7
◇ 学術コーナー ◇ 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 ベックマン・コールター株式会社 ダイアグノスティックス学術統括部門 【はじめに】 主要項目における臨床検査値の標準化は成し遂げられましたが、一方、診断の目安となる 基準範囲は、母集団が明確でなかったり、健常者データの変動要因情報が不足していたり、 施設ごとに設定していたりと、いまだに施設間差があります。このような現状から、一般的 に測定される検体検査項目に対する共用可能な基準範囲を設定するための多施設共同研究へ の要望が高まってきています。 2005 年に国際臨床化学連合(IFCC)に「基準範囲・判断値専門委員会」が設置され、そ の企画として、2009 年にアジア地域での共用可能な基準範囲の設定を目指した大規模調査 (国際プロジェクト、第 3 回アジア地域調査)が実施されました。日本国内では、日本臨床 衛生検査技師会および福岡県五病院会により、同様の多施設共同調査が実施されました。そ して、2011 年に立ち上げられた合同基準範囲共用化 WG(日本臨床検査医学会、日本臨床 化学会、日本臨床衛生検査技師会、日本検査血液学会)において、3 調査データ統合作業と 共用基準範囲案の検討が行われました。2012 年に、共用可能な基準範囲の設定を目的とし て日本臨床化学会に基準範囲共用化専門委員会が、その利用・普及を目的として日本臨床検 査標準化協議会(JCCLS)に基準範囲共用化委員会が設置されました。2013 年秋には、正 式に日本の共有基準範囲が発表される予定です。 今回は、国際プロジェクトの活動内容を中心に、共用基準範囲設定における最近の動向に ついてご紹介いたします。 【基準範囲の定義】 基準範囲と混同されることが多い検診基準値やカットオフ値(診断閾値)は、臨床判断値 の一つで、特定の病態に対して予防医学的な観点から早期に介入を行う目安として、特定の 疾患群と非疾患群を識別する最適な値として設定されるものです。一方、基準範囲は、検査 値を解釈する際の目安となる値で、健常者の検査値分布の 95% 信頼区間と定義されます。 基準範囲は、基準個体(健常者から一定の除外基準を設けて抽出した真の健常人)の測定 値の 95% 信頼区間として統計学的に設定されるため、基準個体の抽出条件と 95% 信頼区間 を算出する統計処理方法の決定が重要です。 - 70 -

学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

◇ 学術コーナー ◇

共有基準値(範囲)設定における最近の動向ベックマン・コールター株式会社

ダイアグノスティックス学術統括部門

【はじめに】主要項目における臨床検査値の標準化は成し遂げられましたが、一方、診断の目安となる

基準範囲は、母集団が明確でなかったり、健常者データの変動要因情報が不足していたり、施設ごとに設定していたりと、いまだに施設間差があります。このような現状から、一般的に測定される検体検査項目に対する共用可能な基準範囲を設定するための多施設共同研究への要望が高まってきています。

2005 年に国際臨床化学連合(IFCC)に「基準範囲・判断値専門委員会」が設置され、その企画として、2009 年にアジア地域での共用可能な基準範囲の設定を目指した大規模調査

(国際プロジェクト、第 3 回アジア地域調査)が実施されました。日本国内では、日本臨床衛生検査技師会および福岡県五病院会により、同様の多施設共同調査が実施されました。そして、2011 年に立ち上げられた合同基準範囲共用化 WG(日本臨床検査医学会、日本臨床化学会、日本臨床衛生検査技師会、日本検査血液学会)において、3 調査データ統合作業と共用基準範囲案の検討が行われました。2012 年に、共用可能な基準範囲の設定を目的として日本臨床化学会に基準範囲共用化専門委員会が、その利用・普及を目的として日本臨床検査標準化協議会(JCCLS)に基準範囲共用化委員会が設置されました。2013 年秋には、正式に日本の共有基準範囲が発表される予定です。

今回は、国際プロジェクトの活動内容を中心に、共用基準範囲設定における最近の動向についてご紹介いたします。

【基準範囲の定義】基準範囲と混同されることが多い検診基準値やカットオフ値(診断閾値)は、臨床判断値

の一つで、特定の病態に対して予防医学的な観点から早期に介入を行う目安として、特定の疾患群と非疾患群を識別する最適な値として設定されるものです。一方、基準範囲は、検査値を解釈する際の目安となる値で、健常者の検査値分布の 95% 信頼区間と定義されます。

基準範囲は、基準個体(健常者から一定の除外基準を設けて抽出した真の健常人)の測定値の 95% 信頼区間として統計学的に設定されるため、基準個体の抽出条件と 95% 信頼区間を算出する統計処理方法の決定が重要です。

