12
( ) 1 西

k ´ H ¤ - 明治大学...k ´ H ¤ ê Ö å k Ð º Ì k ´ H1 ¼ R t .4 Ý3! t Î`' ê ê AStudyofHakush ¿Kitahara Hakush ¿KitaharaintheTime ofthe GreatEarthquakeof1923 NIS}{IYAMAHarufumi

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明治

大学人文科学研究所紀要

第四十四冊(一

九九九)

八一

一九

二頁

北原白秋研究

一関東大震災下の北原白秋1

西

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.4∂3!フ π`'一 一

AStudyofHakushαKitahara

HakushαKitaharaintheTime

ofthe GreatEarthquakeof1923

NIS}{IYAMAHarufumi

ThisisastudyconcerningachangeandtransformationofHakush{iKitahara'sthoughtand

worksaftertheGreatEarthquakein1923calledKant6-Daishinsai.

fltthattimeoftheGreatEarthquakeonthelstofSeptember,1923(the12thyearofTaishoEra),

helivedinOdawarachoneartheseismiccentre.Consequentlyheandhisfami亘ywereonlyslightlyin一

jured,thoughhishouseitse隻fwaspartiallydestroyed.Buthecould'ntbt車tdiscontinueissuingthe

MagazineShi一 重g一ρngaku(PoetryandMusic)forwhichheconcentratedhisenergiestowriteand

edit.Throughthatmagazine,hehadpublishedhisliteraryworksandarticleswithavarietyofgenrE,

andhehadexertedagreatinfluenceupontheliteraryworldbyintroducingyoung}itei'ati.Thedlscon一

tinuanceoftheMagazinewasagreatlosstohim.ThisIpointedoutfirsthere.

WhatIpointedoutsecondlyisconcerninghisownworksandLiterarythough.Thepoemsof"the

EarthquakeDisastel・"werepublishedbymanypoetsjustaftertheGreatEarthquake;they、verethe

poemsofmiseryanddespair.Hakush『spoenlsof``theEarthquakeDisaster"weredifferentfronl

them;histhemewasbasedupontheinsig:1i貸cantthingsof``Nature"a{terthcGreatEarthquake.Asa

resultofmyexaminatlono正thecauseamonghisworksofHaiku,folksong,andessay,thefollowing

factwasbrQughttolight,Imightsay.

Hcfoundhiswaytoacertainfundamelltalideaatlastinthehardshipsofh{spoorandneedylife

justaftertheGreatEarthquakeDisaster.Themostimportantthlngforapoetisthatheshouldevoke

andrepresentthat"HumanityinNature"Whiclzisconstantandimmutableinspiteofthelapseof

yearsandages;thatwashiscard三nalthought.ItdeOnitelycharacterizedhisLiteraryworksjusta衰er

theEartllquakeDisaster.

AfterthathemovedtoTokyoandstartedhisnetivlifethereasoneofthechiefmembersofanew

literarymagazine.Hisworkscolltinuedtobedeeply董nspiredthroughhislifeeversincebythecardi一

nalthoughtandconceptionwhichheobtainedthrough垂Hispoorandreducedcircumstancesjustafter

theGreatEarthquakeDisaster.'

一82一'

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〈個人研究

〉北原白秋研究

1関東大震災下の北原白秋-

西

右は、

最も早い時期に書かれたと思われる、

その恐怖の体験を伝え

る文章の冒頭である。

『神奈川縣震災誌』(昭和二年九月刊)

の第二十章「足柄下

郡」

は次

北原白秋は、

通称・

小田原天神

山にて関東大震災に遭遇している。

のような記述をもっ

て始まる。

「震源地に近かりし本郡は、

被害最も

激甚の地なりき。

殊に、

小田原町、

眞鶴村は、

震災に亜ぐに火災を以

83

その時、(九月一

口午前十一

時五十八分)

