12
29 ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案について 中岡義介*・川西光子‥ (平成11年9月20日受理) はじめに ブラジリアは, 1960年4月21日に開幕した,ブラジル 連邦共和国の首都である。都市的集積が大西洋岸に限ら れてきた国土にあって,国土の中心に新しい首都を建設 して国を一つにまとめ上げることが18世紀以来,繰り返 し指摘されてきた。この首都移転プロジェクトを憲法に 明記したのがヴァルガスGe七色rio Vargas大統領であり, それを実行に移したのが同大統領を継いだクビチェIyク Jescelino Kubitschek de Oliveira大統領である。 ブラジリアの建設にあたりコンペを実施したが,それ は1957年のことである。つまり,コンペ実施からわずか 3年目で開府したのである。そのコンペで一等になり採 用されたのが,ルシオ・コスタL丘cio Costaの案である。 この遷都に関しては,ル・コルビジェLe Corbusier の近代都市計画理論に基づいて具現化されたということ で,大きな話題を呼ぶこととなった。ところが,完成直 後から「人間不在の都市」 「世紀の失敗作」などの批判 を受けてきた。それがためか,その後,プラリジアが取 り上げられることはほとんどなかった。しかし, 39年たっ た現在,ブラジリアには緑が息づき,整然としてはいる が殺伐としてはおらず,広大な公園の中にあるような都 市となっている。 ブラジリアに長年住み,その開発の進め方に対して多 くの問題点を指摘するモラエス・デ・カストロMoraes de Castroでさえ,ルシオ・コスタのコンペ案が非常に ロマンチックな魅力を感じさせるもので,仮に現実的な 案を選び,この街をつくっていたら,今よりもっとアン ヒューマンな都市になっていただろう,といっている1)0 また生前,ルシオ・コスタ自身も,とにかく既成概念に とらわれずに見てはしいと切望している2)。たしかに都 市の骨組みは基本的に建設当時より変わっていない。そ のスケールの大きな設計が都市空間の美観と機能に大き く寄与していると考えられるが,完成直後の姿にしても, コンペ案についても,情報が日本には詳細に伝わってき ていないので,評価がどこまで適切か明確でない。 今回,ルシオ・コスタのコンペ応募案の原文が入手で きたので,ひろく分析の用に供すべく全訳を試み,それ について若干の考察を加えたい。 なお,コンペ応募案の原文は, Institute de Arqu do Brasil, Departamento de Brasil 家協会ブラジリア支部)発行のCadernos de Arquit 3 (建築学ノートブック3) (1970)に収録されたもの で,タイプ打ち原稿となっているものである。 1.首都づくりについて 宗主国ポルトガルの植民地支配を受けていた時期,独 立運動を続けていた革命家たちから,支配の中心である リオ・デ・ジャネイロを離れて新首都をつくろうという 主張が出されている。支配の側からも,気候がすぐれ, 不穏な動きのない内陸に新しい首都を建設すべきである とし,その名前をニュー・リスボンとするいう植民地施 策が示されている。 1823年には,首都を内陸に移すべき ことを提言した長老のジョゼ・ポニファシオJose Bonifacioがその名前をブラジリアとすることを示唆す るが,これがブラジリアという名前の初見である。 1889年の連邦共和Eg制の施行にともない, 1891年に新 憲法が制定されたが,そこに「国土の中の14,400平方キ ロの土地は,新首都建設のための土地として政府に属す る」と,首都移転が明記された1953年,ヴァルガス大 統領が首都用地を決定する最終的な法律をつくり,南緯 15度30分から17度,西経46度30分から49度30分の間 52,000平方キロを,首都建設用地を探査する地域として 設定している。この法律を背景として,人口500,000人 の都市のための1,000平方キロの土地, 5地域が首都建 設の候補地として選定された。 3か所が飛行機の離着陸 の場所がないことから候補地からはずされ,残る2か所 の現地踏査が航空測量技術をもっておこなわれた結果, 1955年に建設地が現在の地に決定された。そこはすでに 60年前に首都建設地として提唱されていたところである。 1954年に失脚したバルガス大統領を引き継いだクビチェッ ク大統領は, 「5年間で50年の進歩を」のスローガンの もとに,ブラジリア建設を推進した。このスローガンは, 再任のない任期5年の問にことをやり遂げようという意 思を表明したものだと言われているが,ブラジリアの建 設が大変なスピードで進められたことを示している。 ・兵庫教育大学第5部(生活・健康系教育講座) -兵庫教育大学大学院(生活・健康系コース)

ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

29

ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案について

中岡義介*・川西光子‥(平成11年9月20日受理)

