6
49:560 症例報告 左中前頭回後部限局性梗塞により不全型 Gerstmann 症候群・ 超皮質性感覚失語を呈した 65 歳男性例 安藤 喜仁 澤田 幹雄 森田 光哉 河村 中野 今治 )* 要旨:左中前頭回後部限局性梗塞により,高度の失算と失書(不全型Gerstmann症候群)および超皮質性感覚失 語を呈した65歳男性,右きき症例を報告した.症例は右手のしびれ感・脱力・呼称障害で発症.高度の失算・失書 および病初期に超皮質性感覚失語をみとめ,頭部 MRI で左中前頭回後部の限局性梗塞と診断された.発症 23 日目 123 I-IMP SPECT(Single photon emission computed tomography)で MRI 病変を中心にその前方の前頭葉広範領 域,さらに同側下頭頂小葉(縁上回,角回)周囲,大脳病変の反対側小脳に血流低下をみとめた.これらの病巣が 不全型 Gerstmann 症候群および超皮質性感覚失語発現に関連していると考えた. (臨床神経,49:560―565, 2009) Key words:左中前頭回後部梗塞,不全型Gerstmann症候群,超皮質性感覚失語,遠隔機能障害 はじめに 失算・失書・左右失認・手指失認の 4 つの症候を同時に呈 する現象は Gerstmann 症候群と称され,その原因病巣は優位 半球下頭頂小葉(縁上回,角回)と考えられている.しかし, 左前頭葉病変でも Gerstmann 症候群をきたした症例が報告 されている )~.また,超皮質性感覚失語は優位半球頭頂後頭 葉または頭頂側頭葉で生じるとされているが,まれながら前 頭葉病変でおこるばあいがある われわれは,左中前頭回の限局梗塞により,通常,頭頂葉症 状とされている Gerstmann 症候群(不全型)および超皮質性 感覚失語を呈した右きき男性症例を経験した. 患者:65 歳,右きき男性. 主訴:右手のしびれ感,ものの名前が出てこない,計算障 害. 現病歴:2004 年 8 月某日起床時に右手にしびれ感が出現 し,急須と茶わんの呼称ができなかった.使用法は理解してお り,実使用可能であった.徐々に右手の脱力が出現したため近 医を受診し,頭部CTを施行されたが,陳旧性脳梗塞のみで新 規の病変は指摘されなかった. 翌日には右手の脱力は改善したが,違和感が持続していた ため当院を受診した. 家族歴:母に脳梗塞,父に心筋梗塞,弟に脳出血がみられ た. 既往歴:60 歳より高血圧に対し塩酸プラゾジン 1mg! 日, 無症候性ラクナ梗塞に対しアスピリン 100mg! 日を内服中で あった. 生活歴:最終学歴は通信専門学校.60 歳まで船舶の通信士 として勤務し日常的に4桁以上の数字を扱っていた.飲酒,喫 煙習慣はなかった. 入院時現症:意識状態は良好で血圧 162! 92mmHg,心拍数 72! min 整.右手の違和感を訴えていたが,他覚的には感覚障 害も筋力低下もみられなかった.8+5,100-7 などの簡単な 計算ができず,重度の失算が明らかであった.本人はこれを頭 から数が消えてしまうと表現した.自発書字にて文字の変形 はなかったが,日付,AM! PM の書きまちがいや,語順の入 れ替え,不必要な文字のくりかえしがある文章であった(Fig. 1,上段).後日,本人自身が読み返しても「意味が解らない」と 述べた. 日付や曜日のいいまちがいもみられ,本人は「なかなか言葉 が出てこない」と訴えていたが,物品呼称にはあきらかな障害 はなく, 「遠くの青い海に白いヨットが浮かんでいます.」とい う比較的長い文章の復唱は可能であった.開眼指示に対して 開口してしまうなど,単純な言語命令にしたがえず,言語理解 は明らかに障害され,失語症のタイプは超皮質性感覚性失語 と診断した. 入院時の頭部 MRI (Fig.2):拡散強調画像,T2強調画像に て左中前頭回後部に限局した高信号域がみられた.MRA で Corresponding author: 自治医科大学内科学講座神経内科部門〔〒3290498 栃木県下野市薬師寺 3311―1〕 1) 自治医科大学内科学講座神経内科部門 2) 昭和大学医学部内科学講座神経内科学部門 (受付日:2008 年 2 月 19 日)

