30
一69一 英国ビッグ・バンまでの組合金融 建築組合の200年 一 はじめに 英国において「ビッグ・バン」と称された証券市場改革が執り行われる にあたり,内外の報道界は競ってこの改革を取り上げた。その取り上げ方 が改革の進捗状況からその帰結へと重点を移し,金融分析の専門家たちも 本格的に「ビッグ・バン後」を取り扱うようになっていた頃,わが国の新 聞に,小さな扱いであるが興味深い記事が掲載された。「「住宅」専門を脱 皮,英アビーの銀行転換策」との見出しを振って,英国における金融再編 成に関説したものであった。1988年8月のことである。わが国の報道界 では珍しく,銀行以外の金融機関を取り上げた記事として,私は鮮明に記 憶している。この記事は,1986年改正建築組合法によって認められるよ うになった新業務が収益拡大に結び付いたことの余勢を駆って,第2位の 建築組合(Building Society)であるアビー・ナショナルが銀行転換 針を打ち出した時のものである。英国内では,遂に建築組合が大手銀行に 挑戦状を叩き付けたとして大いに話題を呼んだω。爾来,約10年の歳月 が流れている。 大手商業銀行への挑戦といえば,思い起こされるのはさらに遡ること2 年前に「銀行界 第3勢力の登場」といった記事見出しで英国民の話題を

英国ビッグ・バンまでの組合金融 - Yamaguchi Uypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/file/1329/20100303141706/...一72一 英国ビッグ・バンまでの組合金融 こでは後論に関する限りで簡略に触れるにとどめる。

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

  • 一69一

    英国ビッグ・バンまでの組合金融

    建築組合の200年

    道 盛 誠

    一 はじめに

    英国において「ビッグ・バン」と称された証券市場改革が執り行われる

    にあたり,内外の報道界は競ってこの改革を取り上げた。その取り上げ方

    が改革の進捗状況からその帰結へと重点を移し,金融分析の専門家たちも

    本格的に「ビッグ・バン後」を取り扱うようになっていた頃,わが国の新

    聞に,小さな扱いであるが興味深い記事が掲載された。「「住宅」専門を脱

    皮,英アビーの銀行転換策」との見出しを振って,英国における金融再編

    成に関説したものであった。1988年8月のことである。わが国の報道界

    では珍しく,銀行以外の金融機関を取り上げた記事として,私は鮮明に記

    憶している。この記事は,1986年改正建築組合法によって認められるよ

    うになった新業務が収益拡大に結び付いたことの余勢を駆って,第2位の

    建築組合(Building Society)であるアビー・ナショナルが銀行転換の方

    針を打ち出した時のものである。英国内では,遂に建築組合が大手銀行に

    挑戦状を叩き付けたとして大いに話題を呼んだω。爾来,約10年の歳月

    が流れている。

    大手商業銀行への挑戦といえば,思い起こされるのはさらに遡ること2

    年前に「銀行界 第3勢力の登場」といった記事見出しで英国民の話題を

  • 一70一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    集めた特殊な金融機関があった。信託貯蓄銀行(Trustee Savings Banks)

    という,伝統的に勤倹貯蓄の取扱い機関として極めて限定された業務を行

    う金融機関が大々的な合同を行って普通銀行に転換したのであった。こち

    らはその後ロイズと合同して,この独特な個入向け金融機関はもはや存在

    しない。

    これらが80年代に起こったことに注目されてしかるべきであろう。

    サッチャー時代という近来希な,確固たる政治信念と強烈な指導力に支え

    られた長期政権の下であったことは,偶然ではない。市場原理への信仰に

    も似た信頼は,自由化と効率化を鋭意推進して留まるところがなかった。

    その具体的な施策の執行状況と結果についてはいまだに記憶に鮮やかで

    あって,今もって相反する評価づけが錯綜しているというべきであろう。

    サッチャー政権が用意した,あるいはサッチャーに多数派を与えて政権を

    信託した人々が用意した環境あればこその,先述来の事件なのである。自

    由競争下で競い合わせることによって英国系金融機関を強化して,勢力拡

    張の著しい外国系金融機関に対抗せしめるという指針の下に採用された施

    策の一環であった。例のビッグ・バンは,こうした一連のサッチャー政策

    のなかでも傑出した地位を与えられている。しかしながら,なるほど証券

    市場の金融経済における重要性に照らせばその扱いもっとものところあり

    とはいえ,金融関連のサッチャー政策を分析の対象に据えるに当たって

    ビッグ・バンは光を当てられすぎていると考える。わが国における金融制

    度改革が「日本版ビッグ・バン」と呼称されるといった状況を目の当たり

    にしていればこそ,その思いはなおさら強い。ビッグ・バンに焦点化しす

    ぎるがゆえに,その他の金融関連施策への目配りが効かないままにきてし

    まっている,と考えるものである。本稿では,この点も意識して,論述を

    展開するものである(2)。

    本稿の目的は,建築組合という,相互組合組織がどのような経緯を経て

    普通銀行化ないし総合的金融機関化するに至ったか,その背景を英国流の

    金融自由化過程と重ね合わせながら考えてみようというところにある。

  • 一71一

    (1)英国の「住宅金融専門機関」たる相互組合機関が大手銀行に挑戦状を叩き付

    ける程の存在であることに奇異の念を抱く向きもあったかもしれない。組合金

    融機関の相互扶助的性格とそれ故の近代社会における重要性は,,我が国でも従

    来から繰り返し指摘され,強調されてきたところである。だが,それらの存在

    は時代時代それぞれの背景の下で見逃しのならないものであったとは言条,脚

    光を浴びる存在ではありえなかった。我が国では,下級金融機関という名称付

    けが陰に陽に通用してきたのである。少なくとも,単独組合で大手銀行に対抗

    できるような英国的状況は見られない。

    各国の社会制度がそれぞれ独特な風土と慣習を持っていることは,周知のこ

    とでありながらなかなか実感を伴なわない事柄である。これは,金融機関にも

    当てはまる。英国の建築組合は住宅金融専門の組合組織である,と紹介されて

    いる。日本の住宅金融市場を念頭において建築組合像を描こうとすると,歪み

    を持つであろう。わが国に対応するものを求めるとすれば,現在の都下世田谷

    区で大正2年に設立された玉川村宅地利用共進会ないし大正10年の住宅組合

    法によって設立された一群のものしかないであろう。それらは,わが国におけ

    る郊外立地の住宅地開発の初発期にのみ見られたといってよく,中堅以上の給

    与所得者や軍人が利用したにとどまり,部分的に日本のアール・デコ期の住宅

    建築史に幾ばくかの足跡を残したにとどまる。英国の建築組合に匹敵する活動

    ならびに業容をわが国の類似の組合機関がかつて誇示しえたことはないし,現

    在もそうである。

    ② この点については,同様の問題意識を共有した旧稿がある。「イギリスの金

    融:サッチャー時代は何を築いたか」,飯田裕康編著『現代の金融:理論と実

    状』,有斐閣,1992年所収で,私なりの整理を試みた。また,個人貯蓄に絞って

    の同様の分析は,「英国における個人貯蓄資産の戦後史:サッチャー時代と勤倹

    貯蓄 (上)」『金融』555平ならびに「同 (下)」『金融』556号で試みている。

    二 伝統的貯蓄機関としての建築組合

    建築組合とはどのような組織なのか,先ずもってその概略をたどってみ

    ることにする。ただし,18世紀および19世紀の建築組合については,ク

    リアリーの著作{3)が様々な逸話も記述しているほぼ唯一の通史であり,

    その史的分析部分については蕗谷硯児氏が紹介しておられる(4)ので,こ

  • 一72一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    こでは後論に関する限りで簡略に触れるにとどめる。

