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33 ウィリアム・サロ⊥ヤソ論(1) i那 1 20世紀初頭のアメリカの社会には物質文明の驚くべき発達があります.資本主義化が急速度で進み 1890年には4,251,000人だった労働者数が1920年には8,997,000人と倍増しました〔1}.1929年の ると賃銀労働者は全所得者数の58.5%を占めるに至り,南北戦争前後には50%を占めていた農民人口は 13%に減少しているのでありますの. 此の様な社会的変動期にあってS.Andersonはその初期の進展する磯城文明をも含めての社会機構 の変遷と人間の内面の精神的要素とに焦点をあててgrotesqueにならざるをえない姿を描いて注目を 浴びました.やがて第一次仕界大戦を経験しLost Generationと呼ばれる作家達が登場しましたが・ 代表的なE.HlemingwayにしてもW.Faulknerにしても,本質的にはやはり文明と社会 捕えられている人間像が問題点であったと言えます.それから1929年の経済恐慌を経験する頃は前述の 統計に見られる様にアメリカの社会は一応の資本主義化が進んで現代的な意味に近い経済的社会的問題 を抱えるようになりました. W.Saroyanは此の様な背景のもとに登場した作家であります.特に背景を問題にしたのは,その 様な時代にあってアメリカ文学の方向が大別して社会問題と真正面から取組むものとhumanigmを問 題にするものとになると思われるからであります.此の点ではSaroyanは後者の立場をとる作家であ 『ります. 私がSaroyanに興味を抱いたのは,彼の善意の思想を基盤にしたhumanismと,そこから生れる 素朴で新鮮な感動のためでした、社会が内包する悪的要素を正面から取上げて何らかの方向を暗示する 様な点が見られなかったことでは今もって不満ではありますが,人間生活に於ける精神的な面を取上げ て彼なりに積極的に人間性を讃歌したことは認められてしかるべきものであります.Saroganを論ず るに際して,1949年の妻Carol Marcusとの離婚を境にして前期と後期とに大別して考察するのが最 も彼を理解し易いものと思います.その理由は,処女作The Daring Young Man on the Trapeze(1934)に散見されるSaroyanの文学的見解がMy Name Is Araエn(1 Comedy(1943)で開花結実したと考えられ,それらが前半の頂点を形成していると見られることと・ その後つまり1949年以後の作品では,多少傾向の変化を見取れるからであります.しかし1954年になっ てSaroyan自身は,前半は過去20年であり後半はこれからの20年である③と言っていますが・これは 彼の創作意欲をほのめかすものと考えるべきであります.従って此のSaroyan論(1)は私の考える 前期の研究であります. W.Saroyanは1908年8月31日アルメニア系移民の子としてCalifomiaのFre た.アルメニア人である事は当然のことながら彼個人にも又作品の上にも大きな作用をしています・ “Seventy Thousand Assyrians”ではやはり少数民族であるアッシリア人に託してその ています.2才の時San Brmoへ移り,問もなくSan Franciscoへ移り,最後にCam って父はそこで1911年7月に死亡しました.Campbe11では彼の,父もS.Andersonの父の様 やって失敗したということです(4}.その後7才迄OaklandのFred Find10rphanage で3才上の兄Henryと共に育てられました.しかし兄とは部屋は別で,家庭らしい雰囲気を味わうこ

ウィリアム・サロ⊥ヤソ論(1)W.Saroyanは1908年8月31日アルメニア系移民の子としてCalifomiaのFresnoに生れまし た.アルメニア人である事は当然のことながら彼個人にも又作品の上にも大きな作用をしています・

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Page 1: ウィリアム・サロ⊥ヤソ論(1)W.Saroyanは1908年8月31日アルメニア系移民の子としてCalifomiaのFresnoに生れまし た.アルメニア人である事は当然のことながら彼個人にも又作品の上にも大きな作用をしています・

33

ウィリアム・サロ⊥ヤソ論(1)

i那 知 上 佑

                      1

 20世紀初頭のアメリカの社会には物質文明の驚くべき発達があります.資本主義化が急速度で進み

1890年には4,251,000人だった労働者数が1920年には8,997,000人と倍増しました〔1}.1929年の調査によ

ると賃銀労働者は全所得者数の58.5%を占めるに至り,南北戦争前後には50%を占めていた農民人口は

13%に減少しているのでありますの.

 此の様な社会的変動期にあってS.Andersonはその初期の進展する磯城文明をも含めての社会機構

の変遷と人間の内面の精神的要素とに焦点をあててgrotesqueにならざるをえない姿を描いて注目を

浴びました.やがて第一次仕界大戦を経験しLost Generationと呼ばれる作家達が登場しましたが・

代表的なE.HlemingwayにしてもW.Faulknerにしても,本質的にはやはり文明と社会機構に

捕えられている人間像が問題点であったと言えます.それから1929年の経済恐慌を経験する頃は前述の

統計に見られる様にアメリカの社会は一応の資本主義化が進んで現代的な意味に近い経済的社会的問題

を抱えるようになりました.

 W.Saroyanは此の様な背景のもとに登場した作家であります.特に背景を問題にしたのは,その

様な時代にあってアメリカ文学の方向が大別して社会問題と真正面から取組むものとhumanigmを問

題にするものとになると思われるからであります.此の点ではSaroyanは後者の立場をとる作家であ

『ります.

 私がSaroyanに興味を抱いたのは,彼の善意の思想を基盤にしたhumanismと,そこから生れる

素朴で新鮮な感動のためでした、社会が内包する悪的要素を正面から取上げて何らかの方向を暗示する

様な点が見られなかったことでは今もって不満ではありますが,人間生活に於ける精神的な面を取上げ

て彼なりに積極的に人間性を讃歌したことは認められてしかるべきものであります.Saroganを論ず

るに際して,1949年の妻Carol Marcusとの離婚を境にして前期と後期とに大別して考察するのが最

も彼を理解し易いものと思います.その理由は,処女作The Daring Young Man on the Flying

Trapeze(1934)に散見されるSaroyanの文学的見解がMy Name Is Araエn(1940)やThe Human

Comedy(1943)で開花結実したと考えられ,それらが前半の頂点を形成していると見られることと・

その後つまり1949年以後の作品では,多少傾向の変化を見取れるからであります.しかし1954年になっ

てSaroyan自身は,前半は過去20年であり後半はこれからの20年である③と言っていますが・これは

彼の創作意欲をほのめかすものと考えるべきであります.従って此のSaroyan論(1)は私の考える

前期の研究であります.

