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Title <論文>トランスナショナルな社会運動における共感 = 代 理の政治 : ロサンゼルス在住イラン人の抗議運動の事例 から Author(s) 椿原, 敦子 Citation コンタクト・ゾーン = Contact zone (2015), 7(2014): 83-108 Issue Date 2015-03-31 URL http://hdl.handle.net/2433/209808 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

トランスナショナルな社会運動における共感 …...Title トランスナショナルな社会運動における共感 = 代 理の政治

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Page 1: トランスナショナルな社会運動における共感 …...Title トランスナショナルな社会運動における共感 = 代 理の政治

Title<論文>トランスナショナルな社会運動における共感 = 代理の政治 : ロサンゼルス在住イラン人の抗議運動の事例から

Author(s) 椿原, 敦子

Citation コンタクト・ゾーン = Contact zone (2015), 7(2014): 83-108

Issue Date 2015-03-31

URL http://hdl.handle.net/2433/209808

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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トランスナショナルな社会運動における共感=代理の政治

<要旨> 2009年の第 10期イラン大統領選挙に端を発するイラン各地での抗議行動の様子は市

民によって撮影され、インターネット上で配信された。ソーシャルメディアによる情報

発信という社会運動の新しいあり方に国際的な注目が集まったイランでの抗議行動は、

「緑の運動」と呼ばれる。この運動はイラン国内のみならず、国外在住のイラン人をも

巻き込んでいった。例えば、ロサンゼルスの人々は次の形で関与を続けた。第一に、サ

イバースペースでの情報の中継や加工、第二に、衛星 TV放送によるイランの視聴者へ

の働きかけ、そして第三にローカルな場での抗議集会の継続である。

 これまでディアスポラ集団の社会運動を扱った研究は、故国の人々に及ぼす影響に主

な焦点を当ててきた。これに対して本論で着目するのは、ディアスポラ集団のトランス

ナショナルな運動が特定の場において新しい文脈を与えられ、ローカル化される過程で

ある。これによって、故国の社会運動を取り巻くグローバルなアクターという中心-周

縁という構図を脱した両者の相互作用を捉えることを試みる。技術に媒介された言説空

間で流通する「緑の運動」の情報は、複製・加工され、日常生活へと持ち込まれること

でロサンゼルスのイラン人たちを「共感=代理の政治」へと動員した。デモの参加者た

ちの多くは、予め持っていた主張や要求の達成のために運動に関わるのではなく、むし

ろデモの場での連帯と対立の実践を通じて民主化などの抽象的概念を解釈し、運動への

関与を続けたことが明らかになった。

トランスナショナルな社会運動における共感=代理の政治― ロサンゼルス在住イラン人の抗議運動の事例から

椿原敦子

Contact Zone 2014 論文

キーワード:社会運動, 遠隔地ナショナリズム, 共感=代理の政治 , サイバースペース, 亡命者メディアTSUBAKIHARA Atsuko 国立民族学博物館外来研究員 

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1 序 1

 2009年 6月 28日にアメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス(LA)郡 LA市西部の連邦ビル前でデモが行われた。これは、同年 6月 12日に行われた第 10期イラン大統領選挙の結果への異議の申し立てとしてイラン各地で起こった抗議運動に呼応するものであった。参加者は数千人とも数万人とも伝えられ2、LA周辺のイラン人が行った過去最大規模のデモとなった。LAから発信されるペルシア語 TV番組を通じて参加が呼びかけられ、著名なイラン人ポピュラー歌手の数名がともにデモに参加し、連邦ビル前に作られたステージで歌った。上空を旋回するヘリコプターには "WE SUPPORT FREEDOM IN IRAN"と書かれ、TV局の名が記されたバナーがつけられていた。連邦ビルの敷地の使用許可や、ウエストウッド通りの車両通行止めの申請が予め行われており、警察が見守る中で行進は行われた。「(イランの最高指導者アリー・)ハーメネイーに死を(marg bar Khamene’ )」といったペルシア語でのスローガンに続き、「イランにデモクラシーを、イランに自由を(democracy for Iran, freedom for Iran)」など英語でのスローガンを叫んでいた。スローガンやプラカードには、イランの政体を独裁政権として否定し、人権や民主化などを求める主張が見られた3。 LAでのデモは、いわゆる「緑の運動」( jonbesh-e sabz)と呼ばれるイラン国内での抗議運動に端を発していた。2009年 6月 12日に行われた第 10期イラン大統領選挙では、現職マフムード・アフマディーネジャードが 62%という他の候補者を圧倒的する得票率で勝利した。しかし他の候補者の支持者は、時間経過ごとの開票速報の矛盾などを背景に、アフマディーネジャードへの得票の水増し、投票妨害など選挙をめぐる不正を糾弾した。選挙結果に異議を唱える人々は、候補者の一人であるミールホセイン・ムーサヴィーが選挙キャンペーンに使用した緑をシンボルカラーとして用いていた。一連の抗議行動が「緑の運動」と呼ばれるのはここに由来する。 イラン各地では選挙結果の開示直後から、路上で抗議する市民と警察、治安維持部隊が衝突へと発展し、抗議行動は次第に暴徒化し、投石やゴミ箱への放火が始まった。15日には首都テヘランでムーサヴィーや他の候補者たちも抗議運動に参加し、数百万人規模のデモ行進が行われた。抗議行動はおよそ 2ヶ月の間イランの主要都市で頻発し、その後 2年にわたって断続的に続いた。 LAでのデモはイラン国内での抗議行動に呼応する形で始まったが、運動の実践や主張は、イラン国内の動きとは必ずしも軌を一にしていない。また、デモに集う人々の多

1 本論での考察は、2009年 9~ 10月と 2010年 2月に行った、アメリカ・カリフォルニア州南部におけるフィールド調査で得られた知見に基づくものである。調査に際しては、大阪大学グローバル COEプロジェクトの助成を得た。本論の執筆にあたっては、大阪大学大学院人類学研究室の先生方ならびに院生の方々、そして一橋大学の岡崎彰先生からは多くの貴重な助言をいただいた。また改稿にあたり、匿名の 2名の査読者から詳細かつ有益な指摘をいただいた。ここに記して謝意を表します。

2 “ettehad-e bi sabeqe Iraniyan kharej az keshvar az dar hambastegi ba mardom-e Iran.” Kodoom.com, 29 Jun. 2009.(http://features.kodoom.com/iran-politics last accessed 28 Aug. 2014)

3 2009年 6月 28日のデモの様子は、LAのペルシア語テレビ局「Pars TV」による映像を資料として用いた(http://voinews.net/Default.aspx last accessed 30 Jun. 2014)

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トランスナショナルな社会運動における共感=代理の政治

くは政治状況の如何にかかわらず、今後も LAで生活を続けるつもりだと述べていた。2000年代初頭にイラン国外に居住するイラン人(イラン出身者とその子弟)はおよそ 200~ 300万人と見積もられ、アメリカにはそのうち 60万人程度が居住している[Amiri & Moghaddas 2005:5;Mostashari & Khodamhosseini 2004]。LA市を中心とする南カリフォルニアは全米で最大のイラン人口集積地であり、約 20~ 30万人が在住している[Ghorashi 2002:143]。こうした国外居住者にとって、遠く離れた場所からイランの民主化、あるいは政権交代を望む声を発することは、どのような意味を持つのだろうか。 本論では 2009年 9~ 10月と 2010年 2月の LAでのフィールド調査にもとづき、デモに参加した人々はどのような背景から祖国の政治に強い関心を寄せていたのか、またデモに参加することで彼(女)ら自身の生活世界はいかに変化したのかを考察する。

2 先行研究と問題の視座

 イランでの刻々と変化する情勢を分析した研究者たちは「緑の運動」がどのような「運動( jonbesh)」であるのかという点について様々な見解を示してきた。これらの議論は、1979年のイラン革命期の運動との異同を比較検討する点から、大きく二つの立場に分けることができる。第一に、2009年の運動と 1979年の革命の共通点を強調し、緑の運動による政治体制の転換をもたらす可能性を示唆する立場[cf. Fischer 2010]。第二に、2009年の運動は 1979年の革命とは質的に異なるものであることを主張する立場である[cf. Bayat 2010;Dabashi 2010、2012]。後者の議論は、2010年からアラブ諸国に頻発した反政府デモや抗議活動、いわゆる「アラブの春」との連続性や同時代性を強調している。 アーセフ・バヤートは、「緑の運動」や「アラブの春」は、政治エリートが先導して大衆が動員されるような社会運動と異なり、人々が日常生活の中で行うリーダーなき抵抗、「社会 -非 -運動(social-non-movement)」であると主張する[Bayat 2010:10-14]。イランでは革命後の政府によってイスラームにもとづく政治機構の確立や、教育から娯楽に至るまでの日常生活のイスラーム化が進められた。1990年代末のハータミー大統領期になると、こうした政治的イスラーム主義路線は後退した。 バヤートによれば、1997年から始まるハータミー大統領期以降の「ポスト・イスラーム主義」は、反イスラーム主義でも世俗主義でもなく、信教の自由と個人の選択の自由を合わせた、世俗民主国家と宗教社会の併存を志向するものである。この潮流は政治的イスラーム主義の存続を問題とする政治的アリーナでの改革運動とは異なり、信仰の問題を個人の自由に帰するべく行われる(非)運動なのである。ハミード・ダバシーは、バヤートの「ポスト・イスラーム主義」という概念を継承しながら、「緑の運動」や「アラブの春」を「ポスト・イデオロギー」的運動として捉えている[Dabashi 2012:11-13]。「ポスト ・イデオロギー」とはイスラーム主義の終焉だけでなく、革命・武装闘争、第三世界の社会主義、独立国家形成といった、植民地支配や帝国主義に対抗するあらゆるイデオロギーの終焉をも意味する。 こうした欧米在住の研究者たちの分析の外延には、ジャーナリストやディアスポラのイ

