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Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 70(1): 1-18 URL http://hdl.handle.net/10291/10648 Rights Issue Date 1987-10-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

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Page 1: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

Meiji University

 

Titleスコットランド資本主義の一断面-国際経済関係にお

ける特徴-

Author(s) 堀中,浩

Citation 明大商學論叢, 70(1): 1-18

URL http://hdl.handle.net/10291/10648

Rights

Issue Date 1987-10-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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スコットラソド資本主義の一断面

   一国際経済関係における特徴一

   An Approach to Scottish Capitalism

堀  中     浩

  Hiroshi Horinaka

(1)

 スコットラソド人としてのIdentityの強さには,しぼしば驚かされる。それは,単にイング

ランドに対する敵対的感情というように認識したり,またこうした「感情論」で片付けるべきも

のではないように思う。スコットランドのもつ文化的伝統の違いといったものが,背景になって

いるようである。そしてこのスコットラソド人としてのアイデンティティはイギリスの政治の面

においても強力な出現をみせることがある。

 1974年10月の総選挙で,スコットランド国民党はスコットランド71の選挙区で30パーセントの

得票率をえて,11の議席を獲得して,スコットランドにおける第2党となった。そして「スコッ                     (1)トランド・ナショナリズムのブームが到来した。」といわれたのであった。

 スコットランド国民党は,1928年に創立され,イングランドからの完全な独立を目指したとい

われている。第2次大戦前には1934年のナショナリズム政党の合同などあったがさほど大きな運

動には発展しなかったようである。ところが大戦後,このナショナリズムの流れは,さらに大き

くなり,いわゆるブームとよぼれるような現象を生みだしたのである。

 戦後のスコットランド・ナショナリズムの中心スローガンは,自治権の移譲であった。イギリ

スの二大政党保守党と労働党はこの自治権移譲には賛成せざるをえない状況にまでなったのであ

る。1976年11月には,「スコットランド法」が,当時の労働党政府の手で作成,議会に提出され

たのである。そして議会では曲折はあったが78年7月に成立している。ところが,当時の労働党

政府の意向に反してこの法律は住民投票にかけられることとなり,その結:果,賛成票が有権者の

40%に達しなかったため,この法律は廃棄されることとなった。こうして1時はスコットランド

の自治権移譲は確実視されるにいたっていたのである。(当時の世論調査は3分の2が自治権移譲を         (2)支持しているとしていた。)

 このようなナショナリズムの流れには本来的にたしかに高,低がある。運動の潮が高潮となっ

(1)飯島啓二「スコットランド・ウェールズの抱える問題」(青山吉信編r実像のイギリス』1984年,186

 ページ)

(2)飯島啓二,同論文参照。

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 2            r明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月)          (2)

てせまってくるときには,制度的変革をもたらす力をもっているのであるが,運動がひとたび引

潮に転じてしまうと,あたかも幻影であったかのごとくその政治的力は霧散してしまうのである。

 スコットランド人のアイデンティティはスコットランド民族とよばれるほどの強力な基盤をも

っているわけではない。1707年にイングラントとの政治的統一を実現して以来,スコットランド

人は対外的には,イギリス国民となったのである。

 「外国人は誰も最も古く確立された「国民」国家のいくつかは事実上複数民族国家(イギリス・

フランス・スペインなど)であることに目をとめようとしなかった。というのは,ウェールズ人,

スコットランド人,ブルター二=人,カタロニア人等々は何らの国際的問題を提起してはいなか

ったし,また彼ら(おそらくはカタロニア人は例外として)は自分の国の国内政治においても何も重

                  (3)要な問題を提起していなかったからである。」

 ここで,ホブスボーム氏は,イギリスを「複数民族国家」としている。したがって,スコット

ランド人は,イギリスにおける少数民族としているのではあるが,この少数民族という概念で表

現されるもの,またこの範疇に入るものは,いわゆる民族概念からはほど遠いものが多いのであ

る。しかし,スコットランド人やウェールズ人を含むイギリスはまぎれもない「事実上の複数民

族国家」なのである。このように,スコットランド人はそのアイデンティティを消極的にしか表

現しないという特徴をもっている。ホブスボーム氏はつぎのようにのべている。

 「イングランド民族主義なるものは存在した。しかしそれはブリテン島内の少数民族には共有

されてはいなかった。アメリカ合衆国へのイソグランドからの移住者たちは民族的自負が高く,

アメリカ市民化することに熱心ではなかった。ただしウェールズ人とスコットランド人の移民は,

そうした忠誠心は何ら持っていなかった。彼らはイギリス市民権のもとでと同様アメリカ市民権

のもとでも誇りをもってウェールズ人,スコットランド人でありつづけることができたし,こだ             (4)わりなく帰化することができた。」

 ここでのイングランド民族主義と対比してのスコットランド人のアイデンティティの特微づけ

には,彼独特の方法論が根底にあってのことではあるが,それにしてもいいえて妙である。すな

わち,次のようにのべてその視点を明確にしている。

 「国民国家を形成せんとする運動と「民族主義」との間には根本的な差異が存在した。前者は

後老雌脚していると主張しつつ政治鵬築物を建設せんとする企図であ。親」

 「ともあれ,その性質と企図が何であれ,「民族理念」を掲げる運動は成長し広がっていった。

それらはしかし,それほどしぼしぽ一むしろ通常el; -20世紀初頭までに標準的な(そして極

端な)ナショナリズムの綱領となったものを表現してはいなかった。すなわち各「民族」のため

の,完全に独立した領土的,言語的に同一の世俗的一そして概して共和制的・議会制的な一

(3)EJ. Hobsbawm;The Age of Capital 1848-1875,1975(柳父・長野・荒関共訳r資本の時代1848

 -18751』1981年,124ページ)。

(4)EJ. Hobsbawm,前掲訳書,126ページ。

{5)同書,124ページ。

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 (3)            スコットランド資本主義の一断面              3

                    (6)姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 このように民族主義を広くとらえ,むしろ国民国家形成の政治的運動と質的な違いをもったも

