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明治大正の文学者
序
通例文学史家に言われている如く︑日本の近代文学が
明治二十年前後に始まるものとすれば︑差当り明治三十
七︑八年頃より︑大正四︑五年頃までの凡そ十年間は︑
その発展期︑若しくは興隆期と見るべきであろう︒私は
明治十九年秋︑北海道の辺陸に生れた︒十二︑三歳の頃
より文学に親しみ︑十六︑七歳の頃には文学同人雑誌を
発行した︒二十一歳の春には︑いよいよ文学を以て一生
の業となすべく︑志を抱いて上京し︑爾来文筆関係の仕
事に専心して今日に及んでいる︒恰も日本近代文学の黎
明期に呱々の声を挙げ︑その興隆期を以て目せらるる時
代には︑自ら文筆の業に携って︑文壇の一隅に身を投じ
たわけである︒顧みれば半世紀に垂んとする長い時代を︑
さまざまな文学思潮の興亡︑文学上の主義主張や傾向の
波の起伏を︑直接目睹し︑観察するのみに止まらず︑ま
た自らその波濤の飛沫に身を濡らし︑文学の歴史の一部
を身を以て経験して来たものと言えよう︒
殊に私は︑訪問記者を振り出しに︑終戦直前まで凡そ
四十余年間の長きに亙って︑一貫して文学雑誌記者とし
ての仕事に従事して来た︒従ってその間に起りまた滅び
た文学上の傾向や事実︑時代々々の風潮︑動きなどに就
ても︑これを単に外側から観察するのみではなく︑楽屋
に於て身自ら直接それに触れ︑経験して来たと言える︒
また︑それ等の時代々々に現われたり︑消えたりしたと
ころの多くの著名な文学者たちにも︑親しく面接し談語
した経験も多いし︑或る作品が現われるに就いては︑自
ら助産婦的役目を演じた場合もなくはないのである︒
要するに日本の近代文学の歴史
︱わけてもその中軸
的に最も深い意義を持つ明治末期に近い頃から大正年代
を経て昭和十年代︵太平洋戦争直前︶の半ばの頃までの
凡そ三十有余年間に亙る︑長期間の文学の変遷推移には︑
実に複雑多様なものがあると言わねばならぬのだが︑幸
いに私はこの重要な期間を︑自ら文学界の片隅に︑文学
の仕事に関与して生活することを得て来た︒加うるにジ
ャーナリストという職業は︑常に文学思潮の動向の中枢
に呼吸し︑絶えず多くの文学者たちと︑緊密な接触を保
たなければならない︒則ち本書は︑この期間に於ける私
が直接に触目し︑面接した文学と文学者とに就て語った
ものである︒
元より初めから或る一貫した意図の下に筆を執ったも
のではあるが︑さればと言って文学史と称するほど固く
るしいものでもなく︑そういう整然たる体系を備えたも
のではない︒謂わば人を中心として見たナマの文学史︑
若しくは真の文学史を書く人︑或いは研究する人のため
に︑生きた資料の記録︑私自身が直接経験した文学史の
断片を提供したものとでもいうべきであろうか︒人に依
っては無意味なもの︑余計なもの︑瓦礫として捨てて差
支えないものも多く混っているかも知れないが︑しかし︑
自らその時代の文学の中に︑直接生活しなければ得るこ
との出来ない
︱そして︑それは過ぎゆく時と共に︑或
いは︑いつかは忘却と消失の彼方に︑隠れ去ってしまう
かも知れないところの貴重な珠玉も︑若干含まれていな
いとは言えないだろう︒それをいくらかでも本書の中か
ら発見し︑明治大正の文学を知る上に役立ててくれる人
があれば︑私の本懐とするところである︒
さて︑今にして近代に於ける日本の文学の動き︑文学
の歴史を顧みるに日清日露の両戦役は元より第一次大戦
と︑戦争の度毎に段階をなして飛躍をつづけて来ている︒
第二次世界大戦の原動力
︱張本人が日本国であるだけ
に︑よかれ悪しかれ文学に於いてもこの影響は凄まじい
ものがあるようだが︑殊に無条件降伏という惨憺たる敗
戦の現実を以て︑戦争の終局を結んだことは︑文学の在
り方の上に真に恐ろしい変貌を与えずには措かなかった
ものの如くである︒おそらくこの戦争を境にして︑日本
のあらゆる部門は一大革新を遂げたというのも︑敢て過
言ではあるまい︒文学も亦同然︒
口で明治文学︑或いは明治大正文学を言うは易いが︑
その細部の真実︑微妙な動きの実態の如きは︑だんだん
霞を隔てて物を見ると同じく︑遠く遥かな彼方に朧ろ気
なものとなりつつある︒今にしてこのような文学史的素
材︑ナマの資料を記録しておくことも︑やがて貴重な文
献としての意義を生じて来るのも︑そんなに遠い将来の
ことではないかも知れない︒ここに一冊の書物に纏める
機会を与えられたことは︑敢て私一人の幸いとするとこ
ろのみではないだろう︒
︱これ私の最も謙遜にして窃
かなる自負である︒
本書は︑曾て楢崎勤君が﹁新潮﹂記者として在任
中︑同君の慫慂に依って執筆し︑昭和十七︑八の満
二ヵ年間︑﹁明治大正の文学者たち﹂と題して︑二
十四回に亙って﹁新潮﹂誌上に連載したものである︒
今︑一冊に纏めて︑新たに世に出すに至ったのは︑
これ偏えに島村利正君の友誼と留女書店主加納正吉
氏の厚意とに基づく︑懇篤なる薦めに拠るものであ
る︒記して以て永く感謝の念を銘記したい︒
昭和二十四年四月
中村武羅夫
目
次
第一章
明治三十三︑四年時代の文学情勢
第二章
小栗風葉と近代思想
第三章
外国文学の移入と出版企業
第四章
文芸批評と大町桂月
第五章
田山花袋と自然主義文学
第六章
國木田獨歩の死とその前後
第七章
内田魯庵と二葉亭四迷
第八章
森鷗外と夏目漱石︵上︶
第九章
森鷗外と夏目漱石︵中︶
第十章
森鷗外と夏目漱石︵下ノ一︶
第十一章
森鷗外と夏目漱石︵下の二︶
第十二章
岩野泡鳴の人間味
第十三章
文学者としての泡鳴
第十四章
大泡鳴の最期
第十五章
文芸批評家の一群︵上︶
第十六章
文芸批評家の一群︵中︶
第十七章
文芸批評家の一群︵下の一︶
第十八章
文芸批評家の一群︵下の二︶
第十九章
文芸批評家の一群︵下の三︶
第二十章
文芸批評家の一群︵下の四︶
第二十一章
三島霜川と横山源之助︵上︶
第二十二章
三島霜川と横山源之助︵下︶
第二十三章
生田春月のこと︵上︶
第二十四章
生田春月のこと︵下︶
献
德田秋聲先生之霊
献呈の辞相識
以来︑先生が瞑目される直前まで︑凡そ四十
年間︑常に渝らざる篤実な友情を以て︑文学の道は
元より身辺の些事に至るまで︑種々の面倒を見て
戴いた恩義は︑容易に忘れ難いものがある︒
加
之
先生の生前作品をデジケエトされたこと
これのみならず
はあるが︑五十年に垂んとする年月を文筆の業に
勤み︑百巻に余る作を為すと雖も︑徒に大衆の喝
采に投ずる作品経営に齷齪するのみにして︑未だ
先生に献呈するに足る一作もなし︒本書と雖も未
だ必ずしも我意を十分満足せしむる底のものにあ
らざるは勿論なれども︑半世紀に亙る文筆生活中
偶々自己の信実と血肉とに依って贖うことを得た
る唯一の営みとして︑ここに先生の霊前に献ずる
ものである︒おそらく微笑して享けて下さるだろ
うと信ずる︒
23
第一章
明治三十三︑四年時代の文学情勢
最初の読書が﹁八犬傳﹂
︱﹁一葉全集﹂の出版
︱蘆花の﹁不如歸﹂
︱獨歩の﹁武蔵野﹂
︱
硯友社文学の全盛
︱幽芳︑天外︑樗牛︑鏡花︑
風葉
︱花袋の﹁重右衞門の最後﹂
︱北村透谷
の﹁蓬莱曲﹂
︱﹁新聲﹂﹁國民之友﹂﹁文學界﹂
︱正宗白鳥と﹁卽興詩人﹂
︱文学思潮の基調
24
はセンチメンタリズム
︱北海道から初期の同人
雑誌を発行
十四︑五歳の頃には︑画家として立つつもりで︑熱心
に絵を習っていた︒師匠は佐々木泉渓という人で︑狩野
派の画家だったが︑一方で札幌高等女学校の図画の先生
をしていた︒その先生に就て二年近くも勉強したろうか︒
その中︑偶とした機縁から僕の興味は急角度に︑文学に
ふ
没入することになった︒それは後には東京に出て来て︑
25
︵今は既に死んでしまったが︶西洋洗濯屋の婿養子とな
り︑洋画の勉強をして︑晩年には兎に角一かどの画を描
くようになっていた︑Aという友達の影響だった︒いき
なり﹁八犬傳﹂から読んだのだが︑読み出すと憑かれた
つ
ようになり︑文字通り寝食も忘れるようにして︑五日く
らいかかって読み終った︒
︱僕の右の二の腕にも︑大
きな痣が一つある︒形は牡丹の花には似ていないけれど
も︑それでも自分も八犬士の一人ではないかと空想した
りして︑そっと二の腕の痣の上を撫でて見たりして︑読
み終った当座暫らくの間は︑﹁八犬傳﹂の魅力から遁れ
26
られなかった︒
一家の事情もあったが︵それまで盛んだった林檎園が
