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日本医史学雑誌 第 61 巻第 4 号(2015) 393–407 らが 20 世紀初頭に精力的に研究をして多くの成 果を上げてきた 1.またイタリアの医学史家と医 師たちは,サレルノ医学校について独自の視点か ら研究を続けており,最近の医学系の雑誌にも論 考を発表している 2.しかしサレルノ医学校の実 体については憶説と矛盾に満ちた言説が広まって おり,根拠のある確実なことは何かを見極める必 要がある.本稿では,サレルノ医学校についてこ れまでに積み重ねられた研究と現存する文献資料 を調査して,歴史上のサレルノ医学校がいつ頃生 まれたか,どのような性格の学校であったかを明 らかにするとともに,ヨーロッパの医学教育の歴 史においてサレルノ医学校が果たした役割につい て考察する. サレルノ医学校の起源 サレルノ医学校の起源は,謎に包まれており, 誰が設立したのか定かではない.17 世紀にイタ リアの歴史家マッツァはサレルノの都市の歴史と 伝承を収集して,サレルノ医学校の設立者として サレルノは南イタリアでナポリから南東に 50 キロほどのところに位置する人口 13 万人ほどの 小都市で,ティレニア海につながるサレルノ湾に 面している.第二次大戦末に連合軍のアヴァラン チ作戦の戦場となり市街は大きな被害を受けた. かつてここにはサレルノ医学校 Schola Medica Salernitana があり, 10 13 世紀に発展して多くの 医師を育て, その名声はヨーロッパ中に広まった. サレルノの医師たちによって書かれた医学文書は 手稿としてヨーロッパ各国の図書館に残され,15 世紀末以降には印刷出版されるようになった. 『サレルノ養生訓 Regimen Sanitatis Salernitanumは,健康を保つための食事や生活習慣について書 かれた韻文を集めたもので,世界中に広まり現在 でもよく読まれている.しかし医学史の成書にお いてサレルノ医学校は,暗黒の中世における一つ のエピソードとして扱われ,これまで西洋医学の 歴史の本流に位置づけられることはほとんどな かった(図 1). サレルノ医学校についてはドイツのズートホフ サレルノ医学校その歴史と ヨーロッパの医学教育における意義 坂井 建雄 順天堂大学大学院医学研究科 解剖学生体構造科学 受付平成 27 6 1 日/受理平成 27 10 9 要旨:サレルノ医学校は 10 世紀後半に弟子を育てる医師の緩やかな共同体として成立した.13 紀中葉までの時期は 3 期に分けられる.早期(11 世紀末まで)には古代の医学文書をもとに医学 実地書が編まれ,アラビア語の医学文献がラテン語に訳され,医学教材集『アルティセラ』が編ま れた.盛期(12 世紀末まで)には,『アルティセラ』文書に注釈が加えられ,薬剤書や医学実地書 が新たに多数書かれた.晩期(13 世紀中葉まで)にはサレルノで学んだ医師がヨーロッパ各地で 活躍した.13 世紀中葉以後にサレルノ医学校の学校組織が形成され,16 世紀末に大学になり, 1811 年に廃止された.サレルノ医学校は医学の理論的教育の先鞭をつけ,医学実地書の基本型を 編み出して 18 世紀末まで受け継がれた. キーワード:医学教育,医学理論,医学実地,サレルノ養生訓,アルティセラ

サレルノ医学校―その歴史と ヨーロッパの医学教育における …jsmh.umin.jp/journal/61-4/61-4_sosetsu_1.pdf坂井 建雄/Éサレルノ医学校―その歴史とヨーロッパの医学教育における意義

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  • 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015) 393–407

    らが 20世紀初頭に精力的に研究をして多くの成

    果を上げてきた1).またイタリアの医学史家と医

    師たちは,サレルノ医学校について独自の視点か

    ら研究を続けており,最近の医学系の雑誌にも論

    考を発表している2).しかしサレルノ医学校の実

    体については憶説と矛盾に満ちた言説が広まって

    おり,根拠のある確実なことは何かを見極める必

    要がある.本稿では,サレルノ医学校についてこ

    れまでに積み重ねられた研究と現存する文献資料

    を調査して,歴史上のサレルノ医学校がいつ頃生

    まれたか,どのような性格の学校であったかを明

    らかにするとともに,ヨーロッパの医学教育の歴

    史においてサレルノ医学校が果たした役割につい

    て考察する.

    サレルノ医学校の起源

    サレルノ医学校の起源は,謎に包まれており,

    誰が設立したのか定かではない.17世紀にイタ

    リアの歴史家マッツァはサレルノの都市の歴史と

    伝承を収集して,サレルノ医学校の設立者として

    サレルノは南イタリアでナポリから南東に 50

    キロほどのところに位置する人口 13万人ほどの

    小都市で,ティレニア海につながるサレルノ湾に

    面している.第二次大戦末に連合軍のアヴァラン

    チ作戦の戦場となり市街は大きな被害を受けた.

    かつてここにはサレルノ医学校 Schola Medica

    Salernitanaがあり, 10~ 13世紀に発展して多くの

    医師を育て, その名声はヨーロッパ中に広まった.

    サレルノの医師たちによって書かれた医学文書は

    手稿としてヨーロッパ各国の図書館に残され,15

    世紀末以降には印刷・出版されるようになった.

    『サレルノ養生訓 Regimen Sanitatis Salernitanum』

    は,健康を保つための食事や生活習慣について書

    かれた韻文を集めたもので,世界中に広まり現在

    でもよく読まれている.しかし医学史の成書にお

    いてサレルノ医学校は,暗黒の中世における一つ

    のエピソードとして扱われ,これまで西洋医学の

    歴史の本流に位置づけられることはほとんどな

    かった(図 1).

    サレルノ医学校についてはドイツのズートホフ

    サレルノ医学校―その歴史と ヨーロッパの医学教育における意義

    坂井 建雄順天堂大学大学院医学研究科 解剖学・生体構造科学

    受付:平成 27年 6月 1日/受理:平成 27年 10月 9日

    要旨:サレルノ医学校は 10世紀後半に弟子を育てる医師の緩やかな共同体として成立した.13世紀中葉までの時期は 3期に分けられる.早期(11世紀末まで)には古代の医学文書をもとに医学実地書が編まれ,アラビア語の医学文献がラテン語に訳され,医学教材集『アルティセラ』が編まれた.盛期(12世紀末まで)には,『アルティセラ』文書に注釈が加えられ,薬剤書や医学実地書が新たに多数書かれた.晩期(13世紀中葉まで)にはサレルノで学んだ医師がヨーロッパ各地で活躍した.13世紀中葉以後にサレルノ医学校の学校組織が形成され,16世紀末に大学になり,1811年に廃止された.サレルノ医学校は医学の理論的教育の先鞭をつけ,医学実地書の基本型を編み出して 18世紀末まで受け継がれた.

