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No. 759

リーン生産方式の「楽観的オプション」と体制転換aoki/aceGSK/aoki1995.pdf · リーン生産方式の「楽観的オプション」と体制転換 ---チーム方式を中心に----

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No. 759

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リーン生産方式の「楽観的オプション」と体制転換

---チーム方式を中心に----

青木 國彦(東北大学)

Ⅰ はじめに

旧社会主義諸国の体制転換は、未だに疑念を

表明する人も時にはいるが、むろん資本主義化

である。それは同時に資本主義経済体制の一層

の修正の契機でありうるし、そうあってほしい。

資本主義の修正はグローバルレベルでも、マク

ロ・ミクロのレベルでも、直線的にではないが、

多角的に進む。ミクロレベルでは工場の効率向

上の枠内でのいわゆる人間化と民主化である。

旧社会主義国育ちの労働者はそれにどう反応

するのか、何かを寄与できるのであろうか。詳

しい実態調査があるわけではないので、確たる

ことは何も言えないし、私は労働経済学にも経

営学にも十分な知識がないので、不十分な内容

であることをお断りしつつ、このこととの関連

で東独での最近の見聞に触発されて興味を持っ

たことについて記したい。

1995年 3月 26・27日に関西大学で開催され

た社会主義経営学会第 20 回大会は、ようやく

学会名称を比較経営学会に変えることを決めた。

今大会の第 2共通論題は、新名称にふさわしく

と言うべきか、「体制転換と経営学:日本的経営

の可能性」であった。その報告者は林正樹、十

名直喜、丸山恵也、宗像正幸(報告順)という

日本的経営の批判的研究で知られる専門家であ

った。充実した報告であって多くを教えられた

が、ただ体制転換との関りという点ではテーマ

倒れのきらいがあった。

実は私はこの共通論題の提案者(の 1人?)

であるが、それを思いついた直接のきっかけは、

94年 3月の東独企業視察であった。「日本的経

営に」特別大きな「社会主義的要素」を見る/1/

からではない。これから見るドイツ型リーン生

産のほうが「社会主義的」である。

日本的経営の欧米的把握であるリーン生産方

式が、東独企業(ないし東独工場)にも導入さ

れ、カイゼン・アンドンその他の日本語が入って

いた。そのこと自体は、西独におけるリーン生

産方式ブームからすれば、当然とも言えるが、

工場でも、また東独の労働経済学者からも次の

ような意見を聞いたことが極めて強い印象とな

った。すなわち、西独企業では従来の、骨の髄

までしみついた権威主義的ヒエラルヒー構造の

ために、リーン生産、とりわけドイツでその核

心と見なされているチーム方式の導入が困難で

あり、それに対して東独では社会主義時代に培

われた集団性とヒエラルヒーの緩さとのゆえ

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に、その導入が相対的に容易である、と。東独

人は「社会主義の経験があるから西独よりもう

まくやれるのだ」と胸を張っていた。

東独の工場での見聞を、当初は日本的経営の

移植として理解したが、調べてみると、ドイツ

におけるリーン生産方式、ことにその中核をな

すとされるチーム方式は、日本のそれとは、作

業ローテーション、主作業以外に保全や品質管

理なども兼担すること、連帯責任、カイゼンや

チーム会議など、個々の要素には共通性が多い

が、同時に基本線に違いがあるように思われて

きた。

わが国でその行き詰まりが論じられている

「日本的経営」についていまさら体制転換との

関連で論ずる意味があるか、とも思われるかも

しれない。しかし、日本的経営がNUMMI(G

Mとトヨタの合弁工場)における実践と MIT

の組織した調査/2/によって美化された形で「リ

ーン生産方式」として定型化され、それが欧米

で衝撃的に受け止められ、ドイツではドイツ的

に修正されながら導入されている。その過程で

上記のような現象が発生しているとすれば、体

制転換、市場経済移行の工場内現象の 1つ、社

会主義計画経済を経験した人々の労働観が資本

制労使関係をどう受容し、どう変容させるかと

いう問題として関心をそそられる。

現に、『ニューズウィーク』日本版は 95年初

めに、「GMによると、旧東ドイツの労働者は日

本流の生産方式にすぐ適応した。小人数のグル

ープで改善に取り組むやり方は、共産主義時代

の『作業班』とよく似ていたからだ」と報じた

/3/。

これはGMのドイツ子会社アダム=オペル社

の東独アイゼナッハ工場のことである。ここで

は「労働者」のみの「日本流」への適応力が言

われているが、経営管理者についても西独的な

強い階級的権威主義がなく、少なくとも理念上

の経営者と労働者の平等性の教育を受けていた

ことがチームワーク/4/や日本的現場主義など

の受容を容易にしたと言われる。要するに、こ

れまでの西ヨーロッパの企業内階級制が問われ

ることになった。

日本の金属労協の調査団もこのアイゼナッハ

工場を「日本の工場のようだ」と評した。「グル

ープ作業はもちろん、事務・技術の大部屋方式、

『5S』から生産管理の情報システムまでそっ

くり同じであった」/5/。

『ニューズウィーク』の上記の記事の約半年

前に、ドイツの新聞『フランクフルター=アル

ゲマイネ』がこのアイゼナッハ工場について「ア

イゼナッハ人とリュッセルハイム人:ヴァルト

ブルクのオペル工場ではすでに未来が始まって

いる」という長いルポを載せた/6/。この記事に

は後に触れることにする。

「ドイツ自動車産業は 80 年代には眠ってい

た」/7/が、ドイツ(西独)の経営者たちはMIT

調査によってショックを受けてリーン生産に目

覚めた/8/。そうして新設の東独工場で模範例の

1つを作った。

MIT調査の「リーン生産方式」モデルが日本

的経営のはなはだしい美化であっても、もしそ

の美しい生産組織モデルが現実化されて既成の

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資本主義的労使関係の改善になるとすれば、そ

れはMIT調査の功績ということになる。

本稿で言うリーン生産方式は、日本的経営、

特にトヨタ生産方式そのままではない。それは、

MIT 調査や青木昌彦氏の著作などによって美

化された形でドイツを含む欧米に伝わったが、

ドイツではドイツモデルにチェンジされた。

MIT 調査はフォード型大量生産システムへ

の明快な批判とリーン生産概念の提起と日本的

生産方式の光の側面を鮮明にした点において極

めて刺激的かつ有意義であったと私は考える。

が、同時に、それは日本型の影の側面を切り捨

ててしまった。

たまたま目にした批判を例示すると、丸山恵

也氏は、MIT 調査がリーン生産システムを 21

世紀のシステムと予想したが、21世紀を待たず

にその「限界が明らかになってきた」、その「フ

レキシビリティやその高い効率性は今日におい

ても変わることのない特質である。しかし、こ

のフレキシビリティと効率性のゆえに日本的生

産システムは産業空洞化と非人間的労働を避け

られず、その限界を露呈することになった」と

し/9/、野村正實氏は「あまりに非現実的な礼賛」

「おとぎ話」と酷評する/10/。

青木昌彦氏の著作、例えば『日本経済の制度

分析』は、ゲーム理論や危険負担理論など先端

的理論が活用されているので学術的説得力に富

むように見えるし、双対性原理をはじめ教えら

れるところが大きいが、理論展開の前提をなす

事実判断には一面性を感じざるをえない。

例えば、氏にとってJ企業は経営者を調整者

とする株主集団と準終身雇用従業員集団の連合

体であり、企業別労組が発達しているために「企

業レベルでの有効な団体交渉枠組を設定すると

いうことにおいて、世界の先頭を切って」おり、

その枠組みによって「ナッシュ解の達成(が)

