22
ӽڥΔωοτϫʔΫ τϥϯεφγϣφϧɾϑΟϦϐϯਓͷੜ׆Ӭو Abstract This essay focuses on the social relations of a young Filipino male settled in Japan on a Settlement Visa, which he acquired subsequent to his Filipina mother’s marriage to a Japanese man. Studies of Filipinos who arrived in Japan subsequent to the 1990 revisions to the Migration Control act are rare, in contrast to the abundant studies of the Filipina “entertainers” of the 1980s. I narrate ethnographically the relations that he constructed in everyday life with Japanese, Filipinos, and others across and within national borders, examining contemporary ethnographic debates over the position of anthropologists, and proposing new directions for cultural anthropologists working on ethnography. In particular, I draw attention to the mutuality of the relationship between informant and anthropologist, the former using me as a means of achieving access to public services, and myself using him as an ethnographic informant. Keywords : Transnational Filipinos, inclusion, civil society, informant, ethnography ɽڀݚͷత 80 લɼଟͷϑΟϦϐϯਓόʔΩϟόϨʔͷՎखɼμϯαʔɼϗεςε ʹΔ߹๏తͳܖ࿑ಇͱɼʮߦڵʯΛऔಘɼདྷΊɻ2004 ɼ ʮߦڵʯͰདྷΔϑΟϦϐϯਓͷສઍਓʹΕ ʣ ɻग़ՔͷΊʹདྷ ͷதʹຊਓஉͱɼຊͰఆΔਓʑଟݱΕ ʣ ɻطϑΟϦϐϯ ਓɼɼຊਓʹғ·ΕͳΒੜ׆ΔதͰɼຊձͷதʹఆணΔʹͳ ɻ 90 ɼग़ೖٴͼຽఆ๏ʢҎԼɼೖ๏ʣେ෯ʹվఆΕͱΛʹػɼطϑ ΟϦϐϯਓʹଓɼܥೋɼͷ֎ਓຊਓͷ࿈Εͷ֎ਓɼΒʹΕ Βͷ֎ۮ߹๏తʹఆͰΔΑʹͳɻ 90 ҎɼͷͳϑΟϦϐϯਓདྷΊɻ৽དྷϑΟϦϐϯਓ طϑΟϦϐϯਓத৺ͱͳஙຊਓɼϑΟϦϐϯਓΛհΔ ձΛഔհʹɼຊձʹఆணɼΛΒʹେΔɻ ߹๏తͳϏβΛऔಘͰΔਓʑʮఆʯͱΑΓɼຊɾϑΟϦϐϯʹΔ ʵ73ʵ

越境するネットワーク - 立命館大学 · 2011. 7. 8. · 越境するネットワーク ─トランスナショナル・フィリピン人の生活実践─ 永田貴聖

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

越境するネットワーク─トランスナショナル・フィリピン人の生活実践─

永田貴聖

Abstract

This essay focuses on the social relations of a young Filipino male settled in Japan on a

Settlement Visa, which he acquired subsequent to his Filipina mother’s marriage to a Japanese

man.

Studies of Filipinos who arrived in Japan subsequent to the 1990 revisions to the Migration

Control act are rare, in contrast to the abundant studies of the Filipina “entertainers” of the 1980s.

I narrate ethnographically the relations that he constructed in everyday life with Japanese,

Filipinos, and others across and within national borders, examining contemporary ethnographic

debates over the position of anthropologists, and proposing new directions for cultural

anthropologists working on ethnography. In particular, I draw attention to the mutuality of the

relationship between informant and anthropologist, the former using me as a means of achieving

access to public services, and myself using him as an ethnographic informant.

Keywords : Transnational Filipinos, inclusion, civil society, informant, ethnography

