14
35 シンガポールの二言語教育政策における政治的意義 On the Political Significance of Singapore’s Bilingual Policy Masahiro IMANAKA 1.はじめに シンガポールは国家戦略として四つの公用語を設定し、国家の存続や統制にあたり英語を共通語と 位置付けている。英語と各民族言語を組み合わせた二言語教育政策(bilingual policy)は、同国の複 雑な政治・言語環境を抜きにしてその特殊性の分析は困難である。特異ともいえる同国の言語政策 は、特に功利主義(pragmatism)、多民族共存主義(multiracialism)、能力主義(meritocratism)といっ た視点をもとに政治的観点からも読み解かない限り、正確な評価は難しいといえる(Pennycook 1994: 225-226)。1965年の独立以来、目覚ましい経済発展を遂げる一方で、歴代首相は皆イギリスの名門大 学に留学し、英語力を駆使して効率的に国家を運営するという表面に現れるイメージが印象的である こともあり、言語政策全体も高く評価される傾向がある。 しかし同国の英語教育政策を日本も見習うべきと考える(矢野 2011: 100-101)のは早計であろう。 シンガポール政府は管理国家としての一面をもち、高度に政治的な言語政策を実施してきており、結 論として明白な点は全国民のための言語教育とはいえず、方針も頻繁に変更され、いわゆるエリート 養成の側面を除けば実質的にこの教育政策は成功しているとはいい難い。本稿では政治的干渉度の高 い同国の言語政策の特殊性を分析するとともに、その功罪について日本の英語教育との相違を比較し つつ考察を行なう。 2.二言語教育政策 シンガポールの全人口は2010年版の国勢調査(Census of Population 2010、以下COP)(表1)によると、 およそ377万人で、多民族がそれぞれの言語や文化的背景をもちながら、多様性のある国家を形成し ている。政府は主要な民族を三集団[華人(Chinese)74.1%、マレー系(Malays)13.4%、インド系 (Indians)9.2%]に分け、この集団以外の少数派民族はすべてその他(Others)3.3% に組み入れ、併 Masahiro IMANAKA 国際言語文化学科(Department of International Studies in Language and Culture)

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

35

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義

今 仲 昌 宏*

On the Political Significance of Singapore’s Bilingual Policy

Masahiro IMANAKA

1.はじめに

 シンガポールは国家戦略として四つの公用語を設定し、国家の存続や統制にあたり英語を共通語と

位置付けている。英語と各民族言語を組み合わせた二言語教育政策(bilingual policy)は、同国の複

雑な政治・言語環境を抜きにしてその特殊性の分析は困難である。特異ともいえる同国の言語政策

は、特に功利主義(pragmatism)、多民族共存主義(multiracialism)、能力主義(meritocratism)といっ

た視点をもとに政治的観点からも読み解かない限り、正確な評価は難しいといえる(Pennycook 1994:

225-226)。1965年の独立以来、目覚ましい経済発展を遂げる一方で、歴代首相は皆イギリスの名門大

学に留学し、英語力を駆使して効率的に国家を運営するという表面に現れるイメージが印象的である

こともあり、言語政策全体も高く評価される傾向がある。

 しかし同国の英語教育政策を日本も見習うべきと考える(矢野 2011: 100-101)のは早計であろう。

シンガポール政府は管理国家としての一面をもち、高度に政治的な言語政策を実施してきており、結

論として明白な点は全国民のための言語教育とはいえず、方針も頻繁に変更され、いわゆるエリート

養成の側面を除けば実質的にこの教育政策は成功しているとはいい難い。本稿では政治的干渉度の高

い同国の言語政策の特殊性を分析するとともに、その功罪について日本の英語教育との相違を比較し

つつ考察を行なう。

2.二言語教育政策

 シンガポールの全人口は2010年版の国勢調査(Census of Population 2010、以下COP)(表1)によると、

およそ377万人で、多民族がそれぞれの言語や文化的背景をもちながら、多様性のある国家を形成し

ている。政府は主要な民族を三集団[華人(Chinese)74.1%、マレー系(Malays)13.4%、インド系

(Indians)9.2%]に分け、この集団以外の少数派民族はすべてその他(Others)3.3% に組み入れ、併

* Masahiro IMANAKA 国際言語文化学科(Department of International Studies in Language and Culture)

Page 2: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第25号(2018)

36

せて四集団を公認している。

 シンガポールにおける二言語教育政策は1966年から始まったが、通常のいわゆる二言語併用教育

(bilingual education)とは意味合いが大きく異なっている。二言語教育については多様な形態が想定

可能だが、原則としては第一言語、すなわち母語を学習すると同時に、開始時期は様々あり得るが、

第二言語としてもう一つの言語を学習する、というのが二言語学習のオーソドックスな捉え方である。

しかしシンガポールでは、基本的に英語を四民族集団間の共通語、第一言語として優先し、公の学校

での教育言語とし、授業はすべて英語で行なわれている。マレー語は儀礼的に国語(national language)

扱い(注1)であるものの、実質的には英語が国語である。第二言語(注2)は、政府指定の四つの民族集

団のうち、その他を除く三集団に華語、マレー語、タミル語をそれぞれ公式の母語として定めている。

華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

するために特に言語の指定はない。このように民族集団ごとに学習すべき言語を政府が指定し学習さ

Total Chinese Malays Indians Others

2000 2010 2000 2010 2000 2010 2000 2010 2000 2010

Demographic Characteristics

Singapore Residents (‘000) 3,273.4 3,771.7 2,513.8 2,794.0 455.2 503.9 257.9 348.1 46.4 125.8

Ethnic Composition (%) 100.0 100.0 76.8 74.1 13.9 13.4 7.9 9.2 1.4 3.3

Median Age (Years) 34.0 37.4 34.9 38.9 29.1 31.4 32.8 33.4 33.8 34.1

Education

Non-Student Population by Highest Qualification Attained (%)(Aged 15 Years & over)

