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オセアニアの漁拐文化 - 1 オセアニアの漁携文化 重安 オセアニアの漁勝文化の理解の 1 つの方法は,オセアニアの|島々に住むノ l ζ とって漁携とは何か,という乙とを明らかにする乙とであり,日々のは 活の中 l 乙組みいれられた生活の一部としての漁携活動を全体の日々の行為と の関連において理解する乙とである。それは食料獲得の手段であり.スポー ツであり,レクリエーションであり,またそれはしばしば儀式的な行為でも ある。そして ζ れらの行為は具体的には漁具の作製やその操作の過程,ある いは乙れら一連の漁携過程の終了後の行事の中氏現われる。乙のような漁 の意味するものを追求する乙とは地域集団の行動を理解する上で興味ある ーをもたらすであろうが,オセアニアの島々 K 関する研究においても.その ような意図の下でなされた報告は多くはない。それゆえにー本論ではそのよ うな点|については十分 K 触れえないけれども,オセアニアにおける伝統的丈 漁法の特徴をも考え合わせて,その漁携文化の性格に言及してみたいと思 ... 掘樽文化と漁携文化 と乙ろで,オセアニアははたして 1 つにまとまった漁携文化の特色をもっ ているのであろうか。オセアニアはその内部においてポリネシア.ミクロ シア,メラネシアの 3 つの地域 i ζ 区分されている。乙の区分は近世ヨーロッ パ人|によって島々の外見的な諸形態を元にして便宜的に線引きされただけの ζ とであって,それぞれの地域は厳密な意味での文化闘の単元を形成するも のではない。むろん乙の 3 つの地域の聞には東南アジアにたいするそれぞれ の地域の距離的関係からする文化的伝搬の難易はもとずいた文化的諸要点の 分布の濃淡と,民族定着後 l においてそれぞれの地域で創造されたと思われる 文化の相違が認められる。 したがって,若干の文化:要素をとって見ると l' 物質文化の」二ではむろんの ζ と,社会制度の上でも,ポリネシア, ミクロネシア,メラネシアはそれぞ れ何らかの特色を示していると弓う乙とができる。たとえば.ポリネシアで (446 )

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オセアニアの漁拐文化 - 1一

オセアニアの漁携文化

重安 内 芳 彦

オセアニアの漁勝文化の理解の 1つの方法は,オセアニアの|島々に住むノ

々lζとって漁携とは何か,という乙とを明らかにする乙とであり,日々のは

活の中l乙組みいれられた生活の一部としての漁携活動を全体の日々の行為と

の関連において理解する乙とである。それは食料獲得の手段であり.スポー

ツであり,レクリエーションであり,またそれはしばしば儀式的な行為でも

ある。そしてζれらの行為は具体的には漁具の作製やその操作の過程,ある

いは乙れら一連の漁携過程の終了後の行事の中氏現われる。乙のような漁

の意味するものを追求する乙とは地域集団の行動を理解する上で興味ある

ーをもたらすであろうが,オセアニアの島々K関する研究においても.その

ような意図の下でなされた報告は多くはない。それゆえにー本論ではそのよ

うな点|については十分K触れえないけれども,オセアニアにおける伝統的丈

漁法の特徴をも考え合わせて,その漁携文化の性格に言及してみたいと思

つ。...

掘樽文化と漁携文化

と乙ろで,オセアニアははたして 1つにまとまった漁携文化の特色をもっ

ているのであろうか。オセアニアはその内部においてポリネシア. ミクロ

シア,メラネシアの 3つの地域iζ区分されている。乙の区分は近世ヨーロッ

パ人|によって島々の外見的な諸形態を元にして便宜的に線引きされただけの

ζとであって,それぞれの地域は厳密な意味での文化闘の単元を形成するも

のではない。むろん乙の 3つの地域の聞には東南アジアにたいするそれぞれ

の地域の距離的関係からする文化的伝搬の難易はもとずいた文化的諸要点の

分布の濃淡と,民族定着後lにおいてそれぞれの地域で創造されたと思われる

文化の相違が認められる。

したがって,若干の文化:要素をとって見ると l'物質文化の」二ではむろんの

ζ と,社会制度の上でも,ポリネシア, ミクロネシア,メラネシアはそれぞ

れ何らかの特色を示していると弓う乙とができる。たとえば.ポリネシアで

(446 )