    建築組合は,先述の信託貯蓄銀行と同様に,ほぼ2世紀に亙る歴史を

    もった伝統的貯蓄機関であり,友愛組合(Friendly Societies)の歴史と

    伝統抜きにしては語りえない組織である。産業革命期の社会問題と関係深

    い,組織なのである。とはいえ,建築組合には,他の友愛組合関連の諸組

    織形態とは異なり,フィランスロピィ色が希薄であるといってよいだろ

    う。相互扶助的な,あるいは19世紀的語彙で言えば「自助的」な色彩の

    濃いものである。

    初期の建築組合では,我が国の無尽や講とちょうど同じような運営方式

    が採られていた。地縁ないし職業縁によって結び付けられた人々(概して

    熟練工達)が住宅建設を目的とした金銭積立を行なって協同の基金を設立

    し,基金がある程度に達すると逐次土地を手当てし住宅を建設していく。

    抽選に当たった人から順番に住宅を取得していくが,組合員は全員の住宅

    建設が完了して組織が解散するまで定期的な拠出を継続する,というもの

    であった。最初のものとして知られているのは,1775年にバーミンガム

    に設立されたものである。この方式については,その濃厚な相互扶助色ゆ

    えに根強い支持があったようである。19世紀半ばには新方式にほぼ取っ

    て替わられるが,数多くの,しかし小規模な組合によって根強く採用され

    続けた。この方式に固執した組合の実数は確証のしょうがないが,そのほ

    とんどは最初の専括の法律が1836年に制定されてからも非登記で,した

    がって法の保護と規制の外で活動し続けたものと考えられる。しかし,こ

    の伝統的な方法では目的達成までにいかにも時間がかかりすぎた。これに

    替わるべき新方式が案出されるに至るめである。

    新方式採用の徴候は早くも19世紀初頭に認められる。住宅建設を求め

    ない人々の貯蓄を受け入れることによってより速く目的を達成しようとす

    る組合が出てくるようになったのである。かくして,組合債務に対して利

    払いを行い,住宅需要者に対する住宅供給方式を購入用資金貸付に転換す

    ることが始まった。この新方式が,建築組合運動の拡大を支えることにな

  • 一73一

    る。とはいえ,この頃の建築組合は,ミッドランド中心に設立されたせい

    ぜい数十組織程度であった。その後もイングランドが発展の舞台であっ

    て,スコットランドでは発達を見ない。また,貯蓄機関としての建築組合

    が強力な存在となり,他の機関から手ごわい競合者として意識されるよう

    になるには,さらに数十年を必要とした。19世紀の前半ないし70年代ま

    での時期にあって,貯蓄機関の主導権を握っていたのは,前述の信託貯蓄

    銀行であった。

    既に述べたように最初の専括の規制法は,1836年に制定された。その

    当時でも組織の標準規模は,組合員数で言えば100ないし200名の小さな

    ものであった。19世紀の相互組合組織にまま見受けられた着服などの不

    正にも見舞われもし,運動は浮沈を繰り返して19世紀半ばに至る。この

    頃には貯蓄機関としての地位を確かなものにしており,これに伴なって組

    織の永続組合への転換が普及する。すなわち,上述の新方式の普及であ

    る。19世紀の60年代以降に建築組合の飛躍期を見定めて良いだろう。実

    際,'80年代に入ると,貯蓄機関としての建築組合は信託貯蓄銀行を規模

    で上回るのである。しかしながら,この時期は「労働者文化」も開花する

    時期とはいえ,持ち家住宅需要者はまだまだ限られており,熟練工や給与

    所得者を中心とした人々が住宅購入用借入れの顧客であった。ちなみに,

    貯蓄機関としての側面に関しても,建築組合は中流以上の人々の貯蓄を預

    かっているのであって勤倹貯蓄機関たりえていないという評価が,依然と

    して根強かった。実際,図2に見られるように口座当りの貯蓄残高は,そ

    の他の貯蓄取扱機関に比べると,群を抜いて高額であったし,図3の口座

    数の対人口比をみて分かるように建築組合利用度でもその他の貯蓄取扱機

    関に比して相当低い。この種の評価付けを免れるようになるのは,第一次

    世界大戦後である。

    19世紀最後の四半世紀から第一次世界大戦までの推移については他の

    機関との比較を試みたことがある{5)。不正問題の断続的再発もあって,

    世紀末は極めて不調であった。出資金および預金残高は1890年からの5

  • 一74一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    図1 機関別残高の推移(対GDP比)

    %25

    20

    15

    10

    5

    o

    y ズλ、 !一へ∠ノ鍵

    〆 Y-\_ 一@ . 一一旧纏

    1830 40 50 60 70 80 90 1900 10 20 30 40 年次

    tsb

    かposbリサ いロ

    bs

    中ips fs申tuCS

    キiac十ns吻9S十saゆbanks嚇一

    注1 機関別残高のGDPに対する百分比。機関別計数は, Stαtisticαl Abstrαct of the United Kin8domとReportfronz the Friendlツ Societies Registrαr。 GDP計数は, B。 R. Mitchell, British Historicαl Stαtistics,

    1988による。

    注2 tsbは,信託貯蓄銀行のこと。普通部門と特別投資部門との合計で,国債 部門を控除。

    注3 posbは,郵便貯蓄銀行のこと。普通部門と特別投資部門との合計で,国 債部門を控除。

    01⊥り乙00

    り ワぼ

    り ユユり

    注注旧注注注二二注注

    bsは,建築組合。出資金と預金の合計ipsは,.協同組合。出資金と預金の合計。

    fsは,友愛組合。普通組合と連盟組合の拠出金。

    tuは,労働組合。拠出金。

    csは,簡易保険組合。生涯年金基金。

    iacは,簡易保険会社。生涯年金基金。

    nsは,中央政府発行の貯蓄証書とその他貯蓄証券。

    gsは,国債だが,信託貯蓄銀行と郵便貯蓄銀行の国債部門。

    saは,自己管理年金基金。

    banksは,商業銀行個人部門預金の暫定的推定値。預金総額推定値(西村閑也推計系列に第一次大戦期以降を追補)に0.4(M.Collinsの有期預金比

    率試算)を乗じた,あくまでも暫定値である。

  • 一75一

    %60

    50

    40

    30

    20

    10

    o

    図2ポンド

    300

    250

    200

    150

    100

    50

    機関別一人当たり残高

    0

    1830 40 50 60 70 80 90 1900 10 20 30 40

    年次

    注1 tsbは,普通部門残高を口座数で割ったもの。

    注2 posbは,普通部門残高を口座数で割ったもの。注3 bsは,出資金残高を出資者数で割ったもの。

    注4 ipsは,出資金および預金の残高を出資者数で割ったもの。注5 fsは,連盟組合の拠出金残高を拠出数で割ったもの。注6 csは,生涯年金基金残高を払込み済み証書数で割ったもめ。

    注7 iacは,生涯年金基金残高を払込み済み証書数で割ったもの。

    一一 ㎡鋼 ■ 一 螢 ■ ● 臓 _ 一 彊 騒 卿 一駒一 婦・・▼ ▼ 灘 . 五 . エ エ τ 聖

    図3 機関別貯蓄者数対人ロ比(除く,簡易保険会社)

    tsb

    キposbやbs中1psキ fs申 CS愉一浴h一

    lac

    身ざノ

    〆ノ.4夕

    ,.『@ .尋「.ノ

    一一一_〆一一諾.八一璽- _ 曜スr書幅一 @ ド 解『陶〔,一r7L血一一鳳

    1830 40 50 60 70 80 90

    年次

    1900 10 20 30 40

    tsb

    .posbww‘2,・,“・,pt

    bs

    中ips吻 fs.,,.,,JV‘””'“

    cs・ゆ闇

    注1 tsbは、普通部門口座数を連合王国人口で割ったもの。

  • 一76一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    論2 posbは、普通部門口座数を連合王国人口で割ったもの。注3 bsは、出資者数を連合王国人口で割ったもの。

    注4 ipsは、出資者数を連合王国人口で割ったもの。注5 fsは、連盟組合拠出者数を連合王国人口で割ったもの。

    注6 csは、払込み済み証書数を連合王国人口で割ったもの。

    注7 iacは、払込み済み証書数を連合王国人口で割ったもの。ただし、本図で は、他の諸系列の推移を明瞭にするために、この図抜けて高い数値を示す系列 を除外している。