- 70 -

Page 2: 学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

【国際プロジェクトの流れ】2000 年に IFCC 血漿蛋白委員会の企画として、アジア 6 都市(ソウル、台北、上海、香港、

クアラルンプール、東京)で第 1 回アジア地域調査を実施し、炎症マーカー蛋白に大きな地域差があることがわかりました。これらの知見を確認するため、2005 年に IFCC 血漿蛋白委員会と APFCB 科学技術委員会の企画として、6 都市(旭川、山口、ソウル、香港、台北、ジャカルタ)で第 2 回アジア地域調査を実施し、LDH、アルブミン、電解質、炎症マーカーなど一部の検査項目で、検査値に明確な地域差を認めました。これらの知見が IFCC 基準範囲・臨床判断値委員会でも注目され、IFCC 血漿蛋白委員会、IFCC 基準範囲・臨床判断値委員会と APFCB 科学技術委員会の共同企画として、2009 年の第 3 回アジア地域調査へとつながりました。

【第 3 回アジア地域調査の活動概要】第 3 回アジア地域調査では、韓国・中国・ベトナム・マレーシア・インドネシア・日本国

内 7 地域に属する 63 の臨床検査室が参加し、40 の標準化未対応項目を含む 72 項目の基準範囲算出を目的とした多施設共同研究として実施されました。地域性を明確に検出するため、

- 71 -

表 1)測定に使用された試薬(一部)

Page 3: 学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

前 2 回の調査と同様の中央測定方式が採用され、各地域で一定の基準で募集した健常者から採血した検体を、血清分離後速やかに -80℃凍結保存し、ベックマン・コールター株式会社のラボ(= セントラルラボ)へ輸送し、表 1 に示す試薬を用いて測定を行いました。

また、貧血による除外基準に使用するため、検体採取時の補助検査として、ベックマン・コールター血球計数装置(Beckman Coulter Inc., Brea, CA, USA)を使用している現地の検査室で、EDTA-2K 血液中の末梢血球数(CBC)を実施し、1978 人分の検査結果が得られました。

【国際プロジェクトにおける基準範囲算出方法】2008 年に基準範囲設定方法に関する CLSI ガイドライン(C28-A3)が発行されていますが、

基準個体の特定の仕方や統計処理など、実際に適用するうえでの問題点の記述が不十分でした。

そこで、国際プロジェクトにおいては、基準個体の選定に「明確な除外基準(図 1)」と「潜在異常値除外法* 1」を用い、統計処理は「3 レベル枝分かれ分散分析法で変動成分を定量化」し、「調整 Box-Cox べき乗変換式で正規化し、全てパラメトリック法で計算する」という手法がとられました(図 2)。

* 1;潜在異常値除外法は、検査値の相互関連性を利用して、潜在病態を除外することで基準範囲設定値を最適化する方法です。潜在病態を反映しやすい検査を除外基準検査群とします。除外基準検査群について、初回計算で算出した基準範囲に照らして、当該検査以外に異常値を 2 つ(または 1 つ)以上有する個体のデータを除外します。この処理を反復して基準範囲を最適化していきますが、通常、6 回の反復で基準範囲は変化しなくなります。潜在異常値除外法の効果例について、図 2 に示します。今 回、13 項 目(Alb、Glb、UA、Glu、AST、ALT、LD、GGT、CK、TG、HDL-C、LDL-C、CRP)を除外基準検査群として使用しました。

- 72 -

現在慢性疾患で定期的に服薬中

妊娠中

分娩後1年内

BMI≧28喫煙≧20本/日

多量の飲酒習慣

エタノール量≧75g/日

入院を要する急性疾患や手術から復帰後1週以内

対象者の除外基準

■一次除外

■二次除外採血後に主要項目に異常があれば計算から除外

図 1)一次除外基準

健常者

明確な除外基準

潜在異常者除去法

ヒストグラム

枝分かれ分散分析法

BoxCoxべき乗変換

基準範囲の設定

健常者

ヒストグラム

正規or非正規分布

パラメトリックorノンパラ

基準範囲の設定

<従来の設定法> <新規の設定法>

健常者

明確な除外基準

潜在異常者除去法

ヒストグラム

枝分かれ分散分析法

BoxCoxべき乗変換

基準範囲の設定

健常者

ヒストグラム

正規or非正規分布

パラメトリックorノンパラ

基準範囲の設定

<従来の設定法> <新規の設定法>

図 2)基準範囲の設定方法

Page 4: 学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の 3 要素について、3 段枝分かれ分散分析法により、群間差指数(SDR)を求め、0.3 以上を層別化の判断基準としました* 2。性別については、71 項目中 36 項目で性差(SDR 0.3 以上)が確認されました。地域については、データを日本国内に限定した場合には、0.3 以上となる項目はありませんでした。しかし、東アジア・東南アジアを含めた場合、地域差有無に男女間不一致がある項目を含めると、HDL-C、CRP、葉酸など 22 項目で地域差(SDR 0.3 以上)が確認されました。年齢については、UN、Ca、TCho、など 31 項目で年齢差(SDR 0.3 以上)がみられ、7 項目で年齢差有無に男女間不一致がみられました。なお、程度の差はありますが、加齢変化はほとんどの項目で認められており、全検査項目に対する基準値の年齢変化プロフィールが作図され、公開されています。