単純化」され、効率的である、と言う/11/。

しかしそのためには労組が独立の主体でなけ

ればならない。日本の企業別組合には御用組合

の性格が強いとの多くの意見にもかかわらず、

氏は、日本の企業別組合を「J企業の立派な構

成主体」とみなす/12/。親企業と下請企業の関

係の見方も同様である。

富士銀行に勤めていた娘の死(89年)を「激

務による過労死」と考えて訴訟を起こした岩田

氏にとって組合は「出世の踊り場」であり、激

務を組合に訴えるようにとの氏の助言に当の娘

も生前、「取りあってはくれない」と語っていた。

このような例によって、朝日新聞の「戦後 50

年」特集の 1つは、大嶽秀夫氏や佐高信氏のコ

メントを得ながら、「過剰なまでの労使協調」に

堕した労組の姿を描いた/13/。ここでの労使協

調とは主に労の使に対する協調であり、端的に

言えば、御用組合だという批判である。

こうした労組批判が当たっているかどうかを

全体的に判断する用意はないが、残業問題 1つ

とっても、多くの日本の労組が労働側の利益を

十分には代表していないと言わざるをえない。

ではドイツ的にモデルチェンジされたリーン

生産方式はいかなるものか。それは日本での原

型とは相当に異なるように見える。ドイツモデ

ルにおけるリーン生産方式の焦点はチーム方式

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にある。以下でもチーム方式を中心に見ること

にする。

なお、本稿では日本の原型におけるチーム方

式については詳しく触れる紙数がなく、またそ

のことは本稿の目的でもないことをお断りして

おきたい/14/。

Ⅱ クノルブレムゼ社と体制転換

ドイツの鉄道車両・商用車用ブレーキ製造大

手のクノルブレムゼ社(Knorr-Bremse、略称

KB、本社ミュンヘン)の東ベルリン工場を1994

年 3月に訪問した。それは龍谷大学の調査プロ

ジェクトの一環としての視察であった/15/が、

ここで特に興味深かったのは、「カイゼン」とい

う外来語が飛び交っていたことであった/16/。

カイゼンは「継続的改善過程」を意味し、こ

の意味を表わすドイツ語から KVP という略語

も作られている。

KB 社は早くから東欧進出に積極的で、すで

に 1969 年からハンガリー企業にライセンスを

供与していたし、89年末にはその企業との合弁

でハンガリーに商用車用ブレーキの生産・販売

会社を設立した。東独国有企業ベルリーナー=

ブレムゼンヴェルク(BBW、東ベルリン)に対

しても、1959年以来ライセンスを供与し、1989

年夏には、92年EC共同市場を展望した生産協

力の話し合いをしていた。BBW 社は、ベルリ

ン中心部(オストクロイツの近く)にKB社が

戦前 1923 年に建てたレンガ造りの社屋を引き

続き使っていた。この建物は 7階建で、工場と

しては不便極まるものであった。

ベルリンの壁開放直後の 89 年 11 月末には

KB社幹部が、BBW社を訪れ、早くも 90年 1

月22日には両社は合弁企業設立で原則合意し、

合弁会社の発足を91年1月1日と予定した(実

際は通貨同盟にあわせて半年早く発足)。BBW

社労組側も、職場委員の全員一致(但し保留 1

票)で合弁計画に同意した。これは両独間最初

の大型合弁企業として話題を呼んだ。但し、両

社で合弁会社を設立するといっても、実態とし

てはBBW社にKB社が資本参加することであ

って、BBW社は KB社の出資を得て新会社に

衣更えするということであった。

東独国民が両独通貨同盟への期待に胸をふく

らませた 90年 2~3月には、BBW社では、西

独大企業との合弁というバックアップを得た期

待と市場経済化への緊張、部品供給がスムース

になったことなどが重なって、生産性が大幅に

向上した。月間売上げが前年の月平均のほぼ 3

分の 1増となる一方で、月末恒例だった事務部

門からの生産部門への人員投入による増産が不

要となり、残業時間も急減した。企業長と従業

員代表の間では全員(1600人)の雇用確保が協

定された。

合弁原則合意調印当時BBW社は、従業員は

約 1600人、89年年間売上高は約 1.45億東独マ

ルク(これは報道による金額だが、聞き取りで

は 89年売上げは 1.25億東独マルク)、うち約半

分が鉄道車両用ブレーキ、残り半分が自動車用

ブレーキによるものであった。BBW 社指導部

は、この合弁事業により希望に燃え、年間 7000

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~9000 万東独マルクの売り上げ増と 400 人の

従業員増員を見込みさえした。 だが、当時の報道が言ったように、「販売先が

確保されていた時代は過ぎ去った」のである。

90年春から、すべての産業で西側製品が東独に

殺到し始め、ソ連東欧市場も困難を増し、BBW

社とその新会社にも市場競争の洗礼が待ってい

た。

新会社設立は当初半々出資と報じられたが、

実際には発足時(会社設立総会は 90 年 6 月 6

日、業務開始は両独通貨同盟発足と同じ日の 90

年 7月 1日)にはKB社が65%、東独国営企業

管財人たるドイツ信託公社が 35%の持ち株比

率であり、91年 2月 25日にKB社側が全株式

を買い取り、100%子会社とした。91 年 12 月

12日にKB社がこの子会社を吸収し、結局元の

BBW社はKB社の一工場となった。92年には

工場を東ベルリンのマルツァーン地区に移転さ

せ、現在に至っている。KB社は、もう 1つの

旧東独企業も買収し、これと元BBW社の両者

に対して93年までに総額約5500万ドイツマル

ク(DM)の投資を予定したが、うち 33%は旧

東独地域向けの投資補助金/17/として国庫から

支出されたはずである。

KB 社発祥の地はベルリンであり、両独分割

の結果、戦後にKB社とBBW社は別々の道を

歩んできた。それが、再び合弁協力しあうこと

になり、当時は両独協力あるいは両独融合の経

済面での象徴として報じられたものである。KB

社のベルリン工場は戦後接収されて、いわゆる

ソビエト株式会社になり、ようやく 1954 年に

ソ連から旧東独に返還されて国有のBBW社と

なった。このようにベルリン工場は一旦ソビエ

ト株式会社になった後に東独国有となったため

に、旧所有者への返還の対象とはならず、KB

社による買い戻しとなった。

合弁発足当時は、出資比率に応じて 3人の取

締役のうち 2人がKB社から、1人は社長とし

て元のBBW社社長が選ばれ、ドイツ企業にお

いて重要な地位を占める監査役会は 9人のうち

4人がKB社から、3人がBBW社従業員から、

2 人はメインバンクと主要顧客からということ

になった。

合弁当初、BBW 社は技術的には「他の東独

企業に比べれば相対的にましな装備」(ノイエス

=ドイチュラント)とされたが、オーバーヘッ

ドコスト、ことに管理と事務の人件費の高さが

問題となった。従ってただちに人員削減が議論

されたが、当時BBW社側から合弁会社社長と

なった EJ 氏は、原則として人員削減せずに社

内配置転換で切り抜け、ことに 55 才以上の者

と勤続 10 年以上の者、子持ちの単身者は解雇

されないと明言していた。両独通貨同盟発足直

前に彼は、付属の幼稚園や診療所、バカンス施

設も維持するつもりで、「福利切り捨ては1回限

りの効果しかない。むしろ経営の将来に大きく

影響する生産・研究開発コストにこそ集中的に

対策するべきだ」などと言明し、まだ鷹揚なも

のであった。元の東独党機関紙ノイエス=ドイ

チュラント紙も「これは東独国営企業の安売り

ではない」と高く評価していた。

ところが、業務開始直後から人員削減が始ま

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り、「5月末時点で 1500人いた従業員が、現時

点では 1200~1250人」であり、「厳密な数字は

分からない。というのは、今(90年 7月初め----

青木)も人事課が従業員を呼んで個々に話し合

って」おり、「相互了解」による退職が増えてい

るからであった。期待が高いほど失望も深くな

った。ノイエス=ドイチュラント紙は、EJの約

束は単なる口約束としてホゴにされた、KB 社

の企業構想は 10 日間ももたないほど場当たり

的なものだったのか、「資本とその担い手は価値

増殖を熱望している。その邪魔になる者は荒々

しくオフサイドに追いやられる。その点はカー

ル・マルクスの時代と何も変わっていない」と嘆

いた。

ここには、市場経済への急激な移行がもたら

す摩擦を目の当たりにして呆然とする人々の心

理がよく出ていた。

BBW 社では管理部門の肥大のみならず、社

会主義諸国の常として過度の内製化も問題であ

った。大規模なガルヴァーニック(メッキ装置)

