40
. ( ) ( 稿 1 )

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       五

                                    岡

 

國語辭書

の組織としては、意義分類體と假字分類體との二種があるが、更らに、國語には字音語

が多く、

字書語なら

るも

のでも、殆んど全部が漢字と結びつく事ができる爲めに、其の漢字を主とする場合には、部首による分類體

のもの

も作り得る筈である。又假字

の字數により、

一字

の言葉、二字

の言葉、三字

の言葉と云ふ風な分類も、大ざ

つぱで不完全

極まるとは云へ存し得

る.(此の組維のものが單獨に存する例は國語辭書では知

らぬが、他の組織と結合した例ならば珍し

くない。)しかして是れらの分類

が二種三種併合

せられ

たものも存在の理由はあり、夊事實存在して居る。だが是等の申で、國語辭書

として最も適當なものは、

無論假字によ

る分類體鄙ち假字引體であつて、是れは、國語聲晋を蒐集整理して何かの標準

で配列したものがある揚合に、其

の配列

順によつてあらゆる言語を配列するのであつて、

實質は發音による分類體と云ふ可く、漢字辭書

の韻書

にも比す

べきも

のである。さて假字引體が生れるためには、

先づ國語聲音を何かの順序に蒐集整理配列したものが是非無ければならな

い。しかして古くは「あめつち」の詞四十八字があり、ついで四十七字

の太爲爾歌や色葉歌が現はれ

、(色葉歌

の出現期に

關する從來の説や、北ハれに對する需

は拙稿

「色叢

の年代に關する疑11」膕響幗筋

を參

照せられたい)又別に

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も作られ・

これら四種のものは、國語聲青を蒐箋

理配列したものとして、物を並べる時の爨

.假字引壁

p

の標準と成り得るものであつたのだが・遺物よ芸

へば、あめつち順、太靄

順のものとては全く無く彎

撫翻平安翻

では色艦

を嬬

したと信する他響

法三宮眞寂法親王(延喜白.王第)の梵漢相對鈔五+卷

鑁謬

をはじ

めとして・三薦

静性譴

の隼緯

4の拳

に軅

色輩

類抄

卷本三卷本が萎

朝のものであるが

共の前身は色葉和名

にて天蠢

のものであつたらしい。二卷本や三楽

の世俗霧

抄も色

葉和名の後身である

らしく荷

れも平安槊

のものである嵩

野山の裳

院心畳

の梵語難

・多爨

抄三卷(多羅要鈔とも書く、

鈔は記ともあり

)が存在

し・共

の後鎌倉期建治元年の語原辭書名語記十帖を經て、

窒町期の節用集以來、徳川期を通じ

て、色葉分類辭書が國語

辭書では最も普遍的なものとして讌

するに至つた

のであるが、

五譱

口分類

の難

口と、炎

ば、

朝期や鎌倉期に

は兄営らす・南北朝期室町期の物が最古のものとして現存するのみで、

徳川期に於いても、五十訟日分類は微々たるもの

であり、明治期に至りて色茱'分類辭書の地位を奪ふに至

つたに過ぎないのである。

 大矢博土によるに・

五十菅岡は天台宗

の圓仁又は共

の弟子安然の作であるらしく、色葉歌は天祿前後より永觀前後

ものだらうと云ふ。しかして此の設には方法論的窮

あるのだが、橋本攣

・岡は「平安朝

の前劣

中に出來たも

の」蘇

歟學

と云つて居られる.とにな

、古築

孔雀維墓

が、

・萬醗

までのものと信

ぜら伽

るのだから、

北ハの頃にはも早や五士菅圃奮

て居た事は充分に認められる。從

つて、共

の頃に於いては、色葉歌と五韭

・岡とが(恐

らぐは太爲爾歌も)知られ

て居た譯だから、 五十乖ー-辭害の出現と云ふ事も、少くとも牛安期末.頃には生じ得べ費である

が・越物は殘

つて居ないし・北ハの頃に存したことを物語

る記録も無いやうである。

霄物の事だから、不安朝期の五十訟日

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辭書が、いつ名山石室から出現するかも知れす、

遺物は存せないにしても、當時五十晋辭書

の存在して居た事を示す記

録ぐらゐは發見せられないとも限らないから、斷言は禁物であるが、現在

の知識では、五十晋辭書の出現は、

色葉辭書

よりも後れたらしい事

を考

へる他は無い。しかして五十音辭書

の出現が色葉辭書

の出現よりも後れた事を事實と認めた

上で、其

の出現の後れた理由を考

へると、

色葉歌は深遠な佛教

々理を巧みに歌

つた今樣歌とし

て世人にもてはやされ易

いのに、

一方五十晋圃は單なる音圃であり、字音反切用

のものとして案出せられたのであり、

學術的なものであり

一般

的で無かつたと云ふ事が

一往は考

へられるが、實は此の解釋は正しくはあるまい。

と云ふのは心覺

のやうな梵語學者が

梵漢對譯辭書を作る揚合には、五十晋順にしても可ささうなものだのに、實際は色葉順を探用して居るからである。 そ

こで自分は、色葉歌は北ハれが意味

のある今様歌として、四十七字の順序は固定して居

るのに、五十晋岡では、

元來聲音

の根據あるものなるに拘らす、横列縱行に動搖があつて、

從うて、これによりて物の順序を示すのは不適當

であると

へられたからだらうと云ふ事を重硯したい。

 とにかく辭書類に五十晋分類を探用する事は、李安朝・鎌倉期には見

えすして、

吉野朝期・室

町期の遺物が現存して居

るに過ぎない。左に共れらを列舉し一し、

次第に徳川期に及ぼして行かう。組織を書誌學的に論く

のが主眼であり、内容

の價値批判は紙頁に餘裕も無い事だから全部省略するのである。

          二

 先づ舉ぐ可きは、國語辭書では無

いが、

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法華經音義

二卷

心察著

貞治頃咸るか碩激

である。本書は蠶

法華經八卷

い驚

移鑵

刊や法華響

訓一卷懸

麟麓

期臨

緻㌍

の著耋

して、法華經による教化に努力した京の岡崎の善塗寸の心室夫

六が書いたもの

-3

の書

の方

「輩

一千

」を

{擧

北ハの訟日に

北ハの・分

 

 

ア、

ン、

ツ、

アイ

 

 

、イ

ン、

フ、

 

 

 

 

エ、

エウ、

ン、

エイ

エフ、

エツ

 

 

ン、

ヲウ

ヲク

 

 

カイ

ン、

フ、

カク

 

 

キ、

ン、

ヨ、

キチ

ウ、

ヤク

フ、

 

 

ヱ、

ン、ク

ワ、

ン、

ン、

リウ

ヤウ

イ、

ッ、

ヱチ

ッ、

ワク

.ク

 

 

ン、

フ、

 

 

コ、

コン、

コウ

コツ、

コク

コフ

ふ具

・カ

・ヤ

・サ・タ

・ラ

・ナ

・ハ・マ・ワ

の順

で配

られ

て居

ので

るか

の順

のと

一致

せな

へ、

る事

い。

て横

が右

やう

に成

て居

喉音

サタ

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  の   

ニ 

ゴもンヲ

 ヤロノユ

ドロ 

  

ロノ

 

ラナ四行を重

日とし・

ハマワ三行を讐

とする顰

の立揚

から、然う鸚

したのであり、

よい加減な窶

したのでは無

いのである・さて此の本は屡

二稔季春吉旦中野尖

衞開

板L本の他に、天斈

の凝

、鼕

口寫小型本、

永正九年二月梨

・永和四年正旱

の日附ある古寫本などがある轟

谿

鉱飜

麻鰭

其の鏖

や委

て為

る誉

に・

單峯

骨の五士募

のき

うが奎

日の全部では讐

て、他

に、釜

日に關する記事

があり・分量は梨

では等量であるから、從うて、

本書を五士募

類鑿

日義の塁

臼として舉げる

のは篝

田では無いが、

字音を五+雰

類して居るものとしては、自分の知

つて居

る簡

、は口取初のものである事を轟

しげ.、

こゝに舉げる

のは・當然

の專

ある恵

ふ・しかして本設日が佛者的字箪

に通じた心

ある事は注意す

べ象}である.嵳

日を韻

の立揚か募

類するには・色莠

類で濟む筥

無い。

何うしても韻

を北口景とする五+ .の順

による他は讐

のであ

る・

購難

・鞭

し奢

について、「皇

mの頃成るか」と自分瓶

.いたのは、梨

には上篥

に「皇

伯乙巳

春下躄

候於元應寺記之」・下卷に「應安幾

旨中河」とあり、天条

にも

豪圓兩人撰也

伯乙巳年定

也Lとあるが・永究

年本には

「貞治四年乙巳正月+八H於花洛朿山

空」とあり、永梨

には

和四戊午正

月土

Lなど夸

ていぶかしい攀

るからである.しかし、刊本により上卷の五+訟.分類の所は貞払佃

四年

下旬

の脱稿・共れ以後

の所は應安コ一年中援

つたもの、永和四年は、

童日寫又は、補正した時期と見

てよいもの

かと想像する.淋嬲

.

           三

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心察普義について擧ぐべきは本書より百二十年程後の

温故知新書

天地人三巻

+六年大作廣羨

歇響

である。 五十晋分類と意義分類とを併用したものにて、此の點は色葉分類と意義分類とを併用して居

る色葉字類抄や節

用集と性質高

じ早

るものだと云ぴ得る。言萎

語鏨

よつて、先づ五よ

類し

物鼾

曙饗

鰈機

蜘糠舞

罫請

に、共のアならばアの中を、乾坤門・時袴

.

