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23 マルクスの経済学批判 ・再審* - 1850 年代前半の貨幣論研究を手がか りに- はじめに 1 経済学批判の閉息幽 2 50 年代前半の貨幣給研究 - 「貨幣制度」の二重性の証紙- 3 「科学の革命」としての経済学批判 4 経済学批判の意義と 57 年の「序説」 むすぴにかえて はじめに 私 は先 の論文 「マルクスの貨幣商品説再考」 (正木1992)のなかで,マルクスが市場の領域 の固有の論理 を正当に評価す ることが結局で きなか ったために,みずか らの貨幣理論の もっと も根本的な概念規定の ところで大 きくつ まずいたことをあ きらかに しようと努めたoつま り資 本主義的生産様式の支配的な近代 ブルジ ョア社会の経済的構成 を, 「社会の表層」( 「経済学批 刺.原初積」一以下 「原初稀」 と略記-,MEGAII/2,49) 1 ) と「深部」(r経済学批判要綱』 一以下 「要綱』と略記-,MEGA Ⅱ/ 1 . 1,17 1 )か ら成 る重層 的構造 において理解 してお きな が ら,マルクスは,労働価値説 を資本主義的生産様式の もとでの生産過程 にその礎石を据 えた 全構造 を貫通する主柱へ と (純化) した ことによって,市場の領域を結局資本主義的生産過程 によって強 く締め上げて しまい,その固有の論理 を正当に評価することがで きなか った。 この 限界の もっとも典型的な現れが 「資本論j 第 1 部での「論理的貨幣商品説」(正木1992.ll) に見 られるとい うことが, さきの私の論文の結論であった。 ところでその際私は,マルクスの仕事を理解する上で,かれがみずか らの理論展開に与えた カテゴリー批判 とい う課選が重要であ り,その意味か らいえばあの 「表層」 と 「深部」 とか ら 〔キー・ワーズ〕 「ロンドン・ノート」,経済学批判, 「貨幣制度 」, 「単純流通」,軽済的形態 +本稿は,服部文男・佐藤金三郎絹r資本論体系J第1 巻(有斐陶より刊行予定)のために 1996 1 に書かれたものを土台にしているが,まったく独立した冷帯であることをことわっておく。 1) マルクスのテキストからの引用については .MEW およびMEGAの巻数とページを本文中に示す ことにする。なお邦訳のあるものについて可能なかぎり参照し,本稿の末尾の 「文献 リス ト」に挙げ ておくが,そのページについては,煩雑さを避けるために示さないことにする。

マルクスの経済学批判・再審* - Osaka City Universitydlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB...マルクスの経済学批判・再審 25 判体系の本格的な形成過程にあった1850年代に焦点を当てることによってその核心部分に接近

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  • 23

    マルクスの経済学批判 ・再審*- 1850年代前半の貨幣論研究を手がか りに-

    正 木 八 郎

    はじめに

    第1節 経済学批判の閉息幽

    第2節 50年代前半の貨幣給研究

    - 「貨幣制度」の二重性の証紙-

    第3節 「科学の革命」としての経済学批判

    第4節 経済学批判の意義と57年の 「序説」むすぴにかえて

    は じ め に

    私は先の論文 「マルクスの貨幣商品説再考」(正木1992)のなかで,マルクスが市場の領域

    の固有の論理を正当に評価することが結局できなかったために,みずからの貨幣理論のもっと

    も根本的な概念規定のところで大きくつまずいたことをあきらかにしようと努めたoつまり資

    本主義的生産様式の支配的な近代ブルジョア社会の経済的構成を,「社会の表層」(「経済学批刺.原初積」一以下 「原初稀」と略記-,MEGAII/2,49)1)と 「深部」(r経済学批判要綱』

    一以下 「要綱』と略記-,MEGAⅡ/1.1,171)から成る重層的構造において理解しておきな

    がら,マルクスは,労働価値説を資本主義的生産様式のもとでの生産過程にその礎石を据えた

    全構造を貫通する主柱へと (純化)したことによって,市場の領域を結局資本主義的生産過程

    によって強く締め上げてしまい,その固有の論理を正当に評価することができなかった。この

    限界のもっとも典型的な現れが 「資本論j第 1部での 「論理的貨幣商品説」(正木1992.ll)

    に見られるということが,さきの私の論文の結論であった。

    ところでその際私は,マルクスの仕事を理解する上で,かれがみずからの理論展開に与えた

    カテゴリー批判という課選が重要であり,その意味からいえばあの 「表層」と 「深部」とから

    〔キー・ワーズ〕

    「ロンドン・ノート」,経済学批判,「貨幣制度」,「単純流通」,軽済的形態+本稿は,服部文男・佐藤金三郎絹 r資本論体系J第1巻 (有斐陶より刊行予定)のために1996年1月

    に書かれたものを土台にしているが,まったく独立した冷帯であることをことわっておく。

    1) マルクスのテキストからの引用については.MEW およびMEGAの巻数とページを本文中に示す

    ことにする。なお邦訳のあるものについて可能なかぎり参照し,本稿の末尾の 「文献リスト」に挙げ

    ておくが,そのページについては,煩雑さを避けるために示さないことにする。

  • 24 経済学雑誌 第98巻 第2号

    構成される重層的構造において近代ブルジョア社会を捉えること- マルクス自身はそれを堅

    持できなかったとしても- が決定的な意味をもつことを指摘しておいた。マルクスの理論を

    カテゴリー批判としてみることによって,焦点はかれが自覚的に設定した経済学批判という課

    題に定められることになろう。そして前満で指摘したように,マルクスにあってはあの重層的

    構造の認識と経済学批判という課寛設定とは本来表裏一体の関係にあるはずのものであった。

    周知のように1844年以来断続的につづけられてきたマルクスの経済学研究は,1859年6月に出

    版された 『経済学批札 第1分冊.第1部資本について。第1簾資本一般』によって,その最

    初の成果が世に問われることとなったのであるが,厳密な体系的叙述のプランに基づいたこの

    『経済学批判』(以下 r批判』と略記)の表をそれ自体のなかに,晩年までつづけちれるマルク

    スの近代プルジョ7社会の理論的研究の一つの根本的な特徴が言い表されている。経済学批判

    という理論的実践の課題設定は,古典派経済学やマルクスがいうところの俗流経済学のみなら

    ず,かれ以後の諸経済学などからマルクスの仕事をかなり根本的なところで区別する種差をな

    すはずのものであった。しかしこの課題意識から出発したにもかかわらず,同時にマルクスは.

    流通部面としての市場の領域を,「自己更新の原理」をもたない (「原初稿」MEGAⅡ/2,76)

