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15 ヘミングウェイ再考 感覚から無(ナダ)へ、そして死一八九九年七月二十一日、アーネスト・ヘミングウェイはシカゴ郊外のオーク・ パークでこの世に生を受けた。彼は幼少期より釣り、狩猟、スキーなどに興じ、第 一次大戦においては赤十字社の救急要員として戦争を経験した。そうした伝記的な 要素からも、またその風貌からも、大胆でマッチョなイメージが拭いきれない。 代表作の『老人と海』(The Old Man and the Sea)では、八十四日間不漁の老人サ ンチャゴが、三日間に渡るマカジキとの死闘の末、勝利するが、その大きさゆえに 舷側に結び付けなければならなかったそのマカジキを帰港するまでにサメに襲われ 食い荒らされてしまい、帰港した時には骨だけになっていた。しかしサンチャゴは、 無、同然で帰港したものの、ライオンの夢を見ながら眠る。これは自らがなすべ きことをなしたというサンチャゴの充足感のためだと、肯定的に解釈することが従 来の解釈であった。また、『武器よさらば』(A Farewell to Arms)は、軍隊から抜け 出した中尉フレデリック・ヘンリーが、ミラノの病院で知り合った看護婦キャサリ ン・バークレーと愛の逃避行を遂げた後、二人の間に宿った胎児は死産、そしてキ ャサリンも死んでしまうという悲劇ではあるが、現代版の『ロミオとジュリエット』 Romeo and Juliet)とよく呼ばれているように、二人が愛を成就させる姿が感動的 であると解釈されてきた。アフリカもので「フランシス・マコーマーの幸福で短い 生涯」(The Short Happy Life of Francis Macomber)では、マコーマーと妻が狩猟案内 人と連れ立ってライオン狩りをする様子が描かれる。始めはライオンを怖れていた マコーマーが、最後には勇気を奮い立たせ手負いのライオンに立ち向かおうとした 瞬間、妻が発射した銃弾が彼に当たり、死んでしまう。しかし最後にほんの一瞬で

ヘミングウェイ再考 ―感覚から無(ナダ)へ、そして死― 林 ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36265/jsb011...-15 - ヘミングウェイ再考

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    ヘミングウェイ再考

    ―感覚から無(ナダ)へ、そして死―

    林   明 人

     一八九九年七月二十一日、アーネスト・ヘミングウェイはシカゴ郊外のオーク・

    パークでこの世に生を受けた。彼は幼少期より釣り、狩猟、スキーなどに興じ、第

    一次大戦においては赤十字社の救急要員として戦争を経験した。そうした伝記的な

    要素からも、またその風貌からも、大胆でマッチョなイメージが拭いきれない。

     代表作の『老人と海』(The Old Man and the Sea)では、八十四日間不漁の老人サ

    ンチャゴが、三日間に渡るマカジキとの死闘の末、勝利するが、その大きさゆえに

    舷側に結び付けなければならなかったそのマカジキを帰港するまでにサメに襲われ

    食い荒らされてしまい、帰港した時には骨だけになっていた。しかしサンチャゴは、

    無、同然で帰港したものの、ライオンの夢を見ながら眠る。これは自らがなすべ

    きことをなしたというサンチャゴの充足感のためだと、肯定的に解釈することが従

    来の解釈であった。また、『武器よさらば』(A Farewell to Arms)は、軍隊から抜け

    出した中尉フレデリック・ヘンリーが、ミラノの病院で知り合った看護婦キャサリ

    ン・バークレーと愛の逃避行を遂げた後、二人の間に宿った胎児は死産、そしてキ

    ャサリンも死んでしまうという悲劇ではあるが、現代版の『ロミオとジュリエット』

    (Romeo and Juliet)とよく呼ばれているように、二人が愛を成就させる姿が感動的

    であると解釈されてきた。アフリカもので「フランシス・マコーマーの幸福で短い

    生涯」(The Short Happy Life of Francis Macomber)では、マコーマーと妻が狩猟案内

    人と連れ立ってライオン狩りをする様子が描かれる。始めはライオンを怖れていた

    マコーマーが、最後には勇気を奮い立たせ手負いのライオンに立ち向かおうとした

    瞬間、妻が発射した銃弾が彼に当たり、死んでしまう。しかし最後にほんの一瞬で

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    はあるが勇気を振り絞って男らしさを見せようとしたマコーマーを肯定的に捉える

    解釈がある。「キリマンジャロの雪」(The Snows of Kilimanjaro)では、ハリーとい

    う作家がアフリカでちょっとした不注意から引っかき傷を作ってしまい、それが原

    因で壊疽にかかり、もうすぐ死を迎えようとしている。しかし、どういうわけかキ

    リマンジャロの頂上近くに死んで凍てついている豹がおり、この豹はキリマンジャ

    ロの頂上を目指していたのでは、つまり崇高を目指していたのではという解釈から、

    この豹とハリーを同一に肯定的に捉える解釈がある。

     以上、比較的よく知られている作品をいくつか取り上げてみたが、上記の作品の

    みならず、他の短篇も長篇も含めて従来の解釈とは異なる様々な解釈が近年なされ

    ている。1)

     なお、本論では『われらの時代』(In Our Time)の「心が二つある大きな川:1部、2部」(Big Two Hearted River Part I, II)を軸に、いくつかの観点から様々な短篇、長篇にふれてみたい。

    1 感覚

     ヘミングウェイの作品を、主人公が物語のなかで経験する五感に焦点を当て解釈

    してみよう。

     ヘミングウェイがマルカム・カウリーやニューヨーク・タイムズのチャールズ・

    プーアに送った手紙において述べている 2)ように、また『移動祝祭日』(A Movable

    Feast)のなかでも書かれている 3)ように、「心が二つある大きな川」は、そのなか

    において戦争は一切描かれないが、戦争から帰還した若者ニックが鱒釣りのキャン

    プに出かける話である。冒頭の部分でシニーという街とその周辺で火事があったこ

    とが描かれる。街はすっかり焼け、変貌していたのである。このことと、カウリー

    に送った手紙などから判断して、主人公は戦傷を心に負った若者であるということ

    を重ね合わせて考えると、明らかにこの冒頭の部分は戦争で傷ついた若者の精神状

    態を象徴するようにヘミングウェイが書いたと思われる。こうした精神状態のなか、

    ニックは一人で釣りのキャンプに出かけたのである。ニックは焼け野原で煤けたバ

    ッタを捕まえ逃がしてやるが、この行為もよく指摘されるように、このバッタをニ

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    ヘミングウェイ再考

    ックが自分自身としてみなしていることはいうまでもない。

     それではニックの釣りキャンプの意図は何かということであるが、これまで指摘

    されているように、ニックは鱒釣りキャンプをすることにより自らを自然のなかに

    置き、すなわち自然の持つ治癒力に身を委ね、戦争で傷ついた精神を癒そうとする

    ことであった、と解釈していいだろう。ただどうのようにその精神的戦傷を癒そう

    とするのかが重要なのである。

     ニックは線路を歩いて川に橋がかかっているところまで行く。

     The river was there. It swirled against the log spiles of the bridge. Nick looked down

    into the clear, brown water, colored from the pebbly bottom, and watched the trout keeping

    themselves steady in the current with wavering fi ns. As he watched them they changed

    their positions by quick angles, only to hold steady in the fast water again. Nick watched

    them a long time.4)

     (下線筆者)

    ニックは、激しい川の流れのなかで懸命に自らの位置を維持しようとしている鱒と

    自分自身とを重ねてみているという解釈が成り立つ。つまり非常に不安定な精神状

    態のなかでどうにか自己を取り戻そうとしているニック自身の姿と、激しい流れの

    川のなかで自らを保とうとする鱒の姿を重ねて合わせているのである。だからニッ

    クは長い間みていたのであろう。しかしここでさらに重要な点は、ニックがこの様

    子を「みていた」ということではないだろうか。何を「みていた」のかというと、

    川の水が橋の杭に激しくぶつかって‘渦巻いて’おり、水は川底の小石の色を映し

    て澄んだ茶色にみえている。その川のなかで、鱒はヒレを‘ひくひく’させながら

    自らを‘静止’させようとする。そして再び‘速い’水のなかで自らを‘静止’させ、

    ‘さっと’角度を‘変え’ようとしているのである。

     まず、「みる」という行為は、五感のうちの一つである。感覚とは、思考に先行

    するものである。何かをみた瞬間、視覚的に捉えたものに脳が反応し、その後その

    対象となるものを脳が判断するのである。つまり「みる」という行為で瞬時に人間

    は視覚的に脳が刺激され、その後それを判断し思考に結びつけるのである。それゆ

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    え感覚とは、原初的で思考に先立つものと考えられ、その瞬時には判断を含まない

    ので、人間のもっとも根源的な部分を刺激するのである。つまりそこでは思考は存

    在しないから良し悪しの判断も含まれない。それゆえ感覚が刺激されるということ

    は、喜ばしい感覚にせよ忌まわし感覚にせよ自らのなかに単純に活性化が起こると

    考えられる。

     ここでも、‘swirled’、‘wavering’、 ‘fast’、 ‘quick’、 ‘changed’といった語は視覚的

    にも躍動感のある語であり、‘静止’を表す‘steady’という語と明確な対照を成し

    ている。この対照となるそれぞれの語の意味が相反すればするほど感覚的刺激とし

    ては効果的である。つまりここでは躍動感のある語のなかで‘steady’という語を

    二回使用し、‘躍動感’そして‘静止’、‘躍動感’そして‘静止’、を繰り返すこと

    により、みているニックの心のなかでの高揚感をさらに掻き立てるように書かれて

    いるのではないだろうか。

     この後にもニックが視覚的に刺激されていると思われる箇所をいくつか挙げてみ

    たい。

     

     A kingfi sher fl ew up the stream. It was a long time since Nick had looked into a stream

    and seen tout. They were very satisfactory. As the shadow of the kingfi sher moved up

    the stream, a big trout shot upstream in a long angle, only his shadow marking the angle,

    then lost his shadow as he came through the surface of the water, caught the sun, and then,

    as he went back into the stream under the surface, his shadow seemed to fl oat down the

    stream with the current, unresisting, to his post under the bridge where he tightened facing

    up into the current.