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オセアニアの漁勝文化 - ,3一

いて,工業社会以前の人類の発展段階を,狩猟者集拾者→ハッ ク農耕(掘棒

文化と原始的な鍬文化をふくむ)→鋤農耕→遊牧社会への発展と想定し,し

かなる漁法がそれらのどの段階において考案されたか,つまりどの段階の文

化複合の一要素であるか,を決定する乙とは容易ではないが,しかしζの課

題の解決のために,次のような原理的な通則を考えて見たことがある。すな

わち,

(1) 後の発展段階の文化の影響を受ける ζ となく,長くハック農耕の段階

にとどまっていた地域において,伝統的lζ行なわれていた漁法は当然ノ

ック農耕文化の属性である,と考えられる乙と。

(2) 鋤農耕社会から分離して (ただし,絶縁状態ではなしサ曹牧畜を専門

l乙営む遊牧社会の形成から判断して,漁業を専門l乙営む沖合,遠洋漁、中

(海上遊牧)は鋤農耕社会成立以後の文化で‘ある,と考えられる乙と。

(3) 狩猟者集拾者→ハック段耕への発展当時i('Lおいてlは, 一般通則として

三拾,およびハック農耕の担い手は女性であり,狩猟は男性の仕事であ

り,東南アツアがその起源地と l目されている,赤道をとりまくハック段

井地帯のイモ類栽培にとって必要な蛋臼源たる貝類の集拾は,とくに女

性の仕事であった。ハック農耕から鋤農耕民移行するにつれて,その担

い平は女性から男性K移行し,段業生産の飛躍的な発展をもたらし ノ

ック段耕を基礎とした自足経済を前提とする小規模小範聞な権力構造

が,とくに保存のきく穀物生産の余剰によって.大規模,かつ広大な領

域にわたる権力構造に発展し,直接生産に従事|しない階層の存在を可能

にし,ひいては都市的集落の発生をともなじ¥乙れらの人々への蛋臼俳

.給の一翼を担って,ζ 乙に個人的,ないしは村溶共同団体的自足を乙え

た大詰漁獲の漁法が出現した。したがって.乙のような漁法は河然

段耕段階K対応するものと考えられる,と。

以上から,最近まで強く掘俸文化の性絡をとどめていたオセアニアで、は漁

坊の目的もまたもとより交換経済を指向するものではなかったことが瑚解で

る。

そしてオセアニアにおける伝播的な漁法,すなわち掘絡文化の属性 lとみ丈

れうる漁法は釣,給,銘漁のほかは,下記のようなものであったと包われ

る。:J 7' IJ

-漁業,魚伏能漁業,タイマツによる硲漁,わな仕掛け lのサメ漁業,}r乱漁

,タコ石漁業,Z8漁,定的漁業(右平克,ョ、ンや杭製の,p;をふくむ)'.村

(448 )

