6
情報化時代における文字を手書きすることの意義 小竹光夫* (平成13年10月31日受理) はじめに PCを前にして原稿を作成している。持っているもの はペンでも鉛筆でもない。まして毛筆など活用の予想だ にされない。明らかにPCのキーボードのキーを叩きな がら入力を続けている。書写・書道という立場からは、 「書いているのではないのか?」という声も聞こえる。 しかし、紛れもなく「文字を打っている」のだ。 便利な時代になった。文書編集は極めて容易で、印刷 キーさえ押せば瞬時に印字されてプリンタから排出され る。いわゆる「清書機器」の域に止まらない便利な機器 を操らせる能力を、自分はどこで習得したのだろうか。 機器の操作については独学であった。しかし、適切な 文字活用や変換・決定キーを押させる主体的な自分は、 明らかに「文字を手書きしながら習得する」という体験 の中で形成されてきたと考えられる。話題となった「漢 字の『書き』よりも『読み』を優先する」という文字教 育の方向性は、この基本的な文字習得というシステムを 覆しかねない問題点を含んでいる。 しかし、 「では、書写・書道教育が文字習得に大きな 影響を与えているのか」と問いを反転すると、極めて心 細い現実が横たわっているのである。情報機器にさえ入 出力というシステムが存在する。入力面を無視して、出 力面に期待することなど論外であろう。にも関わらず、 書写・書道という分野では出力面、いわゆる「表現」に 関心が偏りがちで、定着や認識、そして活用能力という 入力の部分への焦点化が遅れがちである。美的とか整斉 とかいう表現が行き交うにも関わらず、読むという可読 性・判読性-の意識は希薄で、 「読めないのに書く」と いう学習さえ実態的に存在している。 「書道の展覧会に 行っても、殆どの作品が読めない」 ・ 「何が書いてある のか分からない」といった他者-の伝達性という部分で の欠落は指摘され続けるが、甚だしい場合は書者本人が 文字や文意を理解せずに表現していることさえある。 「何のために書くか?」との問いがある。人間の認知・ 認識と絡めた入出力という視点で考えれば、 「人間が他 者のために書く」と「人間が自己のために書く」という 2面からの答えが用意されなければなるまい。換言すれ ば、この「伝達・記録のために書く」と「定着・認識の ために書く」という表裏の関連が喪失され、 「文字を手 書きする必要がない便利な時代になった」との短絡的な 意識が蔓延するとき、人間は文字そのものを失ってしま うのではないだろうか。その意味において、 「文字を手 書きする」ことの意味を再度確認し、確実な位置付けを 与えておかねばなるまい。 (1) 「文字を手書きする」ことへの視点 「文字を手書きする」ことを考える視座をどこにお くかで、論じる方向性は大きく変化するだろう。認知・ 実験心理学という研究領域からも、数多くの手書き文 字に関する分析や考察が提示されている。しかし、そ の多くは人間の性格等に関連付ける研究であり、ドリ ルや矯正を加えることのないままの本性を対象として いる。最も文字と関わりが深いと考えられる国語科教 育の場合でも記録性が中心となり、文や文章の活用が 重視される。いずれもが、ここで言う「文字を手書き する」ことと重なるものではない。 「はじめに」でも触れているように、書写・書道教 育の場合も、現状では表現に実践・研究が傾斜しがち で、 「文字を手書きする」ことを覆い尽くす研究成果 はあげていない。しかし、総ての学習が「文字を手書 きする」ことによって支えられていることを考えれば、 書写・書道教育の視座から考えていくべきことは明白 であろう。ただし、それは「芸術科書道」とか「国語 科の言言吾事項に位置付く書写」という教育課程を基盤 とした教科目の立場ではない。幅広く、いわゆる「文 字を手書きすることに関する研究、あるいは教育の領 域」からの分析と考察としておきたい。 以下に掲げるのは、平成13年4月22日の朝日新聞朝 刊「声」の欄に掲載されていた記事である。 H.蓋しv: r申しの晶臼ははねな ければいけないことが分か りよしト!・蝣ほか山去γも朋 ペてみると、あっと単三 へW'. '!>:-v け机は鮎に間い㌍っ I"_J-・心い汀,.、 と学び撃ことで'岩T. ト也<-'-^-111心恥_・ ::i!-.C'-^'r収It? ・T:-巾・',''Iい'・・V、 」'にないので 甘。還この郎晶 が恩い出せなくて' 川蝣=&'- ' ^I"Iいi.=州ケT・ 高くくってた 平仮名護をき臓 い総数見てやれると 商学そっていたの に気付き'警一紙 に1かl量るこし'Mi Lまし先。分からな 主如永井黒子 芙鷹河内轟巾3 小・・ '器'!∵・」 の娘に坪碧のけいこ誓 mWtWM包囲配 まLIJ。T-分かまLJ すUよく考える 翻きなでっていにし はEメんやワープBで蹄 言TL干、tV,-, ?.;蝣-<;∴-J.へ・-Lii 小学樫り仙骨\蝣ォfi *兵庫教育大学学校教育学部附属実技教育研究指導センタ- (語学教育分野) 9!KE

