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スマナサーラ長老と読む - サンガ-samgha-スマナサーラ長老と読む がたり お釈迦様の物語「ジャータカ」 目次 第だい 1話 わ ルル鹿 しか

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  • スマナサーラ長老と読む

    お釈迦様の物語「ジャータカ」

    アルボムッレ・スマナサーラ[監修]藤本竜子[文]

    上杉久代/佐藤広基/佐藤桃子/笛岡法子/藤本ほなみ[絵]

  • 3 2

    はじめに

    アルボムッレ・スマナサーラ

     

    人ひとはどのように生いきればよいのでしょうか。正ただしい生いき方かたというものがあるのでしょ

    うか。道どう徳とくとはどのようなものでしょうか。道どう徳とくは本ほん当とうに必ひつ要ようなのでしょうか。

     

    自じ分ぶんの命いのちを守まもるために、自じ分ぶんの経けい済ざい状じょう況きょ

    うを安あん定ていさせるために、少

    しょう

    々しょう悪わるいことをして

    も仕し方かたがないのでしょうか。われわれは肉にくや魚さかなを食たべているから、魚さかなを殺ころすこと、動どう物ぶつ

    を殺ころすことは悪わるいことではないのではないでしょうか。農のう業ぎょ

    うを営いとなむならば、害がい虫ちゅ

    うを駆く除じょ

    しなくてはいけないのでしょうか。他たの生せい命めいのことを心しん配ぱいすると、人にん間げんは生いきづらくな

    るのではないでしょうか。……このように考かんがえると、たくさんジレンマが出でてきます。

     

    いま挙あげたような問もん題だいは、語かたっても語かたっても結けつ論ろんが出でません。ただややこしくなるだ

    けです。しかし、決きまりがないまま、あいまいで中

    ちゅう

    途と半はん端ぱに生いきることはできません。た

    だ流ながされている人じん生せいというのは、つまらないものです。

     

    むかしのインド文ぶん化かでは、人じん生せいについてジレンマばかりの問もん題だいを、こどもたちに物もの語

    がたり

    をとおして教おしえました。物もの語がた

    りは、教

    きょう

    育いく手しゅ段だんとしてとても優すぐれています。学まなぶ人ひとは物もの語がた

    りな

    ら喜よろこんで聞きこうとします。そして、なんの苦く労ろうもなく、覚おぼえてしまいます。とてもむず

    かしいことを、苦く労ろうせずにらくらくと学まなびたければ、学まなぶべき内ない容ようを物もの語がた

    りにのせる手しゅ段だん

    をとればうまくいきます。

     

    物もの語がた

    りとは、近きん年ねん、世せ界かいじゅうで人にん気きを博はくしたハリー・ポッターのお話はなしのようなもので

    す。そのストーリーがそのまま事じ実じつだと思おもったら困こまります。物もの語がた

    りでは、現げん実じつ的てきなキャラ

    も、ありえないキャラも、ありえないできごとも可か能のうです。肝かん心じんなことはこの物もの語がた

    りにの

    せてなにを教おしえているのか、ということです。仏ぶっ教きょ

    うのばあいも、教

    きょう

    育いく手しゅ段だんとして物もの語がた

    りを

    使し用ようしています。『ジャータカ』というのは、その物もの語がたり集しゅ

    うです。物もの語がた

    りは約やく五ごひ

    ゃくごじゅう

    五〇ありま

    す。主しゅ人じん公こうは王おうであったり、農のう民みんであったり、億おく万まん長ちょう者じゃであったり、召めし使つかいであったり、

    鳥とり、馬うま、象ぞう、鹿しかだったりもします。そして、主しゅ人じん公こうはいつでも正ただしい生いき方かたを代だい表ひょ

    うしま

    す。さまざまな側そく面めんから人じん生せい論ろんを語かたるのです。ただストレートに語かたるだけではなく、わ

    れわれにどう生いきればよいかという指し導どうもします。

  • 5 4

     

    動どう物ぶつが本ほん当とうに人にん間げんとしゃべったのか、竜りゅうが本ほん当とうに空そらを飛とんだのか、ちがう種しゅ類るいの動どう物ぶつ

    どうしは仲なかよくするのか、また互たがいの話はなし合あいはどんな言げん語ごで行おこなわれたのかなどなど

    の疑ぎ問もんは、物もの語がたり世せ界かいには関かん係けいありません。また、世せ間けんにある物もの語がた

    りのばあいは、読よんで楽たの

    しむことだけがねらいです。物もの語がた

    りを読よむこどもを育そだてるべきであるという義ぎ務む感かんはあり

    ません。しかし、仏ぶっ教きょ

    うの物もの語がた

    りは、楽たのしむことだけを目もく的てきとする世せ間けん話ばな

    しではありません。

    こどもにもおとなにも必ひつ要よう不ふ可か欠けつな正ただしい生いき方かたを教おしえるものであり、楽たのしく学まなぶ方ほう法ほうで

    もあります。

     

    ふつうにしゃべるのはそれほどむずかしくありません。しかし、物もの語がた

    りを語かたるばあいは

    話わ術じゅ

    つが必ひつ要ようです。書かくばあいも同おなじです。物もの語がた

    りを書かくには、優すぐれた言げん語ご能のう力りょ

    くが必ひつ要ようにな

    ります。わたしは何なん年ねんもかけていろいろなテーマでみな様さまにお話はなししてきました。しか

    し、仏ぶっ教きょ

    うの世せ界かいで大だい事じな教

    きょう

    育いく手しゅ段だんであった物もの語がた

    りを避さけてきました。その理り由ゆうは、自じ分ぶんの

    日に本ほん語ごの能のう力りょ

    くの問もん題だいです。経

    きょう

    典てんのエピソードなら紹

    しょう

    介かいしますが、無む理りをしてでもその内ない

    容ようを現げん実じつ的てきな話はなしに入いれ替かえてきました。物もの語がた

    りとなると、わけがちがいます。現げん実じつでない

    ものも、現げん実じつのように語かたらなくてはいけないのです。それはうそつきではありません。

    話わ術じゅ

    つです。

     

    ジャータカ物もの語がた

    りの大たい切せつさに、大おお阪さかの天あま野の陽よう子こさんが気きづいて、「なんとしてでも

    ジャータカ物もの語がた

    りの本ほんを作つくりたい」という思おもいで企き画かくを発はつ案あんしました。では、だれがテキ

    ストを書かきましょうかという問もん題だいが起おきたとき、わたしはだれよりも先さきに自じ分ぶんの名な前まえを

    削さく除じょしました。そして、その大だい事じな仕し事ごとを担になったのは、誓せい教きょう寺じの藤ふじ本もと竜りゅう子こさんです。

    何なん回かいも何なん回かいも書かきなおし、たいへん苦く労ろうをされたようです。それから物もの語がた

    りの意い味みを引ひき

    立たてるために、上うえ杉すぎ久ひさ代よさん、佐さ藤とう広ひろ基きさん、佐さ藤とう桃もも子こさん、笛ふえ岡おか法のり子こさん、藤ふじ本もとほな

    みさんが挿さし絵えを描かきました。これらの方かたによる仕し事ごとはすべて、わたしには想そう像ぞうすらでき

    ない管かん轄かつ外がいの能のう力りょ

    くです。出

    しゅっ

    版ぱんを引ひき受うけてくれた出

    しゅっ

    版ぱん社しゃ・株かぶ式しき会がい社しゃサンガのみな様さまも苦く

    労ろうを惜おしまず努ど力りょ

    くしてくれました。みな様さま、ありがとうございます。

  • スマナサーラ長老と読む お釈迦様の物語「ジャータカ」◆

    目次

    第だい1話わ 

    ルル鹿しか王おうの物もの語がたり 

    10

    (パーリ・ジャータカ第だい482)

    スマナサーラ長ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    人にん間げんって本ほん当とうはどんな生いきもの? 

    12

    第だい2話わ 

    黒くろ仙せん人にん物もの語がたり 

    56

    (パーリ・ジャータカ第だい440)

    スマナサーラ長ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    生いきる目もく的てきってなんでしょう? 

    58

    第だい3話わ 

    竜りゅうと金こん翅じ鳥ちょう 

    94

    (パーリ・ジャータカ第だい154)

    スマナサーラ長ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    きらいだと思おもう人ひとと仲なかよくなれる? 

    96

    第だい4話わ 

    カッカールの花はなかんむり 

    110

    (パーリ・ジャータカ第だい326)

    スマナサーラ長ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    行おこないは自じ分ぶんに返かえってきます 

    112

    第だい5話わ 

    猿さる王おうの物もの語がたり 

    134

    (パーリ・ジャータカ第だい407)

    スマナサーラ長ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    本ほん物もののリーダーって、どんな人ひと? 

    136

  • 第だい6話わ 

    よく学まなんだ子こ鹿じか 

    164

    (パーリ・ジャータカ第だい16)

    スマナサーラ長ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    どうして勉べん強きょ

    うするの? 