氣形門・支體門・態藝門・生植門・食服門・器財門・光彩門・數量門

・虚押門・複用門

の十二

門に分類

したもので、

の十二門

分類は、著者

の知人尊通の加

へた漢文序によると、

虎關

の海藏略韻に擬したものだと云ふが、橋本博士も

「古本節用集

の研究]

で云つて居られる通りに、.現存の海藏略韻は+四門であつ三

致せな

いから、いぶかしい。こ-の海藏略

は同じ虎關

の聚分韻略の事を云

つて居るのだと見てよいのであらう。「文明甲辰林鐘中澣乙亥」(文明十六年六月廿冂)

の三輩

持藤

謝黥

甑爬

ての嬖

によると、薪

大農

公Lは薯

と親しい聞柄で

あるが、奪通は「方言俗語、以繋こ阿伊甌等訟酬二迷津之儔当志之所v之、累月而成、

終得二亘軸納名γ之日二温故知新書↓專擬二

海藏略韻↓分三一六之門

「又準二源順古抄袖設こ和宇之訓↓事類則易v見、義親則易v知  余與v公久要不γ淺、宛如二友于こと

記して居

る。廣公

の公が後文の公と同じく、敬語である事は無論であるから、大件廣某と云

ふ人

であつたらう。

新羅ゐ

は三井寺

の中にあり、三井の祗圓珍智證大師勸講する所にて、三井寺に關係が深い。さて此の序

には源順古抄即ち和

名抄

の事と海藏略韻の事とを擧げて居るのみで、節用集の事は全≦言及して居ない。(文安元年の下學集

の事も言及はし

て居な

いが、間接の影響はある。)節用集

の原本は、下學集から文明六年本節用集

の著作に至る凡

三十年間

の述作である

   

五十島日△乱類體一辭圭日の發逹                                   三九

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五十膏分類體鰰書の發逹                             四〇

から、文明十六年頃

にはまだ節用集

の流布が稀れ

であり、

本書

の著者は節用集

の如き假字引辭書

の存在を知らなかつた

かも知れないと見る可き所だが、無論事實は判らぬ。よしや節用集は見て居なくとも、

假字引

の辭書

の或

るもの位は知

つて居たのではあるまいか。然「う云

ふ假字引辭書としては色葉字類抄

の如き色蘂分類のものを考

へ得るのだが、しかし

五十音分類

のものも既でに存して居たかも知れない。が、本書

の假字分類體であり、

かつ五士膏分類體である事が、本

の獨創

であるにせよ、既存辭害ー

!必すしも色葉孛類抄式の國語を主としたもののみを意味するので無い。

悉曇關係

の辭書

にても、然う云ふものゝあつた事を想像してよいのであるー

・から晤示を得たのである

にせよ、とにかく本書が

五十」膏分類であり、此の類

の辭書

宀して現存最古のものである事は、興味ある事實である。 しかも、アイゥエヲ

・カキ

クケ

コと云ふ風に五十晋五十部を標識するには、假字書きせすして、梵字を使用して居るのである。(共

の梵字はヵ行は

普通の五類聲の迦㎞では無く、遍

口聲

の賀

∴訓に對譯せられ

る文字・即ち㎞の晋價を有する文字を使用し、 サ行も遍

ロ聲

の餓の普價を有する文字を使川して居るのは珍しい。 ハ行ラ行ワ行が

脚・m・mに相當する文字を使用して居るのは云ふ

までも無い。)在俗

の十と梵字と云ふと、取り合はせが不似合だが、尊通が三井の學匠である事を思

へば不思議で無い。

そこで自分の如きは、本書

の五十晋分類は、悉曇辭書にすでに此の五士青分類の簡易なも

のがありて、

の組織を見た

り、又は尊通より歡

へられた著者が、

其れを國語辭書に應用したのでは無

いかと想像するのである。そして、梵語の簡

易辭書として、平安朝末に色葉分類

の多羅葉抄の如きが存するのだから、

五十晋闘と關係の深い佛家の間に、五士膏分

類の梵語辭書を作つて居り、

共れが影響して五士膏分類

の國語辭書と成つたのでは無いかと想像する事も強ち根據が無

いとも云へまい恵

ふ。前覆

に麦

明以後さまで後世の寫本とは見えないL蠡

嘯覿誌寫本がある。今は其の古鈔

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本の影寫轟

谿

により解論して居るのだが、

六行、天卷は序と港

四+三丁、地卷も人卷も四+三

丁のものである。北ハの京斎

藏影寫本による鷺

版本が、つい最蓄

三ケ羅

氏により公刊せられた。原本通りに

一頁を

一頁に牧め、

一行

の字配も出來る

だけ原本と同じや

うにして居る。

々一字二字

の室白めいたも

のが存するの

は、字配に忠實

であるために生じた塞白であり、脱漏では無い。 從來殆んど流布せなかつた本書が三ケ尻氏の勞により

流布するやうに成

つたのは喜ばしい事

である。解題も添うて燐る。 氏は前田侯爵家

の古鈔本は見て居られないから、共

の點を補

ふと、該古鈔本は桐箱入にて、書物其

のも

のは普通の袋綴本で、表紙は栗皮色澁表紙、

縱八寸九分に横六寸七

分餘、白地雲流し模様の今

の題箋は、改裝後に添

へた極めて新しいも

のであるが、

蟲損で痛められたもとの題箋の斷片

が三冊分とも、紙

に包みて保存してある。

地册のは大蟲摸ありとは、云へ比較的に保存が仕良

であるが、共

の大きさは四

寸六分に九分、文字は

 、知新書地Lとあるのみ、これは他の天

・人爾册も同様である。北ハの題箋

とは別に、北ハの

一册の内

宀谷を示す小紙片が二放存する。一一寸六分五厘に九分の紙片で、共れ

にアイウ

エヲ

・ヵキクケコが二行に、

の}片には

サシスセソ

・タチッテト

・ナ

ニヌネノが三行に書

いてある。

影冩本

の扉は要するに、是れらの題箋と内容を寫したもの

なのだ。貼轢

さて妻

は裏打してあるから紙質縞

りかねるが薄いものらしい。

本文と同じ紙は本の前後匹

枚づゝ三册共に奪

る。今の表紙裏に添うて居羨

は妻

のとは異るものである。紙の誓

にはヱ

九」と

、广∵か風に册

の順と丁附が存するが、上中の二册は通し丁附で、しかも「中」とは無くて「上 四十五」に始り「上 八十七」

で終り、下器は』、下 +八L式であるのは不慰議である。さて以上蓮べた題箋以下丁附までは、皆本文書寫と同時

のもの

と認められ

るのである。

本文には小蟲があるが、文字は濃

い…墨で克…明に書

いてあり、罫は淡墨

である。蕨書印としては

   

五+膏分鄰體讎書の發逹

 

 

 

 , 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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    五十昔分類體辭書の發∵達     昂                     

四二

「妙覺寺常住鼠

」と云ふ謄

細長い楷行體朱印

「妙覺寺

典」とある縦の楷行體朱印

.

の二禦

存する

が何れも外廓は無い印だから、う

つかりすれば、朱書

と誤られてしまふ。

三ケ尻氏

が此の二印を朱書であるとせられた

のは、影冩本では朱書

と成つて居り、朱印であると斷つ

てないからの事であつて當然だが、

事實

はまさに朱印である。

さて砦

・量

は京のH禦

の妙覺出寸の藩

であるが、二夫

蔵で+八世と成つた量

齢瓢

年は、文

祿

四年九月に秀吉が大佛妙法院で千僣供養した時に、不受不施の立揚を張く主張し、

慶長四年にも宗義について家康

に抗して對馬に流され、寛永七年にも亦再度對馬に流されたと云ふ入で、日蓮宗不受不施派

の開職である。

斯う云ふ

豪僣

の手に觸れた本であると思ふと興味が感ぜられる。さて此

の古鈔本は、

色葉字類抄や桂川地藏記らと同樣に、奪經

閣叢刊

の中に收めて頂きたいも

のだと熱望して孱る。 はじめに斷つたやうに内客を詳しく詳解す

るは此の小篇の主眼で

いから言及せないが、唯

一つだけ

變つた例を舉げると、

鯤をキの條に擧げ

・ウヲ

の訓を施してゐる如きものがあ

る。此の字は大魚の義であるからオ

・ウヲ(正しくはオホウヲ)であるが、オはキに誤られやすい形なのでキ・ウヲと化

けた

のである。節用集

にもキキと訓じ、

現在

の漢和字書

にも此の訓

のあるものがあるのは滑稽である。とにかく、五十

晋分類體國語辭書として現存最古

のものであり、

しかも、現存節用集

の何れの本よりも年代が古

い點で大

いに注意す

である。

          

 

さて五十晋分類辭書として温故知新書の次ぎに舉ぐ可きは

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初辭通韻 寫

一卷 著者

・年代共に不詳、徳川初期のものか

であらう。「この書、

類字韻

に合せて

一册とす、全書を五+音

の十行にわかち、

一行のうちを、乾

坤・人倫

・時候

・支體

候・草木・食服・名字・紳紙・器財・言辭と分類し、各類の中を更に五十晋

の順にして語をあつめたり、

漢字を本文にして

かなを添

へたることなど、す

べての樣、節用集に似たり、

この書に川ゐたる五士膏は、ア行、ワ行ともにヲを用ゐたり

卷末に名乘頭字を添ふ、なほ類字韻の條とあはせ見るべし」と赤堀氏國語學書目解題に見えるも

の、

その類字韻二卷の

には

「寫本

、この書は、和玉篇の類にして、篇旁によりて漢字を排列し、脅井に訓を添へたり

卷端に分毫字をも添

ふ、蓋し、三百年以上の寫本、初辭通韻と合せて

一册とす」と見える。

赤堀氏

の見られた本は松井簡治博士御所藏本に

て、自分も二度見た事があるが、前の時は展覽愈に於ける瞥見であり、後の時は、

親しく手にとる事を許されたとは云

へ、備忘録を失したので赤堀氏の言を引用したのである。阻書解題に「助辭通韻」とあるは誤りである。

組織を異

にする

初辭…通韻と頭字韻とが合册にしてあるのは、もし二書

の著者が然うしたものとすれば、

假字引辭垂日と部宵引辭書とを、

使

用上の便を思う

て合綴したものとして注意すべきである。又よしや著者とは異

る入が、

合綴としたのであつてもやは

り注意すべきである。斯う云ふ類のものには、意義分類體の部分と、

色葉分類

の部分とから成り

たつ用心集

(寫本、

)や、吉利支丹辭書として世界にたゞの

一本しか無く、

書皮裏より出た斷片でさ

へも國寶に指定せられた程の落葉集

があり、又和鳶

・節矍

・聚分韻略の三本を小杢

册に翕

した轟

などが

る。

因みに、此の類字韻は東京の帝大研究室影冩本

で調査し、共

の簡單な報告は別に物して居「り、校正も濟ませた

である。近く發表できるであらう。私見

によれば、類字韻は慶長版倭玉篇によつて作

つたものであるやうだ。(駐)

   

五十贏日分一類體一辭書の發=逑                                   四三

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五+普分類體鯡書の發逹                             四四