を持ち、大型機械や特殊機械、各種の形の鋳物

も内製し、大工や左官などの職人まで雇ってい

た。工場は、これまた旧東独によくあることで

あったが、7 階建てというまことに不便な建屋

であった。また、トラック用のブレーキ製造も、

旧東独国営自動車メーカーの閉鎖に伴い、不要

となった。期待をかけていた東欧市場も日増し

に縮小した。

結局、鉄道車両用ブレーキ生産に特化し、工

場も移転した。新工場敷地は、91年に買収した

もので、93年初めから新工場での生産を開始し

た。この地は第 2次大戦前にハッセ&ブレーデ

社の工作機械製造工場(4000人)があったとこ

ろで、同社にはKB社も資本参加していた。同

社は 1949 年に国有化されたが、西ベルリンで

存続し、それを 1988年にKB社が支配した。

それで、91年にKB社が信託公社から元の東ベル

リン工場の土地を買い戻し、そこに元のBBW社

工場を移転したのである。新工場での最初の操業

となった1993年には年間平均従業員数460人(同

年末は421人)、売上げ1.05億DMとなった。

KB 社は、旧東独時代の国有企業「ベルリン

工作機械製造工場」(略称BWF)のマルツァー

ン工場の敷地の一部を信託公社から 91 年に取

得し、その一部に元BBW社工場を移すととも

に、隣接してハッセ&ブレーデの工場や工業用

圧搾空気工場を建てることになっていた。しか

し受注状況から計画は一部延期された。この土

地は 98 年までに転売の際には差益を BWF 社

(現在のマルツァーン工作機械工場)に支払う

という条件付きだったとのことであり、この用

地取得は旧所有者への資産返還によるものでは

なかった。

なお、旧工場の敷地と建物(オストクロイツ

近くのそれ)はある建設会社に売却され、その

会社が建物等を改修して連邦保険公社に賃貸し

ている。

新工場は、リーン生産方式の導入をめざした。

管理レベル数の削減(3~4レベルから 2レベル

へ)や生産組織の製品群別再編、製品構成の圧

縮、各種のコスト削減策などとともにチーム方

式を導入し始めた。個人としてではなくチーム

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(5~15 人)として目標を持つ。これらの措置

によりコストの 30%削減を達成したと言う。

チーム組織では、「ドイツでは、例外とまでは

言えないが、まだ始まったばかり」(当工場生産

準備責任者AK氏)の作業ローテーションも取

り入れられたが、まだローテーション範囲は広

くないとのことだった。

ドイツではリーン生産の核心はチーム組織に

よる労働編成(チームワーク)と捉えられてい

る。当工場には 94年 3月時点で労働者の 3分

の 2のチーム編成が完了し、半年後に全体が完

成する予定であった。チーム代表は、後述のド

イツ型チームの常のように、チームメンバーに

よる互選である。チームは自主管理機能を持ち、

それに応じてマイスターの役割もチーム内ない

しチーム間の調整やカイゼン管理、教育などに

比重が移っている。マイスターは 90年には 13

人いたが、94年 3月には 4人のみであり、1人

のマイスターが幾つかのチームを管轄している

/18/。

94 年から個人別ではなくチーム別の指標の

評価による「業績志向賃金制度」も導入し始め

たと言う。そこで、AK 氏にこの新賃金制度と

旧東独でホーネッカー政権期に推進された「業

績志向賃金政策」との異同を質問してみた。旧

東独のそれは、基本給部分と一定のノルマを品

質基準も満たして超過遂行した場合に支払われ

るプレミアム部分と、交代労働その他労働形態

に関する諸手当とからなっていたが、彼は、そ

れは西側で言えば出来高賃金制度であり、業績

評価指標が個人別の労働成果であったことに注

意を喚起した。

それに対してベルリン工場が導入しようとし

た新制度は、第 1 段階においては、機械稼働率

を基準とするチーム単位のプレミアムであり、プ

レミアムは稼働率 65%の際に基本賃金の約 3分

の 1 相当額であった。この方式では基本賃金の

半分相当のプレミアムも可能であり、この時点で

西ベルリンの 92%である賃金水準の補充の可能

性を提供する方式であったと言う。ところが目下

受注不足のためにこの方式は適用できず、納期と

品質指標にリンクさせることになった。

「従業員を必要最小限にまで削減し予備人員

を組み込んでいない。もし増産が必要であれば、

現人員で何とかしなければならない。すなわ

ち・・・・各人が色々の作業をし、自発的に左右を

見回して改善点を探す」ことが要求されており、

「インディビデュアリストやスペシャリストか

らオールラウンダーへの移行」が必要である、

と言い、そのためのプレミアムも用意している

と言う。これらは日本発のリーン生産の諸要素

である。生産チームには直接の操作要員以外の

補助的要員はもはやほとんど配置されず、共同

責任で働き共同の成果で評価され、毎月業績プ

レミアムが支給され、利潤分配としてコスト削

減プレミアムもある。

チーム方式は不生産的時間の大幅削減にも効

果があった。93年初めは、新工場での習熟の必

要もあって、機械操作準備時間と不生産的時間

に各 25%取られ、機械の純稼動時間率は 50%

にすぎなかったが、93 年末にはそれが 75%に

なり(残りは準備時間 13%と不生産的時間

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12%)、94年にはさらに上昇していると言う。

チーム方式は 2つの仕組みを基盤にしている。

第 1に「柔軟な労働時間」である。といっても、

日本の 1988 年改正労働基準法に言うフリータ

イム制とも、各人の出社・退社時間をコアタイム

以外は自由化するフレックスタイム制とも異な

る。これは所定労働日の弾力的運用、つまり受

注状況にあわせて柔軟に労働日を長くしたり短

くしたりすることである。従って、フレックス

ワーク制の一種と言えよう。受注が多い時には

労働日を長くし、少ない時には短くする。月単

位で所定労働時間内であれば長時間労働日も残

業扱いとならない。逆に、短時間労働日も操短

労働としない。目下は全体としては受注が少な

いので、この方式で切り抜けたいというのが経

営幹部の意向である。

第 2に、チームによるカイゼン、つまり「継

続的改善過程」(KVP)であり、目下導入中で

ある。生産現場には改善の成果や目標とチーム

メンバーを図示したポスターが丁度かつての

「社会主義競争」ポスターの代わりに張られ、

成果を示す現物の展示もある。

チーム組織と職務転換により生産効率や技能

水準が上がるとしても、それが自主管理機能と

結び付いてチームエゴイズムとなると、工場全

体での効率を保障するとはかぎらない。そこで

調整機構やその効果的運用(日本型におけるカ

ンバンシステムや集中的人事管理)が重要とな

ると言われる/19/。ドイツ型チーム組織にあっ

てはチーム代表互選に見られるように、自主管

理性が強い。それだけにチーム間の調整と管理

をどうするのかがより問題となる。この点では

KB 社ベルリンはまだ経験を積んでいないよう

である。恐らく成績評価をチーム別にすること

により解決しようとしているのであろうが、そ

れにはまた問題がありうる(後述)。

ベルリン新工場には本社から 2人の幹部が派

遣されたが、それ以外の従業員は幹部を含めて

すべてBBW社時代からの従業員である。

AK氏は、かつて 90年 3月にKB社ミュンヘ

ン工場を見学してBBW社の生産設備の遅れに

驚いたが、「今やミュンヘンの同僚たちに生産組

織について多くのことを示し、彼らを援助する

ことができる」と誇らしげに語った。

Ⅲ オペル社

リーン生産への再編は東独工場が先というわ

けではなく、西独でも、というより、まずは西

独、特に自動車産業で試みられた/20/。ここで

はオペル社を取り上げよう。オペル社では東独

工場がモデルの役割を果たしているからである。