情報化時代における文字を手書きすることの意義repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/698/1/AN...でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 情報化時代における文字を手書きすることの意義repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/698/1/AN...でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

情報化時代における文字を手書きすることの意義

小竹光夫*(平成13年10月31日受理)

はじめに

PCを前にして原稿を作成している。持っているもの

はペンでも鉛筆でもない。まして毛筆など活用の予想だ

にされない。明らかにPCのキーボードのキーを叩きな

がら入力を続けている。書写・書道という立場からは、

「書いているのではないのか?」という声も聞こえる。

しかし、紛れもなく「文字を打っている」のだ。

便利な時代になった。文書編集は極めて容易で、印刷

キーさえ押せば瞬時に印字されてプリンタから排出され

る。いわゆる「清書機器」の域に止まらない便利な機器

を操らせる能力を、自分はどこで習得したのだろうか。

機器の操作については独学であった。しかし、適切な

文字活用や変換・決定キーを押させる主体的な自分は、

明らかに「文字を手書きしながら習得する」という体験

の中で形成されてきたと考えられる。話題となった「漢

字の『書き』よりも『読み』を優先する」という文字教

育の方向性は、この基本的な文字習得というシステムを

覆しかねない問題点を含んでいる。

しかし、 「では、書写・書道教育が文字習得に大きな

影響を与えているのか」と問いを反転すると、極めて心

細い現実が横たわっているのである。情報機器にさえ入

出力というシステムが存在する。入力面を無視して、出

力面に期待することなど論外であろう。にも関わらず、

書写・書道という分野では出力面、いわゆる「表現」に

関心が偏りがちで、定着や認識、そして活用能力という

入力の部分への焦点化が遅れがちである。美的とか整斉

とかいう表現が行き交うにも関わらず、読むという可読

性・判読性-の意識は希薄で、 「読めないのに書く」と

いう学習さえ実態的に存在している。 「書道の展覧会に

行っても、殆どの作品が読めない」 ・ 「何が書いてある

のか分からない」といった他者-の伝達性という部分で

の欠落は指摘され続けるが、甚だしい場合は書者本人が

文字や文意を理解せずに表現していることさえある。

「何のために書くか?」との問いがある。人間の認知・

認識と絡めた入出力という視点で考えれば、 「人間が他

者のために書く」と「人間が自己のために書く」という

2面からの答えが用意されなければなるまい。換言すれ

ば、この「伝達・記録のために書く」と「定着・認識の

ために書く」という表裏の関連が喪失され、 「文字を手

書きする必要がない便利な時代になった」との短絡的な

意識が蔓延するとき、人間は文字そのものを失ってしま

うのではないだろうか。その意味において、 「文字を手

書きする」ことの意味を再度確認し、確実な位置付けを

与えておかねばなるまい。

(1) 「文字を手書きする」ことへの視点

「文字を手書きする」ことを考える視座をどこにお

くかで、論じる方向性は大きく変化するだろう。認知・

実験心理学という研究領域からも、数多くの手書き文

字に関する分析や考察が提示されている。しかし、そ

の多くは人間の性格等に関連付ける研究であり、ドリ

ルや矯正を加えることのないままの本性を対象として

いる。最も文字と関わりが深いと考えられる国語科教

育の場合でも記録性が中心となり、文や文章の活用が

重視される。いずれもが、ここで言う「文字を手書き

する」ことと重なるものではない。

「はじめに」でも触れているように、書写・書道教

育の場合も、現状では表現に実践・研究が傾斜しがち

で、 「文字を手書きする」ことを覆い尽くす研究成果

はあげていない。しかし、総ての学習が「文字を手書

きする」ことによって支えられていることを考えれば、

書写・書道教育の視座から考えていくべきことは明白

であろう。ただし、それは「芸術科書道」とか「国語

科の言言吾事項に位置付く書写」という教育課程を基盤

とした教科目の立場ではない。幅広く、いわゆる「文

