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Meiji University Title �-�- Author(s) �,�, �,Citation �, 34: 369-386 URL http://hdl.handle.net/10291/11890 Rights Issue Date 1993-12-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

近代作家の文体-芥川龍之介と北原白秋- 明治大学人文科学 ......Ryunosuke Akutagawa and Hakushu Kitahara Tsuguo SATO HarufUmi NISHIYAMA We tried to consider some

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Meiji University

 

Title 近代作家の文体-芥川龍之介と北原白秋-

Author(s) 佐藤,嗣男, 西山,春文

Citation 明治大学人文科学研究所紀要, 34: 369-386

URL http://hdl.handle.net/10291/11890

Rights

Issue Date 1993-12-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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近代作家の文体

1芥川龍之介と北原白秋1

佐 藤 嗣 男

西山 春文

目  次

一序芥川龍之介-詩的散文の形成-………………・……………:…・……………:…・………

……-…………・………-………・………-………・…………・……・・……・佐藤嗣男(三)

北原白秋の文体成立過程の一考察……:…………・………………-・………………:・………

……-…………・……-…………・………-………・……………-…・…・…西山 春文(十二)

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On the Literary Style of Japanese

Writers in the Modern Period

Ryunosuke Akutagawa and Hakushu Kitahara

Tsuguo SATO HarufUmi NISHIYAMA

  We tried to consider some pointS concerning the literary styles of the novelistS and the poets in

the Meiji and the Taissho eras, in order to make research into a process of the formation of literary

styles effected after the movement for the unification of the written and spoken languages.

  The prose style in Modern Japan was never formed in a day. It is onesided of us to carry on a

research merely on the changing current of the prose styles. Therefore, some considerations are

also needed for the various influences which the verse styles gave on the shaping of the prose

styles. We can take some of the examples for them;a viewpoint of“regarding novels as narrative

poems”in the early and middle part of the Meiji era, a case of the literary sketches created by Shiki

Masaoka, and some cases of the works of the poets;Hakushu Kitahara, Isamu Yoshii, Mokutaro

kinoshita, Mokichi Saito and others.

  It is said that the colloquial style in modem Japan was established generally in the lOth year of

Taisho era. The first aim of our research was to make clear how the style of Ryunosuke

Akutagawa, a typical writer in the Taisho era, had been formed and also how it had been connected

with poetry. After all, we can say that the literary style of Akutagawa came to be based upon his

unique“romanticism directed toward realism”through his own imitating after Hakushu’s poetry in

his youth.

Thus, the existence of Hakushu Kitahara gives a profound meaning to the stylistic formation of

Akutagawa. But as for Hakushu himeself, he intended to creat and establish his own style in terms

of Japanese Tanka above all things, in order to widen and deepen the worid of his poetry

furthermore. After that, Hakushu’s creative activities became to give great influence upon the verse

in the present and modem Japan. To make clear a part of the process of Hakushu’s creating and

establishing his own style was the second aim of our research. That is the purport of our paper.

一2一

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371

《共同研究》近

代作家の文体

-芥川龍之介と北原白秋i

佐 藤 嗣男

西 山 春文

 言文一致運動以後の近代の文章の成立過程を探るために、明治・大正

期の作家・詩人に焦点を絞り、その文体形成における問題点を考察して

みた。

 わが国の近代の文章Il殊に近代散文は一朝一夕になったものでは

ない。そうした近代散文の成立過程を検証していくには、散文芸術の流

れからのみ追いかけたのでは片手落ちとなってしまうであろう。近代詩

歌が与えた、あるいは近代詩歌人が与えた近代散文形成へのインパクト

を抜きにして、それを語ることは当然できないだろうと思われるからで

ある。明治初・中期の〈小説隠叙事詩〉論は言うに及ばず、正岡子規に

発するホトトギス派の写生文も大きな意味を持ってくるであろうし、北

原白秋・吉井勇・木下杢太郎・斎藤茂吉等々、詩歌人の仕事も重要な意

味を持ってくる。

 が、ともあれ、ここでは、大正十年頃に近代口語文の成立を見たとさ

れる、その大正期を代表する作家の一人である芥川龍之介に的を絞り、

芥川の近代散文がいかにして形成されて行ったのか、近代詩歌とのいか

なるかかわりのもとに自己の表現形式を作り上げて行ったのか、そうし

た点の解明に主眼の一つをおくこととした。

 結論から先に言えば、芥川の作家としての生涯を貫いて模索し形作ら

れていった詩的散文-芥川自身の言う〈眼に見るような文章〉をも

たらした源の一つは若い日の白秋模倣にあったと言っても過言ではな

い。初期の北原白秋の表現技法を受容するところから芥川の〈上昇的な

くり返し〉を軸とした散文技法は生み出され、芥川独自の〈リアリズム

志向のロマンティシズム〉に支えられた文体となって花開いて行ったの

である。

 芥川の散文形成にかかわって北原白秋の存在は大きなものであった。

が、芥川に大きなインパクトを与えた初期の世界、それをさらに広げ、

また深めるべく、白秋はまず、より言葉の凝縮された短歌の世界に自己

の文体を求める。その後の近代文章のありようにおける問題点を考察す

る上で、白秋のその後の文体確立を目指しての動きは様々なヒントを与

えてくれるに違いない。そうした課題意識をベースとして、白秋の文体

の確立に関する考察をも進めたのが、ここでの主眼の二つ目となってい

る。

芥川龍之介

詩的散文の形成

芥川龍之介がたんに”鎮刻彫琢”

ころである。が、しかし、

の人だったとは、よく言われると

 僕は句読点の原則すら確立せざる言語上の暗黒時代に生まれたる

ものなり。この混沌たる暗黒時代に一縷の光明を与ふるものは僕等

の先達並びに民間の学者の綾かに灯心を加へ来れる二千年の常夜灯

一3一

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あるのみ。若しこの常夜灯にして光明を失はむ乎、僕等の命休すべ

く、日本の文章衰ふべし。

という芥川自身の言葉を侯つまでもなく、そうした評言は的を射たもの

とはなっていない。母国語文化を心から愛し、あるべき日本語を、ある

べき日本の文章を模索し続けた芥川の姿を逆に脱めるものとなってしま

うからだ。

 ところで、ここに引用した芥川の言葉は、「改造」の一九二五(大正14)