                      皿

W.Saroyanは1908年8月31日アルメニア系移民の子としてCalifomiaのFresnoに生れました.アルメニア人である事は当然のことながら彼個人にも又作品の上にも大きな作用をしています・

“Seventy Thousand Assyrians”ではやはり少数民族であるアッシリア人に託してその悲哀を述べ

ています.2才の時San Brmoへ移り,問もなくSan Franciscoへ移り,最後にCampbe11に移

って父はそこで1911年7月に死亡しました.Campbe11では彼の,父もS.Andersonの父の様に養鶏を

やって失敗したということです(4}.その後7才迄OaklandのFred Find10rphanageという掻児院

で3才上の兄Henryと共に育てられました.しかし兄とは部屋は別で,家庭らしい雰囲気を味わうこ

Page 2: ウィリアム・サロ⊥ヤソ論(1)W.Saroyanは1908年8月31日アルメニア系移民の子としてCalifomiaのFresnoに生れまし た.アルメニア人である事は当然のことながら彼個人にも又作品の上にも大きな作用をしています・

34 福島大学学芸学部論集第15号 1964-3

とは出来ませんでした.Everybody in the place hated it.It wasn’t home,that’s a11⑤.と後

年回想しています.7才になってFresnoの母のもと‘ζ帰り,以後10年間Fresnoでの生活が続けられま

す.そして家計が苦しかったことにもよるのですが7才の中頃にして自分から進んで働きに街に出まし

た.The Fresno Evening Herald新聞の売子をしたのであります.彼には生活苦からの陰影はなく

て後のThe Human ComedyのHomer少年に見られる様な明朗で素朴な心情がありました.孤児院

から開放された気分も手旗ってか“…the world was my home and I was glad to be in it.’鮒と

述べております.Emerson Schoo1に通うようになっても放課後新聞売子を紡げました.街での生活

は学校でより以上に得ることが多かったようです.SaroyanにとってFresnoは故郷でした.それは

そこで人間種族というhumanisticな観点で人間を見ることを知り,芸術を見出し,自分もその人間

種族の一員であると知るようになった一という意味なのでしたOO.12才頃から新聞売子をやめて電報

局でアルバイトをしました.此の頃の経験がThe Human Comedyに描かれるのであります.13才

の頃自分で稼いだ金の一部をさいて蓄音器とレコードを買って帰り母に叱られたことがありました.し

かし母はすぐ理解してくれました.そしてSaroyanは外的な耳が音楽に飽食すれば内的な耳は聾にな

り,肉体が満足すれば精神は満足を求められなくなるものだということを知りました⑧.15才頃には農園

で働きました・My Name Is Aram中の“The Pomegranate Treesヤ’は実際には此ρ頃の思い出

であります{9).1925年17才の時San Franciscoに出て郵便電信局の支局の局員として働くようにな

り,19才1ζなるとBrannanという支局の支局長になりました.Saroyanはそのことをずっと誇りに一

思っていましたoo.しかしSan Franciscoでは一つの職に長く留まっていたことはなく,墓地会社や埠

頭の倉庫で働いたり転々としたようです.倉庫でサンドイッチを食べながらJ.Londonを読んだと彼

自身言っておりますω.20才の時本格的に作家を志してNew Yorkに出たのですが失敗して一年ほど

でSan FranciscOに帰って来ました.これは例の経済恐慌の年であります.此の時の経験等をもとに

して生れたのがThe Daring Young Man on the Flying Trapezeであります.これは同名の短

編をtitle storyとした短編集なので,今後短編集全体を意味する場合1ζはD.Y.M.と表記する

ことにします.

 “The Daring Young Man on the FIying Trapeze”は1933年の作でありStory誌に載せられ

ました.そして翌年これをtitle storyとした短編集D.Y.M.がRandom Houseから出版され

ました.その時の評判はR.B.We3tの言葉を借りれば「当時流行していた社会抗議の文学に清新な

息吹きをあたえるものと見られた.それは作者自身の自己を脚色する才能や実験的な手腕と結びつい

て,ほとんど神話的な評判の基礎をつくった。励Jのであります.Saroyan自身はその時の喜びを20年

後に回想して次の様に表現しています.

 It wag at348Ca∫1Street twenty years ago on this day,October l3th,that I opened

a package from Random House and saw a copy of my first book.That wa3a hell of a

moment.I was so excited I couldn’t roll a Bull Durham cigarette.After three trieg

I finally made it,and began to inhale and exhale a little madly as I examined the

preposterous and very nearly unbelievable object of art and merchandise.What a

book, what a cover, what a t it le page, what word9, what a photograph…一・鱒

 確かに此の作品は評判を得るだけの新鮮さが見られますし,その後のSaroyanの全作品の出発点で

もあり,彼の思想に近づく扉とも考えられるので一章をさいてみたいと思います.彼の思想に近づくと

言いましたのは,実は此の作品は短編小説集であると同時に作品中の随処に彼の文学的及び、思想的見解

を開陳しておりまして,随筆集の感じもするからであります.

 先ずtitle storyの‘The Daring Y㎝ng Man on the Flying Trapeze”では第一章のSleep

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那知上。ウィリアム・サローヤン論(1) 35

が夢の描写で意識の流れ式に述べられます.手法としては目新しいものではなく既にJ.Joyceに

その典型の見られるものであります力劉,Saroyanは此のSleepで第二章Wakefulロessへの導入

的役割として青年の意識下の問題が神秘的なまとまりの方へと変動する様でありながら不安定に動揺す

る精神状態であることを巧みに表現しています.次いで第二章では,文学を志す無一文の青年が夢かろ

さめ空腹のまま街をさまよい「生存許可願09」を書かなければならないと考えます.救世軍に行って食

物にありつくのは自分の生活は自分一人のものであるという事実を破壊することになると思うが故にそ

れは出来ず,職業紹介所をニケ所訪問するもいずれも適当にことわられるのであります.そして道で拾

った1セント銅貨を持ち帰ってピカピカになる進みがき,そしてr眠るより他にしかたがない」と考え

ながら恰も空中ブランコに乗っているかの様に昇天する話であります.