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- 4-

共同の追込み漁業などである。しかし乙れらの漁業はオセアニアの 3つの地

域にわたって一様に分布しているのではない。精績な文献研究である Bengt

Anell: Contributlon to the History of Fishing in the Southern Sea, 1955,

および広汎な地域的実証研究である JamesHornell: Fish'ing in many Wat-

ers, 1949などを参照して乙の関係をポすと次の表の通りである。

沸、 厚:わな仕掛

凧漁 タコ石 定置網笠漁業 夜漁、 けのサメ 毒漁

地 域 漁業 業 漁業 漁業漁業

凶部 。 × 。 。 。 × 。。ミクロネ シア

東部 。 × 。 。 × × 。。

ï~河l 。。。 X* × × 。。メラネシア

東部 。。。 。 。。。。

西部 。 :x 。 。 × 。。。ポリネシア

東部 。 X 。 × × 。。。インドネシア 。。。 X ~ド* 。 × 。。

0 行なわれていた,あるし、は行なわれている乙とをノメす。

X 行なわれていなかった,あるいは行なわれていないζ とをノ示す。

* 古い時代に行なわれていたらしい。

** サメをよぷ 「ガラガラ」がある。

村共同の迫込網漁業

。。。

。。。。

上表からして,オセアニア地域にのみイ子在していて,他地域とくにイ ンド

ネシア花見られない漁法といえば,わな仕掛けのサメ漁業とタコ石漁業だけ

で.しかもそのわな仕出けの漁法で重要な「ガラガラ (トウを(if符40cmば

かりの円形(,としたものKココヤメの殻,あるいは大きな只を幾枚か通し,こ

れを半ば水中Kいれて巌 |り動かして音をだし,サメをよぴょせる道具)はイ

ンドネシアにおいても過去において知られている ζ とからして,あるいはイ

ンドネシアでも乙の漁法が用いられていたかも知れない。もしそうだとすれ

ば.オセアニアのオリラナルな漁法は,ポ |リネシア起源のタコ石神、だけだ,

(449 )

-・

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ー--,.

7 アニアの漁傍文化 - 5-

という乙とにもなる。そして 噛そらく段耕の場ム

によったζ とを暗示 している。

オセアニアの漁民と漁

セアニアの漁民は東南アジアの

とらえられる。別の言い方をすれば.住民は性別を問わずポテ ンシ ャルな漁

である。乙れは自給自足性の高い社会では当然の乙とでありー専門漁夫の

をもたらす社会的基盤を欠いているからである。しかしオセアニアのん

は植民地支配,乙と lζ19世紀前半以来.世界市場へ特産物をもって参加

する乙と lζなったが,ナマコ (R.ιWa:訂:rd止d止: Th恥1刊e'Pac冗叩c:if:icBe釘ch恥e.'配d白de-:r叩:me釘r

τTrade w叩it山hs叩Ip3ecdi悶悶凶a]1Refer耐加e引町町r,enceto F:りiり凶ji" 1972 j や天然真珠 ( V. Thom pson

and Richa:rd Adloff: The French Pacific Isla口ds Fr,ench :polynesia and

nia, 1'971)のととき若干の梅産物を除いてほとんど農作物で,

の大部分は百姓,漁民の生活を営んでL、た。

っとも,オセアニア i~L {)専門の漁夫集団がいた乙とは, ミード (M.

ad: 'Gro'wi:ng up in N,ew IG山口白書 19.53)のマヌス人民関する報告で明

らかであるが,それは|自給経済が近代的な交換経済l'乙進むにつれて

中から専門漁夫が折出されてくるというのではなくて.逆はすでに古くから

が存在していて,それに参加する住民がそれぞれ特窓とする1

4 ーを交換しあう形態で,それぞれの住民がそれぞれの住活形態を維持し附

けるのであって,マヌス人は漁民として

a しているのである。

は主としてサンコe礁のリーフの水

マグロ "カツオ漁業などにも従事する

が.その場合でも . リーフを離れること数キロ以内の場合が多かったし ム

においても漁場利用上品広電製なのはリーフである。ギフォード (E.

. 'Gifford: Tongan SocI,ety, 1929) ,がトンガの場合について述べているよ

うに,地先のリーフはその村の共有であった。そのためにーある村の者が他

の地先で漁業|比従事するときは,その漁獲物の一部をその村の筒長(乙手U

ば江らなかった。しかしトンガ諸・品でもヴァヴァウ lぬでは.その内陸の

{住主b民3でも梅片伴きlκ乙でて自 If由白j羽臼却3 1訓I~にl

いろと相i迎盈があつた。しかし今日オセアニアの品々では. リーフの所有lは

血B史的な氏族であれ,地縁的えよ村落であれ.それに接する住民によって所

( 45'0)