「目下日本以外で新しい生産構想によって操

業しているすべての自動車生産工場は、日本企

業の海外工場か日系合弁企業であるが、ただ 1

つ例外がある。それがわがアイゼナッハ工場で

あり、それは初めからチームワークをリーン生

産の鍵とした」。これはオペル社取締役 PE 氏

(後述)の言明である。

オペル社の東独アイゼナッハ工場は92年秋か

ら生産を開始し、94年9月時点で従業員約1800

人(当時 83人を募集中)、日産 600台余であっ

た。従業員のうち約 1000人が元は旧東独国営

9

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企業で小型乗用車ヴァルトブルクを生産してい

たアイゼナッハ自動車工場(Automobilwerk-

Eisenach、略称AWE、90年末 7700人、91年

4 月ヴァルトブルク生産停止)の従業員であっ

た。オペル社の他の工場では 94年に 2000人の

人員削減を進めていたが、アイゼナッハではコ

ルサの需要増に応じるために 83 人を追加採用

した/21/。

この AWE社をめぐる騒動は、両独統一後の

ドイツ政府の対東独地域経済政策の一大転換の

きっかけとなった/22/。AWE社は戦前はBMW

社の工場であった。

オペル社は90年12月にドイツ信託公社から

AWE社の利用地を 3000万DMで取得し、10

億DMの予定の投資で新工場を建設することと

した。2600人の雇用と遅くとも 92年から年産

15 万台という予定であった/23/。投資額の約 3

分の 1は国家補助金が得られる。

37万平米という広大な敷地に、雇用は減った

が、予定通りの額の投資がなされ、92 年 9 月

23 日に連邦首相コールも出席して大々的なオ

ープニングセレモニーがあった。子会社(Opel

Eisenach GmbH)の形式をとり、小型乗用車

のアストラとコルサを年間 15 万台生産する予

定であった。オペルの計算ではアイゼナッハ工

場は小型車ながら 1台の生産に 20時間、他方

オペル平均では 31時間、ヨーロッパ平均は 36

時間(FAZルポの数字とはヨーロッパ平均値が

異なるが委細不明)ということで、「ヨーロッパ

最新鋭の工場」と自賛された。ボッシュなどの

部品メーカーも近辺に進出した。

操業準備では、オペルの親会社たるGMと日

本メーカー(トヨタやスズキ)の合弁会社で働

いていた米国人がコンサルタントとなり、「ゲン

バ、ゲンブツ、ゲンジツとは何か」などを説明

したものである。特権の廃止とチーム精神の尊

重ということから、幹部も含めて全員がグレー

のズボン、白いシャツにネームプレート、ノー

ネクタイとなり、西独の新聞は「幹部が清掃会

社のユニホームを来た従業員のように見える」

と驚いた/24/。

従業員なら誰でもいつでも自由に立ち入るこ

とのできる開放的な事務所、全員同じユニフォ

ーム、支配人から守衛までいっしょの駐車場、

グラスノスチ(経営評議会はいかなるマネジメ

ント会議にも出席できることになった)。従業員

は各々7枚の白いシャツと 5本のグレーのズボ

ン、夏用のTシャツ、冬用の厚手のセーターを

受け取った。マネージャーもライン作業員も同

じ品である(NDルポ)。日本風にブルーカラー

とホワイトカラーの隔たりを少なくしようとい

うわけである。

FAZルポによれば、オペルの西独リュッセル

ハイム本社工場(オメガやベクトラなどを生産)

のWS氏は、3年前まで自分の部屋を持った保

全責任者であり、「価値のある 1人」であった。

ラインに障害が起こると、どんなことでも、彼

が駆けつけて欠陥を除去していた。ところが、

リーン生産方式が導入されて、労働がチームで

評価され、各人が小規模修理を自分でできるよ

うに要求されることになれば、彼の職務のかな

りは余計になる。彼は、アイゼナッハ工場がそ

10

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うした保全用の特別部隊を全く導入せず、ぜひ

必要な整備作業も外注することにしたのを見て、

彼の地位に将来性がないことを予感し、早い目

に生産現場に移った。そこで彼はマイスターと

なり、「価値のある」地位を維持した。

こうして、リーン方式化が工場内のヒエラル

ヒーを崩し、主に外国人労働者が担ったライン

の単純労働者とドイツ人専門労働者による分業

が解消され、「戦後西独の工業化モデルの終焉」

と評された(FAZルポ)。

アイゼナッハ工場は 1台の車の生産時間につ

いてヨーロッパ平均の 6割くらいになったので

あるが、それについて 2つの見方をFAZルポは

紹介している。

第 1に、カナダ人工場長の見方で、人的資源

について 2度とないような好条件であったこと

と大規模な設備投資(投資補助金を含む)がな

されたことの成果とするものである。AWE 社

従業員約 1万人から、チームワークへの適性テ

ストを含む慎重な選考によって選ばれた少数者

(この点では第V節も参照)が、旧AWE社工

場も利用した何ヵ月もの講習を受けた。従業員

の平均年齢は 33 才と若く、しかも外国人は 6

人だけと均質である。これは高度にコミュニケ

ーションに依存するチーム方式に適している。

「アイゼナッハは古典的な西独自動車工場とは

全く異なる社会構造」であり、アイゼナッハの

奇跡は特殊ケースとみなされる。

第 2に、従業員、特に元のAWE社労働者の

見方で、新方式は「すべて周知のこと」だから

すぐに成果があがった、と言うのである。今で

はチームとかグループ作業とか言うものは、か

つてはコレクティブと言ったものであり、今で

は継続的改善過程とかカイゼンと言うものはか

つては社会主義競争と言った、かつては不足経

済ゆえに自分で道具を作った(り、作業の相互

手伝いをした----青木補足)ものだが、今ではそ

うした工夫精神がリーン生産方式の最新流行と

して要求されている、と。

いずれにせよ、アイゼナッハで始められたこ

とを追って、リュッセルハイムの従業員は自分

をすっかり変えなければならないことになった、

とFAZルポは言う。

FAZルポと同じ頃のNDルポも、元は長年の

間 AWE社でヴァルトブルクを作り、今オペル

工場で働いている中年労働者たちから、旧東独

時代に「我々がいつもプロパガンダしてきたこ

とがここで行われている」とか、「フレキシビリ

ティとアドリブ、これはまさに我々の所では以

前に普通のことだった」、チームはAWE社では

コレクティブであった、各人に毎月 3つの提案

を義務づけるカイゼンは旧東独では「革新者運

動」(いわゆる社会主義競争の一種)と言ってい

たものと何も変わらず、しかも形式主義と官僚

制という点でも同じである、ゼロディフェクト

生産も、オペルがまだ別の世界の存在であった

時にすでにアイゼナッハでは語られていた、と

聞き取った。

おそらく事実は 2つの見方の混合なのだろう。

オペルにおけるチーム方式導入の議論と試

行はまず西独にあるボッフム工場でおこなわ

れた/25/。

11

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70年代の労働人間化プロジェクト(国家助成

つき)により一時、チーム方式が試みられたが、

すぐに廃止された。ボッフム工場経営評議会は

84年にチーム導入を要求したが、当時の経営側

はそれを拒否した。ところが米国GMの経験

(NUMMIなど)から、西独のGM系工場でも

80年代半ばからチーム導入論が高まり、当時の

ボッフム工場長が 87 年夏に「製造における新

しい組織構造」という研究をまとめ、さらに 88

年に「アダム=オペル株式会社の製造部門にお

けるマイスターの機能と地位」についての構想

が作成され、その中でチーム方式の導入が勧告

された。

この勧告は NUMMI などのGMの経験を肯

定的に評価したものであり、チーム方式の長所

として、品質と生産性の向上、従業員のイニシ

アチブと自己責任の促進、監督者(マイスター)