左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann症候群 ......49:562 臨床神経学 49巻9号(2009:9) Fig. 3 Clinical course. acalculia alexia On set 7th

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann症候群 ......49:562 臨床神経学 49巻9号(2009:9) Fig. 3 Clinical course. acalculia alexia On set 7th

49:560

症例報告

左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann 症候群・

超皮質性感覚失語を呈した 65歳男性例

安藤 喜仁1) 澤田 幹雄1) 森田 光哉1) 河村 満2) 中野 今治1)*

要旨:左中前頭回後部限局性梗塞により,高度の失算と失書(不全型Gerstmann 症候群)および超皮質性感覚失語を呈した 65歳男性,右きき症例を報告した.症例は右手のしびれ感・脱力・呼称障害で発症.高度の失算・失書および病初期に超皮質性感覚失語をみとめ,頭部MRI で左中前頭回後部の限局性梗塞と診断された.発症 23日目の 123I-IMP SPECT(Single photon emission computed tomography)でMRI 病変を中心にその前方の前頭葉広範領域,さらに同側下頭頂小葉(縁上回,角回)周囲,大脳病変の反対側小脳に血流低下をみとめた.これらの病巣が不全型Gerstmann 症候群および超皮質性感覚失語発現に関連していると考えた.(臨床神経,49:560―565, 2009)Key words:左中前頭回後部梗塞,不全型Gerstmann症候群,超皮質性感覚失語,遠隔機能障害

はじめに

失算・失書・左右失認・手指失認の 4つの症候を同時に呈する現象はGerstmann 症候群と称され,その原因病巣は優位半球下頭頂小葉(縁上回,角回)と考えられている.しかし,左前頭葉病変でもGerstmann 症候群をきたした症例が報告されている1)~3).また,超皮質性感覚失語は優位半球頭頂後頭葉または頭頂側頭葉で生じるとされているが,まれながら前頭葉病変でおこるばあいがある1).われわれは,左中前頭回の限局梗塞により,通常,頭頂葉症状とされているGerstmann 症候群(不全型)および超皮質性感覚失語を呈した右きき男性症例を経験した.

症 例

患者:65 歳,右きき男性.主訴:右手のしびれ感,ものの名前が出てこない,計算障害.現病歴:2004 年 8 月某日起床時に右手にしびれ感が出現し,急須と茶わんの呼称ができなかった.使用法は理解しており,実使用可能であった.徐々に右手の脱力が出現したため近医を受診し,頭部CTを施行されたが,陳旧性脳梗塞のみで新規の病変は指摘されなかった.翌日には右手の脱力は改善したが,違和感が持続していたため当院を受診した.

家族歴:母に脳梗塞,父に心筋梗塞,弟に脳出血がみられた.既往歴:60 歳より高血圧に対し塩酸プラゾジン 1mg�日,無症候性ラクナ梗塞に対しアスピリン 100mg�日を内服中であった.生活歴:最終学歴は通信専門学校.60 歳まで船舶の通信士として勤務し日常的に 4桁以上の数字を扱っていた.飲酒,喫煙習慣はなかった.入院時現症:意識状態は良好で血圧 162�92mmHg,心拍数72�min 整.右手の違和感を訴えていたが,他覚的には感覚障害も筋力低下もみられなかった.8+5,100-7 などの簡単な計算ができず,重度の失算が明らかであった.本人はこれを頭から数が消えてしまうと表現した.自発書字にて文字の変形はなかったが,日付,AM�PMの書きまちがいや,語順の入れ替え,不必要な文字のくりかえしがある文章であった(Fig.1,上段).後日,本人自身が読み返しても「意味が解らない」と述べた.日付や曜日のいいまちがいもみられ,本人は「なかなか言葉が出てこない」と訴えていたが,物品呼称にはあきらかな障害はなく,「遠くの青い海に白いヨットが浮かんでいます.」という比較的長い文章の復唱は可能であった.開眼指示に対して開口してしまうなど,単純な言語命令にしたがえず,言語理解は明らかに障害され,失語症のタイプは超皮質性感覚性失語と診断した.入院時の頭部MRI(Fig. 2):拡散強調画像,T2強調画像にて左中前頭回後部に限局した高信号域がみられた.MRAで

*Corresponding author: 自治医科大学内科学講座神経内科部門〔〒329―0498 栃木県下野市薬師寺 3311―1〕1)自治医科大学内科学講座神経内科部門2)昭和大学医学部内科学講座神経内科学部門(受付日:2008 年 2 月 19 日)

Page 2: 左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann症候群 ......49:562 臨床神経学 49巻9号(2009:9) Fig. 3 Clinical course. acalculia alexia On set 7th

左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann 症候群・超皮質性感覚失語を呈した 65 歳男性例 49:561

Fig. 1 Patient’ s memo (diary).There are many errors in the spelling (dysgraphia) such as substation of PM for AM (circles), errors of spelling order (large dotted circles), and non-understandable phases (small dotted circles).