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- 6一

されていると見て大過はないであろう。そのために,たとえばカピンガマラ

ンギにおけるように (K. P. Emory: Kapingamarangi Social and Religious

Life of A Polynesian Atoll, 1965),個人はリーフ内に特定の漁業施設をす

る乙とができ,それがその個人の労力と時間の消費においてなされたとして

も,その土地の人々は自由にその施設を利用してさしっかえがない。しかし

後述のように,漁業行為がオセアニアの中で最も魔術的であり,儀式的であ 1

るタンガ諸島のように,社会的に卓越した個人で,村結の儀式的生活で指導

的役割りを演ずる人物が, リーフの利用や利用禁止にたいする権限をも って

いるよラな場合もあった (F. L. S. Bell: The Place of Food in the

Social Life of the Tanga, Oceania, June, 1947)。

地先漁業権の思想と制j交が発達したのは,魚比類蛋白源を主として沿j戸l乙

求めていた国々においてであり ,したがって,沿岸住民が占くから (1給ヒ,

新しくは商業上強く地先水域に依存している,た とえば日本やフィ リピンに

おけるような国々においてであった。また地先漁業権はかつて魚類の大部分

を沿岸に依存していたイギ リスやその他北ヨーロッ パ諸国にもあったのであ

って,その後沿岸水域のもつ漁業上の比重か小さくなるにつれて,しだいに

廃止されるにいたったのである。したかつて,それは後に多くの国々におい

て沖合や遠洋水域に適j刊された許可漁業権とは性桝を異にするものである。

地先漁業権の設定一一山地,平地のみならず海の幸をも利用できるための

ーの仕方は,火山鳥のハワイ諸島や,またラロトンカ、のようにほぼ円形の火

山鳥では理想的な典型を示している。ハワイ諸島の場合は,カメハメハ I'f什

が全島を完全に支配するにいたる までは,独立した島や,島々の一部を文配

している多くの王がし、た。そして王の下に酋i三かいた。島は山から海にかけ

てV字状K分かたれ,それがモク (moku) とよばれ,それぞれのモクがEKよって支配され,そのモクがさ らにアフブアア (ahupua'a) とよばれる

区画地に分割され,乙れが酋長i乙割当てられた。また乙のアフプアアはより

一層小 lきな地区民分割され,乙の分割j地はイリ(ili )とよばれ,これが地位

の低い信長,あるし、は家族集団に与えられていた。 'たいていのイリは山頂か

ら海Ir,(_およんでいたので,各家族集団は必要を満たすための漁場,浜:.illのい

住地.耕作のできる傾斜地と谷,その他森林を利用する乙とができた (E.

H. Bryan, J. R.: Ancient Ha waiian Life, 1938)。 しかしノ、ヮィでは乙

れもすでに過去の姿で, 19'29年のハワイ漁業法は「商業的漁猟許可を得る

に非されば,商業的漁猟に従事するζ とは違法とす」と規定し,商業的漁業

(451 ) •

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ー喝

, •

ー-

オセアニアの漁勝文化 - 7一

の擾頭を物語っている(拙稿:漁村の生態, 1958)。またラロトンガにおい

てもハワイにおけるモクと同じように山からリーフにいたる土地は区分さ

れ,乙れがタぺレ (tapere) とよばれて酋長に与えられ,乙れがまたさらに

小さな血族集団に分割されていたのである(拙稿:ポリネシア, 1967)。

漁業とタブー

漁勝行為におけるタブーは最近だんだんと消滅しつつあβ。たとえばテイ

コピア島においては,漁業を行なう聖なるカヌ-~乙女子が乗組む、乙とはタブ

ーであったが,第二次大戦中男子の出征によって,一部の女がカヌーに乗っ

て出漁するという風に変わっている (R.Firth: Social Change in Tikopia,

1959)。 それでも今日なおタブーは他の活動部面とともに漁勝行為に強く残

っている。スタイナー (F.Steiner: Taboo, 1956)は,タブーを定義して,

危険な状態における特殊な,また限定された態度と係わるものとし,それは

危険な状態にある個人や集団の保護と関係があるとしている。漁携行為は,

他の諸活動,たとえば農耕活動などに比して,より多くの危険をともなう場

,合が多い。しかしタブーとして課せられた行為が何を意味するのか,説明す

るζとができない場合が多い。たとえば東サモアのマヌアでは,カツオ釣り

の場合のタブーとして, (1) 新しいカツオ船ではいっさい食事をしてはいけ

ない。 (2) 女がカツオに触れる前にはその獲物に水を注がねばならない。 (3)

