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始めに 今日において室伏クララという名を知っている人はそれほど多くない。ただ、敗戦前後、上 海で一時期過ごした日本人作家の作品や日記類のものを読めば、必ず室伏クララという名前が 出てくる。とすると、室伏クララは敗戦前後、上海にある日本の文化人という小社会において 目立つ存在だったといっても過言ではないと思われる。筆者は戦後派作家武田泰淳をテーマに 論文を執筆したとき、たまたま室伏という名に触れ、興味を持つようになった。その後、さら に数多くの日本人の書いた上海ものを読んでいるうちに、「乱世の文学者」とでも呼ばれる室 伏クララと中国現代文学との関係を知るようになり、クララという現代中国文学者を研究する 必要性を感じた。ただし、今の段階では現代中国文学者としての室伏クララに関する資料がま だそれほど集めていないので、その予備作業として、本稿では室伏クララという人物像に焦点 を絞り、室伏クララの短い生涯に照らしながら、室伏クララをモデルとしている武田泰淳の 「聖女侠女」と林京子の「予定時間」とを分析し、虚と実の両面から上海における室伏クララ という人物像を浮き彫りにしたい。 上海における室伏クララ像 「聖女侠女」と「予定時間」に関する一考察 経営学部経営学科 The Image of Clala MUROBUSE in Shanghai ―― A Study of“Woman of Saint and Erranty”and“Time Scheduled”―― Wenli XIONG School of Business Administration, Asahi University 朝日大学一般教育紀要 35, 63-76,2009 63

上海における室伏クララ像 - Asahi Ulibrary.asahi-u.ac.jp/kankobutsu/ippankyoikukiyo/No35...一 始めに 今日において室伏クララという名を知っている人はそれほど多くない。ただ、敗戦前後、上

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一 始めに

今日において室伏クララという名を知っている人はそれほど多くない。ただ、敗戦前後、上

海で一時期過ごした日本人作家の作品や日記類のものを読めば、必ず室伏クララという名前が

出てくる。とすると、室伏クララは敗戦前後、上海にある日本の文化人という小社会において

目立つ存在だったといっても過言ではないと思われる。筆者は戦後派作家武田泰淳をテーマに

論文を執筆したとき、たまたま室伏という名に触れ、興味を持つようになった。その後、さら

に数多くの日本人の書いた上海ものを読んでいるうちに、「乱世の文学者」とでも呼ばれる室

伏クララと中国現代文学との関係を知るようになり、クララという現代中国文学者を研究する

必要性を感じた。ただし、今の段階では現代中国文学者としての室伏クララに関する資料がま

だそれほど集めていないので、その予備作業として、本稿では室伏クララという人物像に焦点

を絞り、室伏クララの短い生涯に照らしながら、室伏クララをモデルとしている武田泰淳の

「聖女侠女」と林京子の「予定時間」とを分析し、虚と実の両面から上海における室伏クララ

という人物像を浮き彫りにしたい。

上海における室伏クララ像

「聖女侠女」と「予定時間」に関する一考察

熊 文 莉

経営学部経営学科

The Image of Clala MUROBUSE in Shanghai

―― A Study of“Woman of Saint and Erranty”and“Time Scheduled”――

Wenli XIONG

School of Business Administration, Asahi University

朝日大学一般教育紀要 35, 63-76,2009 63

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二 室伏クララの上海行き

室伏クララは日本の有名なリベラリスト室伏高信の娘である。1918年生まれ、1948年上海で

客死した若い現代中国文学者である。1940年10月に、クララは高信の友人、当時中国の「南京

政府」 で働いている詩人草野心平に頼って中国に渡った。年は二十二歳であった。1940年と

いえば、中日戦争の最中であった。後日、高信がクララの上海行きについてこう回想してい

る 。

彼女が上海に出かけたのは、三年前の十月であつた。まだ二十二歳の若さでもあるし、肋

膜を疾んでゐるうへに、蒲柳の質である彼女を、気候も悪く、また一種の暗黒面をもつてゐ

るこの世界都市に、一人で出してやるのは、たしかに一つの冒険であるとは思つたが、彼女

がたつての希望であるので、彼女の希望にそふことにしたのであつた。

クララが渡ったときの上海はまさに高信が話したような「一種の暗黒面」を持つ国際都市で

ある。高信本人は1936年の夏、読売新聞の特派員として、中国に渡り、北京と上海を訪ねたこ

とがある。今回の訪問をきっかけに、高信は中国の胡適、陳立夫らの有名人と知り合い、その

時に書いた通信が後に「支那游記」として出版された。高信は上海という都市にかなりの認識

を持っているはずだが、父親としてなぜクララにそのような上海を勧めたのであろうか。父親

の勧めがあるので、病弱でありながら、クララは未知の上海、「冒険家の楽園」と呼ばれる上

海行きを決断した。それはまた何のためであろうか。実はその裏にはクララの恋の問題が絡ん

でいた。

その頃彼女は恋愛をおぼえてゐたやうであつた。支那語をおしへてゐた何がしといふ先生

と恋仲になり、しょつちゅうその人と行ききをしてゐたらしいのである。その先生には夫人

があつて、望ましいことでないのはもちろんであるが、(後略)