          五

 徳川期のも

のとして最初に、爰當では無

いと知り

つゝ擧げるのは、次ぎの書

である。

 法華經文寧聲韻言訓篇集

、上中下三卷 美濃版 快倫撲 慶長十三年稿 同十八年三月木活刊

、後の整版もあり。

 播州書寫.山

の松壽院快倫が法華經中

の單字

一千七百四十九字

重字二十八字計

一千七百七十七字を抄出して共れに普

を施し奪

義にて翻刻の整版本には法華鑾

と云ふ爨

のものもある。本書の組織は普通の

意味での五士菅分類

とは云へないが、五十苦分類が加味せられ

て居

る事に悶違ひは無い。

甚だ複雜にてーー

複雜である

は著者にして見れば、分類

が精緻である事に成る筈だが、精緻と云ふ事は、

必すしも今日の字晋學の智識とは

一致せ

す、誤りも存する。例

へば

ンム兩川でハ行

マ行

のみムを使用する事

の如きは、

本書

の重要な參考書と成つ

た心察晋義に

るも

のらしいが、無根據である1

説明しにく

いが、

大ざつぱに云

へば字晋を

一箇

の假字で標記し得るものより、ウ

ヤウの如く四字假字で標記せねはならぬも

のに至るまでに別ち、

アを韻とする歌韻

の類の文字

をばアカサタナハマヤ

ラワの順に舉げ、次ぎにイを韻とする支韻

の類

の文字をイキシチ

ニヒ、、、イリヰの順に舉げ、

ンを韻とする眞韻の類は

ン・キン・シン・チンニ

ン・ヒム・・、、ム・リンと云ふ風冢

げるのであ

つて携

枷漏

瑚鷹

しかも是れらと四聲の分類

とが交錆して居るのである。以て其の複雜なる事を察するに足らう。本書の組織は、

心室晋義に暗示を得たものなる事

は云ふまでも無

い。斯う云ふ書だから、五士背分類として温故知・新書などゝ一列に扱ふのは、

不穩當極まるのは勿論だ

が、五十晋分類が加味せられ

て居るのは事實だから參考までに擧げ

るのである。

さて本書には慶

長十八年三月の木活三

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本が存するが、後

に整版として仲野道意により再刻せられた。

共の蒋刻年月は不詳だが良恕法親王が識語を加

へられ

た寛永十三年十

一月八日頃、または共れ以後であらう。

慶安四年八月

の秋田屋平左衞門

の刊行本は共

の購版後摺本であ

 る。

          

 

徳川期に於ける五十音分類辭書を檢するに、先づ冠辭考・古言梯・和訓栞に至るまでに五種類存

する。其の

一つは

 

因陀羅網

+五像

誓撰

肥佃五

である。詳

しくは

「撕

因陀羅網」響

名目崖

因陀羅網L勸

と云ふ。書名は帝釋天宮を莊嚴する帝網即ち因陀羅網

・H§

に因んで局る。屁

天鸚

の居る宮殿の羅網の

一々の口に寶珠を暦

、共數無、涯

し三

々の臻

無、亙の

寶珠夢

現す。仍て之を譬喩として要

無盡の養

は互轡

在の鼕

示すに川ぴらるLと云ふ

鮴暾譱

書名が然う

云ふも

のである事から直ぐ理解できるやうに本書

は佛教辭典

であり、名目出處と云ふ修飾語が示すやうに、

佛教の名目

 を蒐集し、分類し、

の出典

の卷數丁數を記したものにて、十五卷ある中

の、第九卷までが五十普分類

の部にて、第十

卷は

「聲聞衆」・「薩

衆」・誼

名輛

酩難

徹麓

てにつき崖

を擧げ、又「璽

、之名」の部では、内

外典

皰侃桝典

を簡略な名で無秩序に擧げ、卷數作者などを註して居る。本邦人の著逋も無論多く見える。

一頁九行、二

段配列のものが十三丁の分量であるから、書物の數

は大體想像できる。

第十

一卷より第十五卷

までは法數の出處を論き

 し部で法數辭書である。

の第九卷までの所について云

へば、阿字・阿彌陀・阿彌陀因時・阿溽菩

提.阿惟越致。阿眦蹟致.

    

五十音分類體鰰書の發逹                             四五

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    五+暑分類鶻辭書の發逹                           四六

阿眦曇

・阿蘭若と云ふ風に名口をあげ出典を略名で舉げ、

の卷丁のみを記して居るのだからー

文を引用するとか、

釋するとか云ふ事は無いー

佛教名口索引であり、

辭書とは見なし得ないかも知れな

いが、索

引も亦辭書

一分野で

ると見る立揚の自分は、本書

の如きも五十晋辭書

の中に數

へるのである。

索引を辭書と見なす立揚が誤つて居

るにし

ても、

五十昔分類體辭書

の發達と云ふ題名の此の小篇申に本害を列舉する事は、本書が五十菅分類

のものが稀れな徳川

初期の事であるから、歴史的價値と云ふ意味で、排斥すべきではあるまいと信じる。 さて北ハの五十菅は、横列は常と異

         

   

りアカサクナ

ハマヤワラであり、問題となるアヤワ三行を云

へば、不要

の文字は見えないから、

阿以宇惠於・也・由・與・

餅継

櫑膿

而のだけが見えて居るに過窪

い。アイウ嵐

は注意すべきである。

各頁は標出名口は七行、出處の註文は十四行、各四段配列。

第+五卷

の最終丁帥ち三十六丁には表に本文ありて裏に刊

記が存するのだが、莠

次ぎに二丁にわたりて、羃

の自跋がある。聾

但し年月日

を記さぬ。

さて薯者の室誓は西本願寺派の學匠で、江戸築地の妙延寺の住僣、元祿五壬中十

一月

三日、九十歳にて遷化

て願海院と諡した。

博識洽聞、關以東

}入の稱を得、寛文延寶頃の宗學勃興の時期に露り著述

や講筵により宗義顯揚

に努めた人であるが、

然う云ふ學匠の手には成るとは云

へ、本書は、共

の材料部ち出典が經律論

の原典や有力な諸師

製作に據らないで、末疏類に據

つて居るため、折角の努力が、

今日の目から見

て山咼い評價を受けられないものと成つて

しま

つたのは倍しい事

である。(末疏主義學風の弊害を示すものと云

へる。)成立年時は不明であるが

「寛文乙巳初秋吉旦

 

五條橋通搦屋町丁字屋

「西村九郎衞門開板」であるから、少くとも寛文五年、

即ち室誓

の六十三歳

の時以前の述作で

無ければならぬ。

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元祿

に「倭

」と

ふの

が出

て居

る。

 

 .寫

一卷

 鴨

 

祿

 

の本

の聞

ゝ存

る古

て五

つ卷

に配

ので

の袋

綴本

は罫

二頁

割註

、本

であ

るが

から

丁數

の割

があ

る。

北ハの自

は左

の如

、爰

のも

るが

て原

のま

であ

る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハ ルト   ニ          ナルカナ      ケ  シチ           シモ  トシテサ  ロ   テ          テ    ヲ

 

正通

、辭

二嬰

一心求

二祕

一信

多錯

、不

下必節

々推

三其

二由

三焉

、欲

二強解

レ之

一則或

泥滯

 

 

 

 

 

 

 

  ル

 

 ニ モ

 

 

 

  ル 

 

 

 

 

 

 ル

 

 デ

 

二北ハ旨

一或

反二其

一然

二以

一者

二以觀

一者

二今

臼俗

一亦

々焉

、可

、自然

、按

 

 

 

 

 ヲ

 

 

 

 スル

 ヲ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヲ

 

 

 

  ト

  ト

 

日本

一有

下以

二倭

一解

二漠

一者

上尊

二美

之類

一是

、今

二出其

一名

云二倭

一以爲

下談

γ道

v義

一助

 

 

 

祿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長

 

 蕁

 

 序

に序

に見

た本

の趣

て美

と訓

ふ類

の詫

なり

に存

で其

の類

五士

膏順

に配

ると

であ

る。

に本

を檢

の部

では

 

 

 

五十猷日分一類體辭戴日の發逹                                    四七

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十音分類體辭書

の發逹

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四

 

ハツクウ ハ         トケンサイ  ハ      ニ ヱ ヤト    カツ  ハ       ヨ サ ツ ラトしモヤケヘン     ト ヘトコ フ ケン  バ    カ ナ セ

 

二阿

一妍

二阿

一天吉

二阿摩

一脚

二阿

一吾

二阿

我儺

一…

噌行

八字

てベ

タ書

て居

に過

ので

る。

.菅式

の和

ふ可

て、

的價

、殆

にす

る程

いのだ

じ五

青順

であ

かも

元祿

元年

のも

ので

なり

いも

であ

べき

であ

る。

て其

の五

のが

示す

 

 

 

 

     

 

 

アイ

ウヱヲ

 

 

マミ

ムメモ

 

 

 

 

 

 

ワイウ

ヱヲ

 

 

ラリルレロ

 

 

 

       

 

 

ヤヰ

ユヱヨ

やう

な文

るか

一暦

る。書

「倭

終」と

るが

、倭

と云

、倭

日本

の文

ゝ云

ふも

ので

い。

に「按

二日

本書

一有

下以

二倭

一解

二漢

一者

上」と

のを

ると

の倭

の字

取り

て倭

つた

のか

と考

へら

る。

て鴨

のは

、何

ふ人

ぬが

下鴨

の肚家

の人

て、

、長

の子孫

ふ菊

ふ家

の人

ふ。本

三郎

の御

所藏

、著

の自

やう

(序

の訓

は變

るけ

)

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八                 、

 次ぎに時代は不詳だが、先づ元祿期のものとして扱ふべきものに華梵對翻がある。

 華梵對翻 寫本四卷 淨嚴何閣梨選 痔、代不詳

東京市森

湯島の竇林山靈雲土寸の開山緩

(覺彦)阿闍梨

肝脆

押翫輕

は策

興の昊

Lであるが、國

語學徒としても、契冲阿闍梨の師として(但し其

の師と云つても、二人の年齡がたfの

一歳の相異であつた事から考

へる

と、普通に云ふ師弟關係では讐

、安流灌頂

に關する法流上の斃

關係では無かつたか恵

る)、契

の倭字正濫鈔の刊行を慫慂した人として、

梵字學

の書悉曇三密鈔の著者として

(三密鈔は梵字學

の書としては恰好の

ので、黒河春村も激賞して居る。正濫鈔の梵字式新製五十晋鬮は三密鈔の梵字習圃の模倣であり

正濫鈔の音韻學は

三密鈔によつて居る)國語學徒も忘れてはならない高僣である。

斯う云ふ高僧だから區

々たる悉曇位を本領とする入で

は無

いが、此

の方面の著述が數種あり、悉曇學者としても注意すべきである。.北ハの悉曇學

の代表作

が三密鈔であらうが

別に梵語の對譯壁

日の著もあつた.其れが叢

四卷である.靈雲蕃

は礒

の教

の學

の著

を解

ので

、共

の教

る行

の著

、其

の華

の條

  

……

上人

の人格

】言

にし

て結末す

べく飴りに多

岐多端

なり。今

只茲に要を云は穿、上人

の徳

は、教跡

の宏花

と、大伽藍

の建立、束

  

の中興と、鳳龍

の育成、第

五に事教

二相

の大成

と之わなり。

両も其

の徇

】事

の忘る

べからざるは、慈雲尊者

の先驅として、梵學檢

  

の大功をなしたる

㎝事

にして、眞

言籍教

の續かん限り、上人

の此功

は永遠無窮

に傳

稱せられざるべからざ

るも

のなり。今

茲に華梵

  

 

 五十膏分類體辭書

の發

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四九

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五士晋分類體辭書の發逹                             五〇           .