字を手書きすることに関する研究、あるいは教育の領

域」からの分析と考察としておきたい。

以下に掲げるのは、平成13年4月22日の朝日新聞朝

刊「声」の欄に掲載されていた記事である。

H.蓋しv:

r申しの晶臼ははねな

ければいけないことが分か

りよしト!・蝣ほか山去γも朋

ペてみると、あっと単三

へW'. '!>:-v

け机は鮎に間い㌍っ

I"_J-・心い汀,.、

と学び撃ことで'岩T.

ト也<-'-^-111心恥_・

::i!-.C'-^'r収It?

・T:-巾・',''Iい'・・V、

」'にないので

甘。還この郎晶

が恩い出せなくて'

川蝣=&'- '

^I"Iいi.=州ケT・

高くくってた

平仮名護をき臓

い総数見てやれると

商学そっていたの

に気付き'警一紙

に1かl量るこし'Mi

Lまし先。分からな

主如永井黒子

芙鷹河内轟巾3 2臓)

小・・ '器'!∵・」.し;- 'iJh‥.

の娘に坪碧のけいこ誓

mWtWM包囲配

まLIJ。T-分かまLJ

すUよく考えると、メモは

翻きなでっていにし、淫

はEメんやワープBで蹄

言TL干、tV,-,

?.;蝣-<;∴-J.へ・-Lii

小学樫り仙骨\蝣ォfi

*兵庫教育大学学校教育学部附属実技教育研究指導センタ- (語学教育分野)

9!KE

Page 2: 情報化時代における文字を手書きすることの意義repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/698/1/AN...でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

「高くくってた平仮名書き順」と題された主婦の投

書を分析してみよう。全文を以下に掲げる。 (職業・

姓名は略す。下線は筆者が加えた。)

小学校に入学したばかりの娘に平仮名のけいこを

させていて、ショックを受けました。自分がまとも

に書けないのです。 「や」の筆順が思い出せなくて、

幼稚園の卒園記念にいただいた辞典を引きました。

「や」の2画日ははねなければいけないことが分

かりました。ほかの文字も調べてみると、あっと忠

うことがどんどん出てくるのです。よく考えると、

メモは書きなぐっていたし、最近はEメールやワー

プロで済ますことも多く、きちんと書いていません

でした。

小学校の勉強くらいは教えてやれると高をくくっ

ていたのに気付き、娘と一緒に-からやることにし

ました。分からなければ娘に聞いたっていいと思い

ます。きちんと学び直すことで、 「もっと勉強しと

けば」と後悔したことも、今なら取り戻せると頑張

っています。

「この保護者の意見を聞いた現場教師であるあなた

は、何と言葉を発するか。」との問いを付し、学部学

生の「初等国語」 (1年対象)及び「書写・書道特講」

(4年対象)の教材として用いた。当然のこととして、

学生の反応は「いいことに気がっきました。一生懸命

に頑張ってみましょう」という肯定派と、 「確かにそ

うですが、そこまで細かいことを気にしなくてもいい

でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

せよ、否定するにせよ、納得できる具体性が必要であ

ろう。しかし、学生たちの回答は情緒的、感覚的な域

に止まっているといってよい。

下線部「『や』の2画目ははねなければいけないこ

*ワ行の「ゐ'ゑ、ヰ、ヱ」は、歴史的仮名適いで用いる。

とが分かりました。」には、文字習得に関する重要な

ポイントが潜んでいる。前述の「漢字の『書き』より

も『読み』を優先する」との立場からの指摘は、常に

細部にわたる書写指導への批判的なものであり、その

結果として短絡的な「そんな重箱の隅をつつくような

ことを指導するから問題なのだ」・「そんな指導が、子

どもを文字嫌いにする」を生じさせている。 -保護者

の意識である「・ ・ ・なければならない」は、確かに

その側面を漂わせている。しかし、その意識の問題点

を指摘するのではなく、 「はね」の価値・意義を考え

ることが優先的な問題なのではないだろうか。意識を

問題視するのではなく「発見した価値」として位置付

け、そして「文字を手書きする」ことの意義と絡めな

がら高めていく。それこそが教師に求められている

「力量」であり「実技指導力」であろうと考えるので

ある。

周知の通り、小学校の文字指導は学習指導要領の末

尾に示される「学年別漢字配当表」 (教科書体活字)