高信のこの回想から分かるように、クララは中国語の先生と不倫関係に陥いり、その煩わし

い関係から逃れるために上海に渡った。ところが、これはあくまで表面的な理由だと思われる。

もし、ただ恋からの逃れなら、東京を離れさえすれば、どこへでもいいようである。上海は必

ずしもいい選択ではない。高信がクララに上海を勧めた決定的な理由はクララが中国、中国文

学に並々ならぬ興味を持っていたからだと思われる。父高信の目に映る娘クララのイメージは

いわゆる「南京政府」とは1940年3月30日、日本政府の支持で成立された日本の傀儡政府である。多く

の日本文化人がこの「南京政府」で働いたことがある。

室伏高信,『追放記―人生逍遥―』,青年社,p.94,1951年第二刷

室伏高信,『追放記―人生逍遥―』,青年社,p.95,1951年第二刷

64 上海における室伏クララ像

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「気まぐれとわがまま」な子である。現に、東京女子大学に入学したクララは、一学期がまだ

終わっていないのに、退学したいと言い出した。だが、クララはなぜだか、中国語にだけ特別

に興味を持ち、しかも、絶えず勉強し続け、中国語を習い始めてから一年後、中国の女性作家

謝氷瑩の自伝「或る女兵の自伝」を翻訳して出版した。もしかすると、クララは中国語を習得

する才能を持っていたかもしれない。「或る女兵の自伝」の出版をきっかけに、クララは中国

語の勉強から現代中国文学翻訳への転向を図ったようである。たぶん日本を脱出しようとする

とき、高信が上海を勧め、クララも承知したのは中国文学者の道を引き続き歩もうとしたので

はなかろうかと推測しても、無理はなかろう。

中国に渡った当初、クララは上海でなく、南京で働いた。これは頼りにしていた草野心平が

当時の「南京政府」の宣伝部の顧問をしていたからである。この関係で、クララが「南京政府」

に雇われ、「南京政府」の宣伝部でその部長の林柏生のもとで宣伝部員として働いていた。そ

の傍ら、クララはまた林の妻と娘に日本語を教えた。宣伝部員といっても、具体的な仕事がな

く、時間があるだけである。林の妻子に日本語を教えることにより、クララは南京のいわゆる

上流社会の奥様と付き合うチャンスを持つようになった。こうみれば、クララは南京でかなり

優雅な生活を過ごしたと推測できる。ところが、クララは南京にそれほど長く滞在しなかった。

1941年ごろ、彼女は南京を離れ、上海に向かった。この上海行きはクララの中国文学志向と深

く関わっていると思われる。南京は当時、完全に日本の支配下にあり、日本側に協力するごく

少数の「漢奸」文人以外、中国人の作家がほとんどいなかった。南京に対し、上海の情況は全

く違う。当時の上海文壇は孤島文学 の時期にあたる。クララは上海で六年間ぐらい生活した。

この時期の上海での生活のおかげで、クララは現在中国で注目されている孤島文学の代表作家

の一人張愛玲の作品に巡りあった。1944年上海で出版された日本語の新聞「大陸新聞」に張の

作品「燼余録」が7回に渡り連載された。その訳者はすなわち、室伏クララである。藤井省三

の推測 によれば、訳者クララと作者張愛玲の接点は張の夫であった胡蘭成にあるということ

である。しかも、藤井省三のタイトルを借りれば、二人とも「“淪陥区”上海の恋する女」で

ある。胡蘭成は南京の汪精衛政権が成立された後、宣伝部の常務副部長を務めた人物である。

胡は1944年張愛玲と秘密結婚をした。1944年という時点を考えれば、室伏クララと張愛玲が何

らかのきっかけで面識を持ったのも何ら不思議ではない。

クララは上海に定住してから、積極的に中国文学の翻訳に手がけていた。その傍ら、彼女は

また詩を書き、当時上海で出版されていた日本語の文学雑誌に積極的に投稿していた。1945年

8月15日日本敗戦後、堀田善衛の発議で、当時上海在住の文化人らの賛同を得て書き上げた

「中国文化人ニ告グルノ書」を片端から中国語に訳すという役を果たしたのも室伏クララであ

いわゆる孤島文学は上海の租界以外の中国領(「華界」と呼ぶ)が日本の侵略で陥落した1937年11月か

ら1941年12月の太平洋戦争勃発間での4年1ヶ月間、上海に残っていた一部の中国人作家が英仏租界を

拠点に引き続き文学活動を行った時期の文学を指す。

藤井省三,「“淪陥区”上海の恋する女たち」,四方田犬彦編『李香蘭と東アジア』,東京大学出版会,2001

年12月初版

熊 文 莉 65

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った。この事実からクララの中国語力や中国文化に関する造詣の一斑が窺える。だが、惜しい