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ラン人たちの議論がある。幼少期よりイラン国外に在住しているイラン系ジャーナリスト、ホーマン・マジードは体制内改革を積極的に評価し、緑の運動ではこうした努力が亡命イラン人や欧米人支持者による思惑によって体制崩壊への期待にすりかえられてしまったことを批判している4。マジードの批判する対象は、革命前の元国王の息子レザー・パフラヴィーの支持者をはじめとする王政復古を望む王党派、そしてイラクと欧米に拠点を持つ反政府勢力モジャヘディーネ ・ハルクなどである。バヤートやダバシーが、「緑の運動」がイデオロギーの追求ではないことを強調するのは、マジードのような論者がイスラーム共和国という体制内部の改革か、それとも体制打倒・崩壊かという点に問題の焦点を据えているのに対し、運動は現体制の正統性を問うものではないことに注意を向けさせるためである。 本論で問題とするのは運動の性質ではなく、研究者やジャーナリストによる議論が、国外在住のイラン人を「緑の運動」の担い手から除外してきたという点である。バヤートの分析はイラン国家の求める女性や若者像からの日常的逸脱など、運動ならざる実践に向けられているため、欧米在住のイラン人フェミニスト活動家や、徴兵を逃れて国外へと移住した若者、超国家的な人権組織などは、社会変化を導くアクターとして考慮に入れられていない。さらに、マジードは、国外から介入しようとする亡命者たちは、イランの民衆の企図を撹乱させ、頓挫させる存在だと主張する。彼は、国外在住のイラン人亡命者の存在を「緑の運動」の「ノイズ」として片付けているのである。 果たして、国外のイラン人たちの動きはイランの政治と何の関係もないのだろうか。ニナ・グリック=シラーは様々なロケーションから、自らが故国とみなす特定のテリトリーに関与する実践を「遠隔地ナショナリズム」(long-distance nationalism)と総称する[Glick-Schiller 2005:570]。彼女によれば、遠隔地ナショナリズムは 1990年ごろから社会科学の用語として用いられるようになった。しかし、アイデンティティと歴史を共有する離散した人々によるナショナリズムは歴史的に広範に見られるものである。19世紀から 20世紀初頭のアメリカへの移住者たちが出身地の国民国家建設に関わり続けたように、遠隔地ナショナリズムは新しい現象ではない。また、20世紀後半の東西冷戦期においても、移民たちの出身国へのイデオロギー的な関与はアメリカやカナダなど西側諸国の後押しにより行われていた。グリック=シラーは、現代の遠隔地ナショナリズムの新しさは、国外在住者がコミュニケーション技術を利用して祖国への投資、家族との関係維持やトランスナショナルな政治参加を行っている点にあると指摘する[Glick-Schiller 2005:573-574]。序章で見たような国外のイラン人たちのデモも、こうした遠隔地ナショナリズムの一つのあり方と見ることができる。 コミュニケーション技術の発達により、政治的主張を発信する者がどこにいるのか、係争事項についてどのような利害を持っているのかを問わず、社会運動への参加が可能になった[e.g. Escobar 1994;Terranova 2001]。そして、グローバルな言説の流通が、し

4 Hooman Majd “The Beginning of the End” Newsweek, 14 Jul. 2009. http://www.newsweek.com/viewpoint-end-irans-green-revolution-81483?piano_t=1 (last accessed 26 Aug. 2014)

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トランスナショナルな社会運動における共感=代理の政治

ばしばローカルな当事者の望まない帰結をもたらすことが指摘されている。ベネディクト・アンダーソンによれば、20世紀初頭のコミュニケーション技術革命と、出生と国籍の結びつきの制度化という二つの変化が「遠隔地ナショナリズム」を生み出した。それを担う遠隔地ナショナリストは、「第一世界の中で安楽かつ安全な場所に身をおき、金や銃を送り出し、プロパガンダを流布させ、コンピューターを使って大陸間の情報ネットワークを築く」。そして「最終目的地となる地域では、予想のできない結果を引き起こしてしまうかもしれない」存在である[アンダーソン 2005:126]。アンダーソンはこのような遠隔地ナショナリストが、自ら進んで故国離脱者となりながらもナショナリズムに関わるのは「自分のエスニックアイデンティティを形成するためなのだ」と述べている[アンダーソン 2005:126]。 アンダーソンの遠隔地ナショナリズム論には、アイデンティティにまつわる分析上の問題がある。アイデンティティという語は学問的・一般的に、個人が、社会の中に安定した位置を見出すためのカテゴリーへの帰属を指して用いられてきた5。アンダーソンもこうした立場からアイデンティティという語を用いているが、ディアスポラの人々にとって、社会的カテゴリー自体が安定したものではない。加えて、アイデンティティを個人が自由に選び取ることのできるものとして想定し、それを参加の動機とする説明では、同様の立場に置かれながらもナショナリズムに積極的に関与していく人々と、そうでない人が生じることを捉えられない。アルベルト・メルッチが社会運動論の中で示したように、遠隔地ナショナリズムの議論においても、アイデンティティは運動の出発点でも最終目的でもなく、運動に参加する過程で形成されると見るべきであろう[メルッチ 1997]。 本論ではアイデンティティではなく当事者意識を、運動への参加過程で重要なものと考える。それは誰が要求・主張する資格を持つと考えるのか、なぜある主張が他のものより妥当であると考えるのか、といった参加の正統性にまつわるものである。当事者意識に着目することで、「緑の運動」論者らが行ったような、分析者による当事者/部外者の分別ではなく、参加者が自身や周囲の人々を分類していく過程を考察することができると考える。 当事者意識からグローバルな運動に参加し、ローカルな政治に予期せぬ結果をもたらすメカニズムを、アイファ・オングは「共感=代理の政治(vicarious politics)」という語を用いて説明した。彼女は 1997年のアジア通貨危機に端を発する、インドネシアでの華人排斥に反対するグローバルな運動の展開を分析した。サイバースペースの運動家たちは華人としての「共感」にもとづいて、インドネシアの華人達の人権や自治を要求した。しかし、排斥を受けた人々は、華人であるよりインドネシア人としての意識を持っていた。運動家たちが「代理」人として現地の華人の思惑を超えた要求を行うことで、インドネシア社会へのコミットを志向する人々をより孤立させる結果になった[Ong 2007:93]。

5 同一を意味するラテン語 identidemsを語源とするアイデンティティという語が学術的に用いられたのは、20世紀初頭のフロイトの精神分析と G.H.ミードのアイデンティフィケーション理論が最初である[吉野 2006]。20世紀の半ばに精神分析家エリクソンが青年期の「アイデンティティの危機」を論じて以来、一般的な用語としても急速に普及した。

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 本論がオングの議論を援用して考察するのは、国外に在住する人々が共感によって運動に参与し、次第に支援者である以上の主張を行う代弁者となってゆく過程である。「共感=代理の政治」は、単に他者を代弁することとは異なる。参加者たちはある事件や問題を自分自身に関わるものとして考えるがゆえに関与するのである。これまでの研究では、国外在住者の本国の政治への参加は、その「影響」に焦点を当てて論じられてきた。例えばプレーマー・クーリエンは、制度化・組織化されたアメリカ流のヒンドゥーイズムのインドへの移植が、インドにおける過激なヒンドゥーナショナリズムをイデオロギー的に正当化する役割を果たしたことを明らかにしている[Kurien 2004]。これに対して本論では、国外在住者が当事者として「共感=代理の政治」に関与する「過程」に着目する。 アンダーソンだけでなくオングもまた、コミュニケーション技術を介した運動の無責任さには批判的である。とはいえ、運動の参加者たちは身の危険を負わない安全な立場にいるとは限らない。例えば先行研究では、遠隔地ナショナリズムに関わる人々が一つの集団として独自のアイデンティティを形成し、同時にその集団が故国とみなす国家の権力に絡め取られていくことが示唆されている。グリック=シラーとフォーロンは、ある領土を統治する権力機関としての国家は 20世紀後半以降、国境を越えて、他国の市民権を持つ移住者とその子孫を領有しようと試みるようになったと指摘する[Glick-Schiller & Fouron 2001]。つまり、グローバル化により「脱領域化」されたのは、人や資本、情報のみならず、国家主権でもある。規律社会が国民を国家の領域=領土へと包摂・排除するものであるとしたら、管理社会時代の国家は、「国民」の居るあらゆる場所に出現する[ドゥルーズ 2007: 293]。このような国家主権の脱領域化の観点からは、遠隔地ナショナリズムに関与する人々は、「安楽かつ安全な場所に」身を置いているとはいえないだろう。 以上の問題関心から本論では、インターネットをはじめとする技術を用いたトランスナショナルな運動の展開において、いかにして一部の人々は運動により深くコミットしていったのか、そして緑の運動の鍵概念である民主化などの抽象的概念がいかに翻訳され、LAでのローカルな実践を導いたのかを明らかにすることを目的とする。以下では、イランに自らのルーツがあると考え、それゆえにイランの抗議運動に参加する人々を、出生地や国籍、使用言語にかかわらず便宜的に「イラン人」と呼ぶが、確固とした帰属意識が参加に先立って存在するとは考えない。むしろ参加することによってアイデンティティや帰属が問われ、参加者の間に複数のバウンダリーが形成される過程を考察する。

