35
Instructions for use Title 德川農場發達史(一) Author(s) 林, 善茂 Citation 北海道大學 經濟學研究, 5, 73-106 Issue Date 1953 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/31001 Type bulletin (article) File Information 5_P73-106.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

Instructions for use

Title 德川農場發達史(一)

Author(s) 林, 善茂

Citation 北海道大學 經濟學研究, 5, 73-106

Issue Date 1953

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/31001

Type bulletin (article)

File Information 5_P73-106.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

Page 2: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

f患

)JI

第一

44

徳川農場の愛生

第一節士族授療と北海道開拓

第一一節大土地庭分とその性柊

第一一一節倹令の制定と北海道移伎

第二等夜接保護時代

第一一一節移住人の保護

第五節開拓使(官)の援幼

第六節移役人の尚氏業

(以下火披)

縄問機祭研究

ミf,:

(一)

三良広二3

一73-

Page 3: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農場議議史以リ

第一奪

徳川農場の摂生

第一節

士族授産と北海道開拓

度臨一一一年十月大政奉還が行われ、次いで明治二年六月には版籍奉還が行われた。その結果苔藩主は藩知事に任ぜら

れ、問時に封鵡は現米の一

O分の一に削減された。そとで藩知事はまたとれに準じて藩士の階級乞整理し家藤を改定

した。名古屋藩(富尾張謀、明治二年藩籍奉還後名古屋藩と改む)では明治一一年十一月繰制の改革を行い、開株三千

石以上の士族は総べてその一

O分の一に削減し、「其以下は二九五怯なもって最上の藤とし、損上谷下之割bL

以段々

節減」するとととし、原雄一

OO石未満五

O石以上の者はいやれも五

O怯とした。しかも改定誌はすべて一ニ斗五升入

の依を以て支給するとととした。また卒挨については明治三年五月及び二月の雨度に渡って改定を加え、一等及び二

等卒族ともすべて悶石二人扶持に統一した。

以上の如き大幅の家践の削減が士族の生活に大なる訂撃bL興えたととはいうまでもたい。そとで各落とも窮迫した

士族に授産の還を開く必要にせまられた。名古屋藩では明治ゴ一年十月雄、た返上して節目を請願する士族に封して、手

賞金を支給して苓毛一地を開墾せしめ、その身分は無給の士一族としたい内山同年十一月に主り改めて師岡山均誌の制友設け、

士族にして蹄回を欲する者は士族の身分を保持したままで領内の遁営な土地に移住蹄農させるとととし、蹄田bL

額出

でざる者には従前の藤高の高下にかかわらや、すべて現石一七石五斗(五

O俵)を支給するとととした。すなわち蹄

問者に謝して成功期間を一

O簡年と定め、内七箇年は従来の俸践を石八雨の相場で換算したものな御手賞金として一

時に支給し、残り一一一留年は従前の株高にかかわらや均娘一七石五斗を同様石八雨の相場で換算したものを別段御手設

-74 -

Page 4: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

金として併せ支給することとした。但し御手賞金千雨以上二千雨未満のものはニ箇年、一一千雨以上のものは一一一簡年に

分割支給するものとした。また御手賞金の外に、蹄田者に封して五筒年間一人一日五合の割で毎月六人扶持乞興える

とととした。但しとの現米合計五四石の石代金四一一一二雨は上の御手営金よ

b控除するものとした。なhu士族の身分を

離れて農商に蹄籍せんととを望む者に劃しても、上の規定に準じて手賞金を支給するとととした。また卒挨の鶴田希

望者にはその身分に臨じ、一冗準士族家筋五石二人分取の者には、五年間月俸一一一人口と御手賞金二六五繭ニ分及び別段

御手金一八二同一分、一冗御譜代席以下問布二人分取の者には、五年間月俸コ一人口と御手賞金一一

O九雨二分及び別段御

手賞金一八二雨一分を、それぞれ一時に支給するとととした。かようにとの制度の趣旨は一時資金の下附によって部

地の買入その他陣農の経費に充てさせ、五年間の扶持米支給によって農耕の業に習熟させようとするものであって、

昔時他の諸務に沿いて行われたととろのものとほぼ軌を一にした。

以上の如き制度によって諜はしきりに士卒の蕗閏を奨撤したので、ととに一ニ七

O飴人の詩願者を生じ、少参事白井

逸減、様少参事中川直三郎、荒川踊五左衛門が師国御用掛に任ぜられた。ととろが明治五年二月政府の都合で停止を

命ぜられ、部問中誌のものは・中止させられた。食時師国を完了したものは僅か二名にすぎや、彼等は民籍に編入され

たが

v

、大部分は均捺制以前の原礁に復せしめられた。かようにとの制度は震を結ぶに至ら歩して終ったが、鹿藩以前

にKMける士族授産の方策として注目すべきものであって、明治十年に沿ける北海道開拓も、見方によっては廃藩以前

に於て慶勝が藩知事として計聾した陣自制度の再興または延長とも見倣し得るのである。

明治四年七月の陵藩置蘇によって、家総はそのまま中央政府に引継がれたが、それは復古の功臣に下賜された賞典

藤とともに閣時歳出の三分の一乃五四分の一に及び、閣庫の大賞捨とたった。そとで政府は家職・賞品(繰の鹿止に努

力し、明治六年十二月二十七日家職奉還規則を設け、家路・賞典藤一

OO石未満の者に限り奉還友許し、その代償と

経済態研究

主ζ

-75ー

Page 5: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農相場後出抽出県川門

して永世捺は六箇年分、終身織は問簡年分友一時に下賜するとととし、その字額は現金、字額は年八分利附家総引換

公債読書で引渡した。また同時に農業牧高に騨業を欲一ずる者に封して官有林野の学慣掛下げを行った。

しかしとの規定〈家路奉還規則)も主として財政上の理由によって、八年七月には「首分の問主止」められたが、

九年八月に至り設に家路・賞典誌の全騒が行われるに至った。その結果従前の株高の多少により五年乃五一回笛年分

の秩路公債が一時に支給され、その公債は六年目より拍銭で元金が償却され、一二十倍年で全部が償却されるととにな

とれによって士族は公債所有者となったが、その利子によって生活をなし得るものは組めて少数であって、、大

部分は非常な生活難に富酉し、ために士族授産が枇合的な大問題として取上げられるに至った。

った。そ

とで政府及び府懸賞局は続々の施設乞もうけて士族の就産に努めたが、富藩主もまた「故替の情説傍観するに忍」

び守、費を割いて官民の救済に充てるものが少なくなかった。書名古屋蒋主徳川隆勝も「二百数十年来の務士族常職

をもかれ恒心あれども恒産なきものから俄かに州誌に工に商業に身をやっして老親妻子を誌はんとすれども素より器科

の迅に疎く刀剣甲胃も手濯の損失を防ぐに足らや殆んど飢餓に陥らんとするを」憂い、明治十年五高同友出して名古

庭去に銀行を創設してその利子を富士族の授産に充てることとし、家扶吉国知行に命じて名古屋去に養護織工場を興

し、また開拓使管内に拓域組業の地を求めさせた。

織工場は名古屋士挨の制女子に機織の業を皐ばせて就産の一助にする目的で、明治十年十月に名古屋久屋町一丁目

に設立された。蛍一初は鯨の税金で費用乞支えたが、十一年五月以降は年々二千闘づっ鹿勝が醸出してその資誌に充営し

閉また北海道の拓殖組業は古前知行・海部品蔵等教人が慶勝に謀って、政府の政策に不平を抱き或いは底世の道に

迷える話器士をして北謹開拓・産業奨鴎の名の下に北海道に移住させようとしたものであって、明治十年七月吉田知

行・角田弘業・佐治矯泰・片柄功作等が視察隊員として北海道に派遣された。とれが徳川農場成立のそもそもの護端

-76

Page 6: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

番多

で丸山る。

(10) (10) (9) (8) (1) (6) (5) (4) (3) (2] (1)

士阿川秀遁「士族授産の研究」

愛知際史第一一一容一一一一良

古川、前抑制金百二二五1二二六一気

愛知鯨史第一一一容一一一一貰

古川秀迭「名古原務の開制図法」ハ経済史研究一一一のご)