100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

Below Secondary 42.6 32.4 42.1 33.8 50.1 37.0 38.4 22.5 23.7 10.8

Secondary 24.6 18.9 23.2 18.2 32.1 27.1 26.4 17.2 25.2 9.9

Post-Secondary (Non-Tertiary) 9.9 11.1 9.7 9.9 10.6 19.2 10.8 11.2 12.1 7.6

Diploma and Professional Qualification 11.1 14.8 12.4 15.5 5.1 11.6 8.0 14.1 11.6 13.3

University 11.7 22.8 12.6 22.6 2.0 5.1 16.5 35.0 27.5 58.4

Proportion with at least Post-Secondary Qualification (%)

25-34 years 55.9 81.5 60.0 83.7 31.5 62.9 55.6 84.0 59.3 88.0

35-44 years 32.2 64.3 34.4 64.8 14.8 41.0 36.2 74.5 56.6 84.6

45-54 years 21.3 35.7 22.3 36.2 8.7 20.2 24.7 42.5 51.6 76.2

Literacy & Language

General Literacy Rate (%)(Aged 15 & over) 92.5 95.9 92.1 95.2 93.6 97.1 95.1 98.1 97.1 99.5

Literate Population (%)(Aged 15 & over)

Literate in English 70.9 79.9 67.6 77.4 79.7 86.9 87.0 87.1 90.4 89.8

Literate in two or more languages 56.0 70.5 51.5 66.5 78.0 86.3 67.4 82.1 48.7 70.3

Language Most Frequently Spoken at home (%) (Aged 15 & over) 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

English 23.0 32.3 23.9 32.6 7.9 17.0 35.6 41.6 68.5 62.4

Mandarin 35.0 35.6 45.1 47.7 0.1 0.1 0.1 0.1 4.4 3.8

Chinese Dialects 23.8 14.3 30.7 19.2 0.1 - 0.1 - 3.2 0.9

Malay 14.1 12.2 0.2 0.2 91.6 82.7 11.6 7.9 15.6 4.3

Tamil 3.2 3.3 - - 0.1 0.1 42.9 36.7 0.2 0.1

Others 0.9 2.3 0.1 0.2 0.3 0.2 9.7 13.6 8.2 28.6

表1 人口統計、教育、言語関連データ(COP 2010から一部抜粋)

Page 3: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義

37

せるという、通常の考え方とは大きく異なる形をとる。

 政府は英語を知識、技術、現代世界の高度な先端的知識の習得や国際ビジネスに必要な言語である

としてその道具的価値(注3)を最優先している。次に各民族集団の構成員を成り立たせているとされ

る第二言語、すなわち母語やその周辺文化は文化的支え(cultural anchor)になるとして学ばせている

(Pakir 2001: 342; Wee 2011: 205)(注4)。こうしたシンガポール独自の言語政策は、「英語に精通した

(通じた)二言語政策(English-knowing bilingualism)」という名称で呼ばれている(Pakir 1994; Tupas

2011: 52)。

 12年間におよぶ学校教育の正課の中での英語と母語に関わる授業時数を比較すると、初等教育では

母語:週5時間、英語:週6時間、中等教育ならびに短期大学レベルでは、母語:週4時間、英語:

週4時間が配分されていることからも英語への傾斜がみて取れる(Pakir 2001: 343)。英語・母語いず

れも比較的多い授業時数が配分されているにもかかわらず、表2にみられるように、34歳以下の年齢

層までは少なくとも英語教育の成果が十分に上がっているとはいえない。この結果は国勢調査をもと

にした基本的に自己申告によるものであるため、実際にどのレベルの運用能力を指しているのかは判

断が難しいが、65歳以上は約5割、45~64歳の世代は約26~37%が英語の読み書き能力(literacy)が

ない。英語教育は成績優秀者に対しては十分に機能しているが、それ以外の層については政府は期待

していないといってよい。母語教育は各民族の伝統や文化を継承することが目的とされてはいるもの

の、学校を卒業すれば忘れてしまう程度のレベルである(田村 2000:188)。シンガポール政府は建前

としてマレー語、タミル語を重視しているようにみせながら、巧みに英語国家へと導いてきた。

 シンガポールにおける言語政策の目的ならびに特徴について、Pakir(2001:342)は以下の七項目を

挙げている。

都市国家であるシンガポールは人的資源以外には、農地や後背地などをほとんどもたない小国

であるため、急速な経済発展を必要とすること

異なる民族間共通の言葉によるコミュニケーション手段を促進すること

最大の民族集団である華人間で互いに理解不能に近い五つの方言集団があり、この集団内で言

葉によるコミュニケーション手段を促進させること

国内で言語的、文化的社会的多元主義(pluralism)(注5)を公式に認識させること

アジアならびに東南アジアの伝統を受け継ぐシンガポール人としてのアイデンティティと愛国

心を涵養すること

歴史的にマレー語が国語であったシンガポールを英語を通じて統合すること

国際的に強い連携ならびに地域交流を促進すること

3.共通語としての英語

年齢 15-24 25-34 35-44 45-54 55-64 65-74 75-84

比率 96.07 91.28 85.37 73.91 62.82 50.95 54.51

表2 年齢別英語読み書き能力保持者率(COP 2010一部編集)

Page 4: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第25号(2018)