     Nick’s heart tightened as the trout moved. He felt all the old feeling.5)

     (下線筆者)

    この場面でも非常に視覚的効果を伴った描写がなされている。一羽のカワセミと一

    匹の鱒の動きが実に鮮やかに描かれており、まるでカラー映像をみているかの如

    くである。ニックはやはり‘looked’し‘seen’ し、「みる」という行為がニックに

    高揚感を与えていることが明らかにうかがえる場面である。そしてここでも‘fl ew

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    ヘミングウェイ再考

    up’、‘moved up’、‘shot upstream’といった視覚的効果の強い語句が使用され鮮や

    かな躍動感を表している。‘tightened’という語は緊張感を表すのに非常に効果的で

    ある。ヘミングウェイがここでカワセミを使っているのは、この鳥は「渓流の宝石」

    と呼ばれるほど視覚的にも非常に鮮やかで、素早く鋭角に飛び、瞬時に獲物を捉え

    る鳥であるということから、この場面をさらに躍動感のあるものにしたいという作

    者の狙いがあるのではなかろうか。 

     しかしこの場面で視覚的に最も強い印象を与えるのは、‘caught the sun’という箇

    所ではなかろうか。水面から飛び上がった鱒の体に陽光が当たり、一瞬キラッと光

    る様子が非常に強い視覚的印象を与えている。一瞬目の眩みそうな瞬間である。そ

    してその後、毅然とした鱒の様子に刺激され、鱒が再び動き始めた時、ニック自ら

    も毅然とし、そのときずっと以前に味わった感覚が蘇ってきたのである。ニックは

    強い視覚に刺激を受け、以前の懐かしい感覚を覚えるのである。その後、自分のザ

    ックが置いてあるところまで引き返し、‘happy’と感じている。

     ニックは一般的には不快と思われる感覚にも喜びを見出す。

    He walked along the road feeling the ache from the pull of the heavy pack. The road

    climbed steadily. It was hard work walking up-hill. His muscles ached and the day was

    hot, but Nick felt happy. He felt he had left everything behind, the need for thinking, the

    need to write, other needs. It was all back of him.6)

    ニックは背負っているザックの重さに‘痛みを感じながら’‘きつい坂’を登って

    行くのである。筋肉は痛み、暑さもあるのに、彼は‘happy’と感じている。もち

    ろんその理由は、この前の二つの場面で得た感覚の高揚感ということもあろうが、

    痛みであれやはり感覚なのである。さらにいえば、痛みは自らの生命を維持するた

    めの感覚といっていいだろう。つまり痛みを感じないというということは、動物と

    しての人間の防御本能を無くした状態である。またそれは究極的には死を意味する。

    逆にいえば痛みを感じるということは、生きているという実感につながるのである。

    そう考えてみると、痛みとはいえ、やはり人間が動物として持っていなければなら

    ない感覚である。そして最後の文章が、この意味を強めている。つまり‘think’し

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    たり‘write’する行為は感覚の後に来るものであり、感覚的な自分に立ち帰り喜び

    を感じているニックにとっては、二の次なのである。

     この後、鱒釣りのキャンプ二日目に最大の山場がやってくる。

     There was a long tug. Nick struck and the rod came alive and dangerous, bent double, the

    line tightening, coming out of water, tightening, all in a heavy, dangerous, steady pull. Nick

    felt the moment when the leader would break if the strain increased and let the line go.

     The reel ratcheted into a mechanical shriek as the line went out in a rush. Too fast. Nick

    could not check it, the line rushing out, the reel note rising as the line ran out.

     With the core of the reel showing, his heart feeling stopped with the excitement, leaning

    back against the current that mounted icily his thighs, Nick thumbed the reel hard with his

    left hand. It was awkward getting his thumb inside the fl y reel frame.

     As he put on pressure the line tightened into sudden hardness and beyond the logs a huge

    trout went high out of water. As he jumped, Nick lowered the tip of the rod. But he felt, as

    he dropped the tip to ease the strain, the moment when the strain was too great; the hardness

    too tight. Of course, the leader had broken. There was no mistaking the feeling when all

    spring left the line and it became dry and hard. Then it went slack.

     His mouth dry, his heart down, Nick reeled in. He had never seen so big a trout.

    There was a heaviness, a power not to be held, and then the bulk of him, as he jumped. He

    looked as broad as a salmon.

     Nick’s hand was shaky. He reeled in slowly. The thrill had been too much. He felt,

    vaguely, a little sick, as though it would be better to sit down.7)

     (下線筆者)

    ここでのニックと鱒との闘いがこの物語のクライマックスであり、下線部の語(句)

    が示すように、非常に躍動感ある語にあふれている。つまりニックにとってこの闘

    いは感覚がみなぎる究極の境地でもあり、あまりの‘興奮で心臓が止まった’と思

    うほどの状態になる。ニックは正に感覚が研ぎ澄まされている状態にあり、この瞬

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    ヘミングウェイ再考

    間ニックは「生」を無意識に強く感じているのであろう。つまりニックは戦争で受

    けたと考えられる精神的な傷から癒され、活性化されつつあると考えられる。あま

    りの激闘に最後は‘気持ち悪くなって座り込んでしまうほうが良さそう’なほどで

    あったのだから。

     「僕の父」(My Old Man)では、これまで競馬の騎手である父がいかさまをして勝

    利をおさめてきたことを、それとなく知っている息子の視点で物語が語られる。と

    ころが、この度はいかさまではなかろうと思われるレースで父が事故で死んでしま

    う。このなかにも、次のように視覚的に非常に強い印象を与える場面がある。

     ... and then the barrier snapping up and that bell going off and them all getting off in a

    bunch and then commencing to string out. You know the way a bunch of skins gets off. 

    If you’re up in the stand with a pair of glasses all you see is them plunging off and then that

    bell goes off and it seems like it rings for a thousand years and then they come sweeping

    round the turn. There wasn’t ever anything like it for me.8)

     (下線筆者)

    下線部は、やはり非常に動きの早い臨場感に満ちた語(句)であり、‘こんなのぼ

    くには初めてだった’と語り手の息子が興奮に満ち溢れていることが分かる。ま

    たこの部分から急に英文の時制が現在形に変わり、さらに臨場感を呼び起こし、読

    者はまるでこの光景が目の前で繰り広げられているような錯覚におちいるほどであ

    る。主人公のみならず読者も同時に感覚的刺激を受けるようヘミグウエイが意図し

    ているのである。急に現在形で書きだすことによりその臨場感で読者を刺激しよう

    という手法である。

     また視覚という観点から注目に価する短篇がある。「盲導犬としてではなく」(Get

    a Seeing-Eyed Dog)という作品であるが、この作品は一九五七年頃にもう一つの盲

    目を扱った作品「世慣れた男」(A Man of the World)と同じ頃に書かれたらしい。

    一九六一年にヘミングウェイは自殺するが、その四、五年前に精神的、肉体的苦悩

    のなかで書いたと思われる作品である。「盲導犬としてではなく」では、盲目の夫

    が妻と旅行に行った先での夫婦の会話が描かれる。主人公は盲目なのであるが、視

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    覚が閉ざされていることにより視覚以外の感覚がかえって冴えているように思え

    る。そして親切にしてくれる妻に感謝し、そこに来たことを心から嬉しく思う。し

    かし夫はそうした妻に申し訳なく思っており、どこかで一人でゆっくりさせてやり

    たいと願っている。

     He heard her coming up the stairs and noticed the difference in her tread when she was

    carrying two glasses and when she had walked down barehanded. He heard the rain on the

    windowpane and he smelled the beech logs burning in the fi replace. As she came into the

    room he put his hand out for the drink and closed his hand on it and felt her touch the glass

    with her own.9)

    この場面では、妻が二人のために飲み物を作りに階下に行ったのであるが、妻が手

    に何も持たないで階下に行ったときと、二つのグラスを持って上がってくるときの

    足音の違いを夫が聞き分けているのである。また窓ガラスに当たる雨音を聞き、暖

    炉で燃えるブナの木の匂いを嗅いでいる。ここでは視覚を奪われているがゆえに夫

    は逆説的に、聴覚が冴え、妻の足音の違いをも聞き分けているのだ。

     When I hear the rain I can see it on the stones and on the canal and on the lagoon, and I

    know the way the trees bend in every wind and how the church and the tower are in every

    sort of light. We couldn’t have come to a better place for me. It’s really perfect.10)

    男は盲目ではあるが、雨音を聞きながら、雨が石を打ち、風が木を揺らす様など、

    彼の心の中で生き生きと「みて」いるのである。これは実際にはみえてはいないのに、

    みえているかのように表現することにより視覚を強調している。塚田幸光は、この

    「非視」が、そうして「記憶を見る」ことが、「書くこと / 生きること」に繋がると

    指摘している。11) そして夫は自分たちが来た場所を、これほどの所はないと満足

    を示す。

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    ヘミングウェイ再考

     “... Would you like me to read to you? There’s always something in the old New

    Yorkers that we missed.”