    キーワード:医学教育,医学理論,医学実地,サレルノ養生訓,アルティセラ

  • 394 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015)

    出身の異なる 4人の医師の名を見出し,それぞれ

    の言語で医学が教えられたという3).その後の医

    学史家たちからは医学校の創設者としてさまざま

    な説が出され,アレキサンドリアからの避難者

    や,ベネディクト会のモンテカッシーノの修道士

    や,シチリアを征服したアラビア人などの説があ

    る4).フランスの医学史家ダランベールはそれら

    の説を否定して,医学校が時代と地域の環境の中

    で段階的に成長し成立したとの見解を示した5).

    サレルノには古代ギリシャの植民都市があり,

    ローマ時代には保養地として知られていた.9世

    紀にはアラビア人がシチリアと南イタリアの一部

    を征服し,またユダヤ人も数多く移住して,サレ

    ルノを含む南イタリアには国際的な文化の交流が

    あった.サレルノ医学校はそのような異文化の交

    錯の中から生み出されたのであり,出身の異なる

    4人の医師が医学校を設立したという伝承はサレ

    ルノ医学校が誕生した背景を象徴的に示したもの

    と考えられる6).

    サレルノ医学校の設立時期についてもさまざま

    な説がある.古代ローマに遡るとする説7),640

    年のアラビア人によるアレキサンドリア壊滅から

    逃避した人々が設立したとする説8),802年にシャ

    ルルマーニュが医学校を大学に変えたとする説9)

    があるが,いずれも根拠となる資料がなく認めが

    たい.サレルノ医学校に関わる同時代の資料は,

    デ・レンツィにより収集され,その後のサレルノ

    医学校の研究に大きく寄与している10).ズートホ

    フは 10世紀末に書かれた記録の中に,フランス

    王とサレルノ出身の医師に関わる記事を見出し,

    その王がシャルル 3世(在位 893–922)であると

    考え,サレルノ医学校が 9世紀末には存在したと

    推測した11).しかしクリステラーはそれらの記録

    を精査して,サレルノ医学校に関する最初の確実

    な言及が 985年のヴェルダンによる年代記に見出

    され,それ以後にしばしば記録に現れることか

    ら,サレルノの医学校が 10世紀の後半に始まっ

    たと結論づけている12).いずれにしても初期のサ

    レルノ医学校については直接の資料がなく,伝存

    する資料から推測するしかない.

    古代ギリシャの哲学者パルメニデス Parmenides

    が紀元前 5世紀にサレルノ南方のエレア Elea(現

    在のヴェリアVelia)に設立した医学校が,サレ

    ルノ医学校に引き継がれたという仮説をイタリア

    図 1 サレルノとその周辺

  • 坂井 建雄:サレルノ医学校―その歴史とヨーロッパの医学教育における意義 395

    る17)(図 2).

    ペトロケルス Petrocellus Salernitanus (fl. c. 1035–

    1050) の『実地 Practica』 もよく読まれた.アル

    ファヌス 1世Alfanus I (c. 1015–1085) はサレル

    ノで医学を学び,モンテカッシーノの修道士を経

    て 1058年にサレルノの大司教になった18).古代

    の著作をラテン語に翻訳し,4世紀のネメシオス

    Nemesiosによる『人間の性質についてDe natura

    hominis』 を訳している.またアラビア語文献の翻

    訳を奨励してコンスタンティヌス・アフリカヌス

    Constantinus Africanus(?–1098/9) をモンテカッ

    シーノに呼んだ.コンスタンティヌスはアラビア

    語から多数の著作をラテン語に訳した.その中に

    は古代のギリシャ語の著作やアラビア語で新た

    に編まれた著作が含まれ,失われていた古代の

    医学文書の内容をサレルノを通してヨーロッパに

    伝えた19).コンスタンティヌスの著した『全医術

    Pantegni』は,ハリー・アッバスHaly Abbasによ

    る医学百科全書のおもに理論的な部分を訳した

    もので広く読まれた.またコンスタンティヌス

    が訳した文書のうちヨハニティウスの『入門

    Isagoge』, ヒポクラテスの『箴言Aphorismen』 と

    の医師たちが紹介している13).この仮説はイタリ

    アの歴史家エブネルが 1960年代に発表したもの

    で,ヴェリアでの考古学調査を元に,ここでパル

    メニデスが学校を設立し “Oulis” の名を持つ多数

    の医師が活躍し,2世紀の洪水で建物が破壊され

    て再建され,その後に医学校がサレルノに移った

    と推測した.しかしナットンによる詳しい検証に

    よりこの仮説は否定され,仮説を支持する証拠も

    その後得られていない14).

    サレルノ医学校の歴史

    サレルノ医学校はおおよそ 10世紀後半に生ま

    れたと考えられる.その後も長らく医学校の存在

    を示す直接の文書記録はなく,その活動は医師た

    ちの残した医学文書を元に論じられている.組織

    化された教師組合 collegiumや教師と学生の共同

    体 corporationがあったという直接の証拠はない

    が,活発に医学教育が行われ医学教師の共同体が

    存在したことが間接的に示されている.この組織

    化以前の時代をズートホフは,早期,盛期,晩期

    の 3期に分けている15).13世紀中頃以後のサレル

    ノ医学校は次第に行政に取り込まれて組織的なも

    のになり,文書記録が豊富に残されるようになっ

    た.その一方でヨーロッパ各地に設立された大学

    の影に隠れて,サレルノ医学校の活動は目立たな

    くなっていった.

    1)早期サレルノ(10 世紀後半~ 11 世紀末)

    サレルノには個人的に徒弟を教える医師たちが

    いて,医学教師の緩やかな共同体が生まれたと考

    えられる.古代の著作が伝存しており,そこから

    教育のために必要な内容が選別され,著作として

    まとめられた.この時期に数多くの医師が活躍し

    たはずだが,その多くの名前は不明である.数人

    の医師が著作を通して名前が知られている.ガリ

    オポントゥスGariopontus(fl. c. 1035–1050)は『受

    難録 Passionarius』を著しており,同時代の資料

    の中で学識ある医師との言及がある16).この著作

    は,古代の文書を元に局所的な疾患を頭から足へ

    の順に列挙し,全身性の熱病を加えてその治療を

    扱ったもので,その後の医学実地書の嚆矢とされ

    図 2 ガリオポントゥス『受難録』,12世紀初頭の手稿(スイス,コロニー,ボドマー財団蔵)

  • 396 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015)

    of 12th century) の『トロータによる実地 Practica

    secundum Trotam』も一部が伝存している.コフォ

    Copho (fl. first third of 12th century) による 『コフォ

    の実地 Practica Cophonis』は 2書からなり,第 1

    書は熱病(61章),第 2書は頭から足へ個別の病

    気(85章) を扱う22).

    サレルノでは 12世紀初頭から動物の解剖が何

    度か行われていたことが,残されている文書から

    明らかにされている.『ブタの解剖学Anatomia

    porci』はその第 1回のもので,誤ってコフォの著

    作とされていた.第 4回の解剖の文書は 14世紀

    初頭のものである23).