腐爛病のために︑一年か二年の間に︑すっかり駄目にな
ってしまった︶︑熱心に勉強していた絵筆を抛って︑本
ばかり読むようになった︒家業の農耕を手伝わなくては
ならないようになっても︑本はいくらでも読めた︒雨の
日や︑夜や︑それに北海道は半年近くは雪の中に埋もれ
ているのだから︑本を読む時間は︑いくらでもある︒鍬
をかついで畑に出る時でも︑必ず一冊の本をふところに
して︑ちょっとの休みの時にも︑すぐ木の蔭などに蹲っ
27
て︑本を読んだことを覚えている︒
もちろん︑明治三十四︑五年の辺鄙な北海道の開拓地
のことだから︑気の利いた中央の文化の風が吹き通うは
ずもなし︑従ってその当時の明治文学の情勢など︑片鱗
にも通じ得られるはずはないのである︒後になって当時
の文壇の情勢を考えてみれば︑明治三十三年には既に德
冨蘆花の﹁不如歸﹂が民友社から出版されたり︑森鷗外
の美学﹁審美新說﹂が︑春陽堂から出ているし︑泉鏡花
の﹁照葉狂言﹂や︑小栗風葉の﹁戀慕ながし﹂なども出
ている︒また︑蘆花の﹁自然と人生﹂や菊地幽芳の﹁己
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が罪﹂や︑小杉天外の﹁女夫星﹂などが出版されたのも︑
やっぱり明治三十三年である︒明治三十年には大橋乙羽
の編になる﹁一葉全集﹂が博文館から出ているし︑尾崎
紅葉の﹁多
多恨﹂が一冊の本になって出版されたのも︑
同じ年のことである︒
それから明治三十四年には︑國木田獨歩の最初の短篇
集﹁武蔵野﹂が︑民友社から出版されている︒いったい
明治三十年から三十四︑五年の頃にかけて︑よく活躍し
ているのは︑作家としては︑蘆花︑鏡花︑天外︑風葉な
どというところである︒まだ︑硯友社文学全盛期のこと
29
で︑何と言っても田山花袋などは︑﹁つらいつらい﹂不
遇時代だったに違いない︒それでも明治三十二年には﹁ふ
るさと﹂を新聲社︵新潮社の前身で︑佐藤義亮氏が創設
し︑経営したもの︒当時︑声明の高かった文学雑誌﹁文
庫﹂と並び称されていた有力な文学雑誌﹁新聲﹂を発行
していた︒この﹁新聲﹂こそ︑現在の﹁新潮﹂の前身で
ある︶から出版し︑また明治三十四年には﹁野の花﹂を︑
同じく新聲社から出している︒その翌年の明治三十五年
には田山花袋は︑それまでのセンチメンタルな作風から
一転機を劃して︑後年の自然主義文学に転向する先駆を
30
示したと言っていい﹁重右衞門の最後﹂をアカツキ叢書
の第五編として︑新聲社から出版している︒
明治三十四年は︑ようやく德田秋聲氏がその出世作﹁雲
のゆくへ﹂を春陽堂から出版した年であり︑島崎藤村氏
は新体詩﹁落梅集﹂を︑同じ春陽堂から出している︒薄
田泣菫氏などを中心とする日本の星菫派文学が︑青年子
女の間を風靡したのは︑もう少し後のことだけれども︑
まだまだこの前後の日本の文壇には︑センチメンタリズ
ムが横溢していたと言わねばならぬ︒それは明治十八︑
九年の頃に坪内逍遙の﹁小說神髓﹂や﹁書生氣質﹂が現
31
われて︑日本の近代文学の精神が確立し︑その理論を裏
づける作品の実践も示された︒つづいて二葉亭四迷の﹁浮
雲﹂が現われたり︑硯友社のリアリズム文学が主流をな
したとは言っても︑明治二十年代から明治四十年時分︑
自然主義文学が確立するまで︑決して日本文学は単調な
一筋道を歩いたわけではなかった︒
︱硯友社文学と併
立して︑一方には民友社の﹁國民之友﹂や︑当時新進気
鋭の若い文士たちの結成によって発行されていた﹁文學
界﹂などに依って︑盛んに泰西の新思潮が移入された︒
そして︑それ等の刺戟に依って︑新しい文学思潮に眼覚
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めている人々も多かったし︑また樋口一葉とか︑國木田
獨歩などという作家も︑他の一方には既に出現していた
のである︒
しかし︑それにもかかわらずその前後︵明治三十三︑
四年頃を中心として︶の日本文学の基調は︑僕の見ると
ころを以てすれば︑何と言ってもセンチメンタルに他な
らなかったのだと思う︒島崎藤村氏をして言わしむれば︑
当時の新思潮新文学の先覚者の一人である北村透谷の論
文の数々や︑劇詩﹁蓬莱曲﹂などを読んでみても︑新し
そうに見える思潮の底を貫いて流れているのは︑結局︑
33
若さから来るセンチメンタリズムであると言っていい︒
また︑美的生活や英雄主義を真っ向に振りかざして︑威
勢のいい思潮文芸の評論に筆を駆り︑ニイチェや日蓮を
賛美した高山樗牛の思想だって︑今になって考えてみれ
ば︑結局その根柢はセンチメンタルに過ぎない︒居丈高
になって当時の文学の卑小を熱罵し︑社会意識の欠如を
叱咤して︑盛んな気焰を挙げている樗牛自身の文章から
して︑よく見れば肺病患者のヒステリーと︑勝気な人間
の肉体の病弱から来ているセンチメンタルがさせている
わざである︒﹁わが袖の記﹂や﹁瀧口入道﹂などの過剰
34
な感傷と仰山な涙とは︑高飛車で景気のいい樗牛の文芸
評論や感想や史伝などの類いにだって︑随所に見出され
るのである︒
透谷にしたって︑僅かに二十七歳で木の枝に首を縊っ
てぶら下がるほど弱い神経と︑弱いこころとの持ち主で
なかったら︑あんなに詠嘆味たっぷりな︑感傷に溢れた
新体詩や︑批評は書かなかっただろうし︑高山樗牛だっ
て︑三十一歳でこの世を去るほど病弱でなく︑不治の病
患に冒されていなかったら︑おそらく今残っているあれ
だけの﹁想華及び消息﹂や﹁文藝評論と史傳﹂などの大
35
半は︑書けもしなかっただろうし︑書かなかったに違い
ないのである︒
︱彼らの残した文学上の業績のすべて
は︑いずれにしても心と肉体の弱さと︑そのための感傷
の所産であると言っても︑過言ではなかろう︒
また︑明治︑大正︑昭和の三代の文壇にわたって︑ニ
ヒリストとして銘打たれている正宗白鳥氏は︑明治三十
五年に森鷗外の飜訳に依って出版されたアンデルセンの
﹁卽興詩人﹂を︵尤も﹁卽興詩人﹂は︑それより以前︑
最初﹁しがらみ草紙﹂や﹁めざまし草﹂などに︑断続的
に連載されたのであるが︶︑青年時代から現在に至るま
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で︑再読し︑三読して︑而も飽くことを知らないと︑自
ら言っている︒これを︑飜訳にして飜訳以上の名訳であ
ると激賞しているのはいいが︑しかし正宗白鳥ともあろ
う人が︑現在は﹁自分の心がもはや作中の男女の心から
遠く離れているのを感じないわけには行かなかった﹂に
しても︑それにしても過去の若き日に於いて︑アントニ
オとアヌンチャタのこの甘い恋物語に︑胸をときめかし︑
溜息を吐いて読み耽った時代があったのかと思うと︑何
だか不思議な気がするのである︒やっぱり﹁時代﹂の秘
密であろう︒この名うてのニヒリストも︑己れの年若く
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して︑しかも感傷と涙とが持て囃されていた時代には︑
あんまり意地悪い皮肉にばかりは︑物を見ることが出来
なかったのである︒後年の虚無や皮肉の神通力は︑チェ
ホフやストリンドベルヒなどの欧羅巴の近代文学に依っ
て養われたものに違いない︒宗教的情熱に溢れた内村鑑
三の説教や文章に感激したり︑青い目玉の青年男女の甘
い恋物語に若い情熱を傾けて読み耽ったりしたところを
以て見ても︑後年有名なこのニヒリストも︑センチメンタ
ルの横溢した明治三十年前後の時代には︑やっぱり感傷
も涙も︑人一倍豊富に持っていたものと見ねばなるまい︒
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それと共に︑後には西欧近代劇の移入者と言ってもよ
く︑すぐれた数々の考証文学を発表して︑さながら明澄
な理知一点張りの人のごとく思われている森鷗外が︑﹁卽
興詩人﹂のごとき作品の飜訳に︑よくも心魂を打ち込ん
だものである︒それを飜訳以上の飜訳となさしめたのも︑
やっぱり﹁時代﹂であろうし︑第一︑﹁卽興詩人﹂のご
とき作品を鷗外に採択せしめたのも︑やっぱり若さと﹁時
代﹂の影響と言っていいのではなかろうか︒もっと根本
的に︑後になって﹁ヰタ・セクスアリス﹂を書き︑﹁妄
想﹂を書いた鷗外にも︑その初期の頃の恰もセンチメン