Fig. 2 Brain MRI on the 1st hospital day.(a) Diffusion weighted image, axial (TR 5,200, TE 177), (b-c) T2 weighted images (b) axial (TR 5,380, TE 118), (c) coronal (TR 4,530, TE 101), (d) MR angiography (TR 42.0, TE 5.6).There is a high intensity lesion in the posterior area of the middle frontal gyrus.MR angiography showed that the left middle cerebral artery (MCA) wall is more irregular than the right one. But both vessels are equally visible until the peripheral branch.

a b

c d

は左中大脳動脈は右よりも壁不整が強めであったが描出は末梢まで良好であった.入院後経過(Fig. 3):起床時発症であり,塞栓症の原因となる心房細動などの基礎疾患がないことと画像所見よりアテローム血栓性脳梗塞と診断し,アルガトロバンの持続点滴(60mg�day)を開始した.発症 7日後でも,100-7,8+5という簡単な計算ができず,「一カセイキョケツノウキョケツ」といった不必要な文字のくりかえしや「サンマ」と書くべきところを「マンサ」と書いてしまう錯書がみられた(Fig. 1,下段).本人に自分の左右の手をそれぞれ指示させると正確に示せるが,本人および検者の親指を指示させると示すことができず,手指失認が示唆された.発症 14 日後,九九をいえるようになり,3+5などの一桁の足し算はできるが, 8+5といった繰り上がりのある足し算,93-7などの繰り下がりのある引き算,および割り算はでき

Page 3: 左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann症候群 ......49:562 臨床神経学 49巻9号(2009:9) Fig. 3 Clinical course. acalculia alexia On set 7th

臨床神経学 49巻9号(2009:9)49:562

Fig. 3 Clinical course.

acalculia

alexia

On set 7th day 7th month21st day

aphasia

somatognosiafinger agnosia

SLTA

SLTA・WAIS-R exam

ined・WAIS-R exam

ined

WAIS-R exam

inedWAIS-R exam

ined

paragraphia

SLTA・WAIS-R exam

ined

WAIS-R exam

ined

1614121086420

Scaled Score (SS)

23 days after onset

Verbal Tests Performance Tests

Information

Digit Span

Vocabulary

Arithmetic

Comprehension

Similarities

Picture

Completion

Picture

Arrangement

Object

Assembly

Coding

Block Design

6 months after onset

Fig. 4 Results of WAIS-R examination.The first examination was performed on 23 days after onset, the total IQ being 87, verbal IQ 91 and performance IQ 85, and the second one on 6 months after onset, the total IQ be-ing 107, verbal IQ 105 and performance IQ 106.The second examination revealed prominent improvement in comparison with the first, especially in comprehension, similarities and picture arrangement. But obvious improve-ment could not be seen in arithmetic and object assembly.

なかった.「青い空」「海にヨットがうかんでいます」といった簡単な文章の書きとりについては,漢字・ひらがな・カタカナをもちいて可能であった.文章の読みでは,内容が理解できず何度も読み返す必要があり,とくにひらがなでその傾向が強かった.また,この時点においても手の親指を指示させても示すことができなかった.発症 21 日後,18+3 などの繰り上がりのある足し算,4×3程度のかけ算,9÷3,8÷4など一桁の割り算はできるようになったが,12-7という引き算はできなかった.発症 22 日に SLTA(Standard Language Test of Aphasia)を施行した.障害は計算と書字に強く,計算では正答が 9�20,書字命令にしたがう項目で 6�10 と高度に低下がみられ,口頭命令にしたがう項目で 9�10,単文以上の読解で 8�10,語の列挙で 9�10,仮名単語の書字の項目で 4�5 と軽度の低下がみとめられた.発症 23 日にWAIS-R(Wechsler adult intelligence scales-revise)を施行し,verbal IQ 91,performance IQ 85,totalIQ 87 であった(Fig. 4).知識や語彙力に問題はないが,抽象化,時間的順序因果関係の予測が困難であった.象や手指の形を完成させるパズル問題にて本人は完成像がわかっているにもかかわらず完成できないという症状がみられた.同日施行した 123I-IMP SPECTでは,左中前頭回中心にその前方の前頭葉広範領域,さらに同側の下頭頂小葉(角回,縁上回)周囲と反対側小脳に血流低下がみられた(Fig. 5).発症 7カ月後にWAIS-R を再施行したところ全体的に改善をみとめ(Fig. 4),とくに言語性検査での語彙に関する項目においては平均以上に改善しており,この時点で失語は消失しているものと判断した.しかし,53-7,13+12,16×3,84÷4 などの四則演算についてはかなりできるようになっていたが,42÷7ができないなど失計算は依然残存していた.