 「生存許可願Jを書くということは現実の生活に於て自己を認めてもらいたいこと,つまり生活の維

持が可能になる様にと願うことであります.後のThe Human Comedyでr生きる」ということの

素晴しさを幼児Ulyssesに具現している様に,生も又死と同様に人生の問題点であるはずです.しかし

あわただしく展開していくアメリカ文明の世界がその幸福の基盤を物質文化の方向に求めがちであり,

それに加えて経済不況に打ちのめされて,青年の願いが拒否されるということは,幸福は精神文化に基

ずくべきであると考え,人間生活の「生きる」というまことに素朴であると同時に永遠性を秘めた問題

に迫ろうとする青年詩人が拒否されることであります.換言すれば,すべて生ある者はやがて必ず死す

べき者なのに,その短かい生涯の間に人間らしく生き,民族のへだたりもなく人間として愛し合うこと

を願う㈲細やかな一詩人の願いがもろくも瓦解することなのであります.そしてそれは社会機構の矛盾

を表面に取上げる態度ではないけれども多分に現実の社会に不満と物質文化に対する反感面があるので

あって,眠るが如く昇天する青年の意識を描写した次の結果は:

 Then swiftly,neatly,with the grace of the young man on the trapeze,he was

gone from his body.For an etemal moment he was all things at once:the bird,

the fish,the rodent,the reptile,and man.An ocean of print undulated endlessly

aコd darkly before him.The city bumed.The herded crowd rioted.The earth circled

ar職y,and knowing that he did so,he turned his lost face to the empty sky and

becamedreamless,malive,perfect.

 一見人間社会への絶望を暗示しているものと受取れるのであり,拒否された詩人の心のニヒルで反社

会的な面が表現されたものと考えられます.しかし此処にもう一つ問題とすべきことがあります.それ

は磨きあげた1セント銅:貨を,朦朧となった意識の中でみつめながら “I ought first at least to

give the coin to some child.A child could buy any number of things with a penny.’1

と考えることであります.実は此の問題の方が後のMy Name Is AramやThe Human Comedy

に於て見られるinnocentな子供や平凡だが愛すべき人間へのSaroyanの希望と愛情と救いとに発

展して行くものであり,sophisticatedな大人に対する失望の反面であります.しかしこれは此の

“TheDaringYoungMan on the FlyingTrapese”に関する限り全く微細なものであって,気

付かずに通り過ぎてしまう程のものなのであります.

⊇.Y.M.には又,S.Andersonが好んで取扱った素材‘ζよく似たものに“Seventeen”があり

ます.Andersonは外界つまり機械文明と人間の内面の意識過剰との両面で抑圧される人間の不安と歪

みの問題に焦点をあてて人間性を追求しました.Anderson自身の言葉を陵えばgrotesqueo鴎になら

ざるをえない姿を描いたのであります.そしてAnderson自身はFreudを読んだことはないと言っ

ておりますがIrving Howeも認めている様に的それはとうてい信じられないことであります.そし

てFreudの理論を小説の形で表現したD.H.LawrenceにAndersonはFreud以上に親近感を抱いていました鋤.

 しかしSaroyanの‘Sevent㏄n”は素材はAndersonのに似ていますか,本質的な点での相異が

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36 福島大学学芸学部論集第15号 1964-3

見られます.それはsexに対する考え方の相異であります.AndergonはPuritanismから解放さ

れたものとしてsexを取扱いました.勿論,Lawrenceに於ける様なsexロal regenerationの考

え通りではなく,地域社会から自己を解放するというアメリカ人的な関心によって変色されておりまし

た⑳. しかし一応AndersonではsexがFreud的にLawence的に扱われたのでした・一方Saroyanも“Seventeen”に関する限り表面的にはFreud的な考えを見せている面もあります:

 Love was purely physica1;…Strength accumulated in man and had to be released.

……nne woman was the same as another;it was the function,the act that was

inevitable働. 又その少し後では:a desire for the universe,a desire to attack and

violate it,to make his reality specific,to establish his presence on eartho3・ と非需

に肯定的で当然のものと考えている面があります.しかし反面では主人公の17才の少年‘ζChinatown

のちっぽけな宿屋で実際に体験させてしまい,そしてそれを“rotten”と感じさせ“the true ugli-

ness of it”と判断させているのであります.そして饒舌な説明と描写はあっても,悩んでいた時と事

後の心理とを比較して作者がどちらに重点を置いたかを考えると,そこにSaroyanの二面性がある様

に思えます.これはSaroyan自身に内包する矛盾1ζよるものと考えられるのであります.

 此の矛盾の説明として先ずSaroyanがFreudではなくC.GJungの心理学により共鳴し・そこから得るところが多かったと思われる。・点から考えて,Anderson的ではなく人間種族という抽象的

な次元でのsexの肯定の様に考えられるのであります.次にはSaroyanが幼くしてPresbyterian

教会に通ってそこから受けた宗教的な影響が彼の心のすみで,特に正常な結婚によらないsexに対す

る否定的な見解を生んだものと考えられるのであります.

 さて此の“Seventeen”をsexを通しての内面的苦悩と人間性の追求を試みた作品と考えると以上

の様に矛盾する作家の態度に出会い,大袈裟な言葉が空廻りしている感じがするのであります.成功作

とは思われません.むしろSaroyanとしてはsexの背後にある虚無感を感じとって,それを結末にして

人生の哀感を歌いあげたのだと考えられます.そう見ると少しは良く見えるのであります.“Lo▼e”と

いう短編も後者の観点から評価すべきもので,変転する人世にあって相手が売春婦ではあっても清純な

愛情を覚える一瞬を巧みに捕えている点を買うべきなのでありましよう.