はじめに

ブラジリアは, 1960年4月21日に開幕した,ブラジル

連邦共和国の首都である。都市的集積が大西洋岸に限ら

れてきた国土にあって,国土の中心に新しい首都を建設

して国を一つにまとめ上げることが18世紀以来,繰り返

し指摘されてきた。この首都移転プロジェクトを憲法に

明記したのがヴァルガスGe七色rio Vargas大統領であり,

それを実行に移したのが同大統領を継いだクビチェIyク

Jescelino Kubitschek de Oliveira大統領である。

ブラジリアの建設にあたりコンペを実施したが,それ

は1957年のことである。つまり,コンペ実施からわずか

3年目で開府したのである。そのコンペで一等になり採

用されたのが,ルシオ・コスタL丘cio Costaの案である。

この遷都に関しては,ル・コルビジェLe Corbusier

の近代都市計画理論に基づいて具現化されたということ

で,大きな話題を呼ぶこととなった。ところが,完成直

後から「人間不在の都市」 「世紀の失敗作」などの批判

を受けてきた。それがためか,その後,プラリジアが取

り上げられることはほとんどなかった。しかし, 39年たっ

た現在,ブラジリアには緑が息づき,整然としてはいる

が殺伐としてはおらず,広大な公園の中にあるような都

市となっている。

ブラジリアに長年住み,その開発の進め方に対して多

くの問題点を指摘するモラエス・デ・カストロMoraes

de Castroでさえ,ルシオ・コスタのコンペ案が非常に

ロマンチックな魅力を感じさせるもので,仮に現実的な

案を選び,この街をつくっていたら,今よりもっとアン

ヒューマンな都市になっていただろう,といっている1)0

また生前,ルシオ・コスタ自身も,とにかく既成概念に

とらわれずに見てはしいと切望している2)。たしかに都

市の骨組みは基本的に建設当時より変わっていない。そ

のスケールの大きな設計が都市空間の美観と機能に大き

く寄与していると考えられるが,完成直後の姿にしても,

コンペ案についても,情報が日本には詳細に伝わってき

ていないので,評価がどこまで適切か明確でない。

今回,ルシオ・コスタのコンペ応募案の原文が入手で

きたので,ひろく分析の用に供すべく全訳を試み,それ

について若干の考察を加えたい。

なお,コンペ応募案の原文は, Institute de Arquitetos

do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

家協会ブラジリア支部)発行のCadernos de Arquitetura

3 (建築学ノートブック3) (1970)に収録されたもの

で,タイプ打ち原稿となっているものである。

1.首都づくりについて

宗主国ポルトガルの植民地支配を受けていた時期,独

立運動を続けていた革命家たちから,支配の中心である

リオ・デ・ジャネイロを離れて新首都をつくろうという

主張が出されている。支配の側からも,気候がすぐれ,

不穏な動きのない内陸に新しい首都を建設すべきである

とし,その名前をニュー・リスボンとするいう植民地施

策が示されている。 1823年には,首都を内陸に移すべき

ことを提言した長老のジョゼ・ポニファシオJose

Bonifacioがその名前をブラジリアとすることを示唆す

るが,これがブラジリアという名前の初見である。

1889年の連邦共和Eg制の施行にともない, 1891年に新

憲法が制定されたが,そこに「国土の中の14,400平方キ

ロの土地は,新首都建設のための土地として政府に属す

る」と,首都移転が明記された1953年,ヴァルガス大

統領が首都用地を決定する最終的な法律をつくり,南緯

15度30分から17度,西経46度30分から49度30分の間の

52,000平方キロを,首都建設用地を探査する地域として

設定している。この法律を背景として,人口500,000人

の都市のための1,000平方キロの土地, 5地域が首都建

設の候補地として選定された。 3か所が飛行機の離着陸

の場所がないことから候補地からはずされ,残る2か所

の現地踏査が航空測量技術をもっておこなわれた結果,

1955年に建設地が現在の地に決定された。そこはすでに

60年前に首都建設地として提唱されていたところである。

1954年に失脚したバルガス大統領を引き継いだクビチェッ

ク大統領は, 「5年間で50年の進歩を」のスローガンの

もとに,ブラジリア建設を推進した。このスローガンは,

再任のない任期5年の問にことをやり遂げようという意

思を表明したものだと言われているが,ブラジリアの建

設が大変なスピードで進められたことを示している。

・兵庫教育大学第5部(生活・健康系教育講座)

-兵庫教育大学大学院(生活・健康系コース)

Page 2: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

30

2.ブラジリアコンペについて

このブラジリアの計画策定と主要な建築物の設計をク

ビチェック大統領からゆだねられたのが,建築家オスカー・

ニーマイヤーOscar Niemeyerである。ニーマイヤーは

計画をコンペで決めることを提言し,それにしたがって

ブラジリアの基本的な形態を求める募集要項が1956年9

月に発表された。応募総数は26点である。半年後に開催

された審査会では,まず10点が選ばれ,その中から7点

の入賞作品が選ばれた。それは次の通りである3)0

一等入選案: L丘cio Costa

コンゼプト: uma "civitas", nao uma "urbs"

二等入選案: Boruch Milmann, Jofio Henrique Rocha,

Ney Fontes Goncalves

コンゼプト: Flexibilidade ilimitada

4 subordinados para cada funcionario.

45,000 funcionfirios ate 1980.

92,000 funcionfirios ate 2050.

Populapao total: 1980-270,000; 2050-673,000

三等入選案: Rino Levi, Roberto Cerqueira Cezar,

L.R.Carvalho Franco

コンゼプト288,000 pessoas em blocos de 300 metros

de altura+%, isto 6, 16,000 cm em blocoX3-setor.

150,000 pessoas nos blocos de densidades alongada

ou media 100-200 p. hect.)

70,000 pessoas em extensoes fora do piano.

四等入選案: M.M.M. Roberto

コンゼプト7unidades urbanas de 72,000 pessoas

cada uma, aumentando normalmente para 10 e, no

mfiximo, 14 unidades.

Populagao maxima "tolerada acima de um milhao.

Cada unmade tern como centro um departamento

governamental.

五等入選案: Carlos Cascaldi, Joao Villanova, Artiga,

Mario Wagner Vieira, Paulo Camargo

de Almeida

コンゼプトPiano de desenvolvimento para 20 anos:

populagao de 550,000 pessoas, das quais 130,000

funcionfirios pdblicos.

348,000 em casas.

145,000 em apartamentos.

42,000 em casas arrendadas.

Propriedade governamental e arrendamento da terra.

玉等入選案: Henrique R. Mindlin e Giancarlo Palanti

五等入選案: Construtecnica S. A.

一等入選となったルシオ・コスタの案は, 5枚の紙に

描かれたスケッチ(次節に,コンペ原案に付された記述

にしたがって示す)であった。

国外審査員3人と国内審査員3人,そして投票権をも

たない座長からなる審査会は審査をめぐって紛糾し,ブ

ラジル建築家協会の代表が別の審査リポートを出すこと

となった,と伝えられている。その別のリポートの中に

は,コスタの案は真面目な考察に値しない,といったコ

メントが出されている。

そして,一等人選したルシオ・コスタの案に基づいて

建設が始まり, 1965年,政府は35,000人の政府役人と家

族の移住を命じ.ここにブラジリアが本格的に機能しは

じめることになる。

3.ルシオ・コスタのパイロット・プラン

ルシオ・コスタの提案(全訳)は,次の通りである。

(全訳)