カツオ釣りの前夜は男女閥関係をつつしまねばならない,とい,う乙とがあ

り (M. Mead: Social Organization of Manua, 1930),ランギ・ヒロア

(Te Rangi Hiroa: Samon Material Culture, 1930)は同じくカツオ釣りの

タブーとして頭には何もかすいてはし、けない乙とと,腰から上l乙何を着けて

もいけない, ζ とをあげている。 ミードがあげている(2)と(3)は女性の不浄と

関係があって,オセアニアのみならず,それは日本においても最近まで種々

のタブーの元となっていたのである。秋田県の飛島では「婆の赤不浄のあっ

たときは一週間漁民出られないJ(長井政太郎:飛島誌, 1952)といわれ

た。乙のような物忌みはテイコピアでもマンガイアでも同線であった (Te

Rangi Hiroa: Mangaian Society, 1934)。 山間栄一は漁民の神信心は海上

操業の危険性と傍倖牲にあるとしている(漁村社会学の研究, 1958)。タブ

ーもまたそうしたととに基づいたものと考えられる。そしてタブーは漁獲の

傍倖性,言い換えれば見通しの不安なギャンブル行為にともなう縁起かつぎ

とも関連する。しかしミードのあげた(1),およびランギ・ヒロアがあげてい

(452 )

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- 8-

るタブーは何を意味するのか,まったくわからない。むろんタブー的行為の

理由を合理的に説明しようとすること自体意味のない乙とかも知れない。

またタ ンガ諸島のボイエング (Boieng)島で見られる集団的な筆 (イノてラ

の練のある筆)漁業は特別な漁携専門家の下で,特別な男子の家を中心とす

る規律ある共同生活を営み,~の製作のときから漁勝にいたるまでの全過程

が儀式に色どられた行為であって,けっしてたんなる経済行為ではない。そ

の大要は以下の通りである。

7, 8月ごろから 9月のはじめにかけて,氏族のメン J ぐーである男たちは

1人の漁勝専門家の監督の下にはし、って,共同のイバラの糠の筆漁業を行な

つ。

浜の一部は氏族の長によってタブーとされる。そして乙の聖なる浜の部分

に乙の儀式的漁携と関連した聖なる家が建てられ,乙の中で男たちはかれら

の家族生活を離れて,漁携専門家の指導の下~L , 2, 3週間,初心者の場合

は5週間ばかり共同生活を営む。乙の家の中でかれらは各人の筆に餌と錘を

くくる紐を乙さえ,また峯につける浮きを軽い木から乙さえる。そしてその

浮きに所有者がわかる印がつけられる。島の北岸の遠いと乙ろからもってき

た白い石は錘として用いられる 。また各人は 1.5 mあまり の叉になった棒

をとってくる。乙れは後にかれの2さをのせかける台として使う。なお,かれ

らはそれぞれ寵いっぱいのサルナット (salgnat),およびギルギ、ル (gilgil)

とよばれる木の葉を集めてくる。乙れらの行為は漁務専門家の指図の下でな

される。

浜辺の聖域に建てられた家はひじように神聖で,乙の漁j勢集団以外の誰も

立入禁止である。そしてタブーを犯した者は,その右手がイバラの臓の筆の

中にさしいれられてヲ!かれるので,かき傷がつくという体罰に処せられる。

筆を作るときがきたと考えたとき,穂、傍専門家は筆の主な部分となるイゾ

ラの練を切りに行く乙とを公表する。かれは数人の初心者をつれてジャング

ルに行く。初心者たちは,かれが糠のある適当な大きさのトウの茎を切って

いる聞に,不要なそのトウの葉をとりはずして,かれの仕事を助ける。かれ

はまた筆の側を作るために多くのトウの葉と,釜の外枠をくくるキス (kis)

とよばれる特殊な繊維を集める。 ζの段階でかれの助手たちはかれから離

れ,かれは人里離れたジヤンクやルにはいり,そ ζでかれはフェレ (fele) と

いわれる葉の束と,ワートワート (wa:twa :t) といわれる一巻の繊維に魔力

をかける。

(453 )

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セアニアの漁勝文化- 9 一

の。

AU一

帽し く笠を実際民作る乙とを公表す

たちは操業用の竹筏と笠を作る

しでかれは聖なる

る。そしてそのζろ11c:.