  

封翻全四卷は、寶林梵書の最なるもの、吾國學界の珍寶なり。即ち上人

一代六+四年、數千の群書に渉獵して、あらゆる梵語の字句

  

を拾聚し、五+普次に類列せる誠に難得の梵漢字彙なり。後に智明和徇に伊呂波梵語集ありといへど、術課解字數其の比にあらず、

  .正に慈雲の梵學津梁と拮抗すべし。此書近時關東、西海に散逸せるを、余

一昨臘之れを將致して、以て寶林に歸へり合はす。誠に余

  

に於て大吉慶詳なり。

と見えるのである。これだけの解諡

では物足らぬが、華は恐らく申華にて、漢語

の義であらうから、

梵語と漢譯語とを

對照せしめる梵漢對譯辭書

であつたらうと想はれる。此の類

のものは、

の翻梵語十卷以來、支那にても本邦にても、

々のものが出て居り、我が國

のものでは、

高野山の常喜院心覺

の多羅要鈔三卷の如き色葉類聚梵漢對譯辭書が存する

ので(佚亡はしたけれど延喜呈弟法三宮眞寂法親王の梵漢相對鈔五十卷が色葉分類であつたと信ぜられ

る)淨嚴も亦、

の種のものを爨

し、五喜

組彎

したのであらう。さて砦

華欝

翻、高橿

士の悉霪

書目録鞋

「↓魯

 

む む

花行胤藏」とあるが、靈雲叢書解題では行武善胤師が靈雲寺に納められたやうに成つて居るもので、若し靈雲寺に藏

せら

て居るものならば調査させて頂かうと思ひ、去年昭和十年七月中旬

に靈雲寺を訪れたが、

藏書

は大正の震火に全部燒

いたので見る事を得す、行武氏も立花家

へ養子に行き鴕

鰤黥

で昭和四年には歿せられた由にて、終に

華梵對翻

の存否は知る事出來なかつたのである。行武師が得られた本が淨嚴

の自筆であつたか何うかは知らぬが、自筆本

であつたと假定しても、轉寫本がありさ

へすれば、他臼眼輻を得られるかも知れないと、望みをかけて居る次第である。

          

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 華梵對翻は佚亡したかも知れないが、享保に出來た梵漢對譯辭書で完全に揃うたものが殘つ

て居る。北ハれは

枳橘易土集

寫三+卷

計+五本

晃撰纏醗

にて、肇

に蕁

せられて居る梵語を五士工日順に舉げて、婆

の詳解を施したものだが、本編

弸し

什六卷と、「附卷」四卷とよb成り、本編

の方は右の如き五十音分類であるが、

附卷

の方は、意義分類

の中を更らに五十

晋分類したも

のである。

順序として本編より述

べると

「享保六年辛丑仲夏朔旦 圓通峯賜紫沙門

伯映泰敬書」とある漢

                 

ρ

文他序、「正徳丙申戯仲夏令且 大通桑門南谷槃譚書于東林幻華室」とある漢文他序がある、

の次ぎに

「享保元年歳次

丙中偸自恣H沙門釋照山晃自序」とある慧晃の漢文自序があり

「……予曾閲v藏時、經律論及自v梁至v膚鈔疏記傳音義辨

註之中、有下梵語之所v渉ご翻譯解釋一者顔則隨而探拾二録之座右一既登二十有餘蔵矣、務v補二逸脱↓然不レ能二悉盡

一但比從前

v憾聊足以自慰、奈蒲柳弱質懼二殘喘難サ俣、於是卒萃爲二三十局四千四百五十三件↓命日二枳橘易

上集一・….・」と云つて層

る。四千四百丑十三件と云ふは牧載の名日數である。

次ぎに「凡例」が七條あり、本書の編輯方針を示して居るが最も重

要なのは次ぎの三條であらう。

 

一如二翻梵語・名義集等

扁以v類編集、今以二阿等五十字晋騨編二集之一者、爲v令導初學易二尋覓一也、然

今.W.尹入二i部「狸入ご

  

e部

一m入二〇部一等、梵書雖〆異且随二本韻一

 

一五十字音申有二直晋↓有二拗膏↓有二相通

唱如下迦盧拏入二h部

薩婆訶入二〇〇部一囁怛囃僣入二u部

一等上

 

一於二巻尾一分=十五門一者

、爲下以二漢言一尋中梵言上也

と云つて居

る。(ローマ字で書

いた所には共れー

梵字が存するのだが、印刷上梵字を使川する事も困難だし、叉假字で

 

 

 

胤十飢口分類…體…欝酬書一の發逹                                   -珮

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五十畝日分溜川體鯡潅hの 發推~                                   

五二

は梵

のに

便

ロー

マ字

で示

ので

る。

.町

ooは北ハれ

!

に宛

てら

て居

る。)

次ぎに「引塁

」麟

があり、引用書名、卷數響

を記して居るが、引用書數は藏外のものは百+部程である。

北ハれらの書は、龍樹の繹摩訶衍論を除けば皆唐土撰述

の章疏類忙

て、辭書菅義類には義楚の釋氏六帖廿四卷、

慧琳

一切

一百卷、希麟塗

切經青義+卷、可洪新籖

義臨

録三+卷、義淨翻梵語+卷

の禮言梵語雜

名一卷、行逧

切經韮

許卷

碗騒終

などがある。さて本文は肇

晋譯の梵語を五

十晋分類で舉げ、共れに引用書口に舉げられたやうな諸書を引用抄記して詳密な漢文註を施して居るのである。

音譯梵

には、

仝部では無

いが梵字が朱書してある。 五十晋に當てられた梵字を

檢するに、

ヵ行サ行

ナ行は五類聲-の普通

であり、了

ヤニフれ・鼠

も普通であるが、

タ行が普通のタ行で無くて昇

破巌

嫉潮

であ

る事、

ハ行が「ハ壑

「ホ部」には、昔からの例

により

脚字が書かれ乍ら「ハ部二」以下

へ部までは㎏励㎞加に相當する文字が使用せられ

て居る

とは變

つて居る。さて斯う云ふ風に五十普で分類

せられて居るのだが、

青の性質の異る梵語

を、しかも漢字普譯

ものを五十膏で分類する事は、とてもうまく行く筈も無

い事は判りきつた事

であるから、

薯者は自ら凡例で斷つて居る

りに、極めて便宜的に、日本字晋

の頭青により、又梵語

の日本流讀方

の頭膏により分類して居

る。

つてユ部に維摩

羅・灘

羅逹

(梵字を・↓

字で示すと

≦ー

・≦・一§

が入り、ナ部に泥黎

(課

誰錯

.鹿図御)が入り、

又落.喝の如きを頭字とす

る書譯語がア

部に牧められ、

ヵの中に討梨蹟摩・呵利帝・賀

の如き㎞を頭晋とするもの、

曷囃

の如きもの

(母巴ρであらう)が入ると云ふ具合で、

極めて便宜的なものであり、

學術的なも

のであるとは云はれな

い。 しかし相手は漢字に晋譯せられた梵語、北ハれも時を異にして晋譯せられたやうな梵語である。又漢字晋共のものは

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那で變遷あるが上に=本では又日本流の發書が生れたものな

のだから、

普譯梵語を五十音で分類するとなれば、斯う

ふ便宜的な組織を探らなければならないのは云ふまでも無く、

吾人は本書の組織

を便宜的

であ

るが爲めと云ふ點で非

難する理由は少.しも無い。辭書と云ふものは元來が、引き出しやすいものであるべきなのだから

本書の如きものこそ

迎すべきであらう。斯う云ふ先.蹤はすでに心覺

の多羅葉抄とし屮、平安、朝末期にも存したのであ

る。(因みに、本書が便

的なも

のであると云ふ事とは、分離せしめてよいと思

ふが、

著者慧晃

の梵語青の智識が深いも

ので無かつた事は梵字

五+薦

咽礒

嫡喋

の所に「五‡

菅中、ヤ所生中、・匙

及・堺

生中・毘

木訟日・

二本

一也

、畢

、所

四十

、攝

二盡

一切

訟ー-一也

」と

、梵

ヤ行

エ、

ワ行

ヱヲが

ア行

古・エオ

とし

、能

オカ

サタ

ヤラ

ワ十

、所

コ・シ

セソ

●チ

.ニ

ヌネ

.ヒ

ヘホ

.、、、ムメ

モ.ユ

ヨ・リ

・の三

一切

の梵漢

て居

のが

、偏

一部

四鵡ー-説

であ

る事

でき

ので

る。)

上、は本

とも

ふ可

ゝ事

であるが「附卷」四卷は罕

四日五+九語を+五門雰

類し

紛罌

妨噤

さらに、例藁

げて示すと、箜

の佛

陀菩薩僻支羅漢

の中にては、佛陀↓膏薩・粹支・羅漢

の各々の中を亦五十書順に分類

し、

各語の

下には譯語

を施して

と云ふ組織である。さて本書の書名は嬖

には見

えないが・江南の橘江北

に移されて枳と攀

と云耄

一。

に基く事は明らかである。梵漢對譯辭書であるから此の名を撰んだのだらう。著者慧晃については密教大辭典に

  エコウ惠晃

 

 

皴州雙

丘法金剛院

の學僻。唐招提寺長老。字は照山、翳華

と號

す。京都

の人、俗姓濱岡氏・出家して玉周

に師事

し・天贅頴

脱識彙高

   

五+音分類體辭書の發逹 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五三

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+脅

體辭

の發

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五

 

 

り。廣

の講

て顯

の學

悉曇

・因

・倶

・詩

に造

す。

に泉涌

+四

長老

とな

 

 

提寺

+七

和爾

の席

に補

、律

り。

元祿

+

年享

九年

の兩

心寺衆

の請

に應

て楞

注經

 

 

+

六年

法脅

に於

て復

講ず

叉廣

に散

る梵

聚集

こと

一一+年

元年

に至

て枳

 

 

 

    の   む   の                                                                                            し

 

 

(原

採揀

)二

+

六卷

、附

四卷

を完

り。

二年

六月

日寂

、薄

+

二(○

云、原

の事

は非

、後

す)