愛知懸史第一一一袋一一一一良

徳川家関懇一試験場徐令第一款

角間前哨彦・「腕脂振日記」

愛知懸史第一一一袋一一一一

t一一一一一頁

都築省耳目「村の創業」一一一六頁

-77-

O頁

第二部

大土地底分とその性格

前誌の如く寄名古屋藩主徳川陵勝は資本金五高闘を出して第十一関立銀行を創設し、利子の一部を以て北海道の拓

殖起業を行わんとして、明治十年七月吉悶知行等を遣わして開拓使管内に趨地役求めさせた。同年八月函館支醸の許

可を得て吏員の誘導により管内各地を巡閲するとと公よそ一一一箇月、設にでl

一アップ川の流域に趨首たる移住地のある

とと友確かめ、十月片山制助作一名を残して一行は師国し陸勝に報告しい午その時の報告指討が「開拓使交腐管内路振園

山越内村学遊架部賞況概一容であって、位置二議・地形・交通・運輸・土質・用材・商積・草木・戸数・産物言

簡単に簡保書にしたものにすぎないが、ともかくとれによって始めて移位開拓の議が決ぜられた。そとで明治十一年

経済態研究

五:J

Page 7: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川抽足場後議奥け

五月民勝の名で「士族有志ノ笠へ資金ヲ貸興シ年々若干名ヲ移住就産矯致度一一付路振園山越郡山越内村字遊業部一一一於

一ア瞭野百五十高坪立木ヲ併セ無代償下渡ノ儀」乞開拓伎に願出でた。

これよりさき、明治五年九月に土地資貸規則及び地所規則が制定され、

一人一

O高坪以上の土地蕗分は禁止されて

いた。またとの規則の制定以来未開地の賢下・貸附け等を出額ずるものが漸次増加し、大規模の開墾を企劃するもの

はいまだ司なかったが、欧米資本主義の影響による営利思想の護産に伴ない将来有望の地域乞占有して他日の奇利を得

んとするものが少なくなく、ために営見は大土地底分について厳重なる監閥を怠ら喝なかった。黒岡長官は法の桂げら

れざるを散知していたが、会道関殻の勢いが飴りにも綬漫で焦燥していた際であったため、制限外の地積なるにもか

かわらや、特別の詮義により開拓伎の拓地瀬氏の本旨にも趨し共の方法も確震なるものと見倣して、麗勝の闘を許し

がv

但し土地は鹿勝に般に下渡されるものにすぎで地券は例規に従い年々成功検査の上移住人各自に附興されるも

のとされ、土地制度上後の図体移民に封すると同様の取扱がなされた。従って形式上はともかくとして賓質的には前

記の規加に違反するものではなかった。しかしとれは北海道にKM

ける大土地底分の鳴矢をなしたものであって、とれ

を契機として蕗分商積は一時に激増し、士族授産を目的とする諸国体に封して、大商積の土地の貸付または賀下が盛

に行われるに至った。

川農村更生協合「北海道調査報品目」一七支

t一七頁

同協開拓使第一一一期報告書

同新撰北海道奥第一一一巻一一一一一二支

出制同省一ニ一一二一1一一一一ユ一一二兵

凶「御使合戦地之内御下波師側」(徳川林政史研究所キ織の原本に擦る)

。。ヴ

4

Page 8: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

(7)

新撰北海道史第一一一巻

三一一一一一三一一一一一一一一頁

第一一一節

僚令の制定と北海道移住

明治十一年六月土地下渡の許可によって計謹はいよいよ具体化され、同月用水開墾・治水堤防・新道修築・橋渠架

設・渡航運誌に闘し、官費による施設を開拓使に願出るとともに、同伎の許可を得て徳川家開墾試験場僚令を制定し、

移住の方法、着手の限序等について詳細たる規定を設けた。

次いで士口組知行等は第一回の士族移民の募集に取掛ったが、首時は北海道を蝦夷の地と稿し、熊狼俳細ずる寒気酷

烈なる未開地で到底普通人の生活するととのできぬ所とのみ信じていた時代であったため、容易に臆募者を得るとと

は出来十、彼等の苦心には荒々合らぬものがあった。明治十一年二月二十七日間の吉田知行の書簡には「陳れば入蘇

後穆位有志者に商談候共未内約取結候場合には立至り不中、寄年牡丹亭へ集合の建中は一員も出頭無之右等は全く一

時の軽瓢論にて北海道を境基の地と定め断乎顧後の念友結ち移頓ずる等の由民商目論に至りては畏縮の体と御一笑一月被

候:::到底論容は多く泊予に粟乞摺むような奇策のみにで恕難を甘じ永遠の目的を立つるなど着賞論には閉口の姿な

り一再々」と記され、また片柄助作より吉田知仔え諮った書簡にも「大阪の蓬の御乎隔は迫々御通知致被下候通り南端

充分の御都合に有之候蕗結尾に到り肝心の士族臆募者無之夫れが語障蕗候とは買に以て切鴎に不堪義に御座候、然し

共の後向設論有之候義と被存候如何の景況に運び候や不堪馳想侯何分にも来書の如く角田弟彦さへ未決着にては他人

の義は幌ぞ難からんと御察中上侯:::高一陸幕の人員極僅少に候はピ是志御謹力の義も無鋒義御廃止より到し方有之

間敷様にも被察焼、如何御取組めに相成侯はど可否共主ab

御誌を待つ〕とあって、その場に臨んで畏縮する者が多く、

臨募者が少ないために折角の計義一の陵止ナらが気遣われた程であった。

経疎開象研究

五:

-79 -

Page 9: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農相場措院議・見

H

吉田知行等が尾張で移民の募集に努力していた頃、北海道に居残った片柄助作はその首時開拓使函館支鹿に在勤し

ていた尾張の人吉田義方と協力して移住人を迎える準備に従事し、出越内村副戸長調山浩子の斡旋によって移住人の

家屋及び板戴等建築の設計、及び用材買牧.工壬J

移位に関する一二…切切の一事祭務は名古屋毘奥山町の徳川家新邸を一時移位一事苓務耕理所とし、徳川家によって選任された委

員が管理底分した。移住志願者は依令及び委員の命令に違反せざる旨の誓約書を徳川家に発出したる後、貫民替港籍

闘を愛知牒一憶に出してその許可友受けた。

明治十一年七月二十七日先遣隊として吉田知行等九名がまや入植し匂、道路の開撃・家屋一政蔵等の建築を行い

家一五椋、堅持板賦一棟、作小屋二椋を落事、移住人入植の諸準備をたし、十月六日移住人の一閣は開拓使汽

舶玄武丸にて東京品川を出護し、九日函館え到着、十一日午後開拓使汽酷ケプ口ン丸にて同地役出帆し、十二日午後

遊業部に到着した。なた一部の移住人はそれより約一箇月遅れて十一月八日現地に弼若し、都合第一回移住人八二人

(家族移民一五戸、満身移民一

O名)の入棋をみるに至り、ととに北海道開拓の計書一が始めて質現せられ、徳川農場

の前身である徳川家開墾試験場の殻生をみたのでるる。

fヘ居

-80 -

(6) (5) (4) (3) (2) (1)

「地所御波方御願品賞、円良資御施設願並略錦、係例議施行方伺書」(徳川林政史研究所々臓)

農村現金協合「北海道調査報告」一七一良

徳川家街墾試験揚篠令、第五卒渡航及家物迩混等の順序を間的にす、

航の乎瞬間きが詳紛に規定されている。

(第三五款乃至第五八款)には笈麗容出品籍顧の雛形その他波

Page 10: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

(9) (8) (7)

大車両日出生時側、八時一古都土史年表

明治十一年以降統計表ハ徳川開墾揚)