    ロゲリウスRogerius Frugardi (before 1140–c. 1195)

    は外科を専門にしてサレルノで教師を務めたが,

    1170年代にパルマに招かれてそこで医学を教え

    た.『外科学 cyrurgia』を著している24)(図 4).

    サレルノ医学校で編まれた医学著作は,ヨー

    ロッパとアメリカの図書館に手稿として数多く残

    されており,一部は 15世紀末以後に印刷・出版

    『予後 Prognostikon』は,医学教育のための文書集

    『アルティセラArticella』の中核に組み込まれた.

    2)盛期サレルノ(11 世紀末~ 12 世紀末)

    コンスタンティヌスの訳業によって古代および

    アラビアの多くの著作がラテン語に訳され,サレ

    ルノではこれらを利用して注釈 commentaryを加

    えたり,概説 compendiumを作ったりする同化の

    時代が始まった.

    この時期には医学教材集『アルティセラ』の文

    書に注釈がつけられるようになった.バルトロ

    メウス Bartholomaeus (fl. c. 1150–1180), マウルス

    Maurus (c. 1130–1214), ムサンディヌスMusandinus,

    Petrus (fl. late 12th century) はこの時期の代表的な

    教師で,多数の注釈を残している20).これらの注

    釈は,医学校での授業のテキストとして用いら

    れ,さらに授業で行われた討論を反映してさらに

    注釈の充実が図られたと思われる.

    古代から伝承した多数の薬剤を収めた薬剤書

    が編まれた.ニコラウスNicolaus Salernitanus;

    (fl. c. 1150)の『ニコラウスの解毒薬(Antidotarium

    nicolai)』 はとくに有名である21).マテウス・プラ

    テアリウス Platearius, Matthaeus (?–1161) が著者

    として想定されている『単純医薬書(Liber de

    simplici medicina)』は,書き出しの語句から“Circa

    instans” と呼ばれ広く普及した(図 3).

    個別の疾患を扱う医学実地書も次々と著され

    た.アラビア出身でコンスタンティヌスの弟子の

    ヨハネス・アフラキウス Johannes Afflacius (c. 1040–

    1100) は『急性病の治療論文 De aegritudinum

    curatione tractatus』を著した.アルキマタエウス

    Archimatthaeus (12th century) は 45の疾患とその

    治療法を収めた 『アルキマタエウス実地 Practica

    Archimathaei』 を著した.上述のバルトロメウス

    には 『サレルノ, バルトロメウス先生実地 Practica

    magistri Bartholomaei Salernitani』がある.伝説の

    女医トロータの夫と目されるヨハネス・プラテア

    リウス父 Platearius, Joannes I (?–?) とその息子の

    ヨハネス・プラテアリウス子 Platearius, Joannes II

    (fl. 1120–1150) は,『実地要綱 Practica brevis』 の著

    者と考えられている.トロータ Trota (fl. 2nd quarter

    図 3 プラテアリウス『単純医薬書』1280-1310年頃の手稿(イギリス,ロンドン,大英図書館蔵)

  • 坂井 建雄:サレルノ医学校―その歴史とヨーロッパの医学教育における意義 397

    作を多数著し, パリにサレルノの医学を広めた28).

    ブルーノ・ダ・ロンゴブルゴ Bruno Da Longoburgo

    (c. 1200–c. 1286)はサレルノで学び,パドヴァ大

    学で最初に解剖学を教授した29).

    サレルノは医学の先進地として名声を高め,医

    学に関する文書や規則にしばしばサレルノの名前

    がつけられたが,サレルノとの結びつきが不明確

    なものも少なくない.『サレルノ養生訓 Regimen

    sanitatis salernitana』は 13世紀後半以後に成立し

    た,養生法について述べた韻文集で,最初期のも

    のは 364編の詩で 6つの非自然的事物(空気,飲

    食物,運動と休養,睡眠と覚醒,充満と排出,感

    情)を扱う.その後の版では次第に詩の数が増え

    ていき 19世紀に編纂されたものでは 3520編に膨

    れあがっている.サレルノの名前を冠してはいる

    が,サレルノで編まれたものかどうかは明らかで

    ない.世界各国語に訳されている30)(図 5).『サ

    レルノ問題集Quaestiones salernitanae』はラテン

    語で書かれた自然哲学についての問答集で,問答

    の数は 30編から 332編まで版によって異なる.

    1200年頃にイギリスの学者の手で作られたと考

    えられている.問答の中心的な部分は,明らかに

    されている.とくに 1837年にブレスラウのマグ

    ダレン高校図書館で発見された「ブレスラウ手稿

    Breslau Codex」は,盛期サレルノで編まれた医学

    文書のほとんどを含み,その当初の姿を知ること

    ができるきわめて価値の高い手稿である.1170

    年頃に成立したと考えられる25).

    3)晩期サレルノ(12 世紀末~ 13 世紀中葉)

    この時期にサレルノでは独自性の高い著作が著

    されるようになる.サレルノで学びヨーロッパ各

    地で活躍する医師たちが多く現れ,サレルノ医学

    校の名声は高まる.

    ウルソUrso of Salerno (?–1225) はサレルノの

    最後の偉大な教師であり,アリストテレス自然哲

    学を応用して,理論的な著作を著した26).ヨハネ

    ス・デ・サンクト・パウロ Johannes de Sancto Paulo

    (fl. 12-early 13th century) はサレルノ大司教の下で

    学び,サレルノで教えて 4つの著作を残してい

    る27).ジル・ドゥ・コルヴェイユGilles de Corbeil

    (c. 1140–c. 1224) はサレルノでムサンディヌスの

    元で学び,サレルノで教えたが,パリに移りフィ

    リップ 2世の侍医になる.医学に関する韻文の著

    図 4 ロゲリウス『外科学』14世紀初頭の手稿から外科処置の細密画(イギリス,ロンドン,大英図書館蔵)

  • 398 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015)

    期の大学に相当する教師組合 collegiumまでは組

    織されていなかったと思われる.ジル・ドゥ・コ

    ルヴェイユは詩の形で 4編の医学著作を残してお

    り,そこに含まれる自伝的な記述から,学生は学

    習を積んである段階に達すると先生magisterに

    なったと思われる.サレルノ医学校の教師たちは

    magisterと呼ばれるが,女医のトロータにはこの

    称号は用いられていない33).

    4)組織化の段階(13 世紀中葉~ 19 世紀初頭)

    12世紀にヨーロッパ各地に大学が現れ,ボロー

    ニャの法学,パリの神学,モンペリエの医学など

    が発展し,13世紀初頭には正式かつ恒常的な組

    織になった34).サレルノ医学校は 13世紀には最

    盛期を過ぎたが,この頃から学校組織が次第に決

    まった形をとるようになっていった.

    神聖ローマ皇帝フリードリヒ 2世 Friedrich II

    (在位 1220–1250) は,1231年に「メルフィ憲章

    Constitutiones Melphitanae」を公布した35).その第

    サレルノ医学の影響を受けており,またサレルノ

    についての言及があり,ウルソないしマウルスの

    影響を受けた人物が作成に関わっていたと思われ

    る31).

