったニュアンスのことを

述べている点から、グリフィスはまさに自分の考え方(今日の視点からは差別とされる)

が正しいと思って『国民の創生』を制作したのではないかと結論付けた。

第 2 章では、1951 年、つまり第二次世界大戦後ではあるが公民権運動が始まる直前に

制作された『ショウ・ボート』を中心として『コットン・クラブ』(1984 年公開)と比較

しつつ、黒人と白人の結婚・恋愛について、差別性を感じさせるシーンに焦点を絞って分

析し、論じた。『ショウ・ボート』では、見た目や振る舞いには関係なく「黒人であるか

どうか」が重要視されており、逆に『コットン・クラブ』では「黒人に見えるかどうか」

が重要視されているということを明らかにした。

第 3 章では、1967 年、つまり公民権運動後半の時期に公開された『招かれざる客』を

取り上げ、第 2 章とは異なった論点から黒人と白人の結婚について考察した。当時まだデ

リケートな問題であったにもかかわらず、この作品ではタブー視されていた黒人と白人の

結婚という問題に鋭く切り込んでいっている点に注目した。また、公民権運動も終わり、

黒人の社会的な地位が向上した時代に作られた映画『プレイス・イン・ザ・ハート』

(1984 年公開)があえて事実とは少し異なった描き方をし、黒人にとって進歩的な時代に

配慮して差別の色合いを控えめにしていることと比較し、ここから『招かれざる客』の特

徴が鮮明になると指摘した。

以上のように分析することで、映画作品は単にそこに描かれた時代の特徴を表現するだ

けではなく、製作された時代の文化や状況を反映していると結論付けた。

Page 17: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

15

「サブカル系女子」の SNS における自己表現

佐藤 里紗

「サブカル系」とはネットスラングの一つで、メインカルチャーに対し少数派に支持さ

れている娯楽や趣味文化を好む人々のことである。しかし、「サブカル系」と呼ばれる

人々の共通項はそれだけに留まらない。それは他者との同質性よりも自身の個性を重視す

る傾向である。「サブカル系」は凡庸で無個性な存在、いわゆる大衆として見なされるこ

とに不満を抱き、個性的な個人であることにアイデンティティを感じる人々を指している

のである。彼らは前述した性質を持っているからこそ、自らの個性を表現しようと他者に

強くはたらきかけ、個性の表出について工夫を凝らしている。本論文では一般的に自己表

現の幅が広いとされる女子に対象を絞り、「サブカル系女子」の自己表現について分析し

た。

第一章では、「サブカル系女子」の定義と性質を明らかにした。限定した範囲での定義

付けを行って研究対象を絞ったのち、若者の人間関係において SNS がどのように作用し

たのかを確認した。

第二章では、彼女たちが SNS 上で自己表現しているという実例を踏まえ、文字、写真

による自己表現を分析した。「徹底的に個人情報を隠し、自作のポエムをプロフィールに

している」ことや、写真に生身の人間を写さない「同化・反復」の構図、過剰に加工され

た「自撮り」などの特徴を指摘し、それぞれの意味作用を考察した。

第三章では、二章で分析した具体例とインタビュー内容を踏まえ、「サブカル系女子」

の本質に迫った。彼女たちが多元化自己モデルを持ち、コミュニティ別にアカウントとキ

ャラクターを使い分けていることを明らかにし、SNS 上で自己表現するだけにとどまらず、

「現実とは異なる自分」をも創作していたことを示した。

終章では、第一章から第三章で述べた内容を踏まえ、「サブカル系女子」の自己表現が

自己実現に繋がっていることを示した。彼女たちは本質的な個性を備えた「本当の自分」

に強い理想を抱き、他者にその存在を認めてもらおうと、また「本当の自分」が存在して

いるという実感を得ようとしている。彼女たちは自己表現を通して、「本当の自分」(=個

性的な「理想の自分」)を構築していたのである。このような表現活動を介して構築され

た〈自己〉の継続には、SNS という場が不可欠であった。いつでも、どこにいても、気の

向いたときに表現者になれるという利便性、評価がリアルタイムで行われるという即時性、

全員が素人で誰もが参加者になれる平等さを備え、順位がつかない非競争型の SNS は、

他者と比較されて傷つく心配が少ない安全な承認装置なのである。こうした場で〈自己〉

を構築することで、現実世界においては不可避な、時間的・空間的断絶という障壁が取り

去られ、時と場所とを問わず〈自己〉を継続できるのである。

「生身の自分」を徹底的に隠し、理想の〈自己〉の存在を他者に示そうとする自己表現

は、彼女らの〈自己〉への視線を意識化し、彼女たちが〈自己〉を見つめる契機になって

いるのである。

Page 18: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

16

日本の公共広告における表現とメッセージ

高野 真行

公共広告とは、特定の商品や広告主の宣伝ではなく社会啓発を目的とする広告である。

日本における公共広告はどのような固有のテーマと表現手法を持ち、どのオーディエンス

に対して発せられるのか。そしてそれはどのような「公共性」を内包するものなのか。本

論では、この問いを明らかにすることを目的とし、対象として社団法人 AC ジャパン

(旧・公共広告機構)の制作した公共広告を取り上げた。

第 1 章では、植條則夫著『公共広告の研究』(日経広告研究所、2005 年)の記述を基に、

AC ジャパンの活動制度と広告のテーマについてその内容をまとめた。AC ジャパンは

1971 年の設立以来、民間企業からの寄付と参画、マスメディアからの出稿時の援助を受け

ながら運営されてきた。広告制作は、団体内部からの発案と一般人へのアンケート調査の

結果が基盤となり、政府側の意見は一切入らないことが分かった。諸外国の公共広告では

政府機関が広告主となり、政府の政策に準ずるテーマを取り上げることが多く見られるの