私は二階の書斎にみた。

てし、

町村の殆んど全部は焦土と化し、

又、

片浦村の一

部落

なる利

束の窓際に背を向けて籐のソファの上に坐り、

恰度「詩と音楽」

根川及米神は、

震災後、

山岳崩落の爲、

部落の大部分は

歎丈の地下に

公募原稿を

検べ

てるる時であった。

埋没され、

家全滅のものも紗からざる大惨状を呈したり。

同書に

と、

震だ

なと思っ

た。

いつ

もより

激しいな

と思っ

た。

坐っ

てゐ

よれば、

小田原町の総人

月∵一七七八名のうち、

四〇七名が焼死・

ようかと

その刹

那に

思っ

たが、

いっ

か立

ちかけてい

た。(

私は

曾て

死・

不明、

総戸数

二戸のすべ

てが半壊以上、

という被害数に上

地震をおそれた薯はなかっ

た。

驚いて立つ

とい

ふ事もなかっ

る。

が、

坊やが生れて以来、

私の心は弱くなったやうである。

地震だな

当然、

白秋の住居周辺も例外ではなかっ

た。

と思ふといつも階段を駈け下りた。

坊やの事が第一

に気にかかるの

である。

で、

今度もさ

うで

あっ

た。)

立つ

同時に

グう

くと

揺れ

隣の伝肇寺はピシヤンコに倒壊して、

その古朽ちた藁屋根だけが

た。

私は戸口

突進して

階段にか

かっ

た。

ガラ

ノ\

ノ\

あっ

地面に押つかぶさってみたのである。(中略)

/町の方を鰍下する

と思ふ刹那に私は中途から揺り落とされた。(後で見ると階段はそ

と、

ついこの丘の下から煙が上ってみる。

それから丘の向うで盛ん

の上部から三四尺ずり落ちてみた。)

(「その日のこと」

大正十二

年十月『カメラ』特別増大号「大震災写真号し)

に火の手があがってみる。

/開院宮邸はと、

山の上を振り仰ぐと、

松林ば

かり見えて、

あの魏然とした円頂閣は影も形も無くなってゐ

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る。

煙がもくもくと湧きあがった。(中略)

/『足柄病院も焼けて

此雑誌は

社友

組織でも同人雑誌でも無い。

アルスで発刊する極め

ゐま

すよ。

和尚さん

は云っ

た。

下の煙は

それで

あっ

た。

(

て高級な純芸術-

詩と音楽

それに美術1

の雑誌である。

大い

右)

に売れて呉れたらいいと思ふ。.

さうして詩と音楽との革新

の機運を

ここで愈々

熾烈に薫醸したいつもりである、

すばらしく華やかに。

看の記述にある、

開院宮別邸は本館を残し消失、

足柄病院は全焼し

(創刊号「驚ペソ」)

た上に毘家三

戸を延焼している。

そんな中にあっ

て、

白秋居(通称・

木菟の家)

は、

「ひどく傾いたが僅かに

倒壊を免れた。

無論内部はあ

つまり、

当時のデモクラシi・

自由主義・

人間主義思潮の影響を

はれであった。

洋館

の方は階下と張出しの諸室とが大破はしたが、

分に受けた芸術運動の一

環を築こうとするものである。

大正七

年に創

上の書斎や寝室

それに屋根裏はさしたる被害も

無かった。

然しそれ

刊された『赤い鳥』

が児童文学を対象としたのに対し、

こちらは、

も引続

く余震と南洩りのために、

また壁は落ち水はたまり、

傷むだけ

象・

ジャンルを限定せずに「高級な純芸

術」

を広めようとしたもので

傷んで了つた。

」(「再び山荘より」

大正十二

年十月『詩と音楽』

所収)

ある。

その

意味では、

大正十年一

月から同年十一

月まで刊行された

とい

う。

その半壊した家屋には、

「大仁の穂積忠君のところがら大工

『芸術

自由

教育』(注3v

引き

継い

だものと

言え

よう。

や土方を八人ほど差し向けて下すつ

たので、

木菟の家を起し、

離家を

白秋にとっ

ての、

この『詩と音楽』

の意味を要約するならば、

次の

起して戸障子のはまるやうにしてい

ただいた。

」(同右)

といっ

た応急

四点となる。

第一

は、

自由な作品の発表の場が確保されていたという

84

処置を施し、

しばらくここで

自秋は創作活動を続けていくこととな

点である。

彼は同時期

に、

移しい

数の童謡を『赤い

鳥』

を初めとする

}

る。

幼少

年向けの雑誌に発表している。

が、

内容・

形式とも誰からも拘束

この震災で白秋自身は「頭上に微傷は

負ったが、

ただ血がにじんだ

されずに

発表する機会を持てたことは、

彼のような、

多様な表現様式

だけで繍…帯の必要さへ

無かった。

」(同者)