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タル横溢時代には︑﹁舞姫﹂があり︑﹁文づかひ﹂があ
り︑﹁うたかたの記﹂があるではないか︒これ等の作品
こそ理知の人鷗外の若き日の妖しき夢と︑情熱と︑涙と
が注がれた作品であると言ってよく︑同時に︑明治二十
年代の後半期から三十年代の末期にかけて︑日本の文学
思潮に横溢したセンチメンタリズムの影響の下に
︱と
いうよりも︑センチメンタルを基調として書くことの出
来た作品と言うべきではなかろうか︒
すべて︑この時代に流行した文学作品には︑センチメ
ンタルの要素が甚だしい︒たとえば大町桂月の美文集﹁黄
40
菊白菊﹂︵明治三十一年︶や土井晩翠の新体詩集﹁天地
有
﹂︵明治三十二年︶など︑当時の青年男女に愛読さ
れて︑真に洛陽の紙価を高らしめたものである︒が︑そ
れではいかなる点がそれほど魅力があったのかと解剖し
て見れば︑結局その魅力の根元は︑甘いセンチメンタル
にあるのだと断言しても︑決して間違いはないのである︒
だから︑今になって見ると当時のセンチメンタルは︑
田山花袋が代表のように思われているけれども︑必ずし
もそんなことはない︒センチメンタルは決して田山花袋
の一手専売ではなく︑当時の文学界の主潮だったと言っ
41
ていいのである︒透谷も樗牛もそうだったし︑蘆花︑藤村
氏だって同じことだし︑鷗外だって︑やっぱりそうだ︒正
宗白鳥氏のごとき人すら︑センチメンタルに魅力を感じ︑
﹁卽興詩人﹂の甘き恋物語に惹き付けられたのである︒
尾崎紅葉の﹁金色夜叉﹂でも︑德冨蘆花の﹁不如歸﹂
でも︑自然主義文学以後に於いては︑通俗文学というこ
とにレッテルが貼られてしまったけれども︑もちろん︑
その当時は通俗文学も純文学も︑そんな区別なんかあり
はしない︒どれでもこれでも純文学だったのである︒だ
から村井弦齋や菊地幽芳なども︑通俗文学としてではな
42
く︑﹁日の出島﹂だとか︑﹁己が罪﹂を書いて活躍して
いたのだし︑現在の中村吉藏氏の如きも︑その時分には
春雨と号して﹁無花果﹂などという甘い家庭悲劇小説を
書いて︑大いに当てたのである︒しかし︑そういう中央
文壇の情勢が︑北海道の田舎にまで分かるはずはない︒
文学雑誌と言えば﹁文庫﹂と﹁新聲﹂があったくらいの
ものだが︑僕などがそんな文学雑誌を読むようになった
のは︑それから二︑三年も後のことである︒そのくせ僕
は明治三十五︑六年の頃には︑北海道で文学同人雑誌を
発行していたのである︒土地に小さな三等郵便局が出来
43
て︑そこの事務員に淡路国から︑はるばる一人の青年が
赴任して来たが︑年齢は僕より確か三つ四つの年上で︑
十八か九だったと思う︒その男が文学好きで︑二人で金
を出し合って︑﹁曉光﹂という四十八ページくらいの同
人雑誌を出した︒後には町の鉄道員の文学好きの大人が
二︑三人も参加したりして︑﹁北海文學﹂と改題したが︑
間もなくつぶれた︒
でも︑僕とその郵便局員の青年と二人で︵たしか深田
庄七といったと思う︶︑十二︑三号くらいまでは出した
ように覚えている︒原稿を纏めて岡山孤児院に送ると︑
44
そこで印刷から製本まで︑ちゃんとしてくれる︒部数は
二百か三百だったと思うが︑孤児院から印刷製本の出来
あがりを知らせて来ると︑七円いくらだったか︑八円何
十銭だったかを送ってやる︒すると二百部か三百部の﹁曉
光﹂が出来上がってくるのであった︒そういう事務的な
ことは︑深田庄七君が一切引き受けてやってくれたが︑
雑誌発送の日には︑いつでも僕もその三等郵便局に詰め
かけていて︑手伝うことにしていた︒それまでに宛名は
深田君が︑ちゃんと書いておいてくれるのを︑ただ包む
だけなのだが︑それがとても喜びだったことを覚えてい
45
る︒ただ二人だけの同人雑誌だったけれども︑文学同人
雑誌としては︑僕たちの﹁曉光﹂が︑日本中で最もはや
いほうではなかったろうか︒
﹁八犬傳﹂を読んで文学の面白さが骨身に沁みた後は︑
本であろうが雑誌であろうが︑何でも彼でも手当たり次
第読むようになった︒しかし︑僕の家には大した本もな
かった︒東海散士の﹁佳人之奇遇﹂が︑和とじ本で八冊
だったか︑十二冊だったかあったし︑菊亭香水﹁世路日
記﹂だとか︑宮崎湖處子の﹁歸省﹂だとか末廣鐵膓の﹁花
間鶯﹂が三冊︑末松
澄と二宮熊次郎共訳の﹁谷間の姫
46
百合﹂などという小説くらいなものだった︒それから雑
誌では山田美妙が編輯していた﹁以良都女﹂というのが
あった︒それ等を瞬く間に読んで︑﹁十五少年﹂や︑村
井弦齋の﹁日の出島﹂﹁小猫﹂や︑博文館から出ていた
帝國文庫に依って︑馬琴︑近松︑西鶴︑それから種彥︑
春水などの江戸末期の戯作を初めとして︑国文学叢書で
﹁竹取物語﹂だとか﹁枕草子﹂だとか︑その他物語や日
記文学など読みつくした︒因みに言っておくが︑帝國文
庫は四六判千頁以上千二︑三百頁あって︑クロース背皮
金文字入りで定価六十銭︒五冊以上註文すれば三分引︑
47
十冊以上五分引︑二十冊以上八分引︑三十冊以上は一割
二分引であった︒国文学叢書は四六判六百頁前後︑紙表
紙仮綴だが︑それで定価二十五銭だった︒今から思うと︑
まるで夢のような気がするのである︒
殆ど何の撰択もなく︑取捨もなく︑手当り次第の乱読
だったが︑それが二︑三年つづいた︒その間に僕は古典
から通俗文学から︑押川春浪や江見水蔭などの冒険小説
や探検小説︑その他﹁中學世界﹂や﹁少年世界﹂などに
掲げられる少年小説や立志小説など︑何でも片っ端から
読み漁った︒その中︑僕が日本の近代文学に初めて眼を
48
開かれたのは︑明治三十八年のたしか三月から﹁讀賣新
聞﹂に小栗風葉の﹁靑春﹂が連載され初めたのを︑読む
ようになってからである︒﹁靑春﹂が僕に文学というも
のを教えてくれた︒自分も文学者になろうという決心を
し︑明治四十年の春には上京して先ずイの一番に会った
明治の文学者は大町桂月だったのである︒
49
第二章
小栗風葉と近代思想
その代表作﹁靑春﹂
︱早熟早老の才能
︱早い
出世作﹁龜甲鶴﹂
︱敏感なる感受性
︱ハルト
マンやフォルケルトの美学の影響
︱文学者の寿
命
︱文士と自殺
︱﹁ルーヂン﹂の影響
︱創
作と年齢
︱龍土會のグループ
︱評価基準の不
公正
︱自然主義文学運動の萌芽
︱﹁文章世界﹂
と投書
50
小栗風葉は明治四十四年豊橋に引退してからは︑その
晩年は作家生活の上では︑甚だ振わなかった︒﹁婦女界﹂
とか﹁講談倶樂部﹂などという雑誌に︑僅かに連載小説
を発表して︑全く通俗作家に堕してしまったかの如き観
がなくもなかった︒しかし︑二十二歳にして﹁寢おしろ
い﹂︵明治二十九年︶を発表︑つづいて翌二十三歳に﹁龜
甲鶴﹂を﹁新小說﹂に発表して文名頓にあがり︑硯友社
とみ
文学全盛時代には牛門の四天王の一人として︵尾崎紅葉
51
の門下︑泉鏡花︑小栗風葉︑柳川春葉︑德田秋聲
︱紅
葉が牛込横寺町に住んでいたので︑この四人を目して︑
世間ではそういう呼び方をしていた︶︑華やかな流行花
形作家だったし︑それから自然主義文学運動の初期時代
までは︑押しも押されもしない大家としての存在をつづ
けていた︒
ちょうど﹁靑春﹂は日露戦争直後︑明治三十九年から
﹁讀賣新聞﹂に連載され初めたものである︒時代的には︑
その頃まで新しい日本文学の主流として全盛を誇って来
た硯友社文学が明治三十六年の秋十月︑尾崎紅葉の死と
52
共に漸くその勢いの衰えを見せ初めていた︒そして日露
戦争という劃期的な大事件を見事に乗り越えて︑国力が
更に一段というよりも数段の大飛躍を遂げると共に︑政
治︑経済︑文化など︑国家機構のあらゆる部面が︑旧態
を捨てて全く革新的大構想の下に動かなければならない
ことになった︒この時に独り文学だけが︑旧勢力の維持
に恋々としていられるはずはない︒それまで
︱明治二
十年頃︑新しい日本文学の黎明期から十五︑六年間もの
長い間︑全盛を誇って来た硯友社文学も︑既にその総帥
たる紅葉を失った後のことである︒旧勢力に飽き足らず︑
53
旧勢力はようやく衰えながらも︑しかもそれに代るべき
新勢力は︑未だ起らない︑恰も過渡期のことである︵明
治三十八︑九年ごろには︑日本の自然主義文学運動とい
うものは︑まだハッキリした形を取るには至っていなか
った︶︒時代としては旧勢力がその位置を失って︑未だ
新潮流が動きを見せていないというその過渡時代に︑小