によって行われる。つまり、単なる文字習得というだ

けでなく、字体指導という要素をもっ営みである。た

だし、 「学年別漢字配当表」という表現が示すように、

これは漢字の字体の標準形を示しているものであり、

漢字仮名交じり文の7-8割を占める仮名については

放置しているという欠落を有している。そのため小学

校教科書は、 「学年別漢字配当表」による漢字(教科

書体活字)と、それに準じた仮名によって印刷され、

児童の手元に届けられることになる。全国大学書写書

道教育学会が編集する「書写指導」においても、 「一

例」という暖味な表現がとられ、仮名の字体が提示さ

れる。 (下掲図版)

一例ではあるが、教科書体活字に準ずるものとして

例示される「や」の字形・字体を観察すると、保護者

らやまはな

ゐリ(\うみひに

たち

(う)るゆおふぬつ

ゑれ(え)め,-ねて

をろよもはのと

ヽカき

さし

・亡▼

-100-

平仮名の教科書体活字のl例

Page 3: 情報化時代における文字を手書きすることの意義repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/698/1/AN...でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

の指摘する「はね」を確認することができる。

荏: 「はね」との呼称は厳密に言うと妥当では

ない。ただし、投書内容を起点としている

ので、ここでは「はね」という呼称のまま

で論を展開する。)

ギt極論すれば、 「はね」や「は

らい」は文字を手書きする際の

「ストロークの残像」と言えよ

う。そのことの理解が確かであ

るならば、この「はね」がは

「はねなければいけない」もの

か、 「はねた方が理解しやすい」

ものかの結論は自ずと導かれるだろう。つまり、保護

者も述べているように、 「書き順が思い出せない」と

いう場合、この「はね」があることで、次の筆画への

連続性が明らかになるのである。

改めて言うまでもないが、 「文字を手書きする」と

いう行為は、字形が形成される過`程をアナログ的(線

条的)に辿ることに他ならない。デジタル的に瞬間に

文字提示が行われる活字・印字とは、明らかな差異を

見せる部分である。この筆意や書き進む過程を示す連

続性が、昨今の中心的な字体となるゴシック体活字に

は見らない。情報化が進む中、縦横の線が平均化して

情報格差が少ないゴシック体活字が多用されている。

詳しくは後掲するが、問題点は多く存在している。

ここで論じた「文字を手書きする」ことのうちで、

「書き進む」という過程を見失われ、結果としての字

形指導が優先されるようになった場合、 「ねばならな

い」という狭陰な文字学習が生じる。本項の中心となっ

た保護者の投書内容は、 「文字を書く時代」から「文

字を提示する時代」への意識変化を内在させており、

書写・書道教育という立場からも極めて興味深いもの

であろう。その時代的変化を直視しながらも、文字は

書かれることによって形成されたという事実、文字は

人間が書き続けるものという現実を押さえるとするな

らば、 「この方が連続性が分かる」 「理解しやすい」と

いう書く過程の重視が、文字指導を変化させていく切

り札になると考えるのである。

(2) 「文字を書き進む過程」への視点

書写のみならず国語科における文字指導で重視され

るのは「文字を書き進む過程」、つまり「筆順」への

視点である。筆順とは、 「文字を組み立てていく合理

的順序」と解されており、 「筆順に従えば字形も整い

やすく、文字も記憶しやすい」との要素が付加される。

しかし、学習者の中には「文字は読めればいい」と

の考えが多く潜在しており、筆順を標準化しようとす

る流れに対する抵抗感も大きい。確かに「筆順に従え

-101-

ば字形も整いやすい」とは言うが、所詮は技能・技術

の問題ではないかとの指摘もある。つまり、どのよう

な筆順で書こうとも、技能・技術があるならば字形は

整うとする立場である。この考えや立場は、あながち

誤りではない。

では、 「筆順とは何のために存在するのか」との問

いに対して、新たな意義や価値を導き出すことができ

るのだろうか。例年、学部講義「初等国語」 ・ 「書写・

書道」で行う筆順調査の中の一例を引き、筆順のもつ

意義や価値について再検証してみたい。

(A) (B)