という程度の軽傷で済んで

を使い分ける詩人にとって

幸いであっ

た。

中でも、

詩集『水墨集』

いる。

また、

従兄の妻の圧死、

女中の母親の生き埋めという不幸はあ

中核を成す「水墨集」「雪煙」

の詩癖を

得た意味は大きい。

当時、「几

ものの、

それ

以外の

家族・

親族は無事で

あっ

た。

が、

屋・

てが水墨風になって~つたが、

今の私にはさうしたものに最も親しみ

籍以外に失っ

たものも大きかっ

た。

中でも、

精力を傾けて執筆・

編集

が持てるのであるから、

境涯的にはこれが最も今の私のあるものを語

していた雑誌『詩

と音楽』

を廃刊せざるを得なかっ

たことは、

白秋に

つてくれるであろう。

」(大正十二年三月「鷲ペ

ソ」)

と記す白秋は、

とっ

大き

損失

あっ

た。

写生に基づく好情表現を、

語自由詩で試み始めていた。

方、

「こ

『詩と音楽』

は、

大正十一

年九月に、

自秋と山出新律を主幹として

んど久しぶりで、

突然に歌ができた。

歌壇から退いたつもりだった

創刊された月刊雑誌で

ある。

その性格を

白秋は次のように記してい

が、

かうひよつくりうたの感興が湧い

て、

たうとう幾つか作って了つ

る。

たの

は、

妙に

気まり

わるい

やう

気が

する。

」(

同一

月「

鷲ペ

ソ」)

記しつつ、

なり

の数の短

歌をまとめ

発表してい

る〔注↓。

それ

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の表題を見ても分かる通り、

そのほとんどが吟行歌であり、

同時期の

送り出したい

を切に

望んでゐま

す。

写生に基づく詩作と根底に通ずるものを見ることができる。

いずれに

それは如何なる種類の詩、

童謡、

民謡、

短歌、

或いは自由律

の短

せよ、

光と色彩に溢れる詩風からの脱却を企図していた時に、

形式的

唱でもかまひませ

ん。

にも内容的にも制約のない作品発表

の舞台があっ

たことは幸いであっ

然しただ、

私の鑑賞標準は思ひきって高い事、

また一

旦推薦

した

た。

ら、

それだけの責任は十分に負ふ事、

この二つをよく御承知置

き下

第二に、

多くの

詩論・

民謡論を

発表してい

点で

ある。

『赤い

鳥』

さい。(「木菟の

家より」

大正十一

年十月)

創刊以来、

童謡

について述べる機会の多かっ

た白秋であるが、

この雑

誌を得てから、

各詩歌形式の違いを明確に意識した本格的私論

民謡

このように後進のために尽力することを公約し、

以後、

新人の推薦

論をものしている。

これ以後の創作活動を考える時に、

ここで発表さ

のために何回かは紙幅を割いている。

このようにして見出された「俊

れた論考を無視してはなるまい。

才」

に、

詩人・

大木篤夫と

歌人・

穂積

忠がい

る。

彼らが

その

後それぞ

隙』

第三に、

その論考の幾つかは、

単なる同好の士へ

向けたものではな

れに活躍していっ

たことは言うまでもない

だろう。

の下

く、

詩壇・

歌壇・

俳壇をも射程に入れた懐の深いものであった点を明

以上簡単に見てきた通り、

『詩と音楽』

という雑誌は、

白秋自身の

災耀束

記しておきたい。

それらは、

激しい

論争を巻き起こ

し、

白秋は

徹底的に応戦している(注.。)。それだけこの時期の白秋の、体力と筆力が充実

何ものにも捕われない自由な創作活動の舞台となったと同時に、

以後の日本詩歌の進むべき道を正し、そこでの活躍が期待される新人を送

「85

してい

たとい

うこと、

並びに、

多様な試

作を

試みて

きた結果、

それぞ

り出す

役割を果た

すことになっ

た。

れの詩歌形式の特質とその作者に要求されるものを彼なりに一

応つか

そのために傾けていた白秋の情熱が大きかっただけに、

震災による

研秋

みかけていたことを物語

るものであろう。

『詩と音楽』

の廃刊は彼個人のみならず詩歌壇にとっ

ても大きな損失

第四に、

この雑誌において自秋は、

新人の発掘

と育成に力を注ごう

あっ

たと言わざ

るを

得ないので

ある。

としてい

点を忘れてはなるまい。

わたしはかういう事を希望してゐます。

私の鑑別をさへ

許して下さるならば、

私はどういふ未知の人の詩

関東大震災を扱った短歌は多い。

その代表作の一

部を掲げてみよ

稿でも拝見すること、

さうして、

喜んで推奨し

ていい真にすぐれた

う。

無名詩人の詩に接したいといふ事、

また未来ある詩人と認めていい

十分の素質をその詩に見せて下さる若い、

まだかくれた俊才に出会

負へる子に水飲ませむとする女手のわななくにみなこぼしたり

たい

事。

新聞紙腰にまとへるまはだかの女あゆめり眼に人を見ぬ

私はなるべく無刀二三篇のいい

詩を此の「詩と音楽

から詩壇に

死ねる子を親の棄てたりみ濠ば

た柳青くしてすずしきところ(窪田空

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穂『鏡葉』

より)