ことに、1948年クララは上海で客死してしまった。

中国現代文学者としてのクララが上海で積極的に中国現代文学の翻訳に携わる一方で、女性

としての彼女は当時、上海在住の日本人の間で目立つ存在であった。前述のように、日本敗戦

前後、上海在住の日本文化人の残っている記録には必ずどこかに室伏クララという名前が出て

くるほどの存在であった。その中で特に注目すべきなのはクララをモデルにしている武田泰淳

の小説「聖女侠女」である。

三 武田泰淳の室伏クララ像

1948年武田泰淳は雑誌「思潮」に「聖女侠女」という短編小説を発表した。現在「武田泰淳

全集」第一巻に納められている。小説のタイトルからキリスト教の聖女アッシジのクララを思

わせる。クララの名前には「光」の意味がある。敗戦後、武田泰淳は僧侶でありながら、上海

で聖書を熟読する一時期があった。その有名な滅亡の思想はこの時期の体験に深く関わってい

る。タイトルの「聖女」からも、武田泰淳のそうした体験が想像できる。無論、「侠女」は泰

淳が中国文学者である一側面の流露だといってもいい。

「聖女侠女」において泰淳は珍しく第一人称の女語り手という形をとっている。作品の冒頭

はこうなっている。

私ははじめのうち、マリヤさんを馬鹿にしていた。二人とも上海在留の名物女だから顔を

あわせる機会も多く、互いに相手のうわさをよく知っているのだが、私は私より七、八年下

の彼女をまるで問題にしていなかった。マリヤという、日本人らしくない名が、キザにきこ

えたし、芸術好きの女特有な、あのどこか非常識な暮らしぶりも、私とは縁の遠いものであ

った。

作品において泰淳は実名ではなく、クララに聖母マリヤの名を与えて登場させた。これは無

論、「聖女侠女」に一種のフィクション性を付与している。ただし、前述した理由から、同様

な上海体験を持つ日本人なら、だれでもすぐ室伏クララを連想するであろう名称でもある。し

かも、「私より七、八年下」という年齢に関する説明も事実に合っている。

1944年6月、徴用逃れの意味もあって上海に渡った武田泰淳は32歳であった。この時、クラ

ラは25歳であった。上海に到着してからの泰淳はクララとどういうきっかけで知り合ったのか、

武田泰淳,『武田泰淳全集 第一巻』,筑摩書房,1978年1月増補版第一刷

武田泰淳,『武田泰淳全集 第一巻』,筑摩書房,p.187,1978年1月増補版第一刷

66 上海における室伏クララ像

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今のところはっきりしていない。ただし、泰淳の上海到着後の翌月に「亜細亜」という雑誌が

草野心平の編集で発行され、クララもその創刊号に投稿していた。泰淳と同じく中日文化協会

に所属する石上玄一郎は頻繁にフランス租界のレストランで文芸雑誌の同人を招待していたの

で、上海に到着早々、武田泰淳と室伏クララは知り合ったと推測できると思われる。実際、「聖

女侠女」には1944年の暮に、二人とも参加したあるパーティのことを細かく描かれていて、し

かも、「私はつい二、三日前に、ある雑誌で、マリヤさんの発表した詩を読んだばかりだった」

という記述がある。

当時、武田泰淳の目に映る室伏クララという女性のイメージはいかなるものであろうか。

マリヤさんのお父さんは、あの有名なクリスチャン、欧米を漫遊した自由主義の紳士、私

の弟なんかが殺してもあき足りないと憤慨していた、文明人。このお父さんがマリヤさんに

この名を与えることほど、奇妙な皮肉はないかもしれない。マグダラのマリヤはキリスト一

人を男の中の男として信じたという話だけれど、上海のマリヤさんはあらゆる男を信じてい

た。(中略)女にとって男を信ずるとは、これを愛することなのだから、彼女は夜も昼も、

やみくもに、何のためらいもなく、何のこだわりもなく、男を愛しつづけたわけである。

マリヤさんは、つんぼのようにきき流してしまう。中国人とも、中年男とも、軍人とも、

商人とも、同棲しては別れ、別れるとすぐ住みかえる。防ぎもせず、守りもせず、荒だても

せず、考えをめぐらすでもなく、何の気なしに身体をまかせてしまう。

以上は「聖女侠女」でマリヤという女性に関する「私」の印象である。そのマリヤはひたす

ら男を求めていた。ひたすら男を愛していた。泰淳のこうした描写は決して杜撰なものではな

い。その証拠に、室伏高信の日記にはクララの生活ぶりに関して似ているような回想がある。

彼女に会つたのは、手紙をうけとってから一週間後のある日、第一ホテルのサロンにおい

てであつた。見違へるほどに彼女はふけてゐた。数へて見ると、彼女は二十五歳になつてゐ

る。もう立派に一人前の女になつてゐるわけであり、彼女の荒んだ生活ぶりは、かねて耳に

してゐるところであるし、またその噂が真実であるに相違ないのである。

武田泰淳の描写と室伏高信の回想を合わせれば、上海における室伏クララの私生活の一面が

明らかになってくる。愛のために身をささげたクララに「私」は最初ひどく不潔を感じた。し

武田泰淳,『武田泰淳全集 第一巻』,筑摩書房,p.190,1978年1月増補版第一刷

同上,p.189

同上

室伏高信,『追放記―人生逍遥―』,青年社,p.100,1951年第二刷

熊 文 莉 67

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かも、男たちに取り巻かれていたマリヤの挙動はまるで「白痴」のように受け取られ、「生物