 Saroyanの興味はsexに比重が置かれていたわけではなく,“Myself upon the Earth”の中

では次の様に表現しています:

 I am interested only in man.Life I love,and before death I am humble.I cannot

fear death because it is purely physica1.Is it nQt true・・一that in my flesh is assem-

bled all the past of㎜7肉 I am a story-teller,and I have but a single story一鎖m.I want to tell this simple

story in my own way,forgetting the rules of rhetoric,the tricks of composition.ω

 以上のことからD.Y.M.当時のSaroyanには三つの要素が混合していたと言えます・第一は・・she Daring Yomg Man on the Flying Trapeze”に見られる様なsophisticatedな大人と

その物質文化の世界に背向する態度があげられます.それは不幸にも民族の争いから祖国を失い多くの

同胞を失ったアルメニア人の悲哀や,資本主義の発達に伴って必然的に生れた下層階級の実燕を皮膚で

実感したことから生れた叫び声であります.又直接的には例の経済不況の体験もあったことでありまし

ょう.「誰だって年がら年中貧乏続きじゃやってゆかれません.芸術なんてくそくらえという様な気持

にもなります.⑳」という言葉は芸術だけに向って吐かれた言葉ではないのであります.この要素は実

は次に述べる第二第三の要素がやがてMy Name Is AramやThe Human Comedyで一応の完成

を見せた後で,再びSaroyanが現実に振返った時に考え悩みそして前期の善意の思想だけからは如何

ともなし鑑い壁に直面した時に又新しい姿をとってR㏄k WagramやLaughing Matter等で出て

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邪知上:ウィリアム・サローヤン論(1) 37

来るものと何らかの関連があると考えられます.

 第二の要素は20世紀初頭以来入って来た新しい心理学による影響の面であります.1909年にFreudが

Clark大学創立20周年記念にあたって主賓として講義をするよう招待されたのをはじめとしてC.G.

Jungも又講演を依頼されましたoo.そして1915年以後は合衆国に於て新しい心理学が浸透し,文芸雑

誌は言うに及ばず新聞までもが全ベージをさかない迄も少くともそれに関する記事をしばしば載せ,説

教壇からさえも一応のほめ言葉を貰ったのであります四.特にJungの集団的無意識の考えはSaroyan

にとって相当の共鳴を呼んだのではないかと思われるのであります〔此の点に関しては元田脩一氏の解

説ooに得るところが多かった.〕.A.A.Robackによりますと,Jungの此の考えに一般の心理学

者は大した興味をもっていなかったようですが,主に半科学の世界,宗教,文学などの世界では高く評

価されたというのでありますOO.

 要約しますと,人間の意識を大きく意識の世界と無意識の世界に分けるのでありますが,Jungの特

徴はその無意識の分野を更に個人的無意識と集団的無意識に二分する点であります.前者は個人が生涯

の間に得る反応適合の体系であり,後者は人類の持つ無意識とでも言いましようか,それは人類発生以

来の一切の人間体験の沈澱であって各個人の脳構造の中に常に再生してくるもので人類発展の巨大な精

神的遺産であるというのであります.そして此の集団的無想識に到達せんと努力することが各個人の精

神的発達を意味するのであり,個人的無意識をも含めた個人の意識の世界の1-Complexからの脱却を

意味するのであります.

 D.Y.M.中に表明されているものを見ますと,今はなき父親が現在自分と共に生きていて.そして自

分の肉体には人間のすべての過去が集積しているのだという、思想鰍生・死・時を超越してすべてのも

のの中で最も広大なものはegoであり,それは人間性の根源であり,そこからすべてのものが生れる

のだ鱒,とか,眠りの中に於てのみ我々は自分が生きていることを知りうるのであり,その様なhvi蝕g

deathに於てのみ自分自身やはるかな大地や神や聖者やいろいろな我々の祖先や遠い太古の実体に出会

うのであり,そこでは幾世紀もの歳月が消滅して瞬間となり,広大な空間が微細な手に触れうる永遠の

原子になるのだとする思想6.等はSaroyanがJungを読んだという客観的な資料は例え無くても明白

に類似性があります.そして先にAndersonに関連して述べました様にsexに直接的な興味が見出さ

れたのではなくて,人間性の根源的なものと彼が考えたものから人間が生れて来ること,従って人間自

体を追求する事が彼の関心事であり,真理とは人間自体であり時々刻々に於ける人間そのものであり,

永遠に続く人間そのものである。りと言うのであります.こう考えると“The Earth,Day,Night♂

Self”や“And Man”の結末も,個六の事件とは離れて,人間が生れるということや人間存在への驚

嘆を表わしているのであります.しかし此の章の始めでも随筆集の感じがすると言いました様に,此等

の見解が文学作品として作品中に巧みに昇華していることとは別間題であることをここで附言しておか

なければなりません.

 人間にのみ興味があると言うSaroyanが示した文学作品としての良さを見せているのは“The

Daring Y㎝ng Man on the Flying Tmpeze”や“Snake”“Laughter”等であります.

 第三の要素は,第一の背向の姿勢とは逆のもので,第二のJungの思想に舵を取られて向つたと思わ

れる一つの方向であります.現実の機械文明に信を置かず無一文の文学青年に死を与え,r死謹美しい旅

の目的地が他‘ζありましょうか.oo」と考えるSaroyanが,やがてあの素朴にしてhumorとpathos

に満ちたMy Name Is Aramや善意あふれるThe Human Comedyの世界の訓造に向う要素であ

ります.死ぬ前に拾った1セント銅貨を誰か子供にやろうとする気持に関して前述した様に,Saroyan

は絶望を感ずるsophisticatedな世界にあっても,まだ人間本来の美しいもの,素朴なものを持つ幾

多の人間への愛情が心の奥深くにあって,徹底的に反社会的な姿勢をとれなかったのだと思います.人

間が矛盾したことを言う権利を認めるOOとも彼自身言っておりますのも,彼の内面的矛盾を吐露したも

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38 福島大学学芸学部論集第15号 1964-3

のでありましよう.そして………I am trying to restore man to his natural dignity and

gentleness.I want to restore man to himself.一一・I want to Iift him from the

nig趾mare of history to the calm dream of his own sou1,the true chronicle of his

kindω.の中‘ζ本来的なinnocentな人間像への愛情と共に積極的な姿勢をも見取ることが出来るの

であります.又人聞にのみ興味があると言う心中にはI Iove and worship life.living senses,

functioning minds.一一And Iife is to be created by every man who has the breath

of God within him;・・一And the living of this moment can never be effaced.It is

beyond timeO帥.の様に生への明確な態度も見られるのです.そして:

 I do noしbelieve in races.I do not believe in governments. I see life as one life

at one time,so many millions simultaneously,all over the earth.Babies who have

not yet been taught to speak any language are the only race of the earth, the race

of man:all the rest is pretense,what we call civilization,hatred,fear,desire for

strength……We grow up and we leam the words of a Ianguage and see the universe

through the Ianguage we know,we do not see it through all languages or through no