栗風葉は﹁靑春﹂を書き初めたのである︒そして﹁靑春﹂
そのものもこの過渡的苦悶を︑よく現わしている作品だ
と︑僕などは今でも思っている︒
いったい小栗風葉という人は︑後には僕の師匠とした
54
人だから︑決してわるく言うつもりなど毛頭ないが︑正
直に言ってすべての点において早熟で︑極めて敏感性に
富んだ人だったと思うが︑しかし︑創造性は決して豊か
だったとは言えないだろう︒むしろ文章は豊麗にして濃
艶だし︑感受性は敏感でも︑創造性の才能は︑貧弱だっ
たと言わなければならない︒晩年豊橋に引退したのも︑
決して創作の仕事まで引退するつもりではなかったので
ある︒創作の上では大いに志があって︑しずかに勉強し
て生涯的仕事でも残すつもりだったのが︑実際としては︑
通俗小説くらいより書かなかったというのも︑早熟で余
55
り若い時分に︑出すだけのものは出し尽くしたのだとも
考えられないこともないが︑結局︑創造上の才能の問題
に帰するのではないかと思う︒
尤も︑大正十五年の正月には︑僅かに五十一歳で亡く
なったのだから︑余り長命とは言えないのである︒現在
の文学者の中に在って︑三十代くらいまでに既に十分の
仕事をし尽くしてしまっている作家も多いけれども︑そ
れでも五十歳そこそこで死んだら︑そんなに眼ぼしい仕
事を残すことの出来なかった作家だって︑相当に数える
ことが出来ると思う︒いったい大正時代くらいまでの作
56
家は︑経済的には皆貧乏だったし︑寿命は皆短命だった︒
大抵三十代で死んでいる︒樋口一葉や北村透谷などの二
十代は別としても︑高山樗牛︑尾崎紅葉︑國木田獨歩な
ど皆しかりである︒或いは天寿を全うすれば長生き出来
たかも知れないが︑そういう文士は自ら殺している︒北
村透谷を初めとして︑川上眉山︑芥川龍之介︑生田春月︑
有島武郎など皆そうである︒文士にして六十歳七十歳ま
で生きて来た人は︑昭和時代になってからは別だが︑大
正時代までは絶無とは言えないかも知れないが︑殆ど稀
れであると言っていい︒
57
風葉は五十一歳の正月を迎えたばかりで亡くなってい
るが︑それも︑明治四十四年の秋に豊橋に引退して︑大
正十五年の正月にその生を終えるまで︑まる十五年間と
いう歳月を過ごしているのだから︑本当に仕事をする気
があり︑才能と意思とがあったら︑その間には必ずコレ
はというような業績を示しているはずである︒それが家
を建てたり︑庭を作ったり︑通俗小説を書いたりという
くらいなことで︑見す見す十五年の月日が過ぎてしまっ
たということは︑結局︑志だけはあっても才能なり根気
なりが︑それに伴わなかったと見るべきだろう︒晩年会
58
うとよく︑﹁年を取ると︑どうも創作の仕事は出来なく
なる﹂と︑愚痴ともつかず嗟嘆ともつかず︑沁み沁み漏
らしているのを聞いて︑僕など何だかおかしい気がした
が︵五十歳前後くらい︑べつに年寄りとも思えないので︶︑
やっぱり早熟の人で︑一生の仕事を早く仕上げてしまっ
たのだろう︒何しろ出世作の﹁龜甲鶴﹂を発表したのは
二十三歳の年であるとしても︑その前に﹁水の流れ﹂
﹁色是魔﹂などを﹁千紫萬紅﹂に投書して︑尾崎紅葉に
しきぜ
ま
認められたのは︑僅かに十八歳である︒
︱後年早熟の
天才として名を謳われた島田淸次郎が︑﹁地上﹂の第一
59
部を書いたのが二十歳だというから︑︵発表したのは二
十一歳の時︶小栗風葉の方が︑それよりも更に二年だけ
早熟というわけである︒
創造上の才能という点になると兎に角として︑感受性
は敏感だから︑先駆者とは言えないまでも︑時代思潮の
動きなどに対しても︑もちろん鋭敏な感じ方をしていた︒
森鷗外が坪内逍遙との没理想に関する論戦を契機とし
て︑初めて日本に紹介したハルトマンや︑フォルケルト
の美学を︵明治三十二年︶読んで︑最も早くその影響を
受けたのも小栗風葉なら︑二葉亭四迷のロシヤ文学の飜
60
訳を︵主としてツルゲーネフの﹁ルーヂン﹂など︒これ
の飜訳を最初に読んだのは明治三十五年のことで︑風葉
は自らこの作によって︑思想上の一転化を来したと言っ
ている︒︶読んだり︑それからその当時新しい文学者の
グループとして有名だった龍土會などにも出席して︑田
山花袋︑國木田獨歩︑柳田國男などという人々とも親し
く交際して︑それ等の人々を通して絶えず泰西の新文学
や新思想の刺戟を受け︑従来の硯友社文学の行き方に︑
常に飽足りない感じを持っていた︒その点に小栗風葉は︑
十年一日というか︑三つ児の魂百までというか︑初めか
61
ら終いまで文学上の傾向が一貫して変わらなかった泉鏡
花などとは︑大分その質を異にしている︒
だから﹁靑春﹂を書く前︑既に明治三十四年には︑そ
れまでの硯友社文学とは大いに趣を異にしたところの︑
後世の文学史家をして言わしむれば︑自然主義文学の先
駆的意味を持つと言ってもいい﹁さめたる女﹂を︑翌三
十五年には﹁沼の女﹂を書いている︒﹁靑春﹂は前にも
言った通り︑客観的の時代としては︑硯友社文学が勢力
を失って︑未だ自然主義文学が興らず︑その過渡時代に︑
そして個人的には旧来の文学に飽足りず︑そうかと言っ
62
て新しい文学主潮は︑まだしっかりと把握出来ずに︑作
者が懐疑に苦しんでいる二︑三年の間に書かれたもので
ある︒
人に依っては﹁靑春﹂を︑一口に﹁ルーヂン﹂の焼き
直しのように言い捨ててしまうし︑また︑その文学的価
値が単に文章だけに止って︑内容的にはさながら附焼刃
に過ぎなくて︑独自性など全く乏しいように貶し去って
しまう︒が︑これは二つとも当たらない︒風葉晩年の創
作態度が不純で︑振わなかったのと︑たまたま風葉引退
後の文学風潮というものが︑極度に心境小説偏重の弊に
63
陥り︑たとえば小説といえば志賀直哉とか︑葛西善藏な
どの作品でなくてはならないように思われた時代があっ
たが︑そういう時代風潮と規準とから︑作家小栗風葉と
その諸作品とは︑ちょうど決定的評価を受けなければな
らないような時期に当ったので︑そのために小栗風葉と
いう作家はどれくらい損をしているか知れない︒風葉の
諸作品も不当に貶せられた評価を受けて︑片隅の方に押
し込められてしまっているのだが︑これは決して公正と
は言えない︒
ここに﹁靑春﹂だけについて言って見ても︑文学史上
64
に於いて占めらるべき価値というものは︑相当に重要な
ものでなくてはならない︒たとえば田山花袋の﹁重右衞
門の最後﹂だとか﹁蒲團﹂だとかいう作品の価値は相当
高く評価されている︒だが︑それ等の作品が日本の自然
主義文学運動というものとの関聯に於て︑文学史的には
重要性を持つものではあっても︑作品としては一向にツ
マらない︑下手くそなものである︒それを後の人々は︑
作品としての公正な評価を与えるよりも︑先ず文学史的
に重要性を持ち︑有名であるということのために︑それ
を作品そのものの価値と混同して︑恰も文学作品として
65
すぐれている故に︑重要であり︑有名であるという如く
早呑み込みをしてしまっているのである︒
なるほど﹁靑春﹂は︑﹁ルーヂン﹂の影響によって書
かれたものであり︑もし作者が﹁ルーヂン﹂を読まなか
ったら︑﹁靑春﹂は書かなかったに違いない作品ではあ
るが︑しかし決して﹁靑春﹂は﹁ルーヂン﹂の模倣でも
なければ︑焼き直しでもない︒﹁靑春﹂を﹁ルーヂン﹂
の焼き直しだというのなら︑島崎藤村の﹁破戒﹂はドス
トエフスキイの﹁罪と罰﹂のもっとひどい焼き直しと言
わなければなるまい︒僕をして言わしむれば﹁ルーヂン﹂
66
によって風葉自身の持っているものが眼覚め︑その自覚
に基づいて﹁靑春﹂は書かれたものであって﹁靑春﹂を
書くだけのものは︑風葉自身その内奥に持っていたので
ある︒決して模倣でもなければ附焼刃でもなく︑﹁靑春﹂
に描かれているところの苦悶と懐疑とは︑作者その人の
懐疑と苦悶とを真率に描写したものであると言ってい
い︒作中の主要人物であるところの欽哉や︑繁や︑速男
などという人物のタイプは︑確かに明治末期の日本の社
会に実在して︑新しい思潮を身につけた青年男女の性格
の生きた描写である︒そのモデルのごときも︑後年僕は
67
作者から直接聞いたことがあるが︑欽哉は作者自身︑繁
という女性も実在の人物でモデルがあるし︑速男は外見
だけのモデルとして︑柳田國男氏を念頭に置いて書いた
ものだということであった︒
それはとにかく︑﹁靑春﹂は確かに︑明治末期の新思
潮に眼覚めさせられた人物を描いて︑しかも作者の実感
