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謡曲『定家」の歌結び考 - 立命館大学...時代に出た「謡抄」では、〈北は冬の方なるにより、北時雨とい (1) へり。〉とし、江戸時代の『謡曲拾葉抄」には、〈時雨は北より隆

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Page 1: 謡曲『定家」の歌結び考 - 立命館大学...時代に出た「謡抄」では、〈北は冬の方なるにより、北時雨とい (1) へり。〉とし、江戸時代の『謡曲拾葉抄」には、〈時雨は北より隆

能作者・金春禅竹二四○五~一四七○頃)の作とされる謡曲

「定家」(式子内親王と藤原定家の悲恋・恋の妄執の物語)には、

定家の歌集『拾遺愚草」よりの引用があり、本曲における定家の

歌の重要性が窺える。禅竹は、その伝書「歌舞髄脳記」『五音三

曲集』「明宿集』において、夫々〈歌は此道(申楽家風の道)の

命也〉〈申楽舞歌の音曲習道と者、和歌を以て源とす〉〈和歌ハコ

し猿楽ノ命ト尊ムベシ〉と、歌道が能楽道の根本であることを示

(1)

している。そして「歌舞髄脳記』所収の例歌の過半数、ならびに

は、歌道尊重と共に定家への傾倒があったことは明らかである。

選び、それらを含む和歌を『新編国歌大観」所収の歌集(歌論・

物語を含む。但し「萬葉集」ならびに長歌は省略。)より採り、

(4)

さて禅竹は、『定家」の能作に当たって、特定の和歌を想定し、

そのうち特記すべきと思われるものを例示した。対象歌集は、禅

また和歌の意識がなくても自身に染み込んだ和歌や連歌の記憶か

竹の没年頃以前に成立のものとした。

『五音三曲集」所収の殆どの例歌と歌体の説明は「三五記』から

(2)

の引用である。「一一一五記」を藤原定家の箸と信じたであろう禅竹

謡曲『定家」の歌結び考

出来、また能作についての新しい知見が得られると考えられる。

勿論、明らかな引用和歌以外は、この手法で得られた和歌のみを

ら詞章を導き出したことと思われる。従って今我々が謡曲の詞章

にある特定の語句即ちキーワードを含む和歌を具体的に選び出す

以って直ちに作者の創作意図を付度する)

ことによって、

を進めてみた。

どのような関連の和歌があるのかを確かめようと思い、

はこの問題を十分に認識しつつも、一謡曲「定家』の詞章について

本論における使用テキストの底本は「宝山寺蔵・伝禅鳳自筆本」

[3】

である。以下、小段別に、枠の中に示した本文よりキーワードを

当時の歌を中心とする文芸環境を展望することが

今井孝子

)とは困難である。この作業

筆者

Page 2: 謡曲『定家」の歌結び考 - 立命館大学...時代に出た「謡抄」では、〈北は冬の方なるにより、北時雨とい (1) へり。〉とし、江戸時代の『謡曲拾葉抄」には、〈時雨は北より隆

時代に出た「謡抄」では、〈北は冬の方なるにより、北時雨とい

(1)

へり。〉とし、江戸時代の『謡曲拾葉抄」には、〈時雨は北より隆(2)

くる物なれは北時雨とは云也但北時雨とよめる歌未考〉とある。

「時雨、定めなかるらん」については、「神な月ふりみふらずみ定

一山、北時雨」もしくは一北時雨」の語句は、正徹の「窓あけ

てむかふ嵐の北時雨はれゆくみれば雪の山のは言草根集』50

25)」の歌、唯一首にしかない。謡曲の最も古い注釈書で桃山

1ワキの登場

くへや定めなかるらん。

「山、北時雨」

ワキ・ワキ迎「山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行

に上る)

(4)『新編国歌大観』(角川書店)

(3)横道萬里雄・表章校注『日本古典文学大系凸「謡曲集

(2)佐左木信綱編「日本歌学大系四」「三五記」(風間書

(1)表章・加藤周一校注『世阿弥禅竹」「禅竹」(岩波書

房、-ゾ

曲集[長禄四年(1460)奥書]一一明宿集[奥書なし]一

下」「定家」(岩波書店)