1‘mguage at a11,through siIence,for example…一調

 上の引用からも,Jmgの集団的無意識を考慮に入れた上でのSaroyanのもつ人間の本来的な姿の

意味がうかがわれます.上に続く部分で彼は「何よりも先ず普通的な言葉を語りたい.人間の心を.人

間のまだ描かれていない部分を,永遠にしてすべての民族に共通なものを物語りたい.筋と述べてい

るのであります.これは一種のcosmopolitanismとも見なされるものでして,sophisticatedな現

実に対する背向の態度から一つの望ましい姿としてのinn㏄entな人間像を考えることによって一脈

の希望を見出そうと努めている姿であり,やがてThe Human Comedyで「敵は人間じゃないと思

う.もしそうなら僕自身が僕の敵になる.世界中の人々は一人の人間のようなものなのだ.お互を憎め

ば自分自身を憎むことになる.人は他の者を憎むことは出来ないのだ一いつも自分自身を憎むことに

なるからだ.働」というSaroyan特有の善意に満ちたhumanismへと発展して行くものであります.

以上Saroyanの処女作D.Y.M.を概観したのですが,幾つか大変優れた実験的な短編もあって

それが世評を博した事にもなったわけですが,一方随処に文学的見解を開陳していることは既述の通り

でして,それらが此の処女作中で完全に血肉となっているものは少なく,、思想が露出していて文学的に

は荒けずりであります.

w

 処女作P.」エ.M.の出版から五年の歳月が流れて前期の傑作の一つであるMy Name Is Aram

(1940)が世に出ます.此れはSaroyan自身がDedicationで述べております様に優しい良い時代

であった少年時代(7才から17才迄のFresnOに住んでいた時代)を素材にした14の短編を納めた短編

集であります.そして処女作の出版後五年の間に“Esquire”“The Atlantic Monthly”“The

London Evening Standard”“Hairenik”“Harper’s”“Collier’s Story川‘The Coast”“The New

Yorker”に発表されたものをまとめたものであります.“The Pomegmnate Trees”は1935年に書

いたものであり.初版本の第一話になっているとは知らなかった鱒と後年Saroyanは言っております.

 さて此の五年間に彼は10程の短編集や劇作を発表しておりまして,ようやく此の間に彼独自の分野

が明確になって来ました.前章に於て三つの要素を考察したのでありますが,第一の要素であった反社

会的な面は次第に影をひそめて来ました.それは処女作の成功によってもたらされた名声と金のせい

もあったことと思われます. しかし本質的には,Saroy鋤には,望ましくないと同時に無価値な

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那知上:ウィリアム・サローヤン諭(1) 39

sophisticatedな人々や機械文明の社会に背を向ける姿勢に徹することが出来ない程素晴しくも又美し

い人間の一面を見る眼があったためでありましよう.それは第三の要素で考えたことでした.人間にの

み興味があり,人間のまだ描かれていない部分を物語りたいというSaroyanには悪的な要素を取上げ

て来たこれ迄の多くの文学作品に対する一種のレジスタンスやアメリカ人の書くものを革新してやろう

という意図もありました鱒.そして多分に人間の善い処を書くことによって背向の姿勢からの脱出を試

みたのではないでしょうか.

 そうすると此処で問題が生じます.それは人間の善い美しいところを書こうとする場合・多少とも人

間の悪的な要素との対照なしに表現することは,ワサビの効かない刺身の様になるのではないかという

ことであります.本質的には文学は人間の精神活動の所産であり人間の精神活動に働きかけるものであ

りますから,善く美しいもの韻我々の精神に何らかの感動を与える以上,それを描く作品が存在しない

理由はありません.しかし善を描くということが倫理書や,宗教的な伝導書を書くことであれば問題は

別であります.現代人で文学作品に接する場合直接思想家や宗教家に接する場合と同じ精神状態の者は

ないでありましよう.小説がfictionであることは百も承知している筈であります.そこに善を描く

場合の困難があります.

 Saroyanの処女作には客観的にみて「表現したいもの」に関する限り幾つかの類型があったわけで

すが,それらを表現する小説作法としては彼自身次の三点を考えておりました.

  (1) Do not pay any attent ion to the ru les other peoPle副【e.

  {2} Forget Edgar Allan P㏄and O.Henry and write the kind of gtorieg you feel

    likewriting.

  {3) Lea工n to typewτite,釧D you can turn out stories as fast as Zane Grey.的

Saroyanは確実に此等の自分で立てた規則を守っております.従来の手法や形態にとらわれずに.自

らの手法で文体も日常的な口語表現を巧みに駆使しています.dialogigtとしてはHemingway以上

ではなかろうかとも評されております鱒.しかし問題は彼独得の此の手法でもって,処女作以後の作品

にどの様な傾向の展開を示して来たかということであります.恩想的には人間のまだ描かれていない善

い面を描こうという意欲的な点は明確になって来たのでありますから,それがどの様な形態で表現され

るようになって来たかであります.

 その一つに寓話的傾向があります.処女作中でも既に“The Shepherd’s Daughter”の様な作品淋

見受けられました.説話的とまでは言われませんが,それぞれのepisodeに思いを託したもので,

1941年にはSaroyan’s Fablesを出しています.しかし此等は各episodeの面白さとhumorの点で

の魅力はあっても,成功作の一つに列席するものではありません.MyName Is Aramの中でも

“01d Country Advice to the American Traveler”は此の傾向のもので,他の13編とは少し異

質であります.

 もう一つの傾向は処女作中では“Laughter’1ζ見られたfantasiticな童話的傾向であります.俗

世間的にはまだげがれのないinnocentな子供の心の中の素朴で純な気持にSaroyanは探し求める

人間像の一断片を見,人間の心の奥深くにある善性を信じたいと願う気持と結びついてそれは次第に発

展して来ました.此の傾向が頃編集My Name Is Aramで成功したのであると考えます.