年三月号に掲載された「文部省の仮名遣改定案について」から採ったも

のである。これは前年十二月に文部省臨時国語調査会が可決した国語及

び字音の仮名遣いの改定案に反対して書かれたものであるが(拙稿「盧

花と龍之介-近代散文成立への一つの道すじ」〈「文学と教育」一四

〇号、一九八七・五〉参照)、その中で芥川はまた次のようにも書いてい

る。

我日本の文章は明治以後の発達を見るも、幾多僕等の先達たる天

才、1言ひ換へれば偉大なる売文の徒の苦心を待つて成れるも

のなり。羅馬は一日に成るべからず。文章亦羅馬に異らむや。この

文章の興廃に関する仮名遣改定案の如き、軽々にこれを行はむとす

るは紅葉、露伴、一葉、美妙、蘇峰、樗牛、子規、漱石、鴎外、迫

遙等の先達を侮辱するも甚しと言ふべし。否、彼等の足跡を踏める

僕等天下の売文の徒を侮辱するも甚しと言ふべし。

 文部省の官僚小役人を椰楡して自ら「売文の徒」と称してはいるが、

文章(i母国語文化)に人生を賭けた人の息づかいが生々しく聴こ

えてくる。文章上の暗黒時代に生まれ過渡時代に育った芥川は、古今東

西の書物の中に文章の師を求あ見出して行く。とりわけ、わが明治の幾

多の先達に学びながら、意識的に自己の世代の文章を、日本語を作り上

げてきたのである。「僕等の散文も羅馬のやうに一日に成つたものでは

ない。僕等の散文は明治の昔からじりじり成長をつづけて来たものであ

る」(「文芸的な、余りに文芸的な」)からなのだ。

 それでは、芥川たち世代の先達となった、「売文の徒」たちではない

が、明治の初・中期における作家たちの文章意識はいかなるものであっ

たのだろうか。言文一致の問題は今はさて置くこととして、彼ら文壇(

1文学界)におけるジャンル論の問題としてまず一瞥しておこうと

思う。例えば、一八七九(明治12)年の菊地大麓訳『修辞及華文』(著者

不明)や一八九二(明治25)年の内田不知庵『文学一斑』に通底する〈小

説11叙事詩〉論が注目される。坪内遣遙もまた「小説は美術にして詩歌

の変体に外ならざる也」(『慨世士伝・前篇』「はしがき」、一八八五)と

説き、森鴎外もまた「詩に一体あり。散文を用ゐて事を叙す。世にこれ

を小説といふ」(「棚草紙」二号、一八八九)と語っている。

 しかしながら、こうした明治初・中期の〈小説11叙事詩〉論に立った

詩的散文、詩精神に支えられた散文による散文文学、小説の追求という

方向に向けてその後の文壇文学主流は進みはしなかった。

 一八九二(明治25)年生まれの芥川が「日光小品」(一九=頃、ー

未確認)に書いている。

 この「形ばかりの世界」を破るのに、あく迄も温き心を以てする

のは当然私たちのつとめである。文壇の人々が排技巧と云ひ無結構

と云ふ、唯真を描くと云ふ。冷な眼ですべてを描いた所謂公平無私

に幾何の価値があるかは私の久しい前からの疑問である。単に著者

     マ マ

の個人性が明に印象せられたと云ふに止りはしないだらうか。

明治末期の文壇を凌駕した自然主義文学派は「真を描く」ことのみを

一4一

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近代作家の文体

主眼とする。「冷な眼」で「排技巧」「無結構」の文章を綴る。「温き心」

を、1いわば、詩精神を、ロマンティシズムを排した文章を綴るので

ある。若き日の芥川にとってはそれが我慢ならなかったのである。『文

学一斑』(前出)に説かれた、

1詩と小説の別を論ずるに韻文と散文とを以てするは頗る少

く、ベインの如き論理家は分明に小説を以て詩の一種と為して其中

に編入せり。

1邦人較もすれば詩と韻文を同視して詩を以て散文に対照し韻

律節奏の如何を以て是を区分す。誤れるの甚だしき又到れる哉。

ー詩を以て散文に対するは非也。小説に対するも非也。勿論小

説は詩の一体にして、散文も若し一意想を形象となして表現せしも

のなれば是れ亦詩也。

という方向で、共輻するところで散文文学としての小説を、小説の文章

を芥川は考えていたに違いない。とりわけ、彼が文学の師として終生敬

愛し続けた森鴎外の、

 或は云く小説は詩なり、報知異聞は果して詩として価値あるべき

かと。鳴呼、小説は実に詩なり、叙事詩なり。而れども其境域は決

して世人の云ふ所の如く狭隆なるものにあらざるなり。嘗て単稗の

盛なるや戯曲の分子は小説に入りぬ。……叙情詩の分子は小説に入

りぬ。今や小説は万般の詩体を容れて復、拒む所なからむとす。

(「

�m異聞に題す」、一八九〇〈明治23>)

といったジャンル論、小説観を継承して行ったものと思われる。

 後年、芥川は、「文芸的な、余りに文芸的な」(一九二七)の中で次の

ように述べている。

   僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐな

い。……あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、

誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか?……

しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。「話」らしい話

のない小説は勿論唯身辺雑事を描いただけの小説ではない。それは

あらゆる小説中、最も詩に近い小説である、しかも散文詩などと呼

ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。……実は「善く見

る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出来る小説である。

         むうつ

   僕が僕自身を鞭つと共に谷崎潤一郎氏をも鞭ちたいのは…

…その材料を生かす為の詩的精神の如何である。或は又詩的精神の

深浅である。

   しかし描写上のリアリズムは必しも志賀直哉氏に限つたこと

ではない。同氏はこのリアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精

神を流しこんでゐる。同氏のエピゴオネンの及ばないのはこの一点

にあると言つても差し支へない。

1僕の詩的精神とは最も広い意味の仔情詩である。……どう云

           うち

ふ思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄

火を通つて来なければならぬ。僕の言ふのはその浄火を如何に燃え

立たせるかと云ふことである。……その浄火の熱の高低は直ちに或

作品の価値の高低を定めるのである。

ーこの拝情詩を持つてゐるものをロマン主義者と呼ぶとすれ

ば、  ド・リイル・ラダンの言葉に偽りはない。僕等は阿呆でな

いとすれば、いつれもロマン主義者になる訳である。

「話」らしい話のない小説があってもいいのである。いわゆる叙事詩

一5一

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だけが小説ではない。ましてや、詩的精神の浄火を欠いた、事実を客観