1823年,長老のジョゼ・ポニファシオは,首都をゴイ

アスに移すことを提案し,ブラジリアという名前を予言

した。

まず最初に,都市開発会社のディレクターとこのコン

ペの審査委員会に対し,新首都に対する計画案をスケッ

チとして提出することについて謝罪したいと思う。と同

時に.弁明もしたいと思う。

コンペに加わることは私の意志ではなかったし,実際

のところ加わっているつもりはない。懸命になって考え

た解決法を述べるのではなく,いってみれば自然に頭に

浮かんできたことを措いているにすぎない。

十分に準備しているわけではないが-だからといって

私が事務所にかけこむこともないが,私はかってでるこ

とにしよう。といっても私はせいぜい都市設計の縁の下

の力持ちにすぎないのだが,もしこのアイディアが受け

入れられたならば,努力してそれを発展させたいと思う。

そして,私が先入観をもたずに平らかな心で行動するの

は,理由づけがきわめてシンプルであるという考え方に

たっているからである。つまり,このアイディアが根拠

のある確実なものであるならば,ごく簡単なデータであっ

ても,それは満足のいくものとなるだろう。なぜならば,

そのオリジナルアイディアが自然に形となる一方で,後

になってみれば,アイディアが注意ぶかく考えられ,研

究されたものであることをそのデータは示してくれると

思うからである。もしそれが根拠のないものなら,たや

すく排除され,私自身も他の人たちも時間を無駄にして

しまっていることになるだろう。

コンペに示された条件をっきっめていったところ,一

つのもっとも重要な要素にたどりついた。それが都市の

都市化計画のコンセプトそのものである。荒れ野に都市

を創建することは,気の長い征服行為であり,伝統的な

植民地開発流のやり方でもある。さらにそのような都市

をつくる競技者たちのコンセプトがもっとも重要となる

だろう。これは,都市というものが地域開発の起因であっ

て,結果となってはならないからである。その創建は今

Page 3: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案について

級,地域全体の計画的開発の先駆けとなるだろう。

それは,いかなる現代都市の活気ある機能を適切にそ

して楽々と果たすことができる有機体っまりurbsとして

ではなく,首都固有の特質をもたせることができる有機

体っまりcivitasとして予想されるべきであろう。この

ことを可能にするためには,計画者は威厳のある崇高な

意志をもつべきである。なぜならば,その基礎的な意志

から,それだけで都市の計画に望ましいモニュメントと

なる質を贈ることができる秩序と適合性と調和が湧き出

てくるからである。見栄を張るのではなく,明瞭で熟知

できる表現として,言い換えれば,いかに価値があり意

味があるかという考え方にたって,それを明らかにしよ

う。都市は規律正しく能率的な仕事のために計画される

べきである。しかし,同時に,都市は活力と楽しみの両

方がなければならない。そして,幻想的でかつ知的なお

もわくに相応しいものでなくてはならない。都市は政府

や内閣だけの居場所だけでなく,時間とともにさらに輝

いて,国のなかで消えることのない文化の中心のひとつ

となるべきである。

以上の予備的な考え方を述べてきたので,どのように

してここで提示する解決法が生まれ,どのようにして形

となっていったのか,そしてそれがどのようにして強固

なものになっていったかを考えてみよう。

11直交する二つの軸。もともと,それは場所を標したり

占有しようとしたときに人がよくする最初の身振りから

生まれた。まさしくキリストの十字架の印である(図1)0

31

2 -そして,この印を,土地の地形と地域の自然な排水,

そして可能なかぎり東向きに適合させることを検討した。

その結果,軸の一つをカープさせ,市街化区域を表す正

三角形の中に入れた(図2)。

3 -交差点の解消を含めフリーウェイの技術を街の計画

手法に用いるために,カープしているのは自然なことな

ので,カープした軸を貫通放射幹線道路の中につくった。

その幹線道路には,地域交通のために中央に高速車線と

サイドに一般車線がついている。この軸に沿って,大半

の居住地区が配置されてきた(図3)0

4 -居住地区が集中した結果,市政や国政の中心センター,

文化・娯楽・スポーツセンター,行政施設,兵舎,貯蔵・

供給ゾーン.ローカルな小工業用敷地,そして鉄道の駅

が,クロスする軸におのずと配置され,そしてそれがこ

のシステムのモニュメンタル軸となった(図4)。軸の

交差点沿いのところに,モニュメンタル軸を機能的でか

つ都会的な構成にするためではあるが,銀行や商業地域

が配置されてきた。個人企業や多くの自由業のための事

務所,小売り商のための広大なリザーブ用地もそこにも

うけられる。

5-モニュメンタル軸と-イウェイ-居住地区軸との交

差点は,モニュメンタル軸がもっと低い位置にあるので,

広いプラットフォームをつくることを思いっかせた。そ

こは駐車場と地域交通だけにした。そして,そのプラッ

トホームが,映画館・劇場・レストランなどの娯楽施設

の場所を論理的に示してくれるだろう(図5)0

」_」q」

「n「「「「P 「「

∩′「

I -'I「‾

3

5』

Page 4: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

32

6 -他地区への通過交通はプラットフォーム下の下部グ

ランドレベルを一方通行の車線となって走る。プラット

フォームは,その両端は閉じられているが,より広い側

面のほうはいずれもオープンであるOこの覆われたエリ

アのほとんどを駐車場として使い,都市間交通のバスス

テーションがそこに設置されているので,プラットフォー

ムの上部レベルからの乗客が行きやすくなる(図6)0

このクロス軸がプラットフォームに達するところで,中

央高速レーンは下部グランドレベルの下の地下を走る。