    年間で約20%減少したほどであった。19世紀ならびに今世紀の第一次世

    界大戦前までの金銭貯蓄取扱い機関の第一人者は貯蓄銀行だったのであ

    る。ちなみに同種機関ならびに貯蓄銀行との比較において,第一次世界大

    戦前の建築組合の地位を見ておけば,次のようになる。実業共済組合

    (lndustrial and Provident SocietiesないしCo-operative Societies)は,

    今世紀の第一四半期を通じて建築組合に匹敵する出資金勘定ならびに保険

    基金を擁し続け,第一次世界大戦期前後はそれを上回りさえした。友愛組

    合(Friendly Societies)の拠出金勘定も,ほぼ同時期に建築組合の5割

    水準を維持していた。信託貯蓄銀行は,1880年頃には建築組合に追いつ

    かれはするものの,その後1920年頃まで普通貯蓄勘定だけで建築組合と

    同規模を維持し続けたのである。郵便貯蓄銀行に至っては,19世紀末以

    来1920年代品ばまで建築組合の倍規模を擁し続けたのである。

    建築組合運動が再生するのは,第一次世界大戦が終了して住宅需要が活

    発化してから以降のことである。幽間期における生活文化ないし生活様式

    の変化も寄与しているがここでは立ち入らない。ともあれ,この時期か

    ら,住宅購入向け貸付と一般貯蓄者向け貯蓄手段の提供とが建築組合に

    とってあたかも車の両輪の如きものとして確立する。第二次世界大戦後の

    飛躍は,この延長線上にある。

    (3) E. J. Cleary, The BuiZding Societies Movement, London, 1965.

    (4)「ウィルソン報告後の住宅金融組合」,『証券経済』第70巻

    (5)「貯蓄性諸ファンドの分析一英国「大不況期」を中心とした予備的考察一」,

    『金融経済』219号

  • 一77一

    三 第二次世界大戦後における建築組合

    第二次世界大戦後の個人貯蓄取扱機関の盛衰を見る場合,特筆すべき特

    徴は次の3点に尽きよう。第1に,建築組合を唯一の例外として,相互組

    合主機関の凋落である。信託貯蓄銀行に限っていえば停滞である。第2に

    証券投資の著しい後退である。第3に,生保年金,とりわけ自主運営年金

    基金の著しい伸張である。「機関化」現象の,それも急激な変化として記

    憶しておこう。

    とりわけても建築組合が相互組合機関ないしフィランスロピィ機関の全

    般的凋落のもとで唯一著しい勢力拡大を成し遂げたことは,目覚ましいか

    ぎりである(6)。しかもそれは,商業銀行と競合するという状況をもたら

    し,政策当局の政策運営に影響を及ぼすような進展ぶりだったのである。

    イングランド銀行四季報が建築組合の事業活動に関して詳細な分析を掲

    載するようになるのは,70年代に入ってからのことである。このこと自

    体が60年代に於ける建築組合の活躍ぶりを物語っていよう。この60年代

    に建築組合の総資産額は各種金融機関の中で保険会社に次いで第2位を占

    めることになった。これは,第1に,貸付金利の点でその他の個人向け貸

    出金利よりも優位だったからである。1969年政府予算で住宅購入向け以

    外の個人借り入れに対する税制上の優遇措置が撤廃されてからというもの

    は,とくにそうであった。住宅価格が上昇しており,組合金利も以前より

    も上っていたにもかかわらず,そうだったのである。建築組合は住宅購入

    向け貸付市場で75%という圧倒的な支配力を確立するが,これは資金調

    達面での優位性によって裏打ちされたものであった。

    当時の資金調達の主要な源泉は,出資金と預金である。中でも前者が総

    債務の約90%を占めていた。株式とは異なり市場性は無いが,確かに出

    資であって組合清算時の返済責任は預金よりも劣位である。にもかかわら

    ず,建築組合の出資金と預金とには殆ど差異がない。出資の一部を少額償

  • 一78一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    図4 第2次大戦後の機関別残高の推移(対GDP比)

    %70

    60

    50

    40

    30

    20

    10

    o

    /\ ハ 「 ■ 「 ・

    ∩.拶

    一 臨

    ×一…w

    '1…””叫m桝'm嫌劇 Zり・・一爾・羅㎜,、,,曜

    A聴蜘。撒職懸騨繍醐堺 騰㈱

    1960 65 70

    5次7年

    80 85 90

    国民貯蓄制度合計

    や 信託貯蓄銀行 キ 商業銀行

    噸 建築組合

    噛 実業共済組合 ゆ 会社証券

    ウユニット・トラスト 謝轡・ 長期公共債 ウ 簡保組合 申 友愛組合 111“申1曇1闘

    簡保会社 ltllFuallFIJ

    長期生保

    ウ自己管理年金基金 噸

    出所:CSO;Annuαl Abstrαct(ゾStαtistics;do, Finαnciαl Statistics;

    Bankers' A Zrnanac; VVilson Committee Report.

    注)以下の注記で特記あるものを除いて,連合王国ベースで暦年末の残高を用い た。

    注1 国民貯蓄制度合計とは,国民貯蓄証書を始めとした非市場性証券と国民貯 蓄銀行の普通貯蓄部門・投資部門両勘定,ならびに信託貯蓄銀行の普通貯蓄部

    門勘定から構成されてきた。信託貯蓄銀行普通貯蓄勘定は,制度改革にともな

    い1979年11月21日をもって国民貯蓄制度から離脱.同系列は「信託貯蓄銀 行」系列から普通部勘定を内訳表示したものである。

    注2 信託貯蓄銀行は商業銀行への転換にむけて1976年以降準備段階に入り地 方別に大合同を行うとともに経営組織の変更を行い,79年には「国民貯蓄制 度」から離脱し,81年には「マネタリー・セクター」入りして商業銀行に転 換,86年には株式会社化。本表では,この特殊な貯蓄銀行の推移を表示する ために,特に単独系列を用意した。75年以前は普通部門勘定と特別投資勘定 との合計,76年以降は当座勘定と貯蓄勘定ならびに定期預金勘定の合計。

    商業銀行化以前と以後を問わず,計数は各年11月中旬末日現在。伝統的貯 蓄取扱機関である信託貯蓄銀行を独立表示するために,普通部勘定は,国民貯

    畜制度と重複計上になっている。

  • 一79一

    注3 商業銀行は,交換所加盟銀行ないし「マネタリー・セクター」の個人部門 預金。81年以降の計数はTSBバンク・グループの計数を含む。注4 建築組合の計数は,出資金及び預金。ただし,85年以降は小売(retail)

    部門のそれを計上した。

    注5 実業共済組合は,Industrial and Provident Societies法に基づいて登

    録されている組合のうち,Co-operative Trading Societiesへの出資金。す

    なわち,漁業事業組合への出資金の合計。

    注6 簡易保険組合とは,:Friendly Societies法に基づいて登録されている Collecting Societiesのこと。基金残高。ただし, Great Britainのみ。

    注7 友愛組合とは,Friendly Societiesのことだが,6)の簡易保険組合を除 く。基金合計残高。ただし,Great Britainのみ。

    注8 簡易保険会社とは,生命保険会社の簡易保険基金額。

    注9 長期生保とは,生命保険会社の長期保険業務基金額。

    還する場合は即時要求払いであり,多額の償還もしくは全額償還の場合で

    も短期の事前通知で払い戻される。出資金に対する配当利率は預金と同様

    に時に応じて変動するが,この時期では預金利率を約0.25%上回るよう

    に設定されている。また,建築組合の出資金と預金とに対する利子は共

    に,1万ポンド以下の個人投資もしくは若干の信託投資にのみ適用される

    特別税制が準用されていた。したがって,個人の建築組合への投資は個人

    にとっては事実上無税であって,出資(預金)・償還(引き出し)の手続

    は比較的簡単であり,しかも勘定残高を借入れの頭金に充当できる。ただ

    し,抵当貸付金利と同様に,出資金および預金の利子を変更するには3ケ

    月前の予告が必要なために市場金利の動向に対して常に遅れて変動するこ

    とになり,金利下落期には建築組合は資金を引き付けるけれども,金利上

    昇期には逆になる。また,これら預貸金利は,建築組合協会の勧告するカ

    ルテル的な金利水準に見合わせて設定されている。しかも,それらの金利

    水準は,経費率の高い組合を基準にして設定されているとして批判の対象

    になっていたのである。こうした税制上の取り扱いと勧告金利制度とが,

    後に銀行対組合の争点の主要なものになるのである。

    図4を手がかりにしながら,銀行との競争戦と言われるようになる過程

    を考察してみることにする。一端60年目に遡り,順次ビッグ・バン期へ

    とたどることにする。

  • 一80一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    同図を見れば,60年代末以降,建築組合が銀行を押え続けていると見