「ヲ」の標準とされる筆順は「(B)」である。しか

し、学部生では平成4年度の2年生が3 9パーセント

の正解率であったのを除き、例年3 0パーセント前後

の正解率に止まっている。他の片仮名の「ネ」や平仮

名の「も・や・せ」にも誤答例は多いが、「ヲ」の突

出には理由があると考えられる。つまり、現行の日本

語表記が漢字仮名交じり文、厳密に言えば漢字平仮名

交じり文で書かれ、日常で使われることがない「ヲ」

は欠落を保存したまま現在にいたっているからである。

さらに筆順の誤りとして「ヲ」を扱うには、もう一つ

別の理由がある。同じ片仮名の「ネ」と誤答の過程を

比較してみよう。

ネ標準の筆順(、-7-I-、)

誤答例(、-7-、-I)

ヲ標準の筆順(----ノ)

誤答例(フ--)

「ネ」の場合、標準の筆順を辿らなくても4筆で書

かれるということに変わりはなく、単なる順の逆転と

いうことになろう。しかし、 「ヲ」の場合は標準の筆

順で書けば3筆になるものが、誤答例では2筆となる。

つまり、順の逆転というだけでなく、筆画数の差とい

う新たな問題を生じさせるのである。筆順とは「書き

進む順番(過程)」というだけではなく、 「筆画(点画)

数をカウントしている」ことに他ならない。

表音文字体系のアルファベットの場合は、使用され

る字種・字数は限定されている。しかし、表音・表意

(表語)文字を交ぜ書きする日本語においては、使用

Page 4: 情報化時代における文字を手書きすることの意義repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/698/1/AN...でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