下部グランドレベルでは地域交通が引き続いて循環して

おり,下部グランドレベルは官庁街にあるエスプラナー

ドの高さにまで徐々に下がっていく。

7-このようにして,また-イウェイ軸の両腕に三つの

クローバー型インターチェンジを導入し,さらに下部レ

ベルで多く交差できるようにして,車とバスは中心地区

と居住地区の両方で交差点をまったくもたずに循環する。

重量交通のために一点交差するシステムを持ったサブの

道路システムが独立してつくられたが,スポーツ施設の

上方を除いて,メインシステムのいかなる道とも交差せ

ず,またそれを邪魔することもない。このサブシステム

は,商業地区の建物とベースメントレベルで接続し,下

部面にあるシビックセンターを巡回し,グランドレベル

でギャラリーに達する(図7)0

8-このようにつくられた自動車の一般ネットワークと

ともに,地域歩行者交通のための別の道が,自由な循環

を確保しながら,中心地区と居住地区の両方でつくられ

昭HHHPPJr 'il ^^^^P| ^WjgW^^jBa

た(図8)。とはいっても,この自動車交通と歩行者交

通との分離が,系統的かっ不自然な極端さを引き起こす

ことはなかったOなぜなら,今日,自動車は人類の融和

Lがたい敵ではもはやないということを肝に銘じておか

なければならないからである。自動車はすでに飼い慣さ

れて今や家族と同様のものになっている。交通が区別さ

れない時にのみ,自動車は`非人間的'となり,歩行者

に対して脅しや敵意を再び持っのである。たしかに一定

程度の分離は必要であるが,ある情況のもとでまた相互

の便宜のために共存が不可欠なときもある。

9-この規則的なサーキュレーションの骨組みの中で,

都市のさまざまな地区がどのようにまとめられ,いかに

調和をつくり出していくかを見てみよう。

もっとも目立っ建物は,根幹をなす国家権力に居を与

えるそれである。その建物の数は3であり,それぞれ自

律したものであるから,正三角形という形がそれらの建

物を取り込むのにもっともふさわしいと思われた。それ

に,この解決法は遠い昔の建築につながってもいる。そ

こから三角形のテラス状の盛り土が生まれた。それは加

工していない石の擁壁で支えられ,周辺の田園より上に

あがることになる。それは居住地区と空港につながって

いるフリーウェイからアプローチされる(図9)O建物

の一つは,三権広場と呼び慣わされると思われるこの広

場の一つのカドに配置することとしたが,大統領府と最

高裁判所を三角形の底辺に,国会議事堂を三角形の頂点

においた。後者すなわちEg会議事堂は二段目のテラス上

BG哩■■■

Page 5: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案について

においた広い広場に面しており,形は長方形で,地域の

地形にそってより高い位置にある。この古代オリエント

のテラスの技術の適用は,現代流にいえば,この計画全

体の結合を確実なものとするとともに,それに図らずも

モニュメンタルな力強さを与えることになる(図9)0

このエスプラナードーイギリス人はモールと呼んでい

るが一に沿って歩行者がよく使うことになる広い見渡す

限りの敷き詰められた芝生と,いろいろな省庁や自治体

の機関が並んで配置された(図10)cこの枠組みにした

がって,外務省と裁判所が国会議事堂の近くの少し低い

ところを占有する。陸軍省は独立した一画を占める。そ

してその他は連続して配置する。駐車場はそれぞれ個別

にもうける。この並びの端は教育省であるが,それは文

化地域に隣接しているからである。文化地域のために公

園をっくることがよくおこなわれてきたが,美術館,図

書館,プラネタリ、ユーム,学術機関や研究所などを配置

するにはよりよいところである。この地区の反対側は国

立病院を併設する大学都市のための広いリザーブ用地に

接しており,そこには気象台をっくる計画もある。

教会もまたエスプラナードに建てられる予定だったが,

教会が連邦政府から分離されて以来,議決案で決められ

たということのみならず,多くの人間尺度の問題に関す

ること,モニュメントの質を高める多くの努力,そして

最終的には建築構造上の理由から,エスプラナードの横

に教会のための広場を求めることにする。その結果,エ

スプラナード全体のパースペクティブは二つの主軸の交

二.蝣ofョ.I

9

㌫=霊簿監-\ー

33

差点のむこうに何ものにも妨げられることなく広がって

いくにちがいない。

10-プラットフォームは,すでに指摘したように,地域

交通だけが許可されるが,このプラットフォーム上に娯

楽センターを配置するoそれはピカデリー・サーカスや

タイムズスクウェアやシャンゼリゼ通りなどを適度にミッ

クスした娯楽センターである。プラットフォームの文化

地区とそのむこうの省庁のエスプラナードに面している

側には,予定されている喫茶店とオペラ座以外には建物

はなにもない。これらの建物は娯楽センターと下部レベ

ルにある近隣文化地区の両方からやってくることが可能

である。プラットフォームの正面はすでに映画館や劇場

が集中してきているが,それらをすべて一戸建てで調和

のとれた,連続した構造にするために,その形式を低く

て同じになるように選択する.それらはギャラリー,広

い舗道,テラス,そしてカフェを備え,それぞれの建物

の正面のフルサイズの高さはイルミネーションサインや

広告の設備として役立つことになるだろう(図Il)cさ

まざまな劇場や映画館は, "Rua do Ouvidor" (裁判

官通り)の伝統的手法の小道や,ヴェネチアの路地や屋

根付きのギャラリーつまりアーケ-ドでお互いに結びつ

けられ,公園を見渡せるロジア(涼み廊下)がついたバー

やカフェのある小さなパティオにつながれていくことに

なるだろう。そして,ロジアはすべて広々とした社交的

な雰囲気をかもしだすことになるだろう(図11),この

劇場や映画館が集まっているところの中央部分のダラン

A-サ

FfHiK▲)

