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1 ジョン・ラファージにおける日本 はじめに ジョン・ラファージ(John La Farge, 1835-1910)は 19 世紀後半から 20 世紀初頭にか けて、主にニューヨークとボストンで活躍した画家であり、その生涯においてステンド グラス制作や美術評論など幅広い創作・著作活動にも携わった。ラファージはこの時代 のアメリカを代表する画家の一人であるが、同時代のジェームズ・マクニール・ホイッ スラー(James Abbott McNeill Whistler, 1834-1903)や、ジョン・シンガー・サージェン ト(John Singer Sargent, 1856-1925)などに比べると、日本では彼の画業についてあまり 知られていない。その理由の一つに画家としての時代的背景をみると、彼の没後アメリ カ美術は急激な転換を迎え、美術史の中では前近代的な画家と見做され顧みられなく なったことが挙げられよう。彼が没した直後の 1913 年からニューヨークを皮切りにアー モリー・ショーが開かれ前衛的な美術が紹介されたことからも分かるように、これ以降 のアメリカ美術は急速に現代美術へと志向していった。また、日本に関する美術評論の 影響という観点からも、近代日本における美術教育や美術行政に携わったお雇い外国人 らに比べ、日本での目立った活動があまり残されていないことから、その影響が見過ご されてきた。しかし近年、ラファージはアメリカのジャポニスムにおいて重要な役割を 果たした画家・美術評論家として、その存在が再認識され始めている。 ラファージは、同時代のイギリスの評論家ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819- 1900)の思想やラファエル前派、アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受ける一方で、 浮世絵を収集するなど日本美術にも傾倒し、早くも 1870 年には、欧米では最も早い時 期に日本美術論を発表している。そして 1886 年に来日の際には、アーネスト・フラン シスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)やウィリアム・スタージス・ ビゲロー(William Sturgis Bigelow, 1850-1926)、岡倉覚三(天心、1863-1913)らと交流 するなど、アメリカにおけるジャポニスムの普及という観点からも重要な人物であった。 本稿ではラファージと日本との関係について、彼の作品と著作によって多角的な視点か キーワード:ジョン・ラファージ、ジャポニスム (210)

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ジョン・ラファージにおける日本

井 上   瞳

はじめに

 ジョン・ラファージ(John La Farge, 1835-1910)は 19世紀後半から 20世紀初頭にかけて、主にニューヨークとボストンで活躍した画家であり、その生涯においてステンドグラス制作や美術評論など幅広い創作・著作活動にも携わった。ラファージはこの時代のアメリカを代表する画家の一人であるが、同時代のジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler, 1834-1903)や、ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent, 1856-1925)などに比べると、日本では彼の画業についてあまり知られていない。その理由の一つに画家としての時代的背景をみると、彼の没後アメリカ美術は急激な転換を迎え、美術史の中では前近代的な画家と見做され顧みられなくなったことが挙げられよう。彼が没した直後の 1913年からニューヨークを皮切りにアーモリー・ショーが開かれ前衛的な美術が紹介されたことからも分かるように、これ以降のアメリカ美術は急速に現代美術へと志向していった。また、日本に関する美術評論の影響という観点からも、近代日本における美術教育や美術行政に携わったお雇い外国人らに比べ、日本での目立った活動があまり残されていないことから、その影響が見過ごされてきた。しかし近年、ラファージはアメリカのジャポニスムにおいて重要な役割を果たした画家・美術評論家として、その存在が再認識され始めている。 ラファージは、同時代のイギリスの評論家ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-

1900)の思想やラファエル前派、アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受ける一方で、浮世絵を収集するなど日本美術にも傾倒し、早くも 1870年には、欧米では最も早い時期に日本美術論を発表している。そして 1886年に来日の際には、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)やウィリアム・スタージス・ビゲロー(William Sturgis Bigelow, 1850-1926)、岡倉覚三(天心、1863-1913)らと交流するなど、アメリカにおけるジャポニスムの普及という観点からも重要な人物であった。本稿ではラファージと日本との関係について、彼の作品と著作によって多角的な視点か

キーワード:ジョン・ラファージ、ジャポニスム

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人間文化 第33号

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ら検証し、日本美術がラファージの作品に及ぼした影響を探るとともに、一方でラファージが日本に与えた影響について、彼と交流を持った人物を含めて総括的に捉えたい 1。

日本美術との出会い

 ジョン・ラファージは1835年、ニューヨークに生まれる。両親はフランスからの裕福な移民であった。6歳で絵を習い始め水彩画を描くとともに、この頃に日本の美術に触れる機会を得て、ある種の東洋への憧れが芽生え始めていたようである。大学では法律を学ぶが、1856年に渡欧しフランスに両親・親戚と滞在し、ブルターニュとベルギーに旅したほか、1857年にはパリで短期間であるが画家トマ・クチュール(Thomas