に対し、AC ジャパンでは政策の宣伝が避けられており、広告のテーマを年度別に集計す

ると、電車や街でのマナー・ゴミ問題・地球環境の保護・省資源・児童や障害者の保護・

親子関係・いじめ問題・病気への認識・団体の活動支援などが主なテーマとして取り上げ

られていることが分かった。以上の指摘から、AC ジャパンが活動制度とテーマの両面に

おいて政府との関係を持たない、純民間的な広告活動を行っていることが明らかとなった。

第 2 章・第 3 章では、1981〜2012 年度に AC ジャパンが全国規模で放映した CM 群を

対象に、映像における視覚表現の様式について年代ごとにみられる傾向を分析し、考察を

加えた。この際、出演者によるメッセージの権威づけ・問題状況と解決策の直接描写・視

覚的な修辞技法の適用という 3 点を観点とした。まず 1981〜1995 年度では、日常生活に

即した状況設定のもとで、公共空間のマナーを乱す行動が問題として提示され、理解を促

すための比喩表現や、有名人の出演による権威づけがそこに追加されるという広告構造が

みられた。特に芸能面における有名人がこの時期には多く登場しており、政治色の希釈と

いう特徴がここにみられる。1996~2005 年度には、現実性を排した状況下で、独自の視

覚表現と被害の描写を前面に押し出す様式が新たに登場した。この様式は「公共」に対す

る問題意識を強調する反面、その問題の所在をあいまいにする効果を併せ持つと考えられ

る。そして 2006~2012 年度では、有名人や修辞に頼らず、日常生活に即した状況設定の

もとで、問題解決の行動を提示する様式が多用されるようになった。この時期の広告にお

いては、目の前の他者との助け合いを促すような形で行動が要請されており、顔の見えな

い他者や公共空間に対する行動、すなわちより広いレベルの「公共」への貢献は捨象され

ている。

広告分析の結果を受け、終章では齋藤純一の論を借り、AC ジャパンの広告に反映され

る「公共性」には、その語り手や受け手の視点が極めてあいまいに示されており、「公共」

を討議しようとする方向付けが失われていることを問題として提示した。

Page 19: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

17

現代の女性写真家の作品における被写体と撮影空間

高橋 美帆

日本では 1990 年代の女性写真家ブーム(「ガーリー・フォト」)を契機に、男性中心であ

った写真の分野で女性写真家の活躍が目立つようになってきた。1990 年代における女性写

真家の登場は一過性の消費文化として論じられ、それ以降の時期にあたる 2000 年以降の

女性写真家の作品とは区別して語られることが多い。しかし、現代の女性写真家の作品は

1990 年代の作品を発展的に乗り越えたものとして捉えることができる。本論文では、長島

有里枝、蜷川実花、梅佳代、林ナツミの 4 名の女性写真家の作品を取りあげ、作品におけ

る被写体と撮影空間に注目して分析を行った。それにより、1990 年代以降の女性写真家が

その特徴を受け継ぎながらも発展的にそれを乗り越え、多様化しているものだということ

を明らかにすることを目的とした。

第一章では、1990 年代のブーム当時に登場した女性写真家として、長島有里枝と蜷川実

花を取りあげた。長島については、被写体に対して観察的な視線を向けており、その対象

がセルフヌード形式による自分自身から身近な他者、さらには彼らのいる空間へと移り変

わるに伴って、撮影空間の範囲が変化していることを指摘した。蜷川は、開放的な空間で

はクローズアップを使用し、また、スタジオ等の閉鎖的な空間では撮影空間を徹底的に作

りこんでおり、作品内の空間や被写体を自在に操作しているとした。

第二章では、梅佳代と林ナツミの作品を分析することで、2000 年以降の女性写真家につ

いての考察を試みた。梅は街中で出会った通行人や子ども達など、親密な関係にはない他

者を被写体とし、彼らの属するコミュニティを自在に行き来することで、彼らのコミュニ

ティの一員としての立場から撮影を行っている。また、被写体が家族の中の特定の人物の

場合、作品内で特定の構図やポーズ、場面を反復あるいは並列することで、普遍のキャラ

クターとして見せている。林は、公共空間におけるセルフポートレイトという形式、ジャ

ンプという行為により、自らを日常的な風景における異化的な存在とし、作品内で意図的

に演出された決定的瞬間と偶然に基づく決定的瞬間が混在していることを指摘した。

第三章では、飯沢耕太郎の「男性原理」「女性原理」論を批判的に捉え、1990 年代の女

性写真家への評価がそのような原理に当てはまらない側面を持つことを指摘した。また、

1990 年代と 2000 年代の女性写真家の作品を比較することで、相違点に加え類似点を指摘

し、後者が前者を発展的に乗り越えたものであることを論じた。

以上のことから、1990 年代に身近な場所を舞台に写真家自身や親密な関係にある他者へ

と向けられた視線は、2000 年以降、そのような関係の外側に存在する身近な場所とそこに

属する他者へ、さらには公共空間における不特定多数の他者と、その範囲が拡大している

のだと結論付けた。そして、1990 年代から現代における女性写真家の作品は、被写体や撮

影空間の特徴に関連性が認められることから、区別して語られるのではなく、1 つの流れ

として捉え、再考する意義があることを主張した。

Page 20: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

18

『トイ・ストーリー』シリーズを中心としたディズニー/ピクサー映画分析

高原 美希

ピクサー・アニメーション・スタジオの長編アニメーション映画は、すべて CG(コンピ

ュータ・グラフィックス)を用いて作られている。この新技術の登場は、アニメーションに

大きな影響をもたらした。本論文ではピクサー映画の代表作『トイ・ストーリー』(1995)