主義的な眼であるがままに叙する、物語るといったものは小説ではな

い。鴎外の言葉ではないが、「今や小説は万般の詩体を容れて復、拒む所

なからむ」なのである。芥川の言う小説とは、芥川の目指した小説とは、

まさに仔情詩の浄火燃え立つ小説の謂に外ならなかった。

 芥川は、「若し長詩形の完成した紅毛人の国に生まれてゐたとすれば、

僕は或は小説家よりも詩人になつてゐたかも知れない」とも書いている

(「

カ芸的な、余りに文芸的な」)。けれども、詩人にはならずに小説を書

いたのは、「小説はあらゆる文芸の形式中、最も包容力に富んでゐる為に

何でもぶちこんでしまはれるから」であり、また、「詩歌は畢に散文のや

うに僕等の全生活感情を盛り難いこと」にもよったわけであろう。不知

          リリツク  

エピツク

庵の言葉を籍りれば、「叙情詩とは叙事詩の如く自己の理想を没せず却

つて満身の感情を庶物に透徹せしめ、再び是を一点に集めし発散したる

言詞を云ふ」(前出『文学一斑』)のであって、一点に凝縮させる詩の形

式、殊に拝情詩の形式では全生活感情を盛り込みがたいということであ

ったようだ。例えば、一九噂二(大正元)年から一四(同3)年頃の作

とされる芥川の詩の中に次のような未発表の作品がある。

尾生の信

たそがるる滑橋の下に

来む人を尾生ぞ待てる。

橋欄ははるかに黒し

そのほとりとぶは蠕蟷

いつか来むあはれ明眸

かくてまつ時のあゆみは

さす潮のはやきにも似ず

さ青なる水はしつかに

履のへを今こそひたせ

いつか来むあはれ明眸

足ゆ腰ゆ ふとはら

漫々と水は満つれど

       まこと

さりやらず尾生が信

月しろも今こそせしか

いつか来むあはれ明眸

  ざえ

わざ才をわれとたのみて

いたづらに来む日を待てる

われはげに尾生に似るか

よるべなき「生」の橋下に

いつか来むあはれ明眸

 約した女性を待って遂に河の水に呑まれて死んでいった尾生。故事成

句で知られた「尾生の信」に材を採った作品である。待ち続ける尾生の

姿への驚嘆と感動。そして、「わざ才」を頼みとして「来む日」を待って

いる現在の自分の、夢が叶うや否や、日々に揺れる青春の不安と憂愁。

破局へのおそれとおののきにふるえる自己の心情を尾生の姿に重ね合わ

せに見てとった世界をうたったものであろう。が、はじめの三連と最後

の連とがやや遊離してしまい、より象徴性を持たせようとした最終行の

「いつか来むあはれ明眸」が十分に象徴表現の機能を果してはいない。

全体に払拭し切れていないセンチメンタリズムが大きく災いしているの

でもあろうが、自己の感情の表出の方に重点が行きすぎて、尾生の内面

一6一

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近代作家の文体

を見る、描くということではほとんど不発に終わってしまっている。

 その点、小品ではあるが散文で書かれた『尾生の信』(「中央文学」一

九二〇・一)は、一応、尾生の内面を虚構し尾生の行為の意味を問うこ

とに成功していると言えよう。小品『尾生の信』の作口班醐については拙

稿「芥川龍之介の表現1『小品四種』の構成をめぐって」(『表現学論

考第三』、一九九三)を参照して戴ければと思うが、作品自体の構成は

大きく二つに別れ、前半部では尾生がコ縷の望」を頼りに来ぬ女を待

ち続けて河水に呑み込まれていくまでを描き、後半部では死骸から抜け

出した尾生の魂が幾千年かを閲して今の若い作家の魂となって宿ってい

ることを語っている。時々刻々に変化する尾生のメンタリティー。焦燥

と不安と絶望。そしてなおかつ永久に来ない恋人を待ち続ける尾生。無

駄とは知りつつも破局(1死)をもおそれずに待ち続けた尾生の姿

こそ、真のロマンティストの姿であろう。今や、単に恋人を待つ云々の

問題ではない。永久に来ぬ恋人に託して〈夢(11何か来るべき不可思議

なものばかりを待つこと)〉に人生(生命)を賭けて行った尾生の姿に想

いを馳せながら、〈冬の時代〉に精神の形成期を迎え、〈大正デモクラ

シi>下に倦怠の想いを抱いて生きざるを得なかった芥川世代の、若い

                            

作家の姿を重ね合わせに、詩情豊かに描き出しているのである。

 たしかに、おののきやすいわが青春の心情を白秋的詩情に託して、1

語彙的語調的側面から言っても、「たそがるる」「黒し」「蠕蟷」等々、そ

                           うた

して「あはれ明眸」ともってくるくり返しと五七調を基本とする詩い振

りは、そのまま北原白秋の詩集『思ひ出』(一九一一・六)や『東京景物

詩及其他』(一九=二・七)の中にその片影を見出すことはさほどむずか

しいことではないーその一点に絞って訴えることにおいては拝情詩

                  

『尾生の信』のように詩形式がもっともふさわしいものと言えるだろう。

が、一個の人間の複雑な心的状態にわけ入ってその動きを動きそのもの

   の                

としてまるごとに捉えようとすれば、〈点〉としてではなく<線〉として

               

描く散文形式による小説こそがふさわしいものとなってくる。

 けれども、前にも述べたように、芥川にとって詩形式そのものが不要

であったわけではない。次にあげるのは、「文芸的な、余りにも文芸的

な」の中でも(私にとっては)もっとも印象的なところでもあるが、芥

川は、

 僕は隅田川の川口に立ち、帆前船や達磨船の集まつたのを見なが

ら今更のやうに今日の日本に何の表現も受けてゐない「生活の詩」

を感じずにはゐられなかつた。

と、書き記している。作家芥川龍之介にとって、隅田川(大川)は終生

          ふるさと

の〈精神的風土としての故郷〉であった。習作期の彼に「大川の水」(「心

                        エッセイ

の花」一九一四・四。一九一二執筆とされる)と題する随想がある。芥

川はたびたび大川端を訪れる。「幼い時から、中学を卒業するまで、自分

は殆毎日のやうに、あの川を見た。水と船と橋と砂洲と、水の上に生ま

れて水の上に暮してゐるあわただしい人々の生活とを見」て育ったので

ある。そして今、彼は「大川の水があつて、始めて自分は再、純なる本

来の感情に生きることが出来る」のである。若き日の芥川が感知した

〈純なる本来の感情〉とは、まさに、大川に生きる生活者に感じずにはい

                                

られない「生活の詩」のことであった。大川に生きる生活者を典型とし

                                                               ロ            

て象徴的に感じられる働く民衆(聾日本民族)の典型としての生活の詩

である。芥川という作家は作家生涯のすべてを賭けて、終始一貫、そう

した意味での〈生活の詩〉を、「今日の日本に何の表現も受けてゐない

      うた

『生活の詩』を」詩い続けた作家だったのである。江戸趣味に走った作家

でもなければ、西洋的近代にのみ想いを寄せた作家でもない。まして

や、 ”炉辺の幸福”をのみこいねがった作家ではなかったのである。

 もしかしたら、芥川は、百本杭の間に漂う入水者の死骸が明日のわが

一7一

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身の一つの姿でもあった大正期の民衆の姿を見据えながら(『大導寺信

輔の半生』〈一九二五・一〉参照)、そうした民衆の〈生活の詩〉を仔情

詩として表現してみたかったのかもしれない。しかしながら、〈冬の時

代〉から〈暗い谷間〉へと続く悪しき現実ー大正的現実を、生きてい

かざるを得なかった民衆の全生活感情を盛り込んで〈生活の詩〉として

表現するには、もはや詩形式ではかなわかったのである。いやがおうで

も散文形式をとらざるを得なかった。いわばそれが、時代の子としての

芥川の宿命でもあった。

 芥川はまた「文芸的な、余りに文芸的な」の中で次のようにも語って

いる。

 所謂通俗小説とは詩的性格を持つた人々の生活を比較的に俗に書

いたものであり、所謂芸術小説とは必しも詩的性格を持つてゐない

入々の生活を比較的詩的に書いたものである。

両者の違いは言うようにはっきりとしたものではないとことわった上で

の言ではあるが、芥川にしてみれば、必ずしも詩的性格を持っていない

民衆を、そうした民衆の現実を対象として比較的詩的に書いていこう、

それがわが小説なのだ、ということであろう。比較的詩的に書く、ー

詩的精神(仔情詩)の浄火を燃え立たせて書くのである。必ずしも詩的

      む             

性格を持たぬ民衆の現実をロマンティシズムに支えられながらリアリス

ティックに描こうというのである。リアリズム志向のロマンティシズム

が脈打っている。

 しかしながら、そうしたロマンティシズムを、「生活の詩」を奏でるた

めには、それに適した文章、散文が必要となってくる。その意味では、

排技巧・無結構などと言っていたのではダメだ。「生活の詩」を響かせる

ための技巧・技術が必要となってくる。

 小品『尾生の信』に話を戻して見ると、この作品の前半部は十四段構

成となっており、明らかにソネット形式をベースにしたものと思われ

る。「尾生は」で始まる段落と「が、女は未だに来ない。」で終わる段落

の二段落を対とした、いわば頭韻と脚韻を踏むような形で構成された七

つの部分から成り立っているのである。そうした技巧や結構が意識的に

施されることによって、1拝情詩型に逆に託すことで、恋人に裏切

られ水に没していった悲惨な尾生の姿を詩情豊かに詩い出すことに成功

している。

 そしてまた、読者に詩情を喚起するコトバ刺激が、ー光り(色)や

匂いや響き(音)など、五感をとおして感知し得る表現となって、この

作品を一編の〈生活の詩〉たらしめている。まさに、芥川自身の言う「善

く見る目」と「感じ易い心」とがもたらしめた表現世界11文章世界とな

っている。一例をあげるにとどめるが、

                      おちニち

 腹を浸した水の上に蒼 たる暮色が立ち軍あて、遠近に茂つた盧

や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした講の中から送つ

              き

て来る。と、尾生の鼻を掠めて、鯵らしい魚が一匹、ひらりと白い

腹を練した。

など、自然界の時空間的な動きを動きそのままに、「景色がく一雲巴冒Φ

(眼に見るやうに)されて来る文章」(「眼に見るやうな文章」、一九一八)