Couture, 1815-1879)に師事した。その後、デンマーク、ドイツ、スイスを訪問して、帰国後は油彩画の制作を手掛け、美術の世界に入っていった。ラファージがヨーロッパに滞在したまさにこの時期、鎖国が終焉した日本から徐々に日本の美術工芸品がヨーロッパに流入し、日本の文物が紹介され始めた頃であった。ラファージはこの滞欧中から日本美術に関心を持ち、既に浮世絵の収集をしていたという 2。後に 1908年のオークションで自身のコレクションを手放す際に、「ちょうど50年前に北斎の版本を購入したのだが、初めて発見した時の喜びを想像してほしい。そこで火が付き、すっかり日本の虜になってしまった。実際、私より先の画家を知らない。」と述べており、最も早い時期に浮世絵に関心を持った画家であったと考えられる 3。 ヨーロッパで浮世絵が初めて紹介されたエピソードとして、1856年にパリで画家フェリックス・ブラックモン(Félix Bracquemond, 1833-1914)が日本から輸出された陶器の包装に使われていた『北斎漫画』を発見したのが最初とされるが、アメリカでも同年マシュー・ペリー提督(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)による『ペリー艦隊日本遠征記』4

が刊行され、挿絵に歌川広重による浮世絵など日本から持ち帰った美術品を掲載した。ラファージはヨーロッパからの帰国後に、ペリー提督の兄の孫娘マーガレット・メイソン・ペリー(Margaret Mason Perry, 1839-1925)と結婚していることから、ペリー提督が収集した広重などの版画を目にする機会もあったと考えられる。いずれにしてもラファージは、欧米でジャポニスムが広く流布する以前に、特に浮世絵を中心とした日本美術のコレクションを所持していた。 ラファージが実際に収集した日本美術コレクションは、彼の生前の 1908年、1909年と、亡くなった翌年の 1911年の計 3回、オークションで売却されている。それぞれの目録の詳細を見てみると、彼の収集したコレクションの傾向を知ることができる。 まず1908年の「ラファージ旧蔵品売立目録」 5には、日本の美術工芸品が大半を占める486点が掲載されており、主な内訳として陶磁や漆工など工芸品 202点、着物や能装束など染織品 50点、浮世絵版画 60点(鈴木春信、喜多川歌麿、葛飾北斎が多い)、軸や扇面画など絵画作品 94点が掲載されている。この 1908年の売立目録の作成には、ラ

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ジョン・ラファージにおける日本(井 上)

ファージとの親交を深めた岡倉覚三が、フェノロサ、モースと共に携わっており、目録の序文には、岡倉、フェノロサ、モースの名を挙げ謝辞が記されている。この時の岡倉からガードナー夫人宛の手紙にも「来週金曜日、ラファージ氏の収集品の目録作成を手伝うため、ニューヨークまで行きます。(中略)ご承知のように氏は今月、蒐集品の売立てをいたします。」と記されている 6。当時ボストン美術館中国日本美術部顧問であった岡倉は、この売立を通してボストン美術館のために作品を数点購入している。この売立目録の中で現在ボストン美術館の所蔵が確認できる作品として、小川破笠《棕櫚意匠料紙箱》、《鶴半月意匠硯箱》があるほか、《誰が袖図屏風》もラファージ旧蔵品との記録が残っている。 翌1909年の「ジョン・ラファージ旧蔵東洋美術作品」 7売立目録には 664点が掲載されており、その内訳は日本の絵画(軸・屏風)、版画、冊子、茶道具などで、うち半数の379点が浮世絵版画である。浮世絵は多岐にわたり、北斎・広重・豊国・国貞など江戸後期から幕末に近い絵師が多いが、一部鈴木春信や磯田湖龍斎なども含まれる。この1909年売立目録の中には購入場所及び購入年が記されているものがあり、正確に記述されているものだけを拾うと、1860年頃及び 1863年に「日本からの輸入品を購入」した作品が 5点あるが、これはニューヨークの貿易商会アビエル・アボット・ロウ(Abiel

Abbott Low)を通して浮世絵を購入したものと考えられる。また目録中 1886年来日時の購入作品が 134点で、このうちおよそ半数の 76点が山中商会(日光、大阪を含む)からの購入品である。 ラファージの死後に売立が行われた1911年の「ジョン・ラファージ・コレクション」売立目録 8は全 913点で、日本の美術工芸品としては、絵画(軸・屏風)・冊子115点、浮世絵版画 46点、根付・刀装具・漆工など工芸品 147点、能装束など染織品 38点となっている。この最後の売立で興味深いのは、ラファージ自身の油彩・水彩画・素描、ステンドグラス、ブロンズ作品があるほか、ウィリアム・ハント、ウィリアム・ブレーク、アルブレヒト・デューラーの版画も含まれている点である。ラファージは日本の美術工芸品だけでなく、一部はヨーロッパの版画作品も収集していた。いずれにしても、ラファージ旧蔵のコレクションから見る限り、日本美術に非常に関心が高かったことがはっきり示されている。現在のボストン美術館やメトロポリタン美術館などに所蔵されているラファージの油彩画や水彩画だけでなく、ラファージが心から愛し旧蔵していた日本美術コレクションからは、日本美術に対する敬愛を窺うことができよう。