のとして区別するとき,スコットラソドのナショナリズムを鮮明にとらえることができる。その

源流は,中世において一定の国家的背景をもちながらスコットランド人としての統合の過程が進

んではいたが,そこでの政治過程の発展はまた前近代的な段階でしかなかったので,むしろ文化

酌,社会的統合の意味が強かったようである。

 「スコットラソドの民族的統合の源泉に関しての試論的調査結果がいくつかある。それが安定

し,定着した種族をつくりあげていくような“人種”ではないことは,自明のことである。われ

われは,議論の余地のない雑多な種族を対象にあつかっている。かりにわれわれが9~10世紀に

新たに常用語としての英語を創造して,以前の文化的アイデンティティと言語をさらに効果的に

のりこえようとしたケルト族支配の王国を定着させた社会的力について,より多くのことを知る

                 ⑦必要があるとしても,そういえるのである。」

 たしかに,スコットランドは,スコット人,ピクト人,ブリトン人,ヴァイキングなど多くの

種族が住みつき,生活する地域であったものが,ひとつのスコットランドにしだいに統合されつ

つあった。この統合の過程で,英語を常用語として定着させてきたことは,スコットランド人の

アイデンティティを考える場合に重要な要素となろう。即ち,ひとつのスコットランドへの過程

は,イングランドから完全に分離していく過程として実現していったわけではない。むしろ英語

地域としてうけいれつつ,スコヅトランド的文化をうみだしていったのではないだろうか。この

ようなスコヅトランド社会及びスコットランド人の形成の過程とそれを促進した「社会的力」を

追求していく課題は大変興味あるテーマではあるが,本稿の課題ではない。

 こうして形成されてきたスコットランドは二つの側面をあわせもっていた。それはいっそうイ

ングラソドの発展過程へ接近していくという側面と,イングランドとの異った種族的,文化的,

特質を形成していくという側面であった。この過程のひとつの節目をなしたものが,1707年のイ

ングランドとスコットランドの政治合併であるということができよう。

 「スコットランドの場合は征服されたのではなく,18世紀初頭,その独自の司法制度,教会,

纐制度を温存しながら,「進んで」イソグランドとの合併(一.オ。)に入りこん恩」と計,

れているように,この合併への動きは,スコットランドの側により強くあったようである。

 「アイルランドとは全く異って,スコットランドにおいては,封建的秩序の崩壊はまったく問

題となっていなかった。ガルウエイとカウンティ・コークにおこったように,いわゆる早くから

定着していた商業的封建制度の基礎での衰えということもなかった。ある場合には,制度の基本

的要素はイングランドにおけるよりも堅固に基礎づけられていて,腐蝕も少かった。ところがス

(6)同書,125ページ。

〈7)John Foster;“Scottish NatiQnality and the Origins of Capitalism”(Tony Dickson ed., Scottish

 Capitαlism, 1980, p.35).

{8)飯島啓二,同論文(前掲書,171頁)。

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 4            『明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月)          (4)

コヅトラソドの上層部ではある種の危機の到来や,アイデンティティの危機の接近が感じられて

いた。トップにあった半ダースの家族集団は英・仏の植民地化を目論んでいたし,商業的封建主

義によって得た大きな収益で,地域的治水をおこない,農奴をおいたて広大な領土づくりをおこ

                             (9)なっていた。彼らはまたイングラソドにも広大な領地を所有していた。」

 つまり,スコットランドの封建的支配階級は自己の利益と体制をまもっていくための政策とし

てイングランドとの政治的合併を選択した。そしてイソグランドとの政治連合を形成した。この

合併=ユニオンは,ウェールズのようなイギリス化ではないと言われてはいるが,スコットラン

ドの政治的独立を放棄したことは事実であり,連合王国の政治制度の一部にくみこまれたのであ

る。

 ボブスボーム氏がその著書の対象とした時期(1848~1875年)においては,そこで指摘されてい

たようにスコットランドは,「国際的問題」や「国内的問題」の提起は何ひとつおこなっていな

                                       ㈹かったのであり,従って人びとは「国民」国家としてイギリスをみてしまっていたのである。

 スコットランド国民党は,さらに時代を下って,今世紀に入ってしかも20年代になって結成さ

れ,「国内」の新たな課題を提起することとなったのである。スコットランドの資本主義がその

全盛期を過ぎてからナショナリズムが台頭し,さらに第2次大戦後において,いわゆる「ブー

ム」を形成したということができよう。

 1707年の政治合併は,経済的統合への道を開いたのではなかったのか。換言すれぽ,1707年は.

スコットラソドをも含めたイギリス国民経済の形成を約束するものではなかったのか。たしかに

スコッbラソドを含めたイギリス国民経済は形成され,発展したということはできるのであろう。

しかし,イギリス国民経済のなかで,スコットランド資本主義の発展があり,イギリス全体の国

民経済とは異った歩みをスコットランド資本主義は形づくってきたようにみえるのである。すな

わち,スコットラソドのアイデンティティの基礎の一端をスコットランド資本主義に接近するこ

とによって解明してみたいと思ったのである。

(2)

 アイルラソドとならんで,スコットランドはヨーロッパ社会の周辺地域を形成していたが,ヨ

ーロッパにおける重商主義の展開はスコットランドの商業的役割にひとつの転機をもたらすこと

になった。すなわち,オランダが貿易立国として発展していくにしたがって,スコットランド商

人は,ヨーロッパ市場からしだいにしめ出されていった。この変化は,スコットランドとイング

ラソドの経済的結びつきをますます強化していくことになったのである。

 「スコットラソドにとってのヨー-Pッパ市場の崩壊の進行にともなって,その輸出市場は,ま

だ完全にはしめだされてはいなかったイングランドへとしだいに転換した。これに最も関連の深

(9) John Foster, op. cit.,(Tony Dickson ed.;PP.42-43).

⑩ 19世紀の産業革命を契機にナショナリズムの高揚があり,自立化への声も高まってはいた。(北政巳

 著『近代スコットランド社会経済史』1985年,参照)

Page 6: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 (5)            スコットランド資本主義の一断面              5

                                     ωSC・商品は,資本主義的にみて重要性の高い,リンネル,石炭,塩,家畜の4種であった。」

 スコットランドがイソグランドから自立した経済発展をしていくためには,そのヨーロッパ社

会の周辺地域という立場を十分に活用していくことが必要であったが,ヨーロッパの経済的発展

・は,スコットラソドのこのような立場を切りくずしていった。スコットランドの商業活動の利益

はイギリスに接近していくことによってまもられていくことになった。

 「(合併の)経済的規定についてみると,スコットランドからイソグラソドとその植民地への貿

易に対する制限の撤廃が,結局のところより多くの影響をもたらしたのだった。1707年以前にお

N・ても,その制限にもかふわらず貿易の新しい形態がすでに開設されていたが,しかし,合併は,

それをスコットランド経済史のなかで画期にしたてるに充分な相違をつくった。この相違は,合

併以前の経済政策にもはっきりあらわれていたが,イングランドの経済的成功を見習うことを完

全にやりとげることにあった。それは対外的,対内的という二つの側面からなっていた。対外的

要因は,スコットランドのヨー一一 Pッパからイングランド,さらにアメリカへの貿易の環の再構成

の完成で,これは大変利益の多い成果をもたらした。……(略)……………合併による対内的変

化は,スコットランドの経済政策の目的を,競争的ではなくて,補完的な行動をとおして,イギ                                      ⑫リス経済の成功をめぐるラィパルと位置づけることを保証することによっておこっていた。」