とあり、ついで茎

を列記して居り、篠

の寫眞も舉げて居る。しかして自分は大谷奩

所藏の寫本

驟離

択居

の易

土集

を見

て解

のだ

、密

は著

の版

が花

の法

に存

、其

の本

つき

  

エキド

シウ枳

    

    

  

    の               じ                    

  

六卷。慧晃撰。凍名を探揀枳橘集

と云ふ。諸經論

の梵語を摘出し、五+膂順に配列

して解釋を加

ふ。諸家

の晋義を參酌し、經論

  

鈔疏を援引して詳釋

す。江南

の橘

を江北

に移せば枳

とな

るの語

に據

り、梵漢對翻

の意

を示して枳橘易上集と名く。著者向ら開版

の志

  

りて版下清畿口肖筆本現存し、淨土宗門・王徹定

・圓通寺伯映泰・大麺寺南谷等

の序文を付す。

又梵語

の傍

に悉曇夊字

を朱書せり。しか

  

も逾に開版

に爺らず。明治

十九年再度刊行を企

て、泉涌寺旭雅

・相國寺

獨園

の題字を付

すと雖亦中絶

せらる。朋治三+八年梵語辭典

  

と題し

て哲學館

よりこわを發刊し、弘く世

に行はる

ゝに至る。

これより前

、慈雲律者

は本書を梵學津梁

中に牧めたり。

て居

る。

の自筆

一見

した

、寺

へ照會

した

のだ

九月

の近畿

より

の破

、寺

の保

つた

で本

る大

招提

へ預

てし

つた

ので

だ眼

を得

ので

    

    

   

    

   

    

   

    

    

   

    

   

    

   

    

    

 

ある。さて籔

大贊

に言及して居る明治一二+八年の梨

は、共の+二月の刊行と成つて居る「㈱覊

購鑢

梵語字典」と

ふ名の洋裝菊版本

一册で「哲學館大學發行」「明治卅八年十二月五日發行 發行兼編輯者

藤井圓順」氏である。「梵語字

典目録」一頁、「梵語字典正誤表」一頁、本文五〇

コ貝、「梵語辭典索引」八四頁より成り、愨晃の自序、他の二人の他序、

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凡例共の他は全く無く、本文は

  梵語字典へ饗

橘易土集)

        

京兆雙丘沙門彗心晃集

と云ふ内題と署名とより始まり、分卷も易土集

のまゝであるが、易土集に存する梵字は全く見えない。

索引は易土集

附卷四卷に相當するのだが、略註も何も全く無くて、語彙

の下に梵語字典としての頁數が記入してあるに過ぎない。

の梵語字典を易土集に比較しては見ないが、

わざー

順序を變

へたり、墫補するやうな面倒は敢行して居ないだらうと

思ふ。因みに、此の刊本明治三+八年+二月の刊行と成

つて居るがそれは表面上の事ではあるま

いか。

講義録を分解し

て三冊に製本した本を見瀧事があるが、

製本させた所有者が「明治三十

一年」と各册表紙に明記し

て居るからである。

 

易土集

の五士音分類が極めて便宜、的

のものであつて、

梵語

の聲普を無視した非學術的のものである事を先きに述

べた

が、

の非學術的分類

に滿足できない人も

生するのは自然にて、

果して、

幕末

の悉曇學者とし

て最も注意すべき行智

が本書に斐

探揀枳橘鈔六卷を滋・いた。共の名の示す通りに、枳橘易葉

を探揀したものにて、笙

の ・磊

した爲め、大體は五十昔分類

ではあるが、甚だ詳密に學術的に成つて居り、大

いに易土集とは異

つて居る。

へばイ

ウエオ部はまさしくi

UeOを頭晋とする言葉

のみであり、ヵ部はカ・カン、 キ部はキ・キンに別れ、サ行は

㎝伽・坦畑甑

輿凱を分ち、タ行は㎏偽噸.ね血ね伽を分

つと云ふ風である。從うて大體は五十晋式ではあるが、

共は五十丘日鬪が悉曇丘日

に基いたからとも云ふべきにて、i

音圃が悉曇に基いて作られたと云ふ諡も、

否定説があるがー

行智は悉曇の摩

多・雙

の順恁

に從うて居るに過窪

いのである・へ其

の嘉は凡例

える)採揀

の方針は箜

の探揀例言嶺

   

五十音分類體辭書の發逹                             五五

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嵋訂竕

に詳

、其

の第

一條

は易

土集

の性

のだ

  

本圭臼梵語ノ㎜集成

セル、・宵・來未・ダ此壼臼ノ如キ席ハ博ナ

ル者

アラズ、故

二林川語

ヲ索蕁

スルノ

}事

二於

ハ、雑只二此堂n無

ンバ有

ベカラズ、撰

  

ノ動

(○勤

ノ誤リカ)勞

モ至

レリト云ベ

シ、然

レド

モ只惜

ムラク

ハ、其簒集

ノ次第、此方

二所

謂五+字母蓮吋膏ノ序

二依

テ部

ヲ分チ

  

且其醗冖録

スル所

ノ如

キモ啻

二本邦習音ノ訛唱

ヲ以

テ集

收↑セシ=政二、字煙

ノ次第

ヲ以テ=梵文

二對

スルニ…冨ラザ

ル凱者多

シ、所謂迦

ハ㎏、

  

ハ即・亦賀

ハ㎞字

ナルヲ、共

二混

シテ㎏

ノ部

二列

シ・或

ハ迦怯ノ字

ヲ此方

二所謂漢音

二呼デ、到

ト爲

テ短部

二入

レ・車者

モ到

  

替ナ

ルヲ

シヤト呼

テd部

二收

メ   

ル、ガ如

キ、此汎濫鈷雜殆

ンド尠カ

ラズ、予緋∵冩

ノ次

二、因

マヅ此ヲ改正

シ、其對誂、其

  

林儿夊

二復品蹄セン事・ヲ要

ス、殃…レド

モ獪悉

ク壷蹴ス事能

ハザ

ル者

ハ、次

々云フ所

ノ如

キ仔細…アルガ故ナリ

ので

て、

に梵

を分

一律

にう

い事

て居

ので

る。

凡例

の最

は本

て居

る。

  

平野元良子字無學、世

二醫ヲ以テ業

トス、東都

ノ人

ナリ、性温裕篤恭

ノ士

ナリ、講授

ノ餘暇佛典

ヲモ好ミテ讀

ム予ガ執友

ナリ、去歳…

  

戊子秋冬枳橘本集

ヲ、屋代

弘…賢

ヨリ請

ヒ借テ書寫

セシム、余

ハ其

ノ寫本

ヲ以

テ、曲潤テ手自

コレヲ鈔録

ス、對註本一音

二依

テ、…部ヲ悉曇

  

ノ順次

二改

メ分

ッ、因

テ…探揀

鈔ト名付

ル者

ナリ、今夜功畢

ル、故

二鈔録ノ匕口細

ヲ記

シテ後

ノ檢索

二便リ

ス、余ヤ平雄多事繁

冗、日夜

  

寸暇

アラズ、然

レド

モ漸

ク問

ヲ偸

ンデ鈔寫

スルガ故

二、字鴛

正饗

スル

ニ遑アラズ、再訂ノ時

ヲ以

テ改補

ヲ加

フベキノ・・丶

轟丈化十

  

二己丑

二月+二日之夜、御倉

前繭井

町效梵書室

二誌

                    蝶明學+般若至利行ロ

磁蹤緲罅姐噌初嬲

嬬郭秘碗跡智

是れで見ると、「,探揀」とは易圭集を探揀したのであるから、行智本の書名であるに過ぎない。密教大辭…典が易土.集の原

名を探揀枳攀

と云つたと云ふのは正しく無い慮

ふ。さて此の本は易糞

本編二+六卷を六卷

略讐

矼下

+二奎

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たもの、各語

の註は易土集では甚だ詳しいが、本書では漢譯語と、引用書

とを示す程度である。

一卷上冊は目録、例

言、慧晃舊序、舊凡例、引書H録より成る。卷

二、三、四、五、六の各上冊には

  採揀枳橘鈔卷某之上

        収簑   幽犠鷹雛5℃沙旧亅彗い鵡襄

        擇訂  東武淺草隱士行智鈔

と署名して居る籔

翻自分の見るは京大研究柔

にして箜

卷下册の髭

「弘化四薪

冬+月加梵紊

書畢行阿

              

コへ

[〔(□

の所は日貝の二字の聞

へ颶

の二字を横に並べた形の文字であるが、此の日忠臣貝の四字分が、

一字であるか二字

であるか、何と讀むかを知らない)と云ふ朱書

のある本だが、探揀枳橘鈔と云ふ題箋ある六卷十

二冊の次ぎに、

題箋に

は何とも書いて無い枳橘易葉

附卷の四卷四册靴霊

綿

は及び瞿

の悉曇要訣の一部分

一世

が添うて居る。全+七冊

同筆同裝釘鯊

賄=のものである。朱書梵字竺

の下、二の上の二冊に存するのみ。

          

鬮O

 枳橘易土集の次ぎに舉げたいのは

拿訣

+卷

伊藤束涯稿

男善韶纂著

嗷蝉

腱糴

である。漢字の用法、漢文

の作法を説いた書であるが、第

一卷の篇法

・助辭の所を除く後の九卷は

  卷之二、三    語辭上下(五十音順)

   

五十鼠日分類∵體欝辭書の發逹                                   五七

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    五十昆日分艸類體}辭…壼日の 發逹                                   五八

  

卷乏

四、五    虚字上下

(同)

  

卷之六、七、八  雜字上中下(同)

  

卷之九、十    實字(天文・時運・地理・入品附親屬・宮室・器財・飮膳・服色・人事

・身體・動

植の十

}門分類)