    医学教材集『アルティセラArticella』は,サレ

    ルノでの医学教育に用いられただけでない.12

    世紀末から 13世紀にかけてパリ,モンペリエを

    始めヨーロッパ各地の大学に広まり,『アルス・

    メディシンArs medicine』とも呼ばれた.ウィー

    ン,エアフルト,チュービンゲンなどドイツ語圏

    の大学でも用いられた.さらにいくつかの文書を

    付け加えて拡張された版も現れ,15世紀末から

    18の版が印刷出版され,16世紀まで医学教育に

    用いられ続けた32)(図 6).

    13世紀初頭まで,サレルノ医学校の組織や制

    度についての同時代の資料はない.特許状や学則

    でこの時期に遡るものはなく,博士の学位を授与

    したとの記録も現存する学位記もない.都市や王

    や教会などの権威者がサレルノ医学校を認知した

    証拠もない.教師は生徒と個人的な関係を結んで

    授業を行い,教師の間で協力関係があったが,初

    図 6 『アルティセラ』1487年,ヴェネツィア刊(ドイツ,ミュンヘン,バイエルン州立図書館蔵)

    図 5 『サレルノ養生訓』1480年,パリ刊(フランス,オー =ド =セーヌ県,アンドレ・デズギーヌ図書館蔵)

  • 坂井 建雄:サレルノ医学校―その歴史とヨーロッパの医学教育における意義 399

    ジュー家のナポリ王の宮廷で古代のギリシャ語文

    献の翻訳に従事した.医学をどこで学んだかは不

    明だが,サレルノ医学校で教えたという説があ

    る.ガレノスの著作を中心に約 60編を翻訳し,

    ガレノスの『ヒポクラテスの「箴言」注解』,『身

    体諸部分の用途』などが著名で後世までよく用い

    られた38).

    ジョヴァンニ・ダ・プロシダGiovanni da Procida

    (1210–1298)はサレルノで生まれ,医学校で学ん

    で教師となった.フリードリヒ 2世の侍医となっ

    てその最期を看取り,息子たちの教育にも当たっ

    た39).

    シルヴァティクス Silvaticus, Matthaeus(1280–

    1342)は学識の高い医師・教師で,サレルノ医学

    校で学び教えた.ナポリ王ロベルトの侍医を務

    め,『医学百科事典Opus pandectarum medicinae』

    を著した.この本はきわめて人気が高く,15世

    紀末以後にも繰り返し印刷・出版された40).

    コトゥーニョ Cotugno, Domenico Felice Antonio

    (1736–1822)はサレルノ医学校を卒業したが教職

    に就くことができず,臨床の傍ら研究を続けた.

    脊髄を包む脳脊髄液を発見し,脳室とつながるこ

    とを示唆し,60年後にマジャンディにより再発

    見された.内耳の前庭水管,鼻口蓋神経などを発

    見した41).

    医学史におけるサレルノ医学校の役割

    サレルノ医学校は 10世紀後半から 13世紀初頭

    にかけて,明確な組織体は作らずに緩やかな教師

    の共同体として存在し,優れた臨床家を育てて医

    学校としての名声を高めた.またこの間に多数の

    医学著作を生みだし,広くヨーロッパ各地に伝え

    られた.その後の医学にとくに大きな影響を与え

    たのは,医学の理論的教材として用いられた文書

    集『アルティセラArticella』と,個別の疾患を扱

    う「医学実地 practica」の著作である.

    中世以後のヨーロッパの大学医学部において

    は,理論 theoreticaと実地 practicaが重要な授業科

    目であった.医学理論では自然と人間に関する普

    遍的な原理を明らかにし議論し,医学実地では健

    康を保持し回復するための手段を教えた.北イタ

    3章 45条で,医師候補者はサレルノで学校の教

    師の前で公開試験を受け,それから王またはその

    代理から免許を受けると定められた.これにより

    サレルノ医学校は国の学校と認められ,国に従属

    するものとなった.

    フリードリヒ 2世の没後, 王位を継いだコン

    ラッド 2世は,ナポリ大学とサレルノ医学校を統

    合しようと試みたが,後を継いだマンフレッド王

    は旧に復してナポリ大学とサレルノ医学校を並立

    させた.1266年にシチリア王となったアンジュー

    家のカルロ 1世は,1269年にサレルノに住む学

    生の税を免除した.1277年にはフレデリク 2世

    の命令を復活し,王の許可なく学位を与えること

    を禁止し, それを学生集会で公布した.1280年に

    は租税免除を教授に与え,同時に正規の学則を公

    布した.14世紀初頭に始めて, 教授の俸給が公的

    な記録の中で言及され, 1307年には国から支払う

    こと, 1338年にはサレルノ市から国税によって支

    払われることが述べられている.かつては個人的

    な授業を基礎にして学生が教授の給料を支払って

    いたが,その伝統的なやり方は,次第になくなっ

    た.1359年にナポリ女王ジョヴァンナ 1世は, 医

    師の免許についてのフリードリヒ 2世の命令を廃

    止し,医学校の出す証明書が医師の免許として有

    効になった.1442年にアラゴンのアルフォンソ

    王は,都市の要請によって教授組合 collegiumの

    設立を許可し, これによりサレルノ医学校はよう

    やく博士の学位を与える権利を得た36).

    16世紀にサレルノでは学芸,医学,法律の教

    授陣を充実させ,大学水準の教育が行われた.

    1592年の最初の大学名簿では,法学 4名,医学 2

    名,論理学 2名,自然哲学 1名が置かれ,この頃

    にサレルノ大学が発足したと考えられる.1811

    年 11月 29日, ナポレオンの占領下にサレルノ大

    学は廃止された37).

    サレルノ医学校・大学は,13世紀中葉以後も

    数多くの医師を育てた.この時期にサレルノで医

    学を教えたあるいは学んだ著名な人たちを挙げて

    おく.

    ニコロ・ダ・レッギオNiccolò da Reggio (fl. first

    half of 14 century)はカラブリアで生まれ,アン

  • 400 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015)

    出版されたことが確認される45)(表 2).

    16世紀中頃に医学の理論的教材の新しいタイ

    プが登場した.フランスのフェルネル Fernel, Jean

    (1497–1558) が著した 『医学Medicina』 (1554) で

    ある.この書物は 3部からなり,第 1部は生理学,

    第 2部は病理学,第 3部は治療論である.その後,

    同様の医学理論書が次々と出版され,徴候論と健

    康論が加わって 5部構成になり,その多くは『医

    学教程 Institutiones medicae』 という表題を有して

    いた.医学理論書の内容は『医学典範』の第 1巻

    ときわめて類似しているが,アラビア医学に拠ら

    ずに,ガレノスなど古代の原典を参照して書かれ

    ている.医学理論書は 16世紀中葉から 18世紀前

    半まで,ヨーロッパ各国の多くの著者によって書

    かれた.フランスでは2大学,ドイツでは11大学,

    さらにオランダ, イタリア, チェコ, オーストリ

    ア, スイスの大学の医師による医学理論書が確

    認できる.ヨーロッパ全域では少なくとも 18大

    学の 23人の医師が医学理論書を出版している46)

    (表 3).