3 国家の外の国民

 イランの近代・現代を顧みると、国家の外に居ながら国家の政治に関与することは新しい現象ではない6。その手段としては、外交関係や国際世論に訴えること、イラン国内の世論を形成し、蜂起を促すための情報や資金などの資源を国内へと送ることが中心であった。しかし、イラン革命を経て国外移住者が飛躍的に増加したため、関与のあり方も変化した。以下では 1960年代から 2009年以前のイラン国外への人の流れをたどり、移住者の特徴が政治運動の実践上の変遷といかに関わっているのかを明らかにする。

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トランスナショナルな社会運動における共感=代理の政治

3-1 革命前 1979年のイラン革命後の最高指導者となるアーヤトッラー・ホメイニーは、1963年より亡命生活を送りながら反王政運動を進めてきた。彼の政治的なスピーチを録音したカセットテープは、イラン国民の大多数の宗教的帰属であるシーア派にとって重要な参詣地となっていた隣国イラクのカルバラーやナジャフへの参詣者を通じて、イラン国内へ流入した。参詣者はイラン・イラク外交関係の発展に伴い増加し、テープの流入はイラン政府の問題の種となった。イラン政府はイラク政府に要請してホメイニーを 1978年 10月にナジャフから追放し、彼はフランスのパリ郊外へと移住した。そこでホメイニーは、革命後の要職に就くこととなる欧米在住の支持者たちと共に、イラン国内の革命運動にさらに大きな影響力を持つこととなった。加えて、彼らの活動が欧米メディアの注目を集め、パフラヴィー朝に決定的な打撃を与えることになった[Sreberny-Mohammadi et al. 1994]。ホメイニーが亡命していた 1960年代以降には、国外での政治活動に変化の兆しが見られるようになった。それまで政治的手腕を持つ知識人や富裕層など、専ら少数のエリートが政治活動を行ってきたのに対し、留学生が中心的な担い手となったのである。1950年代後半の親欧米外交路線に伴ってイランから欧米への留学者は増加し、1960年代後半にはおよそ 3万人が西ドイツ、フランス、イギリス、アメリカを中心とする欧米の大学に就学していた [Matin-Asgari 1991]。1961年にはイラン人留学生組織と、テヘラン大学の学生組織が協同して通称「コンフェデラシオン」と呼ばれる国際組織、Confederation of Iranian Students, National Unionが結成された。 ホメイニーが革命後にイスラーム法学者による国家体制を確立したことから、イラン革命は「イスラーム革命」として一般に理解されることが多い。しかし、革命はシャー政権打倒に向けた「同床異夢」の諸勢力の運動の結果であり、「イスラーム性」は国家建設のヴィジョンとして共有されたというよりは、諸勢力の統一と大衆動員の過程で重要な役割を果たした[吉村 2005:95]。コンフェデラシオン内部にも多様な政治的立場を持つ学生が参加していた。1963年のホメイニー国外追放を転換点としてイスラーム主義勢力はコンフェデラシオンを離れ、マルクス主義勢力が組織内で伸張した。 およそ 20年にわたる活動の中で、コンフェデラシオンの主張は欧米の世論や、他の学生組織との関わりによって刻々と変化した。コンフェデラシオンは留学生組織として設立されたため、設立当初はイラン大使など政府との関係も持ち、シャーの政治への不満を直

6 20世紀初頭に起きたイラン立憲革命では、ヨーロッパやトルコ・イスタンブール、さらにはイラクが亡命イラン人の活動の場であった。1908年時点でヨーロッパに在住するイランからの亡命知識人は200人ほどであったとされる。ロンドンでは「イラン委員会」を設立、英露の内政不干渉のための働きかけが行われた。他にヨーロッパの第二インターの主要メンバーへの支援要請や、イスタンブールを拠点にしたタブリーズ、ラシュト地方での蜂起支援など、立憲革命期の国外亡命者による活動は活発だった[Afary 1996]。1941年のイギリス・ソヴィエトのイラン進駐から 1950年代初頭までは政党結成や言論の自由度が増し、国内での政治活動が相対的に盛んな時期であった。しかし、1953年のモサッデグ失脚後にアメリカの支援を受けたモハンマド・レザー・パフラヴィーの支配体制が確立されると、再び政治活動の拠点が国外へと移った。

7 例えば 1967年 7月にシャーが西ベルリンを訪問した際には、社会主義ドイツ学生同盟と共に反対デモを行った。その際にデモ隊と警察との衝突によりドイツ人学生が射殺されたことで、その後のドイツ国内の学生運動の過激化の契機となった[Matin-Asgari 2002:12]。

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接に伝える機会もあった。ほどなくしてコンフェデラシオンは政府との直接対話を放棄し、シャーの欧米訪問の際にイランの抑圧的な内政を告発すべく、現地でのデモを行う方策へと転換した[Matin-Asgari 2002:48]。欧米の現地学生・留学生組織との協同も盛んに行われ、ヴェトナムや中国、パレスチナなどの情勢に関わる運動にも組織として参加していた7。このように、コンフェデラシオンは欧米の学生運動と相互に連関を持っており、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ情勢の中にイランを位置づけて運動を展開していた。 イラン政府は、1971年にコンフェデラシオンを非合法組織と認定した。コンフェデラシオンとしての活動は停滞する一方で、学生による非公式な活動は続き、より暴力的なものへと発展した。1977年 11月にはシャーのアメリカ訪問に際して、ジミー・カーター大統領がホワイトハウスにて歓迎式典を開催した。この時、約 5500人のイラン人学生がホワイトハウスの南北を包囲し、警察とシャー支持者を相手に乱闘が起きた。96人のデモ参加者と 28人の警察が負傷する結果となったこのデモは、ワシントン DCで開かれたものとしては 1970年代初頭のヴェトナム反戦デモに匹敵する過激なものとして、国際メディアの注目を集めた。ほぼ同時にアメリカ・ヨーロッパ各地では学生によるデモや、イラン大使館占拠などの反政府行動が行われた[Matin-Asgari 1991:158-160]。 コンフェデラシオンをはじめとするイラン人留学生たちの運動は、デモなどの活動により世論を引き付ける戦略を採ってきた。活動が暴力的になった 1970年代以降は、反帝国主義を掲げてアメリカによるイランへの介入を批判するなど、イランの内政だけでなく欧米への批判を行ってきたため、参加者は居住国での逮捕・拘束や本国への強制送還などの恐れがあった。加えて、イラン政府の諜報機関による組織撹乱工作やデモへの攻撃、要人への暴力も起きており、国外での活動は決して安全なものではなかった。デモの際には覆面を被る人々も多数見られた。居住国とイランという二つの国家に対して批判の矛先を向けた留学生たちは、両国家の権力から排斥を受ける可能性を持っていたのである。

3-2 革命後 1979年のイラン革命を機に、それまで留学生が中心だったイラン国外在住者の人口構成に変化が生じた。革命と 1980年から 1988年まで続いたイラン・イラク戦争を背景に、あらゆる年齢、経済的階層、政治的信条を持つ人々が国外へと移住したためである。革命前のイランの経済成長の恩恵を受けた新興富裕層、留学生として渡米した人々、迫害を逃れてきた宗教-民族マイノリティ、革命に積極的に参与し、革命後に政治のアリーナから排除された左翼勢力など、イラン革命について相対する態度を持つ人々が移住した。就業機会や居住環境を理由に LAを移住先として選ぶ者が多く、1980年代中葉に LAは、イラン国外最大のイラン人が集住する地域となった。 革命後には、在米イラン人によるデモがアメリカのメディアの注目を集めることは少なくなった。かわって、アメリカのメディアはイラン革命と在テヘラン・アメリカ大使館占拠事件で受けたトラウマを「イスラーム」という仮想敵の仕業として描き出すことに終始していた[サイード 1996:66]。1979年 11月から 444日にわたったアメリカ大使館占

