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ラフカディオ・ハーンLafcadio Hearn(18501904) イギリスの 小 説 家 しょうせつか 。日本名 にほんめい は小泉 こいずみ 八雲 やくも ちち はアイルランド生 まれ。 母 はは はギリシア じん 。1869 年 ねん 、アメリカで 新 聞 しんぶん 記者 きしゃ になった。1890 ねん 、日本 にほん へ行 った。松江 まつえ 中学校 ちゅうがっこう の先生 せんせい になって、 小 泉 こいずみ 節子 せつこ と結婚 けっこん した。その後 、熊本 くまもと や神戸 こうべ へ引 ひっ っ越 して、いろいろな 作 品 さくひん を書 いた。189 5年 ねん 、国籍 こくせき を日本 にほん に移 うつ して、 小 泉 こいずみ 八雲 やくも という名前 なまえ になった。 次 つぎ の年 とし から、 七 年 間 しちねんかん 東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく (今 いま の東京大学 とうきょうだいがく )、早稲田 わせだ だい がく の教師 きょうし となって、 英 文 学 えいぶんがく を教 おし た。日本 にほん を紹 介 しょうかい する文 ぶん をたくさん書 いた。また、日本 にほん の古 ふる い民話 みんわ を調 しら べて、 多 おお くの 怪談 かいだん (こわい 話 はなし )を書 いた。ハーンは 古 ふる い日本 にほん を心 こころ から愛 あい した。日本 にほん を世界 せかい 紹介 しょうかい した 文 学 者 ぶんがくしゃ 八雲 やくも 旧居 きゅうきょ 1 「雪 女 ゆきおんな 」「知 られぬ日本 にほん の面影 おもかげ 」など 数 々 かずかず の作品 さくひん で有名 ゆうめい な小泉 こいずみ 八雲 やくも (ラフカディオ・ハーン)が、松江 まつえ で結婚 けっこん したセツ夫人 ふじん と、明治 めいじ 24 ねん 5月 がつ から6ヶ 月間 げつかん らした家 いえ 。この家 いえ で数多 かずおお くの作品 さくひん を書 いた。 1 きゅうきょ:one’s former house, one’s old house

ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn · 2019-08-09 · ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn) (1850~1904) イギリスの小説家 しょうせつか 。日本名

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Page 1: ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn · 2019-08-09 · ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn) (1850~1904) イギリスの小説家 しょうせつか 。日本名

ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)

(1850~1904)

イギリスの小 説 家しょうせつか

。日本名にほんめい

は小 泉こいずみ

八雲やくも

父ちち

はアイルランド生う

まれ。母はは

はギリシア

人じん

。1869年ねん

、アメリカで新 聞しんぶん

記者きしゃ

になった。1890

年ねん

、日本にほん

へ行い

った。松江まつえ

中 学 校ちゅうがっこう

の先 生せんせい

になって、小 泉こいずみ

節子せつこ

と結 婚けっこん

した。その後ご

、熊 本くまもと

や神戸こうべ

へ引ひっ

っ越こ

して、いろいろな作 品さくひん

を書か

いた。189

5年ねん

、国 籍こくせき

を日本にほん

に移うつ

して、小 泉こいずみ

八雲やくも

という名前なまえ

になった。次つぎ

の年とし

から、七 年 間しちねんかん

東 京とうきょう

帝 国ていこく

大 学だいがく

(今いま

の東 京 大 学とうきょうだいがく

)、早稲田わ せ だ

大だい

学がく

の教 師きょうし

となって、英 文 学えいぶんがく

を教おし

た。日本にほん

を 紹 介しょうかい

する文ぶん

をたくさん書か

いた。また、日本にほん

の古ふる

い民話みんわ

を調しら

べて、多おお

くの

怪 談かいだん

(こわい 話はなし

)を書か

いた。ハーンは古ふる

い日本にほん

を 心こころ

から愛あい

した。日本にほん

を世界せかい

紹 介しょうかい

した文 学 者ぶんがくしゃ

八雲や く も

旧居きゅうきょ

1

「 雪 女ゆきおんな

」「知し

られぬ日本にほん

の面影おもかげ

」など数々かずかず

の作品さくひん

で有名ゆうめい

な小泉こいずみ

八雲や く も

(ラフカディオ・ハーン)が、松江まつえ

で結婚けっこん

したセツ夫人ふじん

と、明治めいじ

24

年ねん

5月がつ

から6ヶか

月間げつかん

暮く

らした家いえ

。この家いえ

で数多かずおお

くの作品さくひん

を書か

いた。

1 きゅうきょ:one’s former house, one’s old house

Page 2: ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn · 2019-08-09 · ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn) (1850~1904) イギリスの小説家 しょうせつか 。日本名