大島、前相拍年表第

二章

麗接保護時代

第一部

ゴ二

:l-t主

さきに下渡乞許可された遊築部一五

O高坪の土地の中、砂繭部野一二四一角五、四

OO徐坪は明治十一年八月に割渡が

行われたが、「迩柴部川北五十一角坪之義」は「野草繁茂充分之検閥難行局一一付」狛議が願われ、翌十二年五月に改め

て「地所御割渡之俗頗」が出され、二五高田、五六八坪飴の割渡が行われた。また明治十四年六月には更に、最初制

渡された一五

O高坪の地続きに於て、凡そ一一一一

O高坪の土地左前例に準じて下波の儀が、慶勝の嗣子義語の名によっ

て出一蹴され、同年十一月開拓伎の許可を得叩その結果関墾地の商秘は砂前部野一割波地二三八一雨八、六一

O坪、鷲の

巣割波地七九高田、二六六呼を合せて、一一二八一尚一一、八七六坪に建じた。

とれらの土地は既誌の如く成懇の上はすべて移住人に下付される約束で割波されたものであって、道路・防風林・

民萩館の敷地等乞除いて砲は蹴ね移住人に割蛍られた。その面積は徳川家間墾試験場僚令に「耕宅地一戸ニ付一斉坪

ヲ無代慎一一一ア給ス」と規定され、また開拓使の割渡報告にも「各戸一一凡五千坪宛磁調一戸一一角坪ヅツ観渡筈之底」と

あって、設初は一高坪bL強定していたらしいが、賢一際は「一戸賞リ登高五千坪ノ見込デ割渡」された。但し割波面詰

は必やしも正確にこ雨五、

000坪と限定されたわけでなく、地域の模様によって多少の増減があり、また満身移住

者に艶しては開娘一一奨関上商積乞限らやに開墾させ、成娘一一面積は制限外と躍もそのまま観渡したとともあった。かくし

経務総ザ研究

3i

-81ー

Page 11: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農場後諮市民け

て明治十一年から十四年までに関税品の分一二一雨入、九四

O坪(砂離部割波地の内)については、年々開拓伎に成墾面

積の届出がなされ、それにより在に移住人え地券の交付が行われた。しかるにその後成部一面積を平く届出るととは地

租の納入上などからいって不利なる事賓が認められるに至ったので、十五年以後は年々の届出は中止されがげ

なゐ以上とは別に徳川氏個人の事業として、明治十四年八月に牧牛枇設立のために東京府士族鈴木市一一永・井上喬、

愛知懸士族小瀬新太郎・間島各選とともに、茅部郡落部村宇野田迫に沿いて草莱地五

O高坪の掛下左受け、また十六

年九月には義躍の名義で開準合祉より荒蕪地一一一五高七、二九六坪(官臨より開港合祉え割渡中の土地)を金五三五回

で譲渡乞受けた。

(10) (9) (8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1)

新機…北海道史第一一一容一一一五五官民

明治十一年、市議取裁文移銭ハ徳川林政史研究所存織)

大島日出生稿、八雲郷土史年表

八雲村徳川家関懇一地沿革

徳川農場、貸地に闘する書類(八雲産業株式品自社所戴)

同右

徳川農場婆覧

徳川農相場、部民地に開削する来日類

同右

自明治十一年至同二十年指令緩(徳川家開墾試験場)

~82 -

庁ロ・ロ

p

h

円十訓↑一bsHU

t見

移住人の入植は前惑の如く明治十一年十月及び十一月に家族移民一五戸、濁身移民一

O名の移住をみたのが最初で

Page 12: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

ある。十月十二日到着の分ぽ吉田知一・角田弘業・角田弟彦・太田疋定悉・山田信勝・鈴木霊信・水野忠臨・高木任

邦・永田健・志水久三郎・吉田八郎(以上家族)、天野熊三郎・村上嘉十郎・都築田鶴松・岡野頼隆・井上文治・平川

鏑一ニ部・植松稲太(以上満身〉の一一一家族移民・七猫身移民であり、十一月八日軒並泊の分は服部疋競・土岐冬麿・佐

治矯泰(以上家族)、赤尾政敏・高橋光治・村瀬小金次(以上濁身〉の一エ家族移民・三満身移民であつがが移住の時期

が沿くれてすでに積品一世間に入っていたため、第二回移住人のための家屋の建築は明年の零泊を待って着手するととと

なった。

かくして明治十二年五月より同年七月までに、農家二ハ棟、既一一棟、板蔵一棟、事校一様推すを建築落丸山、翌八月

一日に歪り第二回移住人九

O入(家族移民一四戸・満身移民間名)の移住をみた。その氏名は次の通りである。同ル野

頼・雲間景網・波多野太郎・今村燈八・原武雄・吉田忠賓・都築貞詩・平川昌雄・中西要賢・小泉幸年・森宮崇・加

藤松,次郎・岳部徳白・吉田政一(以上家族〉、樫野弘道・川口良武・飯沼勘十郎・西村栴六(以上猫身)。

続いて一年九がいて明治十四年五月に第一一一回移住人八

O能人〈家族移民一四戸・満身移民七名〉の移住をみた。その

氏名は弐の諮りである。遠山典闘・川口良長・辻村勘治・林友則・近藤信章・一色一一一四郎・内堀龍扱・山吹疋精・海

部昂滅・杉立正憲・一佐久間善太郎・飯消守・自・若杉茂親・小寺殻(以上家競)、林吉之丞・及川鍬吉・今村文次郎・榊

原仲・守田口吉・片桐端蹴・回世井武慢(以上満身〉。

以上は基幹移民の移住経過であるが、とれによって錦戸数四七、人口二六

O徐、開墾反別六八町歩を算ナるに室内、

明治十四年七月には遊楽部・黒岩の雨字は山越内村から分離濁立、八雲村の新立をみるに至った。

明治十五年五月には移住人補扶として更に家族移民一戸、満身移民六名の移住をみるに至った。その氏名は共の語

りである。市岡金三郎ハ家族)、石原虎一ニ郎・関門之丞・田島作吉・小菅柳三郎・中川庄吾・津井次郎(以上現身)。し

経瞭明感研究

- 83-

Page 13: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農場後議市民

uv

かるに同年病気その他の事踏により、高木任邦・水野忠順(以上第一回家族)、原武雄及び加藤松一一一郎(第二国家候)等

四戸の退場乞み、更に明治十七年には山田信勝(第一回家族)、吉田政一(第二国家族)、内堀龍眠・若杉師太郎(以上

第三国家族)等四戸の退場をみるに至った。

喝なtN

猫身移民は首初主として海部品臓が郷里和合村の塾で教えていた二ハ、七歳以上一一

O歳前後の満身青年よりな

った的、史的十三年一一百「批年招募規則」を設けて有震の青年主恭り、牛馬の飼育・農業機械の取扱に従事させた可

とれは洋式農具の使用によって開墾の進捗をはからんとしたものであるが、計聾諮りに目的を謹するととが出来なか

ったため、明治十六年には駿止され批年輩は解雇されるに至った。

因みに明治十一年から十七年までに至る場内の戸数並びに人口の控還をみると戎の通りであって、いやれも多少の

起伏はあるが糊して若笠な増加佐しめしているというととが出来る。

入戸&f-叩

口霊立川

明治十一年

一五戸

八一一

同十一一年

一一一一一一

一六八

同十四年

間七

一一六一一一

同十五年

四五

一一六一

同十一一一年

一一一五一八O

。)(7) (6) (5) (4) (3) (2.) (1)

明治十一年中詩歌裁文移一線及び八雲村徳川出家協割強地沿革

遊繁郎関恕一一駅況一箆表(北海道開拓雑誌一一一波)

新撰北海道史第一一一容一一一五六頁

八雲村徳川家肉祭地沿革

同右

明治十一年以降統計表(徳川開墾相場〉

大島日出生稿、八雲郷土史年表

八雲村徳川家関劇祭地沿革

同十六年

間八

二四回

同十七年

四六

一二一一四

-84 -

Page 14: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

往時 (10) (紛

抑制築省耳目「村の創業」

社何十招募規則

八雲村徳川家関禁制哨沿革・

四一一良

第一ニ節

移住人の保護

金子大書記官が「北海道一ニ勝巡視復命者」の別冊七議の第七項移民の吠態に九引いて指摘しているように、士族移民

の多くが失敗に臨したにもかかわらや、徳川家間墾試験場が前越の如く多少の龍伏はあるにしてもともかく殻展の一

詮をたどったのは、琵藩主である徳川家の大なる保護があったためである。徳川家ば第十一因立銀行に投資した五一両

国の純袋の中から

J

一一…千却を開墾常額費として一

0年間年々ふす(出する外、更に朗建常期として二国内六千闘を第三年目よ

り向う八年聞に徳川家歳入中から支出して移民の保護に充勺若党・家作料・米菜料・農兵種苗費等の貸輿を行うと

ともに、物口問責民・運輸・醸悲・備荒貯蓄・教育・欝療・勧業等に関する諸施設を設けた。

放費は一戸に付一五歳以上五人と見積り、四日市港より東京までの来蹄賃金一一一髄〈但し定債のニ制削減、一人に付

金二国間

O銭宛)、東京より函館までの来枯賃金二二回五

O銭(但し定債の二割減、一人に付金四同五

O銭宛)、また

家物一戸に付八

O銭(一日八立方を一銭とす)と見積り、四日市港より東京までの運賃金四国四八銭(但し定慌O二割

減、一銭に付金五銭六毘宛)、東京より函館までの運賃金五回三二銭(但し完慣の五割減、一銭に付金六銭六犀五毛宛)