となっている。が、公平無私の客観主義的な自然描写とはなっていな

                          

い。尾生の眼を、身体をとおして、「鯨らしい魚が」というように、わか

らないものはわからないものとして描写されている。あたかも神のごと

くに万事お見通しの語り手が、あるいは作家が前面に躍り出てくるので

もない。その場面を生きるその人の生身の眼と身体をとおして語られて

くるのである。その意味では、まさに、自然そのものの、人間自然のリ

一8一

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近代作家の文体

ズムが脈打っている。そうした自然のリズムが言葉と言葉の間を支えつ

なぐことでまた詩情豊かな調べを奏でている。

 さらに言えば、「蒼 たる暮色」とか「寂しい葉ずれの音」とか、漢語

表現や和語表現といった伝統文化(1伝統的語彙表現)の受け継ぎ

の上に立った表現が一種の詩的効果を生んでいるのも事実であろう。

が、それは単に伝統語彙に固執しているというのではなく、古語と近代

語の融合、統一的使用のもとにあり得べき日本語の調べを求めて発展的

に継承されている点、芥川ならではのものとして注目しておきたい。

 では、詩『尾生の信』から小品『尾生の信』へという創造過程に一つ

の例をとって見てきた芥川の詩的精神の浄火燃え立つ小説、言い換えれ

ば、詩的精神に支えられた文章、リアリズム志向のロマンティシズムに

支えられた散文の創造へと一歩を踏み出したのはどの時点においてであ

ったのか。

 またまた「文芸的な、余りに文芸的な」からの引用となってしまうが、

芥川はその辺の事情を次のように語っている。

1けれども僕等の散文が詩人たちの恩を蒙つたのは更に近い時

代にもない訳ではない。ではそれは何かと言へば、北原白秋氏の散

文である。僕等の散文に近代的な色彩や匂を与へたものは詩集「思

ひ出」の序文だつた。

iなほ又次手に一言すれば、「アララギ」の父正岡子規が「明

星」の子北原白秋氏と僕らの散文を作り上げる上に力を合せたのも

好対照である。

ーー小説や戯曲もそれ等の中に詩歌的要素を持つてゐる以上、Il

広い意味の詩歌である以上、いつも「新感覚派」を待たなければな

らぬ。僕は北原白秋氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。

(「

ッ能の解放」と云ふ言葉は当時の詩人たちの標語だつた。)

 たしかに、正岡子規のホトトギス派の写生文が(一つには夏目漱石を

経由しながら)芥川世代の散文の礎となったことはその通りであろう。

前述した芥川の〈自然の動きを動きそのままに描く文章〉の源泉の一つ

をホトトギス派の写生文に見てとることは容易であろう。が、それはそ

れとして、上記の芥川の言は、彼の散文形成にあたって、北原白秋の存

在がいかに大きなものであったかを物語っている。

 白秋と芥川の関連・関係ということで言えば、既に、木俣修が前記「文

芸的な、余りに文芸的な」での芥川の『思ひ出』序文への言及と芥川の

短歌「紫天鷲絨」十二音(「心の花」一九一四・五)が自秋の『桐の花』

の「模倣以外の何物でもない」こととを指摘している(「芥川龍之介の白

秋観」、一九三二/「『桐の花』と龍之介」、一九五五)。そうした木俣発

言を受けて、佐々木充は、「まさに『思ひ出』序文「わが生ひたち」の模

倣作が龍之介にはあるのだ」として「大川の水」(前出)をあげ、「『大川

の水』には、龍之介が白秋の歌を模倣することでその創造の秘密を探ろ

うとしたのと同じ態度がみられよう」とさらに論を進めていた(「龍之介

における白秋」、一九七二)。

 私もまた、以前、拙稿「『大川の水』小論ー白秋的世界との同質性

と異質性」(「表現研究」第29号、一九七九・三)において、芥川の白秋

     

模倣について鑑賞体験と表現行為の動的過程という角度から考察を試み

たことがある。芥川の散文は白秋模倣をバネとして形成されてくる。初

期白秋の散文のみならず詩歌の世界に対する鑑賞体験(表現理解の行

為)をくぐった芥川の、芥川的反映の姿として(理解表現の行為として)

形成され顕在化されて来るのである。

 芥川が『思ひ出』序文に学びとったものは、排技巧・無結構の文章の

暗黒時代にあって、一つの詩的精神に裏付けられた詩情溢るる散文の実

現であった。そしてまた、広く、初期白秋の世界に学んだものは、明星

                                                                             

派(新詩社)を脱して新しい詩歌の創造に身を挺していったその謀叛の

一9一

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姿に共鳴しつつ、「近代的な色彩や匂」を縦横にちりばめた詩語への讃歌

であった。

 そうした白秋の受容はなにも「大川の水」一編にとどまったものでは

ない。芥川の初期の作品群をとおして、それは血肉化され、芥川の文章

を、文体を形作って行ったのである。例えば、『羅生門』(初出、「帝国文

学」一九一五・=)の冒頭を見てみよう。

 或日の暮方の事である。一人の下人が羅生門の下で、雨やみを待

つてゐた。

 広い門の下には、この男の外に誰もゐない。唯、所々丹塗の剥げ

    まるばしら    きりぎりす

た、大きな円柱に、幡埣が一匹とまつてゐる。羅生門が、朱雀大路

にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、

もう二一二人はありさうなものである。それが、この男の外には誰も

ゐない。

 第一段落を見ると、4音・5音・5音から成る文と、8(4・4)音

9(6・3)音・10(5・5)音から成る文の二つの文で構成されている。

偶数音と奇数音が巧みに配置されて詩的リズムが生み出されてくる。前

にも見てきたように韻律節奏の如何を以て詩と散文との区分を立てるこ

との愚を『羅生門』の冒頭(第一段)は奇しくも示してくれていると言

えよう。と同時に、韻律節奏があるからといって全て詩と言えるかとい

うとそうではないのであって、そうした言葉を支える発想、詩的精神が

問題となることは言うまでもない。が、そうした問題は別稿(「再び、

『羅生門』について」、「文学と教育」一六二号〈一九九三・七〉)にゆず

ることとして、ここでは、ともあれ、芥川が初出『羅生門』の段階にお

いて音数律にも十分に気を配った詩的散文を既にものにしていたという

事実を確認しておきたいのだ。

 さらにリズムということで言えば、第二段落の第一文の「この男の外

に誰もゐない」と最終文の「この男の外には誰もゐない」とが呼応し合

って独得の内的・質的リズムを生み出している。詩と小品と、いずれの

『尾生の信』にも顕著だったように、<くり返し表現〉が多く使われると

ころに芥川の文章技法の大きな特徴がある。『尾生の信』では同語句・同

文のくり返しがリズム醸成の一つのべースとなっていたわけだが、この

『羅生門』の場合は同じものの同じレベルでのくり返しということでは

なく、表層的・現象的には同じものであってもレベルをたがえ、意味的

に一段深まったところへ抜け出して行くという上昇循環型のくり返し表

現となっている。

 「広い門」なのだから、人が何人かいてもよさそうなのに、「この男の

外に誰もゐない」のである。そうした(いわば)瞬間的な局面的状況把

         ま

握が、客観的思索的な間をおいて大局的に見直され、「羅生門が、朱雀大

                                    

路にある以上は、……もう二一二人はありさうなもの」なのに、「それが、

       