削減、労働の満足感とモチベーションの向上、

出勤率向上、技能資格向上とフレキシブルな労

働システム、モノトーン作業の削減などをあげた。

チーム方式に対して経営評議会と金属労組は

上記の経過もあってただちに同調した。但し、

労働側にとって、NUMMIを典型とする日本モ

デルは一面的に企業目標のみを追求し労働強化

と人員削減をはかるもので、拒絶対象であった。

例のパーカーらのチーム方式批判/26/がすでに

伝わっていたのかどうか知らないが、米国から

少なくとも同種の情報があったのだろう。また、

西独では元々日本ないしアジアの労働風土への

警戒感は強い。

労使交渉の末、88年 12月に最初のパイロッ

トプロジェクトについての協定が結ばれ、それ

がその後のオペルのチーム方式の基本となり、

91年3月締結の同社経営協定にも盛り込まれた。

ミンセン氏らは、ボッフムの 88 年協定とそ

の後の発展により「日本モデルの単純コピーで

はないチームワークの 1つの形態が形成された。

むしろドイツの特殊な条件のもとで、日本モデ

ルと 70 年代の労働人間化構想に強く依存した

考えとの総合(eine Synthese)が形成されたと

思われる。これは企業にとっても労働者にとっ

ても許容可能なバリアントである」と評価した

/27/。

ではオペル社のリーン生産構想はいかなるも

のか。まず同社の生産担当取締役 PE

(P.Enderle)氏による説明を紹介し、次いでド

イツ金属労組 KBO(K.Benz-Overhage)氏の

見解を見よう(次節)。両者いずれについても、

以下は、93年3月にマンハイムで開催されたシ

ンポジウムにもとづいている/28/。

ノヴァク(H.Novak)氏は、このシンポジウ

ムにおいて、ドイツにおけるチームワーク概念

はすでに 1919 年の『ダイムラー工場新聞』の

ランク(R.Lang)論文にあり、それは第1次世

界大戦後の経済再建とともに労働疎外克服をめ

ざしたものであり、「トータル加工」「職務混合

作業グループ」「概観知識」「作業の多様性」「調

整」「協力」等々、後に(ドイツでは主に 1970

年代に--青木)「労働の人間化」論争でテーマと

なる諸概念が見られたことを指摘している。

なお、本稿執筆中(95年7月)に思いがけな

いことが起った。報道によると、工場建設の計

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画、立案を担当するオペル社幹部社員が建設業

者からリベートを受け取っていた疑惑が表面化

した。彼らは発注に際して特定業者を有利にし、

見返りに豪華旅行や自宅改修の費用を負担して

もらうなどしたらしく、既にPE氏を含む約250

人(うちオペル社員は 65 人)が捜査対象にあ

がった。費用を転嫁されたオペルの被害額は、

この時点の試算額 1100万マルク(約 6.6億円)