     “No, please don’t read,” he said. “Just talk. Talk about the good days.”

     “Do you want to hear about what it’s like outside?”

     “It’s raining,” he said. “I know that.”12)

    男は妻が古い『ニューヨーカー』を読み聞かせしようかと言っているにもかかわら

    ず断る。つまり男には聞くという行為の結果となる知識など必要ないのだ。ただ昔

    の心地よい感覚だけがあれば十分だということではないだろうか。これはニックが

    「心が二つある大きな川」で‘すべてを後に置いて来た。考えたり、書たりする必

    要性も。それから他のことも全部後にしてきた’と考えていることと共通するので

    はないだろうか。この夫も今は考えることを避けたいのだ。ただ感覚的にだけなり

    たいのだ。

     また、感覚的になろうとすることは、別の意味では、権威的なものを無視すると

    いうことでもある。感覚は、基本的には思考の前にあるからである。これの最も顕

    著な例は、『武器よさらば』のヘンリーの取る行動である。 

     I was always embarrassed by the words sacred, glorious, and sacrifi ce and the expression

    in vain. ... and I had seen nothing sacred, and the things that were glorious had no glory

    and ... Abstract words such as glory, honor, courage, or hallow were obscene beside

    the concrete names of villages, the numbers of roads, the names of rivers, the numbers of

    regiments and the dates.13)

    そして、

     I was not made to think. I was made to eat. My God, yes. Eat and drink and sleep with

    Catherine.14)

    ヘンリーは権威の象徴である軍隊から抜け出し、感覚の世界であるキャサリンとの

  • 林   明 人

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    性愛の世界へ入っていくのである。つまり、軍隊における‘栄光’とか‘名誉’と

    いった語は、実体はなく虚しい言葉と響くというのである。それはヘンリーが負傷

    後、軍隊に戻ったときに実感したこと、すなわち、負傷のためヘンリーは軍隊を離

    れたが、自らの不在が軍隊という大きな権威組織では何ら問題ではなかったという

    事実でさらに強調される。つまり、軍隊という権威の中では、中尉とはいえ一人の

    兵士の存在など無同然で、取り替え可能なのである。

     また、ヘンリーがそうした軍隊を‘単独講和’と称して抜け出し、キャサリンと

    の逃避行を行うということは、つまりキャサリンとの性愛、すなわち、感覚の世界

    に入っていくことに他ならない。ヘンリーは、‘食べたり’、‘飲んだり’すること

    をキャサリンとの性愛と並列に捉えている。正に自分は感覚的に生きるよう生まれ

    ついているのだと言い切っている。ヘンリーはこうして、権威的なものに背を向け、

    感覚の世界へとまっしぐらに向かっていくのである。

     また、短篇集『われらの時代』の第七章「兵士の故郷」(Soldier’s Home)のスケ

    ッチの部分に、キリストを揚げ玉にとっている部分がある。フォッサルタで砲撃が

    続いている間、ある男が汗だくになりながら、イエスにそこから連れ出してくれる

    よう祈っており、自分を殺さずに生かしてくれたら、なんでも従い、皆にあなたの

    ことを話します、と誓う。しかし、砲撃が去り、次の日になると、その男は売春宿

    へ行くが、イエスのことは話さないのである。そしてその後誰にも。これは、売春

    宿という、いわば感覚だけの世界という表象を使って、ヘミングウェイは権威とし

    てのイエスを、またキリスト教を揶揄しているとしか思えない。

     “God has some work for every one to do,” his mother said. “There can be no idle hands

    in His Kingdom.”

     “I’m not in His Kingdom,” Krebs said.

     “We are all of us in His Kingdom.”

    Krebs felt embarrassed and resentful as always.

    ...

     “Now, you pray, Harold,” she said/

     “I can’t,” Krebs said.15)

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    ヘミングウェイ再考

    この章の「兵士の故郷」においても、帰還兵であるクレブスは母に「僕は神の王国

    にはいません」と言い、「私たちは皆な神の王国にいるんだよ」と諌める母の言葉

    に当惑を覚える。その後母に祈るように言われるが、「できない」と言う。明らか

    にヘミングウェイは、クレブスを神を信じない人物として描いている。つまり、権

    威としてのキリスト教を否定しているのである。

     言葉はロゴスでもあり、それゆえ権威として捉えることも可能であろう。また、

    この作品には言葉そのものに対する不信が描かれている。帰還兵であるクレブスは

    故郷に帰り、次のように感じる。

     At fi rst Krebs, ... did not want to talk about the war at all. Later he felt the need to talk but

    no one wanted to hear about it. His town had heard too many atrocity stories to be thrilled

    by actualities. Krebs found that to be listened to at all he had to lie, and after he had done

    this twice he, too, had a reaction against the war and against talking about it. A distaste for

    everything that had happened to him in the war set in because of the lies he had told. All of

    the times that had been able to make him feel cool and clear inside himself when he thought

    of them; the times so long back when he had done the one thing, the only thing for a man

    to do, easily and naturally, when he might have done something else, now lost their cool,

    valuable quality and then were lost themselves.16)

    クレブスは、戦争体験を街の人に話したくはなかったが、話す必要を感じ、話し始

    めた。ところが街の人々は、すでに他の兵士からさんざん残酷な話を聞き慣れてし

    まっているため、クレブスの話に耳を貸そうとしない。そこでクレブスは、聞いて

    もらうために話を誇張し嘘を言うことになり、ついにそれに嫌気がさし、結局自分

    が戦争で得た確かなものを失ってしまうことになったのだ。クレブスは「言葉」で

    自分の大事なものを失ってしまったのだ。

     言葉への不信という意味では、クレブスと彼の母との会話で、「僕は誰も愛して

    ない」と母に向かって言い、母を泣かせてしまう。言葉で、クレブスの真意が母に

    伝わらないのである。言葉の限界ともいえる。

     「フランシス・マコーマーの幸福で短い生涯」においても、ヘミングウェイの言

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    葉への不信と思われるような記述がある。

     

     “But you have a feeling of happiness about action to come?”

     “Yes,” said Wilson. “There’s that. Doesn’t do to talk too much about all this. Talk the

    whole thing away. No pleasure in anything if you mouth it up too much.”17)

    マコーマーと狩猟案内人ウイルソンとの会話であるが、ウイルソンは、「話し過ぎ

    は全部を失うことになる」と、マコーマーを諌める。言葉が過多になることによる

    弊害を指摘しているのである。喋り過ぎると伝わらないのだ。

     また、「キリマンジャロの雪」で、ハリーはお金のことで妻に引け目を感じてい

    るのであるが、その妻に毒づく場面がある。

     “Listen,” he said. “Do you think that it is fun to do this? I don’t know why I’m doing it.

    It’s trying to kill to keep yourself alive, I imagine. I was all right when we started talking. I

    didn’t mean to start this, and now I’m crazy as a coot and being as cruel to you as I can be.

    Don’t pay any attention, darling, to what I say. I love you, really. You know I love you. I’ve

    never loved any one else the way I love you.”

     He slipped into the familiar lie he made his bread and butter by.