を中心に、物語の舞台設定やキャラクターの感情表現と CG の関係を明らかにした。

第 1 章では、キャラクターデザインについて論じた。CG では、本物と見分けがつかな

いほどのリアルな映像を作ることができる。しかしあまりにリアルに描かれたキャラクタ

ーは、どこか不自然であり不気味ですらある。というのは、安定したリアリズムを構築す

るまでにはその表情描写が成熟していないからである。ピクサーは、『トイ・ストーリー』

シリーズのキャラクターをデザインするにあたり、この問題点を考慮し、おもちゃを主人

公に選んだ。おもちゃであるがゆえに思い切ったデフォルメと単純化が可能となり、結果

感情表現は豊かなものになった。一方、脇役の人間は髪、目、肌の質感などをリアルに描

き、不気味な存在感を与えることで、観客のおもちゃ達への感情移入を補強している。こ

うした工夫は『トイ・ストーリー』以外の作品、虫を主人公とした『バグズ・ライフ』

(1998)などでも採用され、ピクサー映画のスタイルの一部となっている。

第 2 章では、『トイ・ストーリー』シリーズが一貫して採用する入れ子式の世界構造と

感情表現の関係について論じた。おもちゃ達は子供の遊びの中でヒーローや悪役など与え

られた役を演じるのだが、子供が見ていないところでは自我を持ち、それぞれの意志で行

動している。それゆえに、理想の自分と現実の自分とのギャップに悩む。物語の中核にあ

るおもちゃの葛藤は演出にも深く関わる。ファンタジックな物語の世界(子供による空想、

TV ゲーム)から日常風景へと引き戻すオープニングの演出は、おもちゃの内面世界を強調

する機能を担っている。常におもちゃの視点から世界を映すことで観客におもちゃが味わ

うスリルを体験させることに加え、シリアスなシーンで歌を流すことにより、それまでの

コミカルなシーンとの違いを明確にして、おもちゃらしからぬネガティブな心情をも印象

的に表出している。

第 3 章では、それまでの分析を踏まえ、ピクサー作品の成功の理由について考察した。

日常の延長線上のような世界で、ファンタジックかつ共感できる物語を展開する、つまり

「驚き」と「現実」をうまく融合させることがピクサー作品の大きな特徴であること明ら

かにした。こうした同社の方針に合致するのは、『モンスターズ・インク』(2001)や『カー

ズ』(2006)が示すとおり、実写との違いが明確であるセルアニメーションではなく、CG

アニメーションである。近年、ピクサーの親会社ディズニーも『ボルト』(2009)『シュガ

ー・ラッシュ』(2012)等でピクサー的な演出を採用しており、ピクサー作品が CG アニメ

ーションによって物語を語る範例として成立していることがわかるのである。

Page 21: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

19

ヘッドレスヒロイン

―『デュラララ!!』の世界に登場する顔の無い美少女―

永井 静

ライトノベルとは、漫画やアニメ・ゲームといういわゆるオタクコンテンツを好む中高

生をターゲットにした小説を指す。本稿で取り上げる成田良悟も、ライトノベル作家のひ

とりだ。彼が 2007 年に発表した作品『デュラララ!!』に登場するヒロイン、セルテ

ィ・ストゥルルソンは、それまで美少女キャラクターが持っていたとされる「顔」を持っ

ていない。それにも関わらず、読者には「かわいい」「かっこいい」といった印象を与

え、シャワーシーンなどの、いわゆる「サービスショット」も目立つ。何故セルティ・ス

トゥルルソンは、「顔」が無いまま美少女ヒロインとして在り続ける事が出来るのだろう

か。本稿ではオタクコンテンツにおける「顔」の役割、更にフロイトやゴッフマンの考察

をもとに、セルティがいかにして美少女ヒロインとして成立し得ているのかを考える。

第一章では、オタクコンテンツにおける「顔」の位置づけを行った。東浩紀は、キャラ

クター消費の広まりが起きたことを背景に「ネコ耳」や「メイド」などの既存の萌え要素

を組み合わせるだけでキャラクターが完成する、つまりはキャラクターの類型化が起きた

と説明している。しかし「顔」はこの類型化には留まらず、作家性や個性を持ち、読者の

批評の場ともなり得る。特に美少女の「顔」はキャラクターの内面へと至るツールであ

り、キャラクターの内面を綿密に描くライトノベルと密接な関係を持つものである。

「顔」は、ヒロインの内面に触れる重要なものなのである。

第二章では、古くから民話などで受け継がれている「欠如から完全を目指す」という物

語構造が、セルティにあたっては「首」を巡って発動していることについて指摘した。そ

のうえで、セルティは自分が非人間の存在であるというスティグマを抱えていることにも

触れ、何故それを魅力的に感じる事が出来るのかについて考察した。ここで取り上げたの

がフロイトによる「メドゥーサの首」という草稿である。読者はセルティに対し、首の切

断に対し去勢不安を感じるが、後にフェティッシュの対象として欲望するようになる。

「欠如」が常に付きまとうセルティは、去勢不安を強く引き起こす力を持つのだ。

第三章では、セルティが他者と対面する顔を持たないまま、他者と関わっていく点に着

目し、彼女が見えない「顔」を持っていると指摘した。セルティと関わる多くの登場人物

たちは、セルティの見えない「顔」を見ることで、彼女とのあいだに信頼関係を築いてい

る。そこで、鷲田とレヴィナスを参照し、顔は可視性から逃れるものであり、それが他者

に「見たい」という欲望を喚起させるのだと結論付けた。

読者はセルティをフェティッシュとして欲望しつつ、その見えない「顔」を見たいとい

う欲望を持つ。このふたつの欲望を反復して経験することで、セルティはヘッドレスヒロ

インとして見る事が出来るようになる。彼女は「顔」がないままで、美少女として成立し

得るのだ。

Page 22: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

20

京都の地域イメージ―森見登美彦作品の分析―

平岡 真緒

森見登美彦は、主に京都府を舞台とするファンタジーを描く作家である。「京都に行き

たくなるファンタジー」と形容される森見作品は、大衆文学作品でありながらファン行動

を多く引き起こしている。特に聖地巡礼は、森見の作品そのものに由来していると考える。

第一章では、聖地巡礼、森見作品について先行研究の分析を行った。聖地巡礼は、主に

テレビアニメ作品に対する行動である。また観光地における聖地巡礼は、ファン間の内的

循環に留まる行為であるとされるため、森見作品にまつわる聖地巡礼の特異性について確

認できた。

第二章では、テクスト分析を行い、その文体やモチーフに森見の表現の特徴を見てとる

ことができた。そしてそれらがこれまでに語られてきた、過去や歴史のメタファー、異界

とつながる場所である京都のイメージを踏襲し、強調していることを述べた。さらに地名

や印象的な固有名詞を多用し、京都における生活のリアルさを表現することで、かえって

物語の非日常性を表現する「魔術的リアリズム」という手法を用いており、それが現実の

京都という街に新たなストーリーを吹き込んでいる点、さらに読者に京都という街を細部

に渡り演出されているテーマパークのように感じさせる効果をもたらす点を確認できた。

また以上のような森見の修辞表現が物語の二次的消費、つまりファン行動を喚起する要因

であると考察した。

第三章では、一節において地図製作、聖地巡礼の二つの行動を分析し、森見作品のファ

ン行動の実態を明らかにした。地図の製作は、読者に物語の視覚的な整理を促し、聖地巡

礼の布石となっていた。次いで、聖地巡礼の実態を、個人ブログの記事を参照することで