    「ブルジョア的稔生産過程のひとつの抽象的部面」(opclよ,68)にすぎないものとして体系構

    成を図り,近代ブルジョア社会の重層的構造を事実上単層化してしまい,その籍栗として貨幣

    論に本質的な難点をもたらすことになったのである。このことに関連して前稿で十分に展開で

    きなかった問題を二つ指摘することができる。一つは,一面で非常によく言及されるがことの

    性質上つねに暖昧さがつきまとう経済学批判というマルクスの理論的実践の課題設定の意味で

    あり,いま一つは,この経済学批判という課題設定がどのような意味であの重層的構造の認識

    と関連し,ひいては貨幣給の展開構造とどのような意味でかかわるのか,という問題である。

    この相関連する二つの問題は,マルクスの理論の放棄ないし忘却の上にではなく,その再検

    討の上に立った理論構築によって現代と切り結ぼうとする場合に,避けることはできないよう

    に思われるo最近わが国で岩井克人の r貨幣論J(1993)を契機にして,マルクスから出発し

    ながらもとくにその労働価値説に緊縛された貨幣本質論と発生論を超えて,貨幣論的アプロー

    チによる経済学の再構成の就みがいくつか現れている2)。しかしいまわれわれがもし経済的形

    態諸規定としての経済学的カテゴリーの批判的展開という面を継暴するべきであると考える場

    合には,この二つの間麓はいうまでもなく重要となってくる。この二つの間愚は.もちろん

    『資本論」に即しても解くことはかならずLも不可能ではないが.むしろマルクスの経済学批

    2) 岩井克人の F貨幣論](1993)以降に現れた注Erすべき生産的な貨幣論研究として.向井公敏

    (1995,1996),片岡浩二 (1994,1996),海老塚明 (1997)を挙げることができる.また海外では新

    古典派液の貨幣理喜削こたいするアンチテーゼとして,ポストケインジアンとフランス,イタリアを中

    心とした 「流通アプローチcirculatlOnapprOaCh」派とを糾合してまとめられたG Deleplace/EJ

    Nell(1996)がある。

  • マルクスの経済学批判・再審 25

    判体系の本格的な形成過程にあった1850年代に焦点を当てることによってその核心部分に接近

    することができるのではないかと考えられる。事実,50年代のマルクスの理論的実践はある意

    味ではまさにこの二つの問題をめぐって旋回していたといってもいいすぎではないのである。

    そこで本桶は,マルクスから出発 した新たな理論体系構築のための,いぜんとして準備作業に

    すぎないけれども,上の二つの相関連する間蓮を,形成史的に明らかにすることを課意とする。

    おそらくマルクスの経済学批判について,従来見失われてきた意味が浮かび上がってくるであ

    ろう。

    第 1節 経済学批判の問題圏

    ここではまず,ある意味では問題の核心でもあるのだが,それでもやはりかなり手垢にまみ

    れた問題提起から始めざるをえないOつまりそもそも経済学批判とはいったいなんであったの

    か,ということである。この手垢にまみれてはいるがしかしこれまで説得的な解釈が示されて

    きたとはかならずLもいえないこの間題を考えるときに,われわれはどういうことに留意して

    おかなければならないか。このことを,経済学批判の問題圏としてあきらかにしておこう。

    経済学批判という課恩設定そのものが,1857-58年の ほ 綱』の執筆時にはじめて浮上した

    ものではなく,1844年の r経済学 ・哲学草構』以来マルクスのなかで意識されていた課題設定

    であることはよく知られている。40年代後半にマルクスは 「『経済学批判Jl」(46年8月1日付

    C.F.J.レスケへの手紙,MEGAⅢ/2,23)の出版を企図していたOそして45-46年に出版業者

    レスケとのあいだでおこなわれた出版の交渉から,当時構想されていた2巻から成る著作の表

    題が 『政治学および国民経済学批判Jであったことがわかが)。もちろんこの計画は59年まで

    実現することがなかったのであるが,この課愚意識がある意味でマルクスの終生変わることの

    ない理論的実践の枠組みを形作っていたことは否定できないだろう。そしてこの課覆意識が

    もっとも直接的に,いわば臨界点に達するまでに飽和して産みだされたのが草嘱 F要綱』と

    r批判』および r批判Jの直前に書かれた 「原初稿」であるCたとえばマルクスのいうところ

    の経済学批判の意味について議論するさいにかならずといってよいほど引用されてきた58年 2

    月22日付のF ラサールへの手紙でマルクスは次のように述べている。「さしあたり閉塞になる

    仕事は,経済学的諸カテゴリーの批判だC言いかえるならば,ブルジョア経済学の体系を批判

    的に叙述することだと言ってもよい。それは同時に体系の叙述でもあり,また叙述によるその

    批判でもある。」(MEW 29,550f)あるいは同じ頃にエンゲルスに宛てた手穀でも,「ある科

    学」は 「批判によってはじめて」,「弁証法的に叙述しうる」と言明している (58年2月1日付,oP.CZL,275)。このようにマルクスは当時進行していた恐慌の終局段階である 「大洪水」(57年

    12月8月付エンゲルスへの手紙,MEGAⅢ/8,210)とそれにつづ く革命を期待 して,近代プ

    3) 45年12月6日付,および46年3月16日付レスケのマルクスへの手紙のなかに 「匡L民経済学批判」と

    いう表題が見られるvglMEGAm/1,492,5160

  • 26 経済学雑誌 弟98巻 弟2号

    ルジョア社会の実在的存立構造の解明を 「ブルジョア経済学の体系」の批判的叙述として.つ

    まりは経済学批判として実行しようとしていたことは明らかである。

    このこともよく知られていることであるが.「経済学批判」という表題は,たしかにマルクスの構想のなかで早くも62年には 「副麓」に (格下げ)される (62年12月28日付L.クーゲル

    マンへの手紙,MEW30,639)。61-63年に執筆された 「23冊のノート」では,最後の23冊目の

    ノートの表紙にも相変わらず 「経済学批判」という表題が書かれているのであるが4),59年の

    r批判』に直接つづくかたちで経済学批判体系の第2分冊の表題を r資本』に変更すると62年

    に表明したのは,一つにはこの第2分冊が58年4月のプランでいう 「第1篇資本一般」の第3

    幸 「資本」のみを含むという形式上の変化を考慮したからだとも考えられる5)。67年の r資本

    制 第1部初版では,周知のように 「経済学批判」は,62年の手紙で予告されていたように,

    副霧に (格下げ)されているoこの変化のもう一つの形式的な理由として考えられることは,

    59年の F批判Jが商品と貨幣に関する二つの章のなかにそれぞれ理論史的考察を含めていたの

    にたいして,66年10月のプランで理論史的考察は 「弟4部」として本論から独立させられたと

    いう事情であろう (66年10月13El付クーゲルマンへの手紙,MEW31,534)6)。

    しかし経済学批判が表題であれ,副題であれ,著作のタイトルに表現されているということ

    は,この課題が,体系的に叙述される対象の性格と構成に密接にかかわっているはずだという

    著者マルクスの考えがそこに表されていることを意味するだろう。このことは否定できない。

    そのかぎりにおいて,r要綱J,「原初稲」,『批判』と r資本論」との間には重大な差異はない

    といってもよいだろう.やや断定的に結静を先取りしていえば,マルクスはこの経済学批判と

    いう課忍設定によって,古典派経済学のみならず,リカード派社会主義者やブルードン主義者

    の理論的地平を越えた近代ブルジョア社会批判の認執体系を提示することができると自己了解

    していたのであろう。しかしこのような指摘だけで経済学批判をめぐる開恩が解明されたとは

    到底いえない.つまりマルクスが自己の理論的課尾を経済学批判として設定し,それをそのま

    ま著書のタイトルに選んだとき,この経済学批判をどのような含意で理解していたのかという

    基本的な問題はまったく答えられていない。

    ところでこの問いにたいするマルクス自身による,しかし間接的な解答としてよく引き合い

    に出されるのが,かれ自身の手紙に見られる自己了解のいくつかの表現である。そのなかでも

    経済学批判という課題の意味を直接語っているのが,先に引用したラサール-の手耗であるが,

    しかしあきらかなように,そこでの文言は経済学批判の意味についてじつはなにも語っていな

    4) vglMEGAⅡ/3Apparat,2420.5)58年4月2日付エンゲルスへの手紙 (MEW29,318)および59年2月1日付J.ヴアイデマイ7-

    への手耗 (ゆ cIL,572)を参照。

    6)61163年の23冊のノートのうち,第18冊E]のノートに書かれているのちの r資本論』第1都と第3

    部のためのプランには,なお理静史的付説が組み入れられているvgl.MEGAI/3.5,1861f。この点については佐藤金三郎 (1968)41を参照。

  • マルクスの経済学批判・再審 27

    いにひとしい。さらにマルクスは上で挙げた62年12月28日付クーゲルマンへの手紙のなかで59

    年の r批判』についてつぎのような証書を残 している。「第 1分冊ではたしかに叙述の仕方は

    非常に-役向きでないものでした。これは,一部推,対象の抽象的な性質や私にあてがわれた

    紙数の制限や仕事の目的のせいでした。--一つの科学の革命のための科学的な試み w zSSenSI

    chaftllCheVersuchezurRevolutionierungelnerWissenschaftは,けっして実際に-役向きで

    はありえないのです。しか し,ひとたび科学的な基礎が築かれていれば,-役向きにすること

    は容易です。」(MEW30,6401イタリック原文)この証言は,少なくともマルクスの自己了解

    としては,設定された課愚が経済学という 「科学」に 「革命」をもたらすことであり,それが

    59年の著書の表悪に表現されているということをあきらにしている。このようにわれわれはマ

    ルクス自身のいくつかの証言から,50年代後半にマルクスが設定した課題が経済学批判であり,

    そしてそれは 「一つの」(科学革命)として自己了解されていたといういわば状況証拠的な事

    柄を積み重ねることはできる。 しかしこれらの証書をいくら積み重ねてみても,所詮それらは

    傍証にすぎず,経済学批判とはいったいなんであり,いかなる意味で経済学批判が (科学革

    令)に相当するのかといった問題はいぜんとして残るのであるT)。

    すでに示唆したように,経済学批判という課題意識そのものは44年以来マルクスのなかに育

    まれていた。そして批判されるべき経済学が基本的には古典派経済学であるということもある

    意味では衆目の一致するところである。古典派経済学批判-「ブルジョア経済学体系の批判的叙述」としての経済学批判。しか しまずどのような意味において古典派経済学は批判されなけ

    ればならないのか。 この経済学批判がどうして近代ブルジョア社会の経済構造の解明といいう

    7) 青田恵夫 (1995)はその第1幸と帝2幸で,廉松渉の物象化論を手がかりにして,本稿と同じよう

    にマルクスの経済学批判の意味をあきらかにしようと試みている。マルクスが一方で,61-63年の23

    冊のノ-トのうちの第18ノートで 「われわれがここにみるのは,プルジヲア的生産関係を,それが立

    脚する敵対関係の解消しているより高い生産関係に移行するべき単に歴史的な生産関係として把撞す

    ることをもって,真の経済科学 (diewlrkllCheWISSenSChaftderpolitlSChenOekonomie(経済学と

    いう現実的科学一書田による退補-)は終わる,ということである」(MEGAI′35,1860)と述べ

    ていること,そして他方で1868年10月10日付のエンゲルスへの手紙のなかで 「ただ,相争う諸説のか

    わりに,相争う諸事実とそれらの隠された背景をなしている現実の藷対立とを置くことによってのみ,

    経済学を一つの実証的な科学eineposltlVeWISSenSChaEtに転化させることができる」(MEW32.181)

    と述べていること,この二つの事実から青田は,「マルクスは 「現実的科学としての経済学」を 「一つの実証的な科学」-と 「転化」さすべきことを主張している訳である」(青田1995,34)と理解す

    る。書EElはこの 「実証的な科学」をマルクスの経済学批判と同一視した上で,「(簾済学批判)と味.したがってとりあえず,マルクス的学知においては く人々の関係)に他ならぬところのものが.体制