     “You’re sweet to me.”18)

    ハリーは、妻にさんざん嫌味を言った後、最後に「お前ほど愛した人間は他にはい

    なかった」と言い、「自分の生きる糧となっているいつもの嘘に逃げ込む」のである。

    ここにもヘミングウェイの言葉への不信が表れている。妻の「あなた、私にやさし

    いのね」と言う受け答えも、真意とも、あるいは皮肉とも考えられ、言葉の不確か

    さを露呈している。

     「革命家」(The Revolutionist)でも、キリスト教と社会主義を権威として捉えてみ

    ると、面白い物語に思えてくる。この物語の主人公に関する説明をよく考察してみ

    ると、主人公は社会主義による革命をなそうとする革命家であり、それでいて宗教

    色の強いジオットなどの絵画の複製をイタリアで買い求め、しかもそれらをイタリ

  • - 27-

    ヘミングウェイ再考

    アの社会主義紙である『アバンティ』に包んで持ち歩いている。しかしスイスのシ

    オンで捕らわれ投獄される。

     まず、社会主義や共産主義と宗教との関係であるが、これは周知の通りマルクス

    が、宗教はアヘンであると述べている。この意味は、宗教そのものを否定すること

    ではなく、人々が宗教に救済を求めなくても、宗教がなくても済むような状況を作

    り出そうということであるという解釈もあるようであるが、社会主義及び共産主義

    は基本的には宗教には否定的である。ところがこの物語の主人公は社会主義紙であ

    る『アバンティ』を携える革命家でありがなら、宗教画の複製を買い集め、あろう

    ことかその複製画を社会主義の機関誌に包んで持ち歩いている。主人公は社会主義

    を標榜しながら、その一方で社会主義が否定する宗教色の濃い絵画を携えているの

    である。主人公が真に社会主義に忠実に殉じるなら、宗教色の強い絵画に興味を示

    すのは厳禁である。つまり、ある意味この主人公は自己矛盾に陥っているといって

    いいのだろう。こうした自己矛盾をしている主人公を描き出したヘミングウェイの

    真意はどうであっただろうか。

     わざわざイタリアの社会主義機関誌に宗教色の強い絵画を包んで主人公に持ち歩

    かせていることは、社会主義に対しても、そし宗教に対しても二重の皮肉となって

    いる。社会主義にしてもキリスト教にしても、どちらもいわゆるエスタブリッシュ

    メントであり、いわばどちらも堂々とした権威である。つまりヘミングウェイは権

    威である社会主義とキリスト教を同時に揶揄しているのである。

     また知識を権威として捉えたときに、やはりそれを揶揄している短篇「ある決別」

    (The End of Something)がある。しかしここでは、それはニックの女性蔑視と結び

    ついているとも思われ、はっきりと知識に対して否定的とは断定できないのかも知

    れない。

     “There’s going to be a moon tonight,” said Nick. He looked across the bay to the hills

    that were beginning to sharpen against the sky. Beyond the hills he knew the moon was

    coming up.

     “I know it,” Marjorie said happily.

     “You know everything,” Nick said.

  • 林   明 人

    - 28-

     “Oh, Nick, please cut it out! Please, please don’t be that way!”

     “I can’t help it,” Nick said. “You do. You know everything. That’s the trouble. You know

    you do.”

     Marjorie did not say anything.

     “I’ve taught you everything. You know you do. What don’t you know, anyway?”

     “Oh, shut up,” Marjorie said. “There comes the moon.”19)

    「ある決別」では、ニックとマージョリーが夜釣りに出かけるのであるが、夜空に

    月が出始める。マージョリーは、自分は月が出ることは分かっていたと言う。それ

    に対してニックは、「きみはなんでも知っているんだ、それが問題なのさ。分かっ

    ているだろう」と言う。

     ここで描かれているのは、ある意味ニックの女性に対する幻滅でもある。つまり

    男である自分から聞き集めた知識をことさら自分で得た知識のようにひけらかすマ

    ージョリー、否マージョリー彼女自身というより、そうした女性に対する嫌悪を表

    しているとも考えられる。ニックは、あるいは作者であるヘミングウエイは、女

    性とは感覚の対象であって知識と結び付けたくないのである。二人の会話に何度も

    ‘know’という語が頻出していることからも、ヘミングウェイはこの語を意識して

    使用している。ニックは山の端から今夜は月が出そうだと判断していた。ところが

    マージョリーが当たり前のごとく、「そんなの知ってるわ」、それも自分でも当然分

    かっていたように楽しげに言ったので、ニックとしては男の面子を潰された形とな

    ったのである。つまりニックはもともと女性に対する優越感を持ち、女性の知識を

    嫌悪していると考えられるが、作者であるヘミングウェイの幼少期、姉のマーセリ

    ンが聡明で、そのことを嫌っていたとケネス・リンが紹介している。20)つまり、ニ

    ックは知識のある聡明な女性は嫌いなのである。まして、自分に「黙って!」など

    と命令口調で言う生意気な女性など。

     「橋のたもとの老人」(Old Man at the Bridge)という小品がある。スペイン内乱の

    砲火を逃れて来た老人が、飼っていたヤギ、猫、鳩がどうなるだろうかと心配して

    いる。老人は政治について聞かれると、自分には関係無い、自分は七十六歳で、こ

    こまでもう十二キロも歩いたのでこれ以上進めない、とだけ答える。それに皮肉に

  • - 29-

    ヘミングウェイ再考

    もこの日はキリストの復活祭の日であり、フランコ軍が跋扈していた。

     この作品も、二重の意味で皮肉な意味合いを持つ。

     まず一つは、それは政治に対する老人の態度である。この時はスペイン内乱の時

    期であり、フランコ側をナチスドイツやムッソリーニのイタリアが支援し、共和国

    側を当時のソ連が支援していた。結果的にはフランコ側が政権を掌握するのである

    が、老人にとってはそんなことより自分が飼っていた動物の方が気になるのである。

    そして政治に関して質問されると、「自分には政治的思想はない、これ以上歩けない」

    と言い、質問に取り合おうとしない。この老人の態度は、一見無知で無学な老人と

    いった印象しか与えないのかもしれない。しかしこの老人の態度こそヘミングウェ

    イが伝えようとしていた事のかもしれない。

     フランコ側にしても共和国側にしても、両方にそれぞれ自らの政治的イデオロギ

    ーがあり、その衝突の結果内戦に至ったはずである。しかしその結果砲火を逃れ、

    自分が飼っていた動物を置き去りしなければならなかったこの老人からすると、そ

    んな政治的正義などどうでもいいのである。つまりこの態度には、『武器よさらば』

    なかのすでに挙げた一文、‘神聖なとか栄光ある、、、といったような言葉にいつも

    当惑を覚えた’が示すように、正義にしてもイデオロギーにしても、そんなものに

    は実態はなく儚いものであるということが含意されているのである。この老人は政

    治的正義とかイデオロギーなどにはまったく関心がなく、自分にとっての日常であ

    るヤギや猫や鳩の世話の方が大切なのである。これは質問者対しても、また正義、

    イデオロギーを振りかざすフランコ側、共和国側の両陣営に対する皮肉と響かない

    だろうか。

     もう一点皮肉に思えるのは、これもよく指摘されているが、この日がキリストの

    復活祭の日曜日であるという事である。復活祭といえば、十字架にかけられて死ん

    だ救世主イエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教

    において重要な日である。救世主の復活を祝う日であるのに、恐らく家族もなく、

    ひっそりと動物との暮らしを営んでいた七十六歳の市井の一人の老人に不条理な不

    幸が降りかかっているということである。救世主はどこにいるのか?物語のなかで

    彼は四度「俺は動物を飼っていただけなのに」と言う。この老人がキリスト教徒か

    どうかに関する記述はないが、もしキリスト教徒だとすれば、さらにこの問いは意

  • 林   明 人

    - 30-

    味を深めることになる。

     感覚的であることは非日常性や祝祭性に結びつく。「心が二つある大きな川」に

    戻ってみよう。

     From the time he had gotten down off the train and the baggage man had thrown his

    pack out of the open car door things had been different. Seney was burned, the country was

    burned over and changed, but it did not matter. It could not all be burned. He knew that.

     He hiked along the road, sweating in the sun, climbing to cross the range of hills that

    separated the railway from the pine plains.21)