38

 二言語教育政策の目的の一つは英語を第一言語に据えることにより、各民族集団の言語間の壁をな

くすこと、すなわち英語の共通語化によってコミュニケーション上の平等や中立性が確保できるとい

う点である。英語は宗主国イギリスの言語で他の現地語からも心理的にはほぼ等距離の位置にある。

Coulmas(1992)が主張するように、経済発展を重視すればマイナス効果は別にして、基本的に言語統

制は必要不可欠である。英語を多数の現地語がひしめく国内の共通語としている点ではインドやフィ

リピンなどとやや類似した歴史的背景がある(Chiew 1980: 238)。ただし違いはこの二ヶ国ではもと

もと独自の言語や文化が形成されていた地に英語が持ち込まれたために、占領国の言語を押し付けら

れたという負の側面と、それとは裏腹に経済の発展や共通語としてコミュニケーション上の利点とい

う肯定的側面があり、国民にとって相反する感情が交錯する複雑な状況だという点である(注6)。

 これに対し、シンガポールがジョホール王国の一部として東インド会社によって植民地化された当

時は、マレー漁民以外は寂れた漁村で他に住民がおらず、基本的に植民地化されたことによって不利

益を被ることがほとんどなかった(注7)ことが背景にある。

 シンガポールは東南アジアにおける英国の旧植民地の中でも、宗主国の言語である英語を積極的に

公用語に据え、言語に関していわば自己植民地化したという点で他に類がないといえる(Pennycook

1994: 225)。日本が第二次大戦でシンガポールを占領した際には、住民の日本に対する反感が強く、

英国統治を望む気持ちの方が支配的であった(岩崎 2016: 53-54)。シンガポールは上記のような特

殊な環境のもとで、第二次大戦後再びイギリスの支配下に入り、その後独立に向けて人民行動党

(People’s Action Party,以下PAP)がイギリス政府の援助を受けながら実権を握り、党内の華語・中国

文化を信奉する共産主義系党員を排除して英語化を推し進めた。

4.シンガポール華人の英語派と華語派

 シンガポールでは建国の前後、最大の対立が華人集団の英語派華人と華語派華人の間で先鋭化した

(田村 2000)。海峡華人(Straits Chinese)と呼ばれる英語派はシンガポール生まれで中国との接点を

ほとんどもたず、国内の英語校で英語を学んだのに対して、華語派は中国との絆を保ちながら、華語

校で教育を受け、祖国の文化を強く意識する集団である。イギリスは前者の成績優秀者に対してクイー

ンズスカラシップを与えてイギリスの名門大学に留学させ、いわゆる新植民地主義を実践した。この

代表格がリー・クアンユーであり、PAP内でこの英語派が1959年に共産主義系の華語派と袂を分かち、

結果として実権を握ってイギリス政府と連携しながら、権力奪取に向けて舵を切ることになる。この

頃から英語派は進学や就職に関しても有利となり、華語校出身者は社会的に高い地位には就けなくな

る。また華語派の牙城であった南洋大学(現南洋理工大学)は政府による様々な妨害工作により、共

産主義系学生等が弾圧を受けるとともに、華語教育を含むカリキュラム・制度が換骨奪胎され、PAP

の方針に沿った大学に再編されるに至った。独立後の英語重視政策は、経済政策を優先するという極

めて実利的な考え方によるものであると同時に、華語派の華語や中国文化への執着を断ち切ろうとす

るねらいもあった。このような形でPAPは共通語としての英語教育に強く傾斜してゆくことになる。

 1979年の「華語を話そうキャンペーン(Speak Chinese Campaign)」の実施は、独立前後の時期には

二言語政策のもとで英語を重視して国民を誘導し、非英語小学校を消滅させ、華語・中国文化を排

Page 5: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義

39

除しようとしたにもかかわらず、ここへきて明らかな方針転換であった(田村 2000: 254)。Ng Chin

Leong(2011)が指摘するように、政府は英語の道具的側面にのみ捕われて、英語という言語がもつ

文化的影響力を過小評価したことによって思わぬ事態が生じ、慌てて方針の修正を余儀なくされたた

めである。このキャンペーンによって儒教的な価値観を浸透させようとしているのは明らかで、当然

ながら非華人からの反発もあった(注8)。つまり英語学習が進むにつれて学習者の性格等に影響が徐々

に表れ始め、政府が望む国家的アイデンティティにそぐわないものと感じられ始めたのである(注9)。

 シンガポール国内における華語学習は中国の近年の経済的発展やアジア全体に華僑が存在すること

などから、英語に次ぐ重要なコミュニケーション手段として見直されることになった。シンガポール

華人には出身地の違いから、様々な中国語方言を背景にもつ人がいる。高齢者層の実態は出身地別の

方言、福建語(Hokkien)、潮州語(Teochew)、広東語(Cantonese)、客家語(Hakka)、海南語(Hainanese)

等を母語としており、こうした華人間である種の言語分裂状態にあったため、特に70~80年代に集団

全体に対し、リングワフランカ(lingua franca)として華語に一元化することによって共通語化を開

始した(Hill 1995: 86-87)。教育を通じて、中国語方言を華語に一本化して、集団内の共通語とする

意図があった(Pakir 2001: 345)。

 また住宅の割り当てを通じて、方言群ごとに成立していたコミュニティを解体するという方策も試

行された。この政策自体は期待したほど成果が上がらなかったとみられている。一方で中国本土の経

済発展につられて中国人とのコミュニケーションに有用であるとの理由から華人の間で華語に注目

し、習得しようとする市民が増加しているとの報告もある(Rappa and Wee 2006)。政府としてはコミュ

ニケーションの改善策として子供の世代から学校ではじっくりと時間をかけて華語を学ばせることに

より、華人コミュニティの文化的アイデンティティの強化や言語の一元化を図るという社会工学を実

施してきた。

5.能力主義教育

 シンガポール政府は国家の中枢を担うエリートを養成する目的から能力別クラス編成(streaming)

を早い段階から導入した。これは幼少期から競争意識を植え付ける教育課程であり、小学校卒業時

点での学力レベルで進路が決まってしまうという極端な選抜主義である。この教育方針の問題点は、

Goh Report(1979) によって指摘された。初等教育修了試験(primary school leaving examination: PSLE)