    内在的意故にとっては,あたかも (人々の関係)から独立自存し,自己運動するかのごとくに現われ

    るという事態の,その (現われ)の被荘介的存立構造を分析することにあ (ち)」とする (青田,24)。

    そして青田はマルクスにおけるこの 「転化」の具体的な現れとして,廉於に従って価値概念つまり抽

    象的労働概念を挙げている (書fE),48以下)。青田の諌静はマ)I,クスの経済学批判の意味について,

    通艶とは違った解釈を試みている点で示唆に盲むが.50年代初期の貨幣論研究とそのなかから形成さ

    れてくる r単純流通」静の意義を考慮していないことが開港であろう。

  • 28 経済学雑誌 第98巻 第2早

    るのか。そして最後に,経済学批判の体系的叙述はいったいどのようにして可能なのか。これ

    らの閉恩に答えられなければならない。

    周知のようにプ)L,-ドン批判の書である47年の r哲学の貧困J(以下 r貧困』と略記)でマ

    ルクスは,古典派経済学にあっては,近代ブルジョア社会の経済的諸関係を理論的に表現する

    諸カテゴリーは 「匡l定した,不変の,永久的な」ものとして理解されていたが,じつはそれら

    のカテゴリーはブルジョア的生産諸関係の表現であるかぎり,歴史的なものであるという考え

    を展開していた (MEW4,126)。ここから出てくる一般的な理解は,次のようなものであろう。

    古典派経済学はブルジョア的生産諸関係を不変の永続的で自然的な諸関係と理解し,それを潅

    済学的諸カテゴリーによって表現しようとしたのだから,ブルジョア的生産諸関係の永続的で

    ない歴史的性格の解明を経済学批判として展開するという課題は,この諸関係を表現した経済

    学的カテゴリーの同じく永続的でない歴史的性格を論証することによって答えられるのだとい

    う理解である。さらに経済学的諸カテゴリーの歴史的性格の解明という課題は同時に,それら

    を所与とせずにその発生を説こうとしてこれらのカテゴリーをヘーゲル的な論理学のカテゴ

    リーに還元してしまったブルー ドンへの批判をも果たすものと考えられてきた。つまり45-46

    年の rドイツ・イデオロギー」で提示された唯物論的歴史観の上に立って,「彼らの物質的生

    産力に照応して社会的諸関係を確立するその同じ人間が,彼らの社会的諸関係に照応して諸原

    理,諸観念,落カテゴリーをもまた生みだす」(oz>CZL,130)ことを確認している 『貧困Jの

    延長線上に立てば,この r貧剛 第2章の 「経済学の形而上学」で展開される経済学的諸カチ

    ゴリーの歴史化こそが50年代以降のマルクスの理論的実践の日棟たる経済学批判の独自性を構

    成するのであって,それが古典派経済学のみならず,それに立脚したブルードン主義やリカー

    ド派社会主義の諸理論への根本的な批判の要点をなすのだという理解が生まれるのも当然であ

    ろう。この理解は,唯物論的歴史観が59年の r批判J「序言」で定式化されることによって補

    強される。

    たしかに経済学的諸カテゴリーの歴史化,つまりそれらの非永続性ないし歴史的性格の解明

    は,経済学批判において批判の対象とされる既存の諸経済学の構成原理からの根本的な決別を

    意味するといってもよいだろう。経碩学批判をカテゴリーの歴史化による古典派経済学批判と

    いう意味において理解すること自体は間違っていない。しかしマルクスの理論的実践の目標で

    ある経済学批判の意味は,ただ上のような理解だけで十分に捉えうるものであろうか。

    たとえばL アJL,チュセールは r資本論を読むJのなかで,カテゴリーの歴史化についてき

    わめて重要な問題を指摘している.アルチュセールは,「マルクスが r哲学の貧幽Jから r資

    本論』にいたるまで古典派経済学全体に差し向ける根底的な非掛 t,資本主義の経済的カテゴ

    リーを無-歴史的で,永遠の,固定した,抽象的なものと考えたという非難である。これらの

    カテゴリーの性質,相対性,過渡性を明らかにし理解するためには,それらを歴史化しなくて

    ほならないと,マルクスははっきりと宣言する」と,このように一方ではカテゴリーの歴史化

  • マルクスの経済学批判.再蕃 29

    がマルクスによる古典派批判の要点になっていることを認める (LAlthusserctal.1967,

    tomeⅡ,36,今村訳,中54)。しかしただちにアルテュセールはここに 「マルクスの思想の第

    一級の戦略的論点」である 「マルクス主義と歴史との理論的関係」に付随する 「中心的誤解」

    が生じうるし (ob,CIL,37,今村訳,中55),また事実エンゲルスをはじめとして多くの理論家

    によって誤解されてきたことを指摘する。この面からのマルクスによる古典派経済学への批判

    は 「マルクスの現実的批判の最後の言葉ではない。かれの批判は限りなくずつと深いのだが,

    この批判はまだ皮相で唖味なままである。」(op,Cは,36,今村訳,中54)そして 「もしもマル

    クスと古典派経済学着たちとを分かつ差異のすべてが,経済的カテゴリーの歴史的性格のなか

    に要約されるならば,マルクスにとってはこれらのカテゴリ-を歴史化し,それらをBl定的,

    絶対的,永遠的だとみなすことを拒否し,反対にそれらを相対軌 一時的,過渡的カテゴリー

    とみなし,したがって結局はそれらを歴史的に実在する時期に従うものとみなせばこと足りる.

    この場合には,スミスとリカー ドに対するマルクスの関係は,ヘーゲルと古典哲学との関係に

    等しいと考えてよい。」(op"i乙,37,今村訳,中5516)。非歴史化への批判が,したがって帯

    カテゴリーの歴史化という主張が経済学批判の 「最後の言葉」ではないという理解はアルナュ

    セールにとっては本質的な重要性をもつ。つまりかれの理解では,在韓学的藷カテゴリ-の歴

    史化は,エンゲルスも陥ったあの歴史主義,経験論的無批判的歴史概念によって形成される歴

    史主義に漫食される危険性を内包し,そこに生じる誤解によって結局古典派経済学との間の対

    象の非連続性ないし種差性が不明確になるというのである。つまりマルクスによる古典派経済

    学批判の核心を 「通俗的表象のなかにある特定の歴史概念」 (ob.Cは,38,今村訳,中57),あ

    るいは 「イデオロギー的時間給」に立脚して構成された 「経験的歴史」の概念 (op.Cは,54-55,

    今村訳,中82)にみるかぎり,「理論的革命」(op.CZL,50,今村訳,中76)としてのマルクスの理論的実践の固有の意味を凍えることはできないというのである。いまアルチュセールの独

    自の時間論に立ち入ることはできないが,マルクスの経済学批判についてのかれの主張は傾聴

    に値すると思われる。

    Jランシュール (Ranciとre)はもっと端的に 「マルクスの革命は,したがって経済学の希カ

    テゴリーを歴史化することにあるのではない。マルクスの革命は諸カテゴリーの体系を作り上

    げることにある」と考えている (opCIL,tomeI,181,今村訳,上282)oさらに 「科学の革

    命」としての経済学批判の意味をアルテュセールによる人間主義批判の視角にしたがって追求

    したMノ、インリヒは古典派経済学と 「"俗流"経済学」とが共有する 「理論的地平 Feld」を

    特徴づけて,「人間主義」,「個人主義」,「非歴史主義」そして「経験主義」を挙げ (M.Hein-rjch1991,76f.),経済学批判の意味を 「たんに経済的思惟における新 しい理静あるいは新しい

    プロプレマテイーク」としてではなく,「古典派経済学のさまざまな理論をもたらした理論的地平の批判」として理解されるべきだと主張する (ob,ciま,21)Cマルクスの経済学批判は 「科

    学としての経済学の批判」であって,したがってこの経済学が立脚する 「理静的地平」との

  • 30 経済学雑誌 第98巻 第2号

    「断絶」を実行することを意味する (op.cat,,80)8).

    経済学的カテゴリーの非歴史化-の批判-歴史化に古典派をはじめとする藷経済学との種差

    があるとするマルクス自身の自己了解はあきらかに唯物論的歴史観に基づいている。しかしか

    りに歴史化の主張が正当であったとしても,それに内容が与えられなければほとんど意味をな

    さないだけでなく,与えられる内容いかんによってはおよそ理論的実践としての認識の体系の

    構築とは無縁の素朴な経験主義にまでマルクスの経済学批判の意味を縮減することにもなろ

    う9)。アルチェセール自身札 57年8月に執筆された 「序説」での方法論的展開に立脚して上

    のような見解を捷示している。またとくに50年代のマルクスの経済学の方法について考察する

    ときに誰もが最初に着日するのが,この 「序説」であり,あるいは r批判Aの 「序言」であろ

    う。しかし本箱では,「序説」の分析を通してマルクスの経済学批判の内実を探るという常幸手段をとらない。私はアルチュセールとは違って,「序説」で展開されている方法静的談論そのものから,経済学批判の批判としての意味を再構成することには問題があると考えている

    (その理由の一部についてはのちに述べる)。そこで以下では,「はじめに」で濃超した相関連する二つの問題が原初的な絡み合いのなかで形を成してくる段階に焦点を当てて,そこからま

    ず 『要綱』と 「原初稀」に結果するマルクスの経済学批判の固有の意味をあきらかにしようo

    この視角から開旗に#近する場合には,50年代前半のマルクスの貨幣論研究を無視することは

    できない。この期の貨幣論研究のなかに50年代後半の経済学批判という課題設定を親定する方

    向性がすでに現れているといえるのである。そこでまず,50年代前半の貨幣論研究をみること

    からはじめよう。

    第 2節 50年代前半の貨幣論研究一「貨幣制度」の二重性の認識-

    50年代前半のマルクスの経済学研究を知るうえでもっとも重要な資料は,50年秋から53年に

    かけて作成され,貨幣や信用制度,恐備にかんする諸著作からの抜粋や注釈にはじまる24冊か

    8) たとえば内臼弘は.例のラサ-ルへの手紙で述べられていることが 「r要綱』そのもののなかで」「いかに具体的に実現しているのか」はこの手雑からははっきりしないが,「こと体系の批判にしぼってみるかぎり,イギリス古典経済学のうちのスミスと')カードゥ,とりわけスミス経済学体系にたい