[躍証L->二∴喜∴L ll

Page 6: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

34

ドレベルは,連続した見通しを維持するために,上階へ

アクセスするところ以外はまったくオープンのままになっ

ていて,レストランやクラブや喫茶店などがすばらしい

眺望をもつように,上階は二方向にガラスがはめられる

ように計画されている。一方からは下部レベルのエスプ

ラナード越し,他方からはモニュメンタル軸の延長上に

ある公園の斜面越しに見晴らすことになるが,そこには

商業用および旅行者用のホテルが位置する。さらにその

向こうにはラジオ・テレビ局のタワーがある。それらは

全体の構成において人工的要素としてまとめられてきた

(図9, 11および12)。プラットフォームの中央部分のサ

イドウェイは,チケット売り場やバーやレストランなど

があるバス乗り場の入口ホールである。それは背の低い

建物で,バスとガラスの壁で隔てられた下部レベルの乗

り場にエスカレーターでつながれる。一方通行の交通シ

ステムは,プラットフォームで覆われた場所の外側を右

回りか左回りにバスを出発させることとなる。そして,

居住地区--イウェイ軸に入る前に,乗客は都市のモニュ

メンタル軸の景観を最後にちょっと見ることになる。そ

れは心理学的にみて出発するときの望ましい機会である。

この大きなプラットフォーム上には,地上階と同じよう

に自動車の駐車場が主として予定されているが,歩行者

用の二つのプラザとしてのスペースも考えられてきた。

その一つはオペラ座に面し,刺称的にレイアウトしたも

う一つは,文化地区の庭に面した低いパビリオンの前に

配置し,レストランやバー,喫茶店用として用意されて

いる。これらのプラザでは,一方通行の車線は,どの方

向からも歩行者の横断の妨げにならないように,またショ

ビングセンターと銀行・オフィス地区の両方に自由にし

かも直接行くことができるように,大きな面積部分をす

こし高まらせている(図8)0

ll-この中心娯楽地区の横に配置されて,かつそれにつ

なぐように,ショッピングセンター専用としてリザーブ

されている二つの大きな核と,一つは銀行と商社用,ち

う一つは学芸職,代理店,代議士などの事務所スペース

用にリザーブされている二つの地区がある。前者にブラ

ジル銀行があり,後者に中央郵便・電話局の建物がある。

これらの地域と地区へは,さまざまな交通路から直接に

車で到達することが可能であり,歩行者も車と交差する

ことのない歩道をつかってやってくることができる(図

8)。それらは,中央プラットフォームの下部レベルに

あたるベースメントに,二層の駐車用のカーポートとサー

ビス用の入り口を設けている。銀行・事務所地区はそれ

ぞれ三つの高層ブロックと四つの低層ブロックを必ず含

むように計画ざれる。これらはすべて広い通りレベルの

翼によって相互に連結され,一つの建物からもう一つの

建物への屋根つきの歩道を備えて,銀行や代理店,カフェ,

レストランなどを設置するための大きな空間がある。ショッ

ビングセンターそれぞれのために,一つだけ高層ブロッ

クがプラスされた長い低層ブロックの秩序だったシーク

エンスを計画する。後者の高層ブロックは銀行地区の高

層建物と同じ高さであり,それらすべては広々としたグ

ランドレベルのユニットによって1階と2階そしてギャラ

リーショップをむすびっけているO交通レーンの二つの

高くなった腕も歩行者の自由な循環を提供するためにこ

こで使われている。

12-駐車場専用として確保した非常に大きな地域を含む

スポーツ地区は,市の広場とラジオ送信タワーとの間に

定められてしまった。そのタワーは,打ち放しのコンク

リートのモニュメントの土台に立っている三角形の建造

物を想像してもらえばよい。スタジオや他の設備の床の

レベルの上方,中間ほどのところに観測用のタワーのつ

いた金属の上部構造をした建造物である(図12),一方

側に競技場が付随施設とともにあり,その向こうに植物

園がある。もう一方側には観覧席と乗馬クラブをもった

競馬場,そしてそのむこうに動物園がある。これらの二

つの広大な緑地は,都市のモニュメンタル軸の左右に対

象に並び,新しい都市の"柿"として機能することにな

るだろう(図4)0

13-市の広場には市役所,警察本部,消防署,そして公

的福祉関係の建物がつくられた。刑務所や保護収容所も

都心から多少離れてはいるが,この地域の一部′にある。

14-行政地区の向こうには都市の公共輸送システムの車

庫用のスペースが確保された。車庫の向こうの両サイド

に,軍隊の兵舎がある。両側にまたがった細長い土地が

小規模なローカル工業のためにリザーブされて,この地

区は完成する。この工業地域はそれ自身の居住地域をも

ち,鉄道の駅と重量交通の支線に接続している。

15一都市のモニュメンタル軸を全部走ってみると,一方

の端にある市の広場から政府の広場までのレイアウト

(図9)が流暢で,統一されているにもかかわらず,多

様性が妨げられてはいないことがわかる。同時にまた,

全体の中の自律的な人工ユニットと呼ぶであろうものを

各地域が形成していることも分かるOこの自律性が堂々

とした規模で雄大さをっくりあげ,都市全体の調和のと

れた統合に逆に影響することなくそれぞれのユニットの

個々の質の評価を許しているのである。

16-居住問題のための解決法は,居住地区-ハイウェイ

軸の両側に二列あるいは一列に並ぶ,それぞれが木々の

グリーンベルトで囲まれた,大きなブロックの絶え間な

い連続をっくる。それぞれのブロックでは,一つの特別

な種類の木が優位を占め,地面は芝生で覆われたカーペッ

トのようになり,内部の進入路には潅木や植物のさらな

るカーテンが育ってブロックの内を覆い隠し,観察者の

見通しのきく場所ならどこでも,あたかも景色の中に溶

け込ませるように二番目の平面でブロックの内をみせて

Page 7: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案について

くれるようになるだろう(図13).このレイアウトには

二重の長所がある。一つは,建物の密度,タイプ,パタ-

ンや構造が異なっているところでも秩序ある都市化を保

証することであり,もう一つは,ブロックの内部で予測

されるオープンスペースとは異なった,散歩したり余暇

を楽しんだりできる木々が並んだ細長い土地を住民たち

に提供することである。これらの"スーパーブロック"