と云ふ風に漢字を語辭・虚字・雜字・實字に分ち、それを五十晋順又は意義分類

體とした辭書組織

のも

のであるから、

字格辭書とも名つくべきも

のにて、殊

に其

の語辭(主として副詞)、虚字(動詞)、雜字(形容詞・副詞・動詞など)の部七卷

は其れー

五士菅分類と成

つて居るから、五十音分類體辭書

一つとして、舉げるのである。

の普圃はアイウヱヲ、

ワ○○○∴

ふ讐

のものである。墾

の誤りもある。本書は東涯晩年

の未定稿を共の子善詔

が校整して纂著したもので「費暦十三年癸未之冬十

一月十三臼」の善詔の漢文序がある。

朿涯

の未定稿

の組織が善韶整理

の本

の如くであつた何うか判らぬが、

もし未定稿すでに五十音分類

であつたとすれば、東涯の歿した元文元年七月まで

二十七年を溯らせる事ができる。久しく寫本で傳はつたが、明治に至り、町田石谷が成齋重野安繹や大樸村山徳淳に校定

せしめた本が、判紙型木版十冊本として刊行せられた。成齋序は明治十二年九月のもの、

徳淳

の凡例は同年

二月

一日の

ので、刊記に「明治十

一年十二月三日版權免許」とはあるが、刊年を記さない。

しかして字訣

+卷と全く同體裁の操觚

字訣補遺五卷三本が存するが、其れは、同じ十

一年十二月三日の版權免許にて、

十七年九月の徳淳凡例あり

「十八年

十月十五日出版」と成つて居る。補遺も亦五十晋順にて、

アイウ

ヱヲ、ワ……オ等である。此

の本亦東涯著、善韶纂補

徳淳増訂である。正編

の方では徳淳は

「今唯誤字脱文ヲ訂正シテ、

敢テ其缺タルヲ補

ハザルモノハ先哲ノ著書ヲ重ズレ

バナリ」と斷つて忠實に刊行して居

るのだが、

補遺の方は檜補

の手を加

へて「増」の字を附して識

別できるやうにして居

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る。さて、京都大學圖書館に字訣

の寫本ー-但し新寫本と云ふ可きものにて極めて新しいものー

がある。

十册までは

正編に當り、第十

一冊より第十五概までは「遺編」であるが、共

の遺編

を見

るに、室白が甚だ多い。

斯う云ふ未定稿であ

るから徳淳も増補したのである。其

の京大

の寫本には遺編

の第十四卷尾に「享和二年壬戍二月昔日校訂仝業、善韶」、第

五卷尾に、「壬戍四月十八日校正全 善詔」と朱記してある。

さて此の字訣は正編

と補溝とが共に活版小本

として飜刻

せられて居る。 

 

 

 

 

 

.

          

闖鬮

 

…操觚字訣と同じ時分に出來たものが、國語學に關係深い

冠辭考

+卷

賀茂眞淵撰

稿

である。尾に

「實暦七のとしのみな月にかうが

へ畢ぬ」とあつて、共の八月の橘枝直の和文跋があり、同年に刊行せられ

もので、眞淵

の著述として刊行せられたものゝ最初であり、眞淵學を世に公表するに大いに役立ち、

本居宣長と云ふ

人物を國學に引き入れる重大な役割を演じた書である

(但し共の寶暦七年

の刊本は歙本にて自分

は未見である。

寛政

七年九月の再刻本を捉

へて、これが初刊本であるかの如くに書

いて居る書物があるが、以ての外

である。)さて此の書は

ふまでも無く、冠辭即ち枕詞を五十.首分類

して共の解釋を施した枕詞辭典であるが、共

の昔厨は

       

    り

    阿伊宇惠袁

    也伊山延與

   、胤十醜田分類體競辭澄口の發逹                                    五九

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五十歔臼分山類「谿肌鰍酬蛮臼の発ハ強廷                                   

六〇

  

  

 

  

     

  

  

ふ錯

であ

る。

(序

の書

の凡例

にも

て居

る語

、「五

」帥

ち「伊

」と

てあ.げ

て居

  

  

 

  

                                          り

のも

、阿

・也

輿

・和

ふ錯

であ

る。)錯

て、

本書

青分類

べき

であ

て此

の五

いて眞

凡例

  

  

 

  

 

  

 

  

  

 

  

 

  

 

つらいで      にメはへ  かりわノほる

  

のついでを充十

の膏してせリ、後

に世にか

ゝる次第をば色

ど散去を云云の語も

てすれど、

そは童

のために便りせんとてつく

  

り出

しな

らんを、便りばやなるわざは中

々によしを失

ふこと多

かわぱ、も

の學ぶ人

いむ事也、よりてわが友

は何

にも五+督も

てし

  

  

 ふるごと

  

つ」、古語を知たすけとすめり、はた語を解

には專

ら五

十暑を

いふ。

つて居

ハ順

の方

が「便

や」で

る事

ゝも

五十

訟日順

ので

重硯

、冠

で五

を採

、北ハの門

古言梯

一卷

魚薐

嶽朋黻る 

 

 

 

.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    の

「あ

わゐう露

」と云ふ冠劈

と同じ錯馨

岡であるが、後にア行のエだけは氣づきて本斈

三吉

に斷りを云ひ

緲黻

.卷頭の 薗

はあ行のゑの所だけ入木して之に改刻した。砦

入木改刻の明鰺

指摘できる本と、然

ざるも

のとがあるが、此

の入木改刻が何時誰れにより行はれたかを知らない。

さて魚彦には記紀萬葉等の古言を類聚

し鑠

した雅言喜

の五士訟辭

書とし三

楢の嬬手三

卷五雙

四冊犠

礪永があるが、これがやはりアイゥ延遠

・ワ

ヰウ惠於と誤られて居る。

魚彦

の死んだのは宣長が字骨假字用格でオヲ訂正を發表した安永五年

より後るゝ事六年であ

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るが、同門の宣長の説に服するのを快しとせなかつたゝめに、古言梯にても、楢

の嬬手にても、

訂正する雅量を示さな

つたのであらう。

狹量と云はれ

ても致方あるまい。

          

剛ニ

                               

カ ザシ

 古言梯が刊行せられて二年口

の「明和四年丁亥仲春」に富士谷成章

の挿頭抄三卷が出來た。

刊行年月のある本を未だ見

す、蕾

次郎氏の如きも案

七年刊行の脚結抄よりも前の刊行である患

云つて居られるに過窪

いが

畑簸

田篤胤は古果

辭經で萌

和四年八月板に彫たるかざし抄には…

L畑脚二

と明言して居るのである。コ.捷

に彫たるL

など云つて居

ると、序文の年月を以て刊行年月と誤解したのだらうとも云

へない事ないが、

八月と云つて居るのだから

る可き據所があつたものと考

へる他は無

い。

つまり八月の刊記ある本があつて、

共れを篤胤は見た上で明言したのだ

と見

るのが至當であらう。さて此

の書はヵザシ・ナ・ヨソヒ・ア

ユヒと云ふ成章獨特の品詞分類により、共のカザシ

(今の

副詞・代名詞・感動詞など)を列舉して五十晋分類したものだから、まさしくカザシ辭典と云ひ得

る、

成章は五十骨圓を

國語學的によく認識した入であつたから、分類も五十晋圖を採用したのだらう、

但し普圃は「あ

いうえを」「わ○○○お」

と成つて居り誤られて居る。しかも、これが安永七年刊行

の脚結抄では正されて居るので、

安永

五年春刊行の宣長の字

書假字用格の説を盜んだのだとか、然うでは無い暗合であるとか云ふ論も出るのだが、何と云つても、

脚結抄の刊行が

れて居る事

は、確かに成章にとりては不利である。

   

五十毓日△泥類體蕉楙畿日の發=蓬                                             六一

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五十戯臼分類「…體辭蠹日の發逹                                   六二

          

=二

 

明和九年

に詞艸小苑

}卷三本と云ふ枕詞辭典が出來て居

る。枕詞をば、

其れを受ける言葉にょりて五十晋順に配列し

したので、片

々たる小本であるが、菅圃は誤られ

て居

る。

明和九年夏五月

の建部綾足の序があ

るが綾足の著

では無く

門人不湯鞍、藤原熊在の共著である。

これを群書

一覽、國書解題、大日本歌書綜覽らが皆、綾足

の著として居るのは不

思議

である。綾足は眞淵門人であるから、北ハの弟子が五十音順を探用しても不思議では無い。 こ

の綾足には冶

の詞草小

と相對的名稱を有する

詞草大苑

二册

建部綾足撰

がある。新撲

和訓部類

の廣告文に

「六國史を初じめ、舊古

の紀記、

覦詞宣命萬葉集廿

一代集より物語ものゝ類

にいたる

、歌文に用あるべき詞をぬきいだし悉く注釋し五士青にわかちたる書」

とあるものにて、

未見だから撰述年時もわか

らないが恐ら蠡

であらう。國書解題、國語黌

にも見えない。綾足

鞍橡薪

歿

の著だから喜

・和訓栞

どゝ時を同じうして居

るもの、或ひは詞草小苑よりは早いも

のかも知れない。

          

閣四

 

こゝで、時代

の確かな事は知らないが、恐らくは此の頃のものでは無いかと考

へられるもので、

異色ある組織

σもの

を舉げたい。北ハれは

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倭語拾補 寫十五冊 田知顯撰

である。此の書、自分の見たのは東大國語研究室

の美濃型新寫本であるが、實は零本九册本である。帥ち

  

卷六  

乾坤門 時候門 封疆門

  

卷七  入倫門併鬼紳 藝術門

  卷八  官職門 姓尸門

  卷九  形體門 疾病門

  卷十  禽獸門

(禽部と獸部とに分る)

  卷十

一 

魚虫門

(魚部と虫部とに分る)

  卷十二 艸木門

(草部と木部とに分る)

  卷十三 食服門(食部と服部とに分る)

  卷十四 (缺、但し器財門上であらう4

  卷+五 器財門下

の九冊であるが、是れは大正震火により他

の六卷六册が失はれたからであつて、

東大本

の原本たる東京文理大本は完全

に揃うた十五傍本なのである。完本を見

て居ないから全體

の組織は知らないが、

要するに語原辭書であつて、語彙を乾

坤門

・時候門と云ふ風に先づ意義分類し、さて、

北ハの各門の中はアカサタナ

ハマヤラワ

・イキシチニヒミイリヰ式とし

たもので、此の横列順である事は初辭通韻や所謂俚言集覽と

一胝通するものであり、此の點に特色

がある。

(尤も官職門

   

五十訟日分類冖體菰駢書の發=逹                                    六=一

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五十普分類體辭書の發逹                              六四