店)一歌舞髄脳記[康正二年(1456)奥書]一一五音三

謡曲『定家』の歌結び者

もしくは「北時雨」の壷

(北国の旅僧・ワキが同行の僧.ワキ連と共に都

関連する歌、僧正遍昭の「さとはあれて人はふりにしやどなれ

や庭もまがきも秋ののらなる二古今和歌集』248.「遍昭集』

ここに時雨亭にまつわる定家の歌が主題歌の一つとして引用さ

れている。即ち、「偽りのなき世なりけり神無月たがまことより

しぐれそめけん言続後拾遺和歌集』415.『拾遺愚草」24

20など七歌集とは「連珠合壁集」「庭トアラハ」の証歌とし

るのは「拾遺愚草』のみであることが注目される。

08など六歌集)」。六歌集の中で、詞書に「私家」を入れてい

ど八歌集上があり、この歌は(3)

の証歌として挙げられている。

3シテ・ワキの応対(所の女・前ジテが現れ、定家ゆかりの時

2ワキの詠嘆

めなき時雨ぞ冬の始なりける

庭も雛もそれとなく、荒れのみ増さる草叢の、露の宿りも枯

れがれに、物凄き夕べなりけり、物凄き夕べなりけり。

地「げに定めなや定家の、軒端の夕時雨、古きに帰る涙かな。

無月、誰がまことより時雨初めけん、その事書きに私の家に

シテ「時雨時を知るといふ心を、偽りの、なき世なりけり神

てと書かれたれば、もしこの歌をや申すべき

雨亭の由来を教える)

雨に雨宿りする)

れ (旅僧は冬枯れの都の眺めを詠嘆し、

の歌をや申すべ

(読人不知

読人不知「後撰和歌集』445な

「連珠合壁集」で「時雨トアラハ」

折からの時

五七

11

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て挙げられている。

もなし(読人不知「古今和歌集」709・『伊勢物語」200

3585)」。また、「葛這ひ」については、「伊勢物語」第百十八

段の「たまかづらはふ木あまたになりぬればたえぬ心のうれしげ

「蔦葛這ひ」の語句は、正徹の歌一首のみにある。即ち、「色か

はる岡のくずやの蔦かづらはふ木あまたに秋風ぞ吹く言草根集」

4シテの物語(女は旅僧を葛の這い纏う式子の墓へ案内し、式

など五歌集こがある。

「忘れぬものをいにしへの」の語句は次の二首に見られる。即

ち、「さすがよも忘れじものをいにしへも人やはいひし世々のか

ねごと(頓阿『草庵集」1062)」「みしこともわすれ忘れぬい

べく(業平『新勅撰和歌集』942.『伊勢物語」23など四

歌集この歌に見られる。

4)」「心の奥、信夫山」の語は、『伊勢物語』第十五段の、

「しのぶ山しのびてかよふみちもがなひとのこころのおくも見る

にしへのつづかぬ夢ぞみなあともなき(正徹「草根集』1045

蔦葛這ひ纏ひて形も見え別かず、これはいかなる人のしるし

ワキ「不思議やなこれなるしるしを見れば星霜古りたるに、

にて候ふぞシテ「これは式子内親王のおん墓にて候、

道芝の、露の世語り由ぞなき。

地「忘れぬものをいにしへの、心の奥の信夫山、忍びて通ふ

子と定家の恋物語を話す)

しのぶることのよわりもぞする言新古今和歌集』1034.