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拠事件の時期には、反イラン集会が LA各地で開かれ、時にはカリフォルニア州議員が主導で反対集会が行われることもあった[Kelley 1991]8。こうした状況から、公の場で政治的主張を行い、世論を引き付けるという革命期の在外イラン人が行ってきた戦略は有効性を失った。 革命前から LAのイラン人は、連邦ビルを主な抗議集会の場にしていたが、革命後は次第に組織同士が小競り合いを繰り広げる場となっていった。連邦ビルでのデモは、かつての学生運動家、社会主義・共産主義組織の活動家などを中心とする革命の担い手と、革命によって国を追われた政治家や軍人、富裕層を中心とする王党派との、私怨を含んだ衝突の場となっていった。1987年、当時の大統領であったハーメネイーの国連訪問に抗議する集会が連邦ビル前で開かれた際に、文筆家で書店主のニウーシャー・ファッラーヒー(Niusha Farrah )が焼身自殺を図った(Javanan Magazine 9 Oct 9, 1987, p. 38)。その動機については諸説あるが、残された文書から、LAのイラン人の分裂や政治的無気力への批判であったと理解されている[Kelley 1993]。 1990年代にはアメリカ在住イラン人の永住権・市民権取得が進み、同時に家族の呼び寄せや留学など、イランからアメリカへの移住も続いていた10。一方で、アメリカに定住した人々のイランへの一時訪問も頻繁に行われるようになった。1988年にイラン・イラク戦争が終結し、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領(1989~ 1997)が経済復興を掲げて現実主義路線を採る中で、かつて「逃亡者(farari)」「出て行った者(dar rafteh)」と批判を込めて呼ばれた国外在住者への態度は一転した。在外イラン人は経済的繁栄をもたらす「国民」として歓迎されることになった11。国外生まれの第二世代でも、学校の休暇ごとに親類のもとを訪れ、長期滞在する者も少なくない。こうした相互の往還や帰還の可能性が開かれたことで、国外に留まることは一時的・非自発的なものから、より恒久的で自発的な選択という意味合いを強めた。 LAのイラン人が公の場で政治的主張を行うことが少なくなる中で、1999年に起きたイランでの事件が、LAでのイラン人によるデモを再び活性化させる契機となった。イラン国内で新聞の発禁処分に反対する学生デモを発端とするテヘラン大学の学生寮襲撃事件である。テヘランでは、これに抗議の声を上げる人々が 6日間にわたり路上での暴動を繰

8 全てのイラン人学生ビザの取り消しや再登録の強制、強制送還などの措置や、アパートの入居差別なども起きた。

9 Javanan Magazine. Reseda: Javanan.10 革命前のイラン人留学生の多くは、就労などにより卒業後も非移民ビザを取得していたが、大使館占拠事件を境に政府は医療上の必要のある者と、政治亡命申請者を除き、イラン人への新規ビザ発給を拒否した [Mobasher 2012:38]。1960-1977年に非移民ビザで米国した者は 376,844人だったが、ビザの期限を超えて滞在する超過滞在者が増加した[Lorentz & Wertime 1980;Bozorgmehr & Sabagh 1988]。1986年に「移民改善・規正法」が施行されたことにより、既に入国した不法移民への人道的配慮として、1982年 1月 1日以前にアメリカに入国した不法滞在者に対しては永住権・市民権が付与された[古矢 1990]。

11 国外在住者のパスポート再発行にかかるコスト低減や、宗教的帰属を宣言する手続きの廃止、徴兵義務を免除金の支払いによって免除するなど、イランへの帰国に関する要件の緩和が図られた[Namazi 1998]。アメリカとイランの国交断絶に伴い、双方の大使館は閉鎖されている。しかし、ワシントン DCのパキスタン大使館にはイランのビザ等手続きを代行する部局があり、1996年から 2004年の間に 13万人を越える在米イラン人が部局を利用した[Bozorgmehr 2007:477]。

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り広げた。LAではペルシア語ラジオやテレビで事件が報道されると、連日「自然発生的に、組織やアナウンスなしに」(Javanan Magazine July 23, 1999, p. 95)、人々が連邦ビルに集結した。その後、メディアでの告知により、7月 15日には大規模なデモが開かれた。この時のデモには LAでの生活を築くことに腐心し、イランの政治から関心が遠ざかっていた人々が一斉に集まった。 このとき連邦ビルに集まった人々の様子は、それまでのデモ参加者と二つの点で異なっていた。第一に、特定の組織やイデオロギーの信奉者としての主張を打ち出していなかったこと、第二に、あらゆる世代の人々が参加していたことである。LAのペルシア語週刊誌『ジャヴァナーン(Javanan)』は、イラン国内の動きと連動した「もう一つのデモ」としてその様子を報じた。若者は英語でスピーチし、シュプレヒコールを叫び、英語のプラカードを掲げていた。年老いた父母たちも車椅子で訪れ、若者の熱狂を見ていた。テレビの著名人がスピーチし、歌手が歌い、人々はその周りに「親密な輪」をなしていた。人々の親密な輪は、反政府組織主導のプロパガンダとしての大規模なデモや、異なるグループがそれぞれに集まるデモ…といったかつての党派対立とは異なっていた(Javanan July 23, 1999, p. 95)。 1999年のデモは、LAの人々にとって空間的にも時間的にもイランの人々との間に「われわれ/彼ら」を分かつインパクトをもたらした。先述のとおり、革命前の留学生や亡命者にとっては欧米各地が暴力を伴う蜂起の場であり、かつ組織を通じてイランでの活動と直接のつながりを持っていた。このため政治行動に対する制裁は当該国とイランの両方から及ぶ恐れがあった。これに対して 1999年の LAの場合は、イランでの暴力的な衝突に関わった人々とは直接のつながりを持たず、デモの様相も大きく異なっていた。在米イラン人は革命期から 1980年代にかけて増加し、革命期に 10代後半から 30代前半であった人々と、現地生まれの第二世代が人口の中心を占める12。1999年の LAにおけるデモの参加者もほぼ同様の年齢層からなる。一方、イラン国内のデモの担い手は、イラン・イラク戦争期のベビーブームに誕生した、いわゆる「革命後の子供たち」であった。従って、LAとイラン国内ではデモの担い手の経験に大きな差があったと考えられる。

4 トランスナショナルな運動とメディア

 イランとの関係が次第に遠く、間接的になってゆく人々にとって、イランとの関係を維持する上でメディアが果たした役割は大きい。LAのペルシア語メディアは母語での娯楽や生活情報を提供するという通常のエスニック・メディアの内容に加え、イランの政治状況についての解説や批判を行ってきた。例えば番組の司会はイランの現政権を否定する主張を繰り返し、音楽ビデオにも戦争や圧政によって荒廃した祖国のイメージが映し出され

12 アメリカへの移住者は 1977年から 1986年にかけて急増し、その後減少に転じている[Bozorgmehr & Sabagh 1988:77]。全米センサスによれば 1990年時点の米国在住イラン人の年齢構成は 25~ 34歳、0~ 15歳が共に 24%で最も多く、次いで 35~ 44歳が 20%である。15歳以下人口のうち、約69%がアメリカ生まれの第二世代である(Encyclopaedia Iranica VII., s.v. "Diaspora.” Table29)。

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る。アメリカの主流メディアとも、イランの官製メディアとも異なる独自のイラン表象を行う LAのペルシア語メディアを、メディア研究者ハミード・ナフィスィーは「亡命者メディア」と呼んでいる[Naficy 1993]。他方でイランへのアクセスは、相互訪問や電話による直接的・個人的コミュニケーションに加え、技術の発展に伴って衛星ペルシア語 TVやインターネットなどメディアを通じた情報によって行われた。以下では革命直後から2009年の「緑の運動」までの国外在住者によるメディアの利用について、ローカルで一方向の情報流通から、グローバルで双方向のコミュニケーションへと発展する過程を辿る。

4-1 亡命者メディア イランでは革命直後に政府による「文化革命」の一環として、音楽とマスメディアへの厳しい統制が続いた。その結果、革命前のテレビやラジオ、大衆娯楽映画の制作者や、ポピュラー音楽の歌手などが活動の場を失い、国外へと移住した[Youssefzadeh 2000]。こうした人々が次第に LAへと集まり、亡命者メディアの拠点を形成した。富裕層が資本を提供し、イラン人のローカルなビジネスが広告主となることで亡命者メディアは発展し、1980年代後半には地元ケーブル TV局で 28のペルシア語番組が放送された。定期刊行物に関しては、1980年から 1993年までに、LAだけでも 90を超える雑誌が出版された[Naficy 1993: 35]。1990年代後半からは、これまでケーブル TVで番組を放送していた事業者が、相次いで衛星放送を開始した。初期には北米やヨーロッパなどイラン人人口の多い地域に向けて放送されていた。 イラン国内では 1990年代前半から徐々に衛星放送が普及し、政府はこれを統制するため 1995年に受信機器の所持や設置を禁止したが、その後も衛星放送の視聴者は増加した。衛星放送やインターネットの普及以前にも、イラン国内の人々は LAのペルシア語番組や、音楽ビデオを録画した海賊盤ソフトを入手して視聴していた。イランへのペルシア語 TVの衛星放送開始によってもたらされた変化は、リアルタイムの視聴が可能になったというだけではなかった。ペルシア語 TV番組の多くは初期から、アメリカの主流 TV番組のフォーマットを取り入れ、生放送のトークショーで視聴者からの電話を受け付けるコーナーがあった[Naficy 1993:122]。番組中にイランの視聴者からの電話を受け、司会者との直接の会話が交わされるようになったのである。 LAからイランへの衛星放送は意図せざるものとして始まった、と放送を開始した人々は述べている。最も早く放送を開始した National Iranian Television(NITV)は 2000年に、イランからの視聴者の電話を受け取り、イランでも放送が受信されていることを知った。NITVのオーナー、ズィヤー・アタバーイー(Zia Ataba )は革命前のイランではロック歌手だった。放送開始当初は商業的な成功を追求していただけだというアタバーイーは、イラン政府からの電波妨害や国営メディアを用いた個人的な誹謗中傷を受け、次第に政治に目覚めたという13。NITVにはワシントン DCに在住するパフラヴィー朝の国王の長男、