の結果から、初等教育の効率の低さや英語教育の成果は政府が期待するほど上がっていないという点

である。しかしもともと国民全体を平等に教育しようという思想に立脚しておらず、資源のない小国

家としては教育に関しては平等主義をかなぐり捨ててエリート養成を最優先しなければならないほど

に窮迫した危機感があった(Hill 1995: 85-86; Ng Chin Leong 2011: 7-8)。政府は1983年の高学歴女性の

出産奨励策などの例にみられるように、優生学(eugenics)的な考え方をとり入れており、優れた能

力をもつ者を教育上優遇する制度を充実させ、能力主義を正当化する方針について各方面から批判を

あびつつもこれに基づいた法制化を試みてきた(Pennycook 1994: 244-245)。

Page 6: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第25号(2018)

40

6.母語教育の問題

 1965年に当時のリー・クアンユー首相は、言語学習はその言語の価値体系を学ぶことに等しいと述

べている(Hill & Fee 1995: 88)。英語に習熟した結果として、自己の出身民族の伝統や文化を失なう

危険が生じ、これを回避するという理由から、第二言語は民族集団ごとに割り当てられた母語とされ

る言語の学習を義務化し、学習者が英語一辺倒になることを避ける方策をとった。

 シンガポールでは、国民登録番号制度があり、国民登録番号カード(National Registration Identification

Card,以下NRIC)が15歳以上の全国民・永住者に配布されている。このNRIC番号は出生時に割り当

てられていて、NRIC上に証明写真、指紋、名前(英語・母語表記の併記)、民族名、生年月日、性別、

出生国、発行日、住所、国籍等が記載されている。民族名と母語が記載されるという他国ではあまり

例のない形で個人の所属する集団・言語を指定・明示するという方法をとっている。この記載につい

ては、性差別や人種差別の問題を指摘する声もある。家父長制の影響と考えられるが、子どもは父親

が所属する民族に所属し、その民族語がNRIC上に表示される。例えば両親が共に華人であれば子供

は華人集団所属で「華語」が母語とされ、学校ではこれを第二言語として学ばされることになる。

 一方、異なる民族同士の婚姻によって生まれた子供の場合は、ユーラシア人(Eurasian)と分類される。

ややこしいのは例えばマレー語を話す華人の父親の子供は自動的に父親の民族言語が「母語」と指定

されるため、学校では華語を学習することになる。また、福建語を話すシングルマザーの子供につい

ては、母親がかつてヒンディー語を話す夫と結婚していた場合、インド系集団の言語であるタミル語

が「母語」ということになる。実態は二言語教育政策と謳ってはいるものの、あくまでも教育方針と

しているだけであり、現実には三言語使用者(trilingual)も数多くみられる。また複数言語を話せる

といっても必ずしも皆が各言語に熟達しているわけではなく、ある程度は使えるというレベルを指す

ことが多い。極端な例としては、NRIC上の母語とされている言語について、実際に本人は全く話せ

ないなどという事態も生じている(Benjamin 1976: 125)。

 こうした出身民族と使用言語が錯綜する現象は多民族国家ではよくみられる事例であるが、言語学

習を民族集団と絡めて制度化すれば、実態を正確に把握できていないことによる戸籍などとの齟齬が

生じ、民族の区分・所属と現実の言語の使用状況が大きくずれてしまう問題が起きている。役所へ出

生届を提出する時点ですでに現実とは異なった形で新生児の登録がなされる点などについては、現在

の制度では根本的な改善は困難であろう。従って一部の子供達が学習すべき第二言語が実態と乖離す

る深刻な事態が生じている(Benjamin 1976: 122-124; Clammer(1985); Pennycook(1994: 238)。

7.言語と近代化

 日本では明治期以降ほぼ一貫して教養主義的な英語教育が高度経済成長期まで実施されてきた。島

国という環境で外国人との交流がほとんどない状況では実用主義的語学力が求められることはなく、

文献の渉猟を通じて海外の状況を知ることこそが重要で、その必要性が長く続いたことが教養主義や

受験のための英語教育を継続させてきたといえる。その後経済的に豊かになり、国民が海外に出かけ

るようになって実用主義的な英語学習が一躍注目され出したわけであり、シンガポールの教育制度は

Page 7: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義

41

長年培ってきた日本の平等主義的な傾向の強い教育方針とは相いれないものといってよい。

 日本では明治維新以降に主として英語から大量の語彙が日本語に翻訳され、新しい翻訳語が数多く

生み出された。その背景には当時の日本人が西欧による言語上の植民地化を避ける上で翻訳の重要性

を十分に認識していたことがよくわかる。自国語による教育に拘ったというわけではないであろうが、

いずれにせよ当時の日本人には英語の公用語化は到底受け入れられるものではなかったであろう。こ

の問題に関しては、日本でもかつて森有礼のように英語を国語化することで近代化を推し進めようと

考えた人もあった。今日に至るも英語の公用語化・社内公用語化等が飽くことなく繰り返し論じられ

ている(船橋:2000)が、日本では翻訳語という手段をとることによって英語を安易にとり入れずに

近代化する状況を作り出したといってよい(注10)。

 こうした観点からすると、日本では翻訳語を通じて英語が土着化(nativization)したものの、あ

くまで語彙レベルにとどまっており、Pierce(1971)が指摘するように、英語そのものが土着化した

Chicano EnglishやIndian Englishとは全く性質が異なる状況になったといってよい(Stanlaw 1992: 198)。

ヒンディー語では、法律関係の語彙はペルシャ語、文学・哲学系はサンスクリット語、技術・政治関

係は英語というように言語使用域(register)ごとにある程度明確な線引きができる。その点日本語に

は初期の段階では分野によっては医学系の場合ドイツ語等からの翻訳語なども一部はみられたが、基

本的にはあらゆる分野にわたって英語からの借用語があるという点が特徴的である(Kachru 1978a)。

 産業革命による近代化に伴って必要となるのは言語の機能的な役割であり、逸早くこれを達成する場

合、シンガポールのように英語をそのまま導入する方法もあったが、明治期の日本ではその道をとらな

かった。日本語で近代化を進めようとすれば必然的に江戸時代までの語彙ではとても賄えるものではな

く、近代化する社会全体で必要な思想、概念、用語等々を広範囲にわたり、大々的に翻訳・導入しなけ

れば不可能である。それが証拠にインド、フィリピン、シンガポールなどのように国内における中心的

な言語ないしは方言を選んで共通語とすることなく英語を国内の共通語として、翻訳という作業を経な

かった場合(Bolton 2006: 292)は自国語による高等教育ができなくなってしまったわけである(注11)。

 日本では第二次世界大戦中の一時期を除き、戦後も引き続き一貫してカタカナ語化を通じて英語か

らの借用を継続している(Stanlaw 1992: 178-181)。これには様々な意見もあるが、ある意味で語彙面

における日本語の近代化のアップデートが継続しているとも考えられ、変化し続ける現代社会に対応

しているといえるかもしれない。シンガポールは小国で一党支配体制であるからこそ経済発展を目標

として掲げつつ、反対意見を強引に封じて英語の共通語化やこれに対応する教育制度改革を推し進め

るという、いわゆる開発独裁の形をとってきた。しかし日本のように人口が一億を超えるような国で

は、学校単位のレベルでならばともかく、英語公用語化や英語教育制度をエリート養成課程に変更す

ることなど到底不可能であろう。

8.家庭内言語としての英語

 表1下段にみられるように、5歳以上の人口のうち、家庭内で話される言語(home language)が

2000年から2010年の10年間に華人では英語が23.9%→32.6%と10%近く伸びている一方で、華語は

45.1%→47.7%と微増、中国方言(Chinese Dialects)は30.7%→19.2%と減少している。華人集団内で

Page 8: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第25号(2018)