    166

    第だい7話わ 

    いけにえの羊ひつじ 

    180

    (パーリ・ジャータカ第だい18)

    スマナサーラ長ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    善よい行おこないと悪わるい行おこないとは? 

    182編集協力/川松佳緒里

    装  丁/大谷佳央 

  • 第だ い

    1話わ

    ルル鹿し か

    王お う

    の物も の

    語がた り

    (パーリ・ジャータカ第だい482)

    上うえ杉すぎ久ひさ代よ[絵

    え]

  • 13 12

    スマナサーラ長

    ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    人にん間げんって本ほん当とうはどんな生いきもの?

     

    みなさん、この世よでだれが立りっ派ぱだと思おもう? 

    人にん間げんですか? 

    ほかの生いきものですか?

     

    きっと、人にん間げんだと言いいたいでしょうが、その考かんがえはまちがいです。人にん間げんだってほかの

    生いきものだってみな同おなじです。みなに生いきる権けん利りが平

    びょう

    等どうにあります。仕し方かたがなく他たの生い

    きものを殺ころして食たべる生いきものもいます。ライオン、トラ、ピューマ、サメ、シャチな

    どの動どう物ぶつは植

    しょく

    物ぶつを食たべられません。仕し方かたがないのです。象ぞう、鹿しか、牛うし、ヤギなどの動どう物ぶつは

    肉にくを食たべられません。ライオンが草そう食しょ

    くのガゼル(ウシ科か)を餌え食じきにします。だからと

    いって、ライオンがガゼルよりえらいわけではないのです。

     

    人にん間げんは肉にくや魚さかなを食たべなくても生いきられます。しかし人にん間げんが、野や菜さいより肉にく魚さか

    なが大だい好こう物ぶつで

    あることも事じ実じつです。そして、人にん間げんは他たの動どう物ぶつを殺ころして食たべることは当あたりまえで正ただし

    いと思おもっています。人にん間げんのほうが他たの動どう物ぶつよりとても優すぐれていてえらいと思おもっています。

    ライオンに追おいかけられたらガゼルはにげ回まわりますが、人にん間げんに追おいかけられたらどんな

    動どう物ぶつもにげるところはないのです。かならず殺ころされます。人にん間げんは、食

    しょく

    料りょうと

    して必ひつ要ような量

    りょう

    以い上じょ

    うに生せい命めいを殺ころします。余あまったものは処しょ分ぶんします。しかも、他たの生せい命めいより自じ分ぶんがえらい

    といばります。

     

    このストーリーを読よむと、人にん間げんの本ほん当とうの姿すがたが見みえてきます。約やく束そくは平へい気きで破やぶる。自じ分ぶん

    がトクをするならばどんな悪わるさもする。人にん間げん同どう士しでも裏うら切ぎる。殺ころし合あいをする。怒おこる。

    人ひとを憎にくむ、うらむ。強ごう盗とうもする。人にん間げんから人にん間げんを守まもるために法ほう律りつ、裁さい判ばん、警けい察さつ、軍ぐん隊たい、

    セキュリティー、護ご身しん用よう具ぐなどなどが限かぎりなく必ひつ要ようになっています。それでも誘ゆう拐かい、い

    じめ、暴ぼう力りょ

    く、殺さつ人じんなどの犯はん罪ざいは毎まい日にちのように起おこる。では、どうすればよいのでしょう

    か。

     

    次つぎの物もの語がた

    りは、その答こたえです。

  • 15 14

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    う、立りっ派ぱな角つのは銀ぎん色いろに光ひかってかんむりのようです。紅

    くれないの

    口くち元もとは

    きゅっと引ひきしまり、目めは深ふかく静しずかな光ひかりをたたえていました。ルル

    鹿しか王おうが立たっている姿すがたは、威い厳げんに満みちていました。

     ルル鹿しか王おうは他ほかの鹿しかたちとははなれて、たった一ひと人りでくらしていま

    した。静しずけさが好すきだったからです。少すこしばかりのくだものを食たべ

    るほかは、虹にじ色いろのちょうが舞まうやわらかな草くさのしげみで、ひっそり

    と過すごしていました。

     深ふかい森もりがルル鹿しか王おうを守まもっていました。金こん色じきの美うつくしい鹿しかを、だれも

    ねらったりしないように。

             ***

     さて、バーラーナシーは国くにの都みやこ、人ひとのにぎわう大おおきな街まちでした。

    ルル鹿しか王おうの物もの語がたり

    パーリ・ジャータカ第だい482

     むかしむかしのまたむかし、インドのバーラーナシーで、ブラフ

    マダッタ王おうが国くにを治おさめていたときのお話はなしです。

     ガンガーという大おおきな河かわのほとり、ゆたかな木き

    ぎ々

    がしげり、花はな咲さ

    き乱みだれる森もりのなかに、鹿しかの王おう様さまがおりました。「ルル鹿しか王おう」と呼よば

    れていました。

     その堂どう々どうとした大おおきな体からだは金こん色じきで、木こもれ日びが当あたるときらきら

    とかがやきました。すらりとした足あしはうるしでみがきあげたかのよ

  • 17 16

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

     そう父ちち親おやは思おもいました。

    「この子こには苦くるしい勉べん強きょ

    うなんかは似に合あわない。むずかしい勉べん強きょ

    うなん

    かしたら、頭あたまがいたくなってしまう。けいこごとなんかすると、つ

    かれてしまう。わたしたちのかわいいマハーダナカちゃんは、歌うたっ

    たりおどったりして、毎まい日にち笑わらっていればいい」

     そう母はは親おやは思おもいました。

     そうしてマハーダナカは、食たべたり飲のんだりすること以い外がい、なに

    も覚おぼえず、毎まい日にち、ただあそんで大おおきくなってしまいました。

            ***

     マハーダナカがとしごろになると、両

    りょう

    親しんは似に合あいの妻つまを見みつけて

    結けっ婚こんさせてあげました。しかし、その後ご間まもなく、両

    りょう

    親しんは二ふた人りとも

    その街まちの、ある億おく万まん長ちょう者じゃの家いえに、一ひと人りのむすこが生うまれました。

    両りょう

    親しんの喜よろこびようはたいへんなもので、マハーダナカ(「大おお金がね持もちの

    坊ぼっちゃん」という意い味み)という名な前まえをつけて、なに一ひとつの不ふ自じ由ゆうも

    ないように育そだてました。

     両

    りょう

    親しんはこの子こがかわいくてかわいくて仕し方かたがありませんでした。

    この子こを喜よろこばせようと、なんでもしてやりました。この子こがほしが

    るより前まえに、ありとあらゆるものを買かってやりました。家いえには一いっ

    生しょうあ

    そんでいても使つかい切きれないぐらいのたくさんのお金かねがあったの

    で、両

    りょう

    親しんはただ、マハーダナカをにっこり笑わらわせることだけを考かんがえ

    てくらしました。

    「こんなにお金かねがあるんだから、わたしたちの大だい事じなあの子こは一いっ

    生しょうぜ

    いたくにくらしていける。あの子こは仕し事ごとなんかしなくていい。

    好すきなことだけして、楽たのしくあそんで大おおきくなればいい」

  • 19 18

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    わりには、悪わるい仲なか間まが集あつまってきました。その連れん中ちゅ