[一]

(みみなしほういち)

むかしむかし、 下 関しものせき

1に、阿弥陀寺あ み だ じ

というお寺てら

がありました。その寺てら

に、芳 一ほういち

とい

う、びわ弾ひ

き2がいました。芳 一ほういち

は小ちい

さい時とき

から目め

が不自由ふじゆう

だったので、びわの弾ひ

き語かた

り3

を教おし

えられて、まだ若 者わかもの

でしたが、師 匠ししょう

4より上 手じょうず

になっていました。阿弥陀寺あみだで ら

の和 尚おしょう

さん5は、そんな芳 一ほういち

の才 能さいのう

を見み

て、寺てら

に引ひ

き取と

りました6。芳 一ほういち

は源 平げんぺい

7の 物 語ものがたり

を語かた

るのが得意とくい

で、特とく

に壇ノ浦だんのうら

の合 戦がっせん

8の場面ばめん

では、その 真まこと

にせまった9語かた

りに、誰だれ

一人ひとり

涙なみだ

を流なが

さない者もの

はいなかったそうです。

そのむかし、壇ノ浦だんのうら

で源氏げんじ

と平家へいけ

の長なが

い 争あらそ

いの最後さいご

の決 戦けっせん

が 行おこな

われ、 戦たたか

いに負ま

た平家へいけ

一 門いちもん

10は、 女おんな

や子こ

どもまで、 幼おさな

い安 徳あんとく

天 皇てんのう

11と一 緒いっしょ

に、みんな海うみ

の底そこ

に沈しず

でしまいました。この悲かな

しい平家へいけ

の最後さいご

の 戦たたか

いを語かた

ったものが、壇ノ浦だんのうら

の合 戦がっせん

の場面ばめん

なのです。

1 しものせき:山口県 2 びわ弾き:a biwa player who also recites the sutras while playing 3 かたり:narrative 4 ししょう:a master 5 おしょうさん:a Buddhist priest 6 ひきとる:Someone をひきとる=take on, take charge of , start looking after someone 7 げんぺい:the Genji (or Minamonto)and Heike (or Taira) clans 8 だんのうらのがっせん:Dannoura is at the Shimonoseki Strait (western end of Yamaguchi

prefecture), where the Genji and Heike fought their last sea battle in 1185. Many legends

and stories about the Heike clan are set in this area. 9 しんにせまる:be true to life, be life-like 10 いちもん:a clan 11 あんとくてんのう:1178-1185 The final Emperor of Heian Period. He was the son of Taira

no Kiyomori’s daughter, Empress Tokuko.

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ある、蒸む

し暑あつ

い夏なつ

の夜よる

の事こと

です。和 尚おしょう

さんが法事ほうじ

1で出で

かけてしまったので、芳 一ほういち

一人ひとり

でお寺てら

に残のこ

ってびわの 練 習れんしゅう

をしていました。その時とき

、庭にわ

草くさ

がサワサワと波なみ

のようにゆれて2、縁 側えんがわ

3に座すわ

っている芳 一ほういち

の前まえ

でとまりました。そして、大おお

きな声こえ

がしました。

「芳 一ほういち

! 芳 一ほういち

!」

「はっ、はい。どなた様さま

でしょうか。わたしは目め

が見み

えません」

すると、声こえ

の主ぬし

は答こた

えます。

「わし4は、この近ちか

くの、ある身分みぶん

5の高たか

いお方かた

の使つか

いの者もの

6じゃ。殿との

が、そなた7のびわと

語かた

りを聞き

いてみたいとお望のぞ

みじゃ8」

「えっ、わたしのびわを?」

「さよう9、 館やかた

10へ案 内あんない

するから、わしの後あと

についてこい」

芳 一ほういち

は身分みぶん

の高たか

いお方かた

が自分じぶん

のびわを聞き

きたいと望のぞ

んでいると聞き

いて、すっかりうれ

しくなって、その使づか

いの者もの

についていきました。歩ある

くたびに11、ガシャッ、ガシャッと、

音おと

がして、使つか

いの者もの

はよろいを着き

ている武者むしゃ

12だとわかります。

門もん

をくぐり13広ひろ

い庭にわ

を通とお

ると、大おお

きな 館やかた

の中なか

に通とお

されました。そこは大広間おおひろま

で、

大 勢おおぜい

の人ひと

が集あつ

まっているらしく、サラサラと着物きもの

の音おと

や、ガシャッ、ガシャッとよろい

1 ほうじ:a memorial service 2 なみのように:like a wave 3 えんがわ: external corridor with boarded floor, running along the outer side of a

traditional Japanese house; a verandah 4 わし:わたし 5 みぶん:one’s position in society 6 つかいのもの:a messenger 7 そなた:あなた 8 おのぞみじゃ=のぞんでいます:to wish 9 さよう:そうだ 10 やかた:a mansion, a palace 11 たび:each time, every time 12 むしゃ:a warrior 13 くぐる:to pass through