    『アルティセラ』,アヴィケンナの『医学典範』,

    フェルネルの『医学』などの医学理論書は,医学

    実地の著作と並行して用いられ,医学教育の理論

    的な部分を扱う教材である.その嚆矢にあたる

    リアの大学では早い時期から医学理論と医学実地

    が分離しており,ボローニャ大学では 1320年代

    に,パドヴァ大学では 14世紀末に 2つの教授職

    が分かれていた.医学教授はもともと実地と理論

    の両方を担当したが,実地を担当する教授に「実

    地」という呼称がまず用いられ,「理論」の呼称

    が遅れて用いられるようになった42).北イタリア

    以外,とくにドイツの大学では医学理論と医学実

    地を兼務する例が多くみられた43).

    1)医学の理論的教材

    『アルティセラ』はもともとサレルノ医学校で

    編まれた教材集で,ヨーロッパの医学教育によく

    用いられた.12世紀末から 13世紀にかけてパリ,

    モンペリエを始めヨーロッパ各地の大学に広ま

    り,後にはウィーン,エアフルト,チュービンゲ

    ンなどドイツ語圏の大学でも用いられた.『アル

    ティセラ』の中核となるのは,アラビアのヨハニ

    ティウスの『入門』,ビザンツのフィラルトゥス

    の『脈について』とテオフィロス・プロトスパタ

    リオスの『尿について』,ヒポクラテスの『箴言』,

    『予後』,『急性病の治療』,ガレノスの『医術』の

    7編で,サレルノの医師たちやパリなどの医師た

    ちによって注釈が加えられ,さらにヒポクラテス

    の他の著作やアヴィケンナの『医学典範』の一部

    が加えられて豊富になっていった.『アルティセ

    ラ』は 1476年以後 1534年までの間にパドヴァ,

    ヴェネチア,リヨンなどで 18版が出版されたこ

    とが確認される44)(表 1).

    ヨーロッパでは『アルティセラ』よりもやや遅

    れて,アラビアのアヴィケンナの『医学典範

    Canon』のラテン語訳が医学の理論的教材として

    用いられるようになった.12世紀のゲラルドゥ

    スGerardus Cremonensis(c. 1114–1187) もしくは

    13世紀の同名の人物が訳したとされている.ボ

    ローニャ大学では 13世紀末までに『医学典範』

    がカリキュラムに加えられ,北イタリアの大学で

    とくによく用いられた.ヨーロッパ各地にも広ま

    り,17世紀まである程度使われ続けた.『医学典

    範』のラテン語訳は 1473年以後 1658年までの間

    にパドヴァ,ヴェネチア,リヨンなどで 26版が

    表 1 『アルティセラ』の出版状況(著者の調査による)

    パドヴァ:1476ヴェネチア:1483, 1487, 1491, 1493, 1500, 1502,

    1507, 1513, 1523リヨン:1505, 1515, 1519, 1525, 1527, 1534パヴィア:1506, 1510

    表 2 『医学典範』の出版状況(著者の調査による)

    ストラスブール:1473ミラノ:1473パドヴァ:1476, 1479ヴェネチア:1483, 1486, 1490, 1495, 1500, 1505,

    1507, 1522, 1527, 1544, 1555, 1562, 1564, 1580, 1582, 1595, 1608リヨン:1498, 1522パヴィア:1512バーゼル:1556ルーヴァン:1658

  • 坂井 建雄:サレルノ医学校―その歴史とヨーロッパの医学教育における意義 401

    1658年まで少なくとも 26の版が出され,これ以

    外にも抜粋や注釈を加えた版が数多くある.医学

    理論書は,1554年のフェルネルの『医学』から

    始まり,18世紀初頭のツヴィンガーの『普遍医

    学提要』(1724)の頃まで少なくとも 23人の著者

    が出版した.医学の理論的教材としての『アル

    ティセラ』は,後から出てきた『医学典範』に置

    き換えられ,これはさらに医学理論書に置き換え

    られていった.サレルノ医学校で生まれた『アル

    ティセラ』はヨーロッパにおける医学教育の 2本

    の柱のうち医学理論の教育の先鞭をつけて,その

    後の発展に道を開いたと考えられる.

    2)「医学実地」の著作

    ヨーロッパには「医学実地 practica medicinae」

    という書物のジャンルがある.これらは多数の個

    別の疾患を取り上げ,それぞれの疾患ごとに診断

    や治療方法を説明する.医学実地書はサレルノ医

    学校で生み出され,最初の医学実地書はガリオポ

    ントゥスの『受難録』である.サレルノ医学校で

    は多数の医学実地書が書かれ,早期サレルノのペ

    トロケルス,盛期サレルノのアルキマタエウス,

    バルトロメウス,ヨハネス・プラテアリウス,女

    医のトロータ, コフォによるものが伝存してい

    る.医学実地書はその後もヨーロッパ各国の大学

    の医師によってしばしば著されており,その大学

    はヨーロッパ全体に広がっている.イタリアでは

    4大学,フランスでは 3大学,ドイツでは 10大学,

    オランダでは 3大学,スペイン・ポルトガルでは

    2大学,さらにスイスとオーストリアの大学の医

    師による医学実地書が確認できる.ヨーロッパ全

    域で少なくとも 24の大学の 39人の医師が医学実

    地書を出版しており,これらの大学では医学実地

    の教育が行われていたと考えられる47)(表 4).

    サレルノ医学校で書かれた初期の医学実地書

    は, 部位別の疾患を頭から足まで(a capite ad

    calcem)配列し,それに加えて全身性の熱病を取

    り上げた.この基本形はその後も踏襲され,女性

    の疾患や小児の疾患を加えたり,また機能別の区

    分やABC順の配列のものを例外的に生じたりし

    ながら,11世紀後半から 18世紀末まで執筆され

    『アルティセラ』はサレルノ医学校で生み出され

    た.印刷・刊行された版数でみると,『アルティ

    セラ』は 1476年から 1534年まで少なくとも 18

    の版が出されている.『医学典範』は 1473年から

    表3 おもな医学理論書とその著者(著者の調査による)

    〔フランス〕・パリ大学フェルネル(1497-1558)『医学』(1554)リオラン(1539-1606)『普遍医学提要』(1598)

    ・モンペリエ大学リヴィエール(1589-1655)『医学教程』(1655)

    〔ドイツ〕・チュービンゲン大学フックス(1501–1566)『医学教程』(1555)

    ・ランズベルク大学マイヤー(fl. 1602–1603)『医学教程初歩』(1603)

    ・ヴィッテンベルク大学ゼンネルト(1572–1637)『医学教程 5巻』(1611)