    うはマハーダナカ

    のお金かねが目め当あてなのですが、マハーダナカにはそれがわかりません。

    いっしょにお酒さけやかけごとやいろいろな悪わるいあそびにおぼれている

    と、楽たのしいような気きがしました。

     気きがつくとあれほどあった巨きょ大だいな財ざい産さんが、すっかり底そこをついてい

    ました。お金かねを数かぞえたこともないマハーダナカに、悪あく友ゆうたちがささ

    やきます。

    「だいじょうぶ、だいじょうぶ、お金かねは借かりられるんだよ。借かりれ

    ばまたあそべるよ」

    と。

     いつの間まにかマハーダナカは大おおきな借

    しゃっ

    金きんをかかえてしまいました。

    けれど、借

    しゃっ

    金きんを返かえす当あてなど、どこにもありません。その日ひ食たべる

    ためのお金かねをかせぐ能のう力りょ

    くさえ、マハーダナカにはまったくなかった

    死しんでしまいました。

     両

    りょう

    親しんがいなくなってしまうと、マハーダナカの生せい活かつはすっかり変か

    わってしまいました。勉べん強きょ

    うなんかしたことがないマハーダナカに、

    家いえの巨きょ大だいな財ざい産さんを切きりもりできるはずがありません。屋や敷しきで働はたらく人ひと

    たちにも、自じ分ぶんのしてほしいことを命めい令れいするばかりで、給

    きゅう

    料りょうさ

    えき

    ちんと払はらいません。間まもないうちに、屋や敷しきには人ひとがいなくなってし

    まいました。みんなやめて、よそへ行いってしまったのです。奥おくさん

    もマハーダナカのわがままに愛あい想そうをつかして、出でていってしまいま

    した。

    「なんてひどいやつらだ。おれを一ひと人りにして出でていくなんて。なん

    でおれの言いうことを聞きかないんだ」

     そう言いってマハーダナカはつばを吐はきました。

     くさった死しがいにハエが集あつまるように、すぐにマハーダナカのま

  • 21 20

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

     ああ、もう生いきているのはいやになった。おれは死しんでやる。お

    れをいじめたやつらは、思おもい知しるがいい」

     あの借

    しゃっ

    金きん取とりたちの見みている前まえで死しんでやろうと、マハーダナカ

    は思おもいつきました。そこで、借

    しゃっ

    金きん取とりたちに、

    「あなたがたの請せい求きゅう書しょを全ぜん部ぶ持もってきてください。ガンガーの岸きし

    に、わたしの家いえの財ざい産さんがうめてあります。それでみなさんに借

    しゃっ

    金きんを

    返かえしますから」

    と言いいました。

     マハーダナカは、ガンガーの岸きし辺べに借

    しゃっ金きん取とりたちをぞろぞろと連つ

    れていきました。そして、財ざい産さんを探さがすふりをしていたかと思おもうと、

    「おれは死しんでやるぞ」

    とさけぶなり、走はしって河かわに飛とびこんでしまいました。

     大おおきな河かわであるガンガーの流ながれははげしく、波なみは逆さかまき、うずを

    のですから。

     お金かねがなくなると、悪あく友ゆうたちはあっさりはなれていきました。マ

    ハーダナカのところへやって来くるのは、ただ借

    しゃっ

    金きん取とりだけです。借

    しゃっ

    金きん取とりたちは毎まい日にちやって来きて、マハーダナカをきつくおどして取とり

    立たてました。

     借

    しゃっ

    金きん取とりにおびえてふるえながら、マハーダナカは思おもいました。

    「父とうさんや母かあさんが生いきていたころと、今いまのおれは本ほん当とうに同おなじ人にん間げん

    だろうか。まったく別べつ人じんのようだ。なんてあわれなんだ。おれほど

    かわいそうな人にん間げんはいない。なのにだれもおれを助たすけてくれない。

    だれもおれのところに来こようともしない。みんなおれの金かねであそん

    だくせに、なんて恩おん知しらずなんだ。それにひどいのは借

    しゃっ

    金きん取とりだ。

    おれがなにをしたというのだ。なんであんなひどい仕し打うちをされな

    きゃいけないんだ。

  • 23 22

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    「わたしが声こえを聞きいたからには死しなせはしない」