この男の外には誰もゐない」のだと、普遍化された揺るぎない現状の把

握・判断となって改めて提示されてくる。〈上昇循環型のくり返し表現〉

だと言った所以でもある。

 こうした上昇循環的にくり返して詰めて行くという芥川の表現技法に

おける基本的な姿勢は、単に文字面にのみとどまることなく、音数律を

構成する上でも一つのべースとなっていたように思われる。上記した第

一段落の第二文が、一部変形構造をとるとはいえ、基本的には第一文の

倍数となるような音数で組み立てられていることなど、単なる符合、偶

然として見過してしまうことは出来ないように思われるからだ。

 詩『尾生の信』に触れた際、くり返しの技法は一つには白秋の技法に

学んだものだという趣旨のことを述べたが、さらに白秋的な技法という

ことで、一、二、見ておけば、「誰」(タレと読むのであってダレとはよ

まない)とか、「蜷埣」(コオロギの古名)とか、近代語に古語を溶け込

一10一

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近代作家の文体

ませること(その時代の雰囲気を出すために二、三行に一語は古語を用

いた森鴎外の歴史小説の表現技法をも受け継いでいるわけだが)や、「市

女笠」「揉烏帽子」といった一点・部分に象徴させて女、男といった全体

を表現する詩的表現を用いていること(この点については、斎藤茂吉の

受容という問題もあるが)や、作品の中程に出てくる、「その上、今日の

空模様も少からずこの平安朝の下人のω雪↓一器昇巴一の日に影響した。」に

見られる英語(第一次改稿”阿蘭陀書房刊『羅圧門』所収の折、1一ω目Φ

と仏語に改められた)の使用といった欧米の近代語をちりばめること、

などなどを見てとることができよう。

 ともあれ、「大川の水」における白秋模倣以来、初出『羅生門』まで、

〈柳川隆之介(助)〉という本名(芥川龍之介)と白秋(柳河出身、本名

隆吉)とをもじった筆名で創作を発表し続けた若き日の芥川の白秋傾倒

は、見てきたようにかなりのものであったと言えよう。初出『羅生門』

の発表以後、その改稿過程の中で芥川は白秋的世界を脱し、1一例

をあげれば、白秋の試みた〈官能の解放〉を高く評価しながらも、一方

で、「官能主義の奴隷」と化して行く青年たちを否定的に批判し(前出

『大導寺信輔の半生』)、「頭脳と心臓と官能とを一人前に具へた人間を」

(「

博�フ言葉」、一九二一二~二五)感ずることのできる作品を、言い換え

れば、真・善・美の統一された作品の完成を目指す芥川独自の世界へと

大きく飛翔して行くこととなるのだが、白秋的技法に学びつつ形成され

ていった芥川の詩的散文はさらに磨かれながら芥川独自の文体を確立さ

せて行くのである。

 芥川の詩的散文のリズムが多くを〈上昇循環的くり返し〉に員ってい

ることは見て来たとおりだが、そうした<くり返し〉によって事物を詩

的にリズミカルにとらえようとする発想は、また、現実把握のための発

想をも豊かなものとしていく。例えば、ダッシュや「……である(であ

った)。が……」という文型などの多用が芥川の文章の特徴としてあげ

られるが、それも単なる〈言い換え〉などではなく、芥川的くり返し表

現の移調・変形されたものであるのだ。詩的精神と批判精神が相侯って

上昇循環的にくり返しながら、角度を変えながら対象(1現実)を

つきつめて行く芥川の発想に見合う、あるいはそうした発想をより豊か

にする表現だったと言えよう。

 一九二〇年の小品『尾生の信』における直戴的な詩的形式の導入とい

った実験を契機として、以後、芥川は『秋』『六の宮の姫君』『雛』など、

仔情性に満ち溢れた作品を次々と発表していく。が、縷々述べてきたよ

うに、『秋』以降に突然拝情的になったわけではない。初期の段階から芥

川は、民族の「生活の詩」を詩的精神に支えられた散文でもって詩いあ

げようとして来た作家なのだ。

 文章の暗黒時代に生をうけて、文章の過渡時代に、〈何か来るべき不可

思議なもの〉を待つ情熱に己れを賭けて、自分たちの散文を、芥川世代

の文章(ー母国語)を、芥川は模索し作り上げて行ったのである。

リアリズム志向のロマンティストとして生きた芥川の面目躍如たるとこ

ろでもあった。     .

                           (佐藤記)