関連の歌に「あひみての後の心とくらぶれば昔は物を思はざり

lけり(敦忠(『拾遺和歌集」710.『敦忠集』143など十

る○

「式子内親王集」319など九歌集こをそのまま引用してぃ

られ、何れも定家の歌である。(右の歌の外は、『拾遺愚草」23

57.2370)。「袖の涙の身の昔」については次の歌がある。

即ち、「面影のかすめる月ぞやどりける春やむかしのそでのなみ

だに(俊成女「新古今和歌集」1136.「俊成卿女集」202

「クセ」の始めに定家の歌「あはれしれ霜よりしもにくちはて

て四代にふりぬる山あゐの袖言拾遺愚草』2713)」が主題歌

など十一歌集)」。

の一つとして引用されている。「霜より霜に」の語句は三首に見

一歌集)」がある。

詞章の文言は式子

シーナ「今は玉の緒よ絶えなば絶えねながらへぱ、地「忍ぶ

詞章の文言は式子の歌「たまのをよたえなばたえねながらへば

ることの弱るなる、

地「あはれ知れ、霜より霜に朽ち果てて、世々に古りにし山

シテ「昔は物を思はざりし、地「後の心ぞ果てしもなき。

藍の、袖の涙の

給ふ身なれども、神や受けずもなりにけん、人の契りの、色

地「憂き恋せじと膜せし、賀茂の斎きの院にしも、そなはり

に出でけるぞ悲しき

こhでするぞ悲しき。

白勾の珪日、

院にしも、そ

五八

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もふかぬみそぎはしでもなぴかず

など二十歌集この歌にある。

きそめてけふぞすずしきかものかは風(慈鎮「夫木和歌抄」25

16・『拾玉集」1638など四歌集)」「賀茂山や朽ちしいつ

きの宮柱たてるは春のかすみなりけり(正徹「草根集」163)」

りにけらしも(読人不知「古今和歌集」501・「伊勢物語』1

にのみ見られる。「恋せじ、膜、神や受けず」は『伊勢物語」第

六十五段の歌「恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞな

し留めん(宗貞「古今和歌集』872.『遍昭集』10など十

三歌集)」が引用されている。この歌は、『歌舞髄脳記』「女体」

の項で、「これは天女がかり。此姿、皆此心。」とある証歌であ

る。

に見られる。「色に出」は、「三五記」にも挙げられている

ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで

19など二十歌集とにあり、「謡抄」にも挙げられている。

「賀茂、斎きの院」の語は次の二首、「むかしよりいっきの宮にふ

『拾遺和歌集」622.『兼盛集」102・「三五記」200

葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、

地「雲の通ひ路絶え果てて、少女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きも

室憂き恋、膿」の語句は正徹の

シテ「げにや嘆くとも、恋ふとも逢はん道やなき、地「君

ろともに。

ここでは遍昭の「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しば

謡曲「定家』の歌結び考

「神ぞうき恋にしなとの風だに

言草根集』7188)」の一首

「しの

(兼盛

の歌は本曲の最重要箇所(「クセ」の「上ゲ端」)に置かれた主題

歌である。「謡曲拾葉抄」は、この歌が定家の式子に対する恋の

歌であると記している。本文にある「葛城の峰の雲」の語句は、

どの歌集にも見出せない。しかし『拾遺愚草』にいう「葛城の峰

づらきの峰のしら雲(「拾遺愚草」2604)」の引用である。こ

の白雲」の語句は、この歌の外にはただ一首、正徹の歌「よそな

がらかけてぞ思ふをとめごが花かづらきの峰の白雲(『草根集」

21)」。本文の「練」以下は、「鰊」「髪」「結ぼほれ」「露」「霜」

「消」と連歌の寄合語の連続である。

5シテの中入(女は旅僧に本性を明かし、救済を乞うて墓に消

える)

021.8071)。正徹の歌より一首を挙げれば、「山と成る枕

のちりの二かみはへだつる雲にむすぼほれつつ(『草根集』70

『賀茂保憲女集」202.道綱母「蜻蛉日記」108・後伏見

『臨永和歌集』347.正徹「草根集」2294.3766.7

6977)」に見られる。

純の髪も結ぼほれ、露霜に消え返る、妄執を助け絵へや。

地「思へばかかる執心の、定家葛と身はなりて、このおん跡

「髪、結ぽほれ」は正徹の四首を入れ七首に見られる(保憲女

にいつとなく、離れもやらで蔦もみぢの、色焦がれ纏はれ、

この詞章は定家の歌「なげくともこふともあはん道やなき君か

露霜

給へや

五九

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五歌集この歌があり、これは『連證集」にある、

(1)