ラファージの日本美術論

 ラファージは日本の美術工芸品の収集に加え日本美術に対する論考も深め、ジャポニスムが広く欧米で流行し始めた頃にあたる 1870年に、欧米で最も早い時期に「日本美術論」を発表している。これはラファエル・パンペリー(Raphael Pumpelly, 1837-1923)

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の著書『アメリカ・アジア横断(Across America and Asia)』で日本の風俗や文化、宗教について記す中で、日本美術に関する章を、この分野に造詣が深かったラファージに執筆依頼したものである 9。パンペリーは、後にハーバード大学教授となったアメリカの地質学者で、1862(文久 2)年から 1年間、江戸幕府が蝦夷地における鉱山等の開発検査のため招聘した初期のお雇い外国人であった。『アメリカ・アジア横断』は、パンペリーがアリゾナから日本、中国、中央アジアを経てヨーロッパを廻った異文化紹介の旅行記で、全 28章のうち日本については 6章から 14章までを割いており、日本滞在時の主に蝦夷地での出来事に加え、日本の政治や宗教などにも言及している。この中の第 14章「日本美術論」の執筆を特にラファージに依頼したことをパンペリーが序文で述べていることから、当時既にラファージの日本美術に対する見識の深さが認識されていたことが窺える。ラファージは晩年の著作や講演でも日本美術に関して語ることが多かったが、この 1870年の「日本美術論」が最初の著作であり、また広くジャポニスムという観点からも欧米では最初期の日本美術に関する論考として位置づけられ、エポックメイキングとなる著作であった。 ラファージはこの「日本美術論」において、まず日本の装飾性に着目し、色彩美とデザイン性の高さを称賛している。ただ、具体的に名前を挙げて例示される画家は北斎のみで、その他は、白と黒で表現された水墨画のデザイン性を評価する事例が紹介されているのみである。論考の大部分は「日本の美術は写実性と装飾性という二つの相反する要素から成り立っており、これがうまく交わることで論理的な美術史においては未だ満たされたことのない地位を占める」という一文に示されるように、日本美術の特徴を説明している10。さらにラファージは日本の美術の中に、純粋芸術と装飾芸術の統合された芸術の理想が存在することを強調する。日本の漆工、金工、陶磁をはじめとする工芸品は、純粋芸術と装飾芸術が未分化の状態にあった。ラファージは日本美術に、生活の中に芸術を取り入れ、芸術と産業の統合を目指すというアーツ・アンド・クラフツ運動にも通じる理想を見出したのである。ラファージは文中で、日本の装飾美術における斬新なデザインと色彩美を讃え、「我々は完全なる美術品を目の当たりにしている。つまり、芸術が幸福に産業と結びついた確かな文明の面前にいるのである。」と記して賛美している11。 このような芸術の統合という理想は、ラファージのみならず 19世紀のアメリカで広まった美術の動きで、特に装飾美術、つまり手工芸の復興に力点が置かれた。ラファージは後の 1893年のメトロポリタン美術館での講演でも、大芸術(純粋芸術)と小芸術(装飾芸術)が未分化の例として日本を取り上げ、絵画から工芸品に至るまで徒弟制によって生み出される日本の美術に言及している12。ラファージにとっての日本美術は、当時流行した美術運動の影響も交えながら、日常の中にも美を見出す日本文化の特性までもが深く理解されたものといえよう。

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 ところで、このようなラファージの日本美術論が形成されるに至った情報源はどこにあったのか。先のラスキンやアーツ・アンド・クラフツ運動に影響を受けたことに加え、ラファージが「日本美術論」を執筆する 1870年以前に発表されていた日本美術に関する記述についても言及しなければならない。まず、先に述べた 1856年刊行の『ペリー提督日本遠征記』中に、ピーター・ダッガンが執筆した一項目「日本の美術」13が挙げられる。全体の中ではほんの数ページに過ぎない日本の美術についての記述であるが、広重の浮世絵版画 2点を掲載し、デザイン性や簡素な表現などの特徴を上げ、ギリシア美術と比較するなどして説明している。このほか、ラファージの「日本美術論」中の脚注では、ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock, 1809-1897)の名が挙がっている。オールコックは初代駐日総領事・同公使を務め、1862年に開かれた第 2回ロンドン万国博覧会には彼が収集した日本の美術工芸品を出展し、1863年に『大君の都』、後の 1878年には『日本の美術と工藝』を著しており、当時日本の文化を紹介した数少ない著書であった。1870年というジャポニスムの流行にはまだ早い当時、ラファージが日本美術について知る情報源をさらに詳らかにする必要があろう。