一11一

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二 北原白秋の文体確立過程の一考察

 北原白秋の第三歌集『雀の卵』

中に次のような一節がある。

は、長文の「大序」から始まる。その

 恥を云ふと、私は「雲母集」で失敗した。「桐の花」で完成したも

のを思いきつて破壊してかからうとした。あれは蛇皮を脱ぐの類

で、一旦はあれだけの自己革命をやつて見ないと収まらなかつたの

である。で、活気活力のみで何も彼も無理押しに押し通さうとし

た。で、我見がのさばり、自然相が極端まで強調され、言葉が事実

以上に飛躍し過ぎてゐた。これに詩として表現すべきを強ひて歌に

             ママ

した為一首一首に独立性を欠いだ連作のものが出来上つた。後にな

つて稽しみじみとした処に落ちつかうとしたが、兎に角、あれは三

崎の歌とは云へ、小笠原島の光耀燦燗たる麗空麗光麗色に眩量して

了つてからの作が多かつたので、何も彼も麗かづくめで躍り跳ね過

ぎてゐたのであつた。今から見るとたとへ甘くとも「桐の花」の方

がずつとすぐれていた。

 確かに『雲母集』はある意味で「自己革命」の足跡とも言えるし、そ

の言葉の多くは「麗かづくめで躍り跳ね過ぎて」いよう。しかし、単純

に「失敗した」という言を鵜呑みにしてはなるまい。この「自己改革」が

なければ、また、この時期に「躍り跳ね過ぎ」る言葉と対面することが

なければ、後年の創作活動はありえなかったからである。『雲母集』に

は、「詩として表現すべきを強ひて歌にした」もの、民謡調のもの、後年

の作風の萌芽というべきもの等、様々な要素を抱え込んだ作品が収めら

れている。この表現の多様性は当時、白秋の置かれていた境遇によると

ころが大きいが、詩歌人として表現方法・形式の問題に直面し、それを

実作によって解き進めていくための試行錯誤の産物だったとも言えるだ

ろう。

 そもそも彼の文学的出発点となった、雑誌『文庫』への投稿も当初は

短歌であった。だが、その選歌の有り方に不満を覚えるや、同誌詩壇に

投稿先を転じると同時に認められ、以後数年間の創作の中心は詩作とな

り、詩集『邪宗門』『思ひ出』を刊行することとなる。だが、この時期の

文学青年白秋には、ある特定の文学形式へのこだわりは見い出せない。

それが芽生えるのは第一歌集『桐の花』刊行前後からである。当時の短

歌の捉え方は次のようなものであった。「私の詩が色彩の強い印象派の

油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレビン油のしめり

             うるほひ

であらねばならぬ。その寂しい湿潤が私のこころの小さい古宝玉の緑で

あり一絃琴の瀟洒な畷り泣である。」(『桐の花』所収「桐の花とカステ

ラ」)つまり、短歌はあくまでも詩のコ畏面にかすかに」位置付けられる

ものだという。後にこの点を「当時の私に於ては詩作が主であり、歌作

が副であつた。却つて詩(歌謡体以外の)を副とする歌作専心の今日と

は覚悟の上にも態度の上にも非常の径庭がある。」(『桐の花』翻刻新版あ

とがき、昭和八年刊)と明言しており、特に晩年は短歌に心血を注いだ

ことと考え合わせると、詩が主で短歌が副という意識がいつ、何故逆転

したのかという非常に興味深い問題点が浮かび上がってくる。

 白秋のものした彪大な作品の中でも異色の詩歌形式がある。自ら「短

唱」と呼んだ形式である。それらを収録した『真珠抄』は大正三年に刊

行されている。姦通事件に対する世の糾弾から逃れ、また、妻となった

女性の病気療養を兼ねて訪れた三浦三崎時代の作品集である。この集に

は「わが短唱はわが独自の創見にして、歌俳句以外に一の新体を開くべ

きものなり。詩形極めて短小なれども、かの如く既製形式によらず、自

由にリズムの瞬きを尊重し、真実真珠の如く、純中の純なる単心の叫び

を幽かに歌いつめんとするなり。」(「真珠抄余言」)という言葉が添えら

一12一

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近代作家の文体

れている。新生を祈る心身の軌跡を蛮勇を奮って公にした作品であるた

め、その特殊事情と相侯って白秋の文学世界に重要な位置を占める書だ

が、短唱自体を普遍的・恒常的な詩歌形式とすることは果たせずに終わ

っている。それでも『真珠抄』は「歌俳句以外に一の新体を開く」目論

みの下に創作されたという点は特記せねばなるまい。『真珠抄』に続い

て刊行された詩集『白金之独楽』(同年)も白秋にとって初めての片仮名

書きを採用している。そこには、『真珠抄』と同様に、一旦は地に落ちた

詩人としてのプライドと生計を取り戻さんがための情熱と焦りが感じら

れる。結局、短唱や片仮名書きといったスタイルを直接に詩歌作品に用

いているのはこの時期だけだが、「歌唱脈より発足した之等(筆者注、

『真珠抄』を指す)の短唱は、後に至つて、『水墨集』の象徴的短唱の因

をなすものであつた」(『白秋全集第三巻』後記、昭和五年アルス刊)、「そ

の(筆者注、『白金之独楽』を指す)同時の作『雲母集』の短歌の革新的

破壊と彼是対照してほしいと思ふのである。盾の両面だからである」

(同右)と自ら記している通り、当時の試みは間接的に他の、後の創作活

動を生ぜしむる誘い水の役を果たしており、白秋の作品を個別に論評す

ることが困難な理由の一つがここにある。確かに『雲母集』は『真珠抄』

『白金之独楽』と時期的にも内容的にも重なりA口う部分が多い。しかし、

『真珠抄』『白金之独楽』は、スタイルの目新しさを持つものの、結局は

すべて白秋の個人的体験に収敏するという点で、後進に与えた影響は大

きくなかった。それに対して、「盾の両面」の関係にある『雲母集』は冒

頭でも触れた通り、ある意味では多様性の目につくこなれ切れていない

未消化な歌集とも言えようが、この多様性を彼独自の方法で整理するこ

とによって初めて後代にまで大きな影響を与え得る本格詩人となったの

である。

 『雲母集』に次いで刊行された歌集は『雀の卵』(大正十年八月刊)だ

が、この二冊の歌集の問には丸六年もの月日が経過しているし、創作開

始時から見るならば足かけ八年を費やした歌集ということになる。中で

も大正六年から同十年までは、ほとんど短歌を発表していない。この短

歌空白期の問題は大きい。

 作歌を中絶した理由として白秋は三点を掲げている。

 一つには貧しい生活が貧しい乍らに愈々複雑になつて、愈々一人

ばかり歌つたり歌ばかりに苦しんでゐられなくなつたのであつた。

二つには歌と云ふものに命をうち込んで行つてゐるうちに、真の沈

黙の尊さと云ふのが自然と了解されて来て、今は三十一字の短歌で

も冗漫に過ぎ言句が多過ぎるやうに思へて来たのである。それでも

つと短い、極々煎じつめただけのものに畢寛は徹底して行くのが自

分の芸術に取つて最も落つきある正しい道ではあるまいかと思へて

ならなかつた。三つには歌の旧門下と私との間に起つた不祥事が私

を愈々沈欝にさせて了つたのであつた。で、もう二進も三進も動け

なくなつて了つた。

 その侭四年間、私は歌一つ作らなかつた。(『雀の卵』大序)

 第一の理由は私生活とその周辺に起因する。大正三年に最初の妻・俊

子と離別した白秋は、同五年五月より二番目の妻・章子と同棲、が、こ

の妻とも同九年五月には離別。生涯の妻・菊子と結婚するのは同十年四

月である。これだけの短期間に別れと出会いを繰り返すことがどれだけ

心身を疲労させるか想像に余りがある。人の世の運命という言い方もさ

れようが、『雲母集』から『雀の卵』まで流れる主調低音の一つが「寂し

さ」であることを考えると、この一連の出来事には終始、この「寂しさ」

が関与していたとも考えられるのである。だが、作品から読み取る限

り、白秋は恋愛に全身全霊を賭けて没入し続けることのできるタイプの

人間ではなかった筈である。また、彼は家庭的な事情から、愛する女性

一13一

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に彼の家族と折り合いをつけつつ暮らしていくことを要求したし、恋愛

そのものも、家族との生活を背後に進められている。よって、恋愛の炎

が小さくなるのも早いし、場合によっては当初から燃え盛る炎をためら

うもう一人の自己が存在した。そして、この存在こそが彼の恋愛をぎり

ぎりのところで短歌形式に踏みとどまらせたのである。たとえば、

             ひとや      つぽぐれ

しみじみと涙して入る君とわれ監獄の庭の爪紅の花(『桐の花』)

この恋愛が破局を迎えても、白秋の背負うものに変わりはなく、

うな歌が生まれることになる

次のよ

たらちね            はしづま              なかたが

垂乳根の親とその子の愛妻と有るべきことか仲達ひたり(『雀の

 卵』)

             ゆ

貧しさに妻を帰して朝顔の垣根結ひ居り竹と縄もて(同右)

右の作品はいずれも最初の妻との恋愛の所産だが、二番目の妻の場合と

てその恋愛に対する姿勢・環境に変わりはない。しかし、異なる事情も

あった。一点は、経済的にさらなる窮乏状態にあったことである。当時

の書簡に見るならば、

委しく申上ると、私の定収入といふのは

 東京日々歌壇選   十五円

 文章世界詩選    六円

 青年文壇詩選    四円

 巡礼詩社詩選謝礼  三円

これ丈、二十八円きりで、あとは詩歌集の印税がたまには入つたり、

頼まれものの小品を書いたり、本を売つたり、衣ものを脱いで了つ

たりで、やつとどうにかやつてゆきますが、頼まれものの原稿をす

つかり書きさへすればまだ余裕ができさうですが、注文的に題をつ

けて五枚とか十枚とか制限して来ますので、気持ちがわるくなつて

どうしても書かずじまひになる事があります。さういふ事ばかりし

てゐては全くほんとうの事ができないのです。(大正七年六月二十

二日、加野宗三郎宛)