の裏附けがあり︑作者自身の思想体験を描写しているの
で︑惻々として読者の胸に迫るものがある︒附焼刃や模
倣ではそのような真実の迫力があるはずはなく︑当時の
青年子女を熱狂せしめることなど出来ないはずである︒
68
現に僕などは遠く北海道にいて︑単に﹁靑春﹂を愛読し
たばかりでなく︑僕が近代精神に眼覚めさせられたのは︑
まったく与って﹁靑春﹂に依るものだと言わなければな
らない︒
僕は﹁靑春﹂を読んで︑初めて近代思想に触れ︑近代
文学の何たるかを朧ろげながらにも知ると同時に︑それ
まで画家になろうと思ったり︑商船学校に入って航海家
になろうと思って︑それの入学試験の準備をしたり︑友
達といっしょに師範学校に入ろうかと思ったり︑いろい
ろ迷っていたのが︑作家になることに決心を固めた︒し
69
かし作家として立つには︑北海道の辺鄙な農村にいたっ
て仕方がない︒どうしても東京に出て勉強しなくてなら
ない︒が︑そんな志望を打ち明けたところで︑とても父
の許しが得られるはずがない︒
そこで僕は︑自分で旅費を作って︑その上でのっぴき
させずに父の許しを得ることにしようと思った︒そして
旅費を得る手段として小学校の教員になって働こうと︑
空知支庁に視学官を訪ねて︑教員になりたいと頼んだ︒
一度の面識があるわけでもなければ︑誰の紹介状を持っ
て行ったわけでもないが︑幸いなことに僕が同人雑誌を
70
出していたりしたので︑視学は僕に厚意を持ってくれて︑
直ぐに代用教員に採用してくれた︒しかも初任給として
十一円であったが︑これはその当時の代用教員としては
ナカナカ優遇の方で︑普通七︑八円くらいが当り前だっ
たのである︒
ちょうどその頃は︑今の新潮社社長の佐藤義亮氏が出
していた第一期の﹁新聲﹂を譲渡した後のことである︒
そして﹁新聲﹂は隆文館から草村北星︵昔︑通俗小説な
ど書いたことがある︶がアトを華々しく出したので︑僕
なども前金を払い込んで購読していたが︑四︑五冊くら
71
いしか出なかった︒前金が払い込んであるのに雑誌を送
って来ないので︑手厳しい催促をして草村北星から︑一
丈以上もある長い弁解の手紙を貰ったりしたことを覚え
ている︒
僕が代用教員として務めたのは清真布というところの
尋常高等学校だったが︑自分でオルガンをひいて唱歌も
教えれば︑体操も教えなければならない始末だった︒そ
の上に受持の教員の都合などで︑臨時に高等四年の算術
を教えなければならないようなことも一再ではなかっ
た︒しかし︑僕には高等四年の算術なんか何にも分から
72
ないので︑仕方がないからその頃︑ちょうど国民中学会
から宣伝のために全国の小学校にグリムのお伽話を一冊
︵菊判三百ページくらいで総クロースの立派な製本だっ
た︶寄贈して来ていたのを持ち出して︑算術の時間にそ
れを朗読してやると︑生徒たちがとても喜んで︑おかげ
で僕は先生の中でも人気があった方だ︒
その小学校に足かけ四年︑まる二年半足らず勤めてい
る中に︑月給が二度上がって十三円になり︑十四円にな
った︒が︑上京の旅費はナカナカ溜らない︒グズグズし
ていれば︑教員で尻が落着きそうになる︒学校では校長
73
をそそのかして︑教育何とやらという題名の月刊雑誌を
役場の費用で出すことにして︵自分の同人雑誌は︑その
ずっと前に廃刊していた︶︑その編輯を一任されて︑僕
は小説などを書いていた︒
東京では自然主義文学運動が︑ようやくハッキリした
形を取って表面に現われ︑田山花袋の主宰する﹁文章世
界﹂なども華々しく創刊されることになった︒僕も﹁中
學世界﹂の広告か何かでその創刊号の作品募集の規定を
見て︑短篇小説を一つ投じて見ると︑たった一篇の当選
作の次に︑選外佳作として掲載されているではないか︒
74
投書することはしたものの︑どうも予期しないところで︑
夢のような気がして︑何遍か眼をこするようにして見直
したりした︒
だが︑ちゃんと田山花袋の批評も載っているし︑しか
もナカナカ見込みがあるような批評である︒嬉しくて堪
らなく︑それから僕は投書というものの味を覚えて︑単
に短篇小説ばかりでなく︑叙事文だの叙情文だの︑小品
文だのと︑一年間くらいの間というものは
︱上京して
からも毎月欠かさず﹁文章世界﹂だけに投書した︒自然
主義文学が台頭の一方に︑薄田泣菫などの星菫派が盛ん
75
で︑すみれ色のインキなどが流行していた時代である︒
僕などもその風潮にカブれて︑泣花と号していたのであ
る︒
76
第三章
外国文学の移入と出版企業
企業としての出版
︱文物制度の移入と比較して
︱海外文学の移植
︱二葉亭四迷とツルゲーネ
フの作品
︱獨歩の作品とツルゲーネフの影響
︱ロシア作家八人の短篇集﹁毒の園﹂
︱﹁死
の勝利﹂の実演
︱文学勉強のための二つの路
︱出版社と文学志望者の関係
77
最近では雑誌の発行とか︑文学書の出版というような
仕事も︑他の生産部門の事業と同じく︑文化部門に於け
る大きな企業である︒支那事変勃発の二︑三年前ごろの
時代には︑個人経営の出版事業者の納める直接国税が︑
その当時まで日本の二大財閥として重きをなしていた
︵今だってそうだが︶三井や三菱の当主が納める税金よ
りも遥かに高額を示していたこともあった︒即ち日本第
一位の直接国税の高額納税者が︑出版事業主であったこ
78
とも︑たしか四︑五年間くらいつづいていたと思う︒
とにかく出版ということも︑それくらい大きな事業と
して成り立つようになって来ているのであるが︑もちろ
ん︑それはやっぱり近代資本主義の発達に伴って︑必然
に促された結果である︒その傾向は日露戦争後から次第
に上昇の跡をたどり︑第一次欧州大戦中からその直後に
かけて︑ずっとつづいて来た日本の経済界の膨張期︑事
業界の好況時代の波に乗って︑また出版事業も大きな飛
躍を遂げたものであると言っていい︒そして︑恰も文学
の領域との関係に於ける出版事業の膨張発展というもの
79
は︑自然主義文学の勃興と︑それから自然主義文学の後
を受けて︑大正初期の頃から大正十二年の関東大震災の
前後︑プロレタリア文学の擡頭期の頃まで︑文学の主流
としてその勢力を張っていた人道主義文学︑享楽主義文
学︑新技巧派の文学などの興隆と︑その歩調を合わせて
いるのである︒そして亦︑この文学の興隆ということが︑
決して社会的現実から遊離したものではない︒即ち文学
の興隆という現象の一皮奥を考えて見ると︑近代資本主
ひとかわ
義の発達という社会的現実に必然に突き当らざるを得な
いのである︒それと同時に出版事業の近代企業としての
80
発達という事実も︑それは決して単独の現象ではない︒
他の社会的現実と共に文学の興隆という事実と︑切って
も切れない相関関係に結び附けられているところの必然
の現われとして見るべきである︒
それからもう一つ︑出版事業の発展を促したところの
重要な要素を︑見遁すことは出来ない︒それは海外文学
の移植ということであって︑いったい政治思想その他の
社会文物や制度というようなものは︵現在の言葉でいえ
ば文化︑風俗などというところであろう︶︑開国と同時
に︑欧米から非常な勢いで流れ込みもしたし︑また日本
81
としても意識的に受入れ︑消化吸収して自国の文化や生
活を向上せしめ︑開発する上に役立たせるように努めて
来たのである︒それが明治年代から大正年代を通じ︑昭
和もつい最近に至るまでの日本の現実だったのである
が︑それが文学の方面では割合に遅れていたと思う︒森
田思軒だとか︑原抱一庵だとか︑二葉亭四迷だとか︑矢
崎嵯峨之舎だとか︑坪内逍遙︑上田敏︑森鷗外︑内田魯
庵などという人々が︑それぞれ多少の英文学や︑ロシヤ
文学︑その他の泰西の思潮や︑文学や︑詩などを紹介し
たり︑移植したりしているのであるが︑明治三十年代ま
82
では他の領域の文化文物の移入に比べると︑実に微々た
るものだったと言わなければならないのである︒
海外文学の移植が
︱即ち飜訳の出版が︑本格的に盛
んだったのは︑大正年代と昭和の初め頃との凡そ十五︑
六年間くらいが︑中心ではなかったかと思う︒事実上飜訳
というものが出版界の仕事の対象として採り上げられる
に至ったのは︑明治四十年ごろからのことであろう︒そし
て︑何と言っても文学作品の飜訳出版の上で︑つまり海
外文学の移植という点で︑第一の功労者は新潮社である
と言わねばなるまい︒社長佐藤義亮氏は︑新潮社創立四十
83