ラファージ作品に見る日本美術の影響

 ラファージが所蔵していた浮世絵は幅広く、『北斎漫画』をはじめ、歌川広重、歌川豊国、渓斎栄泉の浮世絵、鈴木春信、勝川春章、歌川国芳の肉筆画のほか、狩野探幽や幸野楳嶺の画譜と多岐にわたっていたが、ラファージはこれらのコレクションを自身の作品制作の参考にしていたという14。ラファージが日本美術に傾倒していた 1862

年頃に描かれた初期油彩画《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》(ボストン美術館蔵)には、画面を大胆に区切る二本の木の配置に、北斎や広重ら浮世絵の構図の影響がみられる。またラファージの初期代表作とされる《花瓶》(fig.1)は、松や花卉を描いた金屏風を背景に漆塗の筆立を花器として花を描いており、いずれもアメリカ人画家としてはジェームズ・ホイッスラーと共に最も早い時期のジャポニスムの作例と考えられる。この類例として後年の作に、日本の工芸品をモチーフにした《漆器に生けられた白ツバキ》(ボストン美術館蔵)があり、いずれも「東洋のバラ」と称されたツバキ

(fig.1) ジョン・ラファージ《花瓶》 1864年 ボストン美術館

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を描いて異国の雰囲気を演出している。 またラファージによる版画《漁師と悪霊》(fig.2)や《旅人と巨人》(fig.4)では、彼が所蔵していた『北斎漫画』(fig.3,5)からの引用が顕著に見出される。『北斎漫画』は、1814(文化 11)年に初版が刊行され、北斎の存命中に十三編まで、その後、全十五編が刊行された。ラファージはこの『北斎漫画』を所有しており、先に紹介した 1909年の「ジョン・ラファージ旧蔵東洋美術作品」売立目録 18番には、「大変興味深い」というコメントと共に掲載されている15。ラファージの《漁師と悪霊》には、『北斎漫画』の 2つのモチーフからの流用が確認できよう。また《旅人と巨人》の巨人は、同じく『北斎漫画』の「公時遊興」を参考にしている。いずれも版画であるため、画像は反転して

(fig.2) ジョン・ラファージ《漁師と悪霊》1866-67年メトロポリタン美術館

(fig.3) 葛飾北斎『北斎漫画』(左から十二編、十一編)1878(明治 11)年 国立国会図書館

(fig.4) ジョン・ラファージ《旅人と巨人》1868年メトロポリタン美術館

(fig.5) 葛飾北斎『北斎漫画』(十二編) 1878(明治11)年国立国会図書館

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いるが、画家がオリジナルの浮世絵を参考にして制作した興味深い作例といえよう。ラファージは特に北斎を高く評価し、北斎について、「デッサンに優れたこの画家に…人体や動物の簡単な動き、歴史や宗教から日常の些細なディテールに至る事柄、小さな鳥や虫の習性などについて、楽しんで見倣った。」と述べており、ラファージが特に好んだ画家であった16。 日本の画家からの影響という観点から、ラファージの作品で一風変わった作品がある。《幼い暁斎が川で見た奇妙なもの》という風変わりなタイトルのこの水彩画は(fig.6)、『暁斎画談』(外篇)に記載されている河鍋暁斎(1831-1889)の逸話をもとに描いたことが指摘できる。暁斎が9歳の時、長雨で増水した神田川を流れてきた生首を写生するため家に持ち帰り皆を驚かせた、という逸話の記述がある。ラファージは実際にこの『暁斎画談』を所有していたことが、1911年の「ジョン・ラファージ・コレクション」売立目録 480番の記載から判り、解説文には「『暁斎画談』、暁斎の絵物語、英文テキスト入りスケッチ、2冊、1887年」とあることから、まさに『暁斎画談』を読んでエピソードの内容を知ったと考えられる 17。『暁斎画談』(外篇)の「御茶水急流に生首を得、写生の図」(fig.7)の上部に、幼い暁斎が流れる生首を得ようとする挿絵が描かれており、ラファージはこの部分から着想を得たのであろう。 ところで、ラファージは来日時に暁斎と会ったのかという疑問であるが、ラファージ来日時の旅行記である『画家東遊録』の 1886(明治 19)年 9月 1日に、フェノロサがラファージらをある画家宅へ連れて行ったとの記述がある18。記載された内容から、この画家が暁斎である可能性が指摘できる。まず、フェノロサが 1886年時点で来日客を

(fig.7) 河鍋暁斎『暁斎画談』(外篇)1887(明治 20)年 国立国会図書館

(fig.6) ジョン・ラファージ 《幼い暁斎が川で見た奇妙なもの》1897年 メトロポリタン美術館

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案内したであろう可能性がある画家として、狩野永悳(1815-1891)、狩野芳崖(1828-