なご

人の気の衰ふ夜々は眼光

りうかがう蜘蛛の大き形うつる(「廃屋の夜」

・『日光』

大正

十三

年十月)

模しぶく火の粉のながれ淀むまを片頬おさへっつ

大路かけ過ぐる

35ほっ

逃れて来て露にひれ伏す大地の底ゆりあげて揺りゃまずいまだ

壊ゑはてし家ぬちの闇に鳴きはぜてくつ

わ虫は居り住みつ

くならむ(同君)

焼きやきていまだ焼かれぬなき骸を運びくるかも焼原のかなた(土岐

善麿

『緑の斜面』

より)

震災を何らの形で直接詠み込んだ短歌のみを抽出してきたが、

をもこち

遠近の姻に空や濁るらし五口を経つつなほ燃ゆるもの

他に『大正大震火災誌』(大正十三年五月、

改造社刊)

に、一首を加えた「大震抄」計十三首を寄せている。以下がそれ

である。

既発表の

月よみののぼる見れば家むらは

焼けのこりつっともる灯もなし

焼け跡に霜ふるころとなりにけり心に沁みて澄む空のいろ(島木赤彦『太虚集』より)それぞれの状況は異なれど、 ゴ十一音に凝縮された衝撃性・記録性

天意下る

こぞ

あめつち

世を挙り心傲ると歳久し天地の誌怒いた急

きにけり

とほ

むな

地は震へ

轟き享る生けらくやたちまち空しうちひしがれぬ

おお

みいかり

大御怒避くるすべ

なしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る

 

はいずれも読者の胸を打つものであるし、

これらの作品の持つ

重厚な価値は現在もなお失われていない。ところが、白秋の詠んだ震災歌は、これらの作品とは一線を画す。

ひかり

あき

よう

あか

ふる

地震の問も光しづけき秋の日に芙蓉は紅し震ひつづけつ

(「震前震後」

言挙げて世を警むる国つ

聖いま顕れよ天意下りぬ

おおぎみ

あま

みみつか

35

大王は天の謎怒と躬自ら照らす御光も謙しみたまへ

くにたみ

国民のこのまがつびは臼の本し下忘れたる心ゆ来れり大正十二年九月ついたち国ことこと農鶉れりと観世警

86一

・『大

阪毎日新聞』

大正十三

年一

月一

口)

ぞ.

ま予ごと

ぬさ

去年今年

国の禍事しきりなり夜天の宿に幣奉・る(「星宿観望」・『香蘭』

この心を見よ

あめつち

天地の震ふみぎりも花胡麻の小さき営み昼聞けむとす

大正十三年三月)

よく見れば白くさやけき不二

の秀のみぎり欠けたり地震の崩えかも(「不二大観」・『改造』大正十三年四月)

ダンのユ

ウゴ

オの首を見てみる子かすけき地震に夜をおどろきぬ(「身辺」・『日光』大正十三年四月)

寺跡の老木の本極咲き満ちぬかかる日射に地震は51るひし(「伝肇寺

庭を観つつ

しづ

あか

ふる

閑かなる秋の日照れり阿芙蓉の花紅うして震ひつゴ

けつ

あさかげ

吾が宿の朝光ごとに咲く花の芙蓉の盛り衰へにけり

この秋はいよいよあかるき葉鶏頭のみもとふたもと観てを過ぎなむ

の立秋」・『日

光』

大正十三

年九月)

我竹林に在り

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ゆふ

,

クごとに篁ふかくはひる陽の世にもかそかに澄みてこもりつ

歌集『雲母集』

(大正四年刊行)

から『雀の

卵』(大正十年刊)

へ、

吾がこもる竹の林の喚ぶかに茗荷の花も香ににほふらし

詩集『東京景物詩及其他』(大正二年刊)

から『水墨集』

(大正十二年)