のK必要なすべての

乍りの実際|の作業l

で, I隠45qnの竹の低い坐

って唖その前万70佃ほどのと乙

が立てられる。次の日の朝早く

圃の浜でなされる。そのために,長 lさ,30m以上

と平行lζ作 |られる。そしてその全長lkそ

..

る。各人はサルナッ iトとギルギルlの木の寄り

ウの裳,白い石と,けずった浮きをもって

フェレの築束とワートワートの繊維をもっている。そして各人は黙まって叉

の棒のうしろの席につく。この叉の棒は前日に立てておいたものである。

そして各人はかれの前にサルナットとギルギルの木の誌を拡げて.その上I

々の材科を並ぺぺ'.それらが白.いサンゴ砂lζ触れないように十分注意する。

の塞漁業の犠式が成功するために本質的u:.大切な乙とは.40人,ある

は50人の漁拐集団が各人の魁初の筆を同時に作らねばならない,という

ζ とである。漁揚専門家はみんな若席している人々の列の前Kいて,笠を作

るすべての手順舎厳重に統御していくのである。乙の乙とは'.塞を作る作一

で特別な結び目を乙さえたり,各人の前の慌の中から 1本の繊維を選ぴ

どの間隔をおいて叉i乙伝った

川'J.J守門家の指導の下で浜l乙で

lと

乙90cm'