 キャンベル氏の1707年の合併(=ユニォン)に対する評価は興味深いものがある。1707年を画期

.として位置づけるにあたって,「イングランドの成功に見習うことの完成」という特徴に目をむ

けている。すなわち,スコットランドの経済発展をイギリス資本主義の発展の道に求めたのであ

る。イギリス資本主義の発展の道をスコットランドで実現し,具体化していくこと,これが1707

年の合併であった。

 「25条の合併条約を調べると,少くとも16項目は経済事項を規定したものであった。つまり要

約すれぽ,スコットランドは,イングラソドとの統一関税の実施,植民地貿易への参画,鋳貨や

課税の均一化,「合併」による特権喪失を「代償」として財政的な報償を受けることなどが強調

されていた。

 このようにしてスコットランドは,イングランド国境での関税障壁や海外プランテーションで

の「航海条例」による通商障害から「自由」となり,イングランドと同じ恩恵を享受できること

・になった。そして18世紀初頭の経済危機,ダリエソ会社の破産や1704年のスコットランド銀行の           (13)危機を脱することができた。」

 こうした過程を経て,スコットランドは,合併によって,世界市場においては,イギリスの立

場にたつことができたのであり,イギリス商業資本による世界的商業網を形成していく過程に自

らも主体として参加することができたのである。換言すれば,17世紀に失いつつあったその海外

市場を,イギリスの立場から,再編成することに成功した。こうしてスコットランドの発展への

⑪Willie Thompson;“From Reformation to Union.”(Tony Dickson ed., op. cit., p.84)

⑫ R.H. Campbell;Scotland since 1707, The Rise of an 1π4%5師αZ Society,1985, pp.7・-8.

⑬ 北政巳著r近代スコットランド社会経済史』1985年,46ページ。

Page 7: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

6 『明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月) (6)

条件ができあがったのである。

 当時の貿易拡大の一端をみると,1755年のスコットラソドの輸入と輸出の額は,46万5412ポン

ドと53万5577ポンドであったが,1777年には各々,121万3360ポンドと185万7334ポソドであった。、

この貿易拡大に大きな役割をはたしたのが,タづコとリソネルであった。アメリカから輸入され

たタバコはイングラソド,ヨーロッパへと再輸出され,スコットラソドで生産された粗リソネル

の市場は,アメリカであった。アメリカへの粗末なリンネルの輸出は1755年の82万ヤードから・

                      ⑭1770年には211万8936ヤードへと大きくのびている。このスコットラソドの貿易形態は,アメリ

カの独立戦争によって大きな打撃をうけることになる。1775年に100万ポンドにまでおちこんだ

                              ⑮輸出は1790年代までつづき,80年代後半には大幅な輸入超過に苦しむ。

 この貿易の状況を当時のイソグラソド・ウェールズの貿易と対比してみると,合併によって得

たスコットラソドの経済的利益の基盤の弱さを知ることができる。イングラソド・ウェールズに

おいてもたしかに輸出のなかで,アメリカ向輸出は,1761~70年平均の359万6000ポンドから

1771~80年平均の66万ポンドに激減している。しかし1781~90年平均では370万2000ポソドに回                           ael復し,1791~1800年平均では976万5000ポンドに急増している。スコヅトランドの場合は90年代

の後半にイングランド,ウェールズのあとを追って急速な回復から拡大へと進んでいく。ここに

スコットランドの特徴があらわれているように思われるのである。

 ところで,このスコットランドの状況をアイルランドと比較してみると,合併のもつ経済的側

面における積極性を確認することにもなる。

 「アイルランドの銀行業は,1750年代半ぽの危機に際して,その勢いを失っていった。その当・

時の銀行券発行高は,100万ポンドをこえたといわれていたが,それは半減し,その回復には,

1790年代のはじめまでかかったのである。しかしながら,他方スコットラソドは,18世紀の後半

に著るしい成長をしめし,銀行券発行高は1772年までに86万4000ポンドであったものが,1802年一

セこは300万ポンドに達していた。1人当りでみると,1770年代におけるスコットラソドの通貨量

                     ㈲はアイルランドの3~6倍になっていたであろう。」

 ここにあげられているスコットランドとアイルラソドとの対比は,大変興味深いものがある。

少くとも18世紀前半までは両者の経済は大変似かよったもの,ないしはアイルランドの方が進ん

でいた,換言すればより貨幣経済化がすすんでいたということを示しているようである。他方ス

コットランドは対外的商業活動においては,たしかに拡大過程をえがいてはいたが,対内的にば

きわめておくれた経済,すなわち,封建的土地制度のもとで,貨幣経済の発展は農村にまでは及

aの Keith Burgess;“Scotland and the First British Empire 1707-1770s:the Comfirmation of Client

 Status.”(Tony Dickson ed.;op.cit., p.99)

⑮ 北政巳,前掲書,参照。

⑯ 宮崎・奥村・森田編『近代国際経済要覧』1981年,56ページ。

⑰ L.M. Cul’len&T. C. Smout;“Economic growth in Scotland and Ireland.”(LM. Cullen&T.C,.

 Smout ed。;Comparative Aspects of Scottish and lrish Economic and Social Historpt 1600-1900,.

 1977, p.11)

Page 8: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 (7)            スコットランド資本主義の一断面              7

んでいなかったのである。

 ところが,18世紀後半になると,事態はまったく逆転してしまうのである。すなわち,スコッ

トランドにおける貨幣経済の発展は,にわかに速度をはやめ,農村への資本主義的諸関係の侵透

は急速に勢いをましていった。「合併は,地方における市場関係の侵透を促進したというだけで

はなくて,貿易と商業の中心が,その農業的後背地をも吸収してしまったのである。そしてスコ

ットランドのイングランドへの18世紀の家畜貿易の急速な成長は,地方農業の市場指向を強めて

          ㈹いくことの証拠となった。」

 合併後にスコットランドはその対外商業を拡大していくが,そのなかで,イングランドへの羊

毛の供給を拡大し,商業と結びついた農業生産の拡大がすすむ。そして農場の再編成もおこなわ

れ,その過程で,土地から排除された農民(農業労働者)も大量にうみだされて,農民たちは農場

                                   ⑲主と雇傭契約を結んで一定期間住みつき農業労働に従事する,いわゆる「飯場制度」が導入され

る。また,農場からしめだされた農民は,都市へ移動し,工業労働者となっていった。

 「イングランドとスコットラソドの工業地帯の人口は,農業地帯からの移民によって増加した

のであるが,農業地帯では,人口増加は生活手段の増加よりもはやかった。ハイランド地方で氏

族間の闘いがおとろえると,ローランド地方,とりわけエジンバラやグラスゴーなどの都市への        ⑫⑪移民がおこなわれた。」

 このスコットランドにおける貨幣経済の拡大=資本主義化の発展は,それまで,維持されてき

た伝統的社会=封建社会を根本的に変えていくものであった。すなわち,スコットランドの支配

層は,その地位をまもろうとして合併への道を選んだ。少くともより強力な権力によってのその

地位の維持が必要とされたのではあった。そのことは対外的にはその経済的利益を拡大,強化し

ていくことに結実していったのであるが,対内的にはその地位の単なる維持ということでは事態

は安定するはずのものではなかった。すなわち上からの資本主義化の発展が,18世紀後半のスコ

ットランドにおける課題となった。

 すでに引用したキャンベル氏の指摘にもあるとおり,スコットランドの支配階級はイギリスを

手本とすることζよって,自らはイソグランドに従属し,イングランド資本主義を補完していく

ものとして位置づけて,その資本主義化をすすめていったということができる。

 「1707年以後のスコットランドが,政治的独立を犠牲にしながら,経済的収益を獲得してきた

過程は,スコットランド社会における土地と商業によって形成された資本をもつ支配階層が,彼

                                       ⑳らの従属的,もしくは隷属的地位をうけいれてきた程度をしめすものとして重要なのである。」

 たしかに,1707年の合併は,スコットランドに引返すことのできない,歴史の過程をつくって

しまった。それは,自らすすんでスコットランドとしての政治的独立を放棄した。それには歴史

㈱ Tony Dickson;op. cit., p.90.