    と、河かわ岸ぎしまでひとっ飛とびにかけていきました。

    「心しん配ぱいするな。今いま、助たすけてあげます」

    と、おぼれるマハーダナカに声こえをかけました。

     その力

    ちから

    強づよい声こえを聞きいたとたん、マハーダナカの胸むねのなかに、ふし

    ぎと安あん心しんの灯ひがともり、なんだか水みずの力ちからもやわらいだかのように感かん

    じました。

     ルル鹿しか王おうは流ながれをかきわけて、河かわのなかほどまで泳およいでいき、マ

    ハーダナカを背せ中なかに乗のせ、岸きしまで運はこびました。そして、ぐったりし

    ているマハーダナカをそのまま自じ分ぶんの森もりまで連つれていくと、やわら

    かい草くさの上うえにそっと降おろし、やさしくかいほうしました。ありとあ

    らゆるくだものを取とってきて、彼かれに食たべさせてもやりました。

    なしていました。流ながれにのみこまれ、強つよい力ちからでおし流ながされて、マ

    ハーダナカは、苦くるしみと恐

    きょう

    怖ふにとらわれました。死しぬことがとても

    おそろしくなりました。水みずを飲のみ、川かわ底ぞこへ引ひきずりこまれそうにな

    りながら、わずかに顔かおが水すい面めんに出でたとき、あわれな声こえで助たすけをもと

    めて、さけびました。

    「助たすけてくれ。だれか。助たすけてくれ」

             ***

     マハーダナカのさけび声ごえは、森もりのなかのルル鹿しか王おうの耳みみに届とどきまし

    た。

    「人ひとの声こえが聞きこえる。助たすけをもとめている」

     草くさのねどこから立たち上あがったルル鹿しか王おうは、

  • 25 24

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    「はい、約やく束そくします」

     さらにルル鹿しか王おうは言いいました。

    「たとえ財ざい宝ほうを積つまれても、わたしのことをぜったいにだれにも言い

    わないと誓ちかってください」

    「だいじょうぶです。誓ちかいますよ」

     そうマハーダナカは答こたえました。

           ***

     ルル鹿しか王おうはマハーダナカを背せ中なかに乗のせて、バーラーナシーへ通つうじ

    る道みちまで送おくっていき、そこで降おろしてやりました。

     一ひと人りになったマハーダナカは、重おもい足あし取どりで街まちへの道みちを歩あるき始はじめ

    ました。生いきることに失しっ敗ぱいし、死しぬことにも失しっ敗ぱいし、なんの希き望ぼうも

            ***

     マハーダナカは間まもなくすっかり元げん気きになりました。

     そこで、ルル鹿しか王おうはマハーダナカに言いいました。

    「さあ、あなたは人にん間げんがすんでいるところにもどったほうがいい。

    バーラーナシーへ通つうじる道みちまで送おくってあげましょう。しかし、その

    前まえに、一ひとつの誓ちかいを立たててください。わたしのことをぜったいに人にん

    間げんに言いわないと約やく束そくして誓ちかってください」

    「はい、誓ちかいます」

    と、マハーダナカは言いいました。

     ルル鹿しか王おうはかさねて言いいました。

    「たとえ大だい臣じんに聞きかれても、王おう様さまに聞きかれても、わたしのことを

    ぜったいに言いわないと約やく束そくしてください」

  • 26

    第1話 ルル鹿王の物語

    ないまま、またもどらねばならないのです。

           ***

     ちょうどそのころ、ブラフマダッタ王おうが、あるおふれを出だしまし

    た。

     ことの起おこりはこうでした。

     王おう様さまにはケーマーという名な前まえの美うつくしいお妃

    きさき

    様さまがいました。この

    ケーマー妃ひがある夜よ、金こん色じきの鹿しかの夢ゆめを見みました。美うつくしく堂どう々どうとした

    鹿しかが、まばゆいばかりにかがやきながら、自じ分ぶんに教おしえを説といている

    夢ゆめでした。どんな教おしえなのかは聞きこえないのだけれど、なにかすご

    くすばらしい内ない容ようで、聞きいている自じ分ぶんは感かん動どうし、心こころがすがすがしく

    なっていくのです。

  • 29 28

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

     そう思おもいつめて、すっかり元げん気きのなくなってしまったお妃

    きさき

    様さまのこ

    とを、王おう様さまは心しん配ぱいしました。

    「このままではケーマーが死しんでしまうかもしれない。なんとかし

    なければ」

     王おう様さまはケーマー妃ひのことをとても大たい切せつに思おもっていたのです。

     王おう様さまはどうすればケーマー妃ひを元げん気きにしてやれるかと、一いっ生しょ

    うけん

    命めい考かん

    がえました。いろいろな楽たのしそうなことを見みせても、ケーマー妃ひ

    はちっとも興

    きょう味みを示しめしません。ケーマー妃ひの心こころのなかには金こん色じきの鹿しか

    のことしかないのです。王おう様さまには、方ほう法ほうは一ひとつしかないことがわか

    りました。金こん色じきの鹿しかを見みつけ出だし、お妃

    きさき様さまのところへ連つれてくるこ

    とです。

     王おう様さまは決けっ心しんしてお妃

    きさき

    様さまに言いいました。

    「わたしがかならず金こん色じきの鹿しかを見みつけ出だそう。そしてここへ連つれて

     夢ゆめから覚さめると、ケーマー妃ひは胸むねがどきどきしていました。一いち日にち

    じゅう、あの金こん色じきの鹿しかのことで頭あたまがいっぱいです。

    「金こん色じきの鹿しかに出で会あいたい。会あってあの教おしえを聞ききたい」

     ほかのことはなにも考かんがえられなくなってしまいました。食たべるこ

    とにも飲のむことにも、なんの興

    きょう

    味みもなくなってしまいました。食

    しょく

    欲よく

    がすっかりなくなってしまったお妃

    きさき

    様さまは、日ひに日ひにやせていきます。

     それだけではありません。ケーマー妃ひには、毎まい日にちの生せい活かつが、すっ

    かり色いろあせてしまったように感かんじられました。ただ食たべて、ねて、

    年としを取とって、死しんでいくだけの人じん生せいが、ひどくつまらないものに思おも

    えました。いくらお城しろでぜいたくなくらしをしていても、すべてが

    ただむなしいだけに見みえました。

    「あの教おしえを聞きけないのなら、生いきていることにはなんの値ね打うちも

    ない」

  • 31 30

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    くるぞ」

     ケーマー妃ひは喜よろこんで、

    「王おう様さま、どうかお願ねがいします」

    と、たのみました。

     それから王おう様さまは、金こん色じきの鹿しかを探さがし始はじめました。城しろじゅうの人ひと々びとに

    たずねましたが、だれも知しりません。見みた者ものも聞きいた者ものもありませ

    ん。

     王おう様さまは数かず々かずの宝ほう石せき、財ざい宝ほうを積つみ上あげると、家か臣しんを呼よんでこう命めいじ

    ました。

    「さあ、行いって、人ひと々びとにわたしのこの言こと葉ばを伝つたえなさい。

      金きん銀ぎん財ざい宝ほう、ゆたかな村むら、

      ほうびの品しなは山やまのよう。

      金こん色じきの鹿しか、鹿しか王おうの

      居い場ば所しょを教おしえた者ものにつかわそう」

     この王おう様さまの言こと葉ばを金きんの看かん板ばんにほると、家か臣しんたちは都みやこのすみずみま

    でふれて回まわりました。

           ***

     王おう様さまのおふれの声こえは、とぼとぼと歩あるくマハーダナカの耳みみにも入はいり

    ました。マハーダナカのまぶたの裏うらに、財ざい宝ほうの山やまがうかびました。

    いっしゅん、借

    しゃっ金きん取とりたちの顔かおがよぎって消きえました。

     次つぎのしゅんかん、マハーダナカは走はしりだしていました。おふれを

    告つげている家か臣しんを追おいかけていって、しがみつくと、こうさけんで

    いました。

    「わたしが知しっています。わたしが金こん色じきの鹿しかの居い場ば所しょを知しっていま

  • 33 32

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    す」

           ***

     鹿しかの居い場ば所しょがわかったという知しらせに、王おう様さまはたいそう喜よろこびまし

    た。さっそく、大だい軍ぐん勢ぜいを仕し立たてると、マハーダナカを先せん頭とうに立たてて、

    案あん内ないをさせました。

     王おう様さまに丁てい重ちょ

    うにあつかわれて、マハーダナカはとくいになっていま

    した。

    「ゆたかな木き

    ぎ々

    に、花はな咲さき乱みだれ、

     虹にじ色いろのちょうの舞まう、

     この森もりです。この森もりに、

     その鹿しかはすんでいます。

     金こん色じきの鹿しか王おうが」

     そう言いって、マハーダナカが森もりを指ゆびさしました。

     王おう様さまはおどる心こころをおさえながら、家か臣しんたちに命めい令れいしました。

    「この森もりに目めざす鹿しかがいる。森もりをすっかり取とり囲かこむのだ。決けっして金こん

    色じきの鹿しかをのがさぬようにしろ。取とり囲かこんだら、大おお声ごえを上あげて、森もりか

    ら鹿しかを追おい立たてるのだ」

           ***

     森もりのなかにいたルル鹿しか王おうの耳みみに、大だい軍ぐん勢ぜいの声こえが聞きこえてきました。

    「たいへんな数かずの軍ぐん勢ぜいだ。きっと、恩おん知しらずのあの男おとこがわたしを裏うら

    切ぎったにちがいない。わたしとこの森もりに危き険けんがせまっている」

     そう考かんがえるやいなや、行いって周

    しゅう

    囲いのようすを観かん察さつしました。ぐる

  • 35

    パーリ・ジャータカ第482

    りと取とり囲かこんでいる兵へいのかべは厚あつく、とてもにげるすきはありませ

    ん。大おお勢ぜいの人ひとの声こえにおどろいた動どう物ぶつたちが、恐

    きょう

    怖ふでやみくもににげ

    まどいます。

     鹿しか王おうは意いを決けっしました。森もりを出でると、にげるのではなく、まっす

    ぐにブラフマダッタ王おうを目めがけて走はしりだしました。

           ***

     ブラフマダッタ王おうは見みました。象ぞうのように大おおきく金こん色じきにかがやく

    鹿しかが、兵へいたちをあっとうしながら、まっすぐ自じ分ぶんを目めがけて走はしって

    きます。

     なんと大おおきな鹿しかなのでしょう。

     なんと美うつくしい金きん色いろのかがやきでしょう。

  • 37 36

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

     なんと威い厳げんに満みちて、堂どう々どうとした走はしりなのでしょう。

     ブラフマダッタ王おうは目めを見みはりました。おそれと喜よろこびで、弓ゆみを持も

    つ手てがぶるぶるとふるえました。足あしはその場ばにこおりついたかのよ

    うに、かたまってしまいました。

     しかし、王おう様さまは、ハッとわれに返かえりました。気き持もちをふるいたた

    せて、なんとしてでもこの鹿しかをのがしてはならないと、弓ゆみを構かまえな

    おしました。

    「このままではだれも矢やをはなつことができないかもしれない。こ

    のまま鹿しかが走はしり去さるのを、ただ見みているわけにはいかないぞ。わた

    しがこの矢やで鹿しかをおそれさせよう。もしにげられそうになったら、

    矢やでけがをさせてでもとらえるぞ」

     王おう様さまはそう思おもって、今いまにも矢やをはなたんと、きりりと弓ゆみを引ひきし

    ぼって立たっていました。

           ***

     その王おう様さまにルル鹿しか王おうは遠とおくから呼よびかけました。

    「王おうよ、お待まちください、

     ゆうかんなる王おうよ、

     弓ゆみを下おろしてください、

     わたしは問といます、

     だれがあなたに教おしえましたか、

     金こん色じきの鹿しかの居い場ば所しょを知しっていると」

     涼すずしくやわらかな声こえがあたりにひびきました。ルル鹿しか王おうの声こえを聞き

    くと、たちまちブラフマダッタ王おうの心こころはひきよせられました。すぐ

    に弓ゆみを下おろし、数すう歩ほあゆみ出でると、両

    りょう

    手てを広ひろげて鹿しかをむかえました。

  • 39 38

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

     人ひと々びとも武ぶ器きをほうり出だして王おう様さまと鹿しかのまわりに集あつまってきました。

    二ふた人りのまわりにはぐるりと人ひと垣がきができました。

     深ふかく心こころにひびく声こえで、ルル鹿しか王おうがたずねます。

    「まずは問といます。

     だれが王おう様さまに教おしえたのでしょうか。

     金こん色じきの鹿しかの居い場ば所しょを知しっていると」

     マハーダナカは王おう様さまの近ちかくに立たっていました。ルル鹿しか王おうがやって

    来くると、恐

    きょう

    怖ふで毛けが逆さか立だちました。そして、あとずさりしてかくれ

    ようとしました。しかし人ひと垣がきにさえぎられて、それ以い上じょ

    うは下さがれま

    せん。

     ブラフマダッタ王おうはルル鹿しか王おうの品ひん格かくある話はなし方かたに合あわせて、自みずから

    も詩うたを紡つむいで答こたえました。

    「あなたのことはそこにいる、

     あの男おとこ

    に聞ききました。

     金こん色じきの鹿しかの居い場ば所しょを知しっていると、

     あの男

    おとこ

    が言いったのです」

     マハーダナカの背せ中なかに冷つめたい汗あせが流ながれました。

     ルル鹿しか王おうは詩うたで語かたります。

    「世よのなかには、

     河かわにただよう木き切ぎれにもおとる、

     そんな輩

    やからもいるという、

     それがまことであったとは」

     これを聞きくと、王おう様さまはなんだか不ふ安あんになりました。王おう様さまはそのと

    きになって、ルル鹿しか王おうが人ひとの言こと葉ばで話はなしていることに気きづきました。

    ルル鹿しか王おうの言こと葉ばは心こころに深ふかくひびいてきます。静しずかで澄すんだひとみに

    見みつめられると、自じ分ぶんの心こころの裏うらがわまで見みすかされているような気き

  • 41 40

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    がします。それに「河かわにただよう木き切ぎれよりおとる輩やから」というのは