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の音おと

が聞き

こえていました。一人ひとり

の女 官じょかん

1が芳 一ほういち

に言い

いました。

「芳 一ほういち

、さっそく、びわに合あ

わせて、平家へいけ

の 物 語ものがたり

を語かた

ってください」

「はい。長なが

い 物 語ものがたり

なので、どの 話はなし

をしたらいいでしょうか。」

「壇ノ浦だんのうら

の 話はなし

を・・・」

「かしこまりました」

芳 一ほういち

は、びわを鳴な

らして語かた

り始はじ

めまし

た。ろ2を動うご

かす音おと

。舟ふね

にあたってくだけ

る3波なみ

。弓ゆみ

鳴な

りの音おと

。兵士へいし

たちの声こえ

。息いき

えた4武者むしゃ

が、海うみ

に落お

ちる音おと

。これらの様子ようす

を、静しず

かに、もの悲がな

しく5語かた

り続つづ

けます。

大広間おおひろま

は、たちまちのうちに6壇ノ浦だんのうら

合 戦がっせん

場じょう

7になってしまったようです。

やがて平家へいけ

の悲かな

しい最後さいご

の 話はなし

になると、広間ひろま

のあちこ

ちから、むせび泣な

き8がおこり、芳 一ほういち

のびわが終お

わっても

しばらくは誰だれ

も口ぐち

をきけない9ので、シーンと静しず

まりかえ

って10いました。やがて、さっきの11女 官じょかん

が言い

いました。

「殿との

も、たいへん 喜よろこ

んでいらっしゃいます。よい物もの

お礼れい

に下くだ

さるそうです。けれども、今夜こんや

より六日間むいかかん

、毎夜まいよ

そなたのびわを聞き

きたいとおっ

しゃいます。明日あした

の夜よる

もこの 館やかた

に来き

てください。それから寺てら

へ戻もど

っても、この事こと

は誰だれ

1 じょかん:a court lady, a lady-in-waiting 2 ろ:an oar, a Japanese scull 3 くだける:to be crushed, to be broken, 4 いきたえる:to be dead (いきがたえる=to breathe one’s last,) 5 ものがなしく:sadly, sorrowfully, plaintively 6 たちまちのうちに:in hardly any time, 7 がっせんじょう:the site of the Battle of Dannoura 8 むせびなき:a sob 9 口をきく:to speak 10 しずまりかえる:fall completely silent, become perfectly still 11 さっき:some time ago

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にも話はな

してはいけません。分わ

かりましたか。」

「はい。」 芳 一ほういち

は答こた

えました。 つづく

(1)芳一よしかず

はどんな「才能さいのう

」を持も

っていましたか。

(2)むかし、壇ノ浦だんのうら

で何なに

がありましたか。

(3)芳 一よしかず

はどうして「使つか

いの者もの

」について行い

きましたか。

(4)芳 一よしかず

が入はい

った部屋へ や

には誰だれ

がいましたか。

(5)芳 一よしかず

のびわは色 々いろいろ

な音おと

をだしましたが、どんな音おと

がありましたか。

[二]

(みみなしほういち)