変遷した歌

風・

詩風、

そして

言葉が、

ここへ

きて揺るがぬものと

また、

長歌の中にも震災後の生活の巾から生まれたものがある。

なっ

てい

ると考え

たい。

まり、

「在りのままに

在らせてもら

ふこ

と、

この添さに私は礼拝する。

自然へ

の随順、

実相観入、

この所念は幾度

見え来る春

も私が云った。

まこ

とに正しく高く

常に慶ましき

観相こ

そは

尚ばるべ

かにかくに移らう冬や、

隙間洩る風を寒みと、

破ればてし家にこもる

6

と、

はららうつ

雨のこまかに、

置く

霜の

置くととく

れば、

ふる地震の

ふると消につつ、

おのつ

から霞立つ

日ののどけくな

りぬ。

きで

ある。

境涯の

詩がここより

生れる。

」(『水墨集』

肱)

とい

う思いは、震災後も些かも変化していない。いや、むしろ震災後の生活の中でこそ、この所念を再認識し、実作において示してゆくのである。そ

鰍惚

うちかすみ春さり来らし向山の地震の懐え土やはらぎにけり(『日光』

のこ

とを

示す

随筆

残されてい

る。

大正十三年五月)

災震大東関野鰯

福寿草

'2」

冬ご

もりこもりあかねど、

寒き口は吾もちぢまりぬ。

春まっ

と妻は急

けど

も、

のどならむ家も懐えたり。

予が

愛つ

るブリ

キの太鼓、

その紅

かた

き片面剥げしに、

土盛りて、

せめて植ゑむと、

福寿

草霜に抜き来む、

王維は唐代第一

の高士であらう。

風逸にして幽寂、

まことに世を観じて無生を得たりとするあの神采こそ、まだ李白、杜甫すらも到り得ぬ真の詩聖の境涯であらう。震災のあと、わたしの竹林生活中で最も慕はしいと思ったのはあの摩詰であった。

}

87【

株三

珠。

まらぬながら

わた

しにも

詩がある。

児が愛つるブリキの太古剥がれたり植ゑて眺めむ福寿草のはな(同右)

ひとりかく

れた

篁に

茗祷もしろ

く香に

匂ふ。

歌、

長歌共に、

白秋

の震災歌は、

先に見た

空穂・

善麿・

赤彦らの

酔うてほろりとする日でも

描出した.辰災像とは

根本

的に異なっ

てい

る。

空穂ら

が、

地震と火

災に

わしゃさび

しいそ青雀。

よっ

て発生した悲惨な地獄絵図と人々

の絶望感を活写しているのに対

(『随

筆』

大正十三

年一

月)

し、

白秋の歌のうち「天意下る」

を除くほとんどは震災後の日常生活

を取り巻く自然の

営みにそのテーマ

を求めたもので

ある(注6)。

ここに

「私はとりあへ

ず前の竹林に避難したが、

それからこれまでの間ず

P

そ、

当時の

白秋

の関心の

ありかが示されてい

る。

つとその簡朴な竹林の生活を続けて来た。

貴いよいよ極って心の冨は

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普満する。

(中略)

/いい生活、

いい

簡素

静観と考察。」(「震災について」・『詩と音楽』大正十二年十月)という生活の中から生まれた小

かといへ

ばデリケートなものである。

それへ

今度はもっと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新に加はるやうになるかも知れない。

文である。

ここに記された思いは、

決して強がりでも外面的体裁でも

(

中略)

また、

大地

震後の東京は、

よし

復興するにせよ、

さしあた

なかっ

たはずである。

既に、

「思へ、

象徴若くは伝神の至妙境にあっ

り殺風景をきはめるだらう。

そのために、

我々は在来のやうに、

ても、

絵画の一

線は飽くまで正確に、

詩の一

語は飽くまで簡素なるべ

界に興味を求めがたい。

すると我々

自身の内部に何か楽しみを求め

き事が、

即ち東洋芸術の最高最上の真諦ではないか。(中略)

微風は、小竹の葉の揺れを以て、初めてその姿を示現する。小竹の葉はあまり

るだらう。

すくなくとも、

さういふ傾向の人は更にそれを強めるであらう。つまり、乱世に出会つた支那の詩人などの隠栖の風流を楽

に繊細に、

そのそよぎも亦あまりに複雑限りなきを以て、

まことにそ

しんだと似たことが起りさうに思ふのである。(中略)