乞合して金四四凶五

O銭を渡航設定額として支給する外、荷物の荷浩史及び線地より四日市港迄、函館より移性地迄

の連法に関する諸経費、螺地より四日市議迄の一一米描賃及び主食政能料、東京函館上陸中宿泊寝食の諸経費及び画館よ

り移住地までの主食技話料、京京函館、森村等に公ける荷物戴入・戴出人足費を併ぜて金一五

O闘の強算で移住雑費

緩務議研究

5‘

-85 -

Page 15: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

として金融 緩

曇 2紳事済溌し主義

た5史。(寸

家作料は金二一一

O闘で、町民建具付の家屋を各戸に一戸宛現物支給し、破損修繕は自排とし模様替は元形を失わざる

限りは随意E

とじがo

農具代は一戸に付金四間四五銭で、貴地諮設の口聞を現物支給し、破損修繕及び他品を必要とする場合はすべて自排

とした。また韓首費は金一回二五銭の代慌で桑百五

OO本(一

O本金二銭五原の計算)を現物支給する外、諾粧物親

等を委員の手で一括購入して移住んに分配した。

飯米料は一戸に付人口の多少にかかわらや、老幼男女を平均して丁位五人を臼安とし、

一人一日玄米五合宛の計算

で、初年度飯米本額九石一斗ニ升五A口の代償金三六回五

O銭ハ一石の代金四間)、ニ年目今額四石五斗六升二A口五勾の

代償金一八回一一五銭、一二年目四分の一樹二石二斗八升一合二守五才の代俄金九回一二銭五陸、合せて金六一一…悶八七銭

五霞の貸輿を行うとととし、満三年間越減法友以て月々現物を支給した山また菜料も同様一一戸に付人口の多少にかか

わらや丁批五人を目安として、一人一門付金二銭宛の計算で、初年度本額金一一一六回五

O銭、二年目宇部械金一八開二五銭、

一一一年目四分の一一期金九四一二銭五底、合ぜて六三国八七銭五厘の貸輿を行うとととし、潟三年間遮減法友以て月々中市(

給した。更に家族の賢員数が了批五人の見積員数乞越えて飯米菜料に不足をつげる場合には、請願によって蓄積金穀

の内から無利足で必要額を貸興じ、満五年以内に償還せしめるとととした。

かくして移住人一戸に付初年度は家屋建築費・技費・農具積苗費・米菜料を合せて二五一一一回、二年日米菜料コ一六回

五O銭、一一平日米菜料一八間二五銭、合計一一一

O七回七五銭の貸興が行わ町五年目より全額を六期に分けて一期を五

年とし、都合一ニ

0年間に無利見で、年々四季に分割償却させるとととした。すなわち第一期の五筒年間には一荷年五

一一李}回二五銭として金二五邸、第二期には一箇年七回、一季一回七五銭として金一一一五回、第一一一期には一筒年九

Ull

-86-

Page 16: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

ml

一季二国二五銭として金四五陣、第四期には一筒年一一闘

一季二回七五銭として金五五回、第五期には一倍年

一一苧二一国二五銭として金六五回、第六朗には一節年一六回五五銭、

七五銭の償却を議定した。

一季四国一一一一銭七毘五毛として金八二関

一三印刷、

以上は家族移民に封する資金の貸興であるが、濁身移民に封してほとれと異なる取扱がなされたのはいうまでもな

い。招寡規則によると、濁身移民の設費は愛知から東京までの設費・荷物運賃とも一人に付金一五関、函時から開墾

地までの技費一人に付一凶六

O銭、函館滞在費(一一一日間〉一間五

O銭、計一八回一

O銭を支給したが、東京から函館ま

での航海費は開拓使明治ナ二年甲第関税成規によって波航するため別に支給ぜや、また函館から開墾地までの荷物運

賃は賢費を齢済するとととした。な必家族移民と同時に出設する場合は開拓使明治十二年早第四税成規によって、四

日市搭から開娘一一一地まで在接波航するため、名古屋から四日市までの按費のみを支給し、他は一切省略しい付。家屋建築

費・米菜料等の支給は一切行われなかったが、その代りに四人乃至八人に封じて家屋一戸の貸渡が行われ、また五箇

年間は月給六回五

O銭乃至一

O剖乞本人の勉強不勉強に艇とて支給した。な必五筒年の満期をすぎて家族を迎え一戸

立乞願う者に封しては、相営の手営金乞支給する外、家屋・土地・農兵・米菜料等の貸興、延納がすべて家族移民と

同様の篠件で行われた。また移住人の子弟厄介で去を迎えて分家せんとする者に封じては、普通の移住人同様耕地の

制渡をなし、珠算の許す範関内に沿いて家屋建築費は字額、農兵枠(は同額乞移住人と同様の依件で貸興した。

以上の外に規定外の安金の貸出肌ハまたは給興もしばしば行われた。例えば明治十五年は凶作であったため翌十六年に

至り一反歩につき除草出商賞二入学、すなわち金七五銭づっを各自の作付反別に感じて一般に貸興した

G

また十五年

六月には窓口虫が殻生し移住人がその撲殺に努めたため、徳川家より慰問労金として金五

O国が下賜された。更に十六年

九月には柏町虫撲殺蝦定が設けられ、盤虫…簡に付ニ厘づっで買上が行われた。名目上はともかくとしてーとれらはい

経済協?研究

万平

-87 -

Page 17: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農相場後抽出史け

みyれも移住人に封する護金上の保護に外たらなかった。

弐に移住人に給輿ナる飯米等の儲蓄並ぴに生産物の国置の用に供ナるため、板蹴一棟(割問×八開)を金二五六同

(一坪に付八闘の見積〉の珠算で建築し、知…代慌で下附して一向の共有とした。とれば単なる倉時ではなく、移住人

に必要な物笠の配給と生産物の販交のための共同機関として事務所を存じ、満身移民の青年が数入居住していた。長

共松市等の生産資材並びに米堕・味噌・醤油・燈油・酒等の日開川口問は委員に沿いて相場低下搬運便宜の時佐川川って一

千に買入れ、板滅に貯減じて移住人各自に掛下げた。また縞糸・榔苧・穀物その他の販貨物も、委員に必いて函館・

京京中川寸の相場わす一問合せ品低の時宜を計り、或いは官用に供ずるものは買上注額う等、すべて一千に取纏めてい取離に出

置き、雨後賢鳴いをたし判。かように板減は営時間整地に布行ける唯一の物務一流通機関として、移住人の生活にとって

不可快のものであった。

また明治十四年には函館遊梁部聞に沿ける物資の輪誌に専用するため西洋形帆舶一隻彰一新迭し、名を八一日常丸と名付

〔例A

J

けて、移住人一同の用に供した。(その究額一、八七三国一五銭、七月二十九日進水式が行われた)。更に明治十七年

一月には事務所の底的同で味噌笹川出の製警官一開業し、移住人の必要とする味笠誌の自給をはかった〆

また「天災関荒其他非常ノ難一一松リ臨時需求ヲ燐スル必要いから金設蓄訟の訟を設け、初年は月々給興菜料の五

O

分の一ナ、なわち一戸一向月六銭として金七二銭、二年日は同じく二五分の一として金七二銭、都合二筒年間に一回岡

田銭を各戸より牒出、貯蓄せしめた。との積金は委員が保管して、一

OO凶に建じた時にはその都度一一同協議の上貸

出の方法佐立てるとととし、一一平日以降はその時に豆、り一同の協議の上で更に方法を改定するとととし九o

明治十二年六月には開墾費の一部をさいて八雲小墜校を設立し、移住人の子弟bL牧容して授業を開始した。移住人

〈何コ

植松柏太が教鞭をとり、専ら翠…陶りととに任じた。とれば八雲村に沿げる教育施設の濫腸をなした。更に明治十七年

-88 -

Page 18: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

九月には公立八雲病院を設立して、移住人は勿論一般患者の治療ぞ掌らせたが、その建物はじめ一切の経費は開墾費

T4り交掛させい~。とれも八雲村に沿ける皆療施設の時矢をたした。

最後に勧業施設として、明治十一年十一月に長閑副主奨闘のため般製綿所を設け、教師一名乞招牌して移住人一同

をしてその法七色体習せしめ、翌十二年八月には製隣教師一名の汲遣を官に請い、移住人をしてその製治方法を墜ばせ、

さらに明治十四年八月には腕製議所一棟設建泣した。また明治十一年十二月には移住人の市中より四名の青年(岡野頼

隆・横井田鶴松・平川勇記・井上文治)役選んで開拓使七重勧業試験場に抵遣し、現業生として牛馬の取扱い、西洋

農具の使用、馬具の製作等主目習さぜ

ho

以上はとの時代に沿ける保護施設の震なるものであるが、そのために支泊された累年。開型経費は戎の通りであっ

百J

合計一一一角九、六二

O同一一一一一一銭三思という豆領に建ずる。

一一 89-一

年次

同十周年

同十七年

同十五年

芳 明文 治子四十

交-~年

同十二年

同十一一一年

同十六年

路線一一綬費

一一一一一一、八一一一八ふん八八

一一品、一品五九・九間一

♂一一‘0七一品・五五人

八句同一一一六・一品一七

一一一寸五五九・九一一一O

九二七五・四一七

倒的 (6)(5) (4) (3) (2) (1)