    ニックが以前来たことがあると思われるシニーという街やその周辺が、完全には焼

    き払われることはない、ということをニックは確信しながらキャンプに向かうので

    あるが、この地は彼にとって意味のある地だと考えられる。というのも、汽車を降

    りたときから‘状況は変わっていた’と、考えているからである。彼が汽車を利用

    して来たということは常識的にはそんなに近いところから来たということではない

    だろう。するとこの地はニックにとって普段の日常では訪れない地であろう。とい

    うことは、ニックがシニーの街に来たということ自体、日常から非日常に入ったと

    いうことである。

     非日常とは何を意味するだろうか。非日常の世界に入るということは一種の祝祭

    性を帯びるといえるのではないだろうか。卑近な例でいえば正に祭りである。祭り

    の時は、大量の飲食が許されたり、また無礼講も許されたりする。つまり、日常で

    は常識や道徳にとらわれてできないようなことも、祭りという、ある特定日時、そ

    してある特定の場においてのみ許されるのである。これは、いわば時間限定のロゴ

    スからのパトスへの逸脱といっていいのかもしれない。パトスをいい換えれば、感

    覚の世界といってもいいだろう。つまり理性・常識・道徳といったロゴスを超え、

    人間にとってより根源的な自己に立ち返るところである。そこでは歌や踊り、極度

    の飲酒や飲食が許され、日常の羽目を外し、人間の五感が最もみなぎる瞬間で、高

    揚感が最高に盛り上がる瞬間ともいえる。そして、この祭りの後に日常に立ち返ら

    なければならないのであるが、非日常での経験が日常の常識や道徳の読み直しをわ

  • - 31-

    ヘミングウェイ再考

    れわれに求めてくるのである。コインの裏表のように、日常と非日常はどちらも欠

    かせないものであり、両者が求め合っているといっていい。

     ニックにとってシニーに来たことは、彼が‘考えたり、書いたり、それから他の

    ことも全部後にしてきた’、‘状況が変わった’と述べていることから判断すると、

    ‘考えたり、書いたり、それから他のこと全部’は彼にとって日常といえるであろう。

    シニーにキャンプに来たとういうことは、その街シニー自体及びその周辺がニック

    にとって非日常の世界であり、またキャンプ自体も非日常で祝祭性を帯びていると

    いうことになると、心に戦傷を負ったニックはやはり感覚的な自己に立ち返りたい

    という思いがあるのではないだろか。

     ヘミグウエイはアメリカを描かなかったとよくいわれるが、作品全体を見てもほ

    とんどがパリ、イタリア、スペイン、アフリカ等といった外国がその舞台であり、

    もともと作品そのものにどこか非日常といった意味合いをヘミグウエイは持たせよ

    うとしたのかも知れない。まさに『日はまた昇る』などはその典型といえるのでは

    ないだろうか。

     この非日常という観点から『日はまた昇る』を解釈するとどうであろう。この作

    品では、まず第一部では、性的に不能である語り手のジェイク・バーンズを中心と

    した国籍離脱者たちのパリの夜での様子が描かれる。国籍離脱者ということ自体、

    すでに非日常性を帯びているといっていいだろう。次の二部では彼らが陽光あふれ

    るスペインへ向かう。そして、ブルゲートでの釣りやパンプローナでの祭り(fi esta)

    の様子が描かれる。そこではマイクとコーンのブレットをめぐる争いが起こったり、

    ブレットが十九歳の素晴らしい闘牛士ロメロに恋に落ちたり、そしてそれに嫉妬し

    たコーンがロメロを殴りつけ、また逆にコーンがロメロに殴り返されたりと、そこ

    ではパリで巣くっていたものが爆発する。正に祭りの間での出来事である。つまり

    彼らにとってはスペインのこの地に来て、祭りの勢いも借りて、感覚的な世界にど

    っぷり浸っているのである。彼らのこのパンプローナの旅は、「心が二つある大き

    な川」のニックのキャンプと同じ意味を持つと考えていいだろう。

     『老人と海』のサンチャゴも、八十四日間漁がないまま、今日こそはと、いつも

    よりは沖へと小舟を漕ぎ出していくのである。ここでもサンチャゴが日常を超えて

    非日常に入り込んで行くが、『武器よさらば』においても、やはりフレデリック・

  • 林   明 人

    - 32-

    ヘンリーは「単独講和」といいながら彼の中尉としての日常である‘軍隊(arms)’

    を抜け出し、キャサリンという非日常の‘腕(arms)’に逃げ込むのである。後に彼

    はそれを‘生物的な罠にかかった’と考えるが、彼が抜け出した軍隊を規律あるい

    は権威の象徴とすれば、看護婦であるキャサリンはいわば性愛の対象であり、感覚

    の世界といっていいだろう。やはり彼も自ら日常の世界から非日常の世界へと、つ

    まり感覚の世界へと飛び込むのである。 

     また、「心が二つある大きな川」に戻ってみよう。

     Across the open mouth of the tent Nick fi xed cheesecloth to keep out mosquitoes. He

    crawled inside under the mosquito bar with various things from the pack to put at the head

    of the bed under the slant of the canvas. Inside the tent the light came through the brown

    canvas. It smelled pleasantly of canvas. Already there was something mysterious and

    homelike. Nick was happy as he crawled inside the tent. He had not been unhappy all day.

    This was different though. Now things were done. There had been this to do. Now it was

    done. It had been a hard trip. He was very tired. That was done. He had made his camp. He

    was settled. Nothing could touch him. It was a good place to camp. He was there, in the

    good place. He was in his home where he had made it. Now he was hungry.22)

    この場面の前ではニックがテントを設営していく様子が細かく描かれ、実はこれは、

    彼が‘やらなければならないことだったんだ。今それが終わった’と考えるが、ニ

    ックにとってこれはキャンプを設営し寝床を設えるという実質的な目的だけではな

    く、別の意味があると思われる。

     ニックが順序良くテントを設営していく手順には一種の儀式性があると思われ

    る。実際テントを設営するにあたっては一定の手順が必要である。その手順を間違

    えるとテントの設営ができないのである。作者ヘミングウェイ自身幼少の頃から父

    クラレンスに連れられて何度もキャンプに出かけているということからもその手順

    を熟知していたと思われる。ニックのテントの設営の場面がこと細かく書かれてい

    るのは、テント設営の手順に儀式性を持たせようとしているからではないだろうか。

     儀式とは非日常的なものであり、ある特定の場所や時間を限って日常とは異なっ

  • - 33-

    ヘミングウェイ再考

    た行為を行うことである。祝祭性でみたように、日常とは異なった衣服を着たり、

    あるいは特定の行為を行ったり、これに飲食が伴ったりする。つまり儀式も祝祭同

    様、日常の裏返しで、日常では経験しないような精神的な高揚感を与えるのである。

    そしてそれが日常の読み直しにつながるのである。

     この場面で、ニックは一つ一つ間違えないように緊張感を保ちながらテントの設

    営を行っていると考えられる。つまりここでの一つ一つの手順がニックにとっては

    儀式のごとく重要であり、ゆえに作者ヘミングウェイは必要以上に細かく描写した

    のではないだろうか。それゆえ、ニックはテントに潜り込みならが‘幸せ’と感じ、

    ‘一日中不安ではなかった’と思うのである。そして設営し終わったテントは‘な

    にものにも邪魔されない’、‘神秘的で家庭のような’場所となるのである。つまり、

    ニックにとって重要な儀式であるテントの設営を無事終えた安堵感から、‘もうお

    腹が空いた’と、空腹という感覚を持ち始めるのである。ただ、ここでニックが感

    じている‘家庭のような’という意味は、いわゆる「家族団欒」といった意味では

    なく、‘考えることも、書くことも、すべてを後において来た’と感じていること

    からも分かるように、また、‘自分で作った自分の家にいた’と思っていることか

    らも、自分一人だけの誰にも何にも邪魔されない家庭と考えられる。この後も空腹

    という感覚に関する描写が繰返される。‘空腹を覚えた。これまでこんなにお腹が

    空いたことはなかった’と思い、料理を作るが、揚げバナナで舌を火傷しないよう

    に気遣いながらも、‘とってもお腹が空いていた’と思う。ヘミングウェイは、こ

    のように‘hungry’という語を多用していることからも、空腹という感覚を強調し

    ようとしていると思われる。

     この後にもことさら感覚を強調しようとする描写がある。

     Nick tucked two big chips of pine under the grill. The fi re fl ared up. He had forgotten to

    get water for the coffee. Out of the pack he got a folding canvas bucket and walked down

    the hill, across the edge of the meadow, to the stream. The other bank was in the white mist.

    The grass was wet and cold as he knelt on the bank and dipped the canvas bucket into the

    stream. It bellied and pulled hard in the current. The water was ice cold. Nick rinsed the

    bucket and carried it full up to the camp. Up away from the stream it was not so cold.23)

  • 林   明 人

    - 34-

    ニックがグリルの下に松の木を入れると‘その火がぱっと、燃え上がった’のである。

    ここでは暗い中で急に炎が燃え上がり、その暗さと急激な火の明かりとの視覚的対

    比が行われており、視覚的刺激が強調されている。この後も、座ってキャンバスの

    バケツを流れの中に入れようとすると、‘草は濡れて冷たかった’し、流れの中に

    入れた‘バケツは膨らみ、強くひっぱられた’とある。‘wet and cold’はいうまで

    もなく触覚であり、‘bellied and pulled hard’は躍動感のある触覚を示す言葉である。

    この場面でもことさらニックが覚えた感覚的描写が強調されている。この後もこの

    段落で‘cold’という語が二度使用されている。

     ニッックは、コーヒーの淹れ方に関して、以前ホプキンズと議論したことを思い

    出すが、どちらのやり方だったかをあまり考えることなくコーヒを淹れる。そして

    結局は、自分が行った方法がホプキンスの流儀だったことを思い出す。前田一平は

    この場面のホプキンスの回想に関して、その重要性を指摘している。24)

     Nick drank the coffee, the coffee according to Hopkins. The coffee was bitter. Nick

    laughed. It made a good ending to the story. His mind was starting to work. He knew he

    could choke it because he was tired enough. He spilled the coffee out of the pot and shook

    the grounds loose into the fi re. 25)

    確かにニックは、‘頭の中で思考が始まったが、すっかり疲れていたのでそれを抑

    制できることはわかっていた’と思いながら、最後にホプキンスの流儀で淹れたコ

    ーヒーをポットから火にぶちまき、コーヒー滓をゆすりながら火の中に落としてい

    くのである。つまり、この最後の部分でのコーヒーとその滓を火にぶちまくという

    行為は、ホプキンスのことを考えることで思考に走ってしまう自分を意識し、その

    思考を停止させるためのニックが行った行為と考えられる。つまりホプキンス流で

    作ったコーヒーとその滓は「思考」の象徴と考えられる。だからニックは火の中に

    ぶち撒いてしまうのである。

     さて、この物語に何度か‘沼地’が出てくる。そのなかで明らかにニックがその

    沼地を強く意識している場面がいくつかある。

     

  • - 35-

    ヘミングウェイ再考

    There were plenty of days coming when he could fi sh the swamp.26)

    これは物語の最後の部分であるが、ニックは明確に沼地を意識し、結局沼地へは行

    かない様子が描かれている。つまり「今」はニックは沼地には関わりたくない、先

    延ばしにしたいということである。物語のなかで理由は示されないが、ニックが沼

    地を忌避していることは明らかである。

     次の場面を考察してみよう。

     For years he had never enjoyed fried bananas because he had never been able to wait for

    them to cool. His tongue was very sensitive. He was very hungry. Across the river in the

    swamp, in the almost dark, he saw a mist rising. He looked at the tent once more. All right.