    えるであろう。60年代初頭には,対GDP比で9%ポイントもの差をっけ

    られていたものの,その後,急速に追いつき追い越したことが明瞭であ

    る。ただし,精査すれば,注目すべき時期が3心ある。70年代初めと末

    に2回,そしてビッグ・バン期である。特に最後の時期の動きには,建築

    組合優位の基調を覆すかも知れない要因が影響しているかもしれないので

    ある。

    まず最初の2回を考察しておくことにする。そもそも60年代は銀行に

    とって試練の始まりであった。第二市場の急成長ならびにその他金融機関

    の発展という構造変化の具体的な兆しが現れているもとで,交換所加盟銀

    行は量的にも金利面でも制約されたまま地盤沈下を来したのである。こう

    した60年代を承けて,新金融調節方式(CCC)が採用され,銀行金利カ

    ルテルが廃止された。この直後の時期に銀行の優勢が個人預金市場で現出

    している訳である。年間増分の対面山前所得比で見れば,72年に0.7%ポ

    イント差まで銀行は建築組合に迫り,続く73年,74年と建築組合を大幅

    に上回りさえしている。しかし,その後は直ちに71年以前を上回る格差

    でもって建築組合の優位が復活する。70年代末までこの状況は続く。そ

    して2回目の時期であるが,銀行は78年1.1%ポイントまで差を詰め,79

    年には逆に0.4%ポイントの差をつけている。80年も,再びマイナスとは

    いえ0.3%ポイント差で,相対的には好調の年であったといえる。しか

    し,やはり直ちに旧状に復している。80年代半ばまでは,建築組合が1.5

    ないし3%ポイントの差をつけて銀行を凌駕するのである。

    80年代半ばに至る,こうした推移をどのように解釈すれば良いであろ

    うか。70年代の対建築組合競争における銀行の浮沈の原因は何であった

    か。

    まず,70年代前半期を見ることから始めよう。新金融調節方式の採用

    に伴う金利カルテルの廃止は,銀行に取って事実上の新時代の始まりで

    あったはずである。一般的に銀行行動は活性化したと考えてよい。実際,

  • 一81一

    60年代以来急成長を遂げてきた第二市場に積極的に進出し,卸売銀行業

    務や企業金融,国際銀行業で多面的な活動を展開した。ただし,60年代

    末以来の過熱気味な経済情勢が他方で進行しており,金融政策は引締め基

    調を維持し,強あさえしていた。その下での不動産ブームの発生と崩落

    は,セカンダリー・バンクを始めとした金融機関の倒産を連発させた。第

    一次オイル・ショックが重なり,事態はより深刻味を帯びる。ついに「救

    命艇」作戦が発動されるに至る。当時「危機」ないし「恐慌」と呼び慣わ

    された,国内信用秩序の混乱が,英国初の銀行法制定の契機となったので

    ある。まさに激動期であった。こうした背景の下で,銀行は多面的な業務

    展開の一環として不動産ブーム下の住宅金融市場で一定の成果を収めっ

    っ,既述のとおり個人預金の獲得にも成功した。しかし,この時は預貸共

    に束の間の成功であった。

    さらに,70年代品から80年代初めにかけての場合,当時の英国は「ト

    リレンマ」にさいなまれ,イギリス病が昂じていた。加えて,第2次オイ

    ル・ショックが重なる。銀行は70年代前半の事態の中で発動された補足

    的特別預金制度の下にあり,コルセットに締め付けられて金融仲介停止状

    態に立ち至る。この間,79年の為替管理撤廃が銀行をさらにユーロ市場

    表1 住宅貸付市場の推移(1963-1990) (単位:%)

    期 間 地方自治体その他公共薄

    銀 行 建築組合 その他

    1963-67 12.4 1.0 2.4 77.0 7.2

    1968-72 3.7 1.0 6.5 86.1 2.7

    1973-77 8.5 2.5 3.8 83.2 2.1

    1978-82 3.5 2.4 20.3 71.6 2.2

    1983-87 一18.3 0.1 23.0 70.0 8.6

    1988-90 一〇.7 0.2 23.0 67.6 9.8

    1988 一〇.8 0.4 27.0 58.6 13.9

    1989 一〇.5 0.4 21.3 71.1 7.6

    1990 一〇.8 一〇.3 19.8 75.1 6.9

    〈典拠〉図4に同じ

    1) 当該期間における住宅貸付増分を百として各機関の増減分を計算。

    2) 1963年以降の各5ケ年の平均値。80年代末のみ3ケ年の平均値で,遂四分を追加した。

  • 一82一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    に接近させるという状況も存在した。インフレーションも再燃する中,政