としての女のあさましい状態」に女語り手の「私」は「焼きつくような憎悪にかられて」いた。

このように、「聖女侠女」の前半では男漁り、恥知らずの女としてのクララのイメージが浮か

んでいる。ここに至って、「聖女侠女」の前半が完結した。時間から言えば、日本敗戦前に当

たる。

「聖女侠女」という作品は形式上前半と後半の構成になっている。前半の部が完結した後、

一行を開けて、「やがて終戦」という語りから後半の部が始まる。作品はここから敗戦後のク

ララの新しい恋に焦点を当てている。

(前略)マリヤさんは虹口の南のはずれで、新しい恋人と同棲しているといううわさであっ

た。その相手の岸という大使館員は、私のふれたくない日僑の醜悪さを一番豊富に持ってい

る男だった。べッ甲色のロイド眼鏡をかけ、小さな、黒い顔をして、海軍の宣伝でいい顔に

なり、えばりちらしていたくせに、終戦後二月にならぬうち、重慶側の対日工作の機関に入

り、自称民主主義に早がわりしたような男。

この後半の部において、マリヤさんの新しい恋人「岸」が登場してきた。この「岸」に対し、

「私」は明らかな悪意を持っている。「私」の目からみれば、岸は「女ひとり守れな」く、だ

らしない男である。この岸もなぜだか「私」をこわがっている。この岸のために、病気が悪化

したマリヤからわざわざぜひ会いたいという願いを伝えられたので、「私」は二人の住んでい

るところへ向かった。「私」に向かって、マリヤは「岸をいじめないで」と哀願した。その理

由は「(前略)今までは愛してくれたわ。幸福にしてくれたわ。その楽しさは今でも消えてい

ないわ。死ぬまで、消えることはないわ。もうわたしには、男のために、何もしてやれること

はないけれどね。」というところにある。マリヤのこうした哀願に対し、「私」は腹立たしかっ

た。と同時に、「一脈の悲しみの清水が、今まで感じたことのない澄んで光る悲しみの流れは

じめるような気もした。それは、雨のしみのひどい天井を仰いでいる、死にかかったマリヤさ

んの、しなびはてた身体から、野心のみちた強壮な私の身体へと、水のようにしみわたってき

た」。

「悲しみの清水」という表現が作品の前半部に頻出していた「不潔」、「娼婦」、「白痴」らの

表現と対照的になっている。絶えず男の愛を求め続ける一人の女の哀れな運命はこの「悲しみ

の清水」という表現に尽きる。泰淳はこの愛のために身をささげた女性に深く同情を寄せてい

る。このように、武田泰淳は「聖女侠女」という作品において絶えず恋を求め、男を愛し続け、

武田泰淳,『武田泰淳全集 第一巻』,筑摩書房,p.194,1978年1月増補版第一刷

同上,p.198

68 上海における室伏クララ像

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愛のために身をささげた女性像を浮き彫りにした。特に、最後のマリヤの哀願はとことん男に

尽くす女の哀願だというように聞こえる。この女性は男のために生きているような存在である。

このようなマリヤを見ている「私」の目はよく考えれば、女性の目ではない。明らかに男が女

を見る目になっている。

「聖女侠女」のマリヤはただ男のために生きている女というふうに描かれている。それ以外

のことに関して、武田泰淳は一切触れていない。たぶん武田泰淳の目に映っていた室伏クララ

はそうしたイメージであったかもしれない。にもかかわらず、同じく中国文学者でありながら、

泰淳はクララの仕事に全く関心をもっていないのなぜであろうか。要するに、「聖女侠女」の

中のマリヤという女性はただの女に過ぎず、才女ではないということである。しかもこの女は

泰淳の同情の対象になっている。それと反対に、女の周りの男は軽蔑される存在である。特に、

後半に登場したマリヤの恋人岸という男を、泰淳は徹底的に軽蔑したといえる。

この岸は泰淳が小説のために虚構した人物であろうか、決してそうではない。室伏クララの

実生活に照らせば、その男がわかる。この問題を解明するには同じく上海に滞在、泰淳とクラ

ラといずれも付き合いをしていた堀田善衛の「上海日記」を読む必要がある。堀田善衛は1945

年3月24日国際文化振興会上海資料室に赴任し、同年の8月15日に上海で日本の敗戦を迎え、

12月に中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に徴用され、1947年1月、引揚船で日本に帰

国した。しかも、堀田善衛が中国国民党の宣伝部で働いていた時に、室伏クララもそこで働い

ていた。それに、日本敗戦後、日本側に協力して漢奸と断罪された中国文人柳雨生の一家を

「四六年一杯は室伏嬢と私とで、引揚げ同胞のおいて行った日用品などをもって、ときどき、

暮夜ひそかに見舞いに行った」というほどの仲であった。この事実から見れば、武田泰淳より

堀田善衛のほうが、クララの私生活に関する知識がはるかに豊富だということが断定できる。

その「日記」にはクララに関するところがよく見られる。以下にクララに関する主な記述を抄

録する。

十月十六日

一昨日は林俊夫さんと室伏クララ女士のうちへゆき、とまり込んでしまひ、(後略)