1.研究の目的

80年代前半,多くのフィリピン人女性たちがバーやキャバレーの歌手,ダンサー,ホステス

に従事する合法的な契約労働者として,「興行」在留資格を取得し,来日し始めた。2004年,

「興行」で来日するフィリピン人の数は約8万3千人に膨れ上がった1)。出稼ぎのために来日し

た女性たちの中には日本人男性と結婚し,日本で定住する人々が多く現れた2)。既婚フィリピン

人女性たちは,日頃,日本人に囲まれながら生活する中で,日本社会の中に定着する様になっ

た。

90年,出入国管理及び難民認定法(以下,入管法)が大幅に改定されたことを機に,既婚フ

ィリピン人女性たちに続き,日系二世,三世の外国人や日本人の連れ子の外国人,さらにそれ

らの外国人配偶者が合法的に定住できるようになった。

90年半ば以降,この様なフィリピン人が来日し始めた。新しく来日したフィリピン人たちは

既婚フィリピン人女性たちが中心となって築き上げた日本人,フィリピン人双方を介在させる

社会関係を媒介にして,日本社会に定着し,関係をさらに拡大しつつある。

合法的なビザを取得できる人々は「定住」というよりも,日本・フィリピン双方にいる親戚

-73-

や家族と国境を越えた関係を継続させ,両国間を往来するという生活をしている。

さらに,こういった人々の一部は,日本の市民社会に適応し,限定されながらも,外国人に

認められている。住民登録を行い,権利を獲得している3)。

日本とフィリピンの間を往来する人々は,日本に親族などを呼び寄せ,国民国家の境界線を

横断する社会関係を拡大しようとしている。

ここでは,この様なフィリピン人を80年代から日本に定住化している既婚フィリピン人女性

と便宜的に区別し,「トランスナショナル・フィリピン人」と総称したい4)。

本稿では,特に「90年」以降日本に居住するようになり,従来の在日フィリピン人研究が未

だに解明していない「エンターテイナー現象」以降の「トランスナショナル・フィリピン人」

の個別事例に焦点を当てる。筆者は20代後半のフィリピン人男性Aさんが形成する社会関係を

考察している。

Aさんは,母親が日本人男性と再婚したため,「定住」在留資格を取得し,合法的に居住して

いる。筆者は,トランスナショナル・フィリピン人の一人であるAさんが来日から現在まで,日

常生活において,日本人,フィリピン人双方との係わりから,両国に跨る国境を越えるトランス

ナショナル・ネットワークを構築する過程を民族誌として記述する5)。

2では,本稿が採用している「トランスナショナル」概念の理論的枠組み,さらに「トラン

スナショナル・フィリピン人」の定義についてこれまでの在日フィリピン人研究の成果と本稿

が到達すべき点を交えながら論じている。

3では,「トランスナショナル・フィリピン人」を調査する方法として,「個人を中心とする

民族誌」ための調査を着想するに至った経緯を議論している。

4では,Aさん「個人を中心とする民族誌」を記述している。これはAさんが来日から現在に

かけて日本,フィリピン両国間を跨る様々な関係を錯綜させながら形成する,越境的なネット

ワークの断片を記述したものである。

5では,近年,文化人類学の一部が,労働者が開発途上国から先進国へ移動し,引き起こす

現象を「戦略的本質主義」,「クレオール主義」として論じていることについての問題点を指摘

したい。

さらに,文化人類学は,周辺部にいる境界線を越える人々が,中心部にいる格差のある人々

と顔のみえる関係を形成し,格差を再構築する実践を記述することに力を注いできた。ここで

はグローバライゼーション現象の民族誌的記述と人類学者の位置に関する議論の問題点を指摘

し,必要とされる民族誌的記述,筆者の位置について検討されている。

6では,この調査が,Aさんの実践する両国間に跨る関係形成にどのように影響を与えている

のか。さらに,この調査が,筆者,対象とされるインフォーマントであるAさんとの間にある

権力関係をどうのように解釈するのかを,従来の社会学の中での調査者の位置に関する議論と,

筆者とAさんの係わりを交錯させながら議論していきたい6)。

「グローバライゼーション」という現象は情報,商品,金融,そして人が国境を越えて移動す

る機会を増大させた。安価な労働者として開発途上国から先進諸国に移住する人々は移住国の

中で自身が属す国民国家やその人々が「植民地なき植民地主義7)」の弱者であることを認識す

る。

-74-

立命館言語文化研究19巻4号

しかし,在日しているトランスナショナル・フィリピン人たちが日常の中で弱者であること

を直面しながらも,多くのフィリピン人・日本人と顔を向き合わせ,葛藤しながら係わってい

る。そして,人々は国家間の格差に翻弄された非対称な関係を撹乱するという「生き方」を展

開している。

筆者は,トランスナショナル・フィリピン人が展開する「生き方」を民族誌として記述した

い。なぜなら,フィリピン人・日本人双方が作り出す関係が,戦後日本において大前提とされ

てきた国家を単位とする一つの言語,文化,習慣,価値観を絶対視し,他の国民を排除する論

理とは一線を画す新しいものであるからである。

2.研究の焦点

「トランスナショナル・ネットワーク」の定義について論じたい8)。筆者は広田が「都市社会

学的エスニシティ研究[広田2002]」において論じている視点を導入する。それは,外国人が日

本の都市において様々な制約された状況から日常の実践の中で「生き方」を形成し,関係を広

げる過程を対象にする研究である。

さらに,Kearney (1995) の「トランスナショナル(Transnational)」についての議論を日本に

居住しているフィリピン人の事例に則して援用したい9)。これは特定の国家や地域に根ざすので

はなく,出生地と移住先を往来しながら生きるトランスマイグラント(Transmigrant)が作り

出す「境界」に地政学的な概念を越えた社会空間が存在するという議論である10)。

トランスナショナル・フィリピン人たちは,途上国の出身地域と先進国の移住地域を往来す

る。二つの地域には,国境の概念を越えて,世界システムの政治経済に影響を受けた格差のあ

る人々が混在する領域が存在する。

この様な現象は「社会空間」を形成するのではなく,移動する人々の「生き方」が移住国と

出身国双方の人々を介在させる「社会関係」を構築するのである。

従来の在日フィリピン人研究で明らかになりつつある様に,フィリピン人たちは集住地域を

持たず,日本人に囲まれながら生活し,同じ出身国であるということを基礎とした空間的な概

念を超えた複数の行為者間に跨る社会関係を形成している[高畑2003,マテオ1999]。

本稿では,トランスナショナル・フィリピン人が形成する,集住地域を単位としない「コミ

ュニティ11)」である,「トランスナショナル・ネットワーク」に焦点を当てている。それは,日

本を磁場として日本人,同国人双方と繋がる複数の行為者を巻き込む社会関係である。当事者

や,親族が移住地域と出身地域を往来し,国境を越えて継続した繋がりを発展させている。フ

ィリピン人「個人」が「トランスナショナル・ネットワーク」を形成しているのである。

80年代以降,日本人との国際結婚により増加した在日フィリピン人は,個々別々に日本人の

家庭内において,日本人に囲まれて生活している。フィリピン人たちは,日本人配偶者の持つ

文化や習慣,価値観に適応することにより,親戚,隣人など身近な日本人と関係を構築してき

た。また,単に日本人に適応するだけではなく,カトリック教会のフィリピン人組織や,多く

が就業している繁華街などを中心に同国人同士の関係を形成してきた[高畑1997,1998,2003,

永田2005,2006]。

-75-

越境するネットワーク(永田)

さらに,集住地域を形成しない傾向は,日本人との国際結婚ではなく就労のために短期滞在

や超過滞在の状態で日本に居住するフィリピン人たちにも共通していることである。マテオ

(1999)は東京に住むフィリピン人短期滞在労働者の相互扶助組織を対象にした調査を基に作成

した民族誌によりその事を明らかにした。

80年代以降,日本において増加しつつある「ニューカマー」と呼ばれる外国人たちは,世界

システムの中の国家間格差によりマイノリティとされ,入国管理政策などによって制度的に

様々な権利から排除されている。しかし,外国人たちが制約の中で自己選択的な「生き方」を

日常的に実践していることは,これまでの研究において論じられてきた[広田1997,奥田・田嶋

1992,1993,高畑1997,1998,2003]。

在日外国人たちは,様々な制約が故に外国人支援NGOとの係り,第一言語で情報を得る機会,

就業機会などを同国人からの口コミで探し出している。日本においても,人の移動のグローバ

ル化の影響により,外国人たちは,自身の第一言語で情報を獲得する機会,職を得る可能性を,

フォーマル,インフォーマルな形で徐々に広げつつある。

在日している多くのフィリピン人は,個人を単位として,日本人,フィリピン人双方と国境

を越えて繋がるトランスナショナル・ネットワークを形成してきたといえるだろう。

3.調査方法

本研究では,フィリピン人の社会関係の全貌を明かにするため,在日フィリピン人「個人」

が構築するトランスナショナル・ネットワークを解明する方法として「個人を中心とする民族

誌 (person-centered ethnography) [Linger2001,2005]」を記述するための調査を実施している。

従来の在日フィリピン人研究の多くは,主に80年代に来日したフィリピン人が日本において

置かれている様々な権利の制限や差別,偏見など社会的に排除されている現実を明らかにし,

多くの困難を外国人支援NGOや近隣の日本人との係り,在日フィリピン人同士のインフォーマ

ルな相互扶助により乗り越えてきたこと論じてきた。

これらは,在日フィリピン人の実態に学問的な照明を当てるという点で大きな成果もたらし

た。次の段階として,90年以降に来日したトランスナショナル・フィリピン人が国境を越えて

関係を構築するトランスナショナル・ネットワークを解明する必要があるだろう。

ある一人のフィリピン人は日本において様々な権利の制限,社会的な偏見,差別を受けてい

る。様々な制約が社会に存在する状況の中で,「個人(person)12)」は,明確な境界がない複数

の関係を限定された機会と葛藤しながらも選択し,トランスナショナル・ネットワークを広げ

ているのである。

これまでの社会学や人類学は,移民たちが出自の民族や国家を集団の構成単位としながらも,

状況に応じて複数の行為者から成る「社会的ネットワーク13)」を構築してきたことを論じてい

る。今後,社会学と人類学は,複数の様々な関係を操作する主体として,「個人(person)」に

焦点を当てるべきではないだろうか。

筆者はLingerの方法論を大筋で採用しつつ,独自の「個人を中心とする民族誌」作成のため

の調査方法論を次のように再構成し,実施している14)。

-76-

立命館言語文化研究19巻4号

1,Aさんが居住する地域に存在する外国人支援NGO,カトリック教会を拠点とするフィリ

ピン人組織でのフィールドワーク,多くのフィリピン人が働く,「繁華街」の中での参与観察を

実施した。筆者はフィリピン人との係わりから,在日しているフィリピン人が形成する様々な

社会関係を認識している。

2,Aさんが来日前から現在にかけて,様々な人々と関係を構築し,ネットワークを形成して

いる。この過程に注目するため,Aさんのライフストーリーを「対話的構築主義アプローチ15)」

により聞き取る調査を実施した。

3,筆者がAさんの社会関係の一部となることにより,Aさんの様々な行動選択に影響を及ぼ

すことを「reflective consciousness(反省的意識)[Ibid.2001]」として解釈した。Aさんは筆者

との関係を媒介として,外国人にも限定されながらも認められている権利を行使している。つ

まり,彼は,自身の関係の中に日本人を組み込み,トランスナショナル・フィリピン人となる

のである。

Linger (2005) はシンボリック相互作用 (symbolic interaction) 理論に影響を受け,多くの人類

学が儀礼や,象徴を分析していることを批判している。Lingerの論点は,社会の様々な制約の

中で,「個人(person)」が象徴を操作する過程を考察することこそ,人間(Anthropos)を学ぶ

人類学(Anthropology)の本来の姿であると論じている。

さらにLingerは,様々な社会の儀礼を対象として,文化を解釈するのではなく,個人が社会

構造の中で日常的に実践する文化を解釈する行為を考察することを重視している[Ibid.]16)。

田中(2006)もまた,「ミクロ人類学」と評して,従来議論されてきた社会の中の儀礼から,

その社会が共有する習慣,価値を翻訳する方法論に加えて,日常生活の中の実践を考察するこ

とにより,文化の変容を読み解く必要を認識している。

これらの理論は,調査が単に「文化」を解釈するという枠に留めるものではない。グローバ

ライゼーションの中において,国家間の格差により周辺に置かれた人々が,強者との関係を変

容させる日常の「真剣勝負」として,民族誌に記述したい。

4.Aさん「個人を中心とする民族誌」

筆者とAさんの出会い,関係の始まり

3年前,筆者はAさんに出会った。筆者は,既に6年間フィールドワークを実施している,

カトリック教会内のフィリピン人組織17)において,日頃の活動を支える主要メンバーを対象と

して開催されたワークショップに参加したときのことであった。このフィリピン人組織が中心

となり運営する英語礼拝や,礼拝後のティー・パーティー,復活祭,フィリピン共和国独立記

念日18),クリスマスなどの担い手である既婚フィリピン人女性たちに混じって,珍しく筆者と

同年代のフィリピン人男性がいた。それがAさんだった。

カトリック教会にあるフィリピン人組織の多くは,80年代に来日し,日本人男性を配偶者に

もつ既婚フィリピン人女性を中心に運営されている。そのカトリック教会が在る街には大学が

多い。日曜日の英語礼拝や,組織が主催する行事でフィリピン人留学生と出会うことや,賛美

歌の演奏のためにやって来る20代前後の男性ミュージシャンたちを見かけることは多い。しか

-77-

越境するネットワーク(永田)