42

は、複数方言話者間の通用度が上がりつつあるとともに、一割が英語にシフトし、華語がわずかに増

加するという傾向がみて取れる。このように華人集団内では、家庭内での使用言語はまだ華語が支配

的であり、英語と華語が並存してゆく傾向がみられる。他の民族集団については、マレー系(英語

7.9%→17%、マレー語91.6%→82.7%)、インド系(英語35.6%→41.6%、マレー語11.6%→7.9%、タミ

ル語42.9%→36.7%)、その他(英語68.5%→62.4%、その他8.2%→28.6%)となっており、その他を除

けばマレー系、インド系ともに英語が家庭内使用言語として大きく伸びている一方で、母語であるマ

レー語、タミル語の比率がいずれも減少傾向にある。

 この点について、マレー語は比率を下げているとはいえ、それでも八割以上の家庭で使用されて

いると同時に、歴史的つながりの深い隣国マレーシアの言語でもあることから急激に先細りすると

は考え難いのに対し、タミル語は四割を切っている。さらに両集団の人口全体に占める比率はそれ

ぞれ13.4%と9.2%であることを併せて考えると、タミル語話者の減り方が顕著であり、母語の再建が

うまくいっていないことがわかる。言語交替(language shift)の可能性を指摘する分析もある(Pakir

2001: 345)(注12)。その他の集団のみで英語の比率が若干減少し、言語は特定できないものの、その他

の言語が二割増加している。ただしこの集団は全人口の3.3%であるため、大勢に影響はないといっ

てよいであろう。

9.英語による脱文化化

 英語が第一言語の地位を占めると、海外からの情報は翻訳を経ずに英語自体を通じて流入するため、

国外の英語文化からの影響が避けられなくなる。シンガポール国民はこうした情報に直に晒されるこ

とになる。しかも情報の大半が西欧先進国からのもので、常時こうした情報に接していると国籍・民

族を超越し、国際的視野をもつようになり、民族性が薄まる傾向が生じてくる。いわゆる異文化との

接触によって生じる広義の「文化変容」(acculturation)である。民族文化は国民一人一人を構成する

もの、すなわち自己の出自であり、いわば心の拠り所であるはずの個々の民族的要素が英語を常用す

るようになると徐々に希薄になってゆき、脱文化化(deculturarization)が進みすぎることが懸念され

るようになった(Ng Chin Leong 2011: 6; Wee 2011: 210)。

 Chua(1995)は、英語文化の影響から薬物濫用(drug abuse)や政治思想上のリベラリズム等が国民

に徐々に浸透することは避けられないとしている。華人、マレー系、インド系(これらの民族間の価

値観の相違もそれなりにあるといわねばならないが)といった広義のアジア的価値観からはかなり距

離があると認識されている。こうした観点からみると、シンガポールでは公共物の意図的汚損・破壊

(vandalism)の懲罰が罰金・禁固刑・鞭打ち刑という厳しさであったり、国内へ麻薬を持ち込んだだ

けで極刑が課せられたり、チューインガムの持ち込みを規制したりというように、政府は独自の倫理

観に基づいた規則を通じて社会の安定や秩序を守ろうとしている(注13)。田村(2000: 241)によれば、

若年人口が増加するにつれて、「ポスト65世代」をPAP支持につなぎとめる安全装置として、シンガポー

ル人のアイデンティティの確立を目指し、儒教的価値を浸透させることで政府批判を抑えようとして

いるという。

Page 9: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義

43

10.英語支配と社会的地位

 華人集団の一部の人々が、シンガポール社会で英語が支配的になることに対して、警鐘を鳴らして

いる(Gopinathan 1976: 71; Pennycook 1994: 227)。同国では、高度なレベルで英語を使える人材がい

わゆる権力の回廊(the corridors of power)を支配し、会社の役員、司法機関の法律家、学校教員など

の地位を独占する傾向がみられ、今後ますます英語支配が強まる傾向にある。人口の約10%を占める

といわれるエリート層は、英語と母語を高いレベルで身に付けることができるが、それ以外の層につ

いての教育は失敗したとリー・クアンユー自身が認めている(Wee 2011: 206-207)。表1にみられる

ように、教育レベルの格差や読み書き能力(literary)の比率をみても、2000年からの10年間に数値的

にはかなり改善されてきてはいるが、国民全体に広く効率的に教育が行きわたっているとはいい難い。

表3に学歴ごとの就業率と平均初任給が示されている通り、建前としては自由競争社会であるといわ

れるが、現実には階級社会の様相を呈している。階級に連動して英語が使えるかどうかがそのカギに

なっており、学歴と給与水準には相関関係が存在する(田村 2014a: 80)。また華人と非華人の経済的

格差も拡大しつつあり、所得格差を示すジニ係数が2010年度は0.465で米国よりも貧富の差が大きく

なっている。

 シンガポール英語(Singapore English: SE)については、Lim(1986)によると現地の英語教師の間

ではいわゆる言語的不安感(linguistic insecurity)があるという。これは標準シンガポール英語(Standard