n、J 、た

ばならない,という乙と丈

9Jの行動は闘力争かけたフェレの柴とワートワートの

を各人民配る乙とである。それからかれは自分の席にもどって,次のような

作業をする。乙れにならって各人も同じように作業する。 (3) 約四仰の 5

のイバラの戟の枝を選びだして,それらを一方の端でキス lの錨維で‘もって

しばり,その繊維のいくらかの部分を賊の枝の内側l乙残しておく。 ω 答の

口壱 ζ きえるために,砂;の枝の東がくくられているもう一方の端を拡げて

スの磁維で 5本の服の肢の陥をしっかりとくくる。 (c) フェレの探を容の

喧 (円錐体の頂点)のところにさ |しζみ.それを 1本のワートワートの繊維

で固定さす。 (d) 笠|の底から10cmばかりまでのと乙ろの歪んだ賊枝の外側

のまわりを細い茎で巻いて,箆の枠を強化する。 (e) 敬枚のトウの葉で円錐

形の察の庇半分 lをおおう。 (f) 笠の庇l乙浮きをつける。かくして最初の笠が

できあが|り,かれは立ちあがって乙れを叉木のょにおく。その場合漁夫たち

はすべて噛あたかも 1人の人間であるかのように)[ちあがって.かれらの

( 45

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- 10一

をそれぞれの前の叉木の仁におく。 1人でも立ちおくれたりすると,全体の

儀式はそ ζなわれる。

いまや沈黙の法度が解かれ,人々はたそがれまで内由にできるだけ多くの

筆をつくる。

乙れらの笠のどれにも魔ノJのかかったフェレの焦がつけられない。各人が

20個ばかり笠を作った乙ろ,漁務専門家は各人に餌用の魚を獲る乙とを命

万。パ(ba) とよばれる小魚はイバラの娘の筆には最良の餌魚で,漁勝

手門家の前に との魚をいれる簡がおかれる。かれは適当な大きさに魚を切

り,個人民相当長を与える。そしてすべての人々は聖なる家にかえって夕食

をとる。 ただし漁、勝魔術師 (漁携専門家)は最初の魚が獲れるまで断食す

る。日没の直前に男たちは再び浜によぴだされる。そして筆のrt-q乙残されて

いる キスの繊維でも って餌魚がくくりつけられ,また白い錘もつけられる

が,ζれは魚が筆の巾にはいって,その魚が少しでもあばれるとはずれ務ち

て,~さが水而に浮かひあか・っ てくるように仕儲けられる。それから ~J たちは仰なる家にかえ って翌朝起乙されるまで休む。

望l別天候に恵まれると,漁傍専門家はかれら争起乙して筆を海に赦設させ

る。各人はその竹の筏を浜にだし,それに乗って水道を通ってちょうどリー

フの縁を乙えたと ζ ろまで漕いで行く。しかし漁初等門家はめったにかれら

とと もにでかける乙とはなく,浜にいてI訴かが筆てltJi初に魚を磁ったという

叫ひ・声を待つのである。

40人, 50人の人々は,経験のある者が先導して,タブーのドにおかれたリ

ーフの部分に而して長い列をなして拡かる。そしてパ:意深く答~~放設する。間も なく筆は浮かびあが 1つでぐる。各人はrfl分の筆をわいあつめるよf任かあ

る。もしかれが漁場から離れ,近くの村の子供によっでかれの活弓:の築か姶

われたときは,かれはその中の魚、の所有権はない。

午前8時H:なると漁夫たらは筏で浜にかえづて〈る。それから魚の饗宴が

催される。乙の饗宴にでられる者は乙のような儀式的漁拐に 4[8]以上参加し

た人々である。初心者がとの饗宴に参加すれば,今後の筆漁は成_cjJしないと

されて 1いる。

なお,サメは一般にポリネシ lァ,メラネンア, ミクロネンアで食料として

司用されているが,ソロモ 4ン諸島の大部分ではサメは捕られることはなし。

理由は宗教的で,あるサメは死んだ祖先の化身と枕されている。タ刈諸

島ではサメはおそるべき腐肉清掃人と考えられていて,以前はサメは死人処

(4S5 )

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オセアニアの漁傍文化 - 11一

理の手段とされていた。社会的に重要でない人の死体はつねに水葬K付さ

れ,サメに食わせた。最近まで乙の水葬方法は 3才までの幼児の死体lζ用い

られていた。乙のような水葬はソロモン諸島のマライタ島のサアア (Sa'a)

村や,マライタ島のすぐ南の小島ウラワ (Ulawa) でも知られている。

共同の村網漁業

オセアニアの漁業の性格の理解のfこめKサメ漁業,タ手石漁業,定置網漁

、長漁、その他釣り漁などについて述べる必要があるが,前K若干論じた

ζ ともあり,今後も問題にしたいと思うが,紙数の関係ですべてを割愛し,

村網漁業について述べて見たい。ただしポリネシア特有の漁法であるタコ石

漁業については石毛直道:iタコのかたきうちーーポリネシアの漁具をめ ぐ

って一一J,季刊人類学, 2 -3 ,釣り穂、については直良信夫 .:i釣り針の話」

1961などのある乙とをあげておに。

さて, 一口K村網漁業といっても, 1 つの島の中でも,また島を異I~L.すれ

ばなおさらの ζ と,種々の変化が見られるばかりでなく,村網の技術の中lζ

進化的な過程さえ観察される。その進化は一般l乙単純なものから復雑なもの

へ,あるいは一層有効なものへと向かっている。

コドリントン R. 'H. Codrington: The Melanesians Stud:ies in Their

Anthropology and Folk.lore, 1891)が19世紀末に,パンクス諸島のサドル

(5aωle)島における漁、携の方法として,大声で叫びながら手で水面をたた

いて魚を浅いととろへ追いやっている人間の長い列の乙とを述べているが

乙れなど素手による漁坊という点でまったく原始的であり,次まの発展は

ガダルカナルで見られるようは,裂いたココヤシの禁をつなぎ合わせてカー

テン状とし,乙の遮断幕によって魚群を取りかとみ,若者がそ lの !~:t i~ L.はいっ

て槍を使う方法であろう (Ia.oHogbin: A Guadalcanal Society, 1964)。

そしてその次の進化の階階と思われるものは, トンガでポラ ωola) といわ

れるもので,ヤシの禁を裂いたものを長いロープに結びつけて,乙れを半分

砂で埋めて潮で流されないようにしておく。数日後湖のょいときに,半分埋

まっていると ζろを解いて,それを杭にくくりつけて回定する。そして退潮

のときその聞いの中lζ残った魚を捕る。乙れの 1変形は同じくトンガのファ

カウヴェア (fakauv!ea) といわれる漁法である。乙れは魚lの生態に応じて 1

日だけの漁業ではなく,時には数カ月も用いられる。なお,乙の 1つの変

化,ないしは進化型は同じくトンガのウロア(uloa)であろう。 ζれはポラ

(456 )