13 Michael Lewis, “The Satellite Subversives” The New York Times. 24 Feb. 2002. (http://www.nytimes.com/2002/02/24/magazine/24NITV.html last accessed 26 Aug. 2014)

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レザー・パフラヴィーが定期的に出演し、イランの民主化のための非暴力の抵抗をイランの視聴者に向けて訴えた。他の衛星 TV局も NITVに続いて、イランへと送信を開始した。 2003年には複数の放送局による電話を介したイランとの通信が、イランでのデモへの参加を促した。2003年 7月 9日(イラン暦のティール月 18日)、イラン各地で 1999年に「民主化」への反動として起きたテヘラン大学寮襲撃事件での死者を追悼するデモ集会が開かれた。2003年時点で 11のペルシア語放送局がイランで受信可能であり、うち 9局がアメリカから放送していた。いくつかの TV局はイランからの電話を通じてデモの情報を提供し、参加を呼びかけた。1999年の事件は、7月 8日新聞社が閉鎖されたことに抗議し、言論の自由を主張するデモが開かれたことから始まる。この事件の追悼集会から始まった 2003年のデモの争点は、言論の自由などの権利要求であったが、多くの放送局はこれをイスラーム共和国政権に反対するデモとして解釈した。これに対して、当時の国会議長であったメフディー・キャッルービーは、アメリカのイラン人が遠隔地から指示を出していることに対して不快感を示し、「何かを言うなら、イランに来て言うべきだ」と述べたと報じられている[Alexanian 2009:53]。 ペルシア語衛星 TV放送局の数は 2005年時点で 25を超えていた。一部の放送は UAEやカナダ、イギリスなどを拠点にしているが、大多数は LAを拠点にしている。音楽や映画など娯楽の提供を中心としている局と、ジャーナリストや政治批評家、あるいは局のオーナー自身によるニュースの解説や批評を中心としている局がある。後者は他局との見解の相違を主張し、時には解説者同士が名指しで批判し合うこともある。 放送局間の見解の相違や論争にもかかわらず、政治的な主張を行う TV局の番組には共通した語彙や様式が見られる。例えば、視聴者への挨拶は通常のペルシア語会話で用いられるアラビア語由来の「平安あれ(salam)」ではなく、通常は「万歳」の意味で用いられるペルシア語起源の「あなたに祝福あれ(dorud bar shoma)」である。パフラヴィー朝は王権の正統性をアケメネス朝ペルシアとの連続性に求め、アラブ・イスラーム由来の語彙を排してペルシア語の「純化」を推進した。革命後の政府はこれとは反対にイスラーム化を進める中でアラビア語の語彙を用いるようになった。革命前のペルシア語化と革命後のアラビア語化という正反対の政策を背景に、王党派たちはこれまで革命前後を通じて慣習的に使われ続けてきた日常的な挨拶についてもペルシア語化を試みた。他にも、歴史上の出来事を引き合いに出すときのいくつかの用語は、現在一般的にペルシア語で用いられているものとは異なる。そこには、出来事を解釈する時の立場の違いが現れている。例えば1953年の、イランの石油国有化運動を進めたモハンマド・モサッデグ首相の失脚とイギリス・アメリカに後押しされた軍部による国王の権力回復は、一般に「(イラン暦)モルダード月 28日のクーデター(kudeta-ye b st-o-hashtom-e Mordad)」と呼ばれる。一方、王党派は「モルダード月 28日の蜂起(rastakhiz-e b st-o-hashtom-e Mordad)」と呼び、民意によって王権が復活した日だとしている。 亡命者 TVのニュース解説では、様々な事象を次の三つの集団による行為へと分類し、行為の是非が検討される。第一に、イスラーム共和国政府とその支持者によるもの。第二

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に、「イラン国民」によるもの。第三に、国外のイラン人左翼勢力や欧米政府によるものである。この分類に照らして、大統領選挙や議会選挙は第一の集団(イスラーム共和国政府)によって作られたシステムであり、政権が容認する者しか立候補できない。従って「選挙 (entekhabat)」ではなく、「選任 (entesabat)」であり、いかなる場合でも不正だとしてボイコットが呼びかけられる。また、第三の集団による外圧に関しては、イラン国民の望まない介入であるとして退けられる。例えば、カーター米大統領の掲げる人権外交が1970年代末に革命勢力を伸長させ、イランの内政を不安定なものにしたことを引き合いに出して、国連や欧米の人権団体による働きかけはイランの民主化を挫くものであると批判する14。そして第二の集団、名も無き「イラン国民」――イラン国内の著名な人権活動家やジャーナリスト、知識人などではなく――による抵抗こそが、正当なものとして肯定される。例えば「緑の運動」は、亡命者メディアによれば改革派候補者のリーダーシップによる運動ではなく、路上で蜂起する若者たちの運動だと考えられている。このように、分類にもとづく定式化された反応から、どのような事象についてもある程度予測のつく反応・主張が行われているのである。 衛星 TV番組で主張されているのは政治機構の見直し、国民主導の民主化、人権や言論の自由の擁護などであり、国外在住のイラン人にとって内容的にはほとんど異論の余地のないものであった。にもかかわらず、人々は語彙やレトリック、参照される過去の出来事、そして現在の出来事に対する定式化された反応などを、王党派のやり方として忌避した。王党派の語り口は、アレクセイ・ユルチャックが分析した後期ソヴィエトにおけるイデオロギー的言説のように、言語、語り、テクスト構造が厳密に定められている。このため無限に模倣が可能で、新しい事象に対しても既存の知識を用いて解釈を行うことができる[Yurchak 2005:283]。亡命者メディアにおける王党派の語り口は、イスラーム共和国批判というイデオロギー的一貫性を保ちながらも、言説の反復の中に新しい事象を取り込んでいった。 LAでは折に触れてイラン政府の批判を口にする人々でも、亡命者メディアの論調には異を唱える者も多い。それは現体制崩壊後のヴィジョンとして王政復古を掲げる「王党派」が、亡命者メディアを支配していると考えられているからである。亡命者メディアでのニュース解説や政治批評は、人権、言論の自由、民主的な政体の必要性など、語られている内容自体はイラン国内外の「改革派」支持者の掲げる目標と大きく異なるものではなかった。にもかかわらず、王党派であると判断される所以は、語りの内容ではなく、用いられる語彙や語りの様式、そして出来事に対する定式化された反応によるものであった。

4-2 インターネット 2009年以降の「緑の運動」への国外在住者の政治的関与の特徴として、インターネッ

14 例えば TV放送局 Channel Oneの 2014年 6月 17日の番組では、オーストリアの人権団体が国連の人権理事会に出席し、イランの政治囚の現状やイラン国内の人権遵守の状況について語ったことを取り上げていた。放送局の代表であるシャフラム・ホマーユーンは解説を行う中で、こうした NGOの資金の不透明さや、外国の介入がもたらす悪影響について批判していた。

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ト上の活動が挙げられる。この時のインターネットでの情報の流通は、国内在住者と国外在住者の境界を曖昧にするものであった。首都テヘランで 2009年 6月 20日に起きた大規模なデモでは、路傍でデモを見物していた 27歳の女性「ネダー」(Neda Agha-Soltan)が何者かによる銃撃を受け、死亡した。その様子がデモの参加者によって映像に収められ、インターネット上で公開されると、直ちに国際的な注目を浴びることとなった。人々はあらゆる蜂起の光景を映像に収めてインターネット上にアップロードするとともに、デモの情報をソーシャルメディアによって告知し、蜂起を呼びかけた。こうした草の根の運動が、にわかに世界的な視聴者の注目を浴びた。 サイバースペースでは、マスメディアのトップダウン式の情報伝達と異なり、受信者は情報を中継する潜在的な送信者であり、対話的で相関的な情報の流通が行われる[Escobar & Osterweil 2010]。イランではインターネットへのアクセスが限定的である。このため、携帯電話で撮影されたデモの様子をインターネットで流通させたのは、国外に在住する家族や友人が中心だったと見られている[Alexanian 2009:245;Dabashi 2010:136]。次第に「緑の運動」支持者は、単なる情報の受け流しではなく、そこに様々な加工を加えて情報を発信した。選挙キャンペーンに用いられていたアーティストたちによる意匠は、後に加工され、シンボル化され、イコン化された「抵抗のデジタルアート」[Khosronejad 2013:1304]へと発展しながら流通を続けた。その発信者たちの多くは、国外に在住する者と見られる[Lotfalian 2013:1383-1387]。 イラン国内で「命懸けで、路上で抗議する人々」を、インターネットを通じて国外から支援する人々に対し、もし本気でイランのために何かをするなら、何故イランに行かないのかという批判もある。例えば、アメリカのイラン人を揶揄する風刺小説をオンライン上で発表しているスィアーマク・バニーアメリー(Siamak Ban amer )は、ウェブサイト ”Iranian.com” に、英語で次のような短編を投稿した。