句に、あやとつけ侍〉るの証歌である。「浅茅生」

生や袖にくちにし秋の霜わすれぬ夢をふく嵐かな(通光「新古今

和歌集」1564など四歌集とがあり、この歌は『歌舞髄脳

記』『五音十体』「五音三曲集」更には「謡曲拾葉抄」にも挙げら

れている。

たむら山もこえずなりにき(諸実「後撰和歌集」

6アイの物語(所の男・アイが恋物語の詳細と墓に這い纏わる

定家葛の由来を語る)[補]

8後ジテの登場(後ジテ・式子の霊が定家葛に呪縛された姿で

墓より現われる)

7ワキの待受(所の男の勧めによって旅僧は式子の霊を弔う)

身たれやらん、シテ「たれとても亡き身の跡は浅茅生の、霜

地「けふも程なく呉織(くれはどり)、怪(あや)しやおん

「呉織、怪」について、「くれはどりあやに恋しく有りしかばふ

に朽ちにし名ばかりは、残りてもなほ由ぞなき、

シ}プ|

下道。

『謡曲拾葉抄』には、〈是は古歌鍬未考〉とあるが、「夢、闇の

了「夢かとよ、闇の現つの宇津の山、月にもたどる、蔦の

力とよ

怪(あや)

iも

712

’12など十

〈くれは鳥と申

以下は、「浅茅

982.『拾遺愚草』2308など七歌集)」を引用

従って、本文は特定一首の引用和歌よりというよりも、

山辺のうっつにも夢にも人にあはぬなりけり(業平「新古今和歌

集」904・「伊勢物語」11など六歌集)」を引き、『連證集」

では、「夢うつつ」の項で、「伊勢物語』第六十九段にある次の二1

首を引用している。即ち、「君やこし我や行きけむおもほえず夢

歌集)」を出し、「連珠合壁集」は「蔦トァラどの項で定家の歌

Il

「都にも今や衣をうっの山ゆふ霜はらふ蔦の下道(『新古今和歌集』

現つ」は

か現かねてかさめてか(読人不知「古今和歌集」645・『業平

集[在中将集]」48.「伊勢物語」126・「業平集[御所本豈

3など八歌集)」「かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは

一」よひさだめよ(業平『古今和歌集』646・「業平集[在中将

数の歌より合成されたものとも考えられる。

はちたのほそみちと申句にうつの山をつけ侍〉る証歌として雅

「11

経の歌「ふみわけし昔は夢かうつの山あととも見えね蔦の下道

さらざりけり(読人不知「古今和歌集」647など九歌集とI

にある。「謡抄」は「伊勢物語」第九段の歌「するがなるうつの

集豈49.『伊勢物語」127など七歌集)」

言続古今和歌集』915.「明日香井和歌集』1004など四

シテ「昔は松風羅月に言葉を交はし、翠帳紅闇に枕を並べ、

ワキ「さまざまなりし情の末、シテ「花ももみぢも散りぢり

に、ワキ「朝の雲シテ「夕べの雨と

「むばたまのやみのうつつはさだかなる夢にいくらもま

亘を引用している。

うよりも、これら複

なお、「連珠合壁集」

_L公

ノ、

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抄』115.「伊勢物語」4など八歌集)」にも、この「思」

「思」の語が見られる。そして「伊勢物語』第三段に見られ、「連

珠合壁集』「葎トァラバ」の項で引用されている歌「思ひあらば

葎の宿に寝もしなむひしきものには袖をしつつも(伊勢男『袖中

1)にあるが、「朝の雲夕べの雨」の語句を含む歌は、正徹の「今

朝の雲夕は雨となる山もおなじかたみのなでしこの露(『草根集』

れて三首に見られる(他の一一首は、狭衣「狭衣物語』99.尊位

「朗詠題詩歌」89)。正徹は、「葎の宿」を入れた歌を、右の歌

の外に四首言草根集」1140.6669.7376.844

4)詠んでいるが、これら五首には、何れも「葎の宿」と共に

「草、葎の宿」の語句は、正徹の一首「さしこもるむぐらの宿

の思草はひあふ床はねんかたもなし(「草根集」6406)」を入

雲、夕、雨」は、正徹の四首を入れて七首(良経「夫木和歌抄』

夕暮(「新古今和歌集」363・「拾遺愚草」135など七歌集)」

2660亘一首のみである。

がある。「花、紅葉、散」の語は、連歌「莵玖波集」巻第十四に、

(5)