1888)、橋本雅邦(1835-1908)、小林永濯(1843-1890)、狩野友信(1843-1912)、そして河鍋暁斎ら、フェノロサが師事や支援するなど交流を持った画家の名が挙げられよう。これらの画家を『画家東遊録』の記述と照らし合わせて絞り込んでいくにあたり、着目すべき記述が 3箇所ある。まず 9月 1日の記述に、ラファージらは最初に版画の彫師を訪ねた後、その版下絵を描いた画家のところへ行き、版画制作の手順を教えてもらったという。この時期に版画(錦絵)を手掛けた画家というと、河鍋暁斎と、ほかに菊池容斎(1788-1878)が挙げられるが、容斎は1886年の時点にはすでに没している。次に、ラファージが訪ねた画家は、この時病気であったという記述がある。暁斎は1889(明治22)年に胃癌のため死去するが、晩年は酒も飲めなくなり、体を横たえることが多かった ¹⁹。なお、1888(明治21)年に死去した狩野芳崖も、晩年は肺炎を患い病気がちであったという ²⁰。最後に、画家の部屋の隅にはイギリスやアメリカの絵入りの新聞の切れ端が一杯積まれていた、という記述がある。これについては近年、暁斎が西洋の新聞をスクラップした「西洋イラスト画集」が発見された報告がなされている ²¹。主にアメリカの新聞「ハーパーズ・マガジン」やイギリスの「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」をスクラップして画帳とし、作画の参考にしたと考えられ、まさにラファージの『画家東遊録』の記述を裏付ける貴重な資料といえよう。これら3箇所の記述を暁斎側からも確実とする資料として、『暁斎絵日記』があるが、残念ながら当の1886年9月1日の該当頁を失している ²²。しかし、上記3箇所の記述の一致から、ラファージがフェノロサに連れられ訪ねた画家は、暁斎であった可能性は高いといえる。ただし、この画家訪問時の滞在時間は短く、版下絵をもらって早々に帰ったことが記されている。また、先の《幼い暁斎が川で見た奇妙なもの》のエピソードについての言及はないため、『暁斎画談』の発行の1887(明治20)年以降にこれを手に入れ、作品にしたと考えられよう。 ラファージは油彩画の制作を行う一方、1873年ボストンのトリニティ教会の装飾を契機として、壁画やステンドグラスの制作に移行していく。彼が生涯に手掛けたステンドグラスは300点に上った。教会や公共建築のために制作されたステンドグラスには、キリスト教やギリシア神話の主題を描いた作品が主であるが、個人邸宅の依頼には花鳥を主題としたものが見られる。《風になびくボタン》(fig.8)は日本の花鳥画、おそらく北斎の《牡丹に胡蝶》(fig.9)に触発されて制作した作品で、表装の風袋までも模した掛軸風の枠になっており、日本美術への志向を窺うことができる。また《魚》(fig.10)は、北斎による《菖蒲に鯉》(fig.11)を参考とした例に挙げることができるが、このほかにも『北斎漫画』に描かれる鯉に似た水彩画が数点ボストン美術館に残されている。ラファージのステンドグラス制作には、日本美術のモチーフが取り上げられているという表現上の側面に加え、純粋芸術と装飾芸術の統合を理想とする彼の芸術論の実践としても捉えることができよう。生活の中に芸術を見出し、芸術と産業を統合する具体的な実

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践として、彼のステンドグラス制作があると位置づけることができる。ラファージの秀作はメトロポリタン美術館をはじめ、シカゴ美術館、フィラデルフィア美術館などにも多数所蔵されており、今後更にラファージの作品調査を進めていくことが必要である。