周年に際して︑広く文壇から祝賀を寄せられた時︑記念
として関係者に寄贈した﹁新潮社四十年﹂︵非売品︑昭
和十一年十一月発行︶に於いて︑次のように述べている︒
﹁四十年頃から︵明治︶︑私は外国文学の出版につ
いて考へだした︒日本の文壇の革新運動といつたとこ
ろが︑畢竟するに︑外国文学の影響によるのが大きい
から︑今後必ず外国文学飜訳の要求が起こるに相違な
い︒それを見越して飜訳出版をやらうと決心し︑第一
番にツルゲーネフから始め︑段々他に及ぼさうと思つ
た﹂
84
なぜ佐藤氏が︑海外文学紹介の第一着手としてツルゲ
ーネフを選んだかというと︑それには理由がある︒二葉
亭四迷が﹁獵人日記﹂の一節を訳して﹁あひびき﹂と題
して﹁國民之友﹂に発表したのを見て︑ひどく感心した
のが︑抑々の原因だというのである︒この﹁あひびき﹂
そもそも
に感心し︑胸を打たれたのは︑必ずしも佐藤氏一人では
ない︒二葉亭が訳したツルゲーネフの﹁あひびき﹂や﹁め
ぐりあひ﹂︵同じくツルゲーネフの﹁獵人日記﹂の中の
ものだが︑発表されたのは︑﹁あひびき﹂より少し遅れ
ている︒因みにこれ等の発表年月をはっきり記しておく
85
と︑﹁あひびき﹂は明治二十一年七月︑﹁國民之友﹂第
二十五号の臨時附録に︑﹁めぐりあひ﹂は︑同じ年十月
に創刊された﹁都の花﹂の創刊号に掲載されたものであ
る︶などを読んだ当時の文学青年にして︑何等かの意味
で心をうごかされ︑多少の影響を受けなかった者は︑ひ
とりもいないと言っても過言ではなかろう︒殊に國木田
獨歩の﹁武蔵野﹂の描写など︑ツルゲーネフのこれ等の
飜訳に負うところ︑いかに大きいかということは︑作品
そのものが歴々として語っているところである︒単に﹁武
蔵野﹂ばかりではない︒﹁空知川の岸邊﹂やその他の作
86
品にしても︑獨歩の自然観察の眼や︑自然描写の文章と
いうものは︑まったくツルゲーネフによって養われたも
のと言っていいだろう︒
日本に発達した近代文学の初期においては︑ゾラや︑
フロオベエルや︑モウパッサンや︑フランスの自然派文
学が与えた影響も大きいが︑またロシヤ文学から受けた
影響も大きいと言わねばならない︒トルストイや︑ドス
トエフスキイや︑チェホフや︑ゴーリキイ︑アンドレー
フなどの諸作品︑レルモントフの﹁現代の英雄﹂や︑ゴ
ンチャロフの﹁オブローモフ﹂などというロシヤ文学の
87
諸作品が︑完全に日本に紹介されるようになったのは︑
ツルゲーネフの紹介よりもずっと遅れて後のことであ
る︒何といっても日本の近代文学の覚醒期とも言うべき
時代に先立って逸早く紹介されて︑日本の近代文学運動
の上に大きな影響をもたらしたのは︑ツルゲーネフであ
ると言ってよかろう︒前にも書いたように小栗風葉の﹁靑
春﹂は﹁ルーヂン﹂の影響によって生まれたものと言っ
ていいし︑また︑この﹁ルーヂン﹂の懐疑思想や︑同じ
作者の﹁父と子﹂という作品
︱その題名からも想像さ
れるように︑新旧思想の対立とか︑あるいは主人公バザ
88
ロフの思想傾向から初めて名づけられたという虚無主義
など︑近代文学思潮の自覚の上に︑ツルゲーネフは相当
大きな影響を及ぼしていると言わねばならぬ︒
また︑田山花袋氏も︑後に自然主義文学の尖鋭なる闘
将として活躍していた時代になると︑主としてモウパッ
サン︑ゴンクールなどのフランス文学を推賞して︑﹁ど
うもツルゲーネフは甘い﹂などと言って︑貶していたが︑
﹁あひびき﹂や﹁めぐりあひ﹂などを読んだ時代には︑
國木田獨歩や小栗風葉などと同じく︑悉くツルゲーネフ
に心を傾け︑没頭していたのである︒佐藤氏はその頃の
89
ことを︑﹁当時の田山さんは酒を飲むときつと︑と云つ
てもよい位ゐにツルゲーネフの話をされた︒ツルゲーネ
フの書く恋はいいね︑といつて︑その一篇の梗概を︑い
かにも感傷的の調子で語られたりした︒私もひどくそれ
に動かされて︑飜訳出版はツルゲーネフから始めようと
決めたのである﹂と︑書いている︒
とにかく︑そういうような事情から︑佐藤氏が文学作
品の飜訳書出版に心を向けた時︑第一番に着目したのが︑
ツルゲーネフだったというのである︒そして相馬御風氏
の飜訳によって︑新潮社が﹁父と子﹂を出版したのが明
90
治四十二年のことである︒﹁増版約五回︑飜訳書は売れ
ない︑といふ出版界共通の迷信を打破するだけの売れ行
きだつた﹂と佐藤氏は言っている︒引きつづいて四十三
年にはツルゲーネフの﹁貴族の家﹂を同じ訳者で︑四十
五年には昇曙夢氏の訳したロシヤ作家八人の短篇を集め
た﹁毒の園﹂︵明治四十五年六月︶を出版している︒が︑
何といっても新潮社が飜訳出版の上で重きをなしたの
は︑佐藤氏も言っているように﹁近代名著文庫﹂の刊行
を企て︑その第一編としてダヌンチオの﹁死の勝利﹂を︑
生田長江の飜訳に依って出版したことに依ると言ってい
91
い︒﹁死の勝利﹂が出版されたのは大正二年一月三日で
ある︒ちょうどこの前あたりから泰西文学の移植が︑日
本の近代文学発達のための喫緊時として要望されていた
ところへ︑一般の読書階級の嗜好としても︑また︑よう
やく泰西の文学を享け入れる機が熟していたにちがいな
いのである︒もう一つの条件としては佐藤氏が︑やっぱ
り﹁新潮社四十年﹂に書いているように︑﹁当時︑森田
草平氏が平塚雷鳥女史と死地を求めて塩原の奥︑雪の尾
花峠に分け入つたといふ新聞の特大記事が出たが︑それ
は﹃死の勝利﹄の影響から︑原作そのままを実演したの
92
だといふので︑この作の名は世間的にひろく知られてゐ
た﹂結果でもあり︑また﹁そんなことも手伝つて飜訳物
としては全く記録やぶりの売れ行きを示した﹂のである
ことも事実であろう︒
﹁死の勝利﹂が出版として当ったことは︑それはその
通りの事情に依るには違いないのでもあろう︒しかし︑
ちょうどこの時代が︑他の文化︑文物と比べるとそれま
で多少遅れていたところの海外文学の移入に対して︑日
本の文壇や一般の知識階級などの間に︑それを迎え入れ
るだけの準備が出来て︑機運が十分熟していたればこそ
93
であると考えても︑間違いではなかろう︒それならこそ
大正時代から昭和年代の初期に亙って︑あれほど盛んな
海外文学の移入時代を現出したのである︒
もちろん︑この海外文学の移入は︑必ずしも新潮社だ
けの仕事ではない︒飜訳書の出版景気に煽られて︑植竹
書院などという出版社が生まれて︑二︑三年経つか経た
ない中に︑すぐに失敗して潰れてしまったが︑かなり飜
訳書を出版した︒他にもそれと同じような出版社が︑現
われたり消えたりしたものも四︑五では留まらないだろ
う︒また國民文庫刊行會だとか︑博文館などでも︑尨大
94
な飜訳叢書を出せば︑有力な出版社で︑やっぱり盛んに
文学作品の飜訳書を出版した︒この時代に泰西の古典か
ら近代文学に至るまで︑殆ど眼ぼしいと思われる作家と
作品の全部が移植され尽くしたと言っても過言ではなか
ろう︒
単に新潮社の飜訳書の出版だけについて言って見て
も︑﹁近代名著文庫﹂以降この期間だけに︑幾種類の飜
訳書のシリーズや︑全集などが企てられ︑幾百冊の飜訳
書が世に送られたことか︒そして遂いに昭和二年には飜
訳文学の集大成とも見るべき﹁世界文學全集﹂三十八巻
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という尨大な出版が所謂円本に依って企てられ︑これが
また正味五十八万という出版界空前の読者数を獲得した
という壮大極まりない成功を博したというのである︒と
にかく︑明治四十年代もそこそこの時代には︑﹁飜訳物
は売れない﹂ということに相場が決っていたものが︑昭
和二年には飜訳書の出版に依って︑これだけの読者数を
贏ち得ることになったのである︒単に飜訳書ばかりでは
かない︒明治の末期から大正年代も初期の頃までは︑いか
に文運盛んなりとは言っても︑出版事業はまだまだ手工
業的な︑極めて小規模な域を脱することが出来なかった︒
96
それが出版事業も他の部門の産業と肩を並べて︑大きな
企業としての機構と組織とを持つことになって来たの
は︑全く昭和年代に入ってからのことで︑即ち円本出版
を境にして︑一大飛躍を遂げたものと言わねばならぬ︒
思わず筆が滑って︑出版界の事情など長々と書いてし
まったが︑あながち余計なことでもあるまい︒若い読者
のためには文学書出版の歴史について︑多少の参考にで
もなるだろうか?