次つぎ

の日ひ

も芳 一ほういち

は迎むか

えに来き

た武者むしゃ

について、 館やかた

に向む

かいました。しかし、昨日きのう

と同じよ

うにびわを弾ひ

いて寺てら

に帰かえ

ってきた時、和 尚おしょう

さんに見つかってしまいました。

「芳 一ほういち

、今いま

まで、どこで何なに

をしていたんだね?」

「・・・・・・」

「芳 一ほういち

「・・・・・・」和 尚おしょう

さんがいくら聞き

いても、芳 一ほういち

は約 束やくそく

を守まも

って、一 言ひとこと

も 話はなし

しま

せんでした。和 尚おしょう

さんは芳 一ほういち

が何なに

も言い

わないのは、何なに

か深ふか

い理由りゆう

があるからだと思おも

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ました。そこで 寺 男てらおとこ

1たちに、芳 一ほういち

が出で

かけたら、そっとあとをつけろと言い

っておきま

した。

そして、また夜よる

になりました。雨あめ

が激はげ

しく降ふ

っています。それでも芳 一ほういち

は、寺てら

を出で

いきます。 寺 男てらおとこ

たちは、そっと芳 一ほういち

のあとを追お

いかけました。ところが目め

が見み

えない

芳 一ほういち

の足あし

は意外いがい

に2速はや

く、やみ夜よ

3に 姿すがた

が見み

えなくなってしまいました。

「どこへ、行い

ったんだ?」

と言い

って、あちらこちら探さが

しまわっていると4、墓地ぼ ち

5へ来き

ました。ビカッ!!いなびかり6

で、雨あめ

にぬれた墓 石はかいし

が見み

えます。

「あっ、あそこに!」

寺 男てらおとこ

たちは、 驚おどろ

いて立た

ちすくみました7。雨あめ

でずぶぬれ8になった芳一ほういち

が、安徳あんとく

天皇てんのう

の墓はか

の前まえ

でびわを弾ひ

いているのです。その芳 一ほういち

のまわりを、無数むすう

9の鬼火おにび

10が取と

り囲かこ

んでいま

す。 寺 男てらおとこ

たちは亡 霊ぼうれい

11に取と

りつかれている12芳 一ほういち

を、 力ちから

まかせに13寺てら

へ連つ

れ戻もど

しまし

た。

その出来事できごと

を聞き

いた和 尚おしょう

さんは、芳 一ほういち

を亡 霊ぼうれい

から 守まもる

るた

めに魔除ま よ

けのまじない14をしました。そして、芳 一ほういち

の 体 中からだじゅう

経 文きょうもん

15を書か

きつけた16のです。

「芳 一ほういち

、お前まえ

のすぐれた芸げい

が、亡 霊ぼうれい

を呼よ

んでしまった。 涙なみだ

1 てらおとこ:a temple assistant 2 いがいに:unexpectedly 3 やみよ:a moonless dark night 4 さがしまわる:to search up and down for, look around 5 ぼち:graveyard 6 いなびかり:lightning, a flash of lightning 7 たちすくむ:to be petrified, freeze in horrified surprise 8 ずぶぬれ:be drenched with rain 9 むすう:numberless, countless 10 おにび:a will-o’-the-wisp, a jack-o’-lantern 11 ぼうれい:a ghost, a departed spirit 12 とりつかれる:the passive form of とりつく=to possess, take possession of, haunt 13 力まかせに:with all one’s strength 14 まよけのまじない:a talisman to protect one against evil 15 きょうもん:the Buddhist scriptures 16 かきつける:to jot something down

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をのんで1海うみ

に沈しず

んでいった、平家へいけ

一族いちぞく

の亡 霊ぼうれい

じゃ。よく聞き

け。今夜こんや

は誰だれ

が呼よ

びに来き

も、決けっ

して口くち

をきいてはいけない。亡 霊ぼうれい

が言い

うとおりにした者もの

は、 命いのち

を取と

られる。しっ

かり座禅ざぜん

を組く

んで、絶 対ぜったい

に動うご

くな。もし返事へんじ

をしたり、声こえ

を出だ

したりすれば、お前まえ

今度こんど

こそ2殺ころ

されてしまう。わかったな」和 尚おしょう

さんはそう言い

って、村むら

のお通夜つ や

3に出で

かけま

した。

さて、芳 一ほういち

が座禅ざぜん

をしていると、いつもの様よう

に亡 霊ぼうれい

の声が呼びかけます。

「芳 一ほういち

、芳 一ほういち

、迎むか

えに来き

たぞ」

でも、芳 一ほういち

の声こえ

も 姿すがた

もありません。亡 霊ぼうれい

は、寺てら

の中なか

へ入はい

ってきました。

「ふむ。・・・びわはあるが、弾ひ

き手て

はいない」

あたりを見まわした亡 霊ぼうれい

は、 空 中くうちゅう

に浮う

いている二ふた

つの耳みみ

を見み

つけました。

「なるほど、和 尚おしょう

がしたことだな。仕方しかた

ない。せめて4この耳みみ

を持も

ち帰かえ

って、芳 一ほういち

を呼よ

に行い

った証 拠しょうこ

5にしなければならない」

亡 霊ぼうれい

は芳 一ほういち

の耳みみ

に、冷つめ

たい手て

をかけると、

バリッ!

その耳みみ

をもぎとって6、帰かえ

っていきました。 その間かん

、芳 一ほういち

はジッと座禅ざぜん

を組く

んだままで

した。

寺てら

に戻もど

った和 尚おしょう

さんは芳 一ほういち

の様子ようす

を見み

ようと、大 急おおいそ

ぎで芳 一ほういち

のいる座敷ざしき

へ駆か

け込こ

ました7。

「芳 一ほういち

! 無事ぶ じ

だったか!」

じっと座禅ざぜん

を組く

んだままの芳 一ほういち

でしたが、その 両りょう

の耳みみ

はなく、耳みみ

のあったところからは

1 なみだをのんで:swallowing one’s tears, swallowing an insult 2 ~こそ:emphasis on ~ 3 おつや:a wake 4 せめて:at best, at most, at least 5 しょうこ:evidence, proof, 6 もぎとる:snatch, wrench something away 7 かけこむ:run into, dash into