(fig.8) ジョン・ラファージ《風になびくボタン、軸装風》1893年頃 スミソニアン・アメリカ美術館

(fig.9) 葛飾北斎《牡丹に胡蝶》江戸時代1830-44(天保初)年頃

(fig.11) 葛飾北斎《菖蒲に鯉》 江戸時代 文化中期(1808-13)年 ボストン美術館

(fig.10) ジョン・ラファージ 《魚》1890年頃 ボストン美術館

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ボストン・ブラーミンの来日

 19世紀のアメリカと日本の関係は、ボストンを中心に展開していった。アメリカ北東部の中心地であるボストンは、17世紀にイングランドからの最初の入植者の一派である清教徒によって築かれたアメリカで最も古い街の一つであり、18世紀にはアメリカ独立戦争の舞台ともなった歴史的な場所である。入植後のボストンは、北方に位置する港町セーラムと共に海運業で興隆し、古くからアジアやアフリカなど世界中から異国の文物が集まる地域であった。19世紀には製造業でも栄え、やがて 19世紀の終わりには、ボストンは全米でも屈指の貿易と産業の中心地となって繁栄し、文学や芸術の重要な拠点ともなっていた。当時ボストンでは、イギリスからの最初期の移民の子孫たちをボストン・ブラーミン(Boston Brahmin)と呼び、アメリカの中でも特異な上流階級を形成した。彼らは知的な文化サークルを形づくり、音楽や美術など文化の重要な支援者ともなった。 このボストンの知的階級であるボストン・ブラーミンを中心にして、19世紀後半の日本とアメリカの関係は展開する。経済的・文化的隆盛を背景に明治時代に来日したボストニアンたちは、単なる日本美術の愛好者ではなく、日本について深く理解し、中には研究者として日本文化や日本美術の普及を促した。それは、1877年に初来日した生物学者エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse, 1835-1925)に始まった。 モースは、この歴史あるボストンを中心としたニューイングランド地方の一都市、メイン州ポートランドに生まれる。1877年に腕足類の研究のために初来日したモースは、東京大学理学部教授として教鞭をとり、その間、大森貝塚を発見するなど、日本の考古学の発展にも寄与した。ここで東京大学の政治学教授の求人を委嘱されたモースは、ハーバード大学で哲学と政治経済を学んだアーネスト・フェノロサに白羽の矢を立てる。モースの推薦によって東京大学の政治学教授として来日したフェノロサは、1873年から来日していた医師ウィリアム・アンダーソン(William Anderson, 1842-1900)による講演「日本絵画史」に刺激を受け、日本美術に開眼していったという。日本でのフェノロサは、日本画の復興運動や東京美術学校の設立など、明治の日本画壇や美術教育に大きな足跡を残した。その一方で日本美術の研究や収集にも傾倒し、帰国後はボストン美術館日本美術部長として日本美術の展覧会を開催し、講演や執筆活動によってアメリカでの日本美術の普及に取り組んだ。19世紀後半の美術界において、フェノロサほどアメリカのジャポニスムに大きな影響を及ぼした人物はいないであろう。 アメリカに帰国したモースは、セーラムのピーボディ科学アカデミー(現ピーボディ・エセックス博物館)館長に就任し、講演などで極東の国、日本について語る機会を得た。モースによって日本文化が紹介されると、ボストン社交界の知識人を中心に日本への関

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心が高まり、モースの講演に触発されたボストニアンたちが、次々と来日することとなった。ボストン・ブラーミンの一人、医師で富豪のウィリアム・ビゲロー、ボストン社交界の女王と呼ばれた富豪のイザベラ・ステュアート・ガードナー夫人(Isabella Stewart

Gardner, 1840-1924)、天文学者パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell, 1855-1916)、後にフェノロサの日本美術コレクションを購入してフェノロサ-ウェルド・コレクションとしてボストン美術館に寄贈した外科医チャールズ・ゴダード・ウェルド(Charles

Goddard Weld, 1857-1911)、そして画家のジョン・ラファージと、彼の友人で共に来日した作家・歴史家のヘンリー・ブルックス・アダムズ(Henry Brooks Adams, 1838-1918)など、ボストンを中心とした人々の来日が続くこととなった。そしていずれもが、大小の違いはあるがアメリカにおける重要な日本美術コレクションを形成している。 その中の一人で、最初期にモースに感化されて来日したビゲローは、モースが 1882

年に再来日する際、共に来日した。ビゲローは日本に滞在中、モース、フェノロサと 3

人で美術品収集旅行に出かけている。この時のことをモースは、「ドクタア・ビゲローは刀剣、 鍔、漆器のいろいろな形式のものを手に入れるだろうし、フェノロサ氏は、彼の顕著な絵画の収集を増大することであろう。かくてわれわれはボストンを中心に世界のどこよりも大きな日本の美術品のコレクションを持つようになるであろう」と記している23。モースは翌年の 1883年に帰国するが、ビゲローは 1889年まで、フェノロサは1890年まで日本に滞在し、ボストンからの訪日者を迎え、案内役を買って出た。ガードナー夫妻や、ラファージとアダムズが来日した際にも、ビゲローとフェノロサが彼らを出迎え、ボストニアンの日本理解への扉を開いた。

ラファージの来日

 ラファージの来日は意外に遅く 1886 (明治 19) 年、51歳の時で、古くからの友人で歴史家のヘンリー・アダムズと共に 3か月間の滞在であった24。サンフランシスコからの長旅の後の同年 7月 2日、横浜で二人を出迎えたのはビゲローであった。日本でのラファージは、当時広まっていたコレラを避けるため、日光の避暑地に 1か月ほど滞在し、その後、鎌倉、京都、奈良、岐阜を訪ねる。 開国直後の日本では、外国人の行動範囲は横浜や神戸などの開港場に限られていたが、次第に緩和され、箱根や熱海、日光などの観光地に多くの外国人が訪れるようになった。なかでも彼らが頻繁に訪れた観光地の一つが日光であった。イギリスでは 1872年にアーネスト・サトウが「ジャパン・ウィークリー・メイル」に「日光遊記」を連載、フランスでもエミール・ギメが『東京日光散策』を出版し、徐々に日本の観光地が紹介されるようになっていた。アメリカではモースの『日本その日その日』の記述が日本への旅行熱を喚起したことは言うまでもない。フェノロサは日光に別荘を持ち避暑のため毎年訪れていたし、ボストンからの旅行者を案内した。ラファージとアダムズも、日光滞在期