「花紅葉いつれも散を借む間に(一一口叩法親王)」が見られる。「朝、

290.正徹「草根集」1308.1919.2660.854

17051・後九条内大臣「六華和歌集』980・政範「政範崖逵

る定家の歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の

なき定家葛、

地「なになかなかの草の蔭、さらば葎の宿ならで、外はつれ

「花ももみぢも」については、「新古今・三夕の歌」の一つであ

謡曲『定家」の歌結び考

「葛城の神、夜の契り」については、百はぱしのよるの契りも

たえぬくしあくるわびしき葛木の神(小大君『拾遺和歌集」12

01.『小大君集』12など二十五歌集)」があり、この歌は

9.4078.8375.8377.8454)に見られる。そ

の内一首を挙げると、「よしさらば雲だに月の顔かくせみるらん

恋の袖のやつれを(『草根集」8375)」。

「葎の宿」の語句がある。因みにこの歌は、

(6)

物雪叩七箇秘伝』の第一に挙げられている。

、結末(式子の霊は墓の中に入り、定家葛は墓石に這い懸る)

皿シテの舞事(報恩の鋒)

9ワキ・シテの応対(旅僧の薬草楡品読論により、式子の霊は

解脱の身となり喜ぶ)

定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり。

もとのごとく、這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、

地ヲたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしや由なや、夜

「月の顔」の語は、正徹の五首のみ(正徹「草根集』148

「曇りがちに、

の契りの、夢のうちにと、ありつる所に、帰るは葛の葉の、

やな、シテ「もとよりこの身は、地「月の顔ぱせも、シテ

シテ「面無の鋒の、有様やな、地「面無や面映ゆの、有様

埋もれて、失せにけ

後代いわれる「伊勢

一ハ’

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して、また『連珠合壁集』「岩橋トアラバ」の項で引用されてい

‐l

ろ。「夢」「帰る」「葛」の各語は、「葛の葉の恨にかへる夢のょを

5・「俊成卿女集』199など四歌集ご」

「l‐

真葛ふるき世にかへるもかるる暁の夢(正徹

わすれがたみの野べの秋かぜ((俊成女『新古今和歌集」

歌集』850・左衛門佐「東撰和歌六帖抜粋本」352・正徹

「草根集」3573.6573)に見られる。うち正徹の一首を

挙げると、「かた岡の松の雪まのおも影はかへる葛はの月の下か

ぜ(『草根集」3573)」。また「葛の葉、這ひ」は、正徹の三

6)」の二首にのみ見られる。その他、「帰るは葛の葉」の語句は、

正徹の二首を入れて五首(為尹「為尹千首」493.親教「新和

「連證集』の〈夜の契と申句にくめの岩橋をつけ侍〉るの証歌と

首を入れて七首(能宣「後拾遺和歌集』1151.為尹『為尹千

首』493.公朝「拾遺風体和歌集」382・雅世「雅世集」8

50・正散『草恨集-2209.3581.6249)に見られ

50.正徹『草根集」o

る。うち正徹の一首は、

きあまたの横雲のそら

(1)芸能史研究会編「日本庶民文化史料集成第三巻』(三

一書房)「謡抄」{定家一[文禄四年二五九五)]

(2)犬井貞恕著「日本文学古註釈大成」

「謡曲拾葉抄」|定家一[明和九年二七七二)]

(3)木藤才蔵・重松裕已著『連歌論集(二』(三弥井書店)

言草根集』2209)」である。

「葛の葉のかからぬ嶺のしげみにもはふ

(日本図書センター)