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血ち

が流なが

れています。

「お、お前まえ

、その耳みみ

は・・・」

和 尚おしょう

さんには、全すべ

ての事こと

がわかりました。

「そうであったか。耳みみ

に 経 文きょうもん

を書か

き忘わす

れてしまった。本 当ほんとう

に、かわいそうな事こと

をし

た。よしよし1、よい医者いしゃ

を頼たの

んで、すぐに傷きず

の手当て あ

てをしてもらおう」

芳 一ほういち

は 両 耳りょうみみ

を取と

られてしまいましたが、それからはもう亡 霊ぼうれい

につきまとわれる2ことも

なく、医者いしゃ

の手当て あ

てのおかげで傷きず

も治なお

っていきました。

やがて3この 話はなし

は口くち

から口くち

へと伝つた

わり、芳 一ほういち

のびわはますます 評 判ひょうばん

4になりまし

た。びわ法師ほうし

の芳 一ほういち

は、『耳みみ

なし芳 一ほういち

』と呼よ

ばれるようになり、その名な

を知し

らない人ひと

いないほど5有 名ゆうめい

になったそうです。 終お

わり

1 よしよし:there there, 2 つきまとわれる=passive form of つきまとう:to follow sb round 3 やがて:eventually, shortly 4 ひょうばんになる:to get talked about, get famous, well-known 5 ほど:Sentence+ほど=to the extent that ~

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(つれづれぐさ) 吉田よしだ

兼 好けんこう

(1283年 頃ねんごろ

から 1352年 頃ねんごろ

まで)

序じょ

(Preface)

一人ひとり

で暇ひま

なとき、何なに

もすることがないので、一 日 中いちにちじゅう

硯すずり

に向む

かって、 心こころ

の中に 現あらわ

れて、また消き

えるとりとめもない1こと

を、色々書いろいろか

きとめている2と、なぜか分わ

からないが、変へん

にふしぎ

な気持き も

ちになる。

89段 猫ねこ

また

「奥 山おくやま

に猫ねこ

またというものがいて、人ひと

を食く

う3そうだ」と、ある

人ひと

が言い

うと、「「

山やま

に行い

かなくても、この 辺あたり

にも年とし

とった猫ねこ

が、

猫ねこ

またになって、人ひと

を取と

って食く

うことがあるそうだよ」と、言い

人ひと

がいた。

これを、何なに

阿弥陀仏あみだぶ つ

4と言い

う名前なまえ

の、連歌れんが

をして生 活せいかつ

をする、

一 条いちじょう

の北きた

にある 行ぎょう

願寺がんじ

の近ちか

くに住す

んでいる法師ほうし

が聞き

いて、「やれ、恐おそ

ろしい。 私わたし

ように5、よく一人ひとり

で歩ある

く者もの

は、本 当ほんとう

に気き

をつけなければ」と 考かんが

えた。

1 とりとめもない:trivial things 2 かきとめる:to write down 3 くう:たべる 4 なにあみだぶつ:Reverend So and So 5 のように:Aのように=like A