十一月四日

しばらく見てゐて、林俊夫、室伏クララ嬢をたづねる。嬢は一生懸命、本のリストを作つ

てゐた。

紅野謙介編,『堀田善衛 上海日記 -滬上天下一九四五』,集英社,2008年12月第二刷

堀田善衛,『上海にて』,筑摩書房,p.111,1959年7月

熊 文 莉 69

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十二月五日

午後松本十郎との約束で三時ごろ海路の喫茶店へゆかうとしたら、その前で林氏とクララ

嬢とに会ふ。

八月三日(一九四六年)

「渋谷事件」について林さんが作つた原稿を放送して、翁君が「あまり日本人の悪口がな

かつたから気持ちがよかつた」と云つたことについて賈君が文句をつけたらしい。それに

林さんがまきこまれたのかどうかで、僕とクララさんが映画館の前で待つてゐると、あと

から約束のやうに林さんがやつて来たが、自分は帰らねばならぬと云い出したので、クラ

ラ女士とぼくとでとめたところ妙にこぢれてしまひ、しまひには林さんが自分で三人分の

切符を買つて入り、しかも広告が上映されてゐる間中ブツブツ云ひつづけ、クララ女士に

「君は僕の仕事を破壊するばかりで一寸も助けない」などとまで云ひ、映画も途中で出て

行つた。

堀田の日記を読めば、少なくとも武田泰淳の「聖女侠女」の物語が展開されていた時点にあ

たる時期において、室伏クララの恋愛相手は林俊夫という人物であることが分かる。「上海日

記」は日記という形式で、ほとんど客観的に日常の出来事を記しているので、林俊夫という人

物の具体像がはっきり読み取れないが、幾つかの記述は「聖女侠女」の中の岸に一致している。

一つ目は二人は虹口あたりに住んでいること。二つ目は林俊夫は「元海軍嘱託」で、十月半ば

ごろ中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会の徴用があり、まもなくそれに応じたことであ

る。堀田と林は敗戦まで日本の海軍の機関で働いていたことから、同時に徴用された。これら

の事実は「聖女侠女」の中の「海軍の宣伝でいい顔になり、えばりちらしていたくせに、終戦

後二月にならぬうち、重慶側の対日工作の機関に入り、自称民主主義に早代わりしたような

男」との記述にもほぼ一致している。

上述の分析から見れば、「聖女侠女」の岸は決して武田泰淳が虚構した人物ではない。あり

のままの林俊夫をモデルにしているとまでは断定できないが、林氏の影が大きく落としている

ことは否定できないであろう。ここに至って、上海における室伏クララ像を完全に浮き彫りに

するためには、林俊夫という人物に触れる必要性があるように思われる。

林俊夫という人物に関する考察に入る前に、再び、堀田善衛の日記に戻りたい。敗戦後の上

海における日日を克明に記録した「上海日記」は2008年10月氏の没後十年を記念して神奈川近

代文学館で開催された「堀田善衛展」において初めて公開された。

紅野謙介編,『堀田善衛 上海日記 -滬上天下一九四五』,集英社,p.19,2008年12月第二刷

堀田の十月十六日の日記には「頃日の動揺の一つは、中国側の機関へ入つて働いてみようかといふこ

と」のような記述がある。

武田泰淳,『武田泰淳全集 第一巻』,筑摩書房,p.194,1978年1月増補版第一刷

70 上海における室伏クララ像

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実際には、これより興味深い問題はこの「上海日記」が出版される際、本の最後に「華やか

なうたげ」という作家林京子の特別寄稿が載せられていることである。林京子も上海と深い縁

を持つ作家の一人である。彼女は少女時代を上海で過ごした。林京子は「華やかなうたげ」と

いう文で特別に室伏クララに注目している。

室伏クララという記者は「シナ」を愛し、中国人よりも北京語が美しい、といわれた才女

である。「濁つてゐる、それでゐて澄んでゐる」と正当に「シナ」を評価できる女性で、草

野心平は、彼女の詩の才能を高く評価していた。

(中略)