    府は80年に補足的特別預金制度の廃止を予告し,その翌年には新たな金

    融調節方式(マネタリー・ベース・コントロール)の導入に揃えて最終的

    に廃止した。しかし,その後の銀行はコルセットからの解放感を満喫でき

    た訳ではない。経済運営上も窮地にあったサッチャー政権がフォークラン

    ド紛争で強攻策を採用して起死回生を果たした82年は,メキシコの債務

    利払い停止予告の年でもある。国際的累積債務問題の表面化であった。こ

    れがいかほどの衝撃であったかは,当時の報道を想起すれば事足りるであ

    ろう。

    こうした環境のもどで,個人向け金融市場における銀行行動の拡張が起

    こったのである。それは,客観情勢に促された,いわば苦肉の策であっ

    た。とはいえ,この試みは効果的であった。とりわけ住宅金融市場への本

    格的参入は目覚しい効果を挙げた。表1に明らかなように,銀行は飛躍的

    に勢力を拡大したのである。他方で,これに並行して前述のような個人預

    金市場での好調を再現したのである。この時期に始まる,住宅金融市場で

    の銀行勢力の拡大は明らかに建築組合の牙城を揺さぶるものであったし,

    その後も増勢傾向は衰えるどころではなかった。建築組合側が危機感を抱

    く番になったのである。建築組合にとってはほぼ唯一の資金運用先である

    市場を奪われ始めたのであるから,深刻であった。現在の住宅金融市場に

    おける諸勢力の分布図は,この時期以来のものだといってよい。しかしな

    がら,これに比して預金市場は,.今回も銀行にとって束の間の光明でしが

    なかった。

    個人預金市場における銀行の2回にわたる回復が短命であったのは何故

    であろうか。前回については,前述の背景を踏まえて補足的特別預金制度

    の発動に象徴されるような量的規制強化の基調とともに,例えば相対的に

    小規模な銀行預金に対する上限金利規制といった建築組合向け支援政策の

    発動を挙げるのも良いだろう。だがこれでは,説明不足である。2回目の

    場合には,前回並の政策要因を挙げることができない。敢えて挙げるとず

  • 一83一

    れば,81年に新たに発売された物価スライド条項付き国民貯蓄証書であ

    ろう。低迷をかこっていた国民貯蓄制度はこの発行によって息を吹き返し

    たかに見えたし,実際に政府の公共部門借入れ計画の資金調達超過(オー

    ヴァ・ファンディング)に貢献した。しかし,このせいで個人預金市場占

    有率を下げたのは銀行ばかりではなかった。建築組合も同様に影響を蒙っ

    たのである。ただし,銀行とは違って翌年には回復し,その後は従前以上

    の水準で勢力を拡大するのである。しかも,その国民貯蓄証書自体がイン

    フレ高金利期にのみ有効で,国民貯蓄制度再生の決め手とはなり得なかっ

    たのである。

    2回目の時期の銀行は本腰を入れて個人市場を開拓しようとしていた。

    建築組合との対抗上,大手銀行が次々と個人向け商品を工夫するとともに

    土曜日営業の再開に踏み切ったし,自動現金支払い機の稼働時間も大幅延

    長した。にもかかわらず,預金市場では速効の実が上がらない。かえっ

    て,建築緯合側に競争力劣化の危機意識を強めさせたに過ぎない。組合間

    の大型合併を次々成立させ,同時に大手組合も中下位組合も,中小銀行と

    提携することによってクレジット・カード発行や小切手決済機能付き貯蓄

    勘定の発売に乗り出したのである。建築組合が債券市場や第二市場から資

    金調達を開始するようになるのも丁度この時期であった。

    考察に当たって着目すべき第一点は,2回の短期反転のいずれもが金利

    上昇の急速かっ高水準な局面とその後の反転局面とから成る時期に当たっ

    ていることである。この符合については制度的要因を用いて説明できる。

    1930年代の経済状況の下でしばしば過熱した組合間競争を収束させるべ

    く,1939年に開始された勧告金利制度がそれである。この制度の下で建

    築組合金利が変更されるには,ほぼ2ないし3ヵ月の時間が必要なのであ

    る。まず建築組合協会が新たな勧告金利を決定するには,ほぼ1カ月毎に、

    しか開催されない委員会に諮られたうえで個別組合に提示されるという手

    順が必要である。これに基づいて個別組合が個別に金利設定するのである

    が,勧告金利が提示されてから各組合が金利変更を店頭表示するまでにほ

  • 一84一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    ぼ1カ月を要してきた。金利変動期には,常に建築組合金利は市場金利の

    動きに遅れて変化するのである。したがって,建築組合は金利上昇期には

    金利競争で不利に,逆に金利下降局面では有利になるという構造があっ

    た。それ故に,金利上昇後に下降局面が現れる否や銀行の対建築組合競争

    力がたちまち旧状に復するのは当然の成行きであった。

    何よりも,個人預金市場における相対的劣化が最優先の課題のひとつと

    して表面化するにいたらなかった事情が当時の銀行には存在したというべ

    きであろう。着目すべき第2点である。すなわち,60年代,70年代を通

    じて銀行が対建築組合預金競争で敗北し続けた最大の原因は,シチーの国

    際金融市場に,とりわけ70年代の発展に加えてオイル・マネー流入によ

    り飛躍的な拡大がもたらされたユーロ市場に活動の重点を置くことに急で

    あったことである。このことが重要なのは,個人預金市場におけるその後

    の,つまり80年代初頭以降の銀行行動を説明する要因でもあるからであ

    る。すなわち,建築組合対銀行競争において注目されるべき3回目の時期

    を考察する上で重要なのである。節を改めて考察を続けることにする。

    (6)第二次世界大戦後の発展には目覚ましいものがある。経済復興の歩みととも

    に,発展を続けてきたといえる。実際,持家比率は第一次世界大戦勃発時の

    10%から1950年の30%へ,69年忌は40%を超え,さらに70年には50%を超

    えることになる。この過程を支えた住宅金融市場は,建築組合の文字通り独壇

    場であった。

    四 ビッグ・バン期の建築組合一新時代へ一

    オイル・ショックが引金となった世界経済の構造的変化は,国際金融市

    場を革命的といえるまでに複雑化した。不安定要因を回避するための知恵

    の重層化ではあったが,不安定要因は債務累積問題として鮮烈な形で現れ

    るにいたる。この過程が,ユーロ市場を介して国際金融に深入りし過ぎた

    銀行界に反省を促すことになったのである。82年のメキシコ事件は兆し

  • 一85一

    を確定した,いかにも象徴的な事件ではあったが,還流した膨大なオイ

    ル・マネーを発展途上国向け開発融資に振り向けたことの綻びは,70年

    代末には兆していたといえよう。急速な近代化路線を選択した一部産油国

    もその例外ではなかった。英国の銀行が国内市場の見直しを急務と心得る

    ようになるのは,まさにこの時期である。建築組合協会の勧告金利制度と

    預金利子に関する税法上の取扱いとに的を絞った批判を鋭意展開すること

    になる。従来は建築組合の独壇上であった住宅金融へも本格的参入を開始

    し,コルセットの拘束からの解放も実現して著しい成果を挙げることにな

    る。しかし,それだけに,個人預金をめぐる競争での銀行の建築組合に対

    する劣位は目立たざるをえない。

    したがって,この時期に本腰を入れながらも銀行が敗北せざるを得な

    かった要因が明らかにされねばならない。両者の間の競争は金利競争であ

    り,そこには制度要因がきわめて強力に作用してきたということである。

    個人預金者の利子所得に関する税制上の取扱の差異が,建築組合の優位を

    支持していたのである。この要因の重要性は,81年以降の国内個人預金

    市場の推移の示唆するところでもある。81年以降の推移で注目すべきは,

    図4によれば,まず80年代半ばまでの建築組合の好調であり,次いでそ

    の後の銀行の回復傾向である。86年以降の銀行の回復は,85年に予告さ

    れ翌年実施となった,建築組合向け税制の銀行適用と期を一にしている。

    実際86年は,銀行の預金獲得拡大が建築組合の獲得水準を押し下げるこ

    とによって達成されていると読める。87年は前年の基調下での小反動で,

    88年は金利上昇期も手伝って70年代初頭以来の好実績を銀行は達成した

    と読める。制度要因の変更が銀行の競争力を回復させたと見てよいであろ

    う。前節の暫定的考察では,残高ベース歯ならびに表4に依拠する限りで

    は建築組合の優位の持続を読み取ることになっていた。80年代全体をと

    おしてみた場合には前半期の落込みによって相殺,呑み尽くされてしまっ

    ていた新しい事態が,後半期に現れているのである。個人預金をめぐる銀

    行と建築組合との競争は激化したのである。この新しい事態については,

  • 一86一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    いわゆるイクオール・プッディング下での競争は継続激化してきたと考え

    るのが順当であろう。実際のところ建築組合は個人預金市場でも危機感を

    深めているのであって,将来構想に苦慮してきたのである。冒頭に触れ

    た,アビー・ナショナルの転換は,その現れの一つである。

    なお80年代末の状況には若干の検討が必要であろう。検討を要するの

    は,88年来の金利上昇である。従来は金利上昇期における銀行好調と建

    築組合不調という型があったが,今回は88年の建築組合計数が示すとお

    り,従来の型が当てはまらない。従来の型を支えた要因がもはや存在しな

    いのである。すなわち,勧告金利制度は,従来から例えば73年や77年の

    ように一部大手組合のカルテル離脱に見舞われてきたが,さらにウィルソ

    ン委員会の廃止勧告に代表される外部圧力の高まりもあって廃止への道を

    辿ることになった。81年に部分的な勧告停止に踏み切ったのを手始めに,

    同制度の縮小を図るのである。ついに84年11月以降は同制度が金利変更

    の時期について足並みを揃えさせるだけに限定され,金利カルテルとして

    は無機能化したのである。最終的には86年に勧告は停止されたのである。

    したがって,今回の金利上昇下での建築組合の好調は,一部は新商品が

    寄与したのであろう。従来から70年代における有期出資金を始めとして

    普通出資金利回りを1%以上上回る高利回り勘定を開設して出資金の多様

    化を行ってきたし,少額積立貯蓄や高利回り貯蓄手段を手掛けるばかりで

    なく銀行ないしクレジット会社と提携して小切手機能ないしクレジット・

    カード機能を付加するなどの試みを行っている。また定期預金手段の提供

    も開始し,これは事業会社預金の吸収にもつながっている。

    とはいえ,88年の実績はむしろ銀行・組合間の競争の本格化をこそ示

    唆していると考えたほうがよい。80年代の銀行対建築組合の競争につい

    てさらに言及すべきは,以上のような経緯が同時に銀行と建築組合との間

    の垣根を低くする過程でもあったということである。いわゆるイクオー

    ル・プッディングは,利子所得課税の変更にとどまるものではなかった。

    この過程が,従来銀行が主張してきた線に則った銀行寄りのものであった

  • 一87一

    とはいえない。利子所得課税の変更すら必ずしもそうではないのである。

    銀行が主張してきたのは建築組合に適用されてきた単一税率の廃止であっ

    て,実際に採られた方策はそうではなくて銀行への適用拡大であった。ち

    なみに,この拡大は国民貯蓄銀行には及ばなかったのである。さらに税法

    上の取扱に関しては,事業所得課税における差別があった。建築組合に適

    用されている相互組合用の特別税率は巨大な力を持つに至った現在の建築

    組合にとっては低すぎるとして銀行が批判してきたものである。これも一

    方では法人税率の引き下げを行いながらも他方で設備投資初年度償却制度

    の段階的廃止を押し進めるという経緯を経たうえで,建築組合特別税率が

    廃止されることになった。また,譲渡所得税を課せられてきた建築組合の

    国債投資収益は営業所得課税の対象に変更されることにもなったのであ

    る。

    より重要なのは,建築組合の業務拡大である。第1に,ポンド建て卸売

    表2 建築組合主要資産負債(1955-1990)(歴年末現在) (単位:%)