】今荊部集』156

「亡しられぬふる野の

「草根集」1031

如く、摘出和歌数の最も多い歌人は正徹(百四十五首)であり、

次いで定家(七十八首)が際立ち、以下、為家・宗尊・慈円・雅

有・家隆の順となっている。次に、多数の歌集に採られている歌、

ないものなど、特記すべきと思われるものを例として示した。次

以上、枠の中で示した本文より、引用和歌、多数の歌集に採ら

れた和歌雨ならびに一つのキーワードを含む和歌の数が極めて少

特に四歌集以上に採られたものの数を歌人別に見てみると、定家

(十五首)が突出し、以下、家隆・俊成女・良経・雅経が続いて

|】、

いる。また歌集別には、「古今和歌集」より十二首、「伊勢物語』

「連珠合壁集」[文明八年(一四七六)一条兼良著]

(4)金子金治郎・山内洋一郎編「中世文芸叢書4」「鎌倉末

期連歌学書」(広島中世文芸研究会)一連證集一[鎌倉末期

(一三○○)頃?著者不明]

(5)金子金治郎著「莵玖波集の研究』「広大本莵玖波集」

(風間書房)[延文元年・正平十一年(一三五六)頃、二

条良基撰]

(6)片桐洋一箸「伊勢物語の研究」[資料篇](明治書院)

彰考館文庫所蔵「伊勢物語七箇秘伝」(宮内庁書陵部所蔵

「伊勢物語七箇秘訣」で校訂)

キーワードを含む得られた和歌全体を見てみると、

表に示す

であり、

一ハ一一

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より九首が採られて居り、

「伊勢物語」

伊勢語

古今集

良俊家成

経女隆

雅 定 家雅慈宗為定

詞臘経 家 隆有円尊家家

謡曲「定家』の歌結び考

の投影を見ることが出来る。

四 六三○ 1

戸一、

六○九九 3些孕

 ̄、

一ハ一

四五 これらより本曲における

一ハ

五 五三八 4_〆

五 5

沙 ̄、

=四 五 ○ 五○五一五六 8

11

「古今和歌集」

一、

二九四 四五五五七四三○一九八五五五五 計

うち、正徹の歌の占める割合が多い(例えば全三首に対し正徹の

歌一首以上)語句は、「賀茂の斎きの院」「忘れぬものをいにしへ

語句が正徹の歌にのみ見出されるものが幾つか得られた。

出して多いことである。次に特筆すべきは、正徹については他の

古歌のように多くの歌集よりの歌は採り得ないものの、選ばれた

の」「憂き恋」「契りの色」「葛城の峰の白雲」「髪、結ぼほれ」、

「朝、雲、夕、雨」「草、葎の宿」、「夢、帰る、葛」「帰るは葛の

「北時雨」「蔦葛這ひ」「憂き恋、膜」「朝の雲夕の雨」「月の顔」

などである。また一つのキーワードについて採録した和歌全数の

そしてこれら「拾遺愚草」「古今和歌集」『伊勢物語」の歌と共

に、禅竹と同時代に生きた歌僧・正徹(一三八一~一四五九)の

歌集「草根集』も見逃すことは出来ない。即ち先ず注目されるこ

とは、右に述べた通り、摘出された歌の数が、他の歌人に比し突

る。しかもそれらが曲の中心部分「クセ」に置かれている所に、

禅竹の定家の歌に対する強い思い入れが感じられるのである。

もあはん道やなき」は、夫々「拾遺愚草』のみに見られる歌であ

と考えられる殆どの歌が多くの歌集に採られている中で、定家の

二首「あはれ知れ霜よりしもに朽ちはてて」「なげくともこふと

に多く、三首の引用和歌の存在と相俟って、本曲における「拾遺

愚草」の寄与は十分に認められる。なお、本曲において引用和歌

また例えば四歌集以上に採られた歌の数が他の歌人に比べて格段

前述の如く定家の歌については、摘出された和歌の総数が多く、

一ハーニ 即

ち、

Page 9: 謡曲『定家」の歌結び考 - 立命館大学...時代に出た「謡抄」では、〈北は冬の方なるにより、北時雨とい (1) へり。〉とし、江戸時代の『謡曲拾葉抄」には、〈時雨は北より隆

葉の」、「葛の葉、這ひ」などである。従ってこれらより本曲にお

ける正徹の歌の特異な存在が認められるのである。

くた、0

「招月正徹詠歌』

之本尊躰翁面(1)