    He took a full spoonful from the plate.27)

    夕食時にニックが揚げバナナを食べる場面であるが、霧が立ち上る沼地を見た後、

    どういうわけかもう一度テントをみる。そして、よし、と揚げバナナをスプーンで

    すくって食べ始める。まるで何かを確認したかのようである。

     この場面も、ニックが沼地を忌避しているという観点から判断すれば、ニックが

    沼地をみた後、なぜテントをみて、よしっ!と揚げバナナを食べ始めるのかその理

    由が分かる。つまり彼がテントをもう一度みた理由は、自分が満足のいくように設

    えたテントをみることにより、沼地に対して抱いている自分の不安を振り払いたか

    ったのである。それゆえことさらテントをもう一度みて安堵しようとしたのである。

    そのテントは自分で満足がいくように設営したものであり、また自分ひとりの誰に

    も邪魔されない家でもあるからである。

     Ahead the river narrowed and went into a swamp. The river became smooth and deep and

    the swamp looked solid with cedar trees, their trunks close together, their branches solid. It

    would not be possible to walk through a swamp like that. The branches grew so low. You

    would have to keep almost level with the ground to move at all. You could not crash through

    the branches. That must be why the animals that lived in swamps were built the way they

  • 林   明 人

    - 36-

    were, Nick thought. 

     He wished he had brought something to read. He felt like reading. He did not feel like

    going on into the swamp. He looked down the river. A big cedar slanted all the way across

    the stream. Beyond that the river went into the swamp.

     Nick did not want to go in there now. He felt a reaction against deep wading with the

    water deepening up under his armpits, to hook big trout in places impossible to land them.

    In the swamp the banks were bare, the big cedars came together overhead, the sun did not

    come through, except in patches; in the fast deep water, in the half light, the fi shing would

    be tragic. In the swamp fi shing was a tragic adventure. Nick did not want it. He did not want

    to go down the stream any further today.28)

    ここでも、‘あんな沼地を歩いて渡るのは無理だろう’、‘沼地には入っていく気が

    しなかった’、‘今はそこへは行きたくなかった’、‘沼地での釣りは悲劇だ’とニッ

    クは思っている。やはり、ニックは沼地に対して否定的な態度を見せる。

     それではニックにとって沼地は何を意味しているのであろう。物語のなかでは

    それを具体的に語るものは全くないが、「今」は入って行きたくないと考えている。

    また物語の最後の部分でも‘この先沼地で釣りができる日がいっぱいある’と考え

    ているように、どうやらニックにとって沼地は、いずれは取り組まなければならな

    いことの象徴であるように思われる。ただとにかく「今」は忌避したいと考えてい

    るのである。

     次に、以下の場面が続く。

     He took out his knife, opened it and stuck it in the log. Then he pulled up the sack,

    reached into it and brought out one of the trout. Holding him near the tail, hard to hold,

    alive, in his hand, he whacked him against the log. The trout quivered, rigid. Nick laid him

    on the log in the shade and broke the neck of the other fi sh the same way. He laid them side

    by side on the log. They were fi ne trout.29)

     (下線筆者)

  • - 37-

    ヘミングウェイ再考

     ここででは、ニックは自分が釣った鱒を屠るのであるが、釣り師としてこの処置

    は自然である。そしてその鱒の描写も鮮やかである。釣った鱒を屠るのは当然の行

    為であり、特に奇異な感じはしないのであるが、注意深く読んでみると、ニックが

    鱒を屠る様子が、非常に暴力的な語で暴力的に描かれているようにも思える。ここ

    での暴力性の持つ意味は、沼地が象徴する「いずれは取り組まなければならいもの」

    への嫌悪感に対するニックの反応のように考えられる。つまりニックは沼地が象徴

    する何かに苛立ちを感じており、それに対して暴力的と思われるような行為で反応

    しているように思われる。

     また、‘沼地’はいずれ対処しなければならない‘他の必要なこと’と考えても

    差し支えないであろう。リンはヘミングウェイの伝記的事実から考察し、ニックに

    とっての‘他の必要なこと’とは、ヘミングウェイが対処しなければならなかった

    彼の母との確執だと述べている。30)リンも紹介しているように、現在ボストンのジ

    ョン・F・ケネディ図書館所蔵の、当時ヘミングウェイの母グレイスが彼に宛てた

    丁寧な文字で書かれた直筆の絶縁状 31)でもリンの考察を裏付けられる。

     更に、「心が二つある大きな川」から削除され、後に「書くことについて」(On

    Writing)という作品となった物語の「沼地」に関して前田一平は次のように解釈し

    ている。

     「彼は頭の中に何かを留めていた」という文章の反復でもって「創作について」

    は終わる。「ふたつの心臓のある大きな川」の人物ニックは既に作家なのである。

    「彼」はテントに戻って小さなストーリーを書こうとする。人物ニックは作家で

    あり、作家ニックのペルソナである。その作家ニックはパリのカフェで青いノー

    トにストーリーを書く若きアーネスト・ヘミングウェイの芸術的ペルソナなのだ。

    「ふたつの心臓のある大きな川」のニックが後に残してきた重荷とは、結婚、妻

    の妊娠、夫であること、父親である(になる)こと、作家として創作を確立しな

    ければならないことであり、目の前に立ちはだかる「沼地」はこれらの負うべき

    責務の深淵としてニックの目には映るのである。なぜなら「沼地」での「釣りは

    悲劇的だろうから」である。しかしこの「沼地」は」、作家ニック・アダムズに

    とって創作の宝庫でもある。32)

  • 林   明 人

    - 38-

     またロバート・ポール・ラムも次のように解釈している。

     To this point, the material of the deleted ending would seem to link “Big Two-Hearted

    River” neither to the war nor to an unhappy mother-son relationship, but to those stories

    from In Our Time that favorably contrast male-male relationships with male-female

    relationships (“The End of Something,” “The Three-Day Blow,” “Cross-Country Snow,”)

    and stories that depict dissatisfaction with marriage (“The Doctor and the Doctor’s Wife,”

    “Out of Season,” “Cat in the Rain,” “Mr. and Mrs. Elliot”).33)

    削除された部分ではニックは作家となっており、若い頃の友人との楽しかった回想

    に耽り、そうした楽しみが、今や結婚し父になったことにより奪われてしまったこ

    となどを嘆いている。これが「心が二つある大きな川」のニックが忌まわしいと考

    えている「沼地」ではないかというのである。もちろんこの考え方は、「心が二つ

    ある大きな川」を読んだだけでは出てこない。これはまた「インデアン・キャンプ」

    から削除され「三発の銃声」(Three Shots)という作品となった物語が「インデアン・

    キャンプ」の解釈を助けるのも同じことであろう。

     以上考察してきたように、戦争で精神的に傷ついていると思われるニックは、自

    然のなかで釣りをし、テントを設営し、料理をしたりすることにより、自らを感覚

    の世界に引き戻し、生き生きとした自己を確認する。そしてこのキャンプでのニッ

    クは日常で取り組まなければらないものを忘れて暫時感覚みなぎる自らに幸せを感

    じている。換言すれば、人間にとって感覚がいかに自らの活性化を促し、無意識的

    に生を認識させるものであるかをヘミングウェイは訴えようとしているのではない

    だろうか。

     ただニックは、この鱒釣りキャンプで自らの活性化は果たされたのかもしれない

    が、物語の最後が示すように、沼地が象徴する不安の解決を先延ばしにしただけで

    あるという問題は依然として残る。

  • - 39-

    ヘミングウェイ再考

    2 無(ナダ)、そして死

     ニックにとって鱒釣りキャンプは、その時点で、そしてその地点でという限りに

    おいて、感覚的な自己を改めて経験するという点では意味あるものであった。しか

    し先に考察したように、沼地が象徴していると思われる、彼が忌避したいが、いつ

    かは対処しなければならないものを解決することに、この感覚世界に浸ったことが

    その一助になるかどうかは定かではない。そうするとキャンプでの感覚に満ちた経

    験は現実対処からの一時しのぎで終わってしまうことにもなる。そうなると「心が

    二つある大きな川」は、最後は「無」を暗示して終わることになるとも考えられる。

     次に無(ナダ)を暗示していると考えられるいくつかの作品を考察してみよう。

     『日はまた昇る』では、一部でパリでの国籍離脱者たちの放縦な生活が描かれ、

    二部では祝祭性あふれたスペインのパンプローナでの感覚に満ち満ちた旅が描か

    れ、そして三部では彼らが再び暗いパリに帰らなければないことが暗示されている。

    やはりこの作品も最後に「無」を暗示していると考えられる。これまでにもよく指

    摘されているように、『日はまた昇る』の見開きで、キリスト教旧約聖書の一書で

    ある『伝道の書』からの一節が引用されていることからもその意味は強まる。

     

     “One generation passeth away, and another generation cometh; but the earth abideth

    forever ... The sun also ariseth, and the sun goeth down, and hasteth to his place where

    he arose .... The wind goeth toward the south, and turneth about unto the north; it

    whirleth about continually, and the wind retuneth again according to his circuits ... All

    the rivers run into the sea; yet the sea is no full; unto the place from whence the rivers

    come, thither they return again.”