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ちょうどそのころ、この法師ほうし

がある 所ところ

で夜 遅よるおそ

くまで連歌れんが

をした後あと

、一人夜道ひとりよみち

を帰かえ

って

きて、あと少すこ

しで家いえ

の近ちか

くだと、安 心あんしん

した時とき

、小川おがわ

のそばで、前まえ

から聞き

いていた猫ねこ

たにおそわれて1しまった。猫ねこ

または、間違まちが

えないで、足あし

もとにツツつ つ

っと2よってきて3、あ

っという間ま

に法師ほうし

の 体からだ

に上のぼ

って、首くび

に食く

いつこう4とする5。法師ほうし

はびっくりしすぎて、

力ちから

も出ない。腰こし

も抜ぬ

けて6、立た

っていることもできない。小川おがわ

の中なか

に転ころ

げこん7で、「助たす

けてくれえ!!猫ねこ

またじゃ。猫ねこ

またがでたああ・・・」と、叫さけ

ぶばかり。

近ちか

くの家 々いえいえ

から、人 々ひとびと

が松 明たいまつ

8をもって、走はし

ってきた。見み

ると、この近ちか

くでよく見み

坊ぼう

様さま

だ。「どうしましたか!」と川かわ

の中から助たす

けてあげた。連歌れんが

でもらった 扇おうぎ

9や小箱こばこ

など、大事だいじ

に持も

って帰かえ

って来き

た物もの

も、みんな水みず

に入はい

ってしまった。法師ほうし

は、 命いのち

だけは

助たす

かった、と言い

って、歩ある

くこともできない。這は

い10ながら家いえ

の中なか

へ入はい

って行い

った。

法師ほうし

が飼か

っていた犬いぬ

が、暗くら

い夜よる

でも主 人しゅじん

と分わ

かって、お迎むか

えに

飛と

びついたのだそうだ。

(1)「猫ねこ

また」はどんな生い

き物もの

ですか。

(2)この法師ほうし

はどんな人ひと

ですか。説 明せつめい

してください。

(3)実 際じっさい

何なに

が起お

こったのですか。

1 おそう:to attack 2 ツツっと:quickly, suddenly, abruptly 3 よってくる:よる+くる=to come closer 4 くいつく:to bite at 5 くいつこうとする:volitional form + とする=to try to do something 6 こしがぬける:to be so frightened that one can’t stand, one’s legs give way 7 ころげこむ:to come rolling into ~ 8 たいまつ:a pine torch, a firebrand 9 おうぎ:a fan 10 はう:to crawl

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109段だん

高名こうみょう

の木のぼりといひし男(木登り名人めいじん

木登きのぼ

りの名 人めいじん

1が、他ほか

の人ひと

を高たか

い木き

に登のぼ

らせて、枝えだ

を切き

らせていたとき、とても危あぶ

なく見み

える時とき

は何なに

も言い

わなかっ

たのに、その 男おとこ

が降お

りてきて、家いえ

の高たか

さ 位くらい

になったと

きに、「けがをするな。注 意ちゅうい

して降お

りろ」と声こえ

をかけた

2。それを見み

ていた 私わたし

が、「これくらいの高たか

さなら、飛と

び降お

りることもできます。どうし

て、注 意ちゅうい

しろと言い

うのですか」と聞き

いてみた。「それは、高たか

くて目め

が回まわ

り、枝えだ

が折お

れそ

うで危あぶ

ない時とき

は、自分じぶん

でよく注 意ちゅうい

して、用 心ようじん

するから、 私わたし

が注 意ちゅうい

しろ、と言い

わなく

てもいいのです。けがは、安 全あんぜん

なところのほうが、よく起お

こりますから」と言い

った。

この木登きのぼ

りの名 人めいじん

は、貧まず

しい身分みぶん

3の 男おとこ

だったが、その言葉ことば

は偉えら

い人じん

の教おし

えに似に

てい

る。けまり4の毬まり

も、 難むずか

しいのを上 手じょうず

にけった後あと

、安 心あんしん

すると、 必かなら

ず失 敗しっぱい

して毬まり

落お

とすそうだ。

(1)この 話はなし

には、何 人なんにん

、人ひと

がいますか。だれですか。

(2)「「

名 人めいじん

」」

は、どういう意味い み

ですか。

1 めいじん:a master 2 こえをかける:to say 3 みぶん:one’s status in society 4 けまり:a game played by aristocrats in the Heian period in which several people in a

circle try to kick a leather ‘ball’ back and forth among themselves for as long as possible

without letting it fall to the ground

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(3)この「「

名 人めいじん

」」

の言葉ことば

を兼 好けんこう

はどう思っていますか。

53段 これも仁和寺にんなじ

の法師ほうし

(仁和寺にんなじ

の法師ほうし

、 鼎かなえ

をかぶる)

これも、仁和寺にんなじ

の法師ほうし

の 話はなし

だ1。寺てら

にいた子供こども

が出 家しゅっけ

して2

法師ほうし

になる会かい

で、酒さけ

を飲の

んだりして祝いわ

っていた時とき

、仁和寺にんなじ

法師ほうし

が、酒さけ

を飲の

んで調 子ちょうし

に乗の

り3すぎて、そばにあった脚付あしつ

鼎かなえ

を取と

って 頭あたま

にかぶってしまった。入い

れにくいのに、鼻はな

平たいら

にして4、無理む り

に5顔かお

を中なか

に押し込こ

んで、踊おど

り出だ

したので、みんな大 喜よろこ

びして、笑わら

転ころ

げた6。しばらく踊おど

った後あと

、 鼎かなえ

を取と

ろう とした7が、どうし

ても8抜ぬ

けない。あれこれやってみたが、とう とう、首くび

の周まわ

りの

皮かわ

が切れて血ち

が出で

てきた。顔 全 体かおぜんたい

がはれて 9、息いき

もできない。

たたき割わ

ろう10としたが銅どう

の 鼎かなえ

はどうしても 割わ

れない。仕方しかた

ないので、 鼎かなえ

の足あし

に着物きもの

をかけて、手て

を引ひ

いて杖つえ

をつかせて

11、京 都きょうと

の医者いしゃ

まで連つ

れて行い

った。道みち

を行い

く 人 々ひとびと

はみな、びっ

くりして見み

ていた。医者いしゃ

も困こま

ってしまい、 「このような事こと

は、医書いしょ

にもない。聞き

いたこともない」と言い

うばかり。

1 これも・・・:This is also a story of a Ninnaji priest. ‘Also’, because there’s a well-known