ろもそ〉とある。

ぱ、歌論集「正徹物語」「東野州聞書」には、定家に心酔した正

(2)

徹の一一一口葉が見られる。また定家の歌集の書写も行っている。更に

(3)

「伊勢物塞叩』について、正徹は多くの書写・加注を行っている。

そして以下述べる通り、正徹が本曲の主題「式子・定家の悲恋物

語」の成立に関わったであろうことが推測されるのである。先ず、

正徹の師で冷泉派の歌人・今川了俊と血縁関係にあり、正徹やそ

の弟子・正広とも親交があった今川範政(一三六四~一四三三)

【4)

が、永享四年(一四一二二)に「源氏物語提要』を作っている。こ

の中には正徹の歌と思われる一首が引用されているが、同書が正

徹にわたり、これを基にして正徹の周辺で源氏物語の梗概書「源

(5)

氏大綱』(A本系)が出来たのではないかといわれている。『源氏

大綱」の成立は永享四年以降とされているが、同書にも正徹の歌

(6)

と田心われる一一首が引用されている。その「真木柱」の項には、式

子・定家の歌(夫々『新古今和歌集」1329.「拾遺愚草員外」

更に正徹について述べるならば、正徹と禅竹は交誼を結んで居

・禅竹は『明宿集」で明らかなように翁・宿神信仰が極めて篇

その求めに応じて正徹は翁面に賛の歌を詠んでいる。

「月草」には、〈金春太夫本尊二賛所望時当座詠

千はやふる神は仏の影なれは翁すかたに法のこ

その正徹は禅竹同様定家に傾倒して居た。例え

即ち

249と若干の異同あり)と共に「定家葛」の由来、即ち本曲の

本説が述べられている。また、永享二年(一四三○)~文明四年

二四七二)頃成立とされる自讃歌古注・広島大学蔵『自讃謡」

では、式子の歌四首(「新古今和歌集」3.368.534.1

329)の注に、式子・定家の悲恋物語が述べられて居り、この

注作者が、「古今和歌集」・「伊勢物置の古註を今川了俊l正徹

(7)

のルートで受容したという可能性が指摘されている。これらの

諸点を勘案すると、特に身分の異なる男女の悲恋讃を含む『伊勢

物語」「源氏物語』に精通し、しかも敬慕する定家の恋歌を絶賛

していた正徹が、本曲の本説の成立に直接関与したという推論も

否定出来ないように思われるのである。

以上に示した通り、謡曲「定家」の詞章より和歌を摘出するこ

とによって、詞章の文言には和歌・歌語が連なっていることが確

認された。そして、得られた和歌を検討した結果、作者禅竹が

「猿楽ノ命ト尊ム」和歌を、文字通り「書キ連ネ謡Zなかで、

正徹の歌がその結び役としての役割を担っているのではないかと

(8)

推測されるのである。

(1)「私家集大成』第五巻「中世Ⅲ」(明治書院)正徹Ⅲ

[月草](歌番号221)

(2)久松潜一編「中世歌論集』「正徹物語」(岩波書店)〈於

歌道は定家を難ぜん輩は、冥加もあるべからず、罰をか

六四

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IIL⑨珀旧口

(3)片桐洋一編

五)坐

また、

には、

書院)によれば、「為相相伝本」

五)並びに長禄二年二四五八)

認識していたことは明らかである。

には、「天理図書館蔵三五記」の奥に見られる正徹自筆の

蹴文の紹介があり、禅竹が傾倒した「三五記』を正徹も

號(昭和二十八年)所収、

外奥書」には、夫々応永十七年二四一

した旨の記事がある。更に、「國語國文」

上は、|

り。以匹

其賛に、

や定家の風〉

[岩波文庫]の

深津睦夫・安達敬子校注「歌論歌学集成』(三弥井書店)