     −− Ecclesiastes 34)

    つまり、循環をくり返すというのである。つまりこの物語は、第一部が‘暗’、そ

    して第二部が‘明’、そして第三部が再び‘暗’へと循環していると考えられる。『伝

    道の書』上記の部分の直前に、「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空で

    ある」35)という一節があり、やはりヘミングウェイがこの作品に虚無的な意味合

  • 林   明 人

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    いを持たせようとしたと考えられる。

     リンは、ヘミングウェイがスクリブナーのマクス・パーキンスに送った手紙から、

    『日はまた昇る』に関して自らの解釈を次のように述べている。

    ... As he later told Max Perkins, he hadn’t set out to write “a hollow or bitter satire.”

     To the contrary, it had been his intention to write a “damn tragedy”—a tragedy whose

    melancholy outlook on life was very like that of the sage in Ecclesiastes.

     An observer of society, standing aloof from its passions and ambitions and interested

    primarily in pointing out their emptiness, the sage had maintained a predominant attitude

    of calm hopelessness, tinged on occasion by disgust or contempt and an unspeakable

    weariness. His deliberate conclusion was that life had nothing of permanent value to

    offer. An inscrutable God was the absolute determiner of man’s fate; wherefore it was

    impossible to add to the content of the world or take from it, impossible to change the

    nature of things or to effect any radical betterment in relations. No goal or purpose was

    discoverable in the earth’s eternal round; if the sun rose and journeyed across the sky, it was

    merely to come back to the place whence it rose, while rivers fl owed forever into the sea

    without fi lling it. To what purpose, then, was the world created? It was impossible to

    say. Nevertheless, the sage affi rmed that life with its limitations was worth living. Man

    ought to face the facts and accept the given as unchangeable, but he also ought to enjoy

    whatever good things God permitted—until death brought oblivion, just as it did to beasts.36)

    この件において、リンは『日はまた昇る』を『伝道の書』になぞらえ、『伝道の書』

    の賢者になり代わりその趣旨を述べている。つまりそれは世の儚さである。しかし

    また同時に、神が許した良いことは享受するべきだとも述べている。このような解

    釈は、究極的にはヘミングウェイ作品の根底にある一番重要なものではないだろう

    か。

     『武器よさらば』では、ヘンリーは軍隊を抜け出し、キャサリンと共に逃亡したが、

    結果的にはキャサリンが宿した二人の愛の証も、キャサリン自身も死んでしまう。

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    ヘミングウェイ再考

     You died. You did not know what it was about. You never had time to learn. They

    threw you in and told you the rules and the fi rst time they caught you off base they killed you.

     Or they killed you gradually like Aymo. Or gave you the syphilis like Rinaldi. But they

    killed you in the end. You could count on that. Stay around and they would kill you.37)

     

    ヘンリーはキャサリンの厳然たる死を目前に、死そのものに思いを巡らせ、結局人

    は死ぬのだと考える。このように思い描くヘンリーの姿にやはり「無」が漂ってい

    るといえるであろう。

     『老人と海』では、サンチャゴは三日間の死闘の末マカジキを捕らえるが、港に

    向かう途中でサメにマカジキを食い荒らされ、帰港したときには骨だけの状態だっ

    たのである。

     “But man is not made for defeat,” he said. “A man can be destroyed but not defeated.”38)

    しかし、この後にサンチャゴは、

     “He knew he was beaten now fi nally.”39)

    と考える。死そのものではないにせよ、死に等しい敗北といっていいだろう。やは

    りこの作品も「無」を暗示している。

     「心が二つある大きな川」以外の短篇ではどうだろう。

     「殺し屋」(The Killers)では、ニックが元ボクサーのオーリー・アンダースンの

    ところへ行って、彼に追っ手がかかっていることを知らせるが、アンダースンは服

    を着たままベッドに横たわって壁に向かっているだけである。「僕の父」でも、今

    まで競馬騎手でいかさまをしていたと思われる父を持つ少年が、いかさまなしで本

    気で勝負したと思われるレースで父の死を突きつけられる。ここにもヘミングウェ

    イが意識した皮肉が込められているように思える。

     「敗れざる者」(The Undefeated)では、マヌエルはいわゆるコード・ヒーローであ

    ろう。とっくに盛りを過ぎた闘牛士であるが、仲間の反対を押し切って最後にもう

  • 林   明 人

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    一度闘牛士としての自己証明をしようとする。そして自らも負傷するがその証明を

    果たす。その闘牛の様子を作者ヘミングウェイは入念に、そして非常に臨場感を持

    って描く。読者はあまりの臨場感にわくわくし、まるで目の前で闘牛が行われてい

    るような錯覚におちいる程である。しかしこの作品も注意深く読んでみると次のよ

    うな場面がある。

     In the fi rst row of seats, slightly bored, leaning forward to write on the cement wall in

    front of his knees, the substitute bull-fi ght critic of El Heraldo scribbled: “Campagnero,

    Negro, 42, came out at 90 miles an hour with plenty of gas −− ”40) (下線筆者)

    エル・ヘラルド紙の代理批評家は、マヌエルが闘牛士としての自己証明をしようと

    している重要な闘牛を伝える職務があるのであるが、それにもかかわらず、批評家

    は‘代理’であり、それも‘すこし退屈そうな’様子を見せながら記事を書き始める。

    ここには彼の態度と彼の批評家としてのあるべき立場との間に緊張感における乖離

    がある。

     The critic of El Heraldo lit a cigarette and tossed the match at the bull, then wrote in his

    notebook, “large and with enough horns to satisfy the cash customers, Campagnero showed

    a tendency to cut into the terrain of the bull-fi ghters.” 41)

     (下線筆者)

    この場面でもこの代理批評家は、闘牛という儀式の中心ともいえる牛に、タバコに

    火をつけたあとのマッチを投げつける。あまりにも非礼な態度である。

     El Heraldo’s second-string critic, drawing on his cigarette, his eyes on the bull,

    wrote: “The veteran Manolo designed a series of acceptable verónicas, ending in a very

    Belmontistic recorte that earned applause from the regulars, and we entered the tercio of

    the cavalry.” 42)

  • - 43-

    ヘミングウェイ再考

    ここでも、記者はタバコを吹かしながら記事を書いているのであるが、やはりその

    緊張感に欠けた態度と彼の役割との間に乖離がある。

     In the front row of seats the substitute bull-fi ght critic of El Heraldo took a long drink

    of the warm champagne. He had decided it was not worth while to write a running story

    and would write up the corrida back in the offi ce. What the hell was it anyway? Only a

    nocturnal. If he missed anything he would get it out of the morning papers. He took another

    drink of the champagne. He had a date at Maxim’s at twelve. Who were these bull-fi ghters

    anyway? Kids and bums. A bunch of bums. He put his pad of paper in his pocket and

    looked over toward Manuel, standing very much alone in the ring, gesturing with his hat in

    a salute toward a box he could not see high up in the dark plaza. Out in the ring the bull

    stood quiet, looking at nothing. 43)

    そして、この場面では、代理とはいえ、闘牛批評家はあまりにも無責任な態度をみ

    せる。ここで記事を書き終えないで、事務所で残りを書こうと決め、もし何か見逃

    したら朝刊から拾えばいいし、そもそも十二時に女と会う約束があったのだった。

    それにここにいる闘牛士なんて‘若造’と‘与太者’ではないか、と決めつける。

    その態度はマヌエルの凛々しい姿とはあまりに対照的である。

     しかし、やはりマヌエルが立派に闘牛をやり遂げ、自己証明を果たしたにせよ、

    こうした皮肉な批評家を登場させることにより、結局マヌエルの自己証明にどれだ

    けの意味があるのかと皮相的に見据えているヘミングウェイの視点があるように思

    える。

     同じように、主人公のカップルの痴話喧嘩を非常に冷めた目で捉えるバーテンの

    出てくる作品がある。「海の変化」(The Sea Change)である。

     The barman was at the far end of the bar. His face was white and so was his jacket.