    ・イェナ大学メビウス(1611–1664)『医学教程要約梗概』(1662)

    ・アルトドルフ大学ブルーノ(1629–1709)『一般医学教義』(1670)

    ・ライプツィヒ大学エトミュラー(1644–1683)『医学理論と実地一般指導』(1685)

    ・マールブルク大学ヴァルトシュミット(1644–1689)『理性的医学教程』(1688)・ギーセン大学ヴァレンティニ(1657–1729)『医療指針』(1691)

    ・フランクフルトユンケン(1648–1726)『折衷的近代医学基礎』(1693)

    ・ハレ大学ホフマン(1660–1742)『医学の基礎』(1695)シュタール(1660–1734)『真正医学理論』(1708)

    ・コンスタンツ大学ヴィカリウス(1644–1716)『普遍医学基礎』(1698)

    〔オランダ〕・ライデン大学ヘウルニウス(1543–1601)『医学教程』(1601)ヤッカエウス(1585–1628)『医学教程』(1624)デューシング(1612–1666)『普遍医学要約』(1649)ブールハーフェ(1668–1738)『医学教程』(1708)

    〔イタリア〕・ナポリ大学トッツィ(1638–1717)『医学第 1部理論』(1681)

    〔チェコ〕・プラハ大学ツァイドラー(1616–1686)『医学教程 5書』(1692)

    〔オーストリア〕・インスブルック大学フィッシャー(1676–ca. 1740)『理性的医学王道』(1717)〔スイス〕・バーゼル大学ツヴィンガー(1658–1724)『普遍医学提要』(1724)

  • 402 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015)

    表 4 18世紀以前のヨーロッパの大学教師による医学実地書の出版(坂井 2015bのデータに基づく)

    〔イタリア〕・パドヴァ大学サヴォナローラ(1385–1468)『医学実地』(1468),『熱病典範』(1468)カピヴァッキオ(1523–1589)『医学実地すなわち人体のすべての疾患の診断と治療の方法』(1589)メルクリアーレ(1530–1606)『医学実地』(1601)サッソニア(1551–1607)『実地著作』(1607)

    ・ボローニャ大学ヴィットリ(1450–1520)『医学実地』(1520)コルテシ(1553/4–1634)『医学実地』(1634)

    ・ナポリ大学/ギムナジウムポルヴェリノ(fl. 1586–1589)『今日の用法による人体各疾患治療著作』(1589),『疾患医学実地』(1589)トッツィ(1638–1717)『医学実地』(1688)

    ・パヴィア大学ブルセリウス(1725–1785)『医学実地教程』(1782–1785)

    〔フランス〕・モンペリエ大学ロンドレ(1507–1566)『人体全疾患治療法』(1566)フェーネ(?–1573)『医学実地』(1573)ジュベール(1529–1582)『医学実地最初の 3書』(1572)リヴィエール(1589–1655)『医学実地』(1641),『熱病の治療法』(1645))

    ・ランス大学フランボアジエル(1560–1636)『医学典範 3書』(1595),『疾患全種類を方式的に治療するための医学法則』(1608)

    ・パリ大学フォンテーヌ(?–1621)『人体疾患治療実地』(1611)

    〔ドイツ〕・チュービンゲン大学フックス(1501–1566)『人体各部の病気の治療,頭先から足底まで熱病を含む 4書』(1539),『人体全体とその内部と外部の障害の治癒 5書』(1543)

    ・ヴィッテンベルク大学ポイツァー(1525–1602)『実地すなわち内部疾患治療方法』(1602)ゼンネルト(1572–1637)『熱病について 4書』(1619),『医学実地』(1628–1635)ロルフィンク(1599–1673)『医学の順序と方法』(1669)

    ・イェナ大学メビウス(1611–1664)『医学実地要約梗概』(1664)・マールブルク大学ヴァルトシュミット(1644–1689)『理性的医学実地』(1689)

    ・ギーセン大学ヴァレンティニ(1657–1729)『確実医学実地』(1711–15)

    ・ハレ大学ユンカー(1679–1759)『理論実地医学概観』(1718)シュタール(1660–1734)『シュタール実地』(1728)ホフマン(1660–1742)『系統的理性的医学』(1718–39)アルベルティ(1682–1757)『医学序論』(1718–21)

    ・インゴルシュタット大学モラシュ(1682–1734)『熱病と頭部疾患の医学実地学術講義』(1725)

    ・ヘルムシュテット大学ハイスター(1683–1758)『医学実地提要』(1743)

    ・ライプツィヒ大学ルートヴィヒ(1709–1773)『臨床医学教程』(1758)

    ・ロストック大学フォーゲル(1750–1837)『実地医学提要』(1781–1816)

    〔オランダ〕・ハルデルウェイク大学シュミッツ(1621–1652)『医学実地必携』(1652)ゴルテル(1689–1762)『精選医術』(1744),『医学実地体系』(1752)

    ・ライデン大学ドドネウス(1516–1585)『医学実地』(1585)シルヴィウス(1614–1672)『医学実地新理念』(1671–72)ブールハーフェ(1668–1738)『箴言』(1709)ウーステルディク(1740–1817)『実地医学指針』(1783)

    ・ユトレヒト大学ウーステルディク・シャハト(1704–1792)『実地医学教程』(1753)

    〔スペイン,ポルトガル〕・コインブラ大学ヴェイガ(1513–1579)『医学実地』(1579)

    ・ヴァレンシア大学ロドリゲス・デ・ヒルバウ(ca. 1625–1693)『ヴァレンシア医学実地』(1671)

    〔スイス〕・バーゼル大学プラッター(1536–1614)『実地』(1602–1608)ツヴィンガー(1658–1724)『医学実地劇場』(1710)

    〔オーストリア〕・ウィーン大学ソルバイト(1624–1691)『医学実地』(1680)

  • 坂井 建雄:サレルノ医学校―その歴史とヨーロッパの医学教育における意義 403

    理学,徴候学,健康学,治療学の 5部からなる医

    学理論書が用いられるようになった.医学実地の

    教材としては,頭から足までの部位別の疾患と全

    身性の熱病を扱う医学実地書の基本型が作り上げ

    られ,そのスタイルは 18世紀末まで保持された.

    サレルノ医学校は理論と実地からなる医学教育の

    スタイルと教材を作り上げ,その後のヨーロッパ

    の医学教育に長らく継承された.

    1) ズートホフの医学史研究は中世医学のみならず広範囲にわたっている.業績目録はシゲリストが作成している (Sigerist 1924).サレルノ医学校の研究史についてはバーデルの論文(Baader 1978) を参照.

    2) イタリアの医師による論考 (de Divitiis et al. 2004; Della Monica et al, 2013) には, イタリア語によるこれまでの論文が多数引用されている.

    3) ユダヤ人のエリヌス Elinus, Rabinus, ギリシャ人のポントゥス師Magister Pontus, サラセン人のアダラAdala, ラテン人のサレルヌス師Magister Salernusである.Mazza, 1723, col. 63–64.