    資産/負債 主要負債 主要資産年 次

    合 計 出資・預金 定期預金 CD 銀行借入れ 債 券 貸 付1955 100 94 85

    1960 100 92 84

    1965 100 93 82

    1970 100 93 81

    1975 100 93 77

    1980 100 92 79

    1985 100 86 2 2 1 1 80

    86 100 82 2 2 2 4 82

    87 100 80 4 2 2 4 82

    88 100 78 4 2 2 5 81

    89 100 75 5 3 1 5 82

    90 100 74 7 4 1 6 84

    〈典拠>1988年までBSA資料およびBSA, Buiding Societies Yeαrbooh;89年はCSO, Annuα1 A bstrαct()f Stαtistics.

    1)86年から北アイルランドを算入。それまではGreat Britain。

  • 一88一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    市場の利用である。歴代政府が住宅抵当金利を低めに設定させるべく勧告

    金利制度に並々ならぬ関心を示してきたことに税法上の理由も加わって,

    卸売資金は建築組合にとって割に合わぬものであった。しかし,卸売市場

    金利の低下や勧告金利制度という組合カルテルの縮小,79年発足の保守

    党政権の競争促進政策が手伝って,80年以降建築組合は卸売資金の取入

    れを開始する。銀行借入れが本格化するのは80年以降である。また,80

    年に初めてネイションワイドが譲渡性債券を発行する。しかしながら,当

    時は基準税率で納税した上での利払いを義務付けられていて,その市場性

    に難があった。卸売市場の利用が軌道に乗るのは,83年になって譲渡性

    預金証書に税込みでの付利が可能になってからである。とはいえ,これら

    の手段を活用できたのはシティで名を知られている組合に限られるので

    あって,組合総体にとって卸売市場が一定の地位を確保するのは85年以

    降である。ちなみに,建築組合総体の貸借対照表に占める卸売市場の地位

    は,表2に確認できよう。すなわち,負債面では約7%,資産面では約10

    %を占めるに至っている。零水準からここまでわずか10年という急激な

    変化である。したがって,前述した80年代末の金利上昇が及ぼす影響が,

    ビッグ・バン後の建築組合を考察する上で重要視されて然るべきであると

    考える{7)。

    第2に,既に若干触れてもいるし,蕗谷氏の前掲論文が80年代初頭の

    状況を詳細に記述しておられるが,小売市場でのサービス提供範囲の拡大

    である。ここで取り扱うのは,金利カルテルの実質的廃止後に続々発売さ

    れるようになった個人貯蓄商品のことではない。この時期の建築組合の銀

    行対策を論ずる上で見逃しならないものは,この時期の盛んな機械化投資

    に反映されている。端的には,銀行が従来専轄して行ってきた決済業務に

    川下から参入しようとしていることである。建築組合による現金自動出納

    機導入は,83年にハリファックスが導入計画を公表したことによって先

    鞭を切られた。同組合は独立網を築いてき,85年に最初の100台を設置

    してから約3年後の88年6月末現在では自組合内の750余にのぼる支店

  • 一89一

    網を網羅する900台を擁することになった。同組合の回線網に加盟する組

    合を含めると1250台にのぼる。これは資本金上の5大銀行(8)には及ばな

    いものの,それらに次ぐ規模である。その他に建築組合は2系列の回線網

    を構築iしている。リーズ・パーマネントやアライアンス・レスターが中心

    組合であるマトリックス系が350台,そしてアビー・ナショナルが中心の

    リンク系が500台を擁iしていたのである。なお,マトリックス系は2100

    台を擁するバンク・オブ・スコットランドと,リンク系は300台のクライ

    ズデール,180台のナショナル・ジャイロ,および60台の協同組合銀と

    接続済みであった。しかも,89年末達成の目標では,3系列合計でさら

    に1600台以上の増設を図るという積極さであった。さらに,ハリファッ

    クスがリンク網に加盟し,またリンクとマトリックスが合同することにな

    る。10万人の顧客を持ち,3500台にのぼる一大ネットワークが形成され

    ることになったのである。

    この推移に関連して注目すべきは,販売時点電子決済制度(POS)であ

    る。82年に初めてアバディーンでクライズデール銀行が英国石油公社と

    共同して実験を始めた。この試み自体は,速やかに試行段階を終えて,稼

    働に至った。85年には,ロンドン手形交換所加盟銀行,クレジット会社

    ならびに大手小売商の共同事業として全国的な電子決済網を構築する計画

    が明らかにされている。加盟銀行では,ナットウェスト・ミッドランド系

    とバークレイズ系とがしのぎを削ったのである。しかし,英国電電公社に

    よる独自サービスの開始もあって,様々な提携関係を持つ種々の異なった

    仕様の,規模も大小取り混ぜた企画が乱立したのが実状であった。統一仕

    様の全国網の達成目標年度は,先延ばしされ続けた。このような状況の下

    で,建築組合側も積極的な取り組みを行ったのである。アンダリアは85

    年秋にノーサンプトンでコンピュータ製造会社との共同事業として先陣を

    切った。その後,大手組合はもちろん中小組合も前述の現金自動出納機網

    を電子決済制度に発展させていくことを目論見ることになる。既に述べた

    ハリファックスのリンク加盟,さらにマトリックスとリンクとの合同が含

  • 一90一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    点しているのは,このことにも関わる。即ち,これによって,中小銀行な

    らびに建築組合の手による巨大回線網が登場することになるからである。

    この分野において建築組合が独自の決済手段を獲得することを可能にする

    というわけであった。これは更なる展開の可能性も示唆していた。ちなみ

    に連合王国最初の電子ホームバンキングのサービス提供は,ノッチンガム

    建築組合がバンク・オブ・スコットランドと共同で82年に発足させたも

    のであった。

    こうした現状に至る過程で,建築組合は送金・支払機能の獲得を試みて

    きた。いくつかの組合は,70年代末ないし80年代初頭から銀行や金融

    サービス会社と提携することによって付利小切手勘定やクレジット・カー

    ドの提供を試みてきたが,無担保貸付を容認されていなかったので実効は

    上がらなかった。旅行者小切手の導入の試みも,外国為替業務が許されて

    おらず,組合と取引のある個人以外は顧客たり得ないという壁にぶつかっ

    た。その他,保険の取扱についても顧客需要に応える態勢を検討していた

    が,同様の規制のもとでは実現できずにいた。

    上述の種々の障害が限定つきながらも取り除かれ,業務の拡張が可能に

    なったのは,1986年に成立し翌87年から発効した新法によってである。

    これを第3点として言及したい。既に述べてきたように,70年代末から

    80年代初頭にかけての時期に銀行が個人市場への取り組みを本格化した

    ことは建築組合にとって大いなる脅威になった。建築組合側の危機感が募

    る一方になったという新しい事態の発生である。

    先ず,独壇上であった住宅金融市場における銀行の本格的進出は,ほぼ

    唯一の資金運用先の将来に陰りが生じたことを意味したのである。建築組

    合にあっては,第二次世界大戦以降ほぼ一貫して住宅抵当貸付が総資産の

    8割を占め続けた。資産構成においてこれほどの特定項目集中を見て取れ

    る金融機関は他にない。既出の表1は,年間フローでの住宅金融市場の推

    移を示している。この間の状況は,明らかであろう。事は,銀行の進出振

    りの顕著さにとどまらない。公共部門の後退はこの新たな競争相手の出現

  • 一91一

    に因るものではなくて,「小さな政府」を実現する政策の一環として公共

    心住宅政策からの撤収を位置付けたサッチャー政策に由来するものであ

    る。したがって,相対的構成関係からすれば,公共部門のかっての位置は

    その他の金融機関(とりわけ,80年代になって叢生した住宅金融会社)