は横

列順で無く、

姓尸門も無秩序である。横列を整理した揚合の音鬪が、何

のやうなものであるかと云ふ事までは査

て居

ない。)解釋は片假名文である。何分にも電覽的に見たのだから詳しい語原説は判らぬが要するにたわいもない論で

る事は事實である。

本書について注意すべきは、「小解

二釋ス」と云

ふ類

の斷り書が多い事であ

る。其

の「小解」と云ふ

のは此の九冊を檢しても判明はせないだらうと思はれるが、完本を見れば何か論明があらうから、

直ぐ判

る筈である。

し本書を見た時、「小解」が何であるかは自分には直ぐ判

つた。蓋し本書に類した語原解釋辭典に倭語小解五卷美濃型

一冊本と云ふのがあり、

京大研究室に所藏

せられ

て居り、

前に自分は北ハれを通讀

して抄録した事があつた

からであ

る。、しかして又現に東大國語研究室にも、文理大本を明治

四十

}年四月

に寫した美濃型

五卷三冊本が存するからであ

る。斯うして本書が倭語小解に基き、

北ハれを訂補した語原辭書である事は直容、明らかに成つたので、自分は拾補を電覽

しただけで、

小解も拾補も同じ著者が書

いたものだ、著者は源式如だと、うつかり速斷した事があ

つたが、北ハれは宜し

ーは無かつた。念のために東京高師岡書館の和漢書設暑

目録五喜

試齲

年を檢したき

語拾補

田知顯

五冊Lとあり、拾補

の著者は田知顯である事を知つたからである。

小解は漢文自序があり、「享保

一年龍集丙午春三月

日  六十七翕源式如序」とあり、田知顯

では無いのである。だが面白い事には小解には「知顯云」と云ふ斷書

が十六度

程見えるのである。

小解が語原解釋した後を受けて其れを補ひ、若しくは異説を述べて居るのであり、小解

の解に績け

て書く事もあれば、

一段下げ

て書き込んで居る事もあり、割註に成つて居るのもあり、頭註と成

つて居

るのもある。

の知顯が拾補の知顯…なのである。按

ふに知顯が小解を讀むに當り、自論を書き込んだのが、

轉寫者

により共に寫された

のであらう。從うて、京大本

には「知顯云」が存するが、

本によりては「知顯云」が無い小解もあ

るか愚知れな

い筈であ

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る。とにかく小解と拾補とは密接な關係がある。知顯は式如の小解を見

て、

共れを補訂する意味で拾補を書いた

のであ

らう。

小解は乾坤門・時候門・氣形門・國號門・器財門

附食服・草木門

・數量門

附光彩

・言語門の八門分類

にして假名分類

は無

いから、拾補の方は組織が精緻に成つて居る。語源論にも相異はあらう。

小解は通略論濫用

の言語道斷

の書である

が、卷

一をぱ惣標即ち總論

に當てゝ居るのば、組識

の點で感ひ广る。

拾補にも此の類

のも

のがあらう。小解には年月を

明記

した自序がある。恐らくは拾補にも存するだらう。(東京高師の書目には拾補

の出來た年月を記さぬので、拾補にも

書いてな

いのではないかとも考

へられるが、此の書目は小解

についても年月は云はすに

「倭語小解

 源式如 寫本三冊」

かと↓云つて居るだけである程の大まかさであるから鶉

貅慰

拾補の説明に年代の言及が征{くても、北ハの本に年代を明示した記事が無いキほ

云へない)き

ろで最近、昭和九

年三月より八月

へかけての開に

「東京文理大學附屬岡書館和漢書分類目録」上下二冊と索引

一册とが出

て居るので、

の方

では序文の年月を記しては居ないかと思ひ檢して見たところ、

豈はからんや、小解も拾補も、共に、此の新しい目

録には採録せられては居ないのである。新目録は

「昭和八年三月末現在に於ける本館所蔵の和漢鬮書を收めたるも

の」と

あり

て、文理大岡書館

の藏書全部を探鋒して居るものであり、

決して増加書

の目録

では無いのだが、大正四年三月刊行

の假名分智

見える小解、拾補の二書はつひに替

は見出し饗

いのである。矯

.、何うした譯だらうか。小解や拾補は、もはや高師岡書館即ち今の文理大圃書館に存芋

在不明として除かれて居るのだらうか。實に不思議きはまる事である。鋩

谿

.藐

さて斯う云ふ譯で、目讐

より拾補の時代を知る事も出來轟

砧聡

實惣

より確める事も出來ないの

  

 

五十蔑日分伽類鼬胆畆鮴…書

の發逹

                                    六五

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五十鼠日分」類…髑辭書の發逹                                    六六

だが、自分としては何と無しに田知顯

の拾補

は、文化文政と云ふやうな時代のも

のでは無いやうに思ふので、しばらく、

類に擧げて置かうとするのである。 田知顯

の田は恐らくは吉田とか田中と云ふ類を略したのであらう。此の人が何う

云ふ入であつたかは源式如と共に未だ明らめて居ない。

          

鬮五

 

以上、五十膏組織

の辭書類を列擧して來たが、純粹の國語辭書と云ひ得るものは、文明中

の温故知新書のみで、

他は

全部が特殊辭書

であつたのだ。ところが、國語辭書としても大部

のも

のが出現する…機運が巡り來

つた。

斯くして出たの

が谷川士清の和訓栞である。ワク

ンカ

ンと訓むのが正しいのだらうと思ふ。

和訓栞

前中後三編合九+三卷八士

一册

谷川藩

鞍繁

 

 

 

 

 

 .

 本書は共れゐ\

獨立して居る前中後の三編が、五度にわたり、

明治廿年七月に至るまで、百十

一年もかゝりて刊行せ

られたも

のだが、前編の首卷より第十三卷に至る十四冊(又十六冊本もある)は、安永六年九月、

帥ち士清

の死んだ安永

五年十月十日より

一年後の刊行であるから、(彫刻にか

ゝつたのは安永三年頃らしい)士清は大鶻出來上つたのを見て死

んで居るであらう。栞の莚

に羣

した時期は肇

不明であるが四+三歳の寳暦元年に杲

書記通證を脱稿

した後

の事

であらうか。明和二年八月より宣長との交渉が生じ、宣長は共

の時

の手紙で和訓栞

の初名「和訓釋」を非難し後

に士清が和訓栞と改めたについて「いとおもしろし」と手紙で云つて居

るが其の時

の霜月二日の手紙

は年は不明だが、

事記俾第五卷脱稿に誓

頃のものだから明和八年のものかも知れない。謬

覯嬲

齦謄鬻

とにかく、

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明和二年頃には和訓栞に着手して居り、

古事記徳四卷

の脱稿

の近

い頃には栞の上木に取り

かゝり居り

し事は事

實であ

る。そして共の時の組織は後に變更せられたのだと見るに及ばないだらうから、從つて、

栞は北ハの頃より既

でに五十晋

分類であつたのだと見る可く、年代から云

へば、古言梯と殆んど同時のものであ

つたかも知れな

い。さて本害は五十音分

類で耄

ガ、言葉の第二言亦五士並日で懿

して居る。嚇驥

調

睇携

、蘓

ボ第三髪

でも撃

順にす

る事は、色葉引辭書として古くは建治元年の名語記十帖があり、

徳川期では伊勢

の人なる荒木田成徴

の類字假名遣七卷

雛擁跋や、其の子譬

の欝

抄冩舎

卷項陣籍

闇黻擁

離邏

「誌

鸚縮

旃釁髫

があ

、索引では古今類句

が第三{一ゴ・までを色葉順として居

る。類字假名遣の影響

らゐはあるので無からう

か。書鬮は、前中後三編を通じてアイウ

エヲ

・ワヰウヱオと成つて居る。が是れは書紀通證

の「倭語通晋」の活川岡所見

のものと同じである。此のオヲについては、宣長との聞に手紙で意見の交換もあつたらしい。

宣長

のオヲ正置訟

の幾分

は士清も知つて居た筈であるが士清は宀日萇

の説に服せなかつたものなのである。義門

の於乎輕重義

辻測

「和訓栞ノ序

ヲ物

スルトキ、ナドテ栞者

二忠告シテ宜キ

ニ從

ハシメハセザリケン、

サバ胸狹キシワザトヤ云ベ

カラ

ン」と云つて、宣

長がオヲ正置説を秘して、士清に知らせなかつたやうに云

つて居るのは爰當であるまい。

さて士清が五士青分類を探川

したのは、彼れが訟口鬮により活川を設明するのに早くより氣ついて居た事を思

へば、…富然の事である。

因みに林若樹氏

が和訓栞の著者自筆稿本七册(これで全本である。刊本より分量はるかに少し)を所藏せられ、

の簡單な解説が從吾所

棚髄

えて居

るが、共

の本はアイウエオ

・ワヰウヱヲであると↓至

事だ・しかし考

へて見ると・葉

でオヲ

が偶然かも知れな

いが正置せられて居

るのも變である。實際は鈷置せられて居るのに若樹氏が、

㊧青圃を見馴れて居

   

五十鉱日分類鱒隅辭…書の發逹                                   六七

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五十轟日分艸類一懺辭…澄日の漁彼逹                                    六八

られ

るため、錯置に氣つかすに、

アイゥ

エオ

・ワヰウヱヲと書

いてしまはれたのでは無いかと想像するのである。

 

さて此の後、五十晋辭書は珍しくなくなつて來るから、も早や述べるにも及ばないが、

璽二書だけを述べると本居

宣長門入萩原元克の歌語辭典「道の枝折三

胖研

は、アイウエ引・ワヰウヱかと誤つて居る點が、宣

長門人の著であるためにいぶかしく感

ぜられる。次ぎに太田全齋のものかと覺しい所謂

「俚言集覽」(正名は「諺叢」か、

「諺因」か)は、牧載語彙

を語頭韻により先づ阿集・伊集・宇集・衣集・於集に大分類し、

阿集の43ではアカサタナ

ハマヤラ

ワに別ち、伊集をイキシチ

ニヒミイリヰと別ち、

言葉の第二言も亦アカサタナ……、イキシチ

ニ……式である點で注意

べきである。

          

=ハ

 

以上の如きが、五十元日分類體辭書發達史の初期であるが、右の僅か數書

の現はれて來た現象に

ついて、

如何なる事情

が觀取し得られるであらうか。

 

心室菅義(又快倫の菅義)、囚陀羅網、華梵對翻、枳橘易土集ら何れも佛者の撰である。

温故知新書は瀞に仕

へる人の

ではあつたが、梵字が書いてある事や、三井

の尊通が序して居

る事

につき、

本書が佛教的色彩

の濃厚なものである事

を認めねばなるまい。故に結局以上

の六書は佛者側の著逋であると云つて可いのである。

 