    4) ハンダーソンの『サレルノ医学校』 (Handerson 1883)による.

    5) ダランベールの 『医科学史』 (Daremberg 1870, vol. 1, pp. 259–266)に述べられている.

    6) ズートホフ 70歳を記念する論文集のシンガーの論文(Singer, Singer 1924)から.

    7) デ・レンツィによる『サレルノ医学校文書史』(de Renzi 1837, pp. 91–155)に述べられている.

    8) ルノー『医学の歴史』 (Renouard 1846, vol. 1, pp. 444–447) とブーシュ『医学と医学理論の歴史』(Bouchut 1864, pp. 359–363)に述べられている.

    9) マッツァの『サレルノ市の歴史と古代』(Mazza, 1723, col. 63)に述べられている.

    10) デ・レンツィは『サレルノ集成』全 5巻(de Renzi 1852–59)を刊行した.

    11) ズートホフの論文(Sudhoff 1929), マイヤー =シュタイネクと共著『医学の歴史』 (Meyer-Steineg, Sudhoff 1928)を参照.

    12) クリステラーの 1945年の論文(Kristeller 1945)は,サレルノ医学校の歴史資料を包括的かつ批判的に検証し,サレルノ研究の最重要の論文と見なされる.

    13) ナポリ大学の脳神経外科医の論文(de Divitiis et al. 2004)による.

    14) エブネルによる仮説は 1961年から 1968年にかけて発表されたが,イタリア語で書かれたことから国際的に広まらず,ナットン (Nutton 1970, 1971)により批判的に評価された.

    出版され続けた48).医学実地書が 11世紀後半か

    ら 18世紀末まで 800年間にわたり,同様の様式

    を保ちながら執筆・出版され続けたのは,一つに

    は疾患の概念がこの間にあまり変化しなかったこ

    とと,もう一つには大学での医学教育において有

    用な教材であったことが背景にあると考えられ

    る.11世紀から 18世紀後半まで主要な医学教材

    であり続けた医学実地書というジャンルを,サレ

    ルノ医学校は生み出したのである.

    医学実地書は,18世紀後半に終わりを迎える.

    18世紀には自然界の事物についての知識を網羅

    する博物学が発展し,18世紀後半には植物の分

    類と同様の手法で疾患を分類しようとする疾病分

    類学 nosologyが登場した.頭から足までの部位

    別の疾患と全身性の熱病を扱う医学実地書に代

    わって,疾患を一定の基準に基づいて体系的に分

    類しようとする疾病分類学書が臨床医学書の主流

    になった49).しかし医学実地書においても疾病分

    類学書においても,体液のバランスの乱れが疾患

    を引き起こすという古代以来の疾病観はなお維持

    されていた.19世紀に入って病理解剖が活発に

    行われるようになり,臓器の病変によって疾患が

    生じると考えられるようになった.これに対応し

    て,臨床医学書の様式は,疾病分類学型から,折

    衷型,器官系統型,感染症重視型へと変化して

    いった50).現代の内科学書の様式はさらに変化を

    遂げている.

    ま と め

    サレルノ医学校は,10世紀後半から 13世紀中

    葉にかけて医学教師の緩やかな共同体であり,一

    定の校舎や組織をもつ有形の学校ではなかった

    が,優れた医学教育により高い名声を博した.こ

    の時期のサレルノ医学校にはヨーロッパ各国から

    多数の学生が集まり教育を受けており,16–17世

    紀のパドヴァ,17–18世紀のライデンに匹敵する.

    サレルノの名を冠する『サレルノ養生訓』や『サ

    レルノ問題集』といった著作物も編まれた.サレ

    ルノ医学校では医学の理論的教材として『アル

    ティセラ』が編まれたが,その後にアヴィケンナ

    の『医学典範』のラテン語訳,および生理学,病

  • 404 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015)

    学』の該当の項(Wallis 2005e)を参照.27) ヨハネス・デ・サンクト・パウロは『医学日課書

    Breviarium medicine』,『単純医薬の作用De simplicium medicinarum virtutibus』,『種々の医薬の有益と有害の作用De conferentibus et nocentibus diversis medicinis』,『食用花 Flores dietarum』を著している.伝記については『中世の科学,技術,医学』の該当の項(Green 2005b)を参照.

    28) ジル・ドゥ・コルヴェイユについては『中世の科学,技術,医学』の該当の項(Wallis 2005b)を参照.

    29) ブルーノ・ダ・ロンゴブルゴについてはポルツィオナトの論文(Porzionato et al. 2012)を参照.

    30) 『サレルノ養生訓』はラテン語で書かれたが,フランス語, ドイツ語, 英語, イタリア語, オランダ語など各国語に訳されている.250を越える版が出版されているが,そのうち 40は揺籃期本 incunabulaである.アッカーマン編の 1790年版(Ackermann 1790)が標準的な版と見なされている.『中世事典』と『中世の科学,技術,医学』の該当の項(Haage 2003, Weiss-Adamson 2005)を参照.

    31) 『サレルノ問題集』のような問題集の形式は,アリストテレスの『問題集 problemata』にまで遡り,中世の大学教育でよく用いられた.ローン著『サレルノ問題集』(Lawn 1963),デ・レーマンスとホイェンス編『アリストテレス問題集,さまざまな時代と言語』(de Leemans, Goyens 2006, pp. 116–117),『中世の科学,技術,医学』の該当の項(Touwaide 2005b)を参照.

    32) 『アルティセラ』については,アリザバラガの論文(Arrizabalaga 1998),『中世の科学,技術,医学』の該当の項(O’Boyle 2005)を参照.

    33) クリステラーの論文(Kristeller 1945)による.34) 『中世の科学,技術,医学』の該当の項(Shank

    2005)を参照35) フリードリヒ 2世は 1230年の秋から冬,さらに

    1231年 5月から 9月まで,南イタリアの小都市メルフィの城砦で,法律家,聖職者,実務者を集めて会議を開き,古代の法典を参考にして,国の統治の基本となる法典「メルフィ憲章」を作成し公布した.19世紀以来「皇帝の書 Liber Augustalis」とも呼ばれる.憲章は 3書に分かれ,当初は 219の法令を含み,後に増補された.第 1書は公法,第 2章は司法手続,第 3書は封建法,民法,刑法を扱う.『中世事典』の該当の項(Stürner 2003)を参照.

    36) サレルノ医学校の 15世紀までの組織については,クリステラーの論文(Kristeller 1945)と『中世事典』の該当の項を参照(Vitolo 2003).

    37) 16世紀以降のサレルノ大学については,グレンドラーの『イタリアルネサンスの大学』(Grendler 2002, pp. 117–121)を参照.