    する批判である」と理解している (内田1982,30)。たしかに内容的に見ればこうした理解が不当で

    あるとはいえないのであるが,やはりこのような解釈では隔靴捷孝の感をぬぐい去ることはできない

    ように思われる。批判そのものの意味がまず厳密に捉えられなければならないであろう。その点では

    アルテ.1セールの解釈にも留意して,マルクスの経済学批判の意味として,古典派経済学批判ととも

    に r(経済主義的 (ブルジョア的)幻想の批判)」をも挙げている平田清明が多少とも示唆を与える(平田1982,71-72)。

    9) LAlthusseretaL (1967)73-108(今村訳,中log-162)を参照。なおこの著書でのマルクスの経済学批判にたいする理解があまりにも理論偏重に陥っていたとして,アルテュセールはのちに自己批

    判したといわれているが,むしろ経済学批判の意味について考えるさいには,理論に偏重したかれの

    解釈の方が示唆的である。

  • マルクスの経済学批判・再辞 31

    ら成るいわゆる 「ロンドン・ノー ト」と,51年 3月 (あるいは2月)に書かれた 「地金。完成

    された貨幣制度 BulllOn.DasvollendeteGeldsystem」 (以下 「地金--」 と略記) と題する

    ノー トであろう10)。ここでこの 「ロンドン・ノー ト」の全容を詳 しく説明する余裕はない

    がユ1),MEGA粛集者12)の 「序文」をも援用してその内容を若干見ておくと,これらのノー ト

    で抜粋され,注釈が加えられているテキス トは貨幣,信用制度,恐慌に関するものから,地代

    蘇,人口理論,労賃論,農芸化学,植民地論そして歴史研究というように,多岐にわたってい

    る。 しかし同時にこれらのテーマがほぼこの順序で取 り上げられていることからも,50年代後

    半以降に具体化 していくマルクスの経済学批判体系の構成から振 り返ると,そこに一定の 「計

    画性」と 「内的編制」(MEGAⅣ/7,18*)をみることもたしかに可能である。これらのテー

    マは基本的には,40年代後半にマルクス自身が立脚していたリカー ド経済学への内在的批判の

    方向で有機的に関連づけられていくとみることはできよう。そして事実として,これらのノー

    トは 「知識の貯蔵庫」 (op cは,32*)としてこれ以後縦横に活用されることになる。マルクス

    が50年代にはいってからの経済学研究を貨幣理論の研究から始めたということは,MEGAの

    編集者でさえ指摘するように (op.czt,20*ff.),かれの経済学批判の意味を考えるうえで重要

    である13)。ここでは,「地金.・・-」と 「ノー トⅦ」のなかの 「省察 Reflection」と題する小蘇,および 「ノー トⅣ」と 「ノー トⅧ」でのリカー ドへの注釈を中心に,そこに示されるこの期の

    マルクスの貨幣論研究と経済学批判という課題設定との関連 (さきに示 した相関連する二つの

    問題)をあきちかにしておこう。

    40年代末の危機と革命の激動が収束したのちマルクスは,47年恐慌のさいの 「結局はリカー

    ド的流通理論にしたがって組織されたイングランド銀行の失敗」や 「カリフォルニアの金の流

    10) 現在までのところ,MEGAでは51年9月に作成された 「ノートⅩⅠⅤ」までしか公表されていない

    (MEGAⅣ/9)Oこの 「ロンドン・ノ- ト」についての本格的で詳細な研究としてF.E.Schrader

    (1980)があるC.なおこのノートに含まれる 「省察」(ノートⅦ)とリカードの r原理Jからの抜粋と注釈 (ノートⅣとⅦ)の邦訳として 『マルクス-エンゲルス全集』補巷3がある。また後者について

    は旧版ドイツ詩版 r経済学批判要綱J付釦 らゝ旧訳第4分冊にすでに訳出されていた。

    ll) 「ロンドン・ノート」については.わが国ではMEGAで公表される以前に,たとえば八御良次郎によって紹介されている (八郷1982)。なお本稿ではこの 「ロンドン・ノーH にみられるマルクス

    の貨幣・借用静研究そのものの実態については詳細には立ち入ることができない。別途を期したい0

    12) なおソ連崩壊以前に公刊されたMEGAⅣ/8(1986年出版)に付けられた額集者の 「序文」では,

    たとえばブルードンたちを相変わらず 「′トブルジョア的批判家kleinburgerlicheKritiker」と呼んで

    いる (15*)。

    13) MEGAの編集者は次のように理解している。「貨幣理論の領域での諸研究は,ある意味ではマルク

    スの研究方法にとって一般的に典型的である。- (中略)・-研究はマルクスにとって本質的には く経

    済学批判)であった。そしてその場合にマルクスは批判を二重の意味で理解していた。つまり一方で

    はブルジョア的理論の藷カテゴリ-の批判であり,他方ではこれらのカテゴリ-に反映する資本主義

    的生産緒関係の批判である。」(MEGAⅣ/7,21♯)いうまでもなくこうした理解にとどまるかぎり,

    間鹿の核心部分に過ることはできない.

  • 32 経済学雑徒 弟98巻 革2号

    入」といった事実にとくに注目し (FESchrader1980,22f.),まず貨幣,恐慌そして信用制

    度をテーマに通貨学派と銀行学派の蒔絵者の諌論を集中的に研究したo「地金--」と還する

    ノー トまでの6冊の抜粋ノー トは,一部地代論にかんする抜粋と注釈を除けば,すべてこの

    テーマに集中しており,このテーマについての抜粋と注釈のこの段階での一応の集大成が 「地

    金--」であり,それから得られた理論的成果の積極的展開が 「省察」であるといえる。

    マルクスは47年の r貧困Jでは一方で,すでに見たように,かれの経済学批判の意味を考え

    るうえで重要な認識をすでに提示していたが,基本的にはリカードの理論に立っていた。その

    ためにマルクスは労働価値説とともに貨幣数量説をも同時に受容することとなった (MEW4,

    112f.).ところがマルクスはこの 「ロンドン・ノー ト」を,銀行学派を代表するJ.フラー ト

    ンの r通貨前節静』や Th.トゥックの r物価史」からの抜粋から始めており,47-48年のイン

    グランド銀行の破綻という経験もあわせて,ヒュ-ムおよびリカードの貨幣数量説に立つ通貨

    学派への批判の立場を明確にしていったといえる14).そしてかつてはみずからも依拠してい

    たリカードの理論,とりわけその貨幣数量説への批判が 「地金-・・・」の少し前の 「ノー トⅣ」

    にみられるJG ピ.1シ.1 (Bosch)への注釈 15)や F経済学および課税の原理』(以下 r原理』

    と略記)の貨幣論への注釈,そして 「地金・・・・・・」ノートとはぼ同時期とみられるエンゲルスへ

    の手紙のなかで展開されている。たとえばT)カード貨幣論への注釈のなかでは,ある一国の為

    替相場が不利になり貨幣が他国に流出するのは,その国の通貨が過剰だからであるというリ

    カードの主張にたいして,「じっさいにそのことで言われているのは,-Blから他国へ金が送られねばならないのは,その通貨が水準以上にあるからではなくて,その国が他の国に債務を

    負っているからであるということを,為替相場はしめしているということでしかないのであるo

    重要なことは,ことなった諸国での金のことなった価値は為替相場に影響しないということで

    ある」と批判する (MEGAⅣ/7,323)16)。またこのノー トでは貨幣量による貨幣価値の決定

    や貨幣量の商品価格への作用というリか-ドの所説にたいして,マルクスはそれがT)カードの

    理論の問題点であると理解していることを示す注釈を記している (op,CIL,325)17)oそしてマ

    ルクスは51年2月3日付のエンゲルスへの手紙のなかで,前年の秋から始めたりか-ド貨幣理

    論への批判のいわば中間報告を詳述しているが,たとえばリカード理論に依拠した通貨学派の

    主張を要約したあとでかれは,「理論的には規定できる極端な場合は別として」,「純粋な金属流通の場合」には 「その数量や膨張収縮は,貴金属の流出入や貿易収支の順逆とはなんの関係

    14) vgl.MEGAⅣ′7,23',Schradc' (1980)25ffを参軌15) たとえばマルクスは 「ビュシュは貨幣量による諸価格の規定に反対する」と述べている (MEGA

    Ⅳ/7,280)。

    16) 邦訳 r全集J補巻3,69ページでは,「金Gold」が 「貨幣」になっている。17) 念のためマルクスの注釈を挙げておこう。「リカードは相変わらずここでも利子歩合に論及するた

    めにまず直掛こ貨幣量を商品に作用させている.しかし貸付市場はまったく別の事情によって規定さ

    れているのである。」(MEGAⅣ/7,325)

  • マルクスの経済学批判・再審 33

    もない」ということが自分としては一番主張したいことであり,このことによって 「全通貨理

    論がその根底において否定される」と述べている (MEGAⅢ/4,27)。このようにマルクスが

    まず貨幣藷理論の検討からはいり,「全通貨理論」の根底を成しているとみられたリカー ドの

    貨幣理論への一定の批判的見地を形成していったということは注目してよいだろう。

    ところでこの時期にマルクスが貨幣数量説への批判の視点を獲得しつつあったことは,結果

    からみれば,すでに受容していたリカー ド流の労働価値説のいっそうの徹底化 ・精簸化へとマ

    ルクスを同時に向かわせることになったといえる18)。しかしこれが本格化するのは r穿刺

    段階以降であり,まずは通貨学派と銀行学派との対質のなかでみずからの貨幣論の立脚点を模

    索する作業がしばらくつづく。そして 「ノートⅥ」までの貨幣諸理論からの抜粋とそれらへの

    注釈の集大成と見ることができるものが 「地金・・・-」ノー トである19)Oこのノートも基本的

    には貨幣数量説と 「全通貨理論」への批判が主調音をなしており,それはJ.ミタレへのかなり

    長い注釈のなかにも現れている。たとえばそこでマルクスはつぎのように述べているO「流通

    が10倍になっても,貨幣の10倍の増加はかならずLも貨幣の価値を1/10に減少させるとはかざ

    らないだろうし,あるいは商品の価格を10倍だけ高めるとはかざらないだろう。なぜなら各貨

    幣片の価値が同一であるためには,貨幣の流通が1/10に減少すればよいからである。逆も同じ。

    したがってつぎの三とは正しくない.つまり商品量は同一だと仮定して,もし貨幣量が増大す

    るか減少するかすれば,商品の価値は10倍増加しなければならないかそれとも1/10に減少しな

    ければならない,ということである。--流通の運動はなるほど貨幣の畳に依存するのではな

    くて,他の諸事情つまり一日に行われる取引の畳や伝達手段communicatlOnSmitteln,借用,

    人口等に依存する。しかしまた貨幣量の流通への影響をまったく認めないというわけにはいか

    ない。-- (中略)--諸商品の価格は,流通している貨幣量の現実的な増減にはけっして依

    存しない。」(MEGAⅣ′8,19強調一原文)さらにマルクスは,貨幣量の商品価格への影響が

    事実として稀薄になってきていることをヨーロッパの歴史のなかで実証的に示そうとしたL.