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間にはフェノロサとビゲローの世話になり、岡倉も途中から合流して、交流を深めた。彼らは、徳川幕府を始めとする日本の歴史、工芸や建築など芸術文化について、そして仏教や神道、道教の思想についての幅広く深い洞察をラファージらに与えた。 ラファージの日本滞在は後に『画家東遊録』にまとめられており、訪れる先々での出来事に加え、絵画や工芸、建築など日本の芸術や、歴史、宗教に対してラファージが知り、感じたことが記されている。文中には「何か見物に出かけるといつも骨董漁りの脇道につい曲がってしまう」25というほど各地で美術品を買い漁った記述が何箇所も出てくる。この旅先での素描や写真が『画家東遊録』に掲載されているが、ボストン美術館やメトロポリタン美術館には本書に掲載されるイラストの元である日光東照宮や京都、農村風景の水彩画やスケッチが数点所蔵されており、旅先での時間を垣間見ることができる(fig.12)。 3か月の滞在の後、同年 10月 2日、ラファージとアダムズは横浜から帰国の途に就く。この後ボストンからは、トリニティ教会の神父フィリップス・ブルックス(Phillips

Brooks, 1835-1893)とウィリアム・マックヴィカー(William Neilson McVickar, 1843-

1910)が来日するが、ほぼ一段落を迎える。こうして 1877年のモースから始まるボストニアンの来日の輪は、フェノロサ、ビゲロー、ガードナー夫人、そしてラファージと、ボストンの知的サークルの中で日本美術愛好熱を醸し出し、アメリカにおける日本文化の発信地として重要な位置を占めることとなった。これはボストンという地が歴史的に貿易で栄え異国趣味が身近にあったこと、近代化への反動から特に19世紀後半に仏教

を中心とする東洋思想への関心が高まっていたことなどから、日本へ視線が向けられる土壌はあったといえよう。それにモースから繋がるボストン社交界のネットワークによって多くのボストニアンが日本を訪れ、アメリカにおいてボストンが日本文化を受容し発信する拠点となっていったのである。 ラファージの日本からの帰路に、日本政府から美術取調委員として欧米美術事業調査を命じられたフェノロサと岡倉が、ビゲローと共に同船していた。アメリカに戻ったラファージは、かねてから訪日の目的としていたニューヨーク昇天教会の壁画制作に取り掛かり、日光でのスケッチをもとに、キリストが昇天する

(fig.12) ジョン・ラファージ 《日光東照宮の陽明門から唐門を見る、1886年8月》1886-93年 ボストン美術館

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背後の山並み風景を壁画に描き込んだ (fig.13) 。この間、岡倉はラファージをニューヨークに足しげく訪ね、二人は仏教教義について深く談論を重ねたという26。こうした二人の東洋思想を介した結びつきに加え、日本の美術教育を担って欧米の調査に携わった岡倉の存在を考えるとき、ラファージは、明治日本の美術教育の指針を方向付ける重要なキーパーソンであった可能性が浮かび上がる。それは岡倉が 1887年に帰国後に執筆した報告書「何故西洋画法は日本の学校で教えるべきではないか」の下書きに見解が示されていることが指摘されている27。文化行政の方針を担った岡倉にヨーロッパの芸術に関する動向の現状を伝え、美術教育についての方向性を指し示したのはラファージではなかったのか。岡倉が東京美術学校設立当初、伝統的な日本美術を保護し振興することを目指していたことは、ラファージの持つ芸術論に近似している。 岡倉は1904年に再び訪米し、ビゲローの紹介によりボストン美術館に迎えられる。ラファージも岡倉への援助を惜しむことなく、ボストン社交界の要人であったイザベラ・ガードナー夫人への紹介状を書き、岡倉とボストン・ブラーミンのネットワークへの橋渡しを助けた。さらにラファージは、横山大観や菱田春草らがニューヨークで展覧会を開く際に会場を紹介するほか、同年のセントルイス万博では岡倉を講演者として推薦するなど、熱心に支援を行った。こうして岡倉は、ビゲロー、ガードナー夫人、ラファージらボストン上流階級の人々の支援によって、モース、フェノロサに続いて、日本美術の伝道者としての地位を確立していった。 ラファージは岡倉から仏教をはじめとする東洋の思想について多くを学び、その後の

(fig.13) ジョン・ラファージ 《ニューヨーク昇天教会》1886-88年

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作品制作にも深い影響を受けている。ラファージにとって岡倉の存在の大きさは、『画家東遊録』の冒頭に岡倉への献辞が捧げられていることからも明らかである。一方で、岡倉が 1906年に出版した『茶の本』の冒頭には、「ジョン・ラファージ先生に」とラファージへの献辞が記されてされており、生涯にわたって交流した二人は、単なる社交的な繋がりではなく、芸術を通した精神的な交わりといえる深いものであった。