し,20代後半から30代前半までのフィリピン人男性が平日昼間のフィリピン人組織の主要メン

バーだけを対象とするイベントに来ることは非常に稀である。その日,筆者は彼の存在に気に

しながらも,Aさんと会話する機会はなかった。

その後,Aさんは,妻のBさんとともに,日本で生まれ育った日比国際結婚二世たちがフィリ

ピン独立記念日にダンスを披露するための準備を手伝っていた。妻のBさんは日本語をあまり話

せなかった。だが,英語を使用することを方針にしている保育園で働いていたため日本人のこど

も達と接することに慣れていた。そこで,Bさんは行事の文化的な側面を,ボランティアとして,

こどもたちを世話するために集まった大学生たちに説明していた。AさんはBさんとボランティ

アの大学生たちが円滑にコミュニケーションするための橋渡し的な役割を担っていた19)。筆者も

他の大学生ボランティアたちに混じってこの活動に参加していた。他にも数人の在日年数が長い

フィリピン人留学生が手伝っていた。Aさんとよく話すようになったのはこの時期である。

最初,筆者はこの二人がどういう在留資格で滞在しているのだろうかと疑問を抱いていた。

日本において,フィリピン人男性がフィリピン人の配偶者とともに安定して滞在することは非

常に難しい。

20代後半のフィリピン人男性が日本に滞在する場合,オーバーステイの場合も決して少なく

ない。時には,夫婦ともにオーバーステイということもある。だが,オーバーステイのフィリ

ピン人夫婦が揃って,フィリピン人組織の活動にボランティアとして参加することは相当の勇

気が必要である。筆者には,この二人からそういう切迫した雰囲気を感じなかった。おそらく

彼らは合法的な在留資格を取得しているのだろう考えていた。

その後,筆者は単刀直入にAさんに二人の在留資格について尋ねた。彼は自身の母親が日本

人男性と再婚したことにより,「定住者」の在留資格を取得していることや,10代後半から日本

とフィリピンの間を往来しながら生活していることを語ってくれた。

それから数ヵ月後,既に第二子を身ごもっていたBさんは,実家のあるフィリピン・マニラ

首都圏の郊外に帰った。さらに約二ヵ月後,Aさんも出産を立ち会うためにフィリピンに帰国し

た。

第二子が無事生まれてから数ヵ月後,長女と生まれたばかりの長男をBさんの実家に残して,

AさんBさん夫妻が再び来日した。

夫妻が再来日してしばらく経った後,筆者は,夫妻からこどもの出生届を日本の役所に提出

したいのでフィリピン側の出生届の翻訳を手伝ってほしいという連絡を受けた。

AさんBさん夫妻は「定住者」在留資格を取得しているだけではなく,日本において住民登録

をしている。夫婦だけではなく,こどもたちも住民登録している。妊娠をしたときも保健所に

届出をし,母子手帳を取得している。たいていの場合,Aさんの義父など周囲の日本人が公的な

サービスを申請する手助けしている。

夫妻は日本語の読み書きができないものの,日本の市民社会の中で「市民」の一員として納

税し,国民健康保険に加入している。日本で妊娠し,Bさんがフィリピンで出産した後に帰国

し,出産育児一時金を受け取るための申請方法も熟知していた。彼らは言語的なハンデさえ補

えばこういった公的なサービスの受益者になれることを理解している。

連絡を受けた後,筆者はAさんBさん夫婦と会い,役所に提出する書類を翻訳することを快

-78-

立命館言語文化研究19巻4号

諾した。彼らは,私に対して一定の報酬を払おうとしていた。しかし,筆者は在日しているフ

ィリピン人たちの社会関係についての調査をしていることを説明し,報酬の代わりに調査のイ

ンフォーマントになることを依頼した。彼らは了承してくれた。しかし,どうして外国人の社

会関係について調査しているのか。そんなことをしていったい何のためになるのかを逆に質問

された。

筆者は,自身が文化人類学者になるための調査であること,さらに,自身のルーツがもとも

と朝鮮半島にあり,両方の祖父母が日本の植民地支配時代に日本にやってきた事や,筆者の両

親が,60年代後半,日本国籍に変更したことから時代もルーツも違う外国人であるフィリピン

人に興味を持ったことも説明した。

この程度の話で納得してくれたかどうか疑問であった。だが,調査には協力してくれる様子

であったので少々安心した。

彼らと会った翌週,筆者は翻訳した書類をBさんに届けた。それから一ヵ月後,Bさんは再

びAさんを日本に残して,こどもたちを預けている彼女の実家に帰った。Aさんは,以前日本人

女性と結婚していた伯父の日本人の友人が経営している電気配線工事を請け負う会社で正規雇

用の従業員として就職し,現在でもその会社で働いている。

聞き取り調査

Bさんが既に帰国していたので,筆者はまずAさんへの聞き取り調査を実施した。内容はAさ

んの来日経緯,初来日から現在までの日本での社会関係についてである。前述している様に,

ここでの内容は,Aさんへの聞き取り調査20),筆者とAさんの日常的な関係を筆者が解釈して,

記述したものである21)。

母親の来日

Aさんの記憶では,既に,彼が5歳のとき22),彼の母親は,働くために年に数回来日していた。

当時,両親は既に別居し,Aさんは母親方の祖父母に預けられていた。元バンドマンで仕事のた

め頻繁に来日した経験をもつAさんの伯父は,日本人女性と結婚し,日本に住んでいた。伯父

はナイトクラブを経営する伯父の友人にAさんの母親を紹介した。父親と別居した後で経済的

に行き詰まっていたAさんの母親は,そのナイトクラブでホステスとして働くために年に数回

短期滞在ビザを取得し,来日するようになった23)。

Aさんは聞き取り調査の中で,当時,彼の母親が頻繁に日本,フィリピン間を往来していたこ

とを次のように語っている。

僕が5歳ぐらいの時にはすでに両親は,別居していた。そして,母親はすでに僕と3つ

下の弟を祖父母の家に預けて,日本で働いていた。24)

そして,母親は往来の過程で現在の日本人配偶者に出会う。Aさんは母親が日本から帰ってき

たとき,母親が日本人の恋人を連れて帰ってきたことを次のように述べている。

-79-

越境するネットワーク(永田)