考 察

本症例は左前頭葉梗塞により高度の失算,失書を呈し,手指失認がうたがわれた不全型Gerstmann 症候群および超皮質性感覚失語を呈した症例である.これら症状の組み合わせは

通常優位側頭頂葉の病変を示唆するものである.本例においてMRI で確認された梗塞巣は左中前頭回後部に限局していたが,脳血流シンチグラム(123I-IMP SPECT)ではMRI 病変を中心にその前方の前頭葉広範領域,さらに反対側小脳にも血流低下がみとめられていた.MRAでは梗塞巣の領域以外に血流低下をきたすような狭窄病変は確認されなかった.これらの結果は左中前頭回後部の梗塞により,同部位と神経結合を有する下頭頂小葉(縁上回,角回)へいたる経路の機能障害をきたした(遠隔機能障害(diaschisis))可能性を示唆するものである.失算,失書の個別の検討では優位半球中前頭回後部領域の障害でそれぞれが単独に発症しうることが報告されてはいるが,本症例のように失算と失書の両方を呈し,Gerstmann症候群類似の症状をみとめた症例報告はまれである1)~4).本症例をふくめて報告された症例すべてに超皮質性の運動性もしくは感覚性の失語がみとめられている.また,これらの症例のうち脳血流をシンチグラムにて評価したのは 2例である3)4)が,いずれの症例でも本症例にみられた遠隔機能障害を示唆する所見は指摘されていない(Table 1).これまで報告されているGerstmann 症候群とされる症例の多くは経過中に失語が合併しており,Gerstmann 症候群における失算・失書と失語との独立性についてはかなり以前より議論がなされている5).近年失語をみとめないいわゆる「pure Gerstmann’s syndrome」が報告されるようになってきているが6)~9),その中には角回周辺に病巣がない症例もふくまれる6).本症例についても急性期に超皮質性感覚性失語を呈した.

Page 4: 左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann症候群 ......49:562 臨床神経学 49巻9号(2009:9) Fig. 3 Clinical course. acalculia alexia On set 7th

左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann 症候群・超皮質性感覚失語を呈した 65 歳男性例 49:563

Table 1 Reported cases of acalculia and aphasia due to left frontallobe injury (including Gerstmann syndrome) .

Duration of impairmentAphasiaAgraphiaAcalculiaInjury portion and originPatient (age/sex)

(all: right handed)

over 16 months

++/transcortical sensory++/kana>=kanji+left frontal lobe-insula

/infarction55/MMabuchi Y, et al (1995)

2 months―+/kana<kanji++left middle frontal gyrus/brain tumor operation31/FMiyake Y, et al (1997)

over 13 months

+/transcortical motor+++left frontal lobe, partial

parietal lobe/infarction77/MOkazaki T, et al (1997)

over 7 weeks

+/transcortical motor++/kana>>kanji+left middle frontal

gyrus/infarction59/MTohgi H, et al (1995)

over 7 months

+/transcortical sensory+/kana=kanji++

left psoterior area of mid-dle frontal

gyrus/infarction65/MThis case

Fig. 5 123I-IMP SPECT (3D-SSP) on the 23rd hospital day.Cerebral blood flow decreased in not only the infarction lesion but also the ipsilateral inferior parietal lobe, cerebellar cortex and contralateral premotor area (arrows).