される字種・字数の多さが活用を妨げると指摘されて

いる。そこで膨大な字種・字数を分類し、いかに効率

的に活用するかは文字活用の主たる眼目となっている

のである。膨大な字数を有する漢字の場合、特に考え

られたのが部首、画数、音訓を頼りとした検索法であ

る。先に例示した「ヲ」の筆順が、漢字検索法とどの

ようにつながるか、以下に例を示して論じる。

最も簡単な事例は、 「川」 「三」という漢字であろう。

直・曲線の差こそあれ3本の点画が明確に確認され、

いずれもが総画数3画であることに異論はあるまい。

しかし、続く字例が「山」になったとき、明らかな疑

問が生じる。視覚的に見て、 「山」は「川」の下部に

新たな「-」が加わって形成されているにも関わらず、

総画数3画から変化しないのである。便宜的に「L」

の形態となる個所を1画と位置付けたとしても、 「な

らば『口』は2画の漢字か」の指摘が待ち受けてい

る。

筆順と画数の関連によってしか、これらの矛盾の解

決と論理的説明は実現しまい。つまり、 「形態的に縦

画と横画が1点で接し合う場合、筆順として継続する

動きとなるものについては2画と数えず、 1画の転折

とする」が結論である。 「川」という漢字に線が1本

加わった「山」が3画のままであるという、漢字の非

合理性を解決する道筋でもある。この論理性は、 「文

字を手書きすること」という行為を抜きにして考える

ことはできない。さらに、本項の題目として掲げてい

る「『文字を書き進む過程』への視点」を確実なもの

にしていかない限り、得ることのできない結論であろ

うと考える。

(3)情報化時代における文字を書くことの意義

これまでの書写・書道教育が、 「表現」に傾斜しが

ちであったことは否定できない事実であろう。書写に

おいては書き伝えるといった伝達性が、書道において

は書き発表するといった自己表現性が、その学習活動

の中核を占めていた。冒頭の「はじめに」で、次のよ

うな方向性を示した。

人間の認知・認識と絡めた入出力という視点で

考えれば、 「人間が他者のために書く」と「人間

が自己のために書く」という2面からの答えが用

意されなければなるまい。

前者「人間が他者のために書く」は、既に言い古さ

れた感もあるが「伝達のため」であり、 「表現のため」

と言い換えることができよう。いわゆる重点的課題と

して書写・書道教育が重視し、実践を積み重ねてきた

部分である。

では後者の「人間が自己のために書く」という部分

への対応は、誰が、どこで、どのように行ってきたの

-102-

であろう。文字を手書きしなから習得し、記憶として

定着させ、必要に応じた自由な活用を実現する。文章

化すれば極めて当然な習得過程であるにも関わらず、

書写・書道教育においても取り組みや対応は遅れがち

であった。

手書きしながらの習得というと小学校段階で課され

る漢字練習が思い起こされようが、単なる無目的な反

復練習に陥ってしまった場合には、なんらの効果も期

待できない。ここで言う「書く」とは、ただ漫然と書

くことではないOつまり、先に述べたような書く過程

を大切にし、文字を意識しながら書くという、 「書く」

ことの必要性を唱えているのである。それらは繰り返

し論じられながらも、未だ希薄であると指摘している

のである。

かつてネアンデルタール人の子どもの骨格模型を持

ち帰った研究チームが、コンピュータ上で筋肉や神経

組織を貼り付け、最後には歩行練習を行うというプロ

ジェクト計画が報告された。コンピュータの画面上に

不安定に前後に揺れ、転倒を繰り返す人体模型が映し

出されていた。前後への揺れは重心移動の感覚を探っ

ている状況であったのだろう。試行が繰り返される中、

前傾した人体模型が転倒から逃れるかのように足を踏

み出し、それをきっかけとして歩行運動を開始した。

研究チームの「人間も最初は考えながら歩いていた」

とのコメントが添えられた。対象はネアンデルタール

人の子どもの骨格であったが、現代の幼児が最初の歩

行を始める状況を再現していたのに等しい。

我々成人した人間は、歩行の際に「次は出すのは右

足である」とか、 「右足を出したのだから、次は左足

を出すのだ」と考えているわけではない。いわば「無

意識」に歩行運動を繰り返しているわけで、同様に文

字も一々点画数を数えたりすることなく「無意識」に

書かれている。しかし、その「無意識」は、意識化し、

意識化し、意識化し尽くした後の「無意識のような状

態」が生じさせていることである。全くの無為自然な

無意識の中で、人間が文字を書くことは不可能であろ

う。その「無意識のような状態」に至るまでの、意識

的なドリルと習得を否定することはできまい。

加速度的に進行する情報化時代の中、公的な文書等

を代表的な事例として、伝達や表現という場ではワー

プロが手書きを凌ぎ始めている。個人的な文字活用で

は手書き、公的な文字活用ではワープロという二極化

する文字活用の在り方への対応は必要としても、この

傾向は肯定せざるを得ない「時流」であろう。しかし、

その傾向が進めば進むほど、文字習得での「文字を手

書きする」ことの重要性、つまり「意識的に書くこと」

「運動を伴いながら定着させること」の重要性は浮き

上がってこなければならない。

Page 5: 情報化時代における文字を手書きすることの意義repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/698/1/AN...でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