の中で,居住用の建物は,次の二つの一般的な原則が見

られることがつねに用意されているならば,多くのさま

ざまな手法で整備されることができるはずである。それ

は,ピロティのある6階建てといった統一された高さ規

制と,特にそれぞれの区画にある小学校や公的な施設へ

の進入路での歩車分離交通である(図8)。

ブロックの遠くの側に大型車用のサービス道路が走り,

そのハイウェイの他の側沿いの細長い土地は車庫や修理

店,卸売の倉庫などを設置するためにリザーブされる。

これらの建物のむこうに,もう一つの細長い土地が広場

の三列目にあたる所に用意され,花や菜園,果樹園のた

めに用いられる。教会や中学校,映画館,小売り店は,

サービスおよび居住軸それぞれの-イウェイにとびとび

に接続する広くて細長い土地に配置されており,交互に

使用される。これらの建物の個々のレイアウトはそれら

の型か性質にしたがって行われる(図13)c

マーケット,肉屋,食料雑貨店,八百屋,金物店など

は,サービス路にもっとも近い細長い土地の区画に位置

する。散髪屋,美容院,洋服屋,ケーキ屋などはバスや

車の交通路に一番近い区画にあり,サービスステーショ

ンおよびガソリンスタンドもここにある。店は一列に並

35

び,そのブロックの周囲に巡らしてある歩行者の進入路

と植樹帯に面してショーウインドウとアーケードがつけ

られる。駐車場は店の反対側で,交通路に隣接したとこ

ろに予定する。横断路は一つの進入路から他の進入路へ

のアクセスを可能にしている。商店は二つに分割されて

はいるが,一個のユニットとしてしっかりと関係を保っ

ている(図14)。

ローカルな教会は4つのブロックが接する所に配置さ

れており,その背後には中学校をおく。映画館は他の地

域から行きやすいようにハイウェイに面したサービス用

の細長い土地の区画に配置されている.一方の商店と他

方の映画館との問の大きな自由な空間は,競技場や運動

場をもうけて青年たちのクラブ用にリザーブされる。

171社会的な階層は,たとえば大使館地区に接する単一

のブロックとするように,あるブロックにより高い価値

を与えることで簡単に規定されうる。この地域は都市の

主軸と平行して走る居住地区-イウェイの両側にあり,

独立したアクセス路をもっている。同時に,重量交通路

を居住用ブロックと分けあっている。大使館や公使館に

通じるこの個人的な通りの片側にのみ,景観の妨げにな

らないよう他方に何も建てずに残したまま,建てられる

予定であるOただし,唯一の例外である一流ホテルにつ

いてはその地区の中でも都市のセンターに近いポイント

に位置することになる。居住地区--イウェイ軸にそっ

ては, -イウェイにより近接しているブロックが内側の

ブロックよりもおのずとより高く評価されるだろうが,

それは経済システム本来の階級差を許すことになる。そ

れにもかかわらず,四つで一つのセットというスーパー

!!

P叫JbI°MoV2i> toNiuゝ.