「東野州間書」〈招月の返事に、「我は定家宗にてはっべき

の歌をおもひ出しぬればものぐるひになる心地して侍る

也。〉〈恋の歌には定家の歌ほどなるはむかしよりあるま

じきなり。〉

をうらやみまなぶべしと存侍る也。〉

うぶるべきこと〉なり。〉

謡曲「定家』の歌結び考

、(云々)」〉

以之、招月、

武田本系統の本や天理図書館蔵の古写本に永享十

大津有一箸

しき島の道をきはめてうへぞなきあふがざらめ

〈定家にたれも及ぶまじきは恋のうたなり。〉

「伊勢物語古注釈コレクション

なお、佐佐木信綱校訂「藤原定家歌集」

「本田本・巻中奥書」並びに「本田本、員

〈順徳院のあそばざれける定家卿の影あ

絵所に写させて客殿にかけられたろ、

「伊勢物語古注釈の研究』

〈かなはざるまでも、

田中裕箸「定家仮託書の批判」

に応永一一一十二年(一四二

の正徹奥書が見られる。

〈ねざめなどに定家

○)正徹が書写

第二十二巻第十

(八木書店)

定家の風骨

一、

和泉

(7)

(6)『源氏物語提要」「玉かづらの巻」の歌「いのる恋逢

(5)稲賀敬二編『中世源氏物語梗概書』

中世文芸研究会)

(4)稲賀敬二編「源氏物語提要』[源氏物語古注集成2]

(桜楓社)

前述「提要」

〈言)

は見られないが、「続群書類従」巻第四百一一十二

作亭詩歌」(正徹名)・「丹鶴叢書草根集」(

前者の歌「落梧新月ちらせ猶見ぬもろこしのとりもゐ

すきりの葉そふる秋の三ケ月招月」も『国歌大観」に

一,

七~〆

類歌(6038)が見られる。次に、「大綱」の「桐壷の

巻」「玉かつらの巻」に正徹の歌とされる歌各一首がある。

歌は「国歌大観』(類題本系)には見られないが、前出

「私家集大成』「草根集」(日次系)に同じ「祈恋」の題で

清巌和尚の名で詠まれて居り、

見すはわすれはつせのしるしあれや此ふたみちの二本の

杉」(作者名なし)は『源氏大綱」諸本に、西岸・清岸。

東京大学図書館蔵「定家自筆本」における宝徳二年

四五○)の正徹奥書が紹介されている。

一年(一四三九)

黒川昌享・王淑英編

にて正徹の歌であることが確認される。

某注・広島大学文学部国文学研究室蔵

所収の歌と同じである。

の正徹奥書があることが示され、

「自讃歌古注十種集成』

正徹作と思われる。この

「源氏大綱」(広島

二「畠山匠

(国書刊行

後者の歌は

(桜楓社)

「自讃謡」

六五 ま

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[補]大蔵弥太郎編「大蔵家伝之書・古本能狂言第四巻」(臨

川書店)[虎清本]〈(前略)此アタリニ貴キ御方ノ御座有

リタルガ、其人ノ御夢二見給様ハ、式子内親王ノ御墓一「

懸ケル葛ヲ、何トテ取り雛ルゾ、其葛ハ、定家ノ卿ノ執心

(8)前出、「明宿集』〈和歌一一十体アリ。ソノ中ヨリ品々

葛ト成テ個縛上候程一一、此以後取離ケタラハ、票リヲナサ

縛ヒケル事、誠二畏敷御事哉トテ、取離ル事モ無ク、夫從

此葛ヲ、定家葛ト申習シ侯(中略)又アレ成ルハ、定家ノ

卿、時雨ノ亭ト号シテ建置被し、時雨ノ比ハ申一一及バズ物

ウズルト夢二見へ給ヒテョリ、扱ハ定家執心葛ト成テ、桐

サピ敷折々ハ、アノ亭ニテ御寄ナド読セラレ、御ナグサミ

成被レタルト申〉

句ノ古実ヲ存、五七五・七々ノ句五音一一通ジ、心妙二連

ネ置ケル昔ノ名匠ノ古歌ヲ、書キ連ネ謡う。〉

ノ心分カルトイエドモ、幽玄ヲ以テ先トス。ソレョリ甚

深ノ奥二至ル心アリ。吟詠流水一一似テ滞ラズ、親句・疎

(校合・岐阜市立図書館蔵『天か下長閑にて』)

伝まい・たかこ本学文学研究科研修生)

以上

ニハニハ