    38) ニコロ・ダ・レッギオの伝記と業績については『中世の科学, 技術, 医学』の該当の項 (Touwaide 2005a)

    15) ズートホフは論文や『医学の歴史』(Meyer-Steineg, Sudhoff 1928)の中で,早期サレルノ Frühsalerno,盛期サレルノHochsalerno,晩期サレルノ Spätsalernoの語をよく用いている.ドイツの 『中世事典』 のサレルノの項目 (Keil 2003b) では,早期を 995–1087年,盛期を 1087–1175年,晩期を 1175–1250年としている.境界となる年号のうち 1087年はコンスタンティヌス・アフリカヌスの没年,1175年はブレスラウ・コーデックスの成立年代に相当する.しかしコンスタンティヌスの没年には異論があるので,本稿では年代の境界は大まかに設定した.

    16) ガリオポントゥスの『受難録』は,従来はガレノスなど古代の著作の焼き直しと見なされていたが,グレイズ(Glaze 2005, 2007b)は古代の複数の著作の内容を取捨選択して,医師にとって使いやすい内容と形式のものにした創造的な著作であると評価している.

    17) 「医学実地書」は,個別の疾患を取り上げて診断と治療法を解説する臨床医学書で,頭から足まで部位別の疾患と全身性の熱病を扱い,11世紀から 18世紀末までのヨーロッパで連綿と作られ用いられ続けた.ガリオポントゥスの『受難録』は「医学実地書」の最初のものである.坂井の論文(坂井 2015a)を参照.

    18) アルファヌス 1世の伝記と業績については,『中世事典』の該当の項(Delogu 2003)を参照.

    19) コンスタンティヌス・アフリカヌスについてはズートホフの論文(Sudhoff 1930)がある.生涯と業績については『医学伝記事典』と『中世の科学,技術,医学』の該当の項(Glaze 2007a; Green 2005a)を参照.

    20) バルトロメウスとマウルスについては『中世の科学, 技術, 医学』の該当の項(Wallis 2005a, 2005c),注釈についてはクリステラーの論文(Kristeller 1976)を参照.

    21) ニコラウスについては『中世の科学, 技術, 医学』の該当の項(Wallis 2005d)を参照.

    22) 『コフォの実地』についてはクロイツによる論文(Creutz 1938)を参照.

    23) サレルノでの動物解剖の文書については,ズートホフの論文(Sudhoff 1927, 1928)がある.

    24) ロゲリウスについては『中世事典』の該当の項を参照.Keil 2003a.

    25) 「ブレスラウ手稿」は 2部からなり,第 1部に 2編,第 2部に 40編の文書を含んでいる.Henschel 1846, Sudhoff 1920.

    26) ウルソの著作には,『箴言と注釈Aphorismi cum glossuli』, 『元素の混合De commixtione elementorum』,『質の作用De effectibus qualitatum』,『医薬の作用De effectibus medicinarum』,『味と香りの段階De gradibus de saporius et odoribus』,『色についてDe coloribus』がある.ウルソについてはファン・デア・ルフトの論文(van der Lugt 2013), および『中世の科学, 技術,医

  • 坂井 建雄:サレルノ医学校―その歴史とヨーロッパの医学教育における意義 405

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    を参照.39) ジョヴァンニ・ダ・プロシダについては『中世事典』の該当の項(Ippolito 2003)を参照.

    40) シルヴァティクスについては『著名医師事典』の該当の項(Hirsch 1884–88, vol. 5, pp. 402–403)を参照.

    41) コトゥーニョについては『医学伝記辞典』の該当の項(Dröscher 2007)を参照.

    42) 北イタリアの大学の医学教育についてはシライシの著書(Siraisi 2001, pp. 203–225)を参照.

    43) 実地と理論の両方の著作を著した医学教授は,ドイツではチュービンゲン大学のフックス Fuchs, Leonhart(1501–1566),ヴィッテンベルク大学のゼンネルト Sennertus, Daniel(1572–1637),イェナ大学のメビウスMöbius, Gottfried(1611–1664),マールブルク大学のヴァルトシュミットWaldschmidt, Johann Jakob(1644–1689),ギーセン大学のヴァレンティニValentini, Michael Bernhard(1657–1729),ハレ大学のホフマンHoffmann, Friedrich(1660–1742)とシュタール Stahl, Georg Ernst(1660–1734)で,少なくとも 6大学の 7人がいる.フランスではモンペリエ大学のリヴィエールRivière, Lazare(1589–1655),イタリアではナポリ大学のトッツィ Tozzi, Luca(1638–1717),オランダではライデン大学のブールハーフェBoerhaave, Herman(1668–1738),スイスではバーゼル大学のツヴィンガー Zwinger, Theodor; der Jüngere(1658–1724)が理論と実地の著作を出版している.

    44) 『アルティセラ』についてはアリザバラガの論文(Arrizabalaga 1998),『中世の科学, 技術, 医学』の該当の項(O’Boyle 2005)を参照.出版状況については,重要な図書館(米国国立医学図書館,フランス国立図書館,大英図書館)の図書目録および原著,複製,デジタル画像として入手した原典をもとに著者がリストを作成した.

    45) 『医学典範』のラテン語訳者についてはドナルドソンの論文(Donaldson 2011),普及についてはシライシの著書(Siraisi 1987, pp. 43–76, pp. 77–124)を参照.出版状況については,重要な図書館(米国国立医学図書館,フランス国立図書館,大英図書館)の図書目録および原著,複製,デジタル画像として入手した原典をもとに著者がリストを作成した.

    46) 医学理論書については本間の学位論文(本間 2003)を参照.出版状況については,重要な図書館(米国国立医学図書館,フランス国立図書館,大英図書館)の図書目録および原著,複製,デジタル画像として入手した原典をもとに著者がリストを作成した.

    47) 坂井の論文(坂井 2015a, b)に基づく.48) 坂井の論文(坂井 2015a, b)に基づく.49) 坂井の論文(坂井 2010)を参照.50) 坂井の論文(坂井 2011)を参照.

  • 406 日本医史学雑誌 第 61巻第 4号(2015)

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    The Salernitan School of Medicine: Its History and Contribution to European Medical Education

    Tatsuo SAKAIJuntendo University, Faculty of Medicine, Department of Anatomy and Life Structure

    The Salernitan School of Medicine was founded in the late 10th century as a loose association of medical teachers. The period before the middle 13th century was divided into three phases. In the early phase, before the end of 11th century, “practica” books were written, utilizing extant ancient literature, Arabic medical treatises were translated into Latin, and the medical text “Articella” was compiled. In the high phase before the end of the 12th century, the “Articella” was commented upon and new pharmaco-peia and practica books were written. In the late phase before the middle of the 13th century, physicians who graduated from Salerno were active in various countries in Europe. After the middle of the 13th century the school developed organizations and rules, became a university at the end of 16th century, and was closed in 1811. The Salernitan school produced “Articella”, which pioneered in theoretical medical education, and produced “practica”, which dealt with both local diseases from head to foot and systemic fever diseases, and it continued until the end of 18th century. The two major disciplines of medical educa-tion before the end of 18th century, theoretica and practica, were derived from Salerno.

    Key words: medical education, theoretica, practica, regimen sanitatis Salernitanum, Articella