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やファカウヴェアと同じような方法であるが,半月状に張った囲いの両端を

ヲ|っばって円形の閤いとし,だんだんとその円形の囲いをちじめていって,

その両翼の交叉点のと乙ろに,魚をいれこひ大きなバスケットを置くのであ

る。乙れがさらに進化して,より生産的となったのが,同じくトンガのシリ

タ (silita) で,これはポラと本物の網の連係作業であって,網によって固

まれた魚はまったく逃げられない (Hon. Vaea and W. Straatmans: Pre-

liminary Report on A Fisheries Survey in Tonga, 1953)。 リーフの存在

と潮汐による魚の生態からして考案されたこれらの漁法と同じ原理に基づい

ているのが, トンカ¥テイコピア,ポナへなどの石積のダムであり,またそ

れがフィジーやヤッフ。などで見られるヨ シの声入となり,最後に今日トンガ,

サモア,フィジー,グアムなどで見られる杭止めの金網の飢へと進化した。

しかし村網漁業でひじようにかんたんであるが,鋭い自然の観察から生ま

れた漁法として,ただ 1本の長いロープが海底に投ずる影によって,魚をそ

の影の外へでられないようにして,それを一定のぷ域に追いこみ,そこでコ

コヤシの葉の闘い網で囲んだり (カピンガマラ ンギの場合, K. ,p. Em-

ory: op., cit.),フィジー諸島のベンガ (Mbengga)島におけるように網で

囲んだりするやり方をあげる乙とができる (HarryLuke: Islands of the

South Pacific, 1962)。 そして乙の方法はカピンガ、マランギからガティク

(Ngatik)島に伝わった乙とが知られている。

なお,乙のような村網漁業は,従来ぽとんどの場合,儀式的な性格をもっ

ていた。したがって,村網漁業といっても, トムフ。、,ン (Laura

Thompson: Guam and its People, 1947) がグアム島について述べている

ように,漁獲物が漁夫,カヌーの所有者,網の所有者にそれぞれhずつ 3等

分するという代分け制は,すでに多かれ少なかれ経済的な階層分化を前提と

したもので,本来の意味における村落共同体的漁業とは言えない。

さて,乙乙 l乙言う村落共同体的漁業というものは,たとえば今日も見られ

るような東南アジアや南アジアの洪水の退け時のプールにおける魚伏龍の操

作のように,老若男友が自然発生的に,自律的に行なっているものなどとは

性質を異にして,身分的l乙階層づけられた村溶社会の中でしかるべき特定個

人のリーダーシッフの下で行なわれるものであって, ζの乙とはけっしてオ

セアニア独特のものではないにしても,オセアニアにおいて,乙とに身分制

度がなお最も明確に認められるポリネシアでもかなり普遍的に見られる漁法

である。またオセアニアにおける村網漁業はリーフにおける清澄な浅水域の

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アアニアのM・ ヒ-13一

と南沙lζよる魚肢の些1患によって規定されている点は't アジア大陸側の

乙よ る濁水践の場合とは異なっているが.乙れまたオセアニア加

-の条{午ではない。しかしリーフ民おける村網漁業の広汎な実施からして

1はオセアニア的とみ位してよ|いと恩う。

U

ニア

ムと同じく .主としてー

ーしたものと考え

的独特性を示すと誌う

的性格の上i乙'.そ|の

コった,と見るべきで

1々 の近代的漁法が

分的階層的仕

したがって

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る。ζ|の乙と

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-とする共同

とる lものである。とは言え.その

の過程の中にあって伝統的英l百…

ヨ江運営への種々の移行形態が見られ

のから

るのである。,_

..

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