ある日、「私」の所に Twitter/Facebookの闘士を自認する友人から Eメールが届いた。彼が Youtubeにビデオを投稿したとの知らせである。彼が LAの自宅の地下室でスローガンを叫び、緑の運動を応援するラップで踊り、ハーメネイーのポスターを燃やしている映像を見ながら「私」は思う。つい最近もイランに嫁探しに行っていた彼が、運動を支援すると言うのなら何故この時点でイランに行かないのか。「私」は彼に問うてみた。彼は言う「何言ってるんだよ、イランのインターネットは遅すぎるよ!」(Siamak Baniameri, “My Personal Green Movement!” Iranian.com, 06 Jan, 201015)

 バニーアメリーが風刺したように、インターネット上に氾濫する無数の「抵抗のデジタルアート」は、安楽椅子の運動家による無責任な所業であると批判することもできるだろう。加えて、インターネットは専らイラン国外の聴衆にインパクトを与えただけであり、イラン国内の人々の抵抗のネットワークがインターネットによって形成されたとは考えら

15 http://iranian.com/main/2010/jan/my-personal-green-movement.html (last accessed 28 Aug. 2014)

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れないという指摘もある16。しかし、こうした行為の有意性を疑問に付す前に、サイバースペースの緑の運動に参入することが、ある者にとっては他の日常的な営みや、より深い関与の過程と結びついていることを理解する必要がある。 サイバースペースへの参与が単なる言説のやりとりではなく、ローカルな実践へとつながることを、以下に見るシーリーン(仮名、50代女性)の事例は示している。2009年以降のデモに足繁く参加していたシーリーンは、インターネット上で「ネダー」やもう一人の犠牲となった若者、当時 19歳だった「ソフラーブ・アラビー(Sohrab ‘Arab )」の画像や動画を集め、コンピューターに保存していた。彼女は自宅で「ネダー」の写真を額縁に入れて卓上に飾り、その周りにキャンドルや花を置いていた。また、彼女自身もインターネット上で、ネダーやソフラーブに捧げる詩を公開していた。シーリーンは筆者に、デモの最中に撮られたビデオを見せた。通りを歩く人々の中に、ソフラーブの姿が見える。彼が歩いていき、カメラのフレームから外れた後に、しばらくして女性が通り過ぎる。「彼女が母親よ。ソフラーブは母親と一緒にデモに参加していた。ソフラーブが、自分は先に行くと言い、彼女はゆっくりついていった。母親は彼を見失い、そのまま彼は帰宅しなかった。」シーリーンはふたりの若者の死について、事件の経過や生前の様子、遺族たちへの政府の圧力などを仔細に把握していた。 シーリーンのネダーやソフラーブに対する強い関心は、彼女の生活上の様々な経験と結びついていた。例えば、同世代の娘や息子を持つ母親であること、テヘラン郊外のかつての居宅には革命後の一時期、毎晩のように政治犯を処刑する銃声が響いていたこと…など。これらの経験は、シーリーン自身が筆者に対してデモへの参加の動機として語ったものである。彼女は「緑の運動」という大きな流れに対する理解や、説明可能な動機よりも、犠牲者やその家族の受難に共感を寄せることで「緑の運動」への関与を深めていったといえる。しかし、こうした個人的な経験が集合的な行為へと結びつくには、それを表現するための形式や装置が必要である。土佐昌樹は韓国の死者儀礼の考察から得られた知見として、儀礼などの集団的形式と、悲しみや嘆きといった感情の表出を結びつける無意識の動機付けを「情動的コード」と呼んだ。情動的コードは「集団的形式と個人の無意識を矛盾なく包含」し、「個人と社会の境界を食い破ってしまう」ものである[土佐 1993:103]。シーリーンの場合は、インターネット上での「抵抗のデジタルアート」の流通に参与することで、情動が運動へとつながっていった。 インターネットを通じたコミュニケーションは、技術の進展に伴って「対話」ではなく、「情動」の交換という側面を強めていった[cf. 水嶋 2011:33-34]。フェイスブックやツイッターを用いて関心のある情報を流通させるやり方はその最たるものだが、シー

16 例えばロイターの記者であるエーリック(Reese Erlich)は、イラン大統領選挙後のデモは基本的に口コミのネットワークによって動員されたと指摘する。海外メディアの現地記者がデモの取材を禁止され、ホテルに篭ることを余儀なくされた中で、インターネット上に投稿される市民からの情報に頼らざるを得なかった。その結果として欧米のマスメディアは、インターネット上のソーシャルメディアが果たした役割を過大評価しているのだと述べている。

(http://blogs.reuters.com/great-debate/2009/06/26/its-not-a-twitter-revolution-in-iran/ Last accessed on 2009-09-11)

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リーンは主に、チェーンメールを用いていた。こうしたやり方は、イラン人の間で少なくとも過去 10年以上にわたって行われてきた。チェーンメールにはコメントと共にウェブサイトのリンクが示されたり、詩や論考が書かれており、転送を繰り返すうちに送り主は次第に明らかでなくなってゆく17。オングの示した事例では、オンライン上のグローバルな華人ディアスポラの運動にインドネシア国内の中国系住民が参与することはなかった[Ong 2007: 95]。これに対して「緑の運動」では、インターネットアクセスの上で非対称性を持ちながらも、イラン国内/国外という境界を越えたコミュニケーションが行われていた。 インターネットを通じた「情動的コード」のやり取りは、ローカルな集団の形成も促した。LAでのデモでは、イランにおける路上抗議で用いられたのと同じスローガンやバナーが用いられていた。インターネット上で流通する「抵抗のデジタルアート」はプラカードやバナー、フライヤーとして印刷された。イランで使われたスローガンもまた、インターネット上でまとめられ、LAのデモで用いられた。インターネットという技術によって、遠く離れた場所でのデモの再現と反復が可能になったのである。しかし、シーリーンもそうであったように、共感を契機として集まった人々は対面的なやり取りの中で互いの差異を見いだした。そして、ある者は運動から離れ、別の者は他のやり方を求めて関与を深めていった。

5 儀礼としての抗議行動

 デモの成否は、参加人数や参加者同士の一致団結した行動、参加者相互が評価するスローガンやバナーの良し悪しなどによって図られていた。デモをはじめとする抗議行動は、スタンレー ・タンバイアが「構成的儀礼」と呼んだもの、例えば葬式や結婚式と同様に、ルールに則った執行と再生産によって初めて行為が成立するものである[Tambiah 1985: 135]。以下ではデモの執り行いをめぐる参加者達の反応から、なぜある人々は運動から離れ、別の人々は関与を深めていったのかを検討する。 2009年の大統領選挙直後には、それまでイランの政治に関して活動を行ってこなかった人々や、王党派と左翼という亡命イラン人の政治的対立に嫌悪感を示していた人々も参加していた。王党派と左翼勢力という対立の構図は続いていたにもかかわらず、2009年に LAでデモが始まった当初は、人々が一つの場に集まることは、「民主的」なやり方として肯定的に捉えられていた。連邦ビルの前で毎晩開かれていた街頭デモは、その典型である。街頭デモは、イランの路上での抗議運動が沈静化した後にも、LAでは一部の人によって続けられていた。この集まりに主催組織はなく、選挙直後に頻繁に抗議集会が行われる中で、互いに声を掛け合って集まるようになったという。 街頭デモは大抵、夜 8時ごろから 10時ごろまでの 2時間にわたって行われた。連邦ビ