     He knew these two and thought them a handsome young couple. He had seen many

    handsome young couples break up and new couples form that were never so handsome

    long. He was not thinking about this, but about a horse. In half an hour he could send across

  • 林   明 人

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    the street to fi nd if the horse had won.44)

     

    この作品は、「両性具有性」という観点から、後の『エデンの園』(The Garden of

    Eden)につながる作品であると思われている。ここに出てくるカップルは、あるバ

    ーで諍いをしているのであるが、女性の方に好きな女性ができたということで彼と

    痴話喧嘩をしており、それをバーテンが黙って聞いているのである。

     このバーテンの無関心さが非常によく効いている。カップルの男の方は、自分の

    彼女の同性の相手を「殺してやる」と叫ぶほど興奮しているにもかかわらず、バー

    テンはこのカップルのことをよく知っていながら彼らのこの痴話喧嘩に関心を示さ

    ない。ナレーターは、バーテンはうまくいっていたカップルがくっついたり別れた

    りするのをこれまで見てきたと説明するだけである。つまりバーテンからすれば目

    の前で繰り広げられている痴話喧嘩なんて自分には関係ないことであり、それより

    競馬に賭けたお金の方が大事であり、それゆえ馬の勝ち負けが気になるのである。

     つまりこれは、このカップルの痴話喧嘩の結果がどうなろうが、当人たち以外の

    者にはまったく関係ないことであるという、そうした視点をヘミングウェイは持ち

    込もうとしていると思われる。痴話喧嘩の結果このカップルがどうなろうともいず

    れそれ自体意味もないし、ましてや他人からすればなおさらであると。丁度これは

    先にみた「敗れざる者」に登場する代理批評家を彷彿とさせる。このように非常に

    感覚的に激しいものに対して、常にどこか冷ややかな視点をヘミングウェイはかな

    り意識的に持ち込んでいる。ここにもやはり、そんなに高揚して痴話喧嘩をしても、

    最後は無に終わるというヘミングウェイの諦観がうかがわれる。 

     ‘That’s the name for it.’

     ‘No,’ she said. ‘We‘re made up of all sorts of things. You’ve known that. You've

    used it well enough.’45)

    この会話の少し前の部分で、女が他の女を好きになり自分から去って行こうしてい

    る状態を男の方は‘倒錯(perversion)’だと言い張っているが、女は男に、「人間の

    有り様はどんな形でもあり得る」と言っている。男女の有り様だって決まり切った

  • - 45-

    ヘミングウェイ再考

    形式などないと言い張っているのである。これはヘミングウェイからすれば、一つ

    の常識だとか権威だとか、そんなものは儚いもの、つまり「無」であるといいたい

    のであろう。

     「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」でも、狩猟案内人のウィルソンが「死」

    について語る。

     “That’s it,” said Wilson. “Worst one can do is kill you. How does it go? Shakespeare.

    Damned good. See if I can remember. Oh, damned good. Used to quote it to myself at one

    time. Let’s see. ‘By my troth, I care not; a man can die but once; we owe God a death and

    let it go which way it will, he that dies this year is quit for the next.’ Damned fi ne, eh?” 46)

    ここにやはりヘミングウェイの死に対する意識が描かれている。ウィルソンは、死

    をいずれは必ずやって来るもの、必然的なものであるという真実を十分認識し、あ

    る意味死を戯画化さえしているようにも思える。「実に素晴らしいだろう。えっ」

    と言うあたり、投げやりで皮肉にも聞こえるが、死をただ恐れるではなく、咀嚼し

    ているとでもいったらいいのだろうか。その裏には決して死を否定的にだけ捉える

    のではなく、死という事実を認識している側面がうかがえる。

     このように、ヘミングウェイの様々な作品において、主人公たちは感覚的自己に

    立ち帰り生を実感するのであるが、そのまま手放しにハピーエンディングな話とは

    ならない。つまりそれは先にも述べたように、感覚的自己に立ち返ることで全てが

    解決するわけではないということではなかろうか。

     ヘミングウェイの作品のいくつかにおいては、主人公が感覚に満ち、生き生きと

    した自己に立ち帰り、その時点では申し分のないのであるが、最後には死が待って

    いる。これは先にみたように「心が二つある大きな川」はもとより、様々な短篇お

    よび長篇がその物語の終わりが決して大団円ではなく、非常に冷笑的な視線を備え、

    悲劇的に終わっているのである。それを言い換えれば「無」を秘めているといって

    いいだろう。「無」をさらに究極的にいえば、それは「死」ということになる。ヘ

    ミングウェイは「死」に取り憑かれた作家であるとはよくいわれることである。感

    覚的な自己を取り戻しても、またコードに準じ華々しく行動したヒーローにしても、

  • 林   明 人

    - 46-

    それは儚い一瞬でしかないとうことであろう。

     「無」を直接扱った作品といえば、「清潔で明るい場所」(A Clean, Well-Lighted

    Place)である。舞台は、深夜のスペインのカフェと考えられる。そこには若手と年

    配と思われる二人のウエイターがおり、深夜にもかかわらず、先日自殺未遂をした

    耳の聞こえない老人がずっとブランデーを飲んでいる。若い方のウエイターは妻が

    いる家へ早く帰宅したがっている。一方年配のウエイターは、その老人に共感を抱

    いている。

    “Last week he tried to commit suicide,” one waiter said.

    “Why?”

    “He was in despair.”

    “What about?”

    “Nothing.”

    “How do you know it was nothing?”

    “He has plenty of money.”47)

    この作品に関しては、いろいろテキスト自体の問題もあり、二人のウエイターの会

    話の話者がどちらのウエイターなのか判別できないとうこともあった。しかし今で

    は、最初のセリフ言ったのは年配のウエイターであると解釈されている。そうする

    とこの会話で、‘Nothing’と言って答えるのは年配のウエイターと考えられる。こ

    の‘Nothing’であるが、これが実は二重の意味になっている。人生経験が浅いと思

    われる若いウエイターには、この‘Nothing’の意味は、「なんでもないことさ」と

    いった意味にしか理解できていないだろう。しかし、年配のウエイターは「無」を

    意味して‘Nothing’と言ったと考えられる。というのも、物語の最後で、この年配

    のウエイターは次のように考える。

     

     What did he fear? It was not fear or dread. It was a nothing that he knew too well. It was

    all a nothing and a man was nothing too. It was only that and light was all it needed and a

    certain cleanness and order. Some lived in it and never felt it but he knew it all was nada y

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    ヘミングウェイ再考

    pues nada y nada y pues nada. Our nada who art in nada, nada be thy name thy kingdom

    nada thy will be nada in nada as it is in nada. Give us this nada our daily nada and nada

    us our nada as we nada our nadas and nada us not into nada but deliver us from nada;

    pues nada. Hail nothing full of nothing, nothing is with thee.48)

     “Our nada who...but deliver us from nada” は、キリスト教の主祷文をもじったもの

    である。“nada” は “nothing” のスペイン語である。そして最後に年配のウエイターは、

    ‘無に満ちた無を祝福しなさい。無は汝とともにあるのです’と自分に言い聞かせる。

    つまり無、すなわち最終的には人は死を避けることができないということであろう。

    結 論

     ヘミングウェイは人が感覚的自己を取り戻すことによりいかに生き生きするかと

    いうことを描いてきたと思われる。そこには非日常的、祝祭的、また儀式的要素が

    あった。しかし彼の作品にはそうした要素を含みながらも、物語の最後には暗い影

    を思わせるものが多い。その意味では、人がたとえ生き生きした自己を取り戻して

    も、それはやはり権威や名誉と同様、一瞬のはかないものであるというヘミングウ

    ェイのメッセージとも思われる。『平家物語』の「諸行無常」につながる考え方で

    あるといっていいのかもしれない。というのも「清潔で明るい場所」の年配のウエ

    イターが、「無」、言い換えれば ,「死」はあなたとともにあるのです、と言っている。

    あらゆるものが不変ではなく、最後には死を迎えるという真実を突きつけているの

    である。

     それでは感覚的に自己に立ち帰り、生き生きした自己をと取り戻すことに、ある

    いはコードに従い華やかな行動することに意味がないのかという疑問が湧いてく

    る。

     結論から言えば、意味はあるのである。つまりあらゆるものが「無」(死・ナダ)

    と化すという真実を認識していればこそ、死の対極にある「生」が生き生きと浮か

    び上がってくるのである。生と死は裏腹で、互いが互いの存在を在らしめている。

    日常において、死を意識してこそ、生の一瞬、一瞬が正に生き生きとし、かけがえ

  • 林   明 人

    - 48-

    のないものとなってくるのである。この考えは、元々茶道に由来する「一期一会」

    という表現につながり、仏教にも通じる考えでもあろう。

     「キリマンジ