    いったいだれのことなのでしょう。王おう様さまはおそるおそるたずねまし

    た。

    「その輩

    やから

    とは

     いったいだれのことでしょう、

     鹿しかでしょうか、鳥とりでしょうか、

     それとも人にん間げんなのでしょうか」

     ルル鹿しか王おうは答こたえます。

    「鹿しかでもなく、鳥とりでもない、

     それは一ひと人りの人にん間げんのこと。

     河かわの流ながれに苦くるしみもがき、

     助たすけをもとめて呼よぶ人ひとを、

     わたしは引ひき上あげかいほうした。

     それがために、

     わたしの身みには危き険けんがせまる。

     わたしのことはだれにも語かたらぬと、

     誓ちかった言こと葉ばのあまりの軽かるさ、

     約やく束そくを平へい気きで破やぶる心

    こころ

    のもろさ。

     その者ものが大たい切せつなのは鼻はな先さきの、

     おのれの身みと利り益えきのみ。

     わがままだけでは、真しん実じつの

     幸こう福ふくが得えられるはずもないものを。

     王おうよ、不ふ実じつな者ものとのかかわりは、

     ただ苦くるしみの種たねとなる」

           ***

  • 42

    第1話 ルル鹿王の物語

     ブラフマダッタ王おうはすべてを理り解かいしました。同どう時じに、マハーダナ

    カにたいするはげしい怒いかりがこみ上あげてきました。

    「立りっ派ぱな鹿しかの王おうを裏うら切ぎって、わたしからほうびを取とろうというのか。

    こんな、命いのちの恩おん人じんを売うるようなやつは、生いかしてはおけないぞ。わ

    たしが罰ばつをくだしてやる」

     王おう様さまは、にげようともがくマハーダナカに向むけて、ぴたりと弓ゆみを

    構かまえました。

    「命

    いのち

    を救すくう恩おん恵けいを

     きさまはなんと思おもうのか。

     恩おん知しらずの裏うら切ぎり者もの、

     わたしのこの矢やを受うけて死しね」

  • 45 44

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

           ***

     しかし、そのとき、ルル鹿しか王おうがブラフマダッタ王おうの前まえに立たちはだ

    かりました。そして、王おう様さまに向むかってこう語かたりました。

    「たしかにおろかなこの男

    おとこ

     わざわいもたらす裏うら切ぎり者もの。

     しかし賢けん者じゃはほめないのです、

     なにがあっても殺ころすことは。

     どんなに怒いかりにかられても、

     正せい義ぎがおのれにあるときでも、

     もし殺ころしたならばその悪あくは自じ分ぶんのもの、

     殺ころせばそれは自じ分ぶんの罪つみとなる。

     こいつのせいで王おう様さまが、

     不ふ幸こうになってはいけません。

     殺ころして生うまれる新あらたな罪つみを、

     あなたがかぶることはない。

     どうぞ、おろかなこの者ものは、

     どこかへ勝かっ手てに去さるでしょう、

     約やく束そくの宝

    たから

    をこの者ものへ。

     わたしはあなたとまいりましょう」

     王おう様さまの心こころには喜よろこびがあふれました。正ただしい道みちを知しることで、目めが

    覚さめたような気き持もちになりました。自じ分ぶんがするべきことがわかりま

    した。心こころのなかにあった怒いかりは、吹ふき消けされたようになくなってい

    ました。ルル鹿しか王おうにたいする信しん頼らいと尊そん敬けいに満みたされて、弓ゆみを投なげ捨す

    てて、ブラフマダッタ王おうはこう歌うたいました。

    「賢けん者じゃなるルル鹿しか王おう、

  • 47 46

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

     害がいなす者ものにも害がいを与あたえず。

     慈

    いつく

    しみの心

    こころ

    こそ、

     怒いかりに打うち勝かつ魔ま法ほうの矢や。

     慈

    いつく

    しみの心

    こころ

    こそ、

     われらの心

    こころ

    を照てらす光

    ひかり

     慈

    いつく

    しみの心

    こころ

    こそ、

     幸こう福ふくへの扉

    とびら

    の鍵かぎ。

     おろかで不ふ幸こうなこの者ものには、

     約やく束そくの宝

    たから

    を与あたえましょう、

     そして勝かっ手てに去さらせましょう。

     わたしはあなたに約やく束そくします、

     あなたがいつでも自じ由ゆうに動うごけるように

     かならずや、いたしますと」

           ***

     しかしルル鹿しか王おうは、さらにこう語かたりました。

    「山やま犬いぬや小こ鳥とりたちのおしゃべりは、

     聞きいてそのまま、うそがない。

     しかし人ひとの口くちから出でる言こと葉ばは

     本ほん音ねだとは限かぎらない。

     親しんせき、親しん友ゆう、仲なか間まだと、

     言いい交かわして喜

    よろこんでも、

     あしたは敵てきになるかもしれぬ。

     人ひとの言こと葉ばはわからない」

     これを聞きいて、ブラフマダッタ王おうは人ひとの世せ界かいのことを考かんがえました。

  • 49 48

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    自じ分ぶんと自じ分ぶんのまわりのことを考かんがえました。うそや裏うら切ぎり、だまし合あ

    い、おせじやへつらい、きれいごと、いったいこの世せ界かいに、信しんじら

    れる言こと葉ばはあるでしょうか。

     今きょ

    う日仲なかよくしていても、明あ

    す日には殺ころし合あいさえしかねない、人ひとの

    心こころの

    変かわりやすさ、人ひとの心こころの弱よわさを思おもいました。

     ブラフマダッタ王おうは悲かなしくなりました。自じ分ぶんが人にん間げんであることが

    なさけなくもなりました。そしてまた、ルル鹿しか王おうには、自じ分ぶんを信しんじ

    てもらいたいと強つよく思おもいました。

     ブラフマダッタ王おうは心こころをこめて歌うたいます。

    「賢けん者じゃなるルル鹿しか王おうよ、

     どうかわたしを信しんじてください。

     わたしはあなたに贈おくります、

     あなたの自じ由ゆう、生いきとし生いけるものの自じ由ゆう、

     すべてのものがみな、

     なんのおそれもないように。

     わたしはこれを守まもります。

     たとえ王おう国こくにかえてでも」

           ***

     ルル鹿しか王おうはブラフマダッタ王おうの約やく束そくを、真しん実じつの言こと葉ばと受うけ止とめま

    した。そして王おう様さまとともに、バーラーナシーの都みやこへと入はいりました。

     都みやこは盛せい大だいなお祭まつりとなりました。どこもかしこも色いろとりどりにか

    ざられ、またルル鹿しか王おうも王にふさわしく輝かがやく装そう身しん具ぐときらびやかな

    織おり物ものを身にまとい、国くにを挙あげてのお祝いわいとなりました。

     ルル鹿しか王おうは、ケーマー妃ひの夢ゆめとそっくりそのままに、涼すずしくやわ

  • 51 50

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

    らかな声こえで、教おしえを説ときました。

     うそや殺せっ生しょ

    うが不ふ幸こうをもたらすこと。

     与あたえることで自じ分ぶんが幸こう福ふくになること。

     人ひと々びとが幸こう福ふくに平へい安あんにくらすために、心こころの清きよらかさが必ひつ要ようなこと。

     王おう様さまとお妃

    きさき

    様さまは目めをかがやかせて、一ひとつ一ひとつ胸むねに刻きざみこむように

    して聞ききました。王おう様さまとお妃

    きさき

    様さまだけではありません。城しろの人ひと々びとも、

    国こく民みんも、だれもがその教おしえを聞きいて、正ただしい道みちを知しりました。そし

    て、やさしい心こころになりました。信しん頼らいし合あうようになりました。

     王おう様さまはとてもいそがしくなりました。王おう様さまには人ひと々びとを幸しあわせにする

    ために、できることがいくらでもあったからです。でも、いくらい

    そがしくても、してあげることが多おおければ多おおいほど、王おう様さまは毎まい日にち、

    幸しあわせ

    を感かんじました。

           ***

     しばらくたって、ルル鹿しか王おうは森もりへ帰かえっていきました。

     王おう様さまはまたおふれを出だしました。家か臣しんたちは、金きんの看かん板ばんに王おう様さまの

    言こと葉ばを刻きざんで、都みやこじゅうたいこをたたいてふれ回まわりました。

     それにはこう刻きざまれています。

    “王おう様さまからの贈おくりもの

     すべての生いきものがみな、

     なんのおそれもないようにします”