story of a priest from the same temple who stupidly failed to visit a famous temple. 2 しゅっけする:to become a Buddhist monk 3 ちょうしにのる:to be elated, to get carried away 4 たいらにする:to flatten~ 5 むりに:by force 6 わらいころげる:to roll about laughing 7 ようとする:to try to do ~ 8 どうしても:+ negative form =≪not≫by any means, 9 はれる:to swell, to become swollen 10 たたきわる:たたく+わる=to smash to pieces 11 つえをつく:to use a walking stick

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そこで、仁和寺にんなじ

に戻もど

って、親した

しい人 達ひとたち

や、年とし

おいた母 親ははおや

などが、法師ほうし

の寝ね

ている 所ところ

座すわ

って泣な

き悲かな

しんだが、その声こえ

も法師ほうし

に聞き

こえていたかどうか、分わ

からなかった。

しばらくして、ある者もの

が「耳みみ

や鼻はな

が取と

れてしまっても、 命いのち

まではなくならないから、み

んな、とにかく 力ちから

を合あ

わせて 力ちから

の限かぎ

り1引っぱってみよう」と言い

った。そこで、藁わら

2を

首くび

のまわりにいれて、首くび

が抜ぬ

けるほど3 力ちから

をいれて引いん

っ張ぱ

る4と、耳みみ

、鼻はな

は取と

れて穴あな

あいてしまったが、とにかく 鼎かなえ

を抜ぬ

くことができた。この法師ほうし

、 命いのち

は助たす

かったが、その

後ご

、長なが

い間 病 気あいだびょうき

になってしまったそうだ。

○×?

(1)仁和寺にんなじ

の法師ほうし

は、 鼎かなえ

をかぶる前まえ

によく 考かんが

えた。( )

(2) 鼎かなえ

を 頭あたま

にかぶる時とき

、 難むずか

しくて、なかなか入はい

らなかった。( )

(3)仁和寺にんなじ

の法師ほうし

が踊おど

った時とき

、みんなも踊おど

った。( )

(4)仁和寺にんなじ

の法師ほうし

を医者いしゃ

に連つ

れて行い

く時とき

、 鼎かなえ

に着物きもの

をかけた。( )

(5)医者いしゃ

はどうしていいか、分わ

からなかった。( )

(6)みんなは相 談そうだん

して、耳みみ

や鼻はな

がなくなってもいいと思おも

った。( )

(7) 鼎かなえ

は取と

れなくて、法師ほうし

はそのまま病 気びょうき

になった。( )

1 ちからのかぎり:with every last particle of one’s strength 2 わら:straw 3 ほど:so much that….(e.g.) なみだが出るほど、笑った。 4 ひっぱる:to stretch, pull sth tight