    G.vonユーT)ッヒ OiuichまたはGiilich)の著作への注釈のなかで,貨幣の流通速度にも言

    及し,交易の拡大に伴うこの流通速度の増大によって,貨幣の現象は 「価格に大した影響を与

    えなかった」と書いている (op.Cは,35)。そしてビュシュの見解をまとめて 「ビュシュは貨幣

    量あるいは貨幣備蓄Geldvorra血 による価格の親走に反対している」と注記していることも注

    目してよいだろう (oPcZt,48)。

    18) たとえばこの 「地金・・-・」ノートでは,労働時間による交換価値の規定をシスモンデイの叙述を通して確温している (MEGAⅣ/8,21)Cすでに 「はじめに」で述べたように,私は前満 (正木1992)で,この結果がもたらした貨幣論にかかわる重大な間選点を括耕しておいた。

    19)正確には r地金--」と足された抜粋と注釈は2冊のノートにまたがっている.そこでおよそ55人の著作家達あるいは雑誌からの抜粋とマルクスの注釈がみられるのであるが.なかには1行に満たな

    い抜粋や,1行ばかりの注釈だけを与えられているものもあり,精粗がみられるb

  • 34 経済学雑誌 第98巻 第2号

    見られるように,この 「地金・--」ノートは全体として貨幣数量鋭批判を基調としているの

    であるが,私がこのノートでとくに注目したいのも̀ 貨幣諸理論の検討を通じて近代プルジ=

    ア社会での貨幣の諸問題を 「貨幣制度」論としてトータルに凍えようとする過程で,マルクス

    が貨幣の形態としての認識へと進もうとしていることである。もちろん明示的というわけには

    いかないが,経済学批判の意味を理解する上ではむしろこの点こそが重要である。マルクスは

    たとえば,JF.プレイやW.ペティ,P.ポアギュペール,∫G ビュシュの文献のなかに見ら

    れる貨幣の物神崇拝的性格への言及に注目し,以下に示すような注釈を加えている。そこに,

    形態としての貨幣の認識へと進む方向性を読みとることができるのである。

    マルクスは,たとえばプレイへの注釈のなかで貨幣の 「破壊的で解体的な性格」に言及し,

    「現実的な宮が金や銀,銀符券,総 じて貨幣にその価値を与えるのであって.貨幣の量が労働

    によって創造された生産物に価値を与えるのではない。今日のシステムでは両者は転倒した関

    係にある」(op.czt,9)と述べている。ペティへの注釈のなかでは,「貨幣崇拝は禁欲主義,犠牲,あきらめをもつ。つまり倹約と質象 世俗的ではかない無常の享楽への軽蔑,天上の財宝

    の追求をもつ」(op.叫 37)とされ,ポアギュペー)I,からの抜粋と注釈のなかでは,「貨幣による自然的秩序の転倒」に関連した文章を抜粋し,最後に 「貨幣のこの至上権によって過剰の

    なかに不足が生み出される。交換が妨げられ,生産が利潤を生まなくなり,それとともに中断

    するo虚構の価値が現実の価値を破壊する」という注釈を付 している (opCZL,39).そして

    ビュシュからの抜粋の最後にマルクスは,次のようなまとまった注釈をつけている。「すべて

    の各個人が貨幣で所有しているものは,一般的な交換能力である。そして各個人はこの能力に

    よって.社会的生産物の自分の分け前を任意に独力で決定する.すべての個人は物象Sache

    のかたちで自分の財布に社会的威力をもつ。-・・・貨幣がなければ産業の発展は可能ではない。

    貨幣の威力が物と人間との関連でないかぎり,諸紐帯は政治札 宗教的等として編制されざる

    をえない。」 (op.CZL,S,55)

    このような貨幣物神への批判的言及それ自体はすでに初期の藷論稿以来のものである。しか

    し貨幣数量説-の批判を通して貨幣と借用機構への認識が深化する過程であらためて貨幣の物

    神崇拝的性格が開港とされたことは,これ以後のマルクスの経済学研究の批判としての性格を

    方向づける意味をもつといえないだろうか。あらかじめここでその方向を示唆しておくと,マ

    ルクスは,貨幣論固有のレベルにおいては貨幣の存在とその運動をひとつの歴史的な社会すな

    わち近代ブルジョア社会における 「完成された貨幣制度」として認識し,それをその社会の生

    産諸関係との関連のなかで捉えつつ,同時に方法論的レベルにおいて貨幣のいわば形態として

    のその独自の存在への認識によって経済学批判が構成されるということではないだろうか.た

    だしまだこのノー トではマルクスは,サン・シモン主義者の主張する銀行制度の改革を延長す

    れば,「生産用具」を労働者に移転することもできるだろうという考えを記している (oP.czt,41)20)。

  • マルクスの経済学批判・再審 35

    さて 「ノートⅦ」に含まれ,マルクス自身によって 「省察Ref)ection」と蕩された部分は,

    抜粋を受けて行われた注釈ではなく,短いが一つのまとまりのある理論的展開を行ったもので

    ある。おそらく「ノー トⅠ」から始まるそれまでの作業の一区切りとして中問的稔括をしたものと位置づけることができる。マルクスはこの 「省察」を,まずスミスが与えた商人間の取引

    と商人と消費者との取引の間の区別,つまり二つの流通の区別の重要性を指摘することから始

    めて,恐慌の間悪に言及する21)。マルクスはスミスに従って,前者の流通は後者によって

    「必然的に制限されて」おり,前者が投機的要因によってこの制限を赴えたときに過剰生産が

    発生 し,恐慌が始まると理解する (op.CZL,227f.).シスモンデイの影響のもとで22),マJt/ク

    スは恐慌の原因を後者の流通からくる刷版,つまり 「資本家階級と労働者階級とのあいだの関

    係」(oP.czt.,228)に帰着させる。その上でかれは,恐慌の時期に不足しているものはなにか

    と問い,それは 「通貨であって,資本ではない」と答え, トゥックらの銀行学派にみられた貨

    幣と資本との混同を批判している (qb.cit.,229)0

    50年代後半のマルクスの経済学批判の意義を考えるうえでこの 「省察」が有する重要性は,

    このような未整備な恐慌論そのものにあるのではない。むしろこの恐慌論と密接にかかわる形

    で考究されている 「貨幣制度」論 (oPcz't,230)にこそある。ここで展開されている 「貨幣制

    度」論のなかに,最初に述べた経済学批判というマルクスの課題設定を解く鍵になるあの相関

    連する二つの間是を結びつけると考えられる 「単純流通」(MEGAI/1,1,207)論の原型が.

    そしてまたそれと表裏の関係にあるブルー ドン主義への批判が兄いだされるのであるOまずマ

    ルクスは,貨幣恐慌があきちかに示すように,「今日の生産様式に依存する貨幣制度」('bzd)はその定在のうちにたんに 「分雄の可能性」だけではなく,分離の 「現実性」を内包すると理

    解する (op.cz'ま,231)。このようにマルクスは一方で,「私的交換の制度」(oJ"Z乙,230)の上に立つこの 「貨幣制度」を階級社会としての近代ブルジョア社会の必然的な制度として,いい

    かえればこの社会の 「歴史的に特殊な経済的組織形態」として凍える (Schrader1980,90)23)。

    マルクスはつぎのように書き留めている。「したがって,見かけはきわめて単純なこの行為の

    20) マルクスの注釈は次の通りO「サン・シモン主義者が銀行を (為替手形や紙幣や公債とならんで).

    資本や生産用具を怠惰な土地所有者や資本家からブルジョア的工業家へと移転させてきた武器だとみ

    なしているとすれば.銀行制度の新しい組織は生産用具の労働者への移転を媒介することになろう。」

    (Ⅳ′8,41)

    21) スミスによるこの二つの流通の競走については,STnith(1976)322(大河内一男監訳,I-500-1)

    を参鼎。またこのスミスの二つの流通論については,J.M ケインズが r貨幣論Jのなかで言及して

    いる (JM KeyTleS(1971)31,小泉明他訳3516).

    22) vgl.Schrader.of・.CZL,80.