明らかにした。ファンは、物語上で事件が起こったはずのその地に、物語との接点を見出

そうために聖地巡礼を行うと考察した。そして、その地で写真の撮影をすることで、ファ

ンが現実と幻想の接点を写真の画枠の中に見出しており、撮影という行為を通し、物語を

「所有」しようとしていると考察した。二節では、出版社がファン行動を促している例と

して『森見登美彦の京都ぐるぐる案内』と『村上レシピ』の比較を行った。ここでは森見

作品にまつわる聖地巡礼はファン間の内的循環に留まらないことが確認できた。両者は、

いかに物語に登場するモチーフを魅力的に写真で見せるかに力点を置いている。そのため、

これらは読者が物語を読む上で抱いていた風景や料理への可視化の欲望を満たし、五感を

使って物語世界を体験することで、ファンを作品の「真の良さ」へと導くための本であっ

た。

これらの分析により、森見作品の読者は、森見作品の作品そのものに現実と幻想の倒錯

を見ることができ、それらを日常の風景に重ね合わせることにより、日常を「森見ワール

ド」というテーマパークに変化させていると結論付けた。ファンは、その中で行動するこ

とにより、物語の真髄を楽しむができるのである。

Page 23: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

21

シットコムから見る韓国~『ハイキックを中心に』~

藤田 里佳

シットコムとは、舞台や登場人物は同じであるが、毎回違う話を取り扱う放送コメディ

であり、シチュエーションコメディの略である。韓国では、毎年数作品が制作され続け若

手アイドルや若手俳優の登竜門になっている程人気が定着しているジャンルである。その

韓国で国民的ブームを起こしたシットコムに『ハイキック』シリーズがある。本論文では、

『ハイキック』シリーズが家族シットコムに分類されている点に注目し、最新作である

『ハイキック~短足の逆襲~』全 123 話を多角的に分析することで、『ハイキック~短足

の逆襲~』のテーマ性を明らかにし、そこから笑いを提供するだけと思われやすいシット

コムのその他の役割について考察した。

第1章では、『ハイキック~短足の逆襲』の概要、登場人物について紹介した。

第2章では、『ハイキック~短足の逆襲』を手法の面から分析した。まず『ハイキック

~短足の逆襲』全 123 話で笑いが起こる部分を取り上げ、パターンごとに例を挙げた。結

果「反転することで起きる笑い」、「予想外の出来事による笑い」、「誇張による笑い」、「勘

違いや間違い、失敗をすることで生まれる笑い」、「模倣による笑い」、「言葉遊びにより生

まれる笑い」、「非常識な行動や言動から起こる笑い」、「風刺により起こる笑い」という 8

種類に分類した。また「笑い」があるストーリーだけでなく、メロドラマを連想させるス

トーリーも織り交ぜられることがある点に触れた。

第3章では、『ハイキック~短足の逆襲~』から見える韓国の日常を考察した。家族シ

ットコムと言われているように「家族愛」の描写を通して、家族の絆を感じさせてくれる

ものである一方で、問題提起の描写がある点に触れた。その例として、はじめに「教師の

権威失墜」を挙げ、『ハイキック~短足の逆襲』が放送された 2011 年にソウル特別市で

「青少年差別禁止条例」が制定され、教師の体罰が禁止されていることや、チョ・ヒチョ

ルの『現代韓国を知るキーワード77』を基に、描写が時代の流れに沿った表現であると

述べた。更に『ハイキック~短足の逆襲~』では、その描写と共に教育方法に苦情をつけ

る親が登場することから、教師の権威失墜の原因の 1 つとしてモンスターペアレントの出

現についての問題提起が制作側からされているとした。次に「就職難」を挙げ、韓国政府

が発表した大卒の就職率から、作品内の「就職難」に関する描写が時代の流れに沿った表

現であるとした。『ハイキック~短足の逆襲』では、これらの問題を提起するだけでなく、

最終的にそれらを笑いへとつなげている点を指摘した。

このように『ハイキック~短足の逆襲』では、「家族愛」についてのテーマの他に、「教

師の権威失墜」や「就職難」といったテーマが内包されていた。それらの社会問題を 8 つ

の種類豊かな「笑い」や、メロドラマを連想させるようなストーリーと関係させることで、

一見重く見える社会問題に、誰もが気軽に触れられるようにしている点が特徴であると結

論付けた。

Page 24: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

22

橋本紡論

古川 有希

橋本紡は三重県伊勢市出身の小説家である。第 4 回電撃ゲーム小説大賞で金賞を受賞し、

その後電撃文庫レーベルからシリーズ小説をいくつか出版する。『猫泥棒と木曜日のキッ

チン』にて一般文芸に進出し、2006 年以降、主な活動は一般文芸に移行した。本論文では

橋本作品の中での日常の描かれ方について考える。

第 1 章では、初期と後期で異なる小説の作風について、作風や執筆時期などから大きく

三つに分類した。流行していた「セカイ系」から「日常系」へと移行し、さらには一般文

芸へと活動を広げていることから、橋本はもともと一般文芸作品を書きたかったというこ

とで、徐々に自分の書きたかった「日常」について考えを固めていっているということが

うかがえた。以降、本稿では橋本の一般文芸作品に焦点を当てた。

第 2 章では、一般文芸作品の中での日常の描写の仕方を考察した。橋本作品において現

れる「普通なら非常(異常)事態だが主人公にとっては日常茶飯事、またはその事態も含め

て日常になっている」ことを「主人公的日常」と定義し、またそれと対比して、一般的に

誰もが日々の生活の中で行うことを「一般的日常」と定義した。その中で「主人公的日常」

とは、実は、誰にでも起こりうる日常を描いているのだと判明した。また小説の中で「一

般的日常」の中に読者に近い人物が出てくることを挙げ、主人公を「主人公的日常」の中

に閉じ込めず、主人公の日常を単なる小説の中のフィクションとしてだけでなく、現実世

界へと近づける役割があることを発見した。

第 3 章では、橋本の一般文芸作品における「一般的日常」の描写で最も特徴的な料理描

写について分析した。橋本が「料理をする」という行為にこだわる理由を探るため、橋本

の料理描写の特徴を捉え、どのような場合に料理が行われているかを考察した。小川糸の

『食堂かたつむり』と比較することによって、橋本にとっての料理描写とは決して特別な

ものではなく、日常の中に組み込まれているものだということがわかった。さらに村上春

樹の『ダンス・ダンス・ダンス』と比較することで、橋本の料理描写はコミュニケーショ

ンの道具として使われていることを発見した。これらのことから橋本にとって「自宅で家

族の作ったものをみんなで食べる」のが理想の家族の日常であることがうかがえた。そし

て橋本作品における外食は家族以外との食事の場として描かれていることや、コンビニエ

ンスストアは非常時の救命ブイのような役割を持っているということがわかり、いずれに

しろ日常的なものではないとされていることが分かった。

以上のことから、日常や家族について小説を書くにあたり橋本にとって料理は必要不可

欠であり、料理描写を通してバラバラになりつつある現代の家族を揶揄していると考えら

れる。そして現在進行形でバラバラになりつつある家族の日常を「主人公的日常」として

書くことで異化させ、だんだんと変質していく家族のあり方に警鐘を鳴らしているのだ。

Page 25: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

23

井上ひさし論

松田 香澄