17 別の男性は、チェーンメールとして自分自身の書いた政治的論考を転送すると、イランの知人を経由して再び自分のもとへ送られてきたと述べていた。

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ルの前は大きな道路で、歩道を歩く人はほとんどいない。通り過ぎる車や路線バスに向かってバナーやプラカードを掲げて立ち、時折英語やペルシア語でスローガンを叫ぶ。車からは、賛同の意を示すようにクラクションが鳴らされることがある。通りに向けてアピールする傍ら、人々はイランに関する最新のニュースを交換したり、議論を交わしていた。人々の様子は、緑の布や服を身に着けている緑の運動支持者、大きなパフラヴィー朝の国旗を掲げた王党派など、一見してその立場の違いが見て取れるが、「私たちはまるで家族のようになった」と語っていた。個別のインタビューを通じて、参加者たちは政治的な信条も、運動の目標も異なる人々であることが確認された。しかし街頭デモの場では、異なる意見を排除することなく自由に発言・討論すること、デモに持ち込まれる旗やプラカード、スローガンについては自分の意見と異なるものであっても容認することなど、暗黙の合意事項が存在していた。つまり、「民主的」であることは、「多様性の容認」とほぼ同義として捉えられていた。 街頭デモはイランでの抗議行動を再現する一方で、長年 LAで行われてきたデモのやり方も踏襲していた。例えば、デモに集結した人々は「自由万歳!(zendeh bad azad )」「専制政治/独裁者に死を(marg bar estebdad / d ktatur)」といったスローガンを叫び、パフラヴィー朝の国旗を振り、1940年代に作られた愛国歌『イランよ(Ey Iran)』を斉唱していた。こうしたモチーフは、亡命者メディアで繰り返し用いられてきたものである。この歌は、革命政権樹立後の一時期には、暫定的な国歌であった。スローガンやプラカードを通じてイランでの緑の運動の形式上の忠実な再現を目指す人々は、こうしたやり方を「王党派のすること」だと批判し、「王党派」と名指された人々は、緑の運動のやり方を「左翼のすることだ」と批判していた。緑の運動がイスラーム主義や社会主義、反植民地運動などの「文化的レパートリー」[Hess 2007: 465]を脱した「ポスト ・イデオロギー」の運動であるという、ダバシーのような見解は、LAでのデモにおいては涵養されなかった。 王党派、左翼と互いに名指しあう人々の主張には上のような対立もあるが、一致する点も多い。例えば、選挙候補者ムーサヴィーへの疑念である。ムーサヴィーはイスラーム共和国体制の内部での言論・結社の自由を求める「改革派(eslah-talab)」路線に属している。彼が首相を務めていた時期には、イスラーム・共産主義ゲリラ組織モジャヘディーネ・ハルクや、親ソ連派のイラン共産党であるトゥーデ党のメンバーなど、投獄されていた「左翼」勢力の数千人規模の粛清が行われた[Abrahamian 1999: 216-217]。「1367年(西暦 1988年)の囚人虐殺(koshtar-e zendaniyan 1367)」と呼ばれるこの事件がおきた当時の首相であったことを理由に、ムーサヴィーをリーダーとする運動は、人々を間違った道に導くものだと考えた。この点では LAのデモは、イラン国内の一部の人々のやり方を否定した運動を展開していたことになる。両者の意見の相違は、主に元国王の息子レザー・パフラヴィーの支持・不支持をめぐるものであった。 先述の女性シーリーンは、いわゆる「王党派」である。レザー ・パフラヴィーについて「彼は王制復古を望んでいるわけではない。彼は常に人々に寄り添い、イランの民主化を望んでいるのだ」と言い、彼がリーダーシップを取ろうとしているのではなく、自分たち

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の支援の意を代弁しているのだと説明した。他方、シーリーンが「左翼」とレッテルを貼る参加者たちもまた、緑の運動にリーダーは必要でないと考えていた。その多くは、留学生として国外でイラン人学生組織「コンフェデラシオン」傘下の小規模な政治サークルに参加した経験を持っていた人々である。コンフェデラシオンの元メンバーたちは、かつての集まりが、イデオロギー的な差異を超えた討議の場であったことを理想的に捉えていた。社会主義・共産主義勢力がほとんどを占め、イスラーム主義の学生はほとんど出入りしていなかったが、コンフェデラシオンの学生たちは「ホメイニーの下に連帯することで革命を実現させる」ことを選んだ。革命の後に、イスラーム共和国体制が確立し、左翼勢力は政治のアリーナから排除される結果になった。こうした経験から、「左翼」たちはパフラヴィーやムーサヴィーをかりそめにもリーダーとすることに強い警戒心を持っていた。 以上のように、参加者たちは革命期のホメイニーや緑の運動のムーサヴィーのリーダーシップを否定する点では見解の一致が見られたが、デモを行う自分たちをレザー・パフラヴィーが代理するのかという点については意見が対立していた。「王党派」と称される人々は、パフラヴィーのリーダーシップは来るべきイランの代表民主制を体現するものであると期待し、より積極的に体制崩壊を望んでいた。「左翼」と称される人々は、強力なリーダーシップによって目的を達成しうる可能性と、そのリーダーが望まぬヘゲモニーを確立する可能性の間でダブルバインドに陥っていた。王等派と左翼と名指しあう対立構図の中で注意すべきは、それぞれのカテゴリーで呼ばれる人々の間に、共有された一揃いの思想や行動指針があったわけではないという点である。デモに長く関与することになった人々は、議論を通じて次第に争点を明確にしてゆき、過去の経験を参照しながら現在の出来事を解釈することで持論を形成した。 「共感」を表明するために参加した多くの人々は、次第に LAのデモを王党派と左翼の積年の怨恨の表れとみなして遠ざかっていった。加えて、参加者たちの間には公の場で政治的な立場を表明することへの恐れがあり、運動から離れていく要因ともなっていた。互いの素性がわからない者同士が出会うデモの場は、潜在的な疑心暗鬼に満ちていた。連邦ビルは交差点の角に建っており、信号待ちの車からはデモをしている様子が良く見えた。時折クラクションを鳴らして通り過ぎる車や、車の窓を開けて声をかける人がいた。あるとき参加者の一人は、信号待ちの車に乗っていた若いイラン人女性と少し長く話し込んでいた。車が通り過ぎた後、彼は顔をこわばらせて振り返り「あの女性はイラン政府の下で仕事をしている」、つまりスパイだと告げた。そこにいた数人の参加者は騒然となった。聞けば、彼女がこう言ったという。「あらまあ、ご苦労様。家に帰って寝なさいな。」この皮肉だけで皆は、車の女性がスパイだと理解していた。かつて毎晩デモに参加していた「王党派」の男性(60代)は、こう語った「あそこにいるのは左翼の連中だよ。危ないからもう出入りしない。(ペルシア語)テレビやラジオでイランの政治について解説している人気コメンテーターは、あるとき暴漢に喉を襲われて口がきけないようになった。私もあのデモでお茶を勧められて、氷砂糖を口に含んだら声が出なくなったんだ ・・・ 気をつけたほうが良いよ。」

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 デモの参加者の中には、嫌がらせや追及を恐れる故に、この運動を続けている限りはイランに行くことはできないと考えていた人も多かった。家族と共に移住し、長年にわたってイランに行っていない人々ほど、もはや帰ることはできないという意識を強く持つ傾向にあった。他方で、LAのデモに参加した後にも夏季休暇を利用してイランに行った学生や、イランで投票を行い、デモに参加した者もいた。国籍を保持する在外イラン人も投票は可能であり、在外投票からイランの路上での蜂起に至るまで、他の方法を用いた政治参加の機会が存在したのである。それにもかかわらず、LAで長期にわたるデモを続けることは、単に「安楽かつ安全な」やり方だったからではないことを、参加者たちの恐怖は示している。 既にアメリカでの生活基盤を築いたイラン出身者たちにとって、デモという形で異議申し立てを行うことは、帰国に際して不利な状況に陥ったり、対立勢力との関係で何らかの暴力を行使されたりといった問題を自ら作り出すことになる。こうした不利益が国家の外にいる人々に当事者としての意識を芽生えさせ、自由を希求する運動は、イランの人々への共感を超えて自分自身の問題となっていく。そして参加者たちは、運動に関与すればするほど国家による管理の手が及ぶと感じる。この関与と恐怖の循環から、遠隔地ナショナリストの議論が前提としたのとは逆向きに、人々はアイデンティティによって立ち上がるのではなく、立ち上がった途端にアイデンティティを付与されていく。 以上に見たように、2009年にデモが開始された当初は、異なる意見を持つ人々による連帯が「民主的」なものとして礼賛されていた。ポスト・イスラーム主義としての緑の運動という研究者たちの見方とは異なり、デモに集まる人々は政治的イスラーム主義の「その後」、つまり現体制の転換に期待を寄せていた。しかし、それをどのような手続きで実現するのかについて議論を重ねるうちに、イデオロギー的対立が次第に顕著になった。このため、デモに希望を見出せなくなった人々は離れていった。デモに集まり続ける人々は次第に少なくなり、参加者の間でお互いへの不信感や、危害を加えられるのではないかという恐怖も芽生えていた。一方、一部の人々にとってはイデオロギー的対立が持論を形成するための媒体であり、恐怖がイランの人々と自分を結びつけ、デモへの参加を続けるための「情動的コード」となっていたのである。

6 共感=代理の政治

 街頭デモが行われていた LA市西部にある連邦ビルの敷地は、様々な政治的集会が行われる場所である。連邦ビルで開かれるスーダン・ダルフールの虐殺に対する介入キャンペーンやイスラエルによるガザ攻撃への抗議などが、スーダン人やパレスチナ人だけにとどまらず、広く市民一般による集会として行われていた。一方、緑の運動支持者の集会は、ペルシア語でのバナーやスローガンなどを用いた、イラン人中心の集まりであった。先に見たイラン革命期の、欧米におけるローカルな人々との協同は、ほとんど見られなかった。 マフムード・マムダーニーはスーダンのダルフール紛争について、欧米社会がホロコー