15

くAHIMH.t i

■AtEl-°PE

HEnja

Page 8: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

36

ブロックのグルーピングは,不当で不快な階級差別を避

けて,あるていどの社会的共存を促進することになろう。

さらに,ブロックと次のブロックの間の標準的相違は提

案された都市化計画によりなくなるだろうし,すべてが

権利を有する快適さに影響しないような自然のものにな

るだろう。そのような相違は,密度の高い低いや,個人

や家族に割り当てられた空間の大小,そして仕上げの建

築材料と質の結果であろう。この点について,都会と田

園の地域のいずれにおいてもあばらやが乱立することを

避けることが非常に重要である。すなわち,提案された

計画の範囲内で全人口にきちんとした経済的なすまいを

供給することは,都市開発会社の使命である。

18-木々と広々とした田園で周りを囲まれた戸建て住宅

地区もまた,単純世帯用として土地で売るべく計画され

てきた。ここでのレイアウトは,より高い土地に建てら

れた家々がお互いに十分離れて見晴らしのよいところに

建てられるために,のこぎり歯状の区画であることが求

められる。そうすれば,ここでのレイアウトがすべての

区画に対しての独立したサービスアクセスを妨げること

もないだろう(図15)。結局は,規模とは関係なく高度

な建築上の規格をもつ戸建て住宅の建設がなされるとも

予測されるが,その場合,そのような利権の例外的な質

を強調するために,すくなくともお互いに住宅が1kmは

なれていることが必要とされるだろう。

19-居住地区--イウェイ軸の両端に墓地を配置するこ

とによって,葬式の行列は都市のセンターを検断する必

要がなくなるだろう。これらの墓地は芝生とそこにふさ

わしい木々で緑化され,英国の伝統にならって墓は平ら

で,墓石はシンプルで,全体としては地味なものになる

だろう。

20-居住地区の敷地として湖畔を使うことは,景観を損

ねないために避けられた。自然で素朴なやり方で森や野

原でその地区を緑化することは,結局,都市に住む人々

がシンプルな楽しみを満喫できることになる。ただ,ア

スレチッククラブ,レストラン,娯楽施設,浜辺の保養

也,釣りクラブは水際につくってもよい。ゴルフクラブ

は東端に配置され,となりには大統領邸とホテルがあり

(双方とも現在建築中),入り江の近くのヨットクラブは,

右がダムの端まで続いているような密集した森によって

ゴルフクラブと隔てられている。そしてこの地点は車道

が縁どるように走っている。この車道は湖を取り囲むよ

うに走っているが,最終的には植物や木々と共に美しく

レイアウトされるであろう野原を歩き回れるように,と

ころどころで土手の方から迂回している。その車道は居

住地区ハイウェイと,空港およびシビックセンターにつ

ながっている独立したハイウェイに接続され,都市へ来

る著名な訪問者によって利用されることになるだろう。

というのは,居住地区-イウェイだけで十分に出発でき

るからであり,それが都市をよりすばらしいものにして

いる。都市のセンターとダムの中間に空港の場所を限定

することをさらに提案する。そうすれば到来する乗客が

ダムと交差したり回り道をしなくてもいいからである。

21-住宅に番号をつけることについては,モニュメンタ

ル軸を中心に,街を北半分と南半分に分けるべきである。

そうすればスーパーブロックは番号で,住宅の建物は文

字でわかるはずである。そして最後に,例えば,住所が,

N-Q3-L, apt.201と示されるように,アパートは

通常の方法で明示されるはずである。建物の文字の表示

はスーパーブロックの入り口を基準に,通常の方法の左

から右につづいて書かれるべきである。

22-土地をいかに処分し,それをいかに個人資本にして

いくかという問題が残されている。ブロックを区画にし

て売るべきだとは私は考えていない。土地の区画の見切

り売りの代わりに,ユニットを割り当て量で売るべきだ

と思う。それらの価値はその場所にもよるし,その敷地

の標準的な建物パターンに左右されることだし,区画の

内部レイアウトの現在の計画や将来の改造の可能性を混

乱させないためである。そのような計画がむしろ土地の

割り当ての売り出しに先だっべきだと私は考えているが,

他方では,たくさんの数の区画の中の割り当て量の買い

手に対して,都市開発会社の許可をもとめるために買い

手自身がそのための都市化計画を提出することを妨げる

ものはなにもない。さらに都市開発会社自体は,法人に

よる割り当て量の購入を促進することに加えて,会社と

しての能力でかなりのていど行動できるはずである。も

ちろん割り当て量の価格は需要によって異なるだろうが,

私には分かっているように,プロジェクトの費用を補う

ための定められた金額を含むべきである。このことは,

都市開発会社の建築部門が扱わない区画の計画と建設の

ために請け負うばかりでなく,コンペの開催をも促進す

るだろう。最後に,私はつぎのように提案する。このよ

うなプロジェクトの許可は二つのステージでなされるべ

きである。最初は設計図面の段階で,そしてその次は,

最終版である。それはあらかじめ選択することと建築の

質の管理を許すためにである。

小売りショッピングセンターや銀行,そして自由業の

事務所地区に当てはまるが,割り当て量に分けるときに,

全体の建築上の完全さを害することなく,事実上のサブ

地区と自治的なユニットとなるように,販売に先んじて

計画されるべきである。その後,これらのユニットは不

動産市場の舞台に登場することができるはずであり,逮

物の建設すなわち負担部分は関係機関もしくは都市開発

会社によって資金調達されるはずである。二者択一的に

いえば,資金調達は両者間の同意によって取り決められ

るべきである。

23-要約すると,示された解決法は理解しやすいもので

Page 9: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案について

ある。なぜならそれはオリジナルデザインの単純さと明

解さによって特徴づけられているからである。しかしな

がら,それは構成要素の扱い方における多様性をまった

く排除していない。すでに示されているように,それぞ

れの構成要素は含まれる機能の性質にしたがって考えら

れてきた。そのようにして,明らかに矛盾した要求間に

調和をっくりあげてきた。そのけっか,都市はモニュメ

ントとなると同時に,快適であり,能率的であり,健康

的であり,親密でもある。同時に,それは,広々として

いて整然としており,田園風であって都会的であり,叙

情詩的であって機能的である。自動車交通は交差点なし

で処理されており,可能な限り地面は歩行者に返されて

いる。そして枠組みが非常にはっきりと示されているの

で,特に二つの軸,二つのテラス, -つのプラットホ-

f--*-*-- 1f〆

〃H

√≠いい.、、

I

-

'

?

>

1三権広場2省庁のエスプラナード3カテドラエル

4文化地区5多目的センター6銀行・オフィス地区7商業地区8 t.子′し

9ラジオ・TV放送タワー10スポーツ地区11市の広場12兵舎13熊jォR14倉庫・小工業15大学都市印ォ3m眉raia嗣17住宅地区18戸建て住宅19園芸・花弁・果樹園20植物園21動物園22ゴルフクラブ

23バスステーション

24ヨットクラブ

25住居26乗馬クラブ27零天商・サーカス等予定地28エアポート

29基地

等鶏.

I

.\

./

1

37

ム,一方向に走る二つの広いハイウェイ,他方向に走る

高速道路を建設することは容易である。後者は各地区で

建設することができる。つまり最初は各サイドにクロー

バ-形のインタ-チェンジをもつ中央車線,次に横断車

線であるが,それは都市の広がりにしたがってつくられ

ることが可能である。そこには-イウェイ・に接して緑の

ベルトのための余地がいつもある。当初は,居住用のスー

パーブロックはただただ平らで,風景的に境界づけられ,

それらの周囲には草と木々が直ちに植えこまれるはずで

ある。それらの内側では,どのような王の舗装もないば

かりか,どのような道も印づけられないはずである。簡

単にいえば,我々は一方で能率的なハイウェイを持ち,

もう一方で緑化された公園と庭を持つこととなるO

ブラジリア,航空機と車の時代の首軌ガーデンシティ,

-*.n T、、<IJI

1.′・・\tつ日記

1

1

-

-

I

-*

\/

\34

㌔/

l

J

■≠〆

ブッラジリア・パイロット・プラン4)