井上ひさし(1934~2010 年)は、長きにわたって優れた戯曲を数多く残し、自らが座付作

家を務めるこまつ座を立ち上げたり、日本劇作家協会初代会長を務めるなど、様々な肩書

の中でも劇作家として最も活躍した。井上の戯曲の特徴は様々だが、その中でも評伝劇に

かける情熱はすさまじい。井上の評伝劇は膨大な資料や史料、調査などに基づき、史実に

かなり踏みこんだ人物像の描写がされ、その上で様々な趣向を凝らして笑いをまじえなが

ら物語を進行させ、自らの主張も滑り込ませ、非常に多くの要素が凝縮されたものである

と言える。本論では、そのような井上の評伝劇の変遷をたどり、井上が評伝劇で何をどの

ように描いたのかを明らかにすることを目的とした。

第 1 章では、評伝劇とは「何らかの意味で観客も知っている有名な人物が主人公で、そ

の人物の一代記やエピソードをたどりながら、定説が見過ごしてきた暗部にも光を当てつ

つ、その人物に対する批評をした芝居」であると定義した。また、井上の評伝劇には非常

に多くの要素が凝縮されており、着目点を絞らなければまとまった結論を出せない恐れが

ある為、まずは趣向や史実との関係に注目し、徐々に視野を広げて論じていくと述べた。

第 2 章では、井上の初期戯曲『表裏源内蛙合戦』と『道元の冒険』、第 3 章では中期戯

曲を代表し『イーハトーボの劇列車』、第 4 章ではこまつ座創設から後期戯曲を代表して

『泣き虫なまいき石川啄木』、晩年戯曲を代表し『ロマンス』と『組曲虐殺』を分析しつ

つ、変遷を示した。初期戯曲は過剰な言葉遊びに満ち溢れていたが、中期戯曲からはそれ

らが次第に抑制され、「先人の思いを引き継ぐ」、「後の人に思いを託す」という思想がは

っきり表れるようになった。例えばそれは『イーハトーボの劇列車』で、主人公の宮沢賢

治は生きている間は亡くなった人からの「思い残し切符」を受け取っていたが、死んだ時

には「思い残し切符」を託す立場になっていたことに見られる。それは父の思いを引き継

ぐかのように作家・劇作家となった井上自身の生き方でもあり、井上が本当に書きたかっ

たものでもあろう。こまつ座結成後の後期戯曲からは自己投影的性格、更に晩年の戯曲で

は自叙伝的性格も見られ、同時に前述した思想の表れ方にも変化が見られた。中期戯曲で

は、井上自身が思いを託す・引き継ぐといったようないずれかの立場なのかがはっきりし

なかったが、『ロマンス』では主人公のチェーホフに井上自身の姿を重ねていると同時に、

登場人物としては現れないが、チェーホフの思いを引き継ぐ者として井上は自分を意識し

ている節が見られた。井上の最後の戯曲となる『組曲虐殺』では、井上は主人公の小林多

喜二に多喜二と同世代で共通点の多い父の姿が重ねられていた。同時に井上自身の姿も重

ねられており、この戯曲で初めて登場人物としてはっきり現れた主人公の後継者、つまり

劇中歌でいうところの多喜二の「あとにつづくもの」は、井上が次の世代の者を意識して

いたのではないかと指摘した。「先人の思いを引き継ぐ」、「後の人に思いを託す」という

思想は井上自身の「あとにつづくもの」たちへの願いとして戯曲に託されたのではないだ

ろうか。

Page 26: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

24

ファッション雑誌から見る個性

山田 玲央奈

近年、日本のファッションは非常に多様性に富み、また複雑なものと化してきている。

特に若い女性のファッションでその様子が顕著に伺える。本屋に行けばおおよその場合女

性用のファッション誌は男性用のものよりも入り口に近く見えやすい場所に陳列されてい

るし、種類もより豊富である。無数に存在するアイテムを自由に選択し組み合わせてファ

ッションを楽しむことができる。そのような女性たちの中には、「個性」を重要視する者

も少なくない。しかしファッションにおける「個性」という言葉は一般的に用いられる意

味とは少し異なっているように思われる。ファッション雑誌で見かける個性という言葉に

はそこまでの固有性は見られない。ファッションにおける「個性」には少なからず集団性

が含まれており、固有のものとは考えにくい。女性たちはなぜそれでもファッションを用

いて他とは違うことを証明したがるのだろうか。この論文では、「個性」というキーワー

ドを元にファッション雑誌を用いて女性とファッションの関係を明かし、現代の若い女性

たちの思考について考察した。

第1章では、まず第1節で女性とファッションをジェンダー的な観点から考察し、なぜ

女性のファッションが男性のファッションに比べて多様性に富んでいるのかを明らかにし

た。女性は男性と違い元々家の中にいるもので、いかに着飾るかで自らの地位を示そうと

したこと、加えて女性の地位向上、男性が見る女性像の肯定などにより新たなファッショ

ンが生まれたことで多様化が進んだことが分かった。次に第2節で日本の社会とファッシ

ョンについてどのように変化してきたのかを述べ、第3節ではファッションと個性の関係

を大きく変えたと考えられるストリートファッションについて言及した。

第2章ではファッション誌を用いて「個性的であろうとすること」の理由やその価値に

ついて考えてみた。『non-no』と『Zipper』の特徴について述べた上で比較、考察し、そ

こから二誌の違いや共通点を探った。『non-no』は他者から見られることを意識したファ

ッション、『Zipper』は自分がどうありたいかを示すためのファッションを紹介している

という違いが見られた。そして最後にこれらの分析からなぜ女性たちが個性的であろうと

するのかを明らかにした。

以上のことから、細分化され多様化したファッションを選び取り、それに身を包むとい

うことは、単に自分らしさを表現するというだけでなく「自分がどう見られたいか」とい

うイメージを作り出すということでもあるのであり、周囲と同化すること、集団行動が必

要とされる社会の中で、現代の若い女性たちは言葉や行動ではなく服装で自分という人間

を主張しているのであると結論付けた。

Page 27: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

25

桜庭一樹論

伊藤 樹里

桜庭一樹は 1999 年にライトノベル作家としてデビューして以降、多様なジャンルの作

品を書き続ける女性作家である。彼女の作品については、地方都市、そして狭い環境の中

で闘争する少女というモチーフが頻出するとしばしば指摘される。桜庭作品は読み手に強

い息苦しさを与えるものの、幅広い読者層を獲得している。本稿では、この理由の一つが

「別の自分」に憧れる登場人物の描き方にあると仮定し、各モチーフを手掛かりに桜庭作

品全体に漂う閉塞感を捉え、それに抗おうとする登場人物の姿を読み解いた。

第一章では、先行研究で指摘される桜庭作品の物語パターンや、「少女」と「地方都市」

というモチーフについて再検証した。桜庭はこども/大人、田舎/都会といった対立構造

を頻繁に用い、少女の目線を通して誰もが理解できる生の現実を描こうと試みる。桜庭の

描く登場人物は現代の女の子像に近いが、物語そのものは戦前の少女小説的筋書きと似通

っている。こうした文化混合が桜庭作品にフィクション性を与える結果、読者は痛々しく

後味の悪い物語を現実と切り離して読むことができる。この働きを、桜庭作品が支持を受

ける要因とした。

第二章では、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2004)、『少女には向かない職業』

(2005)、『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(2006)の三作品を時系列に沿って分析し、