超皮質性感覚性失語は通常,頭頂葉と側頭葉の境界領域の障害で生じるといわれているが,中・下前頭回後部や中心前回下部などの前頭葉病変でもおこるとの報告もあり10),この点は本症例に合致する.本症例の失算は発症当初には失語の影響を受けている可能性が否定できないが,失語がみとめられなくなった後にも持続しており,改善はあるものの発症後 7カ月の長期にわたり障害がみとめられていたので,失語とは独立した症候であったものと考える.演算操作が障害される失演算の責任病巣として優位半球の角回,頭頂間溝周辺の皮質・皮質下白質,大脳基底核などが知られ,左頭頂葉病変で失算のみを呈する症例の報告もあり11),計算機能の責任部位として優位側頭頂葉の果たす役割は大きいと思われる.一方,最近の脳機能画像研究では両側大脳皮質のさらに広い領域が計算に関与していることが示されており,より複雑な計算をおこなうばあいには左頭頂葉だけではなく左下前頭回を中心とした前頭葉後部領域も活動すると考えられている12)~14).また計算のプロセスでは,視覚や聴覚情報からの入力をもとに演算処理をおこなうが,その間その情

報を保持し続ける必要がある.この際に主に前頭連合野の機能であるワーキングメモリーの関与が大きくとくに中前頭回の重要性が報告されている15).われわれの症例は「計算しようとすると数字が頭の中から消えてしまう.」と表現しており,ワーキングメモリーの障害の結果として失算が生じた可能性も否定はできない.本症例でみられた失計算が下頭頂小葉(縁上回,角回),または前頭葉後部領域のいずれか,あるいは両者の障害によるのかを判断するのは難しいが,失算の責任病巣として両領域いずれの可能性も否定できない.発症初期には錯書が明らかで,文字そのものの形態異常はほとんどともなわずに書きまちがいや語順の入れ替え,不必要な文字のくりかえしなどがみられた.また,読書をしても内容が理解できないという失読症状もみられ,発症 22 日のSLTAでは書字命令にしたがう項目で高度の低下が,単文以上の読解,仮名単語の書字でも障害がみとめられた.本症例にみられた失書や失読は,左中前頭回後部の梗塞により同部位と神経結合を有する下頭頂小葉にいたる経路の機能障害をきたしたために生じた可能性が考えられる.しかし通常,角回病変による失読失書では仮名―文字レベルでの障

Page 5: 左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann症候群 ......49:562 臨床神経学 49巻9号(2009:9) Fig. 3 Clinical course. acalculia alexia On set 7th

臨床神経学 49巻9号(2009:9)49:564

害が生じることが多い16)が,本例ではそれが明らかでなく頭頂葉病変による失読失書とはややことなる特徴を有していた.前頭葉機能とされているワーキングメモリーに関するfunctional MRI による検討では,言語に関しての保持と操作課題において左前頭葉前野と頭頂葉連合野の活動が上昇することが報告されており17),読書しても内容が理解できない,SLTAでも文章の理解が悪いといった症状は,失算の機序でも述べたワーキングメモリーの障害でも説明できる可能性がある.左右識別障害については障害自体が軽度で持続が短かったことと発症当初に失語の合併がみられたことから,詳細に検討することができなかった.また,自分自身および検者の親指がどれか解らず,手指失認が示唆されたが,左右障害同様に詳細な検討ができなかった.しかし,WAIS-R における手指パズルが完成できなかったことも手指失認症状であった可能性がある.頭頂葉に病変をもつ「pure Gerstman’s syndrome」症例の報告7)9)において,症候の発現機序をイメージの認知・保持・操作などの障害を中心に考察している.本症例では左前頭葉の梗塞部位以外にも SPECTで左下頭頂葉に血流低下をみとめており,前頭葉より頭頂葉にいたる経路が障害されたことによりこのイメージの障害がおこったために,不全型Gerstmann 症候群および超皮質性感覚失語を呈した可能性も示唆される.しかし,それらの報告は本例に比して明らかに手指失認・左右障害を強く呈しており,もともとの病変部位もことなっていることから,本例でとくに強かった失算や失書は前頭葉機能であるワーキングメモリー障害の関与が強いのかもしれない.この遠隔機能障害をみとめた報告は本例以外にはなく,それらのいずれの障害を表したものであるかを決することはできない.もしくは両者の合併を表したものであり,そのために多彩な高次機能障害を呈した可能性もあると思われる.