確か,一度,僕が8歳ぐらいのとき,母親がボーイフレンドを連れて帰ってきた。その

時はまだ「ボーイフレンド」だったのだけど,まさか母親がその人と再婚するとは思わな

かった。

この時,Aさんはやがて二人が結婚し,自身も日比間を往来するようになるとは想像もしてい

なかっただろう。しかし,母親が日本人男性と再婚し,日本において90年に入管法が改定され,

日本人の連れ子が「定住者」在留資格を取得することが可能になった。結果として,Aさんは合

法的に日本に滞在するようになったのである。

初来日から,母親の再婚,日本定住

11歳のとき,Aさんと弟(当時8歳)は母親に連れられて,はじめて来日することになる。

母親が仕事をしている間,伯父夫婦が彼らを預かり,短期滞在資格で滞在できる数ヶ月間日本

に滞在した。それから,Aさん兄弟は年に一度来日するようになった。

Aさんの母親はその間も,日本人の「ボーイフレンド」と交際を続けていた。ちょうどその頃,

別居していたAさんたちの父親が病気のために死亡した。そして,Aさんの母親と日本人の「ボ

ーイフレンド」は結婚することを考え始めた。カトリックの習慣を遵守するフィリピンの家族

法では,離婚することは非常に難しい25)。しかし,幸か不幸か,父親の死去によりその障壁が

なくなったのである。

数年後,Aさんの母親は再婚することを決意した。同時に,Aさん(当時17歳)と弟(当時

14歳)を引き取り,ともに日本で暮らすようになった。母親が再婚し,日本に暮らし始めてか

ら半年後のことであった。Aさんと弟は,無事「定住者」在留資格を取得し,継父を含めた家族

全員が日本で暮らし始めるようになった。

Aさんへの聞き取り調査から得た情報から概算すると,母親が日本人男性と再婚し,Aさん兄

弟を引き取ったのが1996年である。その頃まさに,90年に日本の入管法が大幅に改定され,日

系三世までの外国人や日本人の連れ子の外国人が,「定住者」在留資格を得て,日本に定住でき

るようになった。

来日後,Aさんは母親が働いていたレストランでアルバイトを始めることになった。その後,

昼はレストラン26),夜は欧米人が集まるショットバーという二つのアルバイトを掛け持ちする

ようになり,忙しい日々を送るようになった。なぜなら,Aさんは大学に進学するためにお金を

貯めていたからである。

弟は家族が住む地域の公立中学校に通うことになった。言語的なハンデがあったものの,フ

ィリピンで成績が優秀だったことや,彼を受け持った担任が熱心に日本語の指導をしたことも

あり,日本の中学校にも徐々に適応していった。

フィリピンへの帰国,大学進学,Bさんとの出会い

日本に滞在してから一年後,大学進学のための学費を貯める事ができたAさんは,マニラに

ある某私立大学の機械工学専攻に進学するために帰国した。しかし,念願の大学進学を果たし

たものの,進学した意義を思うように見いだせなかった。フィリピンでは大学を卒業しても多

-80-

立命館言語文化研究19巻4号

くの人々は就職することができない。運良く就職できたとしても学んだ専門とは関係ない,フ

ァーストフード店の店長候補などの管理職である場合が多い。もしくは,中東など海外で働く

しか選択肢はない。既に日本で在留資格を取得していたAさんにとってはいずれも良い選択で

はなかった。Aさんは勉学に励む動機づけをできないまま,大学でなんとなく授業を受ける日々

を送っていた。その時,あることをきっかけに一歳上の妻Bさんと出会う。AさんはBさんと出

会ったときのことを次のように語っている。

Bと出会ったのは,とても面白いんだ。実は,Bの実家の近所にぼくの母親側の親戚が

住んでいて,その人が亡くなったんだ。それでお葬式にいったら,彼女も来ていた。そし

て,そこに偶然にも共通の知り合いがいて,紹介されたんだ。しっかりしていて,賢そう

だったから,すごく気になった。それから,その共通の知り合いを通じて,何度か数人で

会うようになったのがはじまりかなあ。

Bさんとの結婚

AさんがBさんと出会ったのは98年ごろであった。大学進学後,Aさんはフィリピン・マニラ

で暮らしていた。しかし,「定住」資格の更新のためと,フィリピンでの生活費を稼ぐために,

長期休暇の間,来日し,前述したショットバーなどで働いていた。

Bさんとの交際も進んでいたことから,Aさんの中では,大学で技術を身につけるよりも,日

本で数年間働いてお金を貯め,フィリピンで何か小さなビジネスをはじめる方が得策ではない

かという考えが芽生えつつあった。

99年7月,AさんとBさんは約一年半の交際期間を経て,結婚した。結婚式は挙げず,市役

所で,婚姻届の提出と簡単な宣誓を行うシビル・マリッジを行った。教会での式と披露宴は経

済的に安定してきたときに執り行うことにした。既にこの頃,Bさんは英語学の大学を卒業し,

フィリピン人向けの英語学校で働いていた。

Aさんは結婚と同時に大学を中退した。結婚後一年半の間,彼は日本とフィリピンの間を半年

おきに往来していた。日本に滞在している間は就労し,フィリピンでは家族と過ごすという生

活を続けていたのである。

2000年,待望の長女が生まれた。その後二年間,Aさんはこれまでと変わらず,日本とフィ

リピンを往来する生活を続けていた。しかし,長女が日々成長するにつれて,家族が離れ離れ

で生活していることは良くないと感じるようになっていったのである。

ぼくと弟はブロークン・ファミリーで育ったから,いつも寂しい想いをしていたんだ。

例えば,小学校のときでも,他のクラスメートたちは,お母さんやお父さんが迎えに来る。

でも,うちは,お母さんは日本で無理だし,お父さんは別居してどこにいるかもわからな

かった。もちろん,祖母や祖父,おばさんたちが迎えにきてくれるし,優しかったけど,

なんだか満たされないものがずっとあった。だから,ぼくは家族と離れ離れになりたくな

いと思っている

-81-

越境するネットワーク(永田)