 ⑲ Tony Dickson;ibid., p.93.

 ⑳、F.RJ. Jervis;The Evolution()f Modern lndustry,1960,(町田実監訳『現代企業の発展』1962年,

 84ページ)

 ⑳ Toney Dickson;op. cit., p.102.

Page 9: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 8            『明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月)          (8)

的背景のあることについては,すでに指摘した。にもかかわらず,このことのもつ政治・経済的

意義は大きい。スコットランドの経済発展の出発点はここに定まったのである。

 北氏はつぎのようにその意義についてのべている。

 「スコットランド社会・経済にとっては,1707年の「合併」はイングラソド後期重商主義体制

への対応を試みる変革点であった。それはまた,同時にスコットランドの商業革命の開始点であ

り,工業化への助走であったといえよう。」

 こうして19世紀にスコットランドは産業革命に突入し,本格的に資本主義への第一歩をふみだ

すことになる。スコットラソド資本主義としての発展過程がはじまる。それは出発点において,

イングラソド資本主義を前提としていたし,またイングラソド資本に従属しながら,資本蓄積を

すすめ,資本主義的工業化をすすめることになった。そしてつねにイングランド資本主義を補完

していくという立場から脱けだすことができなかったのである。

(3)

 イソグラソドにおける産業革命は,1760年代において,自動紡績機の発明による綿紡績業の変

革によって展開された。この産業革命のたしかな足どりは,イギリス綿工業の綿花消費量の増加

の過程をみることによって確認されるのである。

 「1760年代まで僅かの例外を除いて400万ポンド(重量)を大きく超えることのなかった綿花消

費量はすでに1770年代後半には600万ポンドの水準を超えるが,爆発的成長は,1780年代から始

まる。過渡的諸恐慌による一時的後退を伴いながら,1825年には1億6700万ポンドにまで,すな

わち,1770年代後半の約28倍にまで達している。このような巨大な生産力の創出は,すでにのべ

た,綿紡績業における機械導入,工場制度の成立を基軸としているが,綿工業の他の諸工程の照             ㈱応的変革なしには達成できない。」

 産業革命は,いうまでもなく動力機,伝導機,道具機からなる機械体系の完成によって実現す

るのであるから,単に綿工業の変革によってなしとげられるのではなく,機械工業の出現をも含

む,全産業の変革と,近代的工業体系の実現によって完成するわけである。そしてこの完成が,

機械制大工業の飛躍的な生産力の増大,その製品の世界市場制覇,原料の大量の輸入などのイギ

リス国民経済の諸指標の上に明確にあらわれてくるのは,19世紀の20年代になってからである。

 このような産業上の大変革は当然のことながら,その国内経済のあり方を大きくかえて,いわ

ゆる資本主義工業を中心とする近代国民経済の形成へとすすんでいったのである。

 「17世紀末(1688年)に約75%をしめた農業人口は,19世紀の初頭には36%となり,これにたい

して17世紀末に15%に過ぎなかった商工業人口は,1801年セこは工業だけで30%に上昇している。

1801年におけるこのイギリスの職業構成は,アメリカでは1900年になってはじめて達成された数

字であり,フランスでは1931年になって実現されたことと考え合わせると,イギリスは19世紀初

⑳ 北政巳著,前掲書,52ページ。

㈱ 藤瀬浩司著『資本主義世界の成立』1981年,17-18ページ。

Page 10: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 (9)            スコットランド資本主義の一断面              9

頭においてすでに他のすべての「国民経済」とは全く異質の経済構造をそなえていたことが判明

する。」

 このような国民経済の変革は,スコットラソドをも含めたイギリス国民経済の統合,国内市場

の統一へとすすんでいった。産業革命の中核的役割を担う蒸気機関の発明は,スコットランド人

J.ワットによるもので,彼は1784年に特許を獲得している。この蒸気機関が蒸気機関車として

鉄道で活躍するまでには,しばらくの年月を必要とした。ジョン・スティーヴソソソが,細いレ

ールの上をはしる機関車をつくるのに成功したのは,1814年のことであった。それにしてもこの

鉄道は,主として炭坑からの石炭などの運搬用に使用されていたが,1830年代になって一種の

r鉄道ブーム」が出現して,1838年までに鉄道の営業距離はイングランドとウェールズで,490マ

       ⑳イルに達していた。

 しかし,スコットランドでは,当時の営業していた鉄道はわずか50マイ~レであった。スコット

ランドの運輸の主役は,まだ運河にあったし,人々の往来は,道路にたよるところが大であった。

こうした状況のなかで,1842年になって,ようやく,エジンバラとグラスゴーを結ぶ鉄道が開通

している。しかし,この鉄道も貨物の輸送が主であって,人間の往来には,まだ蒸気機関車の安

全性が確認されていなかったので,エジンバラとグラスゴー間で客車サービスが開始されたのは,

1871年になってからであった。

 スコットラソドでの鉄道の普及が,イングランド,ウェールズにくらべて,比較的おくれたの

は,やはり産業革命との関連性にあるように思われる。この関連性について,北氏はつぎのよう

にのぺている。

 「先進地域のイングラソドでは鉄道業が産業革命の「完成」であったのに対し,後進地域スコ

ットランドでは,鉄道業が本格的な産業革命展開の「推力」を担った点である。つまり,鉄工業

の発展により1830年代に本格的な工業化過程に入ったスコットランドは,1840年代中葉に銑鉄輸

出を中心にイギリス重工業の基幹地域を形成し,同時に綿工業以来の技術発展と併せて機械工業

を発達させ,その「鉄」と「機械」の合同所産としての鉄道業を開花さぜたのである。この鉄道

ネットワークは,山間僻地や沿岸沿いの漁村を連結し,スコヅトランド全域の統一市場圏を創出

 eりした。」

 すでに指摘されているとおり,19世紀初頭に,イギリスの国民経済は大きな変貌をとげていた。

そういう意味では,イングランドは,この時点で産業革命の完成期に入っていたということがで

きよう。ところが,鉄道の発達のための物質的,技術的条件がととのったのは,1814年以降であ

ったということになる。従って,鉄道の発展及び鉄道網拡大の条件が,スコットランドとイソグ

ラソド(ウェールズも含めて)とでは本質的違いをもっていたのである。

⑳ 河野健二・飯沼二郎編『世界資本主義の歴史構造』1970年,47ページ。

㈱ 北政巳著,前掲書,195ページ。

㈱ F.R. J Jervis;op. cit.,(訳書,前掲書,186ページ)