日記に集う若者たちのうたげは終わった。

室伏クララさんは上海で病死した。遺骨は、彼の地で行動をともにしていた愛する人に抱

かれて、帰国した。その彼も天寿を全うした。もうろうとかすむ意識のなかで「シナ人」が

階段を上がってくる、といったという。

「華やかなうたげ」という文章はそれほど長くない。堀田善衛の「上海日記」のための特別

寄稿にもかかわらず、日記そのものに関する感想は少なく、かえって室伏クララと林俊夫とい

うアベックのために、わざわざ紙幅を割った。その理由はほかでもなく、問題の林俊夫といえ

ば、林京子の離婚した夫だからである。

四 林京子の室伏クララ像

林京子が初めて林俊夫と出会った時、俊夫の胸に抱かれていたのはクララの骨箱であった。

林京子は1974年に林俊夫と離婚したにもかかわらず、1998年に上海時代の林俊夫をモデルにし

て「予定時間」という小説を発表した。当然のように、室伏クララは主要登場人物の一人とな

っている。前述の武田泰淳の「聖女侠女」が女性主人公の一人称小説であるのと逆に、「予定

時間」は男性主人公の一人称小説である。二点の作品は共に室伏クララをモデルにしており、

しかも、共に作家自身の性別と異なる異性の語り手という形をとっている。これはなかなか面

白い問題である。偶然であるか、必然であるか、この問題に関する考察は別の機会に譲ろうと

思う。ここでまず「予定時間」の語り手である「わたし」のモデルになっている林俊夫という

人を簡単に紹介する。

林俊夫は大学卒業後一時期映画会社で働いていたが、後に朝日新聞社に入社した。尾崎秀実

紅野謙介編,『堀田善衛 上海日記 -滬上天下一九四五』,集英社,p.430―433,2008年12月第二刷

熊 文 莉 71

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に協力した関係から、ゾルゲ事件で尾崎秀実が逮捕された後、特高の捜査の手も林俊夫の身辺

に伸びた。しかも、林は当時朝日新聞で無線電波を記事にする仕事を担当していた。この無線

電波は朝日新聞社によって違法に設置されたので、朝日新聞の上層部から「急遽、上海特派員

として出発せよ」という命令を受けたということである。こういう背景で、林俊夫は1942年2

月15日に上海に着いた。特派員として上海に赴いた林は同時に海軍嘱託になった。日本敗戦後、

すでに述べたように、堀田善衛と同じように、中国国民党党中央宣伝部対日工作委員会の技術

雇用日僑になった。

武田や堀田と違い、1948年12月林俊夫は上海発の最後の引揚船で日本に帰国したのである。

帰国後、1953年に林京子と結婚した。

林俊夫の経歴からみれば、泰淳が「聖女侠女」において書き上げられたあの岸という男と同

一人物だとは想像しにくい。武田泰淳がどうしてあのようないやらしい男のイメージを描いた

のかという問題は本稿との趣旨と関係がないので、ここで問題にしない。

要するに、林京子の「予定時間」の一人称語り手=主人公「わたし」はこの林俊夫をモデル

にしている。この作品に関して、「自分が体験から得たものとは異なる視点」から「私の上海」

を考えようと評する論者 もいるし、「林京子の俊夫への愛情表現の作品になっている」という

見方もある。本稿では、「予定時間」という作品そのものに関して詳しく論じるつもりはない

が、作中の「わたし」の目を借りて、室伏クララをモデルにする女性に注目したい。

クララは「予定時間」においてリタという名で登場している。「マリヤ」と同じく日本人離

れの女の子の名前であり、しかも、キリスト教から由来する名前である。この設定は依然とし

て、室伏クララをモデルにするという前提に基づいていると思われる。「わたし」はリタと知

り合ったのは蘇州であった。彼女は「血管が浮いた細い手を差し出した。浅黒い肌をした、や

せた女で」、「北京語は「支那人」よりうまい」、「日本語の雑誌の編集者で、仕事の本拠は上海」

である。

リタは、わたしより一つ二つ、若くみえた。黒髪をよしとする日本人にしては髪は赤く、

声に似て綿毛のようにふわふわと烟っている。

リタと話しているうちに、わたしは川風の冷たさを忘れていた。リタは美しい女である。

一瞬強い印象を相手に与えるが、それはつんと細い鉤鼻のせいだろう。ズボンをはいた脛

は長いが、棒のような女である。

黒古一夫,『林京子論 「ナガサキ」・上海・アメリカ』,日本図書センター,2007年6月

渡邊澄子/スリアーノ・マヌエラ,『林京子 人と文学』,勉城出版,2009年6月

林京子,『予定時間』,講談社,p.69,1998年第一刷

同上,p.71

同上,p.73

72 上海における室伏クララ像

Page 11: 上海における室伏クララ像 - Asahi Ulibrary.asahi-u.ac.jp/kankobutsu/ippankyoikukiyo/No35...一 始めに 今日において室伏クララという名を知っている人はそれほど多くない。ただ、敗戦前後、上

というように、「聖女侠女」と比べ、「予定時間」にはリタの容貌に関する描写が詳しい。林

京子本人は室伏クララと面識がないので、これはたぶん俊夫から聞いた話に基づいたものだと

考えられる。このリタは「わたし」にとってとても魅力的であった。リタと知り合うようにな

ってから、リタに関する知識も豊かになった。無論多くは噂によるものだ。その噂は言うまで

もなく、リタの激しい恋愛ぶりである。

そのころリタには、新しい恋人がいた。ピアノが上手な海軍大尉は南の島に転戦して、新

しい恋人は、軍医ということだった。軍医が幾人目の恋人なのか、わたしは関心がなかった

が、「カルメンのような女」と Z社の上司はいった。そんな女を仕事の片腕にしている君の

ことを、Z社の恥だといっているよ、慎み給え、と忠告してくれた。二人の仲を疑っている

のである。光栄ですな、彼女の恋人に選ばれて、とわたしはいった。

(中略)