Aさんはこの時期,将来の生活拠点をフィリピンか,日本どちらにするのか悩んでいた。日本

に生活の拠点を置くことも真剣に考えていた様である。

Bさんの来日,日本で職を得る

2002年,Bさんはフィリピンでの英語講師のキャリアを生かせるかどうかを見極めるために,

長女を実家に預け,来日した。しかし,日本の英会話学校の多くが,英米人の「ネイティブ・

スピーカー」だけを採用する傾向のため,就職活動は難航した。AさんとBさん夫妻は一旦フィ

リピンに帰国した。その時に教会で式を挙げ,翌年長女を連れて,再び来日した。

この時も,Bさんの職探しは決して思うにように進まなかった。しかし,前回,日本に滞在

していた頃から毎週通っていたカトリック教会の国際ミサで,あるフィリピン人女性と偶然に

知り合った。その女性は,英語講師が小学校就学前のこどもたちの身の回りの世話をしながら

英語力を養う保育園に事務として勤めていた。その時運良く,別の英語講師が辞めた後で,新

しい講師を探していたのである。この女性の紹介により,Bさんはこの保育園の英語講師とし

て働くことになった。

結果的に,Bさんは日本で職を得ることができた。彼女は,日本語が全く話せなかったにも

かかわらず,日本人の連れ子である夫を持つことにより,「定住者」在留資格を得て,フィリピ

ン人であるがゆえに,在日している別のフィリピン人からの紹介で職を得ることができたので

ある。Bさん自身の英語講師というフィリピンでのキャリア,在留資格を得る限定された機会,

そしてフィリピン人ネットワークなどいくつかの要因や,関係が相互に作用した結果であると

推測できる。

AさんはBさんが英語講師の職を得たことについて次のように語っている。

フィリピン人が日本で,日本語を話さずに,職を得ることは本当に夢のようなことだよ。

Bはフィリピンにいる頃からインターネットで日本にある英会話学校の職を探したりして

いた。最初に日本に来たときも,何軒も電話したり,面接受けたりしたけど,全部ダメだ

ったんだ。日本の英会話学校はどこもアメリカ人かイギリス人を好むから仕方ないけど。

BはTESOL27)の資格を既にもっている。でも,たいていの学校は経験の少ない欧米人を選

ぶ。

フィリピン人は,夜の仕事にしか就けない。でも,夜の仕事は体もきついし。こどもが

いるんだったら可哀想だ。あと,どうしても夜の仕事をしていると生活が乱れる。昼間働

けるなら,その方が良いに決まっている。しかも,良い収入の職に就けるんだから最高だ

よ。

この後,AさんBさん夫妻と彼らの長女は,Bさんの継父の紹介で借りたAさんの母親夫婦と

弟が住んでいる近くのアパートで約一年半暮らしていた。彼らがカトリック教会にあるフィリ

ピン人組織で最も精力的に活動していたのもちょうどこの頃であった。また筆者とこの夫婦が

出会ったのもこの頃であった。

-82-

立命館言語文化研究19巻4号

第2子出産とBさんと長女のフィリピンへの帰国

フィリピンではこども授かるということは新たな幸福を運んでくることを意味している。そ

して,Bさんが英語講師の職を得て,数ヵ月後,二人は新しい命を授かったことを確認した。

しかし同時に,それは新たな悩みができたことを意味していた。

フィリピンでは,オフィスや官庁で働く女性たちは多くの場合,妊娠する二ヶ月近く前まで

働き,出産後3ヶ月程度で復帰する。いわゆるホワイトカラーの職での男女平等がある程度保

障されていること,メイドを安価で雇える28)ことから「ミドルクラス」の女性たちの中には家

事や子育てを“yaya”と呼ばれるベビーシッターや“katulong”と呼ばれる家政婦に任せる人々

も少なくない。

しかし,日本では,それはほぼ不可能である。しかも,産後は仕事に復帰できるかどうかも

怪しい。二人は悩んだ末,Bさんとこどもたちがフィリピンに帰国し,Bさんの実家で暮らす

ことを決意した。Bさんは日本で子育てをすることも検討していた。しかし,Aさんは日本で子

育てをすることにはあまり積極的ではなかった。なぜなら,彼の弟がいじめが原因で高校を中

退したという苦い経験をもっているからである。

Bの中には日本でこども育てても良いという考えもあった。でも,僕はその考えには積

極的になれなかった。フィリピンよりも学費ははるかに高いし。仮に,僕たちが国際結婚

で,どちらかが日本人なら考えも違うのだけど,現実的に二人はフィリピン人で,こども

もフィリピン人になる。それなら,やはりフィリピンの良い学校に入れて,英語もできる

ようになった方がこどもの将来のためになる。ぼくは,弟がせっかく日本の中学校で頑張

って,高校に行ったのに,クラスメートからフィリピン人ということでいじめに遭って中

退してしまった嫌な経験をしている。その後,弟は就職できず,ずっとアルバイトをして

いる。僕みたいにフィリピンの大学に行くのも無理だし,弟は本当にどっちつかずになっ

ているんだ。だから,僕のこどもたちにはフィリピンで学校を卒業して欲しい。

結局,Bさんは第二子を出産する3ヶ月前に帰国した。その二ヵ月半後,Aさんも出産に立ち

会うためにフィリピンに帰国した。

その後,AさんBさん夫妻は揃って再来日した。しかし,こどもたちをBさんの実家に預けて

の来日であった。筆者が察するところ,最後まで日本での定住を模索していた様子である。

Aさんは以前のように複数のアルバイトを掛け持ちする生活をやめていた。母親と同様に,以

前日本人女性と結婚し,日本に住んでいた伯父からの紹介により,伯父の友人が経営する電気

配線工事の会社で正規の従業員として勤務し始めた。そして,フィリピンには年に一,二度帰

国する生活を送る様になった。結局,Aさんは家族と離れ離れになってしまったのである。

結局のところ,「ベスト」な選択肢がない。本当はフィリピンにいたいけど,フィリピン

には仕事がない。日本には仕事がある。でも,家族全員で暮らすとお金もかかるし,こど

もに満足な教育を受けさせられない。僕やBが二人とも日本に働いていたら,こどもが可

哀想だし。本当に,良い選択肢がないとしか言いようがない。

-83-

越境するネットワーク(永田)

しかし,Aさんは続けて次のように語ってくれた。

でも,いま頑張って稼いで,お金を貯めて,近い将来,ぼくがずっとバイトしているシ

ョットバーみたいな店を経営したいと思っている。まあ,Bは小さくても英語学校を経営

したいみたいだけど。どちらをするにしても,お金が必要だね。いま僕は稼いだお金のほ

とんどをフィリピンに送っている。Bはお金の管理が上手いから,少しずつだけど,貯め

ている。もちろん,長女を私立の小学校に入学させたし,Bの実家にもお金を入れている

から,そんなにすぐには貯まらない。だから,もうしばらくは日本で頑張るつもり。

日本人とフィリピン人の狭間での関係

2において論じているように,高畑(2003)及び永田(2005)などが実施した既婚フィリピ

ン人女性への調査によると,多くのフィリピン人が日本人に「囲まれ」て暮らし,自身と日本

人が非対称な関係にあることを痛感している。そして,社会の中で,フィリピン人である自身

に対しての様々な差別,偏見が存在していることを認識している。

しかし,既婚フィリピン人女性とは異なり,日本人に囲まれずに暮らしているAさんやBさ

んが,日本人と係わる機会はアルバイト先や職場,また時には,カトリック教会のフィリピン

人組織にやって来る筆者のような存在や大学生ボランティアなどである。では,他に,どのよ

うな日本人と関係しているだろうか。

Aさんは,最初の来日時から現在まで,断続的にアルバイトをしているショットバーという場

所とそこに集まる人々との関係について次のように語っている。

日本人は個人的にみると,みんな真面目だし,親切だし,一緒に仕事もしやすい。例え

ば,いまの電気配線の職場でも差別を感じたことなんて全然ない。もちろん,それは僕が

知り合いを通じて,会社に入ったというのもあるのだろうけど。でも,職場の仲間とはあ

くまでも仕事だけという感じ。僕が《ショットバー》にいまでも時々バイトで入るのは,

もちろん小遣い稼ぎというのもある。でも,あそこはホームみたいなものなんだ。僕は外

国人だから,日本人に気を使う。相手も僕に気を使う。でも,《ショットバー》は,いろ

んな国の人が集まるし,昔から知っている人たちが集まる。外国人にしかわからない悩み

なんかも話せる。最初日本語が話せなかった頃,そこの日本人スタッフは僕にいろんな日

本語や日本の習慣を教えてくれた。日本人のマスターはすごく僕に良くしてくれる。Bが

来日して仕事が決まらなかったときはたまに雇ってくれたりもした。時々,ぼくが仕事し

ている時,長女とBが一緒に遊びに来たりしていた。娘はみんなに可愛がられていた。そ

こは本当に安らげるし,良い仲間がいるんだよ。

もちろん教会のフィリピン人組織も悪くないけど,フィリピン人同士は時々付き合いに

くいときがある。それはきみもなんとなくわかっているだろうけど。お世話になった人に

はいろいろと恩を感じないといけない。また,逆に新しく来た人たちにはいろいろと世話

をしないといけない。いまは残念ながら仕事が忙しくてそこまでできない。

-84-

立命館言語文化研究19巻4号

実際,Aさんの家族以外との関係は,このショットバーを中心に形成されているといっても過

言ではない。カトリック教会のフィリピン人組織でも多くの人に好かれている。しかし,現在,

Aさんはほとんどミサに顔を出さない。勿論,Aさんは他のフィリピン人との関係を維持してい

る。筆者などを通じて,フィリピン人組織の状況もよく知っている。しかし,ミサに行くと礼

拝や様々なイベントの準備を手伝わなければならない。現在,シフト制で時々夜勤をするAさ

んにとって,これらの活動に参加することは少々辛いというのが本音である。

今後

現在,Aさん,そして,Bさんとこどもたちはそれぞれ日本とフィリピンに離れて暮らしてい

る。しかし,彼らは必ず1日に数時間,インターネットのチャットでお互いの日本・フィリピ

ン双方で起こった個人的な出来事について会話している。情報通信の進歩が,距離という壁を

越え,「transnational household[Parreñas2001]」としての関係を維持させている。地政学的な

距離を越えて日常の出来事を互いに話すことにより「顔」のみえる繋がりを発展させているの

である。そして,双方は年に数回,実際に顔を合わせるために日本とフィリピンの間を往来し

ている。

Aさんの家族は,様々な制約がある中で,限定された機会を利用する「戦術29)」により,日

本・フィリピン両国間に跨る関係を構築している。

今後も,Aさんは日本に居住できる在留資格,発達した通信手段,母親や伯父が築いた日本で

も様々な人々を介在させた関係,筆者など日本人との関係,また,日本人からのサポートによ

り行使している権利,リラックスできるショットバーでの関係など,周囲に存在する様々な機

会,関係を錯綜させながら越境的なネットワークを拡大し続けるだろう。

5.「顔」のみえる関係とは

近年,多くの文化理論研究及び文化人類学は,グローバライゼーションの中で,中心部と周

辺部の経済格差が拡大し,労働者が開発途上国から先進国へ移動する現象などを基にして様々

な分析を行っている30)。

小田(2001)は,周辺側にいる人々が,移住先のメディアや国民国家装置が単一な文化や価

値を想定し,国民統合を推し進めることによって起こる同化への圧力や差異化されることによ

り被る暴力に抵抗して,出身先の文化や価値,エスニシティの一部を取り出して単一の対抗的

なアイデンティティを形成することを「戦略的本質主義」という様に分析されていることにつ

いて言及している。

また,対抗的なエスニシティやアイデンティティを想定し,抵抗運動の原動力にする「戦略

的本質主義」を批判する論理として,異種混淆的な価値の創出をする立場を取る「クレオール

主義」が存在することを紹介している[Ibid.]。

そして小田は,クレオール主義がリベラリズム的なコスモポリタニズムに取り込まれる一方

で,戦略的本質主義も,共同体主義的な多文化主義につながることを指摘している。つまり,

-85-

越境するネットワーク(永田)