⑳ 北政巳著,前掲書,211ページ。

Page 11: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

10           『明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月)          (10)

 近代的運輸機関として,鉄道が従来の運河やその他の車輔にとってかわるには,蒸気機関車の

改良と発達を必要とした。こうした改良が実現していくとともにイングランドにおいては1840年

代から50年代にかけて鉄道の急速な普及をみたのであるが,この時期は,北氏の指摘にもあると

おり,イングランドにおいては,すでに産業革命の完成期に入っていた。これは,第1表におい

てもはっきり確認することができる。

 すでにイギリスの綿工業は,1820年代には世界市場からインド製品を駆逐し,さらにインド国

内市揚にも大量な綿製品が侵透していたのである。この事実は,イギリスの機械制大工業が確立

                 し,しだいに「世界の工場」としての性格が定着しつつあ 第1表英・印綿製品貿易の変化

         (単位:ヤード)  ることをものがたっている。世界市場においてはこうして

1814

1821

1828

1835

イギリス綿製品のインド向け輸出額

 818.208

19,138,726

42,822,077

51,777,277

インド綿製品のイギリスの輸入額

1,266,608

 534,495

 422,504

 306,068

出所:Tara Chand;History of the

   Freedom Movement in In-   dia, Vol.1, p.378.

イギリス工業の優位が確立していったのにくらべて資本に

よるイギリス国内市場の制覇,その国民市場としての統合

の過程という視点にたってみると,スコットラソドに対し

ては,まだ産業革命の波はたどりついたばかりで,近代的.

産業への胎動は,はじまったばかりであった。

 スコットランドでの産業革命は,イングランドにおいて

急速に発達した綿工業の普及という形をとって,1830年代

になって展開されていった。第2表において,スコットランドの原綿輸入量と綿製品輸出量の増

加の状況から,スコットランドの綿工業がこの年代に輸tll産業として急速な発展をしめしたこと

を確認することができる。

 当時,イギリスの綿製品に対する世界市場

’第2表スコットランド綿工業の輸出・入

               (1781-1867年)

の拡大については,第1表のもつ数字の意味

からすでに指摘したのであるが,この市場拡

大がスコットランドへの綿工業の普及を実現

したのであり,スコットランド綿工業には,

技術的な面からもイングランドに依存すると

いう弱点をもっていた。従って,イングラン

ドの綿工業との競争に直面しながら,それに

うちかつ競争力を他に求めることが要求され

ていた。

 その第1が,石炭のコストダウンの実現で

あった。スコットランドの石炭産業は,

原 棉 輸 入 綿製品輸出

1781年

1790

1800

1810

1820

1830

1850

1860

1867

 5,198,778ポンド

 31,447,605

 56,010,732

 132,488,935

 151,672,655

 263,961,452

 694,996,000

1,345,597,600

1,400,308,400

  96,788ポンド

  844,154

 4,416,610

 8,787,109

 6,024,038

 8,534,976

108,294,800

243,600,000

406,016,000

                      (資料)D.Bremner, The Industries of Scotland,                         A.M. Kelley. New York,1969, p,272.

                      出所:北政巳r近代スコットランド社会経済史研究』1985

                        年,149ページ。

                  1780年代から開発されていたが,排水技術と労働力不足

のために思うようにその生産力をのばすことができず,その地の産業革命の展開に障害となって

いた。この問題を解決したのが,蒸気機関の発達であった。それは,炭鉱の開発をすすめるとと

もに,鉄道による石炭の運搬が実現して,石炭の価格を引下げ,スコットランドの工業を一挙に

開花させたのである。1826年に開通したモンクランドとキルキントPック鉄道は,スコットラソ

Page 12: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 (11)            スコットランド資本主義の一断面              11

ド西海岸とエジソパラを結ぶことにもなった。この影響について,キャンベル氏は次のようにの

べている。

 「鉄道によって実現した安価な石炭の利益は,グラスゴーよりもむしろエジンバラの方が受け

ていたのではないかというグラスゴーやそのほかの市委員会の恐れは,あきらかに正しかったし.

                      とくに西部での価格が低い場合にはそうであった。」

 スコットランドに普及していた鉄道は,従来の交通網を再編成するとともに,運賃を低下させ

て,産業にとって有利な条件をつくりだしていった。この鉄道の普及は,スコットランドのハイ                                      ラソド地方をも貨幣経済化の波であらうことになり「高地清掃」(Highland Clearance)の過程が進

行し,グラスゴーやクライド地方への労働力移動がすすんだのである。

 こうして,スコットランドにおける工業化過程の重要な条件である低賃金での労働力の供給が

実現したのである。

 「疑いのないことだが,豊富な労働“予備軍”が,スコットランドの繊維産業における資本に

対して,イングラソドの場合よりもより安い賃金で,労働者を手に入れることを可能にしていた。

こうしたたすけで,スコットラソドでは比較的おそくまで,国内制度が残っていたのである。工

場の工員においてさえも,スコットラソドの平均的週賃金は,一般的にみて,1830年代と1870年

代の期間に,繊維産業の中心地,ランカシャーで一般化している水準よりも20%程度低かったし,

1850年代以降では,スコットランドの綿工業はすでに下り坂に入っていたので,この相違はさら

      eeに拡大していた。」

 スコットランドの産業革命は,イングランドのその完成の後に,その波及として展開されてい

った。どこの場合でもみられることだが,スコットラソドにおいても綿工業の発展という形態で

進行した。ところが,技術的には,つねにリバプールに依存していたがために,スコットランド

綿工業は,イソグランドにおけるそれの補完的なものという性格からぬけだしえなかったのであ

る。だから,1860年代を境にしだいに衰退していくことになる。そして特殊な技術の開発に成功

した「円形刺繍」や「肩掛け」などの生産に特化していくことになる。こうしてイングランドの                                           綿工業の補完という従来からの性格が,より強まっていくことを証明することとなったのであるcr

 産業革命が進行し,スコットラソド内部の資本主義化も急速にすすんでいく過程で,スコット

ランド自体の綿工業が衰退の過程をたどるということは,スコットラソド経済の独自性がしだい

に失われ,イングランド経済との統合がすすみ,イギリス国民経済の一部に再編成されていくこ

を意味しているのではあるまいか。そのように理解することができるように思う。

 「1840年代の鉄道マニアがもたらした変化は,以前こはあきらかだった地方のネットワークと

は異ってプPジェクト数は多くなかったが,幹線ラインシステムの完成となっていたとL・うこと

㈱ R.H. Campbell;op. cit., p.76.