という家計状態にあり、郷里の知人に援助を申し出ている。ちなみに、

公務員の初任給が七十円(高等文官試験に合格した高等官の月俸、『値段

史年表』朝日新聞社刊による)の時代である故、「何もかも売り尽くして

了つた。いくらかのこつてゐる書籍類も大概手放して了つた。妻の琴も

まげた。残るは彼女が仕舞の舞扇だけになつた。それももう破れて了つ

てゐた。」(『雀の卵』大序)というのも偽らざる告白と言えよう。しか

し、このような極貧状態にあっても救いがあった。二番目の妻の白秋文

学に寄せる理解である。「親達は怒つた。怒るより却て泣いた。弟達は

恨んだ、恨むよりも訴へた。弟子達は責あた。責めるより迷はねばなら

なくなつた。ただその中に私の妻だけが私を正当に理解してくれた。私

は私の妻を信じ、私の妻は私を信じた。私達は貧しかつたが却て仕合せ

であつた。二人はただ互に愛しあひ、尊敬しあひ、互に又憐欄し合つ

た。」(「紫姻草舎解散の辞」)その妻・江口章子は上京後、平塚雷鳥のも

とに身を寄せていた女性で、後に自らも詩歌を発表する等文学に寄せる

思いが深く、詩文集『雀の生活』初版の巻末に文章をものしている。故

に白秋も一時よりは筆が進んでいる。だが、この時期の著作は諸雑誌へ

寄せた雑文がほとんどであり、詩歌関係のまとまった仕事はなされてい

ない。もちろん、歌作のような集中刀を要する仕事に手がつかなかった

ことも頷けるのである。

 作歌中絶の第二の理由として「真の沈黙の尊さ」を掲げているが、こ

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近代作家の文体

れは「我見がのさばり、自然相が極端まで強調され、言葉が事実以上に

飛躍し過ぎてゐた。」(『雀の卵』大序)と自ら省みる、『雲母集』の歌風

を踏まえてのものに相違ないが、「もつと短い、極々煎じつめただけのも

のに畢寛は徹底して行くのが自分の芸術に取つて最も落つきある正しい

道ではあるまいか」という言葉は注目に値しよう。短唱という詩形を詩

歌の一形式として確立しようという試みを経て来ているだけに、以後の

創作の一環として再び短唱の創作に力を入れようとしていたのであろ

う。書簡の一節にも「私はいよいよ短唱の方をやつて見やうと思ふ。」

(大正七年十月六日、横地信輔他宛書簡)と明言している。結果的には短

歌以上の位置を占めるものとはならなかったのだが。いずれにせよ、こ

の時期の表現上の模索が、どのような詩歌形式を用いるにしても、形式

を超えた広義の詩という視野を持ち、それぞれにふさわしい言葉を慎

重・厳格に選ばしむるようになったことは間違いない。その意味では、

約三年間の「沈黙」を守ることによって生まれた『雀の卵』の短歌は『雲

母集』以前の短歌とおのずからなる違いが生じてくることとなる。

 第三の理由に「歌の旧門下と私との間に起つた不祥事」とあるのは、

紫姻草舎の幹部の反逆事件を指し、その結果として白秋はやむを得ず紫

姻草舎を解散している。この事件が白秋を短歌から引き離す直接の原因

となったものと思われる。「私は短歌を尊重するが故に、短歌を短歌と

して一方に景仰すると同時に、私は、新代の詩人たる私は更に別途に出

る。(中略)主として全力を現代語の新詩ならびに短歌俳句に代るべき

新短詩の創造に向つて専らにする。私は新しく立つ。」(大正七年六月十

日『朱樂』)と記している点から、当時の自秋の関心の有り様が明らかに

される。短歌と距離を置くことによって、新しい詩歌を開拓しようとす

る野心。だが、この時点でも視野から短歌が消えることはない。いや、

むしろ短歌を基点としての試行だったと言う方が適切かも知れない。こ

の点に後の白秋世界の幸いが生ずると同時に、限界も生まれることとな

る。さらに短歌空白期の問題を考える上で白秋が取り上げている以上三

つの理由の他にも幾つかの重要な問題が残されている。大正歌壇の起点

について、木俣修は次のように規定する。

島木赤彦が上京して『アララギ』の編集の中心となるのは大正四年

であるが、そのころから、従来の外部における交流者とだんだんに

訣別を告げるようになり、さらに対外宣言風の文章を書くようにな

るのである。そういった時期以降を『アララギ』の自覚期として、

そこからいうところの主潮流時代がはじまるというような観方の方

が理論的であると思うのである。従って私はその年次を大体大正

五、六年というようにするのが妥当ではなかろうかと思うのであ

る。そうだとすると、大正短歌史は大体大正五年に起点をおくとい

うわけになるのである。(『大正短歌史』明治書院)

当時の歌壇の状況を的確にとらえた一節であるが、赤彦が「従来の外部

における交流者とだんだんに訣別を告げる」ようになる、その対象の最

もよい例を白秋に見ることができるのである。また、『アララギ』の屋台

骨たる斎藤茂吉が大正六年より約三年間長崎に赴いたことにより、実質

的には赤彦が歌壇を制覇した形となるが、この様子を白秋がどんな思い

で眺めていたかは推測するしかないが、後の赤彦との論争の中で、「直言

を許して貰へるならば、今日のアララギには私も親しみがないのであ

る。また誰が見ても茂士暑遠く遊び、(筆者注、ここは茂吉のドイツ留学

を指す)憲吉超空君さしてあまり親しまず、人柄として真に左千夫の後

継者たるべき千樫君も歌を載せず、殆ど赤彦君の独壇場となり、主とし

て土田君その他、同君直系の門生たちの手に移つてのアララギを真の隆

盛と見るものはあるまい。殊に一種の反感を起させる臭味がいよいよ深

くなりつ、あると思はれる。」(大正十二年三月、『芸術の円光』所収)と

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述べているが、閉塞した大正歌壇に風穴を開ける役を担う、雑誌『日光』

を創刊する等の一連の動きの端緒はいずれもここに求められるものであ

る。とするならば、短歌から離反していく一方で、逆に歌壇の動静を常

に凝視する白秋の姿が見えてくる。

 ところで、同時期の詩壇はいかなる様相を呈していたかも併せて考慮

されねばなるまい。白秋自身は『明治大正詩史概観』の大正前期の項に

おいて、 

新仔情詩時代に開花し、明治末期に寧ろ頽唐の香気を病的にまで

氾濫さした浪漫精神はいつとなくそれ自身にも疲労と倦衰とを感じ

ママ初

めた。青春は老い易い。歓楽極つては哀情が生ずる。尤もあの爆

発的なパンの狂腿もつまりは真実への道程に起つた若い時代の擾乱

であつた。人間の真実を求め自然の光明を讃ずる心が、誰の胸にも

今は一脈の涼風でも慕はずにはゐられなかつた。大正初期の詩界は

少なくともさうであつた。(中略)

 白秋とても若き日の耀夢から既に痛烈に戦き醒めた時期にあつ

た。彼は大正の前期に於て、主として短歌に執心し、また散又に赴

いたが、先の『朱樂』(二年六月廃刊)から『アルス』(四年三月創

刊)を通じて、室生犀星、萩原朔太郎、山村暮鳥、大手拓次等の新

進が籏出し、擾頭したのである。

と概括し、白秋門下の三羽鴉について多くを述べ、後期の項では

 詩と散又との甚しい混濡を来したのもこの(著者注、大正十年に

詩話会がアンソロジー『現代詩集』を出版したことを指す)前後か

らであつた。

と嘆いている。当時、個人個入にとっては未経験の部分の方が大きかっ

たであろうが、総体としては既に西洋的なるものを一通り受容し終えた

詩壇にあって、次代の詩人として名を成すためには、作品に新しい可能

性を胚胎させることが要求された。白秋が三羽鴉に着目し、推賞したの

も、単に個人的趣向によるものではなく、日本の詩が新たな出発のため

の先導者を必要としていた時期だったことによるものである。特に朔太

郎と犀星は、これらの状況を踏まえた上で、個人的現実観を計算された

自由詩というフレームの中で大胆に構成し直すことによって共感を集

め、すぐにその任の一端を果たすことになった。白秋も個人的事情から

離脱したところで自由詩を試みてはいるが、詩材の新しさはあっても内

なる思いに対する思い入れが強過ぎ、それを構成し直すという点で弱点

が表面化していると言える。その意味では、『邪宗門』の余韻をいまだ引

きずっていたといってもよいかも知れない。だが、そのことに一番気付

いていたのはほかならぬ白秋自身であった。だからこそ、次のように記

すのである。

 東洋芸術の真髄はかうした自然の真実相に端的に直入する。細微

の写生を避けて直接にその本質そのものを把握する。即ち一視に機

を識り、一線に神を伝へ、一語に生を活かす底のものである。短歌

俳句の類は、その自然観照に於て、此の如き象徴的筆法を必要とす

る。ここまで行かなければならない。(『雀の卵』大序)