Singapore English: SSE)との関係から、シンガポール国内で使用される英語に階層性が観察されてお

り、高等教育を受けた人はSSEを強く意識する傾向があるという。これは外来のイギリス英語(BE)

に対抗する意図から生じたものであり、シンガポール国内での英語教育はSSEを体系化することで言

語的不安感を克服しようとする考え方を示している。さらに書記言語としては、イギリス英語を奨励

し、音声言語は現地で使われているSEを対象とするなど、英語教育自体が実用主義とイデオロギー

とにある種の分裂状態にあるともいえる(Pennycook 1994: 235-236)。

 2000年に施行された「よい英語を話そう運動(Speak Good English Movement)」はいわゆるSinglish

(注14)を廃して国民の話す英語を標準英語に統一しようという教育政策だが、ほとんど効果は上がっ

ていない(Rubdy 2001)。現実には国民の教育レベルや収入の違いに沿って階級方言に分化していると

みることができる。英語モデルをRPに求めた結果、社会の階層性と連動してイギリスの言語状況(社

会方言)を移入したような形になっているともいえる。すなわちSinglishはCockneyの生まれ変わりだ

という主張もそれなりに説得力がある(Hung 2009: 62-63)。

就業率 平均初任給(月額)

大学(University) 80.2 3,360

総合技術校(Polytechnic) 55.8 2,180

技術教育校(ITE) 40.3 1,655

表3 高等教育関連校別卒業生の就業率と平均初任給(Singapore Yearbook of Manpower Statistics 2017)

注:数値は新卒初任給、貨幣単位はシンガポールドル

Page 10: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第25号(2018)

44

11.おわりに

 シンガポールは人口密度がきわめて高い都市国家で、多民族・多言語が共存する社会であり、人的

資源以外には目ぼしい天然資源がなく、経済発展中心の政策を優先せざるを得なかった。この目標達

成上の一施策として、英語の第一言語化を進めるとともに選抜主義を明確な形で実施してきた。こう

した教育政策は、英語教育を中心に据えたエリートの養成という点では、ある程度成功したといって

もよい。しかし国民全体のための言語教育とはいい難い。

 各民族の文化を色濃く反映する母語教育を建前として重視しつつも、経済発展に利する英語の道具

的価値を最優先するという政策は単一言語的傾向の強い日本のような全く異なる言語環境では困難だ

といえ、シンガポールの場合は複雑な条件下で国民の不満を抑えつつ強引に政策を推し進めることで

可能となった。これは小回りの利く都市国家であればこそ、少なくとも英語の共通語化について表面

的には成功をおさめたといえるかもしれない。また、習熟度別指導は外国語学習には必要な方策の一

つではあるが、すべてのレベル、クラスの学習権は保証されねばならず、学習者が優越感や劣等感を

感じないような配慮が求められる。日本と比べてはるかに多様な学習者要因が存在するシンガポール

ではこの問題とどう取り組んでゆくのかが気になる点である。今後も大きくなると予測される国民か

らの不支持をどう解決するかが問われることになるであろう。

 シンガポールの言語政策は、言語教育を考える上で様々な意味で反面教師として参考になることは

確かであり、政治的な施策がどこまで可能であるかの実験的側面を垣間見せてくれる。1965年の独立

以来、今後もシンガポールの英語がその存在感を増すことは確実であろうが、どのように地域性を帯

びながら変化してゆくのか見守りたいところである。

注)

1)シンガポールはかつてマレーシアの一州だったことから、形式上マレー語が国語の位置付けに

なっている。

2)シンガポールでは各民族言語に対しmother tongueという用語を用いてきたが、最近ではmother

tongue language(MTL)と呼ぶようになった(矢野 2011: 89)。

3)学習者の動機付けは意識的か無意識的かに関わらず、大きく二つの型に分類することができる

(Gardner & Lambert 1972)。道具的動機付けと統合的動機付けである。シンガポール政府は前者

を肯定的に捉え、功利的観点から共通語とした。一方後者は言語自体、母語話者、それを取り巻

く文化や行動様式など言語に関連する全般に関心が深く、これらすべてを受け入れたいという欲

求が根底にある動機を指す。

1991年当時の文部大臣Tony Tanが「英語はあくまでも技術を手に入れ、国際ビジネスにおける

力を強めるために必要であり、疑似的な西欧社会を目指しているわけではない」と述べている

(Pennycook 1994: 222)。

4)1972年にリー・クアンユーはこの点について下記のように述べている。

Please note that when I speak of bilingualism, I do not mean just the facility of speaking two languages. It

is more basic than that, first, we understand ourselves, what we are, where we came from, what life is or