前の傾向は

の姿は幽かにして捕捉しがたい。

幽かなる幽かなる詩の韻律

は、

ただ

多数へ

訴へ

る小説をうむことになりさうだし、

後の傾向は少数に訴

心を以て神を伝ふるのみである。

かくの如きはただ匂を匂とし、

響を

る小

説をうむこ

とになる筈で

ある。

響とする。

月の

夜な

らばなほさ

らで

ある。L(「芸術の

主として

詩について」,

『詩と音楽』

大正十一

年九月初出、

後に『水墨集』

の序

木俣は「事実文壇ではいろいろな変化が具現されていっ

た」

と記す

文として収録)

と宣言した白秋に、

竹林での簡素なる暮らしをせざるを得ない状況が訪れたわけである。よって、ここから生み出される作

にとどめているが、

ここで芥川の言う「後の傾向」

は、

ある意味

で白秋にもあてはまるものである。ただし白秋の場合、既述してきたよう

【88

品も当然のごとく東洋的色彩の濃い、

「静観と考察

に基づいた簡素

に、

震災が招いた質素な生活の中で日本の文芸を進むべ

き方向を再確

[

小品となっ

てい

くので

ある。

認し、

尚一

層「幽かなる詩の韻律」

を希求してゆくことを決心するの

である。

その白秋の意識の変遷過程の一

端は、

「震後」

と題された俳

句(大正十三

年一

月『石楠』

所収)

にも表れている。

全三十八句のう

ちの数句を掲げてみよう。

木俣修は、

震災の文壇・

歌壇に与えた影響を述べるに際し、

芥川龍

その瞬間

之介の「震災の文芸に

与ふる

影響」

引用している(注7)。

引用が

長く

なみ強し一

命虫の声に通ず

なるが書き留めて置こう。

木菟の家刻々に傾く、

二句

朝咲いて昼間の芙蓉震絶

えず

災害の大きかっただけにこんどの大地震は、

我々作家の心にも太き

日は閑に震後の芙蓉なほ紅し

動揺を

与へ

た。

我々

は、

はげしい

愛や、

憎しみや、

憐れみや、

小閑、

安を経

験した。

来、

我々

のとりあつ

かっ

た人間の

心理は、

ちら

茶の花にあはい余震を感じてる

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1」-

-

1.

茶の花や慰問の浴衣さがる頃

みつ

水は濁れても

隣寺全潰の後いよ

くあはれなり、

二句

岩魚はひそむ。

秋つひに秋海渠

も咲かざりき

さは

沢の真葛

にや

この秋におい

らんさうの皆しろし

つき月

がさす。

今は、

れらの俳句作品としての出来不出来を

問題にするつもりは

2

ない。

最後まで

白秋の俳句・

連句は余技の域を出ることはなかっ

たか

やま

山は壊んでも

鰍漁の獅震厭関一

らである。

ただ、

確かなことは、

短歌・

民謡など

よりも凝縮された言葉で、まさに「幽かなる韻律」で震災後の身辺の自然現象をすくい取ろうと懸命になっている白秋の姿があるということである。この後も俳句を本格的な創作対象とすることはなかったが、被災生活の中で句作を試み、俳句結社誌に発表したということは、当時の白秋の関心の有りようを探るためには忘れることのできない事実である。四