桜庭作品独特の閉塞感と登場人物の成長に関する問題を考えた。この三作品は中学生~高

校生の少女を主人公とする。彼らは様々な理由から大人への成長プロセスを拒んできたが、

その姿勢は『七竈』に至る流れの中で緩やかに変化し、改善が見られた。彼らの共通点は、

現実の息苦しさを逃れるために嘘をつき、または「べつの生き物」や「べつの人間」にな

ろうと試みることだった。この試みは成功にも失敗にも繋がるが、それを決める鍵は自己

肯定の有無にあると考察した。

第三章では近年の作品分析を行い、共依存の関係にある母子を描いた『ファミリーポー

トレイト』(2008)を扱った。まずは互いが互いの神である母子の設定を第二章で取り上

げた初期作品と照らし合わせ、「神」という非現実性を持つものとの別れが苦しみを抜け

出す一助であると論じた。また、母を喪った主人公が作家に「擬態」することで自分の存

在を保ち、自ら閉じこもっていた狭い空間を抜け出すことで希望を見出す結末を分析し、

別の自分への渇望や閉塞感が最終的には肯定的な働きをなすことを指摘した。最後に近年

の作品を概観し、桜庭作品が一貫して物語を内在し、フィクション性を自ら強調する物語

であることを提示した。

桜庭作品の登場人物は別の自分を持ち、かつ非現実を捨てて現実の自分を肯定しなけれ

ばならない。非現実を通過することで現実を見ることができるという、虚構と現実の表裏

一体性が桜庭作品の特徴である。自身の極端さや不自由さと向き合うことが、桜庭作品で

は現代社会で闘争する人間が生き残り、成長する鍵として形象化されていると結論付けた。

Page 28: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

26

小説とノベルゲームの差異 -村上龍原作『五分後の世界』を中心に-

伊藤 拓生

ノベルゲームとは、1990 年代に誕生した、文字・絵・音楽などを複合的に組み合わせた

新たな形態のサブカルチャーである。マルチエンディング構造を中核としたノベルゲーム

は、キャラクターとの恋愛要素及び性的要素を採用する所謂「美少女ゲーム」として発達

したのち、現在ではプロ・同人問わず様々なクリエイターが参入し、多様な方向へと独自

の進化を遂げている。

本論文はノベルゲームを語る際にかつて重要視されてきたマルチエンディング構造の形

骸化を指摘し、現在ではノベルゲームが純粋に「音と絵のついた小説」、「小説のようなゲ

ーム」等の小説に準ずるメディアとして評価されていると考える。その具体例として村上

龍の小説『五分後の世界』と PS2 のノベルゲーム『五分後の世界 Five minutes from

nowhere』の比較を行い、両作品の差異からノベルゲームというメディアが持つ特性を検

証することを目的とする。

第一章では、小説の『五分後の世界』とノベルゲームの『五分後の世界 Five minutes

from nowhere』について概説した。また、村上龍にとって『五分後の世界』とは自身の作

品を貫くテーマである「危機感」を物語世界によって表現した「最高の作品」であり、現

代日本に対する強烈なアンチテーゼの意味合いを持った小説であるということも明らかに

した。

第二章では、ノベルゲーム『五分後の世界 Five minutes from nowhere』における描

写が小説『五分後の世界』の描写とどの点で異なるのかを、視覚的・聴覚的要素の観点か

ら詳細に比較した。その結果、ノベルゲームは現実感や臨場感を演出するため簡略化され

た平易で直接的な文章を多用する傾向があり、その目的が「プレイヤーと主人公の一体性」

の推進にあることが明らかとなった。

第三章では、小説からプレイヤーの入力が必要なノベルゲームという媒体に物語が移行

したことで、どのような違いが生まれたのかを検証した。ノベルゲームでは一人称記述が

多用され、プレイヤーと主人公は限りなく一体化する。そして、プレイヤーの選択如何で

物語は大きく変動するため、プレイヤーはキャラクターや物語にリアリティを感じてしま

う。すなわち、ノベルゲームは極めて主体的・能動的な読書を達成した文章主体のメディ

アであるといえる。

終章では、村上龍の小説に一貫する「危機感」というテーマと、物語に対して主体的な

姿勢をプレイヤーに要請するノベルゲームというメディアの特質の一致を指摘した。それ

故、異なるメディアであるノベルゲームに物語が移行しても村上龍の『五分後の世界』が

訴える世界観が違和感なく再現できたのである。そして、本論文の行った『五分後の世界』

の比較・分析により、小説は作者が定めた結末へ一直線に辿り着くのに対し、ノベルゲー

ムはプレイヤーの選択の結果結末に到達することができるという理由から、ノベルゲーム

は物語に対してより能動的になれるメディアであると結論付けることができた。

Page 29: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

27

日韓アイドル比較論 ~プロモーションの観点から~

亀倉 佑美

現代、日本では AKB48 を始めとしたアイドルグループが人気を博し、音楽チャートの

みならず、ドラマやバラエティなど多方面で活躍している。また一方で、近年では、少女

時代のような韓国のいわゆる K-POP アイドルたちが次々と日本デビューを果たし、K-

POP ブームが引き起こされた。本論文では、このような両国のアイドルたちのプロモーシ

ョン方法に注目し、日韓のアイドルシステムの違いや、それらを支える背景には何がある

のかを考察した。

第 1 章では、日本のアイドルグループのプロモーション方法について考察した。いまや

日本アイドル界のトップともいえる AKB48 を例に、プロデューサーである秋元康のプロ

モーション方法を探ると、AKB48 は秋葉原でほぼ毎日公演を行い、そこで得たファンの