           ***

  • 53 52

    第1話 ルル鹿王の物語パーリ・ジャータカ第482

     それからというもの、鹿しかにも鳥とりにも、どんな動どう物ぶつにも、だれも手て

    を出だすことはできません。おどかすことさえできません。鹿しかの群むれ

    がやって来きて、畑はたけの作さく物もつを食たべちらしても、どうすることもできま

    せん。そこで人ひと々びとはお城しろへやってきて、王おう様さまにうったえました。

    「王おう様さまどうにかしてください。鹿しかたちが畑はたけの作さく物もつを食くい荒あらしま

    す」

     それを聞きいた王おう様さまは、きっぱりとこう答こたえました。

    「たとえ王おう国こくを追おわれようと、

     たとえ王おう国こくがほろびようと、

     わたしの心

    こころ

    は変かわらない。

     すべての生いきものがみな、なんのおそれもないようにと、

     わたしが贈おくった贈おくりものじゃ。

     それに反はんするぐらいなら、

     ルル鹿しか王おうを裏うら切ぎるぐらいなら、

     わたしはもはや王おうではないぞ」

     それを聞きくと、人ひと々びとはなにも言いえず、引ひき返かえしました。

           ***

     この王おう様さまの言こと葉ばは、森もりにも伝つたわりました。報ほう告こくした動どう物ぶつの話はなしが終お

    わるか終おわらないうちに、ルル鹿しか王おうはすっくと立たち上あがりました。

    そしてすべての鹿しかを集あつめると、

    「これからは人にん間げんの作さく物もつを食たべて、迷めい惑わくをかけてはいけないよ」

    と、さとしました。

     そして、人にん間げんには自じ分ぶんの田た畑はたに草くさの葉はで目めじるしを結むすんでくださ

    い、と伝でん言ごんを送おくりました。

  • 54

    第1話 ルル鹿王の物語

     人ひと々びとは言いわれたように田た畑はたに目めじるしを結むすびました。

     それ以い来らい、鹿しかたちは今いまでも、その目めじるしのある田た畑はたには入はいらな

    いのです。

     こうして、ブラフマダッタ王おうとルル鹿しか王おうの信しん頼らいのきずなによって、

    人ひと々びとも動どう物ぶつも、すべての生いきとし生いけるものが、長ながく幸しあわせにくらし

    ました。

     ルル鹿しか王おうはその生

    しょう

    涯がいを終おえてのち、さまざまな生せい命めいに生うまれ変かわ

    りました。そして最さい後ごに、人ひととして生うまれたとき、悟さとりを開ひらいて仏ぶっ

    陀だとなりました。その方かたのことを、わたしたちはお釈しゃ迦か様さまと呼よんで

    います。

  • 57 56

    第だ い

    2話わ

    黒く ろ

    仙せ ん

    人に ん

    物も の

    語がた り

    (パーリ・ジャータカ第だい440)

    佐さ藤とう広ひろ基き[絵

    え]

  • 59 58

    スマナサーラ長

    ちょう

    老ろうの言こと葉ば

    生いきる目もく的てきってなんでしょう?

     

    少しょう

    々しょう長ながかった『ルル鹿しか王おうの物もの語がた

    り』を読よみ終おえましたね。ほかの動どう物ぶつたちよりも人にん間げんの

    ほうがだらしなくて性せい格かくが悪わるい、信しん頼らいできないという感かんじでしたね。人にん間げんはいつでも自じ

    画が自じ賛さんばかりで、他たの生せい命めいにたいして不ふ親しん切せつで残ざん酷こくな態たい度どをとっているから、ひどい悪わる

    口ぐちでけなされても仕し方かたがないと思おもうでしょう?

     

    でもだいじょうぶです。けなされても仕し方かたないほどひどい人にん間げんでも、いたって簡かん単たんに

    とても立りっ派ぱな人にん間げんになります。ほかの生いきものとちがって人にん間げんは言こと葉ばをしゃべれるし、

    勉べん強きょ

    うもできるし、知ち識しきを育そだてられるし、さまざまな発はっ展てんや開かい発はつができるのです。ですか

    ら、その能のう力りょ

    くを駆く使しして、すべての人にん間げんの役やくに立たつように、なにか一ひとつでもがんばれば

    いいのです。人にん間げんに限かぎらず、すべての生せい命めいにたいしてやさしい心こころを持もてばいいのです。

    すべての生せい命めいにたいして、やさしい人にん間げんになってみますと決きめることだけでも、とても

    立りっ派ぱなことです。その決きまりを実じっ行こうしようとすると、なおさら立りっ派ぱになります。

     

    人にん間げんにはもう一ひとつ、おそろしい病

    びょう

    気きがあります。金かね持もちになりたい。無む限げんに財ざい産さんを築きず

    きたい。元げん気きになりたい。ぜったい病

    びょう

    気きにはなりたくない。年としは取とりたくない。いつ

    だって若わか々わかしくいたい。長なが生いきしたい。「何なん歳さいまで生いきたいの?」と聞きかれたら、それ

    はわからない。公

    おおやけに

    はだれも認みとめたがりませんが、しかし正

    しょう

    直じきなところ「ぜったいに死し

    にたくない」とひそかに思おもっているのです。これは病

    びょう

    気き以い外がいのなにものでもありません。

    「それってふつうの願ねがいでしょう」と思おもったら、残ざん念ねんです。その考かんがえも病

    びょう

    気きです。

     

    せっかく人にん間げんに生うまれたならば、老おいてくさってゆく体からだのために必ひっ死しになることはほ

    どほどにして、もっとやるべき大だい事じなことはないのか、調しらべてみましょう。人にん間げんならか

    ならず蓄たくわえるべきものはなんでしょうか? 

    ぜったい人にん間げんを裏うら切ぎらない財ざい産さんとはなんで

    しょうか? 

    人にん間げんをぜったい幸こう福ふくにしてくれる最さい大だいで最さい強きょ

    うの味み方かたはなんですか?

     

    次つぎの物もの語がた

    りに、その答こたえがあります。かくれたヒントではありません。人にん間げんが持もつべき

    生いきる目もく的てきを堂どう々どうと力りき説せつしているはずです。

  • 61 60

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

    あらゆる学がく芸げいを身みにつけ、学がく業ぎょ

    うを終おえたのちに家いえに帰かえってきて結けっ婚こん

    しました。その後ご、両

    りょう

    親しんが亡なくなると、彼かれが家いえの一いっ切さいを継つぎました。

     ある日ひ、黒くろ童どう子じは、

    「この家いえにはいったいどれほどの財ざい産さんがあるのだろう」

    と、思おもいました。

     そこで、たしかめてみることにしました。

     屋や敷しきのなかの蔵くらが並ならんでいるところに行いって、いちばん端はしの蔵くらを

    開あけてなかに入はいりました。そこには金きん銀ぎん、宝ほう石せきが山やまと積つまれていま

    した。遠とおい外がい国こくから来きた置おき物ものや壷つぼや器うつわなど、めずらしい宝

    たから物ものもぎっ

    しりと置おかれています。次つぎの蔵くらを開あけると、そこも同おなじように、金きん

    銀ぎん財ざい宝ほうが山やま積づみになっていました。その次つぎの蔵くらも、そのまた次つぎの蔵くら

    も、同おなじでした。

     宝たからの蔵くらはまだまだ続つづいています。黒くろ童どう子じは見みるのに疲つかれてしまい

    黒くろ仙せん人にん物もの語がたり

    パーリ・ジャータカ第だい440

     むかし、ブラフマダッタ王おうがバーラーナシーの大おおきな都みやこで国くにを治おさ

    めていたときのお話はなしです。

     バーラーナシーの都みやこに、国くにじゅうでもいちばんお金かね持もちの家いえがあ

    りました。その家いえに、待まち望のぞんでいたむすこが生うまれました。生うま

    れたときに肌はだの色いろが黒くろかったので、「黒くろ童どう子じ」と名なづけられました。

     黒くろ童どう子じは、としごろになってくると、宝ほう石せきでできた彫

    ちょう

    像ぞうのように

    麗うるわし

    い青せい年ねんになりました。

     黒くろ童どう子じは、両

    りょう親しんの望のぞむとおりに学がく問もんの都みやこ、タッカシラーに留

    りゅう学がくし、

  • 63 62

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

    産さんが、おじいさんのおじいさんが築きずいたものなので、名な前まえがほって

    あるのです。もう一いち枚まいを手てに取とると、その板いたには、何なん代だい前まえかよくわ

    からない人ひとの名な前まえがほられていました。どの板いたにも名な前まえがほってあ

    りますが、知しっている人ひともあれば、顔かおを見みたこともない遠とおいご先せん祖ぞ

    の名な前まえもありました。

     それを眺ながめながら、彼かれはつぶやきました。

    「この人ひとがこの財ざい産さんを作つくった……こちらの人ひとはこの財ざい産さんを作つくった

    ……。

     この人ひとも、この人ひとも、この人ひとも今いまはいない。ここに名な前まえが書かかれ

    ている人ひとたちは、みんな今いまはいない。財ざい産さんだけがこうして残のこってい

    る。

     だれも自じ分ぶんが作つくった財ざい産さんを持もっていく人ひとはなかったのだ。自じ分ぶんが

    作つくったものすら持もっていけないのに、ましてや自じ分ぶんが継ついだ全ぜん財ざい産さん

    ました。蔵くらを見みるのはやめて、ちょうどそこにあった豪ごう華かでやわら

    かな長なが椅い子すに座すわり、今こん度どは金きんの延のべ板いたを見みてみることにしました。

     黒くろ童どう子じは、お付つきの者ものに金きんの延のべ板いたを持もってくるように言いいまし

    た。そうして、長なが椅い子すに座すわって待まっていると、何なん人にんもの人ひとがいそが

    しく行いったり来きたりして、黒くろ童どう子じの前まえに金きんの延のべ板いたを運はこんできまし

    た。黒くろ童どう子じの前まえに金きんの延のべ板いたの山やまができましたが、それでも運はこぶ作さ

    業ぎょうは

    終おわりそうにありません。長ながい廊ろう下かを、金きんの延のべ板いたを運はこぶ行

    ぎょう

    列れつ

    が続つづいています。

    「もういい。運はこぶのはやめてくれ」

    と、黒くろ童どう子じは言いいました。

     彼かれの前まえには、すばらしくかがやく金きん色いろの山やまがそびえています。彼かれ

    はそのうちの一いち枚まいを手てに取とりました。よく見みると、その金きん色いろの板いたに

    は彼かれのおじいさんのおじいさんの名な前まえがほられていました。その財ざい

  • 65 64

    第2話 黒仙人物語

    を束たばにして、あの世よに持もっていった人ひとなど、いるわけもないんだ」

     黒くろ童どう子じは目めをつぶってじっと考かんがえました。

    「財ざい産さんというものは決けっして当あてになるものではない。ぼくが持もって

    いけるものではない。それなのに、財ざい産さんがぼくをしばる。持もってい

    けもしないものに心こころをがんじがらめにされてしまう。財ざい産さんがもとで、

    いろいろなよくないことを行おこなってしまうことになる。

     そもそも財ざい産さんは必ひつ要ようなのだろうか?