「ワープロやコンピュータを使うようになって、

漢字を度忘れすることが多い」

「漢字を活用はするが書けなくなった」

「番号をメモリーに記憶させる携帯電話を使い始

めて、相手の電話番号を覚えなくなった」

以上のような表現が日常化している現代である。文

字を手書きしながら習得するという経験が消失し、脳

裏に明確な文字像が描かれなくなった結果、人間は自

らの手で文字を再現することができなくなりつつある。

ここで言う「情報化時代における文字を書くことの意

義」とは、失われつつある明確な文字像を人間の脳裏

に再生する営みと考えてもよい。

(4) 「文字を手書きする」ことへの毛筆の効果

毛筆活用の効果については、 『学校教育学研究』第

13巻の「槽書字形指導における『しんにょう』の扱い

と基本的学習指導過程」において論を展開している。

ここでは、その論中に例示した図版2例を引用し、簡

単な視点を提示するに止める。

正念場

新庄タン-

上指の図版は、かつての阪神球団時代の新庄選手に

触れたスポーツ新聞記事の題字である。これを見た中

学生たちは、 「新庄君~」と声を発したのである。し

かし、久々に登場した新庄が三振を喫したことについ

ての記事である。正確には「新庄くそ~」と読まれな

ければならない。問題は均等な線で示されるゴシック

体活字にある。筆先が見える書き方、打ち込みが分か

る書き方ならば、線の方向性を見失うことはない。同

様の文を、毛筆体の活字で印字してみるとその差異は

判然としてくる。

正念場

新鹿クソ-

一般的には筆意という言い方もされるが、文字を構

成する点画(筆画)は数理的な直線とは違い、方向性

があり、書き進む順があるという極めてアナログ的な

ものなのである。確かに情事酎ヒであり、 IT時代では

あるが、そのデジタル的な良さは良さとして受け入れ

るとしても、日本の文字が持つアナログな部分を検証

するには、それに適した用具が必要であり、その活用

が文字習得を効率化するのである。

おわりに

近隣の都市に奇異な看板がある。 (次ページ掲載図

版)一瞬、目を疑いながらも意味照合をし、内容を読

み取っている不思議な表示である。アルファベットな

どの英語などでは考えられない表記法であるにも関わ

らず、日本語の場合は意味を重ねながら読んでしまう。

これは日本語の特性と呼ぶべきものなのだろうか。そ

れとも日本語は重要な何かを失ってしまったのだろう

か。

冗長性として処理できない暖昧さが日本語表記には

存在している。その暖昧さは、ある場合は日本語活用

を急速に進展させる柔軟さとなった。しかし、別の側

面では厳格な規則性を喪失させ、 「一体、何が正しい

のか」という問い掛けにも回答を出せない状況を生

じさせている。言語環境は多様化と拡散を始めてい

m

-103-

Page 6: 情報化時代における文字を手書きすることの意義repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/698/1/AN...でしょう。」という否定派に二分される。肯定するに

さらに卑近な例を最後に例示しよう。 DANCEM

ANと称する歌手のCDである。発売は2000年10月18

日となっている。

「漢字読めるけど書けない」と題された曲の歌詞は、

次のような内容で展開する。

読めるけどマジ漢字書けない

試してみようぜマジ疑問だ

書けない疑問だ書けない疑問だ

手紙を書こうとして漢字で

「あいさつ」って書けないことに気づいた

「えんりょ」や「ていねい」なんて字も

ぼやけてはっきり出て来ない

運転手さん「じゅうたい」って書けますか?

立ち読みの君「まんが」って書けますか?

友達と楽しくおしゃべり

あなた「けいたい」電話って書けますか?

はら

ラーメン好きの君「めん」って書けるかい?

野球好きお父さん書ける? 「二るい打」

洋服屋さん書けますか? 「そで」と「えり」

じいちゃんばあちゃん

かけるかい? 「しんせき」

創業100年のそばやさんは

「Lにせ」って書けますか?

催眠術師のあなた「さいみん」って書けますか?

銀行の方「にまんえん」って書けますか?

難しいはう

マジ漢字書けないマジ本当疑問だ

マジ漢字書けないマジ本当疑問だ

へイ!寿司職人の皆さん

いっも読んでると思うけど

湯のみに書いてある魚はいくつ書けますか?

アジイカヒラメタイコ-ダイクラ

サンマホタテアカガイアナゴクジラ

君も

当該の歌手には失礼であるが、 CDジャケットから

していわゆるサブ・カルチャーの雰囲気を漂わせる曲

である。しかし、そこで郡捻的に歌われているのは、

紛れもない情報化の中で文字が喪失されていく状況で

はないか。既にこのような時代を迎えているのである。

そのことを自覚し、文字文化をどのように保護し、守

り続けていかなければならないかを真剣に考えなけれ

ばならないのである。毛筆をかざし日本の伝統文化と

叫ぶだけでなく、また毛筆は時代に合わないと否定す

るだけでなく、総ての知と知識、用具や方法を集めて

文字言語について再検討と再検証を行わなければなら

ない時代なのである。

【参考引用文献等】

『書写指導中学校編』全国大学書写書道教育学会編

平成5年4月1日萱原書房

「漢字読めるけど書けない」日本語歌詞ダンスマン

2000年10月18日AVEX INC.

「棺書字形指導における『しんにょう』の扱いと基本的

学習指導過程」小竹光夫

『学校教育学研究』第13巻

2001年3月31日

兵庫教育大学学校教育研究センタ-

-104-