    23) 同様の趣旨をマルクスはすでに 「ノートⅣ」のW.ジェイコプ (Jacob)の著書への長い注釈のなか

    でも述べている。「奴隷所有制度と結びついた貨幣制度は共同社会の基碇を廃止し,産業を創出する

    ことなしに純粋に堕落の方向に作用するD貨幣atJ皮そのものは,労働が貨幣と自由に交換されるやい

    なや.それゆえ賃労働の制度といっしょになってのみ,純粋な制度なのである」(MEGA Ⅳ/7,252)。

  • 経済学雑誌 第98巷 第2号

    なかに,第-に,いっさいの階級関係が現れ出てくるのであり,貸労働者,土地所有者,産業

    資本家,非産業的な資本家,という諸階級が前提されている。他方で前提されているのは,し

    かもなによりもまず前提されているのは,特定の社会的諸関係の存在であって,これが富に資

    本の性格を与え,また資本を収入から分かつのである。単純さは,貨幣化Vergoldumgが消え

    てしまうのと同時に消えてしまう。」(MEGAⅣ/8,232)また 「貨幣制度は諸階級の高度な発

    展を前渡しており,貨幣制度の欠如,つまり貨幣以前的なvorgeldlich社会諸段階が前渡する

    のよりも大きな,諸階級の分離分裂を前捷している」(tbid)。ここではマルクスは,「貨幣制度」をなに3:りもまずもっとも発展した階級社会としての近代ブルジョア社会に関連づけて,

    その存立の根拠を直接的に近代的な階級分裂に兄いだす。これだけを取り出してみれば,たし

    かにそこには単線的で本質還元主義的な階級社会認識しか兄いだせないであろうoLかしこの

    時期のマルクスはじつは,「貨幣制度」をその二重性において理解するのであり,ここからカテゴリー批判の謎を解く形態認識の方向性が定められるのである。

    すなわちこの 「省察」という短い覚書で注目すべき点は,ブルジョア社会の階級関係と直接

    に結びつけられた 「貨幣制度」のもとでの交換が同時にこの階級関係を消し去るものであり,

    そこから 「ブルジョア社会における・-.・外観上の平等」(op.czt.,233)が生じるという認織が

    示されていることである。のちに 「単純流通」と呼称きれる近代ブルジョア社会のこの部面を

    マルクスはここでは,「商人たちと商人たちとのあいだの交換」を必然的に制限する 「商人たちと消費者たちとの交換」つまり資本と収入との交換関係として具体的に凍えたうえで,この

    交換関係においては 「質的な階級区別は買い手が意のままにする貨幣の量的区別,その大小の

    なかに消えてしまい」,「貨幣は,階級諸対立の最高の表現でありながら,同時に,宗教軌 身分的,知的,個人的な諸区別をあいまいにする」と述べる (MEGAⅣ/8,234)。あるいは

    「貨幣制度が完全に発展した社会では,諸個人が貨幣を- その所得源泉がどのようなもので

    あろうと- もっているかぎり,かれらの現実のブルジ古ア的平等が,現実に生じることにな

    る」(oj'.ci'よ,233)とも書き留めている.もちろんいうまでもなくこの時期のマルクスにあっ

    てもこの 「平等」は 「ブルジョア的」であり,仮象でしかない.それゆえこの現実に立脚して

    「階級諸対立の最高の表現」である 「貨幣制度」のなかに 「個々の個人の自由」の 「最高の実

    践的な確証」を見る 「まったく単純な民主主義者」が批判されるだけではない (oP.CZL,231)0

    マルクスによれば,恐慌はまず 「貨幣市場」において現れるのだから貨幣改革-の試行はある

    意味で必然であるとしても,その改革が 「貨幣を保持」しながら 「貨幣に貨幣の諸属性をもた

    せないように」するというものであるかぎり,それは結局のところ 「価値と私的交換とを保持

    することによって,生産物とその交換可能性との分離を保持」し,貨幣という 「分離のしる

    し」を 「同一性を表現する」ものに変える 「どこまでもプ)レジョア的地盤に立つ偏狭な」改革

    でしかない (zbzd)ということになるO

    マルクスのこの批判は,ブルードンやグレイなどの貨幣改革論に向けられている。この批判

  • マルクスの経済学批判・再審 37

    が貨幣とプJI,ジsrア社会の階級対立とを直結させるところから行われていることはあきちかで

    ある。正確を期していえば,上でもみたように,あきらかに 「貨幣制度」を近代的な階級分裂

    に帰着させる方向が優勢である,というよりも以後一層その方向性が明確に出てくることにな

    るoLたがってこの 「ロンドン.ノー H においてはマルクスは,『要綱l以降の諸著作とちがって,階級関係または生産過程からの 「単純流通」の現実的な自立性を容認していたとはも

    ちろんいえない。しかしいまここで注意しておくべきことは,「貨幣制度」それ自体の二重性への認鼓とこの二重性が必然的に生み出す 「幻想」(op.C7L,233)-の批判であろう。この二

    重性の認識そのものは上で紹介したマルクスの注釈からも否定できないだろう。これが,以後

    の貨幣の必然性の論証や資本と賃労働のあいだの関係の分析の試みを伴いながら,近代ブル

    ジョア社会を,「表層」と 「深部」へと分節化されて構成される重層的構造として把纏し,「貨幣制度」論をまず 「表層」としての 「単純流通」論として展開するというマルクスの経済学批

    判の体系構成に一定の影響を与えたと考えられるのである24)Cその意味において 「貨幣制度」

    の二重性把握は,餐済学批判というマルクスの課題設定の意味を読み解くことができる方向性

    を示唆しているであろう。「貨幣制度」をこの二重性において捉えることが,古典派とブルー

    ドン主義への両面批判を可能にするというマルクスの自己了解があったであろう25)。「貨幣制

    度」の二重性の認蝕があってはじめて貨幣の形態としての把握が可能になり,のちにみるよう

    に,経済的形態規定としての経済学的カテゴリーの批判が課悪として意識されることになった

    のである。

    もちろんマルクスによって自己了解されていた経済学批判という課題の遂行のためには,こ

    の二重性把擾だけでは十分ではないのであって,資本と賃労働との独特の二重化した関係への

    理解が不可欠となる。「省察」が書かれている 「ノー トⅦ」につづ く 「ノー トⅦ」には,

    MEGA帝集者が 「(ロンドン・ノー ト1850-53)のうちでもっとも興味深く,もっとも重要な

    部分」と評価する (op.Cは,27*)リカー ドの r原理Jからの詳細な抜粋と注釈が含まれてい

    る。その注釈のなかでマルクスは,ウェイクフィールドによる1)カード利潤論-の批判にたい

    して,後者の労働価値説に立って利潤の源泉問題に立ち入り,利潤と貸金の対抗関係を確認す

    る.そして 「個別的な超過利潤を商業から説明することはできるけれども,剰余は商業からは

    説明されない。産業資本家の全階級の剰余を問題とするとき,そのことははじめから消失する。

    -- 仲 略)I--所得は.生産から生じなければならない・・・・・・」(qp.ciL,413)と注記してい

    る。みられるように,マルクスの経済学批判体系の実質的な展開内容のなかで 「単純流通」が

    24) もちろん 「省察」での 「貸幣制度論」は,「ロンドン・ノート」全体の主要なテーマである貨幣恐t定論の脆緒に位置づけられるのであり.50年代後半以後の信用と放任にかんする理論の展開との的連

    においても評価されなければならないことはいうまでもない。

    25) 「貨幣制度」静に凝縮されている近代プルジヲア社会の二重性の認識札 ある意味では44年のパリ

    草稿以来の認弘とみることができる。

  • 38 経済学雑誌 第98巻 第2号

    実際にどのような取り扱いを受けていくことになるかということ,そしてかれが経済学批判の

    実質的な展開の目標をどこにおいていたかということが,すでにこの段階からも容易に推測し

    うる。この方向は 「ノー トIX」から 「ノー トXlV」にかけて一層顕著になるo要するに資

    本 ・賃労働関係の研究を深めるための材料が 「ノー トⅠⅩ」以降整えられていく。マルクスは,

    リカード派やその反対派,リカード派社会主義者そしてバートン,ラムジ,ジョーンズなどか

    ら賃労働と資本との交換に関連した抜粋を行い,またマルサスに代表される 「賃金基金説」

    (MEGAⅣ/9,16*)についておもにリカー ド以降の著者から抜粋するとともに,この理論を

    構成する収穫逓減の法則の問題点をあきらかにするためにリーピッヒらの農芸化学者や農学者

    の議論を詳細に書き留め,さらにこの理論を構成するもう一つの要素である人口理論について

    もマルサスやその反対者の著書から抜粋を重ねている。51年8月に作成された 「ノー トⅩⅠⅤ」

    では植民地論や先資本主義的生産様式にかんする文献からの抜粋が行われた26)。貨幣理論研

    究に始まるこの2年余のマルクスの研究過程の推移が価値ないし商品から始まるのちの経済学

    批判体系の内容の展開構想 (プラン)とある程度重なっていることは見易い。この事英は,マ

    )I/クスの 「単純流通」論に籍巣として一定の限界を与えることになったとしても,かれの経済

    学批判の意味を読み解く錘を与えているともいえるのである。そこでこの論点にかかわると思

    われる 「ノートⅦ」でのリカードへの注釈をいま少しみておこう。経済学批判というマルクス

    に独自の認識体系の方法的核をなす形態把纏に通じる要素をみいだすことができるだろう。

    「ノー トⅦ」でのリカー ド 『原理」からの抜粋と注釈は,40年代後半にみられたリカードの

    外iE的受容という姿勢を改め,「ロンドン・ノート」作成途上で浮上した語間是 (貨幣から価値 ・価格の問題へ,資本と労働の間違とりわけ利潤と賃金の間悪,差額地代の間悪など)の検