 第11話“Looomotive38,the Ojibway”はふらりと町にやって来た一人のIndianがたまたま大

金持で,乗って来た・バが死んだために豪華なPackard一を買いAramに運転させて近郊を乗廻

して楽しみ.或る日Aramにことわりもなく町を去って行く夢の様な童話的短編であります.現実の

Indianの生活は追いつめられた最低生活でありますが,Saroyanは彼等に金があった場合を想定し

て,彼等にも人間としての温かい心,思いやり,それにhumorもあるのであって,とかく実生活の表

面的な姿から価値判断したがる世の中にあって,人種・貧富等に惑わされず広い意味での人間の素晴しさ

Page 8: ウィリアム・サロ⊥ヤソ論(1)W.Saroyanは1908年8月31日アルメニア系移民の子としてCalifomiaのFresnoに生れまし た.アルメニア人である事は当然のことながら彼個人にも又作品の上にも大きな作用をしています・

40 福島大学学芸学部論集第15号 1964-3

を素直に認め,その良さの中に人間生活の美と永遠性を求めようと試みたのでありましよう.それがよ

うやく作品の文学性の中に昇華して来たと認められるのであります.

 又子供の心理を巧みに捕えて表現している作品には第4話“One of Our Future p㏄ts,You

Might Say”,第6話“A Nice Old-Fashioned Roman弓e,wth Love Lyrics and Everything”,

第8話“ThePresbyterianChoirSingers”,第9話“TheCircu3”等があり,中でも第6話と第

9話は優れています.貧しい人々の住んでいる地区の恵まれない俗に悪童と呼ばれる子供達にも美しい

詩的な心が息づいており,子供が先生によく理解して貰えない時の子供の心理など巧みに表現されてい

ます.特に第9話の“The Circus”は人間的な温かみのある校長と二人のやんちゃな子供とのhumor

に満ちた雰囲気が作品に詩情をかもし出しています.SaroyanはThe Human Comedyの第一章で

も幼児Ulyssesの心情を“一・he meant what no man can guesg and no chiId can remember

tote11.働”と書いています.“TheCircus”でも同様に,充分注意深くしなければ見逃してしまう様

な生活の中の一瞬の美しさを書いたのであります.処女作に於て観念的に把握されていたものが昇華し

た好一編であります.

 第3話の“The Pomegranate Trees田印”や第5話の“The Fifty-Yard Dash”は実現不可能な

夢の様な事を不可能とは思わずに抱いて,その実現に希望をかける話しでありますが,自然を美化し詩

化する手法や少年を中心とした人間関係のほほえましさと共に,「矛盾したことを言う人間の権利」を

認めている作者としては,ここにも又愛すべき人間像を見出したのでありましよう.

第1話“TheSu㎜erofthe脱autifu1恥ite Hor鈴”は飢射れど柾直なアルメニア人の家庭の少年Aramが少し頭がおかしいと世間では思われている従兄のMouradの盗で来た白馬に

乗って楽しむ話しでありますが,Mouradの様に上手に乗りたい気持や,周囲の人が少年達を盗人扱に

しない温かい気持が対話の巧みさやhumorを混えて描かれています.客観的には悪い事や困った事が

当然内在する事件の筈なのはSaroyanはよく承知の上で創作していることは後年書いた次の引用文で

充分理解出来るのであります.

 I decided very early to love my family,and to see in each of its members something

rare and good as well ag the miserable and painful things tkat were obvious.I do not

think that in writing of them I ever lied,I merely cho3e to notice in them the

things I cherished鋤d preferred,Imd to refer to the things I didn’t cherish with

humor and charity.The writer in the end creates his family,his nation,his culture

and worth,and I believe that I have more effectiveIy than any other member of the

Saroyan famiIy created that family,which appear3all through my writing but

especially in the gmall book calIed My Name Is Aram鱒.

 そしてhumorについては更‘ζ「humorが無ければそこには希望は生れないのであり,人間は希望

がなくては生きられないのは足もとに大地が無くては生きて行けないのと同じである.60」と言ってお

ります.

MyN鋤IsAr㎜の中で榊こ優れてし・るのは第鷹の“TheThree Swi㎜ers and theGrocer from Yale”であります.Aramを含む三人の子供連が春まだ早い四月の成る日,∫Ilに泳ぎに

行き,帰りに食料品店に立寄って豆の缶詰とパンを食べながら主人と話しをします.その主人はYale

大学出のインテリなのですが世評では気狂いだとされていました.一ヶ月後再び三人が泳ぎの帰りに立

寄った時には別の人が店をやっていたという話しであります.Yale大学出で詩人肌の主人は売るより

は呉れてしまう方が多いのであります.詩人が実生活に於て生きる場合の問題点は“The Daring

Yoqng Man on the Flying Trapeze”でも見られました様に,人間を始めすべてのものの本質を求

める詩人と現実の生活との間の溝であります.多少大袈裟な言葉を使えばそれは詩人の心の中の葛藤を

生じます.そして現代的な意味での危機感とは原因や規模の面での違いはあっても,人間の生き方,永

Page 9: ウィリアム・サロ⊥ヤソ論(1)W.Saroyanは1908年8月31日アルメニア系移民の子としてCalifomiaのFresnoに生れまし た.アルメニア人である事は当然のことながら彼個人にも又作品の上にも大きな作用をしています・

邪知上  ウィリアム・サローヤン論(1) 41

遠性を追求するという次元では同じであります.此の様に考えると同時代のL㏄tGenerationの

作家達とは異なる道を歩んでいるSaroy孤の文学には現代的危機感あふれる作品から生れる様な感動

はなくとも又別の感動があるのを認めざるを得ないのであります.

 時として此の童話的善の表現が鼻につくこともありましようが,Andersonの言う様なgrotesque

にならざるをえない此の現実にあって「他人が何を信じようとその人間の人柄が善良である限りその人

間に対し悪意を持たない.軌という思想が明確にSaroyanの身についたものとなって来て,例え社会

の底辺的な境遇の人間であろうともそこに美しい人間生活の価値を見出そうと努める真剣なしかも温か

く新鮮な態度が発見出来るのであります.Saroyanは主人公Aramに限りない愛情を抱いており,目

分の子供にもAramという名前をつけたのであります勧.そして此の物語は前章で考察した第三の要

素の発展から生れたものであり,処女作以来五年を経てそれがMy Name Is Aramの中に開花した

のであります.

 しかし別の観点から眺めた場合,ワサビの効かない刺身になる危険性があると前にも言いました様に,

此の…濱oyanの世界は,人間世界のsophisticatedな悪的要素を如何にSaroyanがhumorとckarity

で取上げても.一種の逃避の世界であるとも考えられるのであって,現実把握の甘さがあるとも見ら

れるのであります.My Name Is Ara雌で見事にかなでたf{mtasiticで詩情豊かな人間讃歌の蔭

に,Saroyanが将来当面すべき問題点が内包されているとすれば此の点に他ならないのであります.