意見を直接的に取り入れたり、ファンの投票によって選抜メンバーが決まるなど、ファン

がアイドルの成長に大きく関わり、プロの手によってではなくファンがアイドルを育てて

いくというシステム構造がみられた。また、容姿、歌唱力、ダンス力において、完璧さで

はなく素人感が感じられる点も日本のアイドルの特徴であった。

第 2 章では、韓国のアイドルグループのプロモーション方法について考察した。韓国で

は、事務所の力が大きく、各事務所がそれぞれの戦略でプロモーションを行っているが、

どの事務所も、歌唱力やダンス力を磨き確実に歌手としての実力をつけるための練習生制

度を取り入れていること、ルックスやスタイルの良さが際立つアイドルが多いことが特徴

であった。

第 3 章では、プロモーション方法を探ることで明らかになった、特に特徴的なアイドル

の要素やシステムを日韓で比較し、その背景には何があるのかを考察した。歌唱力、ダン

ス力、ルックスの要素において、日本が完璧さを求めないのは、古くから日本には未完成

に美を見出す文化が根付いているからであると指摘し、一方韓国では、曲に設定された高

音パートをいかに歌いこなすかが重要視されるなど、第一に歌唱力が求められる現状であ

ること、韓国人が純粋に歌やダンスが好きという国民性をもっていることから、完璧な実

力を求めるのだと指摘した。また、日本では、アイドルをファンが育てていくスタイルが

見られ、アイドルがデビュー後につくられていくシステムをもつが、これは、AKB48 以

前の日本のアイドルにはない新たなシステムであった。対して韓国では、アイドルとして

完成された姿でデビューするシステムをもち、その背景には韓国の音楽界でのアイドル寿

命の短さ、競争の激しさから、デビュー当初から高い実力が必要とされるという事情があ

った。

おわりに、韓国のアイドルプロモーション方法は、実は、かつて日本に存在していたシ

ステムを参考に行われている部分が多い点を述べた。この点を踏まえると、近年日本で起

きた K-POP ブームは、逆輸入的な現象であったといえる。

Page 30: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

28

『ことりっぷ』から考える「女子旅」

引田 翔子

2008 年 2 月に国内版初版が出版された『ことりっぷ』シリーズは、2013 年に累計発行

部数が 800 万部を突破した人気商品である。『ことりっぷ』シリーズのテーマは「週末に

行く小さな贅沢、自分だけの旅。」であり、特に 20~30 代の働く女性がターゲットとなっ

ている。一方、「女子旅」というフレーズが登場し始めたのは、「女子会」という言葉が

様々な業界で流行した 2008 年頃であり、『ことりっぷ』の創刊時期と重なっている。それ

以前にも女性の旅行はごく当たり前に行われていたが、「女子旅」ブームでは旅行会社の

キャンペーンのテーマや旅行者の求める観光対象、旅行者の観光行動等においてある程度

共通している点が見られることから、「女子旅」は以前の女性の旅行とは異なった、一つ

の観光形態として成り立っていると考えられる。本稿では、ガイドブックである『ことり

っぷ』が従来とは異なる観光スタイル、観光のまなざしを提供していることを明らかにし、

「女子旅」という新たな観光について考察した。

第 1 章では旅行ガイドブックの歴史の流れを述べた。ジョン・アーリの「観光のまなざ

し」論を参照しながら、旅行と写真の関わりを踏まえた上で、近年の国内ガイドブックの

変容について説明を行った。旅行と写真の関係では、英語圏のガイドブックとの比較を通

して、日本のガイドブックがより視覚重視のメディアとなっていることを指摘した。国内

ガイドブックの変容については、1990 年代に、「読み物」としてのガイドブックに代わり、

「見る」要素の強い雑誌タイプのガイドブックが主流になったことを述べた。

第 2 章では『ことりっぷ』の分析を行い、「女子旅」のガイドブックが他のガイドブッ

クとどのように異なるのかを明らかにした。制作スタッフの性別、使用されている言葉、

情報の鮮度、広告の有無、キャラクターの役割等において違いが見られた。『ことりっぷ』

の特徴として、「かわいい」というフィルターを通して観光対象を捉えている点と、旅の

主体の身体性の示し方を挙げた。

第 3 章では、「女子旅」を支える女性市場について論じ、『ことりっぷ』のターゲットで

ある働く女性の旅について考察した。男性旅行者が求める「未知」や「異文化」といった

テーマが少なからず脅威を含むのに対して、現代の働く女性が旅行において求めるのは

「癒し」や「贅沢」といったテーマであり、それらは脅威を含まない自己への施しである。

そうしたテーマが現代の女性にとって観光価値を有する非日常的なものであることを述べ

た。

ガイドブックと女性市場の二つの分析から、「女子旅」が、「かわいい」というフィルタ

ーと、旅行の主体である自己への強い意識を含んだ独自の観光のまなざしにより成り立っ

ていることを述べ、本論文のまとめとした。

Page 31: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

29

ゆるキャラ論~ゆるキャラの台頭と氾濫~

本間 陽大

「ゆるキャラ」と呼ばれる存在は、そのブームの火付け役とされる「ひこにゃん」が

2006 年に誕生して以来、現在に至るまで数を増やし続け、多少ブームの形は変わりつつも、

その勢いは健在である。

第一章では、「ゆるキャラ」について、みうらじゅんの定めた条件に即した定義を明確

にし、そしてゆるキャラの歴史的な動き、変化を追いつつ、その定義の曖昧化について論

じた。「ゆるキャラ」を、その提唱者であるみうらじゅんの発言から定義すると、「郷土愛