つまり、朔太郎を初めとする後進のために道を拓いた後に、自らは東洋

的内省方法を選択することによって詩の幅を広げてゆくのである。その

結晶が、詩文『雀の生活』・詩集『水墨集』・歌集『雀の卵』であり、ま

た多くの童謡・民謡であろう。この東洋的開眼が『雲母集』の有する多

様性を整理させ、それぞれの詩材にふさわしい文体を確立させたといっ

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近代作家の文体

ても過言ではあるまい。

 ではここで、その結晶の一つでもあり、以後の歌人としての活動の再

出発点ともなった『雀の卵』について若干の考察を加えておきたい。『雀

の卵』は三部から成り、「葛飾閑吟集」「輪廻三妙」「雀の卵」の順に配列

されているが、制作年代から見ると、「輪廻三妙」「雀の卵」「葛飾閑吟集」

の順になる。単なる制作順によらずに構成しつつ、「私の生活を知らう

とする人は『輪廻三砂』『雀の卵』と読んでそれから『葛飾閑吟集』に引

き返して読んでほしい。」(巻末解説)とあえて付言している点にも白秋

の意図が伺われよう。現在までの到達点をまず巻頭に置き、残る二部を

制作順に配列することで、過去の歌風とのギャップを明らかにし、歌人

としての再生を印象づけようとしたものであろう。だからこそ「個々独

立した歌集として見てほしい。」(『雀の卵』大序)と述べるのである。

 制作年代順に見るならば、「輪廻三紗」はやはり『雲母集』の余情を残

しており、「どうしても棄てかねた情痴が残つてゐる」(『雀の卵』巻末解

説)。故に、その作品のほとんどが主観的であり、白秋の私的事情を想起

させずにはおかない。たとえば次の歌

             ひとや  ふたりこ

今さらに別れするより苦しくも牢獄に二人恋ひしまされり

                      いだ

今さらに別るると云ふに恋しさせまり死なば死ねよと抱きあひにけ

 り

だが、歌としての体は『雲母集』所収の作品よりかなり整理・統一され

ている。特に童謡・民謡調のものが姿を消しているが、これは、それぞ

れのジャンルを意識的に区分し、作品を発表してきたことによるもので

あろう。さらに、「雀の卵」「葛飾閑吟集」になると

すすきの

薄野に白くかぼそく立つ煙あはれなれども消すよしもなし

(「

閑吟集」巻頭歌)

に代表されるように、極力主観を排した歌い方が主流を成す。この、「輪

廻三妙」と「雀の卵」「葛飾閑吟集」とのはざまにこそ、白秋の創作活動

の中心に短歌が置かれるようになる転機の一つがある。しかもこのこと

は無意識裡に導かれた結果ではなく、苦悶の末に生み出されたものであ

る点を明記しておきたい。というのは、短歌中絶期の後に刊行された歌

集としての、他の作品集との大きな違いがここにあると同時に、以後の

活動・作品の方向性がここで決定されることになるからである。

兎に角、私が人以上に此の事に苦しまなければならなかつたのは、

何と云つても人以上に未熟だつたに違いない。それに何と云つても

根本の観照の態度そのものに隙が有つた、隙と云ふよりも寧ろ小我

をあまりに早急に出し過ぎたが為めに、従つて中途半端な表現に留

つて了つたのが多かつた。で、表現よりも観照そのもの、それより

心の据ゑ方が第一だと云ふ事がつくづく思はせられた。(『雀の卵』

大序)

実際に観てゐ乍ら、ついその傍まで行つてゐながら、その真生命に

ピタと手を触れる事ができないで、ふつと片傍に逸れてゆく、どう

しても主体と客体との間に一分の隙があつた。この隙を乗り超える

までの、つまりこの数年間の必死の苦しみであつたのである。(同

右)

右で指摘されている「小我」の抑制、「主体と客体」の融合ということは、

短歌のみならずあらゆる著作を通じてここで初めて意識され、また実践

されたポイントである。その結果として短歌作品は写生へ向かった。し

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かも、象徴を実現するための写生でなければならないとする。これは、

最も空理空論に陥り易い理念である。それを作品において実現すべく選

択したのが、東洋的精神という支柱だった。ただし、この時期以降の白

秋の活動は単なる東洋への回帰と称さるべきものではないかという問題

もあるが、この点については既に野山嘉正氏の「仔情詩の危機を象徴の

捉え直しによってひとまず乗り超えたことを東洋への回帰と呼ぶのは、

しかしながら、この段階ではいささか正確を欠く。『詩と音楽』では、西

洋音楽の吸収消化を至上の課題とした音楽の語法との連携が図られてい

たからである。」(『日本近代詩歌史』東京大学出版会)という的を得た考

察があるので深くは立ち入らないが、ここで提出されている音楽との関

連を抜きにしては以後の白秋を語れないことになってゆく。なぜなら、

この東洋的精神への到達も、短歌中絶期の童謡制作との関わりの中から

見い出された道であるし、逆に東洋的精神への憧憬がなければ、童謡・民

話作者としての白秋も存在しなかったと思われるからである。狭義の詩

人として既に西洋的世界を疑似体験していたからこそ、日本の音楽の長

所も短所も見えてしまったのであり、また、西洋というフィルターを通

したところで、童謡や民謡・歌謡の東洋的・日本的要素を捉え直すこと

ができたのである。このことがまた短歌や詩にフィードバックされてい

くことにもなる。

 『雀の卵』の特質をもう一点掲げるならば、短歌としてのリズムをそれ

まで以上に重要視し、その姿勢を実例をもって具体的に示し始めたこと

を忘れてはなるまい。大序において、

雀ならば雀の羽ばたきのリズムがその侭に言葉となり、躍動する雀

の諸種相が、その侭の形に言葉を以て表現されなければならないの

である。そこまで行かなければ真の象徴詩とは云へない。ただ雀が

羽ばたく、雀が動くだけでは意味だけのものである。だから

    む     む         む     む   む         む    

吹かれ吹かれて雀が一羽と一羽雀が吹かれつつをりとは格段の相違

             

となる。前者には幾度もと云ふ語は無くとも幾度も吹かれては羽ば

たき吹かれては羽ばたく状態がそのままに出てゐる。後者にはそれ

が無い。意味だけである。かうなると雀は不用意な言葉によつて全

然殺されて了つてゐる。

と記し、推敲の実例を二十八首も掲げているのは、表現意識の高まりと、

短歌としての完成度を追求していることの証しであり、白秋の短歌にお

ける文体確立のための意識的営みがここに開始されたことを示してい

る。 

過去の作品群は、西洋的なるものとの出会い・恋愛・青春の情熱など、

いわば非日常性・あるいは一過性の産物だったが、特に「雀の卵」と「葛

飾閑吟集」は、複雑になりつつあった詩歌壇を傍らにして、自らの表現・

文体を獲得するための試行であり、『雀の卵』が完成したことによって、

短歌形式をそれまでとは全く異なった角度から捉えることとなったので

ある。以後、彼の仕事の一つに詩歌についての評論が増えていくのも

『雀の卵』の完成と無関係ではあるまい。

 以上『雀の卵』刊行前後の白秋の文体確立過程の一面を見てきたが、

実作品の文体分析や狭義の詩・童謡・民謡・散文については紙幅の関係

で詳らかにすることができなかった。それらについては、稿を改めて検

討を加える予定でいる。

                           (西山記)

                       (さとう つぐお)

                     (にしやま はるふみ)

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