㈲ 北政巳著,前掲書,211ページ。

B①Keith Burgess;Workshop of the World:Client Capitalism at its Zenith,1830-1870.(Tony

 Dickson ed.;op. cit,, p.186)

BD 北政巳著,前掲書,150ページ。

Page 13: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 12           r明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月)          (12)

である。この出現によって,スコットランド鉄道システムは,もはや単なるこの国の資源を開発

するためのものだというものではなくなった。それはスコットランドとイングランドの異った地

域間での交通の手段を整備し,乗客を運んだのであり,さらにそれはこの国の工業の拡大がます

ます依存するようになった海外からの需要の開拓のためにも非常に重要だったのであ碧。」

 このキャンベル氏の指摘は,大変重要な意味をもっている。鉄道の役割が,19世紀半ばにはっ

きりと変ったのである。スコットランドはイギリス国民経済に再編成されてきたこと,すなわち,

イギリスの国内市場はシティーの資本のもとにスコットランドをも含めて統合されることになっ

た。この過程は,スコットランドの産業革命の進行と同時にすすんでいった。従って一面では,

スコットランドの資本主義化は,イギリス資本主義への統合でもあったのであるが,しかし,他

面では,スコットランドの産業革命がすすむにつれて,スコットランド資本主義の独自の展開過

程をもつくりだしていくことにもなったといいうるのではあるまいか。

 スコットランド産業革命は,海外市場への依存をよりいっそうつよめながら促進された。綿工

業が1860年代以降衰退していくのも,その海外市場における競争で,しだいに後退していかざる

,を得なかったのが,最大の要因である。

 綿工業のあとをうけて,鉄工業がスコットラソド近代産業の代表として登場してくる。スコッ

トランド資本主義は,新たな段階へとすすんだのである。

(4)

 19世紀後半にイギリス国民経済の統合が急速に進み,産業革命期を経たスコットランド経済は,

イギリス国民経済の一部といった性格を強める。この統合化の過程が進めぽすすむほど,その独

自な発展形態もより強くその輪郭をえがきだすことにもなっていった。

 そのひとつとしてあげられるのが,資本蓄積の形態であろう。合併=ユニオンの時期にはいわ

ゆる民族性を色こくおびていた「スコットランド銀行」が,合併に反対する勢力を助勢するなど

したが,その根底には,イングランド銀行に対抗するスコットランドにおける中央銀行としての

スコットランド銀行という意識があった。

 ところが,合併後のスコットランドの政治・経済状況は,この銀行の意図が実現するようなも

のでなかった。すでにのべてきたようにイングランドにおける急速な経済の発展に順応していく

ことがスコットランドの発展の道であったし,1707年の合併によってその軌道がしかれたのであ

るから,こうした路線に沿った銀行の誕生が必要であった。

 1727年に設立された「王国スコットランド銀行」(R・yal Bank of Sc・tland)はこうした政治・経

済的背景のもとで,「イングランド銀行に順応するスコットランド地域代理銀行として設立され

た」ものである。当時のスコットランドの資本蓄積の規模では,イングランド銀行に対抗する銀

㈱ RH. Campbell;op. cit., p.78.

㈱  ibid., P.88.

鋤北政巳著,前掲書128ページ。

Page 14: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 (13)            スコットランド資本主義の一断面              13

行の設立によって,スコットラソドの産業発展を支えていくことは到底無理であった。そこに,

王国スコットランド銀行設立の意義があった。この銀行は資金の枯渇に悩むことなく,スコット

ランドの経済発展に即応して業務を拡大していったといわれている。

 18世紀の後半には,王国スコットランド銀行を中心とした銀行業の再編成と近代化がすすみ,

「スコヅトランド銀行」はグラスゴー,アパディーソ,ダンディーなどへの支店網を拡大してい

き,地域産業の発展に資するようになり,両者の共存と発展がはかられた。.

 「18世紀末になると,スコットランド銀行,王国スコットランド銀行の両行ともスコットラソ

ド社会経済の中枢機関となり,それらを中心にスコットランド独自の銀行・金融制度を形成して

いった。そこにはイングランドのイングランド銀行に「順応」しつつも,独自なシステムを維持

           80するという姿勢がみられた。」

 スコットランドの独自のシステムの第1は「支店制度」である。スコットランド銀行により発

案されたといわれ,スコットラソドの商品・貨幣経済の拡大を促進した。第2は「現金信用制

度」で,これは,財産のある個人に容易に信用を与えるもので,この方法での融資によって企業

経営に進出したものが多くでたとのことである。第3は,「任意選択権」制度で,免換券に呈示

後6カ月後には,利子を加えるというものである。これは信用創造に役立てられたといわれてい

る。

 このようにたしかにスコットラソド独自の銀行・金融制度がうみだされ,そのことが,スコッ

トランドの経済発展をおしすすめた意義は大きい。「商人の直接・間接の参加が木綿工業に対す

る投資において,その初期の段階においてさえ,きわだった主要源泉を構成してはいなかった」

と言われているように,スコットランド産業の発展を促進したのは,その植民地貿易によってえ

られた商業利潤の産業資本への転化によるよりも,イギリス全体の資本蓄積を通じて,その一環

としてスコットランドに投資された資本,ないしは,スコットランド資本とロソドン・シティー

の金融市場を通じて投資された資本との結合が大きな役割をはたしたのである。

 ところで,このように,イギリス資本主義に組込まれ,その一部に転化してくることによって.

スコットランドの産業活動は,それに従属してしまうことになる。

 「合併以後のスコットランド経済の変化の方向は,直接的にイングランドにおける大部分の資

本の利子の変動の影響をうけるようになったが,その資本は,イギリス資本と直接競争するとい

うよりも,むしろ補完的な生産活動の形態で,スコットランド資本として結びつく傾向にあっ⑳

た。」

㈲ 同書,128ページ。

㈲ 同書,141ページ。

㈱ 同書,130-142ページ。

劔Tony Dickson&Tony Clarke;The Making of Class Society:Conmercialization and Working・

 Class Resistance 1780-1830(Tony Dickson ed.;of》. cit., P.146).

㈲Keith Burgess;W。rkshop of the World:Client Capitalism at its Zenith,1830-1870(Tony

 Dickson ed.;ibid., p。182).