に満ち溢れた強いメッセージ性」を盛り込む際に、「地方の柔軟な発想により生まれたユ

ニークさ」、素人が制作に関わったゆえの、「デザインの洗練されていなさ、つめの甘さ」、

それに伴う「ゆるさ、不安定さ」を持ち合わせたキャラクター、であるとすることができ

た。だが、「ゆるキャラ」はかつてはそのようなものであったが、現在「ゆるキャラ」と

される多くがこの条件を満たしていない。そのことから、ゆるキャラの繁栄により、「ゆ

るい」という言葉の持つ意味やイメージが我々の中で変わってしまったということを指摘

した。

第二章では、「ひこにゃん」、「くまモン」の例を中心に、日本におけるゆるキャラブー

ムの心理的、社会的背景を論じた。その中で、インターネット、SNS との関係や、同時期

に起こった別のブームとの関係についても触れた。現在消費の中心を担っている 30~50

代の大人たちも、子どものころからキャラクターに接しており、キャラクターは子どもだ

けのものではなくなっている。また、ひこにゃんやくまモンは、我々がそのキャラクター

たちのシナリオ作りに参加できる、ということが、そのブームを引き起こした大きな要因

と考えられる。そしてゆるキャラブームが起きた同時期に、戦国武将ブーム、オタク(ネ

ット)文化の一般社会への進出、といったできごとがあった。これらとゆるキャラブーム

はお互いに関わり合っていた、ということを指摘した。

第三章では、日本におけるゆるキャラの受容のありかたとゆるキャラの更なる変化を

「キャラ」という言葉をキーワードとして、現代人のコミュニケーションのあり方と関連

づけて述べた。日本において、キャラクターデザインの定石として手塚治虫のスタイルが

あり、我々は基本的にそれに則ったものに価値を見出している。だが、そこから逸脱した

(=キモい)ものにも価値を見出し、評価する目を我々日本人は持ち合わせている。そこ

には、キャラクターの「キャラ(性格、性質、個性)」を楽しむ、という背景がある。今

日、日常の人間関係においても「キャラ」が求められ、そしてそれはキャラクターにも求

められるようになった。特にゆるキャラがその「キャラ」を高く評価されるケースが目立

ったため、新しく作り出されるゆるキャラの多くは、「キャラ」が立つようにあえて「キ

モさ」を盛り込み、ゆるさを偽装した「ゆるキャラ」として作り出されているということ

が考えられる。

おわりに、今後さらなる多様な価値観が社会に広まると、その価値観に応えるべく、ま

た新たな「ゆるキャラ」が誕生してゆくだろうと指摘した。

Page 32: 新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学 …...新潟大学人文学部・人文学科 メディア・表現文化学プログラム (表現文化論分野)

30

カワイイ文化研究

吉田 美緒

欧米やアジアを中心に、「カワイイ」という語が世界に広がっている。海外において

「カワイイ」は、日本のサブカルチャーを形容する、日本独自の美学として認識される。

外国にも「かわいい」を意味する語は存在する。しかしながら、日本語の「カワイイ」は

他言語との置換を許さず、「Kawaii」と表記され、そのまま世界に受容される。では、「カ

ワイイ」は、なぜ世界に広がり受容されたのか。また、「カワイイ」はどのように受容さ

れているのか。本論文では「カワイイ」の世界化がなぜ起こったのかについて考察した後、

地域をフランスに限定し、「カワイイ」の普及とその意味機能について分析した。

第一章では、日本における「カワイイ」美学の誕生とその独創性について述べた。「カ

ワイイ」を語の起源から通時的に辿り、その変遷を見ることで、「カワイイ」が現在の日

本社会でどのように機能する言葉なのかを示した。更に、それが他の言語の「かわいい」

とは全くの別物だとして、「カワイイ」が日本独自の美学であることを指摘した。

第二章では、世界に広がる「カワイイ」を紹介し、それがなぜ海外でも受容し得たのか

について考察した。その原因として、①普遍性、②一切の記号からの離脱、③究極の個人

主義、④アニメ・マンガとの関係性、の四つの側面に依拠すると推論した。その上で、日

本のアニメ・マンガ人気が高いフランスに地域を限定し、「カワイイ」がどのような広が

りを見せているのかを述べた。

続く第三章では、フランスで発行されている日本のサブカルチャーを紹介する雑誌

『Japan Lifestyle』を参考に、フランスでの「カワイイ」の普及と意味機能について分析

した。その結果、フランスでの「カワイイ」の受容、更には「カワイイ」という言葉の理

解には、日本との溝が存在した。フランスにおいて、「カワイイ」はゲームやキャラクタ

ーなど、アニメ・マンガと関係した部分の認識が深いと考察した。

最後に、補遺として、2013 年 9 月にパリで行われた、「カワイイ」をテーマにしたイベ

ント「Tokyo Crazy Kawaii Paris」での調査レポートを付け加えた。筆者が現地で見てき

た「カワイイ」とその受容について、自身の視点から書き綴った。

以上を踏まえて、本論文では以下のように結論付けた。まず、フランスにおいて「カワ

イイ」という言葉は、アニメ・マンガを受容する層を中心に、確実に根付いてきてはいる。

しかし、その用いられ方は、日本と必ずしも一致しない。フランスでは、アニメ・マンガ

やゲームを中心としたサブカルチャーを形容する際に「カワイイ」という言葉が多く用い

られる。「カワイイ」を口にする人々は、「カワイイ」を日本独自の美学として受容する。

それは少し奇抜で、変わったものでありながら、アニメ・マンガが育んだ新しい感性とし

て、咀嚼し、受容していく。日本のマンガ・アニメを見て育ったフランスの若者にとって、

アニメ・マンガ的な日本の美学の象徴が「カワイイ」になっている。