リタはわたしが編集を任された中国語の雑誌で働く一方、日本語の雑誌の記者として働い

た。現在でいうなら『文芸春秋』のような総合雑誌である。(中略)リタは男たちと政治、

文学、「支那問題」を対等に議論する。男たちは新しいタイプの女リタに、興味をもってい

るようだった。軍医のほかにも、リタには中国人青年の恋人がいるらしいと、噂がたってい

た。リタが幾人の男に抱かれようと、わたしの彼女に対する評価は変わらなかった。

ここでは、一見して「聖女侠女」と同じように、女の激しい恋愛ぶりを描いているが、対照

的になっているのは泰淳のように「不潔」、「娼婦」、「白痴」のような軽蔑の意味合いが含まれ

ていない。逆に、女に好意的である。しかも、女のそうした恋愛には政治的要素が含まれてい

るのを憤った。

(前略)リタを利用していることは確かだ。そのために「カルメンのような女」と噂されて

いるのなら、リタが憐れである。女が体を張って国のために働くのは、映画の世界だけでい

い。わたしの強い調子に、彼女の希望ですよ、政財界に知人を多く持つ経済学者ですよ、彼

女の父親は、と将校がいった。

というふうに、「予定時間」におけるリタの恋愛は戦時中の日本の国策とうまく合致した。

こうした描写はどこまで真実であるか、どこまでフィクションであるか、判断しにくいが、当

時の上海情勢や室伏高信の中国における交友関係から推測すれば全くの杜撰とも言い切れない

林京子,『予定時間』,講談社,p.135―137,1998年第一刷

同上,p.146

熊 文 莉 73

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ような気がする。それに、武田泰淳の民間人身分と違い、林俊夫は朝日新聞上海特派員兼海軍

嘱託という身分から言えば、それなりの信憑性があるとも思われる。しかも、「聖女侠女」で

は文化人である室伏クララの側面にほとんど触れていないが、「予定時間」では、数少ない紙

幅を割ってその側面を取り上げている。

リタは、戦火に焼かれた村や町が復興していく過程に、興味をもっていた。綿密に調べて

いて、人の移動、市場の動向を、数字をあげて説明する。

リタは己の心に忠実な女である。人の好き嫌いが激しく、誇りが高い。頭脳明晰で、学者

の家で育った、日常生活のなかで身につけた知識と見識だから、一夜漬けの学士さまたちは、

たいがい負ける。仕事仲間として付き合いはじめた当座、なまいきな女だ、とわたしも思っ

た。

リタの語学の才は、すばらしかった。加えて中国語の文がたつ。社会部記者的な、勘が鋭

い。リタは重宝な存在になった。仕事が任せられるのだ。二人で徹夜もした。

というように、「わたし」はリタの才能を高く評価し、しかも尊敬を持っている。こうした

側面を備えてからこそ、より真実に近い室伏クララの像が完成したといえる。しかも、人生の

最期になっても、リタはそのすきな仕事を引き続けた。

娘時代に胸を患ったリタは、過労と栄養不足のために、微熱が出るようになった。咳も出

る。明らかに肺結核の再発である。芯の強い女で、苦しいとも疲れともいわない。私が徹夜

をすれば、背中あわせにおいた彼女の机に向かって、好きな中国人女性作家の著書や、生い

立ちを翻訳する。中国の女性作家の生い立ちは、家と時代への反逆の女性史で、リタは一冊

の本にまとめるつもりでいた。

ここに至って、中国現代文学者である室伏クララの役目が一目瞭然になってきた。「予定時

間」において、林京子は「華やかなうたげ」で指摘したような才女室伏クララのイメージを描

いた。しかも、この才女はその激しい恋愛を通じ、日本という国のために、日本の国策のため

に奉仕したというふうに解釈した。「男たちの間をボールのように投げ廻されているうちに、

リタは、亡霊のように人を操る「国」に突き当たった。実体の知れない、人間たちが創り上げ

林京子,『予定時間』,講談社,p.69,1998年第一刷

同上,p.136

同上,p.135

同上,p.176

74 上海における室伏クララ像

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た無形の「国」に対して向かってみよう、とリタは考えた。」これは明らかに女性としての林