    に取って替わられたのであって,銀行は確実に建築組合の地位を蚕食した

    と言えそうである。建築組合は70年代の80数%から60%へと20%ポイ

    ント以上市場占有率を下げているのであって,これは同期間に銀行が数%

    から30%弱へと急拡大したことと見合っているからである。もっとも,

    この状況は,個人の住宅購入用借入れの拡大という現象の下で成立してい

    る。住宅資金借入れ需要に建築組合は応え切れておらず,多数の借入れ待

    ちの行列が作り出されていることが従来から指摘され続けてきていた。し

    たがって,上記の現象が示唆しているのは単に銀行が僑在需要の吸収役を

    果たしたに過ぎないと言う事かも知れないのである。この時期の現象は,

    より詳細な分析を必要とする。ビッグ・バン後今日に至る経緯を考察する

    上で重要な意味を持っているので,別稿を用意してその責を果したい。即

    ち,建築組合年間貸出フローの増分自体は1987年を例外として着実に増

    えているからであり,また銀行の獲得している市場がどのような性格のも

    のであるのか俄には判断しかねるからである。後者が重要である。銀行借

    入れ主体の所得階層性や借入れ額の大きさなど,より詳細な検討が必要で

    ある。いずれにせよ住宅購入需要が頭打ちになり,したがって住宅資金借

    入れ需要が減退し始あた80年代末以降の実績推移を検証することによっ

    て果して銀行は建築組合の顧客を奪うことに成功したのかどうかが確認さ

    れるであろう。

    さらにこの間銀行が個人預金市場に本格的取り組みを開始したのであっ

    て,建築組合はその資金調達基盤をも揺るがされることになる。こうした

    状況にあって,建築組合は様々な試みを行いつつ,同時に業務拡大を求め

    て規制当局に積極的な働き掛けを開始した。その代表的なものが,新規立

    法措置によって業務拡大が可能になることを求めて83年1月に発表され

  • 一92一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    た建築組合協会の文書である(1>eω Legislαtion for.Building Societies)。

    これに対して政府は翌年夏,ほぼ追認する内容の緑書(.Building

    Societies'、A AVeω Frαrneworh)でもってこれに応えたのである。この当

    意即妙ぶりは,一見奇異に見える。

    70年代に高まった,建築組合の経営姿勢に関する様々な批判を勘案す

    れば,そうであろう。議会でも,従来は一部組合の不祥事発生に伴なう法

    的措置程度の議事に終始していたものが,俄然活発な議論が見られるよう

    になっていた。公共部門が住宅購入資金の補完的供給者として位置付けら

    れてきたように,個人住宅に関する超過需要の存在は歴代の政権にとって

    見逃しならない政策課題であり続けたのであって,事はこれに関わる。こ

    の時期には,さらにこれが建築組合の経営姿勢を問う形で論じられていた

    のである。即ち,住宅購入用資金需要者は列を成して順番待ちをしている

    が,若年夫婦や裏町の住人,移民者,女性世帯主から成る社会的弱者を始

    めとして多くの者が借り入れを断わられている。これは,非営利機関であ

    るはずの建築組合が公衆の利益に対する固有の義務を忘れ,純粋に商業的

    な経営方針を採るに至っていることを示唆しているのではないか,と。し

    かも,良好な貯蓄手段を提供し続けてこれたのは地域に根差した地方的な

    存在であったからであるにもかかわらず,昨今の建築組合は銀行との競争

    にばかり目を向け,莫大な投資をして町々の中心街に店舗を設けるなど,

    支店網の拡大に躍起になっている。これは,いっこうに資金需要者の行列

    の解消に寄与していないばかりか,かえって営業経費率の上昇に帰着して

    いる,という訳である。この種の批判の延長線上で,片や事実上の国有化

    によって対処しようとする試みと片や自由化によって対処しようとする試

    みとが現れることになる。前者は非営利的相互組合の社会政策的含意を正

    面に押しだしたもので,具体的には76/77年議会に「建築組合公社法案」

    として議員提案されたものである。同法案は廃案になったが,後者の,各

    種金融機関の参入と組合間競争の促進とによって達成されるであろう住宅

    金融市場の競争市場化を求める方向は定着していった。建築組合にとつ

  • 一93一

    て,逆風はそればかりではなかった。50年代末にブラックプールやステ

    イト,ロイズ・パーマネントの調査が議会委員会の手に委ねられてからと

    いうものは絶えて無かった建築組合の不祥事が再燃したのである。グレイ

    ズやニュウ'・クロスに関する議会委員会調査報告が公表されたのは,79

    年越84年であった。

    にも関わらず,建築組合の業務拡大に関する政府の反応は素早かったの

    である。業務拡大を求める建築組合側の要求は時宜を得たというべきであ

    ろう。自由化の効用に期待する潮流は確実に高まっていた。前の労働党政

    権下でも変化を見て取ることができる。いわゆる国有化政策の神話化であ

    る。建築組合の事実上の国有化問題は,75年から76年にかけて大いに話

    題を呼んだ主要銀行・生保国有化論の副産物であった。しかしそれは頓座

    した。銀行・生保国有化は,労働党左派によって積極推進された。彼ら

    は,英国産業低迷の原因を銀行部門による商工業向け融資の不足に見定め

    て,主要な資金供給機関を国有化することによって事態の打開を図ろうと

    したのである。この提言は,キャラバン内閣発足年の同党全国大会で採択

    されるに至った。しかしながら,直ちに政策化される運びにはならなかっ

    たのである。元首相ウィルソンを委員長に据えた王立委員会に調査付託さ

    れた。そして,この委員会は中小企業金融については特に強調して制度整

    備を提唱したものの,国有化論が論定していた英国産業の衰退原因を退

    け,マーチャント・バンクを含む大銀行および大手生保会社の国有化によ

    る利益については明確に否定したのである(9)。これに加えるに「サッ

    チャー主義」である。新政権は公的部門の拡大を否定するに留まらず,既

    存の公的部門縮小を断行していった。自由市場機構の効用が金科玉条で

    あった。

    否,それに留まらず,組合側の要求は政策当局の年来の課題に見事に合

    致したのである。シティの国際金融市場としての再生とさらなる発展とい

    う,とりわけ70年代半ば以降の歩みは,しかし同時に外国金融機関の跳

    梁を許す過程であった。それは外国金融機関による国内市場浸透をも許す

  • 一94一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    ものでもあった。従って政策当局にとっては英国系金融機関の体質強化は