* 2;基準範囲層別化の基準となる群間差指数(SDR)とは、地域差、性差、年代差の各要因に対する検査値の標準偏差(SD)を算出し、それを純個体間変動(残渣変動の SD、性差、年齢差調整後の基準範囲幅の約 1/4 に相当)に対する相対比です。国際プロジェクトでは SDR ≧ 0.3 を層別化の目安としていますが、日本臨床検査標準化協議会(JCCLS)の基準範囲共用化委員会での共用基準範囲設定にあたっては、男女別基準範囲設定の目安を SDR ≧ 0.5 としています。

【基準範囲以外の付加価値データ】第 3 回アジア地域調査では、基準範囲の地域差の存在有無だけでなく、問診票の回答結果

を用いた、生活習慣と検査結果の関連を調査する研究的アプローチを可能にしました。使用した問診票には、「食習慣」「健康状態」などを調査項目に含めました。例えば、食事

頻度と週当たりの量の 5 段階評価(1: 食べない、2: 少し、3: ふつう、4: 多く、5: 毎日多く)、細菌感染症およびウイルス感染症罹患頻度を 4~5 段階評価(0: ない、1: 年 1 回、2: 年 2 回、3:年 3 回(以上)、4: 年 4 回以上)で回答してもらいました。

- 73 -

図 3)潜在異常値除外法とその効果

Page 5: 学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

結果、食肉摂取量については、アジア各国平均 13.1%に対し、日本人男性では、日本人女性(平均 15.7%)と比較しても多い、平均 27.3%であったり、野菜および果物摂取量が東南アジアで多かったり、飲酒習慣はアジア各国では飲酒度 0 ~ 2 の割合が男性は約 90%、女性は 95% 以上を占めるのに対し、日本では飲酒度 0 ~ 2 の割合が男性は約 50%、女性でも約 80%と、日本人の飲酒度が高いことがわかりました。また、細菌感染症やウイルス感染症の罹患頻度は日本よりも東南アジアで多いことなどがわかりました(図 4)。今後、こういったデータと測定値との関連性に関する解析や追加調査が進み、新しい知見が見いだされることが期待されます。

【共有基準範囲の広めかた】第 3 回アジア地域調査では、標準化未対応の検査項目をたくさん取り入れたため、参加施

設に一部の健常者試料を残して測定し、セントラルラボ測定値とのクロスチェックを行い、

- 74 -

図 4)付加価値データ

Page 6: 学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

基準範囲の伝達性についても検討しました。一部(FT4、FT3、CA19-9)を除き、クロスチェック結果では非常にきれいな直線結果が得られ、新鮮な健常者の個別試料を十分数測定すれば、相互変換が可能であることが示唆されました。つまり、標準化未対応項目においても、検査結果のハーモニゼーションを考えることに非常に妥当性があることを示すとともに、どの検査室でも国際プロジェクトでの調査結果を利用可能であることを意味します。

2010 年 10 月に米国メリーランド州 Gaithersburg で”Improving Clinical Laboratory Testing through Harmonization”と題した、世界初の国際フォーラムが開催され、免疫学的測定項目のハーモニゼーションの話題は、世界的に急を要する関心事となってきています。その会議で示された、臨床検査項目を標準化の観点で 5 カテゴリーに分類した表を、表 2 に示します。カテゴリー 4 および 5 に属する項目がハーモニゼーションの対象となりますが、第 3 回アジア地域調査で実証した「新鮮な個別検体(パネル)を多数測定するアプローチ(クロスチェック)がハーモニゼーションに有効である」ことが認められれば、より多くの検査項目に対する世界規模の基準範囲の共有・統合が可能となると考えられます。

【今後の方向性】基準範囲設定の国際プロジェクトは、アジア地域調査から世界規模調査へと拡張される予

定です。その実現には、地域別(大陸別)に中央一括測定を行い、そのデータを二次的に統合する

仕組み作りが必要となります。その可能性をさらに探るため、80 の健常者個別試料よりなる血清パネルを作成し、それぞれの中央測定施設による測定において、各項目の値の互換性の調査が実施されています。

- 75 -

表 2)臨床検査分析系の国際的 標準化(standardization)と調和化(harmonization)

Page 7: 学術コーナー 共有基準値(範囲)設定における最近の動向 · 基準範囲の層別化については、性別、地域、年齢の3要素について、3段枝分かれ分散分析

参考文献1 )市原清志 基準範囲設定に関する国際動向 生物試料分析 Vol.34, No.3, 20112 )日本臨床検査自動化学会会誌 基準範囲の実践マニュアル Vol.37, Suppl.1, 20123 )Ichihara K, Ceriotti F, et al. The Asian project for collaborative derivation of reference

intervals: (1) strategy and major results of standardized analytes. Clinical Chemistry and Laboratory Medicine. Volume 51, Issue 7, Pages 1429–1442

4 )Ichihara K, Ceriotti F, et al. The Asian project for collaborative derivation of reference intervals: (2) results of non-standardized analytes. Clinical Chemistry and Laboratory Medicine. Volume 51, Issue 7, Pages 1443–1457

- 76 -