しかし︑僕の本旨は︑出版事業が今
のように大きな企業になるまでは︑即ち明治年代のまだ
手工業的だった時代には︑雑誌の発行所や出版社という
97
ものと︑読者との間の親しみが深くて︑両者の間の気持
ちや感情が常によく疎通し︑交流していたことを言いた
かったのである︒ことに文学雑誌の読者など︑全部が文
学志望の青年と言ってよく︑ひらの読者などひとりもい
、、
なかったと言ってよかろう︒だから読者が文章を書いて
雑誌社に送ると︑すぐれているものだと堂々と大家と並
べて発表してくれる︒また︑投書欄のある雑誌だと選を
して掲載したり︑批評してくれたり︑いいものには賞金
をくれたりした︒
同人雑誌などというものがなかった時代には︑皆そう
98
して文章や文学の勉強をしたのである︒中には投書に依
って見出されて︑地方の文学青年がわざわざ招かれて︑
一躍記者の位置を与えられるというような例も︑敢えて
珍しくはなかった︒また︑これは文学雑誌ではなく新聞
のことだが︑投書から見出されて記者に招聘されたり︑
寄稿家として契約されたりして︑一流の新聞記者︑立派
な論説記者となったり︑それを振り出しに︑後には政治
家として立ったというような実例も︑昔は少なくなかっ
た︒つまりそれだけ文筆の仕事が︑職業として確立して
いなかったのである︒明治三十年代ごろまでの文学青年
99
で︑投書の経験など一度も知らないという人は︑おそらく
ひとりもいないだろう︒現在︑五十歳近くから五十歳以
上の年齢の文学者は︑ちょうど明治三十年代から四十年
そこそこくらいの時分が︑文学青年時代に相当している
はずだが︑それ等の人々のすべてが︑多かれ少なかれ投書
の経験を持っていないという人はいないと言っていい︒
現在では何十万部とか何万部と出る雑誌や書籍も︑遂
に一個の文化小品であるに過ぎないのだが︑何百とか何
千くらいの部数しか出なかった時代には︑それは決して
単なる商品ではなかったのだ︒出版社の側でも読者の方
100
でも︑書籍や雑誌を通じて︑﹁他人でない﹂心からの温
かな親密さを感じ合っていたのである︒だからこれは後
でも触れたいと思っていることだが︑明治三十年代当時
には︑よく誌友会というようなことが催されて︑読者と
編輯者や出版者などが一堂に会して歓を尽し︑親睦の実
を挙げるというようなことも度々だった︒
当時の文学青年が︑文学を勉強する道としては︑投書
と︑それからもう一つ先輩大家に師事することであった︒
自分の尊敬する大家を選んで︑弟子とか門下生などにな
って︑文章や文学の道について︑いろいろ指導して貰う
101
のである︒大正年代になるとそういう旧式な徒弟的の修
業法というものは︑少なくも文学の職域においては︑全
く跡を没したと言っていい︒だが︑明治の末期ごろまで
は︑それが唯一のとは言えないが︑一つの文学の勉強の
道だったのである︒
そこで僕は︑﹁文章世界﹂への初めての投書の当選で︑
いよいよ文学に対する情熱を煽られたのと︑﹁靑春﹂を
読んで︑すっかり小栗風葉を崇拝して︑門下生となって
専門に文学を勉強する決意をますます固くしていたの
で︑上京を急いだ︒恰も︑明治三十九年の春には徴兵検
102
査もすましたし︑いつまで経っても金は少しも残らなか
ったが︑三年ばかり勤めた小学教員の退職慰労金と︑十
人ばかりいた同僚から貰える餞別金とを当てにして︑そ
れを旅費にして上京するつもりで︑明治四十年の学年末
を区切りにして辞職した︒そしてすぐに柳行李一つ︑ズ
ックの鞄一つという身軽さで
︱と言えばていさいがい
いが︑貧弱さで上京した︒
だが︑師匠と眼指す肝腎の小栗風葉には︑手紙一本出
したことがあるわけではなく︑作品一つ見てもらったこ
ともない︒どういう手蔓で︑どうして会ったらいいかも
103
分らない︒毎日︑近くの大橋図書館などに通って︑ぐず
ぐずしている中に︑実に不思議な引っかかりから︑おか
しなところで大町桂月に会えることになった︒そして桂
月から貰った紹介状で小栗風葉を訪ね︑田山花袋を訪ね
ることになったのである︒
104
第四章
文芸批評と大町桂月
田山花袋の﹁蒲團﹂
︱自然主義文学前駆の作家
と作品
︱新文学運動と詩の役割
︱総合雑誌の
発展と小説中心
︱﹁中央公論﹂﹁太陽﹂﹁文藝倶
樂部﹂﹁新小說﹂など
︱山田美妙と言文一致︑口
語体の文章
︱大町桂月の美文
︱﹁学生訓﹂﹁社
会訓﹂﹁人生訓﹂など
︱桂月の人物のこと
105
日本の近代文学運動が︑はっきりした形をもって現わ
れたのは︑何といっても自然主義文学以後のことと言わ
ねばならない︒自然主義文学運動が︑真に新しい自覚の
下に展開されたのは︑日露戦争以降
︱即ち田山花袋の
﹁蒲團﹂︵明治四十年九月﹁新小說﹂掲載︶が発表され
る前後からである︒坪内逍遙の﹁小說神髓﹂や︑その理
論を実践した﹁當世書生氣質﹂︵明治十八年︶﹁妹と脊
鏡﹂︵明治十九年︶それから二葉亭四迷の﹁浮雲﹂︵第
106
一編は明治二十年︶などが現われたことは︑日本新文学
の黎明を物語るものではあっても︑それを以て直ちに︑
未だ本格の近代文学運動を展開したものと見做すわけに
はいかないだろう︒
硯友社文学だって︑明治初期の文学の混沌時代に︑一
時勢力を
擅
にした政治小説や︑実話小説や︑飜訳小
ほしいまま
説などに比べたら︑もちろん一種の新文学には相違ない
が︑新しい自覚を持った近代文学運動とは︑どうしても
言えないと思う︒世態風俗や人情のリアリズムには︑文
明開化の風潮に吹きさらされたその当時の生活を十分に
107
反映した新しいところがないとは言えない︒また︑物を
見る眼や︑技巧や文章などの上にも︑新時代の教養を身
に附けただけに︑多少の新味がないとは言えないことも
事実である︒しかし︑それは前時代までの作品に比較し
てのことであって︑硯友社文学というものの基本は︑帰
するところ元禄時代の文学や︑江戸末期の文学の影響に
依拠しているところが大きいと言わねばならない︒つま
り身に纏うた衣裳は新しいとしても︑真に本質的には近
代文学であるとは言えないのではないか︒
それからまた︑後世の文学史家の中には︑自然主義前
108
派なる一連の作品を認めて︑それ等の作品をもって︑自
然主義文学の先駆をなすものという説を樹てている人々
もいる︒たとえば小杉天外氏の﹁初姿﹂︵明治三十三年︶
であるとか︑﹁はやり唄﹂︵明治三十五年︶であるとか︑
小栗風葉の﹁さめたる女﹂︵明治三十四年︶﹁涼炎﹂︵明
治三十五年︶﹁沼の女﹂︵明治三十五年︶だとか︑田山
花袋の﹁重右衞門の最後﹂︵明治三十五年︶だとか︑そ
れらの一連の作品をもって︑自然主義前派をなすものと
する見方である︒
もちろん︑新しい文学運動が興るには興るだけの理由
109
がなければならないし︑決して偶然ではないだろう︒先駆
もなく︑機運もなくして︑突如として起るはずがない︒だ
から日本の近代文学運動が展開されるについても︑それ
だけの必然と根拠とがなければならない︒そういう建前
からして深く原因を探ってゆけば︑後年の近代文学運動
というものは︑既に明治二十年ごろの新文学の黎明期か
ら︑脈を引いているのだと考えられないことはない︒明
治二十年前後の黎明期の文学に依って︑必然に明治三十
年代の開化期の文学が招来され︑それから更に明治末期
の近代文学運動へと導かれたものであると言っていい︒
110
しかし︑その間に於いて日本の新文学運動のために常
に新しい思潮を注入し︑刺戟し︑啓発し︑新傾向へと導
いたものは︑多く詩の役割であって︑新文学への自覚に
対する功績という点では︑詩を無視するわけにはいかな
いと思う︒現在では文学の伝統の中心は︑主として小説
にあるものとされている︒詩とか文学批評などの役割は︑
中心よりは多少外れた位置に置いて考えられているよう
な傾きがなくもない︒文学と言えば先ず小説ということ
になっている︒しかし︑この小説中心の風潮が勢力を占
めるようになったのは︑自然主義文学以後のことである︒
111
自然主義文学が完成すると︑いつの間にか文学と言えば︑