組問令、第四款・第七O款及七一款

係令、第五一一一款

俊令、第五六款

篠令、第五九款

係令、第六一款

除令、第六ご款

的問令、第六四款

後令、第六七款

経府側象研究

土台:

Page 19: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農場部世議史同

側(301掛鍋凶側担問凶 [23)122)ω 腕 制 制 御 (ls)(15) (14) (1訪(12)凶倒的

係令、第六八款

係令、第七一一一款

係令、第七七款

招募規則、第四位附

招募規則、第六僚

制約募規則、第九位問

招募規刻、第七位限

移住人子弟分家規則問、第一位制・第二係・第間後

八雲村徳川家間関懇地獄卒

向右

柏阻虫銃殺仮定

係令、第一一一関款

都築省一品同「村の創業」一一一七一具

係令、第一一一一款

係令、第一一一二款

大島鍛稿、徳川農場

八雲村徳川家開墾地肌佃滋・

係令、第七八款乃至八

O款

八雲村徳川家関繁一地肌開幕

徳川農相場要資ハ衛生の項)

八品目町村徳川家関懇一地沿卒

同右

附お防波経費甲南年表

- 90ー

Page 20: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

第四部

一方では移性人に謝して践る最重なる統制が行われた。委員の選任、伍初の編成、替業の制限、移動の禁止、移性

人の賞罰、話、壬の巡税等はいやれも移住人統制のための鹿置に外ならない。

徳川家は移住人を総括指掠し一一切の事務を管理底分させるために委員を選任したが、委員は開墾試験をはじめ士族

移住のととに五るまで一切の事務乞撚営して、徳川家に封し直接成径の資に拒じたo

委員は二人左足員とし、俊令内

の事務は一切二人の協議を以て専決施行する様隈をあたえられ、保令に掲載せざる臨時の事件護生の際には徳川家の

決を仰いで施行するを原賠としたが、火念の際には施行後上申するととが許された。また委員は二人を究員とするが、

事務閑静なるときは一人乞置き、また多端に渉るときは偶の上定員外の臨時楠助を置くととができいや(営契一言は

吉田知行一名で、角田弘業・服部E綾の雨名が委員楠助に任ぜられた。)委員の職務の主なるものは「飯米菜料ヲ給

興シ及製産輸出等ノ事ヲ訂リ且相場ト搬運ノ促ヲ尉リ需用品ヲ一時一一購入シテ資下グヲナス等専一フ移住人使盆ノ方法

ヲ設ケテ賢施」するととにあったが、外に「移住人一一瀬惰放抱一及勤勉抜群ノモノアルトキハ事蹟ア詳記シテ具紙」し、

また「毎月末一一就産管業及諸業施設ノ駅況其他細大ノ事ヲ蒐輯シテ家令へ通報」する義務があった。委員は報酬とし

て月俸七五銭を給せられ、また職掌上の用務があって各地え技行する時は一

O恩諒一門付金一同宛、滞留は一日金一ニ

O

銭宛bL給せられ、いやれも同一警貨の中から支出されか勺な沿委員が職掌上の用務のため他方え出張した場合には行程

の遠近を問わ歩専決奉行を許されたが、必やその事由を詳細に具巾し喝なければならなかった。

委員による移住人統制の下部組織として伍紹の編成が行われ、組教に感じ投票k以て伍長を選任して、各伍の取締

にあたらぜた。伍長の任期は満一箇年とし、期限が満つるやさらに投票によって改惑させた。もし投票が同教の場合

級機感研究

ミfi

-91-

Page 21: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農相場畿地時市民け

には委員が選定し、公選されたものは智治するととが出来なかっ市伍長の任務は「各伍ヲ警戒シテ士一族ノ本分ヲ守

リ休商ア穣ス等ノ単勤」友なからしめ、っ公布官令ア各戸一一設一不了知セシメ及委員ノ命令ヲ惇ヘテ遁守履行」せしめ

る外、「各伍ヲシ一ア一和親睦ナ一ブシメ家政ノ大事アル一一営一アハ官一意一一協議ヲ議シ又ハ委員ユHA(

玖シテ指揮ヲ乞」い、

また「各組ノ管業ア勤奨替勘シテ勤鵠ア委員一一目先般」ずる義務があった。

移住人は保令郷約乞選守し、委員の命令に服従するはもとより、替業・販頁・貸借・移動・同労働・口問符等に闘して

多くり制限が加えられ、港反者は「八雲村間整地尚人口罰則」によって底罰された。

ト芸誌トヲ以テ恒産」とし、

「恒産目一従事シ向ホ能力アル一一

偉業に関しては「各・日随意ノ替業ヲ許サズ、必ズ

於一アハ各自随意ノ替業アナス一事勝手」であるが、しかしその場合でも「農業・養料品・製腕・牧者一一回スルヱ

ハ日,》

ノ外怒

「委員ノ許可ナク惑一一商工

(悶,v

シ再犯品及ベパ退場一一蕗」せられた。

(バ川》

また農産物等の販買に闘しでは「牧礎物ハ必ズ板減ヲ経テ嬬買スルコト」とし、

-92-

「牧荏物品ヲ斡頁及ピ交換ヲ矯ス

者t

一一は「白剤投五日間一一虎シ該代憤ア板蔵へ牧納シ旦共罪ヲ戸毎日一謝セシメ芳一一…犯ニ及ベパ退場一一庭」ぜられた。

ちろん「野菜日用ノ刑判鵠ハ此限」ではなかった。)

貸借については「伎長ノ認可ア経ズシテ五時己上ノ金穀ヲ貸借」するととは禁ぜられ、違反者は「同市役二日間一一鹿

シ、五犯一一及ベパ五日間一一蕗」せられた。また年賦金の返約未済市中は貸借に際して土地及び家屋を抵営とすることは

許されなかった。(土地及び家屋は年賦金の抵蛍に議定されていたから、営然の措置である。)