アイデンティティの単一性を否定している両方の理論が西欧近代の思想に組み込まれ,単一的

なアイデンティティを選んで,排他的な場に閉じこもるか,アイデンティティから解放される

ために西欧近代の普遍性を受け入れるのかという二者択一の罠に陥っていることを指摘してい

る[Ibid.:304-305]。

小田は二者択一の罠を回避するため,近代国民国家がローカルな生活世界を包摂することに

より形成した「静態的・空間的[Ibid.:315]」な共同体の中に境界を越境する存在が含まれて

いることに注目する必要を論じている[Ibid.]。

境界を越境する人々は,近隣や職場などにおいて,顔のみえる「真正な31)」関係を形成し,

従来「近代」,「伝統」と二分法的に区別されてきた概念を無視し,雑多に様々な概念を用いて

境界を侵犯していると分析している[Ibid.]。

小田が論じている二者択一的な罠や二分法を無視する行為という設定は,トランスナショナ

ル・フィリピン人にとって,日常の当たり前な行為なのである。国民国家間の格差により周辺

部に置かれ,生活する人々の日常的な実践を「抵抗」の可能性にして論じることは大なり小な

り誇張であると考えられる。

小田の議論は,Linger (2005) が批判している儀礼やシンボルの分析に特化している傾向に陥

っているのではないだろうか。Lingerが論じる様に,構造の中で様々なシンボルを組み合わせ

る「個人(person)」に焦点を当てるという「人間学」を展開することが必要であると考える。

Aさんだけでなく,筆者がこれまでの調査で係わったインフォーマントの多くが,合法的に居

住することが可能な在留資格や国籍を獲得した後,何らかの形で,日本の市民社会に包摂され,

時に市民としての義務を果たし,時には権利としての公的なサービスを利用している[永田

2005,2007]。日本に居住しているフィリピン人たちの多くが,境界線を越える過程において,

近代国民国家による排除と包摂の論理を熟知し,時にはその論理に対抗しながらも利用してい

る。

人々は包摂の論理の中で派生して外国人にも保障されるようになった様々な公的な権利を行

使するために,人々自身の関係の中に外国人支援NGOの活動家や筆者のような研究者という日

本人を取り込んでいるのである。

「個人を中心とする民族誌」は,世界的な構造の中で様々なシンボル,様々な制約や周辺性の

中に置かれている「個人(person)」が,調査者との関係を可視化した上で,いかに境界線を越

える実践を展開するかを解釈するものである。

言うまでもなく,調査やそれに付随する関係の中で,調査者がいかにインフォーマントと係

わっているのか。インフォーマント自身が調査者にいったい何を求め,「調査」をどのように利

用しているのかなどを視野に入れる必要がある。

しかし,小田は顔のみえる関係が中心と周辺という関係を再構築する可能性を論じながら,

既に社会学や,人類学において議論されている調査する側とされる側の関係や権力性について

はほとんど議論していない。小田が議論する顔のみえる関係という設定は,調査者とインフォ

ーマントの位置が不透明であることを指摘できるだろう。

-86-

立命館言語文化研究19巻4号

6.「調査者」,「インフォーマント」の境界線を越えることは可能か。

調査者と被調査者の権力関係に関する議論は人類学及び社会学の分野において限定しても既

に1960年代から行われている32)。

1974年から75年にかけて最も有名な論争のひとつとして,似田貝香門と中野卓の論争を展開

した[似田貝1974,1977a,1977b,中野 1975a,1975b]。

しかし,この2人にはある共通した問題意識をもっているようにもみえる。それは,調査対

象者が調査者に対して行った執拗な係わり方に対する異議,不信感である。また,両者は調査

する者とされる者との不平等性を痛感している。

中野(1975)は,似田貝が提唱したフィールドで暮らす人々の主体性を認識しつつ,調査者,

被調査者との「共同行為[似田貝1974]」であるという論理を双方の葛藤と衝突を無視し,無意

識的に権力関係を隠蔽するものだとして批判している。

だが一方で,調査者と被調査者が「相互信頼の場を発見し,あるいは創造し,調査者の研究

生活と被調査者のふれあいを通じ出て現実の示す本質を学び取る」[中野1975b:6]と述べてい

るように,相互性の可能性を示唆している。

中野の弟子であり,日本の現象学的社会学を継承する桜井は,調査者と被調査者の間にある

権力性を真摯に認め,「対話的構築主義アプローチ[桜井2002]」によるインタビュー調査を提

唱している。

桜井は,インフォーマントがインタビュー時点で解釈する過去を忠実に再現することを重視

している。まず,調査者が調査時におけるインフォーマントによる口述だけを基にしてテクス

トを構成すること,次に,インフォーマントが調査者による記述を確認する機会を設け,再構

成することを重視している。これらの作業によって完成した記述を「ライフストーリー」と定

義している。「ライフストーリー」は従来方法論として採用されてきた調査者側が主体的にイン

フォーマントの日記など文書化された記録や,インタビュー調査によって構成する「ライフヒ

ストリー」と一線を画するものだと論じている。

桜井は調査者と被調査者の間に横たわる権力関係を少しでも回避しようとしてきた。筆者も

桜井の方向性は正当であり,異論はない。

但し,これら論者には欠落した視点が一つだけある。いわゆる,「調査者」自身が抱く「調査

者」という位置に対する疑問や揺らぎである。

筆者が実施する「個人を中心とする民族誌」作成のための調査の特徴は,聞き取り調査の場

以外の関係の相互性を考慮していることである。調査者とインフォーマントの関係は,単に

「インタビュー」や「調査」という枠にとどまるものではない。

既に述べているように,Aさんやこれまでの調査で係わった別のインフォーマントたちが筆者

の存在を媒介として,人々自身やその配偶者の在留資格を取得することや外国人にも認められ

ている権利を行使する場合も想定しなければならない33)。これまで民族誌の記述の対象外とさ

れる傾向にあった「調査」の舞台裏にも注目する必要がある。

さらに,本稿での調査はフィリピン人組織でのフィールドワークや,多くのフィリピン人と

の係わりを射程に入れている。調査が媒介となって別の関係が形成される可能性もある。

-87-

越境するネットワーク(永田)

筆者は現在まで,Aさんと出会ったフィリピン人組織と関係が深い別の外国人支援NGOにボ

ランティアとして活動している。そのため,そのNGOのメンバーとして,フィリピン人組織の

活動に関わることがある。どの程度Aさんが筆者の存在を意識していたのかは不明である。し

かし,長男の出生届の翻訳を頼んできたことは,筆者が何者であるかを調査前からの係わりか

ら理解していただろう。

しかし,同時に留意しなければならないこともある。調査者としての筆者と,インフォーマ

ントとしてのAさんの関係は,決して対等なものではないということである。調査開始後,筆

者は両者間の位置の違いという現実に直面した。それは家族構成員の居住地の「選択肢」つい

ての問題であった。

現在,Aさんは日本に,Bさんとこどもたちはフィリピンに暮らしている。この状態は,Aさ

んの理想からかけ離れている。Aさんは日本の「定住」資格を取得していることもあり,フィリ

ピン人の中では珍しく,日本とフィリピンを往来できる機会を獲得できたとも考えられる。

しかし,全てが肯定的に考えられるわけではない。Aさんは日本において職を得ることは難し

い。さらに,彼は既に日本において永住ビザを取得できる可能性を持ちながら,諸事情あり,

いまだに申請すらしていない。筆者は,Aさんの位置が,航空券さえ購入できれば自由に日本・

フィリピン間を往来できる自身の位置とは,大きく異なることを痛感した。

この経験は,筆者自身が大学という「象牙の塔」から外を眺めている位置にいるという,「調

査者」の位置に対する強い嫌悪感につながっている。勿論,筆者が外国人への人権保障を目指

すNGOで活動していたこと,ルーツが朝鮮半島にあることも影響している。

つまり,「調査」とは,筆者が調査以前に経験したことや筆者のルーツを含めた営為であるこ

とを意識せざるを得ない営為なのである。「調査」を単にインタビューや,論文を執筆するとい

う営為に限定するのではなく,筆者と在日しているフィリピン人を繋ぐ「交差点」と位置づけ

なければならないのではないだろうか。

筆者はAさんとの位置の違いを痛感しながらも,Aさんに対して「調査」という営為を通じて

一定の知識を提供することにより,Aさんが日本の市民社会の受益者の一人になるという最小限

の交換を行ってきたつもりである。「調査」の中で,調査者とインフォーマントのわずかながら

の交換行為が成立させることにより,「調査」自身が僅かではあるがトランスナショナル・フィ

リピン人のネットワークに含まれているという錯覚を抱く可能性があるかもしれない。

調査者は「調査」の周囲に付随する様々な舞台裏を認識し,「調査者」という位置を揺らす行

為そのものも「調査」に含めなければならないだろう。それには,まず大前提として調査者自

身が顔のみえる関係によりインフォーマントと向き合っていくことが求められる。

7.おわりに

筆者の「調査」は,インフォーマントが日常的に出会う様々な日本人と向き合いながら国家

間格差という暴力を回避し,非対称な関係を変容させている葛藤には程遠いだろう。しかし,

調査がインフォーマントの関係の一部となり,又はインフォーマントの関係が調査の一部とな

ることにより,インフォーマントが僅かながらでも日本,フィリピンという二つの国に拠点を

-88-

立命館言語文化研究19巻4号

置くという戦術を磨くことを可能にするだろう。筆者はこの僅かな可能性を「個人を中心とす

る民族誌」作成のための調査を実施することにより,試行錯誤し続けたい。

1)『出入国管理統計年報』2005年度版。

2)夫日本人,妻フィリピン人の婚姻は,調査が開始された1992年から2005年まで年間約5千組から1

万組で,件数は増加傾向にある。妻日本人,夫フィリピン人のケースは年間約50から80組である。

(『人口動態統計年報』1998年度,2006年度版。)