Page 11: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義

45

should be about, and what we want to do. Then the facility of the English language gives us access to the

science and technology of the West.(The Strait Times, 11 November 1972)

The Strait Times はシンガポール最大の購読者数を誇り、四民族集団全体に読まれている新聞であ

る。マスメディアに対し、政府は言論統制をほぼ達成しており、政府方針が投稿記事を通じて示

されることが多い。

5)相互依存状態にある独立した個々の集団は等しい力関係にあるとする理論。

6)Kachru(1998: 97-98)が示しているように、シンガポールは外円圏(outer circle)に属する国で

あるために、本来ならばインドやフィリピンと同様に外円圏に属するという点でnorm-providing

usersであるはずなのだが、実際にはシンガポール政府は拡張圏(expanding circle)に属している

かのように、norm-dependent usersとしてRPをモデルに掲げて「良い英語を話す運動」を唱道し

ている。

7)1984年から行なわれている発掘調査によってシンガポールはラッフルズ上陸以前から交易によっ

てある程度栄えていた可能性も出てきている(田村 2014b)。

8)この点、マレー系にはイスラム教、インド系にはヒンドゥー教といった確固たる宗教があるのに

対し、華人集団にはそれにあたる明確な文化的背景が存在しないことも一つの要因である。

9)経済的に豊かになった1970年代頃から ‘Asian values’が唱導され始めた。これは日本や台湾、韓国、

香港、シンガポール(four little dragons)が経済発展を遂げたことから、西欧の社会学者がアジ

アの発展に注目しだした時期である。また英語やテクノロジーが西洋から導入されて近代化が進

められたものの、アジア的観点からは西洋発の物質主義や個人主義によって堕落したのではない

かという疑問が呈され始めた時期と符牒を合わせている。儒教的考え方をシンガポール社会に取

り込むことで社会秩序の引き締めを図り始めた時期でもある(Hill 1995: 8-9)。この点については、

言語の背後にある米英の自由主義思想を身に付けて権威主義的な政府への批判につながる可能性

を排除する目的があるという見方もある。

10) Stanlaw(1992: 181) は、「 多 く の 日 本 人 は 流 暢 な 英 語 は 話 さ な い も の の、 確 立 し た 変 種

(institutionalized variety)というよりは言語運用変種(performance variety)というべきものを用

いている」と指摘している。

11)英語という言語とその環境や文化の状況とこれをとり入れる側のアジア諸国との間に存在する大

きな落差を考えると、例えば文化における同質性が高いヨーロッパの国同士が新しい概念や事物

をお互いにとり入れる場合は導入すべき語彙が最小限で済むのに対して、アジアの国々ではいか

に多くの語彙をとり入れる必要があるかが推測できる。つまり近代化した西欧と近代化以前のア

ジアを比較すると、アジアには存在しない概念や事物が数限りなくある。両者の言語的・地理的

距離が大きいために、基本的な語彙欠落(lexical gaps)があるという問題に加えて、近代化に必

要な語彙がさらに懸隔を押し広げることになる。こうした状況においては、ある意味で思い切っ

て英語自体を公用語にしてしまった方が、翻訳という専門家による面倒で時間のかかる作業を必

要としない分だけ自国社会の近代化・西欧化を加速できるという利点がある。

12)タミル語は低所得層が話す言語として確立しつつあると同時に、この層には政府が企図したほど

には英語が身に付いていないことも指摘されている。表1の最終学歴の比率について、大学レベ

Page 12: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第25号(2018)

46

ルではマレー系で5.1%という特に低い数値が目立つ。低所得層には英語の読み書き能力に欠け

たり、低い運用能力にとどまったりする人が多い。これは低所得層に多い職業には高い英語能力

が必要でないことにも関係がある。英語教育の成果は社会階級が高くなるほど上がっていく傾向

があることはこれまでも指摘されてきたが、高度な英語力を身に付けたエリートが社会的に高い

地位に就いてさらに高い収入を得るようになるなど、社会階級の分化が懸念されている。つまり

英語を高いレベルで使いこなせる層とその所得レベルが一致し、所得高が上がるにつれて英語を

解する比率も高まることがわかる(Pennycook 1994: 253-254)。

13)これを「過保護国家(nanny state)」と揶揄する声もある(Mauzy & Milne 2002:35)。こうした傾向は、

華人を中心に儒教原理に強く誘導する施策だとして、Pennycook(1994: 226)は、下記の八点を挙

げている。

・the muzzling of trade unions in order to attract foreign investment;

・the defeat or removal of virtually all opposition to the government;

・the constant campaigns to control anything from language use to toilet-flushing;

・the attempts to improve the genetic make-up of the society;

・the strict techno-bureaucratic control of daily life;

・the careful picking and grooming of leaders to maintain these policies;

・universal male conscription and the attempt to build a ‘rugged’ society;

・and the planned reproduction of socioeconomic inequality through the rigidly meritocratic education

system

14 )Moag(1982: 239-240)は、シンガポールのように多言語が使用される環境においては、明確なモ

デルの提示がないとSinglishのようにピジン化する恐れが多分にあり、こうした問題に対抗する

意味での施策であろうと指摘している。しかし一度Singlishのように一変種が定着してしまうと、

政府の指示などで簡単に変えられるようなものでないことは自明である。

参考文献

・Census of Population 2010 Statistical Release 1: Demographic Characteristics, Education, Language and

Religion. Department of Statistics, Ministry of Trade & Industry, Republic of Singapore.

・Singapore Yearbook of Manpower Statistics 2017

Afendras, A. and Kuo, E. (eds.) (1980) Language and Society in Singapre. Singapore: Singapore University

Press.

Alatis, J. E. and Tan, Ai-Hui (2001) Georgetown University Round Table on Language and Linguistics 1999.

Georgetown University Press.