V

 処女作D.Y.M.の成功.劇作The Time of Your LifeのPulitzer賞受賞(Saroyanは

“Co㎜ercehasnorighttomtronize訂t.”と辞退したことは有名であります),MyN㎜eIgAramの好評,それからC誰ol Marcusとの結婚(1943),The Human Comedyの出版(1943)

へと続く時代はSaroyanにとって正に人生の春とも言うべき時代であったことでしょう.“the good

old days of poetry and youth in the world6⇒”であったSaroyanの幼少時代の“Pleasant

memories6・”は彼にとって創作材料の宝庫でもありました.故郷Fresnoの町やその附近,又そこに

生活していた人々にSaroyanの筆が向くとその物語は全く生気を帯びて来るのであります.“Going

Home”にみられるsentimentalとも言える程の哀感も,“The Great Leapfrog Contest”の子供

連も,心から愛するに足る善さを見出す心の準備が完全に出来ていたからこそ描けたものなのでありま

しよう.

 The Hu㎜ComedyはSaroyanが初めて長編らしい試みをした小説であります田.これを長編と考えるか短編集と考えるかは問題があるのでありますが,Saroyanとしては序文で“{m especia11y

good gtory,the very best I might ever be able to write”にしたいと望んで書いたことから

も一貫したstoryをめざしていた様です.構成の点ではS.Ander9αnのWinesburg,Ohioより

はまとまりを見せていますがHemingway程の構成力は勿論認められません.それでも各章の配列に

伏線的な表現に又劇的効果をあげるために相当の努力を払っている点は認められるので私は長編と考え

ます50.

 戦時下の社会が背景になっておりまして,Saroyanの故郷Fresnoと思われるCaIifomia州のIthacaという架空の町でMacauley一家を中心に物語が展開します.一家は長男Marcusが出征中

で・未亡人の母,長女Beth、二男Homer,三男Ulysses(幼児)であります.昼は高校に通い夜は

電報配達をして一家の生計を助ける14才の少年Homerが次第に世の中の種々な姿に接し成長して行

く過程が描かれます.彼の配達する戦死の電報は人々に死の悲しみを与え,彼自身も夢にまでみて苦痛

を覚えます.しかし彼はその中で自分の無知を知り,生活を通して一層努力し励んで行く前向きで善意

の少年であります.その間電報局長Spangler氏やIthaca High SchoolのHicks先生をはじめ心

豊かな人々が登場します.やがて兄㎞cusの戦死の電報が入電します.SpImgler氏は輪なげをやろ

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42 福島大学学芸学部論集第15号 1964-3

うとHomerを誘い出し,兄の死を忘れさせようとします.Marcurの哉友で孤児のTobeyが負傷し

て帰国しIthacaの町に来ます.Macauley一家は皆な暖かく彼を迎えるという筋であります・

 此のThe Human Comedyに社会機構や政治や哉争に目を向けて・その面から追求する姿勢のな

いのに不満を感ずる人もありましょうが,処女作以来「人間にのみ興味」を抱き,人間の精神面での姿

をとらえようと努めて来たSaroyanにとっては・その様な不満も結果的にはsophisticatedな世界

への注目をうながしたことになり,直接的な意図以外の望ましいことと思うでありましよう・しかし

Saroyanには更にもっと積極的な面があるのでして・The Time of Your Lifeの巻頭言では

‘圧)iscover in all things that which shineg an〔1is beyond cormption. Encourage virtue

inw㎞teverheartitmayhavebeendrivenint・secrecyands・rr・wbythe血ame狐dterroroftheworld切.”と言っております.従ってピストル強盗を登場させてもSPImgler氏の善

意を理解させることにな:るのであります。又老電信士Groganには何のためらいもなく善の終局的勝

利を信じさせているのであります.

 さて此のThe Human Comed芝では陸軍省からの戦死の電報をはじめGro9Imの死・兄Ma「c聡

の戦死等数多くの死の訪れが描かれています.そしてそれは幼ないUlyssesをはじめ街の少年達の新

鮮な生きる姿と対照されています.生と死のどちらか一方により重点が置かれているとは考えられませ

ん.此の世に静止することのない時の流れがある限り生と死は兄弟の様なものだと考えるのでありま

す匂ゆ.確かに人世いたるところに生と死が共に渦巻いています・Macauley夫人は亡き夫のことを娘に

次の様に聞かせます:r私達が生きていてお父さんを思い出す限り・此の世のどんなものでも私達から

お父さんを奪うことは出来ないのだよ.……お父さんは死んだのではないのだよ.お前が生きているの

だからね.oo」 兄の死に直面して言いようのない悲しさと淋しさと憤りの気持のHomerに対しては,

SpImgler氏が愛は永遠であり憎しみは刻λと消えて行くものであることoo,兄を愛する心の中に兄は

生き続けること剛を語ります.そして散歩に連れ出し,輪なげをやるのであります.

 此の様にSaroyImは愛する人の心の中に残っている限り人は死ぬことはないと考えるのであり,何

の蹄踏もなく愛と善意を信じられる境地を見せているのであります.死の直接的な悲しさについては戦

死の電報を破ることであり,輪なげをして一時的にもせよ忘れろと言うのであります.

 While a man lives it is better for him to avoid purposeful involvement in death・

foτthe inevitable involvement is always more than enough for him to puしup with or

to put to use in the style with which he lives and works.働

 上の引用文でもそれは明白であります.アルメニア系のSaroyanが到達した一種東洋的諦篠にも似

た思想であります.

 しかし愛する者の心に生き残ったとしてもその人にも死が訪れたらどうなるのでしょう.無に帰する

ことになってしまうのでしょうか.ここで前に考察した集団的無意識の思想が思い浮ぶのであります.

するとそこでは個々の人間を超越した根元的な人間像を頭に置いているのが解り,“TheDark Sea噛

に見られる様な,そこから生れて来てそこへ帰って行く非存在的な世界をSaroyanが考えているのに

気づくのであります.