を大幅に上回るだろうとの予想もある。7月 20

には PE 氏とオペル監査役 2 人とが辞任した

/29/。相前後してドイツ=フォード社やフォルク

スワーゲン社にも類似の疑惑が報道されている。

現時点では容疑にすぎないが、もし事実なら、

少なくとも 3社に共通であることと大がかりで

あることから、ドイツ自動車産業の「企業文化」

の問題ということになりかねない。

さて、ドイツにおけるリーン生産方式の推進

者の 1人PE氏は、まず松下幸之助氏による欧

米経営批判を取り上げる。すなわち、古いテイ

ラー主義モデル、つまり厳密な分業原理に従っ

ているのは企業のみではなくマネージャーの頭

自体もであり、彼らは、考えるのはボスであり

従業員はその指示によって工具を動かすもの、

と思っているという批判である。PE 氏は、こ

の批判は「なお正しいか、それとも頭の革新が

すでに始まっただろうか。確かにそうした一般

的認識は定着してきた。・・・・しかし哲学的な認

識から実際の実現までは長い長い道のりであり、

新しい企業文化は一朝一夕に」できあがるもの

ではない、と言う。

PE氏は、「新しい企業文化」を形成し、激化

する国際競争を生き抜くための新生産システム

がリーン管理とリーン生産であり、そこにはコ

アビジネスへの集中やカイゼン運動、カンバン

方式その他幾つかの要素があるが、チーム方式

の形成こそ新しい企業構想の核心と考えてい

る。

これは「リーンな工場の真髄はダイナミック

なチームワークにある」/30/とするMIT調査を

文字どおりに、あるいはそれ以上に受け止めた

形である。しかも、「リーンな生産の導入を図っ

ている工場の調査で分かったのは、労使間に互

恵的な関係がないと現場の協力が得られないと

いうことだ。経営側が労働者の熟練を評価して

おり、彼らを職場に定着させるためなら犠牲を

払い、喜んでチームに権限を委譲する姿勢が必

要だ」/31/からこそ、単なる組織図の変更では

なく上記のように「企業文化」の変革の問題と

して受け止められた。

これが生産効率向上とともに、労働の人間化

や企業内ヒエラルヒー秩序の緩和と民主化の方

向に作用するなら、歓迎されるところである。

理念はその実態化の様相で検証されねばならな

いが、同時にこうした理念転換自体も意義のあ

ることである。本稿はこの理念型が具体化され

たドイツの実態についてはまだ十分承知しな

い。

その理念をPE氏の言葉で記すと、「マネジメ

ントはF.W.テイラーの原理による、古い、どち

らかと言えば保守的な組織構造から脱却しなけ

ればならない。つまり、集権化、多段階のヒエ

ラルヒー、役職権威主義、外側からの管理から

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の別離である。それらに代わるのは、分権化、

フラットなヒエラルヒー、専門家の助言者的役

割、チームにおける自主管理、・・・・フレキシブ

ルなプロセスオリエンテーションを課題とする

新しい文化」であり、「指示を与える者と与えら

れる者の間の固定的な役割分担を取り払い、代

わってチーム志向の協力」の樹立である。

新システムは日本型の模倣にすぎないとの批

判に、PE 氏は、基本アイディアについてはそ

れを否定せず、「しかし同時にオペル独自の構想

も」あるのであって、例えば従業員選抜方法、

交代制、所定労働時間内の利用時間などが日本

とは全く異なるものであって、「こうした点で

我々は全く新しい道に踏み出した」と言う。

さらに、後述のように、チームリーダー(チ

ームスポークスマンと言う)が選挙制、しかも

チーム内からの選出であることが重要な違いで

ある。

オペルのチーム組織の原則について紙数の都

合で詳細は省くが、要するに、チーム内は基本

的に自主管理とし、メンバーはできるだけ長期

に固定する。その代表もメンバーによる秘密選

挙で選ぶ。作業ノルマは個人にではなくチーム

に設定され、その達成を上司としてのマイスタ

ーが監督する。各チームは 8~15 人からなり、

1人のマイスターが 4~5チームを担当する。マ

イスターにせよ保全や生産技術、労務などの専

門家にせよ、チームに対しては指示する人とし

てではなく助言者としての対応が要求されてい

る。チームはチーム会議に彼らを助言者として

呼ぶ権利を持ち、それを通じてその意見を彼ら

に反映することもできるとされる。今後チーム

独自の予算も設けると言う。自主管理権には同

時に整理整頓からバカンス調整、人員融通、紛

争自主解決、品質管理、故障への対応、作業量

の変化へのフレキシブルな対応などに至る義務

が伴っている。チームがフレキシブルな対応を

するためにはメンバーの職業教育水準の底上げ

が必要であるが、これについてもマイスターと

の協力の下にチームが面倒を見ることになって

いる。

定期的な開催が権利でも義務でもあるチーム

会議をいつ持つかが大きな問題である。労働時

間中にラインを止めるわけにはいかないという

経営側と時間外に会議を持つつもりはないとい

う労働側の利害調整として、ある種の交代モデ

ルを試行中であると PE氏は言うが、詳細は記

されていない。

オペルは、PE 氏の報告時点で、全従業員の

50%以上をチームに組織したと言う。94 年 6

月の金属労協調査によれば、オペルは 100%、

ドイツ全体では 10%程度である/32/。

このような理念を聞けば、社会主義国育ちの

労働者が、何か聞いたことがあるような、と思

うのは大いにありうることである。モスクワに

進出したマクドナルドの非権威主義的労務管理

にソ連人従業員が感激したように、社会主義諸

国にも、国による強弱の差はあるとしても、多

かれ少なかれ権威主義的ヒエラルヒーが存在し

た。しかし、無階級化をめざす労働者国家であ

り経済的平等と連帯を旨とする集団化経済であ

るという国家理念が教育されていた影響は大き

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い。

従業員が一定以上の教育水準にあれば、同じ

課題をこなすにも権威主義的階層区分に基づく

指令によるのと、「現場に相談する」姿勢のやり

方とでは大きな差が出るだろうことは容易に想

像される。現に西独の工場では、現場の声を聞

こうとしてこなかった幹部の従来の姿勢への批

判があったと言われる。従って理念転換自体に

も価値はありうる。

同時に、非現実的ひびきも見え隠れする。特

に、成績評価をチーム別に徹することなど可能

ではなく、一時的には可能でも長続きしないと

思われる。そんなことをすれば、人より多く働

くことのないようにという例のソロバン勘定

/33/が頭をもたげる。旧社会主義国の教訓の 1

つである。

人にとって労働は単なる生活手段ではなく、

生活自体でもあるが、仮に世界に映る日本人的

労働観/34/が事実であっても、そのことは労働

が生活手段で(も)あることを覆すものではな

い。そうであれば、個々の労働主体にとっての

労働という給付と生活手段(賃金)という反対

給付の間の比例性が損なわれると、給付意欲が

減退するのは当然である。チーム組織でも成績

評価のチーム別と個人別を、後者を中核として

うまく結合することが不可避なはずである。そ

うなると、チームの自主管理もかなり違ってく

るだろう。他方、上述のように、チームを自主

管理化するにはチームエゴイズムのコントロー

ルのためにチーム別評価が必要となる。ここに

1つの矛盾があると思われる。

経営側はチーム組織について主として人的・

物的資源の利用効率向上を至上とするリーン管

理の手段として位置付けつつ、同時に、対労組

の思惑から、疎外の克服の手段としての位置づ

けもなされている。これが両立するのかどうか。

労組側の言い分を見よう。

Ⅳ ドイツ金属労組

経営側のリーン志向に対する労働側の代表的

見解として、上記マンハイムにおけるシンポジ

ウムでのドイツ金属労組 KBO 氏の見解を見よ

う。

彼女は、まず 80 年代までの様子について、

金属労組が長年、労働の人間化の観点から、テ

イラー主義的抑圧や過度の分業からの離脱、質

の高いチームワークを要求してきたこと、経営

側はそれを拒否して、分業とヒエラルヒーの緩

和ではなく機械化と自動化に賭けたこと、それ

によりある程度の生産性・品質向上が達成され

たが、資本収益性が悪化しするとともにフレキ

シブルな複合的テクノロジーと旧来のテイラー

主義的組織構造の結合に将来性がないことが分

かったことをあげる。

収益性悪化の内容の記述がないが、トヨタ田

原工場(1991年 10月操業開始)の事例と基本

的に同じことだろう。深刻な労働力調達不足に

加えて新人退職率が激増(91年には 85年の 4

倍)し、多数の不熟練臨時工に頼るという状況

を完全自動化によって打開しようとしたのが田

原工場であった。だが、特にエンジン等の車体

への組み付け自動化は巨額の投資を要したが、

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設備の巨大化・複雑化のために車種変更や減産

などへのフレキシブルな対応ができず、現場で

修理が難しいために保全員が増加して省力化効

果が上がらなかった。要するにコスト高と柔軟

性の喪失となった/35/。

ところが、日本企業の進出と欧米によるリー

ン生産模倣の中で、ドイツでも 90 年代に入っ

て「チームワーク導入に対する消極性がほぼ決

定的に変化した」。このことがドイツの労組にと

って日本発の新生産方式がもたらした歓迎すべ

き革新力であったと思われる。それは人間化と

民主化のバネになりうるからである。しかし同

時に、KBO 氏にとって日本的生産システムは

「ハイオルグ(high-org)と古い搾取のミックス」

であり、その波及は労組にとって重大な危険の

側面を蔵していた。

ここで氏が日本的生産システムのハイオルグ

面としているのは、「チームワーク、カイゼン

(KVP)、ゼロディフェクト・ゼロバッファー原

理、研究開発の効率的組織、部品供給機能の外

延的統合、従業員コンセンサス志向を特徴とす

る」システムである。これには「労使協調の労

働組合、国や地方自治体による企業保護の諸制

度」/36/も加えるべきだろう。

「古い搾取」として KBO 氏の念頭にあるの

は、「フレキシビリティのクッションとしての長