     財ざい産さんが必ひつ要ようなのはこの体からだを長ながらえさせるためであろう?

     財ざい産さんがあれば、この体からだは安やすらかなのか? この体からだは喜よろこぶのか?

     いや。この体からだ、……この体からだもまた、なんと当あてにならないもので

    あることか。体からだは多おおくの病やまいにつながっている。体からだを守まもるだけで、わ

    たしたちは精せいいっぱいがんばっていないといけない。人じん生せいのほとん

    どをそれだけに使つかってしまう。体からだのことを心しん配ぱいして、心こころはがんじが

  • 67 66

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

    るだろう。それこそは、当あてになるものだ」

           ***

     黒くろ童どう子じはすっきりした気き分ぶんでした。その気き分ぶんのままお城しろに行いって、

    王おう様さまに会あい、大おおがかりな布ふ施せをすることを宣せん言げんしました。それから

    屋や敷しきにもどると、屋や敷しきの門もんを大おおきく開ひらき、貧まずしい人ひと々びと、困こまっている

    人ひと々びとに、どんどん財ざい産さんを分わけ与あたえました。

     七なの

    か日間かん、布ふ施せは続つづきましたが、財ざい産さんはつきるようすがありません。

    それどころか、減へったようにすら見みえません。それを見みて、彼かれは決けっ

    心しんしました。

    「わたしにとって財ざい産さんがなんだというのだ。病やまいや老おいにのみこまれ

    ないうちに、心こころを清きよらかにする道みちをきわめよう」

    らめにされてしまう。一いっ生しょ

    うがそれで終おわってしまうのだ。どうせ命

    いのち

    ははかないのに。

     どうせ命いのちは当あてにはならないのだ。

     なにもかも、当あてになるものはないのだ……」

     黒くろ童どう子じはゆっくりと目めを開ひらくと、つぶやきました。

    「では、この財ざい産さんを役やく立だてる方ほう法ほうとはなんであろうか? この当あて

    にならない財ざい産さんによって、なにかたしかなものが手てに入いれられるだ

    ろうか……?」

    「そうか‼」

     黒くろ童どう子じは長なが椅い子すから飛とび上あがりました。

    「正ただしい答こたえは布ふ施せをすることだ。

     この財ざい産さんを多おおくの人ひと々びとにあげることで、心こころが清きよらかになるだろう。

    清きよらかになったわたしの心こころ、それだけはたしかにわたしのものとな

  • 69 68

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

     黒くろ仙せん人にんは、人ひと里ざとを遠とおくはなれ、ヒマラヤの山やま奥おく深ふかくに分わけ入いって、

    静しずかで安やすらかな場ば所しょを探さがしました。

     やがて小ちいさなスイカに似にた瓜うりの実みのなる、一いっ本ぽんの木きのところに

    やってきました。彼かれはその木きの下したを居い場ば所しょと定さだめました。

     その日ひから、黒くろ仙せん人にんはそこでくらしました。しかし、木この葉はでふ

    いた小こ屋やを建たてることさえ、彼かれはしませんでした。ただ大おお空ぞらの下もと、

    木きの根ね元もとに座すわって過すごし、横よこになるときは地じ面めんにそのまま体からだを横よこた

    えました。

     黒くろ仙せん人にんには、わざわざ安あん楽らくな生せい活かつをもとめるという気き持もちがな

    かったのです。

     食たべものを調

    ちょう

    理りすることもありませんでした。自じ分ぶんの歯はで食たべら

    れるものを、火ひを通とおすことなく食たべました。

     黒くろ童どう子じは自じ分ぶんをしばるすべてを捨すてて、家いえを去さることにしたので

    す。そして、家いえのすべての出で入いり口ぐちを開かい放ほうし、

    「すべてがほどこしものだから、持もっていきなさい」

    と、人ひと々びとに告つげました。

     まわりの人ひと々びとは、出でていく彼かれをなんとか引ひき止とめようとしました。

    しかし、人ひと々びとが泣ないてなげくなか、黒くろ童どう子じは森もりへと去さっていきまし

    た。

     汚きたなく古ふるい殻からをつるりと脱ぬぎ捨すてるように、この世よのあらゆる汚けがれ

    た欲よくをきれいさっぱり脱ぬぎ捨すてて、黒くろ童どう子じは出

    しゅっ

    家けしたのです。たっ

    た一ひと人りで修しゅ行ぎょ

    うする仙せん人にんとなるために。

     こうして、彼かれは黒くろ仙せん人にんとなりました。

           ***

  • 71 70

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

     こうして、黒くろ仙せん人にんは限かぎりなく欲よくをはなれ、満みち足たりた心こころで、静しずか

    に穏おだやかに生いきていました。心こころは深ふかい瞑めい想そうの世せ界かいに入はいっていきまし

    た。

           ***

     黒くろ仙せん人にんの心こころは澄すみ切きってかがやきました。かがやきはどんどん強つよ

    くなり、心こころの強

    きょう烈れつなエネルギーは世せ界かいをゆさぶるほどでした。

     さて、天てん界かいでは神かみ々がみの王おう様さまが玉

    ぎょく座ざに座すわっていました。神かみ々がみの王おうの

    名な前まえは、サッカといいました。サッカ大だい王おうの座すわるその玉

    ぎょく座ざが、とつ

    ぜん熱あつくなってきました。実じつは、黒くろ仙せん人にんが心こころを清きよらかにしようとす

    るその激はげしい力ちからに反はん応のうして、玉

    ぎょく

    座ざが熱あつくなったのです。サッカ大だい王おう

    は熱あつくて座すわっていられなくなりました。

     黒くろ仙せん人にんの食たべものは、そこに生はえている瓜うりの木きの実みでした。一いち日にち

    に一いち度どだけ、その木きになった瓜うりの実みを摘つんで食たべました。食たべもの

    を探さがすために立たって歩あるきまわることはなく、立たち上あがって、おいし

    そうな実みを選えらんで摘つむことさえもありませんでした。座すわったまま手て

    を伸のばし、手てが触ふれた実みを摘つむのです。彼かれが摘つむのは、手ての届とどく限かぎ

    りの実みだけでした。摘つんだ実みの、これはよい、これはよくないと選せん

    別べつすることもありませんでした。ただ得えられたものをそのまま食たべ

    ました。

     その木きに実みがなるときにはその実みを食たべ、花はなの咲さくときには花はなを

    食たべ、葉はがあるときには葉はを食たべ、葉はもないときには樹きの皮かわを食たべ

    ました。

     黒くろ仙せん人にんには、わざわざおいしくして食たべようという気き持もちがな

    かったのです。

  • 73 72

    第2話 黒仙人物語

     玉

    ぎょく

    座ざが熱あつくなった理り由ゆうを知しらないサッカ大だい王おうは、立たち上あがってこ

    う言いいました。

    「ああ、これはわたしの寿じゅ命みょ

    うがつきてしまうということか? だれ

    かがこのサッカを蹴け落おとして、神かみ々がみの王おうの座ざにつこうとしているの

    ではないのか? だれかそんなやつがいるのか。それとも、優すぐれた

    修しゅ行ぎょう者しゃの徳とくの力ちからがこの座ざを熱あつくしているのか。これは調しらべてみな

    ければならぬぞ」

     そこで、サッカ大だい王おうは世せ界かいを見み回まわし、黒くろ仙せん人にんが森もりのなかで静しずかに

    座すわっているのを見みつけました。

    「なんとなんと! あの仙せん人にんの心こころはダイヤモンドのようにキラキラ

    とかがやいておるぞ」

     サッカ大だい王おうはこの仙せん人にんに自じ分ぶんが追おい落おとされるかもと心しん配ぱいしつつ

    も、黒くろ仙せん人にんの立りっ派ぱなようすに心こころがひかれました。

  • 75 74

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

     サッカ大だい王おうは立りっ派ぱなひげの生はえているあごに手てを当あてて考かんがえまし

    た。

    「宮

    きゅう

    殿でんか? いや、修しゅ行ぎょう者しゃに宮

    きゅう

    殿でんはいらないだろう。金きん銀ぎん財ざい宝ほうも

    いらないのであろうな。王おうになりたいとも言いわないにちがいない。

    うーむ……」

     サッカ大だい王おうはかなり長ながい時じ間かん、天てん界かいから黒くろ仙せん人にんのようすを観かん察さつし