Page 15: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

重4 『明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月) (14)

 スコットランド資本がしだいにロンドン金融資本に結びつけられていくということは,スコッ

 ・トランド自体の経済の動向とは関係なく,その運動を展開してことにもなるし,また他方では,

スコットラソドにおける産業の発展=工業化が多くの利潤を保証するかぎりでは,イソグランド

の資本をもひきこむことによって,その工業化を加速していくことになる。しかもスコットラソ

ドの工業化はイギリス資本の形成・拡大してきた世界市場と結びついていることによって,その

発展のためのすぐれた条件をもっていたのである。

 「スコットラソドの工業化は,製造品のための世界市場を拡大しつづけている,すぐれたイギ

リス資本の力量によって形成されたのである。このことは単に海外での市場に前もって依存して

いたというだけではなく,海外で,つぎつぎと市場を創出していくというイギリス(ブリテン)

                    の力量に依存しているということなのである。」

 こうしてスコットランド資本主義は,イングラソドとの統合を一方ではよりいっそう深めなが

ら,他方では,1707年以来,刻印されてきた従属的・補完的性格を強化しつつ,その独自の道を

歩むことになっているのである。すなわち,その産業革命の急速な発展と産業構造の重工業化も,

スコットランド経済の急速な展開を形成しているのではあるが,その過程の内実は,いっそうの

イギリス資本主義への従属性をつよめ,イギリスのつくQだした「パクス・ブリタニカ」の世界

によってはじめて実現しえた発展だったのである。

 スコットラソドの産業の発展は,世界市場の動向に影響されるため,目まぐるしく変化してい

った。19世紀半ぽには,その申心は鉄工業に移行し,イギリスの銑鉄輸出のほとんどがスコット

           ㈱ランドからのものであった。しかし,鉄工業の発展もそう長くはつづかないのであるが,幸いに

も,スコットランドの造船業の着実な発展が,新たな鉄鋼業への発展の道を開いたのである。

 ジャーヴィス氏はこの造船業の役割について次のようにのべている。

 「ひとたび,蒸気船が複雑な機械生産物になると,機械産業におけるイギリスの優位が感ぜら

れるようになった。アメリカでは,技術上の効率は高かったけれども,石炭や鉄が内陸にあり,

海岸に輸送するのに費用がかさんだ。石炭や鉄がクライド川の航海可能の水域近くに発見された。

造船業は,今日の自動車産業と同じく,組立て産業になり,多くの個別の技術に依存していたの

であるカ㍉こうした産業上の技術醐岸近くに存在してい健.」

 クライドを中心にスコットランド造船業がめざましい発展をとげるのは,19世紀後半になる。

鋼鉄船の建造技術とボイラー,エンジンの改良がこの産業の発展にとって,欠かせないものであ

った。蒸気機関で大西洋横断に成功したのは,1838年であった。しかも商業上で利用できるため

には,積荷のためのスペースなど考えられなけれぽならないので,ボイラーの改良による蒸気圧

力の上昇が第1に解決されなけれぽならない問題であった。そして次の段階の技術革新は,蒸気

⑳ Keith Burgess;ibid., p。182.

QOr1848年には,イギリス全体からの銑鉄輸出17万5650トンと比較して,実にスコットランドのそれが

 16万2114トンに達していた。」(Tony Dickson ed.;ibid., p。183)

勧 F.RJ. Jervis;op. cit.,(訳書,前掲書,197ページ)

Page 16: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 (15)            スコットランド資本主義の一断面              15

タービンの発明である。これは,スクリューによる推進と結びついて,造船業における画期とな

るものであった。1884年に蒸気ターピソによる最初の商業船舶がクライドにおいて建造されてい

る。

 「建造の面での鋼鉄の使用と推進力としての蒸気タービンの使用が,19世紀末から20世初頭にか

けての需要の増加にスコットランド造船業が応えた基盤を準備することと結びついていた。また

いくつかの造船所への海軍の注文によっても大いに助けられていた。1870年代から生産高は維持

されていたが,1890年代からは,生産高も増加し,1913年にはクライドからの進水量が756,976

トンという空前の記録に達した。1870年代から第一次大戦まで,造船業はスコットランド経済の

成長の要であった。」                        .

 この当時のいわば先端産業であった造船業を中心にしてスコットランド重工業群ができあがっ

ていた。鉄工業から鉄鋼業へと,つまり銑鉄中心から鋼鉄中心に変身していった鉄の生産とその

発展にもめざましいものがあった。そしてこの転換を促進したのが造船業だったのである。鋼鉄

船の建造による大量の鋼鉄への需要形成が,銑鉄輸出に支えられていたスコットランド鉄工業の

技術革新に刺戟となったのである。

 このスコットランドにおいて発展してきた重工業は,20世紀に入ると深刻な国際競争に直面す

ることになる。まず造船業において新しいディーゼル・エンジンの発明,それを推進力とした鋼

鉄船の建造が,イタリー,オランダ(1910年),デソマーク(1912年)でおこなわれた。そしてそ

の他の技術においても伝播と拡大がおこり,価格面における競争に直面することになった。スコ

ットランドは技術と原料及びエネルギーの面で優位をたもっていたが,すでにのべたように技術

格差はしだいに縮小した上に,原料・エネルギーの面でもしだいにその優位性が崩れてきて,国

際競争力を失いつつあった。

 パクス・ブリタニカを支えてきたものが,19世紀末近くになってくると,イギリス製造業のも

         第3表 イギリス国際収支構成の変化(5年平均,100万ポンド)

1851-1855

1856-1860

1861-1865

1866-1870

1871-1875

1876-1880

1881-1885

1886-1890

1891-1895

1896-1900

貿易収支(1)

一32.74

-33.72

-59.04

-65.14

-64.04

-123.74

-99.48

-89.08

-133.76

-158.94

商業・サービス収支②

十36.52

十50.98

十67.00

十84.06

十100.18

十101.16

十107.24

十103.56

十101.80

十109.72

その他(3)

一7.52

-7.56

-7.72

-9.24

-11.52

-8.94

-11.16

-11.06

-9.98

-10.66

貿易・役務計

一3.74

十9.70

十〇.24

十9.68

十24。58

-31.48

-3.20

十3.42

-41,94

-59.88

利子・配当

十11.72

十16.52

十21.78

十30.82

十49.98

十56.34

十64.76

十84.16

十93.98

十100.20

経常収支

十7.98

十26,22

十22.02

十40.50

十74.56

十24,86

十61.56

十87.58

十52.04

十40.32

(1)船舶売買,貴金属売買を含む。②商業利潤,信用収入,保険収入,船舶収入を含む。(3)移住者,旅行者,密輸に

ついての推計。

出所:A.H. Imlah;Economic Elements in the Pax Britanica,1958, pp.71-74.

鯉 R.H. Campbell;op. cit., p.174.