 さて話をもとにもどしますと,一方では多くの愛すべき人達がおり,ごく普通の庶民性あふれる生の

現実があります.TheHumanComed芝では前述の如く生と死とを表裏の如く扱っているのでして・

死だけに強調があるのではありません.もしそうなら人間は死ぬために生れて来ることになり,実に

Pessimigticになるのでして,それはSaroyanの意図するものと正反対のものであります・Saroyan

は此の様な人世を生と死の共演するdramaであり,世界はその舞台であり劇場であると考えるのであり

ます.そして此の物語が身近などこにでも起りうる事件の連続であるが故に一層普遍性を帯びるとも考

えられ,Saroyanがr人間喜劇」と名づけた意味もその辺にあると思うのであります64・

 しかしThe Human ComedyにはMy Naユne Is Aramと違って多少善意の押売りや教訓的な面

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邪知上:ウィリアム・サローヤン論(1) 43

が見られるという点で難点がありますが,それにしてもMy Name Is Aramに次ぐ優れた作品であ

ります.

w 結婚とThe Human Comedyの出版の翌年1944年には短編集Dear Babyを発表し妻に献じており

ます.ここで「古き良き時代」の“PleasImt memories”という泉から流れ出た今迄の作品の主人公

達を眺めてみますと,Aram GaroghlanianからHomer Macauleyへと成長し,続いて1946年の長

編The Adventure of wesley Jacksonになりますと18才の若い兵隊になるのであります.そろそ

ろ泉がかれて来た感じがするのであります.私はここ迄を始めにも言いました様に前期と考えるのであ

ります.The Adventure of Wesley Jackgon69でSaroyanはWesleyに結婚させておりますが,

My Naエne Is AramやThe Human Comedy以上に発展した姿勢は見せていないのであります.

 馳royanはそれから三年後の1949年にCarolと離婚いたします.そして再び現実に振返った時,次

の長編R㏄k Wagramが生れるのでありますが,それからは次の機会に考察するつもりでありま

す.(1963年11月)

註 (1〕高垣松雄「アメリカ文学の歴史的背景」P132

  〔2,ib.,P175ト176

  ⑧The Whole Voyald;A Writer’s D㏄laratioo,P10。(Faber)

  俗)The William Saroyan Reader;TheBicycle Rider in Beverly Hills,P470-471,なお

   Andersonの父が養鶏をやった話はS.Anderson;The Triumph of the Eg9;The Eg9を参照

   のこと.

  ⑤ib.,P487

  〔6}ib.,P488

  ωThe Whole Voyald;The Home of the Human Race,P22-29

  侶〕The Wjlliam SaroyaE Reader;The Bicycie Rider in Be▽erly Hills,P467棚

  ⑨ib.,The Return to the Pomegranate Tr㏄s,P371

  ⑳The Whole Voyald;A Writer’s D㏄1aration,P14

  ⑳ ib., P16

  吻R.B.West;竜口・大橋訳「アメリカの短編小説」P工26

  ⑬The Whole Voyald;A Writer’s Declaration豊P16

  脚D.Y.M.;‘Myself upon the Earth”に於て“一一〇r if I felt incliPed.I couId writc

   likeJoh皿Dos Passos or William Faulkロer or James∫oyce.”と言っております.

  岡“An Application for Permission to Li▼e”

  0巳D.Y.M.;SeventyThoロsandAssyrians,P31-32(ModernLibraτy)

  砺ib.;Myself upon the Earth,P53

  G8S.Anderson;Winesburg,Ohio;The Book of theGrotesque

  Og Ir▽ing Howe;Sherwood Anderson,P179一・181

  包O ib.;P181

  ⑳ ib.;P192

  勧D.Y.M.;Seventeen,P143-144

  ωib.;P146

  ⑳cf.元田脩一「現代米英文学の方法と思潮」及び同氏註「The Daring Youロg Man on塊e Flying

   TraPeze」のIntroduction

  のD.Y.M.;Myself upon theEarth.P53

  舶ib.;P53

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44 福島大学学芸学部論集第15号 1964-3

“のib.;P65

¢8A.A.Roback;堀川。南共訳「アメリカ心理学史J P420-421

僻 ib.;P424

●O元田脩一註「The Daring Young Man on the Flying Trapeze and other stories」,

 1ロtroduction

鋤A.A.Roback;「アメリカ心理学史」P42卜427

働D.Y.M.;Myself upon tke Earth,P53

●ゆ ib.;P51-52

6◎ib.;The Daring Young Man on the Flying T餓peze.P18

騎ib.;And Man,P103

●◎ib.;Myself upon the Earth,P53

勧ib.;P54

鱒ib.;P54

斡ib.;P63一一磁

●O ib.;Seventy Thousand AssyriaPs,P32

釦ib.;P32

幽The Human Comedy,P216,(Faber)

働The Whole Voyald;The Return to the Pomegranate Tr㏄s,P162。なお私の使った

 Harcourt版では第3話になっています.

●◎ib.;A Writer’s D㏄1aratioP,P17

噸D.Y.M.;PrefacetotheFirstEdition鱒佐渡谷重信「アメリカ作家の作品とスタイル」

働The Human Comedy;pll

“915年後のThe Whole Voyald中に此の短編を懐古してThe Retum to the Pomegranate Treesと

 いう小編を書いています.

働TheWi11iamSaroyan Reade1;TheBicycleRider in BeverlyHills,P4720噸The Whole Voyald;A Writer’s Declaration,P19

勧My Name Is Aram;The Presbyterian Choir Singers,P130

勧The W.Saroyan Reader;TheBicycleRider in BeverlyHills,P472

団My Name Is Aram;The Pomegranate TreesナP35

6◎ib.;Dedication

匂9戦後「町の人気者」という題名の映画で日本でも上映されたことがあります.

6の一般には短編集とか挿話集と見る傾向が強い.

鋤The Time of Your Life and two other Plays,P83,(Faber)

6日D.Y.M.;Myself upon the Earth,P51

5g The Human Comedy;P22

6◎ib.;P217

舶のib.;P216

働The W.Saroyan Reader;TheBicycle Rider in Beverly HiHs,P475

6跨The Saroyan Specials,P96一・97(Harcourt)

64cf.倉橋健「現代アメリカ演劇論」

㈲此の作品に関しては大西ヂ明氏の論考があります;明治大学人文科学研究所紀要第二号「英文学研究J

 q954)