京子による戦争を起こした日本という国に対する発言である。

この意味では、「男」の語り手を取っているのに、林京子は男になり得なかった。林京子の

他の上海ものと違い、「予定時間」は大人の女を描写することにより、日本という国に突き当

たった。上海で幼少年時代を過ごした少女にとって、上海は楽園だったかもしれないが、室伏

クララのような大人の女は戦争という乱世において、上海という「魔都」では、必ずといって

いいほど、無形の国に操られる運命に陥る。「予定時間」は女性作家林京子が離れた夫の愛す

る女への鎮魂歌だといっていいと思われる。

五 終わりに

本稿では、日本敗戦後、上海で客死した若い中国現代文学者室伏クララの上海時代に焦点を

絞り、武田泰淳の「聖女侠女」と林京子の「予定時間」との二作品を分析した。同じ人物をモ

デルにしている作品なのに、読者からの印象はたぶんかなりの差が生じると思われる。繰り返

していうようだが、二人の作家は同じ作戦を取っている。すなわち、異性の語り手を使った。

だが、上述の分析からもわかるように、残念なことに、二人とも失敗したといえる。武田泰

淳は結局男の目を捨て切れなかった。マリヤを見る目は明らかに女性ではなく、男である。男

の目だからこそ、マリヤはただ男に玩ばれる対象であり、マリヤはただ男を求め続ける一人の

女に過ぎない。作品の最後に、同情の念も読み取れるが、「聖女侠女」というタイトルを考え

れば、なんだか冷ややかな皮肉が含まれているようだと、女性である筆者がそう感じて禁じえ

ない。

「聖女侠女」に対し、「予定時間」は女性作家が男の目を借りた作品だが、リタという女性

を見る目が依然として女性そのものである。武田泰淳や堀田善衛のような男性作家の「上海」

に対し、林京子は室伏クララという彼らの同世代の女性を通じ、自分と全く異なる視点から

「上海」を捉えようとしている。従って、「予定時間」の中のリタは肉欲のために、男を求め

続ける女ではなくなり、国のために身をささげる女に変身した。これはあくまで林京子の捉ら

え方である。しかも、男に玩ばれる女のようであるが、人生の最期、愛してくれる男と一緒に

いることができて、女としてのリタは決して悲劇的な存在ではないといえる。こうした発想も

女性限りの考え方だというしかない。要するに、林京子は男の語り手を創り上げたが、その裏

に立っているのは依然として作家本人である。

というように、武田泰淳と林京子は作品で異なる上海における室伏クララ像を展開した。こ

林京子,『予定時間』,講談社,p.179,1998年第一刷

熊 文 莉 75

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の二作品を読んでいるうちに、室伏クララという女性に対する興味をさらに引き起こされた。

本稿で取り扱っている二作品はいずれも小説というフィクションの形をとっているので、中国

現代文学者である室伏クララに関する注目が足りない。特に、武田泰淳の場合はほとんど問題

にしていない。しかし、同じ中国文学者である武田泰淳は室伏クララが「或る女兵の自伝」の

訳者である事実を知らなくても、同じ時期上海在住の日本人として、クララの翻訳仕事に関心

がなかったことはやや不思議である。余談だが、武田泰淳は「或る女兵の自伝」の作者である

謝氷瑩の関係で、逮捕された経験がある。中国文学研究者としての二人の間にどのような接点

があるか、筆者は深い興味を持っている。そのために、中国人女性作家の作品を日本に紹介しよう

とする中国文学者室伏クララの活動をさらに解明する必要があると思われる。これは今筆者が

取り扱っている竹内好や武田泰淳らの中国文学研究会の研究にも関わっている問題である。中

国現代文学者室伏クララに関する研究を今後の研究課題の一つとして、さらに続けたいと思う。

参考文献:

1.川西正明,『武田泰淳伝』,講談社,2006年9月第二刷

2.四方田犬彦編,『李香蘭と東アジア』,東京大学出版会,2001年12月初版

3.芝崎厚士,『近代日本と国際文化交流 -国際文化振興会の創設と展開―』,有信堂,1999

年8月

4.堀田善衛,『上海にて』,筑摩書房,1959年7月

Abstract

Clala Murobuse is a Japanese researcher specialized in Chinese literature, who died

in Shanghai in the year of 1948. Her father, Koosinn Murobuse, was the very famous

Japanese liberalist. Nowadays, although few researchers pay attention to Clala Murobuse,

if you check up in the material left by Japanese scholars who lived in Shanghai before

Japanese surrender, her name will definitely be mentioned. Clala stood out among the

Japanese who lived in Shanghai, for she possessed a unique position in the research of

Chinese modern literature studied by Japanese. She was the first person who translated

“The Autobiography of a Girl Soldier”by Xie Bingying, and also the first Japanese to

translate works of Zhang Ailing. Clala’s innovative work can never be ignored during

the study about the history of Japanese’s researches of Chinese modern literature. Clala

is worth studying. In this paper, Clala’s life will be introduced by analyzing works de-

lineated her―“Woman of Saint and Errantry”by Taijyunn Takeda and“Time Sched-

76 上海における室伏クララ像

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uled”by Kyouko Hayasi. This paper is composed by 5 parts, which are Prelude, Clala’s

trip to Shanghai, Clala delineated by Taijyunn Takeda, Clala delineated by Kyouko Hay-

asi and Epilogue. The character of Clala Murobuse will be enhanced both in abstract

and specific ways by studying the works mentioned above.

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