時間労働、部品供給産業における低賃金と劣悪

な労働条件、臨時工や季節工など多数の周辺労

働力、高い労働密度」である。また、日本にお

けるチーム組織も、社会的文化的位置が違うの

みならず、「オートノミーの余地の小さい、下位

職制による締め付けのきついヒエラルヒーに強

く組み込まれ」、「最大限の成績と労働密度をめ

ざす人事考課」がなされ、「協調的態度と----ヨ

ーロッパ人からすれば----個性や批判、建設的な

争いの放棄」が要求される仕組みである。

氏によれば、ドイツの経営側のチームワーク

導入動機は当初は「ほとんど専ら合理化と生産

性向上」、つまり日本的リーン生産の追求であっ

た。従ってチームは何よりもカイゼンのための

組織であり、ムダの排除によりドイツ自動車産

業では支払い労働時間の 35%相当の時間を節

約できると期待された。また生産性向上も 15

~30%の効果が期待された。しかし短いタクト

や分業構造にはあまり手をつけようとせず、従

業員の技能向上への取り組みも弱いものであっ

た。

他方、金属労組が要求するチーム方式の「ド

イツモデル」は、労働内容を豊富化し技能水準

を高めるための組織であり、自主管理組織であ

った。従って、専門労働者と不熟練労働者を高

い技能水準で混合するような、教育と連帯の機

能を持ったチーム原理、短いタクト拘束の廃止、

高い行動の自由度、分権的で弱い職制構造を要

求してきた。カイゼンも「従業員のモチベーシ

ョンとやる気によってのみ達成されうる」ので

あり、従って「信頼の構造、テーマ選択の自由、

人間的な労働・給付条件を前提とする」というの

が労組側の考えである。

労組の考えでは、どちらの原理が優勢となる

かで、チームは「自己搾取」の組織にも、労働

者の「自己実現」と「細かい分業と強いヒエラ

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ルヒーからの離脱」の組織にもなりうるもので

あり、労組としてはチーム方式導入過程に積極

的に介入することにより労組側の原理の実現を

図った。

その結果、KBO 氏によれば、多くの点で労

組側の満足できる協定が獲得できた。全金属(経

営者団体)の「イデオロギー的勧告」を打破し

て、チームワークについても経営評議会/37/の

共同決定権、チームの自主的組織化の原則(自

主管理)と広範な権限などが大多数の場合に確

保された。

すべてのケースで、連帯原理が盛り込まれた。

つまり、成績の良い者だけを選別してチームを

編成するという、「オリンピック級のチーム」の

形成という考えではなく、技能や就労事情の異

なる従業員も 1つのチームを構成すべきだとの

原理である。だが、「実際には成績の悪い者をこ

っそり追い出すという問題が存在する」。

これは米国GMの実情でも指摘されたことで

ある/38/。

「個人的および集団的な技能資格向上」の原

則がすべてのケースに盛り込まれたが、これも

実際には企業により大きな差異があり、メルツ

ェデス=ベンツのラシュタット工場のような模

範もあれば、具体化されない場合もある。

チーム制により、経営協議会の共同決定権だ

けではなく職場における共同決定権も拡大した。

選挙で選ばれるチームスポークスマンがチーム

代表となり、チーム代表は職制ではなく命令権

も懲戒権も持たず、チーム会議は労働時間中に

持たれ(但し会議中の代替人員配置については

係争が少なくない)、その議題は、調査によると、

社会的テーマと企業経営事項とのバランスが取

られていると言う。

ところがこのことが労組職場委員や経営評議

会という既存の従業員利益代表の仕組みに矛盾

をもたらした。チームスポークスマンは直接選

挙による、つまり直接民主主義によるチーム代

表である。さらに職場や工場などのレベルでチ

ームスポークスマン委員会が設置されることも

ある。それは新たな労使協議ルート、しかも経

営側に取り込まれたそれの形成となりかねない。

経営評議会はチーム内の出来事、特にカイゼン

による労働強化の過程をコントロールすること

ができず、そのため経営評議会の持つ共同決定

権が空洞化しかねない。

従って、チーム制を経営評議会や労組職場委

員にとっての危機要因と見て忌避する考えも労

組内にはある。

しかし KBO 氏は、リーン生産化による工業

労働形態の変化およびそれに伴う企業内の労使

関係の変化は不可避であるとみなし、それ故に

労組側も既存ヒエラルヒーの変化、つまり責任

が下に委譲されることに対応しなければならず、

既存の従業員利益代表システムが「現場とチー

ムによりしっかり根付く」方向こそが必要だと

考える。チーム民主主義は利益代表システムの

「下」への拡大であり、そこには経営内の日常

の過程の民主化のチャンスが存在するのだから、

これによりむしろ「職場委員の活動を改善し、

経営内の利益代表全体を活性化するチャンスも

増大している」。

17

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経営側の内部にも問題があり、特にヒエラル

ヒー構造を分権的なチームワーク構造に変化さ

せることへの抵抗が存在する。また節約と効率

向上の目標や短期の利潤期待が下位職制への圧

力増加となり、「従業員の着想力を閉ざしたまま

にするというリアクション」が引き起こされる

ことがある。そこで、上記の PE氏のがそうで

あったようにしきりに「新しい企業文化」が経

営側から言われるが、その建て前と実態の間に

「明白な矛盾がしばしば存在し、それがモチベ

ーション喪失という結果になりかねない」状況

がある、とKBO氏は言う。

Ⅴ おわりに

KBO 氏は、日本発のリーン生産化の波を産

業進化の過程ととらえつつ、日本モデルに付随

している「古い搾取」を排除し、さらに民主化・

人間化の要素を注入しようとしている。それが

リーン生産方式のドイツモデルである。その実

現可能性を彼女は、ドイツや北欧の動きを参考

にしたホンダやトヨタの新工場の様子と日本の

通産省の「21世紀の生産戦略」研究などの中に

見る。「ドイツではまだ多くのマネージャーが勘

違いして日本的な成功モデルの後を追っている

が、日本は従来のトヨティズムを修正している」。

トヨタ宮田・元町両工場やホンダ高根沢工場

などにおける工場改革ついて「人間化」の観点

からも多かれ少なかれ肯定的な評価がわが国で

もなされている/39/。つまり、完結工程化や作

業負担軽減、自動機のインライン化、工場内外

環境の改善などである。しかし民主化について

はまだ聞こえてこない。

KBO氏は、「ドイツと日本は将来の労働組織

と技術姿態、企業組織と企業の社会的責任の理

想像を発展させ、実現するために、相互に学ぶ

ことができるだろう。この『楽観的オプション』

にとって決定的なことは・・・・新しい生産構想の

枠組みの中で人間の能力とフレキシビリティ、

従業員のモチベーションと参加の意義が増大し

ており、そのことが----生産性という理由からも

人間化という理由からも----民主的な企業構造

を要求している、ということである」と強調す

る。そのために氏は、共同決定権の拡大、技能

資格向上や決定参加の時間の保障、ヒエラルヒ

ーと官僚的的コントロールの削減、職制の新し

い役割などを上げる。

日本の金属労協幹部も、ドイツ的多能工制度

(状況変化への柔軟対応力を主とする日本型に

対して、複数工程の受け持ちやより難度の高い

仕事の修得を主とする)について、「現実の作業

ではテイラー主義からの脱出という点で、今後、

ドイツに学ぶことも多そうである」としている。

氏は、チームの自主決定が尊重され、「作業長(職

制)ではなく、選挙によって選ばれたスポーク

スマンがメンバーの意向を聞き、作業の持ち場

を時間や日単位で決める自主運営方式」にも着

目している/40/。

「楽観的オプション」を日本でも実現するた

めの前提は真の独立労組の存在と工場への社会

的規制であろう。

ドイツでチーム方式がいかに人間化に位置づ

18

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けられようと、ミンセン氏らが言うように、あ

くまで「チームワークは労働力活用の戦略であ

り、その限りでは組織的な合理化の 1形態」、「労

働力の協業能力に目を向け」た合理化形態であ

り、「まさにそこからチームワークのアンビバレ

ンスが生ずる」/41/のであるが、旧社会主義諸

国の工場を観察してきた者には、いかなる人間

化も民主化もそれが生産性と効率と品質の一層

の向上を伴わないなら破綻をきたすだろうこと

も極めて明確である。社会主義諸国の教訓の 1

つは、市場動向を洞察し生産性と効率を追求す

る独立した経営者と労働者の利害を代表する独

立した労働組合の存在が持続的成長には不可欠

であるということである。

先進資本主義諸国ではおおむね経営側は人材

に富み、明確な戦略とたくみな戦術を取ること

が可能である。日本では強力な経営体制がある。

しかし独立労組の存在と発展はなかなか難しい。

ドイツでさえ組織率が低下している。日本では

その存在意義自体が問われてさえいる。

そもそも労組が組織率を高く維持し人材を確

保し持続的な戦いを組織することは容易ではな

い。翻って考えれば、労働と工場の「人間化」

や「民主化」は労組だけの課題というわけでは

ない。市民的、人間的課題であり、産業革命以

来、政治的、法的な課題となってきたことであ

る。昨今の事例では男女雇用機会均等化問題や

介護問題がそうである。作業ノルマや残業の仕

組みなどの労働諸条件や長期の単身赴任、出稼

ぎの在り方、女性労働の扱いなどには非人間的

なやり方も残っており、これらは社会的市民的

課題でもある。今後ますます工場への社会的規制

がなされるだろう。工場とて「無用のものは立ち

入るな」/42/というわけにはいかない。労組の独

立性や人材蓄積が不十分なら、なおさらである。

ところで、本稿としては肝心の東独労働者で

あるが、オペルに就職した者、つまり「選ばれ

た少数者」を別にすると、アイゼナッハ地域の

労働者にはオペルの評判は悪かった。少なくと

も 93 年まではそうであった。当時のシュピー

ゲルや週刊経済が伝えるところでは以下のよう

であった/43/。

92年 9月のシュピーゲルによれば、「ほぼ 5