3)在日外国人の年金や国民健康保険加入などの権利の確立は,日本が1979年国際人権規約,1981年難

民条約などに批准した後,国内法の整備により実現した。つまり,日本国憲法では明文化にされていな

い外国人の権利が外圧によって拡大したとも考えられている[梶田2002]。勿論,外国人の権利は,長

年の在日コリアンの運動家たちの努力によるものであることは言うまでもない。その恩恵を受けたのは,

90年入管法改定以降に定住し始めた在日ブラジル人やフィリピン人たちであるという指摘もある[イシ

2005]。

4)しかし,既婚フィリピン人女性たちの中にも日比両国に拠点を置き「トランスナショナル」なる生活

をしている人々はいる。本稿での区別は把握までも便宜的なものである。尚,「トランスナショナル・

フィリピン人」については永田(2007)を参照されたい。

5)本稿では,都市社会学者Fischer (1975) が,70年代以降のシカゴ学派都市社会学が都市に移住する移

民たちを調査によりアーバニズム理論を再検討した点に注目している。都市に居住する移民コミュニテ

ィの調査において,民族誌学の導入やオスカー・ルイスなどの人類学者との共同研究を実施してきた。

本研究では,この点から人類学と社会学双方の理論を導入し,個別事例を凝視する民族誌学調査を試み

たい。

6)文化人類学のフィールドワークにおける調査者の権力性と被調査者の周辺性についての議論は既に

1960年代から「ポストモダン人類学」の文脈により行われている。これら議論の変遷については松田

(2003)を参照されたい。

7)西川(2006)は資本主義の最終段階として,かつて国家が国内の周辺に存在する人々を国民として編

入することにより「植民地化」したと同様に,グローバル化時代の現在,世界にある世界都市が国内外

を問わず地球規模に周辺地域からの人々を安価な労働力として編入していることを論じている。筆者は

その中でも周辺と周辺を結ぶネットワークの形成,都市の内部における支配従属関係,住民と移民間,

移民相互間の民族的・階層的関係への検討の必要性に注目している。

8)筆者は,近年,都市社会学において実施されている質問紙調査法などを用いた量的な方法によるパー

ソナル・ネットワーク調査を実施しない。そして,質的な民族誌学調査によるネットワーク分析に重点

に置いている。近年,都市社会学のネットワーク研究においても「個人」を焦点とした質的な調査の蓄

積の必要性が再び指摘されるようになりつつある[渡戸2003,松本2002]。

9)本稿では‘Transnational’をKearney (1995) が論じている途上国から先進国への労働者の移動により

政治経済的に発展した中心と周辺が区別されながらも同じ地域に混在する現象であると考える。

10)他に‘Transmigrant’が引き起こす現象として,Appadurai (1991) は移住地域に形成された移住者と

その出身国を恒常的に結びつける関係,移民が移住地域において起こす移民原理主義などについて論じ

ている。Pries (2001) は国民国家やその領域内の社会の概念を超え,複数の国家の国民が凝集する空間

が形成されることを言及している。

11)Goldring (1996) は合衆国とメキシコを往来する移民たちが既に地政学的概念を越えて形成している。

移住先と出身先に跨る関係をTransnational Communityと定義し,従来の地域を基本としたcommunity

の概念が変容していることを論じている。Pries (2001) は従来の社会学におけるcommunity概念は国民

-89-

越境するネットワーク(永田)

国家と地域が基本的な構成単位として議論されていたことを分析している。その上で,グローバライゼ

ーションにおける,community概念を再検討しなければならないことを論じている。また,コーエン

(2005)は,コミュニティは地域的な結びつきではなく,複数の行為者がある共通する文化シンボルを

共有することによって成立する関係であると論じている。

12)前山(2003)は長年のブラジル日系人研究の経験から,社会的ネットワークへのアプローチにより発

展してきた個人研究と都市人類学的な研究を統合した調査を実施している。個人は文化保有者であり,

合理的にシンボルを選択し,操作する行為主体,体験主体,解釈主体である“person”であると論じて

いる。本稿においては,「個人」の語を“person”と同じ意味として用いる。尚,”person”という概念が

従来から人類学者が論じてきた社会的構造から独立した近代的な個人としての主体であるかどうかにつ

いては本稿では議論しない。セルフや個人性に関する議論は,田中(2006),松田(2006)を参照され

たい。

13)「社会的ネットワーク」は,これまでローズ・リビングストン学派が中心となり論じてきた。ミッチ

ェル(1983),ボワセベン(1986)は都市移住者が出自部族を基礎とした関係と,移住先で出会う新た

な関係を取捨選択しながら形成する関係への調査を実施してきた。日本では,ローズ・リビングストン

学派に影響を受けた松田(1990)が,ケニア,ナイロビでの都市移住民による選択的な関係を調査して

いる。

14)Linger (2001,2005)は聞き取り調査だけではなく,調査者が当事者への長期の係わりによる参与観

察を実施し,当事者,調査者双方の主観を反映させることを有効的だと捉えている。

15)現象学的社会学の中で有賀喜左衛門,中野卓が発展させてきた聞き取り調査の方法論を桜井(2002)

が踏襲したものと推測できる。桜井の方法論を採用しているわけではないが,人類学においても,前山

隆は個人を対象に調査を行っている。また近年,オジェ(2002)は,複数の集団と同時に係わる個人の

「個の自主性」を考察するためには長期にわたるインタビュー調査が有効であると論じている。

16)例えばGeertzの「厚い記述」により文化を解釈する方法論を一定評価しながらも,結局様々な儀礼を

考察対象とする点でシンボル主義であるとして批判している。

17)マテオ(1999)は東京のカトリック教会に組織された二つのフィリピン人組織(一つは礼拝の主催な

ど精神活動を継続させる役割,もう一つはフィリピン人の生活相談や職業斡旋など相互扶助的な役割)