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ストや「テロとの戦い」といった、既存の経験や概念で現地の状況を理解し、ダルフールでのローカルな文脈から外れて「アラブによるアフリカへの暴力」という構図の下に国際的介入が進んだことを指摘している[Mamdani 2009:4-6]。社会運動への動員を可能にする問題解釈の枠組みを、デイヴィッド・スノーとロバート・ベンフォードは「フレーム」と呼んだ。フレームとは「自分の現在と過去の環境における対象や状況、経験、行為の経過を選択的に切り取り、コード化することで〈外側の世界 world out there〉を単純化し凝縮する解釈の図式」であると定義される[Snow & Benford 1992:137]。イランの緑の運動に対する欧米の反応は、ダルフールの場合とは異なっていた。ソーシャルメディアによる情報発信という社会運動の新しいレパートリーに注目が集まったものの、欧米の人々をイランの民衆への支援・救済へと向かわせるフレームは形成されず、大規模な動員には至らなかった。 LAのイラン人のデモからは、アメリカの世論をひきつけることが「できなかった」のか、「しなかった」のかという疑問が生じる。その答えはおそらく両方であることを、次のような事例は端的に示している。デモの場での英語によるスローガンやプラカードは「イランに人権を!イランに民主主義を!(human rights for Iran, democracy for Iran)」「イランの政権交代を!(regime change for Iran)」など、わずかなヴァリエーションを持つのみだった。アメリカの世論が緑の運動に期待するものは、おおむねこれらのスローガンに集約される。政権交代を期待する声は、LAのイラン人の間でも少なからずあった。しかし、それをイランの人々が民意として行うのと、アメリカの介入によって行うのとは異なる。デモによるアメリカ市民へのアピールが、核開発疑惑を口実とした経済制裁を加速させ、武力による介入へと進展する「イラク化」へつながるとの懸念も口にされていた。従って、アメリカの世論とデモに参加したイラン人の期待は部分的に一致しながらも、人々に何らかの行動を促すような主張は展開されなかった。イラン革命期に留学生たちが行ったような、内政を告発し、欧米の世論を動かす戦略は採られなかったのである。 それでは、デモは誰に向けて、何のために行われていたのか。最もよく聞かれた答えは「イランの人々に、私たちが応援していることを示すため」であった。自分たちがイランの路上で抗議する人々を「見た」ように、デモを通じて多くの在外イラン人が支持を表明していることを「見せる」のである。このため衛星放送 TVやソーシャルメディアは欠かせないものだった。LAのローカルな観客であり証人である、連邦ビルの前を車で通り過ぎる人々や、地元のメディアの注意をひきつけることは、二次的な関心事であったといえる。 LAでのデモが、イランで用いられたプラカードやスローガン、「抵抗のデジタルアート」を用いた路上蜂起の模倣であったのも、こうしたイランへの関心の寄せ方を示している。実際には、LAでのデモはテヘランの路上蜂起とは異なる様相のものであった。テヘランでは破壊的な行為や治安部隊との衝突が見られたのに対し、LAでは破壊行為は見られず、大規模な動員が見込まれるときは警備員が雇われ、時には警察が待機していた。あくまでも要素を取り入れた模倣であったにもかかわらず、LAの人々は路上蜂起に等しいリアリティを持って再現していたのである。そのリアリティを支えていたのは、革命期の経験や、不特定多数の人々が集まる中での恐怖など多様な記憶や感情を、集合行為へと結

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びつける「情動的コード」であった。 LAでのデモはイランの模倣を志向していたにもかかわらず、次第にイランでの動きとは異なる様相を呈していった。それは主に、次の二つの理由による。第一に、「緑の運動」という大規模な動員を果たした現象にこだわり続けたことである。複数の論者が指摘するように、イランでの緑の運動は女性、労働者、学生などによる異なる運動の集合体であった[Fischer 2010;Dabashi 2010]。このためイランでは、選挙の不正を糾弾するだけでなく女性の権利や政治囚の釈放、言論の自由の保障など多様な要求を掲げる運動が展開され、デモなどの表立った行動が沈静化した後も水面下での活動が続けられた。これに対して、LAではデモとして集まり続けることが活動の中心であった。そこでは選挙直後の路上での抗議運動のモチーフが繰り返し用いられ、動員のために新しい主張や戦略に関心を寄せるよりは、既に集まっている人々が情報や意見を交し合う場となっていった。 第二に、「アメリカに住むイラン人」としての立場から、イランの人々とは異なる独自の利害を持っていたことによる。上述の通り、アメリカの世論を動かすことへの関心は低かったものの、自分たちの置かれた立場を表明するために政権交代や民主化を求める声を発することは意義があった。2009年 9月のデモに参加していた 20代の女性は、後にこう述べていた。「LAのデモは結局のところ、自分たちがイランの政権を支持していない、自分たちは違う、ということを見せる自己満足にすぎなかった。」そうした動機が全てではないにせよ、アメリカのイラン人たちが外交関係の悪化に伴って直面する敵意や差別への反応として、デモへの参加が促されことを、この女性の説明は物語っている。本事例で見た人々は、アメリカに居住する者として、許容される範囲での「イランの模倣」と、市民としての包摂を求めるべく「イランの政権の否定」を行っていたといえる。 以上に見たように、LAでの緑の運動の展開の中ではアメリカの世論をひきつけるフレームが形成されなかった。それはデモの参加者の多くが、アメリカがイランの政治に介入することを良しとしなかったためである。また、デモの担い手たちの関心がアメリカよりもイランに向けられていたのも要因だった。デモの場では、アメリカの公衆よりもイランの公衆のことを強く意識しながら、イランで行われた路上蜂起が模倣されていた。暴力的な衝突と激しい感情の表出が見られた 2009年選挙後の路上蜂起は、イランでは一過性の出来事だったが、LAの人々はそれを繰り返し再現していた。参加者たちは、模倣としてのデモを通じて感情を表出することで当事者性を担保していた。しかし、その表現するところは前節で見たようなイデオロギー的対立や政権交代への期待など、イランの緑の運動と異なるものへと変容していった。イランの人々に向けられた応援のメッセージとして始まった LAのデモは、次第にローカルな参加者にとって独自の意味を持つものとなったのである。

7 結

 本論では、グローバルなイラン人のネットワークによって展開された「緑の運動」の、LAにおけるローカルな担い手たちの関与と離合集散の過程を考察した。サイバースペー

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スと亡命者メディアという、技術に媒介された二つの言説空間で流通する情報は、複製・加工され、日常生活へと持ち込まれることでロサンゼルスの人々を「共感と代理の政治」へと動員する契機を作った。 2013年 10月 10日、イランに向けて最初に放送を開始した衛星 TV局の NITVが、13年にわたる衛星放送に終止符を打った。オーナーのアタバーイーは、最後のメッセージで次のように述べた18。

イスラーム共和国支持者、王党派、左翼、右翼 ・・・ 全ての視聴者にキスを送ります。国のために行動を起こすのはあなた方ひとりひとりです。残念ながら政権はまだ動いていますが、全ての囚人が解放され、誰一人殺されること無く、イランが解放されるように願っています。私はそうしたイランが見られることを願っています。戻ることは出来なくても、若者たちがそういうイランを作れるように。覚えておいてください、私たちが経験したように、事を性急に起こさないように ・・・人々のための民主的な政権が到来することを待ち望んでいます。

 アタバーイーが示したような敵対の構図は LAのデモにも見られたが、民主的な政権の到来は、デモに参加する誰もが願ったものだった。しかし、大きな連帯は小さな集団へと分裂していったのである。LAの人々はデモの場での連帯と対立を通じて持論を形作っていった。参加者たちは予め持っていた主張や要求の達成のために運動に関わるのではなく、互いを名付け合い、議論することで自らの立場を明確にしていった。そして、暴力が自らへと及ぶ「恐怖」は、国外に居住しながらも国民として抵抗する者を、単なる支援者ではなく当事者へと変えていった。こうした実践と個々人の過去の経験や知識が、自らを動員するためのフレームを動的に作り出していたといえるだろう。

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18 https://www.youtube.com/watch?v=Pc9Q7LiOa5k (last accessed 23 Aug. 2014)

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Vicarious Politics in Transnational Social Movementsin the Case of Protests by Iranians in Los Angeles

Atsuko TSUBAKIHARA

Keywords: social movement, long-distance nationalism, vicarious politics, cyber space, exile media

After the Iranian Presidential Election in 2009, nationwide civil protests on the streets of Iran drew worldwide attention. This was due to the new repertoire of the social movement, which was using social media to mobilize people and posting eyewitness reports from street protestors on the internet. The series of uprisings known as the “Green Movement” have also involved Iranians living outside Iran in the transnational movement. Previous studies of transnational social movements or long-distance nationalism have paid more attention to effects on people in the homeland than on those in the diaspora. More examination is needed to understand the mutual effects on people at home and abroad, not in a center-periphery schema, but in the actors’ interaction mediated by technology.

In this paper, I focus on the localization process of the transnational social movement and illustrate how Iranians in Los Angeles became involved in the movement. Images and narratives in cyberspace and on Persian satellite TV have been retrieved, copied and circulated in people’s daily communications. This cultivated in LA Iranians a strong attachment to the protestors in Iran and mobilized them toward a “vicarious politics” of claiming democratic rights on behalf of the

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people inside Iran. However, LA Iranians interpreted the abstract notion of democracy in their own context, including elements such as pluralism and direct democracy. Participants at rallies in LA did not have firm objectives and claims; rather, they generated their ideology through participation.