Page 10: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

38

長老の100年来の夢。

4.パイロット・プランの構想に関する若干の考察

3.に示したルシオ・コスタのブラジリア・パイロッ

ト・プラン(全訳)をみるとき,彼がその作成にあたり

何をどのようにして考えていったかを知ることができる。

ここでは,コスタのパイロット・プランの構想に関する

若干の考察を試みたい。

4-1構想内容について

ルシオ・コスタは,パイロット・プランの具体的な構想

内容を述べるに先立ち,このコンペに対する取り組み方

あるいは基本姿勢ともいうべきものを述べている。次に,

都市の創建が地域開発といかなる関係にあるべきかを示

したうえで,ブラジリアの都市の骨格をまず定めるべき

こと,それをいかにして考えるべきかを示している。

この都市の骨格を具体的な形にしていけば,あとは現

在および将来において求められる都市計画水準にしたがっ

ておのずと定まってくるのであり,かくしてブラジリア

のパイロット・プランが出来上がる,とコスタは言う。

以上のような基礎的考え方のもとに,直交する二つの軸

を都市の骨格として定め,一つに軸に居住地区を,もう

一つの軸(モニュメンタル軸)に首都として求められる

諸地区等を配置することからブラジリアのパイロット・

プランをつくりはじめている。

そして,ブラジリアを構成する諸機能のあり方に言及

しているが,それは交通システム,バス・ステーション,

商業核,スポーツ地区,植物園,動物園,スーパーブロッ

ク,サービス路,菜園・果樹園,教会,学校,映画館,

小売店,戸建て住宅,墓地,水辺のクラブ等に及ぶ。さ

らに,住居表示,土地の売買についても触れている。

ブラジリアを論ずる際に必ずといってよいほど取り上

げられる社会階層に関しても, -項目をさいて述べてい

る。また,地区の調和と統合,個性と多様性についても

述べられている。

4-2基本姿勢について

ルシオ・コスタのコンペ案は簡単なスケッチで提出さ

れている。このことが審査の段階で大きな問題となった

ことの一つであるが,このことについて関係者に謝罪す

るという姿勢をみせつつも,なぜそのような方式をとっ

たのか,その理由を冒頭ではっきりと述べている。

その理由とは,アイディアが根拠のある確実なもので

あるならば,それがごく簡単なものであっても,自然に

形となっていくだろうし,いろいろな人々によって用い

られていくだろうと確信するからである,ということで

ある。

そのアイディアとは, uma "civitas", nao uma

"urbs",であるとコスタは表現している。

4-3文章表現について

ルシオ・コスタが記した文章には,現在形・過去形・

現在完了形・未来形・仮定形の五つが使われている。こ

れがどのように使い分けられているのかということは,

コスタの案を理解する上で重要なことのように思われる。

それは今ひとつ定かではないが,次のように見ることも

できよう。すなわち,コスタ自身の都市計画のコンセプ

トとシステムをスケッチにしたがい現在形で語りかけ,

都市ができ上がってくる姿を映像でみせるかのように巧

みに現在形と現在完了形,さらに過去形を組み合わせて

いる。そして,将来の都市像を仮定形と未来形で示すこ

とで首都の姿を浮かび上がらせている。また,コンペ案

の提出時にすでに行われていた都市開発会社によるブラ

ジリアの開発状況と建築の進行状況を現在完了形で示す

と同時に,現在形を使うことで都市機能や美観を損なう

ことのないように示唆している。

4-4構想の組み立て方について

ルシオ・コスタは,都市としてのブラジリアをあくま

でもシステムとして提示しており,けっしてモニュメン

タルな都市として表現してはいない。ブラジリアがモニュ

メンタルな都市として構想されたことが批判の大きな一

つとなってきたが,コンペ原案をみるかぎり,そのよう

なことは兄いだせない。そのような見方がされたのは,

あるいは4-5で考察するブラジリアのイニシャル・

イメージである二つの直交する軸,およびそれにもとづ

くブラジリアの具体的な形-それは飛行機のアナロジー

としてよく紹介されている-ゆえなのかもしれない。

いっぽう,簡単なスケッチで提示されたシステムを読

み解き,解説を読んでいくと,そのあるべき姿が限定的

に浮かんでくる。うがった見方をすれば,それもルシオ・

コスタが考えた構想の組立なのかもしれない。

4-5ブラジリアのイニシャル・イメージについて

コスタは, 「都市は規律正しく能率的な仕事のために

計画されるべきであり,同時に都市は活力と楽しみの両

方がなければならない。また都市は政府や内閣の居場所

だけでなく,時間とともに輝いて,国のなかで消えるこ

とのない文化の中心のひとつになるべきだ」と表現して

いる。このことから考えると,ブラジリアがあくまでも

人が住み生活する場として構想されていることがわかる。

その一方で, 「都市は快適であり,能率的であり,健康

的であり,かつ親密でもある」という表現をしているこ

とは,都市そのものを人体に等しい生きている生命体と

して考えているのではないだろうか。

このようにとらえるなら, 「植物園と動物園の二つの

広大な緑地が都市のモニュメンタル軸の左右に対称に並

び,新しい都市の"柿"として機能することとなる」と

いう表現は,まさしく都市を``呼吸する人間"として構

想していると考えられるし,また直交する二つの軸の説

明においても, 「場所を標したり占有しようとするとき

Page 11: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案について

に人がよくする最初の身振りから生まれた」という表現

に端的に結びつき, 「まさしくキリストの十字架の印で

ある」という表現も容易に理解することができる

蝣aajfi華

本稿では,これまでさまざまな批判にさらされてきた

都市ブラジリアに対し,そのもととなったコンペ案にさ

かのぼってそのことを再検討するために,採用されたル

シオ・コスタのコンペ原案を訳出し,それをもとにこれ

まで批判の大きな項目となっていたことのいくっかに対

して若干の考察を加えたものである。

訳出に当たっては,現在のブラジリアを一通り見ると

いう作業を行ったが,それでもなお間違いがあるかもし

れない。訂正は逐次行うつもりである。

このコンペ原案が,ブラジリアの建設の段階で,どの

ように変更されたか,それもまたこの再検討に欠かすこ

とができない項目の一つである。

この研究は,大学院生の川西光子が中岡義介の指導の

もとに取り組んでいる課題研究「都市の役割の将来像に

関する研究(仮)」の一部をまとめたものである。

(注)

1)日経アーキテクチャー, 1991年11月11日号の海外特

派員レポート・ブラジルーブラジリア神話の裏表による。

2)1)に同じ。

3 )Ernesto Silva, Historia de Brasllia:Um Sonho,

Uma Esperanto,, Uma Realidade, Linha Grafica

Editora, 1999

4)この図にはP.P.Bという図キャプションと, Piano

Geral (一般図)と題してまとめられたブラジル語とド

イツ語による凡例が付されている。原案を理解するため

に,凡例は日本語訳を記した。原文では28と29の凡例が

逆になっていることが明らかなので,日本語訳では正し

いものを記しておいた。図中の番号は手書きであるが小

さくて読みづらいため,タイプで打ち直した。

39

Page 12: ルシオ・コスタのブラジリアコンペ応募原案についてrepository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/1168/1/...do Brasil, Departamento de Brasilia (.ブラジル建築

40

Original Proposal on "Pilot Plan for Brasilia" of the Competition in 1957

as presented by L血sio Costa

Yoshisuke Nakaoka・Mitsuko Kawanishi

Brasilia, the Capital of Brazil, was inaugurated in 1960. At that time it had caused a lot of public

discussion, because Brasilia was planned and constructed according to the Modern Town Planing Theory shown

by Le Corbusier, the leader of CIAM. But Brasilia has had the only worse estimations all over the world.

On the one hand the real reasons of these disapprovals have not been presented, and on the other hand we

have not had the more detailed information on the competition but also on the condition of town planning

of Brasilia.

The purpose of this paper is to review the original proposal on "Pilot Plan for Brasilia " by L屯sio Costa

that got lst reward in the competition in 1957, and to analyze the mam criticism according to the original

proposal.

Main criticism is as follows: Brasilia had a conception of a Monumental City constructed by old manner;

Brasilia was introduced as a city in plane form caused by first impression; "the city unconcerned with human

values"; the failed model as a city" etc.

The main results of this study are as follows;

(l)The constitution of the original proposal is shown by the articles; city and region, monumental axis and

sectors, entertainment center, bus station and parking, integration and articulation, Plaza of Three Powers,

Esplanade, University City, the Cathedral, the nuclei of the commercial, sport district and botanical zoological

gardens, individual qualities and variety, concept of Super Block, the service street and vegetable garden and

orchards, the local Church, the secondary school, cinema and retail, social gradations, the cemetery, lake front,

the numbering of the houses, the finance of the city.

(2)In this original proposal L丘sio Costa does not present Brasilia as a Monumental City, but suggests only

the planning system for the city.

(3)The system showed by the simple sketchy manner suggests the restricted and concrete form as Brasilia

should be.