    討をさらに進めるた桝 こリカードにたいして.古典派経済学の完成者としての評価を明確にし

    た上で (MEGAⅣ/8,368f.),本格的な内在を開始したことを示す記録である。マルクスはリ

    カー ドの労働価値配に開通 して,一方ではかれのいう 「真実価格」は 「一般的に」「諸商品を生産する活動」に,つまり支払労働ではなく,「生産的であるかぎりでの労働,それ自身商品であるかぎりでの労働ではなくて,諸商品をつくりだすかぎりでの労働に依存する」としなが

    ら (op.CIL,369),そして労働時間を 「価値の尺度」としながら,同時にリカードの外国貿易

    給に関連して,交換がまず商品に価値を賦与すると述べる。たとえば,「私は,以前なんらの価値ももたなかったものに,それを交換の対象とすることによって価値をあたえることができ

    る」と述べ,さらに 「リカードが,一商品が一定の費用で生産されるのは,それがその費用で

    生産されうるからではなくて,それが販売されうるからだと正しくもいっているのにたいし,

    その商品が価値をもつのは,その生産費用のためではなくて,その商品が一定の生産費用と交

    換されうるからであるということも正しいであろう。」そして 「諸商品が相互に交換される量

    26)MEGA裾集者によればこのテーマは 「ロンドン・ノート」の残りの部分 (XIV-XXIV),つまり第24冊E]まで持続していたということである (MEGAⅣ/9.37+E)。

  • マルクスの経済学批判・再審

    が 測られうるためには,それらはまず第-に交換されなければならない」としたうえで,次の

    ように述べている。「交換とともに,商品の価値賦与性 verwer血barkeltがはじまる。・・-・そ

    してそれだから交換の能力は,新しい労働をつくりだし,新しい土地を耕作させるのであり,

    したがってそれは労働と土地とによって測られるのではないOそれでなければ,一商品の価値

    はそれに固定された労働時間によってあたえられ,商品は交換できるものであることなしに.

    価値である,と主張することと同じことになろう。なんらの価値をもたない商品が,交換可能

    性によってまず価値を得る。」(申.czt,371)もちろんこの注釈は労働時間による価値規定を否

    定するものではなく,価値の内容が確定していくいわば交換の時間的経過と空間的拡大の過程

    を要約したものにすぎないO労働や土地に基づかない 「交換可能性」はいずれ 「汲みつくさ

    れ」,そうなると労働による 「再生産」が行われ,そこで価値は 「生産費用」によって規定さ

    れることになる,とマルクスは付け加える (told).しかし価値規定にかかわるこの注釈のな

    かに,われわれは経済学批判というマルクスに独自の課題設定を決定づける経済学的諸カテゴ

    リーの形態規定性としての認識に通底する要素を兄いだすことができる。形態規定としての価

    値は (したがって,少し先走っていえば,当然経済的形態規定全体が)生産において与えられ

    るのではなくて,交換において,市場という領域において最初に与えられるという認識がここ

    にみられるのである。マルクスは同じノー トの少しあとで,やはり 『原理』第3版の第21章

    「蓄榎の利潤と利子とのおよぼす影響」につぎのような注釈を付けている。「リカードはここで,

    われわれが以前すでに彼の価値規定のところで評注したこと,すなわち交換は価値競走の本質

    的な条件であるということを看過している。」(op.ci乙,417強調一原文)27)これも読者の問題関

    心のありようによっては,至極当たり前のことを確認しているにすぎない注釈のように受け取

    られるかもしれない。また交換が価値を生むといっているわけでもない。交換が 「価値規定の

    本質的な条件」であるとは,上で引用した注釈も合わせて考えるならば,価値という経済学的

    カテゴリーの形態としての規走性が市場における交換によって,つまりは 「単純流通」によっ

    て与えられるということを含んでいるのであるOこのように読み解くべきであろう。さらに形

    態規定に間接的に関連する注釈として,資本と資本の 「材料」としての 「富」とのリカードに

    みられる混同への批判を挙げることもできる。そこではマルクスは 「価値の額」としての資本

    を 「資本の形態」と呼んでいる (op,CIL,365;vg131*)0

    24冊からなる膨大な 「ロンドン・ノート」のうちのごく一部を手がかりにして,50年代後半

    に結実するマルクスの経済学批判の意味を読み解きうる鍵を探ってきた。そのことによって.

    経済学的カテゴリーの歴史的性格の批判的解明が経済学批判であるというある種の袋小路を抜

    け出る道が指示されたといってよいだろう。鍵は 「貨幣制度」の二重性の認識とその延長線上

    27) リカードへの注釈の新しい日本語訳である前掲 r全集J補巻3はロシア語版からの翻訳であるが,

    このロシア語版編集者は,「われわれが以前すでに--評注したこと」の部分に注を付け,本文のすぐ前で引用した文章 (371)が含まれるページへの参照を求めている (l全集J補巻3,589)。

  • 40 経済学雑誌 第98巻 第2号

    で具体的となった形態認軌 こあったのである.ただし誤解のなきよう述べておくと,マルクス

    の形態認識は,「貨幣制度」が近代ブルジョア社会の 「階級諸対立の最高の表現」というところから出発しているのであり,その意味での二重性の認識である.マルクスの場合には,貨幣

    や価値や資本の形態としての認識はもちろん階級社会を離れてはなかったのである28)。しか

    しそれはともかくとして,形態認識を可能にするこの二重性の把握が,近代ブルジョア社会を

    「表層」と 「深部」と-分節化されて構成される重層的構造として捉える方向へとマルクスを

    導く。そこで次節では,50年代後半以降のマルクスの体系構成を素材にして,本稿の 「はじめ

    に」で捷起しておいた問題に私なりに答えておこう。ただし 『要綱Jに始まる50年代後半以降

    のマルクスの体系構成についてはすでに十分知られているところであるので,焦点を絞って検

    討する。

    第 3節 「科学の革命」 としての経済学批判

    前節ではテキストクリティ-クを通して,いわば形成史的観点から経済学批判という課選設

    定の立脚点ともいうべきものを探った。50年代後半の時点に立って角度を変えて問題を言い換

    えてみよう。経済学的カテゴリーの批判が経済学批判であるというのは,ある意味では同義反

    復でしかない。そこに歴史的性格の解明を加味しても,すでに述べたように,開麓は一向に解

    決しない。問題は経済学的諸カテゴリーの批判,しかも一定の体系性をもった批判の展開とは

    なんであり,なにゆえにそれが可能なのかということである。あるいはそもそも経済学的カテ

    ゴリーとはいったいなんであり,それを批判するということはなにを意味するかということで

    ある。いうまでもないが,この課題は理論史的部分の取り扱い如何 (「別の著作の対象」をな

    すのか,それとも本論への付説とするかということvgl.MEW29,551)とはもはや関係がな

    いO

    ところでこの間題に関連してよく引き合いに出されるのが,現行版 『資本論J第1部冒頭幸

    第4新中の次のようなマルクスの音艶であるO「ブルジョア経済学の諸カテゴリ-をなしてい

    る」「人間生活の諸形態」は,「この歴史的に親走された社会的生産様式の,商品生産の,生産関係についての社会的に認められた,つまり客観的な思想形腰」であり (MEW 23,89f.),こ

    の 「客観的な思想形態」は,「価値形態」であり,また 「商品形態」,「貨幣形態」そして 「資本形愚」を意味する (op.CZL,95),という言説である。副恩に (格下げ)になった経済学批判

    という課題の含意が r資本論』でもっとも直接的に現れているのがこれらの言説においてであ

    28) 二重性という構造認識を結局投下労働価値説のために首尾一貫できなかったマルクスにたいして,

    貨幣と賃労働との関連をあらためてこの二重性認散から出発して捉えなおし,マルクスとは反対に労

    働価値説を放棄し,価値分析との関連を拒否する一元化によって 「貨幣的アプローチ」を捷起しよう

    としたのが,J*)レト.)リエ (Carteller)(1991)である。またカルトゥlJエの仕事については,港老壕 (1997)を参照O

  • マルクスの経済学批判・再事 41

    る。見られるように r資本論』では,経済学的藷カテゴリーとは,「歴史的に競走された」社会的 「生産関係」が思惟において抽象され,その上で一定の固定性-自然的性格つまり客観性

    を得るようになった罷執結果という意味において理解されている。この罷戟結果が 「固定性」

    (op.czま,90)をもつという意味で 「客観的な思想形態」であるかぎり,それを 「歴史的に規定

    された」社会的諸関係が制約していると考えられていることは当然である。このような 「客観

    的な思想形態」としての 「ブルジョア経済学の舘カテゴリー」としてここでは価値形態,商品

    形嵐 貨幣形潜そして資本形態が挙げられている。r資本論Jでは 「客観的な思想形態」と呼

    ばれているこれらの経済学的カテゴリーがいまここで開港にしている50年代後半には,「形態規定」,「経済的規定」(MEGA Ⅱ/1,1,165)つまりは 「経済的形態規定」(op.ciL,166),「経済的形態関連」(op叫 193)とも呼ばれ,マルクスは r要綱J,「原初塙」そして r批判」を通して,この経済的形態諸規定としての諸カテゴリーの論理的展開として経済学批判体系を理

    解していた。 マルクス練 r要綱』のなかで,「商品の形態規定」(op.CZL.190)である交換価値が諸人格間の物象化した社会的関連であり,貨幣はこの物象化を前提にすると捉え (op.CZL,

    93),その延長線上で 「資本を資本たらしめている形態規定」が 「対日的に存在する社会的関

    係」であるという (op.cu"222)。マルクスは経済学の対象を直接的な物的実在ではなく,そ

    こへと物象化した 「社会的関係 としての関係の内容」(op.cz-と,190)としての 「経済的形態裁

    定」そのものであると考えている。さらに 「原初稀」では,「形態規定とはすなわち社会的過程から生じる諸規定のことである」(MEGA II/2,71)ともいわれているOこの 「経済的形意