文 献

1)馬渕淑子,村上信行ら:左前頭葉病変により,超皮質性感覚失語とGerstmann 症候群を呈した 1例.医療 1995;49:1050―1055

2)三宅裕子,川村純一郎ら:左前頭葉脳腫瘍摘出術後にGerstmann 症候群を呈した 1例.失語症研究 1997;17:233―240

3)岡崎哲也,佐伯 覚ら:左前頭葉後側にて優位半球頭頂―後頭葉の症状を認めた一例.神経心理学 2007; 23:299(会議録)

4)Tohgi H, Saitoh K, Takahashi S, et al: Agraphia and acal-culia after a left prefrontal (F1, F2) infarction. J NeurolNeurosurg Psychiatry 1995; 58: 629―632

5)Benton AL: The fiction of the ‘Gerstmann syndrome’. JNerurol Neurosurg Psychiatry 1961; 24: 176―181

6)猪野正志,高山吉弘ら:失語を伴わないGerstmann 症候群を呈した左視床出血の 1例.臨床神経 1985;25:728―732

7)Carota A, Di Pietro M, Ptak P, et al: Defective Spatial Im-agery with Pure Gerstmann’s Syndrome. Eur Neurol2004; 52: 1―6

8)Tucha O, Steup A, Smely C, et al: Toe agnosia inGerstmann syndorome. J Nerurol Neurosurg Psychiatry1997; 63: 399―403

9)Mayer E, Martory M, Pegna AJ, et al: A pure case ofGerstmann Syndrome with a subangular lesion. Brain1999; 122: 1107―1120

10)大槻美佳,相馬芳明ら:左前頭葉病変による超皮質性感覚失語の 1例.脳神経 1994;46:866―871

11)Takayama Y, Sugishita M, Akiguchi I, et al: Isolated acal-culia due to left parietal lesion. Arch Neurol 1994 ; 51 :286―291

12)Sasaki K, Tsujimoto T, Nambu A, et al: Dynamic activi-ties of the frontal association cortex in calculating andthinking. Neuroscience Research 1994; 19: 229―233

13)Delazer M, Domahs F, Bartha L, et al: Learning complexarithmetic―an fMRI study. Brain Res Cogn Brain Res2003; 18: 76―88

14)Gruber O, Indefrey P, Steinmetz H, et al: Dissociatingneural correlates of cognitive components in mental cal-culation. Cereb Cortex 2001; 11: 350―359

15)McCarthy G, Puce A, Constable RT, et al: Activation ofhuman prefrontal cortex during spatial and nonspatialworking memory tasks measured by functional MRI.Cereb Cortex 1996; 6: 600―611

16)河村 満,毛束真知子:書字の脳内メカニズム.神経進歩2003;47:755―762

17)藤井俊勝:Working Memory の神経機構.神経進歩2002;46:897―905

Page 6: 左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann症候群 ......49:562 臨床神経学 49巻9号(2009:9) Fig. 3 Clinical course. acalculia alexia On set 7th

左中前頭回後部限局性梗塞により不全型Gerstmann 症候群・超皮質性感覚失語を呈した 65 歳男性例 49:565

Abstract

Incomplete Gerstmann syndrome with a cerebral infarct in the left middle frontal gyrus

Yoshihito Ando, M.D.1), Mikio Sawada, M.D.1), Mitsuya Morita, M.D.1),Mitsuru Kawamura, M.D.2)and Imaharu Nakano, M.D.1)

1)Division of Neurology, Department of Medicine, Jichi Medical University2)Division of Neurology, Department of Medicine, Showa Medical University

A 65-year-old right-handed man noted a sudden onset of numbness and weakness of the right hand. On the in-itial visit to our hospital, he showed severe acalculia, and transient agraphia (so called incomplete Gerstmann syn-drome) and transcortical sensory aphasia.

Brain MRI revealed a fresh infarct in the left middle frontal gyrus. The paragraphia and aphasia improvedwithin 14 days after onset, but the acalculia persisted even at seven months after onset. In an 123I-IMP SPECTstudy, the cerebral blood flow (CBF) was found to be decreased in the infarction lesion and its adjacent wide area,the ipsilateral angular and supramarginal gyri, and contralateral cerebellar hemisphere. We speculate that inacti-vation in the infarction lesion caused the CBF decrease in the non-infarcted areas due to diaschisis. This case indi-cates that Gerstmann syndrome can be caused by not only dysfunction of the angular gyrus but also of the leftmiddle frontal gyrus in the dominant hemisphere.

(Clin Neurol, 49: 560―565, 2009)Key words: a cerebral infarct in the left middle frontal gyrus, incomplete Gerstmann syndrome, transcortical sensory

aphasia, diaschisis