Page 17: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 16           r明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月)          (16)

つ国際競争力ではなくなりつつあった。

 第3表は,19世紀末のイギリス国際収支構造の変化を示すものである。19世紀半ぼから,イギ

リス対外経済関係では資本輸出が,重要性をおびてくる。というのは,商品輸出の面でも重工業

(=生産手段部門)製品の比重が増してくるからである。しかし,この資本輸出も1880年代以降は

国際収支上の利潤・配当による収入の大幅増加の必要という役割の方が重視されるようになった。

資本の輸出が19世紀後半以後,急速に拡大していくことによって,海外からの利子及び配当とし

ての受取分が大幅に増加してきた。1850年代には,年間1500万ポンド程度であった収入が,1870

年代には5400万ポンドの水準に達していた。そして19世紀末には1億ポンドの国際収支上の受取

となって,経常収支を黒字化するのに不可欠の項目となっている。

 こうした資本収益の急増は,海外における収益性の高い産業や事業活動に対してイギリスの資

本が投資活動を展開していったことを示している。ところで,このように海外への投資活動が活

発になると,国内産業の新たな設備や技術開発への投資は,しだいに縮小していくという結果を

もたらす。かつてスコットランドは大変取益率の高い投資の対象としてイギリス資本の関心をひ

いたのであったが,19世紀末近くになると,スコットランドの産業は,海外での激しい競争に直

面して,しだいに事業活動が困難になり,シティーの金融資本からみはなされていくこととなっ

た。そしてスコットランド資本自身も,海外投資に対して強い関心を示すようになり,スコット

ランド産業の停滞と不況が急速にすすんだ。こうして「近代帝国主義の特微の二つ,すなわち,

外国投資の促進をともなっての生産水準と市場の組織化が19世紀のおそくにはスコットランド資

               ω本主義にも非常に明碓iになってきた。」

 つねにイギリス資本主義の発展の軌跡をたどっていくことで,その発展の道をきりひらいてき

たスコットラソド資本主義は,20世紀の帝国主義の時代に入って重大な局面をむかえたようにみ

える。スコットランド資本もまた海外投資にその収益性の向上を求めることによって,イギリス

資本主義の補完的役割を演じてきたスコットランド産業は一路衰退への淵に立たされてしまった。

スコットラソド産業はイギリス資本主義の弱い環であったことを露呈していくことになったので

ある。

(5)

 The Economist誌1987年4月25日号は,“Scotland’s next revolt”という記事をのせている。

そして「もしマーガレット・サッチャーが,つぎの選挙で勝てぽ,イギリス政治におけるもっと

も騒々しい聞題のひとつとして,スコットランドの未来が急速に登場してくるだろう。」といっ

ている。というのも,「8年の間つづいてきた自治権移譲を求める声が,一大怒号に転化するか

もしれない」からである。

働 Tony Dickson;From Client to Supplicant:Capital and Labour in Scotland,1870-1945,(Tony

 Dickson;op. cit., p.249)

㈲ The Economist,25 Apri1-1 May 1987.

 ㈲ ibid,

Page 18: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 (17)            スコットランド資本主義の一断面              17

 1978年に自治権移譲を規定した「スコットランド法」が当時の労働党政府によって制定されて

いながら,保守党の要求により住民投票にかけられ,法律として公布するために必要な有権者数

の40%の賛成がえられず,結局,日の目を見るにいたらなかったのである。ところで,「最近り

世論調査の示すところでは,スコットランド住民の50%が,連合王国の枠内でのスコットランド

                                    qn議会を要求しており,さらにほかに32%の人が,完全独立を求めているのである。」

 っまり80%のスコットランドの人々が何らかの形で,スコットランドの自治権が大幅にみとめ

られ,明確な政治制度として確立されることを要求している。そしてこの要求は,サヅチャー政

権の政策と真向から対立することになるのである。サッチャー首相の奉いる保守党政権は,スコ

ットランドの自治権移譲に反対する立場を明確にしているからである。

            第4表 イギリス総選掌(1987年6月)の結果

保  守  党

労  働  党

SPD-Lib連合

スコットランド国ウ国

党ズ党

 ル

民一民

保  守  党

労  働  党

SPD-Lib連合

ド党ズ党

ン レ

ラ  ノ

ト民一民

ッ ェ

コス国ウ国

議  席  数

スコットランド

 10(-11)

 50(+9)

 9(+1)

 3(+1)

ウェールズ

 8(-6)

 24’(+4)

 3(+1)

 3(+1)

北イングランド

 66(-5)

 96(+7)

 4(-2)

 ミッドランド

南イングランド

292

59

6

 376(-21)

 229(+20)

 22(-1)

 3(+1)

 3(+1)

得  票  率

スコットランド

24.0

42.4

19.2

i4.0

ウェ ルズ

29.5

45.1

17.9

7.3

北イングランド

36.9

41.7

22.2

 ミッドランド

南イソグランド

50。5

24.0

25.0

43.3

31.5

23。1

14.0

7.3

1883年からの変化

スコットランド

一4.4

十7.3

一5.3

ウェ ルズ

一1.5

十7.5

一5.3

北イソグランド

一1.7

十5.4

一3.5

 ミッドランド

南イングランド

十1.1

十1.3

一2.2

1979年からの変化

スコットランド

一7.3

十〇.8

十10.1

ウェールズ

一3.0

一2,5

十6.7

北イングランド

一3.9

一2.9

十7.4

 ミッドランド

南イングランド

十〇.3

一9.0

十9.6

一1.6

一6。2

十8.9

(注)1.()内は選挙前との増減をしめす。2.変化は得票率の増減を示す。

出所:The Ecenomist, June 20,1987.

㈲ ibid.

Page 19: スコットラソド資本主義の一断面...(3) スコットランド資本主義の一断面 3 (6) 姻家をめざすといったものではなかったのである。」

 18           『明大商学論叢』第70巻第1号(1987年10月)          (18)

 今回のイギリス総選挙の結果は,このサッチャー首相に対してスコットランドの人々が完全に

その政策を拒否し,保守党の政策に反対であることを明確な形で表明したことを示している。第

4表にみられるとおり,イギリスの政治地図は,南北格差とその分裂指向を示し,しかも「サッ

チャー政府はイソグランドの政府」というスコットランドの人々の考えがますます拡がってきつ

つあることをしめしている。エコノミスト誌はその背景としての経済的格差の拡大をつぎのよう

に説明している。

 「北海石油は東北スコットランドには富をもたらしはしたが,この国は1979年以来その製造業

雇用(これはイギリス全体のそれより高い比率だが)の約3分の1を失った。他の不況地域一ウェ

ールズ,西ミッドランド,北西イングランドーでは昨年,失業は減少した。だがスコットラソ

ドにおいては,それは依然として増加しつづけている。」

 労働党とSPD-Lib連合は,スコットランド経済の回復と発展のために,ウェストミンスター

議会よりもスコットランド議会の方がより効果的な活動をすることができるだろうという立場に

たって,自治権移譲に積極的に賛成している。そして世論は,自治権移譲を強く要求している。

保守党はついにスコットランドで10議席という少数党に転落してしまった。今回の総選挙は,こ

うしてイギリス政治に,大きな地殻変動が着実におこっていることを明確に示したのである。そ

れは,スコットランド資本主義の発展によってもたらされた当然の結果であるとともに,サッチ

ャー政権の政策によって,それのもつ矛盾が,より鮮明にえがきだされることになったものだと

もいえるように思う。

⑱ ibid,