Benjamin, G. (1976) The cultural logic of Singapore’s ‘Multiracialism’. In Hassan, R. (1976) pp. 116-133.

Bolton, K. (2006) Varieties of World Englishes. In Kachru, B. B., Kachru, Y. and Nelson, C. L. (eds.) (2006),

pp. 289-312.

Chiew, S. K. (1980) Bilingualism and national identity: A Singapore case study. In Afendras, A. and Kuo, E.

Page 13: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

シンガポールの二言語教育政策における政治的意義

47

(eds.) (1980) pp. 233-253.

Chua, B. H. (1995) Communication Ideology and Democracy in Singapore. London: Routledge.

Clammer, J. (1985) Singapore: Ideology, Society, Culture . Singapre: Chopmen Publishers.

      (1980) Religion and language in Singapore. In Afendras, E. and Kuo, E. (eds.) (1980) pp. 87-115.

Coulmas, F. (1992) Language and Economy. Oxford: Blackwell Publishers.

Feng, A. (2011) English Language Education across Greater China. Multilingual Matters.

Gardner, R. C. and Lambert, W. E. (1972) Attitudes and Motivation in Second Language Learning. Rowley,

MA: Newbury House.

Goh, C. T. and the Education Study Team (1979) Report on the Ministry of Education 1978 Singapore:

Singapore National Printers. (The Goh Report)

Gopinathan, S. (1976) Towards a national education system. In Hassan, R. (ed.) (1976) pp. 67-83.

Graddol, D. (1997) The future of English? A guide to forecasting the popularity of the English language in the

21st century. London: British Council.

Hassan, R. (ed.) (1976) Singapore: Society in Transition. Kuala Lumpur: Oxford University Press.

Hill, M. and Lian Kwen Fee (1995) The Politics of Nation Building and Citizenship in Singapore . New York:

Routledge.

Hung, T. T. N. (2009) Pygmalion in Singapore: From Cockney to Singlish. In Murata et al. (2009) pp. 59-72.

Kachru, B. B., Kachru, Y. and Nelson, C. L. (eds.) (2006) The Handbook of World Englishes . Malden, MA:

Blackwell.

Kachru, B. B. (2005) Asian Englishes: Beyond the Canon. Hong Kong: Hong Kong University Press.

      (1998) English as an Asian Language. Links & Letters 5, pp. 89-108.

      (1992) The Other Tongue: English Across Cultures . 2nd Edition. Urbana and Chicago: University

of Illinois Press.

      (1978a) Toward structuring code-mixing: an Indian perspective. International Journal of the

Sociology of Language. 16: pp. 27-46.

Kandiah, T. and Kwan-Terry, J. (1994) English and Language Planning: A Southeast Asian Contribution.

Singapore: Times Academic Press.

Lim, C. Y. (1986) Report of the Central Provident Fund Study Group. Singapore Economic Review, 31(1): pp.

1-103.

Mauzy, D. K. and Milne, R.S. (2002) Singapore Politics under the People’s Action Party . London: Routledge.

Moag, R. F. (1982) The life cycle of Non-Native Englishes: A case study. In Kachru, B.B. (ed.) (1992) pp. 233-

252.

Murata, K. and Jenkins, J. (eds.). (2009) Global Englishes in Asian Contexts . New York: Palgrave Macmillan.

Ng Chin Leong, P. (2011) Planning in Action: Singapore’s Multilingual and Bilingual Policy. Ritsumeikan Asia

Pacific Journal . volume 30. pp. 1-12.

Pakir, A. (2001) Bilingual education with English as an official language: Sociocultural implications. In Alatis, J.

E. and Tan, Ai-Hui (2001). pp. 341-349.

Page 14: シンガポールの二言語教育政策における政治的意義華人は華語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語、その他の集団には少数派の言語が複数存在

東京成徳大学研究紀要  ―人文学部・応用心理学部― 第25号(2018)

48

     (1994) Education and invisible language planning: the case of English in Singapore. In Kandiah, T.

and Kwan-Terry, J. (1994) pp. 158-181.

Pennycook, A. (1994) The Cultural Politics of English as an International Language. New York : Routledge.

Pierce, J. (1971) Culture, diffusion and Japlish. Linguistics 76: pp. 45-58.

Rubdy, R. (2001) Creative Destruction: Singapore’s Speak Good English Movement. World Englishes , 20(3):

pp. 341-356.

Rappa, A. L. and Wee, L. (2006) Language Policy and Modernity in South East Asia. New York: Springer.

Stanlaw, J. (1992) English in Japanese Communicative Strategies. In Kachru, B. (1992) pp. 178-208.

Tupas, R. F. (2011) English-knowing bilingualism in Singapore: economic pragmatism, ethnic relations and

class. In Feng, A. (2011) pp. 46-69.

Wee, L. (2011) Language policy mistakes in Singapore: Governance, expertise and the deliberation of language

ideologies. International Journal of Applied Linguistics , Vol. 21. No.2. pp. 202-221.

江利川春雄(2006)『近代日本の英語科教育史』東信堂

伊村元道(2003)『日本の英語教育200年』大修館書店

岩崎育夫(1997)『華人資本の政治経済学』 東洋経済新報社

     (2016)『物語 シンガポールの歴史』第五版 中公新書

白畑知彦他(2011)『英語教育用語辞典』改訂版 大修館書店

田村慶子(2000)『シンガポールの国家建設』明石書店

田村慶子(2014a)『シンガポールを知るための65章』 明石書店

田村慶子他(2014b)『シンガポール謎解き散歩』 中経出版

藤田剛正(1993)『アセアン諸国の言語政策』 穂高書店

船橋洋一(2000)『あえて英語公用語論』 文藝春秋

本名信行編(1990)『アジアの英語』くろしお出版

矢野安剛他編(2011)『英語教育政策-世界の言語教育政策論をめぐって-英語教育大系 第2巻』

大修館書店