やまかご

駕、

笠、

あめ

雨にや

着てゆく

一」

菰もある。

みち

道は壊んでも

すす}¢薄

はそよぐ、

せき

しょ

もとの関所は

うま

馬で越す。

一89

究翻馳北

次に、

震災後の生

活の

中から生まれた昆謡を見てみよう。

「地

震年」と題して歌謡集『あしの葉』に収録された(注8)五編の作品のうち、二編を記す。

今年

や地震年、

地に地が割れた。

まめがき

あかい豆柿

なぜ熟れた。

1

がけ

崖は壊んでも

りもだう

竜胆はつぼむ。

みち

道の根ささにや

つゆ露

がのる。

かき柿

のもみちは

あか

実よりも赤い。

距ぐ

♪■

おらがお里は

さむ

また寒い。

,

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だんだん

懐えた

段段田に、

こ稲扱き、

しご

き、

しぎ

しざ

田鴫、

立つ

鴫、

不易性ある民謡

を目指していたことが読み取れよう。

それを実現するために試行錯誤した結果、「悠久にして常に新しきは大自然の実相であり、永遠にして真純なるは根本に於ける人間性である。」というと

見て

暮らす。

ころまで到達していたのである。

だがこれは、

民謡創作の心得という

以上に深い

意味を有する言葉である。

というのも、

彼のこの時期以降

民謡においても地震そのもの、

あるいは地震の被害や震災による悲

の創作活動の根本理念となっ

てゆくものだからである。

の晟謡講

しみ・

苦しみを直接

的に表現した作品は見当たらない。

被災後も以前

も、

先に

引い

水墨

集』

蹟文、

まり、

「まこ

とに正

しく

高く

常に

と変わりようのない生活、

震災後

にも無情に訪れる季節のめぐりが、

慶ましき観相こそは尚ばるべ

きである。

境涯の詩がここより生まれ

農民の立場から詠まれているに過ぎない。

れらの作品を支える、

る。

とい

思想と

根のも

のであっ

た。

う考える

ならば、

不自然

時の白秋の民謡観は次のようなものであっ

た。

なほど静誰な震災歌も、

虚無界の一

事の寸描を試みた俳句も、

そして

民謡も、.

それまでの多岐に渡る仕事を震災という逆境のなかで一

本の

民謡は民衆の歌謡である。(くどく云ふやうであるが)。

その時代

根に集約し、

新たに具現化してゆく過程で生み出された作品群であっ

の民衆の生活感情をその時代の民謡を以て謡ったものである。

而も

たと言えるだろう。

先に芥川の言葉を引用した所以である。

民謡の本質は永遠の人間感情にある。

すぐれた民謡は凡てこの不易

90

性を帯びて居る。

で、

如何なる民謡も一

時きりの世相を歌ったもの

は、

如何に颯刺的であり反抗的であるものにせよ、

その一

時きりで

滅びてみる。

ただ文献に留るだけで

永続して伝唱されもしなけれ

その

.

本の根は、

白秋が傾注していたもう一

つの仕事、

童謡創

作と

ば、

後世

の民衆的

感興をも惹いてない。(中略)

児童詩の指導にまで伸びていた。

そうでなければ、

子供の書いた

如何なる時代を通じても悠久にして常に新しきは大自然の実相で

(児童自由詩応募作品)

に対して次のような選評が出てくるとは考え

あり、

永遠にして真純なるは根本に於ける人間性である。

薙に立脚

い。

してこそ不易性の民謡たり得るのである。(「時代相と民謡

白鳥省

吾吾の批難に

対して(、一)」、

人正

十二

年一

月『詩と

音楽』)

勝田さ

んの「

死んだ

海がに」(注9)

のさ野

なみに

動かされ

なが

ら死

んでみるとはよ

く観ま

した。

の境地を見るだけで

なく、

深く知

自秋は、

艮衆

詩派との一

連の論争の中でもとりわけ白鳥省吾からの

ることの出来る人はよほどすぐれた詩人でなければなりません。

攻撃に対しては築力を緩めることなく徹底的に応戦し続けている。

で、

すぐ

れた

詩で

なけ

ればな

りませ

ん。

で、

すぐ

れた詩人とい

の文章もその一

節だが、

当時の白秋の、

民謡についての考えが明快に

のは、

こ」

還って

くる

んです。

子ど

もた

ちと

観る

とこ

ろは

示されてい

て興

味深い。

ここか

ら、

彼は「永続して

唱され」

るべ

同じですが、

感覚以上の深い心から見ます。

子供たちは観るとこ

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ろは観るがまだ知りません。

た§

直面は為得るのです。

こx

ママ

白いのです。

この場合これは悠久な大自然界そのものの象であ

内面の究極を

行き来させることになる。

まり全き光と全き闇が

白秋内部に何の矛盾もなく存在する。存在するが、我も物も介在しない

り、

老荘の無為であり、

仏の寂滅であります。

(『赤い

鳥』

大正十

ため、

これといっ

た手ざわりがない。

きおい

観念性を

帯び、

宗教性

三年三年二月)

すら招き寄せる。

」(『北原白秋

大正期童謡とその展開』

大日本図書

児童

詩を日前に、

その子供の直観が「悠久な大自然の輿」「老荘の

九八七年)

あくまでも大正期童謡の展開をめぐっての論であるが、あらゆるジャンルに渡る白秋の創作活動のかなめを捉えたことば

為」

「仏の寂滅」

に触れている点を面白い

と言う。

自秋はここ

で児

として首肯される

ものである。

確かに、

の後の作品には観念性・

童詩の一

つ一

まで

丁寧に

読み込み、

それぞれの

作品とじっ

くり対話

教性を帯びたものが増えてゆく。

それも東洋的幽玄

の世界を指向し、

をしている。

だが、

そこから撫でくる言葉は、

常小学校六

年生の児童へ贈るものとしてはとても適切とは言えまい。それを敢えて記して

「幽かなる幽かなる詩の韻律はただ心を以て神を伝ふる」(前掲

)