移動については、年賦金の返納米湾中は「故ナクシニノ梓籍地移スル事」は禁ぜられた。但し未済中でも「家長死亡

シテ相続相成リ難キカ又ハ'笠一一不得止事故一一依リ復籍他移ヲ乞ブモノアル一一営リ公論ノ詳ス所トナルトキハ商議ノ上

Page 22: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

M

J

V

A

十日〉

共乞一フ許」した。また一治以上の放行は必十「伍長一一事故ア具陳シ委員ノ許可ヲ符テ出後」しなければならや、無屈

で場外に宿泊し或いは場外の者を宿泊させた場合には、初犯は許されるが「再犯以上部役一日間一一底シ、五犯一一及べ

戸羽》

パ罰役一一一日間一一応」せられた。

第働に闘しでは「総一時放惑一一シテ委員伍長ノ訓戒ヲ用ヒズ播積秋牧ノ期ヲ惣ル者」は「罰役一一一日間ユ底シ四犯一一及

ベパ退場エ鹿戸一ととと…円、また「墾成地ヲ荒蕪シ不毛一一路セシムル者」は「罰役一一一日間一一庭シ再犯一一及ベパ退場一一

虎」するとととした。

最後に口問行に闘しでは「誹諒議題ヲ震シ他人ノ名響ヲ段損スル者」は罰役一一一日間に廃したる土木人に謝罪をさせ、

「問犯一一及ベパ市磁場」せし叫ん、「醐沼暴行ア鴛シ他人一一妨害ヲ興ル者」も持続「目前役三日間一一虎シ四犯一一及ベパ退場」

せしめがまた「意義減シ醜体長ムルきは直ちに退場に庭せら料、「鴎憲一一抵鰯シ一場柴容一一関スルアルき

はその桂度如何によって罰校五日以上九五退場に鹿せられ説。な沿戸主が「端情放逸一一シテ委員伍長ノ訓戒ヲ用ヒザ

-93 -

ルカ又ハ除族ニ該ル罪一ブ犯シ一家難立行場合」には「各伍協議ノ上家族ノ所望一一随ヒ智義子又ハ栢組人ヲ立ツルカ或

ハ総代理人ヲ撰シテ該家ヲ維持」せしめるとととした。また満身務民が「不品行或ハ怠惰一一シテ委員ノ設論指揮ヲ用

ヒザル」場合は、扶費千円めを給興する規定の年限に惑するものであっても、技究を給せやに復籍或いは解職させ、ま

たは規程の年践を延長したが、反封に「抜群ノ勉強非常ノ勲功等有シ者」は露出家え申一開示して賞金乞奥え、或いは前

記の宏氏乞短縮しいmd

最後に移住人の統制のために直接徳川家の設主または代理がしばしば来場嗣察した。明治十二年八月一日腔勝の嗣

子義躍が始めて来場して初年以来の開梨一一の笠況を樹祭し、委員吉国知行を通じて移住人一一同え「後米関懇ノ功ヲ奏ス

ルハ一一一移住人ノ勉強一一アリ、若シ不勉強一一シテ此ノ事業ア設一フパニ笑ヲ天下エ取ルノミナラズ本道ノ進歩ヲ開ク

経済議研究

支局

Page 23: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農場溌越市況は川

ベキ次第ナレパ公ニモ飽迄御翠力被下忠夜一一付一同能ク共ノ意ヲ体シ此ノ上一驚ノ勉陣ア一アンコトヲ望ム」旨を口建

し料。また明治十四年八月十五日には一忠義艇が来場観察し、尽二一一日まで滞在の上、札幌に向って出穫し切さら

に明治町γ七年六月には家令吉田知行が開墾一地巡回のため来場、二二日まで滞在し

ho

なふぷ…一一

O年賦金の返済以外に特に移住人の負拾というものは司なかったが、富主の恩窓に報いるために明治十二年以

(後大・小一息合わせて五升宛に務一更され封。)

来持年移住人各戸より大小一息二升宛取集めて東京の徳川家え献上した。

出版印令、第五款

間同右、第一九款

同日間中羽、第一一O款

川間同右、第一一一一款

回同宕、第一一一一一款

制問問右、第二関款

仰向右、第一一一五款

樹同右、第二六款

倒問中相、第一一一一款

腕同右、第一四款

凶同宕、第二七款

d円d

J

W

μF河川J

MW

伺咋制が

川州八雲村悶貌一一地巾叩令総則、第八係

同新撰北海道史第一一一袋一一一五七百H

伺巾合初則、第四係

側同右、第一一俊

-94-

Page 24: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

出倒制御船)凶I(28)錦繍踊1.24)(23) (22)協働側樹制

篠令、第一五款

問右、第一六款

問窓、第一七款

欄制約

市中

A同割問附則¥第一篠

問問中初、第七擦

O篠

問中品、策六銭

問右、第一一一銭

同省、第一一一一篠

明相官帯規則、第一八僚

八雲村議川家隠懇一地Mm革

問問中お大島何日出生滅、八雲郷土由来年表

同方

-95 -

第五節

開拓使ハ官)

O援助

移住人は徳川家の移民であると同時に開拓伎の鴎体移民であるという二重の性格を持っていたために、徳川家の探

諜以外に開拓使の少なからざる援助乞譲った。〈とれば営代に必ける開拓伎の務民保護政策によるものである。)

制問務経研究

ヨ五

Page 25: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

お川良品物後一巡占拠

H

その一は官費による諸施設であって、第二回以後の移住人は「開拓佼明治十二年間ヤ第関税成規」によって、開拓使

ハtJ}

附属汽般で何日市港より遊紫都港まマ、官費渡航の取扱がなされた。また海岸から開整地に惑する道路工事が、官費

によって史的十二年五月に渚工、六月完成された戸さらに明治十四年には官費によって水間用水路の開撃が行われ、

水田の試作がなされた。その結果は殆んど無効に格ったが、用水路は今ゑ治依然として存在し、澱一粉製誌の原動力に

ハ3M

利用され、幾多の水率機械を連弾している。

その二は家畜の貸興であって、明治十四年春開拓佼七重試験場より洋観種馬一一関(農用〉友貸興され、土産時に配し

て馬匹の改良が企附されたの乞始めとし、同十七年一月には函館職勧業課より持続種馬一一関〈北足蹴)が同様貸興さ

れ、牝馬二一一一凶に交配が行われたむまた牛も明治十同年五百に七重試験場より積牛一一践の貸興が行われ、さらに十六

年一月には洋癒種牛一頭(七譲試験場産・ショートホルン・一一一歳・赤毛にして名披なし)が函館鯨勧業課より同様貸

ハ4J)

mハされ、牝牛ムハ頭に交配し翌春仔牛五頭を分娩した。

その一一一は桂樹員。祇遣であって、明治十…年九月に開持続函館文癖より技術品川端次郎外一一一名が一決議され、西洋農

共及び牛を使用して一一一高二千呼鈴一乞新撃した。会た盟十二年五月には七章一試験場から生徒二名が耕路間頭を牽いて来

場し、同じく開裂を援助し話。

その凶は教師の派遣であって、明治十一年十一月には画館文鹿勧業課より製網教師一名、翌十二年八月には同じく

G

J

V

A

製隣教師一名の抵惑が行、われ、移住人に製綿及び製臨の方法を停脅した。また明治十四年八月には柏町虫侵害の弘がそれ

があったため、開拓伎は特に練木大事敬授を間部一地えお回させて、柏町虫防除に闘する講話紅白なさしめ切さらに明治

十七年四月には斎牛の難死が沿びただしかったため、函館牒動議諒より水原獣隣国事士の来場をみた。

く、積雪多量・冬期間の飼料粗悪・管理室蛍の

22し

て、冬期間の飼料義一却し予

(惇染病ではな

-96-

Page 26: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

最後に開拓依及び政府高官により間接地の視察奨励がしばしば行われた。明治十二年六月には七草試験場長栴節目

二等屈が一一一回己磁乞つれて来場し、吉田知行の案内で場内所々乞担問の上角田弘業宅の芸誌欣況乞見、また鷲ノ築制

ハq

J

V

(

刊一}

波地内の桑林を笠地視察した。同年十月にはさらに開拓大書記官時特震基が来場して、出裂の宮況を視察した。また

明治十四年六月には黒回開拓伎長官が属官凶、五名を伴なって来場お崩し、将来殖患のためにと移住人一向え和牛…

(

H

J

頭注拾った。弐いで十五年九月には山田内務抑の也視があり、収穫物及び製作品を陳列して一覧に供した所、その内

から同県棉・生糸・跡の一ニ賠が史上げられ宮内省え献上された

G

翌十六年九月には小松山口白彰仁親王殿下が小梓俄誼問題

式に御臨場の詑次、森港より栴路台臨され、特に場内を一認の後事務所に沿いて長国書記官をして令旨を博えられ、

Ahud

移住人一同乞鞭撤された。さらに明治十七年九月には安場元老院議官・西太政官大書記官・宮島民商務大書記官の一

AUM〉

行が来場して間観点の賢況を観察したJ

(

たゐ明治十六年七月二十八日官は徳川山町叫勝に監綬褒章な授興して八雲村川間町議

ハ同M

}

の功結を表彰した。)

綿 (9)(8) (7) (6) (5) (生)(3) (2) (1)