ところで五士膏圃は、悉曇と關係があるか何うかは議論の餘地があるにしても、

遺物から見ると佛教的色彩の濃厚な

のであり、俗入(殊に歌人)が使用した例はあるにしても、其れらは佛者が膏鬪により字膏の反切を行ひ、

晋通を説い

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たりしたのを見習うたまでゝあり、根本的に云

へば、

佛…教的色彩が濃

いのであり、特に悉曇學の方

では、必須のもので

ある。鎌倉期に韻鏡が發見せられると、悉曇學者がこれを探用して考究し出すので、

韻鏡と書岡が不可分離のものと成

り、徳川期の韻鏡學者や訟51韻を諡くものは、

佛者で無くても膏圃が無覗できな

い事に成つて居るが、要するに佛者專用

の觀があつた普岡が俗界に進出したのである。どこまでも曽岡は、

使川史的に云

へば佛轂的色彩

の濃

いものであつたの

であ

る、斯う云

ふ事實から湘心像し、

又以上

の六書が皆佛者關係のものである事を考

へると、佛者、叉は佛者的學識ある

人な

るが故に、五十膏分類を辭書

に探用したのであると斷じて可からう。つまり悉曇の研究、

字晋

の反切に關して五十

曽圃

に親しみの深

い佛者なるが故に、五士菅分類を採用したのであらう。心室

の膏義が、五士背分類した事などは、

に必然的である。

 初辭通韻の著者は不明だから何とも想像は出來ないが、 凡そ佛者とは對立的な立場にある筈

の「倭字」の著者が、神道

關係

の家柄

の人として、世闇普通の色葉分類を探用せなかつたのは、

の理由を知るに苦しむのだが、荷田春滿が、曽

圃は日本固有

のもので、古代

から存するものと云ひて、怪しげな家傳を眞淵に傳

へて房り(後にて言

及す)後の國學者連

巾が、弘法の作と云はるゝ色葉歌をも毛嫌ひした事などから想像すると、

倭字の著者も、下鴨の祠官であ

つたから、佛

々理を歌うた色葉歌を好ます、晋鬪の方を好んだからでは無からうかとも考

へられるのである。

(但し想像である)

 然

らば束涯の操觚字訣は何故色葉分類を取らすに五十晋分類を採

つたか。

是れは無論著者自身に尋触なければ判らぬ

事ながち、

今日のわれー

が忖度するとなれば、彼れは儒者として、字書の方に深い理解を有して居た人だが、其

の字

晋反切は五十書鬪

の世話に成らねばならなかつたと云ふ事情で、

儒者も亦佛者同樣五士菅圃の厄介

に成り、共れ

に親ん

   

五十猷H分類體胤彫書…の一發逹                               六九

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五十羸日分類∵體辭蠹日の㎝發逹                                   七〇

で居た

のである事を田心へば儒者なる東涯が、

色葉分類

によらなかつた事情は少しは明らかに成る。谷川士清の和訓栞が

 ・分類であつたのは何故か。垂加流の靆

としての色葉灣

對する毛嫌の事は判らぬが、

彼は杲

書紀通證の中で、はじめて動詞活用を五喜

圃に配嘗して読明した八にて、和訓栞大綱

の中

でゞも、書圃を論明し居り、習鬪に對して優れた認識を有して居た學者であるのだから、

彼れ

が思ひきつて五十書

分類

を探川した事情も、晋圃に對する認識から出て居

ると云

へるのである。

倭語拾補が横列順を採

用した事情も、判ら

ぬが

、語原を論くには膏通説による事が多いので、これも訟日圃に對する理解から探用したとも見られる。 かざし抄は齪

辭考

の影響があるかも知れないが、成章も書閥には理解

のあつた人である事を考慮すべきである。

 さて最後に眞淵が冠辭考に於いて五十音分類を綵用した事情であるが、

彼れは凡例

の中では積極的には論明せす、た

ゞ色葉歌は童蒙

のために作つたものだから、學者は使用を忌むと云ひ、

つ語を論くに專ら五十晋

を以てすと云つて居

るに過ぎないが、彼れ

の語意考を見ると、事情が窺はれるやうだ。・即ち語意考によれば、

眞淵は五十訟日圃は日本獨特の

ものにて、輕島豐明宮の御代

でに存したものが、山城國稱荷の膨

家撫

はり、眞淵は蕾

春滿から其の

五十音の古傳を俾授せられたと逋べて居るのであつて、

斯う云ふ馬鹿げた事は眞淵の門人村田春海が既でに五十・背辨設

にて否定して居る位であるが

稲際

姻灘

八眞淵は然う云癖

説姦

的に信じ、晋鬯

傾倒して居たのであるか

ら、古風心碎の眞淵が、

室海

の作

であると傳

へられて居り、佛教

の色彩濃厚な色葉歌による分類を忌み嫌ひ、五士菅分

類を採用したのも當然

の事であつたのだ。色葉歌を毛嫌ひしたからこそ「便りぱや」であると白歌しつゝも、色葉分類を

忌避

し、便りばやでない筈

の五十膏分類に從うた

のである。さらにも

一つの理山は、彼も亦、

語意考で示して居る通り

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に、膏鬪により活用を説明して居り、且つ相通諡を主張して居り、

古語を論くに晋圃の助を借る必要のある事を充分認

して居

つた事

である。とにかく、色葉歌を毛嫌ひした事、曽圃を固有のものとして尊び、

かつ語學的價値を認識して

た事が、眞淵をして、冠辟考に於

いて五十普分類を採川せしめた理由であらうと思

ふ。但し苦

圃の認識と、

辭書

の配

とは無關係である。殊に色葉順

の方が便宜であつた時代に於いては、なほさら色葉歌順であつて可い譯である。

して

ると、やはり、色葉歌忌避が主な理由と成るのでは無からうか。此の事は、士清についてゞも云ひ得る。(眞淵は晋鬪

が悉曇と關係ある事を想像して居たか何うかは不明である。後に成ると、

爾者

の關係を認めるも

のも出來て來るが、篤

の如くに固有膏鬮があり、其れを悉曇により改めたのが、今

㊧膏岡であると云ふ風に説くものも出るのである。)しか

し斯う云ふ色葉歌忌…遅の態度を取るものは國粹意識のみ張い偏狹な國學者連中

の間

に、次第

に多くなり行き、

五十晋で

物を次第する豪

はやり出した。其の事は葡

與清の樂章類語鈔

㌔簸

二籔

  

さて伊絆汝饕に魏を槻つることは……いとふるき傚㌘るを・近頃

の古學者が・高野κ師

のし

いでら

れし跡を追をや

                            ツイデ

  すからすおもふひが心より……ともすれば五十晋に物の次を定むるはいかにそや、いにし

へはたえてなき事也,又五

  

十音はもと悉曇章なるをしらすして、祚代よりありけん講とおも

へるは、わらふにたへぬわざぞかし伍叶暗腔榊峨峭

  鶸

これらのゆゑよしは、余別に論あれば今ははぞ

と見えるので判

る。

 さて斯くして、明和安永以後、次第に五十音分類

の辭書が現はれ

るのであるが、其れでも、

五十昔圃

の行はれる事は

色叢

に比ぶべきで讐

、國學に入門した位で「五書

を暗記だに得せざめる初學」もあつたので購

褓掛

  

 

五十驫日△刀牌類體廡鮴…泡日の漁彼山運                                   ・七

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    五+音分類體讎書の發逹 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七二

鮴參

國語學關係の書を見ると、先づ五+謡

を縱からでも禁

らでも云

へるやうに暗記すべしと云ふ事讒

いたものが

往々にン

、ある藻

である。・疋れは會

か覺

れば不思議髪

へられるのだ諾

磚瀦

蹕誌

當時の享

屋警

では、色葉歌は教

へても五士高

は教へないのが普通にて・明治初年に幼少年時代を過した人で

も五士膏岡は教

へられなかつたと云ふ人が有ると云ふ有樣であるから、

徳川末期としては當然

の事

である。從うて明和

安永以後に五十晋分類

の辭書が出たと云つても、北ハは何れも

一般人相手のもので無く、

一部の學者階級・智識階級相手の

ものであり、

一般逋俗階級相手のものは、色葉字引で無ければならなかつたのである。

明治に成りて官板の語彙十二卷

味麟

よ近藤眞琴の詞の園六卷硼讐

如き五+雰

類辭書奮

て、やがて薪

的なる言海醐鍵

熟辭農

つた

のであるが、共

の言海が出た時み41識者の聞にも、共の色葉分類ならざるを不便とし、

下足札が五士膏順で無い事を舉げ

て揶揄した入もあると云ふ事だが、

如何に慣習の力が根強いものであるかを見るに足らう。現在は假字順ならば五十晋

順萬能

の時代であると確信するのだが、共れでも、

極めて低級な

通俗辭書

にはや

はり色葉引が探

用せられるも

のがあ

り、又共れのみで無く、

科學上の學術書

の索引などに、色葉引

のものゝあるのを往

々にして見

る事があるのである。こ

れらの事情から見て色葉分類體辭書

の勢力

の強い時代

に五十普分類辭書の發生した事が、

餘程注意すべき現象であつた

事が首肯せられる筈

である。

 要するに、五十菅分類辭書は、佛者が共の親しむ五士菅圈を辭…書

の組織に應用した事から始まり、儒者も亦、

苦圃の

智識あるまゝに其れを採川し、國粹的國學者は、主としザ、、佛教

の臭味ある色葉歌を毛嫌ひする餘りに、北ハの認識不足

から日本固有のものと諛信し崇拜した五十菅岡による分類を探用したために、

俄かに勢力を得

るに至つたものであらう

Page 40: 關 い の 順 る た 極 も ざ す で に 分 も ま 作 る 國 …uwazura.cocolog-nifty.com/blog/files/okadayosio_50...卆 高 も 作 ら れ ・ こ れ ら 四 種 の

と思ふ。

 しかして現在

の辭書類が五十菅分類なるは、

も早や慣智の力によると云つて過言7。一あるまい。苦圃が聲普學上の根據

を有するも

のであるからと云ふのは、むしろ附加的理山であり、根本的理由は、

われく

がも早

や色葉歌の配列に習熟

せす、色葉順では苦痛を感するに至つた事であらうと考

へる。蓋し、歐洲語辭書

のabc順が、

た璽歴史的であると云

ふだけで、磬音學的根據絶無であるに拘らす、いつまでも勢力を有し、

=本人でさ

へab

c順ならば何ら不便を感ぜざ

るに至つて居

る事から、

辭書

の發音順配列組織には、聲音學的根據を必すしも要せない事を信す

るからである。結局は

便不便と云

ふ事なのである。しかも北ハの便不便は全く慣習により左右せられるのである。

 是れで此の小篇を了

へるが、非蛙の乏しい材料からの記述であり推定であるから、

過諛もあらうと考

へる。大方

の叱

正を仰

ぐ次第である。                     (昭和九年八月+八日稿、+

一年七月二+八日補)

  註 松井簡治博士所蕨.の初讎、通韻・類字顴。、鸚鵡抄らは皆、此度靜旒堂夊庫に入つた。但し薬理が濟むまでは眼澗は得られない。

 

  

 

 

 

 

「口

(岡

田希

)

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

             ム                                       む

五頁

+四行

 

 

 

 

「+」

】曲

(本

一曲) 

  

 

典門

一曲

(本

では

】曲

)

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

ム                                         む

〃 

 

 

 

+七

 

 

 

 

「廿」

三曲

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 陰

陽門

三曲