小説中心という観念が瀰漫していた︒それでも誰も怪し
び
まん
む者がいないような状態に導かれていた︒それは主とし
て日本の総合雑誌の発展期
︱具体的に一つの雑誌を挙
げて列記すれば︑明治末期から大正年代にわたって瀧田
樗蔭が﹁中央公論﹂編輯者として全盛を極めた時代を通
じて︑そういう小説中心の傾向が作られたのだと思う︒
もちろん︑それが独り瀧田樗蔭のせいであるなどと言っ
ているのではない︒しかし︑﹁中央公論﹂を初め︑新し
く創刊されるすべての総合雑誌は︵現在の総合雑誌は︑
112
すべて大正時代以後に創刊されたものだが︶︑詩など全
く無視して来ているし︑文芸批評などもほんのお義理の
ように︑一つくらい入れたり入れなかったりという状態
である︒
詩や︑文学批評に対するジャーナリズムのこの無視や
閑却ぶりが︑一般的に詩や文芸批評に対する軽視の風潮
を作らなかったとは言えないだろうし︑一般的なその風
潮をジャーナリズムが反映して︑詩や文芸批評の無視や
軽視の傾向を更に益々助長して来たとも言えなくはない
だろう︒尤も︑その間にも一方には﹁スバル﹂だとか﹁明
113
星﹂だとか︑﹁日本詩人﹂だとか︑詩中心の雑誌︑もし
くは詩専門の雑誌が現われて︑詩運動の新しい展開を示
していないことはない︒北原白秋氏のような有力な専門
詩人も現われて︑詩のために尽くして来ている︒しかし︑
それにしても詩が文学の中心から多少でも外れているも
のだというような通念は︑現在でも決して是正されてい
ないのが事実である︒
明治三十年代は詩が最も華やかな時代だったのではな
いかと思うし︑日本文学の上でも詩が︑最も重要な役割
を占めていたと見るべきではなかろうか︒文芸批評も重
114
んじられていた︒﹁中央公論﹂は編輯者瀧田樗蔭によっ
て︑自然主義文学の興隆と共に︑小説中心に取り扱うこ
とによって︑総合雑誌としての発展を遂げたのであると
見られぬこともない︒その以前の﹁中央公論﹂
︱歴史
は古いが︑明治二十年代から三十年代の初めごろにかけ
ての﹁中央公論﹂は︑まだ京都の方で﹁反省雑誌﹂とい
う題名で︵明治二十年八月︑﹁反省會雑誌﹂として︑創
刊されしもの︶︑西本願寺の機関雑誌として︑微々とし
て振わないものであった︵本社が東京に移転したのは明
治二十九年?﹁中央公論﹂と改題したのは︑明治三十
115
二年一月のことという︶︒何と言ってもその当時の有力
な総合雑誌としては︑博文館の﹁太陽﹂がただ一つだっ
たと言っていいだろう︒この雑誌にも当時の習慣として︑
初めの中は小説など少しも重んじられていなかったし︑
﹁文藝倶樂部﹂﹁新小說﹂などという小説専門雑誌以外︑
文学雑誌などにも明治末期までは︑文芸批評や詩に比べ
て︑小説は余り重要視されていなかった︒ことに高山樗
牛が﹁太陽﹂専属の批評家として︑毎号文芸批評の筆を
揮い出してからは︑俄然文芸批評というものが一般的に
も重きをなすに至った︒つい最近も必要があって︑樗牛
116
全集五巻のあちこちを引っくり返して拾い読みして見
た︒日蓮などを賛美した英雄主義や︑美的生活論や︑ニ
イチェズムや︑社会意識や︑時代精神論など︑現在の眼
で見ると樗牛の批評も︑文章の調子なども︑年若くして
高科に上った才人として大いに気を負うている点から言
って︑景気のいいものではあるが︑しかし景気がいいだ
けで結局大摑みで︑鼻っぱしが強くても麤枝大葉の謗り
そ
し
たいよう
を免れない︒我々の胸を打ってくるところは少ないので
ある︒しかし︑樗牛が﹁太陽﹂誌上で盛んに活躍してい
た当時から︑その死後全集が現われたころまでは︑その
117
批評は我々青年の血を湧き立たせたものである︒それば
かりではなく︑当時の批評界においても権威だったのが
事実である︒文芸批評としても森鷗外や坪内逍遙と並ん
で
︱というよりも︑寧ろ新進気鋭の士として颯爽たる
存在を誇示していたのである︒
樗牛が胸の痼疾のために︑いよいよ批評の筆が執れな
くなって︑専心療養のために鎌倉に退いてからは︑その
後は襲うて﹁太陽﹂誌上に毎号文芸批評の筆を執ること
になったのは︑大町桂月だった︒が︑桂月の文芸批評は
大して生彩を放つことが出来なかった︒尤も︑桂月はそ
118
れまで﹁中學世界﹂に﹁學生訓﹂だとか︑﹁太陽﹂に﹁社
會訓﹂などというような種類のものを書いて︑文芸批評
家乃至は社会批評家というよりも︑多く文筆をもって青
年の啓蒙指導に当っていた︒だから文芸批評をやるにも
通俗な意味の道学者臭と︑普通の常識人としての円満性
妥当性が附きまとうて︑それが文芸批評の上でも邪魔に
なっていたのは︑どうも仕方がない︒
大町桂月の文学上の業績には︵広い意味の︶﹁契沖阿
閣梨﹂があるし︑支那文学大網中の一冊として﹁白楽天﹂
があり︑﹁詩及び散文﹂︵明治三十年︶と題する論著が
119
あり︑﹁大絃小絃﹂﹁文學小觀﹂︵明治三十二年︱三十三
年︶などもある︒しかし高須芳次郎氏が︑新潮社の﹁日
本文學大辭典﹂の中で言っているように︑桂月は﹁最も
叙事に長じ︑紀行・書簡に妙を得てゐた﹂のであって︑
﹁評論・史伝は彼の長所ではなく︑修養に関するものに
見るものがあつた﹂とする批判が︑当を得ているだろう︒
山田美妙が言文一致を主張して︑﹁風琴調一節﹂︵明
治二十年七月︶に於いてその実践を示し︑二葉亭四迷が
﹁浮雲﹂︵明治二十年七月︶を︑やっぱり言文一致で書
いても︑しかし日露戦争のころまでの日本には︑口語体
120
の文章というものは︑余り普及もしていなかったし︑従
ってそれほど発達もしていなかった︵ついでだから言っ
ておくが︑言文一致の主唱は山田美妙ではなくて︑二葉
亭四迷が先であると主張している人々もある︶︒だから
明治二十年代の樋口一葉の小説の文章は︑今の国語体の
文章を読み慣れた者には注釈でも附けないと分りにくい
かも知れないような文章だし︑明治三十三年の﹁不如歸﹂
だって︑あの通りの文章だし︑また尾崎紅葉晩年の大作
﹁金色夜叉﹂︵前編は明治三十年一月より﹁讀賣新聞﹂
に連載︶だって︑会話は現代語だが︑地の文はああいう
121
文章である︒
後には通俗小説として一般に普及し︑女子供でも知ら
ない者はないくらいな時代を現出した﹁不如歸﹂や﹁金
色夜叉﹂の文章まで︑その通りである︒高山樗牛の文芸
批評でも︑大町桂月の批評でも︑文章の上ではこの選に
漏れるものではない︒とにかく﹁もの﹂や﹁こと﹂を表
現するのは﹁文章﹂であり︑文章道の修練については中々
やかましい時代だった︒明治三十年代の終りごろ
︱即
ち自然主義文学が擡頭して︑技巧とか文章というものよ
りも︑先ず内容が重んじられるような風潮を作り︑そこ
122
へ白樺派などが次第に勢力を示して来て︑武者小路實篤
のああいう自由な文章が︑ようやく認められるようにな
って来る時代までというものは︑文学をやってゆくには
どうしても文章道の修練ということが︑第一のことに考
えられていたのである︒修辞だとか︑技巧だとか︑﹁も
の﹂を表現することは文章であり︑その文章は日常使用
する言葉では書けないもので︑別の文字や言語を並べな
ければならない︒小学校の低学年においても︑作文の題
が︵そのころは綴方とは言わなかった︶仮に﹁観梅の記﹂
とすれば﹁この日天気晴朗にして腰に一瓢を携へ⁝⁝
123
云々﹂というような具合に書かなければならなかったの
である︒
そんな具合で小説︑詩︑批評等々というような文章の
ほかに︑美文というものが流行していた︒美文の中でも
更に細別すれば叙事文︑叙情文︑叙景文︑紀行文などと
区別されるのであるが︑とにかく叙事にしろ︑叙情にし
ろ︑朗々誦するに足るような名文を書かなければならな
い︒その美文の流行時代に武島羽衣とか︑鹽井雨江とか︑
大橋乙羽などという人々と共に︑大町桂月も美文を甚だ
得意としていた︒︵田山花袋も美文がうまかったし︑当
124
時から新しい文学に魁して︑常に文壇に新鮮な風潮を送
っていた新聲社でも︑﹁花吹雪﹂︵明治三十五年︶と題
する美文集を出版し