    避けて通れない懸案であって,有力外国金融機関に劣らない英国製金融複

    合企業の育成が焦眉の課題であった。幸いにというべきか,大手組合は加

    盟銀行並みの体力を既に備えていた。

    ここ100年の建築組合界における集中過程には目を見張らせるものがあ

    る。それは,巨大な力を備えた大手組合が生み出され,さらに成長し続け

    る過程でもある。初めて包括的な統計の整備された時期,例えば1895年

    では,3600余の組合が63万人の組合員と約4500万ポンドの総資産を擁

    していた。組合数は早くも今世紀初頭には半減しており,両大戦間期には

    3分の1の1200余に,1960年には5分の1になった。総組合数の減少は

    その後も続いているのであって,1960年の726組合は70年代後半には半

    減し,80年代前半には200組合を割り込み,さらに減少し続けている。88

    年をとれば,130組合が約7000店舗と4200万組合員ならびに総資産1800

    億ポンドを擁している。この変化については,3点にわたって指摘してお

    けばよいだろう。第1に,1950年代までの減少はほぼ組合解散の結果で

    あったが,その後のは営業譲渡による合併が主因である。したがって,第

    2に60年代以降に支店数が著増している。60年代は対前年比数%増で推

    移し,その後は80年代初頭に至るまで同11ないし12%増の勢いで増え

    続けたのである。ただし,この推移には合併運動の展開が反映されている

    だけではなくて,新規支店開設方針の採用とその積極推進という要因が強

    く反映されている。そして,第3に,大手組合が成長し,建築組合界に極

    めて高い集中構造がもたらされている。

    件の時期,すなわち80年代初頭では,建築組合は2百数十組合が3千

    数百万組合員を擁する存在であった。しかも,70年代以降というものは

    上位5組合が全組合総資産の過半を占めるようになっている。ちなみに,

    80年代後半には60%を超えるのである。上位10組合をとれば,70年代

    後半に70%に達して,87年には80%を超えた。特に上位2組合,すなわ

    ちハリファックスとアビー・ナショナルとはそれぞれ単独で全組合総資産

  • 一95一

    の2割近くを占める巨大組合である。これら2組合の総資産高は,ロイヤ

    ル・バンク・オブ・スコットランドないしTSBグループ(かっての信託

    貯蓄銀行)並みなのである。他の大手・中規模組合もいわゆる規模の利益

    を追求して合同型の合併を試みてきた。とりわけ80年代初頭の時期には,

    上位組合の分布図に変化を与える合同が起こっている。当時第3位の,し

    かし資産規模でいえば上位2組合の半分以下のネイションワイドが同5位

    のウーリッチ・エクイタブルとの合同を目論見た。この合同は破綻した

    が,第7位のアンダリアとの合同には成功した。相当に両組合の融合には

    苦しんだようであるが,ネイションワイド・アンダリアとしてアビー・ナ

    ショナルにほぼ匹敵する資産規模を擁するところまで成長した。2巨頭時

    代は3巨頭時代に移行したのである。さらに,当時第8位のアライアンス

    と同10位のレスターとの合同は,第4位のアライアンス・レスターを生

    むことになった。

    70年代後半ないし80年代の建築組合は少なくとも上位10組合をとれ

    ば,それぞれが中位の加盟銀行並みないし下位加盟銀行あるいは上位マー

    チャント・バンク並みの資産規模を誇ったのである。既に確固たる足場を

    築いていると見える特殊金融機関をより強化する方策を講じることは,時

    宜にかなっていた。相互組合にして相互組合にあらず,営利機関化した巨

    大金融機関と批評されていた大手建築組合の存在を活用しない手はなかっ

    た。大幅な業務拡大を承認して本格的に加盟銀行と競争させ,その競争を

    通じて外国銀行に対抗できる英国製の金融機関を輩出させるという夢は,

    自由市場機構崇拝の政権下であればこそ描けたといえる。

    さて,こうした状況のもとにおいて,84年の政府洋書が発表され,さ

    らにこれを踏襲して新建築組合法が86年に議i会を通過した。87年正月に

    発効した新法は,無担保貸付を始めとして広範な金融業務ならびに不動産

    関連業務を認めたのである。同法に明記された新業務を列挙すれば,送

    金,外国為替,現金受け払い代理,抵当貸付仲介,投資関連サービス,少

    額持株プランの設定・管理,信用供与アレンジ,年金基金運用,などな

  • 一96一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    ど,となる。また,同法は,株式会社への転換を選択できるとしている。

    相互組合の枠組みにもはや拘る要無しと宣言したのである。サッチャー政

    権後半期に相当する80年代後半に見られた,こうした事態こそ,新時代

    を象徴するもでのあった。サッチャー政権は,商業銀行が長年にわたり建

    築組合に浴びせてきた批判に終止符を打ち,さらに歩みを進めて両者の競

    合を本格的なものに仕上げたのである。実質的に100年ぶりの法改正は,

    斯様に位置づけられる。

    この法改正を承けて,ハリファックスと業界第1位の座を争ってきたア

    ビー・ナショナルは,89年に株式公開会社に転換し小売銀行の仲間入り

    を果たした。その企図が発表された当座は,大手建築組合に「アビーに続

    け」の声が高かった。しかし,ハリファックスは,直ちに大々的な広報活

    動を行い,アビーには続かず建築組合として業容を展開していく意志を発

    表した。新法への対応は,こうして業界を二分することになった。ただ

    し,世界的に金融環境が厳しさを増す中で,しかも87年の株式暴落の影

    響も加わり,「アビーに続け」の声は途絶えた。

    国内民間部門向け貸出増分に匹敵する年々の増加がもたらされている住

    宅ローン市場を考えるだけでも,新法下の建築組合の動向に鋭敏なアンテ

    ナを向け続ける価値がある。同市場には,交換所加盟銀行が本腰を入れて

    いるだけでなく,保険会社や住宅金融専門会社が進出し,80年以降は信

    託貯蓄銀行も参入している。サッチャー主義によってこの分野から公共部

    門が撤退しているだけに,市場競争に任された同市場がどのように推移す

    るかは,注目に値する。

    (7)ビッグ・バン後については,別稿を用意している。80年代末以降現在に至

    る分析を行うものである。

    (8)すなわち,ナット・ウェストは2400台(当時,以下同様),バークレイズ

    1500台,ミッドランド1500台,ロイズ2000台,そしてTSBグループが2000台目

    (9) Report of the Cornrnittee to Review the Functioning of Financial

    Institutions, Sess. 1979-80, Cmnd. 7937.

  • 一97一

    主要参考文献:

    <定期刊行物>

    Banh of England Quarterly Bulletin

    Banたer

    Banking VVorld

    Financial Tirnes

    Midland Ban'h Review

    日本経済新聞

    Central Statistical Office, AnnuaZ A bstract of Statistics

    Central Statistical Office. Financial Statistics '

    <英国議会資料>

    Report of the Committee on the Worleing of the Monetary System,

    Sess. 1959-60, Cmnd. 827, with Principal Memoranda of Evidence and

    Minutes of Evidence.

    Report of the Comrnittee on Consumer Credit, Cmnd.4596 (HMSO

    1971)

    Report of the Committee to Review the National Savings, Sess. 1973,

    Cmnd. 5273.

    Grα:ソs-Buildin8 Society' lnvesti8αtion, Sess.1979-80, Cmnd.7557.

    Report of the Comniittee to Review the Functioning of Financial

    Institutions, Sess.1979-80, Cmnd.7937.(西村閑也監訳『ウィルソン委員

    会報告』,1982年)

    五αωCommission Report, Sess.1980-81, Cmnd.8257.

    Building Society:A IVew Franxework, Sess. 1983-84, Cmnd. 9316.

    IVew cross Building Society:Revocation of Designation, Sess. 1983-84,

    Cmnd.

    Finαnciα1 Act各年度

    庶民院議事録

    貴族院議事録

    〈その他資料〉

    建築組合協会 提供資料

  • 一 98'一 英国ビッグ・バンまでの組合金融

    <二次文献>

    E. L. Hargreaves, The Arational Debt, 1930.

    H. O. Horne, A History of Savings Banhs, 1957.

    A.R. B. Haldane, One Hundred & Fifty Years of Trustee Savings

    Banhs, 1960.

    E.J. Cleary, The Buil(lin8 Societ:ソMovement,1965.

    J. E. Wadsworth, The Banks and theMonetary System in the UK 1959-

    1971,1973.(高橋泰蔵監訳『イギリスの銀行と金融政策』,1974年)

    M. J. Daunton, Royal Mait: The Post Office Since 1840, 1985.

    J. D. Campbell, The Savings Bank of GZasgow, [1985]

    P.Johnson, Sαvin8αnd SI)en(ling'The Working-clαss Econorn二y in

    Britain 1870-1939, i985.

    Goacher, P. J. Curwen and others, British Non-banh Financial

    Intermediaries, 1987.

    M. Collins, Money and Banhing in the UK: A History, 1988, rpt. 1990.