人に 1人が公式に失業登録している」が、「一時

的に再職業教育コースや雇用創出措置にいる

人々も職を探している」のだから、それも加え

ると「たちまち失業率は 40%に膨らむ」にもか

かわらず、何千人もが応募すると思われたオペ

ルの求人に、当初数百人の応募しかなかった。

しかもそのうちの多くが応募から手を引いた。

93年 8月の週刊経済誌も、「オペルはなぜ自

動車産業の中心地でありしかも失業者の多いア

イゼナッハでそんなに従業員獲得が困難なの

か」と疑問を呈した。「アイゼナッハの労働市場

は我々にとっては干上がっている」とオペルの

労務担当者は言い、93年夏にも 10月から採用

の塗装工・組立工・電気工計250人の至急募集を

新聞広告しなければならなかった。

失業者が多いといっても、その多くが自動車

産業適格者というわけではない。求職者の 3分

の 2が女性であり、また多くの求職者が事務職

の職業教育を受けており、また多くの元 AWE

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社労働者はヘッセン州など何キロか先の西独地

域で西独賃金での仕事を見つけた。それでも、

この地に進出したボッシュその他の部品メーカ

ーは求人に困っていない。

これらの企業は「伝統的な採用面接」をする

だけで採否を決めているが、オペルは、ボール

紙で椅子を作れとか粘土で象を作れといった、

いわゆる「白痴テスト」(Idiotentest)によりチ

ームワーク適性を厳重に審査するらしい。ドイ

ツ中でオペル=アイゼナッハほどにチーム能力

重視の採用をするところはなく、採用後も仕事

に着く前にチームワークをトレーニングするた

めに 9~11週間のコースに全員を送り込み、落

伍者も出るらしい。

アイゼナッハ工場の経営評議会委員長が労組

の会合で他の経営の仲間にオペルの求人につい

て宣伝したところ、保留か拒否の反応であった。

彼は「我々の評判はだめになっている」と言い、

ある大手部品メーカー支配人は、アイゼナッハ

では「正真正銘の反オペルの空気が支配してい

る」と言った。オペルに行く者は「白痴テスト」

を甘受し、1日に 8時間白いシャツとグレーの

ズボンの中にほり込まれ、しかもボッフムやリ

ュッセルハイムの同僚の3分の2しか稼げない、

との揶揄が投げつけられた。

オペルのアイゼナッハでのやり方には、チュ

ーリンゲンの経済界からも「威嚇的」との声が

あり、ボッシュ自動車電気用品アイゼナッハ有

限会社の幹部は、バーデン=ヴュルテンベルク

州では「労働者がそんなことをさせないだろう」

と言う。

「容赦なき」(週刊経済)と評される選考方法

とチームワーク特訓のイメージがオペル忌避ム

ードを作ってしまった。東独労働者はオペルに

おける採用試験を「自己の価値意識への無礼な

攻撃と受け取った」(シュピーゲル)。オペル側

は、テストは労働者が共同で問題を解決できる

かどうかだけを試験したのであり、今後も方針

を変えないと言っていた。もともとオペル側は

「絶対的な個人信奉者はこの工場では幸福にな

れない」と言明していた。

悪評は、不採用になった者や落伍者、事情を

のみこまないまま上下一律のユニフォームに驚

くような外部の者に由来するのであって、アイ

ゼナッハ工場の内部から出たのではない。だか

らこそ、上記の経営評議会委員長も不評を知っ

て驚いたのである。しかし、当時は悪評を吹き

飛ばすようなものもオペル側になかったという

ことである。

94年 9月のNDルポによると、83人の募集

に対して 1000 人の上級技能資格を持つ人々が

応募してきた。何が変わったのか不明である。

このルポは 94年 9月だから、すでに両独間の

賃金格差が大幅に縮小していた(協定賃金率で

東独は西独の 9 割余)ので、この地域に 3000

人と見られる長距離の越境通勤者(Pendler)

がアイゼナッハ工場に求職したのかもしれない。

あるいは、操業 2年にして評判が好転したのか

もしれない。

(注)

/1/ 凌星光「日本的経営にみる社会主義的要

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素:労使関係を中心に」『龍谷大学計学論集』32-3、

1992。

/2/ J.P.ウォマック他『リーン生産方式が、世

界の自動車産業をこう変える』経済界、1990。

以下これをMIT調査と呼ぶ。

/3/ 『ニューズウィーク』日本版、1995年 2

月 15日号。

/4/ ドイツ語ではグループ作業(Gruppen-

arbeit)と言う。これはチームワークの意味で

あるが、ドイツではリーン生産方式におけるチ

ーム制についてチームと言うべきかグループと

言うべきかの議論がある。ここではわが国での

慣用に従いチームと表現する。

/5/ 森敏雄「ドイツの日本化、日本のドイツ

化」『エコノミスト』1994年 9月 13日 80頁。

/6/ Frankfurter Allgemeine Zeitung、1994

年 8月 6日。以下これをFAZルポと呼ぶ。

/7/ 同前。

/8/ N. Altmann, How Do German Trade

Union Perceive the Japanese Way of

Manufacturing?, 1994, mimeo.

/9/ 丸山恵也『日本的生産システムとフレキ

シビリティ』日本評論社、1995、248頁。

/10/ 野村正實『トヨティズム』ミネルヴァ

書房、1993、235頁。

/11/ 青木昌彦『日本経済の制度分析』筑摩

書房、1992、第 5章。

/12/ 同前、272頁。

/13/ 朝日新聞 1995年7月 19日。

/14/ 長所と短所双方に言及した、まとまっ

たものとして、丸山前掲書参照。

/15/ 『旧東ドイツ地域の市場経済化・民営化

の現状』龍谷大学社会科学研究年報別冊シリー

ズ第 5号参照。

/16/ 以下のクノルブレムゼ社についての記

述は、上記視察の際の聞き取り/Berliner

Zeitung、1991年 9月 14日/Die Wirtschaft、

1990年 7号、同年 34号/Frankfurter Allge-

meine Zeitung、1991 年 2 月 26 日/Neues

Deutschland、1990年 6月 25日、同年 7月 4

日/日経産業新聞 1989年 11月 28日、1990年

2月 5日、1991年 3月 5日による。

/17/ 青木國彦『体制転換』有斐閣、1992年、

263-265頁参照。

/18/ マイスターは手工業親方に由来する資

格名称であるが、ドイツでは工業においても国

家資格ないし企業内資格としてマイスターがあ

り、職長や係長のクラスに該当する。マイスタ

ーの役割変化は後述のオペルの場合と同様であ

る。また、野村前掲書によれば(305頁)、フォ

ルクスワーゲン社も同様である。

/19/ 青木昌彦前掲書、320頁。

/20/ そのうちフォルクスワーゲン社とベン

ツ社の場合については、野村正實前掲書に紹介

されている。

/21/ Neues Deutschland、1994年9月15日。

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以下これをNDルポと呼ぶ。

/22/ 青木國彦前掲書、141頁以下参照。

/23/ Die Wirtsachaft、1990年 40・41号。

/24/ Frankfurter Allgemeine Zeitung、1992

年 7月 23日・同年 9月 24日。

/25/以下のボッフム工場については、H.

Minssen u.a., Gruppenarbeit in der Automo- bilindustrie: Das Beispiel Opel Bochum,

WSI-Mitteilung 7/1991 による。この論文の作

成時点においては、ボッフム工場のチーム導入

は 800人余からなる 71チームのみで、主にシ

ャシー製造部門であり、流れ作業部門には未導

入であった。

/26/ M. Parker/J.Slaughter, "Choosing

Sides, Union and the Team Concept", 1988.

これについて私は原書を手にせず、抄訳しか見

ていない。M.パーカー他『立場を選ぶ:組合とチ

ーム方式』戸塚秀夫監訳・抄訳(『賃金と賃金と社

会保障』1054~1059号、1991)。

/27/ Minssen u.a.、前掲、436頁。

/28/ P. Binkelmann u.a.(Hrsg.), "Entwick-

lung der Gruppenarbeit in Deutschland",

Campus, 1993. 600頁という大部の本書はマン

ハイムにおけるシンポジウム(93年 3月)をま

とめたものである。

/29/時事通信 1995年 7月 12日・同 21日。

/30/ ウォマック他前掲書、124頁。

/31/ 同前、124-125頁。

/32/ 森敏雄、前掲論文、83頁。

/33/ 青木國彦前掲書、39・303・318・327頁参

照。

/34/ あるドイツ人コンサルタントが、「日本

人は仕事のために、アメリカ人は仕事とともに、

ドイツ人は仕事によって生きている」と述べた

とPE氏は言う。

/35/ 丸山前掲書、251-252 頁/小川英次編

『トヨタ生産方式の研究』日本経済新聞社1994、

第 6章。

/36/ 同前、46頁。

/37/ 経営評議会は従業員代表組織であって、

労使協議機関ではなく、多くの場合労組の影響

が強い。

/38/ 丸山前掲書、175頁。

/39/ 同前、253-264頁/野原光「トヨタ・シ

ステムの新しい展開とテイラーリズムのゆく

え」『大原社会問題研究所雑誌』431 巻、1994

/嶺学「作業組織と労使関係」『社会労働研究』

41-1・2、1994など。

/40/ 森敏雄前掲論文、82頁。

/41/ Minssen他前掲論文、441頁。

/42/ K.マルクス『資本論』、第 1部第 4章末

尾。

/43/ Der Spiegel、1992 年 9 月 21 日/

Wirtschaftswoche、1993年 8月 20日。

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