ことを人前提とした作品が紡ぎ出されてゆくのである。関東大震災による

原北

いる

点に、

彼の芸術観・

児童詩観が変化していたこ

とが示されていよ

半壊状態

の家屋での、

庭の竹林での沈思黙考の一

時期

がなければ、

の下

う。

それは

結局、

次のよ

うなところへ

落ち着いてゆ

くこととなる。

違っ

た理念に基づいた道程を歩み

出すことになっ

ていたのかも知れ

災震大束関一

究噺

わたくしはこの

頃つくづ

く思っ

てみる。

わたくし

自身が童

謡を作るについても、別に今更児童の心に立ち還る必要も無いのだと。詩を作り歌を成すと同じ心で、同じ態度であってよいのだと。思ふに、自然観照の正しさは、まことに思無邪の物我一如の境に

ない。白秋

は、

大正十三

年四月創刊の同人雑誌『日光』

に主要メンバ

ーとして加わる。『詩と音楽』が震災で廃刊となったが、ここで再び作品発表の場を得、他方面に渡る旺盛な創作活動を再開する。また、昭和元年五月には小田原を引き上げ、東京へ転居している。これによっ

「91一

於て、

初めてまことの表現を

得る

のである。

すで

にその

境涯にあっ

て、

生活・

執築活

動等外

面的には震災からも一

応立ち直るこ

とになる

て観、

識り、

歌ふ

時に、

そのまま

の心の

状態に

於て、

詩に

も歌に

が、

その後の騒旅詠の増加、

自然観

照の深まり、

更なる東洋的世界へ

も、

童謡

にも流通するところはただ一

つであるべ

き筈ではなかろう

の傾斜等を考える時、

震災が彼の内部にもたらした文学的影響は

計り

か。(「童

謡について」、

大正十五

年五月『日光』) .

知れないものがあっ

たと言わさるを

得ないのである。

自秋がこのような詩境へたどり着いた要因を、

佐藤通雅氏は二点指

摘する。

「一

は気配・

匂いへ

の嗜好がい

よい

よ深くなっ

たことだ。

1

正式には、

小田原町十字二丁目三三五番地。

現・

小田原市城山四丁目

二つは児童白山詩の指導を通じて、

児童詩の高い達成に自信を得てい

.

九。

たことだ。

もっ

ともこの二つは密接に関係してい

る。

気配・

匂い

2

昭和二年九月三十日神奈川県発行。

発見には我と物からの自由が前提としてある。

その自由が外向

の究極

3

秋ほ

片山

伸・

岸辺

雄・

山本

鼎の

編集に

よる

ので

あっ

た。

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4

第二巻第一

号(大正十二

年一

月一

日)

には「弱陽の崖」

六十三首、

三号(同三月一

日)

には「半島の早春

三崎吟行百三十七

首」、

同四号(同

四月一

日)

には「早春の行楽」

百九十三

首、

同五号(同五月一

日)

には

「山荘の晩春」

七十五首、

同七号(同七月一

日)

には「

初夏

の印旛沼」

十三首、

同八

号(同八月一

日)

には「信濃高原の歌」

二百六十七首を発

る。

5

これらの論争については、

杉本邦子著「白

秋と『詩と

唐楽』」(『北原白

秋研

究1

「ARS」「近代

風損」

など一

平成六年・

明治書院、

所収

)

他において詳細に考察されている。

6

「天意下る」

首のみ性質を異にする。

掲載誌の性質を考慮して作歌さ

れたものであろう。

そのため、

震災の本質に触れぬ空想歌に終始してい

ると言わざるを得ない。

7

『大正短歌史』

朋治書

院、

昭和四十六年刊。

8

大正十三年二月『現代』

の初出では、「民謡おらがお

里」

の総題が付さ

てい

る。

92

9

ここで選評

の対象

となっ

ているのは、

次の作品。

「死んだ海がに(推奨)

千葉県

東金

小学校尋六

勝田ふさ

小さい

海がにが死んでみる。

さ樽

に、

うこかされながら、

る。

*テキストは、

白秋全集

(岩

波書店)

に拠っ

た。

(にしやま・

はるふみ

商学部助教授)