おわりに

 ラファージと日本との関りは、彼の生涯において徐々に深化し、それが絵画やステンドグラスといった作品に昇華されていった。彼にとって日本は、芸術と産業、純粋美術と装飾美術が統合された理想郷であり、岡倉を通して深く知った東洋思想の源であった。ラファージは来日する直前に、何のために日本に行くのかと問われ、「涅槃を探しに」と答えている28。ラファージは、確かに仏教や道教など東洋の思想に深く傾倒していたが、フェノロサやビゲローのように仏教に改宗することはなく、むしろ生涯を通して敬虔なカトリック教徒であった。ラファージ自身の言葉によれば、彼の心は「宗教的に調和していた」29。ラファージにとって重要だったのは、様々に解釈される宗教的教義ではなく、心のありようそのものに他ならない。 冒頭でも述べたように、ラファージの活動は幅広く、彼に影響を与えた要素も到底一つに絞り切れるものではない。従って本稿は、ラファージを日本という観点から切り取った一側面にすぎない。しかし彼にとっての日本という存在の深さを鑑みると、ラファージの本質に関わる重要な位置にあったことには違いない。本稿によるラファージ研究はいまだその一側面の概要を示し、端緒に就いたにすぎず、更なる考証が必要である。今後ラファージについて、今回取り上げたそれぞれの課題について改めて詳細に掘り下げていきたい。

註1 本稿は拙著「ジョン・ラファージと日本」(『ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展』図録掲載、2015年)をもとに加筆し論考を進めたものであり、今後のラファージ研究を発展させる上での指針として総括的に論ずるものである。

2 Henry Adams, “The Mind of John La Farge”, Henry Adams et al., John La Farge, New York: Abbeville Press Publishers, 1987, p.21.

3 Royal Cortissoz John La Farge, A Memoir and a StudyYork, 1911, p.243

4 Francis L. Hawks, Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan: Preformed in the years 1852, 1853, and 1854, Under the Command of Commodore M.C. Perry, Washington D.C., 1856. 土屋喬雄、玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』、岩波書店、1948年。および、宮崎壽子訳『ペリー提督日本遠征記』角川学芸出版、2014年。

5 Valuable Artistic Property Collected by the well-known Connoisseur John La Farge, N.A., New York, 1908.

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6 「198〔日付不明〕ガードナー夫人あて」、『岡倉天心全集』第 6巻、平凡社、1980年 p.189。なお本書簡は〔日付不明〕となっており明治 37年(1904年)として暫定的に掲載されているが、ラファージ・コレクションの売立は 1908年、1909年、1911年にあり、岡倉が関わったもので滞米期間に重なるのは 1908年、1911年に限られ、この手紙の文面からラファージの生前であることが分かるため、1908年 2月と推定できる。

7 Oriental Art Objects, the property of John La Farge, The Anderson Auction Company, American Art Galleries, New York, 1909.

8 The John La Farge Collection, The American Art Associations, Managers, New York, 1911.9 John La Farge,“An Essay on Japanese Art,” Across America and Asia, Leypoldt & Holt, New York, 1870.

10 ibid. p.200.11 ibid. p.196.12 John La Farge,“Considerations on Painting” Lectures given in the year 1893 at the Metropolitan Museum

of New York, Macmillan and Co., New York, 1895, p.163.13 Peter Duggan, “Japanese Art,” in Francis L. Hawks, Narrative of the Expedition of an American

Squadron to the China Seas and Japan: Performed in the years 1852, 1853, and 1854, Under the Command of Commodore M.C. Perry, Washington D.C., 1856.

14 Oriental Art Objects, the property of John La Farge, p.3.15 ibid. p.6.16 John La Farge, “Hokusai,” Great Masters, Doubleday, Page and Company, New York, 1915, p.222.17 The John La Farge Collection, ibid.18 John La Farge, An Artist Letters from Japan, The Century Co., New York, 1897, p.216. 久富貢、桑原住雄訳『画家東遊録』、中央公論美術出版、1981年、p.167。

19 山口静一「コンドルの日本研究」、ジョサイア・コンドル著、山口静一訳『河鍋暁斎』、岩波文庫、2006年、p.318。

20 高屋肖哲編『芳崖遺墨』、画報社、1902年、p.14。21 小池光雄、及川茂、山口静一、吉田漱「暁斎蒐集『西洋イラスト画集』をめぐって」、河鍋暁斎記念美術館編「暁斎:河鍋暁斎研究誌」57号、河鍋暁斎記念美術館、1997年、pp.15-23。

22 河鍋暁斎記念美術館編『暁斎絵日記』第 4巻、河鍋暁斎記念美術館、2010年。23 Edward Sylvester Morse, Japan Day by Day 1877, 1878, 1878-79, 1882-83, vol.2, Boston and New

モース著、石川欣一訳『日本その日その日 3』、平凡社、1971年、p.68。

24 同行したアダムズの妻はビゲローのいとこであり、後にラファージの息子がビゲローのいとこの娘と結婚したことで縁戚となっていることからも、ラファージとボストンのメンバーとの関わりは深いものであった。

25 La Farge, An Artist Letters from Japan, p.182.26 Cortissoz, p.166.27 桑原 p.257。28 La Farge, An Artist Letters from Japan, p.175.29 Cortissoz, p.258.

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