明治十一年中一九州取毅文移総

大島日出生稿、八雲郷土史年表

八雲村徳川家開墾地沿背中

大島師、前掲年表

防省

関右

八雲村徳川崎県問問務一地滋卒

大島向、前掲年表

問中編

八雲村徳川出品皮判明治卒略

絞蹴例経研究

三五

- 97-

Page 27: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農相場後議史

H

キ主

抑制側関柱。

同民間同同右;ff右右右

第六節

最初の二年間は世帯ら開墾試験を行って、その結果確買な移続方法を江案ずる議定であったが、根本方針はすでに篠

令に決定されていた。すなわち、初めて二年は専ら畑作友主として桑荷の栽様、雑穀麻苧の試作友行い、て二年

の後土地の高低、水理の使否を悶り一町歩以内の水町を向いて悶加の耕作に従事し、また桑背の繁茂に従つ℃f

…投開陥没

開始するととによって農業経替の基礎主回一問、次いで協同の力によって牧高・製糸・知機・醸造・製紙・製摺等の諸

業を必として、農業絞替の遊民乞同らんとした。

-98-

明治十一年七月に先護隊九名が入植し、人夫を躍って野草の刈取を行った後、七章一試験場より派遣された技術員が

牛凶頭掛プラウで約四町歩の土地を耕起し、その中一一一反歩に務部・燕苫等移住人の副食物に供ナる疏菜乞播種したが、

季節に沿くれたためいやれも充分な牧控乞あげるととは出来なかった。また十月及び十一月に移住人一一同が到清ずる

や直ちに、鴎訟の土地に各戸各々一致畝歩づっ大葬・小奏・油菜等を揚持したが、翌年雪融の際に至って悉く硲放して

一粒の収穫もあげるととが出来なかったο

かくして移性常年に沿げる試作はふん般に帥したが、翌年春先に七草試験場

に派遣された井上文治・向野頼陵がプラウの使用法乞修業して帥村するに至り、ととに本格的農業が開始されるに至

った。すなわち明治十二年に始めて腕・大小豆・粟・一議・蓋'煙卒・玉掲黍・務姿一及び和洋各種の疏菜を搭殺した所

Page 28: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

いやれも地味に油し品位・牧穫も充分であり、また七重試験場から移植した果樹もすべて成育が可良であった。但し

大要は成育不良で牧穫も少なく、愛知から田迭した陸樹も五月二十日前後に播種したが、開閉簡がKN

くれた故か出穂し

なかっ対。その後年々作物の和類及び作付反別が増加するにつれ牧穫高も上昇したが、しかし史的ト七年に至るもな

沿移住人各戸が生計を自立するにたるだけの生産力の護展には程遠いものがあった。因みに明治十二年以後に九掛ける

畑作物の作付反別及び牧磁高をみると弐の語りであって、大姿・小姿・大一旦・小一見・粟・稗・蕎萎・腕・譲萄・馬鈴

薯等自給作物の作付に霊黙がKM

かれていたととが知られる。

f乍

付剛嗣幽剛m・・A 嗣陶嗣掴園開帽幽剛・聞酬園町岨同幽圃凶剛圃圃嗣圃幽周回醐圃駒困闘剛周回剛岨・剛陣開園剛闘幽岨醐・・・町、

局 長傍慈議 議 小大小火反

鈴 乎 蹴

豆落 率 笈 萄 多 豆立書多重器 JJtl

明ュ治

ーミ子十プ石1・旺一世占一

山ハ年

-o八・九

五・。

2ミーO 主主己

。本子註手O 互乙

j宮

同十一一一年

九八一一一・一品山ハ・五九

五・七六

五九・七O混

同九・一一一

↓一一一・四七

一一一マ六六

一一一人・O

回一一一、一

00

穏γ

丈0・八)

牧穫有向綴

瀦紘一頃研究

一一一九・六

豆五

一九・六一

0・五一一

同十m同年

六八0・大O閉

口一一一・一一二八

一一一一一・悶八

蕊忍・一一九八

内九・

4

一一O一一

日間・五O山ハ

一五・七

五一一一・八五回

一六六・五一

八一寸九九五

日七噌000一0・倒

0・大五五

日間十五年

八六九・一品一九

大一一γ八九五

蕊・九六一品

一O九・五四八

一九九・3ニ

ロ七・一一一六

混入・一一一八

間七・九一五

一一一一一-一一一品。

一一一

o、九一一。

一一六、九五五一一・

4

一一一一一二人

時間十六年

一一六五・一一。

一品一千七五五

一一一・七九一一

六回・一一一一一

一一七O主七四

一一一・七八

七九・九五

閲?九九

四一一一・五00

一一一号五00

六一一一、八一一一(〕問問

一一一、八七O

八一一一ム一一

ニ-一六九

同間十七年

一回一八・八O六

四0・九七

六・七五

問九・日一一

九一一一・八四

一一一0・0一一一一

一o一一-O七

一一間一-一一一}

日一一-一

00

口問、五五O

一二八九

-99-

一一一回二五

0・七七

Page 29: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農相都議議市民け

/"閉山田田町山由嶋田国嶋田畑町四岡田開田園町・・園開園鴫依田園田町田田町由・町四

エ楽倒産 工 腕 玉 雑紡 11'

主主;ゴ 重喜藍主義 経

マ平君米立 R黍 茶葱j監

。ニ二

o -2五^七千忠之五本01~1

一七O

一五O

o 0 000

7ミ C プ官三;!. :s;:五迂五 ニユ

0・八五

O

cv一一一七

0・四五

0・一一一

c・五六八

0・一一一一

-o

一・個五

Lr部品必

ι

五『O一(〕

-100-

明治十四年に官費によって用水路の開撃が行われ、はじめて水町五町…反二畝一

O歩が開かれた。しかし試作の結

果は「土壌未ダ熟セズ耕転未ダ精カ一ブズ之一一加フルニ風雨ノ害ア以一アシ充分ノ登熟ヲ符ズ」僅か八斗の牧臨役得たに

ナぎなかった。翌十五年には更に水田二町二一以が開かれ、水町面積は合計七町一一一反二畝一

O歩に悲したが、試作の結

果は前年同絞「土壌熟セズ粧付ニ際シ陸虫駆除ノ潟地排出到ナルヲ得ザルガ故カ高ノ枯死スル者多ク生暢疾カ一ブズ九

月中暴風モ幾分カ容ヲ山県へ牧穫」は六石九斗二升の少量にすぎなかった。雨年の失敗にかんがみ十六年以後は阿国が

行われなくなったが、試作は依然として続けられた。十六年には「削盟国日海ク土壌未ダ熟セザル一一杭付後手魁-一根守、

濯水ノ乏シキ除草モ亦時一一一週セザル故カ秋山首二一至リ大卒白穂一一縫ジグレドモ、探水使ヲ得耕転時一二週シタル分ハ少量

ナガラ収穫アリ、北ハ籾梓ヲ股シ精グ試シニ内地下等米ノ品位ナルヲ得グリ」という成結で、九石五斗六升の牧穫宇一得

Page 30: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

(sd

たが、十七年には「琵芽ノ頃洪水ノ箆苛代田泥水ヲ被リ悉ク閥敗」したため、収穫は品川知…であった。かように水稲作

の夫放は叶加を中心とする常初の計主に打撃一一宮あたえ、移住人の生計自立のための大なる障碍となった。

芸誌は山桑に恵まれたためすでに明治十二年に原紙二枚字の掃立が行われたが、とれまで飼育したものがなく各自

勝手な取扱乞したため、牧笠叩繭胸片茸一瓦旦は一て4

石為八斗九升空げにいずぎなかつ(がわ巾V

翌十士一三ニ年には前年き叫却J

〔刊

Ju》

土岐鏡及び時間間が大野一先立所に九ぜいて修業した方法に従って飼育したととろ、牧繭堂・品質ともに前年よりも良野な

結果設沿さめたが、その中間、五名協同して原紙五校学友飼い立てた分は四眠後に至って惜しくもその七、八割が腐敗

するに至った。桑市は明治十四年までに一六、一一一

O六本が杭付けられ、その生長とともにに牧繭量も漸増したが、明

(HHJV

治十七年に至るも原紙一一一枚今、牧繭金一ニ石三斗ご升五合にすぎや、いまだ大なる護展をみるに五らたかった。因みに

明治十二年乃五十七年に沿ける一議古本政・掃立枚数、及~び牧繭H

X

をみてみると弐の諮りである。

101-

糸満苗本数(心不)

殻立牧歎(枚)

牧繭笠{石)

IJ耳ニミ治

一三三十了。二

八三6:0 年ブL

同十一一一年

四、一一…一一一O

一一一一・五六二一六

一!週三三十;' 0 四

六五六年

て尚一命 日-

00一'・ o五一三六年

同十六年

一六、一ニO六

一一一・五一一・一点

間間十七年

一六、一一一O六

一一了五一一一・一一一二五

出如来品誌による牧入の不足を補うための長閑副業として、送幼齢女予によって製網及び製麻の業が行われた。とれ

ば蛍時の北海道の産業の中心が漁叩楽であって、漁網及び綿糸に封する需要が大であったためである。製網は明治十一

年十二月に函館支臆勧業課より製網教師一名そ招き、般製抑制所を設けてその方法を惇習し、潮対年餅網一三反を製した

のが始りであ引ゲ明治十五年には鯨網の製治高二、

O五六問一斗と故高に誌したが、雨来念蓮に減少し十八年以後段

全く行われなくなった。また袈腕は明治十二年八月に製麻教師一名を拐いて製造方法乞惇習し、翌年綿糸二八貫問。

経誠例議研究

:fr:

Page 31: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農場滋逮奥川門

六匁を製したのが始まりで、明治十四年臨製詰所の設置により製超高は念増し、十五年には三三一一一貫一七一一一匁に建し

たが、爾来減少して十八年以後廃止されるに至ったのは製純一患であ句判りされらに代って味噌・醤油・藍子澱粉等

の農産製遣が十八年以来勃興するに至った。)製網・製怖の製法高の援護は次の通りである。

詰摺

明?合

ゴ十・茂一J

O 年

ニコゴi:八五.授.・問問一十O 三三

ハ三年

向十六年

一九八九・七

同十七年

八一・七

五六・六

OO

同十閏年

一一一一・一八一一

八一・一一一

o

三三 O ー?間二工十子二、関3i.一一年七

二一了一一四O

一般移住人が出削養誌左中心とする在来良訟によって開拓乞推進せんとしたに反し、調身移民及び移住人子弟の一

部の者は開墾喪より援助を受けて欧米式の大農法による問妬を試みた。鷲ノ巣耕会及び野田這耕舎がとれであるO

J

ノ巣耕合は明治十五年に委員吉岡知行の弟に首る小寺設を中心とする濁身青年凡そ一

O名が、ユ

1ラップ川の野洋鷲

ノ巣に肥沃の地をトして欧米式の主穀農業を経皆ずる目的で設立したものであって、七重試験場から牛馬の飼育法、

西洋農具の使用法、馬具その他の製作修繕法な墜んで飾って来た今村文治・岡野頼降等の人々もとれに加わった。エ

ルムの林の中に大小屋と稲する大農合を作り、サルキプラウ・リ

10ハl

・シラスシシン・カルチベータ

1等の洋式農

兵を備え、最新の知識をかたむけて開墾に着手した。しかし疎想は充分に笠現されや、数年乞以て鹿止された。その

直接の原因は中心人物である岡野頼隆・海部市松が冬季伐木の際木の大枝に訂たれて不鼠の死乞遂げ、さらにその後

大小屋が火事のために焼失したとと等にあったが、より根本的には桂樹的にもまた経済的にもいまだかかる経営を賢

現ずるだけの替、建段踏に謹していふなかったととによるものである。次に野間近耕合は明治十七年に飯沼守彦・川口良

武・西村格六等移住人の子弟数名が図結し、野田埠に帆引いて鷲ノ巣耕合と同様洋式農具申乞用いて欧米式の主事農業を

絞替する目的で設立したものであって、数百町歩の牧場な経営して百数十頭の牛及び豚友飼育し、

ハム・ベーコン等

-102-

Page 32: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

円一叩)

の製遣なども行ってその後一一

O倹年問機結したが、誌には何らのみるものもなくLて陵止となった。かように欧米式

の大農経営はいやれもその時期熟さやして失肢に絡ったのである。

牧玄刊は前誌の如く明治十四年及び十七年に七草勤業試験場より種馬の貸下左受けて馬四の改良に努めたが、移住人

は牧民に封する関心が浮く、続馬に配すべき牝馬を飼育する者も頗る少なかった。そとで徳川家の勤奨によって明治

十七年に沓毘問中不二世・夜間景義の雨名が殻起して鷲ノ山県牧馬台祉を設立して牝馬の輸入友同り馬四の改良蕃殖乞

図ったが

J

経持界の不況により大なる護展なみるに至らなかった。因みに牧民頭数は十六年まで漸増したが、十七年

には一般の不況に伴なう債格の下諜により激減しおゲ次に牛も明治十四年及び十六年に七草試験場より和牛の貸下を

うけてその改良に努めた。また明治十三年には牧牛合祉が設立され、同十四年には牧場が野田誼に開設され一向。しか

し牛肉及び牛乳に封する需要市場が附けてなかったため大たる渡良乞みるに至らなかった。明治十六年までは頭数は

漸増したが(馬に及ばさ、十七年には気候不服、餌料の組憩ザ諮のため僻籍拓死死'すすノるもの多く相宮敢の減少をみい的明山乍山な必主凱鶏抑

τも

明盟凶治川十六年宇T句斗吋

られる。家事故の鑓器をみると弐の通りである。

-103ー

明治十一年

同十二年

一O一七

一一六

同十一一一年一O

四七

一間一一

二 同九 六ご十

二七七 四年

同十五年

五一一

一一一

00

日間十六年

六回

一一一八

七一一九

同十七年

五一一一七九

四一一一

ま喜鳥牛

に愛知廓練島の人八木同市佐教師として招跨し

な札何事務所の直皆事業として製藍・澱粉製誌等の農産製趨及び鮭鱒の養殖が試験的に行われた。製藍は明治十七年

その指導の下に製悲が開始された。

また澱粉製誌は静岡初移住人の中

総務経研究

ミu:

Page 33: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

慾川農場設詩史け

4本

円引JV

に山菜擦を以て馬鈴暮から澱粉左製していたものがあったが、明治十五年に移住人の一人である辻村勘治が東京王国

〔叫J

U

村製作所から機械一式を購入して水平による澱粉製法友行うに至って始めて本格化した。しかるにその後辻村は資金

不足等の故障のため一絡に中絶するのやむなきに至ったため、明治十七年に事務所の古替として経皆するととに改めて

品川町弘主がとれを持営

L、g

滑に器兵器械乞鯨入し水平小犀友巡るなどやや大規続の設計を立てて製治に着手した。し

かし常時澱粉の販路は甚だせまく、製治方法も幼稚であったた必、生産量も乏しく製憶とともにいまだ試総の域乞段、

しなかっ討。故後に鮭鮮の主硝は明治十三千九月に開拓使函館文癒整案より、越後同一一一面…川鮭魚天然一相官耳切の方法

に倣い八宗村遊栄一部川に沿いて鮭糸醇化一卒業宜、該年より向う五何年聞を一期として式験友委隠せられたるに始まる

が、雨来一切の経究を印私一作(中より支出し、移住人をして保護宥守の任にあたらしめ、大いにその琵畏に努め問。悶

みに明治十三年以来十七年までに至る鮭糸築年始銭高は次の通りである。

hu除4

」J汀守

主Fb~Bh

明治十一一一年

二、七三八

同十問年

一、八九一

同十五年

ハ、一一一七凶

3uト1

ぃ、t・

"vJlJ/R瓦

j

、、caa

戸沼』一一

同十七年

で一一二

O

-104-

以上の如くとの時代の民主は、同・如・完荒川守国有の民主の外に、牧友利・製鋼・製糸・製瑳・澱粉製浩・鮭憾の

殖等続々の卒業が多角的に式みられたが、移住人の生計自立のための民主総誌の基礎はいまだ確立せられや、また経

にもいまだみるべきものはなかったのである。外見上の安定は徳川家の保護によって半

の改良乞もたらすべ

うじて支えられていたものにす宮守、欠誌の増大とともに内部の矛盾は加謹度的に強化され

及び青年立を設けて移住人の志試振興にJ

究めたが、

明治十四年には攻王台

との山内叫勢を挽回するに込らや、途に明治十八年三月に必ける良場

沿いγ〉交什けγ

Hnι〆む

L

1

立長川刊誌の

止を見るに至った。

Page 34: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

123) ~2) (21)側証.9)(l8) (Y明位s)(15) (14) (13)仰 (11)(10) (9) (8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1)

係令、第一一一款

同右、第二七款

問右、第一一一

O款

農村更生協合、北海道調査報労一一一一一一頁

明治十一年以降統計淡(徳川関繋場〉

農村更生協会、前閥会一一一一ニ一良

明治十一年以降統計表(徳川隠懇一場)

同右

同右

大鳥日出生潟、八雲嬬十一市民何十茨

明治十一年以降統計袋(徳川開墾場〉

遊掛端部肉祭一朕況一奴表ハ北海道開拓雑誌一二競〉

八雲村徳川家隠懇一地沿卒

明治十一年以降統計表(徳川開墾場)

八雲村徳川家隠線一一地沿卒

同右

開明治十一年以降統計表(徳川防相中一場)

抑制築者五日「村の創業」九回一良

農村命誕生協合、前掲者一一一間

1一一一五頁

八雲村徳川家関毅一一地沿卒

明治十一年以降統計表(徳川開墾場〉

大島、前掲年表

-105

経溶接研究

H.

Page 35: Instructions for use - HUSCAPf患 農 場 後)JI 第一 44 徳川農場の愛生 第一一一節倹令の制定と北海道移伎第一一節大土地庭分とその性柊第一節士族授療と北海道開拓

徳川農業昨抗議由民

uv

邸側聞担踏切)包位協凶

明治十一年以降統計表(徳川関饗場)

同右

八雲村徳川家隠懇一地滑率

農村百民生協食、前総書一一一五一良

向指

八雲村徳川家農相場抑制卒略

八雲村徳川家関懇一地沿革

大島、品別扱年・茨

ハ以下次時制)

後記

本秘を廿け十するに山町帥り稜々御敬一不を賜り、日比つ蒐陸出資料の一一切を貸興せられた高倉新一郎数授及び徳川林政史研究所土臓の史料

の傍授を詐され執筆を鞭挺された徳川義税氏、設びに政次に一日一る訪問に際して懇絡なる御援助を叩絞った八雲残業株式合一位(哲

徳川農相場〉の職員諸氏に裂して深甚なる感謝の窓を表したい。なお本総は文部省科修研究授による研究「北海道に於ける大農

相輔の愛生と治蹴遜程の研究」の一部を構成するものである。

-IC6一