    競走」は思惟による敵識活動によってしか把捉できるものではなく,かかる意味においてこの

    r経済的形態規定」はつねに 「経済学的カテゴリー」として.認蝕の体系である経済学の対象

    なのである (vgl.MEGA Il/1.1,156,164ff,190;MEGA Ⅱ/1.2,530)29).このようにそれ自

    体一つの認織の体系である経済学の対象は素朴に捉えられた実在とはおよそ無線の固有の対象

    であることがまず明らかにされているのであるが,それではこの 「ブルジョア経済学の諸カテ

    ゴリー」を批判するとはいったいどういうことなのであろうか。次にこのことが開窓になる。

    経済学批判としての諸カテゴリー批判がそれらの直接的な否定-抹消でありえないことはい

    うまでもない。ましてカテゴリー批判が,直接的には無規定ななんらかの物的実在の存在を批

    判したり,否定することと無関係であることもいうまでもない。経済学批判という50年代後半

    のマルクスの課恩設定には,経済学的カテゴリーへの批判とは,さきに言及したハインリヒの

    表現を借りていえば,まずこのカテゴリーの,したがってまた 「経済的形態規定」の 「理論的

    地平」を明らかにする,つまりその構成の秘密を解くことを意味するという了解が含まれてい

    たと考えられる。この時期にマ)レクスが,経済学的カテゴ7)-がカテゴリーとして認熟され

    29) ここでは r批判Jに即したこの面でのあとづけをしていないが.経済的 「形態現走性」や r経済学

    的カテゴリー」への言及について書も MEGAIl/2,127f.,130,135を参無。

  • 42 経済学雑聴 第98巻 第2号

    構成される圏域を 「単純流通」に見ていたことは明らかである。マルクスは r要綱Jのなかで,

    「流通」を 「経済学的藷 カテゴリー」の うちの 「第 1次的給体 ersteTotalitAt」 と呼び

    (MEGAⅡ/1.1,126),さらには 「資本の概念を展開するためには,労働からではなく,価値

    から,しかもすでに流通の運動において展開されている交換価値から出発することが,必要で

    ある」と述べている (op.cia,183)。そのうえで 「原初稿」でマルクスは端的に次のように書

    き留めている。「交換の主体である諸個人がとり結ぶ経済的諸関連は,ここでは単純に把握に

    おかなければならない。・--経済的形態諸規定とはまさに,詩個人が互いに交通しあう (対応

    しあう)さいに受ける規定性のことである.」(MEGAI/2,47)30)

    経済学的カテゴリーしたがって 「経済的形態規定」という経済学批判の対象の構成の秘密が

    じつは 「単純流通」として捉えられた部面にあるということを明らかにすること,ここにこそ

    50年代後半のマルクスの経済学批判の第1の意味があったということ,このことは確認できる

    だろう。この意味はこれまでのわが国の研究のなかではほとんど触れられることがなかった。

    しかしこの意味は次のようにも言いかえることができる。さきに見た50年代前半の 「ロンド

    ン・ノー ト」での,リカー ドとブルードン主義への二面的批判として展開され形成されつつ

    あったあの 「貨幣制度」の二重性把達の延長線上で,そこに資本と労働の交換の独自性の検討

    が付け加わることによって一つの絵括的かつ包括的な意義をもつ 「単純流通」という分析の対

    象領域が構成され,この 「単純流通」を,商品や貨幣および資本という近代ブルジョア社会の

    主要な経済的形態の,したがって経済学的カテゴリーの 「第1次的給体」を成す圏域として揺

    えたということである。言い換えれば,経済学的カテゴリーの批判とは,そのカテゴリーが構

    成される圏域を指示し,その圏域において経済学的カテゴリーが 「社会的な形態規定性」つま

    り経済的形態裁定として 「自然形態」へと転倒され固定化される31)ということをあきちかに

    することにあったのである。

    もし経済学批判の意味をここにみることができるとすれば,前節でみた 「ロンドン・ノ-

    ト」に含まれる貨幣論研究の役割はきわめて大きいことになろう。経済的形態の構成の圏域-

    「第1次的絵体」である 「単純流通」がプ)I,ジョア社会の抽象的な 「表層」の論理的構成とし

    て体系上の決定的な意義を明確にしてくるのは,「ロンドン・ノート」期の貨幣論研究の集大成とみなしうるあの 「省察」における 「貨幣制度」の二重性の把握であろう。すでに示したよ

    うに,マルクスはこの 「省察」のなかで,「貨幣制度」を一方ではもっとも発展した階級社会としてのブルジョア社会の必然的な制度として,あるいはこの高度に発展した階級社会の 「歴

    30) H.プレンテルによれば.「商業資本によってこのように媒介されるなかで.単純流通がじつのところ基礎的な経済学的結カテゴリーの体系的な構成場所となっている」のである (H.Brentel1989,183)。

    さらにまたかれは,マルクスの経済学批判を端的に 「経済学的諸カテゴリーの批判的形態理論」(坤

    叫 19),あるいは 「プルジ言ア社会の経済的-社会的諸形態の構成理静」(OJLCIL,273)と特徴づけ

    ている。

    31) vglH Relehelt(1970)241

  • マルクスの経済学批判・再審 43

    史的に特殊な経済的組織形態」として捉えていた。他方でかれは,「貨幣制度」のもとでの交換が同時に,この制度の前提と考えられた 「階級関係」,「階級詩対立」を消し去り,ブルジョア社会の 「外観上の平等」を生じさせると理解していた。つまり50年代後半のマルクスの経済

    学批判における 「単純流通」論 32)紘,ブルジョア社会の 「貨幣制度」の二重性の認識を出発

    点として形成されていったといえるのである。すでに冒頭でも指摘したが,マルクスは,この

    「単純流通」という圏域を 「ブルジョア的稔生産過程の一つの抽象的部面」にすぎず,した

    がってその自立性は 「たんなる仮象」 (MEGA I/1.2,412)にすぎないとしている。しかし

    同時にマルクスは,この単純流通の自立性とそこでの自由 ・平等の仮象的性格が 「必然的」で

    もあることに注意を促す (zbld)。つまりたとえ仮象であっても,それらは偶然的にではなく

    て必然的に生起するというのである。近代ブルジョア社会の存立構造をその重層性において凍

    えるのか,それとも一元的な単層構造として捉えるのか,マルクスの 「単純流通」把纏には微

    妙な面があることはたしかである。 これは 「貨幣制度」を二重性において杷適したとしても,

    労働価値説を強く前提にするかぎり必熱的に発生する間尾である。そして前稲でも指摘したよ

    うに.マルクスはこの社会を重層性において捉えることに完全には成功していない。しかしこ

    こではとりあえず,経済学批判という艶麗にとっての 「単純流通」論の意義を確認するにとど

    めておく。

    すでに51年の 「省察」に萌芽的に現れていた 「仮象」のこの必然性への認識は,「表層」と「深部」とへ分節化されて構成されるところに成立する近代ブルジョア社会の重層的構造が,

    r要綱Jlと 「原初稀」での自己了解のための議幹の展開を通して明確になるとともに獲得され

    たものである。つまりブルジョア社会が分節化-結合された構造を有するからこそ,あの 「仮

    象」は必然的に生起する。そして 「単純流通」がまさにかかる特徴をもつ 「部面」であるから

    こそ,マルクスによれば,それが 「社会的生活の自然形態のEEl走性」(MEW 23,90)をもつに

    いたる 「客観的な思想形態」としての経済学的カテゴリーが構成される圏域なのである。ここ

    では r要綱Jや 「原初満」そして r批判Jでの商品 ・貨幣分析に立ち入ることはできない。た

    だ次のことに注意しておくべきであろうOたとえば r要綱Jの貨幣章で経済的形態親定として

    の交換価値や貨幣が 「諸人格相互のあいだの物象化された関係」(MEGA I/1.1,93)として

    捉えられ,同じく経済的形態規定として価値から出発することによってしか把撞できないとさ

    れる資本も物象化された関係として理解すべきだとされていること (op.Cれ 180),さらに

    r要綱Jでのこうした形態規定としての経済学的緒カテゴリーの展開をうけて,「原初瑞」の「単純流通における領有法則の現象」にかんする議論でマルクスはブルジョア社会のあの重層

    的構造を明らかにし,「資本-の移行」論でまさにこの形態規定つまりカテゴリーが 「単純流

    32) r安納Jと 「原初稿」でのマルクスの 「単純流通」論については,なによりもまず佐藤金三郎(1992)の第Ⅰ部第1章,第Er部第2.3章そして第Ⅳ都が参旅されるべきである。

  • 経済学雑誌 第98巻 串2号

    通」を固有の圏域として構成されることを確認しているということである33)。つまり経済学

    批判を 「科学の革命」として企図したとき,少なくともマルクス自身としては,既存の経済学

    の理論の展開上の不徹底,論理的不整合,首尾一貫性の欠如.対象選定の誤りあるいは対立す

    る階級的立場への立脚というような諸点にたいする批判 (これらが重要でないということでは

    ない)が 「科学の革命」として遂行されるべき主要な内容を成していたわけではない。また古

    典派経済学の藷カテゴリーの歴史的性格を暴露するということだけで描,経済学批判というマ

    ルクスがいうところの科学革命の核心を理解することができないこともすでにあきらかであろ

    う。

    マルクスはたとえば51年の 「省察」での給点をさらに進め,r要綱』の貨幣章で 「プル- ドン主義者」(op.̀沈,55)ダリモンの貨幣改革論を批判してつぎのように述べている。「閉居は

    一般的にはこうであろうO流通用具の- 流通の組級の一一変更によって,現存の生産諸関係

    とそれに照応する分配諸関係とを変