の機能や,集まる人々について民族誌として記述している。これを基に二つの組織の機能の相互作用に

ついて分析している[Mateo 2000]。他に鈴木(1998),永田(2007)の研究を挙げておく。

18)6月12日。

19)この様な役割は,長年日本で生活し,日本人・フィリピン人双方の人々と関係しているAさんが適役

であったといえる。他にも,日常,フィリピン人よりも日本人と係る機会が多いフィリピン人留学生が

ほぼ同じ役割を担っていた。

20)聞き取り調査は,2006年10月25日に実施し,Aさんと筆者,1対1で約2時間行った。言語はタガ

ログ語と英語を使用した。

21)註20の日時に実施した聞き取り調査だけではなく筆者とAさんとの調査以外での係わりから,解釈し,

記述したものである。聞き取り調査での口述内容だけを考察対象に限定しないのが「個人を中心とする

民族誌」の特徴である。

22)1983年頃と考えられる。

23)1980年代前半,「興行」在留資格でのフィリピン人入国者が1万人前後を推移していた当時,「興行」

資格で来日する女性たちとともに,「短期滞在」資格で来日する女性たちが,ホステスとして働いてい

たという説もある。詳しくは伊従(1991)を参照されたい。

24)本稿で時折紹介しているAさんの口述は,タガログ語及び英語での語りを筆者が日本語に訳したもの

である。

-90-

立命館言語文化研究19巻4号

25)詳しくはノリエド(2002)を参照されたい。

26)母親が以前から働いているイタリアンレストランである。

27)Teaching English to Speakers of Other Languagesの略称である。世界レベルで承認されている英語教

授法資格のことである。1年間のコースを修了した人に授与されるPostgraduate Certificate,2年間の

コースを修了した人に授与されるPostgraduate Diploma,2年間のコースを修了し,修士論文審査に合

格した人に授与されるM Aの3段階がある。Bさんの場合,卒業した大学のカリキュラムが

Postgraduate Diplomaと連動しており,その資格を取得している。

28)これは一概には言えないがマニラ首都圏で1ヶ月2000~3000ペソの賃金で雇える(2007年7月3日

時点,1ペソ=約2.7円)。

29)日本でのトランスナショナル・フィリピン人の実践は,セルトー(1987)が議論しているラテンアメ

リカのインディオたちが,被支配的な立場の中で,彼ら自身が自身の外にある様々な異なる概念,要素

を多様に組み合わせ,彼ら自身のものにする「戦術」と類似するものであると解釈し,この用語を使用

している。

30)詳しくは小田(2001,2004),松田(2006)を参照されたい。

31)小田(2001)は「真正さの水準(niveaux d’authenticit´e)」[レヴィ=ストロース1972]を援用してい

る。

32)詳しくは桜井(2002),松田(2003)を参照されたい。

33)Aさん以外の事例においても,筆者はインフォーマントとの調査協力の交換として,役所や在留資格

を取得するために出入国管理局に提出する書類作成の補助,翻訳を手伝った経験がある[永田2007]。

参考文献

〈和文〉

イシ,アンジェロ.2005「「在日」の闘い方―コリアンとブラジル人の接点と相違点」『アジア遊学』76,

勉誠出版:109-120。

奥田道大・田嶋淳子.1992『新宿のアジア系外国人』めこん。

奥田道大・田嶋淳子編.1993『新版 池袋のアジア系外国人』明石書店。

小田 亮.2001「越境から,境界の再領土化へ―生活の場での〈顔〉のみえる想像」『人類学的実践の再

構築―ポストコロニアル転回以後』(杉島敬志編)世界思想社,297-321。

―.2004「都市と記憶(喪失)について」『〈都市的なるもの〉の現在―文化人類学的考察』(関根

康正編)東京大学出版会,423-444。

大野 俊.2007「フィリピン日系人の市民権とアイデンティティの変遷―戦前期の二世誕生から近年の日

本国籍「回復」運動まで―」『移民研究年報』13,日本移民学会:79-98。

梶田 孝道.2002「日本の外国人労働者政策―政策意図と現実の乖離という視点から」『国際社会① 国

際化する日本社会』(梶田孝道,宮島喬編)東京大学出版会,15-44。

桜井 厚.2005『インタビューの社会学―ライフストーリーの聞き方―』せりか書房。

高畑 幸.1997「隠せないエスニシティ」から始まる職業経歴―在日フィリピン人の事例から―」『人文

論叢』26,大阪市立大学大学院文学研究科:37-54。

―.1998「在日フィリピンの職業経歴―栄4丁目の自営業者調査から―」『人文論叢』27,大阪市

立大学大学院文学研究科:1-16。

―.2003「国際結婚と家族‐在日フィリピン人による出産と子育ての相互扶助」『移民の居住と生

活 講座グローバル化する日本と移民問題 第Ⅱ期 第4巻』石井由香編.駒井洋監修.明石書店.

田中 雅一.2006「ミクロ人類学の課題」『ミクロ人類学の実践―エージェンシー/ネットワーク/身体』

(田中雅一,松田素二編)世界思想社,1-38。

-91-

越境するネットワーク(永田)

中野 卓.1975a「歴史社会学と現代社会(一)」『未来』101,未来社:2-7。

―.1975b「社会科学的調査における被調査者との所謂「共同行為」について」『未来』102,未来

社:28-33。

永田 貴聖.2005「在日フィリピン人女性による日常の「戦術」―ある女性のライフストーリーを中心に

―」『コア・エッシクス』vol.1,立命館大学大学院先端総合学術研究科:41-56。

―.2006「外国人として生きる」,『月刊みんぱく』第30巻7月号,国立民族学博物館:16-17。

―.2007「フィリピン人は境界線を越える―トランスナショナル実践と国家権力の狭間で―」『現

代思想』vol.35-7,青土社:116-130。

似田貝 香門.1974「社会調査の曲がり角―住民運動調査後の覚え書き」『UP』24,東京大学出版会:1-

7。

―.1977a「運動者の総括と研究者の主体性(上)」『UP』55,東京大学出版会:28-31。

―.1977b「運動者の総括と研究者の主体性(下)」『UP』56,東京大学出版会:22-26。

西川 長夫.2006『〈新〉植民地主義論―グローバル化時代の植民地主義を問う―』平凡社。

広田 康生.1997『エスニシティと都市』有信堂.

―.2002「「都市エスニシティ論」再考―狭義のエスニシティ研究からトランスナショナルな都市

コミュニティの研究へ―」『日本都市社会学会年報』20,日本都市社会学会。

前山 隆.2003 『個人とエスニシティの文化人類学―理論を目指しながら』御茶の水書房。

松田 素二.2003「フィールド調査法の窮状を超えて」『社会学評論』53 (4) ,日本社会学会:499-515。

―.2006「セルフの人類学に向けて―遍在する個人性の可能性」『ミクロ人類学の実践―エージェ

ンシー/ネットワーク/身体』(田中雅一,松田素二編)世界思想社,381-405。

松本 康.2002「アーバニズムの構造化理論に向かって―都市における社会的ネットワークの構造化―」

『日本都市社会学会年報』20,日本都市社会学会。

鈴木 伸枝.1998「首都圏在住フィリピン人既婚女性に関する一考察―表象と主体性構築過程の超国家論

からの分析―」『ジェンダー研究』18,お茶の水女子大学ジェンダー研究センター:97-112。

渡戸 一郎.2003「隣接領域からの批判と都市社会学の自己省察」『日本都市社会学会年報』21,日本都

市社会学会:57-61。

〈翻訳〉

オジェ,マルク.2002(森山工訳,原著1994)『同時代世界の人類学』藤原書店。

コーエン,アンソニー.P.2005(吉瀬雄一訳,原著1985)『コミュニティは創られる』八千代出版。

セルトー,ド・M.1987(山田登世子訳,原著1980)『日常的実践のポエティーク』(国文社。

ノリエド,ホセ.N.2002(奥田安弘,高畑幸訳)『フィリピン家族法』明石書店。

マテオ,イーバラ.C.(北村正之訳)1999『折りたたみイスの共同体』星雲社。

ミッチェル,J.C.編.1983(三雲正博,福島清紀,進本真文訳,原著1969)『社会的ネットワーク』国文

社.

ボワセベイン,ジェレミー.1986(岩上真珠,池岡義孝訳,原著1974)『友達の友達―ネットワーク,操

作者,コアリッション』未来社.

レヴィ=ストロース,クロード.1972(荒川他訳)『構造人類学』みずす書房。

〈英文〉

APPADURAI, Arujun. 1991 Global ethnoscapes: notes and queries for transnational anthropology. In

Recapturing Anthropology: Working in the Present, Richard G. Fox (ed.), pp.191-210. Santa Fe, School of

amer Research Press.

FISCHER, Claude S. 1975 “Toward a Subcultural Theory of Urbanism.” American Journal of sociology. Vol.

80: 1319-41.

-92-

立命館言語文化研究19巻4号

GOLDRING, Luin. 1996 Burring Borders: Constructing transnational community in the process of Mexico-

U.S. migration. Research in community sociology vol.6: 69-104.

LINGER, D. Touro. 2005 Anthropology Through a Double Lens: Public and Personal Worlds in Human

Theory, U.S.A., University of Pennsylvania Press.

―. 2001 No One Home: Brazilian Serves Remade in Japan. California, U.S.A., Stanford University

Press.

KEARNEY, Micheal. 1995 The Local and The Global: The Anthropology of Globalization and

Transnationalism. Annual Review of Anthropology 24: 547-565.

Parreñas, R. Salazar. 2001 Servants of Globalization: Women, Migration, and Domestic Work. California,

U.S.A., Stanford University Press.

PRIES, Ludger. 2001 The Approach of transnational social space: responding to new configurations of the

social and spatial- New Transnational Social Spaces, L. Pries (ed.),pp3-36, USA& Canada, Routledge.

日本政府資料

『出入国管理統計年報』法務省

『人口動態統計年報』厚生労働省

-93-

越境するネットワーク(永田)