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ノルウェイの森も り

村上春樹むらかみはるき

僕ぼく

と直子な お こ

は四よ

ツつ

谷駅や え き

で電車でんしゃ

を降お

りて、線路せ ん ろ

わきの土手ど て

を市ヶ谷い ち が や

の方ほう

に向む

けて歩ある

ていた。五月ごがつ

の半なか

ばの日曜日にちようび

の午後ご ご

だった。朝方あさがた

ぱらぱらとふったりやんだりして

いた雨あめ

も昼前ひるまえ

には完全かんぜん

にあがり、低ひく

くたれこめていたうっとうしい雨雲あまぐも

は 南みなみ

らの風かぜ

に追お

い払はら

われるように1 姿すがた

を消け

していた。鮮あざ

やかな 緑みどり

色いろ

をした 桜さくら

の葉は

風かぜ

に揺ゆ

れ、太陽たいよう

の 光ひかり

をきらきらと反射はんしゃ

させていた。日差ひ ざ

しはもう初夏しょか

のものだっ

た。すれちがう人々ひとびと

はセーターや上着うわぎ

を脱ぬ

いで、肩かた

にかけたり腕うで

にかかえたりし

ていた。日曜日にちようび

の午後ご ご

のあたたかい日差ひ ざ

しの下した

では、誰だれ

もがみんな 幸しあわ

せそうに見み

えた。土手ど て

のむこうに見み

えるテニス・コートでは、若わか

い 男おとこ

がシャツを脱ぬ

いでショ

ート・パンツ一枚いちまい

になってラケットを振ふ

っていた。並なら

んでベンチに座すわ

った二人ふたり

修道尼シスター

だけがきちんと黒くろ

い冬ふゆ

の制服せいふく

を身み

にまとっていて、彼女かのじょ

たちのまわりにだ

けは夏なつ

の 光ひかり

もまだ届とど

いていないように思おも

えるのだが、それでも二人ふたり

は満み

ち足た

りた

顔かお

つきで日向ひなた

での会話かいわ

を楽たの

しんでいた。

十五分じゅうごぷん

も歩ある

くと背中せなか

に汗あせ

がにじんできたので、僕ぼく

は厚あつ

い木綿もめん

のシャツを脱ぬ

いで

Tシャツ一枚いちまい

になった。彼女かのじょ

は淡あわ

いグレーのトレーナー・シャツの袖そで

を肘ひじ

の上うえ

でたくしあげていた。よく洗あら

いこまれた2ものらしく、ずいぶん感かん

じよく色いろ

があせ

ていた。ずっと前まえ

にそれと同おな

じシャツを彼女かのじょ

が着き

ているのを見み

たことがあるよう

1 おいはらわれるように:ように=as if 2 あらいこまれる:well-worn

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な気き

がした1が、はっきりとした記憶きおく

があるわけではない2。ただそんな気き

がしただ

けだった。直子なおこ

について当時とうじ

僕ぼく

はそれほど多おお

くのことを覚おぼ

えていたわけではなかっ

た。

「共 同 生 活きょうどうせいかつ

ってどう?他ほか

の人たちと一緒いっしょ

に暮く

らすのって3楽たの

しい?」と直子なおこ

は訊たず

ねた。

「よくわからないよ。まだ一いち

カか

月げつ

ちょっとしか経た

ってないからね」と僕ぼく

は言い

った。

「でもそれほど悪わる

くはないね。少すく

なくとも耐た

えがたいと言い

うようなことはないな」

彼女かのじょ

は水飲みずの

み場ば

の前まえ

で立た

ち止ど

まって、ほんのひとくちだけ水みず

を飲の

み、ズボンの

ポケットから白しろ

いハンカチを出して口くち

を拭ふ

いた。それから身み

をかがめて注意ちゅうい

深ぶか

靴くつ

の紐ひも

をしめなおした。

「ねぇ、 私わたし

にもそういう生活せいかつ

できると思おも

う?」

「共 同 生 活きょうどうせいかつ

のこと?」

「そう」と直子なおこ

は言い

った。

「どうかな、そういうのって 考かんが

え方かた

次第しだい

4だからね。 煩わずら

わしいことは結構けっこう

あると

言えばある。規則きそく

はうるさいし、くだらないやつが威張い ば

ってるし、同居人どうきょにん

は朝あさ

六時半ろくじはん

にラジオ体操たいそう

5を始はじ

めるしね。でもそういうのはどこにいたって6同おな

じだと

思おも

えば、取と

り立た

てて気き

にはならない。ここで暮く

らすしかないんだと思おも

えば、それな

りに暮く

らせる。そういうことだ7よ」

1 きがする:to have a feeling 2 わけではない:it doesn’t automatically mean ~ 3 のって:=のは 4 しだい:AはBしだい=A depends on B 5 ラジオたいそう: radio gymnastics 6 いたって:いても 7 そういうこと:That’s what it’s all about

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「そうね」と言い

って彼女かのじょ

は 肯うなず

き、しばらく何なに

かに思おも

いをめぐらせているようだっ

た。そして 珍めずら

しいものでも覗のぞ

き込こ

むみたいに僕ぼく

の目め

をじっと見み

た。よく見み

ると

彼女かのじょ

の目め

はどきりとするくらい深ふか

くすきとおっていた。彼女かのじょ

がそんなすきとおっ

た目め

をしていることに僕ぼく

はそれまで気き

がつかなかった。 考かんが

えてみれば直子なおこ

の目め

じっと見み

るような1機会きかい

もなかったのだ。二人ふたり

きりで歩ある

くのも初はじ

めてだし、こんな

に長なが

く 話はなし

をするのも初はじ

めてだった。

「 寮りょう

か何なに

かに入はい

るつもりなの?」と僕ぼく

は聞き

いてみた。

「ううん、そうじゃないのよ」と直子なおこ

は言い

った。「ただ 私わたし

、ちょっと 考かんが

えていた

のよ。共 同 生 活きょうどうせいかつ

をするのってどんなだろうって2。そしてそれはつまり・・・」、

直子なおこ

は 唇くちびる

を噛か

みながら適当てきとう

な言葉ことば

なり3 表 現ひょうげん

を探さが

していたが、結 局けっきょく

それはみ

つからなかったようだ。彼女かのじょ

はため息いき

をついて目め

を伏ふ

せた。「よくわからないわ。

いいのよ」

1 ような:such as 2 って:=と(~と考えていた 3 なり:AなりB=AやB

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