    ていました。そして、やっと一ひとつ、仙せん人にんがほしがりそうなものを見み

    つけました。

    「うむ、これだこれだ。わかったぞ。あの仙せん人にんは、あの木きになる瓜うり

    の実みを食たべて命いのちをつないでおる。あの瓜うりだけは、あやつも必ひつ要ようとし

    ておるのじゃ。わたしの神かみ々がみの王おうとしての威い神しん力りきで、あの木きがいつ

    もおいしい瓜うりの実みをつけるようにしてやったらどうであろう。それ

    ならばきっと、あやつも喜よろこぶにちがいない」

    「あの者ものにぜひとも会あってみなければならぬ。よし、行いって、あの

    仙せん人にんの話はなしを聞きいてみよう。それでもって、あの仙せん人にんが優すぐれた人にん間げんで

    あるならば、なにか贈おくりものをするのだ。『なんなりと願ねがいごとを

    言いうがよい』と言いってやろう。わたしにかなえられない願ねがいごとな

    どないからな」

     サッカ大だい王おうは、ふっと笑わらいました。

    「神かみ々がみの王おうであるわたしの威い神しん力りきをもってすれば、一いち夜やにしてかが

    やく宮

    きゅう

    殿でんを建たててやることもできる。金きん銀ぎん財ざい宝ほうを雨あめのように降ふらせ

    ることもできる。戦いくさに勝かたせて王おう位いにつけてやることもできる。美

    うつく

    しい妻つまだろうが、世せ界かい一いちおいしくてめずらしい食たべものだろうが、

    うっとりするたえなる音おん楽がくだろうが、人にん間げんには想そう像ぞうすらできないよ

    うなものを、なんでも与あたえてやることができる。

     しかし、さて、あの仙せん人にんにふさわしいものはなにであろうか?」

  • 77 76

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

    当とうに立りっ派ぱな人にん間げんかどうかを調しらべてみるのだ。

     だれでも、自じ分ぶんをけなされると腹はらを立たてるものだ。この者ものが自じ分ぶん

    のみにくいところを言いわれて、腹はらを立たてるかどうか、見みてみようで

    はないか」

     そう考かんがえて、サッカ大だい王おうはいきなり、黒くろ仙せん人にんの背せ中なかに向むかってこ

    う切きりだしました。

    「なんとみにくいこの男おとこ。まっ黒くろなやつが、まっ黒くろな土つちの上うえで、食た

    べてるものもまっ黒くろだ。なんて気き持もち悪わるいやつなんだ」

     黒くろ仙せん人にんはじっと座すわったまま、ふり返かえることもなく、サッカに答こたえ

    てこう言いいました。

    「みにくさと肌はだの色いろとはなんの関かん係けいもないのだよ。

     人ひとの価か値ちを決きめるのは、ただ一ひとつのことだけ。内うち側がわに真しん実じつがある

    かどうかだ。悪わるいことを行おこなう者ものをこそ、けなしなさい。心こころが黒くろい

     そう決きめてにっこりしてはみたものの、サッカ大だい王おうは少すこし肩かたを落お

    としてつぶやきました。

    「しかし、それにしても、わたしは神かみ々がみの王おうだぞ。そのわたしがし

    てやれることといったら、それだけなのか? たった、瓜うりの実みをな

    らせるだけとはな……。

     まあ、それでもよい。あの仙せん人にんは、きっとそれを願ねがうにちがいな

    い」

           ***

     神かみの威い神しん力りきでたちまちにして、サッカ大だい王おうは下げ界かいに降おりて、黒くろ仙せん

    人にんの背はい後ごに現あらわれました。

    「さてと。まずはこやつをちょっとためしてやろうではないか。本ほん

  • 79 78

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

    人にんの前まえに立たつとこう言いいました。

    「おまえは正ただしいことを言いう。よくぞ言いった。おまえになにか贈おくり

    ものを授さずけてやろう。なんなりと願ねがいごとを言いうがよい」

           ***

     黒くろ仙せん人にんは、相あい変かわらずじっと不ふ動どうのままでいましたが、天てん界かいの王おう

    がなぜ自じ分ぶんのところに降おりてきたのか、その理り由ゆうをとっくに読よみ

    取とってしまっていました。そして、こう考かんがえました。

    「神かみ々がみの王おうは、わたしが天てん界かいの玉

    ぎょく座ざをねらっていると思おもっているの

    だな。そんなことは心しん配ぱい無む用ようなのに。とにかく、サッカを安あん心しんさせ

    てあげよう」

     そして、こう言いいました。

    者ものをこそ、黒くろいやつとけなしなさい、サッカよ」

     いきなり正

    しょう

    体たいを見み破やぶられてしまっておどろいたサッカでしたが、

    サッカは黒くろ仙せん人にんのことがとても気きに入いりました。と同どう時じに、自じ分ぶんの

    言いったことがちょっぴり恥はずかしくなりました。そして、心こころのなか

    でこう思おもいました。

    「いくらためそうと思おもって言いったこととはいえ、わたしの言いったこ

    とはかっこ悪わるい悪わる口くちであった。

     ああ、たしかに、この仙せん人にんの言いうとおりだ。心こころが清きよらかかどうか、

    それだけが人ひとの価か値ちを決きめるのだ。その人ひとがなにをするかで、その

    人ひとの価か値ちが決きまるのだ。そうだそうだ、そのとおりだ。それを語かたっ

    たこの仙せん人にんはたいしたやつだ」

     サッカ大だい王おうは、清きよらかな喜よろこびを感かんじて、黒くろ仙せん人にんに贈おくりものを授さずけ

    たくなりました。そこで、神かみ々がみの王おうとしての威い厳げんをたたえて、黒くろ仙せん

  • 81 80

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

    「黒くろ仙せん人にんよ、怒いかりや憎にくしみ、欲よくやしがみつきの心こころに、いったいどん

    な悪わるいことがあるのか、どうかそれをわたしに教おしえてください」

     黒くろ仙せん人にんは答こたえて言いいました。

    「サッカよ、怒いかりの種たねはがまんのない心こころにまず生うまれるのだよ。そ

    れから、繁はん殖しょ

    くし、大おおきくなり、はびこり、どんどん増ふえるのだよ。

    そうなると、人ひとは怒いかりにとらわれてしまう。悩なやみと苦くるしみ、ありと

    あらゆる不ふ幸こうがおしよせてくるのだ」

     サッカ大だい王おうは「ああ、なるほど、そのとおりだ」と、思おもいました。

     黒くろ仙せん人にんは続つづけて言いいました。

    「憎にくしみが心こころのなかに入はいると、最さい初しょは言こと葉ばで攻こう撃げきし、それからこぶ

    しで攻こう撃げきし、次つぎには棒ぼうで、それから剣けんで、殺ころすところまで行いってし

    まうのだ。なにもかも、自じ分ぶんの大たい切せつなものまで、破は壊かいしてしまうの

    だよ」

    「神かみ々がみの王おうよ、わたしに望のぞみのものを授さずけてくれると言いうのなら、

    わたしはこの四よっつを願ねがおう。

     一ひとつめは、わたしに、怒いかりの心こころがありませんように。

     二ふたつめは、わたしに、憎にくしみの心こころがありませんように。

     三みっつめは、わたしに、ものをほしがる心こころがありませんように。

     四よっつめは、わたしに、もとめてやまないしがみつく心こころがありませ

    んように」

     願ねがいの言こと葉ばを声こえに出だすと、黒くろ仙せん人にんの心こころは喜よろこびにあふれて、キラキ

    ラとかがやきました。

     サッカ大だい王おうは聞きいただけで、大おおきな喜よろこびを感かんじて、ますます黒くろ仙せん

    人にんのことが気きに入いりました。そして大だい王おうは、自じ分ぶんの心こころにわき上あがっ

    た喜よろこびがいったいなんなのかが知しりたくて、思おもわず、黒くろ仙せん人にんに問とい

    かけました。

  • 83 82

    第2話 黒仙人物語パーリ・ジャータカ第440

    「本ほん当とうに、そのとおりだ」

    「ものをほしがる心こころがあるところには、かすめ取とったり、ゆすり

    取とったり、すり替かえたり、だまし取とったり、そんなことばかり起おこ

    る。人ひとをうらやんだり、しっとしたり、悔くやしがったりする。汚よごれた

    心こころが

    次つぎ々つぎと出でてくるのだよ」

    「まったく、そのとおり」

    「そして、なにかに心こころがしがみつくと、それで心こころの自じ由ゆうはなくなっ

    てしまうのだ。心こころはしばられて、かたよって、一いっ生しょ

    うを追おいもとめる